夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


里山と鎮守の森

2013年07月11日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “森の力”宮脇昭著(講談社現代新書)という良い本を読んだ。まずは新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 副題は「植物生態学者の理論と実践」。1970年代から世界各国で植樹を推進する著者は、日本全国で鎮守の森に代表される土地本来の環境の総和から導かれた「潜在自然植生」を調査し、それをもとに「ふるさとの森」再生にとりくんできた。現在進行する、被災地のがれきも使った災害に強い自然の復元のためのプロジェクトにいたるまでを概説する。

(引用終了)
<朝日新聞 5/19/2013>

 今回この本を読んで特に腑に落ちたのは、その土地本来の樹木(潜在的自然植生)と、里山のそれとの違いだ。「里山ビジネス」の項で述べたように、里山は、人の生活を支える資源循環のシステムである。だから土地本来の樹木を植えるわけではない。本書から、その違いの部分を引用しよう。

(引用開始)

 里山と言われて親しまれてきた雑木林もまた土地本来の森ではありません。雑木林とは、国木田独歩の『武蔵野』や徳富蘆花の『自然と人生』に出てくるようなクヌギ、コナラ、エゴノキ、ヤマザクラなどの落葉広葉樹林で、長い間それが自然の森だと思われてきました。学会でも一九六〇年代半ばまでそれが定説でした。
 しかし、わたしがドイツで学んだ潜在自然植生の概念からすると、それもまた土地本来の森ではないのです。
 里山とは、何百年もの間、人間が薪や木炭をつくるための薪炭林として定期的に伐採したあとの切り株から芽生えが生長した「伐採再生萌芽林」であり、二〜三年に一回の下草刈りや落ち葉掻きなどの人間活動の影響下における代償植生、置き換え群落として持続してきたのが雑木林です。化学肥料が無かった時代に、あくまでも人間が肥料・飼料・建築材などの「資源」として利用するために管理してきた二次林なのです。
 つまり、都市公園の中や地域の散策の場としては、数百年から人間活動と共存し、人間が手入れしてきた雑木林が好ましい。その一方で、環境保全機能や災害防止機能を重視するのであれば、潜在自然植生に基づく土地本来の森が望ましいと言えます。

(引用終了)
<同書 71−72ページ(ふりがな省略)>

潜在自然植生に基づく森は、一度木々を植えてしまえば、そのあと余り手を掛ける必要がないという。だから流域の環境保全や災害防止に向いているのだ。里山と長く親しんできた日本人は、「潜在自然植生」のことを忘れ、戦後、いたるところに生育が早くまっすぐ伸びて使いやすい、しかし手入れの必要なマツ、スギ、ヒノキを造林してしまったということらしい。

 日本の潜在自然植生は、照葉樹林(常緑広葉樹林)地域ではシイ、タブ、カシ類、落葉(夏緑)広葉樹林ではブナ、ミズナラ、カシワなどが主木だという。それらは、いまも地域の「鎮守の森」に残っているという。これからの日本の植林は、「里山」と「鎮守の森」とのバランスを考えていく必要がありそうだ。

 紹介文にもあるとおり、宮脇氏は、東日本大震災後の防潮提林を潜在自然植生によって作ろうというプロジェクトを進めておられる。くわしくは本書をお読みいただきたいが、宮脇方式の植樹方式においては、木を植えるマウンド(丘)づくりが必要で、その基礎に被災地の瓦礫が使えるという。とても優れたアイデアだと思う。プロジェクトはすでに、宮城県岩沼市の沿岸部などで、「千年希望の丘」事業として始まっているようだ。

 尚、宮脇氏の本は、以前「森の本」の項でも紹介したことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。私は木がとても好きだ。これからもその植生や効用について勉強していきたい。

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小さな町

2013年05月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “スローシティ”島村菜津著(光文社新書)という本を興味深く読んだ。サブタイトルに“世界の均質化と闘うイタリアの小さな町”とある。まず本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

日本を覆っていく閉塞感の一つに、私は、生活空間の均質化というものがあるように思う。郊外型の巨大なショッピングモール、世界中同じような映画ばかり上映するシネコン、画一的な住宅街、駅前や国道沿いに並ぶチェーン店……。だが、私たちにこの世界の均一化から逃れるすべがあるのだろうか。世界のどこにもない個性的な町など、おとぎ話に過ぎないのか。
そんなことを自問しながら、私はイタリアの小さな町を訪ねた。スローシティやイタリアの美しい村連合に共鳴した小さな町、ショッピングモールの締め出しに成功した町、フェラガモが創り上げた大農場やオーガニックの父と呼ばれた人物の住む村―――。
グローバル化社会の中で、人が幸福に暮らす場とは何かということを問い続け、町のアイデンティティをかけて闘う彼らの挑戦に、その答えを探る。

(引用終了)

 先日「世界の問題と地域の課題」の項で書いた、「世界の問題」の一つの表質形態が「世界の均質化」だと思う。「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、産業システムとして効率の良い大量生産・輸送・消費へ向かうから、結果として生活空間の均質化を招く。この本のサブタイトルにある“世界の均質化と闘うイタリアの小さな町”という言葉は、この世界問題に対処するイタリア人たちの方法の一つが、「小さな町」を作ることだと語っている。

 一方、世界は21世紀に入り“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代を迎えている。「場所のリノベーション」の項などで述べたように、「世界の均質化」は「コトの起こる場所」の喪失でもあるわけだから、「小さな町」づくりは、モノコト・シフトの最前線でもあることになる。

 私はイタリア社会の事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に明るい訳ではないけれど、「カーブアウト III」の項などで紹介した“ボローニャ紀行”井上ひさし著(文藝春秋)を読むと、イタリア地方都市の自治に関する伝統の一端が伺える。日本も明治の開国から150年近く経ったわけだから、そろそろ真剣に過去を見直して、新しい国づくりを考える時期に来ているのではないだろうか。日本でも、このイタリアの試みは大いに参考になるのではない筈だ。島村氏も、本の最後に「場所のセンスを取り戻すための処方箋」と題して、日本でも応用できる没場所化を克服するためのポイントを箇条書きにまとめておられる。詳細は本書をお読みいただくとして、以下そのポイントを列挙しておこう。

1.交流の場をどんどん増やそう
2.魅力的な個人店は、意地でも買い支えよう
3.散歩をしながら、地元のあるもの探しをしよう!
4.ゆっくり歩いて楽しめる町を育てよう!
5.どうせやるなら、あっと驚く奇抜な祭りを!
6.水がただで出てくるありがたさを今、噛みしめよう!
7.エネルギー問題は、長い長いスパンで考えてみよう
8.そろそろ、人を惹きつけるような美しい町を創ろう

ということで、話はこのブログのカテゴリ「街づくり」や「起業論」の各項へと繋がっていく。イタリアの小さな町の試みに想いを馳せつつ、地元で何ができるか考えよう。スモールビジネスのチャンスもあるに違いない。尚、島村氏については、以前「元気なリーダー」や「牡蠣の見あげる森」の項でもその著書を紹介したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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古層の研究

2013年04月01日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “中央線がなかったら見えてくる東京の古層”陣内秀信・三浦展共著(NTT出版)という面白い本を読んだ。まずは新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 東京の西部を東西に走るJR中央線。沿線には人気の住宅街が広がり、大きな存在感を示している。だが関東大震災の被災者が同線の中野駅から三鷹駅までの辺りに移り住むまでは、やや離れた青梅街道や甲州街道沿いの方がにぎわっていた。本書は中央線がなかったころの東京の姿をフィールドワークによって明らかにする。昭和以降「公害」「ニュータウン」と呼ばれた地域に実は古くから人が暮らし、長い歴史があることが分かる。

(引用終了)
<日経新聞 1/27/2013>

 このブログでは、これからの街づくりの考え方として、山岳と海洋を繋ぐ河川を中心にその流域をひとつの纏まりと考える「流域思想」を提唱しているが、「鉄道」という近代社会のインフラを外すと、見えてくるのはその土地に根付いた古い「流域価値」だ。本書の両氏の対談からそのことに触れた箇所を引用したい。

(引用開始)

