夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


住宅の閾(しきい)について

2015年09月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『権力の空間/空間の権力』山本理顕著(講談社選書メチエ)を読んだ。副題に「個人と国家の<あいだ>を設計せよ」とある。この本は、近代社会における家づくり・街づくりの問題についてのスリリングで示唆に富む論考だ。まず新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 政治というのは抽象的な思考に回収されない。そうではなく、複数の人間が共生するための実践行為である以上、必ず具体的な空間を伴うはずである。だが、政治思想史の研究者の多くは、思想家が残したテキストを丹念に読み込み、政治概念を抽出することには努めても、政治が住居や都市のような空間とどれほど深く関係してきたかを考えようとはしなかった。
 建築家の山本理顕は、思想家のハンナ・アレントが著した『人間の条件』を、これまでの政治思想史研究とは全く異なる視角から読み解いた。それが本書である。著者の読みはきわめて斬新であり、建築家がアレントを精読するとこうなるのかという新鮮な発見に満ちている。
 著者によれば、アレントほど空間のもつ権力性に敏感な思想家はいなかった。そのアレントが古代ギリシャで注目したのが、公的領域(ポリス)と私的領域(オイコス)の間にある「無人地帯」、つまり「閾(しきい)」だというのだ。この指適にはびっくりした。確かに『人間の条件』には、それに相当する文章がある。しかし、政治思想史の分野でここまで「閾」に注目した研究は見たことがない。
 著者はアレントの思想に、私的空間と公的空間が厳密に区画され、官僚制的に統治された都市空間、すなわち「権力の空間」に生きることに慣らされている私たちの日常を根本的に改めるための突破口を見出している。『人間の条件』は、決して政治思想史の「古典」と定まっているわけではなく、未来へと開かれた「予言」としての意味をもつことになる。
 もし本書の問いかけに、政治思想史の側から何の応答もなされないのであれば、あまりにも空しい。著者にならって言えば、それこそ学問のタコツボ化がもたらした「権力の空間」に安住していることに無自覚になっている表われと判断されるからだ。(評・原武史)

(引用終了)
<朝日新聞 6/21/2015)

ハンナ・アレントの著書『人間の条件』を武器に、「閾(しきい)」という空間概念、労働者住宅、「世界」という空間を餌食にする「社会」という空間、標準化=官僚制的管理空間、「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」、といった刺激的なテーマが並ぶ。「流域社会圏」の項で論じた『地域社会圏モデル』山本理顕他著(INAX出版)から5年、山本氏がよりパワフルになって戻ってきた印象だ。

 近代社会の「1住宅=1家族」という私的空間を「地域」に対して開くにはどうしたら良いのか。このブログでは以前「新しい家族の枠組み」の項で、「近代家族」に代わる新しい家族の枠組みについて、

1.家内領域と公共領域の近接
2.家族構成員相互の理性的関係
3.価値中心主義
4.資産と時間による分業
5.家族の自立性の強化
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族

といった特徴を挙げ、「新しい住宅」「新しい住宅 II」「新しい住宅 III」などでその住宅のあり方を見てきたが、この問題に関して山本氏は、古代ギリシャからある住宅の「無人地帯」=「閾(しきい)」という概念の重要性を指適する。同書25ページにある著者作成の「閾の概念図」(図4)を再構成してみよう。
img022.jpg
理解のために概念図の説明文も引用しておこう。

(引用開始)

「閾」はprivate realm(私的領域)に含まれる空間である。public realm(公的領域)に対して開かれた空間である。「閾」は私的領域の内側にあって、それでもなお公的領域に属する空間である。それをアレントは“no man’s land”と呼んだ。「閾」を含まないプライバシーのための空間は“private sphere”である。古代ギリシャでは奴隷と女の領域であった。「循環する生命過程」のための場所である。

(引用終了)
<同書 25ページ(図の説明文)>

 玄関、土間、縁側、応接間、客間、茶室など、公的役割の浅深によってその場の設えは変わるだろうが、この「閾」は、以前「庭園都市」の項で図示した、<里山システム>における「街」と「家」とのつなぎ部分に当る。
img022.jpg
外からみたつなぎ部分は「庭園」だから、住宅の「閾」は「庭園」へ、そして「庭園」は「里山」へと繋がっていくわけだ。今の多くの住宅には人と公的な話をする場所がない。21世紀の庭園都市が上手く機能するかどうかは、「里山」、そして各家の「庭園と閾」の造営巧抽にかかっているといえるのではないだろうか。

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里山を造る

2015年08月18日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「庭園を造る」の項で造園家中谷氏の本を紹介したが、今回は『今森光彦の心地いい里山暮らし12ヶ月』今森光彦著(世界文化社)という楽しい本について書きたい。まず新聞の湯川豊氏の書評を引用しよう。

(引用開始)

自然の豊かさを知り、学びなおす

 タイトルのある本扉をめくると、次の見開きは、二枚の写真。右頁では、長靴をはき頭にバンダナを巻いた今森光彦氏が地面にはうようにして庭仕事をしている。左頁は、部屋の中、琵琶湖中島で見つけたという、形のいい石の上に線香が柔らかな煙をあげている。ともに、熱心に見入ってしまう。
 この本は、ある里山に暮らす今森氏(と家族)の、一年の暮らしぶりの記録である。ある里山というのが、今森氏が二十数年をかけてつくりあげた、約千坪の土地。琵琶湖の西岸、比叡山のすそ野にひろがる仰木地区がその場所だ。今森氏はこの土地を得て、その頃すでに失われつつあった里山の原形のようなものをつくろうと発心し、長い時間をかけてそれを実現したのである。
 昆虫写真が専門、名エッセイストでもある今森氏は、日本中の里山を歩きまわって、TVなどで紹介しているが、彼にはよって立つ場所があったのだと、理解できる。自分で苦労して里山をつくり、その場所を「オーレリアンの庭」と名づけて住んだ。オーレリアンとは、ギリシャ語で黄金を意味し、転じて蝶を愛する人を指す由。
 春三月から冬の二月まで。一ヶ月単位で里山暮らしのありさまが物語のように展開する。短いエッセイ、たくさんの写真、今森氏によるペーパーカットの絵、三つの方法で。里山の光と影、空気の移ろいまでが、読者の心と体に染みこんでくる。(中略)
 各月には、「生き物図鑑」と「里山を味わう」というコーナーがあって、後者はとくに楽しく食欲を刺戟する。八月は「近江地鶏のソテー」、これもいいが、私は翌九月の「ビワマスのグリル」と「栗ご飯」にヨダレをたらした、というしだい。
 しかし、それらが現在の里山の収穫とすれば、そこに至るまでの里山づくりがいかなるものだったかが、そこかしこに静かに語られて、それが本の底流をなしている。
 最初に偶然に土地を得て、里山をつくろうと思ったとき、思い切って、三百本のヒノキを切った。そしてクヌギとコナラの幼木を植えた。里山に必須の雑木林が現在ようやくできはじめたところ。
 さらには、田んぼはやらないかわりに、小さなため池をいくつかつくった。これによって、生息する生き物の数がうんと増えた。
 性質の異なる環境が集まる端境の場所をエコトーンというが、そこは集中的に生き物の密度が高い。よく管理されている里山こそはエコトーンの代表格で、だから日本の自然の豊かさの象徴だった。それを失くしてはならないという思いが、今森氏の行動になったのを知るのである。
 夏休みに向けて、大人も子供も里山を知る。あるいは学びなおすにふさわしい一冊である。

(引用終了)
<毎日新聞 7/5/2015(フリガナ省略)>

本には134種類以上の生き物(植物や虫、動物)たちが写真つきで紹介されている。オウムやハチドリ、ハイビスカスなどの素敵なペーパーカット作品も15点収録されている。勿論写真も素晴らしい。帯裏表紙には、

(引用開始)

里山は、手づくりできる小さな楽園――。

ささやかながら、アトリエをつくるとき、周辺の環境をすべて宝物につくり変えようと考えました。それが、この庭の物語です。庭は、私にとって里山の自然をみつめる窓であり、教科書であり、実験場でもあります――今森光彦

(引用終了)

とある。

 里山とは「人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林」(広辞苑)ということで、一般的には複数の家々が共同して利用する場所を指すが、今森氏はそういう場所が戦後次第に失われていくことに危機感を覚え、孤軍奮闘、自分のアトリエを「生きものの集まる小さな里山」として再現したわけだ。場所は琵琶湖に注ぐ天神川流域、遠くに比良山連峰を望む。

 「理念濃厚企業」の項などでその著書を紹介してきた建築家隈研吾氏は、最近、雑誌『ソトコト』(8/2015号)の小川和也氏とのインタビューの中で、100年後の建築やまちはどのようになると思うかという質問に対して、

(引用開始)

 100年後って、割とすぐきてしまうんですよね。たとえばいまから100年前、1915年のことを頭に描いてみると、いまとそんなに変わっていないわけですよ。
 変わるとすると、予定調和ではなく、なし崩し的に変っていく。外観は、庭化していくと思っています。要するに、環境に寄り添いまち全体が庭っぽくなっていく。20世紀に超高層の時代がきたわけですが、面白いまちというのは、超高層の建物で占拠されているまちではなく、全体、足元、歩く環境でまちの魅力を測るようになる。それが評価の基準となると、まちが庭っぽくなっていく。
小川 超高層建築時代の反動の側面もあるのでしょうかね。
 高い建物がよいという価値観はだんだん崩れていくんじゃないかな。20世紀の惰性として超高層も存在していたりはするけれど。超高層ビルやマンションは、経済のシステムに基づいて建てられ、利益を改修、回転させていくモデルであって、人間の欲求によって立てられているわけではない面がありますから。人間が本能に従って、どのような空間に居住したいかというときに、それは必ずしも高い建物では無い。
 やはり人間にとって足周りの気持ちよさというのは一番大事なんですよね。そのような、人間の生物としての基本的欲求みたいなものが、ちゃんと経済のシステムにも反映されるようになると、まちはどんどん庭化していくと考えています。

