夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


社交のための言葉

2014年03月04日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「足に靴を合わせる」の項で触れた「新しい家族の枠組み」の中に、「社交の復活」という項目(6番目)がある。

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

 これからの時代は、生活の様々なシーンで「社交」が大切になってくる筈だが、いまの日本語は、あまりそれに適していないと思われるところがある。「あれは単なる社交辞令さ」といえば悪口に決まっている。社交とは、優れて都会的な振舞いである。複眼主義の対比でいえば、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
α 都市の時間(t = interest)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
β 自然の時間(t = ∞)

におけるA、aの領域の話だ。だからいまの日本(語)人にはなかなか難しい。

 この面における近代日本語の欠陥について早くから自覚的だったのは、作家の丸谷才一氏だとおもう。氏はその著書『挨拶はたいへんだ』(朝日文庫)における野坂昭如氏との対談のなかで、社交的挨拶の難しさについて次のように述べている。

(引用開始)

野坂 そんなふうにいろいろな配慮が必要なのは、結局、村落共同体での挨拶とはちがふ、都市社会での挨拶の仕方を考へなければいけないからでせう。
丸谷 そのとほりですね。われわれが今、挨拶の問題で困っているのは、村落共同体的な社会から都市的な社会へ、移りかけてゐるし、あるいは移ってしまってゐる。ところが言葉の実態はそれに伴つてゐない。新しい型は出来てゐないし、古い型はとうに亡んでしまつた。つまり非常に困る。その困り方を痛感するから、ぼくの困り方を例に出すことで、みんなで考へようというのがこの本なんです。

(引用終了)
<同書 243ページ>

社交には、村落共同体的な馴れ合いではなく、自立した都会的な言葉が必要なのである。この『挨拶はたいへんだ』と『あいさつは一仕事』(朝日文庫)の2冊は、丸谷氏の各種挨拶文を纏めたユニークな本だ。氏が苦労して練り上げた日本語のスピーチが楽しめる。一読を勧めたい。

 『あいさつは一仕事』の中で、対談相手の和田誠氏は、丸谷流スピーチ術の心得を次の七つに纏めている。

その一「原稿を作って準備する」
その二「長すぎるのはだめ」
その三「余計な前置きを入れるな」
その四「引用は一つにせよ」
その五「おもしろい話を入れろ」
その六「ゴシップを有効に使え」
その七「悪口を言うなら対策を考えておけ」

 以前「現場のビジネス英語“sence of humor”」の項で、近代日本語は環境べったりで、自らの無知や誤解、思考の癖、不得意分野などに自覚的であるという「精神的自立の条件」に不十分であり、そのせいで日本人はユーモアのセンスに欠けているのではないかと指摘したけれど、社交に大切なものの一つは、このユーモアのセンスである。それは、その五「おもしろい話を入れろ」という心得と重なる。

 ビジネスでも挨拶は欠かせない。「新しい家族の枠組み」の時代、丸谷氏の本などを読みながら、自分の「社交のための言葉」を鍛えようではないか。

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新しい日本語

2013年09月03日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、これまでモノコト・シフト後の社会について、「新しい家族の枠組み」「新しい住宅」などの項でその特徴を探ってきたが、ここでは、前回の「会話と対話」の項を踏まえて、「新しい日本語」について考えてみたい。他にもあるだろうが、まず以下3点について述べる。

1.公(Public)の場で使う言葉の創造

カテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで書いてきたように、今の日本語は、前回見た二項対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

のうち、Aの領域における構文や語彙が不足していると思う。だから、普段使うBの領域の日本語はそのままにしておいて、公(Public)の場で使う言葉を、幾つか新しく作ってみてはどうだろうか。

 その一つは、存在としてのbeである。「XXはYYである」という等価のbe、説明のbeとは違ったかたちで、これを簡潔に表現できないものだろうか。

 もう一つは、環境に依存する人称名詞、私や僕、手前や俺、あなたや君、お前やきさまといった言葉を、非環境依存的に表現したいということである。たとえば数字ではどうだろう。自分は1。相手は2。第三者は3。自分の意見は「1の意見は」、相手の意見は「2の意見は」第三者の意見は「3の意見は」という具合だ。

