夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


街場の建築家

2022年08月11日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『建築家の解体』松村淳著(ちくま新書)という本に導かれて、

界とハビトゥス」(7/28/2022)
空間(space)と場所(place)」(7/29/2022)

と綴ってきた。今回は同書によって、これからの建築家の在り方、その界とハビトゥスについて考えてみたい。

 まず同書から後期近代の特徴である「専門家システム」について引用する。

(引用開始)

 (前略)後期近代という時代区分において重要なものは、一つは「空間」と「場所」をめぐる議論であり、二つ目は専門家(プロフェッション)についての議論である。
 後期近代論において、専門家は重要な働きを担う。建築家も専門家の一種であるが、建築家の専門家としての在り方が、後期近代という時代の中で大きく変容した。
 産業社会のみならず、我々の生活世界を覆い尽くす高度に発達したインフラは、匿名的(アノニマス)な専門家システムによって駆動される。建築もまた、そうしたインフラの一つとして都市に配置される。それはもはや、個人の建築家の手に負えるものではない。

(引用終了)
<同書 217ページ>

 松村氏は、こうした現状において、これからの建築家の在り方は、「場所」に根ざした顔の見える専門家として、local communityの人々と二人三脚で仕事をしてゆくことではないかと述べる。空き家をリノベーションしたり、みんなの居場所を作ったり。氏はこうした建築家を「街場の建築家」と呼ぶ。

(引用開始)

 後期近代社会は、専門家によって設計・運営される「空間」が主流を占めるが、同時に「場所」も勃興してくる。個人名で活動する建築家にとって、「場所」こそが、職能を発揮する場になっている。「場所」において必要とされるのは「顔の見える専門家」である。「場所」の再生と建築家が交差するとき、「顔の見える専門家」として建築家の職能を拡張する契機が現れる。(中略)
 建築家という職能は属人的であるため、後期近代における専門家システムとは相性が悪い。個人の建築家がどんどん公共建築の設計から追いやられていくのは無理もない話であるが、建築は一九六〇年代以降、ずっとそうした状況に抗い続けてきた。
 システムが私たちの生活世界にまで浸潤してくることによって、かろうじて残されていた個人の住宅という建築家の仕事も、住宅メーカーやマンションデベロッパーに委ねられることが増えた。
 しかし、近年のまちづくりや、リノベーションのシーンは、そうしたシステムの「外側」で盛り上がっている。そこには個人名と顔を取り戻した建築家が、生き生きと活動している。
 本書ではそうした顔を取り戻した建築家を「街場の建築家」と呼んでいるが、彼らがシステムの「外側」の生活世界を構築するキーマンとなっていくのは間違いないだろう。
 こうした活動は今後、さらに活性化していくとみているが、もしかしたら、そうした活動もやがてシステムに飲み込まれていくかもしれないという懸念もある。

(引用終了)
<同書 292−297ページ>

 このブログでは、「建築士という仕事」や「建築について」の項で、スモールビジネスとしての建築について語ってきたが、それは松村氏のいう「システムの外側の仕事」というコンセプトと重なると思う。建築だけでなく他の職種でも、規模が小さく現場への対応力が強いスモールビジネスは、これからの時代に適合的だ。それにしても「街場の建築家」はスモールビジネスの有力選手であろう。

 さて、上記引用文の最後に松村氏は、「もしかしたら、そうした活動もやがてシステムに飲み込まれていくかもしれない」との懸念を述べられている。今の「専門家システム」という界とハビトゥスの支配者は、住宅建築では住宅メーカーやマンションデベロッパーの資本家・経営者たちだろうが、彼らに飲み込まれないために街場の建築家はどうすればよいのか。

 それを考えるにはまず、建築界よりも上位にある、後期近代社会そのものの界とハビトゥスを研究する必要があろう。なぜなら、ある「界」におけるその上位・下位(の界)には、一定に共通する特色があると思うからだ。<スポーツ界>の下位分化<角界(相撲界)><野球界><サッカー界>には独自の仕組みや規則性があるにしても、「身体運動による自己表現」といった一定に共通する特色がある。日本においてはさしあたり「界とハビトゥス」の項でみた「戦後日本の無意識」をよく研究すべきだ。

 ここで復習しておくと、<界>とは、社会の中に存在する集団のことで、各界は相対的に自立している。それぞれの界には固有の秩序や規範、動的なメカニズムが存在している。<ハビトゥス>とは、界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す。

 「集団の無意識」の項では戦後日本の無意識を、

(1)家族類型
(2)平和憲法
(3)言語特性
(4)歴史認識

とに分けてみたが、建築の界とハビトゥスはとくに(1)との関りが強いのではないだろうか。
-----------------------------------
(1)家族類型

 戦後日本の家族制度は、占領軍によってそれまでの直系家族からアメリカ的な絶対核家族に変更された。しかし核家族の価値観は未消化・不十分で、人々のメンタルには、それまでの直系家族的価値観が残っている。儒教的価値観、組織における先輩・後輩関係の重要視、妻よりも夫の不倫への世間的寛容、老後の親の面倒をみる、先祖代々の墓を継承する、などが依然として長男(もしくは長女)の仕事とされているケースなど。しかし直系家族にあった家長の権威と権力は、制度的には消滅している。夢の形象には無能な二世議員、三世議員たちの姿が相応しいだろう。
------------------------------------
今の住宅メーカーやマンションデベロッパーの界とハビトゥスには、この直系家族的なメンタルが強い筈。街場の建築家は、(直系家族ではなく)核家族や新しい家族の価値観を良く消化・吸収しておく必要があると思う。その新しい価値観に基づいた界とハビトゥスがどのような性質ものであるかについては、また項を改めて考えてみたい。

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空間(space)と場所(place)

2022年07月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「界とハビトゥス」の項で参照した『建築家の解体』村松淳著(ちくま新書)にある、<空間(space)と場所(place)>という概念についても言及しておきたい。これは先日「後期近代」の項で引用したイギリスの社会学者アンソニー・ギデンズの概念で、当ブログで提唱している複眼主義のAとBの対比と重なるように思う。まず同書から引用しよう。

(引用開始)

 後期近代論においては、近代の特質の一つとして「時間と空間の分離」が挙げられているが、それに関してギデンズは以下のように述べている。

  前近代社会では、ほとんどの人にとって、社会生活の空間的特性は「目の前にあるもの」によって――特定の場所に限定された活動によって――支配されていたため、場所と空間はおおむね一致していた。モダニティの出現は、「目の前にない」他者との、つまり、所与の体面的相互行為の位置的に隔てられた他者との関係の発達を促進することで、空間を無理やり場所から切り離していった。

 ギデンズは「空間(Space)と「場所(Place)」を区別して述べているが、この区別は重要である。
 空間と場所(引用者註:場所と空間か)のそれぞれの特性については、ポストモダン地理学という分野において盛んに研究されてきたが、ここで両者の違いを簡単に確認しておこう。前者が(自分自身の)身体を中心に認識された具体的な空間の広がりであるのに対して、後者では、任意の点を中心にして、そこから広がりを持つ抽象的なものとして定義できる。
 さらに言い換えれば、場所は個人のアイデンティティに紐付いたかけがえのないものである。たとえば、社会学者の金菱清は「場所性」という言葉に「そこでなければ」というルビを振っているが、そのことからも場所の性格の創造がつくのではないだろうか。典型的な「場所」としては、生まれ育った家や、近所の公園や学校や児童館、あるいは商店街のなじみの店などが挙げられるだろう。
 一方、典型的な「空間」の例としては、郊外の巨大なショッピングモールやコンビニエンスストア、全国チェーンの店などを挙げることが出来る。こうした空間の特徴は、消費を主目的としていること、そして、監視カメラや警備員によって厳重にセキュリティ管理されていることなどが挙げられるだろう。ただ、近年では、ショッピングセンターのフードコートなどは、地元の中高生にとって場所に近い存在になっていることは指摘しておくべきだろう。

(引用終了)
<同書 182−183ページ>

松村氏は、後期近代は場所(place)よりも空間(space)を重視するが、それを飽き足らなく思う建築家は、空間(space)よりも場所(place)を大切にするとして、そういう建築家を「街場の建築家」と呼び、同書後半で紹介している。

 このブログでは複眼主義を提唱しているが、ギデンズの空間(space)と場所(place)の対比は、複眼主義のAとBの対比と重なるように思う。複眼主義のAとBとは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

などの内容を指し、複眼主義では両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。

空間(space)と場所(place)を複眼主義で考えれば、抽象的な空間(space)はA側に属し、身体的な場所(place)はB側に属す。

 「後期近代」の項でも述べたように、このブログでは、今の時代に見える傾向を「モノコト・シフト」と呼んでいる。モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。複眼主義でいえば、“モノ信仰”は所有原理のA側の偏重、“コト”を大切にするとは、関係原理のB側を大切にするということで、それは空間(space)よりも場所(place)を大切にする「街場の建築家」の態度につながる。

 松村氏の考えるあたらしい建築家像が、このブログの複眼主義とモノコト・シフトと整合的であることに我が意を強くする。これからもこれらのコンセプトを使って後期近代の先を展望したい。

 尚、時間と空間の分離については、以前「時空の分離」(8/9/2013)の項で、アインシュタインの特殊相対性理論が時間と空間の分離を説明したとし、それが近代のパラダイムであるところの「空間重視」に科学的なお墨付きを与えたと論じたことがある。

 また、場所(place)と空間(space)をバランスよく配置する街づくりについて、先日「店の3分類」という項で、ローカル、チェーン、ニューウェーブという言葉を使って提案したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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店の3分類

2021年07月03日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 過日、車で街道を走っていて、「ローカル、チェーン、ニューウェーブ」というフレーズが頭に浮かんだ。街道には様々な店が並んでいる。「ローカル」とは地元密着型の店、「チェーン」とはドラッグストアやコンビニなど薄利多売・広域展開の店、「ニューウェーブ」とは時代の先端を行く店、おしゃれなカフェやパン屋など。これらが一か所に混在している「道の駅」などもあるが、それも中を分けて考え、すべてをこの「3の構造」で分類する。業種は問わない。そして、ここが味噌だが、それぞれに「なれの果て」というカテゴリを加える。

(1)ローカル店
(1´)ローカル店のなれの果て

(2)ニューウェーブ店 
(2´)ニューウェーブ店のなれの果て

(3)チェーン店
(3´)チェーン店のなれの果て

 街道には、歴史的にいってまず(1)があり、そこへ(2)が入ってくる。昔でいえば、蝋燭(ろうそく)屋しかなかったところへ電球を売る店が出来るようなこと。(2)はうまくすればやがて(1)となって地元に溶け込む。(1´)は需要変化への対応や後継者づくりに失敗した店。(2´)は街に溶け込めず、時代からも取り残されてしまった店だ。

 大量生産・輸送・消費時代がくると(3)が出現する。人目を惹く派手な店づくりが特徴で、広域スーパーやドラッグストア、コンビニ、ファミレスなどがその代表。(3´)は、期待していた利益が上がらず他所へ移転してしまった店舗跡である。

 業種を問わないこの分類は、街道沿いだけでなく街なかにも応用できる。街の賑わいは、地元が元気なことが第一条件だから、全体に占める(1)の比率が大きいことが大切だろう。しかし適度な外からの刺激も大切で、そのためには(2)の存在が欠かせない。また、生活用品の調達先や手軽な食事処として(3)が全くないというのも困る。モールなど(3)の集まった場所は「誰でもない自分」になれる場所としても便利。人は時々そうなりたくなるものだ。街トータルとして考えた場合、比率としては、全体を10として、

(1)5
(2)3
(3)2

ぐらいが適当だろうか。重要なのは、それぞれの「なれの果て」(空き店舗・空きビル・空き地・シャッター通り等)を極力抑えることである。なれの果てを(4)として、

(1)4
(2)3
(3)2
(4)1

ならまあまあいいだろう。これが、

(1)3
(2)2
(3)3
(4)2

になり、

(1)2
(2)2
(3)3
(4)3

という比率になると街は活気を失い始める。

(1)1
(2)1
(3)4
(4)4

となると街は廃墟に近づく。

 みなさんの街はいかがだろう。過去から今に至る比率(とそのトレンド)を考えてみていただきたい(分類基準は適時見直すことを前提に「どちらかというと」といった緩いもので構わない)。そして、これを都市計画に活用する。