(引用終了)
<同書 177ページ>

と述べている。これからは「庭園都市」の時代なのである。今森氏はその先駆者の一人だと思う。それは、モノコト・シフト(モノよりもコトに対する関心の高まり)とも踵を一にした動きの筈だ。

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庭園を造る

2015年08月12日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「庭園都市」の項で紹介した『庭の旅』と兄弟のような本がある。『木洩れ日の庭で』中谷耿一郎著(TOTO出版)がそれで、同じ出版社から11ヶ月ほど隔てて出版された。

『庭の旅』:2004年6月初版
『木洩れ日の庭で』:2005年7月初版

(引用開始)

自然体で生きたいと願うすべての人へのメッセージ。
八ヶ岳のふもとに住まい
四季折々の自然とともに生きるランドスケープ・デザイナーの
森の中の小さな暮らしから生まれた、人生を愉しむ庭づくり。

(引用終了)
<同書帯表紙より>

ということで、これは造園家の中谷氏が、庭造り(土や石、花や樹、森や小川、家や生活、四季や風景など)に関する思考や美意識を、ご自身の撮った見事な写真と共に、二十二の章に収めた美しい本だ。

(引用開始)

 ランドスケープ・デザインの核心は、無垢の原生林から鉢植えの花や盆栽に至る、人と植物のよりよいかかわり合い方、もしくは折り合いのつけ方を見つけ出すことにあるのではないかと常々思っている。特に森や森に近い里での暮らしのスタンスは、各自が苦痛を感じたり生活に支障をきたしたりしない範囲で、できるだけ自然度の高い環境を維持することでありたいと思う。

(引用開始)
<同書 86−87ページ>

という言葉に、氏のバランスの取れた思考・美意識が簡潔に纏められている。

 南北に長く、また標高差が大きい日本列島には、地球上の植生の大半があるという。変化に富んだ四季と豊な植生、それらをどう生かすか。この本は、庭づくりを目指す人にとって良き参考となるに違いない。

 私は以前、この本を読んだことがあった。今回『庭の旅』を読んだのを機に再読し、土のことや石、水の扱いなど細部に関する知見を再認識した。写真の美しさにもあらためて感動した。

 中谷氏の庭は、『庭の旅』の方でも、「デザインは齢を重ねた心の地図 造園家が暮らす小さな山荘と小さな庭」として紹介されている。白石氏が中谷氏の造園に共鳴し、八ヶ岳の麓の中谷宅へ出かけたときの体験を基にしたものだ。奥さまの白井温紀さんが描いた中谷邸全体図もある。

 庭園都市計画家と造園家(ランドスケープ・デザイナー)。それぞれの本の「あとがき」によると、その後のお二人の付き合いのなかで、まず中谷氏が白石氏にある出版社を紹介し、その会社の雑誌に白石氏が記事を連載したことで、2004年に『庭の旅』が生まれた。それとは別に、中谷氏もある建築系の雑誌に記事を連載していた。それを読んで、こんどは白石氏がTOTO出版に話をもちかけ、11ヵ月後に『木洩れ日の庭で』が生まれた。二つの本が兄弟だという所以である「スモールワールド・ネットワーク」や「ハブ(Hub)の役割」を地で行くような話しではないか。幸せな二冊の出版を喜びたい。

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庭園都市

2015年07月28日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『庭の旅』白井隆著(TOTO出版)という本を愉しく読んだ。庭園都市計画家の白石氏は、

(引用開始)

 人はハコに暮らすのではなく、「人は庭園に暮らす」と考える。その全体を庭として計画することを通して、施主の求める幸福な風景を造ることはできないだろうか。土木建築を、世界から切り離してしまわずに、庭園構想の一部として、全体に関係付けることによって。
 庭には、人と、時間と、自然と、構造物が備わっている。暮らしの場全体を計画する方法として、庭園という装置を使うことはできないだろうか。

(引用終了)
<同書 9ページ>

と考え、それを探るために、奥さまでガーデン・デザイナーの白井温紀さんと一緒に世界各地の庭を巡る。

 山形の田舎家の庭、共同体を生き返らせた水俣市の田園、バリ島のアマンダリ・リゾート、京都南禅寺無鄰庵・小川治兵衛の庭、八ヶ岳にある造園家中谷耿一郎の庭、英国ヘリガンの庭、日光東照宮、昭和記念公園、高千穂夜神楽などなど、美しい写真やスケッチと共に多種多彩な庭や公園が紹介されている。スケッチは奥さまが描いたもの。

 白石氏の職業である「庭園都市計画家」というのは広がりのあるいい言葉だと思う。都市計画家でもなく、造園家でもなく、建築家でもない。その全てを含む感じだろうか。氏は、

(引用開始)

 二一世紀の集落は、人々に幸福を約束する「庭園」として、自覚的に構築されなければならない。

(引用終了)
<同書 40ページ>

と書く。

 以前「庭園について」の項で、「庭園は、人々の心の城郭として、都市と自然との境界に存在している」と書いたけれど、庭園都市と言うと、人が暮らす家と庭、その集合であり都市機能も併せ持つ街、街と聖なる奥山、その二つを繋ぐ農業生産中間地帯としての里山、といった集落全体を的確にイメージすることができる。「3の構造」の手法を用いて図示してみよう。
img022.jpg
 庭園都市という言葉は昔の田園都市よりも、「庭園」ということで、都市と自然の境界性、全体性を明示できるように思う(田園都市はもともとgarden cityの翻訳語)。この「庭園都市」が、そこを流れる河川を通して山岳地域から海辺まで複数繋がると、「流域」として独自の文化圏を成す(可能性が生まれる)ことになる。

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日本の森 

2015年07月22日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「自然の捉え方」の項で、『唱歌「ふるさと」の生態学』(ヤマケイ新書)という本のことを書いたが、もう一冊、同新書シリーズから最近出た『日本の森列伝』(米倉久邦著)についても併せて紹介しておきたい。前者は山と川、里山の生態学であり、後者は森と人とが織り成す物語である。まずは新聞の紹介文から。

(引用開始)

 国土の7割が森林、緯度や標高により亜寒帯から亜熱帯までの植生を持ち、多様な樹木を育てる日本の森。北海道のブナ林から西表島のマングローブの森まで、12の森の歴史や生態系を記述。山の恵みの暮らしを支える豪雪の奥会津ブナ林、国家運営と宗教に関わる歴史の色濃い比叡山の人工林…。環境保全や気候変動など今の問題も背景に説明する。

(引用終了)
<東京新聞 5/24/2015(フリガナ省略)>

 本帯の紹介文も引用しよう。

(引用開始)

 海を渡ったブナの謎、海底に沈む太古の埋没林、宗教と国家権力に翻弄された山――知れば知るほど深い日本の森。(帯表紙)
 森のインストラクターであり、元・共同通信記者でもある筆者による、森林大国・日本の12の森のルポ。北海道から沖縄まで、強烈な個性と存在感を持つ森を訪ね、生命の生存競争の奥深さ、そして人との関わりが生んだ知らざれる歴史を追う。(帯裏表紙)

(引用終了)

 本の構成は、

●北海道黒松内・北限のブナの森
―ブナ、10万年の彷徨、北から南へ、そしてまた北へ
●山形県・庄内海岸砂防林
 ―厳冬の季節風が巻き起こす砂嵐、植えては枯れる辛苦の400年
●福島県・奥会津原流域の森
 ―豪雪の山で生き抜く人と植物たちのしたたかな知恵
●新潟佐渡島・新潟大学演習林
 ―冬の豪雪と夏の霧、離島が育んだ知らざれる神秘の森
●富山県立山・稜線を覆うタテヤマスギの森
 ―屋久島をはるかの凌ぐ巨大スギ群、謎に満ちた生態
●富山県・魚津洞杉の森
 ―埋没林が語る巨木伝説、太古の森はなぜ海底に沈んだのか
●長野県松本市・上高地の森
 ―標高1500mの稀有な空間に秘められた300年伐採の歴史
●静岡県伊豆半島・天城山の森
 ―フィリッピン沖プレートが運んできた大地
●滋賀県・比叡山延暦寺の森
 ―宗教と国家権力に翻弄されながらいまに続く森
●奈良県・春日山原始林
 ―神鹿降臨に始まる神の山は、シカの食害で衰退の危機
●紀伊半島・大台ヶ原の森
 ―南限のトウヒ白骨林が教えてくれるのは、人災か自然現象か
●沖縄県西表島・マングローブの森
 ―汽水線に生きる不思議の樹木たち

となっている。これをみてお分かりのように、それぞれの森の生態が魅力的な話題と共に目の前に広がる愉しい本だ。本文(まえがき)からも引用したい。

(引用開始)

 日本列島は南北に長い。北海道から沖縄まで、大まかにいってざっと3000kmにも及ぶ。北の北海道は亜寒帯、東北は冷温帯、南にいくについれて温暖帯へと代わり、沖縄の南端は亜熱帯のはずれになる。しかも、日本の国土は約7割が森林に覆われている。世界でもトップクラスの森林国である。気候の違いは、その土地に生育する森林の違いをもたらす。日本列島の位置と地形が、世界のどこにも見られないような多様な森を育んでいる。北から南まで個性のある森にあふれている。
 そうと知れば、行かずばなるまい。視点をひとつ、付け加えた。「人」である。日本の森の60%は天然の森だ。だが、いわゆる「手付かずの森」というのは、ほとんどない。太古の昔から、日本人は森と暮らし、森の恩恵を受けて命をつないできた。時には森から奪い、森を破壊してきた。人は森にどうかかわってきたのか。それを知らなければ、日本の森を知ることにはならない。そう思うのは、ジャーナリストの性のせいだろう。

(引用終了)
<同書 4ページ>

 この本の後半、奈良県・春日山原始林や紀伊半島・大台ヶ原の森のところで、最近増えてきた鹿による被害の話が出てくる。人はどこまで自然に関与し、管理すべきなのかということなのだが、確かに難しい課題だ。最近の新聞に白神山地でも鹿の目撃情報が急増しているとあった(東京新聞夕刊 6/29/2015)。

