夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


対抗要件と成立要件

2017年09月23日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『人口減少時代の土地問題』吉原祥子著(中公新書)という本を一気に読んだ。副題には“「所有者不明化」と相続、空き家、制度のゆくえ”とある。まず本帯のキャッチコピーとカバー裏の紹介文とを引用しよう。

(引用開始)

空き家、相続放棄の問題が、農村から都市へ拡大している
持ち主がわからない土地が九州の面積を超えている――。

日本の私有地の約20%で、所有者がわからない――。持ち主の居所や生死が判明しない土地の「所有者不明化」。この問題が農村から都市に広がっている。空き家、耕作放棄地問題の本質であり、人口増前提だった日本の土地制度の矛盾の露呈だ。過疎化、面倒な手続き、地価の下落による相続放棄、国・自治体の受け取り拒否などで急増している。本書はその実情から、相続・登記など問題の根源、行政の解決断念の実態までを描く。

(引用終了)

 このブログでは、空き家問題についていろいろと論じてきたけれど、その根底には「土地問題」があると感じていた。「建築自由と建築不自由」で書いたように、日本の憲法の土地所有権は、“土地は本来基本的に自由なのであって、これが制約を受けるのは、その利用が他者を害する時だけであるとし、この他者への侵害を「公共の福祉」として捉え直し、これを法的に構成した”ものだからである。「土地問題」に切り込んだ本書は、だからとても重要かつタイムリーな企画といえるだろう。新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

有効利用へ実態解明と問題提起

 きっかけは、外資の森林買い占めだった。北海道庁は土地売買の事前届け出を義務づけ、登記簿上の土地所有者4千人余に通知した。だが、その45%が宛先不明で戻ってくる。こうした土地の「所有者不明化」問題はいまや全国に広がり、面積にして九州を上回る。土地はちゃんと登記され、国や自治体が管理しているはずという著者の思い込みは覆される。「なぜこんなことに」という疑問から、この研究プロジェクトが始まった。
 背後には、土地の相続登記が任意だという事情がある。登記手続きは煩雑で、費用もかかる。しかも、登記しなくても不都合はない。これでは、放置される。世代交代が進めば法定相続人がねずみ算的に増え、所有者の関心は低下し、自分の森林の場所や境界すら分からなくなる。
 これは今、林業の現場で大問題となっている。荒れた森林に手を入れたくとも、所有者が不明で手が付けられないのだ。また、震災復興事業をはじめ全国で様々な事業が、土地の権利関係の確定に膨大な時間と労力を要するため、遅れたり暗礁に乗り上げたりしている。まずは所有者の確定を、次に、基盤となる土地情報システムの整備が急務、と著者は強調する。
 しかし根底には、人口減少で土地需要が縮小し、大都市圏を除いて、もはや地価が上がらないという構造要因がある。土地は有利な資産ではなくなり、登記の必要性は低下した。にもかかわらず、所有者不明で有効活用できない土地・不動産は、今後さらに拡大する見込みだ。
 こうなれば、農林業の集約化や空き家活用によるまちづくりなどが、所有権の壁にぶつかって進まなくなる。本書は「強すぎる所有権」ゆえ、土地・不動産の有効利用が進まない実態を浮かび上がらせた。これは究極的に、「所有権と利用権の分離」というラディカルな思考にもつながっていく重要な問題提起だ。(諸富徹)

(引用終了)
<朝日新聞 9/3/2017>

 著者は、土地利用について欧米と日本を比較し次のように述べる。日本の土地問題は、明治政府がフランス民法を手本にしたことに遡るらしい。

(引用開始)

 欧米を見ると、厳格な利用規制などによって個人の土地所有権に一定の制約を課している国が多い。
 土地には本来、その用途たる使用目的があるもので、土地所有者はどこまでも自由に利用し、または利用しないことができるものではない、という考え方が基本にある。
 明治時代に日本が民法を制定する上で手本としたフランスは、土地の使用、収益、処分のいすれについても所有権者個人の自由であるという、いわゆる絶対的所有権の考え方をとっている。
 しかし、土地需要が逼迫した高度成長期の1950年代以降、個人の所有権に一定の制限を課し、必要な公的利用が円滑に進むよう制度改正が重ねられてきているという。

(引用終了)
<同書 124ページ(フリガナ省略)>

フランス法は「不動産などの売買による権利の変動は、当事者間の契約によって成立する。ただし、第三者に権利を主張するためには登記を必要とする」という考え方で、こうした登記の性質は「対抗要件」と呼ばれる。これは、登記をしないと権利の変動そのものが成立しないとするドイツ法の考え方とは異なる(こちらは「成立要件」と呼ばれる)。この「対抗要件」の考え方が、日本の憲法における「建築自由」の基にあるわけだ。

 フランスは制度改正を進めているが日本はそのまま。土地の利用よりも所有が優先する日本のような状況は、現在、先進諸外国では類を見ないものだと著者はいう。土地問題の解決は、国家経営の重要課題の一つである。それがなおざりにされ続けている。<日本の戦後の父性不在>がここにも顕現していると思う。

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ヒト・モノ・カネの複合統治 II

2017年06月11日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 65歳になってビジネス・コンサルは休業したが、webサイトはそのままにし、このブログも(以前近々終わると書いたが)時々アップしようと思う。

 先日『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』水野和夫著(集英社新書)という本を読んだ。水野氏の著書については、今年の初め「新しい会社概念」の中で、『株式会社の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)を紹介したことがあるが、本書は、そこでの議論を踏まえて、近未来のnationとstateの在り方について論じたものとなっている。

nation:文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団(民族・国民)
state:その集団の居場所と機構

(引用開始)

資本主義の終焉によって、世界経済の「常識」が逆転した。経済成長を追及すると、企業は巨大な損失を被り、国家は秩序を失う時代になったのだ。生き残るのは、「閉じた経済圏」を確立した「帝国」だけである。
「長い21世紀」という五百年ぶりの大転換期に始まる、新しい「帝国」システム。そのもとで、英米・欧州・中露の経済はどう変わるのか? 日本を救い出す方策とは何か?ベストセラー『資本主義の終焉と歴史の危機』で高い評価を受けたエコノミストが描く、瞠目の近未来図!

<目次>
1 「国民国家」では乗り越えられない「歴史の危機」
2 例外状況の日常化と近代の逆説
3 生き残るのは「閉じた帝国」
4 ゼロ金利国・日独の分岐点と中国の帝国化
5 「無限空間」の消滅がもたらす「新中世」
6 日本の決断――近代システムとゆっくり手を切るために

(引用終了)
<同書カバー裏表紙より>

 水野氏は本書の中で、「閉じた地域帝国」と「地方政府」という二つの統治システムを提言しておられる。「新しい会社概念」の項で見たように、「より速く・より遠く・より合理的に」を原理とするグローバリゼーションが限界を迎え、「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」を原理とするローカルな経済圏が必要とされる中、近代の「国民国家」は、国際的な政治経済単位としては小さすぎ、人々の生活単位としては大きすぎる。だからそれを解決する手段として、

「閉じた地域帝国」:EUのような陸の広域経済連携
「地方政府」:ローカルな閉じた定常経済圏

という二層からなる統治システムが望まれるというわけだ。「地域帝国」は世界秩序に責任を持ち、「地方政府」は人々の日々の生活を守る。

 私も以前「nationとstate」の項で、

(引用開始)

 まずnationについて考えてみよう。(中略)総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を高めると思われる。スペインのバスクとカタルーニア地方、イタリアの北部同盟、イギリスのスコットランド、日本の沖縄などなど。そもそも1991年のソ連崩壊はその前兆だったのかもしれない。

 次にstateについて考えてみよう。(中略)nation(民族・国民)という括りへの分裂圧力と、ヒト・モノ・カネの流動性の強まり。そういう時代、state(集団の居場所・機構)の統治は、昔に較べて、遥かに複雑なものにならざるを得ないと思われる。その一例が欧州連合(EU)の統一通貨政策だろう。ヒト・モノとマネー管理を分離することで複雑な時代に対応しようとしているわけだ。

 これからのstateの統治のあり方は、他の地域でも、EU方式の延長線上にあるのではないだろうか。すなわち、ヒト・モノ・カネ、各層において、その「居場所と機構」を複合的に管理・運営すること。それが、これからのstateの統治に求められるのではないだろうか。ヒト・モノ・カネを一元的に管理・運営しようとする(民族国家のような)統治は、これからの時代にそぐわないものになってきていることは確かだと思われる。

(引用終了)

と書いたことがある。また「経済の三層構造」の項で、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という三つのレイヤーを定義し、「ヒト・モノ・カネの複合統治」の項でこれからのnationとstateの在り方を探った。さらに、「国家の理念(Mission)」の項で日本国家の理念について述べた。「地方state」、「日本列島united states」、「アジア広域経済連携」という三層の統治機構を想定していたのだが、水野氏の考えを援用すれば、中間の「日本列島united states」は不必要かもしれない。

 新しい世界における「地方政府」と「広域経済連携」、その上位にある「地球規模交易」の三層。それは、「コト経済」、「モノ経済」、「マネー経済」の経済三層と入り組みながら対応し、人々の暮らしと世界秩序の安定に寄与する。このような複合統治では、それに見合った多重通貨が必要になると思う。どういう通貨を、どんな機能によって、どこで流通させるのか。その価値交換の仕組みは?これからも、統治の在り方についていろいろと研究したい。

 尚、電子書籍コンテンツ・サイト(無償)『茂木賛の世界』の方も続けている。併せてお読みいただきたい。

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国家の理念(Mission)

2017年03月28日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「都市の理念(Mission)」の項で、「上位の国家理念についてはこれからの研究課題である」と書いたけれど、今回はそのこと(国家理念)について考えてみたい。言葉の定義は、

---------------------------------------------
「国民(nation)」:文化や言語、宗教や歴史を共有する人々の集団。

「国家(state)」:国民の居場所と機構。

「国家理念(state Mission)」:国家がどのような分野で、どのように世界へ貢献しようとするのかを表現した声明文。
---------------------------------------------

としよう。日本列島の国家(state)は、列島国民の居場所と機構であり、その理念(Mission)は、国民の多数決(もしくはそれ以上の比率による議決)によって定められる。国家は理念に賛同しない国民をも包摂し、その理念は、継続的に国民に問い直されなければならない。

 このブログでは、21世紀は「モノコト・シフト」の時代であると主張してきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 このブログで提唱している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいえば、人々の気持ちがB側へ傾斜する時代といえる。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 これからの日本の国家の理念(どのような分野で、どのように世界へ貢献しようとするのかを表現した声明文)は、

〇 そもそも日本語的発想がB側に強いこと
〇 モノコト・シフトという時代的要請

を踏まえ、B側の力をアピールするものでなければならないだろう。また、日本列島はアジアに位置しているから、当然、アジアの安定、文化的発展に貢献することが求められる。これまで考えてきた「流域思想」や「庭園・芸術都市」といった都市の理念と整合的であることも担保したい。

● ものづくりの技(プロセス)を極める
● 日本語的発想による文化や芸術を世界へ広める
● 列島の豊かな自然を守り育む
● 水や海に関する最先端技術を開発する
● 身体の働きを生かした医療を探求する
● 各分野で「時間原理」「関係原理」の発展を支える

などが思い浮かぶ。詳細についてこれからも研究を重ねたい。

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都市の理念(Mission)

