夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


自然の捉え方

2015年06月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「共生の思想 II」の項で、日本人の自然を大切にする知恵・価値観に期待を寄せる本川氏(『生物多様性』著者)の言葉を引用したが、『唱歌「ふるさと」の生態学』高槻成紀著(ヤマケイ新書)は、この島国の生態学的な実状と、これからの課題を纏めた本だ。副題に「ウサギはなぜいなくなったのか?」とある。本帯の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 今こそ見直したい「ウサギ追いしかの山」の世界。里山の変容を、唱歌「ふるさと」の歌詞から読み解く。(帯表紙)
 世代を超えて歌われる唱歌「ふるさと」。ここで歌われたウサギやフナは、なぜいなくなってしまったのか?聞き慣れた歌詞から、昔日の里山を生態学の視点で読み解き、現代との比較を通じて失われた日本の自然と文化を見直す。(帯裏表紙)

(引用終了)

 本の構成は、

一章 「故郷」を読み解く
二章 ウサギ追いし――里山の変化
三章 小ブナ釣りし――水の変化
四章 山は青き――森林の変化
五章 いかにいます父母――社会の変化
六章 東日本大震災と故郷
七章 「故郷」という歌
八章 「故郷」から考える現代日本社会

となっている。著者は動物生態学・保全生態学者。生態学(環境の変化が動物や植物にどのような影響を与えたかを研究する学問)のうちでも、二十世紀後半の自然破壊のすさまじさに対する危機感から生まれたのが保全生態学だ。池内紀氏の新聞書評を一部引用したい。

(引用開始)

 なぜウサギがいなくなったのか。すぐに環境汚染や狩猟を原因と考えがちだが、そうではなく、山に茅場がなくなったのが大きいという。茅、つまりススキやヨシのしげる平原。屋根を葺く茅、家畜の飼料、荷造りのクッション。いろいろ用途があり、茅場を取り込むかたちで里山が成り立っていた。用途を失って放置されると、とたんに木が侵入してススキは消えていく。ウサギには安住の場がなくなった。
 おおかたの日本人が「心のふるさと」というとき、思い浮かべる風景画ある。茅葺の農家、よく耕された田や畑、まわりの屋敷林、背後の山。農地は作物、屋敷林は材木、山は炭火焼き。調和のとれた美しい景観は、暮らしのシステムが安定していたなかで維持されてきた。茅場の消滅一つからも、さまざまなものが見えてくる。近年の山里ではイノシシの被害がしきりに言われる。私はイノシシのような大型の動物がなぜ里に出没するのか、いぶかしく思っていたが、生態学的にはウサギに代わり、イノシシに「もってこいの条件」がととのっているのである。

(引用終了)
<毎日新聞 4/26/2015(フリガナ省略)>

 里山についてはこれまで、「里山ビジネス」や「内と外 II」、「里山システムと国づくり」などの項でその大切さを書いてきた。この本はいわば生態学からみた里山保全論といえるだろう。里山経済を復活させる為にはこの面からの考察も欠かせない。これからも仕組みをいろいろと勉強したいと思う。

 さて高槻氏は、自然の捉え方に関する日本人とヨーロッパ人との違いについて、次のように書いておられる。

(引用開始)

「故郷」の時代と現代との比較をする上で、自然のとらえ方の違いを考えている。そのためには、日本人の自然観とヨーロッパ人の自然観を比較することが役立つように思われる。
 都市住民が主体となった現代日本では自然はすばらしいものであるというとらえ方が主流である。そしてそのすばらしい自然は保護すべきだと考える。ただしそれは実際に自然に接してすばらしいと感じ、自然は守るべきだと実感してのことであるというよりは、テレビ等を通じての追体験であることが多い。それは基本的にヨーロッパの自然観の翻訳である。ヨーロッパにおいては人間だけが神に近い存在であり、だから人間は世界を支配して責任をもって管理すべきだというキリスト教的な世界観がある。(中略)
 自然がひ弱であり、丁寧に管理しなければ、原生的な自然が失われたり、生産性がそこなわれたりするヨーロッパでは、人が優位にいるのだから自然を支配するのがよい結果をもたらすという経験があったであろう。しかし日本のように生物多様性が驚くほど高い土地では、自然は守るというようなものではまったくなく、夏の暑さも冬の寒さも人を攻めるという感じがある。その上、地震もあれば、洪水もある。守ってほしいのはむしろ人のほうであった。そういう自然とおりあいをつけるためには、自然を支配して管理下に置くという姿勢はまったくふさわしくない。攻めるものはかわし、逃げることでことなきを得るほうが、よほど合理的であった。恐ろしい目に遭わせないでください、農作物が大水で台無しにならないようにしてください――そのように祈りながらも、リアリストである農民や漁民は、祈りだけでものごとが解決すると考えるほど愚かでも楽天的でもなかった。自然をよく観察し、どのような土地に洪水が起きるか、どのような雲の動きのあとに嵐が来るかといったことをよく知識として蓄え、どのようにすべきかを知恵として引き継いできた。自然と向かい合って対立するのではなく、むしろ自分を自然の中に位置づけ、小さな存在のひとつと感じて来た。

(引用終了)
<同書 189−202ページ>

ヨーロッパ人が自然を資源として管理しようとしてきたのに対し、日本人は自然環境に寄り添い、里山を作り、生活しやすいようにそれを手なずけてきた。これは複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比と整合する。生態学の知識と同時に、環境の捉え方に関するこの彼我(ひが)の違いについてもよく知っておきたい。複眼主義ではAとBとのバランスを大切に考える。

 最近の日本人が伝統的な里山精神を忘れかけていることに対して、高槻氏は、

(引用開始)

 そのこと(伝統的な里山精神)がここに来て、危うくなり、そうなったときの変容の速度があまりに速く、崩壊という言葉がふさわしいかのごときである。その原因は多様であり、またつきとめるのも容易ではない。だが、私が本書で考えたことではっきり言えることがある。それは、里山を構築した伝統の底に流れる、自然と対峙するのではなく、自然に寄り添い、生き物を畏敬せよという先人の精神を正しく継承すべきであるということである。日本人の自然観は、少なくとも二〇〇〇年の歴史の中で洗練され、不適切なものは淘汰されてきたものである。それは、物やエネルギーを粗末にするなと正しく教えて来た。それを旧弊として捨て去ってきたこれまでの愚かさを見直す、それが我々に課せられた最低限のつとめであるように思われる。
 私は「故郷」の歌われた動植物や山川について考え、その意味を読み取ろうとした。そしてその底流に見いだしたのは、すばらしい自然の中で暮らしてきた我々の祖先の生きる知の深さに気付くべきだということであった。

(引用終了)
<同書 205−206ページ(括弧内は引用者の註)>

と最後に書いておられる。日本語的発想は「環境中心」なのだが、最近の日本人は、自然ではなく「都市環境中心」の発想になってしまっているのである。

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フルサトをつくる若者たち

2015年03月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「心ここに在らずの大人たち」の項で、養老孟司氏と隈研吾氏の『日本人はどう死ぬべきか?』という本を引用したけれど、その隈研吾氏が、『フルサトをつくる』伊藤洋志×pha(ファ)共著(東京書籍)という「心ここに在る若者たち」の本を新聞で紹介している。まずはその新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 参勤交代を復活すべきだというのが、養老孟司の説である。都市と地方の格差解消策、過疎地対策として有効なことはわかるが、現実的に無理だろうと思っていた。
 しかしこの本を読んで、参勤交代は復活できると確信した。しかも、上からの強制によらず、各自が勝手に、自分たちの変える場所を見つけ、それを自分のフルサトとして再定義することができれば、結果としてそれが現代の参勤交代となり、日本を救うかもしれないのである。
 2人のニート、ギーグ(オタク)っぽくてゆるめな若者の主張が説得力を持つのは、2人が縁もゆかりもなかった熊野という場所に通って、新しいフルサトつくりを実践し、それなりの成果を獲得し、かなり充実した感じで実際に「交代」しているからである。
 2人がフルサトつくりに成功したのは、骨を埋めようという面倒臭いことは考えず、可能な限り軽くて、気楽に場所をエンジョイし、友達を作ったからである。都市の再生に用いられるシェアハウス、シェアオフィスという新しい概念も、彼らは地方でこそ有効だと考えて、実践した。
 まず2人は熊野が好きになって通いはじめた。その「通う」感じがまさに参勤交代で、「通う」距離感が、地域と東京との新しい関係性を作り、おかみに頼らず、補助金にも大資本にも依存しない、地域のお気軽な活性化の鍵となる。移動によって、シェアによって「小さなお金を」生み出す具体的秘策ももりだくさんである。「小さなお金」で満足できれば、フルサトは誰でもつくり出せる。
 これは定住とも遊牧とも異なる第3の道である。読み終わって、日本人にはそもそも、こんな軽いフルサトが似合っていたような気がしてきた。日本人は縄文の頃から、採集生活が得意で、物を拾い集めて場所を渡り歩くような、軽やかな生き方をしてきたのだから。

(引用終了)
<朝日新聞 7/13/2014>

本のサブタイトルは「帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方」、本の帯(表紙)には、

(引用開始)

「ふるさと」は、自分でつくってもいい。
暮らしの拠点は1箇所でなくてもいい。都会か田舎か、定住か移住かという二者択一を越えて、「当たり前」を生きられるもう一つの本拠地、“フルサト”をつくろう!多拠点居住で、「生きる」、「楽しむ」を自給する暮らし方の実践レポート。

(引用終了)

とある。

 このブログでは、経済というものを、自然の諸々の循環を含め人間を養う社会の根本理念・摂理として捉え、その全体をマネー経済、モノ経済、コト経済の三層に分けて考えている。「経済の三層構造」で述べたことだが、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

ということで、モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力が高まると共に、特に「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろうと予測している。