 この発想法は、街の活性化を、目先の税制優遇や住民の自発性に頼る方向ではなく、もっと大局から、街の店舗のバランスを適正水準に保つ方向で人々を引き付けようというものだ。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

でいえば、A側の発想でやるということ。業種を問わないのは、そちらは地域の特性と需要・供給に任せればいいだろうと割り切って考えるから。

 どのようにこのバランスを良くして、「なれの果て」を抑えるか。それにはまず、今の「土地利用よりも土地所有が優先される法体系」(「対抗要件と成立要件」)の見直しが必須なことは言を俟たないだろう。魅力的な街づくりには「原則自由・例外制限」ではなく(構成員の合意に基づく)「原則制限・例外許可」方式が必要なのだ。そのうえで、肌理の細かな方策・条例を設定する。

 いかがだろう。一見遠回りのようだが、俯瞰的でなかなか面白い戦略ではないだろうか。尚この比率(とそのトレンド)を考える作業は、都市計画にだけでなく、店舗型スモールビジネスの起業立地を考える上でも役に立つと思う。

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posted by 茂木賛 at 10:31 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

地域再生活動

2018年08月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『ルポ 地域再生』志子田徹著(イースト新書)という良い本を読んだ。著者は北海道新聞の記者。副題には「なぜヨーロッパのまちは元気なのか?」とある。まず本帯表紙とカバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

人口増だけがすべてじゃない。地域に自信と誇りを取り戻せ!
生き残りの鍵は「成熟」にある。

「何もないまち」では終わらせない――
欧州の地方を歩くと、日本に比べてずっと元気に見えた。なぜなのか、何か日本の地域再生のヒントになることを見つけたいと思って、欧州のあちこちを巡りながら取材を重ねた。当事者の声を聞いて、各地に共通して見えたことは、危機的な状況に陥ったまちほど、危機の本質に向き合ってそこからの脱却に真剣に取り組み、結果的に強くなっていたことだ。人口減少、観光客減、空き家の増加、地方切り捨て、経済危機、農業の衰退、旧産炭地の疲弊……。それらの危機に立ち向かってきた現場の人たちの原動力と取り組みに迫る。

(引用終了)

目次を見ると、

<はじめに>
第一章 まちを変える、ひとが変える/スペイン サン・セバスチャン
第二章 逆境がまちを強くする/イタリア キャンティ
第三章 環境と経済は両立できる/スウェーデン ベクショー
第四章 資源は足元に眠っている/アイスランド
第五章 「自身」と「誇り」を持つために/フランス ノール・パ・ド・カレ
第六章 視察では見えないことがある/オランダ ワーヘニンゲン
第七章 地域のことは地域で決めた/イギリス スコットランド
<おわりに>

ということで、スペインからイギリスまで、丁寧な取材で地域再生の現場が描かれる。スペインのサン・セバスチャンは、前々回「自然・食・観光」の項で登場した「レストランバスク」のオーナーシェフ深谷宏治さんが働いていた街。イタリアのキャンティは、以前「小さな町」の項で紹介した『スローシティ』島村奈津著(光文社新書)にも登場する。

 この本で分かるのは、地域再生を担う人々の自立心の強さと、気負いの無さだ。著者は<おわりに>のなかで、欧州では「まちづくり」や「市民運動」への関わり方がごく普通の日常的な活動の延長にあるように感じたと書き、

(引用開始)

 欧州のまちがなぜ元気なのか。その理由はこうしたところにあるのだと思う。数字には表れない「豊かさ」が、そこにはある。担い手たちは多様で、開かれており、スコットランドのリンゼイさんのように、とくに女性が伸び伸びと活躍している様子が印象に残る。皆が、言葉の本当の意味の「voluntary(ボランタリー)=自発的行為」として地域の活動に取り組んでいる。誰からの押し付けでも命令でもない。自分たちで考え、決定し、行動する。それを支える地方分権がある。こうしたことが当たり前の社会であれば、「豊さ」を実感できるはずだ。

(引用終了)
<同書 253ページ>

と続ける。日本の地域再生活動でもこうした心構えが大切だろう。自立心と継続する力。それと勿論活動領域の選択、理念の設定と共有。同書の新聞書評も引用しておこう。

(引用開始)

 著者はまず、食いしん坊である。最初に訪れたのはスペイン北部バスク地方にあるサン・セバスチャン市。旧市街には居酒屋「バル」が実に約220軒も軒を連ねるという。登場する地元のおつまみ「ピンチョス」の多種多彩さ。美食倶楽部「ソシエダ・ガストロノミカ」(会員制で男性限定!)への潜入談では生唾を飲み込んでしまう。
 この人口19万人ほどの地方都市がなぜ、「美食世界一のまち」と呼ばれるようになったのか。キーとなるのは「地方分権」。フランコ独裁が終焉し「抑圧されていた地域独自の文化や言語は解放され、個性が花開いた」と著者は指摘する。同市では食により、民族のアイデンティティーさえも守られているのだ。
 ブロック紙のロンドン特派員時代の取材が元となった。限界集落(伊)、再生可能エネルギー(スウェーデン、アイスランド)、旧産炭地(仏)なども歩き、同様の問題を抱える地元・北海道友対比していく。英国のEU離脱に象徴される「欧州の没落」は不可避なのか。「欧州の日常」を描いたという本書の中から、日本人が学ぶべき「欧州の強さ」を見つけたい。

(引用終了)
<毎日新聞 4/1/2018(フリガナ省略)>

 この本でもう一つ興味深かったのは、第七章にあるスコットランドやスペイン北東部カタルーニャの独立とEUとの関係だ。スコットランドもカタルーニャもまだイギリス、スペインから独立したわけではないが、もし独立したら、両国ともEUに加盟することを想定しているという。

(引用開始)

 スコットランドやカタルーニャで独立運動が盛り上がった背景には共通する部分もある。EUの存在だ。最近でこそ「EU統合は失敗した」といった言説もみられるが、EUが欧州の安定に貢献してきた点は見逃せない。加盟国間では経済や貿易だけでなく環境や食品の安全などあらゆる分野でルールの統一化が進んでいる。スコットランドやカタルーニャは、独立後もEUに加盟していることを想定している。EUの共通ルールを取り入れていれば、独立後の混乱が少ないと考えるからだ。

(引用終了)
<同書 245ページ>

以前「ヒト・モノ・カネの複合統治 II」の項でみた、

「閉じた地域帝国」:EUのような陸の広域経済連携
「地方政府」:ローカルな閉じた定常経済圏

という二層の統治システム。しかし、このような動きとは別にイギリスのEU離脱がある。

nation:文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団(民族・国民)
state:その集団の居場所と機構

という二つにおいて、nationの分裂圧力とそれに対応するstateのあり方、欧州ではこれからもしばらく模索が続くようだ。

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自然・食・観光

2018年07月26日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「人口減少問題と国家理念」の項で、日本の人口減少に対する問題設定として、単にそれに備えようというのではなく、“日本はどのような分野で世界に貢献できるのか、という理念先行型で考えなくてはいけない”と書いたけれど、以前「都市の理念(Mission)」で述べたように、このことは国レベルだけではなく、都市レベルでも同じだ(ここでいう「都市」には町や村も含む)。自分の住む都市はどのような分野で地域・国家・世界に貢献できるのか。自分が暮らす地域のモノやコトをどうやって人々に楽しんでもらうのか、役立ててもらうのか。

 国家の理念が不在の中、都市の理念は形成しづらいところはあるが、以前「早苗饗−SANAEBURI−」の項で紹介した『自遊人』という雑誌2018年8月号は、副題「本当の地方創生、七つの物語」の下、地域活性で先行する、

北川フラムさん/アートディレクター
石村由紀子さん/カフェ&雑貨店「くるみの木」オーナー
深谷宏治さん/「レストランバスク」オーナーシェフ
出原昌直さん/ディスカバーリンクせとうち代表
藤原岳史さん/NOTE代表
山田拓さん/株式会社美ら地球代表
真鍋太一さん/フードハブ・プロジェクト支配人

という7人の活動をインタビュー記事で紹介している。

 それぞれに紹介のキャッチ、理念などを一行で表現したヘッダー、地域活性のポイントがあるので書き留めておきたい。

北川フラムさん/アートディレクター
「地域と共生する芸術祭」
<地方発、地方目線のアートを定着させた第一人者>
〇 開催地へは足繁く通う
〇 都市のアートを持ち込むのではない
〇 「食」というアートの掘り起こし
 
石村由紀子さん/カフェ&雑貨店「くるみの木」オーナー
「ライフスタイルショップ経営」
<「喜びは喜びを生み、経営も回る」が石村流>
〇 喜びを通してファンになってもらう
〇 旅の目的に、思い出となる店づくり
〇 アンテナショップとしての機能

深谷宏治さん/「レストランバスク」オーナーシェフ
「バル街で地域活性」
<正統派バスク料理を受け継いだ、最初の日本人シェフ」
〇 地域のヨコの連携を大切に
〇 ノウハウは常にオープンに
〇 補助金や助成金に頼らない

出原昌直さん/ディスカバーリンクせとうち代表
「雇用を創出する事業展開」
<30年先を見据えた新たな事業展開で雇用を生む>
〇 観光で地域の産業と雇用を守る
〇 地元をよく知ること
〇 20年、30年先を考える

藤原岳史さん/NOTE代表
「古民家・街並み再生」
<歴史的建造物を含めた、街並み再生の支援を>
〇 景観を守るための宿泊業
〇 お客さんと一緒に守っていく姿勢
〇 法律から変えていく努力を

山田拓さん/株式会社美ら地球代表
「着地型インバウンド観光」
<「日本の田舎」をプロデュースするツーリズムビジネス>
〇 ツアー利用者は8割がインバウンド
〇 仕掛けは「普通の景色」
〇 ガイドツアーの満足度を高める

真鍋太一さん/フードハブ・プロジェクト支配人
「農業と食文化の継承」
<地産地消を掲げ、地域で食を循環させる仕組みづくりを>
〇 縦のつながりを重視する
〇 地域内で循環できる仕組み
〇 非日常よりも、日常を大切に

以上だが、詳細は記事を読んで貰うとして、理念としては「自然・食・観光」が共通のキーワードになっている。

 国家理念は、様々な都市の理念を包摂し方向性を与える。それがあると都市間の連携がしやすくなり相乗効果が生まれる。世界からの認知度が高まる。自然と食と観光による地域活性。「国家の理念(Mission)」の項で私が思い浮かべた日本の世界貢献で有力な領域は、

● ものづくりの技(プロセス)を極める
● 日本語的発想による文化や芸術を世界に広める
● 列島の豊かな自然を守り育む
● 水や海に関する最先端技術を開発する
● 身体の働きを生かした医療を探求する
● 各分野で「時間原理」「関係原理」の発展を支える

といったものだったが、元気な7人の記事を読むと方向性は間違っていないようだ。これからもこの線で理念を追ってみよう。

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小さな経済圏

2018年06月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『脱住宅』山本理顕・仲俊治共著(平凡社)という本を読んだ。副題は“「小さな経済圏」を設計する”。まず内容を新聞の書評によって紹介しよう。

(引用開始)

 紙の上に円を描いてみる。円の内側は内部空間、外側は外部空間となる。少し色をつければ、それらは私的空間、公共空間として具体化することもできる。
 だが、都市の内外空間は公私空間に直結するわけではない。一軒家を取り巻く草原は外部空間であっても、公共空間とはいえまい。また、閑静な住宅地の閑静さは、公共空間を犠牲にした閑静さといってもいい。
 プライバシーとセキュリティーを謳い文句にした戦後の集合住宅も閑静な住宅地と似たものだった。住戸の内部と外部は物理的・社会的に分離され、その結果、私的空間は「一住宅=一家族」の閉ざされた空間、外部空間は諸々のインフラストラクチャーに覆われた硬直化した空間となった。つまり、内外空間は公権力によって分離かつ管理される空間となった、というのが著者の見立てである。
 「脱住宅」とは、私的空間を外部に向けて開くことを意味する。そのための一つの策が、私的空間の中に、外側の空間を迎え入れる「閾」という空間をつくることである。玄関をガラス扉にするという案は突飛にみえるが、玄関まわりの空間を工夫することで、自宅ビジネスの小オフィスとして使うことができる。同様に、コモン・スペースの一部を住戸つきの菜園にすれば、外部空間は私化されるよりはむしろ開放度を増すだろう。公私空間の境を決めるのは住人だという本書の指摘は重要である。
 本書は建築・都市の公共空間論であるが、政治的公共空間論にも示唆を与える。共和主義は公共空間を重視する反面、私的空間を生活の巣とみなす傾向がある。一方、自由主義では、私的空間は自由の領域、外部空間は国家の領域とみなされ、正負の価値が反転する。共和主義か自由主義かではなく、二つが両立する政治空間を構想するとしたら、空間構成はどうあるべきか。本書は重要な示唆を与えるにちがいない。