2017年03月14日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 ビジネス・コンサルタントとして日本の都市計画を考えるとき、一番欠けているのは「都市の理念(Mission)」ではないかと思う。会社経営の一丁目一番地が「理念(Mission)と目的(Objective)」の明確化であることはこれまで繰り返し述べてきた。このブログにおける言葉の定義は、

---------------------------------------------
「理念(Mission)」:その会社がどのような分野で、どのように社会へ貢献しようとするのかを表現した声明文。

「目的(Objective)」:その会社が具体的に何を達成したいのかを纏めた文章で、理念の次に大切なもの。

「事業(business)」:会社の「目的(Objectives)」の実現手段。

「目標(goals)」:事業の達成ゴール。年度別、月別など。いつ頃までに何をするのか。事業の最終目標を予め明らかにしておくことも大切。事業の最終目標は、何を達成したらその事業をやめるかという目標であって、売却のためのいわゆる出口戦略(exit strategy)とは違う。

「ビジネスモデル」:「事業と目標」のこと。

「企業戦略(corporate strategy)」:会社の資産(asset)と市場とを分析し、最適なビジネスモデルを考えること。
---------------------------------------------

である。勿論会社経営のための定義だから「会社」という言葉が頭に付くが、会社も都市も人の集団であってみれば、都市統治に関しても同様なものを定めることができるはずだ。例えば、

---------------------------------------------
「理念(Mission)」:その都市がどのような分野で、どのように国家・地域へ貢献しようとするのかを表現した声明文。

「目的(Objective)」:その都市が具体的に何を達成したいのかを纏めた文章で、理念の次に大切なもの。

「事業(business)」:都市の「目的(Objectives)」の実現手段。

「目標(goals)」:事業の達成ゴール。年度別、月別など。いつ頃までに何をするのか。事業の最終目標を予め明らかにしておくことも大切。事業の最終目標は、何を達成したらその事業をやめるかという目標であって、売却のためのいわゆる出口戦略(exit strategy)とは違う。

「ビジネスモデル」:「事業と目標」のこと。

「都市戦略(city strategy)」:都市の資産(asset)と社会環境とを分析し、最適なビジネスモデルを考えること。
---------------------------------------------

といった内容だ。都市の立地や歴史、産物や風土、産業などによって特色がでてくるはずで、それによって都市の多様性が担保される。

 会社と都市の違いは、前者は気に入らなければ退社できるが、後者は気に入らないからといって簡単に離れられないこと。だから都市は、多数決で定めた理念に賛同しない市民をも包摂し、その理念について、継続的に市民に問い直さなければならない。そのプロセスは必要だが、統治するのに「理念」がなくても良いということではないと考える。

 ここで難しいのは、「国家・地域」との関係だ。「国家−地域−都市」という繋がりにおいて、都市の理念は、その上位にある「国家・地域」理念の一部を成すはずだから、「国家・地域」理念が見えないと、本当は都市の理念も作れない。日本でこれまで都市計画が不在なのは、一つには、「国家・地域」の理念が見えないからではないのか。

 国民や国家についてこれまで、「nationとstate」の項で、

「国民」=「文化や言語、宗教や歴史を共有する人々の集団」
「国家」=「国民の居場所と機構」

という定義を、「ヒト・モノ・カネの複合統治」で統治の例を、「国家理念の実現」や<日本の戦後の父性不在>の項で、日本の国家理念不在を見てきた。

 国家理念が不在だから、都市の理念も形成しづらい。都市理念が形成しにくく不在だから、都市計画の方針も定められない。そういう大きな因果関係があるのではないか。私なりの都市の理念については「流域思想」や「庭園・芸術都市」の項などで語ってきたけれど、上位の国家理念についてはこれからの研究課題である。

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建築自由と建築不自由

2017年02月14日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 「空き家問題 II」でも触れた『都市計画法改正―「土地総有」の提言』五十嵐敬喜・野口和雄・萩原淳司共著(第一法規)を再読していたら、第3章「近代都市計画法の構造」3都市計画法内部の構造と論点(7)<世界の都市計画法と建築許可>の項に、「建築自由」と「建築不自由」という言葉があった。

 同項は、日本と西欧(アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ)の都市計画法の違いを論じているのだが、日本における都市計画のマスタープランは、議会の議決もなく有効性が薄く、開発や建築確認がマスタープランと無関係に行われるのに対して、西欧におけるマスタープランは、都市の将来像を示すものとして議会の議決を要し、現実の建築に影響していくとした上で、この違いの根幹には、土地所有権に対する哲学と法制度の差異があるという。

(引用開始)

 このように双方を分岐していくのは、結局のところ、土地所有権に対する哲学と法制度の差異である。既にみたように、土地は本来基本的に自由なのであって、これが制約を受けるのは、その利用が他者を害する時だけであるとし、この他者への侵害を「公共の福祉」として捉え直し、これを法的に構成したのが日本の憲法の土地所有権であった。これを建築自由といおう。各国は、これとは反対の論理構成をとっている。つまり、土地所有権はもともと制限されているものであり、これを開放していくのが都市法であるというのである。これを建築不自由といおう。これはいわば前にみたワイマール憲法の「土地所有権には義務が伴う」を前提として都市計画を構成しようとするものである。

(引用終了)
<同書 124−125ページ>

 以前「都市計画の不在」の項で、「日本の都市には、都市の文脈の中で建築物をどうつくるかという、本来あるべき長期的な視点に立ったResource Planningがまったく不在だという」と書いたが、都市計画法や建築基準法はあっても理念に基づいた本来の都市計画が不在であり、「建築自由」つまり土地所有に義務が伴わないのであれば、今の日本各地でみられるような、自治体の恣意的な取り決めと市場原理主義(儲け主義)とによる、「乱開発と空き家増加の同時進行」は避けられないわけだ。勿論例外自治体はあるにしても。

 日本では、近代化、復興と成長を推し進めるために都市計画法が存在したので、土地所有権も建築自由のままで来てしまった。それに対して、

(引用開始)

 欧米の近代国家は、初期の資本主義の段階で、建築の自由から建築の不自由へいち早く転換し始め、特に都市への人と経済活動の集中に伴い発生した都市の爆発的拡大をゾーニングにより制御しようとしていた。後にこれに「計画」の概念が付加されて都市計画となるのである。

(引用終了)
<同書 20ページ>

 日本には議会で定める長期的な視野に立った都市計画はないが、中央官僚がつくる景気刺激策としての公共事業は山のようにある。その多くは「公共の福祉」の名を借りた無駄なものだ。「道路、河川等々の公共事業は、計画、財源、そして組織などのすべて、いわば頭から尻まで「国」が独占的に仕切っていて、市民はもちろん、自治体すらほとんど介入の余地がないというのが日本の法的な現実」(同書105ページ)なのである。

 複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比において、A側、すなわち「公(Public)」=「都市」における諸活動は、他人との利害調整を必要とすることが多く、その場合活動は一般的に「原則制限、例外許可」という形を取らざるを得ない。ただしその「原則」は市民の合意に基づくものであることが前提だが。一方B側、すなわち「私(Private)」=「自然」における諸活動は、「原則自由、例外制限」であることが普通だ。

 近代国家における「土地」の所有はA側に属する活動である。だからそもそも「原則制限、例外許可」のはずなのだが、言語的に発想がB側に偏っている日本において、それがB側の「原則自由、例外制限」となっている。近代化の過程で起きたこの捻じれ現象は興味深い。

 『都市計画法改正―「土地総有」の提言』における「土地総有」というコンセプトは、西洋的な「コモンズ」=「ある特定の人々の集団あるいはコミュニティにとって、その生活上、或いは生存のために重要な役割を果たす希少資源そのものか、あるいはそのような希少資源を生み出すような特定の場所を限定して、その利用に関して特定のルールを定めるような制度を指す」(同書172−173ページ)と似ているが、土地そのものを対象にする点で「コモンズ」ルールのさらに上を行く。

 発想がB側に偏っている日本人は、近代国家における土地所有の「原則制限、例外許可」という概念を一気に飛び越えて、「原則自由、例外制限」どころか「土地も空気や水と同じ自然であるからそれは個人の所有にそぐわない」という超越的発想が可能なのかもしれない。そこまで著者たちの射程距離に入っている(提言の前提に含まれている)のかもしれない。

 複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。「新しい会社概念」の項で、資本主義終焉のあとの会社の在り方について考えたが、これからの新しい土地所有概念についても、複眼的視点でさらに研究したい。

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空き家問題 III

2017年02月07日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 空き家問題の考察をさらに続けたい。ここでは『ひらかれる建築』松村秀一著(ちくま新書)によって、空き家活用を含むこれからの街づくりについて考える。副題に“「民主化」の作法”とある。松村氏は東大大学院工学系研究科建築学専攻教授。例によってまず新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

生活者の想像が未来を開く

 本書はケンチクやタテモノからの卒業をうたう。ケンチクとは建築家の先生が設計する芸術的な作品。一方、タテモノとは経済的な営為から生産される通常の建物。東京のごちゃごちゃな街並みこそが民主主義の風景だと、海外の研究者から指摘されたことを受けて、著者は近代以降の建築の歴史を民主化の3段階でとらえなおす。
 第一世代は、工業化・規格化の発展によって同一の安い箱を多く生産した。第二世代は、人々が居住環境の形成に関わるシステムや地域生活の再評価など、選択の多様性を提示した。著者の専門は建築構法であり、この二つの世代の内容はわれわれが暮らす環境の背景を理解するうえで興味深い。例えば、釘の量産化がツーバイフォー構法をもたらしたこと、戦後の鉄鋼業が新たな市場を求めてプレハブ住宅に注目したこと、使用者が参加するデザイン手法の系譜、大工・工務店、ハウスメーカー、DIY,セルフビルドの状況など、研究成果に基づく知見が披露されている。
 1957年生まれの著者にとって第一世代はすでに成し遂げられた過去、第二世代はその活動に並走した現在形の出来事だったが、第三世代のリノベーションはもっと若い人やアートなど建築以外の領域が切り開く、未来へのムーブメント。ゆえに、中学校をアートセンターに改造したアーツ千代田3331やオフィスの居住空間への転用など、象徴的なエピソードをもとに期待を込めてルポルタージュ風に書かれている。
 日本はすでに膨大なタテモノをもち、今や大量の空き家が問題だ。そこで著者は、箱から場所へ、あるいは生産者から生活者へ、という転換を示し、使い手の想像力が重要になると説く。小難しいケンチクと違い、リノベーションは専門以外の様々な人が参加できるプラットフォームになりうる。これは建築の職能が変わることで豊かな生活がもたらされる希望の書である。(評・五十嵐太郎)

(引用終了)
<朝日新聞 11/27/2016>

本のカバー表紙裏の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

ケンチクとタテモノ――。近代的夢の象徴としてイメージされてきたケンチクと経済行為として営々と生産されてきたタテモノ。一九七〇年代半ばに「建築家」を志して以来、つねにそのあいだで葛藤してきたが……。二一世紀、局面は大きく変わった――。居住のための「箱」から暮らし生きるための「場」へ。私たちの周りに十分すぎるほど用意された「箱」は今、人と人をつなぎ、むすぶ共空間<コモン>を創造し、コミュニティとなる。これからあるべき「ひらかれる建築」の姿を、「民主化」をキーワードに、関わった「三つの世代」の特徴と変遷から描き出す。

