夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


心と脳と社会の関係

2009年04月21日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「メタファーについて」に引き続き、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)から、今回は「心と脳と社会の関係」について考えてみたい。

 月本氏は、子どもの言葉の発達、親の模倣などの観察から、脳における「自他分離」と、「仮想的身体運動」とが密接に相関しているということを指摘する。

(引用開始)

(前略)子どもが言葉を覚えるということは、親の言葉の使い方(用法)を模倣しながら、自分の仮想的身体運動を組織化していき、イメージを作っていくということであるといえる。(後略)

(引用終了)
<同書108ページ>

子どもは、身体運動のみの状態から、次第に模倣を通して身体運動の仮想化が出来るようになり、五歳くらいで自他分離が完成すると、イメージを仮想的身体運動によって作っていくことが出来るようになるという。

 月本氏は次に、人は他人の心をもこの「仮想的身体運動」によって理解していると述べる。

(引用開始)

 他人の心を理解するとは、他人の振る舞いや顔の表情から、自分の脳神経回路を使って他人の心を想像するということである。すなわち、他人の振る舞いの意味とは、他人の振る舞いを見ることにともなう想像(仮想的身体運動)である。(中略)前章では、言葉の理解は仮想的身体運動でなされると言ったが、他人の心の理解も仮想的身体運動でなされる。言い換えれば、言葉の意味は仮想的身体運動であるが、同様に、他人の振る舞いや顔の表情の意味も仮想的身体運動である。

(引用終了)
<同書118ページ>

 月本氏はさらに、心というものはこのような脳の働きであり、それは自己完結的なものではなく、複数の人間の間に作用する相互作用であるとする。氏は、物質間に重力が相互作用を及ぼしているように、人間には心が相互作用を及ぼしているという。

(引用開始)

 心も(重力と)同様に考えられないだろうか。複数の人間のあいだに作用する相互作用なのだから、それをどれか一つの人間の中に見つけようとすることはあまり意味のあることではないし、それが見えないからといって、存在しないと考えることも間違っているのではないだろうか。
(中略)
 自分というものは、そんなに秘密なものではない。自分は他人の模倣を通してしか作れないのであるから、その出発点からして社会的なのである。自分とは原理的に社会的なのである。社会的でない自己は、ある意味で壊れた自己である。それは自己として機能しないし、自分にとっても理解不可能な自己になる。
 私は、私とあなたに分かれた片割れである。それは、他人の視線、顔の表情、身体動作を模倣することで、神経回路を訓練することで、作られたものである。
(中略)
 重力がどこにあるのかといわれても、それは目でみることはできない。目で見えるのは、その重力によって変形を受けた二つの物体の内部の安定的な変形である。同様に、自己も心的相互作用によるわれわれの身体の変形として存在する。それは、一つの身体では「私」として、もう一つの身体には「あなた」として存在する。だから、自己の本質的な在り処は、自分の中にはないことになる。それは自分と他人の間にあるということである。

(引用終了)
<同書132−135ページ、括弧内は引用者による補足>

 いかがだろう。自分というものは自分の中にあるのではなく、自分と他人との間(社会)にあるとするこの考え方は、環境と知覚とが、運動を通して一体であるとするアフォーダンス理論と非常に近い考え方だと思われる。かくて、「身体運動意味論」は、言葉だけではなく、思考と社会そのものをアフォーダンス理論と結びつけるのである。

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メタファーについて

2009年04月14日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「身体運動意味論について」に引き続き、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)から、今回は「メタファー」について考えてみたい。

 メタファーとは、日本語で「比喩」とか「暗喩」とよばれる表現方法である。月本氏によると、人はメタファーを使うことで、抽象的な言葉をも「仮想的身体運動」として表現しているという。

(引用開始)

(前略)抽象的な表現は、現実的な物理世界に対応物がないので、われわれは仮想的身体運動ができない、すなわちイメージを作れない。このような直接的に身体運動ができない領域を抽象的領域という。抽象的な領域は、たとえば、文化、経済、政治、理論などである。抽象的領域のイメージは、メタファー表現を通して、具体的領域のイメージをつかって作られる。