三浦: 実際に、江戸以前の古代・中世の世界を探る手法として、陣内さんが指摘される、川や湧き水(湧水)、神社、古道に注目する視点は、面白いと思いました。私も曲がりくねった道が好きですが、それが古代・中世、江戸時代からあるかと思うと、また街歩きの面白さが倍化します。
陣内: 中沢新一さんは著書『アースダイバー』で、宗教空間、お墓を縄文地図にマッピングする面白い方法で、東京の古層に光を当てています。われわれもずっとおなじ発想で見てきましたが、さらに「古道」が面白いと思っていました。古道は、必ずいい場所に通っているんです。
三浦: 実際に調査されたのは、いつごろのことですか。
陣内:一九九七年と九八年にかけて杉並区で調査をしています。実は紀元前一五〇〇年からローマに滅ぼされる紀元前三〇〇年まで続いた地中海のサルディーニャ島の文明の調査をしたことがきっかけです。その地域では、湧き水を大事にしてそこに聖域(後の時代も重要な場所となっていた)をつくり、それら聖域を結んだ古道を今でも辿ることができました。日本に戻ってきて、湧水、聖域、古道に注視して杉並区で応用したら、見事にあてはまったんです。
三浦: 僕は、川の暗渠を辿って歩くことも好きなのですが、「川」も東京の構造を知るうえで、欠かせないものですよね。
陣内: ええ。近代の開発で見えづらくなっていますが、東京にたくさんある川とセットにしながら地形に目を向けると、武蔵野や多摩にかけて本当の都市や地域の骨格、風景が見えてくるんですよ。
 例えば、杉並区でも桃園川は暗渠になっていますが、妙法寺川、善福寺川、神田川の四つの川が流れ、放射状になっている。
三浦: 鉄道は近代になってからのインフラですが、地域の構造を決めていた、それまでの重要なインフラは街道と「川」ですね。しかし昔の地図をよく見ると、街道などの道が川に沿って、山と谷の地形に沿って存在することがわかりますね。
陣内: そうです。人々の生活には水が必要なので、川の周辺に少し小高く安全なところに人間が住みます。しかも、東京には古来から崖線が多く、川沿いに侵食されて崖があり、そこに水が湧く(湧水)。すると、その近くに神社、聖域ができ、周りに人が住み、近世の集落につながっていくのです。善福寺川沿いには、縄文、弥生時代の遺跡や古墳も発見されています。(後略)

(引用終了)
<同書 20−22ページ(フリガナは省略)>

ということで、人は昔から、河川とその「流域」を大切にしてきた。この本が扱っている東京西郊には私も長く住んでいるので、フィールドワークの知見が特に身近に感じられた。

 「流域価値」の項で、これからの街づくりに必要なのは「新しい家族の価値」と古い流域価値との融合(fusion)ではないだろうか、と書いたけれど、この本の著者お二人の問題意識も同じ辺りにあると思われる。さらに本書から引用したい。

(引用開始)

 通勤に明け暮れ、ベッドタウンに寝に帰るライフスタイルはもう古い。地元に目を向け、地域の面白さを発見することが、ますます重要になるに違いない。日常の暮らしの意識が鉄道と駅に意識を支配されている従来の精神構造から、ぜひとも脱出し、自由な発想に立って地域に眠っている資産を発見してみたいものである。

(引用終了)
<同書 137-138ページ>

このブログでは、これからの産業システムとして、多品種少量生産、食の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げているが、ビジネスにおいても、地域に眠っている資産を活性化させ、それを自らの商売に結びつけてゆくのが、成功の鍵の一つであるに違いない。

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重ね着の思想

2013年01月15日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、これまで「内と外 II」や「境界設計」、「境界としての皮膚」、「布づくり」や「森ガール II」などの項で、街づくりや建築、身体や衣服における「境界」の重要性に注目してきた。先回「みんなの家」の項で紹介した“あの日からの建築”伊東豊雄著(集英社新書)にも、類似の指摘があるので紹介しておきたい。

(引用開始)

 これからの時代にとって、新しいテクノロジーの活用は不可欠ですが、今日の大勢は近代主義思想の延長上で技術を展開しようとしている点に問題があります。
 例えば、エネルギー源として太陽光を利用するのは言うまでもありませんが、大方の建築では内外の境界をより強固にして断熱性能を上げ、省エネルギー化をはかっています。境界の壁を強化すること、それでは人工的な人間の居住環境は周囲の自然環境からますます遠ざかっていくばかりです。
 それよりも私は、建築の内部環境を外部環境に近づけたほうが、最終的には消費エネルギーを減らすことができると考えます。つまり、温熱環境を外部から内部へとグラデーショナルに変化させるのです。内外の環境を一枚の壁で仕切ってしまうのではなく、複数の壁で段階的に区切っていくのです。
 かつての日本の木造家屋はこうした方法で自然と居住域を柔らかく隔てていました。勿論かつての木造家屋は、障子や襖のように境界面の断熱性能が低かったので、全体の断熱性能は決してよくはなかったのですが、それらの性能を上げていけば、私たちはもっと自然に近づいて住むことができるはずです。日本のように季節によって居住環境に大きな差のある地域では、夏のいちばん暑い日や冬のいちばん寒い日に照準を合わせて境界を定めるのはロスが大きいと言わざるを得ません。春秋の季節には外部に近い環境で過ごしたいし、一日をとっても朝晩と日中では温度が変化するのは言うまでもありません。
 かつての木造家屋の思想を現代テクノロジーを用いて性能アップしていくことによって、私たちは生活をもっと楽しむことができるはずです。こうした考え方のほうが一枚の境界を堅固にするよりは、トータルな消費エネルギーを削減することに必ずなるはずです。先に津波に対してたった一枚の防潮堤で防ぐのではなく、複数の柔らかな環境によって防ぐべきであると述べましたが、建築自体においてもこの思想は全く同じなのです。私たちは近代の明快に切り分ける思想から脱してもっと柔軟に、内外の折り合いをつけていく考え方に切り替えることが必要ではないでしょうか。

(引用終了)
<同書 174−176ページ>

 日本人は十二単の昔から、季節の温度変化に対していわゆる「重ね着」で対応することを服飾文化の一つとしてきた。そこで、こういった「近代の明快に切り分ける思想から脱してもっと柔軟に、内外の折り合いをつけていく考え方」を「重ね着の思想」と名付けてみたい。以前「場所の力」の項で、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。

(引用終了)

と書いたけれど、その「入れ子構造」をよく理解するには、境界に注目する「重ね着の思想」が大切だと思う。

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みんなの家

2013年01月08日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 建築家伊東豊雄氏の“あの日からの建築”(集英社新書)という本を読んだ。「みんなの家」とは、伊東氏が東日本大震災の被災地に建築している家のことで、本カバーの裏の紹介文には、

(引用開始)

 東日本大震災後、被災地に大量に設営された仮設住宅は、共同体を排除した「個」の風景そのものである。著者は、岩手県釜石市の復興プロジェクトに携わるなかで、すべてを失った被災地にこそ、近代主義に因らないし自然に溶け込む建築やまちを実現できる可能性があると考え、住民相互が心を通わせ、集う場所「みんなの家」を各地で建設している。
 本書では、鉱区内外で活躍する建築家として、親自然的な減災方法や集合住宅のあり方など震災復興の具体的な提案を明示する。

(引用終了)

とある。新聞の本の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

 建築家の著者は、岩手県釜石市の復興プロジェクトに携わるうち、被災した住民たちが気楽に集える場所の必要性を感じて「みんなの家」の建築を各地で進めている。内と外を切り分けて個性的なかたちを提示する抽象的な概念提示から、外の環境とも自在に行き来する共同の営みへ。仕事を社会とつなげるための著者の試みをたどる。

(引用終了)
<朝日新聞 10/28/2012>

 この「みんなの家」、既に伊東氏によって仙台市宮城野区、釜石市浜町、陸前高田市などに建てられているが、建築家山本理顕氏によっても、釜石市平田市に「みんなの家・かだって」が建てられている。「みんなの家」プロジェクトの発起人は、伊東氏の呼びかけで、東日本大震災の復興についてともに考え、行動することを目的に結成された「帰心の会」(伊藤豊雄、山本理顕、内藤廣、隈研吾、妹島和世)なので、この五人によって設計することを基本としているという。