(引用終了)
<朝日新聞 5/20/2018(フリガナ省略)>

「小さな経済」とは、個人の仕事、特技、趣味などを通じて、他者とかかわろうとする営みのことを指すという(同書217ページ)。副題の“「小さな経済圏」を設計する”とは、そういった営みを可能にする住宅設計のこと。

 このブログでは、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による行き過ぎた資本主義への反省として、また、科学の還元主義的思考によるモノ信仰の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、動きの見えないモノよりも動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを「モノコト・シフト」と称し、いろいろな角度から論じている。

モノコト・シフトの研究
モノコト・シフトの研究 II
モノコト・シフトの研究 III
モノコト・シフトの研究 IV

「小さな経済圏」は、こういったコトを大切にする生き方、考え方の下において活性化する。だから「脱住宅」はモノコト・シフト時代の必然といえるだろう。小さな経済の意義については、以前「ヒューマン・スケール」の項でも書いたことがある。今の日本にとって大切なことだと思う。

 モノコト・シフト時代の住宅の社会的機能側面についてはこのブログでも、

新しい住宅
新しい住宅 II
新しい住宅 III

などで論じてきた。この本には、玄関をガラス扉にするとか、向かい合わせにつくるとか、建築家ならではの住宅設計の実際が多く描かれている。実務者にとっても大いに参考になるだろう。

 この本から、政府による機構改変や法律改悪を解説した部分を引用したい。104ページから111ページ、東雲キャナルコート一街区の設計に関わる章の冒頭。

(引用開始)

内側のプライバシー、内側の幸福

「住宅・都市整備公団」としての最後の仕事である。この計画を最後に、都市基盤整備公団は「都市再生機構(UR)」という独立行政法人に組織替えさせられてしまった。公団のような国の組織が安い家賃の住宅を供給するから民業が圧迫されるのだという、民間ディベロッパーからの強い批判だった。小泉政権による“構造改革”という名前の利益優先政策が次々に打ち出されて、郵政も民営化された。ついでに住宅供給という国家にとって最も重要な役割があっさりと民間主導になってしまったのである。つまり住宅の供給は、そこに住む人々のためではなくて、供給する側の利益最優先ということになってしまったのである。
 もともと一九五五年に「日本住宅公団」が設立された理由は、低家賃で良質な住宅を供給することが目的だった。それは単に住宅という箱の供給ではなかった。どのように住むのかという“生活の仕方”を多くの日本人に再認識させるための、いわば教育装置だったのである。生成的で健康的な生活とはどのような生活か、家族はどのように一緒に住んだらよいのか。一つの家族が一つの住宅に住むという住形式が徹底された。家族というプライバシーを守る生活がどれほど安心できるものか、プライバシーに守られた空間の中にいることがいかに幸福か、公団住宅に住むことによって、多くの日本人はそれを知ったのである。住宅とは家族のプライバシーを守るためにある。それはもはや、今のわれわれ日本人にとって“常識”になってしまっている。それほど徹底されたのである。
 さらに、それはそのまま民間ディベロッパーによる住宅供給の原則になっていった。とにかくプライバシーを守る。そのための住宅だった。住宅の内側の快適性こそが住宅という商品の商品価値になっていったのである。それは、ディベロッパーにとっても、いかにも好都合であった。周辺環境に注意を払う必要がないからである。コミュニティに注意を払う必要はない。そんなことにこだわることはむしろ、住宅を供給する側にとっては利潤の足を引っ張るマイナス要因なのである。商品価値はあくまでも住宅の内側である。内側のプライバシーであり、内側の幸福なのである。
 そして、国の側はそれを大いに援助したのである。家族を住宅の内側に閉じ込めて詰め込んで高層化する。法的にそれを誘導することによって民間のディベロッパーの収益を最大化させる。

投資の対象となった住宅

 一九九六年には国は公営住宅の家賃を「近傍民間同種家賃」とする、と公営住宅法を改正した。周辺の民間ディベロッパーの収益を圧迫しないように、公営住宅の家賃を上げるというわけである。低収入の人たちの行き場がなくなる等ということはこれっぽちも考えない政策である。
 一九九九年には空中権売買が可能になる。空中権売買というのは、まるで冗談みたいな法律で、容積率にまだ十分余裕のある土地所有者は隣の土地所有者に対してその余裕を販売することができるという法律である。つまり隣の土地所有者はその土地の容積率制限を上回って建設することができるわけである。さらにそれが二〇〇〇年には再び改正された。改正といっても、その意味はディベロッパーに有利なように、という意味である。別に隣の敷地じゃなくても、離れた敷地でも空中権を販売できるというさらに輪をかけて冗談みたいな「特例容積率適用区制度」が制定された。都市景観がどうなるか知ったことではない、どのように住みやすい都市にするかなど知ったこっちゃないという制度改正であった。とにかく経済的な利潤だけが都市や住宅開発の目的になっていった。
 二〇〇〇年には、「資産流動化法」という法律ができた。不動産の証券化である。この法律ができたおかげで投資家からお金を集めることができるようになって、ディベロッパーは手もち資金がなくても、マンションを建てられるようになった。マンション建設に投資すれば、年利五パーセント程度の配当がある。銀行に預けてもほとんど預金金利がないような政策を続けながら、一方でこんなすぇい策を実行すれば投資家が飛びつくに決まっている。民間ファンドがこぞってマンション建設に投資したのである。
 これほどの悪法はないと思う。住宅が投資の対象になれば、住宅開発は投資家の方を向いて開発することになるからである。そこに住む人なんて全く眼中にない。駅前に超高層マンションがにょきにょき建つようになったのはその法律に起因している。駅に近くて、超高層で眺めがよくて、セキュリティーが完璧で、プライバシーに最大限に注意が払われていれば、それこそ売れ筋なのである。投資家にとっては十分に投資に値する物件である。住む人なんか眼中にないというのはそういう意味である。投資家の耳目を奪うことを主たる目的としてマンションが建設されているのである。「資産流動化法」のおかげである。
 二〇〇三年には、「総合設計制度」が改正されて、都市部の住宅用の大規模建築物に関して、敷地に一定上の空き地を設けた場合、容積率が一・五倍まで認められるようになった。これもいい加減な法律だ。周辺環境のこと、住まい手のことなどよりもディベロッパーがどれだけ儲けられるか、それを主眼としてつくられた法律である。床面積がい大きければ大きいほど利益に直接つながるからである。
 まだある。二〇〇七年には、住宅金融公庫が廃止されて住宅金融支援機構になった。支援機構が民間の銀行の保証人になって、住宅を購入する人に対して保証金なし、三五年長期ローン、固定金利等という、お買い得感満載のおすすめ借金制度をつくったのである。三五年ローンだったら、月々の返済金は賃貸住宅よりも安いですぜ、そうか、それなら住宅を買った方が借りるよりも徳だと誰だって思う。でも、これは一種の詐欺である。三五年メンテナンスしなかったら、住宅はぼろぼろになる。空調機のような設備機器は二五年程度で取り換えなくちゃならない。外壁の補修、子供が大きくなれば間取りも変更しなくてはならない。火災や地震に対する備えから何から、すべて自己責任である。三五年もたてば物件によって異なるとはいえ、相当のメンテナンス費用がかかることになるのである。借金をすすめる側(国)は維持管理にいくらお金がかかるかなど、そんなことは言わない。今、とりあえず借金をして住宅を買ってくれさえすれば、少なくとも短期的には国家の経済成長に貢献するのである。

(引用終了)
<同書 104−111ページ(図や脚注は省略)>

前回「江戸時代の土地所有」の項では、列島における共同体の問題点を土地所有に関する法律面から論じたが、同じ問題を、住宅政策に関する法律からもよく考える必要があることが分かる。この辺りは、

空き家問題
空き家問題 II
空き家問題 III

でも考察してきた課題である。

 山本理顕氏は、以前から家族と共同体のあり方に関して『地域社会圏モデル』(2010年)や『権力の空間/空間の権力』(2015年)などの著書で問題提起を行ってこられた。このブログではそれらについて逐次論じてきた。

流域社会圏
住宅の閾(しきい)について

併せてお読み戴きたい。

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対抗要件と成立要件

2017年09月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『人口減少時代の土地問題』吉原祥子著(中公新書)という本を一気に読んだ。副題には“「所有者不明化」と相続、空き家、制度のゆくえ”とある。まず本帯のキャッチコピーとカバー裏の紹介文とを引用しよう。

(引用開始)

空き家、相続放棄の問題が、農村から都市へ拡大している
持ち主がわからない土地が九州の面積を超えている――。

日本の私有地の約20%で、所有者がわからない――。持ち主の居所や生死が判明しない土地の「所有者不明化」。この問題が農村から都市に広がっている。空き家、耕作放棄地問題の本質であり、人口増前提だった日本の土地制度の矛盾の露呈だ。過疎化、面倒な手続き、地価の下落による相続放棄、国・自治体の受け取り拒否などで急増している。本書はその実情から、相続・登記など問題の根源、行政の解決断念の実態までを描く。

(引用終了)

 このブログでは、空き家問題についていろいろと論じてきたけれど、その根底には「土地問題」があると感じていた。「建築自由と建築不自由」で書いたように、日本の憲法の土地所有権は、“土地は本来基本的に自由なのであって、これが制約を受けるのは、その利用が他者を害する時だけであるとし、この他者への侵害を「公共の福祉」として捉え直し、これを法的に構成した”ものだからである。「土地問題」に切り込んだ本書は、だからとても重要かつタイムリーな企画といえるだろう。新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

有効利用へ実態解明と問題提起

 きっかけは、外資の森林買い占めだった。北海道庁は土地売買の事前届け出を義務づけ、登記簿上の土地所有者4千人余に通知した。だが、その45%が宛先不明で戻ってくる。こうした土地の「所有者不明化」問題はいまや全国に広がり、面積にして九州を上回る。土地はちゃんと登記され、国や自治体が管理しているはずという著者の思い込みは覆される。「なぜこんなことに」という疑問から、この研究プロジェクトが始まった。
 背後には、土地の相続登記が任意だという事情がある。登記手続きは煩雑で、費用もかかる。しかも、登記しなくても不都合はない。これでは、放置される。世代交代が進めば法定相続人がねずみ算的に増え、所有者の関心は低下し、自分の森林の場所や境界すら分からなくなる。
 これは今、林業の現場で大問題となっている。荒れた森林に手を入れたくとも、所有者が不明で手が付けられないのだ。また、震災復興事業をはじめ全国で様々な事業が、土地の権利関係の確定に膨大な時間と労力を要するため、遅れたり暗礁に乗り上げたりしている。まずは所有者の確定を、次に、基盤となる土地情報システムの整備が急務、と著者は強調する。
 しかし根底には、人口減少で土地需要が縮小し、大都市圏を除いて、もはや地価が上がらないという構造要因がある。土地は有利な資産ではなくなり、登記の必要性は低下した。にもかかわらず、所有者不明で有効活用できない土地・不動産は、今後さらに拡大する見込みだ。
 こうなれば、農林業の集約化や空き家活用によるまちづくりなどが、所有権の壁にぶつかって進まなくなる。本書は「強すぎる所有権」ゆえ、土地・不動産の有効利用が進まない実態を浮かび上がらせた。これは究極的に、「所有権と利用権の分離」というラディカルな思考にもつながっていく重要な問題提起だ。(諸富徹)

(引用終了)
<朝日新聞 9/3/2017>

 著者は、土地利用について欧米と日本を比較し次のように述べる。日本の土地問題は、明治政府がフランス民法を手本にしたことに遡るらしい。

(引用開始)

 欧米を見ると、厳格な利用規制などによって個人の土地所有権に一定の制約を課している国が多い。
 土地には本来、その用途たる使用目的があるもので、土地所有者はどこまでも自由に利用し、または利用しないことができるものではない、という考え方が基本にある。
 明治時代に日本が民法を制定する上で手本としたフランスは、土地の使用、収益、処分のいすれについても所有権者個人の自由であるという、いわゆる絶対的所有権の考え方をとっている。
 しかし、土地需要が逼迫した高度成長期の1950年代以降、個人の所有権に一定の制限を課し、必要な公的利用が円滑に進むよう制度改正が重ねられてきているという。