(引用終了)
<同書70−71ページ>

 月本氏の分類によると、メタファーには大きく分けて二つのカテゴリーがある。一つは視覚、聴覚、嗅覚などの「知覚的メタファー」であり、もう一つは擬人、食物などの「非知覚メタファー」である。会話や文章で多用されるのは、容器や方向、運動や存在などの「空間メタファー」(「知覚メタファー」の一種)と「擬人メタファー」だという。「心が満たされない」、「地位が上がる」は、それぞれ容器、方向の空間メタファーであり、「台風が襲う」、「首尾一貫」などは擬人メタファーである。

 月本氏は、メタファーは経験の形式であるという。

(引用開始)

 メタファーの形式は経験の形式である。経験の形式とはわれわれ人間が世界をどう経験しているかの枠組みであり、意味のある経験はかならずその形式を持っているような形式のことである。言い換えれば、その形式から外れたような経験は、われわれにはできないような形式である。たとえば、容器のメタファーの形式は、われわれ人間が三次元物理世界の皮膚で区切られた容器であることに、その理解の基礎がある。

(引用終了)
<同書85ページ>

前回「身体運動意味論について」の最後に、

(引用開始)

言葉における身体運動意味論と、知覚システムにおけるアフォーダンス理論とは、「運動を通してこの世界を日々発見する」という点において、非常に近い考え方だと思われる。

(引用終了)

と書いたけれど、このメタファーこそ、言葉とアフォーダンスとを繋ぐ鍵なのである。人はメタファーを使うことで、抽象思考と身体運動とを結び付けているのである。

 月本氏はまた、メタファーの形式は論理形式そのものであるという。

(引用開始)

「私の心は満たされない」という容器のメタファーは、心を容器と見立てている。すなわち、心を容器の形式を通して認識して思考している。このように、メタファーの形式は、認識や思考の形式であるといえる。言い換えれば、われわれはメタファーの形式を用いて抽象的なことがらを認識し、思考する。(中略)空間のメタファーで表現するということは、空間の論理で表現するということである。同様に、擬人のメタファー形式を、擬人の論理もしくは主体の論理と呼ぼう。擬人のメタファーで表現するということは、擬人の論理もしくは主体の論理で表現するということである(後略)。

(引用終了)
<同書84−85ページ>

会話や文章で多用される「空間メタファー」は空間の論理であり、「擬人メタファー」は擬人の論理である。容器のメタファーは、閉じた曲線で区切られた空間の内と外という論理形式であり、擬人メタファーは、主体―対象―動作という論理形式である。

 「脳と身体」、「脳における自他認識と言語処理」などで引用した月本氏の、

(引用開始)

日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない。

(引用終了)
<同書235−236ページ>

という指摘は、日本語と英語における、空間メタファーと擬人メタファーの使用頻度を観察したものなのである。

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身体運動意味論について

2009年04月07日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「脳について」「言葉について」「脳における自他認識と言語処理」で引用してきた月本洋氏の「身体運動意味論」について、その内容を整理しておこう。

 まずはもう一度「日本人の脳に主語はいらない」月本洋著(講談社選書メチエ)からその部分を引用する。

(引用開始)

身体運動意味論は、極めて簡単にいうと、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」というものである。

(引用終了)
<同書4ページより>

 月本氏は、「言葉の意味を理解する」ということを二つに分けて考える。一つは、その言葉を聞いてイメージを作ることが出来る「想像可能性」であり、もう一つは、記号を形式的に処理することが出来る「記号操作可能性」である。「黄金の山」という場合は前者の例、「9次元空間」は後者の例だ。

 氏は、「記号操作可能性」は「想像可能性」に基づいているという。人は、言葉に慣れればイメージを伴わずに理解することが出来るが、初めはどうしてもイメージが必要であるというわけだ。その上で氏は、「想像」には身体が絡んでいるという。

(引用開始)

