前回「
庭園を造る」の項で造園家中谷氏の本を紹介したが、今回は『今森光彦の心地いい里山暮らし12ヶ月』今森光彦著(世界文化社)という楽しい本について書きたい。まず新聞の湯川豊氏の書評を引用しよう。
(引用開始)
自然の豊かさを知り、学びなおす
タイトルのある本扉をめくると、次の見開きは、二枚の写真。右頁では、長靴をはき頭にバンダナを巻いた今森光彦氏が地面にはうようにして庭仕事をしている。左頁は、部屋の中、琵琶湖中島で見つけたという、形のいい石の上に線香が柔らかな煙をあげている。ともに、熱心に見入ってしまう。
この本は、ある里山に暮らす今森氏(と家族)の、一年の暮らしぶりの記録である。ある里山というのが、今森氏が二十数年をかけてつくりあげた、約千坪の土地。琵琶湖の西岸、比叡山のすそ野にひろがる仰木地区がその場所だ。今森氏はこの土地を得て、その頃すでに失われつつあった里山の原形のようなものをつくろうと発心し、長い時間をかけてそれを実現したのである。
昆虫写真が専門、名エッセイストでもある今森氏は、日本中の里山を歩きまわって、TVなどで紹介しているが、彼にはよって立つ場所があったのだと、理解できる。自分で苦労して里山をつくり、その場所を「オーレリアンの庭」と名づけて住んだ。オーレリアンとは、ギリシャ語で黄金を意味し、転じて蝶を愛する人を指す由。
春三月から冬の二月まで。一ヶ月単位で里山暮らしのありさまが物語のように展開する。短いエッセイ、たくさんの写真、今森氏によるペーパーカットの絵、三つの方法で。里山の光と影、空気の移ろいまでが、読者の心と体に染みこんでくる。(中略)
各月には、「生き物図鑑」と「里山を味わう」というコーナーがあって、後者はとくに楽しく食欲を刺戟する。八月は「近江地鶏のソテー」、これもいいが、私は翌九月の「ビワマスのグリル」と「栗ご飯」にヨダレをたらした、というしだい。
しかし、それらが現在の里山の収穫とすれば、そこに至るまでの里山づくりがいかなるものだったかが、そこかしこに静かに語られて、それが本の底流をなしている。
最初に偶然に土地を得て、里山をつくろうと思ったとき、思い切って、三百本のヒノキを切った。そしてクヌギとコナラの幼木を植えた。里山に必須の雑木林が現在ようやくできはじめたところ。
さらには、田んぼはやらないかわりに、小さなため池をいくつかつくった。これによって、生息する生き物の数がうんと増えた。
性質の異なる環境が集まる端境の場所をエコトーンというが、そこは集中的に生き物の密度が高い。よく管理されている里山こそはエコトーンの代表格で、だから日本の自然の豊かさの象徴だった。それを失くしてはならないという思いが、今森氏の行動になったのを知るのである。
夏休みに向けて、大人も子供も里山を知る。あるいは学びなおすにふさわしい一冊である。
(引用終了)
<毎日新聞 7/5/2015(フリガナ省略)>
本には134種類以上の生き物(植物や虫、動物)たちが写真つきで紹介されている。オウムやハチドリ、ハイビスカスなどの素敵なペーパーカット作品も15点収録されている。勿論写真も素晴らしい。帯裏表紙には、
(引用開始)
里山は、手づくりできる小さな楽園――。
ささやかながら、アトリエをつくるとき、周辺の環境をすべて宝物につくり変えようと考えました。それが、この庭の物語です。庭は、私にとって里山の自然をみつめる窓であり、教科書であり、実験場でもあります――今森光彦
(引用終了)
とある。
里山とは「人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林」(広辞苑)ということで、一般的には複数の家々が共同して利用する場所を指すが、今森氏はそういう場所が戦後次第に失われていくことに危機感を覚え、孤軍奮闘、自分のアトリエを「生きものの集まる小さな里山」として再現したわけだ。場所は琵琶湖に注ぐ天神川流域、遠くに比良山連峰を望む。
「
理念濃厚企業」の項などでその著書を紹介してきた建築家隈研吾氏は、最近、雑誌『ソトコト』(8/2015号)の小川和也氏とのインタビューの中で、100年後の建築やまちはどのようになると思うかという質問に対して、
(引用開始)
隈 100年後って、割とすぐきてしまうんですよね。たとえばいまから100年前、1915年のことを頭に描いてみると、いまとそんなに変わっていないわけですよ。
変わるとすると、予定調和ではなく、なし崩し的に変っていく。外観は、庭化していくと思っています。要するに、環境に寄り添いまち全体が庭っぽくなっていく。20世紀に超高層の時代がきたわけですが、面白いまちというのは、超高層の建物で占拠されているまちではなく、全体、足元、歩く環境でまちの魅力を測るようになる。それが評価の基準となると、まちが庭っぽくなっていく。
小川 超高層建築時代の反動の側面もあるのでしょうかね。
隈 高い建物がよいという価値観はだんだん崩れていくんじゃないかな。20世紀の惰性として超高層も存在していたりはするけれど。超高層ビルやマンションは、経済のシステムに基づいて建てられ、利益を改修、回転させていくモデルであって、人間の欲求によって立てられているわけではない面がありますから。人間が本能に従って、どのような空間に居住したいかというときに、それは必ずしも高い建物では無い。
やはり人間にとって足周りの気持ちよさというのは一番大事なんですよね。そのような、人間の生物としての基本的欲求みたいなものが、ちゃんと経済のシステムにも反映されるようになると、まちはどんどん庭化していくと考えています。
(引用終了)
<同書 177ページ>
と述べている。これからは「
庭園都市」の時代なのである。今森氏はその先駆者の一人だと思う。それは、
モノコト・シフト(モノよりもコトに対する関心の高まり)とも踵を一にした動きの筈だ。