(引用終了)
<同書 124ページ(フリガナ省略)>

フランス法は「不動産などの売買による権利の変動は、当事者間の契約によって成立する。ただし、第三者に権利を主張するためには登記を必要とする」という考え方で、こうした登記の性質は「対抗要件」と呼ばれる。これは、登記をしないと権利の変動そのものが成立しないとするドイツ法の考え方とは異なる(こちらは「成立要件」と呼ばれる)。この「対抗要件」の考え方が、日本の憲法における「建築自由」の基にあるわけだ。

 フランスは制度改正を進めているが日本はそのまま。土地の利用よりも所有が優先する日本のような状況は、現在、先進諸外国では類を見ないものだと著者はいう。土地問題の解決は、国家経営の重要課題の一つである。それがなおざりにされ続けている。<日本の戦後の父性不在>がここにも顕現していると思う。

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ヒト・モノ・カネの複合統治 II

2017年06月11日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 65歳になってビジネス・コンサルは休業したが、webサイトはそのままにし、このブログも(以前近々終わると書いたが)時々アップしようと思う。

 先日『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』水野和夫著(集英社新書)という本を読んだ。水野氏の著書については、今年の初め「新しい会社概念」の中で、『株式会社の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を紹介したことがあるが、本書は、そこでの議論を踏まえて、近未来のnationとstateの在り方について論じたものとなっている。

nation:文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団(民族・国民)
state:その集団の居場所と機構

(引用開始)

資本主義の終焉によって、世界経済の「常識」が逆転した。経済成長を追及すると、企業は巨大な損失を被り、国家は秩序を失う時代になったのだ。生き残るのは、「閉じた経済圏」を確立した「帝国」だけである。
「長い21世紀」という五百年ぶりの大転換期に始まる、新しい「帝国」システム。そのもとで、英米・欧州・中露の経済はどう変わるのか? 日本を救い出す方策とは何か?ベストセラー『資本主義の終焉と歴史の危機』で高い評価を受けたエコノミストが描く、瞠目の近未来図!

<目次>
1 「国民国家」では乗り越えられない「歴史の危機」
2 例外状況の日常化と近代の逆説
3 生き残るのは「閉じた帝国」
4 ゼロ金利国・日独の分岐点と中国の帝国化
5 「無限空間」の消滅がもたらす「新中世」
6 日本の決断――近代システムとゆっくり手を切るために

(引用終了)
<同書カバー裏表紙より>

 水野氏は本書の中で、「閉じた地域帝国」と「地方政府」という二つの統治システムを提言しておられる。「新しい会社概念」の項で見たように、「より速く・より遠く・より合理的に」を原理とするグローバリゼーションが限界を迎え、「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」を原理とするローカルな経済圏が必要とされる中、近代の「国民国家」は、国際的な政治経済単位としては小さすぎ、人々の生活単位としては大きすぎる。だからそれを解決する手段として、

「閉じた地域帝国」:EUのような陸の広域経済連携
「地方政府」:ローカルな閉じた定常経済圏

という二層からなる統治システムが望まれるというわけだ。「地域帝国」は世界秩序に責任を持ち、「地方政府」は人々の日々の生活を守る。

 私も以前「nationとstate」の項で、

(引用開始)

 まずnationについて考えてみよう。(中略)総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を高めると思われる。スペインのバスクとカタルーニア地方、イタリアの北部同盟、イギリスのスコットランド、日本の沖縄などなど。そもそも1991年のソ連崩壊はその前兆だったのかもしれない。

 次にstateについて考えてみよう。(中略)nation(民族・国民)という括りへの分裂圧力と、ヒト・モノ・カネの流動性の強まり。そういう時代、state(集団の居場所・機構)の統治は、昔に較べて、遥かに複雑なものにならざるを得ないと思われる。その一例が欧州連合(EU)の統一通貨政策だろう。ヒト・モノとマネー管理を分離することで複雑な時代に対応しようとしているわけだ。

 これからのstateの統治のあり方は、他の地域でも、EU方式の延長線上にあるのではないだろうか。すなわち、ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること。それが、これからのstateの統治に求められるのではないだろうか。ヒト・モノ・カネを一元的に管理・運営しようとする(民族国家のような)統治は、これからの時代にそぐわないものになってきていることは確かだと思われる。

(引用終了)

と書いたことがある。また「経済の三層構造」の項で、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という三つのレイヤーを定義し、「ヒト・モノ・カネの複合統治」の項でこれからのnationとstateの在り方を探った。さらに、「国家の理念(Mission)」の項で日本国家の理念について述べた。「地方state」、「日本列島united states」、「アジア広域経済連携」という三層の統治機構を想定していたのだが、水野氏の考えを援用すれば、中間の「日本列島united states」は不必要かもしれない。

 新しい世界における「地方政府」と「広域経済連携」、その上位にある「地球規模交易」の三層。それは、「コト経済」、「モノ経済」、「マネー経済」の経済三層と入り組みながら対応し、人々の暮らしと世界秩序の安定に寄与する。このような複合統治では、それに見合った多重通貨が必要になると思う。どういう通貨を、どんな機能によって、どこで流通させるのか。その価値交換の仕組みは?これからも、統治の在り方についていろいろと研究したい。

 尚、電子書籍コンテンツ・サイト(無償)『茂木賛の世界』の方も続けている。併せてお読みいただきたい。

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国家の理念(Mission)

2017年03月28日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「都市の理念(Mission)」の項で、「上位の国家理念についてはこれからの研究課題である」と書いたけれど、今回はそのこと(国家理念)について考えてみたい。言葉の定義は、

---------------------------------------------
「国民(nation)」:文化や言語、宗教や歴史を共有する人々の集団。

「国家(state)」:国民の居場所と機構。

「国家理念(state Mission)」:国家がどのような分野で、どのように世界へ貢献しようとするのかを表現した声明文。
---------------------------------------------

としよう。日本列島の国家(state)は、列島国民の居場所と機構であり、その理念(Mission)は、国民の多数決(もしくはそれ以上の比率による議決)によって定められる。国家は理念に賛同しない国民をも包摂し、その理念は、継続的に国民に問い直されなければならない。

 このブログでは、21世紀は「モノコト・シフト」の時代であると主張してきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 このブログで提唱している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいえば、人々の気持ちがB側へ傾斜する時代といえる。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 これからの日本の国家の理念(どのような分野で、どのように世界へ貢献しようとするのかを表現した声明文)は、

〇 そもそも日本語的発想がB側に強いこと
〇 モノコト・シフトという時代的要請

を踏まえ、B側の力をアピールするものでなければならないだろう。また、日本列島はアジアに位置しているから、当然、アジアの安定、文化的発展に貢献することが求められる。これまで考えてきた「流域思想」や「庭園・芸術都市」といった都市の理念と整合的であることも担保したい。

● ものづくりの技(プロセス)を極める
● 日本語的発想による文化や芸術を世界へ広める
● 列島の豊かな自然を守り育む
● 水や海に関する最先端技術を開発する
● 身体の働きを生かした医療を探求する
● 各分野で「時間原理」「関係原理」の発展を支える

などが思い浮かぶ。詳細についてこれからも研究を重ねたい。

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都市の理念(Mission)

2017年03月14日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 ビジネス・コンサルタントとして日本の都市計画を考えるとき、一番欠けているのは「都市の理念(Mission)」ではないかと思う。会社経営の一丁目一番地が「理念(Mission)と目的(Objective)」の明確化であることはこれまで繰り返し述べてきた。このブログにおける言葉の定義は、

---------------------------------------------
「理念(Mission)」:その会社がどのような分野で、どのように社会へ貢献しようとするのかを表現した声明文。

「目的(Objective)」:その会社が具体的に何を達成したいのかを纏めた文章で、理念の次に大切なもの。

「事業(business)」:会社の「目的(Objectives)」の実現手段。

「目標(goals)」:事業の達成ゴール。年度別、月別など。いつ頃までに何をするのか。事業の最終目標を予め明らかにしておくことも大切。事業の最終目標は、何を達成したらその事業をやめるかという目標であって、売却のためのいわゆる出口戦略(exit strategy)とは違う。

「ビジネスモデル」:「事業と目標」のこと。

「企業戦略(corporate strategy)」:会社の資産(asset)と市場とを分析し、最適なビジネスモデルを考えること。
---------------------------------------------

である。勿論会社経営のための定義だから「会社」という言葉が頭に付くが、会社も都市も人の集団であってみれば、都市統治に関しても同様なものを定めることができるはずだ。例えば、

---------------------------------------------
「理念(Mission)」:その都市がどのような分野で、どのように国家・地域へ貢献しようとするのかを表現した声明文。

「目的(Objective)」:その都市が具体的に何を達成したいのかを纏めた文章で、理念の次に大切なもの。

「事業(business)」:都市の「目的(Objectives)」の実現手段。

「目標(goals)」:事業の達成ゴール。年度別、月別など。いつ頃までに何をするのか。事業の最終目標を予め明らかにしておくことも大切。事業の最終目標は、何を達成したらその事業をやめるかという目標であって、売却のためのいわゆる出口戦略(exit strategy)とは違う。

「ビジネスモデル」:「事業と目標」のこと。

「都市戦略(city strategy)」:都市の資産(asset)と社会環境とを分析し、最適なビジネスモデルを考えること。
---------------------------------------------

といった内容だ。都市の立地や歴史、産物や風土、産業などによって特色がでてくるはずで、それによって都市の多様性が担保される。

 会社と都市の違いは、前者は気に入らなければ退社できるが、後者は気に入らないからといって簡単に離れられないこと。だから都市は、多数決で定めた理念に賛同しない市民をも包摂し、その理念について、継続的に市民に問い直さなければならない。そのプロセスは必要だが、統治するのに「理念」がなくても良いということではないと考える。

 ここで難しいのは、「国家・地域」との関係だ。「国家−地域−都市」という繋がりにおいて、都市の理念は、その上位にある「国家・地域」理念の一部を成すはずだから、「国家・地域」理念が見えないと、本当は都市の理念も作れない。日本でこれまで都市計画が不在なのは、一つには、「国家・地域」の理念が見えないからではないのか。

 国民や国家についてこれまで、「nationとstate」の項で、

「国民」=「文化や言語、宗教や歴史を共有する人々の集団」
「国家」=「国民の居場所と機構」

という定義を、「ヒト・モノ・カネの複合統治」で統治の例を、「国家理念の実現」や<日本の戦後の父性不在>の項で、日本の国家理念不在を見てきた。

 国家理念が不在だから、都市の理念も形成しづらい。都市理念が形成しにくく不在だから、都市計画の方針も定められない。そういう大きな因果関係があるのではないか。私なりの都市の理念については「流域思想」や「庭園・芸術都市」の項などで語ってきたけれど、上位の国家理念についてはこれからの研究課題である。

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建築自由と建築不自由

2017年02月14日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「空き家問題 II」でも触れた『都市計画法改正―「土地総有」の提言』五十嵐敬喜・野口和雄・萩原淳司共著(第一法規)を再読していたら、第3章「近代都市計画法の構造」3都市計画法内部の構造と論点(7)<世界の都市計画法と建築許可>の項に、「建築自由」と「建築不自由」という言葉があった。

 同項は、日本と西欧(アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ)の都市計画法の違いを論じているのだが、日本における都市計画のマスタープランは、議会の議決もなく有効性が薄く、開発や建築確認がマスタープランと無関係に行われるのに対して、西欧におけるマスタープランは、都市の将来像を示すものとして議会の議決を要し、現実の建築に影響していくとした上で、この違いの根幹には、土地所有権に対する哲学と法制度の差異があるという。

(引用開始)

 このように双方を分岐していくのは、結局のところ、土地所有権に対する哲学と法制度の差異である。既にみたように、土地は本来基本的に自由なのであって、これが制約を受けるのは、その利用が他者を害する時だけであるとし、この他者への侵害を「公共の福祉」として捉え直し、これを法的に構成したのが日本の憲法の土地所有権であった。これを建築自由といおう。各国は、これとは反対の論理構成をとっている。つまり、土地所有権はもともと制限されているものであり、これを開放していくのが都市法であるというのである。これを建築不自由といおう。これはいわば前にみたワイマール憲法の「土地所有権には義務が伴う」を前提として都市計画を構成しようとするものである。