 一九九〇年代に入って、脳の非侵襲計測が使われるようになった。「非侵襲計測」という言葉をはじめて見る人が多いかと思う。簡単に説明すると、頭蓋骨を開けて脳に触れると脳に影響を与えてしまうが、そのような脳に対する影響(=侵襲)を与えずに行う脳の機能の計測のことである。

 この非侵襲計測によって、想像するときに活動する脳の部分と、実際に動かすときに活動する脳の部分は基本的に同じであるということが実験的に確認された。すなわち、想像するときにも、実際に身体を動かす脳の部分が動くのである。想像するときに脳の神経活動は、実際の身体運動の神経活動と基本的に同じだということである。身体を動かす脳神経回路が実際の身体運動をともなわずに活動することを、仮想的身体運動と呼ぶことにする。想像は仮想的な身体運動なのである。

(引用終了)
<同書28−30ページ)

この仮想的身体運動は、身体運動以外の想像においても当て嵌まる。

(引用開始)

「猫」という言葉を聞けば、私の頭の中に猫のイメージが浮かぶ。このような想像も仮想的身体運動といえるのであろうか。すなわち、どこかの身体が仮想的に動いているのであろうか。答えは「はい」である。猫のイメージを浮かべているときには眼球を仮想的に動かしているのである。

(引用終了)
<同書41ページ>

実際の運動と仮想的身体運動との違いは、末梢神経が動くか動かないか、筋肉からのフィードバック信号があるか無いかなのである。

 次に氏は、「言葉の意味を理解する」というときの「言葉の意味」について三つの意味論を提示する。

(引用開始)

1.言葉の意味とはその指示対象である(指示対象意味論)
2.言葉の意味とは、その心的イメージである。(イメージ意味論)
3.言葉の意味とはその用法である。(用法意味論)

(引用終了)
<同書49−50ページ>

身体運動意味論は、猫を見たときに活動する脳の部分と、猫を想像するときに活動する脳の部分が基本的に同じであるということだから、1.指示対象意味論と2.イメージ意味論の二つを統合する。言葉の意味は、さらに他人との対話を通して3.用法意味論へと繋がっていく。身体運動的意味は、用法的意味によって(他人との対話を通して)絶えず修正される。新しい言葉が社会に定着するかどうかは、皆がその新しい言葉のイメージを共有できるかどうかにあるわけだ。

(引用開始)

 実社会では、このような身体運動的意味と用法的意味の戦いが常に行なわれている。子どもの頃は、親の言葉の用法を真似して、イメージを作る努力をする。若者は新しい言葉を作る。それが、テレビ等のマスコミを通して、多くの人に伝えられる。その新語のいくつかは消えていき、いくつかは、定着して辞書に載るようになる。

(引用終了)
<62ページ>

身体運動意味論は、1.指示対象意味論と2.イメージ意味論を統合する一方で、3.用法意味論と常に拮抗関係にあるということが云える。

 以上内容を整理してきたが、「身体運動意味論」の重要性は、行動主義の得意とする刺激反射反応と、認知主義の得意とする記号処理とを、(脳と身体を一元的に見ることで)統合的に捉えることが出来るところにある。これは言葉というものを考えていく上で、とても大切な理論だと思う。身体運動意味論はまた、以前述べたアフォーダンス理論に近いという意味でも興味深い。

(引用開始)

 たとえば椅子とは何であろうか。あるものが椅子として意味を持つのは、椅子の材質とか色とかによるのではない。椅子の材質が木であろうが鉄であろうがプラスティックであろうが、通常は固体であればなんでもいい。色も同様である。赤であろうが茶色であろうが何でもよい。形も同様である。このように、材質、色、形等で椅子を定義することは出来ない。あるものが椅子かどうかは、ひとえにそのものが椅子として機能するかどうかにかかっており、椅子として機能するかどうかは人間の身体に関わっている。(中略)すなわちわれわれの身体が、あるものを椅子として現出させるのである。われわれの身体が、路傍の木の切り株を椅子として現出させるのである。

(引用終了)
<同書47−48ページ>

以前書いた「アフォーダンスについて」から引用しよう。

(引用開始)