2.初等教育の改革

 平田オリザ氏は、その著書“わかりあえないことから”(講談社現代新書)の中で、これからの初等教育では、「国語」という科目をやめて、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けるべきだと述べている。その部分を引用してみよう。

(引用開始)

 私は初等教育段階では、「国語」を完全に解体し、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けることを提唱してきた。
「表現」には、演劇、音楽、図工はもとより、国語の作文やスピーチ、現在は体育に押しやられているダンスなどを含める。(中略)
「ことば」科では、文法や発音・発声をきちんと教える。現在、日本は先進国の中で、ほとんど唯一、発音・発声をきちんと教えない国となっている。口の開き方や舌のポジションをしっかり教えていくことが、話し言葉の教育の基礎となる。
 初等教育の過程では、この「ことば」科の中に、英語や地域の実情に応じて、韓国語や中国語を入れていけばいい。そうすれば、子どもたちは日本語をもう少し相対的に眺めることができるようになるだろう。

(引用終了)
<同書 59−60ページ>

このような改革によって、子どもたちが「会話と対話」の両方をきちんと学ぶことが出来るようになれば素晴らしいと思う。

3.不思議な日本語の見直し

 今の日本語には不思議な表現が沢山ある。たとえば「入力」と「出力」。英語ではinputとoutputだが、これは何かを出し入れすることであって、「力」とは無関係だ。中国語では「輸入」と「輸出」というらしいが、そのほうが正しく、日本語のように「力」という言葉をつけると、forceが加わっているような誤解が生じる。「酸性とアルカリ性」、「酸化と還元」の両方に使われている「酸」という言葉も分かりにくい。酸性はacidityだからこれで良いが、酸化の場合はoxidizationなのだから、「酸素化」とした方が良いのではあるまいか。「入力」、「出力」、「酸化」のような不思議な日本語は、どんどん正しい言葉に直していくべきだ。

 勿論、日本語の改革は一朝一夕には行かないだろう。真摯な研究と広汎な議論が必要だ。以上はほんのたたき台に過ぎないが、他人任せにしておいて良い訳ではあるまい。これからもいろいろと考えてゆきたい。

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会話と対話

2013年08月27日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 “わかりあえないことから”平田オリザ著(講談社現代新書)という本を有意義に感じながら読んだ。このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」

という対比を掲げ、両者のバランスを大切にする生き方を「複眼主義」と呼んで推奨しているが、平田氏が指摘する、日本人における「対話」能力の必要性は、この考えと重なるように思う。どういうことか説明するために精神科医の斉藤環氏による書評を引用しよう。

(引用開始)

矛盾を抱えた「コミュ力」偏重

 著者の経歴は興味深い。10代で世界一周自転車旅行を決行して体験記を出版し、90年代には「静かな演劇」ブームを牽引したかと思えば、最近ではコミュニケーション論の専門家として名をなしている。
 いっけんばらばらに思われるその活動の軌跡も、本書を読めば、むしろ一貫したテーマの追求であったことが見えてくる。
 かつて旧守的な日本の演劇界に苛立っていた青年は、今わが国の国語教育の抱えた大問題に直面している。著者のいう「ダブルバインド」問題である。
 それは簡単に言えばこういうことだ。明治以降に急ごしらえで整備された国語教育は、タテマエとしては欧米型のコミュニケーションを教えようとしつつも、ホンネの部分では「和を乱さず」「空気を読」み、互いに察し合うような“コミュ力”を求めている。この矛盾を温存したまま、日本社会はどんどん“コミュ力”偏重社会になりつつある。
 私たちは今なお、わかりあえない他者を前提とした「対話」よりも、気心の知れた者どうしの「会話」ばかりを大切にしてはいないか。そのことが多くの子供たちに生きづらさをもたらしてはいないだろうか。
 著者はこうした状況を打開すべく、空気を読み合う「協調性」よりも、他者と交渉するための「社交性」の大切さを強調する。そこで必要となるのは、複数の役割を主体的に“演じ分ける”能力であるという。この指摘には膝を打った。
 震災以降、ばらばらになってしまった私たちの心は、そうなって初めて、対話に向けて開かれた。ここから先も、決して楽な道のりではない。せめて辛い時には、著者の口ぐせを真似てみよう。「みんなちがって、たいへんだ」と。