(引用終了)
<同書 124−125ページ>

 以前「都市計画の不在」の項で、「日本の都市には、都市の文脈の中で建築物をどうつくるかという、本来あるべき長期的な視点に立ったResource Planningがまったく不在だという」と書いたが、都市計画法や建築基準法はあっても理念に基づいた本来の都市計画が不在であり、「建築自由」つまり土地所有に義務が伴わないのであれば、今の日本各地でみられるような、自治体の恣意的な取り決めと市場原理主義(儲け主義)とによる、「乱開発と空き家増加の同時進行」は避けられないわけだ。勿論例外自治体はあるにしても。

 日本では、近代化、復興と成長を推し進めるために都市計画法が存在したので、土地所有権も建築自由のままで来てしまった。それに対して、

(引用開始)

 欧米の近代国家は、初期の資本主義の段階で、建築の自由から建築の不自由へいち早く転換し始め、特に都市への人と経済活動の集中に伴い発生した都市の爆発的拡大をゾーニングにより制御しようとしていた。後にこれに「計画」の概念が付加されて都市計画となるのである。

(引用終了)
<同書 20ページ>

 日本には議会で定める長期的な視野に立った都市計画はないが、中央官僚がつくる景気刺激策としての公共事業は山のようにある。その多くは「公共の福祉」の名を借りた無駄なものだ。「道路、河川等々の公共事業は、計画、財源、そして組織などのすべて、いわば頭から尻まで「国」が独占的に仕切っていて、市民はもちろん、自治体すらほとんど介入の余地がないというのが日本の法的な現実」(同書105ページ)なのである。

 複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比において、A側、すなわち「公(Public)」=「都市」における諸活動は、他人との利害調整を必要とすることが多く、その場合活動は一般的に「原則制限、例外許可」という形を取らざるを得ない。ただしその「原則」は市民の合意に基づくものであることが前提だが。一方B側、すなわち「私(Private)」=「自然」における諸活動は、「原則自由、例外制限」であることが普通だ。

 近代国家における「土地」の所有はA側に属する活動である。だからそもそも「原則制限、例外許可」のはずなのだが、言語的に発想がB側に偏っている日本において、それがB側の「原則自由、例外制限」となっている。近代化の過程で起きたこの捻じれ現象は興味深い。

 『都市計画法改正―「土地総有」の提言』における「土地総有」というコンセプトは、西洋的な「コモンズ」=「ある特定の人々の集団あるいはコミュニティにとって、その生活上、或いは生存のために重要な役割を果たす希少資源そのものか、あるいはそのような希少資源を生み出すような特定の場所を限定して、その利用に関して特定のルールを定めるような制度を指す」(同書172−173ページ)と似ているが、土地そのものを対象にする点で「コモンズ」ルールのさらに上を行く。

 発想がB側に偏っている日本人は、近代国家における土地所有の「原則制限、例外許可」という概念を一気に飛び越えて、「原則自由、例外制限」どころか「土地も空気や水と同じ自然であるからそれは個人の所有にそぐわない」という超越的発想が可能なのかもしれない。そこまで著者たちの射程距離に入っている(提言の前提に含まれている)のかもしれない。

 複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。「新しい会社概念」の項で、資本主義終焉のあとの会社の在り方について考えたが、これからの新しい土地所有概念についても、複眼的視点でさらに研究したい。

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空き家問題 III

2017年02月07日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 空き家問題の考察をさらに続けたい。ここでは『ひらかれる建築』松村秀一著(ちくま新書)によって、空き家活用を含むこれからの街づくりについて考える。副題に“「民主化」の作法”とある。松村氏は東大大学院工学系研究科建築学専攻教授。例によってまず新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

生活者の想像が未来を開く

 本書はケンチクやタテモノからの卒業をうたう。ケンチクとは建築家の先生が設計する芸術的な作品。一方、タテモノとは経済的な営為から生産される通常の建物。東京のごちゃごちゃな街並みこそが民主主義の風景だと、海外の研究者から指摘されたことを受けて、著者は近代以降の建築の歴史を民主化の3段階でとらえなおす。
 第一世代は、工業化・規格化の発展によって同一の安い箱を多く生産した。第二世代は、人々が居住環境の形成に関わるシステムや地域生活の再評価など、選択の多様性を提示した。著者の専門は建築構法であり、この二つの世代の内容はわれわれが暮らす環境の背景を理解するうえで興味深い。例えば、釘の量産化がツーバイフォー構法をもたらしたこと、戦後の鉄鋼業が新たな市場を求めてプレハブ住宅に注目したこと、使用者が参加するデザイン手法の系譜、大工・工務店、ハウスメーカー、DIY,セルフビルドの状況など、研究成果に基づく知見が披露されている。
 1957年生まれの著者にとって第一世代はすでに成し遂げられた過去、第二世代はその活動に並走した現在形の出来事だったが、第三世代のリノベーションはもっと若い人やアートなど建築以外の領域が切り開く、未来へのムーブメント。ゆえに、中学校をアートセンターに改造したアーツ千代田3331やオフィスの居住空間への転用など、象徴的なエピソードをもとに期待を込めてルポルタージュ風に書かれている。
 日本はすでに膨大なタテモノをもち、今や大量の空き家が問題だ。そこで著者は、箱から場所へ、あるいは生産者から生活者へ、という転換を示し、使い手の想像力が重要になると説く。小難しいケンチクと違い、リノベーションは専門以外の様々な人が参加できるプラットフォームになりうる。これは建築の職能が変わることで豊かな生活がもたらされる希望の書である。(評・五十嵐太郎)

(引用終了)
<朝日新聞 11/27/2016>

本のカバー表紙裏の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

ケンチクとタテモノ――。近代的夢の象徴としてイメージされてきたケンチクと経済行為として営々と生産されてきたタテモノ。一九七〇年代半ばに「建築家」を志して以来、つねにそのあいだで葛藤してきたが……。二一世紀、局面は大きく変わった――。居住のための「箱」から暮らし生きるための「場」へ。私たちの周りに十分すぎるほど用意された「箱」は今、人と人をつなぎ、むすぶ共空間<コモン>を創造し、コミュニティとなる。これからあるべき「ひらかれる建築」の姿を、「民主化」をキーワードに、関わった「三つの世代」の特徴と変遷から描き出す。

(引用終了)

本の章立ては次の通り。

<はじめに> 建築で「民主化」を語る理由
序章  民主化する建築、三つの世代
第1章 建築の近代――第一世代の民主化
第2章 建築の脱近代――第二世代の民主化
第3章 マスカスタマイゼーション――第二世代が辿り着いた日本の風景
第4章 生き方と交差する時、建築は民主化する
第5章 第三世代の民主化、その作法

 「箱」から「場所」へということで、この本は、建築・街づくりにおける「モノコト・シフト」を説く内容となっている。その意味で論点は「空き家問題をポジティブに考える」の項と重なるが、本書は建築の専門家からの提言である。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 「空き家問題 II」の項で野澤さんが「住宅過剰社会」と呼んだ問題を、松村氏はポジティブに「空間資源大国」と呼び、第一世代、第二世代を通して蓄積された大量の住宅=「箱」を、みんなが使う「場所」として蘇らせるために何ができるかを問う。

(引用開始)

 健康で近代的な暮らしがおくれるような建物=「箱」を人々に届けるために、優れたプロトタイプを案出し、量産技術で遍く実現することを目指して専門家たちが邁進した第一世代の民主化。その目標がある程度達成された時点で、第一世代が軽視してきた人々の個性や「箱」の置かれる地域の特性等を考慮の対象とすることの重要性を認識し、専門家たちが第一世代の基盤だった「近代」志向から脱する、或いは多様化という言葉に代表されるような市場の変化に適応することを目指した第二世代の民主化。そして、二一世紀の日本では、二つの世代を通じて蓄積されてきた十分な量の「箱」と技術や知識を、それぞれの人が、自身の生き方を豊かに展開する「場」創りに利用する第三世代の民主化が始まっている。本書の中で述べてきたことを概括するとそいうことになる。

(引用終了)
<同書 182ページ>

著者は第5章で第三世代の民主化の作法として、

〇圧倒的な空間資源を可視化する
〇利用の構想力を引き出し組織化する
〇場の設えを情報共有する
〇行動する仲間をつくる
〇まち空間の持続的経営を考える
〇アレとコレ、コレとソレを結ぶ
〇庭師を目指す
〇建築を卒業する
〇まちに暮らしと仕事の未来を埋め込む
〇仕組みに抗い豊かな生を取り戻す

といった内容を提言する。庭師を目指すというのが楽しい。

 この本では、都市計画法や住宅政策の問題はあまり語られない。東京のごちゃごちゃな街並みこそが民主主義の風景だというデルフト工科大学教授の考えに共鳴するくらいだから、著者は政府の役割にはあまり期待しておられないのかもしれない。モノコト・シフトの時代、人々の気持ちは、複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比のうちB側に傾斜する。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考えるが、建築の専門家である著者は、政府の政策舵取りの欠如(A側の欠如)については業界常識として織り込み済みなのだろう。しかしA側の仕事である理念・政策がいい加減だと、第三世代の民主化も無秩序状態に陥りかねない。個人レベルでも、個の自立(A側)と共生への志向(B側)とのバランスが大切だと思う。話はここで「流域思想」、「庭園・芸術都市」といった街づくり理念の問題へと戻ってくる。これからも研究を続けたい。

 さて、建築の専門家からの提言といえば、「みんなの家」、「みんなの家 II」と辿ってきた、建築家伊東豊雄氏の最新著作『日本語の建築』(PHP新書)もまた、建築家による「街づくり」の提案である。タイトルからして複眼主義対比のB側志向といえる。本カバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 壁、壁、壁……。東北の被災地で巨大な防潮堤を成立させている「安全・安心」という堅固な壁は、いまこの国のいたるところに聳え立つ。「せんだいメディアアーク」「みんなの森ぎふメディアコスモス」で壁を立てない、自然の中にいるような空間をつくり、「みんなの家」から震災後の人と人をつなぐ場所を考え、今治「大三島」を日本一美しい島にしようと島の人たちと取り組む。「管理」と「経済」の高く厚い壁に取り囲まれ、グローバリズムの海に溺れる現代に、場所と土地に根差す「日本語の建築」で挑む。建築家が建築家であるために、いま、なしたいことと、必要なこと。

(引用終了)

本の章立ては以下の通り。

<はじめに>
序章  グローバル経済とバーチャルな建築
第一章 新国立競技場三連敗
第二章 「管理」と「経済」の高く厚い壁――東日本大震災と「みんなの家」
第三章 「時代」から「場所」へ
第四章 東京と『東京物語』
第五章 「日本語」という空間から考える
第六章 大三島にて
第七章 「場所」から生まれる想像力
終章  熊本地震と「くまもとアートポリス」
<おわりに>

「日本一美しい島」という理想を掲げる大三島プロジェクトの先行きを楽しみにしたい。

 街づくりの話は、「限界集落は将来有望」の項で紹介したようなフィクションによる考察も面白いと思う。私も過日『記号のような男』という街づくり(と山岳信仰)の小説を書いた。併せてお読みいただけると嬉しい。

P.S. 小説『記号のような男』はリライトを計画中。小説投稿サイト「カクヨム」の該当記事を非公開にしました。(4/27/2019)電子書籍サイト「茂木賛の世界」に小説『記号のような男』のリライトバージョンをアップしました。(5/26/2019)

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空き家問題 II

2017年01月31日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き空き家問題について考えたい。今回は『老いる家 崩れる街』野澤千絵著(講談社現代新書)によって、都市計画と住宅政策について考察する。本の副題には「住宅過剰社会の末路」とある。野澤さんは東洋大学理工学部建築学科教授。まずは新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

