夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


新しい住宅 

2012年10月30日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「新しい家族の枠組み」の項で、「近代家族」に代わる新しい家族の枠組みについて、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といった特徴を挙げたけれど、これらの家族が暮らす住宅について考えてみたい。

 その形態の一つが「シェアハウス(シェア型住居)」であろう。以前「“シェア”という考え方」の項で紹介した三浦展氏の本からその部分を引用しよう。

(引用開始)

 ひつじ不動産が物件情報を掲載しているシェアハウスは「事業体介在型」の「シャア型住居」と定義されている。これは単なるルームシェアとは違う。ルームシェアは、友人、知人など、個人同士の私的な信頼関係によって運営される。しかし、シェア型住居では、運営に責任を持ち、運営によって収益を上げている事業体が存在している。こういうシェアハウスに住む人が、二〇〇九年一二月時点で、主に東京を中心に約一万人いるという。ここには友人同士がひとつの家に住むケースは含まれない。また、六畳一間に二段ベッドを二つ置いて四人で住むという低所得者向けのシェアハウスというのもあるそうだが、それもここには含まれない。

(引用終了)
<“これからの日本のために「シェア」の話をしよう” 77−78ページ>

 シェアハウスは、home/officeによる家内領域と公共領域の近接、趣味や価値観による構成員の決定、得意技や時間帯による家内分業など、上に挙げた新しい枠組みの特徴によく対応できるので、今後「新しい住宅」の基本形になるではないだろうか。普及が進めば、そこに暮らす人々によって自主的に運営されるシェアハウスも出てくるかもしれない。

 社会には勿論「近代家族」も多く残存するから、これからの住宅街には、近代家族が暮らす「近代住宅」(とその延長線上にある老人ホームや二世帯住宅)と、こういった「新しい住宅」とが、斑模様に存在することになるのだろう。

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近代住宅

2012年10月16日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 ここでいう近代住宅とは、「近代家族 III」などで見てきた、近代家族が暮らす住宅のことを指す。戦後の日本の近代住宅について、最近読んだ“フジモリ式建築入門”藤森照信著(ちくまプリマー新書)から引用しよう。

(引用開始)

 日本固有の住宅表示として“2LDK”などというが、2とはふたつの寝室を指し、LDKとは、居間と食堂と台所が、壁とドアで仕切られず一つづきに納まっている部屋を意味する。(中略)
 もともと一体化は“狭いながらも楽しいわが家”のための工夫だったが、広くて立派な家にまでおよび、今ではたいていの家がLDK一体となっている。
 ではなぜ、三つの部屋をそれぞれ独立して充実させるだけの経済的ゆとりのある人々まで、一体化を受け入れたんだろうか。それは民主主義、男女平等をを掲げる戦後思想のゆえだった。
 LDKは、LもDもKも、主役は実は母にほかならない。男女平等というけれど、帰りが遅く朝の早い父がLDKに占める役割も過ごす時間も少ない。
 LDKのうち、DとKは完全に母の勢力下にあり、とりわけKは母の拠点。そのKを、拠点にふさわしく作り変えたのはステンレス流し台だった。(中略)
 輝く流し台の前で、キビキビと立ち働きながら、家の中の子供たちの様子にも気を配る母。戦後の母のステンレス流し台は、戦前の父の床柱にとって代わった。住いは、家父長制から母制へ。それにしても父権の場が失われた今、住いの中で父はどこでどう存在感を示せばいいんだろう。

(引用終了)
<同書 20−22ページ>

近代住宅は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といった特徴を持つ「近代家族」に都合よく作られてきたわけだ。このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(Private)」−女性性

といった二項対比を論じているが、日本語の特色からも、家父長制をなくした日本社会が、母制へ傾いていくのは必然の流れなのだろう。

 昔よく、戦後強くなったものは女性と靴下といわれたものだが、最近、特にスポーツの世界で、日本の女子力が世界に冠たるものになってきた。日本の女子力がこれほど強くなったのは、輝く流し台を中心に据えた「近代住宅」の後押しを受けたからに違いない。

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近代家族 II 

2012年09月25日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「近代家族」の項で、近代家族を超えた新しい枠組みの必要性は、商店街ばかりではなく、安定成長時代を迎えた今の日本社会全体についていえる筈だ、と書いたけれど、“東京は郊外から消えていく!”三浦展著(光文社新書)は、このことを住宅街について研究した本だ。副題に、“首都圏高齢化・未婚化・空き家地図”とある。本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

かつて団塊世代が東京圏にあふれ、郊外に大量の住宅が建てられた。それが今や、人口減少社会へと転じ、ゆくゆくは40%が空き家になるという予測も出ている。そうなれば、東京の随所にゴーストタウンが現れるだろう。長年ローンを払い続けて手に入れたマイホームも、資産価値のない「クズ物件」となってしまう。
日本の都市は、他にもさまざまな問題をはらんでいる。居場所のない中高年、結婚しない若者、単身世帯の増加……。とくに首都圏では、それらが大量に発生する。これから郊外はどうなる?住むべき街とは?不動産を最大限活用するには?独自の意識調査などをもとに、これからの東京の都市、郊外のあり方を提言する。

(引用終了)
<同書 カバー裏の紹介文>

ちなみに前回引用した「近代家族」の特徴は、

1.  家内領域と公共領域の分離
2.  家族成員相互の強い情緒的関係
3.  子供中心主義
4.  男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.  家族の団体性の強化
6.  社交の衰退
7.  非親族の排除
8.  核家族

といったことである。

 三浦氏は、これからの住宅街について、次のような変化を提案する(本書199ページ)。

(1)  職住分離から職住近接、職住一致へ
(2)  住宅だけのベットタウンとしての住宅地から、商業、オフィス、文化、農業などが混在した新しい都市的住宅地へ
(3)  30〜40代の子育て期の核家族だけの住宅地から、若者、高齢者、単身者など、多様な世代の多様な形の家族が混在した街へ
(4)  私生活主義中心のライフスタイルから、パブリックでシェア的なライフスタイルへ
(5)  行政まかせから、住民の街づくりへの主体的な関与へ

そして、住宅街作りの仕組みとして、住民主体の管理組合と、専門的な住宅地管理会社とのコラボレーションを提案しておられる。

 先回紹介した“商店街はなぜ滅びるのか”新雅史著でも、こういった草の根的な組合組織の必要性が述べられている。

(引用開始)

 今の日本は、若者たちにマネーが向かわずに、行き所を失ったマネーが投機の方向に流れている。若者にマネーが回らない理由は、彼らが土地の所有者ではなく、事業をおこなっていないからである。こうした状況のなかで、若者への資金提供は、消費者金融やクレジット会社による消費者向けの高金利融資であるか、住宅向けの融資に限られている。
こうしたドロ沼の状態から抜け出すためにも、地域単位で協同組合が商店街の土地を所有し、意欲ある若者に土地を貸し出すとともに、金融面でもバックアップするという仕組みがつくられるべきであろう。(後略)

(引用終了)
<同書 209ページ>

“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代、街づくりにおいても、地域単位の新しい枠組みと、官僚まかせ主義からの脱却が求められている。