(引用終了)
<朝日新聞 4/21/2013(フリガナ省略)>

 平田氏による「会話」と「対話」の定義は、

「会話」:価値観や生活習慣などが近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

ということで、これをこのブログの対比と関連付ければ、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

となるだろう。平田氏が指摘するように、今の日本語に欠けているのは、公(Public)的な「対話」のための語彙なのだ。

 また、平田氏のいう「対話」と「社交性」の重視は、このブログで挙げているモノコト・シフト以降の「新しい家族の枠組み」の価値観、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

とも整合する。「対話」と「社交性」は、これから海外で飛躍しようとする起業家にとっても、欠かすことのできない能力である。

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再び存在のbeについて

2013年07月30日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 <言葉について>

 上野で“夏目漱石の美術世界”展を観た。漱石と東西絵画との繋がりを探る展覧会だが、なかでも近代日本語文学創始者の一人としての夏目漱石と、19世紀末のターナー、ウォーターハウス、ミレイらイギリス絵画との出会いが興味深かった。漱石がロンドンに暮らしたのは今から111年ほど前の1900年〜1902年のことだ。もう111年と云おうか、まだ111年と云おうか。

 その展覧会のカタログに、漱石の“我輩は猫である”という日本語の英訳があるのだが、それは“I am a cat”となっていた。以前「存在としてのbeについて」の項で、

(引用開始)

 ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、“I am a cat”という訳が多いようだ。“I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。

(引用終了)

と書き、電子書籍評論集“複眼主義 言語論”のなかで、その英訳を“The cat am I”ではどうか、と書いたが、今回の展示会のカタログではネット検索どおり“I am a cat”となっていた。

 英語のbe動詞には、基本的に(1)存在のbe、(2)等価のbe、(3)説明のbe、と三種類ある。たとえば、

(1) の例:I think, therefore, I am.
(2) の例:My name is Bond, James Bond.
(3) の例:She is so pretty.

(1) の訳:我思う、故に、我あり
(2) の訳:私の名前はボンド、ジェームス・ボンドである。
(3) の訳:彼女はとても可愛い。

といったところだ。

 近代日本語におけるbe動詞の基本形は、“何々は何々である”、もしくは“何々は+形容詞”という言い方になるわけだが、これでは(1)存在のbeだけはどうやっても表現できない。だから(1)だけは訳が古文のままなのだ(無理やり近代日本語にすれば「私は考える、だから私は存在する」という具合に<存在>という言葉を補って訳すしかない)。

 漱石の“我輩は猫である”というタイトルは、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが強いと思う。だから、(2)等価のbeや(3)説明のbeというよりも、まさに(1)存在のbeのような気がする。

 とすると、“I am a cat”ではあまりに(2)ないしは(3)に寄り過ぎた英訳で、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが出ていないと思う。“I am a cat”を逆に日本語に訳すと、“我輩は猫である”といった重い感じではなく“私は一匹の猫だ”くらいの(等価のbe、説明のbe的な)軽い感じになってしまうのだ。私ならば“The cat am I”とでもしたいと考えたのはこういうわけだ。

 あらためて「存在のbe」の重要性について考えてみたい。前回「アッパーグラウンド II」の項で、

(引用開始)

今の日本語はProcess Technologyには向いているが、Resource Planningには向いていない。英語は逆にResource Planningには向いているが、Process Technologyにはあまり向いていないというのが私の持論だ。勿論今の日本語を鍛えることはできる。