(引用終了)

本の章立ては次の通り。

<はじめに> 建築で「民主化」を語る理由
序章  民主化する建築、三つの世代
第1章 建築の近代――第一世代の民主化
第2章 建築の脱近代――第二世代の民主化
第3章 マスカスタマイゼーション――第二世代が辿り着いた日本の風景
第4章 生き方と交差する時、建築は民主化する
第5章 第三世代の民主化、その作法

 「箱」から「場所」へということで、この本は、建築・街づくりにおける「モノコト・シフト」を説く内容となっている。その意味で論点は「空き家問題をポジティブに考える」の項と重なるが、本書は建築の専門家からの提言である。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 「空き家問題 II」の項で野澤さんが「住宅過剰社会」と呼んだ問題を、松村氏はポジティブに「空間資源大国」と呼び、第一世代、第二世代を通して蓄積された大量の住宅=「箱」を、みんなが使う「場所」として蘇らせるために何ができるかを問う。

(引用開始)

 健康で近代的な暮らしがおくれるような建物=「箱」を人々に届けるために、優れたプロトタイプを案出し、量産技術で遍く実現することを目指して専門家たちが邁進した第一世代の民主化。その目標がある程度達成された時点で、第一世代が軽視してきた人々の個性や「箱」の置かれる地域の特性等を考慮の対象とすることの重要性を認識し、専門家たちが第一世代の基盤だった「近代」志向から脱する、或いは多様化という言葉に代表されるような市場の変化に適応することを目指した第二世代の民主化。そして、二一世紀の日本では、二つの世代を通じて蓄積されてきた十分な量の「箱」と技術や知識を、それぞれの人が、自身の生き方を豊かに展開する「場」創りに利用する第三世代の民主化が始まっている。本書の中で述べてきたことを概括するとそいうことになる。

(引用終了)
<同書 182ページ>

著者は第5章で第三世代の民主化の作法として、

〇圧倒的な空間資源を可視化する
〇利用の構想力を引き出し組織化する
〇場の設えを情報共有する
〇行動する仲間をつくる
〇まち空間の持続的経営を考える
〇アレとコレ、コレとソレを結ぶ
〇庭師を目指す
〇建築を卒業する
〇まちに暮らしと仕事の未来を埋め込む
〇仕組みに抗い豊かな生を取り戻す

といった内容を提言する。庭師を目指すというのが楽しい。

 この本では、都市計画法や住宅政策の問題はあまり語られない。東京のごちゃごちゃな街並みこそが民主主義の風景だというデルフト工科大学教授の考えに共鳴するくらいだから、著者は政府の役割にはあまり期待しておられないのかもしれない。モノコト・シフトの時代、人々の気持ちは、複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比のうちB側に傾斜する。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考えるが、建築の専門家である著者は、政府の政策舵取りの欠如(A側の欠如)については業界常識として織り込み済みなのだろう。しかしA側の仕事である理念・政策がいい加減だと、第三世代の民主化も無秩序状態に陥りかねない。個人レベルでも、個の自立(A側)と共生への志向(B側)とのバランスが大切だと思う。話はここで「流域思想」、「庭園・芸術都市」といった街づくり理念の問題へと戻ってくる。これからも研究を続けたい。

 さて、建築の専門家からの提言といえば、「みんなの家」、「みんなの家 II」と辿ってきた、建築家伊東豊雄氏の最新著作『日本語の建築』(PHP新書)もまた、建築家による「街づくり」の提案である。タイトルからして複眼主義対比のB側志向といえる。本カバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 壁、壁、壁……。東北の被災地で巨大な防潮堤を成立させている「安全・安心」という堅固な壁は、いまこの国のいたるところに聳え立つ。「せんだいメディアアーク」「みんなの森ぎふメディアコスモス」で壁を立てない、自然の中にいるような空間をつくり、「みんなの家」から震災後の人と人をつなぐ場所を考え、今治「大三島」を日本一美しい島にしようと島の人たちと取り組む。「管理」と「経済」の高く厚い壁に取り囲まれ、グローバリズムの海に溺れる現代に、場所と土地に根差す「日本語の建築」で挑む。建築家が建築家であるために、いま、なしたいことと、必要なこと。

(引用終了)

本の章立ては以下の通り。

<はじめに>
序章  グローバル経済とバーチャルな建築
第一章 新国立競技場三連敗
第二章 「管理」と「経済」の高く厚い壁――東日本大震災と「みんなの家」
第三章 「時代」から「場所」へ
第四章 東京と『東京物語』
第五章 「日本語」という空間から考える
第六章 大三島にて
第七章 「場所」から生まれる想像力
終章  熊本地震と「くまもとアートポリス」
<おわりに>

「日本一美しい島」という理想を掲げる大三島プロジェクトの先行きを楽しみにしたい。

 街づくりの話は、「限界集落は将来有望」の項で紹介したようなフィクションによる考察も面白いと思う。私も過日『記号のような男』という街づくり(と山岳信仰)の小説を書いた。併せてお読みいただけると嬉しい。

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空き家問題 II

2017年01月31日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き空き家問題について考えたい。今回は『老いる家 崩れる街』野澤千絵著(講談社現代新書)によって、都市計画と住宅政策について考察する。本の副題には「住宅過剰社会の末路」とある。野澤さんは東洋大学理工学部建築学科教授。まずは新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

 人口減少時代に入ったのに高水準の住宅建設が続いている。本書は「住宅過剰社会の末路」という副題の通り、過度な住宅建設がもたらす様々な弊害について警鐘を鳴らしている。東京の湾岸部で建設が続く超高層マンションや、都市部の郊外で止まらない宅地開発の背景を探り、このままでは「不動産」が、売りたくても買い手がつかない「負動産」になりかねないと厳しく批判している。
 確かに本書でも触れている賃貸アパートの建設ラッシュには「本当に入居者が集まるのだろうか」と思わざるを得ない面がある。著者が指摘している通り、都市計画の規制緩和をてこに自治体が人口の奪い合いをしているのも事実だろう。空き家は今では地方だけでなく、東京のような大都市でも急増している。
 本書では群馬県みどり市や埼玉県羽生市など各地の事例も紹介している。様々な住宅のなかでも超高層マンションが抱えている問題について、的確にかつ鋭く切り込んでいる点が印象的だ。
 著者は解決策として、都市計画と住宅政策の連携の必要性を強調し、今ある「まちのまとまり」に住宅の立地を促すことを提案している。住民一人ひとりが自分が暮らす街に関心をもつように求めているが、そこが最も難しいのだろう。

(引用終了)
<日経新聞 12/11/2016>

 都市計画については以前「都市計画の不在」の項で、日本の都市計画に関する法律は、主に都市計画法と建築基準法とがあり、これらは1919年(大正8年)にできた古い法律(旧都市計画法と市街地建築物法)に、戦後、市場原理主義(儲け主義)と20世紀流工業社会型行政指導(調整ルール)とが足されただけのものだという意見を紹介したが、この本はそのあたりの知識を補強してくれる。本の章立てを見てみよう。

<はじめに>
第1章 人口減少社会でも止まらぬ住宅の建築
1.つくり続けられる超高層マンションの悲哀
2.郊外に新築住宅がつくり続けられるまち
3.賃貸アパートのつくりすぎで空き部屋急増のまち
第2章 「老いる」住宅と住環境
1.住宅は「使い捨て」できるのか?
2.空き家予備軍の老いた住宅
3.分譲マンションの終末期問題
4.住環境も老いている〜公共施設・インフラの老朽化問題
第3章 住宅の立地を誘導できない都市計画・住宅政策
1.活断層の上でも住宅の新築を「禁止」できない日本
2.住宅のバラ建ちが止まらない
3.都市計画の規制緩和合戦による人口の奪い合い
4.住宅の立地は問わない住宅政策
5.住宅過剰社会とコンパクトシティ
第4章 住宅過剰社会から脱却するための7つの方策
<おわりに>

 著者は<はじめに>の中で、我々は、「人口減少社会」なのに「住宅過剰社会」という不思議な国に住んでいるという。住宅過剰社会とは、世帯数を大幅に超えた住宅がすでにあり、空き家が右肩上がりに増えているにもかかわらず、将来世代への深刻な影響を見過ごし、居住地を焼畑的に広げながら、住宅を大量につくり続ける社会のこと(3ページ)。各章のポイントを綴った文章を引用しよう。

(引用開始)

 本書の第1章では、住宅の「量」の観点から、大都市部ではなぜ大量の超高層マンションがつくられ続けているのか?大都市郊外や地方の農地エリアでは、なぜ野放図に住宅地の開発や賃貸アパート建設が続いているのか? について、都市計画の視点から具体的に解き明かしていきます。
 第2章では、住宅や住環境の「質」とりわけ「老い」の観点から、老いた戸建て住宅や分譲マンションに待ち受ける終末期問題や相続放棄問題、公共施設やインフラなどの住環境の老朽化問題に着目しました。そしてこのまま何も手を打たなければ、次世代に負の住宅・負のまちを押し付けかねないという深刻な実態を明らかにします。
 第3章では、住宅の「立地」の観点から、活断層の上でも住宅の建設を禁止できないなど、日本の土地利用の規制がいかに緩いのか、また、都市計画も住宅政策も住宅の立地を積極的に誘導しようという機能が備わっていないという構造的な問題を明らかにします。
 そして第4章で、住宅過剰社会からの転換に向けた7つの方策を提案します。

(引用終了)
<同書 15−16ページ>

 日本の都市計画区域には、「市街地区域」、「市街化調整区域」、「非線引き区域」がある。さらにその外に「都市計画区域外」もあり、「市街地区域」以外は用途地域の定めのない区域となっている。この用途地域の定めのない区域は、特に2000年施行の「地方分権一括法」以降、自治体の恣意的な取り決めによって使途が左右され、それと2002年に制定された「都市再生特別措置法」以降顕著な、「市街地区域」内での規制緩和による乱開発とが相俟って、農村と都市双方に亘る「住宅過剰社会」が形成されてきたと著者はいう。

 この正規の都市計画法との整合が取れない「特別措置法」というのが曲者だ。都市計画法の基本的な枠組みを抜本的に見直すことなく目先の問題だけに対処しようとする官僚主義、市場原理主義(儲け主義)と20世紀流工業社会型行政指導(調整ルール)を温存したままの問題先送り型。もっとも、官僚主義はその定義からして「新しいことを始めない」ことなのだから、法律の文章を捏ね繰り回す官僚たちだけを責めるのはお門違い。問題の本質は<日本の戦後の父性不在>、特に(6)の国家理念の不在が大きいと思う。このブログでは21世紀の日本の生きる道として「庭園・芸術都市」という理念を提出しているが、これについてもさらにブラッシュアップしていこう。

 本書の著者は最後に(第4章で)、住宅過剰社会からの転換に向けた7つの方策を提案する。

方策@ 自分たちのまちへの無関心・無意識をやめる
方策A 住宅総量と居住地面積をこれ以上増やさない
方策B 「それなりの」暮らしが成り立つ「まちのまとまり」をつくる
方策C 住宅の立地誘導のための実効性ある仕組みをつくる
方策D 今ある住宅・居住地の再生や更新を重視する 
方策E 住宅の終末期への対応を早急に構築する
方策F もう一歩先の将来リスクを見極める