 5月に施行された改正鳥獣保護法も読んでみたが、こういう場合必要なのは、まず、地域の人々がその森をどのようにしたいのか、そこで何を達成したいのか、という「理念と目的」を書き出してみることだと思う。生態系のバランスが大事なのか、あるがままに任せ変化を受入れるのが良いのか。その土地の山岳信仰との関係や里山システム、流域価値、観光資源としての活用、産業用、防風林や砂防林として、津波対策用、学術研究のため、住民の憩いの場としてなどなど。重複する場合は優先順位付けや区分けを行なう。ただなんとなくではいずれ腰砕けになってしまうだろう。

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比のバランスを重視している。管理という側面ではA側の「Resource Planning」、つまり資源の最適化を図る力が求められる。今の日本(語)人はこちら側が弱い。だから、理念として生態系のバランスの方が大事だと決めても、狩猟のためのResource(知識や情報、人や道具、流通網など)が不足して、対応が後手後手になってしまう、あるいはやり過ぎてしまう可能性もある。この点にも留意すべきだと思う。

 先日青森の奥入瀬へ旅行した際、白神山地の方も少し歩いてきた。鹿には出会わなかったけれど。これからも読書や体験を通して、森林についての解像度(理解度)を高めて行きたい。

尚、森についてはこれまで、

牡蠣の見上げる森
森の本
森ガール
里山と鎮守の森

などを書いた。併せてお読みいただければと思う。

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山岳信仰

2015年07月01日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自然の捉え方」の項で、日本人は、自然と対峙するのではなく、手入れをしながら共生する道を選んできたことを論じたが、生き方の背景にある信仰もまた、日本人の場合、自然崇拝という形をとる。日本列島は国土の七割から八割を山が占める。だから日本の自然崇拝は、山岳信仰と重なる。最近この山岳信仰について、『山岳信仰』鈴木正崇著(中公新書)という題名もそのものずばりの本が出たので紹介しておきたい。本のカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 出羽三山、大峰山、英彦山の三大霊場をはじめ、富士山、死者の魂が赴く立山と恐山、御座の木曽御嶽山、鎖禅定の石鎚山――。個性豊な山々に恵まれた日本人の精神文化の根底には、山への畏敬の念が息づく。本書は山岳信仰の歴史をたどりつつ、修験道の成立と展開、登拝の民衆化と女人禁制を解説。さらに八つの霊山の信仰と祭祀、神仏分離後の状況までを精解する。長年、山岳修験研究に携わってきた著者による決定版。

(引用終了)
<フリガナは省略>

副題に「日本文化の根底を探る」とあるが、この本は日本人の山岳信仰の歴史としきたりを詳細に記録した労作だ。新聞の紹介文も二つ載せておこう。

(引用開始)

 山は日本の風土と日本人の生活の根源をなすとともに、畏怖心から信仰の対象ともなった。山岳で修行した者が霊力をつけ里人を救う修験道はそんな自然を背景に生まれた。出羽三山、大峰山、富士山、恐山、御嶽山など八つの霊山を取り上げ、山岳信仰の歴史や、巫女や即身仏、講や曼荼羅など信仰の諸相を紹介し、山をめぐる想像力のありようを探る。<東京新聞 4/26/2015>

 副題<日本文化の根底を探る>。古代の他界観や近世の死者供養のありようを反映する山岳信仰は、民衆世界と深いつながりを持ってきた。明治維新の神仏分離で断絶した修験道も、現在は各地で復興が続いている。出羽三山、大峰山、英彦山、富士山、木曽御嶽山など八つの霊山をとりあげて、伝承と歴史を概説する。<朝日新聞 5/3/2015>

(引用終了)
<フリガナは省略>

 著者の言葉も一部引用しておきたい。

(引用開始)

 日本では超越的な神観念は風土になじまず、複雑な教理や煩瑣な哲学は発達しなかった。つねに体験知の具体的な世界を通して、見えない世界との交流が図られ想像力を飛翔させた。その中でも身近な山が重要な役割を果たしてきた。その根底にあるのは「山川草木すべてものいう」の世界であり、あらゆるものがいのちや霊魂を持つという認識である。宗教学者はこれをアニミズム(animism)と呼んできた。しかし、西欧由来の狭い学問定義では、日本の長い歴史の中で生成されてきた融合と混淆の複雑性は捉えきれない。

(引用終了)
<同書 9ページ(フリガナ省略)>

日本列島の男性性思考が、抽象的な高みに飛翔し続けるよりも具体的な場所性を帯びることは、先日『百花深処』<修験道について>の項で敷衍したばかり。こちらも併せてお読みいただきたい。

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自然の捉え方

2015年06月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「共生の思想 II」の項で、日本人の自然を大切にする知恵・価値観に期待を寄せる本川氏(『生物多様性』著者)の言葉を引用したが、『唱歌「ふるさと」の生態学』高槻成紀著(ヤマケイ新書)は、この島国の生態学的な実状と、これからの課題を纏めた本だ。副題に「ウサギはなぜいなくなったのか?」とある。本帯の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 今こそ見直したい「ウサギ追いしかの山」の世界。里山の変容を、唱歌「ふるさと」の歌詞から読み解く。(帯表紙)
 世代を超えて歌われる唱歌「ふるさと」。ここで歌われたウサギやフナは、なぜいなくなってしまったのか?聞き慣れた歌詞から、昔日の里山を生態学の視点で読み解き、現代との比較を通じて失われた日本の自然と文化を見直す。(帯裏表紙)

(引用終了)

 本の構成は、

一章 「故郷」を読み解く
二章 ウサギ追いし――里山の変化
三章 小ブナ釣りし――水の変化
四章 山は青き――森林の変化
五章 いかにいます父母――社会の変化
六章 東日本大震災と故郷
七章 「故郷」という歌
八章 「故郷」から考える現代日本社会

となっている。著者は動物生態学・保全生態学者。生態学(環境の変化が動物や植物にどのような影響を与えたかを研究する学問)のうちでも、二十世紀後半の自然破壊のすさまじさに対する危機感から生まれたのが保全生態学だ。池内紀氏の新聞書評を一部引用したい。

(引用開始)

 なぜウサギがいなくなったのか。すぐに環境汚染や狩猟を原因と考えがちだが、そうではなく、山に茅場がなくなったのが大きいという。茅、つまりススキやヨシのしげる平原。屋根を葺く茅、家畜の飼料、荷造りのクッション。いろいろ用途があり、茅場を取り込むかたちで里山が成り立っていた。用途を失って放置されると、とたんに木が侵入してススキは消えていく。ウサギには安住の場がなくなった。
 おおかたの日本人が「心のふるさと」というとき、思い浮かべる風景画ある。茅葺の農家、よく耕された田や畑、まわりの屋敷林、背後の山。農地は作物、屋敷林は材木、山は炭火焼き。調和のとれた美しい景観は、暮らしのシステムが安定していたなかで維持されてきた。茅場の消滅一つからも、さまざまなものが見えてくる。近年の山里ではイノシシの被害がしきりに言われる。私はイノシシのような大型の動物がなぜ里に出没するのか、いぶかしく思っていたが、生態学的にはウサギに代わり、イノシシに「もってこいの条件」がととのっているのである。

(引用終了)
<毎日新聞 4/26/2015(フリガナ省略)>

 里山についてはこれまで、「里山ビジネス」や「内と外 II」、「里山システムと国づくり」などの項でその大切さを書いてきた。この本はいわば生態学からみた里山保全論といえるだろう。里山経済を復活させる為にはこの面からの考察も欠かせない。これからも仕組みをいろいろと勉強したいと思う。

 さて高槻氏は、自然の捉え方に関する日本人とヨーロッパ人との違いについて、次のように書いておられる。

(引用開始)

「故郷」の時代と現代との比較をする上で、自然のとらえ方の違いを考えている。そのためには、日本人の自然観とヨーロッパ人の自然観を比較することが役立つように思われる。
 都市住民が主体となった現代日本では自然はすばらしいものであるというとらえ方が主流である。そしてそのすばらしい自然は保護すべきだと考える。ただしそれは実際に自然に接してすばらしいと感じ、自然は守るべきだと実感してのことであるというよりは、テレビ等を通じての追体験であることが多い。それは基本的にヨーロッパの自然観の翻訳である。ヨーロッパにおいては人間だけが神に近い存在であり、だから人間は世界を支配して責任をもって管理すべきだというキリスト教的な世界観がある。(中略)
 自然がひ弱であり、丁寧に管理しなければ、原生的な自然が失われたり、生産性がそこなわれたりするヨーロッパでは、人が優位にいるのだから自然を支配するのがよい結果をもたらすという経験があったであろう。しかし日本のように生物多様性が驚くほど高い土地では、自然は守るというようなものではまったくなく、夏の暑さも冬の寒さも人を攻めるという感じがある。その上、地震もあれば、洪水もある。守ってほしいのはむしろ人のほうであった。そういう自然とおりあいをつけるためには、自然を支配して管理下に置くという姿勢はまったくふさわしくない。攻めるものはかわし、逃げることでことなきを得るほうが、よほど合理的であった。恐ろしい目に遭わせないでください、農作物が大水で台無しにならないようにしてください――そのように祈りながらも、リアリストである農民や漁民は、祈りだけでものごとが解決すると考えるほど愚かでも楽天的でもなかった。自然をよく観察し、どのような土地に洪水が起きるか、どのような雲の動きのあとに嵐が来るかといったことをよく知識として蓄え、どのようにすべきかを知恵として引き継いできた。自然と向かい合って対立するのではなく、むしろ自分を自然の中に位置づけ、小さな存在のひとつと感じて来た。

(引用終了)
<同書 189−202ページ>

ヨーロッパ人が自然を資源として管理しようとしてきたのに対し、日本人は自然環境に寄り添い、里山を作り、生活しやすいようにそれを手なずけてきた。これは複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比と整合する。生態学の知識と同時に、環境の捉え方に関するこの彼我(ひが)の違いについてもよく知っておきたい。複眼主義ではAとBとのバランスを大切に考える。

 最近の日本人が伝統的な里山精神を忘れかけていることに対して、高槻氏は、

(引用開始)