(引用終了)

と書いたけれど、近代日本語がProcess Technologyばかり得意で、Resource Planningに向いていない理由の一つは、この「存在のbe」をそのまま訳せない(日本語の語彙にない)ことにあると思う。

 「存在のbe」は、人が公(public)の場(domain)に自立して存在することを表す動詞だから、それが日本語の語彙に無いということは、極端に言えば、日本人は(民主政治や権利と義務が生じる)公の場には存在せず、(世間体や馴れ合いと苛めが生じる)私(private)空間にばかり住んでいるということになる。

 この存在のbeは、物事を俯瞰するResource Planningに必要な言葉である。この言葉をそのまま訳せないところに、夏目漱石たちが創始した(そして今我々が使っている)近代日本語の最大の欠陥があると思う。人が「存在」しないところに、民主政治も権利も義務もなにも「存在」し得ないのだから。

 話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。

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posted by 茂木賛 at 10:32 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

現在地にあなたはいない

2012年12月25日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 “日本語と英語”片岡義男著(NHK出版新書)によって、日本語の話を続けよう。この本には、先回引用した「いつのまにかそうなっている」という項を含め、全部で83項目の日本語と英語に関する挿話が載っている。先回引用した本カバー裏の紹介文にある、「風呂を取る(take a bath)」ものだと思っていた少年は、ずっと「風呂に入る」ということが分からなかった…という話は、前書きの「一枚にインデックスカードに値する」という項に書かれている。日本語は、「状態」や「環境」主体の言葉だから、日本人は「風呂」を場所に見立ててそこに「入る」わけだが、動詞で能動的に働きかける主格中心の英語では、人が「風呂を取る」と表現する。たしかに日本人は何にでも入りたがる。

(引用開始)

 風呂に入る以外に、日本語の人たちは、どこへ入るか。小学校に入る。会社に入る。保険に入る。家庭に入る。話に入る。仲間に入る。人の輪に入る。鬼籍に入る、という入りかたもある。「風呂を取る」などと言っていた子供が風呂に入ることを学んだのは、ずっとあとになってからのことだった。

(引用終了)
<同書 18ページ>

仲間に入りたがるから、日本人は仲間外れにされることを極端に怖がる。会社に入るから、「出る」ことに勇気がいるわけだ。このように、83項目の挿話のどれも面白いのだが、英語と日本語の違いを端的に表すのが“「現在地」にあなたはいない”という一番初めの挿話だ。引用してみよう。

(引用開始)

 駅の改札口を出て、確かにこちらだったと思いながら、南口の商店街のほうへ歩いていこうとすると、交番の向かい側、タクシー乗り場の端に、近所の案内地図の掲示板が立っているのを見つける。最近ではこのような掲示板は堅牢な構造物となっている場合が多い。駅を中心とした単なる地図が、透明な保護樹脂に守られて暇そうにしている。役に立たない地図だから暇なのだ。
 この近辺案内地図のまんなかあたり、少しだけ下の位置に、赤い色で塗りつぶした丸、三角、あるいは四角などの図形があり、その図形の上に黒い愛想のない文字で、「現在位置」と印刷してあるのを誰もが見る。「現在位置」とは不思議な言葉だが、誰もそんなことは思わない。「あなたが現在いる位置はここです」という意味が、現・在・位・置の、そしてこの順にならんだ、四つの漢字による言葉の内部に折りたたまれている。日本で標準的な教育を受けた人なら、そのくらいのことは言われるまでもなくわかる。「現在位置」という漢字の列をひと目見ただけで、その内部に折たたまれている意味が、誰にでもとっさに理解できる。(中略)
 近辺案内地図の「現在位置」あるいは「現在地」という日本語に該当する英語の言いかたは、You are Hereだ。案内地図をふと見た人は誰もが、ほとんど名ざしで、youと特定される。そのyouはhereつまり、「ここ」にあるのだ。youと名ざしされたその人の問題として、hereという地図上の一点が提示される。誰でもがyouであり得るけれど、案内地図のなかからyouと言われたなら、そのときそこで地図を見ているその人が、特定されている。このことに比べると、「現在位置」、あるいは「現在地」という日本語の言いかたは、状況の一般論だ。現在という漠然の極みのような状態のなかに、「位置」や「地」が、なぜだか知らないがそこにある。