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近代家族

2012年09月18日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “商店街はなぜ滅びるのか”新雅史著(光文社新書)という本を面白く読んだ。まずは新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 若手社会学者が商店街の誕生から繁栄、衰退に至る経緯を豊富なデータをもとに解説する。商店街が20世紀初頭から始まった都市化の流れの中で誕生したという見方は新鮮だ。零細な商店の集積である商店街は「よき地域づくり」のために発明された近代的な人工物であるという。
 それがなぜ、今日のような姿になったのか。戦後、社会の工業化が進み、地方の農業従事者の都会への流入でサラリーマンが生み出される一方、都市部での自営業者の数も大幅に増えた。商店街は雇用の受け皿でもあったが、小規模な家族経営であったことが経営の近代化を遅らせた。
 一般に、商店街が衰退したのは出店規制が緩和されたスーパーや郊外型ショッピングセンターが台頭したからだとする分析が多い。だが本書は商店街が既得権益を追求して政治団体化し、一般市民に理解されなくなったことなどに原因があると指摘する。滅びる理由は商店街の側にいつのまにか内包されていたのだ。
 再生の道はあるのか。高齢化が進む中で地域の拠点となる消費空間は必要だとして、地域社会が土地を管理する仕組みをつくって事業者の新規参入を促すことを提案する。やる気や才覚が商売の原点であることを思い起こさせる。
 著者の実家は酒販店を営んでいたという。商売を間近に見てきた原体験が本書に説得力を持たせている。

(引用終了)
<日経新聞 8/5/2012>

 この本の中に「近代家族」という言葉が出てくる。近代家族とは、近代以降の家族を指す社会学の用語で、本書に引用された“近代家族とフェミニズム”落合恵美子著(勁草書房)によると、

1.  家内領域と公共領域の分離
2.  家族成員相互の強い情緒的関係
3.  子供中心主義
4.  男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.  家族の団体性の強化
6.  社交の衰退
7.  非親族の排除
8.  核家族

といった特徴が見られるという。商店街の担い手が「近代家族」であったため、事業の継続性という点で大きな限界があったというのが本書の指摘だ。

 確かにこれらの特徴を見ると、高齢化した商店街がシャッター通りになってしまう理由がよくわかる。しかし、この「近代家族」を超えた新しい枠組みの必要性は、商店街ばかりではなく、安定成長時代を迎えた今の日本社会全体についていえる筈だ。その背景には、「継承の文化」の項などでふれた「奥」の喪失がある。そう考えると問題の根は深い。

 新しい枠組みの方向性については、これまで「“シェア”“という考え方」、「“シェア”という考えかた II」の項で、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といったパラダイム・シフトとして提示したことがある。これからも、社会における「自立と共生」のあり方について、様々な角度から考えてゆきたい。

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場所の力

2012年07月31日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「都市の中のムラ」の項で、建築家隈研吾氏の“新・ムラ論TOKYO”(清野由美氏との共著)を紹介したが、“場所原論”隈研吾著(市ヶ谷出版社)は、同氏が、己の建築思想をさらに自作18事例と共に語った優れた本である。副題には、“建築はいかにして場所と接続するか”とある。まず解剖学者養老孟司氏の書評から引用しよう。

(引用開始)

 生きものは「場所」に生きている。昆虫を調べていると、しみじみとそう思う。同じ森の中でも、特定の場所でしか見つからない。
 それに対してヒトは生きる範囲を徹底して広げた。さらに近代文明は遠い場所どうしを縦横につないで、途中をいわば「消して」しまった。横断の典型が新幹線であろう。それによる被害を回復しようとして、海山里連環学や、川の流域学が生まれてきている。著者が場所と人の身体との関係性の回復をいう言葉の中に、私は似た響きを聞き取る。世界の重要な部分を切れ切れにしてしまった現代文明に対して、そこには未来の息吹が明らかに感じられる。(中略)
 著者は現代建築が現代建築になってしまったそもそもの始まり、そのいきさつを最初に語る。「建築の歴史をよく検討してみれば、悲劇から新しいムーブメントが起きている」。その典型として、一七五五年のリスボン大地震を挙げる。この地震を契機として近代が始まったと著者はいう。人々は「神に見捨てられた」と感じ、「強い建築」に頼ろうとした。それが最終的には鉄とコンクリートによる高層の建物を生み出す。もちろん著者がこう述べる背景には三・一一の大震災がある。ここでもまた、大きくか、小さくか、人々の考え方が変わり、歴史が変わるに違いない。「建築の『強さ』とは、建築物単体としての物理的な『強さ』のことではないのです。建築を取り囲む『場所』の全体が、人間に与えてくれる恵みこそが強さであり、本当のセキュリティだったのです」(後略)

(引用終了)
<毎日新聞 6/3/2012>

養老氏と隈氏には、今年2月に出版された“日本人はどう住まうべきか?”(日経BP社)という共著もある。

 水や石、木や和紙などを巧みに使った18の事例はどれも素晴らしいが、この本には、インターナショナリズム、ユートピア主義、アーツ・アンド・クラフツ運動、モダニズム、ポストモダニズムといった西洋建築思想の流れが、プラトンとアリストテレスから始まりデカルト、カント、ハイデッガー、デリダに至る西洋哲学の変遷と併せて記述され、その上で、隈氏の考えるこれからの建築のあり方が提示されている。詳しくは本書をお読みいただきたいが、大雑把に言えば、これまで西洋建築思想は、普遍主義をベースに、プラトン的な「客観的構造論」とアリストテレス的な「主観的空間論」との間を行ったり来たりしていたけれど、これからは、「コトの起こる場」をベースに、この二つ(「客観的構造論」と「主観的空間論」)のバランスを取っていくことが求められるというものだ。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の項で述べたように、これからの時代、建築は、建物という「モノ」自体よりも、「コトの起こる場」の力を大切にする考え方が重要になってくるわけだ。

 私の「複眼主義」に引き付けていえば、「客観的構造論」は脳の系譜、「主観的空間論」は身体の系譜に分類できる。その二つをバランスさせる「場所」は、「都市の中のムラ」であり、そこに暮らす人々である。隈氏の「場所」の定義を本書から引用しておこう。

(引用開始)

 場所は単に体験の対象ではなく、生産する開口部なのです。その開口部から地に足のついた建築が生み出され、大地と一体となった生活が生み出されるのです。
 「生産」という活動に目を向けたとき、突如として、「場所」は光り輝き始めます。開口部(場所)の力によって建築と生活とがひとつに結ばれ、建築をきずなとして、場所と生活とがひとつにつながれるのです。
 「開口部」という言葉に注目してください。開口部とは本質的に小さいものなのです。小さいからこそ、それを開口部と呼ぶのです。だだっぴろく、とりとめのない大きな世界の中に存在する、小さな開口部が「場所」なのです。
 場所とは、そもそも小さいものです。小さいからこそ、ものをふるいにかけ、生産を行なうことができるのです。「国家」という場所は、すでに大きすぎるのです。もっと小さな場所こそが、場所と呼び得るのです。

(引用終了)
<同書 30ページ>

隈氏のいう生産のための「小さい場所」とは、「ヒューマン・スケール」の項で紹介した平川克美氏の「いま・ここ」(小商いの場)という概念とも重なる。

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。

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都市の中のムラ

2012年06月12日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「都市計画の不在」の項で紹介した“対談集 つなぐ建築”(岩波書店)の著者隈研吾氏が、都市における「ムラ」の可能性を求めて「下北沢」「高円寺」「秋葉原」「小布施」の四箇所を歩き、同行したジャーナリスト清野由美氏と対話しながらその考えを纏めた本が“新・ムラ論TOKYO”(集英社新書)である。

 「都市の中のムラ」とは何か。“新・ムラ論TOKYO”から引用しよう。

(引用開始)

「ムラ」とは、人が安心して生活していける共同体のありかであり、また、多様な生き方と選択肢のよりどころである。
わたしたちは今、都市の中にこそ、「ムラ」を求める。

(引用終了)
<同書 9ページ>

ということで、ここでいう「ムラ」とは、その場所と密着した暮らしがある共同体を指す。だから都市の中にも「ムラ」はあり得る。隈氏のことばをさらに本書から引用したい。

(引用開始)