 このブログでは、世界は、時間が止まった「モノ」よりも、「コト」の起こる場の力を大切に考える「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代を迎えている、と述べてきたけれど、「みんなの家」は、モノコト・シフトの時代における、新しい家づくり・街づくりの方向性を示している。本の中から伊東氏の文章を引用したい。

(引用開始)

 私が設計の仕事を始めてから、つくり手と住まう人がこれほど心をひとつにしたことはありません。近代合理主義のシステムに従えば、「つくること」と「住むこと」の一致は不可能だと言われてきましたし、自分でもその境界ををなくすことはあり得ないと考えてきましたが、この日、つくることと住まうことの境界が溶融していくのを実感しました。それはこうした特殊な状況において初めて実感できたのであって、通常の設計行為においてこのような関係が成り立つとは思いません。しかしたとえ一瞬であっても、こうした瞬間に立ち会えたことは建築後してこの上ない幸せでした。(中略)
 心のつながりは住民相互だけではありません。資金提供をしてくれた熊本県からも多くの人たちがここを訪れてくれました。県から贈られた「ゆるきゃらグランプリ」のぬいぐるみ、「くまモン」は神棚のような場所に大切に飾られています。また訪れた県議のなかに造り酒屋の主人がいて、住民たちと一緒に撮った写真をラベルに貼った焼酎(しょうちゅう)を贈ったり、さまざまな心の交流が始まっています。こうした心の交流こそ、正しく「みんな」の家の趣旨なのです。震災後、日本は勿論のこと、世界各地から膨大な義援金や救援物資が届けられました。そうした善意が有難いことは言うまでもありませんが、単に一方から他方への一方通行ではなく、相互に心が通い合う行為こそが、これからの人間関係や社会のあり方を考える鍵ではないでしょうか。

(引用終了)
<同書 78−79ページより>

ここでいう「相互に心が通い合う行為」こそ、モノコト・シフト時代の社会に求められていることなのだと強く思う。2012年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において、「みんなの家」が金獅子賞を獲得したのも頷ける。

 尚、「帰心の会」のメンバーのうち、山本理顕氏について以前「流域社会圏」の項で、内藤廣氏については「水辺のブレイクスルー」、また隈研吾氏については以前「境界設計」や「場所の力」などの項で紹介したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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流域価値

2012年11月20日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前項まで、新しい家族の枠組みとその住宅形態を見てきたわけだが、各々の家族の価値が様々なかたちで定まってくると、街づくりにとっては、「継承の文化」の項で述べたような「コミュニティ全体の価値」と、これら「新しい家族の価値」との接点をどう作ってゆくか、ということが課題となる。

 「新しい家族の価値」は様々であっても、住宅(暮らしの場所)がある地域を貫くいわゆる「コミュニティ全体の価値」は、ある程度の地理的な広がりにおいて集約できなければ意味がない。そのなかの一番大きな枠を地球全体とすると、次に大きな枠は言語もしくは国、そしてその次の枠が「地域社会」と呼ばれるものになるだろうか。

 「新しい家族の価値」が様々であればあるほど、地域社会としての価値を何か一つの「新しいこと」に集約するのは難しいだろう。といって、これまでの地縁・血縁に頼った価値観をそのまま引きずるのも実情から外れる。

 このブログでは、「流域思想」や「流域思想 II」、「流域社会圏」や「行事の創造」、「鉄と海と山の話」や「“タテとヨコ”のつながり」の項などで、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える「流域思想」について述べてきた。

 山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にした領域は、自然エネルギーと生産物の通う道として古くから経済の中心であり、文化的には、奥山から里山、家の奥座敷を繋ぐところの「両端の奥の物語」を生み出す重心であった。今の時代、様々な「新しい家族の価値」を繋ぐ「地域社会価値」として、この「流域思想」ほど相応しいものは無いのではないだろうか。

 流域思想に基づく「流域価値」は、山奥の水源を起点に、“鉄は魔法つかい”にあるような分散型エネルギーを生み出す力の纏まりとなるだろう。このことは資源循環が必要となるこれからの時代に極めて重要だ。文化的には、“オオカミの護符”で語られるような古くからの価値と、新しい家族の価値とを繋ぐだろう。

 先日新聞のコラムに鷲田清一氏の次のような一文があった。

(引用開始)

 コミュニティーの勁(つよ)さというのは、生きるため、生き延びるためにどうしても必要な作業を共同でおこなうところにある。かつて地方が町方に対し「ぢかた」と呼ばれたころには、食材の調達や分け与え、排泄(はいせつ)物の処理、次世代の育成、相互治療、防災、祭事、墳墓の管理など、広い意味での「いのちの世話」はみなが協力して担った、そこでは子供もあてにされていた。
 もちろんそれはしがらみにがんじがらめになった共同体ではあった。掟(おきて)を破り、秩序を乱した者を「村八分」する過酷(かこく)な共同体でもあった。

(引用終了)
<東京新聞夕刊 10/5/2012より>

「流域価値」には、エネルギーや食物、防災などの「いのちの世話」要素が色濃く含有される。それが、しがらみの少ない「新しい家族の価値」と融合すれば、新しいコミュニティの価値として申し分ないと思う。

 中小様々な河川に生まれる多様な流域価値は、その流域の新しい家族の価値によって豊かに育ちながら、川が合流するように、他の流域価値と出会い入れ子構造となり、やがて中小の河川が大河に流れ込むように、“長良川をたどる”で描かれるような大河流域価値を形成する。そして、次に大きな枠としての言語もしくは国の価値と融合し、その文化をさらに豊かなものにしてゆく。

 流域によって形成される分散型エネルギー・文化的価値は、新幹線や高速道路によって形成される大量輸送型エネルギー・文明的価値と、際立った対比を齎すだろう。勿論、日本も地球規模のグローバルな文明的価値と無縁ではあり得ないが、それとは時空を異にして、日本列島各地に生まれるこの多様な「流域価値」こそ、“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代、我々にとってより重要な意味を持つと思われる。

 以前「場所の力」の項で、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。

(引用終了)

と書いたけれど、「流域価値」こそ「場所の力」の源泉となり得るだろう。

 この夏、私は草津から長野蓼科まで車で走った。その途中、地蔵峠付近で日本海と太平洋を分ける「中央分水嶺」を通った。その案内板を見ながら不思議な戦慄を覚えたのだが、それは、「流域価値」という力に対する潜在的な畏敬の念だったのかもしれない。

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新しい住宅 III

2012年11月13日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日新聞に「独居より擬似家族」というタイトルの記事があった。このブログでは「新しい家族の枠組み」の住宅形態を、前回(凱風館)、前々回(シェアハウス)とみてきたわけだが、この記事ではフランスと韓国の事例を紹介している。

 フランスには「受け入れ家族制度」というものがあるという。韓国には、独居高齢者が4、5人で寝食を共にする施設「共同生活空間」があるという。介護施設のような職員は置かず自分の力で暮らす。詳しくは記事をお読みいただきたいが、ここではフランスの事例を一部引用しておこう。


(引用開始)

 プルニさん宅は夫婦と4人の子供がおり、高齢者ら3人受け入れる。同じ屋根の下に9人。いわば「擬似家族」だ。ムリエール・プルニさん(45)は「お年寄りが自由に暮らせる空間をつくりたい」と受け入れ家族になった。(中略)
 この制度は1989年に法律ができ、順次始まった。核家族化などで在宅看護が難しくなったためだ。
 一人で暮らせない高齢者3人まで、県の審査をパスした家族が受け入れる。漢語、医療が必要な人もケアが可能ならば受け入れる。入居者は平均でつき1500〜2千ユーロ程度(15万〜20万円)を支払う。
 利用者の理由はさまざまだ。ブレーズモローさんは身の回りのことは一通りできるが、たびたび物忘れをするので、見守りが欠かせない。実の息子は、つきっきりではいられず、入居した。「(プルニさん一家は)家族のよう。夜部屋に一人でも、誰かがリビングにいると安心します」

(引用終了)
<東京新聞9/23/2012より>

これらフランスや韓国の住宅も、「新しい家族の枠組み」の特徴、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