 この本にある、フルサトをつくる、食うに困らない場所をつくる、小さなお金を生み出す、多拠点居住を目指す、「生きる」と「楽しむ」を自給する、といったことは、まさにa領域の経済、さらには「コト経済」を最大限に起動させようということに他ならない。本書から引用しよう。

(引用開始)

 ここで考えたいのは「経済とはマネーの交換だけじゃない、とにかく何かが交換されればそれは経済が生まれたと言ってもよいのではないか」ということだ。交換が活発であれば人は他人同士がうまくやっていける状況ができている、これが大事だろうと思う。地域経済活性化を「お金を落としてもらう」とか、そういう意識で捉えている人は、はっきり言ってズレている。「交換を活性化させる、それが経済の活性化」と定義しなおすと、いろいろやるべきことがはっきりする。

(引用終了)
<同書 159ページ>

限界集落に近い田舎に第二の生活拠点を構え、「生きる」と「楽しむ」を自給すること、それはこれからの確かな生き方の一つであり、そこにスモールビジネスの活躍の場も大いにある筈だ。

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心ここに在らずの大人たち

2015年03月03日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『日本人はどう死ぬべきか?』養老孟司×隈研吾共著(日経BP社)という本に、地方の限界集落について次のような面白い指適があった。

(引用開始)

年寄りのいない田舎がフロンティア

養老 今、都道府県でいうと、大阪と広島の人口構成が二十年前の鳥取県と同じなんだそうです。つまり、都市部で高齢化が進んでいるとということなんですけどね。
 そうなんですか。それはあまり知られていないことですね。大阪でそこまで高齢化が進んでいるとしたら、恐るべきことです。
養老 そうはいっても何のことはないんですよ、みんなが年を取っただけの話です。鳥取は、いわば先進県だったということですよ。
 二十年前にすでに現在の状況を先取りしていたわけですね。
養老 じゃあ今どき人口構成がちゃんとしているところはどういう場所か?日本総合研究所の藻谷浩介さんがそいうったことを日本中で調べているんですが、大阪のような都市ではなくて、なんと「田舎の田舎」なんです。うんと田舎になると、二〜三組の夫婦が子供二〜三人を連れて移住しただけで人口構成がちゃんとしたかたちになる、なぜかというと、そこまで田舎になるともう「年寄りがいないから」なんですね。
 究極の田舎に一番健全な人口構成が出現する。
養老 岡山なんかは限界集落が七百以上もあるというから、将来有望な場所だと僕は思っているんです。だってそれらの限界集落は、二十年以内にはほとんどなくなるということですから、地域の人口構成がいったんリセットされる。そこへ若い人が入ってきて、新たなスタートを切る。アメリカ的にいえば、日本にもやっと西部(フロンティア)ができ始めているんですね。
 養老先生のお宅がある鎌倉には、最近、若いベンチャー世代の人たちが多く移住していますよね。軽井沢に住んで仕事は東京という若い世代も増えているそうです。これからもっと田舎に移る人たちは増えていくんじゃないでしょうか。
養老 若い人たちが今、移るところは、ただの田舎じゃないんです。
 どういう田舎なんですか。
養老 つまり、年寄りのいない田舎なんです。若い人にとって、年寄りって邪魔なんですよ。だって既得権を持っているでしょ。田舎っていうのは一次産業がなければやっていけないところで、そうすると畑のいいところは全部、年寄り連中が持っている。年寄りで今、地元に残っている人たちというのは、僕らの世代から団塊の世代まででしょう。そういう人たちが既得権を持ってしまっているから、ものごとが動かない。テレビのニュース番組で農業の後継者問題なんかを取り上げると、田舎のじいさんが「後継者がいなくて……」と、こぼしているんだけど、「お前がいるからだろう」って、思わず画面に向かっていいたくなることがあるんです。
 年寄りって、いるだけで邪魔という面があるんです。今、そういうことをはっきり言わなくなっちゃったけど、とりわけ若い人にとっては、うっとうしいに決まっていますよ。

(引用終了)
<同書 20−22ページ>

 前回「地方の時代 III」の項で、県レベルには「心ここに在らず」の(greedとbureaucracyを許し続ける)大人たちがまだ大勢棲みついているようだと書いたけれど、地方でも限界集落と呼ばれるようなところは、そういう大人がいなくなって理想的な場所になりつつあるわけだ。

 勿論、世の中には「心ここに在る」大人たちもいるわけだから、彼らと若い人たちが人口の過半数を超すようになれば、その地域ではいろいろと新しいことが起り始めると思う。地域密着型のスモールビジネスは、こういったニーズを積極的に取り入れるべきだ。

 『百花深処』<雨過天青>の項で、ドナルド・キーン氏が応仁の乱後の東山文化と三島由紀夫や吉田健一などが活躍した戦後文化との類似性を述べていることを引き合いに、室町のあとは戦国・群雄割拠の時代だから、これからの日本は地域・群雄割拠の時代を向かえることになるだろうかと書いたけれど、このような地域が増えてくれば満更空絵事ではないかもしれない。ただしこれからの群雄割拠は、近代民主政治制度下で「ヒト・モノ・カネの複合統治」を目指すべきだし、個人の「精神的自立の重要性」を忘れてならないけれど。

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地方の時代 III

2015年02月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『33年後のなんとなく、クリスタル』田中康夫著(河出書房新社)つながりで、『「脱・談合知事」田中康夫』チームニッポン特命取材班著田中康夫監修(扶桑社新書)および『日本を MINIMA JAPONIA』田中康夫著(講談社)の二冊を読んだ。

 田中長野県政は2000年10月から2006年9月まで6年間続いた。『「脱・談合知事」田中康夫』は2007年3月初版発行だから県政が終わってから、『日本を MINIMA JAPONIA』は2006年6月第一刷発行だから、まだ田中氏知事時代の出版ということになる。後者の巻末には、2005年に結成された「新党日本」代表としての田中氏の政治哲学注釈「ミニマ・ヤポニア―日本を)」横組95ページがある。

 『「脱・談合知事」田中康夫』は、大手ゼネコンの元課長から地元の建築コンサル、中堅建築会社社長、村長、弁護士、県の土木系職員などへの取材を基にした本で、県レベルにおける談合政治の実態が良くわかる。最終章には「脱・談合ニッポン実現のために」という田中氏の特別寄稿文がある。

 『日本をMINIMA JAPONIA』は出版から9年経つが、談合政治との決別、箱モノ行政からの転換、脱ダム宣言、コモンズに根ざした介護と教育、林業再生、開かれたメディア対応、ノブレス・オブリージュなど、地域行政に必要と思われる項目がすでにほぼ網羅されている。章立てを記しておこう。

序 章 「怯まない」「屈しない」「逃げない」
第1章 三位一体改革のまやかし
第2章 箱モノ行政からの転換
第3章 信州から変えるニッポン
第4章 「コモンズ」に根ざした介護と教育
第5章 雇用を生み出す信州スタイル
第6章 林業再生
第7章 「『脱ダム』宣言」で問う公共事業
第8章 権力化したメディアを溶解させる
第9章 エリートを否定するな
第10章 田中康夫のよる「田中康夫」論
MINIMA JAPONIAミニマ・ヤポニア

 この二冊の本は、『33年後のなんとなく、クリスタル』の註のうちヤスオの政治活動に関する部分の拡大版でもあると思う。『33年後〜』を読んでヤスオの政治活動に興味を覚えた人にとって、この二冊はさらに理解を深める為の必読書といえるだろう。『日本をMINIMA JAPONIA』は、本の構成も縦組の本文と巻末横組のページということで『33年後のなんとなく、クリスタル』と似ている。

 それにしても、長野県民は2006年9月からの新知事になぜ田中氏を再選しなかったのだろう。2011年の3.11以降、脱ダム宣言に見られる自然との共生理念はその重要性を増しているというのに。

 『「脱・談合知事」田中康夫』の付録としてある47都道府県の知事プロフィールを見ると、その7割もが霞ヶ関と県庁役人出身だ。今も(知事の顔ぶれや制度は変わっても)実態はあまり変わっていないのではあるまいか。

 田中氏は、『「脱・談合知事」田中康夫』の最終章「脱・談合ニッポン実現のために」の冒頭、次のように書く。

(引用開始)

 談合とは何ぞや、という話の前に、私が三選されなかった理由ですか?
 実は先日もその答えを、TV局で一緒になった自由民主党の国会議員から聞かされたばかりでした。
 あなたは利権を配らなかったからねぇ。それどころか、47都道府県知事で唯一、一般競争入札を全面的に導入して、利権そのものを作ろうとしなかった。敗因は、これに尽きるよ、と。
 続けて、彼から“助言”まで受けました。
 適当に妥協しておけば良かったんじゃないの。「改革派」と最後まで新聞んでは持ち上げられ続けて、逮捕とは無縁で引退していく他県の知事の中にだって、県議員一人ひとりに毎年一か所は、希望の公共事業を無条件で認めてあげるから、と甘い言葉を囁いて、議会対策を抜かりなく進めていたりする人が殆(ほとん)どだから、と。

(引用終了)
<同書 152ページ>

このブログではこれまで「地方の時代」や「地方の時代 II」などの項で、新しい国づくりは地方都市から始まると述べてきた。その理由について、

(引用開始)

「若者の力」の項でみたように、地方都市の魅力が高まっていることが一つ。新しい「コト」が起きるためには、ある程度小さな規模の枠組みが必要なことがもう一つ。一方、大規模都市にはgreedとbureaucracyと、それを許し続ける「心ここに在らず」の大人たちが大勢棲みついていることが第三の理由だ。

(引用終了)
<「地方の時代」より>

と書いたけれど、阻害要因である「心ここに在らず」の大人たちは、県レベルにはまだまだ大勢棲みついているようだ。

 この二冊を精読してこれからの時代に備えたい。2000年代前半の田中県政はその先駆けなのだから。特に、『日本をMINIMA JAPONIA』巻末にある「ミニマ・ヤポニア―日本を)」は、著者渾身の政治哲学書だと思う。