 そのこと(伝統的な里山精神)がここに来て、危うくなり、そうなったときの変容の速度があまりに速く、崩壊という言葉がふさわしいかのごときである。その原因は多様であり、またつきとめるのも容易ではない。だが、私が本書で考えたことではっきり言えることがある。それは、里山を構築した伝統の底に流れる、自然と対峙するのではなく、自然に寄り添い、生き物を畏敬せよという先人の精神を正しく継承すべきであるということである。日本人の自然観は、少なくとも二〇〇〇年の歴史の中で洗練され、不適切なものは淘汰されてきたものである。それは、物やエネルギーを粗末にするなと正しく教えて来た。それを旧弊として捨て去ってきたこれまでの愚かさを見直す、それが我々に課せられた最低限のつとめであるように思われる。
 私は「故郷」の歌われた動植物や山川について考え、その意味を読み取ろうとした。そしてその底流に見いだしたのは、すばらしい自然の中で暮らしてきた我々の祖先の生きる知の深さに気付くべきだということであった。

(引用終了)
<同書 205−206ページ(括弧内は引用者の註)>

と最後に書いておられる。日本語的発想は「環境中心」なのだが、最近の日本人は、自然ではなく「都市環境中心」の発想になってしまっているのである。

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フルサトをつくる若者たち

2015年03月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「心ここに在らずの大人たち」の項で、養老孟司氏と隈研吾氏の『日本人はどう死ぬべきか?』という本を引用したけれど、その隈研吾氏が、『フルサトをつくる』伊藤洋志×pha(ファ)共著(東京書籍)という「心ここに在る若者たち」の本を新聞で紹介している。まずはその新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 参勤交代を復活すべきだというのが、養老孟司の説である。都市と地方の格差解消策、過疎地対策として有効なことはわかるが、現実的に無理だろうと思っていた。
 しかしこの本を読んで、参勤交代は復活できると確信した。しかも、上からの強制によらず、各自が勝手に、自分たちの変える場所を見つけ、それを自分のフルサトとして再定義することができれば、結果としてそれが現代の参勤交代となり、日本を救うかもしれないのである。
 2人のニート、ギーグ(オタク)っぽくてゆるめな若者の主張が説得力を持つのは、2人が縁もゆかりもなかった熊野という場所に通って、新しいフルサトつくりを実践し、それなりの成果を獲得し、かなり充実した感じで実際に「交代」しているからである。
 2人がフルサトつくりに成功したのは、骨を埋めようという面倒臭いことは考えず、可能な限り軽くて、気楽に場所をエンジョイし、友達を作ったからである。都市の再生に用いられるシェアハウス、シェアオフィスという新しい概念も、彼らは地方でこそ有効だと考えて、実践した。
 まず2人は熊野が好きになって通いはじめた。その「通う」感じがまさに参勤交代で、「通う」距離感が、地域と東京との新しい関係性を作り、おかみに頼らず、補助金にも大資本にも依存しない、地域のお気軽な活性化の鍵となる。移動によって、シェアによって「小さなお金を」生み出す具体的秘策ももりだくさんである。「小さなお金」で満足できれば、フルサトは誰でもつくり出せる。
 これは定住とも遊牧とも異なる第3の道である。読み終わって、日本人にはそもそも、こんな軽いフルサトが似合っていたような気がしてきた。日本人は縄文の頃から、採集生活が得意で、物を拾い集めて場所を渡り歩くような、軽やかな生き方をしてきたのだから。

(引用終了)
<朝日新聞 7/13/2014>

本のサブタイトルは「帰れば食うに困らない場所を持つ暮らし方」、本の帯(表紙)には、

(引用開始)

「ふるさと」は、自分でつくってもいい。
暮らしの拠点は1箇所でなくてもいい。都会か田舎か、定住か移住かという二者択一を越えて、「当たり前」を生きられるもう一つの本拠地、“フルサト”をつくろう!多拠点居住で、「生きる」、「楽しむ」を自給する暮らし方の実践レポート。

(引用終了)

とある。

 このブログでは、経済というものを、自然の諸々の循環を含め人間を養う社会の根本理念・摂理として捉え、その全体をマネー経済、モノ経済、コト経済の三層に分けて考えている。「経済の三層構造」で述べたことだが、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

ということで、モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力が高まると共に、特に「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろうと予測している。

 この本にある、フルサトをつくる、食うに困らない場所をつくる、小さなお金を生み出す、多拠点居住を目指す、「生きる」と「楽しむ」を自給する、といったことは、まさにa領域の経済、さらには「コト経済」を最大限に起動させようということに他ならない。本書から引用しよう。

(引用開始)

 ここで考えたいのは「経済とはマネーの交換だけじゃない、とにかく何かが交換されればそれは経済が生まれたと言ってもよいのではないか」ということだ。交換が活発であれば人は他人同士がうまくやっていける状況ができている、これが大事だろうと思う。地域経済活性化を「お金を落としてもらう」とか、そういう意識で捉えている人は、はっきり言ってズレている。「交換を活性化させる、それが経済の活性化」と定義しなおすと、いろいろやるべきことがはっきりする。

(引用終了)
<同書 159ページ>

限界集落に近い田舎に第二の生活拠点を構え、「生きる」と「楽しむ」を自給すること、それはこれからの確かな生き方の一つであり、そこにスモールビジネスの活躍の場も大いにある筈だ。

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心ここに在らずの大人たち

2015年03月03日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『日本人はどう死ぬべきか?』養老孟司×隈研吾共著(日経BP社)という本に、地方の限界集落について次のような面白い指適があった。

(引用開始)

年寄りのいない田舎がフロンティア

養老 今、都道府県でいうと、大阪と広島の人口構成が二十年前の鳥取県と同じなんだそうです。つまり、都市部で高齢化が進んでいるとということなんですけどね。
 そうなんですか。それはあまり知られていないことですね。大阪でそこまで高齢化が進んでいるとしたら、恐るべきことです。
養老 そうはいっても何のことはないんですよ、みんなが年を取っただけの話です。鳥取は、いわば先進県だったということですよ。
 二十年前にすでに現在の状況を先取りしていたわけですね。
養老 じゃあ今どき人口構成がちゃんとしているところはどういう場所か?日本総合研究所の藻谷浩介さんがそいうったことを日本中で調べているんですが、大阪のような都市ではなくて、なんと「田舎の田舎」なんです。うんと田舎になると、二〜三組の夫婦が子供二〜三人を連れて移住しただけで人口構成がちゃんとしたかたちになる、なぜかというと、そこまで田舎になるともう「年寄りがいないから」なんですね。
 究極の田舎に一番健全な人口構成が出現する。
養老 岡山なんかは限界集落が七百以上もあるというから、将来有望な場所だと僕は思っているんです。だってそれらの限界集落は、二十年以内にはほとんどなくなるということですから、地域の人口構成がいったんリセットされる。そこへ若い人が入ってきて、新たなスタートを切る。アメリカ的にいえば、日本にもやっと西部(フロンティア)ができ始めているんですね。
 養老先生のお宅がある鎌倉には、最近、若いベンチャー世代の人たちが多く移住していますよね。軽井沢に住んで仕事は東京という若い世代も増えているそうです。これからもっと田舎に移る人たちは増えていくんじゃないでしょうか。
養老 若い人たちが今、移るところは、ただの田舎じゃないんです。
 どういう田舎なんですか。
養老 つまり、年寄りのいない田舎なんです。若い人にとって、年寄りって邪魔なんですよ。だって既得権を持っているでしょ。田舎っていうのは一次産業がなければやっていけないところで、そうすると畑のいいところは全部、年寄り連中が持っている。年寄りで今、地元に残っている人たちというのは、僕らの世代から団塊の世代まででしょう。そういう人たちが既得権を持ってしまっているから、ものごとが動かない。テレビのニュース番組で農業の後継者問題なんかを取り上げると、田舎のじいさんが「後継者がいなくて……」と、こぼしているんだけど、「お前がいるからだろう」って、思わず画面に向かっていいたくなることがあるんです。
 年寄りって、いるだけで邪魔という面があるんです。今、そういうことをはっきり言わなくなっちゃったけど、とりわけ若い人にとっては、うっとうしいに決まっていますよ。

(引用終了)
<同書 20−22ページ>

 前回「地方の時代 III」の項で、県レベルには「心ここに在らず」の(greedとbureaucracyを許し続ける)大人たちがまだ大勢棲みついているようだと書いたけれど、地方でも限界集落と呼ばれるようなところは、そういう大人がいなくなって理想的な場所になりつつあるわけだ。

 勿論、世の中には「心ここに在る」大人たちもいるわけだから、彼らと若い人たちが人口の過半数を超すようになれば、その地域ではいろいろと新しいことが起り始めると思う。地域密着型のスモールビジネスは、こういったニーズを積極的に取り入れるべきだ。

 『百花深処』<雨過天青>の項で、ドナルド・キーン氏が応仁の乱後の東山文化と三島由紀夫や吉田健一などが活躍した戦後文化との類似性を述べていることを引き合いに、室町のあとは戦国・群雄割拠の時代だから、これからの日本は地域・群雄割拠の時代を向かえることになるだろうかと書いたけれど、このような地域が増えてくれば満更空絵事ではないかもしれない。ただしこれからの群雄割拠は、近代民主政治制度下で「ヒト・モノ・カネの複合統治」を目指すべきだし、個人の「精神的自立の重要性」を忘れてならないけれど。

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地方の時代 III

2015年02月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『33年後のなんとなく、クリスタル』田中康夫著(河出書房新社)つながりで、『「脱・談合知事」田中康夫』チームニッポン特命取材班著田中康夫監修(扶桑社新書)および『日本を MINIMA JAPONIA』田中康夫著(講談社)の二冊を読んだ。

 田中長野県政は2000年10月から2006年9月まで6年間続いた。『「脱・談合知事」田中康夫』は2007年3月初版発行だから県政が終わってから、『日本を MINIMA JAPONIA』は2006年6月第一刷発行だから、まだ田中氏知事時代の出版ということになる。後者の巻末には、2005年に結成された「新党日本」代表としての田中氏の政治哲学注釈「ミニマ・ヤポニア―日本を)」横組95ページがある。