に対応できていると思う。

 日本における「新しい家族の枠組み」の住宅形態も、「シェアハウス」や「凱風館」以外、さまざま生まれつつあるようだ。“住み開き”アサダワタル著(筑摩書房)には、そのような住宅が多く紹介されている。新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 自宅という今までは閉じられていた空間を開放して、サロンやギャラリーを催す小さなコミュニティーが増えている。と今日・大阪などの都市に点在する、そんな楽しい三十の<住み開き>の実践を紹介。型破りなシェアハウス、長屋での共同育児、自宅図書館など、従来の地縁・血縁でも金銭の交換でもないこだわりを持ち、無縁社会もどこ吹く風の、新しい関係性や公共性を形作る取り組みだ。

(引用終了)
<東京新聞 3/11/2012>

本のサブタイトルには“家から始めるコミュニティ”とある。ユニークで楽しい価値観満載なので一読をお勧めしたい。こういった住宅では、いろいろなサポートが必要だろうから、小回りの効くスモールビジネスのチャンスも多くあると思う。

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新しい住宅 II 

2012年11月06日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「新しい住宅」の項で、これからの家族が暮らす住宅形態の一つとして「シェアハウス(シェア型住居)」についてみたが、“みんなの家。”光嶋裕介著(アルテスパブリッシング)という本に描かれた住宅も、これからの新しい形態の一つだと思う。この住宅は、思想家内田樹氏の自宅兼道場で、最近建てられたものだという。新聞の書評から本の内容を紹介しよう。

(引用開始)

 僕たちの時代の建築家が姿を現した。
 「みんなの家」とは、思想家・内田樹の自宅兼道場「凱風館」。内田は設計をこれまで一軒も家を建てたことがない若者に託した。しかも、ほぼ初対面でいきなり。本書は、若き建築家が設計の依頼を受けてから、一軒の家を完成させるまでを綴った記録である。
 内田の周りには、自然と魅力的な人が集まる。内田はそれを拒まない。すると自宅は単なるプライベート空間を越えたパブリックの要素を持つ。仲間は「拡大家族」となり、家はみんなに分有される、私的所有という観念が揺らぐ。
 凱風館には、自ずと寄贈品が集まってくる。丸太梁から棟木、冷蔵庫、ベンチまで。みんなは自分の家のように愛着を抱き、建築プロセスに関与する。内田は家の一部を開放し、若者にチャンスを与える。つまり、関係性の基盤が、市場的価値ではなく贈与によって成り立っているのだ。
 もちろん、お金はかかる。
 重要なのは、どこにお金を流し、何を支えるべきかを吟味することである。山を守りながら丹念に木を育てる林業者、国産材を使い続ける工務店、高い技術を持つ大工、土を知り尽くした左官職人、手作りの瓦屋……。安上がりの大量生産に背を向け、守るべき価値を大切にする職人たちを応援する。(中略)
 「凱風館」は、それ自体が思想である。そして、あるべき社会の方向性が提示されている。この建物は、グローバル資本主義の嵐が吹き荒れても、びくともしない。
 希望に満ちた清涼感のある一冊だ。

(引用終了)
<朝日新聞9/9/2012より。フリガナは省略。>

いかがだろう。この住宅も、「新しい家族の枠組み」の特徴、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

によく対応できていると思われる。

 内田氏自身も、その著書“ぼくの住い論”(新潮社)のなかで、この住宅を建てた経緯を書いておられる。短い書評を引用しておこう。


(引用開始)

 『自分だけの家』では、こうはいかなかったはず。「『みんなのための建物』をつくろうと思ったら、どこからともなく資金も知恵も集まってきた」。長年勤めた大学を定年退職した著者が建てた、能舞台にもなる、家つき武道場「凱風館」。若き建築家、きこり、工務店、瓦や漆喰(しっくい)の職人など、顔の分かる人の手が造りあげた家とそこに託した夢、開かれた場の力、磨かれる感覚、人と人の関係の広がりを、“抱え込まずどんどん次にパスを出す”経済の思想とともに語る。

(引用終了)
<東京新聞夕刊9/11/2012より>

興味のある方はこちらも併せてお読みいただきたい。

 先日「近代住宅」の項で、これまでの「近代家族」の暮らす住宅が、流し台を中心に据えたxLDKスタイルの母制住宅であることを論じ、

(引用開始)

このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(Private)」−女性性

といった二項対比を論じているが、日本語の特色からも、家父長制をなくした日本社会が、母制へ傾いていくのは必然の流れなのだろう。

(引用終了)

と書いたけれど、「凱風館」の男性家主による適度な統率は、これからの新しい住宅が、バランス的に、過度にBの母制に傾くことなくAの父性を取り込むための有効な方法であろう。

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新しい住宅 

2012年10月30日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「新しい家族の枠組み」の項で、「近代家族」に代わる新しい家族の枠組みについて、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といった特徴を挙げたけれど、これらの家族が暮らす住宅について考えてみたい。

 その形態の一つが「シェアハウス(シェア型住居)」であろう。以前「“シェア”という考え方」の項で紹介した三浦展氏の本からその部分を引用しよう。

(引用開始)

 ひつじ不動産が物件情報を掲載しているシェアハウスは「事業体介在型」の「シャア型住居」と定義されている。これは単なるルームシェアとは違う。ルームシェアは、友人、知人など、個人同士の私的な信頼関係によって運営される。しかし、シェア型住居では、運営に責任を持ち、運営によって収益を上げている事業体が存在している。こういうシェアハウスに住む人が、二〇〇九年一二月時点で、主に東京を中心に約一万人いるという。ここには友人同士がひとつの家に住むケースは含まれない。また、六畳一間に二段ベッドを二つ置いて四人で住むという低所得者向けのシェアハウスというのもあるそうだが、それもここには含まれない。

(引用終了)
<“これからの日本のために「シェア」の話をしよう” 77−78ページ>

 シェアハウスは、home/officeによる家内領域と公共領域の近接、趣味や価値観による構成員の決定、得意技や時間帯による家内分業など、上に挙げた新しい枠組みの特徴によく対応できるので、今後「新しい住宅」の基本形になるではないだろうか。普及が進めば、そこに暮らす人々によって自主的に運営されるシェアハウスも出てくるかもしれない。

 社会には勿論「近代家族」も多く残存するから、これからの住宅街には、近代家族が暮らす「近代住宅」(とその延長線上にある老人ホームや二世帯住宅)と、こういった「新しい住宅」とが、斑模様に存在することになるのだろう。

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近代住宅

2012年10月16日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 ここでいう近代住宅とは、「近代家族 III」などで見てきた、近代家族が暮らす住宅のことを指す。戦後の日本の近代住宅について、最近読んだ“フジモリ式建築入門”藤森照信著(ちくまプリマー新書)から引用しよう。

(引用開始)

 日本固有の住宅表示として“2LDK”などというが、2とはふたつの寝室を指し、LDKとは、居間と食堂と台所が、壁とドアで仕切られず一つづきに納まっている部屋を意味する。(中略)
 もともと一体化は“狭いながらも楽しいわが家”のための工夫だったが、広くて立派な家にまでおよび、今ではたいていの家がLDK一体となっている。
 ではなぜ、三つの部屋をそれぞれ独立して充実させるだけの経済的ゆとりのある人々まで、一体化を受け入れたんだろうか。それは民主主義、男女平等を掲げる戦後思想のゆえだった。
 LDKは、LもDもKも、主役は実は母にほかならない。男女平等というけれど、帰りが遅く朝の早い父がLDKに占める役割も過ごす時間も少ない。
 LDKのうち、DとKは完全に母の勢力下にあり、とりわけKは母の拠点。そのKを、拠点にふさわしく作り変えたのはステンレス流し台だった。(中略)
 輝く流し台の前で、キビキビと立ち働きながら、家の中の子供たちの様子にも気を配る母。戦後の母のステンレス流し台は、戦前の父の床柱にとって代わった。住いは、家父長制から母制へ。それにしても父権の場が失われた今、住いの中で父はどこでどう存在感を示せばいいんだろう。

(引用終了)
<同書 20−22ページ>

近代住宅は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といった特徴を持つ「近代家族」に都合よく作られてきたわけだ。このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(Private)」−女性性

