夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


迷惑とお互いさま

2010年06月01日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本語の力」の項で、

(引用開始)

日本語は母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>の繋がりを生む。<我>と<汝>の繋がり、即ち「和」を生み出す日本語には、異質の物を調和させる力があり、それ故に、日本語は自然環境を守る力が強いのであろう。

(引用終了)

と書いたけれど、日本語の自然環境を守る力は、往々にして、自然環境に対してだけではなく、人為的な組織に対しても同じように働いてしまうようである。ボストン在住の心療内科医である海原純子氏は、新聞の連載コラムに次のように書いておられる。

(引用開始)

 アメリカに住んで気がつくのは、「迷惑とお互いさま」の論理の違いである。日本では子供のころから、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」などと言われて育つから、他人の思惑か視線が行動の基準になったりする。
 人さまに迷惑をかけないように努力するのは大事だが、逆にいうと、迷惑をかけられた時はひどく立腹して、相手の人間性を否定してしまうこともある。もう二度と付き合わない、などということもおきる。迷惑にはいろいろある。時間に遅れる。約束をキャンセルする。予定をかえる。こういったことで「迷惑をかけられて」トラブルになったりストレスを感じたりもする。
 アメリカの場合は、「お互いさま」の論理が先行する。自分が迷惑をかけるかもしれないが、相手の迷惑にも許容範囲が広くなるというスタイルだ。ボストンに20年以上住んでいる日本人が、「迷惑をかけあう、という感覚ですかね」と言っていたが、この思考性に気づかないとアメリカに住むことはストレスになるだろう。(後略)

(引用終了)
<毎日新聞「一日一粒心のサプリ」11/15/2009より>

 私もアメリカに長く住んでいたから、海原氏の指摘に同感する。アメリカに暮らしていて、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」といった意味のフレーズは聞いたことがない。そういえば日本には「見て見ぬ振り」「長い物に巻かれろ」「波風を立てるな」「仕方がない」など、社会や人に迷惑をかけないための慣用句が多い。作家の加賀乙彦氏は、その著書“不幸な国の幸福論”(集英社新書)のなかで、日本の社会について、

(引用開始)

 集団の和を重んじ、見られる自分を強く意識する社会にあっては、相手の視線や言葉の裏に隠された勘定まで読み取って心配りのできる人が、高く評価されてきました。その繊細な感情ゆえに、日本独自の文化や芸術を生み出すことができたわけですが、一方で、人目を気にしすぎたり、主体性や自主性が育ちにくいという問題も生じてしまった。

(引用終了)
<同書52ページ>

と書いておられる。日本語の「自然環境を守る力」という本来の長所が、自然環境を超えて人為的組織にも及び、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」という短所として働いてしまう、ということであろうか。

 このブログでは、これまで「広場の思想と縁側の思想」の項などで、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用開始)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題を提出し、「容器の比喩と擬人の比喩」などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」


という対比を見てきたが、日本語のこの「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」についても併せて考えていきたい。

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日本語の力

2010年04月27日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「自立と共生」の項で、日本語と対比して「英語的発想ばかりだと自然環境を守ることが難しくなる」と書いたけれど、ここで、日本語の持つ「環境を守る力」について纏めておきたい。まずは“日本語は亡びない”金谷武洋著(ちくま新書)から引用しよう。

(引用開始)

 日本語をよく観察すると、日本人がいかに「対話の場」を大切にする民族かということに驚く。話し手である自分がいて、自分の前に聞き手がいる。聞き手は二人以上のこともあるが多くは一人だ。ここで大切なのは、この「対話の場」に<我>と<汝>が一体となって溶け込むということだ。この点が日本文化の基本であるように思えてならない。日本語における<我>は、決して「対話の場」からわが身を引き剥がして、上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視線を持たない。<我>の視点は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である。(中略)
 これに対して、西洋の考え方は自己から世界を切り取るところに特徴があるように思える。自分に地球の外の一転を与えよ、地球を動かしてみせると豪語したのはアルキメデスだった。自分を「我思う、ゆえに我あり」と、思考する<我>を世界と対峙させることで<我>の存在証明にしようと試みたのはデカルト(『方法序説』一六三七)である。端的に言えば、西洋の<我>は<汝>と切れて向き合うが、日本の<我>は<汝>と繋がり、同じ方向を向いて視線を溶け合わすと言えるだろう。

(引用終了)
<同書106−107ページ>

著者の金谷氏は、長年カナダで日本語を教えておられる方だ。上の観察は外国人に日本語を教える現場での実感なのであろう。

 次に“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)から引用する。

(引用開始)

 前にも述べたが、日本語は、母音を主体に言語認識をする、世界でも珍しい言語である。
 対して、欧米各国やアジア各国の言語は、すべて、子音を主体に音声認識している。しかも、これらのことばの使い手の脳では、母音は、ことばの音として認識しておらず、右脳のノイズ処理領域で「聞き流して」いるのだ。
 話者の音声を、母音で聴く人類と、子音で聴く人類。「言語を聴く、脳の方法」という視点でいえば、世界は、大きく、この二つに分類される。
 この二つの人類は、脳の使い方が違い、ことばと意識の関係性とコミュニケーションの仕組みが、まったく違うのである。(中略)
 というわけで、母音語の使い手による対話と、子音語の使い手による対話は、潜在的な意味において、まったく異なる行為なのである。
 前者は、融和するために手段としてことばを使う。仲良くなる方法を探るのが、対話の目的なのだ。話せば話すほど、意識は融和していくので、意味的な合意はさほど重要ではない。心安らかな語感のことば(親密な大和言葉)をどれだけたくさん交わしたかに、感性上の意味がある。
 後者は、境界線を決める手段としてことばを使う。境界線のせめぎ合いが、対話の目的なのだ。話せば話すほど意識は対峙するので、意味的な合意と、権利と義務の提示、絶え間ない好意の表明が不可欠となる。(中略)
 母音語の使い手は、自然とも融和する。
 母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に“語りかけて”くるのである。当然、母音の親密感を、自然音にも感じている。
 だから、私たちは、虫の音を歌声のように聞き、木の葉がカサコソいう音に癒しを感じ、サラサラ流れる小川に弾むような喜びを感じる。自然と融和し、対話しながら、私たちは生きてきたのだ。

(引用終了)
<同書62と170―173ページ>

著者の黒川氏は、コンピューターメーカーで人工知能の開発に関わり、脳と言葉を研究されていたという。そういえば、同じく母音と子音について「脳における自他認識と言語処理」などで紹介してきた“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)の著者、月本洋氏の専攻も、人工知能、データマイニングとのことだった。

 最後に“和の思想”長谷川櫂著(中公新書)から引用しよう。

(引用開始)