 『「脱・談合知事」田中康夫』は、大手ゼネコンの元課長から地元の建築コンサル、中堅建築会社社長、村長、弁護士、県の土木系職員などへの取材を基にした本で、県レベルにおける談合政治の実態が良くわかる。最終章には「脱・談合ニッポン実現のために」という田中氏の特別寄稿文がある。

 『日本をMINIMA JAPONIA』は出版から9年経つが、談合政治との決別、箱モノ行政からの転換、脱ダム宣言、コモンズに根ざした介護と教育、林業再生、開かれたメディア対応、ノブレス・オブリージュなど、地域行政に必要と思われる項目がすでにほぼ網羅されている。章立てを記しておこう。

序 章 「怯まない」「屈しない」「逃げない」
第1章 三位一体改革のまやかし
第2章 箱モノ行政からの転換
第3章 信州から変えるニッポン
第4章 「コモンズ」に根ざした介護と教育
第5章 雇用を生み出す信州スタイル
第6章 林業再生
第7章 「『脱ダム』宣言」で問う公共事業
第8章 権力化したメディアを溶解させる
第9章 エリートを否定するな
第10章 田中康夫のよる「田中康夫」論
MINIMA JAPONIAミニマ・ヤポニア

 この二冊の本は、『33年後のなんとなく、クリスタル』の註のうちヤスオの政治活動に関する部分の拡大版でもあると思う。『33年後〜』を読んでヤスオの政治活動に興味を覚えた人にとって、この二冊はさらに理解を深める為の必読書といえるだろう。『日本をMINIMA JAPONIA』は、本の構成も縦組の本文と巻末横組のページということで『33年後のなんとなく、クリスタル』と似ている。

 それにしても、長野県民は2006年9月からの新知事になぜ田中氏を再選しなかったのだろう。2011年の3.11以降、脱ダム宣言に見られる自然との共生理念はその重要性を増しているというのに。

 『「脱・談合知事」田中康夫』の付録としてある47都道府県の知事プロフィールを見ると、その7割もが霞ヶ関と県庁役人出身だ。今も(知事の顔ぶれや制度は変わっても)実態はあまり変わっていないのではあるまいか。

 田中氏は、『「脱・談合知事」田中康夫』の最終章「脱・談合ニッポン実現のために」の冒頭、次のように書く。

(引用開始)

 談合とは何ぞや、という話の前に、私が三選されなかった理由ですか?
 実は先日もその答えを、TV局で一緒になった自由民主党の国会議員から聞かされたばかりでした。
 あなたは利権を配らなかったからねぇ。それどころか、47都道府県知事で唯一、一般競争入札を全面的に導入して、利権そのものを作ろうとしなかった。敗因は、これに尽きるよ、と。
 続けて、彼から“助言”まで受けました。
 適当に妥協しておけば良かったんじゃないの。「改革派」と最後まで新聞んでは持ち上げられ続けて、逮捕とは無縁で引退していく他県の知事の中にだって、県議員一人ひとりに毎年一か所は、希望の公共事業を無条件で認めてあげるから、と甘い言葉を囁いて、議会対策を抜かりなく進めていたりする人が殆(ほとん)どだから、と。

(引用終了)
<同書 152ページ>

このブログではこれまで「地方の時代」や「地方の時代 II」などの項で、新しい国づくりは地方都市から始まると述べてきた。その理由について、

(引用開始)

「若者の力」の項でみたように、地方都市の魅力が高まっていることが一つ。新しい「コト」が起きるためには、ある程度小さな規模の枠組みが必要なことがもう一つ。一方、大規模都市にはgreedとbureaucracyと、それを許し続ける「心ここに在らず」の大人たちが大勢棲みついていることが第三の理由だ。

(引用終了)
<「地方の時代」より>

と書いたけれど、阻害要因である「心ここに在らず」の大人たちは、県レベルにはまだまだ大勢棲みついているようだ。

 この二冊を精読してこれからの時代に備えたい。2000年代前半の田中県政はその先駆けなのだから。特に、『日本をMINIMA JAPONIA』巻末にある「ミニマ・ヤポニア―日本を)」は、著者渾身の政治哲学書だと思う。

 尚、『33年後のなんとなく、クリスタル』については、「しなやかな<公>の精神」、姉妹サイト『百花深処』<日本の女子力と父性について>、<向き合うヤスオと逃げるハルキ>の各項をお読みください。

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空き家問題をポジティブに考える

2014年10月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『空き家問題』牧野知弘著(祥伝社新書)と『「空き家」が蝕む日本』長嶋修著(ポプラ新書)を読んだ。まず隈研吾氏の新聞書評を紹介しよう。

(引用開始)

 2040年の日本では、10軒のうち4軒が空き家になるそうである。
 ショックである。少子高齢化とか出生率の低下というと、何かヒトゴトで抽象的な社会現象に思えて、リアリティがない。しかし「町に空き家が溢れる」と聞き、さらに、これが地方の過疎地だけの問題ではなく、東京も空き家だらけになるという科学的予想に接し、暗澹たる気分になった。読了して町を歩くと、空き家ばかりが目にはいってきて、東京が低層スラムにみえてきた。空き家率3割を超えると、途端に治安も悪化するらしいから、すぐ明日の話である。
 原因についての分析も興味深い。高度成長が終わり、少子高齢化の低成長時代に突入しているにもかかわらず、家を新築させることで、景気を浮揚させようという政策が慢性的に続いたこと。その政策に頼って収益をあげてきた民間企業も、政策に甘え、新しいライフスタイルに挑まなかった。この「戦後日本持ち家システム」とも呼ぶべきものがついに破綻を迎えつつあり、それが「空き家」という具体的な形で、僕らの目の前につきつけられたわけである。
 しかも、ここには戦後システムの劣化という直近の難題を越えた、深い問題が顔をのぞかせているようにも感じた。人にとって、本当に「家」というハコは必要なのかという大問題である。「家」という高価なハコを所有していれば、とりあえず一人前であり、「幸せ」であることになっていたけれど、その「幸せ」の実態は何だったのか。さらにその先には、「家」という器のベースである「家族」の必要性、家族形態のあり方はこれでいいのか。さらに深掘りすれば、人間が空間という曖昧で手のかかるものをそもそも私有できるのか。私有してどんないいことがあるのか。人類史の根本にまで、思考が到達せざるを得ないようなこわさがあった。

(引用終了)
<朝日新聞 9/7/2014、フリガナは省略>

今回はこの空き家問題を、「モノコト・シフト」と「経済の三層構造」の観点から、ポジティブに考えてみたい。

 モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による、「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。「経済の三層構造」とは、「経済」=「自然の諸々の循環を含め、人間を養う社会の根本の理念・理法」という定義の下、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という形でその構造を区分したものだ。このブログでは、モノコト・シフトの時代、人々の関心は、経済三層a、b領域のうち、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)、そして「コト経済」(a、b両領域)に向かうものとしている。

 家とは器であり「モノ」であるから、当然、経済三層構造の中の「モノ経済」に属す。このうちa領域のための家は、生活必需品としての住まいなので人口が減っても必要だ。いま問題になっている「空き家」とは、そういった「モノ経済」a領域の家ではなく、それ以外、住人のいない家、相続しただけの家、セカンドハウスなどだから、「モノ経済」b領域の家である。これらの家は、モコト・シフトの観点からして、そのままではあまり関心が持たれなくなってくる。

 それではどうしたら良いか。書評に「家を新築させることで、景気を浮揚させようという政策が慢性的に続いたこと。その政策に頼って収益をあげてきた民間企業も、政策に甘え、新しいライフスタイルに挑まなかった」と描かれた「bureaucracy(官僚主義)」の排除は勿論必要だが、ビジネスとしては、モノコト・シフト時代への対応として、それらの家をできるだけ「モノ経済」a領域と、「コト経済」b領域へシフトさせることが求められる。

 『空き家問題』の第4章には、数々の処方箋が述べられている。詳しくは同書をお読みいただきたいが、ここで指摘したいのは、それらの処方箋、市街地再開発手法の応用、シェアハウスへの転用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用などが、どれも「モノ経済」b領域から、「モノ経済」a領域、「コト経済」b領域へのシフトであるということだ。複合型もあるから一概には言えないが敢て分ければ、

「モノ経済」a領域へのシフト:市街地再開発手法の応用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体

「コト経済」b領域へのシフト:シェアハウスへの転用、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用

といったところか。

 この「モノ経済」aと「コト経済」b領域へのシフトという観点にフォーカスすれば、空き家の使い道はまだまだ考えられる。スモールビジネスとしては、とくに「コト経済」b領域へのシフトが有望だと思う。上の例とも被るが、スモール・ショップや地産地消の飲食店、小さな美術館、コンサート会場、図書館、各種イベント会場、共有セカンドハウスなどなど。つまり、「人と外部との相互作用全般」を司る場所という観点で空き家を考えれば、その用途は無尽蔵なのである。

 こういった目で町を歩けば「空き家ばかりが目にはいってくる」というよりも、最近いたるところに小さなショップやシェアハウスが出来はじめている、と気付くのではないだろうか。モノコト・シフトはすでに街角から始まっているのだ。皆さんが起業した会社、もしくは働いている会社がこういった分野に関わっているのであれば、是非この項を参考にして、増える空き家を活用していただきたい。