ということで、これらの方策が都市計画法と建築基準法とに反映されることが肝要だ(もちろん新しい国家理念を踏まえた上で)。「都市計画の不在」の項で紹介した『都市計画法改正―「土地総有」の提言』には「土地総有」という概念もあった。これからも研究を進めたい。

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空き家問題

2017年01月24日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「新しい会社組織」の項で、これからはstate(国家)の政策舵取りについて詳細を考えたいと述べた。日本の空き家問題はその一つである。当件については、以前「空き家問題をポジティブに考える」の項で、主にモノコト・シフトの観点から、「モノ」余りとしての空き家をどう「コト」に引き寄せて再生させるかということで、『空き家問題』牧野知広著(祥伝社新書)と『「空き家」が蝕む日本』長嶋修著(ポプラ新書)という二冊の本を紹介したが、今回、『解決!空き家問題』中川寛子著(ちくま新書)によって、この問題を今一度整理しておきたい。中川さんは住まいと街の解説者。まず本書の新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 空き家の増加が各地で問題になっている。政府も特別措置法を制定し、安全面で不安のある物件を除去しやすくする仕組みを整えた。
 空き家が増えている理由ははっきりしている。人口が減っているのに、相変わらず新築住宅の建設を後押しする政策を続けているためだ。著者は相続税対策で増えているアパート建設にも懐疑的で「空き家予備軍」と位置付ける。
 ただし、本書は空き家が発生する背景や政策の不備を批判するために書かれたわけではない。空き家を負の遺産ととらえるのではなく、うまく活用して活性化につなげようと呼びかけている。
 空き家を生かすポイントとして「収益性」「公益性」「社会性」をあげたうえで、東京都世田谷区や岡山市、広島県尾道市など全国各地の活用事例を紹介している。実際、各地で空き家がカフェやシェアハウス、文化施設などに続々と生まれ変わっている。
 著者は空き家問題を解決するキーワードとして「愛情」と「連携」をあげる。古い建築物を大切にしようという思いがなければ活用は進まない。官と民、住宅政策と福祉政策など、様々な主体が柔軟に協力することも必要だ。
 本書を読むと、暗い印象が先行しがちな空き家に対する見方が変わり、解決策が浮かび上がる気がする。

(引用終了)
<日経新聞 12/6/2015>

 本書は次のような章立てで問題を論ずる。

<はじめに>
第1章 いずれは3軒に1軒が空き家?――現状と発生のメカニズム
第2章 空き家活用を阻む4要因――立地、建物、所有者、相談先
第3章 空き家活用の3つのキーワード――収益性、公益性、社会性 
第4章 大都市・地方都市の一等地――収益優先の活用
第5章 立地に難ありの都市部・一部農村――公益性優先の活用
第6章 農村・地方都市――行政主体、社会性優先の活用
第7章 空き家を発生させないために――孤立死予備軍は空き家予備軍?
第8章 自分事としての空き家問題――買う時、残す時、受け取った時
<さいごに>

 著者は空き家増加の理由を、政府の政策先送り(無策)と、新築信仰に踊らされてしまう住宅購入者双方にあると指摘する。高度成長時代に始まった新築住宅の建設を後押しする政策がバブル崩壊後もそのまま引き継がれ、その結果大量にできた耐用年数の短い住宅を、新築というだけで(長期ローンを組んでまで)買ってしまう購入者層。都市計画と住宅政策、消費者の選択によって適時修正されるはずの問題が日本では解決されない。著者は第1章と第2章でこの問題を整理する。相続時期の高齢化、登記制度の不備、特別措置法、土地台帳の不在、相続放棄後の不動産、マンションの内部崩壊、建築基準法不適格、用途変更の法整備、借地借家法と定期借家法、共同相続などなど。

 先日「3つの判断基準」の項で、人の三つの宿啞(治らない病気)、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

を挙げたけれど、この(2)と(3)が空き家問題に見事に当て嵌まる。(2)は官僚主義の無策、(3)は新築信仰という認知の歪みの放置。この二つのさらに奥にあるのが、「日本の大統領」の項でもみた<日本の戦後の父性不在>だと思う。これが政府の無策と新築信仰の放置を許している。国の権力者は、国民の間の、

(1) 環境中心の考え方
(2) 優秀な人材は経済復興に
(3) 認知の歪み
(4) ヤンキー化
(5) 老人の隠居
(6) 国家理念の不在

といった傾向を良いことにして今も米軍に従属する道を選んでいる。これは彼らが三つの宿啞のうちの(1)に深く侵されているからだろう。

 空き家問題も「プライムアーティストとしての天皇」の項で考察した天皇制の問題も、<日本の戦後の父性不在>から来る同根の問題で、どちらもstate(国家)の政策舵取りに関わる。その意味で本来上の6つの傾向を引っ繰り返さないと真の解決には至らないのだが、『解決!空き家問題』の著者中川さんは、書評にもあるように、空き家問題をポジティブに考えようということで、第3章以下、「収益性」「公益性」「社会性」という3つのポイントによって解決策を具体的に探っていく。世田谷区や岡山市、広島県尾道市など全国各地の事例はここで紹介される。

 第4章は収益優先の活用、第5章は公益性優先の活用、第6章は社会性優先の活用。これらの具体策は、「空き家問題をポジティブに考える」の項で挙げた、

「モノ経済」a領域へのシフト:市街地再開発手法の応用、減築という考え方、介護施設への転用、在宅看護と空き家の融合、お隣さんとの合体

「コト経済」b領域へのシフト:シェアハウスへの転用、3世代コミュニケーションの実現、地方百貨店の有効利用

といった解決策のうち、前者が中川さんのいう公益性・社会性の優先、後者が収益性優先の解決策と重なると思う。

 ここで「モノ経済」aや「コト経済」bというのは、「経済」=「自然の諸々の循環を含め、人間を養う社会の根本の理念・理法」という定義の下、それを三層(プラスaとb)に区分した、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

に拠るもの。「モノ経済」a領域へのシフトというのは、生活密着スタイルの空き家の活用法であり、「コト経済」b領域へのシフトというのは、人と外部との相互作用に関わる空き家活用法である。

 このブログでは、モノコト・シフトの時代、人々の関心は、経済三層a、b領域のうち、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)、そして「コト経済」(a、b両領域)に向かうものとしている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 本書の第7章と第8章は、空き家を発生させないための具体的な活動、および個人として空き家問題に直面した際どのように対処すべきか、という提案である。この本には、「ある空き家」と「なる空き家」という区分もある。前者はとくに都心部で空き家になってしまった物件、後者はとくに農村部で人口減により空き家になってしまうであろう物件である。前者はその活用を通して地域をどう活性化するかということに繋がり、後者は人口流出をどう防ぐかという別の課題に繋がる。このような区分で空き家問題を考えるのも有効だと思う。

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みんなの家 II

2016年11月01日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「みんなの家」の項で、建築家伊東豊雄氏の『あの日からの建築』(集英社新書)という本を紹介したが、最近、その続編ともいえる『「建築」で日本を変える』伊東豊雄著(集英社新書)が出た。まずカバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

グローバル経済に席巻され経済合理主義ばかりを追求した東京などの都市の建築は、町並みを無機的で均質な風景に変えてしまった。そこでは、地域独自の歴史文化や自然とのつながりは失われている。著者は近代主義的な建築に限界を見出し、地方にこそ人と人をつなぐ、自然環境と調和した新たな建築の可能性があると考えている。岐阜県「みんなの森 ぎふメディアコスモス」や愛媛県「大三島プロジェクト」といった著者の最近の建築プロジェクトの紹介を通し、脱成長の時代の新たな建築のあり方を提案する。

(引用終了)

 前著が出版されたのは2012年10月だから4年ぶりの新著だが、その間著者はどこでどのような活動を行ってきたのか。新聞の書評を引用したい。

(引用開始)

 東日本大震災以後、日本の建築が変わりつつある。「建築」という存在を、単体の建築物から、それが拠って立つ地域やコミュニティ、あるいは竣工前後の市民ワークショップやイベント活動までを含みこむ、より広く大きなものとして再定義する潮流が生まれている。平たく言えば、建築の「社会性」を問い直すこと。この流れは日本に限らず、世界各地の建築に同時多発的に現れている。
 伊東豊雄は、こうした近年の建築の思想をめぐる潮目の変化を体現する建築家だ。震災を契機に、被災地の復興計画や小さな集会所の設計等、それまでの作風とは打って変わる社会的プロジェクトの実践の方へ、大きく舵を切った。
 本書は、そんな伊東が現在、岐阜、愛媛、長野、茨城で進めている四つのプロジェクトを紹介する。共通するのは地方というフィールドだ。「都市を向いた建築の時代は終わった」と宣言する伊東は、人と密に交流しながら、その場に固有の文化や自然環境と調和した建築をつくる可能性が残る地方にこそ、建築の未来があると言う。とりわけ愛媛・大三島での活動が興味深い。美術館の設計に始まり、私塾の塾生や外国人学生との調査研究、空き家の保存活用、果てはワイナリーの創業まで。従来の建築家の職能を飛び越える様々な活動を通じて、地域に貢献する建築の在り方が模索されている。(評者 市川絋司=建築史家)

(引用終了)
<東京新聞 10/9/2016(フリガナ省略)>

このブログでは、「地方の時代」「地方の時代 II」「里山システムと国づくり」「地方の時代 III」の項などで、地方の重要性や可能性に言及してきたが、本書はそれを建築家の視点から論じたものとなっている。

 伊東氏はこの本で、建築を「人びとを繋ぎ、新しい何かを生む場所や空間にかたちを与えていくこと」(141ページ)と定義する。

(引用開始)

 今、私が目指している建築は、近代主義が切り離してしまった建築と人びとの距離を縮めること、いや一般の人たちの手に建築を取り戻すことです。そのことが、建築に自然を回復させ、地域性や歴史文化を継承させ、コミュニティを再生させることに繋がると考えています。
 建築は日々の生活のリアリティを実感できる場でなければなりません。建築家だけでない、つくる人も、暮らす人も、活動する人も、みんなが建築に関わってこそ、建築は生き生きとした生命を宿すことができるのです。

(引用終了)
<同書 194−195ページ> 

時間が止まった「モノ」よりも、「コト」の起こる場の力を大切に考える「モノコト・シフト」の時代に相応しい建築論だと思う。

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中小水力発電

2016年10月04日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「流域思想 II」の項で、「自然の理に適った流域ごとの水力発電・供給システム」について、『本質を見抜く力』養老孟司・竹村公太郎共著(PHP新書)から、

(引用開始)

竹村 日本はどうしたらよいのでしょうか。私はやはり、エネルギー源を日本列島内で分散化すべきだと思います。「国土の均衡ある発展」などという建前ではなく、各々の地方地方が自立したエネルギー獲得システムと食料自給システムを作らないといけない。そうやって自立した地方には、今後必ず、都会から逃げ出す人が出てきます。地方にそのときの受け皿になってもらいたいです。
たとえば電力会社が大発電所を作り、全国津々浦々に送電するのは無駄が多い。そこで、たとえば過疎地は地元の川で水車を回してエネルギーを作ることにする。夜は水車で発電し、余った電気で水を分解して水素を作り、昼間はその水素をチャージする。そんな新しい文明を、国家として構築することが大事だと思います。(後略)