二〇世紀の建築は、場所を曇らすために、人々を場所から切り離すために建てられた。僕たちはもう一度、場所を見つめることから始めなくてはいけない。大地震と津波とが、そんな僕らを場所へと連れ戻した。夢もフィクションも捨てて、場所から逃れず、場所に踏みとどまって、ムラを立ち上げるしか途(みち)はないのである。

(引用終了)
<同書 21ページ>

隈氏は、人を場所から切り離すために作られる建築を「空間の商品化」と呼ぶ。空間が商品化された「ハコ」としての建築物。そういう無数のハコが商品市場で売り買いされる時代が二〇世紀だったと隈氏はいう。しかし、

(引用開始)

土地というもの、それと切り離しがたい建築というものを商品化したことのツケは大きかった。商品の本質は流動性にある。売買自由で空中を漂い続ける商品という存在へと化したことで、土地も建物も、人間から切り離されて、フラフラとあてどもなく漂い始め、それはもはや人々の手には負えない危険な浮遊物になってしまった。

(引用終了)
<同書 20ページ>

だからこれからの時代は、場所に踏みとどまって、「ムラ」(その場所と密着した暮らしがある共同体)を立ち上げる必要があるという訳だ。

 隈氏はこういった思考から、「負ける建築」「つなぐ建築」「場所のリノベーション」「フレームとシークエンス」「境界設計」「都市の中のムラ」といった新しい建築思想を紡いでおられるのだろう。

 この考え方は、以前「流域社会圏」の項で紹介した“地域社会圏モデル”山本理顕他著(INAX出版)とも共通する問題意識に支えられているといえよう。このブログで提唱している「流域思想」とも勿論共鳴する。

 「下北沢」「高円寺」「秋葉原」「小布施」四箇所それぞれのムラとしての魅力については本書をお読みいただきたいが、このブログでも「内と外」と「内と外 II」などの項で小布施について、「森ガール II」の項で高円寺について書いたことがあるのでお読みいただければ嬉しい。

 また、この“新・ムラ論TOKYO”という本は、“新・都市論TOKYO”隈研吾・清野由美共著(集英社新書)の続編ということなので、興味のある方はそちらも併せて読まれると良いと思う。

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水と社会とのかかわり

2012年06月05日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前々回「水の力」の項で、

(引用開始)

「流域思想」、あるいは水と社会との関わりが、私の水に対する興味の第三である。

(引用終了)

と書いたけれど、この「水と社会とのかかわり」を様々な視点から纏めたのが、“水の知 自然と人と社会をめぐる14の視点”沖大幹監修・東京大学「水の知」(サントリー)編<化学同人>である。まず本の裏帯にある目次の抜書きを引用したい。

(引用開始)

プロローグ「水の知」への招待

I  水とかかわる「人」 
第1章  川の本質と河川技術のあり方
第2章  水と森と人
第3章  農地は水のコントロールが命

II 「地域社会」に根づく水
第4章  地下水と人と社会
第5章  水と生態系と地域社会
第6章  水と市民参加型社会

III 「世界」のなかの水問題
第7章  世界の水と衛生問題と日本の役割
第8章  飲み水の水質基準はどのように決めるのか
第9章  トイレから世界を変える
第10章 水を巡る国家間の確執と協調

IV  ビジネス」としての水
第11章 マニラにおける水道時事業民営化
第12章 健全な水ビジネス
第13章 今、なぜ世界が水ビジネスに着目するのか

(引用終了)

ということで、「水と社会とのかかわり」について、広範囲な論点が網羅されていることがお分かりいただけると思う。大きく分けて「人」「地域社会」「世界」「ビジネス」という四つの観点から「水と社会とのかかわり」を考えるわけだ。勿論「流域思想」にとってはどれも外せない。

 この本は、本の表帯に「東大とサントリーのコラボ、水のスペシャリストがおくる“水の世紀”を生きるヒント」とあるように、サントリーという会社が東京大学と一緒に創設した、“東京大学統括プロジェクト機構「水の知」(サントリー)統括寄付講座”が元になっている。こういう形で企業と大学が連携するのは良いことだと思う。サントリーの水への拘りについては、「多様性を守る自由意志」の項で紹介した“水を守りに、森へ”山田健著(筑摩選書)にさらに詳しい。

 このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げているが、主にこの本の後半で論じられている水処理に関する新技術(淡水化技術やエネルギー変換技術など)は、地球環境というグローバルな観点から、高度成長時代を迎えている中国やインドなどに於いても必要とされるものだ。以前「マグネシウム循環社会」の項で、矢部孝東京工業大学教授の研究活動(海水に含まれるマグネシウムを使ったエネルギー循環社会の構築)を紹介したことがあるけれど、「新技術のビジネス化」という視点から、日本の水処理に関する技術分野はこれからもっと注目されてよい。

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都市計画の不在

2012年05月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “対談集 つなぐ建築”隈研吾著(岩波書店)を面白く読んだ。なかでも(隈氏と)都市プランナーの蓑原敬氏との対談「都市計画の勝負(上下)」は、近代日本の「都市計画の不在」理由(の一端)を、関連する法律制定経緯を辿るかたちで詳らかにしてくれるので興味深かった。

 日本の都市計画に関する法律は、主に都市計画法と建築基準法という二つあるわけだが、対談によると、これらは1919年(大正8年)に出来た古い法律(旧都市計画法と市街地建築物法)に、戦後、市場原理主義(儲け主義)と20世紀流工業社会型行政指導(調整ルール)とが足されただけのものだという。詳しくは同書をお読みいただきたいが、お二人によると、かかる法律の不備によって、日本の都市には、都市の文脈の中で建築物をどうつくるかという、本来あるべき長期的な視点に立ったResource Planningがまったく不在だという。

 先日「精神的自立の重要性」の項で、

(引用開始)

 日本社会においては、「大脳新皮質主体の思考」が優位に立つ場合でも、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分働かないようだ。その為だろうか、「環境中心」の「日本語的発想」が政治やビジネスの世界にも侵食し、せっかく良いチャンスだった高度成長時代、社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が充分定着しなかった。

 そして、本来公平であらねばならない「公(public)」の領域(政治やビジネスの世界)においても、個人の精神的自立が充分果たされぬまま、もたれあいや妬みあい、私有意識や非公開主義などが高度に構造化してしまった。今後も社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が根付かないままだと、それは是正されないことになる。

(引用終了)

と指摘したけれど、政治やビジネスにおける「凭れ合いの構造化」は、都市計画という公(public)の領域においても、夙(つと)に実証されているわけだ。

 この対談に触発されて、“都市計画法改正―「土地総有」の提言”五十嵐敬喜・野口和雄・萩原淳司共著(第一法規)という本も読んでみた。ここにある土地総有という「コモンズ(Commons)的発想」は、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)時代において、とても興味深い提案である。

 対談では、都市計画における稀な成功例として、「銀座の街づくり」が挙げられている。銀座では、街の担い手の結束力がとても強く、銀座の人たちを窓口とする「デザイン協議会」があり、敷地単位の利害よりも街の景観や利害を優先する、成熟した合意形成が成されるという。コモンズ的発想と云えるだろう。なるほど、この街は今も洗練された味わいを保っている。このブログでもたびたび銀座を取り上げてきた(「銀座のハチミツ」「銀座から日比谷へ」「長野から銀座へ」)。これからも、銀座には大人の街として栄え続けて欲しいと思う。

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“タテとヨコ”のつながり

2012年02月07日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先回「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の項の最後に、

(引用開始)

「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっているということだ。(中略)逆に云うと、自分が気に入った「時間と空間」に注目してゆけば、必ずそこで起こっている素敵な「コト」に出会うことができるということである。

(引用終了)

と書いたけれど、例えば自分が暮らす街において、人はどのようにして「そこで起こっている素敵なコト」に出会うことができるだろうか。

 そのヒントになることが、“郊外はこれからどうなる?”三浦展著(中公新書ラクレ)という本に書かれている。

(引用開始)