 アフォーダンス理論では、我々の住むこの世界は、古典幾何学でいうような、直線や平面、立体でできているのではなくて、ミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)から出来ているとされる。そして我々は、自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚の五つ)によって、運動を通してこの世界を日々発見する。

(引用終了)

いかがだろう。言葉における身体運動意味論と、知覚システムにおけるアフォーダンス理論とは、「運動を通してこの世界を日々発見する」という点において、非常に近い考え方だと思われる。それが何を意味するかについては、別途項を改めて考えてみたい。

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脳における自他認識と言語処理

2009年02月24日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「脳について」「言葉について」「脳と身体」などで取り上げてきた、月本洋氏の「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)には、脳における自他認識と言語処理について興味深い仮説がある。

 氏はこの仮説から、「日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない」(同書235−236ページ)という現象を解き明かそうとされている。云うまでもなく、この現象は私の指摘する、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

と重なっている。氏の仮説について見ていこう。

 先ず氏は、いくつかの言語の比較から、「日本語は世界の言語の中で、母音を最もよく発音する言語である。これに対して英語は、母音の比重が小さい。」(同書2−3ページ)という特徴を示す。

 次に各種実験で、日本人が母音を左脳で聴くこと、イギリス人が母音を右脳で聴くことを検証する。なぜそうなるかについて、氏は「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4ページ)という「身体運動意味論」、心と脳と社会の関係、脳神経回路の学習による組織化プロセス、などから説明していく。

 次に、最新の脳科学の実験により、ひとは自分と他人の理解を右脳で処理していることを導く。

「従来の脳科学では、自己意識と言語が密接に関連していて分離できないという認識から、自己意識は言語野のある左脳にあるとしてきた。ところが最近の脳科学の実験は、自己意識は右脳にあるということを示している。」(113ページ)

 この指摘は重要だ。この発見から氏は、ひとの発話が母音を内的に「聴く」ことから始まることを踏まえ、人の言語野は左脳にあるから、母音を右脳で聴く英国人は、自他を識別する右脳を刺激しながら(左脳で)言葉を処理し、日本人は、自他を識別する右脳を刺激せずに(左脳で)言葉を処理することになる、と想定する。

 すなわち、自他を識別する右脳を刺激しながら(左脳で)言葉を処理する英国人は主体の論理が多くなり、自他を識別する右脳を刺激せずに(左脳で)言葉を処理する日本人は主体の論理が少ないことになる、という訳だ。

 尚氏は、日本語が世界の言語の中で、母音を最もよく発音する言語であること、日本語は主語や人称代名詞をあまり使用しない、という二点から、「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」(第5章)と仮定されているが、これは(氏も書かれているように)まだ検証が足りず、私の今までの考察(「日本語について」「視覚と聴覚」などで見た日本語に擬音語や擬態語が多いこと)からして、むしろ原因と結果を逆転させて「主語や人称代名詞を省略する日本文化は母音の比重が大きい」とした方が自然だと思われる。

 こう考えれば、一連の事象を、

I   日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい(文化的特徴)
II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III  日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV  日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

という循環運動(IVから再びIへ)として捉えることが出来る。こう捉えれば、日本人の脳と身体(日本社会における都市と自然)のバランスを考えていく上で、生産的な議論が可能になると思う。

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日本語について

2008年12月09日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「言葉について」のなかで、言葉に関する論点を

1. 言葉を使った作品(小説や詩、俳句や歌など)
2. 言葉の歴史(漢字、万葉仮名、ひらがな、カタカナなど)
3. 言葉と脳科学(身体運動意味論など)
4. 言葉と社会学(不変項としての言葉など)
5. 日本語と英語の違い(言語の特性など)