 尚、今回同様「モノコト・シフト」と「経済の三層構造」による分析手法で、ビール業界について考察した項もある(「ビール経済学」)。併せてお読みいただければ嬉しい。

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シェア社会

2014年05月06日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『シェアをデザインする』猪熊純・成瀬友梨・門脇耕三編著(学芸出版社)という、「シェア社会」についての報告とディスカッションの本を読んだ。副題に「変わるコミュニティ、ビジネス、クリエーションの現場」とある。まず、建築家隈研吾氏の新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 私有からシェアへという、パラダイム転換が、今、あらゆる領域、あらゆる場所で話題になっている。その転換で、われわれの生活、社会はどう変わるのか。実践者たちの声を通じて、その実態が、具体的に語られる。
 なかでも、最も耳目を集めているのは、シェアハウスという、一種の共同生活スタイルのアパートである。多少、家賃が割高でも、仲間とリビングやダイニング、水周りを共有して暮らせる、この新しい集合住宅は、若者のみならず、中高年の単身者からも、さみしくない老後のための新しい共同体のあり方として、がぜん注目されている。しかもシェアという方法が、居住スタイルにとどまらず、生産、消費、創造を含む社会のすべての領域に拡大しつつある現状を、本書は生々しく記述する。
 日本は、このシェアという方法で、世界をリードできるのではないかという可能性も感じた。少子高齢化で、高度成長期に築きあげた莫大(ばくだい)なボリュームの建築群が、一気に余りはじめているからである。シェアは日本の都市自体をリノベーションする、新しい方法論でもありうる。
 シェアが日本的であると感じたもうひとつの理由は、日本人が持っているやさしさが、日本社会のセキュリティーの高さ、犯罪率の低さが、シェアというゆるいシステムの適合しているからである。シェアハウスは、実は、日本の昔ながらの下宿屋の再来という説もあって、シニアには昭和のなつかしい香りもする。1990年代以降の社会、経済的停滞、特にかつて日本をリードしていた大企業の不振と無策とによって、シェアシステムが活躍する隙間が、無数に出現したことも、本書から見えてきた。その意味で、シェアは日本社会にとって、起死回生の策となるかもしれない。経済のグローバル化に乗り遅れたかに見える日本が、再び先にたつための、強い武器になるかもしれない。

(引用終了)
<朝日新聞 2/23/2014)

本カバーの帯には、ディスカッションに参加した17人の名前とともに、「今、何が起こっているのか?会社員でもフリーでも、個人ベースで働く/コラボレーションが新しい仕事を生み出す/共感を呼ぶ不動産活用が、ストックの価値を高める/無数のクリエーターとのつながりが、イノベーションを起こす」との紹介文がある。

 この本の構成は、

プロローグ
1.コミュニケーションのシェア
2.シェアのビジネス
3.クリエイティビティのシェア
4.社会のバージョンアップ
エピローグ

となっている。その「2.シェアのビジネス」の最後の方に、

(引用開始)

関口 シェアの付加価値は大きく分けて二つあって、ひとつめが、合理的かつ経済的な付加価値。たとえば一人で暮らすと最低限のキッチンしか持てないところ、大勢で住めばもっとグレードアップした、業務用のキッチンさえ持てちゃいますよ、というようなことです。二つめは、情緒的価値。つまり、そもそも人が集まっていると、単純に楽しいんですね。出会いがあったり、目標を達成した時の高揚感を共有できたり、あるいは、互いに切磋琢磨したり、刺激を受けられたりする。その二つかなと思います。

(引用終了)
<同書 134ページ>

とある。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

に当て嵌めれば、「合理的かつ経済的な付加価値」はA、a系のメリット(効率)、「情緒的価値」はB、b系のメリット(効用)ということだろう。

 シェアは「棚に陳列されたモノ」ではなく「人同士に起こるコト」であり、シェア型経済においては、焦点が「モノからコト」へシフトしてゆく筈だ。だからこの本は、シェアから見るモノコト・シフト時代(モノよりもコトを大切に考える新しいパラダイム)の現場報告ともいえる。隈氏が指摘するように、日本がシェア社会の最前線に立てるとしたら素晴らしい。

 「3.クリエイティビティのシェア」にあるクリエイティブ・コモンズの考え方は、成果をシェアするとさらに良いコトが起こる、という意味で、「コト経済」の基本ルールとして捉えることもできそうだ。「経済の三層構造」の項で述べたように、経済は「コト」「モノ」「マネー」の三層構造になっていて、「コト経済」とは、生命の営み、人と外部との相互作用全般を指す。それは本来、互助的な性格のものなのだ。

 シェアについては、以前「“シェア”という考え方」「“シェア”という考え方 II」という項を書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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ヒト・モノ・カネの複合統治

2014年01月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「nationとstate」の項で、

(引用開始)

 これからのstateの統治のあり方は、他の地域でも、EU方式の延長線上にあるのではないだろうか。すなわち、ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること。それが、これからのstateの統治に求められるのではないだろうか。

(引用終了)

と書いた。今回は引き続きこのことについて考えてみたい。ヒト・モノ・カネは、「経済の三層構造」それぞれの主役である。

「コト経済」<主役:ヒト>

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」<主役:モノ>

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」<主役:マネー>

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という具合だ。

 「nationとstate」の項で述べたように、stateのあり方は、nationの側でその「理念と目的」を定めるわけだから、『ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること』とは、nationに帰属する人々が、その「理念と目的」に基づき、自らの「コト経済」(a、b)、「モノ経済」(a、b)、「マネー経済」(a、b)、それぞれについて、その「居場所と機構」(と各層の連携)を考えることに他ならない。

 モノコト・シフトの時代、多くの人々の間では、特にa領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」(a、b両領域)に対する親近感が増す。一方で、一握りのgreed(過剰な財欲と名声欲)に囚われた人々の間では、「マネー経済」、特にb領域への(国境を越えた)固執が強まるだろう。

 これらを前提に、たとえばnationを「○○流域人」と仮定し、そこでは、ある程度の農業資源があり、観光資源も豊富だったとしよう。その場合、

「コト経済」<主役:ヒト>

a: 生命の営みそのもの →「地域密着の福祉型」
b: それ以外、人と外部との相互作用全般 →「芸術立国を目指す」

「モノ経済」<主役:モノ>

a: 生活必需品 →「多品種少量生産」
b: それ以外、商品の交通全般 →「輸出入で賄う」

「マネー経済」<主役:マネー>

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤 →「地域通貨+グローバル通貨」
b: 利潤を生み出す会計システム →「特区の設置」

といった基本方針が考えられる。「○○流域国(state)」は、その「理念と目的」を国内外に明示し、この基本方針に沿って、ヒト・モノ・カネの複合統治システムを設計すれば良い。ただし、安全保障や外交に関しては、隣国や他国と条約を結ぶ必要がある。

 勿論、現実には様々な柵(しがらみ)があって、「○○流域国」の樹立は空想的だが、モノコト・シフトが進行する中、そう遠くない将来、人々はこのような道筋で、自分たちの暮らすstate(居場所と機構)について、考えを巡らすようになると思うがいかがだろう。

 この「ヒト・モノ・カネの複合統治」、別の角度から見れば、以前「世界の問題と地域の課題」や「地方の時代 II」の項で指摘した世界の問題点:

1.コーポラティズム、官僚主義、認知の歪み
2.環境破壊
3.貧富格差の拡大

に対する改善策の一つとして捉えることも出来る。

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nation と state

2014年01月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『老楽国家論』浜矩子著(新潮社)を読んでいたら、nationとstateに関して、次のような文章があった。

(引用開始)

 国民国家を英語でいえば、nation stateである。nationが国民すなわち人々だ。stateが国家である。国民国家という日本語を使うと、どうも、国民と国家が表裏一体・渾然一体となっている感が強くなる。だが、nation stateと言い替えてみると、いささかイメージが違う。人々の集団としてのnationがある。その集団を構成員とし、その集団のために存在する居場所と機構としてのstateがある。こんな感じである。

(引用終了)
<同書 81ページ>

nationとは、文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団、すなわち民族や国民を意味し、stateとは、その集団の居場所と機構を意味するという。日本は、歴史的な経緯から「民族・国民」と「国家」の一体性が強いが、二つは必ずしもイコールではないわけだ。

 以前「里山システムと国づくり」の項で、「民族国家」という概念は20世紀の遺物なのではないだろうか、と述べたけれど、ここで、改めてnation(民族・国民)とstate(国家)について考えてみたい。

 まずnationについて考えてみよう。このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代、すなわち、モノよりもコトを大切にする生き方・考え方の時代だと指摘してきた。それは、20世紀の大量生産・輸送・消費システムと、人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ“行き過ぎた資本主義”に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」による“モノ信仰”の行き詰まりに対して生まれた、新しい時代のパラダイムだ。

 人々が共有する価値観を紡ぐ“コト”は、常に「場所」において生じる。従って、モノよりもコトを大切にする集団の規模は、“モノ信仰”の時代よりも、小さなものになると思われる。勿論、集団の文化や言語、宗教や歴史、あるいは経済状況によってその規模はまちまちだろうが、総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を高めると思われる。スペインのバスクとカタルーニア地方、イタリアの北部同盟、イギリスのスコットランド、日本の沖縄などなど。そもそも1991年のソ連崩壊はその前兆だったのかもしれない。

 次にstateについて考えてみよう。nationと違い、stateは人々の「居場所・機構」である。従ってそれは、人々の間で合意された「理念と目的」に基づいて、合理的に統治・運営されなければならない。『老楽国家論』で浜氏は、

(引用開始)

 国家とは、基本的に国民を顧客とするサービス業だ。顧客満足度の極大化こそ、国家の仕事だ。

(引用終了)
<同書 88ページ>

と述べておられる。今は、ヒト・モノ・カネが国境を越える時代だ。nation(民族・国民)という括りへの分裂圧力と、ヒト・モノ・カネの流動性の強まり。そういう時代、state(集団の居場所・機構)の統治は、昔に較べて、遥かに複雑なものにならざるを得ないと思われる。その一例が欧州連合(EU)の統一通貨政策だろう。ヒト・モノとマネー管理を分離することで複雑な時代に対応しようとしているわけだ。

 これからのstateの統治のあり方は、他の地域でも、EU方式の延長線上にあるのではないだろうか。すなわち、ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること。それが、これからのstateの統治に求められるのではないだろうか。ヒト・モノ・カネを一元的に管理・運営しようとする(民族国家のような)統治は、これからの時代にそぐわないものになってきていることは確かだと思われる。