 私はこれからの日本人が求めるのは、タテのつながりとヨコのつながりだと思っています。
 ヨコのつながりとは言うまでもなく、隣近所、友人知人などとの交流です。今まで述べてきたように、オールドタウン化したり、田園都市化したりすることは、人々の交流を増やすでしょう。
 タテのつながりとは歴史への関心です。歴史小説を読むようになるという意味ではなく、日本あるいは自分が住んでいる地域の歴史への関心が高まるのではないかと思うのです(拙著『愛国消費』参照)。
 自分が住んでいるまちを、もっといい方向に変えていこうとする機運が盛り上がると、必ず、そのまちに住む人は地域の歴史を掘り起こしたくなります。
 これまで、郊外には歴史がないと思われてきました。私自身も、歴史がないことを批判してきました。たしかに住宅地になってからの歴史は浅い。しかし、住宅地として開発される前の歴史は、探せばあるのです。

(引用終了)
<同書 212ページ>

自分が暮らす街の「素敵なコト」に出会うには、“タテ”すなわち「街の歴史」と、“ヨコ”すなわち「人々の交流」に注目すれば良いというわけだ。逆に云うと、街に起こる「素敵なコト」の全容を把握するには、どちらかだけでは不充分ということでもある。

 この「“タテとヨコ”のつながり」を、当ブログで提唱している「流域思想」の沿って考えてみると、その素敵なテキストとして、最近出版された“オオカミの護符”小倉美恵子著(新潮社)を挙げることができる。本のカバーから紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 五〇世帯の村から七〇〇〇世帯が住む街へと変貌を遂げた、川崎市宮前区土橋。長年農業を営んできた著者の実家の古い土蔵で、護符がなにやら語りかけてくる。護符への素朴な興味は、謎を解く旅となり、いつしかそれは関東甲信の山々へ――。
 都会の中に今もひっそりと息づく、山岳信仰の神秘の世界に触れる一冊。

(引用終了)

ということで、著者は自宅の古い土蔵に貼ってあった「オイヌさま」の護符に導かれて、川崎市から多摩川の流域をさかのぼり、御岳山、秩父山系、さらには三峰山へと「歴史への関心」を広げていく。

 この“タテ”のつながりの発見は、著者の取材活動を通して、さらに“ヨコ”のつながり、すなわち「人々の交流」へと繋がっていく。著者はこの本を書く前、友人と映画プロダクションを設立し、すでにこのテーマで映画“オオカミの護符”、さらに“うつし世の静寂(しじま)に”という川崎市宮前区を舞台にしたドキュメンタリー映画を作製されたと云う。

 まだお読みでない方は、この本(や映画)によって、流域における「“タテ”と“ヨコ”のつながり」の豊かさに触れていただきたい。流域におけるつながりについては、これまでも「両端の奥の物語」「流域社会圏」「鉄と海と山の話」の項などで触れてきた。併せてお読みいただければ嬉しい。

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森ガール II 

2012年01月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「森ガール」の話を続けたい。以前「布づくり」の項で、人が身に纏う「布」は、身体境界の社会的な表現でありまさに「第二の皮膚」といえるだろうと述べたけれど、服装は、社会と自身との境界設計であるという意味において、街づくりにおける中間領域(縁側や庭や道路)と共通するところがある。

 街づくりにおいて、“三低主義”の三浦展氏が注目しているのが、中央線沿線の高円寺である。三浦氏は、去年出版されたSMLとの共著書“高円寺 東京新女子街(トウキョウシンジョシマチ)”(洋泉社)のなかで、次のように書いておられる。

(引用開始)

 路地が多く、街区が小さい高円寺では、都市のなかに多くの隙間が生まれやすい。その隙間を利用して、人が集まり、飲み、食べ、語らう場所ができる。
 人が集まる場所にはいろいろある。子供連れの母親は公園にあつまるだろう。仕事帰りのサラリーマンはガード下の飲み屋に集まるだろう。しかし、公園に集まる場合でも、ホッとひと休みするのは緑の木陰のベンチだろう。つまり人は、ちょっとでこぼこしていて、隠れられるような空間にいるときに安らぐのである。ガード下の飲み屋、のれんで半分見えない屋台などがそうである。

(引用終了)
<同書 68ページ>

くわしくは同書をお読みいただきたいが、高円寺の「ちょっとでこぼこしていて、隠れられるような空間」づくりと、森ガールの「ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム。レギンスやタイツをはき、露出が少ない」という服装は、「街と建物」、「社会と自身」という違いはあるけれど、「境界設計」としてのテイストは共通しているように思う。

 「森ガール」の服装は、ゆったりしたワンピースにファーなどのふわふわしたアイテム、自然素材、アースカラー、重ね着、ローヒール靴などにその特徴があり、高円寺の街は、路地が多く、街区が小さく、道路に面したサーフェスが、ゆるく、でこぼこしたりひらひらしたりしている。

 三浦氏は、“高円寺 東京新女子街(トウキョウシンジョシマチ)”の「はじめに」に、次のように書いておられる。

(引用開始)

 高円寺が今とてもいい。とても時代に合ってきている。どう合っているのかというと、まず、街の雰囲気がゆるい。がつがつせずに、毎日を楽しく生きたいという雰囲気が街全体に漂っている。それが今の若者に合っているし、仕事で疲れているサラリーマンやOLの癒やしの場にもなっている。
 二番目に、ゆるいのに個性的である。郊外は巨大なショッピングモールが増え、都心の百貨店が次々と撤退し、代わりに家電量販店と世界のブランド店が競い合い、町の個性が失われている。そのなかで、高円寺は他の街にはけっしてない個性を持っている。それは、街をつくるのが大企業ではなく、あくまで自由な個人としての人間だからである。

(引用終了)
<同書 18ページ>

 その高円寺の街に、「森ガール」の聖地“HATTIFNATT”がある。

Hattifnatt.JPG

この“HATTIFNATT”については、同書の「高円寺ガーリー日記」というコラムから引用しよう。

(引用開始)

 ティータイムは、お気に入りの「HATTIFNATT(ハティフナット)」。今日は2階の奥の席をゲットする。“森の中席”と勝手に命名。“さくさくシフォンのふわふわショート”と“プリンのかくれんぼ”に“かぼちゃ君ちのモンブラン”を注文。お隣の席のラテアートがすごくかわいい。真似して頼んじゃえ。待っているあいだのさっき買ったものをお互いにお披露目。きゃっきゃっ。ケーキをちょっとずつ楽しみながらこの後の予定について話し合う。話し合いの結果、南口へ。

(引用終了)
<同書 冒頭カラーページ>

 「“シェア”という考え方」の時代を象徴する「ゆるくて個性的で自由」な高円寺の街に、これからの安定成長時代の産業システムを象徴する「森ガール」の聖地があるのは、考えてみれば当然のことなのかもしれない。これからも高円寺界隈に注目してゆきたい。

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場所のリノベーション

2012年01月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「フレームとシークエンス」の隈研吾氏と「“シェア”という考え方」の三浦展氏が、都市や建物のあり方について対談した本が去年出ている。“三低主義”隈研吾+三浦展共著(NTT出版)がそれで、新聞の書評には、

(引用開始)

 『負ける建築』を書いた建築家と『下流社会』の消費社会研究家が、時代状況や建築史をふまえつつ生活重視の住居論や都市論を語る。「三低」は低層、低姿勢、低コストなどを意味し、丹下健三に続く「三高」的建造物を批判的に総括。古い住宅の再生など自身らの活動も披露しながら、新築より減築、所有よりシェア、地域の活性化、福祉や雇用など政策面にも言及。今日の気分にマッチした興味深い対談集だ。(NTT出版・1575円)