といった二項対比を論じているが、日本語の特色からも、家父長制をなくした日本社会が、母制へ傾いていくのは必然の流れなのだろう。

 昔よく、戦後強くなったものは女性と靴下といわれたものだが、最近、特にスポーツの世界で、日本の女子力が世界に冠たるものになってきた。日本の女子力がこれほど強くなったのは、輝く流し台を中心に据えた「近代住宅」の後押しを受けたからに違いない。

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近代家族 II 

2012年09月25日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「近代家族」の項で、近代家族を超えた新しい枠組みの必要性は、商店街ばかりではなく、安定成長時代を迎えた今の日本社会全体についていえる筈だ、と書いたけれど、“東京は郊外から消えていく!”三浦展著(光文社新書)は、このことを住宅街について研究した本だ。副題に、“首都圏高齢化・未婚化・空き家地図”とある。本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

かつて団塊世代が東京圏にあふれ、郊外に大量の住宅が建てられた。それが今や、人口減少社会へと転じ、ゆくゆくは40%が空き家になるという予測も出ている。そうなれば、東京の随所にゴーストタウンが現れるだろう。長年ローンを払い続けて手に入れたマイホームも、資産価値のない「クズ物件」となってしまう。
日本の都市は、他にもさまざまな問題をはらんでいる。居場所のない中高年、結婚しない若者、単身世帯の増加……。とくに首都圏では、それらが大量に発生する。これから郊外はどうなる?住むべき街とは?不動産を最大限活用するには?独自の意識調査などをもとに、これからの東京の都市、郊外のあり方を提言する。

(引用終了)
<同書 カバー裏の紹介文>

ちなみに前回引用した「近代家族」の特徴は、

1.  家内領域と公共領域の分離
2.  家族成員相互の強い情緒的関係
3.  子供中心主義
4.  男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.  家族の団体性の強化
6.  社交の衰退
7.  非親族の排除
8.  核家族

といったことである。

 三浦氏は、これからの住宅街について、次のような変化を提案する(本書199ページ)。

(1)  職住分離から職住近接、職住一致へ
(2)  住宅だけのベットタウンとしての住宅地から、商業、オフィス、文化、農業などが混在した新しい都市的住宅地へ
(3)  30〜40代の子育て期の核家族だけの住宅地から、若者、高齢者、単身者など、多様な世代の多様な形の家族が混在した街へ
(4)  私生活主義中心のライフスタイルから、パブリックでシェア的なライフスタイルへ
(5)  行政まかせから、住民の街づくりへの主体的な関与へ

そして、住宅街作りの仕組みとして、住民主体の管理組合と、専門的な住宅地管理会社とのコラボレーションを提案しておられる。

 先回紹介した“商店街はなぜ滅びるのか”新雅史著でも、こういった草の根的な組合組織の必要性が述べられている。

(引用開始)

 今の日本は、若者たちにマネーが向かわずに、行き所を失ったマネーが投機の方向に流れている。若者にマネーが回らない理由は、彼らが土地の所有者ではなく、事業をおこなっていないからである。こうした状況のなかで、若者への資金提供は、消費者金融やクレジット会社による消費者向けの高金利融資であるか、住宅向けの融資に限られている。
こうしたドロ沼の状態から抜け出すためにも、地域単位で協同組合が商店街の土地を所有し、意欲ある若者に土地を貸し出すとともに、金融面でもバックアップするという仕組みがつくられるべきであろう。(後略)

(引用終了)
<同書 209ページ>

“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代、街づくりにおいても、地域単位の新しい枠組みと、官僚まかせ主義からの脱却が求められている。

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近代家族

2012年09月18日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “商店街はなぜ滅びるのか”新雅史著(光文社新書)という本を面白く読んだ。まずは新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 若手社会学者が商店街の誕生から繁栄、衰退に至る経緯を豊富なデータをもとに解説する。商店街が20世紀初頭から始まった都市化の流れの中で誕生したという見方は新鮮だ。零細な商店の集積である商店街は「よき地域づくり」のために発明された近代的な人工物であるという。
 それがなぜ、今日のような姿になったのか。戦後、社会の工業化が進み、地方の農業従事者の都会への流入でサラリーマンが生み出される一方、都市部での自営業者の数も大幅に増えた。商店街は雇用の受け皿でもあったが、小規模な家族経営であったことが経営の近代化を遅らせた。
 一般に、商店街が衰退したのは出店規制が緩和されたスーパーや郊外型ショッピングセンターが台頭したからだとする分析が多い。だが本書は商店街が既得権益を追求して政治団体化し、一般市民に理解されなくなったことなどに原因があると指摘する。滅びる理由は商店街の側にいつのまにか内包されていたのだ。
 再生の道はあるのか。高齢化が進む中で地域の拠点となる消費空間は必要だとして、地域社会が土地を管理する仕組みをつくって事業者の新規参入を促すことを提案する。やる気や才覚が商売の原点であることを思い起こさせる。
 著者の実家は酒販店を営んでいたという。商売を間近に見てきた原体験が本書に説得力を持たせている。

(引用終了)
<日経新聞 8/5/2012>

 この本の中に「近代家族」という言葉が出てくる。近代家族とは、近代以降の家族を指す社会学の用語で、本書に引用された“近代家族とフェミニズム”落合恵美子著(勁草書房)によると、

1.  家内領域と公共領域の分離
2.  家族成員相互の強い情緒的関係
3.  子供中心主義
4.  男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.  家族の団体性の強化
6.  社交の衰退
7.  非親族の排除
8.  核家族

といった特徴が見られるという。商店街の担い手が「近代家族」であったため、事業の継続性という点で大きな限界があったというのが本書の指摘だ。

 確かにこれらの特徴を見ると、高齢化した商店街がシャッター通りになってしまう理由がよくわかる。しかし、この「近代家族」を超えた新しい枠組みの必要性は、商店街ばかりではなく、安定成長時代を迎えた今の日本社会全体についていえる筈だ。その背景には、「継承の文化」の項などでふれた「奥」の喪失がある。そう考えると問題の根は深い。

 新しい枠組みの方向性については、これまで「“シェア”“という考え方」、「“シェア”という考えかた II」の項で、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といったパラダイム・シフトとして提示したことがある。これからも、社会における「自立と共生」のあり方について、様々な角度から考えてゆきたい。

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場所の力

2012年07月31日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「都市の中のムラ」の項で、建築家隈研吾氏の“新・ムラ論TOKYO”(清野由美氏との共著)を紹介したが、“場所原論”隈研吾著(市ヶ谷出版社)は、同氏が、己の建築思想をさらに自作18事例と共に語った優れた本である。副題には、“建築はいかにして場所と接続するか”とある。まず解剖学者養老孟司氏の書評から引用しよう。

(引用開始)

 生きものは「場所」に生きている。昆虫を調べていると、しみじみとそう思う。同じ森の中でも、特定の場所でしか見つからない。
 それに対してヒトは生きる範囲を徹底して広げた。さらに近代文明は遠い場所どうしを縦横につないで、途中をいわば「消して」しまった。横断の典型が新幹線であろう。それによる被害を回復しようとして、海山里連環学や、川の流域学が生まれてきている。著者が場所と人の身体との関係性の回復をいう言葉の中に、私は似た響きを聞き取る。世界の重要な部分を切れ切れにしてしまった現代文明に対して、そこには未来の息吹が明らかに感じられる。(中略)
 著者は現代建築が現代建築になってしまったそもそもの始まり、そのいきさつを最初に語る。「建築の歴史をよく検討してみれば、悲劇から新しいムーブメントが起きている」。その典型として、一七五五年のリスボン大地震を挙げる。この地震を契機として近代が始まったと著者はいう。人々は「神に見捨てられた」と感じ、「強い建築」に頼ろうとした。それが最終的には鉄とコンクリートによる高層の建物を生み出す。もちろん著者がこう述べる背景には三・一一の大震災がある。ここでもまた、大きくか、小さくか、人々の考え方が変わり、歴史が変わるに違いない。「建築の『強さ』とは、建築物単体としての物理的な『強さ』のことではないのです。建築を取り囲む『場所』の全体が、人間に与えてくれる恵みこそが強さであり、本当のセキュリティだったのです」(後略)