の五つに分類したけれど、5.の日本語と英語の違い(言語の特性など)に関連して、東京女子大学西原鈴子教授の「外から見た日本語」という新聞連載記事を紹介しよう。

 「外から見た日本語」は、7/2/08から9/3/08まで「東京新聞」に毎週(全10回)連載された。各週のタイトルは以下の通り。

1.  暗黙の了解前提の「高文脈」(7/2/08)
2.  情緒を重視した「パトス」の言語(7/9/08)
3.  結論より妥協点の話し合い(7/16/08)
4.  「言い切らない」が不可解に(7/23/08)
5.  親密になるほど沈黙長く(7/30/08)
6.  トラブル対処に内罰的傾向((8/6/08)
7.  構成逆にし高い評価の翻訳(8/13/08)
8.  外国人悩ませるカタカナ語(8/20/08)
9.  オノマトペ多彩 表現豊か(8/27/08)
10. 挨拶としてのお辞儀と握手(9/3/08)

日本語は、お互いに分かり合っていることを暗黙の前提とする「高文脈」であり、論理的な「ロゴス」ではなく情緒的な「パトス」の言語であること、意見を戦わせることよりも妥協点を探りあうこと、「膠着語」(文法要素がニカワのようにくっついてゆくことで拡大する言語)であること、親密になるほど沈黙が長くなり、トラブルの対処には内罰的(攻撃が自分自身に向けられている)であること、オノマトペ(擬音語や擬態語)が多いことなどについて、挿話ごとに例を挙げて分かりやすく解説してある。

 日本語と英語との違いについては、これまで「Resource Planning(R.P.)とProcess Technology(P.T.)」の議論において、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を見てきた。西原教授の各種指摘は、この環境中心の「日本語的発想」について、より深く理解するための補助線となるだろう。一部引用してみよう。

「日本語では、お互いに分かり合っていることは、暗黙の前提として了解済みであるとする。一方ドイツ語(英語も同じ)では、口にしないことは伝わらないという了解でいるから、伝えたいことはことばにしないと収まらないと考えるのである。」(『暗黙の了解前提の「高文脈」』」より)

『たとえば、いわゆる「やりもらい」の言語形式のことを考えてみよう。「与える」の意味で使われる「あげる、差し上げる、やる」「くれる、くださる」は誰が受け手かによって区別される二つの語彙グループであるが、グループ内のどの表現を選ぶかは、与え手、受け手の力関係にしたがって決められることになる』(「情緒を重視した「パトス」の言語」より)

「ものごとを決めようとする時、日本語社会では、トップダウンに提案されることも少ないし、提案をはさんで賛否両論を理論的なゲーム感覚で対立させて論じ合うことも少ない。(中略)日本語社会では、対立はなるべく避け、話し合いに参加する全員が納得したと思われる雰囲気を作り出すことに細心の注意が払われる。」(「結論より妥協点の話し合い」より)

『日本語の会話では、文末のメッセージがとても大切だといわれる。分の構成要素で言えば「ムード形式」に当たる部分がそれに当たる。日本語は「膠着語」(文法要素がニカワのようにくっついていくことによって拡大してゆくタイプの言語)に分類される言語なので、文の終わりに向かって色々と要素が付着されて文が完成する。』(『「言い切らない」が不可解に』より)

『日本語で感謝の表現と謝罪の表現が同じ言葉であり得ることに関して、特に取り上げて言及している言語学の研究もあるほど特徴的な表現なのである。感謝するために「すみません」というのは究極の内罰的態度である。』(「トラブル対処に内罰的傾向」より)

『「なく」を例に考えてみよう。日本語は、「ワーワー」「ギャアギャア」「シクシク」「ワンワン」「ニャーニャー」に動詞「なく」が付くが、英語のほうは、それぞれ異なった動詞になり、順に「cry」「scream」「weep」「bark」「meow」、「ニコニコ笑う」は「smile」、「クスクス笑う」は「chuckle」、「ハハハと笑う」は「laugh」にあたる。』(「オノマトペ多彩 表現豊か」より)

「私たちの行動は、所属する社会の文化的規範によって制約されていると言われている。人は成長する過程で、ことば遣いや立ち居振る舞いについて、何が適切な規範なのかを陰に陽に教えられ、矯正されて大人社会の仲間入りをするのである。」(「挨拶としてのお辞儀と握手」より)