(引用終了)
<朝日新聞 2/14/2010>

とある。三浦氏のいう三低主義とは、街の記憶を大切に考え、古い街並みや建物をリノベーションして使い回すことを楽しむ生き方であるという。以前「街並みの記憶」の項で、

(引用開始)

昨今、日本の多くの地域で、優れた街並みが廃れてきている。20世紀型の大量生産・輸送・消費システムが、行き過ぎた資本主義を生み出し、それが人々に大切な「至高的存在」を忘れさせ、街並みが醜くなった。(中略)これからは、21世紀型の「多品種少量生産」「食の地産地消」「資源循環」「新技術」といった産業システムに相応しい、新しい街づくりが必要だ。

(引用終了)

と書いたけれど、これからの街づくりは、街の記憶(「自分を確認できる優れた場所や物」=「不変項」)を大切に考えるところから始まるといって良いだろう。

 隈氏はこの対談の中で、

(引用開始)

隈  建築の設計っていうのは、結局すべて「場所のリノベーション」じゃないかって、最近よく思うんだよね。普通に考えると建築には新築とリノベーションがあって、近頃は新築よりリノベーションのほうが注目を集めている。なんてことになるんだけど、どっちも含めて結局は場所のリノベーションをやっているって考えたほうが、僕のめざしているデザインという行為の本質に近いような気がする。

(引用終了)
<同書 219ページ>

と述べておられる。場所に存在する「不変項」を引き継ぎながら、それをさらに刷新していこうという建築家の心意気が「場所のリノベーション」というキーワードに込められていると思う。

 「三低主義」にせよ「場所のリノベーション」にせよ、これからの街づくりには、その街に住む人々や建築家の「場」に対する感度が問われているのである。

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鉄と海と山の話

2011年12月12日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “鉄は魔法つかい”畠山重篤著(小学館)という素晴らしい本を読んだ。まずは新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

 古来、漁師の間には、豊かな漁場と近接した森を示す「魚付林(うおつきりん)」という言葉があった。沈めた錨(いかり)の周りに魚が集まることも知られていた。だが、カギを握るのが「鉄」と分ったのは最近のこと。森から運ばれた土の中の鉄分が植物性プランクトンをはぐくみ、豊かな海を支える。
 宮城県気仙沼市でカキ養殖を営む著者が、この事実に30年がかりでたどり着くまでをつづった。多くの研究者の協力や助言を得ながら解明に取り組む熱意に引き込まれる。
 「森は海の恋人」を掲げて植林を始めた1989年当時、科学的根拠は乏しかった。研究費を工面してくれた母は大津波の犠牲となり、設備も損壊した。絶望の底で得た「それでも三陸の海は死んでいない」という確信が、出版につながったという。

(引用終了)
<毎日新聞 11/6/2011>

ということで、復興に努力しておられる畠山さんを支援する意味でも、是非本書を購入いただきたい。ただし、本屋によっては絵本の棚に分類されているから見つけにくいかもしれない。

 この本の内容構造は多層である。以下、それぞれの層について見てゆきたい。

1. 復興

 この本の「あとがき」が書かれたのは、東関東大震災からおよそ1ヵ月後の2011年4月、初版発行は同年6月6日である。この本には著者の大災害からの復興への祈りが込められている。

2. 絵本としての魅力

 この本には、以前にも著者とコンビを組んだことがあるという、スギヤマカナヨさんの絵やイラストがたくさん載っている。文章と絵とのハーモニーは楽しく、描かれたイラスト図は内容の理解を助けてくれる。

3. 鉄に纏わる科学知識

 フルボ酸のはたらき、深層大循環、血液と鉄分、オーストラリアのしま状鉄鉱石、鉄炭団子、ムギネ酸、アムール川とスプリングブルームとの関係、巨大魚付林など、鉄に関する地球規模の知識を得ることができる。

4. 流域思想

 畠山さんの「森は海の恋人」活動については、以前「牡蠣の見あげる森」の項でも紹介したことがある。そのとき“流域思想”というキーワードを使った。これは、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える思想で、これからの食やエネルギーを考える上で重要なコンセプトである。詳しくは「流域思想」、「流域思想 II」などの項を参照していただきたい。

5. 境界学問

 境界学問とは、ある現象について、専門領域を超えて統合的に分析・研究する学問のことである。この本には、生物学や化学は勿論のこと、気象学や海洋学、地質学といった様々な学問が融合する様が描かれている。以前「エッジ・エフェクト」の項で文化の融合について述べたけれど、学問領域においても同じことが云えるわけだ。エッジ・エフェクトは、パラダイム・シフト(その時代や分野において当然のことと考えられていた認識が、革命的かつ非連続に変化すること)を惹起する。パラダイム・シフトについては「パラダイム・シフト」、「パラダイム・シフト II」の項を参照いただきたい。

6. ハブの役割

 上記の新聞書評に「多くの研究者の協力や助言を得ながら解明に取り組む熱意に引き込まれる」とあるけれど、畠山さんは、大切なことがあれば、北海道から東京、京都、山口、沖縄、さらにはオーストラリアへまですぐに飛んでいく。以前「ハブ(Hub)の役割」の項で、知人や友人の数(次数)が多い人が果たす社会的役割について書いたけれど、情熱の人・畠山さんは間違いなく、東北復興を担う「元気なリーダー」のお一人である。

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柱と梁

2011年11月08日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “日本の建築遺産12選”磯崎新著(新潮社とんぼの本)を読む。サブタイトルには“語りなおし日本建築史”とある。本カバー裏の紹介文をまず引用しよう。

(引用開始)

「日本建築とはいったい何か?」。1960年代にキャリアをスタートし、現代にいたるまで、半世紀にわたり世界の建築の最前線で活躍しながら、鋭い切り口の建築/文化批評を行なってきた建築家・磯崎新がいまあらためて「日本建築」について語りなおす。古代から20世紀までの数多の名建築のなかから自ら選んだ12の「建築遺産」をとりあげ、「垂直の構築」と「水平の構築」という日本建築の二つの流れからその歴史を読みかえる。刺激的でまったくあたらしい、イソザキ流「日本建築史」のはじまりです。

(引用終了)

ここにもあるように、磯崎氏は日本建築の特徴を「垂直の構築」と「水平の構築」とに纏め、それに関して次のように述べる。

(引用開始)

「垂直の構築」とは言いかえれば、空間にそびえたつ<柱>。西欧では建築の根幹に石を積む行為があるのに対して、日本の場合は<柱>を立てる行為に、とりわけ象徴的な意味がある。一方、「水平の構築」とは、横の広がりを建築の内部にとりこむいとなみです。それは時に、<柱>が線状につらなる<列柱>であり、<柱>をたくみに配置することから生まれる<間>であり、さらには<柱>から<柱>へと<架構>されて空間を覆う<屋根>となります。日本の建築の特徴をつきつめると、この二つの流れが見えてくる。別の言い方をすれば、これは<壁>の欠如を意味します。伝統的な西洋建築と最も対照的なところです。

(引用終了)
<同書11ページ>

日本建築における<壁>の欠如については、以前「広場の思想と縁側の思想」の項で引用したジェフリー・ムーサス氏の“「縁側」の思想”にも述べてあった。

 磯崎氏が日本建築遺産としてあげる12の建物を、「垂直の構築」と「水平の構築」とに分けて以下並べてみよう。

「垂直の構築」

出雲大社 <超高層神殿をささえた柱>
浄土寺浄土堂 <四天柱から飛ぶ太い梁>
円覚寺舎利殿 <天井へと上昇する志向>
三仏寺投入堂 <崖のうえに現れた美学>
さざえ堂 <「二重螺旋」という奇想>
水戸芸術館アートタワー <下から上へ伸びる無限の柱>