 人口減少時代に入ったのに高水準の住宅建設が続いている。本書は「住宅過剰社会の末路」という副題の通り、過度な住宅建設がもたらす様々な弊害について警鐘を鳴らしている。東京の湾岸部で建設が続く超高層マンションや、都市部の郊外で止まらない宅地開発の背景を探り、このままでは「不動産」が、売りたくても買い手がつかない「負動産」になりかねないと厳しく批判している。
 確かに本書でも触れている賃貸アパートの建設ラッシュには「本当に入居者が集まるのだろうか」と思わざるを得ない面がある。著者が指摘している通り、都市計画の規制緩和をてこに自治体が人口の奪い合いをしているのも事実だろう。空き家は今では地方だけでなく、東京のような大都市でも急増している。
 本書では群馬県みどり市や埼玉県羽生市など各地の事例も紹介している。様々な住宅のなかでも超高層マンションが抱えている問題について、的確にかつ鋭く切り込んでいる点が印象的だ。
 著者は解決策として、都市計画と住宅政策の連携の必要性を強調し、今ある「まちのまとまり」に住宅の立地を促すことを提案している。住民一人ひとりが自分が暮らす街に関心をもつように求めているが、そこが最も難しいのだろう。

(引用終了)
<日経新聞 12/11/2016>

 都市計画については以前「都市計画の不在」の項で、日本の都市計画に関する法律は、主に都市計画法と建築基準法とがあり、これらは1919年(大正8年)にできた古い法律(旧都市計画法と市街地建築物法)に、戦後、市場原理主義(儲け主義)と20世紀流工業社会型行政指導(調整ルール)とが足されただけのものだという意見を紹介したが、この本はそのあたりの知識を補強してくれる。本の章立てを見てみよう。

<はじめに>
第1章 人口減少社会でも止まらぬ住宅の建築
1.つくり続けられる超高層マンションの悲哀
2.郊外に新築住宅がつくり続けられるまち
3.賃貸アパートのつくりすぎで空き部屋急増のまち
第2章 「老いる」住宅と住環境
1.住宅は「使い捨て」できるのか?
2.空き家予備軍の老いた住宅
3.分譲マンションの終末期問題
4.住環境も老いている〜公共施設・インフラの老朽化問題
第3章 住宅の立地を誘導できない都市計画・住宅政策
1.活断層の上でも住宅の新築を「禁止」できない日本
2.住宅のバラ建ちが止まらない
3.都市計画の規制緩和合戦による人口の奪い合い
4.住宅の立地は問わない住宅政策
5.住宅過剰社会とコンパクトシティ
第4章 住宅過剰社会から脱却するための7つの方策
<おわりに>

 著者は<はじめに>の中で、我々は、「人口減少社会」なのに「住宅過剰社会」という不思議な国に住んでいるという。住宅過剰社会とは、世帯数を大幅に超えた住宅がすでにあり、空き家が右肩上がりに増えているにもかかわらず、将来世代への深刻な影響を見過ごし、居住地を焼畑的に広げながら、住宅を大量につくり続ける社会のこと(3ページ)。各章のポイントを綴った文章を引用しよう。

(引用開始)

 本書の第1章では、住宅の「量」の観点から、大都市部ではなぜ大量の超高層マンションがつくられ続けているのか?大都市郊外や地方の農地エリアでは、なぜ野放図に住宅地の開発や賃貸アパート建設が続いているのか? について、都市計画の視点から具体的に解き明かしていきます。
 第2章では、住宅や住環境の「質」とりわけ「老い」の観点から、老いた戸建て住宅や分譲マンションに待ち受ける終末期問題や相続放棄問題、公共施設やインフラなどの住環境の老朽化問題に着目しました。そしてこのまま何も手を打たなければ、次世代に負の住宅・負のまちを押し付けかねないという深刻な実態を明らかにします。
 第3章では、住宅の「立地」の観点から、活断層の上でも住宅の建設を禁止できないなど、日本の土地利用の規制がいかに緩いのか、また、都市計画も住宅政策も住宅の立地を積極的に誘導しようという機能が備わっていないという構造的な問題を明らかにします。
 そして第4章で、住宅過剰社会からの転換に向けた7つの方策を提案します。

(引用終了)
<同書 15−16ページ>

 日本の都市計画区域には、「市街地区域」、「市街化調整区域」、「非線引き区域」がある。さらにその外に「都市計画区域外」もあり、「市街地区域」以外は用途地域の定めのない区域となっている。この用途地域の定めのない区域は、特に2000年施行の「地方分権一括法」以降、自治体の恣意的な取り決めによって使途が左右され、それと2002年に制定された「都市再生特別措置法」以降顕著な、「市街地区域」内での規制緩和による乱開発とが相俟って、農村と都市双方に亘る「住宅過剰社会」が形成されてきたと著者はいう。

 この正規の都市計画法との整合が取れない「特別措置法」というのが曲者だ。都市計画法の基本的な枠組みを抜本的に見直すことなく目先の問題だけに対処しようとする官僚主義、市場原理主義(儲け主義)と20世紀流工業社会型行政指導(調整ルール)を温存したままの問題先送り型。もっとも、官僚主義はその定義からして「新しいことを始めない」ことなのだから、法律の文章を捏ね繰り回す官僚たちだけを責めるのはお門違い。問題の本質は<日本の戦後の父性不在>、特に(6)の国家理念の不在が大きいと思う。このブログでは21世紀の日本の生きる道として「庭園・芸術都市」という理念を提出しているが、これについてもさらにブラッシュアップしていこう。

 本書の著者は最後に(第4章で)、住宅過剰社会からの転換に向けた7つの方策を提案する。

方策@ 自分たちのまちへの無関心・無意識をやめる
方策A 住宅総量と居住地面積をこれ以上増やさない
方策B 「それなりの」暮らしが成り立つ「まちのまとまり」をつくる
方策C 住宅の立地誘導のための実効性ある仕組みをつくる
方策D 今ある住宅・居住地の再生や更新を重視する 
方策E 住宅の終末期への対応を早急に構築する
方策F もう一歩先の将来リスクを見極める

ということで、これらの方策が都市計画法と建築基準法とに反映されることが肝要だ(もちろん新しい国家理念を踏まえた上で)。「都市計画の不在」の項で紹介した『都市計画法改正―「土地総有」の提言』には「土地総有」という概念もあった。これからも研究を進めたい。

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空き家問題

2017年01月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「新しい会社概念」の項で、これからはstate(国家)の政策舵取りについて詳細を考えたいと述べた。日本の空き家問題はその一つである。当件については、以前「空き家問題をポジティブに考える」の項で、主にモノコト・シフトの観点から、「モノ」余りとしての空き家をどう「コト」に引き寄せて再生させるかということで、『空き家問題』牧野知広著(祥伝社新書)と『「空き家」が蝕む日本』長嶋修著(ポプラ新書)という二冊の本を紹介したが、今回、『解決!空き家問題』中川寛子著(ちくま新書)によって、この問題を今一度整理しておきたい。中川さんは住まいと街の解説者。まず本書の新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 空き家の増加が各地で問題になっている。政府も特別措置法を制定し、安全面で不安のある物件を除去しやすくする仕組みを整えた。
 空き家が増えている理由ははっきりしている。人口が減っているのに、相変わらず新築住宅の建設を後押しする政策を続けているためだ。著者は相続税対策で増えているアパート建設にも懐疑的で「空き家予備軍」と位置付ける。
 ただし、本書は空き家が発生する背景や政策の不備を批判するために書かれたわけではない。空き家を負の遺産ととらえるのではなく、うまく活用して活性化につなげようと呼びかけている。
 空き家を生かすポイントとして「収益性」「公益性」「社会性」をあげたうえで、東京都世田谷区や岡山市、広島県尾道市など全国各地の活用事例を紹介している。実際、各地で空き家がカフェやシェアハウス、文化施設などに続々と生まれ変わっている。
 著者は空き家問題を解決するキーワードとして「愛情」と「連携」をあげる。古い建築物を大切にしようという思いがなければ活用は進まない。官と民、住宅政策と福祉政策など、様々な主体が柔軟に協力することも必要だ。
 本書を読むと、暗い印象が先行しがちな空き家に対する見方が変わり、解決策が浮かび上がる気がする。

(引用終了)
<日経新聞 12/6/2015>

 本書は次のような章立てで問題を論ずる。

<はじめに>
第1章 いずれは3軒に1軒が空き家?――現状と発生のメカニズム
第2章 空き家活用を阻む4要因――立地、建物、所有者、相談先
第3章 空き家活用の3つのキーワード――収益性、公益性、社会性 
第4章 大都市・地方都市の一等地――収益優先の活用
第5章 立地に難ありの都市部・一部農村――公益性優先の活用
第6章 農村・地方都市――行政主体、社会性優先の活用
第7章 空き家を発生させないために――孤立死予備軍は空き家予備軍?
第8章 自分事としての空き家問題――買う時、残す時、受け取った時
<さいごに>

 著者は空き家増加の理由を、政府の政策先送り(無策)と、新築信仰に踊らされてしまう住宅購入者双方にあると指摘する。高度成長時代に始まった新築住宅の建設を後押しする政策がバブル崩壊後もそのまま引き継がれ、その結果大量にできた耐用年数の短い住宅を、新築というだけで(長期ローンを組んでまで)買ってしまう購入者層。都市計画と住宅政策、消費者の選択によって適時修正されるはずの問題が日本では解決されない。著者は第1章と第2章でこの問題を整理する。相続時期の高齢化、登記制度の不備、特別措置法、土地台帳の不在、相続放棄後の不動産、マンションの内部崩壊、建築基準法不適格、用途変更の法整備、借地借家法と定期借家法、共同相続などなど。

 先日「3つの判断基準」の項で、人の三つの宿啞(治らない病気)、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

を挙げたけれど、この(2)と(3)が空き家問題に見事に当て嵌まる。(2)は官僚主義の無策、(3)は新築信仰という認知の歪みの放置。この二つのさらに奥にあるのが、「日本の大統領」の項でもみた<日本の戦後の父性不在>だと思う。これが政府の無策と新築信仰の放置を許している。国の権力者は、国民の間の、

(1) 環境中心の考え方
(2) 優秀な人材は経済復興に
(3) 認知の歪み
(4) ヤンキー化
(5) 老人の隠居
(6) 国家理念の不在

といった傾向を良いことにして今も米軍に従属する道を選んでいる。これは彼らが三つの宿啞のうちの(1)に深く侵されているからだろう。

 空き家問題も「プライムアーティストとしての天皇」の項で考察した天皇制の問題も、<日本の戦後の父性不在>から来る同根の問題で、どちらもstate(国家)の政策舵取りに関わる。その意味で本来上の6つの傾向を引っ繰り返さないと真の解決には至らないのだが、『解決!空き家問題』の著者中川さんは、書評にもあるように、空き家問題をポジティブに考えようということで、第3章以下、「収益性」「公益性」「社会性」という3つのポイントによって解決策を具体的に探っていく。世田谷区や岡山市、広島県尾道市など全国各地の事例はここで紹介される。

 第4章は収益優先の活用、第5章は公益性優先の活用、第6章は社会性優先の活用。これらの具体策は、「空き家問題をポジティブに考える」の項で挙げた、

「モノ経済」a領域へのシフト:市街地再開発手法の応用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体

「コト経済」b領域へのシフト:シェアハウスへの転用、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用

といった解決策のうち、前者が中川さんのいう公益性・社会性の優先、後者が収益性優先の解決策と重なると思う。

 ここで「モノ経済」aや「コト経済」bというのは、「経済」=「自然の諸々の循環を含め、人間を養う社会の根本の理念・理法」という定義の下、それを三層(プラスaとb)に区分した、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

に拠るもの。「モノ経済」a領域へのシフトというのは、生活密着スタイルの空き家の活用法であり、「コト経済」b領域へのシフトというのは、人と外部との相互作用に関わる空き家活用法である。

 このブログでは、モノコト・シフトの時代、人々の関心は、経済三層a、b領域のうち、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)、そして「コト経済」(a、b両領域)に向かうものとしている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 本書の第7章と第8章は、空き家を発生させないための具体的な活動、および個人として空き家問題に直面した際どのように対処すべきか、という提案である。この本には、「ある空き家」と「なる空き家」という区分もある。前者はとくに都心部で空き家になってしまった物件、後者はとくに農村部で人口減により空き家になってしまうであろう物件である。前者はその活用を通して地域をどう活性化するかということに繋がり、後者は人口流出をどう防ぐかという別の課題に繋がる。このような区分で空き家問題を考えるのも有効だと思う。

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みんなの家 II

2016年11月01日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「みんなの家」の項で、建築家伊東豊雄氏の『あの日からの建築』(集英社新書)という本を紹介したが、最近、その続編ともいえる『「建築」で日本を変える』伊東豊雄著(集英社新書)が出た。まずカバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