(引用終了)
<毎日新聞 6/3/2012>

養老氏と隈氏には、今年2月に出版された“日本人はどう住まうべきか?”(日経BP社)という共著もある。

 水や石、木や和紙などを巧みに使った18の事例はどれも素晴らしいが、この本には、インターナショナリズム、ユートピア主義、アーツ・アンド・クラフツ運動、モダニズム、ポストモダニズムといった西洋建築思想の流れが、プラトンとアリストテレスから始まりデカルト、カント、ハイデッガー、デリダに至る西洋哲学の変遷と併せて記述され、その上で、隈氏の考えるこれからの建築のあり方が提示されている。詳しくは本書をお読みいただきたいが、大雑把に言えば、これまで西洋建築思想は、普遍主義をベースに、プラトン的な「客観的構造論」とアリストテレス的な「主観的空間論」との間を行ったり来たりしていたけれど、これからは、「コトの起こる場」をベースに、この二つ(「客観的構造論」と「主観的空間論」)のバランスを取っていくことが求められるというものだ。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の項で述べたように、これからの時代、建築は、建物という「モノ」自体よりも、「コトの起こる場」の力を大切にする考え方が重要になってくるわけだ。

 私の「複眼主義」に引き付けていえば、「客観的構造論」は脳の系譜、「主観的空間論」は身体の系譜に分類できる。その二つをバランスさせる「場所」は、「都市の中のムラ」であり、そこに暮らす人々である。隈氏の「場所」の定義を本書から引用しておこう。

(引用開始)

 場所は単に体験の対象ではなく、生産する開口部なのです。その開口部から地に足のついた建築が生み出され、大地と一体となった生活が生み出されるのです。
 「生産」という活動に目を向けたとき、突如として、「場所」は光り輝き始めます。開口部(場所)の力によって建築と生活とがひとつに結ばれ、建築をきずなとして、場所と生活とがひとつにつながれるのです。
 「開口部」という言葉に注目してください。開口部とは本質的に小さいものなのです。小さいからこそ、それを開口部と呼ぶのです。だだっぴろく、とりとめのない大きな世界の中に存在する、小さな開口部が「場所」なのです。
 場所とは、そもそも小さいものです。小さいからこそ、ものをふるいにかけ、生産を行なうことができるのです。「国家」という場所は、すでに大きすぎるのです。もっと小さな場所こそが、場所と呼び得るのです。

(引用終了)
<同書 30ページ>

隈氏のいう生産のための「小さい場所」とは、「ヒューマン・スケール」の項で紹介した平川克美氏の「いま・ここ」(小商いの場)という概念とも重なる。

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。

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都市の中のムラ

2012年06月12日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「都市計画の不在」の項で紹介した“対談集 つなぐ建築”(岩波書店)の著者隈研吾氏が、都市における「ムラ」の可能性を求めて「下北沢」「高円寺」「秋葉原」「小布施」の四箇所を歩き、同行したジャーナリスト清野由美氏と対話しながらその考えを纏めた本が“新・ムラ論TOKYO”(集英社新書)である。

 「都市の中のムラ」とは何か。“新・ムラ論TOKYO”から引用しよう。

(引用開始)

「ムラ」とは、人が安心して生活していける共同体のありかであり、また、多様な生き方と選択肢のよりどころである。
わたしたちは今、都市の中にこそ、「ムラ」を求める。

(引用終了)
<同書 9ページ>

ということで、ここでいう「ムラ」とは、その場所と密着した暮らしがある共同体を指す。だから都市の中にも「ムラ」はあり得る。隈氏のことばをさらに本書から引用したい。

(引用開始)

二〇世紀の建築は、場所を曇らすために、人々を場所から切り離すために建てられた。僕たちはもう一度、場所を見つめることから始めなくてはいけない。大地震と津波とが、そんな僕らを場所へと連れ戻した。夢もフィクションも捨てて、場所から逃れず、場所に踏みとどまって、ムラを立ち上げるしか途(みち)はないのである。

(引用終了)
<同書 21ページ>

隈氏は、人を場所から切り離すために作られる建築を「空間の商品化」と呼ぶ。空間が商品化された「ハコ」としての建築物。そういう無数のハコが商品市場で売り買いされる時代が二〇世紀だったと隈氏はいう。しかし、

(引用開始)

土地というもの、それと切り離しがたい建築というものを商品化したことのツケは大きかった。商品の本質は流動性にある。売買自由で空中を漂い続ける商品という存在へと化したことで、土地も建物も、人間から切り離されて、フラフラとあてどもなく漂い始め、それはもはや人々の手には負えない危険な浮遊物になってしまった。

(引用終了)
<同書 20ページ>

だからこれからの時代は、場所に踏みとどまって、「ムラ」(その場所と密着した暮らしがある共同体)を立ち上げる必要があるという訳だ。

 隈氏はこういった思考から、「負ける建築」「つなぐ建築」「場所のリノベーション」「フレームとシークエンス」「境界設計」「都市の中のムラ」といった新しい建築思想を紡いでおられるのだろう。

 この考え方は、以前「流域社会圏」の項で紹介した“地域社会圏モデル”山本理顕他著(INAX出版)とも共通する問題意識に支えられているといえよう。このブログで提唱している「流域思想」とも勿論共鳴する。

 「下北沢」「高円寺」「秋葉原」「小布施」四箇所それぞれのムラとしての魅力については本書をお読みいただきたいが、このブログでも「内と外」と「内と外 II」などの項で小布施について、「森ガール II」の項で高円寺について書いたことがあるのでお読みいただければ嬉しい。

 また、この“新・ムラ論TOKYO”という本は、“新・都市論TOKYO”隈研吾・清野由美共著(集英社新書)の続編ということなので、興味のある方はそちらも併せて読まれると良いと思う。

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水と社会とのかかわり

2012年06月05日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前々回「水の力」の項で、

(引用開始)

「流域思想」、あるいは水と社会との関わりが、私の水に対する興味の第三である。

(引用終了)

と書いたけれど、この「水と社会とのかかわり」を様々な視点から纏めたのが、“水の知 自然と人と社会をめぐる14の視点”沖大幹監修・東京大学「水の知」(サントリー)編<化学同人>である。まず本の裏帯にある目次の抜書きを引用したい。

(引用開始)

プロローグ「水の知」への招待

I  水とかかわる「人」 
第1章  川の本質と河川技術のあり方
第2章  水と森と人
第3章  農地は水のコントロールが命

II 「地域社会」に根づく水
第4章  地下水と人と社会
第5章  水と生態系と地域社会
第6章  水と市民参加型社会

III 「世界」のなかの水問題
第7章  世界の水と衛生問題と日本の役割
第8章  飲み水の水質基準はどのように決めるのか
第9章  トイレから世界を変える
第10章 水を巡る国家間の確執と協調

IV  ビジネス」としての水
第11章 マニラにおける水道時事業民営化
第12章 健全な水ビジネス
第13章 今、なぜ世界が水ビジネスに着目するのか

(引用終了)

ということで、「水と社会とのかかわり」について、広範囲な論点が網羅されていることがお分かりいただけると思う。大きく分けて「人」「地域社会」「世界」「ビジネス」という四つの観点から「水と社会とのかかわり」を考えるわけだ。勿論「流域思想」にとってはどれも外せない。

 この本は、本の表帯に「東大とサントリーのコラボ、水のスペシャリストがおくる“水の世紀”を生きるヒント」とあるように、サントリーという会社が東京大学と一緒に創設した、“東京大学統括プロジェクト機構「水の知」(サントリー)統括寄付講座”が元になっている。こういう形で企業と大学が連携するのは良いことだと思う。サントリーの水への拘りについては、「多様性を守る自由意志」の項で紹介した“水を守りに、森へ”山田健著(筑摩選書)にさらに詳しい。

 このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げているが、主にこの本の後半で論じられている水処理に関する新技術(淡水化技術やエネルギー変換技術など)は、地球環境というグローバルな観点から、高度成長時代を迎えている中国やインドなどに於いても必要とされるものだ。以前「マグネシウム循環社会」の項で、矢部孝東京工業大学教授の研究活動(海水に含まれるマグネシウムを使ったエネルギー循環社会の構築)を紹介したことがあるけれど、「新技術のビジネス化」という視点から、日本の水処理に関する技術分野はこれからもっと注目されてよい。