「水平の構築」

伊勢神宮 <古殿地という「出来事」>
唐招提寺金堂 <列柱が生む端麗な空間>
三十三間堂 <無限焦点のメガ・ステージ>
西本願寺飛雲閣 <光の海に浮かぶ船>
修学院離宮 上の御茶屋 <雲間に広がる浮遊空間>
代々木オリンピックプール <1964年の「大伽藍」>

 先日「フレームとシークエンス」の項で、隈研吾氏に関して、

(引用開始)

環境を均質なものとしてではなく、「フレームとシークエンス」の連続としてみることで、隈氏は、環境の持つ力をより柔軟に体感できているのだろう。氏の作品には、人工的な縦のヒエラルキー(階層性)とは無縁の、自然や環境と横のつながりを持つ魅力的な建物が多い。

(引用終了)

と書いたけれど、現代日本の「人工的な縦のヒエラルキー(階層性)」を感じさせる建物は、西洋建築の特徴である<壁>を用いたものが多いように思う。

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フレームとシークエンス

2011年10月25日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日ある雑誌を読んでいたら、建築家の隈研吾氏が次のような話をしていた。

(引用開始)

 そう。自然界は「フレーム」(意識の内側)と「シークエンス」(時間の流れ)で成り立っているんです。大きさや解像度の違うフレームが連続していくイメージです。それを巨大な平面で均質に考えようとしたのは、20世紀的科学の思考法であって、生物はそういう生き方じゃない。人間は、「フレーム」と「シークエンス」の中に自然とのつながりが体感できる。

(引用終了)
<ソトコト9/2011号86ページより>

隈氏のこの考え方は、以前「アフォーダンスについて」の項で述べた、

(引用開始)

 アフォーダンス理論では、我々の住むこの世界は、古典幾何学でいうような、直線や平面、立体でできているのではなくて、ミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)から出来ているとされる。そして我々は、自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚の五つ)によって、運動を通してこの世界を日々発見する。

(引用終了)

というアフォーダンスの考え方と近いと思われる。

 隈氏のいう「シークエンス」(時間の流れ)とは、身体と環境との出会いであり、「フレーム」(意識の内側)とは、現在進行形の脳がそのときに注意(Attention)する対象を指すだろう。

 建物の立つ場所や環境が持つ力を探り出し、そのエネルギーを建築に生かそうとする隈氏の設計哲学については、これまで「広場の思想と縁側の思想」や「街のつながり」、「境界設計」の項などで見てきた。地場材料への拘り、歴史への配慮、自然環境の重視などなど。

 環境を均質なものとしてではなく、「フレームとシークエンス」の連続としてみることで、隈氏は、環境の持つ力をより柔軟に体感できているのだろう。氏の作品には、人工的な縦のヒエラルキー(階層性)とは無縁の、自然や環境と横のつながりを持つ魅力的な建物が多い。

 このフレームとシークエンスもそうだが、これからは「20世紀的科学の思考法」からの脱却が急速に進むと思われる。以前「流域思想」や「流域思想 II」の項で、新しい思考法の一つとしてアフォーダンスと流域思考との親和性について考察したが、これからもいろいろと新しい「21世紀的科学の思考法」について考えていきたい。

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行事の創造

2011年08月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「不変項」の項で、

(引用開始)

 「わたし」にとって身近なもの、身の回りに常にある物、環境の中にあって変わらない場所、自分を確認できる優れた場所や物は、「アフォーダンス」で云うところの「不変項」という概念に近い。

(引用終了)

と書いたけれど、「場所や物」以外、祭りや花火大会などの「行事」も、長く続くものは場所や物同様、充分優れた「不変項」足り得ると思う。

 「街並みの記憶」の項で、

(引用開始)

昨今、日本の多くの地域で、優れた街並みが廃れてきている。20世紀型の大量生産・輸送・消費システムが、行き過ぎた資本主義を生み出し、それが人々に大切な「至高的存在」を忘れさせ、街並みが醜くなった。

(引用終了)

と書いたが、失われた街並みと同時に、行われなくなった行事も多くあるに違いない。行事やイベントは人の繋がりを生む。同じく「街並みの記憶」の項で、

(引用開始)

 これからは、21世紀型の「多品種少量生産」「食の地産地消」「資源循環」「新技術」といった産業システムに相応しい、新しい街づくりが必要だ。

(引用終了)

と書いたように、新しい時代にはそれに相応しい行事づくりが必要だと思う。

 たとえば長野県松本市の「クラフト・フェア」は毎年5月に開催されるが、今年で27回目を迎えた。山に囲まれた松本は、良質の木材が取れ、乾燥した空気と豊かな水に恵まれた土地柄で、古くから木工などの手仕事が身近にあったという。その流域の伝統を活かした行事が「クラフト・フェア」である。各地でこのような「流域思想」に基づいた素晴らしい行事(やイベント)が創造されることを願いたい。そういう努力が、街並み同様、やがて記憶として人々にとっての優れた「不変項」になっていくに違いない。

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家づくりの情熱

2011年08月09日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「街の魅力」の項などでその著書を紹介した井形慶子さんの新著“よみがえれ!老朽家屋”(新潮社)を読む。前回は老朽マンションのリフォームだったけれど、今度は同じ吉祥寺にある一戸建てのリフォームだ。本の帯の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

私たちは「家は高い」という呪縛からどうすれば開放されるのだろう?
家づくりは料理やガーデニングと同じ、特殊なものではないと説く著者が、東京・吉祥寺の人気商店街にほど近い15坪の古家付き売り地を購入して、「取り壊しが前提」と言われた築31年の建て売り住宅を見事の再生――。
そんな実践体験をもとに、この国の住宅文化のあり方を問い返す。

(引用終了)

 前回紹介した“老朽マンションの奇跡”同様、この本も、

1. リフォームが予定内にうまくいくかどうかという、ドキュメンタリー的な面白さ。
2. 経営者としての社員に対する気持ち。組織の適正規模や人を大切にするマネジメントの重要性。
3. 最近の住宅事情や、リフォームに関する実務的な知識。
4. 著者の住宅に対する並々ならぬ好奇心と、イギリス人的生き方への共感。
5. 著者の吉祥寺という街に対する愛着。

という五つの「層」に支えられており気持ちよく読める。特に、これから自宅をリフォームしようと考えている人にとっては、とても参考になる内容だと思う。

 さて、井形さんはこの吉祥寺の一戸建ての前に、ロンドン・ハムステッドにフラットを購入している。その時の様子は“突撃!ロンドンに家を買う”井形慶子著(講談社)という本になっている。

(引用開始)

飛ぶように売れていく古家!
世界一住宅が高い!階級社会!のロンドンで、むらがる世界の投資家よりも先に「掘り出し物」を探せ!
英国で知った理想の家を買う技術
イギリスを描く著者が生涯の夢をかけて突入したノンフィクションの決定版!