グローバル経済に席巻され経済合理主義ばかりを追求した東京などの都市の建築は、町並みを無機的で均質な風景に変えてしまった。そこでは、地域独自の歴史文化や自然とのつながりは失われている。著者は近代主義的な建築に限界を見出し、地方にこそ人と人をつなぐ、自然環境と調和した新たな建築の可能性があると考えている。岐阜県「みんなの森 ぎふメディアコスモス」や愛媛県「大三島プロジェクト」といった著者の最近の建築プロジェクトの紹介を通し、脱成長の時代の新たな建築のあり方を提案する。

(引用終了)

 前著が出版されたのは2012年10月だから4年ぶりの新著だが、その間著者はどこでどのような活動を行ってきたのか。新聞の書評を引用したい。

(引用開始)

 東日本大震災以後、日本の建築が変わりつつある。「建築」という存在を、単体の建築物から、それが拠って立つ地域やコミュニティ、あるいは竣工前後の市民ワークショップやイベント活動までを含みこむ、より広く大きなものとして再定義する潮流が生まれている。平たく言えば、建築の「社会性」を問い直すこと。この流れは日本に限らず、世界各地の建築に同時多発的に現れている。
 伊東豊雄は、こうした近年の建築の思想をめぐる潮目の変化を体現する建築家だ。震災を契機に、被災地の復興計画や小さな集会所の設計等、それまでの作風とは打って変わる社会的プロジェクトの実践の方へ、大きく舵を切った。
 本書は、そんな伊東が現在、岐阜、愛媛、長野、茨城で進めている四つのプロジェクトを紹介する。共通するのは地方というフィールドだ。「都市を向いた建築の時代は終わった」と宣言する伊東は、人と密に交流しながら、その場に固有の文化や自然環境と調和した建築をつくる可能性が残る地方にこそ、建築の未来があると言う。とりわけ愛媛・大三島での活動が興味深い。美術館の設計に始まり、私塾の塾生や外国人学生との調査研究、空き家の保存活用、果てはワイナリーの創業まで。従来の建築家の職能を飛び越える様々な活動を通じて、地域に貢献する建築の在り方が模索されている。(評者 市川絋司=建築史家)

(引用終了)
<東京新聞 10/9/2016(フリガナ省略)>

このブログでは、「地方の時代」「地方の時代 II」「里山システムと国づくり」「地方の時代 III」の項などで、地方の重要性や可能性に言及してきたが、本書はそれを建築家の視点から論じたものとなっている。

 伊東氏はこの本で、建築を「人びとを繋ぎ、新しい何かを生む場所や空間にかたちを与えていくこと」(141ページ)と定義する。

(引用開始)

 今、私が目指している建築は、近代主義が切り離してしまった建築と人びとの距離を縮めること、いや一般の人たちの手に建築を取り戻すことです。そのことが、建築に自然を回復させ、地域性や歴史文化を継承させ、コミュニティを再生させることに繋がると考えています。
 建築は日々の生活のリアリティを実感できる場でなければなりません。建築家だけでない、つくる人も、暮らす人も、活動する人も、みんなが建築に関わってこそ、建築は生き生きとした生命を宿すことができるのです。

(引用終了)
<同書 194−195ページ> 

時間が止まった「モノ」よりも、「コト」の起こる場の力を大切に考える「モノコト・シフト」の時代に相応しい建築論だと思う。

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中小水力発電

2016年10月04日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「流域思想 II」の項で、「自然の理に適った流域ごとの水力発電・供給システム」について、『本質を見抜く力』養老孟司・竹村公太郎共著(PHP新書)から、

(引用開始)

竹村 日本はどうしたらよいのでしょうか。私はやはり、エネルギー源を日本列島内で分散化すべきだと思います。「国土の均衡ある発展」などという建前ではなく、各々の地方地方が自立したエネルギー獲得システムと食料自給システムを作らないといけない。そうやって自立した地方には、今後必ず、都会から逃げ出す人が出てきます。地方にそのときの受け皿になってもらいたいです。
たとえば電力会社が大発電所を作り、全国津々浦々に送電するのは無駄が多い。そこで、たとえば過疎地は地元の川で水車を回してエネルギーを作ることにする。夜は水車で発電し、余った電気で水を分解して水素を作り、昼間はその水素をチャージする。そんな新しい文明を、国家として構築することが大事だと思います。(後略)

(引用終了)
<同書43−44ページ>

という言葉を紹介した。2010年5月のことだ。21世紀の日本の街づくりにとって欠かせないコンセプトとしてその詳細を知りたいと願っていたが、あれから6年経った今年(2016年)9月、『水力発電が日本を救う』竹村公太郎著(東洋経済新報社)が出版された。氏が上の自説を敷衍したもので、水力発電のメリットや、中小水力発電の詳細が書かれている。待望の書というべきである。

 副題は「今あるダムで年間2兆円超の電力を増やせる」。竹村氏は元国土交通省河川局長、「地形と気象から見る歴史」の項で紹介したように、地形と気象を長く研究されてきた方で、世界でもまれなその(地形と気象)条件から、日本は水力発電でエネルギー大国になれると論じておられる。本の目次を紹介しよう。

(引用開始)

序   一〇〇年後の日本のために
第1章 なぜ、ダムを増やさずに水力発電を二倍にできるのか
第2章 なぜ、日本をエネルギー資源大国と呼べるのか
第3章 なぜ、日本のダムは二〇〇兆円の遺産なのか
第4章 なぜ、地形を見ればエネルギーの将来が分かるのか
第5章 なぜ、水源地域が水力発電事業のオーナーになるべきなのか
第6章 どうすれば、水源地域主体の水力発電は成功できるのか
終章  未来のエネルギーと水力発電

(引用終了)

 利水と治水というダムの目的、「特定多目的ダム法」という古い法律の存在、河川法改正の必要性(「環境保全」だけでなく「川のエネルギー開発」をその目的に加えるべき)、グラハム・ベルの先見性、薄いエネルギーと濃いエネルギー、ダムは半永久的に壊れない、逆調整池ダム、嵩上げによって古いダムを有効利用する、水源地域のための小水力発電、水力専門家集団による支援体制、SPC(スペシャル・パーパス・カンパニー:特定目的会社)の体制、事業保証体制、目的は拡大ではなく持続可能性、水(水素)でつくる燃料電池の可能性などなど、その主張と論旨は明快だ。竹村氏の言葉を「終章」から引用したい。

(引用開始)

集中から分散へ

 過去の近代化においては、効率性が最優先された。
 効率性は、人の効率性、時間の効率性、場所の効率性で構成される。 
 人の効率性は、マニュアルの画一性で成し遂げた。
 時間の効率性は、エネルギーを使ったスピードで成し遂げた。
 場所の効率性は、都市に集中することで成し遂げた。
 過去のエネルギー分野での効率性も、画一性と、スピードと、場所の集中で成し遂げられた。
 一〇〇年後、二〇〇年後、水のエネルギーは、近代化を成し遂げたエネルギーと反対になっていく。
 全国各地に流れる川は、画一性を持たない。川のスピードは地形に依存している。全国各地の水を、一か所に集中させることもできない。
 この水力発電で最も重要な点が「分散性」なのだ。
 日本全国のどの場所にも、水がある。日本全国どこの水源地域でも、水の力で電気を造れる。
 つまり、水素の製造と貯蔵技術が進展すれば、日本全国の水源地でエネルギーが手に入ることになる。
 水という原材料は、一切輸入することはない。
 すべて、日本国産の原料と技術による、持続可能なエネルギーが手に入るのだ。

都市が水源地域に手を差し伸べるとき

 日本の近代化では、都市は水源地の犠牲を強いて、エネルギーを送ってもらい発展してきた。
 ポスト近代の未来の日本では、その水源地域が、再び日本のエネルギー基地となっていく。
 しかし、二一世紀の今、水源地域は過疎化で悩み、森林の荒廃で苦しんでいる。
 近代からポスト近代に移行するこの端境(はざかい)期の今、安全で、快適で、資金力のある都市は、省力水力発電で水源地域に手を差し伸べるべきであろう。
 近代化の中で巨大ダムを造ってきた私たちダム技術者だちの心からの願いである。

(引用終了)
<同書 188−190ページ(太字は見出し)>

 このブログでは、これからの日本の街づくりに必要なコンセプトとして、「庭園・芸術都市」(庭園や里山、邸宅美術館や芸術劇場を持つ流域都市)を提唱しているが、中小水力発電は、その重要なエネルギー供給源となるに違いない。

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文化財的家づくり

2016年09月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『いい家は無垢(むく)の木と漆喰(しっくい)で建てる』神ア隆洋著(文春文庫)という本を有意義に感じながら読んだ。本カバーの裏表紙から紹介文を引用しよう。

(引用開始)

紙とビニールで作られた幅木、中身がボール紙のドア、重くて耐久性のないセメント瓦――住宅メーカーの言いなりになるとこんなひどい材料の家にされてしまう。無垢の木と漆喰を使った家こそが「いい家」であるという信念で自然素材を使った住宅を造ってきた著者が、理想の家とは何かを豊富な実例を使って明らかにする。

(引用終了)

 無垢の木を使うとは、青森ヒバやヒノキ、松などの材木をそのまま角材や板として使うことだ。合板よりも強度があり美しい。漆喰とは、石灰を焼いて生石灰にしさらに水を吹きかけて消石灰にしたもの。ビニールクロスなどよりも清潔で味わいがある。無垢の木と漆喰の組み合わせは調湿作用があり身体にもよいという。目次よりいくつか本の内容を示す言葉を拾ってみる。

(引用開始)

● 合板フローリングの床で「いい家」と言えるのか
● 集成材や米ツガの土台にビックリ
● 「いい家」は自然素材を使って建てる
● なぜ木は温かくすぐれた断熱材なのか
● 漆喰はなぜ快適な住まいを造るのか
● 有名メーカーだから素材も良質は限らない
● 無垢と合板のフローリングを比べてみる
● なぜ土台に青森ヒバが優れているのか
● 使い勝手のいいキッチンのレイアウト
● 床暖房は借金してでも入れる価値がある
● 長く住み継がれる文化財的家づくりを目指して

(引用終了)
<同書帯裏表紙より>

 このブログでは、これからの日本の街づくりに必要なコンセプトとして、「庭園・芸術都市」(庭園や里山、邸宅美術館や芸術劇場を持つ流域都市)を提唱しているが、その住宅には、長く住み続けることができるこういった家屋が相応しいと思う。 

 同書第4章「後悔しない家づくりの知恵」から神ア氏の言葉を引用したい。無垢の木、漆喰、石、タイルなどの自然素材を使うことは、文化財的家づくりの原点であるという。

(引用開始)

 これまでにたくさんの家を建てさせていただいたが、多くの建築主が、「住み心地がいい」「快適な家」と言ってくださる。これは、無垢の木と漆喰をはじめとする自然素材の力のおかげである。
 文化財というと、法隆寺など歴史のある貴重な建造物が思い浮かぶ。後世の人がいい建築だとその価値を認めてくれれば、文化財となる。家づくりも同じである。今の流行の建物が、今後も末永く生き延びるものなのか、疑問を感じる。
 合板や木片を接着剤で固めた新建材、ポリウレタン、ポリスチレンなど石油化学製品が蔓延する時代、マスコミも頻繁にシックハウス症候群の原因が接着剤や塗料などに含まれる化学物質にあると報じているにもかかわらず、建材メーカーは相変わらずそんな建材を生産販売し続けている。住宅メーカーも、ホルムアルデヒドなど大きな問題になった物質を、害の少ないものに代えることで「安心です」と言っている。
 このような時代の流れに対して、無垢の木、漆喰、石、タイルなど、自然素材を用いた、真に人にやさしい家づくりが、もう一つの大きな流れであると、私は思う。無垢材、自然素材の利用は、文化財的家づくりの原点である。木もヒノキ、松、杉、青森ヒバ、ナラ、タモなど、さまざまな種類を適材適所に使っていくことが大切ではないだろうか。
 本当に「いい家」とは、建築主に満足を与えるだけでなく、普遍的な価値を持つものではないだろうか。そうした価値のある家を、普通の人が少し努力すれば手の届く価格で建てられるようになれば、多くの人に喜ばれ、社会に貢献することになるだろう。そのために力を尽くしたい。
 二一世紀は、自然との調和の世紀になってほしいし、そうならなくてはいけない。そのためにも、正しい意味での文化財的家づくりが、大きな意義を持つ。建てた家が一〇〇年、二〇〇年と歳月を重ねてこそ、素晴らしい建築といえるのである。次の世代に住み継がれる家づくりは、建てた人の誇りとなり、住む人に心の豊かさや安らぎ、喜びや愉しみを感じさせてくれることだろう。