(引用終了)
<同書43−44ページ>

という言葉を紹介した。2010年5月のことだ。21世紀の日本の街づくりにとって欠かせないコンセプトとしてその詳細を知りたいと願っていたが、あれから6年経った今年(2016年)9月、『水力発電が日本を救う』竹村公太郎著(東洋経済新報社)が出版された。氏が上の自説を敷衍したもので、水力発電のメリットや、中小水力発電の詳細が書かれている。待望の書というべきである。

 副題は「今あるダムで年間2兆円超の電力を増やせる」。竹村氏は元国土交通省河川局長、「地形と気象から見る歴史」の項で紹介したように、地形と気象を長く研究されてきた方で、世界でもまれなその(地形と気象)条件から、日本は水力発電でエネルギー大国になれると論じておられる。本の目次を紹介しよう。

(引用開始)

序   一〇〇年後の日本のために
第1章 なぜ、ダムを増やさずに水力発電を二倍にできるのか
第2章 なぜ、日本をエネルギー資源大国と呼べるのか
第3章 なぜ、日本のダムは二〇〇兆円の遺産なのか
第4章 なぜ、地形を見ればエネルギーの将来が分かるのか
第5章 なぜ、水源地域が水力発電事業のオーナーになるべきなのか
第6章 どうすれば、水源地域主体の水力発電は成功できるのか
終章  未来のエネルギーと水力発電

(引用終了)

 利水と治水というダムの目的、「特定多目的ダム法」という古い法律の存在、河川法改正の必要性(「環境保全」だけでなく「川のエネルギー開発」をその目的に加えるべき)、グラハム・ベルの先見性、薄いエネルギーと濃いエネルギー、ダムは半永久的に壊れない、逆調整池ダム、嵩上げによって古いダムを有効利用する、水源地域のための小水力発電、水力専門家集団による支援体制、SPC(スペシャル・パーパス・カンパニー:特定目的会社)の体制、事業保証体制、目的は拡大ではなく持続可能性、水(水素)でつくる燃料電池の可能性などなど、その主張と論旨は明快だ。竹村氏の言葉を「終章」から引用したい。

(引用開始)

集中から分散へ

 過去の近代化においては、効率性が最優先された。
 効率性は、人の効率性、時間の効率性、場所の効率性で構成される。 
 人の効率性は、マニュアルの画一性で成し遂げた。
 時間の効率性は、エネルギーを使ったスピードで成し遂げた。
 場所の効率性は、都市に集中することで成し遂げた。
 過去のエネルギー分野での効率性も、画一性と、スピードと、場所の集中で成し遂げられた。
 一〇〇年後、二〇〇年後、水のエネルギーは、近代化を成し遂げたエネルギーと反対になっていく。
 全国各地に流れる川は、画一性を持たない。川のスピードは地形に依存している。全国各地の水を、一か所に集中させることもできない。
 この水力発電で最も重要な点が「分散性」なのだ。
 日本全国のどの場所にも、水がある。日本全国どこの水源地域でも、水の力で電気を造れる。
 つまり、水素の製造と貯蔵技術が進展すれば、日本全国の水源地でエネルギーが手に入ることになる。
 水という原材料は、一切輸入することはない。
 すべて、日本国産の原料と技術による、持続可能なエネルギーが手に入るのだ。

都市が水源地域に手を差し伸べるとき

 日本の近代化では、都市は水源地の犠牲を強いて、エネルギーを送ってもらい発展してきた。
 ポスト近代の未来の日本では、その水源地域が、再び日本のエネルギー基地となっていく。
 しかし、二一世紀の今、水源地域は過疎化で悩み、森林の荒廃で苦しんでいる。
 近代からポスト近代に移行するこの端境(はざかい)期の今、安全で、快適で、資金力のある都市は、省力水力発電で水源地域に手を差し伸べるべきであろう。
 近代化の中で巨大ダムを造ってきた私たちダム技術者だちの心からの願いである。

(引用終了)
<同書 188−190ページ(太字は見出し)>

 このブログでは、これからの日本の街づくりに必要なコンセプトとして、「庭園・芸術都市」(庭園や里山、邸宅美術館や芸術劇場を持つ流域都市)を提唱しているが、中小水力発電は、その重要なエネルギー供給源となるに違いない。

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文化財的家づくり

2016年09月21日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『いい家は無垢(むく)の木と漆喰(しっくい)で建てる』神ア隆洋著(文春文庫)という本を有意義に感じながら読んだ。本カバーの裏表紙から紹介文を引用しよう。

(引用開始)

紙とビニールで作られた幅木、中身がボール紙のドア、重くて耐久性のないセメント瓦――住宅メーカーの言いなりになるとこんなひどい材料の家にされてしまう。無垢の木と漆喰を使った家こそが「いい家」であるという信念で自然素材を使った住宅を造ってきた著者が、理想の家とは何かを豊富な実例を使って明らかにする。

(引用終了)

 無垢の木を使うとは、青森ヒバやヒノキ、松などの材木をそのまま角材や板として使うことだ。合板よりも強度があり美しい。漆喰とは、石灰を焼いて生石灰にしさらに水を吹きかけて消石灰にしたもの。ビニールクロスなどよりも清潔で味わいがある。無垢の木と漆喰の組み合わせは調湿作用があり身体にもよいという。目次よりいくつか本の内容を示す言葉を拾ってみる。

(引用開始)

● 合板フローリングの床で「いい家」と言えるのか
● 集成材や米ツガの土台にビックリ
● 「いい家」は自然素材を使って建てる
● なぜ木は温かくすぐれた断熱材なのか
● 漆喰はなぜ快適な住まいを造るのか
● 有名メーカーだから素材も良質は限らない
● 無垢と合板のフローリングを比べてみる
● なぜ土台に青森ヒバが優れているのか
● 使い勝手のいいキッチンのレイアウト
● 床暖房は借金してでも入れる価値がある
● 長く住み継がれる文化財的家づくりを目指して

(引用終了)
<同書帯裏表紙より>

 このブログでは、これからの日本の街づくりに必要なコンセプトとして、「庭園・芸術都市」(庭園や里山、邸宅美術館や芸術劇場を持つ流域都市)を提唱しているが、その住宅には、長く住み続けることができるこういった家屋が相応しいと思う。 

 同書第4章「後悔しない家づくりの知恵」から神ア氏の言葉を引用したい。無垢の木、漆喰、石、タイルなどの自然素材を使うことは、文化財的家づくりの原点であるという。

(引用開始)

 これまでにたくさんの家を建てさせていただいたが、多くの建築主が、「住み心地がいい」「快適な家」と言ってくださる。これは、無垢の木と漆喰をはじめとする自然素材の力のおかげである。
 文化財というと、法隆寺など歴史のある貴重な建造物が思い浮かぶ。後世の人がいい建築だとその価値を認めてくれれば、文化財となる。家づくりも同じである。今の流行の建物が、今後も末永く生き延びるものなのか、疑問を感じる。
 合板や木片を接着剤で固めた新建材、ポリウレタン、ポリスチレンなど石油化学製品が蔓延する時代、マスコミも頻繁にシックハウス症候群の原因が接着剤や塗料などに含まれる化学物質にあると報じているにもかかわらず、建材メーカーは相変わらずそんな建材を生産販売し続けている。住宅メーカーも、ホルムアルデヒドなど大きな問題になった物質を、害の少ないものに代えることで「安心です」と言っている。
 このような時代の流れに対して、無垢の木、漆喰、石、タイルなど、自然素材を用いた、真に人にやさしい家づくりが、もう一つの大きな流れであると、私は思う。無垢材、自然素材の利用は、文化財的家づくりの原点である。木もヒノキ、松、杉、青森ヒバ、ナラ、タモなど、さまざまな種類を適材適所に使っていくことが大切ではないだろうか。
 本当に「いい家」とは、建築主に満足を与えるだけでなく、普遍的な価値を持つものではないだろうか。そうした価値のある家を、普通の人が少し努力すれば手の届く価格で建てられるようになれば、多くの人に喜ばれ、社会に貢献することになるだろう。そのために力を尽くしたい。
 二一世紀は、自然との調和の世紀になってほしいし、そうならなくてはいけない。そのためにも、正しい意味での文化財的家づくりが、大きな意義を持つ。建てた家が一〇〇年、二〇〇年と歳月を重ねてこそ、素晴らしい建築といえるのである。次の世代に住み継がれる家づくりは、建てた人の誇りとなり、住む人に心の豊かさや安らぎ、喜びや愉しみを感じさせてくれることだろう。

(引用終了)
<同書 303−305ページ>

日本の山には杉や檜の林が多い。そういう材木を使うことは資源リサイクルとしても理に適っている。文化財的家づくりは日本の「庭園・芸術都市」を支える大切な基盤となるに違いない。

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谷を渡る風

2016年07月26日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 この間の週末、三浦半島・小網代の森を歩いてきた。数年前、知人の柳瀬博一さんからお話を伺い是非行きたかった場所だ。小網代の森には、源流から海までの生態系がまるごと残されている。最近その柳瀬さんを共著者とする『「奇跡の自然」の守り方』岸由二・柳瀬博一共著(ちくまプリマー新書)がでたが、その本にはこの森のことが詳しく書かれている。新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

神奈川県三浦半島の先端にある「小網代の森」は、山頂から河口まで、ひとつの「流域」が自然のまま残る世界的にも珍しい地域だ。1980年代末には開発計画も浮上した森がどう守られたのか。政治活動に頼らない、市民組織による長きにわたる活動の歩みが具体的に紹介されている。

(引用終了)
<日経新聞 5/22/2016>

「流域」とは、「雨水があつまる大地の領域と定義される生態系」のこと。小網代の森は、コンパクトながら、その源流から河口まですべての生態系が観察できる稀有の場所である。

 当日の散歩は、雨上がりだったこともあって暑くもなく快適だった。「中央の谷」から「まんなか湿原」「やなぎテラス」「えのきテラス」へと進むあいだ、アスカイノデ(巨大なシダ)、浦の川、ハンノキ林、ジャヤナギの林、アシ湿原、などが次々と眼前に現れる。さらに「アカテガニ広場」「河口干潟」「眺望テラス」と巡るうちに、磯辺でチゴガニのダンスも見たし、岩に隠れるように潜むアカテガニの姿もみることができた。心地よい風が谷を渡る。自然を愛する人々にとって、ここは本当にワクワクする一級のジオパーク(geopark)といえるだろう。

 この本は、そういった小網代の森の全貌を紹介するとともに、どのようにして著者たちがこの素晴らし土地を乱開発から守り、ジオパークとして育て上げていったかという歴史が書かれている。行政(国・県・市)、有志、市民、開発企業(京急など)といった関係者たちを、どのようにして纏め上げて行ったか。1960年代までの「裏の田んぼ・裏の林」だった時代、1980年代の大型リゾート計画、1990年代のバブル崩壊、計画の見直しなどを経て、2014年の施設完成まで、もちろん時代のタイミングも良かったのだが、最大の成功要因は、この本の共著者でもある岸由二という素晴らしいリーダーがいたことだろう。

 詳しくは本書をお読みいただきたいが、彼の<流域一番>という理念、保全戦略は当初からブレることがなかった。やみくもに開発に反対するのではなく、柔軟に関係者たちをつなぎ、コンセンサスを得ながらグランドデザインの実現へと人々を導いてゆく。信念を持ってやり抜くこと、それは起業においてもリーダーの大切な資質(dispositions)である。