(引用終了)
<本の帯の紹介文より>

ということで、いくら仕事(雑誌の編集)に関わりがあるとは云え、

2008年 吉祥寺・フラット
2009年 ロンドン・フラット
2010年 吉祥寺・一戸建て

と家を三軒も立て続けに(しかも可能な限りの廉価で)買ってしまうとは、いやはや、改めて井形さんの行動力に脱帽する。

 ロンドンの家の購入は投資目的というよりも、プライベート(イギリスの骨董品や小物の収集)と、社員の出張宿泊用らしい。そういうえば、吉祥寺のフラットは、若手社員の住居兼、会社の広報用とのことだった。そして、今度の一戸建ては、ロンドンで仕入れた骨董品や小物を売るための店舗を兼ねた老後のプライベートスペースということだから、彼女の家づくりの情熱は、全て仕事と人生の目的に繋がっている。先日「不変項」の項で、

(引用開始)

 目まぐるしく変転する生活環境の中にあって、自分を確認できる優れた場所や物は貴重である。近親者や友人の存在とともに、そういった場所や物があってこそ、人は「至高的存在」に近づくことに専念できるのだ。

(引用終了)

と書いたけれど、井形さんの家づくりは、ご自身が「至高的存在」へ近づくことに専念するための基地づくりでもある。この二つのフラットと一つの一戸建て、それにご自宅を併せた四軒の家は、井形さんのこれからの活動を「不変項」として支えていくことだろう。

 尚、家を購入する前後のロンドンについては、“ロンドン生活はじめ! 50歳からの家づくりと仕事”井形慶子著(集英社)、“イギリス式シンプルライフ 月収15万円で暮らす豊かな手引き”井形慶子著(宝島社)の二冊にさらに詳しい。特に後者は写真が沢山使われていて楽しい。

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街並みの記憶

2011年08月02日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「継承の文化 II」の項で、

(引用開始)

「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」という日本社会の典型的な姿は、明治以降我々が「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」について考えてこなかったことにその遠因があるということだ。両端の「奥」が忘れられ、それに伴って「街」が廃れてきたのである。

(引用終了)

と書いたように、昨今、日本の多くの地域で、優れた街並みが廃れてきている。20世紀型の大量生産・輸送・消費システムが、行き過ぎた資本主義を生み出し、それが人々に大切な「至高的存在」を忘れさせ、街並みが醜くなった。

 都市の狭い道に立ちはだかる無粋なコンクリートの電柱、低く錯綜する無数の電線、隣接するビルの不ぞろいな境界設計、けたたましい騒音、けばけばしい原色の看板、放置された自転車などなど。問題は、多くの人がこのような街の景観に慣れてしまっていることだ。

 以前「街のつながり」の項で、

(引用開始)

吉祥寺の魅力を示すI 歩ける、II 透ける、III 流れる、IV 溜まる、V 混ぜる、の5つのキーワードに共通するのは、街に在る様々なものが「繋がっている」という性格である。

(引用終了)

と述べたけれど、醜いものばかりが繋がっていても仕方が無い。

 これからは、21世紀型の「多品種少量生産」「食の地産地消」「資源循環」「新技術」といった産業システムに相応しい、新しい街づくりが必要だ。

 前回「不変項」の項で、「自分を確認できる優れた場所や物」の例として、

(引用開始)

たとえば、異郷に暮らす人にとっての一枚の懐かしい写真、求道者にとっての一冊の聖なる本、里に暮らす人々にとっての奥山、都会に暮らす人々にとっての駅前広場の一本の木、商店街の灯りなどなど。

(引用終了)

と書いように、「駅前広場の一本の木」や「商店街の灯り」などの優れた街並みの景観は、その町に住む人々にとって充分「自分を確認できる優れた場所や物」足り得る。

 一度失われた街並みは一朝一夕に再生できない。しかし、以前「内と外」や「境界設計」の項で紹介した、信州・小布施の街並み修景のようなことが、他の地域でもできない筈はない。「水辺のブレイクスルー」や「流域社会圏」の項では、都市計画者や建築家による、新しい街づくりの試みを紹介した。我が家でもささやかながら、素敵な女性庭師の方と一緒に庭造りを続けている。そういう努力が、やがて街並みの記憶として、人々にとっての優れた「不変項」になっていくのである。

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流域社会圏

2011年05月09日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “地域社会圏モデル”山本理顕・中村拓志・藤村龍宝・長谷川豪共著(INAX出版)という本を読んだ。“地域社会圏”とは、400人程度の人が一緒に暮らす居住空間を指し、「一住宅=一家族」という既存の仕組みとは違った社会のあり方を考えようという思考実験だという。リーダーは建築家の山本理顕氏である。

 山本氏はこの本の中で、戦後展開された「一住宅=一家族」という住宅施策は、官僚による統治システム(管轄部局の内部が私的に運営されていること)と同型であり、そこから脱却するためには、エネルギーの供給からごみ処理、看護や子育て、買い物までを400人程度の共同体で賄う新しい仕組み(地域社会圏モデル)が必要なのではないか、と提案しておられる。

 このブログでもカテゴリ「公と私論」などで、地域社会の再生には、戦後の“官僚と会社父長制”システムとは異なる、“新しい公共”の共同体理念が必要であることを論じてきた。

 三人の若手建築家の案はどれも面白いが、特に私の目を引いたのは、「コミュニティーに於けるのっぴきならないものとは何か」という議論(共著者の四人に伊藤豊雄、藤森照信氏を交えた講評会の部分)だ。地域社会圏モデルが成功するためには、コミュニティーに何か「のっぴきならないもの」が必要なのではないか、という指摘である。

 このブログでは、“新しい公共”理念の必要性と共に、街づくりにおける「流域思想」の重要性について書いてきた。そして、流域における「両端の奥の物語」の大切さについて述べてきた。その観点からしてみると、この「のっぴきならないもの」とは、流域における“両端の奥の物語”と重なるように思える。

 この本では、「のっぴきならないもの」は、学校であったり農業であったりといささか抽象的に議論されているけれど、「それがないと社会圏としての存在理由がない」といった地点までこの「のっぴきならないもの」を掘り下げていくと、それは必然的に、神話や御伽噺を含むところの流域“両端の奥の物語”にまで行き着くのではないだろうか。

 “長良川をたどる”山野肆朗著(ウェッジ)という本がある。この本は、長良川の文化と歴史を河口から源流、さらに分水嶺の先まで辿った紀行文だ。サブタイトルに“美濃から奥美濃、さらに白川郷へ”とある。本の帯の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

清流に育まれた文化と歴史を訪ねて

織田信長の築いた岐阜城、豊かな水をたたえた群上八幡の城下町。1300年以上の歴史をもつ鵜飼、極上の天然鮎にサツキマス、関の日本刀に美濃の和紙、そして世界文化遺産の白川郷―――。

(引用終了)
<同書の帯の紹介文>
 
長良川の下流域、中流域、上流域、源流域それぞれに伝わる文化は、長い歴史を経て、その流域にとって「かけがいのないもの」となっており、それぞれの文化を貫く軸としてその中心に「長良川」が存在している。長良川流域における“両端の奥の物語”があるわけだ。

 さて、前回「水辺のブレイクスルー」の項で、河川法などについて、

(引用開始)

法の整備は、流域ごとに自然環境が違うわけだから、基本理念は全体共有した上で、その流域に合うように、地域主権で進められなければならないと思う。

(引用終了)

と書いたけれど、「かけがいのないもの」や「のっぴきならないもの」を共有するという意味で、“新しい公共”の理念においては、法律のみならず、都道府県や市町村といった既存の行政単位も、「流域」を一つの纏まりとして考えてみてはどうだろうか。全国には109の一級水系があるというから、それぞれの流域毎に政治や文化の特色が出せれば、全体として、自然に沿った形の多様性に富む社会が構築できるのではないだろうか。

 勿論そうなると、社会圏としては400人という規模を上回ることになる。400人という規模が、エネルギーの供給からごみ処理、看護や子育てなどの自治にとって適当なサイズなのであれば、流域全体の物語(のっぴきならないもの)を共有した上で、その中を複数の(400人程度の)共同体に分ければ良い。“地域社会圏モデル”の最後にも、こういった集団の階層性について、“SLM”という「3の構造」による単位の考察がある。

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水辺のブレイクスルー

2011年05月02日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 震災からの復興に向けた動きが始まっている。街づくりについて、流域思想の観点から考えを発展させてみたい。

 このブログでは、街づくりにおける、流域思想境界設計の大切さを述べてきたが、街の水辺設計は、まさにその実践と云える。“まちづくりへのブレイクスルー 水辺を市民の手に”篠原修・内藤廣・二井昭佳編(彰国社)は、日本における水辺設計の成功例を紹介した好著だ。新聞の紹介記事を引用しよう。