 尚、『33年後のなんとなく、クリスタル』については、「しなやかな<公>の精神」、姉妹サイト『百花深処』<日本の女子力と父性について>、<向き合うヤスオと逃げるハルキ>の各項をお読みください。

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空き家問題をポジティブに考える

2014年10月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『空き家問題』牧野知弘著(祥伝社新書)と『「空き家」が蝕む日本』長嶋修著(ポプラ新書)を読んだ。まず隈研吾氏の新聞書評を紹介しよう。

(引用開始)

 2040年の日本では、10軒のうち4軒が空き家になるそうである。
 ショックである。少子高齢化とか出生率の低下というと、何かヒトゴトで抽象的な社会現象に思えて、リアリティがない。しかし「町に空き家が溢れる」と聞き、さらに、これが地方の過疎地だけの問題ではなく、東京も空き家だらけになるという科学的予想に接し、暗澹たる気分になった。読了して町を歩くと、空き家ばかりが目にはいってきて、東京が低層スラムにみえてきた。空き家率3割を超えると、途端に治安も悪化するらしいから、すぐ明日の話である。
 原因についての分析も興味深い。高度成長が終わり、少子高齢化の低成長時代に突入しているにもかかわらず、家を新築させることで、景気を浮揚させようという政策が慢性的に続いたこと。その政策に頼って収益をあげてきた民間企業も、政策に甘え、新しいライフスタイルに挑まなかった。この「戦後日本持ち家システム」とも呼ぶべきものがついに破綻を迎えつつあり、それが「空き家」という具体的な形で、僕らの目の前につきつけられたわけである。
 しかも、ここには戦後システムの劣化という直近の難題を越えた、深い問題が顔をのぞかせているようにも感じた。人にとって、本当に「家」というハコは必要なのかという大問題である。「家」という高価なハコを所有していれば、とりあえず一人前であり、「幸せ」であることになっていたけれど、その「幸せ」の実態は何だったのか。さらにその先には、「家」という器のベースである「家族」の必要性、家族形態のあり方はこれでいいのか。さらに深掘りすれば、人間が空間という曖昧で手のかかるものをそもそも私有できるのか。私有してどんないいことがあるのか。人類史の根本にまで、思考が到達せざるを得ないようなこわさがあった。

(引用終了)
<朝日新聞 9/7/2014、フリガナは省略>

今回はこの空き家問題を、「モノコト・シフト」と「経済の三層構造」の観点から、ポジティブに考えてみたい。

 モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による、「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。「経済の三層構造」とは、「経済」=「自然の諸々の循環を含め、人間を養う社会の根本の理念・理法」という定義の下、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という形でその構造を区分したものだ。このブログでは、モノコト・シフトの時代、人々の関心は、経済三層a、b領域のうち、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)、そして「コト経済」(a、b両領域)に向かうものとしている。

 家とは器であり「モノ」であるから、当然、経済三層構造の中の「モノ経済」に属す。このうちa領域のための家は、生活必需品としての住まいなので人口が減っても必要だ。いま問題になっている「空き家」とは、そういった「モノ経済」a領域の家ではなく、それ以外、住人のいない家、相続しただけの家、セカンドハウスなどだから、「モノ経済」b領域の家である。これらの家は、モコト・シフトの観点からして、そのままではあまり関心が持たれなくなってくる。

 それではどうしたら良いか。書評に「家を新築させることで、景気を浮揚させようという政策が慢性的に続いたこと。その政策に頼って収益をあげてきた民間企業も、政策に甘え、新しいライフスタイルに挑まなかった」と描かれた「bureaucracy(官僚主義)」の排除は勿論必要だが、ビジネスとしては、モノコト・シフト時代への対応として、それらの家をできるだけ「モノ経済」a領域と、「コト経済」b領域へシフトさせることが求められる。

 『空き家問題』の第4章には、数々の処方箋が述べられている。詳しくは同書をお読みいただきたいが、ここで指摘したいのは、それらの処方箋、市街地再開発手法の応用、シェアハウスへの転用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用などが、どれも「モノ経済」b領域から、「モノ経済」a領域、「コト経済」b領域へのシフトであるということだ。複合型もあるから一概には言えないが敢て分ければ、

「モノ経済」a領域へのシフト:市街地再開発手法の応用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体

「コト経済」b領域へのシフト:シェアハウスへの転用、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用

といったところか。

 この「モノ経済」aと「コト経済」b領域へのシフトという観点にフォーカスすれば、空き家の使い道はまだまだ考えられる。スモールビジネスとしては、とくに「コト経済」b領域へのシフトが有望だと思う。上の例とも被るが、スモール・ショップや地産地消の飲食店、小さな美術館、コンサート会場、図書館、各種イベント会場、共有セカンドハウスなどなど。つまり、「人と外部との相互作用全般」を司る場所という観点で空き家を考えれば、その用途は無尽蔵なのである。

 こういった目で町を歩けば「空き家ばかりが目にはいってくる」というよりも、最近いたるところに小さなショップやシェアハウスが出来はじめている、と気付くのではないだろうか。モノコト・シフトはすでに街角から始まっているのだ。皆さんが起業した会社、もしくは働いている会社がこういった分野に関わっているのであれば、是非この項を参考にして、増える空き家を活用していただきたい。

 尚、今回同様「モノコト・シフト」と「経済の三層構造」による分析手法で、ビール業界について考察した項もある(「ビール経済学」)。併せてお読みいただければ嬉しい。

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シェア社会

2014年05月06日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『シェアをデザインする』猪熊純・成瀬友梨・門脇耕三編著(学芸出版社)という、「シェア社会」についての報告とディスカッションの本を読んだ。副題に「変わるコミュニティ、ビジネス、クリエーションの現場」とある。まず、建築家隈研吾氏の新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 私有からシェアへという、パラダイム転換が、今、あらゆる領域、あらゆる場所で話題になっている。その転換で、われわれの生活、社会はどう変わるのか。実践者たちの声を通じて、その実態が、具体的に語られる。
 なかでも、最も耳目を集めているのは、シェアハウスという、一種の共同生活スタイルのアパートである。多少、家賃が割高でも、仲間とリビングやダイニング、水周りを共有して暮らせる、この新しい集合住宅は、若者のみならず、中高年の単身者からも、さみしくない老後のための新しい共同体のあり方として、がぜん注目されている。しかもシェアという方法が、居住スタイルにとどまらず、生産、消費、創造を含む社会のすべての領域に拡大しつつある現状を、本書は生々しく記述する。
 日本は、このシェアという方法で、世界をリードできるのではないかという可能性も感じた。少子高齢化で、高度成長期に築きあげた莫大(ばくだい)なボリュームの建築群が、一気に余りはじめているからである。シェアは日本の都市自体をリノベーションする、新しい方法論でもありうる。
 シェアが日本的であると感じたもうひとつの理由は、日本人が持っているやさしさが、日本社会のセキュリティーの高さ、犯罪率の低さが、シェアというゆるいシステムの適合しているからである。シェアハウスは、実は、日本の昔ながらの下宿屋の再来という説もあって、シニアには昭和のなつかしい香りもする。1990年代以降の社会、経済的停滞、特にかつて日本をリードしていた大企業の不振と無策とによって、シェアシステムが活躍する隙間が、無数に出現したことも、本書から見えてきた。その意味で、シェアは日本社会にとって、起死回生の策となるかもしれない。経済のグローバル化に乗り遅れたかに見える日本が、再び先にたつための、強い武器になるかもしれない。

(引用終了)
<朝日新聞 2/23/2014)

本カバーの帯には、ディスカッションに参加した17人の名前とともに、「今、何が起こっているのか?会社員でもフリーでも、個人ベースで働く/コラボレーションが新しい仕事を生み出す/共感を呼ぶ不動産活用が、ストックの価値を高める/無数のクリエーターとのつながりが、イノベーションを起こす」との紹介文がある。

 この本の構成は、

プロローグ
1.コミュニケーションのシェア
2.シェアのビジネス
3.クリエイティビティのシェア
4.社会のバージョンアップ
エピローグ

となっている。その「2.シェアのビジネス」の最後の方に、

(引用開始)

関口 シェアの付加価値は大きく分けて二つあって、ひとつめが、合理的かつ経済的な付加価値。たとえば一人で暮らすと最低限のキッチンしか持てないところ、大勢で住めばもっとグレードアップした、業務用のキッチンさえ持てちゃいますよ、というようなことです。二つめは、情緒的価値。つまり、そもそも人が集まっていると、単純に楽しいんですね。出会いがあったり、目標を達成した時の高揚感を共有できたり、あるいは、互いに切磋琢磨したり、刺激を受けられたりする。その二つかなと思います。

(引用終了)
<同書 134ページ>

とある。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

に当て嵌めれば、「合理的かつ経済的な付加価値」はA、a系のメリット(効率)、「情緒的価値」はB、b系のメリット(効用)ということだろう。

 シェアは「棚に陳列されたモノ」ではなく「人同士に起こるコト」であり、シェア型経済においては、焦点が「モノからコト」へシフトしてゆく筈だ。だからこの本は、シェアから見るモノコト・シフト時代(モノよりもコトを大切に考える新しいパラダイム)の現場報告ともいえる。隈氏が指摘するように、日本がシェア社会の最前線に立てるとしたら素晴らしい。

 「3.クリエイティビティのシェア」にあるクリエイティブ・コモンズの考え方は、成果をシェアするとさらに良いコトが起こる、という意味で、「コト経済」の基本ルールとして捉えることもできそうだ。「経済の三層構造」の項で述べたように、経済は「コト」「モノ」「マネー」の三層構造になっていて、「コト経済」とは、生命の営み、人と外部との相互作用全般を指す。それは本来、互助的な性格のものなのだ。