このブログでは、岸氏が提唱する、流域を一つの纏まりと考える「流域思考」についても、

流域思想
流域思想 II
流域社会圏
流域価値
流域地図

などの項で論じてきた。併せてお読みいただきたい。写真は散歩時に撮った小網代の森。

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庭園・芸術都市

2016年06月28日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「宗教から芸術へ」の項で、平田オリザ氏の『下り坂をそろそろと下りる』(講談社新書)に触れ、氏の問題意識は『芸術立国論』の頃から変らないと書いた。今回はこのあたらしい本を紹介したい。まずは新聞の書評から。

(引用開始)

 戦後日本の価値観を転換すべき時。もはや耳慣れた主張だが、その論拠とオリジナリティに驚かされた。
 経済成長が終焉し“工業立国”でなくなった日本は今後「長い後退戦」を強いられる。教育、雇用、福祉といったシステムの改革も進まない。
 著者は「文化で社会を包み込む」方策を説き、地域の自立再生に希望を見いだす。兵庫県豊岡市では、文化施設「城崎国際アートセンター」誕生に関わった。世界のアーティストが訪れる町となり、小中学校では演劇を使ったコミュニケーション教育を実施している。サービス業が中心となる現代の産業構造に対応し、大学入試・就職が、表現力や協働性の総体である「文化資本」を問うものに変化していく流れにも通じる。
 宮城県女川町は震災後に伝統の獅子舞をいち早く復旧させ、住民が団結をとり戻した。各地域の祭りや文化活動は男女の「偶然の出会い」を創出し、少子化解決の妙手になる。移民の受け入れを含めたアジア圏との交流にも、異文化理解は欠かせない。
 <誰もみな芸術家たる感受をなせ>。著者が引いた宮沢賢治一節。私たちが意識を変えれば、“文化立国”は確かに可能なのだ。(和)

(引用終了)
<毎日新聞 5/1/2016(フリガナ省略)>

イニシャルに(和)とあるのは、毎日新聞の書評委員であり、『和の国富論』(新潮社)の著者藻谷浩介氏かもしれない。藻谷氏はこの本の帯に“避けてきた本質論を突きつけられた。経済や人口に先立つのは、やはり「文化」なのだ”というコメントを寄せておられる。作家藤沢周氏の書評も引用しよう。

(引用開始)

 平田オリザ『下り坂をそろそろと下りる』(講談社新書・八二一円)は、演劇を通して地域の自立再生やコミュニケーション教育、学びの広場造りなどを実践している記録であるとともに、「この国のあたらしいかたち」を提示するものである。
 競争と排除の理論から抜け出し、寛容と包摂の時代へ。そのためには、東京標準ではない、地方の独自性を大事にする世界標準の教育と文化が必要なのである。地方の学生や子供たち、住人たちが演劇などを通して、真の幸福とは何かをつかんでいく姿に快哉。野次やヘイトスピーチなどに、この国の未来はない。

(引用終了)
<東京新聞 5/1/2016「3冊の本棚」より(フリガナ省略)>

 この本で平田氏は、

一、もはや日本は、工業立国ではない
二、もはや日本は、成長社会ではない
三、もはやこの国は、アジア唯一の先進国ではない

という三つの時代認識を掲げ、

序章  下り坂をそろそろと下りる
第一章 小さな島の挑戦――瀬戸内・小豆島
第二章 コウノトリの郷――但馬・豊岡
第三章 学びの広場を創る――讃岐・善通寺
第四章 復興への道――東北・女川、双葉
第五章 寂しさと向き合う――東アジア・ソウル、北京
終章  寛容と包摂の社会へ

という章立てによって、自らの活動を一つひとつ紹介しながら、演劇など「芸術」による立国こそが、これからの日本に相応しいと論じてゆく。この主張は、(「宗教から芸術へ」の項でもみたが)これからの「新しい家族の枠組み」、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

ともフィットしている。是非本書を手にしてみていただきたい。芸術活動による街づくり。ワクワクするのは私だけではない筈だ。このような街には起業(個業)の種がいくらでも転がっていると思う。

 このブログでは、これからの日本の街づくりに必要なコンセプトは、「庭園都市」(庭と里山をもつ流域都市)であり、『百花深処』<二冊の本について>では、「邸宅美術館」(庭と美術品を持つ家)であると論じてきたが、これからはそれに演劇などの芸術を加え、「庭園・芸術都市」を提唱してゆきたい。

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木の本

2016年05月10日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 以前「森の本」の項で、森に関する本を五冊ほど紹介したが、今回はさらに解像度を上げ、木に関する本を三冊選び帯やカバーの文と共に紹介したい。

1.『木を知る・木に学ぶ』石井誠治著(ヤマケイ新書)

(引用開始)

森の恵みを利用してきた日本人は「森の民」。
木を知ることは、日本人を知ること。
今こそ日本人の「原点」を学ぼう!

日本を代表するサクラからウルシ、ツツジ、イチョウ、ブナ、マツなど代表的な13種の樹木の魅力を樹木医で森林インストラクターでもある人気講師が親切ていねいに解説。日本の自然と文化の礎となった「木」と友達になる本。

(引用終了)
<同書 帯表紙・裏表紙より>

ここで取り上げられている木は、

第二章「木と人間」:サクラ・ウルシ・ツツジ
第三章「木の歴史」:イチョウ、ブナ、マツ
第四章「木と信仰」:クリ・クスノキ・カヤ
第五章「木と生活」:スギ、ヒノキ、クワ、カキノキ

ということで、様々な面から人と木の関わりを知る構成になっている。第一章は「木を学ぶ」とあり、葉と芽と花、根と菌根、環境を見方にする知恵、木が持つ実を守る方法など、樹木に関する基礎知識を得ることができる。

2.『木』白洲正子著(平凡社ライブラリー)

檜、欅、松、栃、杉、桜……
木を愛し、木工の類を毎日そばに置いて
使っていたという著者による「木の話」二十選。
日本の木の伝統と、人の木に対する関わりについて
感覚と体験、そして取材を通じて深められた思考が、
やがて独自の日本文化論へと結晶する。

(引用終了)
<同書 カバー裏表紙より>

この本で取り上げられているのはすべて木偏のつく木ばかり。

檜(ヒノキ):木曽神宮備林/伊勢神宮
欅(ケヤキ):東村山梅岩寺/黒田辰秋の櫃
松(マツ):善養寺(東京)/梅岩能楽堂
栃(トチ):北アルプス鹿島槍ヶ岳/槙野文平の椅子
杉(スギ):三輪神社/つくり酒屋の杉玉
樟(クスノキ):奈良春日神社/法輪寺の観音像
槙(マキ):大蔵寺(奈良)/「たる源」の湯槽
榀(シナノキ):熊野神社(信濃)/菅原匠の藍染
樫(カシ):和歌山県田辺/びんちょうの炭
楊(ヤナギ):水元公園(東京)/「江南」の楊箱
桐(キリ):福島県柳津/「江南」の桐箱
檮(イスノキ):小国神社(浜松)/松山鉄男の櫛
朴(ホオノキ):岐阜県高根村/飛騨の有道杓子
榧(カヤ):東村山梅岩寺/法華寺十一面観音
楮(コウゾ):京都府綾部/「唐長」の唐紙
柿(カキ):白洲邸/正倉院「黒柿の厨子」
槐(エンジュ):宮城県弥治郎/みちのくの「こけし」
桂(カツラ):細川邸(軽井沢)/日向薬師三尊
楓(カエデ):大蔵寺(奈良)/紅葉漆絵鉢
桜(サクラ):本居宣長の山室/歌集の版木

右側の説明は、掲載された木の写真の場所と、本文にあるその木を使った工芸品など。日本人の匠の技はどれも素晴らしい。その写真もある。木の文化の神髄に触れることができる本だ。以前「茂木賛の世界」に掲載した、短編小説『老木に白雪』にある櫛の話はこの白洲さんの本に拠った。1.の『木を知る・木に学ぶ』と重なる木はサクラ、マツ、クスノキ、カヤ、スギ、ヒノキ、カキノキの7種。見比べて読むと趣が増すと思う。

3.『葉っぱで調べる身近な樹木図鑑』林将之著(主婦の友社)

(引用開始)

一枚の葉っぱから、身近な樹木の名前が簡単に調べられる初心者向きの樹木図鑑です。街路樹や公園、庭、野山で見かける樹木訳175種類を紹介しました。葉っぱのスキャン画像を中心に、樹皮や樹姿なども多数掲載しました。身近な樹木の名前が分かると、散歩や通勤が楽しくなります。

(引用終了)
<同書 カバー裏より>

この本は、葉っぱの形からその樹木を追いかけることができる楽しい図鑑。その分類は、

1.針葉樹(スギなど18種)
2.ふつうの形・ギザギザ落葉樹(クヌギなど47種)
3.ふつうの形・ギザギザ常緑樹(シラカシなど25種)
4.ふつうの形・なめらか落葉樹(カキノキなど16種)
5.ふつうの形・なめらか常緑樹(クスノキなど32種)
6.もみじ形(トウカエデなど25種)
7.はね形(エンジュなど19種)

ということでとても判りやすい。カラー写真が沢山あるから身近に置いておくと役立つだろう。

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住宅の閾(しきい)について

2015年09月29日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『権力の空間/空間の権力』山本理顕著(講談社選書メチエ)を読んだ。副題に「個人と国家の<あいだ>を設計せよ」とある。この本は、近代社会における家づくり・街づくりの問題についてのスリリングで示唆に富む論考だ。まず新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 政治というのは抽象的な思考に回収されない。そうではなく、複数の人間が共生するための実践行為である以上、必ず具体的な空間を伴うはずである。だが、政治思想史の研究者の多くは、思想家が残したテキストを丹念に読み込み、政治概念を抽出することには努めても、政治が住居や都市のような空間とどれほど深く関係してきたかを考えようとはしなかった。
 建築家の山本理顕は、思想家のハンナ・アレントが著した『人間の条件』を、これまでの政治思想史研究とは全く異なる視角から読み解いた。それが本書である。著者の読みはきわめて斬新であり、建築家がアレントを精読するとこうなるのかという新鮮な発見に満ちている。
 著者によれば、アレントほど空間のもつ権力性に敏感な思想家はいなかった。そのアレントが古代ギリシャで注目したのが、公的領域(ポリス)と私的領域(オイコス)の間にある「無人地帯」、つまり「閾(しきい)」だというのだ。この指適にはびっくりした。確かに『人間の条件』には、それに相当する文章がある。しかし、政治思想史の分野でここまで「閾」に注目した研究は見たことがない。
 著者はアレントの思想に、私的空間と公的空間が厳密に区画され、官僚制的に統治された都市空間、すなわち「権力の空間」に生きることに慣らされている私たちの日常を根本的に改めるための突破口を見出している。『人間の条件』は、決して政治思想史の「古典」と定まっているわけではなく、未来へと開かれた「予言」としての意味をもつことになる。
 もし本書の問いかけに、政治思想史の側から何の応答もなされないのであれば、あまりにも空しい。著者にならって言えば、それこそ学問のタコツボ化がもたらした「権力の空間」に安住していることに無自覚になっている表われと判断されるからだ。(評・原武史)

(引用終了)
<朝日新聞 6/21/2015)