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都市計画の不在

2012年05月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “対談集 つなぐ建築”隈研吾著(岩波書店)を面白く読んだ。なかでも(隈氏と)都市プランナーの蓑原敬氏との対談「都市計画の勝負(上下)」は、近代日本の「都市計画の不在」理由(の一端)を、関連する法律制定経緯を辿るかたちで詳らかにしてくれるので興味深かった。

 日本の都市計画に関する法律は、主に都市計画法と建築基準法という二つあるわけだが、対談によると、これらは1919年(大正8年)に出来た古い法律(旧都市計画法と市街地建築物法)に、戦後、市場原理主義(儲け主義)と20世紀流工業社会型行政指導(調整ルール)とが足されただけのものだという。詳しくは同書をお読みいただきたいが、お二人によると、かかる法律の不備によって、日本の都市には、都市の文脈の中で建築物をどうつくるかという、本来あるべき長期的な視点に立ったResource Planningがまったく不在だという。

 先日「精神的自立の重要性」の項で、

(引用開始)

 日本社会においては、「大脳新皮質主体の思考」が優位に立つ場合でも、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分働かないようだ。その為だろうか、「環境中心」の「日本語的発想」が政治やビジネスの世界にも侵食し、せっかく良いチャンスだった高度成長時代、社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が充分定着しなかった。

 そして、本来公平であらねばならない「公(public)」の領域(政治やビジネスの世界)においても、個人の精神的自立が充分果たされぬまま、もたれあいや妬みあい、私有意識や非公開主義などが高度に構造化してしまった。今後も社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が根付かないままだと、それは是正されないことになる。

(引用終了)

と指摘したけれど、政治やビジネスにおける「凭れ合いの構造化」は、都市計画という公(public)の領域においても、夙(つと)に実証されているわけだ。

 この対談に触発されて、“都市計画法改正―「土地総有」の提言”五十嵐敬喜・野口和雄・萩原淳司共著(第一法規)という本も読んでみた。ここにある土地総有という「コモンズ(Commons)的発想」は、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)時代において、とても興味深い提案である。

 対談では、都市計画における稀な成功例として、「銀座の街づくり」が挙げられている。銀座では、街の担い手の結束力がとても強く、銀座の人たちを窓口とする「デザイン協議会」があり、敷地単位の利害よりも街の景観や利害を優先する、成熟した合意形成が成されるという。コモンズ的発想と云えるだろう。なるほど、この街は今も洗練された味わいを保っている。このブログでもたびたび銀座を取り上げてきた(「銀座のハチミツ」「銀座から日比谷へ」「長野から銀座へ」)。これからも、銀座には大人の街として栄え続けて欲しいと思う。

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“タテとヨコ”のつながり

2012年02月07日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先回「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の項の最後に、

(引用開始)

「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっているということだ。(中略)逆に云うと、自分が気に入った「時間と空間」に注目してゆけば、必ずそこで起こっている素敵な「コト」に出会うことができるということである。

(引用終了)

と書いたけれど、例えば自分が暮らす街において、人はどのようにして「そこで起こっている素敵なコト」に出会うことができるだろうか。

 そのヒントになることが、“郊外はこれからどうなる?”三浦展著(中公新書ラクレ)という本に書かれている。

(引用開始)

 私はこれからの日本人が求めるのは、タテのつながりとヨコのつながりだと思っています。
 ヨコのつながりとは言うまでもなく、隣近所、友人知人などとの交流です。今まで述べてきたように、オールドタウン化したり、田園都市化したりすることは、人々の交流を増やすでしょう。
 タテのつながりとは歴史への関心です。歴史小説を読むようになるという意味ではなく、日本あるいは自分が住んでいる地域の歴史への関心が高まるのではないかと思うのです(拙著『愛国消費』参照)。
 自分が住んでいるまちを、もっといい方向に変えていこうとする機運が盛り上がると、必ず、そのまちに住む人は地域の歴史を掘り起こしたくなります。
 これまで、郊外には歴史がないと思われてきました。私自身も、歴史がないことを批判してきました。たしかに住宅地になってからの歴史は浅い。しかし、住宅地として開発される前の歴史は、探せばあるのです。

(引用終了)
<同書 212ページ>

自分が暮らす街の「素敵なコト」に出会うには、“タテ”すなわち「街の歴史」と、“ヨコ”すなわち「人々の交流」に注目すれば良いというわけだ。逆に云うと、街に起こる「素敵なコト」の全容を把握するには、どちらかだけでは不充分ということでもある。

 この「“タテとヨコ”のつながり」を、当ブログで提唱している「流域思想」の沿って考えてみると、その素敵なテキストとして、最近出版された“オオカミの護符”小倉美恵子著(新潮社)を挙げることができる。本のカバーから紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 五〇世帯の村から七〇〇〇世帯が住む街へと変貌を遂げた、川崎市宮前区土橋。長年農業を営んできた著者の実家の古い土蔵で、護符がなにやら語りかけてくる。護符への素朴な興味は、謎を解く旅となり、いつしかそれは関東甲信の山々へ――。
 都会の中に今もひっそりと息づく、山岳信仰の神秘の世界に触れる一冊。

(引用終了)

ということで、著者は自宅の古い土蔵に貼ってあった「オイヌさま」の護符に導かれて、川崎市から多摩川の流域をさかのぼり、御岳山、秩父山系、さらには三峰山へと「歴史への関心」を広げていく。

 この“タテ”のつながりの発見は、著者の取材活動を通して、さらに“ヨコ”のつながり、すなわち「人々の交流」へと繋がっていく。著者はこの本を書く前、友人と映画プロダクションを設立し、すでにこのテーマで映画“オオカミの護符”、さらに“うつし世の静寂(しじま)に”という川崎市宮前区を舞台にしたドキュメンタリー映画を作製されたと云う。

 まだお読みでない方は、この本(や映画)によって、流域における「“タテ”と“ヨコ”のつながり」の豊かさに触れていただきたい。流域におけるつながりについては、これまでも「両端の奥の物語」「流域社会圏」「鉄と海と山の話」の項などで触れてきた。併せてお読みいただければ嬉しい。

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森ガール II 

2012年01月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「森ガール」の話を続けたい。以前「布づくり」の項で、人が身に纏う「布」は、身体境界の社会的な表現でありまさに「第二の皮膚」といえるだろうと述べたけれど、服装は、社会と自身との境界設計であるという意味において、街づくりにおける中間領域(縁側や庭や道路)と共通するところがある。

 街づくりにおいて、“三低主義”の三浦展氏が注目しているのが、中央線沿線の高円寺である。三浦氏は、去年出版されたSMLとの共著書“高円寺 東京新女子街(トウキョウシンジョシマチ)”(洋泉社)のなかで、次のように書いておられる。

(引用開始)

 路地が多く、街区が小さい高円寺では、都市のなかに多くの隙間が生まれやすい。その隙間を利用して、人が集まり、飲み、食べ、語らう場所ができる。
 人が集まる場所にはいろいろある。子供連れの母親は公園にあつまるだろう。仕事帰りのサラリーマンはガード下の飲み屋に集まるだろう。しかし、公園に集まる場合でも、ホッとひと休みするのは緑の木陰のベンチだろう。つまり人は、ちょっとでこぼこしていて、隠れられるような空間にいるときに安らぐのである。ガード下の飲み屋、のれんで半分見えない屋台などがそうである。

(引用終了)
<同書 68ページ>

くわしくは同書をお読みいただきたいが、高円寺の「ちょっとでこぼこしていて、隠れられるような空間」づくりと、森ガールの「ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム。レギンスやタイツをはき、露出が少ない」という服装は、「街と建物」、「社会と自身」という違いはあるけれど、「境界設計」としてのテイストは共通しているように思う。

 「森ガール」の服装は、ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム、自然素材、アースカラー、重ね着、ローヒール靴などにその特徴があり、高円寺の街は、路地が多く、街区が小さく、道路に面したサーフェスが、ゆるく、でこぼこしたりひらひらしたりしている。