 シェアについては、以前「“シェア”という考え方」「“シェア”という考え方 II」という項を書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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ヒト・モノ・カネの複合統治

2014年01月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「nationとstate」の項で、

(引用開始)

 これからのstateの統治のあり方は、他の地域でも、EU方式の延長線上にあるのではないだろうか。すなわち、ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること。それが、これからのstateの統治に求められるのではないだろうか。

(引用終了)

と書いた。今回は引き続きこのことについて考えてみたい。ヒト・モノ・カネは、「経済の三層構造」それぞれの主役である。

「コト経済」<主役:ヒト>

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」<主役:モノ>

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」<主役:マネー>

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という具合だ。

 「nationとstate」の項で述べたように、stateのあり方は、nationの側でその「理念と目的」を定めるわけだから、『ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること』とは、nationに帰属する人々が、その「理念と目的」に基づき、自らの「コト経済」(a、b)、「モノ経済」(a、b)、「マネー経済」(a、b)、それぞれについて、その「居場所と機構」(と各層の連携)を考えることに他ならない。

 モノコト・シフトの時代、多くの人々の間では、特にa領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」(a、b両領域)に対する親近感が増す。一方で、一握りのgreed(過剰な財欲と名声欲)に囚われた人々の間では、「マネー経済」、特にb領域への(国境を越えた)固執が強まるだろう。

 これらを前提に、たとえばnationを「○○流域人」と仮定し、そこでは、ある程度の農業資源があり、観光資源も豊富だったとしよう。その場合、

「コト経済」<主役:ヒト>

a: 生命の営みそのもの →「地域密着の福祉型」
b: それ以外、人と外部との相互作用全般 →「芸術立国を目指す」

「モノ経済」<主役:モノ>

a: 生活必需品 →「多品種少量生産」
b: それ以外、商品の交通全般 →「輸出入で賄う」

「マネー経済」<主役:マネー>

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤 →「地域通貨+グローバル通貨」
b: 利潤を生み出す会計システム →「特区の設置」

といった基本方針が考えられる。「○○流域国(state)」は、その「理念と目的」を国内外に明示し、この基本方針に沿って、ヒト・モノ・カネの複合統治システムを設計すれば良い。ただし、安全保障や外交に関しては、隣国や他国と条約を結ぶ必要がある。

 勿論、現実には様々な柵(しがらみ)があって、「○○流域国」の樹立は空想的だが、モノコト・シフトが進行する中、そう遠くない将来、人々はこのような道筋で、自分たちの暮らすstate(居場所と機構)について、考えを巡らすようになると思うがいかがだろう。

 この「ヒト・モノ・カネの複合統治」、別の角度から見れば、以前「世界の問題と地域の課題」や「地方の時代 II」の項で指摘した世界の問題点:

1.コーポラティズム、官僚主義、認知の歪み
2.環境破壊
3.貧富格差の拡大

に対する改善策の一つとして捉えることも出来る。

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nation と state

2014年01月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『老楽国家論』浜矩子著(新潮社)を読んでいたら、nationとstateに関して、次のような文章があった。

(引用開始)

 国民国家を英語でいえば、nation stateである。nationが国民すなわち人々だ。stateが国家である。国民国家という日本語を使うと、どうも、国民と国家が表裏一体・渾然一体となっている感が強くなる。だが、nation stateと言い替えてみると、いささかイメージが違う。人々の集団としてのnationがある。その集団を構成員とし、その集団のために存在する居場所と機構としてのstateがある。こんな感じである。

(引用終了)
<同書 81ページ>

nationとは、文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団、すなわち民族や国民を意味し、stateとは、その集団の居場所と機構を意味するという。日本は、歴史的な経緯から「民族・国民」と「国家」の一体性が強いが、二つは必ずしもイコールではないわけだ。

 以前「里山システムと国づくり」の項で、「民族国家」という概念は20世紀の遺物なのではないだろうか、と述べたけれど、ここで、改めてnation(民族・国民)とstate(国家)について考えてみたい。

 まずnationについて考えてみよう。このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代、すなわち、モノよりもコトを大切にする生き方・考え方の時代だと指摘してきた。それは、20世紀の大量生産・輸送・消費システムと、人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ“行き過ぎた資本主義”に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」による“モノ信仰”の行き詰まりに対して生まれた、新しい時代のパラダイムだ。

 人々が共有する価値観を紡ぐ“コト”は、常に「場所」において生じる。従って、モノよりもコトを大切にする集団の規模は、“モノ信仰”の時代よりも、小さなものになると思われる。勿論、集団の文化や言語、宗教や歴史、あるいは経済状況によってその規模はまちまちだろうが、総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を高めると思われる。スペインのバスクとカタルーニア地方、イタリアの北部同盟、イギリスのスコットランド、日本の沖縄などなど。そもそも1991年のソ連崩壊はその前兆だったのかもしれない。

 次にstateについて考えてみよう。nationと違い、stateは人々の「居場所・機構」である。従ってそれは、人々の間で合意された「理念と目的」に基づいて、合理的に統治・運営されなければならない。『老楽国家論』で浜氏は、

(引用開始)

 国家とは、基本的に国民を顧客とするサービス業だ。顧客満足度の極大化こそ、国家の仕事だ。

(引用終了)
<同書 88ページ>

と述べておられる。今は、ヒト・モノ・カネが国境を越える時代だ。nation(民族・国民)という括りへの分裂圧力と、ヒト・モノ・カネの流動性の強まり。そういう時代、state(集団の居場所・機構)の統治は、昔に較べて、遥かに複雑なものにならざるを得ないと思われる。その一例が欧州連合(EU)の統一通貨政策だろう。ヒト・モノとマネー管理を分離することで複雑な時代に対応しようとしているわけだ。

 これからのstateの統治のあり方は、他の地域でも、EU方式の延長線上にあるのではないだろうか。すなわち、ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること。それが、これからのstateの統治に求められるのではないだろうか。ヒト・モノ・カネを一元的に管理・運営しようとする(民族国家のような)統治は、これからの時代にそぐわないものになってきていることは確かだと思われる。

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流域地図

2014年01月07日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『「流域地図」の作り方』岸由二著(ちくまプリマー新書)が出た。副題に「川から地球を考える」とある。このブログでは、「山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える発想」=流域思想(もしくは流域思考)を、「流域思想」や「流域価値」の項などで紹介してきたが、これはその提唱者である岸氏の新著で、地図作りという遊びを通してその思想を伝えようという、いわば流域思想の入門書だ。まずは新聞の紹介記事によって本の内容を紹介しよう。

(引用開始)

 温暖化や生物多様性危機で変貌する地球環境について、川を軸にして広がる「流域」から考察した環境革命の入門書。
 まずは身近な川で流域地図を作ってみる。道路地図などを用意して、自宅周辺の川を探し、源流と河口をたどる。すると川が最源流につながる本流に支流が合流して大きな流れになっていることが分る。その本流と支流を合わせ水域といい、水域を中心にして広がる雨の集まる大地の範囲を「流域」と定義するそうだ。その流域を一つの単位として、エネルギーや流通の要としての川の役割、生物たちの食物連鎖、そして水循環から地球規模の課題までを考察する「流域思考」の勧め。

(引用終了)
<日刊ゲンダイ 12/12/2013>

 地図といえば、私は相当なマップラバーで、パノラマ地図や立体地図に目がない(「立体地図」)。流域地図は、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして描くわけだから、それこそパノラマや立体地図に相応しい。日本の109の一級河川(やその他の川)を、源流から、支流、河口まで辿る立体地図があったらどんなに有意義で、且つ楽しいことだろう。しかし、岸氏も本書で述べているが、市販の一般的な流域地図はまだ存在していないようだ。

(引用開始)

 市販の一般的な流域地図はまだ存在していないので、いまはまだ、必要とする個人や団体などが自力で描くほかはない。もっとも有望なインターネットの地図サービスの領域でも、本文でもふれた「Yahoo!」の水域マップまでが現状で、どこでもボタンひとつで地域の流域配置がわかるようなサービスは、まだない。

(引用終了)
<本書 153ページ>

 インターネットを使った流域地図サービス、視点を360度自由に操作したり、拡大や縮小が可能な流域立体地図を作成・提供するのは、技術的にはそれほど難しくないはずだ。「流域価値」の項で述べたように、流域によって生み出される分散型エネルギー、街づくり、文化価値などは、モノコト・シフト時代における重要な基盤となる。そういうビジネス(流域地図作成・提供)を立ち上げたいとお考えの出版社、もしくは起業家がいれば、私も是非お手伝いしたいと思う。

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本当の地域再生

2013年12月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『地域再生の罠』久繁哲之介著(ちくま新書)という本を共感しながら読んだ。いろいろな都市の失敗例に学びながら、本当の地域再生を考える本。まずは新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 「失敗学」を提唱するアナリストが書いた本書は地域おこしの必読書として有名。地域再生施策の大半は「成功事例にならう」という発想を基本にしているが、この「成功模倣主義」は2つの点で大問題という。
 第一に、専門家が推奨する成功事例の多くは実は成功していない。また「本当の成功」話はたいてい外国や昔の話で実際には役立たないことのほうが多いのだ。本書は成功例とされる宇都宮、松枝、長野、福島、岐阜、富山をくわしく分析。そこから得た教訓として「地方自治と土建工学」のいびつな関係を批判する、地元おこし関係者のみならず、住民運動や一般の生活人としても考えたいテーマが目白押しだ。

(引用終了)
<日刊ゲンダイ 10/29/2013>

ここに「土建工学」という面白い言葉が出てくる(失敗学については以前「失敗学」の項で解説した)。土建工学者とは、土木、建築、都市計画、都市工学における技術分野の学者の総称。彼らの発想は往々にして住民を置き去りにするという。同書カバー裏の紹介文も引用しよう。