ハンナ・アレントの著書『人間の条件』を武器に、「閾(しきい)」という空間概念、労働者住宅、「世界」という空間を餌食にする「社会」という空間、標準化=官僚制的管理空間、「選挙専制主義」に対する「地域ごとの権力」、といった刺激的なテーマが並ぶ。「流域社会圏」の項で論じた『地域社会圏モデル』山本理顕他著(INAX出版)から5年、山本氏がよりパワフルになって戻ってきた印象だ。

 近代社会の「1住宅=1家族」という私的空間を「地域」に対して開くにはどうしたら良いのか。このブログでは以前「新しい家族の枠組み」の項で、「近代家族」に代わる新しい家族の枠組みについて、

1.家内領域と公共領域の近接
2.家族構成員相互の理性的関係
3.価値中心主義
4.資産と時間による分業
5.家族の自立性の強化
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族

といった特徴を挙げ、「新しい住宅」「新しい住宅 II」「新しい住宅 III」などでその住宅のあり方を見てきたが、この問題に関して山本氏は、古代ギリシャからある住宅の「無人地帯」=「閾(しきい)」という概念の重要性を指適する。同書25ページにある著者作成の「閾の概念図」(図4)を再構成してみよう。
img022.jpg
理解のために概念図の説明文も引用しておこう。

(引用開始)

「閾」はprivate realm(私的領域)に含まれる空間である。public realm(公的領域)に対して開かれた空間である。「閾」は私的領域の内側にあって、それでもなお公的領域に属する空間である。それをアレントは“no man’s land”と呼んだ。「閾」を含まないプライバシーのための空間は“private sphere”である。古代ギリシャでは奴隷と女の領域であった。「循環する生命過程」のための場所である。

(引用終了)
<同書 25ページ(図の説明文)>

 玄関、土間、縁側、応接間、客間、茶室など、公的役割の浅深によってその場の設えは変わるだろうが、この「閾」は、以前「庭園都市」の項で図示した、<里山システム>における「街」と「家」とのつなぎ部分に当る。
img022.jpg
外からみたつなぎ部分は「庭園」だから、住宅の「閾」は「庭園」へ、そして「庭園」は「里山」へと繋がっていくわけだ。今の多くの住宅には人と公的な話をする場所がない。21世紀の庭園都市が上手く機能するかどうかは、「里山」、そして各家の「庭園と閾」の造営巧抽にかかっているといえるのではないだろうか。

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里山を造る

2015年08月18日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「庭園を造る」の項で造園家中谷氏の本を紹介したが、今回は『今森光彦の心地いい里山暮らし12ヶ月』今森光彦著(世界文化社)という楽しい本について書きたい。まず新聞の湯川豊氏の書評を引用しよう。

(引用開始)

自然の豊かさを知り、学びなおす

 タイトルのある本扉をめくると、次の見開きは、二枚の写真。右頁では、長靴をはき頭にバンダナを巻いた今森光彦氏が地面にはうようにして庭仕事をしている。左頁は、部屋の中、琵琶湖中島で見つけたという、形のいい石の上に線香が柔らかな煙をあげている。ともに、熱心に見入ってしまう。
 この本は、ある里山に暮らす今森氏(と家族)の、一年の暮らしぶりの記録である。ある里山というのが、今森氏が二十数年をかけてつくりあげた、約千坪の土地。琵琶湖の西岸、比叡山のすそ野にひろがる仰木地区がその場所だ。今森氏はこの土地を得て、その頃すでに失われつつあった里山の原形のようなものをつくろうと発心し、長い時間をかけてそれを実現したのである。
 昆虫写真が専門、名エッセイストでもある今森氏は、日本中の里山を歩きまわって、TVなどで紹介しているが、彼にはよって立つ場所があったのだと、理解できる。自分で苦労して里山をつくり、その場所を「オーレリアンの庭」と名づけて住んだ。オーレリアンとは、ギリシャ語で黄金を意味し、転じて蝶を愛する人を指す由。
 春三月から冬の二月まで。一ヶ月単位で里山暮らしのありさまが物語のように展開する。短いエッセイ、たくさんの写真、今森氏によるペーパーカットの絵、三つの方法で。里山の光と影、空気の移ろいまでが、読者の心と体に染みこんでくる。(中略)
 各月には、「生き物図鑑」と「里山を味わう」というコーナーがあって、後者はとくに楽しく食欲を刺戟する。八月は「近江地鶏のソテー」、これもいいが、私は翌九月の「ビワマスのグリル」と「栗ご飯」にヨダレをたらした、というしだい。
 しかし、それらが現在の里山の収穫とすれば、そこに至るまでの里山づくりがいかなるものだったかが、そこかしこに静かに語られて、それが本の底流をなしている。
 最初に偶然に土地を得て、里山をつくろうと思ったとき、思い切って、三百本のヒノキを切った。そしてクヌギとコナラの幼木を植えた。里山に必須の雑木林が現在ようやくできはじめたところ。
 さらには、田んぼはやらないかわりに、小さなため池をいくつかつくった。これによって、生息する生き物の数がうんと増えた。
 性質の異なる環境が集まる端境の場所をエコトーンというが、そこは集中的に生き物の密度が高い。よく管理されている里山こそはエコトーンの代表格で、だから日本の自然の豊かさの象徴だった。それを失くしてはならないという思いが、今森氏の行動になったのを知るのである。
 夏休みに向けて、大人も子供も里山を知る。あるいは学びなおすにふさわしい一冊である。

(引用終了)
<毎日新聞 7/5/2015(フリガナ省略)>

本には134種類以上の生き物(植物や虫、動物)たちが写真つきで紹介されている。オウムやハチドリ、ハイビスカスなどの素敵なペーパーカット作品も15点収録されている。勿論写真も素晴らしい。帯裏表紙には、

(引用開始)

里山は、手づくりできる小さな楽園――。

ささやかながら、アトリエをつくるとき、周辺の環境をすべて宝物につくり変えようと考えました。それが、この庭の物語です。庭は、私にとって里山の自然をみつめる窓であり、教科書であり、実験場でもあります――今森光彦

(引用終了)

とある。

 里山とは「人里近くにあって人々の生活と結びついた山・森林」(広辞苑)ということで、一般的には複数の家々が共同して利用する場所を指すが、今森氏はそういう場所が戦後次第に失われていくことに危機感を覚え、孤軍奮闘、自分のアトリエを「生きものの集まる小さな里山」として再現したわけだ。場所は琵琶湖に注ぐ天神川流域、遠くに比良山連峰を望む。

 「理念濃厚企業」の項などでその著書を紹介してきた建築家隈研吾氏は、最近、雑誌『ソトコト』(8/2015号)の小川和也氏とのインタビューの中で、100年後の建築やまちはどのようになると思うかという質問に対して、

(引用開始)

 100年後って、割とすぐきてしまうんですよね。たとえばいまから100年前、1915年のことを頭に描いてみると、いまとそんなに変わっていないわけですよ。
 変わるとすると、予定調和ではなく、なし崩し的に変っていく。外観は、庭化していくと思っています。要するに、環境に寄り添いまち全体が庭っぽくなっていく。20世紀に超高層の時代がきたわけですが、面白いまちというのは、超高層の建物で占拠されているまちではなく、全体、足元、歩く環境でまちの魅力を測るようになる。それが評価の基準となると、まちが庭っぽくなっていく。
小川 超高層建築時代の反動の側面もあるのでしょうかね。
 高い建物がよいという価値観はだんだん崩れていくんじゃないかな。20世紀の惰性として超高層も存在していたりはするけれど。超高層ビルやマンションは、経済のシステムに基づいて建てられ、利益を改修、回転させていくモデルであって、人間の欲求によって立てられているわけではない面がありますから。人間が本能に従って、どのような空間に居住したいかというときに、それは必ずしも高い建物では無い。
 やはり人間にとって足周りの気持ちよさというのは一番大事なんですよね。そのような、人間の生物としての基本的欲求みたいなものが、ちゃんと経済のシステムにも反映されるようになると、まちはどんどん庭化していくと考えています。

(引用終了)
<同書 177ページ>

と述べている。これからは「庭園都市」の時代なのである。今森氏はその先駆者の一人だと思う。それは、モノコト・シフト(モノよりもコトに対する関心の高まり)とも踵を一にした動きの筈だ。

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庭園を造る

2015年08月12日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「庭園都市」の項で紹介した『庭の旅』と兄弟のような本がある。『木洩れ日の庭で』中谷耿一郎著(TOTO出版)がそれで、同じ出版社から11ヶ月ほど隔てて出版された。

『庭の旅』:2004年6月初版
『木洩れ日の庭で』:2005年7月初版

(引用開始)

自然体で生きたいと願うすべての人へのメッセージ。
八ヶ岳のふもとに住まい
四季折々の自然とともに生きるランドスケープ・デザイナーの
森の中の小さな暮らしから生まれた、人生を愉しむ庭づくり。

(引用終了)
<同書帯表紙より>

ということで、これは造園家の中谷氏が、庭造り(土や石、花や樹、森や小川、家や生活、四季や風景など)に関する思考や美意識を、ご自身の撮った見事な写真と共に、二十二の章に収めた美しい本だ。

(引用開始)

 ランドスケープ・デザインの核心は、無垢の原生林から鉢植えの花や盆栽に至る、人と植物のよりよいかかわり合い方、もしくは折り合いのつけ方を見つけ出すことにあるのではないかと常々思っている。特に森や森に近い里での暮らしのスタンスは、各自が苦痛を感じたり生活に支障をきたしたりしない範囲で、できるだけ自然度の高い環境を維持することでありたいと思う。

(引用開始)
<同書 86−87ページ>

という言葉に、氏のバランスの取れた思考・美意識が簡潔に纏められている。

 南北に長く、また標高差が大きい日本列島には、地球上の植生の大半があるという。変化に富んだ四季と豊な植生、それらをどう生かすか。この本は、庭づくりを目指す人にとって良き参考となるに違いない。

 私は以前、この本を読んだことがあった。今回『庭の旅』を読んだのを機に再読し、土のことや石、水の扱いなど細部に関する知見を再認識した。写真の美しさにもあらためて感動した。

 中谷氏の庭は、『庭の旅』の方でも、「デザインは齢を重ねた心の地図 造園家が暮らす小さな山荘と小さな庭」として紹介されている。白石氏が中谷氏の造園に共鳴し、八ヶ岳の麓の中谷宅へ出かけたときの体験を基にしたものだ。奥さまの白井温紀さんが描いた中谷邸全体図もある。

 庭園都市計画家と造園家(ランドスケープ・デザイナー)。それぞれの本の「あとがき」によると、その後のお二人の付き合いのなかで、まず中谷氏が白石氏にある出版社を紹介し、その会社の雑誌に白石氏が記事を連載したことで、2004年に『庭の旅』が生まれた。それとは別に、中谷氏もある建築系の雑誌に記事を連載していた。それを読んで、こんどは白石氏がTOTO出版に話をもちかけ、11ヵ月後に『木洩れ日の庭で』が生まれた。二つの本が兄弟だという所以である「スモールワールド・ネットワーク」や「ハブ(Hub)の役割」を地で行くような話しではないか。幸せな二冊の出版を喜びたい。

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庭園都市

2015年07月28日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 『庭の旅』白井隆著(TOTO出版)という本を愉しく読んだ。庭園都市計画家の白石氏は、

(引用開始)