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流域地図

2014年01月07日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『「流域地図」の作り方』岸由二著(ちくまプリマー新書)が出た。副題に「川から地球を考える」とある。このブログでは、「山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える発想」=流域思想(もしくは流域思考)を、「流域思想」や「流域価値」の項などで紹介してきたが、これはその提唱者である岸氏の新著で、地図作りという遊びを通してその思想を伝えようという、いわば流域思想の入門書だ。まずは新聞の紹介記事によって本の内容を紹介しよう。

(引用開始)

 温暖化や生物多様性危機で変貌する地球環境について、川を軸にして広がる「流域」から考察した環境革命の入門書。
 まずは身近な川で流域地図を作ってみる。道路地図などを用意して、自宅周辺の川を探し、源流と河口をたどる。すると川が最源流につながる本流に支流が合流して大きな流れになっていることが分る。その本流と支流を合わせ水域といい、水域を中心にして広がる雨の集まる大地の範囲を「流域」と定義するそうだ。その流域を一つの単位として、エネルギーや流通の要としての川の役割、生物たちの食物連鎖、そして水循環から地球規模の課題までを考察する「流域思考」の勧め。

(引用終了)
<日刊ゲンダイ 12/12/2013>

 地図といえば、私は相当なマップラバーで、パノラマ地図や立体地図に目がない(「立体地図」)。流域地図は、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして描くわけだから、それこそパノラマや立体地図に相応しい。日本の109の一級河川(やその他の川)を、源流から、支流、河口まで辿る立体地図があったらどんなに有意義で、且つ楽しいことだろう。しかし、岸氏も本書で述べているが、市販の一般的な流域地図はまだ存在していないようだ。

(引用開始)

 市販の一般的な流域地図はまだ存在していないので、いまはまだ、必要とする個人や団体などが自力で描くほかはない。もっとも有望なインターネットの地図サービスの領域でも、本文でもふれた「Yahoo!」の水域マップまでが現状で、どこでもボタンひとつで地域の流域配置がわかるようなサービスは、まだない。

(引用終了)
<本書 153ページ>

 インターネットを使った流域地図サービス、視点を360度自由に操作したり、拡大や縮小が可能な流域立体地図を作成・提供するのは、技術的にはそれほど難しくないはずだ。「流域価値」の項で述べたように、流域によって生み出される分散型エネルギー、街づくり、文化価値などは、モノコト・シフト時代における重要な基盤となる。そういうビジネス(流域地図作成・提供)を立ち上げたいとお考えの出版社、もしくは起業家がいれば、私も是非お手伝いしたいと思う。

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本当の地域再生

2013年12月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『地域再生の罠』久繁哲之介著(ちくま新書)という本を共感しながら読んだ。いろいろな都市の失敗例に学びながら、本当の地域再生を考える本。まずは新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 「失敗学」を提唱するアナリストが書いた本書は地域おこしの必読書として有名。地域再生施策の大半は「成功事例にならう」という発想を基本にしているが、この「成功模倣主義」は2つの点で大問題という。
 第一に、専門家が推奨する成功事例の多くは実は成功していない。また「本当の成功」話はたいてい外国や昔の話で実際には役立たないことのほうが多いのだ。本書は成功例とされる宇都宮、松枝、長野、福島、岐阜、富山をくわしく分析。そこから得た教訓として「地方自治と土建工学」のいびつな関係を批判する、地元おこし関係者のみならず、住民運動や一般の生活人としても考えたいテーマが目白押しだ。

(引用終了)
<日刊ゲンダイ 10/29/2013>

ここに「土建工学」という面白い言葉が出てくる(失敗学については以前「失敗学」の項で解説した)。土建工学者とは、土木、建築、都市計画、都市工学における技術分野の学者の総称。彼らの発想は往々にして住民を置き去りにするという。同書カバー裏の紹介文も引用しよう。

(引用開始)

社員を大切にしない会社は歪んでいく。それと同じように、市民を蔑ろする都市は必ず衰退する。どんなに立派な箱物や器を造っても、潤うのは一部の利害関係者だけで、地域に暮らす人々は幸福の果実を手にしていない。本書では、こうした「罠」のカラクリを解き明かし、市民が豊になる地域社会と地方自治のあり方を提示する。

(引用終了)

ということで、この分野に興味がある人には大いに参考になる本だと思う。本の内容を、さらに章立てのタイトルから見ていただこう。

第1章 大型商業施設への依存が地方を衰退させる
第2章 成功事例の安易な模倣が地方を衰退させる
第3章 間違いだらけの「前提」が地方を衰退させる
第4章 間違いだらけの「地方自治と土建工学」が地方を衰退させる
第5章 「地域再生の罠」を解き明かす
第6章 市民と地域が豊になる「7つのビジョン」
第7章 食のB 級グルメ化・ブランド化をスローフードに進化させる
第8章 街中の低未利用地に交流を促すスポーツクラブを創る
第9章 公的支援は交流を促す公益空間に集中する

 このブログでは、モノコト・シフト時代の産業システムの一つとして、食の地産地消を挙げているが、「食のB級グルメ化・ブランド化をスローフードに進化させる」という提案は、導入ステップとして分りやすい。「勝負の弁証法 II」の最後で述べたように、スポーツクラブも、モノコト・シフト時代に相応しい提案だ。第6章の「7つのビジョン」とは以下の通り。

ビジョン@「私益より公益」
ビジョンA「経済利益より人との交流」
ビジョンB「立身出世より対等で心地よい交流」
ビジョンC「器より市民が先に尊重される地域づくり」
ビジョンD「市民の地域愛」
ビジョンE「交流を促すスローフード」
ビジョンF「心の拠り所となるスポーツクラブ、居場所」

 また、第2章には、商店街再生へ向けての4つの提案がある。

1.車優先空間から「人優先空間」への転換 
2.出店者一人にリスクを押しつけず、「市民が安心・連携して出店できる仕組みを創る 
3.店舗個別の穴埋めをする発想をあらため、地域一帯の魅力を創造することを考える 
4.商店街の位置づけを「物を売る(買う)」場」から「交流・憩いの場」へ変える 

中でも最後のポイントは、モノコト・シフト時代を象徴する提案であろう。「経済の三層構造」の項で述べたように、これからは「モノ経済」以上に「コト経済」が重視される時代だからだ。

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里山システムと国づくり

2013年10月15日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “里山資本主義”藻谷浩介・NHK広島取材班共著(角川oneテーマ21)という本を読んだ。まずは本の内容について、新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

 中国地方を舞台に森林資源などを活用し、自然エネルギーの普及と地域再生に取り組む動きを紹介したNHK広島放送局制作の番組を活字にしたのが本書だ。「里山資本主義」は広島放送局のプロデューサーが考えた言葉である。
 同番組にも出演した藻谷氏は、里山資本主義を「マネー資本主義」を補完するシステムと位置付ける。大震災でエネルギーの原子力発電への依存に限界があることがわかった今、自然エネルギーの普及は急務だ。本書に登場する岡山県真庭市の銘建工業のように木質バイオマス事業に取り組む地域企業が増えている。
 耕作放棄地を使って自然放牧に取り組む若者や、空き家を転用した福祉施設で地元のお年寄りがつくる野菜を食材に使う話なども取り上げている。身近な資源を最大限に生かし、お金に過度に依存しない社会をつくる試みだ。
 藻谷氏はそれが現代人の不安や不信を解消し、高齢者の健康につながり、少子化を食い止める対策にもなると指摘する。地方の集落崩壊が人口の減少に拍車をかける一因になっているのは事実だろう。
 里山資本主義の先進国として紹介しているオーストリアの話が面白い。森林資源をエネルギーとして生かすだけでなく、木造の高層ビルも続々と増えている。日本でも強度に優れた集成材を普及させ、木造建築物に対する規制を緩和することが必要になる。

(引用終了)
<日経新聞 8/18/2013>

 以前「効率と効用」の項で書いたように、経済とは、「自然界の諸々の循環を含めて、人間を養う、社会の根本の理法・摂理」を意味する。里山資本主義は、これからの日本の経済システムとして、充分通用する考え方だと思う。

 「地方の時代」の項で、「新しい国づくりは魅力ある地方都市から始まる」と書いたけれど、里山資本主義こそ、地方都市発の国づくりに相応しい。統治とは国家経営であり、経営とは、集団の理念と目的の実現に努めることだから、国づくりにも「理念と目的」が必要だ。モノコト・シフト時代の国の「理念と目的」には、多様な「コト」の起こる環境や場を守る理念が入っていなければならない。里山資本主義が、これからの日本の国づくりに相応しい由縁である。

 これからの時代、そもそも、「国」が一方的に価値を縛る時代ではあるまい。「近代家族」同様、「民族国家」という概念は、20世紀の遺物なのではないだろうか。21世紀の国づくりには、全国各地の里山システムが、多様な流域価値を生み出し、それが繋がり、大河となって全体の価値観が形成される、といった重層的なプロセスが必要だと思う。この本にもあるが、里山システムが海外のそれと連携するといったことも積極的に行なわれるべきだ。むしろ、これからの国の「外交」は、そういった地方の連携の交通整理が主な仕事になるのかもしれない。そもそも政治とは、社会集団における利害の合理による調整なのだから。

 里山については、このブログでもこれまで「里山ビジネス」や「内と外 II」、「継承の文化」の項などで、いろいろと考察してきた。併せてお読みいただけると嬉しい。

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地方の時代

2013年09月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「女子力」の項で、日本の政治やビジネスにおいては「律令」主義を排して女性性=「関係原理」を取り入れることが必要になってくる、と書いたけれど、それは大規模都市からではなく地方都市から始まるように思う。

 「若者の力」の項でみたように、地方都市の魅力が高まっていることが一つ。新しい「コト」が起きるためには、ある程度小さな規模の枠組みが必要なことがもう一つ。一方、大規模都市にはgreedとbureaucracyと、それを許し続ける「心ここに在らず」の大人たちが大勢棲みついていることが第三の理由だ。そういう大人たちが大勢棲みついていると、多様性への対応の四段階、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