(引用開始)

社員を大切にしない会社は歪んでいく。それと同じように、市民を蔑ろする都市は必ず衰退する。どんなに立派な箱物や器を造っても、潤うのは一部の利害関係者だけで、地域に暮らす人々は幸福の果実を手にしていない。本書では、こうした「罠」のカラクリを解き明かし、市民が豊になる地域社会と地方自治のあり方を提示する。

(引用終了)

ということで、この分野に興味がある人には大いに参考になる本だと思う。本の内容を、さらに章立てのタイトルから見ていただこう。

第1章 大型商業施設への依存が地方を衰退させる
第2章 成功事例の安易な模倣が地方を衰退させる
第3章 間違いだらけの「前提」が地方を衰退させる
第4章 間違いだらけの「地方自治と土建工学」が地方を衰退させる
第5章 「地域再生の罠」を解き明かす
第6章 市民と地域が豊になる「7つのビジョン」
第7章 食のB 級グルメ化・ブランド化をスローフードに進化させる
第8章 街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る
第9章 公的支援は交流を促す公益空間に集中する

 このブログでは、モノコト・シフト時代の産業システムの一つとして、食の地産地消を挙げているが、「食のB級グルメ化・ブランド化をスローフードに進化させる」という提案は、導入ステップとして分りやすい。「勝負の弁証法 II」の最後で述べたように、スポーツクラブも、モノコト・シフト時代に相応しい提案だ。第6章の「7つのビジョン」とは以下の通り。

ビジョン@「私益より公益」
ビジョンA「経済利益より人との交流」
ビジョンB「立身出世より対等で心地よい交流」
ビジョンC「器より市民が先に尊重される地域づくり」
ビジョンD「市民の地域愛」
ビジョンE「交流を促すスローフード」
ビジョンF「心の拠り所となるスポーツクラブ、居場所」

 また、第2章には、商店街再生へ向けての4つの提案がある。

1.車優先空間から「人優先空間」への転換 
2.出店者一人にリスクを押しつけず、「市民が安心・連携して出店できる仕組みを創る 
3.店舗個別の穴埋めをする発想をあらため、地域一帯の魅力を創造することを考える 
4.商店街の位置づけを「物を売る(買う)」場」から「交流・憩いの場」へ変える 

中でも最後のポイントは、モノコト・シフト時代を象徴する提案であろう。「経済の三層構造」の項で述べたように、これからは「モノ経済」以上に「コト経済」が重視される時代だからだ。

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里山システムと国づくり

2013年10月15日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “里山資本主義”藻谷浩介・NHK広島取材班共著(角川oneテーマ21)という本を読んだ。まずは本の内容について、新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

 中国地方を舞台に森林資源などを活用し、自然エネルギーの普及と地域再生に取り組む動きを紹介したNHK広島放送局制作の番組を活字にしたのが本書だ。「里山資本主義」は広島放送局のプロデューサーが考えた言葉である。
 同番組にも出演した藻谷氏は、里山資本主義を「マネー資本主義」を補完するシステムと位置付ける。大震災でエネルギーの原子力発電への依存に限界があることがわかった今、自然エネルギーの普及は急務だ。本書に登場する岡山県真庭市の銘建工業のように木質バイオマス事業に取り組む地域企業が増えている。
 耕作放棄地を使って自然放牧に取り組む若者や、空き家を転用した福祉施設で地元のお年寄りがつくる野菜を食材に使う話なども取り上げている。身近な資源を最大限に生かし、お金に過度に依存しない社会をつくる試みだ。
 藻谷氏はそれが現代人の不安や不信を解消し、高齢者の健康につながり、少子化を食い止める対策にもなると指摘する。地方の集落崩壊が人口の減少に拍車をかける一因になっているのは事実だろう。
 里山資本主義の先進国として紹介しているオーストリアの話が面白い。森林資源をエネルギーとして生かすだけでなく、木造の高層ビルも続々と増えている。日本でも強度に優れた集成材を普及させ、木造建築物に対する規制を緩和することが必要になる。

(引用終了)
<日経新聞 8/18/2013>

 以前「効率と効用」の項で書いたように、経済とは、「自然界の諸々の循環を含めて、人間を養う、社会の根本の理法・摂理」を意味する。里山資本主義は、これからの日本の経済システムとして、充分通用する考え方だと思う。

 「地方の時代」の項で、「新しい国づくりは魅力ある地方都市から始まる」と書いたけれど、里山資本主義こそ、地方都市発の国づくりに相応しい。統治とは国家経営であり、経営とは、集団の理念と目的の実現に努めることだから、国づくりにも「理念と目的」が必要だ。モノコト・シフト時代の国の「理念と目的」には、多様な「コト」の起こる環境や場を守る理念が入っていなければならない。里山資本主義が、これからの日本の国づくりに相応しい由縁である。

 これからの時代、そもそも、「国」が一方的に価値を縛る時代ではあるまい。「近代家族」同様、「民族国家」という概念は、20世紀の遺物なのではないだろうか。21世紀の国づくりには、全国各地の里山システムが、多様な流域価値を生み出し、それが繋がり、大河となって全体の価値観が形成される、といった重層的なプロセスが必要だと思う。この本にもあるが、里山システムが海外のそれと連携するといったことも積極的に行なわれるべきだ。むしろ、これからの国の「外交」は、そういった地方の連携の交通整理が主な仕事になるのかもしれない。そもそも政治とは、社会集団における利害の合理による調整なのだから。

 里山については、このブログでもこれまで「里山ビジネス」や「内と外 II」、「継承の文化」の項などで、いろいろと考察してきた。併せてお読みいただけると嬉しい。

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地方の時代

2013年09月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「女子力」の項で、日本の政治やビジネスにおいては「律令」主義を排して女性性=「関係原理」を取り入れることが必要になってくる、と書いたけれど、それは大規模都市からではなく地方都市から始まるように思う。

 「若者の力」の項でみたように、地方都市の魅力が高まっていることが一つ。新しい「コト」が起きるためには、ある程度小さな規模の枠組みが必要なことがもう一つ。一方、大規模都市にはgreedとbureaucracyと、それを許し続ける「心ここに在らず」の大人たちが大勢棲みついていることが第三の理由だ。そういう大人たちが大勢棲みついていると、多様性への対応の四段階、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

における「同化」圧力が高く、新しい「コト」が起こりにくい。起こしにくい。

 モノコト・シフト後の「新しい家族の枠組み」の価値観は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったことだ。だから、大量生産・輸送・消費に便利な大規模都市に住む理由はない。これからは、少品種少量生産、資源循環、食の地産地消、新技術の時代なのである。それを牽引するのは、理念と目的を持ったスモールビジネスと、その横の連携だ。

 さらに、このブログでは、モノコト・シフト後の新しい地域価値観として、「流域思想」というものを提唱している。流域思想とは、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心に、その流域を一つの纏まりとして考える発想のことで、これからの食やエネルギー、文化の継承などを考える上で重要な思想の一つだ。流域思想は、山岳と河川の豊な地方都市の方が、ビルに覆われた大規模都市よりも実践的である。これが、地方都市から新しい日本が生まれるであろう第四の理由である。

 勿論、大規模都市近辺にも魅力的な場所はある。「都市の中のムラ」の項ではそういう場所について述べた。大事なのは、そこに暮らす人々が精神的に自立できていること、そして、新しい価値観に対して寛容なこと。さらにそこに地域固有の流域価値があれば、黙っていても多くの若者たちが集まってくるだろう。

 以前「小さな町」の項で、イタリアの地方都市の新しい試みについての本を紹介し、

(引用開始)

日本も明治の開国から150年近く経つわけだから、そろそろ真剣に過去を見直して、新しい国づくりを考える時期に来ているのではないだろうか。

(引用終了)

と述べたけれど、新しい国づくりは、魅力溢れた地方都市から始まるといって良いと思う。

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アッパーグラウンド II 

2013年07月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き日本社会の今を検証するために、福島第一原発事故のドキュメント“メルトダウン”大鹿靖明著(講談社文庫)と、“死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日”門田隆将著(PHP)の二冊を読んだ。

 “メルトダウン”では、無能な政治家や無責任な官僚、原子力ムラ人たちのリーダーシップ欠如の詳細が描かれている。こちらは主にResource Planning型リーダーシップだ。村上春樹は“アンダーグラウンド”の最後に、地下鉄サリン事件を巡る責任回避型の社会体質は(戦争に突入した)それ以前と変わっていないと述べているが、今回の原発を巡る諸々の出来事は、それが今も全く変わっていないことを示している。

 “死の淵を見た男”では、先日亡くなった吉田所長を始めとする現場作業員たちの決死の努力が描かれている。こちらのリーダーシップは主にProcess Technology型だ。自衛隊と消防隊の協力も忘れてはならない。端的に言って、この人たちがいなかったら今の日本列島はない訳だ。それといくつかの僥倖があった。たとえば何故か4号機の燃料冷却プールの水がなくならなかった。しかし、また同じ事が起こったら今度こそ日本列島は使い物にならなくなるだろう。

 二冊の本により、原発事故の処理を巡って明らかになるのは、本部のResourcePlanning型リーダーシップの欠如と、現場のProcess Technology型リーダーシップとチームワークの力である。まさに地下鉄サリン事件や戦争の時と同じ構図だ。事故に当たり、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進める(社会基盤を効率的に運用する)ためのリーダーシップは前者Resource Planning型で、東京の政治家や官僚、原子力ムラの住人達の役目の筈だが、今回も(昔戦争に突入したときと同じく)機能しなかった。一方、福島の現場のリーダーシップは、正に原発システムの中に入り込んでそれを制御するわけだからProcess Technology型で、これは(与えられた過酷な環境下で)最大限機能したと思う。