 和とは本来、さまざまな異質なものをなごやかに調和させる力のことである。なぜ、この和の力が日本という島国に生まれ、日本人の生活と文化における創造力の源となったか。これがこの本の主題である。
 その理由には次の三つがある。まず、この国が緑の野山と青い海原のほか何もない、いわば空白の島国だったこと。次にこの島々に海を渡ってさまざまな人々と文化が渡来したこと。そして、この島国の夏は異様に蒸し暑く、人々は蒸し暑さを嫌い、涼しさを好む感覚を身につけていったこと。こうして、日本人は物と物、人と人、さらには神と神のあいだに間をとることを覚え、この間が異質なものを共存させる和の力を生み出していった。間とは余白であり、沈黙でもある。

(引用終了)
<同書205−206ページ>

長谷川氏は、“「奥の細道」をよむ”(ちくま新書)、“決定版 一億人の俳句入門”(講談社現代新書)などの著書がある、気鋭の俳人である。

 以上、三冊の本から日本語について引用してきたが、纏めると、日本語は母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>の繋がりを生む。<我>と<汝>の繋がり、即ち「和」を生み出す日本語には、異質の物を調和させる力があり、それ故に、日本語は自然環境を守る力が強いのであろう。

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言語技術

2010年02月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 「容器の比喩と擬人の比喩 II」で提起した「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題について、子どもの教育の視点から考えてみたい。“「言語技術」が日本のサッカーを変える”田嶋幸三著(光文社新書)は、サッカーの教育現場における言語の重要性について書かれた本である。本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「そのプレーの意図は?」と訊かれたとき、監督の目を見て答えを探ろうとする日本人。世界の強国では子どもでさえ自分の考えを明確に説明し、クリエイティブなプレーをしている。
日本サッカーに足りないのは自己決定力であり、その基盤となる論理力と言語力なのだ。
本書は、公認指導者ライセンスやエリート養成機構・JFAアカデミー福島の仮クラムで始まった「ディベート」「言語技術」といった画期的トレーニングの理論とメソッドを紹介する。

(引用終了)

 「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」などで引用してきた“日本語は論理的である”月本洋著(講談社選書メチエ)によると、日本語もけっして論理的でないわけでは無いが、空間の論理が多用されるため、主体の論理が疎かになるという。月本氏は、この主体の論理を「主語−述語」、空間の論理を「主題−解説」という関係で説明しておられる。「主語−述語」の関係は「AがBをする」、「主題−解説」は「AはBである」と置き換えて考えれば分りやすい。日本語では「AはBである」という云い回しが多用されるということである。前回「存在としてのbeについて」の項でご紹介した副島隆彦氏も、“英文法の謎を解く” (ちくま新書)の中で、

(引用開始)

 日本文を英文(ヨーロッパ語の文)と比較して、ひとつの大きな特徴があることに気づく。日本文は、どんなに複雑に見えようとも「A=B」に還元できる言語である。「きのうは疲れた」でも、「みんなの願いは景気回復だ」でも「彼はダメだ」「彼女はうるさい」でも何でも、全て、この「A=B」の構成になっている。これを英文に直すと、それが何通りかの文構成になるのである。ここに日本語という言語の重大な秘密が隠されているのではないか。

(引用終了)
<同書52−53ページ>

と述べておられる。これまでこのブログで展開してきた対比で云えば、

A 英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用−「主語−述語」
B 日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用−「主題−解説」

ということになる。日本語的発想では環境(空間)中心に物事を考えがちなので、環境を守る力は大きいけれど、主体的にものごとを決定していく力が弱いということなのである。サッカーで云えば、チームワークはよいのだが、シュートの決定力に欠けるということだろうか。

 勿論、社会全体としては、どちらが良いとか悪いとかという話ではなく、両者のバランスが大切なのだが、サッカーにおける言語教育としては、「主題−解説」の関係は日々日本語を話す中で会得できているのだから、それと対比する「主語−述語」の関係の体得が重要なわけだ。

 JFAアカデミーでは、「つくば言語技術教育研究所」の三森ゆかり氏による「言語技術」トレーニングを取り入れているという。くわしくは“「言語技術」が日本のサッカーを変える”田嶋幸三著(光文社新書)をお読みいただきたいが、その中にある、U−12(12歳以下)のトレーニング法の一部を引用しよう。

(引用開始)

 日本語は、主語があいまいなままでも通用する言語です。特に1人称の「僕・私」は会話の中でも文章の中でも欠落しがちです。逆にきちんと1人称が入っている会話や文章は「自己主張が強い」と嫌われる傾向にあります。けれども自分の考えに責任を持つためには、まず誰の考えなのかをはっきりさせることから始めなければなりません。そのために誰が主体となって考えを述べているのかを明らかにする必要があります。
 子どもが「僕(私)たち」「みんな」と複数形を使ったときも要注意です。誰が「複数」の中に含まれるのかを必ず確認する必要があります。無責任に複数形が使われることが多いからです。主語の認識は国内で生活する上でも重要ですが、子どもが将来海外でプレーしたいと望むとき、主語が動詞を規定する欧米の言語では、主語をきちっと認識しながら言葉を操ることが求められます。(後略)

(引用終了)
<同書82−84ページ>

 「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題は、「存在としてのbeについて」の項で述べた翻訳上の努力や、このような地道なトレーニングによって、少しずつ解決していく必要がある。と同時に、「盤上の自由」の項で触れた、「日本の縦型社会の見直し」も重要になってくるだろう。それについてはまた項を改めて考えていきたい。尚、「僕たち」や「みんな」という複数形(集合名詞)を使うことの危うさについては、このブログでも以前「集合名詞(collective noun)の罠」の項で触れたので、ご参照いただければと思う。

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存在としてのbeについて

2010年02月09日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「容器の比喩と擬人の比喩 II」の最後に、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を提起したけれど、それに関連して、英語の「存在としてのbe」について考えてみたい。

 存在としてのbeとは何か。まず、「並行読書法」でご紹介した、副島隆彦氏の主著のひとつである“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)から、be動詞の四つ用法について整理する。

(引用開始)

1.「存在」としてのbe
2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe
4.It’s…の文の中にあるbe (is)

(引用終了)
<同書17ページの図から>

be動詞には、このように四つの用法がある。そのなかで、1.「存在」としてのbeは、主格中心の英語的発想の原点である。例として、”I think, therefore, I am”(我思う、故に、我在り)という、有名な格言を思い起こしていただければよい。この「存在」としてのbeについて、副島氏の同書からさらに引用しよう。

(引用開始)

●もっとも基本的なbe動詞とは、いったい何か?