 以上いくつか引用したが、全文は図書館などで実際の記事に当たって欲しい。これらの補助線についてはこれからも機会を見つけて論じていきたい。

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言葉について

2008年09月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 言葉についてはこれまでいろいろな角度から見てきた。少し整理してみよう。『現場のビジネス英語「Resource PlanningとProcess Technology」』の中では、

<1>『英語では、個々人はつねに事実と向き合って、事実の関するお互いの意見を述べ合うのに対して、日本語は、環境を優先し、質問者の意見に対して賛成・反対を表明すると書いた。これは、英語的発想が、思考の原点に自分という「主格」を置くのに対して、日本語的発想がそれを置かず、「環境」を主体にして思考するということでもあった。「Resource Planning vs. Process Technology」という対比と、「事実と向き合って意見を述べ合う態度 vs. 環境を優先して賛成・反対を表明する態度」という対比とを横に並べてみると、双方の前者と双方の後者とがそれぞれ重なり合うことに気付く。「Resource Planning =英語的発想」、「Process Technology=日本語的発想」という訳だ。』

と書いた。これは、「主客」を中心におくホームズ的発想=英語と、「環境」に主体をおくワトソン的発想=日本語の違いについて述べたものだ。「脳について」のなかでは、

<2>『人は言葉(含数字)によって世界を理解し、自ら思考し、また他人と意思を通じ合う。知覚システムと脳と言葉との関係はさらに興味深いテーマである。人はどのように言葉を獲得し、使いこなし、また逆にそれに縛られるのか。「日本人の脳に主語はいらない」月本洋著(講談社選書メチエ)によると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4ページ)という。』

と書いた。これは言葉と思考との関係についてである。さらに「建築について」の中で、

<3>『ところで、都市の建物の「社会性」とはどのようなものなのだろうか。日本の建物の社会性は、他の国々のそれとどう違うのか。日本おける居心地のよい広場とはどのような場所なのか。都市と自然とのバランスはどうなっているのか。それを考えるためには、単に建物の様式を比較したり来歴を調べるだけでは不充分で、「集団の時間」で述べたように都市が人々の脳の外化したものであってみれば、日本の都市と建物を語るには、日本語という「言葉」の本質に迫らなければならないと思う。』

と書いてきた。これは言葉と社会との関係についてである。さらに「Before the Flight」の中で「美」について、

<4>『「美」には大きく分けて二つの範疇があるようだ。二つは重なる部分も多いし、はっきりと分けることも難しいが、ひとつは、螺旋階段のように重力に逆らう運動に基づき、我々の気分を生き生きとさせてくれる感覚的な美しさであり、もう一つは、脳の中で構成される、過去の記憶に基づく郷愁的な美しさだ。』

と指摘した。この「過去の記憶に基づく郷愁的な美しさ」は主に言葉によって表現されるから、この部分も言葉に関する指摘である。

 纏めると、<1>は「主客」を中心におく英語と、「環境」に主体をおく日本語の違いについて。<2>は言葉と思考との関係について。<3>は言葉と社会との関係である。「主客」を中心におく英語と、「環境」に主体をおく日本語の違いが、どのように都市や社会の違いとして現れてくるのか。そして<4>は言葉とアートとの関係である。

 言葉は人の脳(t = 0)が操り生み出す記号である。それが人の身体(t = life)、脳の集積体であるところの都市(t = interest)、全ての生物や鉱物からなる自然(t = ∞)とそれぞれどう関わるのか、あるいは関わらないのか。言葉が本当の力を発揮すれば、社会はもっとバランスの取れたものに成るのではないか。論点を「並行読書法」の、

1. Art
2. History
3. Natural Science
4. Social Science
5. Geography

という分類法に当て嵌めてみると、

1. 言葉を使った作品(上の<4>、小説や詩、俳句や歌など)
2. 言葉の歴史(漢字、万葉仮名、ひらがな、カタカナなど)
3. 言葉と脳科学(上の<2>、身体運動意味論など)
4. 言葉と社会学(上の<3>、不変項としての言葉など)
5. 日本語と英語の違い(上の<1>、言語の特性など)

となる。言葉の問題は複雑かつ重要なので、これからもこの分類法に沿って多面的に考えていきたい。

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