における「同化」圧力が高く、新しい「コト」が起こりにくい。起こしにくい。

 モノコト・シフト後の「新しい家族の枠組み」の価値観は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったことだ。だから、大量生産・輸送・消費に便利な大規模都市に住む理由はない。これからは、少品種少量生産、資源循環、食の地産地消、新技術の時代なのである。それを牽引するのは、理念と目的を持ったスモールビジネスと、その横の連携だ。

 さらに、このブログでは、モノコト・シフト後の新しい地域価値観として、「流域思想」というものを提唱している。流域思想とは、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心に、その流域を一つの纏まりとして考える発想のことで、これからの食やエネルギー、文化の継承などを考える上で重要な思想の一つだ。流域思想は、山岳と河川の豊な地方都市の方が、ビルに覆われた大規模都市よりも実践的である。これが、地方都市から新しい日本が生まれるであろう第四の理由である。

 勿論、大規模都市近辺にも魅力的な場所はある。「都市の中のムラ」の項ではそういう場所について述べた。大事なのは、そこに暮らす人々が精神的に自立できていること、そして、新しい価値観に対して寛容なこと。さらにそこに地域固有の流域価値があれば、黙っていても多くの若者たちが集まってくるだろう。

 以前「小さな町」の項で、イタリアの地方都市の新しい試みについての本を紹介し、

(引用開始)

日本も明治の開国から150年近く経つわけだから、そろそろ真剣に過去を見直して、新しい国づくりを考える時期に来ているのではないだろうか。

(引用終了)

と述べたけれど、新しい国づくりは、魅力溢れた地方都市から始まるといって良いと思う。

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アッパーグラウンド II 

2013年07月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き日本社会の今を検証するために、福島第一原発事故のドキュメント“メルトダウン”大鹿靖明著(講談社文庫)と、“死の淵を見た男 吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日”門田隆将著(PHP)の二冊を読んだ。

 “メルトダウン”では、無能な政治家や無責任な官僚、原子力ムラ人たちのリーダーシップ欠如の詳細が描かれている。こちらは主にResource Planning型リーダーシップだ。村上春樹は“アンダーグラウンド”の最後に、地下鉄サリン事件を巡る責任回避型の社会体質は(戦争に突入した)それ以前と変わっていないと述べているが、今回の原発を巡る諸々の出来事は、それが今も全く変わっていないことを示している。

 “死の淵を見た男”では、先日亡くなった吉田所長を始めとする現場作業員たちの決死の努力が描かれている。こちらのリーダーシップは主にProcess Technology型だ。自衛隊と消防隊の協力も忘れてはならない。端的に言って、この人たちがいなかったら今の日本列島はない訳だ。それといくつかの僥倖があった。たとえば何故か4号機の燃料冷却プールの水がなくならなかった。しかし、また同じ事が起こったら今度こそ日本列島は使い物にならなくなるだろう。

 二冊の本により、原発事故の処理を巡って明らかになるのは、本部のResourcePlanning型リーダーシップの欠如と、現場のProcess Technology型リーダーシップとチームワークの力である。まさに地下鉄サリン事件や戦争の時と同じ構図だ。事故に当たり、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進める(社会基盤を効率的に運用する)ためのリーダーシップは前者Resource Planning型で、東京の政治家や官僚、原子力ムラの住人達の役目の筈だが、今回も(昔戦争に突入したときと同じく)機能しなかった。一方、福島の現場のリーダーシップは、正に原発システムの中に入り込んでそれを制御するわけだからProcess Technology型で、これは(与えられた過酷な環境下で)最大限機能したと思う。

 日本社会のResource Planning型リーダーシップの欠如の一端は、その言語構造(日本語の環境依存性構造)にあるというのが私の見立てである。詳細は、このブログのカテゴリ「言葉について」や「公と私論」をご覧戴きたいが、私はリーダーシップを二つの型に分けて、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進めるリーダーシップをResource Planning型、システムの中に入り込んで改善を行なうそれをProcess Technology型と呼んでいる。日本社会に欠如しているのは、このうちのResource Planning型だと思う。今の日本語はProcess Technologyには向いているが、Resource Planningには向いていない。英語は逆にResource Planningには向いているが、Process Technologyにはあまり向いていないというのが私の持論だ。勿論今の日本語を鍛えることはできる。

 村上春樹は、2010年の“1Q84”で、リトル・ピープルに象徴される20世紀的価値観が崩壊した世界を描いたわけだが、「世界の問題と地域の課題」の項の最後で触れたように、最新作“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”ではそのテーマは足踏み状態だ。この本では、日本社会の問題は「人々の人生は人々に任せておけばいい。それは彼らの人生であって、多崎つくるの人生ではない」(351ページ)として傍観している。好意的に考えれば、今回は東日本大震災後の共同体に暮らす個人の内面に焦点を当てた為だと思われる。村上春樹は長年鍛えた自分の日本語(表現)によって、いずれこの問題に切り込んでいくだろう。そう願いたい。

 とここまで書いて、2011年に出版された“小澤征爾さんと、音楽について話をする”(新潮社)のことを思い出した。誰もそういう読み方をしていないけれど、この作品は、単にクラシック音楽界のことではなく、“アンダーグラウンド”で戦後日本の挽歌を書いた村上氏が、同じ戦後日本へのポジティブなオマージュとして、国際舞台で活躍する小澤征爾という「最も良き戦後の日本人」を一度は描いておこうと思い立って出来た作品ではあるまいか。その意味ではだれでも良かったのだけれど、あのタイミングで全ての条件に合ったのが小澤征爾だったのだと思われる。そう考えて作品のタイトルを見ると、“音楽についての話をする”ということで殊更“音楽”が強調されている。神戸大震災が主人公なのに“神の子供たちはみな踊る”、戦後日本が主人公なのに“アンダーグラウンド”、東日本大震災が主人公なのに“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”、といった形で作品を書いてきた村上氏の「ひそかな韜晦術」を見る気がするがいかがだろう。それはそれで村上氏らしい確信犯的韜晦だ。

 それにしても、今の日本は、世界的潮流としてのモノコト・シフトや、地域特有の兆候(高齢化、人口の減少など)に相応した社会基盤の構築が急務だと思う。社会基盤の不備とgreedとbureaucracyによる自由の抑圧システム。この二つの犠牲者は我々自身である。たとえば連日どこかで繰り返される「人身事故」のアナウンス。私を含めて人はみな遅刻を気にして舌打ちする。我々の同胞の一人が、システムの犠牲になっていまこの近くで命を失った(かもしれない)にも拘らず!本当は、誰にも犠牲者を哀悼する気持ちはあると思う。でも忙しさなどからその気持ちを無意識に抑制してしまうのだ。その小さな隠蔽が、人々の心ここに在らずの状態(認知の歪み)をさらに助長していく。

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アッパーグラウンド

2013年07月16日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 “アンダーグラウンド”村上春樹著(講談社文庫)を読んだ。1995年3月20日(月曜日)、都内の地下鉄で何が起こり、被害者が何を考えどう行動し、そしてその後どういう状況に置かれたのか。

 膨大なインタビューを通して浮かび上がるのは、通勤地獄と長時間勤務に耐える「近代家族」の姿と、非常時に社会基盤(インフラストラクチャー)を効率的に運用できないResource Planning型リーダーシップの欠如だ。このドラマの主人公は1995年の日本社会そのものだと思う。だからこの項のタイトルは、アンダーグラウンドではなく、アッパーグラウンド(地上)とした。

 リーダーシップには二種類ある。一つは、システム全体を俯瞰して資源配分などを効率よく進めるResource Planning型、もう一つは、システムの中に入り込んで改善を行なうProcess Technology型である。今の日本語的発想は、環境に同化しやすいので、後者には強いが前者には弱い。

 「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、21世紀に入って、家族や労働のあり方に対する価値観は、根本的に変わってきている。これは、このブログで指摘している“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(略してモノコト・シフト)に呼応した世界的潮流だ。

 20世紀的価値観は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったものだったが、「新しい家族の枠組み」の価値観は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったことだ。勿論、両者は当面斑模様のように混在する。

 新しい家族や労働のあり方に関する価値観は、新しい産業システムと、それを支えるエネルギーや交通、住宅や社会保障などの社会基盤を必要とする。20世紀的価値観における産業システムは、基本的に、大量生産・輸送・消費だったから、それを支える社会基盤も、高度な交通網、郊外団地、終身雇用を前提とした年金制度などが用意されたわけだ。

 価値観が変われば、それに相応しい産業システムも変わる。日本におけるモノコト・シフトでは、その社会的事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に応じて、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった産業システムが相応しいことは、「世界の問題と地域の課題」の項で述べた。

 あの事件から18年後の2013年現在、家族や労働のあり方に関する価値観が変わってきているにも拘らず、Resource Planning型リーダーシップの欠如の方は相変わらずだ。

 本来、これからの社会基盤は、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムを支えなければならないのに、Resource Planning型リーダーシップの欠如によって、そちらは、旧態然とした大量生産・輸送・消費の産業システムを支えるままなのだ。老朽化も目立っている。「新しい家族の枠組み」の項で、

(引用開始)

 日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。

(引用終了)

と書いたけれど、社会基盤の方が旧態然としたままだから、多くのまともな人々も、心ここに在らずの状態で、20世紀型の通勤地獄と長時間勤務に従っている、というのが日本社会の(少なくとも東京の)現状ではないだろうか。

 村上氏が“アンダーグラウンド”を書き上げたのは1997年のことだ。まだ「モノコト・シフト」や「新しい家族の価値観」はその全貌を現していないけれど、この作品は、村上氏の作家的直感による「近代家族と戦後的日本」への挽歌ともいえると思う。村上氏は“アンダーグラウンド”のあと、日本社会のアッパーグラウンド(地上)を、“スプートニクの恋人”、“海辺のカフカ”、“アフターダーク”と追いかけていき、2010年“1Q84”に至るわけだが、そこでは、リトル・ピープルに象徴される20世紀的価値観が崩壊した世界が描かれている。以前「1963年」の項で、村上氏は「現実は1984年以降、暗澹たる“1Q84”の世界に迷い込んだままだ」と言いたいのかもしれないと書いたけれど、その作品発想の種は、“アンダーグラウンド”の頃に生まれたのだろう。

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