1. Jazz is (ジャズの入門書のタイトル)
2. Miles is (マイルス・デイビスのアルバムのタイトル)
3. Chances are (ボブ・マーリィのアルバムのタイトル)
4. Love is (エリック・バードンのアルバムのタイトル)

 上の四つの英文は、日本語に訳すとどうなるか。

1. ジャズとは……
2. マイルスが……
3. チャンスが……
4. 愛とは……

という訳がまず考えられる。(中略)

●「be」とは「〜が在る」ということ。「be=存在」なのだ

 isを「……がある」と訳すこと。
 すなわち、このbe動詞を「在る」と訳すことが、英語の学習の第一歩である。
 beとは「存在」のことなのである。「在(有)る」ということだ。
 従って、他の三つともに、

1. ジャズがある。
2. マイルスがいる。
3. チャンスがある。
4. 愛がある。

 という訳にしなければならないのである。

(引用終了)
<同書14−16ページ>

 1.「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができない。このことが重要である。

2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe

については、日本語の「AはBである」という空間の論理、すなわちベン図的な空間・容器比喩で訳しても、なんとか原文と同じ意味として理解することが出来るだろう。しかし、”Jazz is”のような「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができないのである。「ジャズはジャズである」と訳しても意味をなさないのだ。

 「存在」としてのbeは、「主体の論理」の表現そのものであり、日本語で多用される「空間の論理」では表現できない。このことは、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題において、きわめて重要な課題である。尚、4.It’s…の文の中にあるbe (is)は、1.「存在」としてのbeの変形である。

 欧米文で書かれた「存在」としてのbeを、まず「……がある」「……がいる」と訳し、そのあと、さらに文脈に応じて、最適な日本語訳を与えること。副島氏は、

1. Jazz is
2. Miles is
3. Chances are
4. Love is

という上の四つの文について、

(引用開始)

 私が、これらの四つを気のきいた訳に換えるとこうなる。

1. ジャズがわかる本
2. マイルス・デイビスのすべて
3. チャンスは必ずやってくる
4. 愛とはなにか

(引用終了)
<同書15ページ>

と書いておられる。このような翻訳の努力を通して、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を考えていくことも大切である。

 副島氏の“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)は、他にも、”have”、”get”や”would”、時制について、格文法理論など、英語と日本語に関する重要な項目が、図やイラスト入りで分りやすく解説してあり、英語を勉強する人の必読書である。副島氏にはまた、“英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“続・英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“完結・英文法の謎を解く”(ちくま新書)の三部作がある。

 さて、ここで応用問題として、夏目金之助(号漱石)の“我輩は猫である”という小説のタイトルについて考えてみたい。これぞまさしく「AはBである」形式の日本語文である。まず、「容器の比喩と擬人の比喩」、「容器の比喩と擬人の比喩 II」で引用した“日本語は論理的である”月本洋著(講談社選書メチエ)から引用する。

(引用開始)

 現代の日本語は、江戸末期や明治維新のころの日本語とはずいぶん変ったものになった。たとえば、「私は日本人である」という文は、現在ではまったくふつうの文である。しかし、この「〜は…である」という文は、明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである。夏目漱石はそれを意識して、『我輩は猫である』という題にしたという説もある。(後略)

(引用終了)
<同書161ページ>

 夏目漱石は、英国へ留学し、おそらく「存在としてbe」に遭遇し、カルチャー・ショックを受けたことであろう。帰国後かれは、日本語において”A is B”が「AはBである」と訳されていることに気付いた。ここまでの議論を踏まえれば、漱石はこの訳に違和感を覚えた筈だ。そこでかれは、明治社会を風刺するユーモア小説を執筆するに当たり、多少の批判精神と諧謔心とをもって、小説のタイトルにこの「AはBである」形式の日本語を採用したのではないだろうか。

 結果として「我輩は猫である」は、表現の斬新さ、我輩と猫をつなぐ動詞が「存在」のbeなのか「説明」のbeなのかよく分らない曖昧さ、さらに猫が話すというそもそもの非現実性とを併せ持つ、類まれなる(多義的な)タイトルとして日本人の記憶に長く残ることになったのであろう。

 曖昧さは漱石にも自覚されていたに違いない。なぜならこの猫には名前がないのである。「我輩は猫である。名前はまだ無い。」この小説が書かれたのは1905年、いまから100年ほど前のことだ。日本人は、この猫に名前を与えないまま、「存在」のbeをきちんと理解しないまま、そのあと100年を過ごしてきてしまったのではないだろうか。

 ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、”I am a cat”という訳が多いようだ。”I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。

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容器の比喩と擬人の比喩 II

2010年02月01日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「容器の比喩と擬人の比喩」の項において、

(引用開始)

 命題論理とは、真偽を問う文同士の接続・比較ロジックであり、述語部分とは、「何々がこれこれをする」というような、文の主体−対象−動作に関するロジックである。命題論理は、「ベン図」などの空間・容器比喩で示されることが多く、述語部分は、数学のf(x)などと同様、「関数」として示されることが多い。

(引用終了)

と書いたけれど、述語部分には、「何々がこれこれをする」の他にもうひとつ、「何々はこれこれである」という文の形式がある。この「何々はこれこれである」という文は、場(空間)を設定する助詞「は」が使われているので、述語部分というよりも、むしろ、命題論理(容器の比喩)ではないのか?今回はこのことについて考えてみよう。

 その前に、この先必要になるので、月本洋氏の“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)によって、論理学における「単文」と「複文」についてレビューしておこう。単文とは、述語部分であり、上で述べた「何々がこれこれをする」や「何々はこれこれである」などのように、それ以上分解できない文の単位である。複文とは、命題論理であり、「何々がこれこれをする、かつ、何々がこれこれをしない」「何々はこれこれである、または、何々はこれこれでない」などのように、「かつ」「または」という論理接続詞で、単文をつなげたものである。

 さて、「何々はこれこれである」という言い方を英語にするとどうなるか。英語にすると、”A is B”とするのが妥当だろう。そして、英語の”A is B”であれば、主体−対象の関係を表わす擬人の比喩(主体の論理)として、たしかに述語部分であると理解できる。にもかかわらず、「何々はこれこれである」という日本語では、容器の比喩に変身してしまうのは何故なのだろうか。

 月本氏は、そこに英文和訳の問題が横たわっているという。“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)からその部分を引用したい。

(引用開始)

 (「何々はこれこれである」という文の形式は)英語では、

 A is B

が基本である。これを日本語に訳すと、

AはBである

となる。(中略)そうすると、これは、助詞「は」を使っているので、容器の論理であり、主体の論理ではないと思われる読者もいよう。しかしながら、これは英語を日本語に訳した文であることに注意したい。isが「は……である」と対応しているが、そもそも「である」という語はisに相当するオランダ語を訳すために作られた造語である(中略)。
 すなわち、isを「は……である」と訳すところで、主体の論理から容器の論理に移っているのである。言い換えれば、isという主体の論理の表現にもっとも近い容器の論理の表現が「は……である」なのである。
 主体の論理では、AとBという個物が存在し、それをisがつなぐ。これに対して、容器の論理では、Aという場所が与えられ、それをBで解説する。この溝は埋めることができない。(後略)