 三浦氏は、“高円寺 東京新女子街(トウキョウシンジョシマチ)”の「はじめに」に、次のように書いておられる。

(引用開始)

 高円寺が今とてもいい。とても時代に合ってきている。どう合っているのかというと、まず、街の雰囲気がゆるい。がつがつせずに、毎日を楽しく生きたいという雰囲気が街全体に漂っている。それが今の若者に合っているし、仕事で疲れているサラリーマンやOLの癒やしの場にもなっている。
 二番目に、ゆるいのに個性的である。郊外は巨大なショッピングモールが増え、都心の百貨店が次々と撤退し、代わりに家電量販店と世界のブランド店が競い合い、町の個性が失われている。そのなかで、高円寺は他の街にはけっしてない個性を持っている。それは、街をつくるのが大企業ではなく、あくまで自由な個人としての人間だからである。

(引用終了)
<同書 18ページ>

 その高円寺の街に、「森ガール」の聖地“HATTIFNATT”がある。

Hattifnatt.JPG

この“HATTIFNATT”については、同書の「高円寺ガーリー日記」というコラムから引用しよう。

(引用開始)

 ティータイムは、お気に入りの「HATTIFNATT(ハティフナット)」。今日は2階の奥の席をゲットする。“森の中席”と勝手に命名。“さくさくシフォンのふわふわショート”と“プリンのかくれんぼ”に“かぼちゃ君ちのモンブラン”を注文。お隣の席のラテアートがすごくかわいい。真似して頼んじゃえ。待っているあいだのさっき買ったものをお互いにお披露目。きゃっきゃっ。ケーキをちょっとずつ楽しみながらこの後の予定について話し合う。話し合いの結果、南口へ。

(引用終了)
<同書 冒頭カラーページ>

 「“シェア”という考え方」の時代を象徴する「ゆるくて個性的で自由」な高円寺の街に、これからの安定成長時代の産業システムを象徴する「森ガール」の聖地があるのは、考えてみれば当然のことなのかもしれない。これからも高円寺界隈に注目してゆきたい。

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posted by 茂木賛 at 10:03 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

場所のリノベーション

2012年01月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「フレームとシークエンス」の隈研吾氏と「“シェア”という考え方」の三浦展氏が、都市や建物のあり方について対談した本が去年出ている。“三低主義”隈研吾+三浦展共著(NTT出版)がそれで、新聞の書評には、

(引用開始)

 『負ける建築』を書いた建築家と『下流社会』の消費社会研究家が、時代状況や建築史をふまえつつ生活重視の住居論や都市論を語る。「三低」は低層、低姿勢、低コストなどを意味し、丹下健三に続く「三高」的建造物を批判的に総括。古い住宅の再生など自身らの活動も披露しながら、新築より減築、所有よりシェア、地域の活性化、福祉や雇用など政策面にも言及。今日の気分にマッチした興味深い対談集だ。(NTT出版・1575円)

(引用終了)
<朝日新聞 2/14/2010>

とある。三浦氏のいう三低主義とは、街の記憶を大切に考え、古い街並みや建物をリノベーションして使い回すことを楽しむ生き方であるという。以前「街並みの記憶」の項で、

(引用開始)

昨今、日本の多くの地域で、優れた街並みが廃れてきている。20世紀型の大量生産・輸送・消費システムが、行き過ぎた資本主義を生み出し、それが人々に大切な「至高的存在」を忘れさせ、街並みが醜くなった。(中略)これからは、21世紀型の「多品種少量生産」「食の地産地消」「資源循環」「新技術」といった産業システムに相応しい、新しい街づくりが必要だ。

(引用終了)

と書いたけれど、これからの街づくりは、街の記憶(「自分を確認できる優れた場所や物」=「不変項」)を大切に考えるところから始まるといって良いだろう。

 隈氏はこの対談の中で、

(引用開始)

隈  建築の設計っていうのは、結局すべて「場所のリノベーション」じゃないかって、最近よく思うんだよね。普通に考えると建築には新築とリノベーションがあって、近頃は新築よりリノベーションのほうが注目を集めている。なんてことになるんだけど、どっちも含めて結局は場所のリノベーションをやっているって考えたほうが、僕のめざしているデザインという行為の本質に近いような気がする。

(引用終了)
<同書 219ページ>

と述べておられる。場所に存在する「不変項」を引き継ぎながら、それをさらに刷新していこうという建築家の心意気が「場所のリノベーション」というキーワードに込められていると思う。

 「三低主義」にせよ「場所のリノベーション」にせよ、これからの街づくりには、その街に住む人々や建築家の「場」に対する感度が問われているのである。

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posted by 茂木賛 at 09:44 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

鉄と海と山の話

2011年12月12日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “鉄は魔法つかい”畠山重篤著(小学館)という素晴らしい本を読んだ。まずは新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

 古来、漁師の間には、豊かな漁場と近接した森を示す「魚付林(うおつきりん)」という言葉があった。沈めた錨(いかり)の周りに魚が集まることも知られていた。だが、カギを握るのが「鉄」と分ったのは最近のこと。森から運ばれた土の中の鉄分が植物性プランクトンをはぐくみ、豊かな海を支える。
 宮城県気仙沼市でカキ養殖を営む著者が、この事実に30年がかりでたどり着くまでをつづった。多くの研究者の協力や助言を得ながら解明に取り組む熱意に引き込まれる。
 「森は海の恋人」を掲げて植林を始めた1989年当時、科学的根拠は乏しかった。研究費を工面してくれた母は大津波の犠牲となり、設備も損壊した。絶望の底で得た「それでも三陸の海は死んでいない」という確信が、出版につながったという。

(引用終了)
<毎日新聞 11/6/2011>

ということで、復興に努力しておられる畠山さんを支援する意味でも、是非本書を購入いただきたい。ただし、本屋によっては絵本の棚に分類されているから見つけにくいかもしれない。

 この本の内容構造は多層である。以下、それぞれの層について見てゆきたい。

1. 復興

 この本の「あとがき」が書かれたのは、東関東大震災からおよそ1ヵ月後の2011年4月、初版発行は同年6月6日である。この本には著者の大災害からの復興への祈りが込められている。

2. 絵本としての魅力

 この本には、以前にも著者とコンビを組んだことがあるという、スギヤマカナヨさんの絵やイラストがたくさん載っている。文章と絵とのハーモニーは楽しく、描かれたイラスト図は内容の理解を助けてくれる。

3. 鉄に纏わる科学知識

 フルボ酸のはたらき、深層大循環、血液と鉄分、オーストラリアのしま状鉄鉱石、鉄炭団子、ムギネ酸、アムール川とスプリングブルームとの関係、巨大魚付林など、鉄に関する地球規模の知識を得ることができる。

4. 流域思想

 畠山さんの「森は海の恋人」活動については、以前「牡蠣の見あげる森」の項でも紹介したことがある。そのとき“流域思想”というキーワードを使った。これは、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える思想で、これからの食やエネルギーを考える上で重要なコンセプトである。詳しくは「流域思想」、「流域思想 II」などの項を参照していただきたい。

5. 境界学問

 境界学問とは、ある現象について、専門領域を超えて統合的に分析・研究する学問のことである。この本には、生物学や化学は勿論のこと、気象学や海洋学、地質学といった様々な学問が融合する様が描かれている。以前「エッジ・エフェクト」の項で文化の融合について述べたけれど、学問領域においても同じことが云えるわけだ。エッジ・エフェクトは、パラダイム・シフト(その時代や分野において当然のことと考えられていた認識が、革命的かつ非連続に変化すること)を惹起する。パラダイム・シフトについては「パラダイム・シフト」、「パラダイム・シフト II」の項を参照いただきたい。

6. ハブの役割

 上記の新聞書評に「多くの研究者の協力や助言を得ながら解明に取り組む熱意に引き込まれる」とあるけれど、畠山さんは、大切なことがあれば、北海道から東京、京都、山口、沖縄、さらにはオーストラリアへまですぐに飛んでいく。以前「ハブ(Hub)の役割」の項で、知人や友人の数(次数)が多い人が果たす社会的役割について書いたけれど、情熱の人・畠山さんは間違いなく、東北復興を担う「元気なリーダー」のお一人である。

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posted by 茂木賛 at 11:28 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

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