 日本社会のResource Planning型リーダーシップの欠如の一端は、その言語構造(日本語の環境依存性構造)にあるというのが私の見立てである。詳細は、このブログのカテゴリ「言葉について」や「公と私論」をご覧戴きたいが、私はリーダーシップを二つの型に分けて、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進めるリーダーシップをResource Planning型、システムの中に入り込んで改善を行なうそれをProcess Technology型と呼んでいる。日本社会に欠如しているのは、このうちのResource Planning型だと思う。今の日本語はProcess Technologyには向いているが、Resource Planningには向いていない。英語は逆にResource Planningには向いているが、Process Technologyにはあまり向いていないというのが私の持論だ。勿論今の日本語を鍛えることはできる。

 村上春樹は、2010年の“1Q84”で、リトル・ピープルに象徴される20世紀的価値観が崩壊した世界を描いたわけだが、「世界の問題と地域の課題」の項の最後で触れたように、最新作“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”ではそのテーマは足踏み状態だ。この本では、日本社会の問題は「人々の人生は人々に任せておけばいい。それは彼らの人生であって、多崎つくるの人生ではない」(351ページ)として傍観している。好意的に考えれば、今回は東日本大震災後の共同体に暮らす個人の内面に焦点を当てた為だと思われる。村上春樹は長年鍛えた自分の日本語(表現)によって、いずれこの問題に切り込んでいくだろう。そう願いたい。

 とここまで書いて、2011年に出版された“小澤征爾さんと、音楽について話をする”(新潮社)のことを思い出した。誰もそういう読み方をしていないけれど、この作品は、単にクラシック音楽界のことではなく、“アンダーグラウンド”で戦後日本の挽歌を書いた村上氏が、同じ戦後日本へのポジティブなオマージュとして、国際舞台で活躍する小澤征爾という「最も良き戦後の日本人」を一度は描いておこうと思い立って出来た作品ではあるまいか。その意味ではだれでも良かったのだけれど、あのタイミングで全ての条件に合ったのが小澤征爾だったのだと思われる。そう考えて作品のタイトルを見ると、“音楽についての話をする”ということで殊更“音楽”が強調されている。神戸大震災が主人公なのに“神の子供たちはみな踊る”、戦後日本が主人公なのに“アンダーグラウンド”、東日本大震災が主人公なのに“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”、といった形で作品を書いてきた村上氏の「ひそかな韜晦術」を見る気がするがいかがだろう。それはそれで村上氏らしい確信犯的韜晦だ。

 それにしても、今の日本は、世界的潮流としてのモノコト・シフトや、地域特有の兆候(高齢化、人口の減少など)に相応した社会基盤の構築が急務だと思う。社会基盤の不備とgreedとbureaucracyによる自由の抑圧システム。この二つの犠牲者は我々自身である。たとえば連日どこかで繰り返される「人身事故」のアナウンス。私を含めて人はみな遅刻を気にして舌打ちする。我々の同胞の一人が、システムの犠牲になっていまこの近くで命を失った(かもしれない)にも拘らず!本当は、誰にも犠牲者を哀悼する気持ちはあると思う。でも忙しさなどからその気持ちを無意識に抑制してしまうのだ。その小さな隠蔽が、人々の心ここに在らずの状態(認知の歪み)をさらに助長していく。

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アッパーグラウンド

2013年07月16日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “アンダーグラウンド”村上春樹著(講談社文庫)を読んだ。1995年3月20日(月曜日)、都内の地下鉄で何が起こり、被害者が何を考えどう行動し、そしてその後どういう状況に置かれたのか。

 膨大なインタビューを通して浮かび上がるのは、通勤地獄と長時間勤務に耐える「近代家族」の姿と、非常時に社会基盤(インフラストラクチャー)を効率的に運用できないResource Planning型リーダーシップの欠如だ。このドラマの主人公は1995年の日本社会そのものだと思う。だからこの項のタイトルは、アンダーグラウンドではなく、アッパーグラウンド(地上)とした。

 リーダーシップには二種類ある。一つは、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進めるResource Planning型、もう一つは、システムの中に入り込んで改善を行なうProcess Technology型である。今の日本語的発想は、環境に同化しやすいので、後者には強いが前者には弱い。

 「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、21世紀に入って、家族や労働のあり方に対する価値観は、根本的に変わってきている。これは、このブログで指摘している“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(略してモノコト・シフト)に呼応した世界的潮流だ。

 20世紀的価値観は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったものだったが、「新しい家族の枠組み」の価値観は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったことだ。勿論、両者は当面斑模様のように混在する。

 新しい家族や労働のあり方に関する価値観は、新しい産業システムと、それを支えるエネルギーや交通、住宅や社会保障などの社会基盤を必要とする。20世紀的価値観における産業システムは、基本的に、大量生産・輸送・消費だったから、それを支える社会基盤も、高度な交通網、郊外団地、終身雇用を前提とした年金制度などが用意されたわけだ。

 価値観が変われば、それに相応しい産業システムも変わる。日本におけるモノコト・シフトでは、その社会的事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に応じて、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった産業システムが相応しいことは、「世界の問題と地域の課題」の項で述べた。

 あの事件から18年後の2013年現在、家族や労働のあり方に関する価値観が変わってきているにも拘らず、Resource Planning型リーダーシップの欠如の方は相変わらずだ。

 本来、これからの社会基盤は、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムを支えなければならないのに、Resource Planning型リーダーシップの欠如によって、そちらは、旧態然とした大量生産・輸送・消費の産業システムを支えるままなのだ。老朽化も目立っている。「新しい家族の枠組み」の項で、

(引用開始)

 日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。

(引用終了)

と書いたけれど、社会基盤の方が旧態然としたままだから、多くのまともな人々も、心ここに在らずの状態で、20世紀型の通勤地獄と長時間勤務に従っている、というのが日本社会の(少なくとも東京の)現状ではないだろうか。

 村上氏が“アンダーグラウンド”を書き上げたのは1997年のことだ。まだ「モノコト・シフト」や「新しい家族の価値観」はその全貌を現していないけれど、この作品は、村上氏の作家的直感による「近代家族と戦後的日本」への挽歌ともいえると思う。村上氏は“アンダーグラウンド”のあと、日本社会のアッパーグラウンド(地上)を、“スプートニクの恋人”、“海辺のカフカ”、“アフターダーク”と追いかけていき、2010年“1Q84”に至るわけだが、そこでは、リトル・ピープルに象徴される20世紀的価値観が崩壊した世界が描かれている。以前「1963年」の項で、村上氏は「現実は1984年以降、暗澹たる“1Q84”の世界に迷い込んだままだ」と言いたいのかもしれないと書いたけれど、その作品発想の種は、“アンダーグラウンド”の頃に生まれたのだろう。

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里山と鎮守の森

2013年07月11日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “森の力”宮脇昭著(講談社現代新書)という良い本を読んだ。まずは新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 副題は「植物生態学者の理論と実践」。1970年代から世界各国で植樹を推進する著者は、日本全国で鎮守の森に代表される土地本来の環境の総和から導かれた「潜在自然植生」を調査し、それをもとに「ふるさとの森」再生にとりくんできた。現在進行する、被災地のがれきも使った災害に強い自然の復元のためのプロジェクトにいたるまでを概説する。

(引用終了)
<朝日新聞 5/19/2013>

 今回この本を読んで特に腑に落ちたのは、その土地本来の樹木(潜在的自然植生)と、里山のそれとの違いだ。「里山ビジネス」の項で述べたように、里山は、人の生活を支える資源循環のシステムである。だから土地本来の樹木を植えるわけではない。本書から、その違いの部分を引用しよう。

(引用開始)

 里山と言われて親しまれてきた雑木林もまた土地本来の森ではありません。雑木林とは、国木田独歩の『武蔵野』や徳富蘆花の『自然と人生』に出てくるようなクヌギ、コナラ、エゴノキ、ヤマザクラなどの落葉広葉樹林で、長い間それが自然の森だと思われてきました。学会でも一九六〇年代半ばまでそれが定説でした。
 しかし、わたしがドイツで学んだ潜在自然植生の概念からすると、それもまた土地本来の森ではないのです。
 里山とは、何百年もの間、人間が薪や木炭をつくるための薪炭林として定期的に伐採したあとの切り株から芽生えが生長した「伐採再生萌芽林」であり、二〜三年に一回の下草刈りや落ち葉掻きなどの人間活動の影響下における代償植生、置き換え群落として持続してきたのが雑木林です。化学肥料が無かった時代に、あくまでも人間が肥料・飼料・建築材などの「資源」として利用するために管理してきた二次林なのです。
 つまり、都市公園の中や地域の散策の場としては、数百年から人間活動と共存し、人間が手入れしてきた雑木林が好ましい。その一方で、環境保全機能や災害防止機能を重視するのであれば、潜在自然植生に基づく土地本来の森が望ましいと言えます。

(引用終了)
<同書 71−72ページ(ふりがな省略)>

潜在自然植生に基づく森は、一度木々を植えてしまえば、そのあと余り手を掛ける必要がないという。だから流域の環境保全や災害防止に向いているのだ。里山と長く親しんできた日本人は、「潜在自然植生」のことを忘れ、戦後、いたるところに生育が早くまっすぐ伸びて使いやすい、しかし手入れの必要なマツ、スギ、ヒノキを造林してしまったということらしい。

 日本の潜在自然植生は、照葉樹林(常緑広葉樹林)地域ではシイ、タブ、カシ類、落葉(夏緑)広葉樹林ではブナ、ミズナラ、カシワなどが主木だという。それらは、いまも地域の「鎮守の森」に残っているという。これからの日本の植林は、「里山」と「鎮守の森」とのバランスを考えていく必要がありそうだ。