(引用終了)
<同書125ページより。括弧内は引用者による注。>

いかがだろう。必要に迫られて、はじめて欧米文和訳を行なった人たちが、述語部分(主体の論理)の単文”A is B”を、容器の論理「AはBである」と訳してしまったのである。

A R.P.−英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を考えれば、なぜ当時の日本人が、述語部分の単文”A is B”を、容器の比喩「AはBである」と訳してまったのかが理解できる。日本語的発想では、”A is B”という主格中心の欧米文も、「AはBである」という、環境中心の容器の比喩で表現せざるを得なかったのである。

 先ほどの単文、複文の関係と、英語における「主体の論理」と「容器の論理」との関係について、月本氏は、英語の場合、単文(”A is B”のようにそれ以上分解できない文の単位)は主体の論理で構成され、複文(論理接続詞で単文をつなげたもの)は容器の論理で構成されるという。

 ここまでで解るのは、論理学上、日本語と英語は、明治時代の英文和訳によって、特に単文において、「容器の論理」と「主体の論理」とに別れてしまったということである。

 月本氏は、単文と複文、日本語と英語、容器の論理と主体の論理の関係を、以下のように纏めておられる。

(引用開始)

 複文、すなわち単文の接続は、日本語も英語も容器の論理で組み立てられている(中略)。日本語の単文は、主に容器の論理で構造化されている。これに対して、英語の単文は、主に主体の論理で構造化されている。より正確にいえば、日本語の単文は、容器の論理等の空間の論理で構造化されるが、主体の論理で構造化されることもある。英語の単文は、主に主体の論理で構造化されるが、空間の論理で構造化されることもある。

(引用終了)
<同書126ページ>

 今後、「広場の思想と縁側の思想」(1/27/09)の項から懸案であるところの、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題について、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題に置き換えて考えてみよう。

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容器の比喩と擬人の比喩

2010年01月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「メタファーについて」の項で、月本洋氏の“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)を参照しながら、

(引用開始)

会話や文章で多用される「空間メタファー」は空間の論理であり、「擬人メタファー」は擬人の論理である。容器のメタファーは、閉じた曲線で区切られた空間の内と外という論理形式であり、擬人メタファーは、主体―対象―動作という論理形式である。

(引用終了)

と書き、このブログにおいて「公と私論」などで展開している、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比に、

A 英語的発想−擬人の比喩(メタファー)の多用
B 日本語的発想−容器の比喩(メタファー)の多用

という対比の追加を示唆した。

 念のために、比喩の形式は論理形式そのものであるということについて、“日本人の脳に主語はいらない”から再度引用しておこう。

(引用開始)

「私の心は満たされない」という容器のメタファーは、心を容器と見立てている。すなわち、心を容器の形式を通して認識して思考している。このように、メタファーの形式は、認識や思考の形式であるといえる。言い換えれば、われわれはメタファーの形式を用いて抽象的なことがらを認識し、思考する。(中略)空間のメタファーで表現するということは、空間の論理で表現するということである。同様に、擬人のメタファー形式を、擬人の論理もしくは主体の論理と呼ぼう。擬人のメタファーで表現するということは、擬人の論理もしくは主体の論理で表現するということである(後略)。

(引用終了)
<同書84−85ページ>

 月本氏は、そのあと去年の7月に出版された“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)において、日本語で多用される「容器の比喩」は、論理学や数学で使われる古典論理でいうところの「命題論理」に用いられる形式であり、英語で多用される「擬人の比喩」は、古典論理でいうところの「述語の部分」に用いられる形式であると書いておられる。私は論理学の専門家ではないが、私なりに理解したところを記してみよう。まず“日本語は論理的である”から引用する。尚、この本は去年の夏休みに読んだ本のなかの一冊である。

(引用開始)

 古典論理は命題論理と述語から構成されるが、命題論理は容器の論理すなわち容器の比喩の形式であり、述語は主体の論理すなわち擬人の比喩の形式であることがわかった。
 日本語の論理は空間の論理であり、日本語の論理の中心的役割を果たす「は」は容器の論理であるから、日本語の論理の基本は容器の論理である。したがって、日本語の論理の基本は命題論理なのである。これに対して、英語の論理は、主体の論理である。したがって、英語の論理は、述語の部分の論理であるといえる。(後略)

(引用終了)
<同書126ページ>

 命題論理とは、真偽を問う文同士の接続・比較ロジックであり、述語部分とは、「何々がこれこれをする」というような、文の主体−対象−動作に関するロジックである。命題論理は、「ベン図」などの空間・容器比喩で示されることが多く、述語部分は、数学のf(x)などと同様、「関数」として示されることが多い。

 この月本氏の“日本語は論理的である”において、日本語と英語は、同じ論理学の土俵の上で、検討・分析できるようになったと云える。単文と複文、日本語の「は」の役割など、詳しくは是非本文をじっくりとお読みいただきたい。

 このブログでは、「メタファーについて」の前後、

脳における自他分離と言語処理」(2/24/09)
身体運動意味論について」(4/7/09)
「メタファーについて」(4/14/09)
心と脳と社会の関係」(4/21/09)
社会の力」(4/28/09)

という一連の項において、

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い(文化的特徴)
II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

という循環運動(IVから再びIへ)を提示・分析し、「広場の思想と縁側の思想」(1/27/09)の項から懸案であるところの、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題について考えてきた。この循環運動と、

A R.P.−英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用
b 身体の働き−「私(private)」

という対比からさらに何が見えてくるか、また項を改めて考えてみたい。

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日記をつけるということ

2009年07月14日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 「シグモイド・カーブ」の中で、「興味の横展開」を自覚するということは、その興味の理由と度合いを頭の中で整理することだと書いたけれど、忘れてならないのは、自分を取り巻く環境や情報量の変化によって、それが時(t = life)とともに変化してゆくということである。

 興味の理由や度合いが変化していくことは悪いことではない。皆さんも、昨日まで気が合う友達だと思っていた相手が急に色あせて見えてきたことがあると思う。人はこの変化を「成長」と呼ぶ。ときにそれは「成長」ではなく「退化」と呼ぶべき場合もあるだろうが、いずれにしても「状態の変化」には違いない。興味の理由や度合いが変化していくことは、人にとって必然的なことである。