(引用開始)

生活に水辺を取り戻す各地の活動を紹介したシンポジウムの記録。木野部海岸(青森県)と源兵衛川(静岡県)のプロジェクトでは、市民やNPOが奮闘。児(ちご)ノ口公園(愛知県)と和泉川(横浜市)では、行政が主体となって悪戦苦闘した。

(引用終了)
<東京新聞 1/17/2011>

どのプロジェクトにも元気なリーダーがいて、その人の周りに各分野の専門家や地域住民が集い、豊かな水辺づくりが展開する。ここでもリーダーの存在が成功の秘訣のようだ。

 この本を読むと、リーダーシップや、行政と市民・NPO間のコラボレーションの大切さもさることながら、そのベースとなる、法(河川法など)の整備の重要性がよく分かる。法の整備は、流域ごとに自然環境が違うわけだから、基本理念は全体共有した上で、その流域に合うように、地域主権で進められなければならないと思う。特に今回の津波被災地には特別な措置が必要だろう。

 これからの街づくり・水辺づくりには、この本にある基本計画作成方法など、プロジェクトの具体的な進め方が大いに参考になる筈だ。子供目線から地域を読み解くこと、地域知の重要性、成果確認などなど。

 このブログでは、これからの社会を牽引する産業システムの一つとして「資源循環」を挙げている。流域における川と海とは、資源循環の要(かなめ)である。こういった活動によって川が動き出せば、昆虫や動物、植物たちが流域に集い、流域の住人たちによって新しい継承の文化が紡ぎだされるだろう。それが“両端の奥”をさらに豊かなものにしてゆくに違いない。

 ところで、この本の編者の一人である内藤廣氏は、私の高校時代のバスケットボール部一年先輩、故瀧脇庸一郎氏と早稲田大学の建築学科(吉阪研究室)で同期だったとのこと。私は、瀧脇氏の追悼文集“後世”に寄せられた内藤氏の文章(「第二章」というタイトル)によってこのことを知った。瀧脇氏が病気で亡くなったのは1993年、追悼文集は1996年に出版された。私は瀧脇氏のバスケットボール部時代しか知らないけれど、コート上でいつも全力を尽くす彼の姿が忘れられない。周りの誰かが手を抜いているとよく彼の叱咤声が飛んだ。背はあまり高くなかったけれど、ロングシュートの姿がとても綺麗だった。追悼文集の年譜を見ると、氏は1978年にアトリエを持ったとあるから、療養期間もあっただろうが、亡くなるまで約15年間、建築家として活躍していたことになる。内藤氏の編んだ本を読むうちに瀧脇氏のことを思い出し、もし彼が存命であったならば、今どのような作品を手がけているだろうかと考えた。

<お知らせ>

以前「牡蠣の見あげる森」の項で紹介した“海は森の恋人”の地が今回の地震と津波で被災し、緊急支援を募っています。小額ながら私も義援金を送りました。参考までにURLを転載しておきます。
http://d.hatena.ne.jp/mizuyama-oyster-farm/20110412/1302595826

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posted by 茂木賛 at 10:23 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

境界設計

2011年02月22日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「内と外 II」の項で、“小布施 まちづくりの奇跡”川向正人著(新潮新書)を引用しながら、

(引用開始)

 川向氏は、「縁側や庭」とそれに繋がる「道」は、街づくりの上で、“中間領域”として重要な意味を持つという。“中間領域”の設計の良し悪しが、街の「つながり」具合いに影響するというわけだ。

(引用終了)

と書いたけれど、この“中間領域”について、屋敷内外における「境界設計」の視点から論じた本が、“境界 世界を変える日本の空間操作術”監修隈研吾・写真高井潔(淡交社)である。監修者の建築家隈研吾氏については、以前「広場の思想と縁側の思想」や「街のつながり」の項でも紹介したことがある。

 隈氏はこの本の中で、

(引用開始)

日本建築は、境界の技術の宝庫であり、イケイケの終わった時代を生き抜くための知恵が、日本建築の中に満載されている。様々なスクリーン〔たとえばルーバー(格子)や暖簾(のれん)や、様々な中間領域(縁側・廊下・庇)〕が環境と建築とをつなぐ装置として再び注目されている。

(引用終了)
<同書 15ページ>

と述べ、その内容を、

第1章 内と外の曖昧な境界
窓、蔀戸、格子、犬矢来、垣根、塀、門、玄関、土間・三和度、通り庭、縁側、軒、壁、屋根、欄間、鞘の間、はとば

第2章 柔らかな境界
暖簾、簾、襖、障子、屏風・衝立

第3章 聖と俗、ハレとケの境界
床、神棚、枝折戸、躙口、茶室、沓脱石、飛び石(路地)、御手洗、手水、鳥居、注連縄、階段、白砂壇

第4章 「見立て」の境界
関守石、みせ、石碑

第5章 風景の中の境界
橋、坪庭、借景

第6章 現代の境界
根津美術館、House N、KAIT工房

といった章構成よって(美しい写真とともに)紹介しておられる。第1章の冒頭にある短いコメントには、

(引用開始)

 言葉によって世界を切り取り認識しやすくするのと同時に、人は「自己の側」に属する空間を形成するために、仕切りや標(しるし)といった「境界」を用いてきた。
 すると必然的に、自己の側以外の空間は、混沌とした「外部」空間に位置づけられる。人はしばしば、高い障壁などの強固な境界により、カオス=外部を拒絶した。「内と外」の二元論によって、世界を整理した。
 しかし実際のところ、人間とは外部=自然環境との関連性によって生かされているにすぎない生物で、そのようなデジタルな処理では対応しきれない、もっと複雑で矛盾をはらむ生身の存在だということに、この国の人間は早くから気づいていた。
 そして、外部との関係性を完全には断ち切らない、さまざまな「境界」が発展した。

(引用終了)
<同書 19ページ>

とある。

 一方、“中間領域”の設計においては、「複眼でものを見る必要性」の項で述べたように、新しいものをどう取り入れるかという課題もある。先日「内と外」の項で引用した「KURA」12月号の小布施の記事は、新しいものの象徴である「道路」について次のように書いている。


(引用開始)

 小布施の今後のデザインについて尋ねると、市村次夫さんから意外な返事が返ってきた。
 「まずは、国道403号線など主な道路を一車線にして、歩道に工夫をしたいね。昭和30年代以降、道は道路になってしまった。これをいかに道に戻すかに苦心している」
 「道路」は移動手段としての車を効率よく走らせるものに過ぎず、人が気持ちよく歩けるのが「道」だ。しかしどこかへ行くために歩くのではなく、ぶらぶら歩く。偶然に人に出会ったり、立ち話をしながら。立ち話や無駄話のなかで、本物の情報が耳に入ることがあり、ときには思いがけない人のつながりもできる。道は広くなったり狭くなったり、ベンチがあったり、花が植えられていたり、「足湯があったり、大道芸人もいいね」と市村さんは言う。効率優先の真面目さではなく、「人生を楽しむ」という観点から道を取り戻し、さらに面白い町づくりをしていきたいと語る。

(引用終了)
<同雑誌21ページ>

小布施の街の真ん中を通る国道403号線は外からは便利だけれど、確かに車が多くて歩きにくい。これを合議の上で一車線・一方通行にしても、(他にも道はあるのだから)皆それほど困らないかもしれない。

 これからの「境界設計」は、日本の古くからの空間操作術を充分生かしながら、さらに車やITなどの新しいものを、(単に排除するのではなく)巧みに取り込むことが求められる。優れた境界設計は「エッジ・エフェクト」を誘発する。それは「継承の文化」の項などで言及した“流域両端の奥”をさらに深化させるだろう。

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posted by 茂木賛 at 10:03 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

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