 紹介文にもあるとおり、宮脇氏は、東日本大震災後の防潮提林を潜在自然植生によって作ろうというプロジェクトを進めておられる。くわしくは本書をお読みいただきたいが、宮脇方式の植樹方式においては、木を植えるマウンド(丘)づくりが必要で、その基礎に被災地の瓦礫が使えるという。とても優れたアイデアだと思う。プロジェクトはすでに、宮城県岩沼市の沿岸部などで、「千年希望の丘」事業として始まっているようだ。

 尚、宮脇氏の本は、以前「森の本」の項でも紹介したことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。私は木がとても好きだ。これからもその植生や効用について勉強していきたい。

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小さな町

2013年05月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “スローシティ”島村菜津著(光文社新書)という本を興味深く読んだ。サブタイトルに“世界の均質化と闘うイタリアの小さな町”とある。まず本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

日本を覆っていく閉塞感の一つに、私は、生活空間の均質化というものがあるように思う。郊外型の巨大なショッピングモール、世界中同じような映画ばかり上映するシネコン、画一的な住宅街、駅前や国道沿いに並ぶチェーン店……。だが、私たちにこの世界の均一化から逃れるすべがあるのだろうか。世界のどこにもない個性的な町など、おとぎ話に過ぎないのか。
そんなことを自問しながら、私はイタリアの小さな町を訪ねた。スローシティやイタリアの美しい村連合に共鳴した小さな町、ショッピングモールの締め出しに成功した町、フェラガモが創り上げた大農場やオーガニックの父と呼ばれた人物の住む村―――。
グローバル化社会の中で、人が幸福に暮らす場とは何かということを問い続け、町のアイデンティティをかけて闘う彼らの挑戦に、その答えを探る。

(引用終了)

 先日「世界の問題と地域の課題」の項で書いた、「世界の問題」の一つの表質形態が「世界の均質化」だと思う。「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、産業システムとして効率の良い大量生産・輸送・消費へ向かうから、結果として生活空間の均質化を招く。この本のサブタイトルにある“世界の均質化と闘うイタリアの小さな町”という言葉は、この世界問題に対処するイタリア人たちの方法の一つが、「小さな町」を作ることだと語っている。

 一方、世界は21世紀に入り“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代を迎えている。「場所のリノベーション」の項などで述べたように、「世界の均質化」は「コトの起こる場所」の喪失でもあるわけだから、「小さな町」づくりは、モノコト・シフトの最前線でもあることになる。

 私はイタリア社会の事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に明るい訳ではないけれど、「カーブアウト III」の項などで紹介した“ボローニャ紀行”井上ひさし著(文藝春秋)を読むと、イタリア地方都市の自治に関する伝統の一端が伺える。日本も明治の開国から150年近く経ったわけだから、そろそろ真剣に過去を見直して、新しい国づくりを考える時期に来ているのではないだろうか。日本でも、このイタリアの試みは大いに参考になるのではない筈だ。島村氏も、本の最後に「場所のセンスを取り戻すための処方箋」と題して、日本でも応用できる没場所化を克服するためのポイントを箇条書きにまとめておられる。詳細は本書をお読みいただくとして、以下そのポイントを列挙しておこう。

1.交流の場をどんどん増やそう
2.魅力的な個人店は、意地でも買い支えよう
3.散歩をしながら、地元のあるもの探しをしよう!
4.ゆっくり歩いて楽しめる町を育てよう!
5.どうせやるなら、あっと驚く奇抜な祭りを!
6.水がただで出てくるありがたさを今、噛みしめよう!
7.エネルギー問題は、長い長いスパンで考えてみよう
8.そろそろ、人を惹きつけるような美しい町を創ろう

ということで、話はこのブログのカテゴリ「街づくり」や「起業論」の各項へと繋がっていく。イタリアの小さな町の試みに想いを馳せつつ、地元で何ができるか考えよう。スモールビジネスのチャンスもあるに違いない。尚、島村氏については、以前「元気なリーダー」や「牡蠣の見あげる森」の項でもその著書を紹介したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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古層の研究

2013年04月01日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “中央線がなかったら見えてくる東京の古層”陣内秀信・三浦展共著(NTT出版)という面白い本を読んだ。まずは新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 東京の西部を東西に走るJR中央線。沿線には人気の住宅街が広がり、大きな存在感を示している。だが関東大震災の被災者が同線の中野駅から三鷹駅までの辺りに移り住むまでは、やや離れた青梅街道や甲州街道沿いの方がにぎわっていた。本書は中央線がなかったころの東京の姿をフィールドワークによって明らかにする。昭和以降「公害」「ニュータウン」と呼ばれた地域に実は古くから人が暮らし、長い歴史があることが分かる。

(引用終了)
<日経新聞 1/27/2013>

 このブログでは、これからの街づくりの考え方として、山岳と海洋を繋ぐ河川を中心にその流域をひとつの纏まりと考える「流域思想」を提唱しているが、「鉄道」という近代社会のインフラを外すと、見えてくるのはその土地に根付いた古い「流域価値」だ。本書の両氏の対談からそのことに触れた箇所を引用したい。

(引用開始)

三浦: 実際に、江戸以前の古代・中世の世界を探る手法として、陣内さんが指摘される、川や湧き水(湧水)、神社、古道に注目する視点は、面白いと思いました。私も曲がりくねった道が好きですが、それが古代・中世、江戸時代からあるかと思うと、また街歩きの面白さが倍化します。
陣内: 中沢新一さんは著書『アースダイバー』で、宗教空間、お墓を縄文地図にマッピングする面白い方法で、東京の古層に光を当てています。われわれもずっとおなじ発想で見てきましたが、さらに「古道」が面白いと思っていました。古道は、必ずいい場所に通っているんです。
三浦: 実際に調査されたのは、いつごろのことですか。
陣内:一九九七年と九八年にかけて杉並区で調査をしています。実は紀元前一五〇〇年からローマに滅ぼされる紀元前三〇〇年まで続いた地中海のサルディーニャ島の文明の調査をしたことがきっかけです。その地域では、湧き水を大事にしてそこに聖域(後の時代も重要な場所となっていた)をつくり、それら聖域を結んだ古道を今でも辿ることができました。日本に戻ってきて、湧水、聖域、古道に注視して杉並区で応用したら、見事にあてはまったんです。
三浦: 僕は、川の暗渠を辿って歩くことも好きなのですが、「川」も東京の構造を知るうえで、欠かせないものですよね。
陣内: ええ。近代の開発で見えづらくなっていますが、東京にたくさんある川とセットにしながら地形に目を向けると、武蔵野や多摩にかけて本当の都市や地域の骨格、風景が見えてくるんですよ。
 例えば、杉並区でも桃園川は暗渠になっていますが、妙法寺川、善福寺川、神田川の四つの川が流れ、放射状になっている。
三浦: 鉄道は近代になってからのインフラですが、地域の構造を決めていた、それまでの重要なインフラは街道と「川」ですね。しかし昔の地図をよく見ると、街道などの道が川に沿って、山と谷の地形に沿って存在することがわかりますね。
陣内: そうです。人々の生活には水が必要なので、川の周辺に少し小高く安全なところに人間が住みます。しかも、東京には古来から崖線が多く、川沿いに侵食されて崖があり、そこに水が湧く(湧水)。すると、その近くに神社、聖域ができ、周りに人が住み、近世の集落につながっていくのです。善福寺川沿いには、縄文、弥生時代の遺跡や古墳も発見されています。(後略)

(引用終了)
<同書 20−22ページ(フリガナは省略)>

ということで、人は昔から、河川とその「流域」を大切にしてきた。この本が扱っている東京西郊には私も長く住んでいるので、フィールドワークの知見が特に身近に感じられた。

 「流域価値」の項で、これからの街づくりに必要なのは「新しい家族の価値」と古い流域価値との融合(fusion)ではないだろうか、と書いたけれど、この本の著者お二人の問題意識も同じ辺りにあると思われる。さらに本書から引用したい。

(引用開始)

 通勤に明け暮れ、ベッドタウンに寝に帰るライフスタイルはもう古い。地元に目を向け、地域の面白さを発見することが、ますます重要になるに違いない。日常の暮らしの意識が鉄道と駅に意識を支配されている従来の精神構造から、ぜひとも脱出し、自由な発想に立って地域に眠っている資産を発見してみたいものである。

(引用終了)
<同書 137-138ページ>

このブログでは、これからの産業システムとして、多品種少量生産、食の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げているが、ビジネスにおいても、地域に眠っている資産を活性化させ、それを自らの商売に結びつけてゆくのが、成功の鍵の一つであるに違いない。

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重ね着の思想

2013年01月15日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、これまで「内と外 II」や「境界設計」、「境界としての皮膚」、「布づくり」や「森ガール II」などの項で、街づくりや建築、身体や衣服における「境界」の重要性に注目してきた。先回「みんなの家」の項で紹介した“あの日からの建築”伊東豊雄著(集英社新書)にも、類似の指摘があるので紹介しておきたい。

(引用開始)