 「状態変化」それ自体を時系列に辿れば、自分の成長の軌跡が分かる。生まれた状態の自分が、何からどういう影響を受けて、それがどう蓄積されて(あるいは蓄積されずに)今の自分に至ったのか。それを自覚していれば、自分の強み、弱みを把握することが出来る。なにか大事な決断をしなければならない時、余裕を持って、どうすべきか考えることができる。環境が激変し不安に襲われた時、自分を信じることが出来る。

 状況の変化を時系列に辿るもっとも有効な手立ては、日記(ブログ)をつけることである。私は20年以上前から、簡単な内容(仕事の打合せや旅行、気候、食事、その日買った本や、読み終えた本の内容整理など)ではあるが、日記をつけている。

 昔の日記を読み返すと、当時如何に考えが至らなかったかに赤面することもあれば、既にあの頃こんなことを考えていたのか、と驚くこともある。しかし概ね、その時の自分の興味の理由と度合いとを思い起こすことが出来る。日記をつけるということは、「繰り返し読書法」のなかで、本を繰り返し読むと書かれた内容が短期記憶から長期記憶へと移る、と述べたことに近いのだろう。日記をつけることで、その日の出来事と、自分の興味の理由と度合いとが、長期記憶として脳に残るのだ。

 日記といえば、「立体的読書法」や「庭園について」で触れた永井壮吉(号荷風)が残した「断腸亭日乗」は、日記文学の大作として有名である。“荷風と東京 「断腸亭日乗」私註”川本三郎著(都市出版)から引用しよう。


(引用開始)

 「断腸亭日乗」は大正六年(一九一七年)九月十六日、荷風三十七歳(数えで三十九歳)のときから書き始められ、死の前日の昭和三十四年(一九五九年)四月二十九日まで書き続けられた実に四十二年間に及ぶ日記である。大正六、七年ころは何日か抜けているが、やがて加速がつき、大正九年ころからはほぼ毎日、その後は昭和二十年の東京大空襲のときも、終戦直後の混乱期にも一日も欠かすことなく書き続けられた。(中略)
 先年、私は荷風の遺族(養子、従兄弟の大島一雄・芸名杵屋五叟の子息)で荷風晩年の市川の家に住む永井永光(ひさみつ)氏から、この浄書され、帙に入った「断腸亭日乗」の実物を見る機会に恵まれたが、まず手帖に鉛筆でその日のメモを書いておき、次に万年筆で大型ノートにメモから起こした文章を書く、それに推敲を重ねて、最後に筆で和紙に書く、と実に丁寧に作られたもので、まさに谷崎潤一郎がいうように「そのまゝ版下になる」ように美しいものだった。生活の芸術化とはこのことをいうのだろう。

(引用終了)
<同書10-13ページ>

始めから公開することを前提に書かれているから、自分の為だけの日記とは違うけれど、日付を追って「断腸亭日乗」を読んでいくと、書かれた内容の面白さもさることながら、明治・大正・昭和を生きた永井壮吉という人間の、「興味の理由と度合い」の変遷を知ることが出来る。それによって(永井壮吉の理性と感性を通して)読者は、日本の近代化そのものの本質を窺い知ることができるのだ。

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心と脳と社会の関係

2009年04月21日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「メタファーについて」に引き続き、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)から、今回は「心と脳と社会の関係」について考えてみたい。

 月本氏は、子どもの言葉の発達、親の模倣などの観察から、脳における「自他分離」と、「仮想的身体運動」とが密接に相関しているということを指摘する。

(引用開始)

(前略)子どもが言葉を覚えるということは、親の言葉の使い方(用法)を模倣しながら、自分の仮想的身体運動を組織化していき、イメージを作っていくということであるといえる。(後略)

(引用終了)
<同書108ページ>

子どもは、身体運動のみの状態から、次第に模倣を通して身体運動の仮想化が出来るようになり、五歳くらいで自他分離が完成すると、イメージを仮想的身体運動によって作っていくことが出来るようになるという。

 月本氏は次に、人は他人の心をもこの「仮想的身体運動」によって理解していると述べる。

(引用開始)

 他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである。すなわち、他人の振る舞いの意味とは、他人の振る舞いを見ることにともなう想像(仮想的身体運動)である。(中略)前章では、言葉の理解は仮想的身体運動でなされると言ったが、他人の心の理解も仮想的身体運動でなされる。言い換えれば、言葉の意味は仮想的身体運動であるが、同様に、他人の振る舞いや顔の表情の意味も仮想的身体運動である。

(引用終了)
<同書118ページ>

 月本氏はさらに、心というものはこのような脳の働きであり、それは自己完結的なものではなく、複数の人間の間に作用する相互作用であるとする。氏は、物質間に重力が相互作用を及ぼしているように、人間には心が相互作用を及ぼしているという。

(引用開始)

 心も(重力と)同様に考えられないだろうか。複数の人間のあいだに作用する相互作用なのだから、それをどれか一つの人間の中に見つけようとすることはあまり意味のあることではないし、それが見えないからといって、存在しないと考えることも間違っているのではないだろうか。
(中略)
 自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己になる。
 私は、私とあなたに分かれた片割れである。それは、他人の視線、顔の表情、身体動作を模倣することで、神経回路を訓練することで、作られたものである。
(中略)
 重力がどこにあるのかといわれても、それは目でみることはできない。目で見えるのは、その重力によって変形を受けた二つの物体の内部の安定的な変形である。同様に、自己も心的相互作用によるわれわれの身体の変形として存在する。それは、一つの身体では「私」として、もう一つの身体には「あなた」として存在する。だから、自己の本質的な在り処は、自分の中にはないことになる。それは自分と他人の間にあるということである。

(引用終了)
<同書132−135ページ、括弧内は引用者による補足>

 いかがだろう。自分というものは自分の中にあるのではなく、自分と他人との間(社会)にあるとするこの考え方は、環境と知覚とが、運動を通して一体であるとするアフォーダンス理論と非常に近い考え方だと思われる。かくて、「身体運動意味論」は、言葉だけではなく、思考と社会そのものをアフォーダンス理論と結びつけるのである。

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メタファーについて

2009年04月14日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「身体運動意味論について」に引き続き、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)から、今回は「メタファー」について考えてみたい。

 メタファーとは、日本語で「比喩」とか「暗喩」とよばれる表現方法である。月本氏によると、人はメタファーを使うことで、抽象的な言葉をも「仮想的身体運動」として表現しているという。

(引用開始)

(前略)抽象的な表現は、現実的な物理世界に対応物がないので、われわれは仮想的身体運動ができない、すなわちイメージを作れない。このような直接的に身体運動ができない領域を抽象的領域という。抽象的な領域は、たとえば、文化、経済、政治、理論などである。抽象的領域のイメージは、メタファー表現を通して、具体的領域のイメージをつかって作られる。