 人はハコに暮らすのではなく、「人は庭園に暮らす」と考える。その全体を庭として計画することを通して、施主の求める幸福な風景を造ることはできないだろうか。土木建築を、世界から切り離してしまわずに、庭園構想の一部として、全体に関係付けることによって。
 庭には、人と、時間と、自然と、構造物が備わっている。暮らしの場全体を計画する方法として、庭園という装置を使うことはできないだろうか。

(引用終了)
<同書 9ページ>

と考え、それを探るために、奥さまでガーデン・デザイナーの白井温紀さんと一緒に世界各地の庭を巡る。

 山形の田舎家の庭、共同体を生き返らせた水俣市の田園、バリ島のアマンダリ・リゾート、京都南禅寺無鄰庵・小川治兵衛の庭、八ヶ岳にある造園家中谷耿一郎の庭、英国ヘリガンの庭、日光東照宮、昭和記念公園、高千穂夜神楽などなど、美しい写真やスケッチと共に多種多彩な庭や公園が紹介されている。スケッチは奥さまが描いたもの。

 白石氏の職業である「庭園都市計画家」というのは広がりのあるいい言葉だと思う。都市計画家でもなく、造園家でもなく、建築家でもない。その全てを含む感じだろうか。氏は、

(引用開始)

 二一世紀の集落は、人々に幸福を約束する「庭園」として、自覚的に構築されなければならない。

(引用終了)
<同書 40ページ>

と書く。

 以前「庭園について」の項で、「庭園は、人々の心の城郭として、都市と自然との境界に存在している」と書いたけれど、庭園都市と言うと、人が暮らす家と庭、その集合であり都市機能も併せ持つ街、街と聖なる奥山、その二つを繋ぐ農業生産中間地帯としての里山、といった集落全体を的確にイメージすることができる。「3の構造」の手法を用いて図示してみよう。
img022.jpg
 庭園都市という言葉は昔の田園都市よりも、「庭園」ということで、都市と自然の境界性、全体性を明示できるように思う(田園都市はもともとgarden cityの翻訳語)。この「庭園都市」が、そこを流れる河川を通して山岳地域から海辺まで複数繋がると、「流域」として独自の文化圏を成す(可能性が生まれる)ことになる。

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日本の森 

2015年07月22日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 先日「自然の捉え方」の項で、『唱歌「ふるさと」の生態学』(ヤマケイ新書)という本のことを書いたが、もう一冊、同新書シリーズから最近出た『日本の森列伝』(米倉久邦著)についても併せて紹介しておきたい。前者は山と川、里山の生態学であり、後者は森と人とが織り成す物語である。まずは新聞の紹介文から。

(引用開始)

 国土の7割が森林、緯度や標高により亜寒帯から亜熱帯までの植生を持ち、多様な樹木を育てる日本の森。北海道のブナ林から西表島のマングローブの森まで、12の森の歴史や生態系を記述。山の恵みの暮らしを支える豪雪の奥会津ブナ林、国家運営と宗教に関わる歴史の色濃い比叡山の人工林…。環境保全や気候変動など今の問題も背景に説明する。

(引用終了)
<東京新聞 5/24/2015(フリガナ省略)>

 本帯の紹介文も引用しよう。

(引用開始)

 海を渡ったブナの謎、海底に沈む太古の埋没林、宗教と国家権力に翻弄された山――知れば知るほど深い日本の森。(帯表紙)
 森のインストラクターであり、元・共同通信記者でもある筆者による、森林大国・日本の12の森のルポ。北海道から沖縄まで、強烈な個性と存在感を持つ森を訪ね、生命の生存競争の奥深さ、そして人との関わりが生んだ知らざれる歴史を追う。(帯裏表紙)

(引用終了)

 本の構成は、

●北海道黒松内・北限のブナの森
―ブナ、10万年の彷徨、北から南へ、そしてまた北へ
●山形県・庄内海岸砂防林
 ―厳冬の季節風が巻き起こす砂嵐、植えては枯れる辛苦の400年
●福島県・奥会津原流域の森
 ―豪雪の山で生き抜く人と植物たちのしたたかな知恵
●新潟佐渡島・新潟大学演習林
 ―冬の豪雪と夏の霧、離島が育んだ知らざれる神秘の森
●富山県立山・稜線を覆うタテヤマスギの森
 ―屋久島をはるかの凌ぐ巨大スギ群、謎に満ちた生態
●富山県・魚津洞杉の森
 ―埋没林が語る巨木伝説、太古の森はなぜ海底に沈んだのか
●長野県松本市・上高地の森
 ―標高1500mの稀有な空間に秘められた300年伐採の歴史
●静岡県伊豆半島・天城山の森
 ―フィリッピン沖プレートが運んできた大地
●滋賀県・比叡山延暦寺の森
 ―宗教と国家権力に翻弄されながらいまに続く森
●奈良県・春日山原始林
 ―神鹿降臨に始まる神の山は、シカの食害で衰退の危機
●紀伊半島・大台ヶ原の森
 ―南限のトウヒ白骨林が教えてくれるのは、人災か自然現象か
●沖縄県西表島・マングローブの森
 ―汽水線に生きる不思議の樹木たち

となっている。これをみてお分かりのように、それぞれの森の生態が魅力的な話題と共に目の前に広がる愉しい本だ。本文(まえがき)からも引用したい。

(引用開始)

 日本列島は南北に長い。北海道から沖縄まで、大まかにいってざっと3000kmにも及ぶ。北の北海道は亜寒帯、東北は冷温帯、南にいくについれて温暖帯へと代わり、沖縄の南端は亜熱帯のはずれになる。しかも、日本の国土は約7割が森林に覆われている。世界でもトップクラスの森林国である。気候の違いは、その土地に生育する森林の違いをもたらす。日本列島の位置と地形が、世界のどこにも見られないような多様な森を育んでいる。北から南まで個性のある森にあふれている。
 そうと知れば、行かずばなるまい。視点をひとつ、付け加えた。「人」である。日本の森の60%は天然の森だ。だが、いわゆる「手付かずの森」というのは、ほとんどない。太古の昔から、日本人は森と暮らし、森の恩恵を受けて命をつないできた。時には森から奪い、森を破壊してきた。人は森にどうかかわってきたのか。それを知らなければ、日本の森を知ることにはならない。そう思うのは、ジャーナリストの性のせいだろう。

(引用終了)
<同書 4ページ>

 この本の後半、奈良県・春日山原始林や紀伊半島・大台ヶ原の森のところで、最近増えてきた鹿による被害の話が出てくる。人はどこまで自然に関与し、管理すべきなのかということなのだが、確かに難しい課題だ。最近の新聞に白神山地でも鹿の目撃情報が急増しているとあった(東京新聞夕刊 6/29/2015)。

 5月に施行された改正鳥獣保護法も読んでみたが、こういう場合必要なのは、まず、地域の人々がその森をどのようにしたいのか、そこで何を達成したいのか、という「理念と目的」を書き出してみることだと思う。生態系のバランスが大事なのか、あるがままに任せ変化を受入れるのが良いのか。その土地の山岳信仰との関係や里山システム、流域価値、観光資源としての活用、産業用、防風林や砂防林として、津波対策用、学術研究のため、住民の憩いの場としてなどなど。重複する場合は優先順位付けや区分けを行なう。ただなんとなくではいずれ腰砕けになってしまうだろう。

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比のバランスを重視している。管理という側面ではA側の「Resource Planning」、つまり資源の最適化を図る力が求められる。今の日本(語)人はこちら側が弱い。だから、理念として生態系のバランスの方が大事だと決めても、狩猟のためのResource(知識や情報、人や道具、流通網など)が不足して、対応が後手後手になってしまう、あるいはやり過ぎてしまう可能性もある。この点にも留意すべきだと思う。

 先日青森の奥入瀬へ旅行した際、白神山地の方も少し歩いてきた。鹿には出会わなかったけれど。これからも読書や体験を通して、森林についての解像度(理解度)を高めて行きたい。

尚、森についてはこれまで、

牡蠣の見上げる森
森の本
森ガール
里山と鎮守の森

などを書いた。併せてお読みいただければと思う。

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posted by 茂木賛 at 12:37 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

山岳信仰

2015年07月01日 [ 街づくり ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自然の捉え方」の項で、日本人は、自然と対峙するのではなく、手入れをしながら共生する道を選んできたことを論じたが、生き方の背景にある信仰もまた、日本人の場合、自然崇拝という形をとる。日本列島は国土の七割から八割を山が占める。だから日本の自然崇拝は、山岳信仰と重なる。最近この山岳信仰について、『山岳信仰』鈴木正崇著(中公新書)という題名もそのものずばりの本が出たので紹介しておきたい。本のカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 出羽三山、大峰山、英彦山の三大霊場をはじめ、富士山、死者の魂が赴く立山と恐山、御座の木曽御嶽山、鎖禅定の石鎚山――。個性豊な山々に恵まれた日本人の精神文化の根底には、山への畏敬の念が息づく。本書は山岳信仰の歴史をたどりつつ、修験道の成立と展開、登拝の民衆化と女人禁制を解説。さらに八つの霊山の信仰と祭祀、神仏分離後の状況までを精解する。長年、山岳修験研究に携わってきた著者による決定版。

(引用終了)
<フリガナは省略>

副題に「日本文化の根底を探る」とあるが、この本は日本人の山岳信仰の歴史としきたりを詳細に記録した労作だ。新聞の紹介文も二つ載せておこう。

(引用開始)

 山は日本の風土と日本人の生活の根源をなすとともに、畏怖心から信仰の対象ともなった。山岳で修行した者が霊力をつけ里人を救う修験道はそんな自然を背景に生まれた。出羽三山、大峰山、富士山、恐山、御嶽山など八つの霊山を取り上げ、山岳信仰の歴史や、巫女や即身仏、講や曼荼羅など信仰の諸相を紹介し、山をめぐる想像力のありようを探る。<東京新聞 4/26/2015>

 副題<日本文化の根底を探る>。古代の他界観や近世の死者供養のありようを反映する山岳信仰は、民衆世界と深いつながりを持ってきた。明治維新の神仏分離で断絶した修験道も、現在は各地で復興が続いている。出羽三山、大峰山、英彦山、富士山、木曽御嶽山など八つの霊山をとりあげて、伝承と歴史を概説する。<朝日新聞 5/3/2015>

(引用終了)
<フリガナは省略>

 著者の言葉も一部引用しておきたい。

(引用開始)

 日本では超越的な神観念は風土になじまず、複雑な教理や煩瑣な哲学は発達しなかった。つねに体験知の具体的な世界を通して、見えない世界との交流が図られ想像力を飛翔させた。その中でも身近な山が重要な役割を果たしてきた。その根底にあるのは「山川草木すべてものいう」の世界であり、あらゆるものがいのちや霊魂を持つという認識である。宗教学者はこれをアニミズム(animism)と呼んできた。しかし、西欧由来の狭い学問定義では、日本の長い歴史の中で生成されてきた融合と混淆の複雑性は捉えきれない。

(引用終了)
<同書 9ページ(フリガナ省略)>

日本列島の男性性思考が、抽象的な高みに飛翔し続けるよりも具体的な場所性を帯びることは、先日『百花深処』<修験道について>の項で敷衍したばかり。こちらも併せてお読みいただきたい。

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posted by 茂木賛 at 13:14 | Permalink | Comment(0) | 街づくり

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