(引用終了)
<同書 303−305ページ>

日本の山には杉や檜の林が多い。そういう材木を使うことは資源リサイクルとしても理に適っている。文化財的家づくりは日本の「庭園・芸術都市」を支える大切な基盤となるに違いない。

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谷を渡る風

2016年07月26日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 この間の週末、三浦半島・小網代の森を歩いてきた。数年前、知人の柳瀬博一さんからお話を伺い是非行きたかった場所だ。小網代の森には、源流から海までの生態系がまるごと残されている。最近その柳瀬さんを共著者とする『「奇跡の自然」の守り方』岸由二・柳瀬博一共著(ちくまプリマー新書)がでたが、その本にはこの森のことが詳しく書かれている。新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

神奈川県三浦半島の先端にある「小網代の森」は、山頂から河口まで、ひとつの「流域」が自然のまま残る世界的にも珍しい地域だ。1980年代末には開発計画も浮上した森がどう守られたのか。政治活動に頼らない、市民組織による長きにわたる活動の歩みが具体的に紹介されている。

(引用終了)
<日経新聞 5/22/2016>

「流域」とは、「雨水があつまる大地の領域と定義される生態系」のこと。小網代の森は、コンパクトながら、その源流から河口まですべての生態系が観察できる稀有の場所である。

 当日の散歩は、雨上がりだったこともあって暑くもなく快適だった。「中央の谷」から「まんなか湿原」「やなぎテラス」「えのきテラス」へと進むあいだ、アスカイノデ(巨大なシダ)、浦の川、ハンノキ林、ジャヤナギの林、アシ湿原、などが次々と眼前に現れる。さらに「アカテガニ広場」「河口干潟」「眺望テラス」と巡るうちに、磯辺でチゴガニのダンスも見たし、岩に隠れるように潜むアカテガニの姿もみることができた。心地よい風が谷を渡る。自然を愛する人々にとって、ここは本当にワクワクする一級のジオパーク(geopark)といえるだろう。

 この本は、そういった小網代の森の全貌を紹介するとともに、どのようにして著者たちがこの素晴らし土地を乱開発から守り、ジオパークとして育て上げていったかという歴史が書かれている。行政(国・県・市)、有志、市民、開発企業(京急など)といった関係者たちを、どのようにして纏め上げて行ったか。1960年代までの「裏の田んぼ・裏の林」だった時代、1980年代の大型リゾート計画、1990年代のバブル崩壊、計画の見直しなどを経て、2014年の施設完成まで、もちろん時代のタイミングも良かったのだが、最大の成功要因は、この本の共著者でもある岸由二という素晴らしいリーダーがいたことだろう。

 詳しくは本書をお読みいただきたいが、彼の<流域一番>という理念、保全戦略は当初からブレることがなかった。やみくもに開発に反対するのではなく、柔軟に関係者たちをつなぎ、コンセンサスを得ながらグランドデザインの実現へと人々を導いてゆく。信念を持ってやり抜くこと、それは起業においてもリーダーの大切な資質(dispositions)である。

このブログでは、岸氏が提唱する、流域を一つの纏まりと考える「流域思考」についても、

流域思想
流域思想 II
流域社会圏
流域価値
流域地図

などの項で論じてきた。併せてお読みいただきたい。写真は散歩時に撮った小網代の森。

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庭園・芸術都市

2016年06月28日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「宗教から芸術へ」の項で、平田オリザ氏の『下り坂をそろそろと下りる』(講談社新書)に触れ、氏の問題意識は『芸術立国論』の頃から変らないと書いた。今回はこのあたらしい本を紹介したい。まずは新聞の書評から。

(引用開始)

 戦後日本の価値観を転換すべき時。もはや耳慣れた主張だが、その論拠とオリジナリティに驚かされた。
 経済成長が終焉し“工業立国”でなくなった日本は今後「長い後退戦」を強いられる。教育、雇用、福祉といったシステムの改革も進まない。
 著者は「文化で社会を包み込む」方策を説き、地域の自立再生に希望を見いだす。兵庫県豊岡市では、文化施設「城崎国際アートセンター」誕生に関わった。世界のアーティストが訪れる町となり、小中学校では演劇を使ったコミュニケーション教育を実施している。サービス業が中心となる現代の産業構造に対応し、大学入試・就職が、表現力や協働性の総体である「文化資本」を問うものに変化していく流れにも通じる。
 宮城県女川町は震災後に伝統の獅子舞をいち早く復旧させ、住民が団結をとり戻した。各地域の祭りや文化活動は男女の「偶然の出会い」を創出し、少子化解決の妙手になる。移民の受け入れを含めたアジア圏との交流にも、異文化理解は欠かせない。
 <誰もみな芸術家たる感受をなせ>。著者が引いた宮沢賢治一節。私たちが意識を変えれば、“文化立国”は確かに可能なのだ。(和)

(引用終了)
<毎日新聞 5/1/2016(フリガナ省略)>

イニシャルに(和)とあるのは、毎日新聞の書評委員であり、『和の国富論』(新潮社)の著者藻谷浩介氏かもしれない。藻谷氏はこの本の帯に“避けてきた本質論を突きつけられた。経済や人口に先立つのは、やはり「文化」なのだ”というコメントを寄せておられる。作家藤沢周氏の書評も引用しよう。

(引用開始)

 平田オリザ『下り坂をそろそろと下りる』(講談社新書・八二一円)は、演劇を通して地域の自立再生やコミュニケーション教育、学びの広場造りなどを実践している記録であるとともに、「この国のあたらしいかたち」を提示するものである。
 競争と排除の理論から抜け出し、寛容と包摂の時代へ。そのためには、東京標準ではない、地方の独自性を大事にする世界標準の教育と文化が必要なのである。地方の学生や子供たち、住人たちが演劇などを通して、真の幸福とは何かをつかんでいく姿に快哉。野次やヘイトスピーチなどに、この国の未来はない。

(引用終了)
<東京新聞 5/1/2016「3冊の本棚」より(フリガナ省略)>

 この本で平田氏は、

一、もはや日本は、工業立国ではない
二、もはや日本は、成長社会ではない
三、もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない

という三つの時代認識を掲げ、

序章  下り坂をそろそろと下りる
第一章 小さな島の挑戦――瀬戸内・小豆島
第二章 コウノトリの郷――但馬・豊岡
第三章 学びの広場を創る――讃岐・善通寺
第四章 復興への道――東北・女川、双葉
第五章 寂しさと向き合う――東アジア・ソウル、北京
終章  寛容と包摂の社会へ

という章立てによって、自らの活動を一つひとつ紹介しながら、演劇など「芸術」による立国こそが、これからの日本に相応しいと論じてゆく。この主張は、(「宗教から芸術へ」の項でもみたが)これからの「新しい家族の枠組み」、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

ともフィットしている。是非本書を手にしてみていただきたい。芸術活動による街づくり。ワクワクするのは私だけではない筈だ。このような街には起業(個業)の種がいくらでも転がっていると思う。

 このブログでは、これからの日本の街づくりに必要なコンセプトは、「庭園都市」(庭と里山をもつ流域都市)であり、『百花深処』<二冊の本について>では、「邸宅美術館」(庭と美術品を持つ家)であると論じてきたが、これからはそれに演劇などの芸術を加え、「庭園・芸術都市」を提唱してゆきたい。

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posted by 茂木賛 at 11:13 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

木の本

2016年05月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「森の本」の項で、森に関する本を五冊ほど紹介したが、今回はさらに解像度を上げ、木に関する本を三冊選び帯やカバーの文と共に紹介したい。

1.『木を知る・木に学ぶ』石井誠治著(ヤマケイ新書)

(引用開始)

森の恵みを利用してきた日本人は「森の民」。
木を知ることは、日本人を知ること。
今こそ日本人の「原点」を学ぼう!

日本を代表するサクラからウルシ、ツツジ、イチョウ、ブナ、マツなど代表的な13種の樹木の魅力を樹木医で森林インストラクターでもある人気講師が親切ていねいに解説。日本の自然と文化の礎となった「木」と友達になる本。

(引用終了)
<同書 帯表紙・裏表紙より>

ここで取り上げられている木は、

第二章「木と人間」:サクラ・ウルシ・ツツジ
第三章「木の歴史」:イチョウ、ブナ、マツ
第四章「木と信仰」:クリ・クスノキ・カヤ
第五章「木と生活」:スギ、ヒノキ、クワ、カキノキ

ということで、様々な面から人と木の関わりを知る構成になっている。第一章は「木を学ぶ」とあり、葉と芽と花、根と菌根、環境を見方にする知恵、木が持つ実を守る方法など、樹木に関する基礎知識を得ることができる。

2.『木』白洲正子著(平凡社ライブラリー)

檜、欅、松、栃、杉、桜……
木を愛し、木工の類を毎日そばに置いて
使っていたという著者による「木の話」二十選。
日本の木の伝統と、人の木に対する関わりについて
感覚と体験、そして取材を通じて深められた思考が、
やがて独自の日本文化論へと結晶する。

(引用終了)
<同書 カバー裏表紙より>

この本で取り上げられているのはすべて木偏のつく木ばかり。

檜(ヒノキ):木曽神宮備林/伊勢神宮
欅(ケヤキ):東村山梅岩寺/黒田辰秋の櫃
松(マツ):善養寺(東京)/梅岩能楽堂
栃(トチ):北アルプス鹿島槍ヶ岳/槙野文平の椅子
杉(スギ):三輪神社/つくり酒屋の杉玉
樟(クスノキ):奈良春日神社/法輪寺の観音像
槙(マキ):大蔵寺(奈良)/「たる源」の湯槽
榀(シナノキ):熊野神社(信濃)/菅原匠の藍染
樫(カシ):和歌山県田辺/びんちょうの炭
楊(ヤナギ):水元公園(東京)/「江南」の楊箱
桐(キリ):福島県柳津/「江南」の桐箱
檮(イスノキ):小国神社(浜松)/松山鉄男の櫛
朴(ホオノキ):岐阜県高根村/飛騨の有道杓子
榧(カヤ):東村山梅岩寺/法華寺十一面観音
楮(コウゾ):京都府綾部/「唐長」の唐紙
柿(カキ):白洲邸/正倉院「黒柿の厨子」
槐(エンジュ):宮城県弥治郎/みちのくの「こけし」
桂(カツラ):細川邸(軽井沢)/日向薬師三尊
楓(カエデ):大蔵寺(奈良)/紅葉漆絵鉢
桜(サクラ):本居宣長の山室/歌集の版木

右側の説明は、掲載された木の写真の場所と、本文にあるその木を使った工芸品など。日本人の匠の技はどれも素晴らしい。その写真もある。木の文化の神髄に触れることができる本だ。以前「茂木賛の世界」に掲載した、短編小説『老木に白雪』にある櫛の話はこの白洲さんの本に拠った。1.の『木を知る・木に学ぶ』と重なる木はサクラ、マツ、クスノキ、カヤ、スギ、ヒノキ、カキノキの7種。見比べて読むと趣が増すと思う。

3.『葉っぱで調べる身近な樹木図鑑』林将之著(主婦の友社)

(引用開始)

一枚の葉っぱから、身近な樹木の名前が簡単に調べられる初心者向きの樹木図鑑です。街路樹や公園、庭、野山で見かける樹木訳175種類を紹介しました。葉っぱのスキャン画像を中心に、樹皮や樹姿なども多数掲載しました。身近な樹木の名前が分かると、散歩や通勤が楽しくなります。

(引用終了)
<同書 カバー裏より>

この本は、葉っぱの形からその樹木を追いかけることができる楽しい図鑑。その分類は、

1.針葉樹(スギなど18種)
2.ふつうの形・ギザギザ落葉樹(クヌギなど47種)
3.ふつうの形・ギザギザ常緑樹(シラカシなど25種)
4.ふつうの形・なめらか落葉樹(カキノキなど16種)
5.ふつうの形・なめらか常緑樹(クスノキなど32種)
6.もみじ形(トウカエデなど25種)
7.はね形(エンジュなど19種)

ということでとても判りやすい。カラー写真が沢山あるから身近に置いておくと役立つだろう。

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posted by 茂木賛 at 15:07 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

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