(引用終了)
<同書70−71ページ>

 月本氏の分類によると、メタファーには大きく分けて二つのカテゴリーがある。一つは視覚、聴覚、嗅覚などの「知覚的メタファー」であり、もう一つは擬人、食物などの「非知覚メタファー」である。会話や文章で多用されるのは、容器や方向、運動や存在などの「空間メタファー」(「知覚メタファー」の一種)と「擬人メタファー」だという。「心が満たされない」、「地位が上がる」は、それぞれ容器、方向の空間メタファーであり、「台風が襲う」、「首尾一貫」などは擬人メタファーである。

 月本氏は、メタファーは経験の形式であるという。

(引用開始)

 メタファーの形式は経験の形式である。経験の形式とはわれわれ人間が世界をどう経験しているかの枠組みであり、意味のある経験はかならずその形式を持っているような形式のことである。言い換えれば、その形式から外れたような経験は、われわれにはできないような形式である。たとえば、容器のメタファーの形式は、われわれ人間が三次元物理世界の皮膚で区切られた容器であることに、その理解の基礎がある。

(引用終了)
<同書85ページ>

前回「身体運動意味論について」の最後に、

(引用開始)

言葉における身体運動意味論と、知覚システムにおけるアフォーダンス理論とは、「運動を通してこの世界を日々発見する」という点において、非常に近い考え方だと思われる。

(引用終了)

と書いたけれど、このメタファーこそ、言葉とアフォーダンスとを繋ぐ鍵なのである。人はメタファーを使うことで、抽象思考と身体運動とを結び付けているのである。

 月本氏はまた、メタファーの形式は論理形式そのものであるという。

(引用開始)

「私の心は満たされない」という容器のメタファーは、心を容器と見立てている。すなわち、心を容器の形式を通して認識して思考している。このように、メタファーの形式は、認識や思考の形式であるといえる。言い換えれば、われわれはメタファーの形式を用いて抽象的なことがらを認識し、思考する。(中略)空間のメタファーで表現するということは、空間の論理で表現するということである。同様に、擬人のメタファー形式を、擬人の論理もしくは主体の論理と呼ぼう。擬人のメタファーで表現するということは、擬人の論理もしくは主体の論理で表現するということである(後略)。

(引用終了)
<同書84−85ページ>

会話や文章で多用される「空間メタファー」は空間の論理であり、「擬人メタファー」は擬人の論理である。容器のメタファーは、閉じた曲線で区切られた空間の内と外という論理形式であり、擬人メタファーは、主体―対象―動作という論理形式である。

 「脳と身体」、「脳における自他認識と言語処理」などで引用した月本氏の、

(引用開始)

日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない。

(引用終了)
<同書235−236ページ>

という指摘は、日本語と英語における、空間メタファーと擬人メタファーの使用頻度を観察したものなのである。

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身体運動意味論について

2009年04月07日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「脳について」「言葉について」「脳における自他認識と言語処理」で引用してきた月本洋氏の「身体運動意味論」について、その内容を整理しておこう。

 まずはもう一度「日本人の脳に主語はいらない」月本洋著(講談社選書メチエ)からその部分を引用する。

(引用開始)

身体運動意味論は、極めて簡単にいうと、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」というものである。

(引用終了)
<同書4ページより>

 月本氏は、「言葉の意味を理解する」ということを二つに分けて考える。一つは、その言葉を聞いてイメージを作ることが出来る「想像可能性」であり、もう一つは、記号を形式的に処理することが出来る「記号操作可能性」である。「黄金の山」という場合は前者の例、「9次元空間」は後者の例だ。

 氏は、「記号操作可能性」は「想像可能性」に基づいているという。人は、言葉に慣れればイメージを伴わずに理解することが出来るが、初めはどうしてもイメージが必要であるというわけだ。その上で氏は、「想像」には身体が絡んでいるという。

(引用開始)

 一九九〇年代に入って、脳の非侵襲計測が使われるようになった。「非侵襲計測」という言葉をはじめて見る人が多いかと思う。簡単に説明すると、頭蓋骨を開けて脳に触れると脳に影響を与えてしまうが、そのような脳に対する影響(=侵襲)を与えずに行う脳の機能の計測のことである。

 この非侵襲計測によって、想像するときに活動する脳の部分と、実際に動かすときに活動する脳の部分は基本的に同じであるということが実験的に確認された。すなわち、想像するときにも、実際に身体を動かす脳の部分が動くのである。想像するときに脳の神経活動は、実際の身体運動の神経活動と基本的に同じだということである。身体を動かす脳神経回路が実際の身体運動をともなわずに活動することを、仮想的身体運動と呼ぶことにする。想像は仮想的な身体運動なのである。

(引用終了)
<同書28−30ページ)

この仮想的身体運動は、身体運動以外の想像においても当て嵌まる。

(引用開始)

「猫」という言葉を聞けば、私の頭の中に猫のイメージが浮かぶ。このような想像も仮想的身体運動といえるのであろうか。すなわち、どこかの身体が仮想的に動いているのであろうか。答えは「はい」である。猫のイメージを浮かべているときには眼球を仮想的に動かしているのである。

(引用終了)
<同書41ページ>

実際の運動と仮想的身体運動との違いは、末梢神経が動くか動かないか、筋肉からのフィードバック信号があるか無いかなのである。

 次に氏は、「言葉の意味を理解する」というときの「言葉の意味」について三つの意味論を提示する。

(引用開始)

1.言葉の意味とはその指示対象である(指示対象意味論)
2.言葉の意味とは、その心的イメージである。(イメージ意味論)
3.言葉の意味とはその用法である。(用法意味論)

(引用終了)
<同書49−50ページ>

身体運動意味論は、猫を見たときに活動する脳の部分と、猫を想像するときに活動する脳の部分が基本的に同じであるということだから、1.指示対象意味論と2.イメージ意味論の二つを統合する。言葉の意味は、さらに他人との対話を通して3.用法意味論へと繋がっていく。身体運動的意味は、用法的意味によって(他人との対話を通して)絶えず修正される。新しい言葉が社会に定着するかどうかは、皆がその新しい言葉のイメージを共有できるかどうかにあるわけだ。

(引用開始)

 実社会では、このような身体運動的意味と用法的意味の戦いが常に行なわれている。子どもの頃は、親の言葉の用法を真似して、イメージを作る努力をする。若者は新しい言葉を作る。それが、テレビ等のマスコミを通して、多くの人に伝えられる。その新語のいくつかは消えていき、いくつかは、定着して辞書に載るようになる。