 これからの時代にとって、新しいテクノロジーの活用は不可欠ですが、今日の大勢は近代主義思想の延長上で技術を展開しようとしている点に問題があります。
 例えば、エネルギー源として太陽光を利用するのは言うまでもありませんが、大方の建築では内外の境界をより強固にして断熱性能を上げ、省エネルギー化をはかっています。境界の壁を強化すること、それでは人工的な人間の居住環境は周囲の自然環境からますます遠ざかっていくばかりです。
 それよりも私は、建築の内部環境を外部環境に近づけたほうが、最終的には消費エネルギーを減らすことができると考えます。つまり、温熱環境を外部から内部へとグラデーショナルに変化させるのです。内外の環境を一枚の壁で仕切ってしまうのではなく、複数の壁で段階的に区切っていくのです。
 かつての日本の木造家屋はこうした方法で自然と居住域を柔らかく隔てていました。勿論かつての木造家屋は、障子や襖のように境界面の断熱性能が低かったので、全体の断熱性能は決してよくはなかったのですが、それらの性能を上げていけば、私たちはもっと自然に近づいて住むことができるはずです。日本のように季節によって居住環境に大きな差のある地域では、夏のいちばん暑い日や冬のいちばん寒い日に照準を合わせて境界を定めるのはロスが大きいと言わざるを得ません。春秋の季節には外部に近い環境で過ごしたいし、一日をとっても朝晩と日中では温度が変化するのは言うまでもありません。
 かつての木造家屋の思想を現代テクノロジーを用いて性能アップしていくことによって、私たちは生活をもっと楽しむことができるはずです。こうした考え方のほうが一枚の境界を堅固にするよりは、トータルな消費エネルギーを削減することに必ずなるはずです。先に津波に対してたった一枚の防潮堤で防ぐのではなく、複数の柔らかな環境によって防ぐべきであると述べましたが、建築自体においてもこの思想は全く同じなのです。私たちは近代の明快に切り分ける思想から脱してもっと柔軟に、内外の折り合いをつけていく考え方に切り替えることが必要ではないでしょうか。

(引用終了)
<同書 174−176ページ>

 日本人は十二単の昔から、季節の温度変化に対していわゆる「重ね着」で対応することを服飾文化の一つとしてきた。そこで、こういった「近代の明快に切り分ける思想から脱してもっと柔軟に、内外の折り合いをつけていく考え方」を「重ね着の思想」と名付けてみたい。以前「場所の力」の項で、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。

(引用終了)

と書いたけれど、その「入れ子構造」をよく理解するには、境界に注目する「重ね着の思想」が大切だと思う。

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みんなの家

2013年01月08日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 建築家伊東豊雄氏の“あの日からの建築”(集英社新書)という本を読んだ。「みんなの家」とは、伊東氏が東日本大震災の被災地に建築している家のことで、本カバーの裏の紹介文には、

(引用開始)

 東日本大震災後、被災地に大量に設営された仮設住宅は、共同体を排除した「個」の風景そのものである。著者は、岩手県釜石市の復興プロジェクトに携わるなかで、すべてを失った被災地にこそ、近代主義に因らないし自然に溶け込む建築やまちを実現できる可能性があると考え、住民相互が心を通わせ、集う場所「みんなの家」を各地で建設している。
 本書では、鉱区内外で活躍する建築家として、親自然的な減災方法や集合住宅のあり方など震災復興の具体的な提案を明示する。

(引用終了)

とある。新聞の本の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

 建築家の著者は、岩手県釜石市の復興プロジェクトに携わるうち、被災した住民たちが気楽に集える場所の必要性を感じて「みんなの家」の建築を各地で進めている。内と外を切り分けて個性的なかたちを提示する抽象的な概念提示から、外の環境とも自在に行き来する共同の営みへ。仕事を社会とつなげるための著者の試みをたどる。

(引用終了)
<朝日新聞 10/28/2012>

 この「みんなの家」、既に伊東氏によって仙台市宮城野区、釜石市浜町、陸前高田市などに建てられているが、建築家山本理顕氏によっても、釜石市平田市に「みんなの家・かだって」が建てられている。「みんなの家」プロジェクトの発起人は、伊東氏の呼びかけで、東日本大震災の復興についてともに考え、行動することを目的に結成された「帰心の会」(伊藤豊雄、山本理顕、内藤廣、隈研吾、妹島和世)なので、この五人によって設計することを基本としているという。

 このブログでは、世界は、時間が止まった「モノ」よりも、「コト」の起こる場の力を大切に考える「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代を迎えている、と述べてきたけれど、「みんなの家」は、モノコト・シフトの時代における、新しい家づくり・街づくりの方向性を示している。本の中から伊東氏の文章を引用したい。

(引用開始)

 私が設計の仕事を始めてから、つくり手と住まう人がこれほど心をひとつにしたことはありません。近代合理主義のシステムに従えば、「つくること」と「住むこと」の一致は不可能だと言われてきましたし、自分でもその境界ををなくすことはあり得ないと考えてきましたが、この日、つくることと住まうことの境界が溶融していくのを実感しました。それはこうした特殊な状況において初めて実感できたのであって、通常の設計行為においてこのような関係が成り立つとは思いません。しかしたとえ一瞬であっても、こうした瞬間に立ち会えたことは建築後してこの上ない幸せでした。(中略)
 心のつながりは住民相互だけではありません。資金提供をしてくれた熊本県からも多くの人たちがここを訪れてくれました。県から贈られた「ゆるきゃらグランプリ」のぬいぐるみ、「くまモン」は神棚のような場所に大切に飾られています。また訪れた県議のなかに造り酒屋の主人がいて、住民たちと一緒に撮った写真をラベルに貼った焼酎(しょうちゅう)を贈ったり、さまざまな心の交流が始まっています。こうした心の交流こそ、正しく「みんな」の家の趣旨なのです。震災後、日本は勿論のこと、世界各地から膨大な義援金や救援物資が届けられました。そうした善意が有難いことは言うまでもありませんが、単に一方から他方への一方通行ではなく、相互に心が通い合う行為こそが、これからの人間関係や社会のあり方を考える鍵ではないでしょうか。

(引用終了)
<同書 78−79ページより>

ここでいう「相互に心が通い合う行為」こそ、モノコト・シフト時代の社会に求められていることなのだと強く思う。2012年のヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展において、「みんなの家」が金獅子賞を獲得したのも頷ける。

 尚、「帰心の会」のメンバーのうち、山本理顕氏について以前「流域社会圏」の項で、内藤廣氏については「水辺のブレイクスルー」、また隈研吾氏については以前「境界設計」や「場所の力」などの項で紹介したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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流域価値

2012年11月20日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前項まで、新しい家族の枠組みとその住宅形態を見てきたわけだが、各々の家族の価値が様々なかたちで定まってくると、街づくりにとっては、「継承の文化」の項で述べたような「コミュニティ全体の価値」と、これら「新しい家族の価値」との接点をどう作ってゆくか、ということが課題となる。

 「新しい家族の価値」は様々であっても、住宅(暮らしの場所)がある地域を貫くいわゆる「コミュニティ全体の価値」は、ある程度の地理的な広がりにおいて集約できなければ意味がない。そのなかの一番大きな枠を地球全体とすると、次に大きな枠は言語もしくは国、そしてその次の枠が「地域社会」と呼ばれるものになるだろうか。

 「新しい家族の価値」が様々であればあるほど、地域社会としての価値を何か一つの「新しいこと」に集約するのは難しいだろう。といって、これまでの地縁・血縁に頼った価値観をそのまま引きずるのも実情から外れる。

 このブログでは、「流域思想」や「流域思想 II」、「流域社会圏」や「行事の創造」、「鉄と海と山の話」や「“タテとヨコ”のつながり」の項などで、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える「流域思想」について述べてきた。

 山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にした領域は、自然エネルギーと生産物の通う道として古くから経済の中心であり、文化的には、奥山から里山、家の奥座敷を繋ぐところの「両端の奥の物語」を生み出す重心であった。今の時代、様々な「新しい家族の価値」を繋ぐ「地域社会価値」として、この「流域思想」ほど相応しいものは無いのではないだろうか。

 流域思想に基づく「流域価値」は、山奥の水源を起点に、“鉄は魔法つかい”にあるような分散型エネルギーを生み出す力の纏まりとなるだろう。このことは資源循環が必要となるこれからの時代に極めて重要だ。文化的には、“オオカミの護符”で語られるような古くからの価値と、新しい家族の価値とを繋ぐだろう。

 先日新聞のコラムに鷲田清一氏の次のような一文があった。

(引用開始)

 コミュニティーの勁(つよ)さというのは、生きるため、生き延びるためにどうしても必要な作業を共同でおこなうところにある。かつて地方が町方に対し「ぢかた」と呼ばれたころには、食材の調達や分け与え、排泄(はいせつ)物の処理、次世代の育成、相互治療、防災、祭事、墳墓の管理など、広い意味での「いのちの世話」はみなが協力して担った、そこでは子供もあてにされていた。
 もちろんそれはしがらみにがんじがらめになった共同体ではあった。掟(おきて)を破り、秩序を乱した者を「村八分」する過酷(かこく)な共同体でもあった。

(引用終了)
<東京新聞夕刊 10/5/2012より>

「流域価値」には、エネルギーや食物、防災などの「いのちの世話」要素が色濃く含有される。それが、しがらみの少ない「新しい家族の価値」と融合すれば、新しいコミュニティの価値として申し分ないと思う。

 中小様々な河川に生まれる多様な流域価値は、その流域の新しい家族の価値によって豊かに育ちながら、川が合流するように、他の流域価値と出会い入れ子構造となり、やがて中小の河川が大河に流れ込むように、“長良川をたどる”で描かれるような大河流域価値を形成する。そして、次に大きな枠としての言語もしくは国の価値と融合し、その文化をさらに豊かなものにしてゆく。

 流域によって形成される分散型エネルギー・文化的価値は、新幹線や高速道路によって形成される大量輸送型エネルギー・文明的価値と、際立った対比を齎すだろう。勿論、日本も地球規模のグローバルな文明的価値と無縁ではあり得ないが、それとは時空を異にして、日本列島各地に生まれるこの多様な「流域価値」こそ、“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代、我々にとってより重要な意味を持つと思われる。

 以前「場所の力」の項で、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請なのである。

(引用終了)

と書いたけれど、「流域価値」こそ「場所の力」の源泉となり得るだろう。

 この夏、私は草津から長野蓼科まで車で走った。その途中、地蔵峠付近で日本海と太平洋を分ける「中央分水嶺」を通った。その案内板を見ながら不思議な戦慄を覚えたのだが、それは、「流域価値」という力に対する潜在的な畏敬の念だったのかもしれない。

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