(引用終了)
<62ページ>

身体運動意味論は、1.指示対象意味論と2.イメージ意味論を統合する一方で、3.用法意味論と常に拮抗関係にあるということが云える。

 以上内容を整理してきたが、「身体運動意味論」の重要性は、行動主義の得意とする刺激反射反応と、認知主義の得意とする記号処理とを、(脳と身体を一元的に見ることで)統合的に捉えることが出来るところにある。これは言葉というものを考えていく上で、とても大切な理論だと思う。身体運動意味論はまた、以前述べたアフォーダンス理論に近いという意味でも興味深い。

(引用開始)

 たとえば椅子とは何であろうか。あるものが椅子として意味を持つのは、椅子の材質とか色とかによるのではない。椅子の材質が木であろうが鉄であろうがプラスティックであろうが、通常は固体であればなんでもいい。色も同様である。赤であろうが茶色であろうが何でもよい。形も同様である。このように、材質、色、形等で椅子を定義することは出来ない。あるものが椅子かどうかは、ひとえにそのものが椅子として機能するかどうかにかかっており、椅子として機能するかどうかは人間の身体に関わっている。(中略)すなわちわれわれの身体が、あるものを椅子として現出させるのである。われわれの身体が、路傍の木の切り株を椅子として現出させるのである。

(引用終了)
<同書47−48ページ>

以前書いた「アフォーダンスについて」から引用しよう。

(引用開始)

 アフォーダンス理論では、我々の住むこの世界は、古典幾何学でいうような、直線や平面、立体でできているのではなくて、ミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)から出来ているとされる。そして我々は、自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚の五つ)によって、運動を通してこの世界を日々発見する。

(引用終了)

いかがだろう。言葉における身体運動意味論と、知覚システムにおけるアフォーダンス理論とは、「運動を通してこの世界を日々発見する」という点において、非常に近い考え方だと思われる。それが何を意味するかについては、別途項を改めて考えてみたい。

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脳における自他認識と言語処理

2009年02月24日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「脳について」「言葉について」「脳と身体」などで取り上げてきた、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)には、脳における自他認識と言語処理について興味深い仮説がある。

 氏はこの仮説から、「日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない」(同書235−236ページ)という現象を解き明かそうとされている。云うまでもなく、この現象は私の指摘する、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

と重なっている。氏の仮説について見ていこう。

 先ず氏は、いくつかの言語の比較から、「日本語は世界の言語の中で、母音を最もよく発音する言語である。これに対して英語は、母音の比重が小さい。」(同書2−3ページ)という特徴を示す。

 次に各種実験で、日本人が母音を左脳で聴くこと、イギリス人が母音を右脳で聴くことを検証する。なぜそうなるかについて、氏は「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4ページ)という「身体運動意味論」、心と脳と社会の関係、脳神経回路の学習による組織化プロセス、などから説明していく。

 次に、最新の脳科学の実験により、ひとは自分と他人の理解を右脳で処理していることを導く。

「従来の脳科学では、自己意識と言語が密接に関連していて分離できないという認識から、自己意識は言語野のある左脳にあるとしてきた。ところが最近の脳科学の実験は、自己意識は右脳にあるということを示している。」(113ページ)

 この指摘は重要だ。この発見から氏は、ひとの発話が母音を内的に「聴く」ことから始まることを踏まえ、人の言語野は左脳にあるから、母音を右脳で聴く英国人は、自他を識別する右脳を刺激しながら(左脳で)言葉を処理し、日本人は、自他を識別する右脳を刺激せずに(左脳で)言葉を処理することになる、と想定する。

 すなわち、自他を識別する右脳を刺激しながら(左脳で)言葉を処理する英国人は主体の論理が多くなり、自他を識別する右脳を刺激せずに(左脳で)言葉を処理する日本人は主体の論理が少ないことになる、という訳だ。

 尚氏は、日本語が世界の言語の中で、母音を最もよく発音する言語であること、日本語は主語や人称代名詞をあまり使用しない、という二点から、「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」(第5章)と仮定されているが、これは(氏も書かれているように)まだ検証が足りず、私の今までの考察(「日本語について」「視覚と聴覚」などで見た日本語に擬音語や擬態語が多いこと)からして、むしろ原因と結果を逆転させて「主語や人称代名詞を省略する日本文化は母音の比重が大きい」とした方が自然だと思われる。

 こう考えれば、一連の事象を、

I   日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい(文化的特徴)
II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III  日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV  日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

という循環運動(IVから再びIへ)として捉えることが出来る。こう捉えれば、日本人の脳と身体(日本社会における都市と自然)のバランスを考えていく上で、生産的な議論が可能になると思う。

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日本語について

2008年12月09日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「言葉について」のなかで、言葉に関する論点を

1. 言葉を使った作品(小説や詩、俳句や歌など)
2. 言葉の歴史(漢字、万葉仮名、ひらがな、カタカナなど)
3. 言葉と脳科学(身体運動意味論など)
4. 言葉と社会学(不変項としての言葉など)
5. 日本語と英語の違い(言語の特性など)

の五つに分類したけれど、5.の日本語と英語の違い(言語の特性など)に関連して、東京女子大学西原鈴子教授の「外から見た日本語」という新聞連載記事を紹介しよう。

 「外から見た日本語」は、7/2/08から9/3/08まで「東京新聞」に毎週(全10回)連載された。各週のタイトルは以下の通り。

1.  暗黙の了解前提の「高文脈」(7/2/08)
2.  情緒を重視した「パトス」の言語(7/9/08)
3.  結論より妥協点の話し合い(7/16/08)
4.  「言い切らない」が不可解に(7/23/08)
5.  親密になるほど沈黙長く(7/30/08)
6.  トラブル対処に内罰的傾向((8/6/08)
7.  構成逆にし高い評価の翻訳(8/13/08)
8.  外国人悩ませるカタカナ語(8/20/08)
9.  オノマトペ多彩 表現豊か(8/27/08)
10. 挨拶としてのお辞儀と握手(9/3/08)

日本語は、お互いに分かり合っていることを暗黙の前提とする「高文脈」であり、論理的な「ロゴス」ではなく情緒的な「パトス」の言語であること、意見を戦わせることよりも妥協点を探りあうこと、「膠着語」(文法要素がニカワのようにくっついてゆくことで拡大する言語)であること、親密になるほど沈黙が長くなり、トラブルの対処には内罰的(攻撃が自分自身に向けられている)であること、オノマトペ(擬音語や擬態語)が多いことなどについて、挿話ごとに例を挙げて分かりやすく解説してある。

 日本語と英語との違いについては、これまで「Resource Planning(R.P.)とProcess Technology(P.T.)」の議論において、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を見てきた。西原教授の各種指摘は、この環境中心の「日本語的発想」について、より深く理解するための補助線となるだろう。一部引用してみよう。

「日本語では、お互いに分かり合っていることは、暗黙の前提として了解済みであるとする。一方ドイツ語(英語も同じ)では、口にしないことは伝わらないという了解でいるから、伝えたいことはことばにしないと収まらないと考えるのである。」(『暗黙の了解前提の「高文脈」』」より)

『たとえば、いわゆる「やりもらい」の言語形式のことを考えてみよう。「与える」の意味で使われる「あげる、差し上げる、やる」「くれる、くださる」は誰が受け手かによって区別される二つの語彙グループであるが、グループ内のどの表現を選ぶかは、与え手、受け手の力関係にしたがって決められることになる』(「情緒を重視した「パトス」の言語」より)

「ものごとを決めようとする時、日本語社会では、トップダウンに提案されることも少ないし、提案をはさんで賛否両論を理論的なゲーム感覚で対立させて論じ合うことも少ない。(中略)日本語社会では、対立はなるべく避け、話し合いに参加する全員が納得したと思われる雰囲気を作り出すことに細心の注意が払われる。」(「結論より妥協点の話し合い」より)

『日本語の会話では、文末のメッセージがとても大切だといわれる。分の構成要素で言えば「ムード形式」に当たる部分がそれに当たる。日本語は「膠着語」(文法要素がニカワのようにくっついていくことによって拡大してゆくタイプの言語)に分類される言語なので、文の終わりに向かって色々と要素が付着されて文が完成する。』(『「言い切らない」が不可解に』より)

『日本語で感謝の表現と謝罪の表現が同じ言葉であり得ることに関して、特に取り上げて言及している言語学の研究もあるほど特徴的な表現なのである。感謝するために「すみません」というのは究極の内罰的態度である。』(「トラブル対処に内罰的傾向」より)

『「なく」を例に考えてみよう。日本語は、「ワーワー」「ギャアギャア」「シクシク」「ワンワン」「ニャーニャー」に動詞「なく」が付くが、英語のほうは、それぞれ異なった動詞になり、順に「cry」「scream」「weep」「bark」「meow」、「ニコニコ笑う」は「smile」、「クスクス笑う」は「chuckle」、「ハハハと笑う」は「laugh」にあたる。』(「オノマトペ多彩 表現豊か」より)

「私たちの行動は、所属する社会の文化的規範によって制約されていると言われている。人は成長する過程で、ことば遣いや立ち居振る舞いについて、何が適切な規範なのかを陰に陽に教えられ、矯正されて大人社会の仲間入りをするのである。」(「挨拶としてのお辞儀と握手」より)

 以上いくつか引用したが、全文は図書館などで実際の記事に当たって欲しい。これらの補助線についてはこれからも機会を見つけて論じていきたい。

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言葉について

2008年09月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 言葉についてはこれまでいろいろな角度から見てきた。少し整理してみよう。『現場のビジネス英語「Resource PlanningとProcess Technology」』の中では、

<1>『英語では、個々人はつねに事実と向き合って、事実の関するお互いの意見を述べ合うのに対して、日本語は、環境を優先し、質問者の意見に対して賛成・反対を表明すると書いた。これは、英語的発想が、思考の原点に自分という「主格」を置くのに対して、日本語的発想がそれを置かず、「環境」を主体にして思考するということでもあった。「Resource Planning vs. Process Technology」という対比と、「事実と向き合って意見を述べ合う態度 vs. 環境を優先して賛成・反対を表明する態度」という対比とを横に並べてみると、双方の前者と双方の後者とがそれぞれ重なり合うことに気付く。「Resource Planning =英語的発想」、「Process Technology=日本語的発想」という訳だ。』

と書いた。これは、「主客」を中心におくホームズ的発想=英語と、「環境」に主体をおくワトソン的発想=日本語の違いについて述べたものだ。「脳について」のなかでは、

<2>『人は言葉(含数字)によって世界を理解し、自ら思考し、また他人と意思を通じ合う。知覚システムと脳と言葉との関係はさらに興味深いテーマである。人はどのように言葉を獲得し、使いこなし、また逆にそれに縛られるのか。「日本人の脳に主語はいらない」月本洋著(講談社選書メチエ)によると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4ページ)という。』

と書いた。これは言葉と思考との関係についてである。さらに「建築について」の中で、

<3>『ところで、都市の建物の「社会性」とはどのようなものなのだろうか。日本の建物の社会性は、他の国々のそれとどう違うのか。日本おける居心地のよい広場とはどのような場所なのか。都市と自然とのバランスはどうなっているのか。それを考えるためには、単に建物の様式を比較したり来歴を調べるだけでは不充分で、「集団の時間」で述べたように都市が人々の脳の外化したものであってみれば、日本の都市と建物を語るには、日本語という「言葉」の本質に迫らなければならないと思う。』

と書いてきた。これは言葉と社会との関係についてである。さらに「Before the Flight」の中で「美」について、

<4>『「美」には大きく分けて二つの範疇があるようだ。二つは重なる部分も多いし、はっきりと分けることも難しいが、ひとつは、螺旋階段のように重力に逆らう運動に基づき、我々の気分を生き生きとさせてくれる感覚的な美しさであり、もう一つは、脳の中で構成される、過去の記憶に基づく郷愁的な美しさだ。』

と指摘した。この「過去の記憶に基づく郷愁的な美しさ」は主に言葉によって表現されるから、この部分も言葉に関する指摘である。

 纏めると、<1>は「主客」を中心におく英語と、「環境」に主体をおく日本語の違いについて。<2>は言葉と思考との関係について。<3>は言葉と社会との関係である。「主客」を中心におく英語と、「環境」に主体をおく日本語の違いが、どのように都市や社会の違いとして現れてくるのか。そして<4>は言葉とアートとの関係である。

 言葉は人の脳(t = 0)が操り生み出す記号である。それが人の身体(t = life)、脳の集積体であるところの都市(t = interest)、全ての生物や鉱物からなる自然(t = ∞)とそれぞれどう関わるのか、あるいは関わらないのか。言葉が本当の力を発揮すれば、社会はもっとバランスの取れたものに成るのではないか。論点を「並行読書法」の、

1. Art
2. History
3. Natural Science
4. Social Science
5. Geography

という分類法に当て嵌めてみると、

1. 言葉を使った作品(上の<4>、小説や詩、俳句や歌など)
2. 言葉の歴史(漢字、万葉仮名、ひらがな、カタカナなど)
3. 言葉と脳科学(上の<2>、身体運動意味論など)
4. 言葉と社会学(上の<3>、不変項としての言葉など)
5. 日本語と英語の違い(上の<1>、言語の特性など)

となる。言葉の問題は複雑かつ重要なので、これからもこの分類法に沿って多面的に考えていきたい。

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posted by 茂木賛 at 12:41 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

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