(引用終了)
<同書 28−30ページ>

近辺案内地図における日本語の「現在地」という表示と、英語の「you are here」という表示の違いに、「状態」や「環境」を中心に考える日本語的発想と、「主格」を中心に考える英語的発想の違いとが端的に示されている。

 以前「言語技術」の項で、“英文法の謎を解く”副島隆彦著(ちくま新書)から、

(引用開始)

 日本文を英文(ヨーロッパ語の文)と比較して、ひとつの大きな特徴があることに気づく。日本文は、どんなに複雑に見えようとも「A=B」に還元できる言語である。「きのうは疲れた」でも、「みんなの願いは景気回復だ」でも「彼はダメだ」「彼女はうるさい」でも何でも、全て、この「A=B」の構成になっている。これを英文に直すと、それが何通りかの文構成になるのである。ここに日本語という言語の重大な秘密が隠されているのではないか。

(引用終了)
<同書52−53ページ>

という文章を引用したけれど、日本語には、「A=B」を表す等価としてのbe動詞はあるけれど、存在そのものを表すbe(存在詞)が不在である。「you are here」のare(be動詞)は、この存在詞なのであって、「A=B」を表す等価としてのbeではない。

日本語に「you are here」と云える言葉を創り出さない限り、日本人はいつまでも○○に入りたがり続けるだろう。この○○は、TPPでも、原子力ムラでもいいが、○○に入る(出る)というメンタリティに留まっている限り、手ごわい組織との交渉は、初めから負けるに決まっている。なぜならそこには、自立した個人(Iやyou)が不在なのだから。この先の片岡氏の文章を引用しよう。

(引用開始)

 「現在位置」、あるいは「現在地」は、案内地図の掲示板が立っているその位置を示しているだけだ。目的地までの道順を探そうとしてその案内板の前に立つ人がいれば、その人は案内板とほぼおなじ位置にいると言ってもいいだろう、という恐ろしいまでのyouの不在が、「現在位置」、あるいは「現在地」の背後にある。「あなたがいまいるのはここです」ときちんと日本語で表記した案内地図が、しかし、この日本にけっしてないわけではない、きっとどこかにある。

(引用終了)
<同書 30ページ>

ということでこの項は終わっている。「あなたがいまいるのはここです」ときちんと日本語で表記した案内地図。それは、はたして日本の何処かにあるだろうか。

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いつのまにかそうなっている

2012年12月18日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先回「日本語と社会の同質性」のなかで、日本語の環境依存性について触れたけれど、“日本語と英語”片岡義男著(NHK出版新書)にも、同じような指摘があるので紹介したい。まずは新聞の書評を引用する。

(引用開始)

片岡義男著『日本語と英語』 副題は「その違いを楽しむ」。英語と日本語の表現はどう違うのか?拾い上げた表現をインデックスカードに書き留めて両方の言葉と向き合ってきた著者が、具体的な例から論じる。「状態」を基本にする日本語表現と、動詞で能動的に働きかける英語。英語訳の日本古典文学に異なる世界観を読み解くなど、言葉を通して見た文化論でもある。
(NHK出版新書・735円)

(引用終了)
<朝日新聞 1028/2012>

ということで、ここでいう「状態」とは、「環境」とほぼ同義である。本のカバー裏の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

「風呂を取る(take a bath)」ものだと思っていた少年は、ずっと「風呂に入る」ということが分からなかった…主体の思考とアクション(動詞)に奉仕する言葉である英語。一方、世界をすでにでき上がっていてそこに入っていく「状態」として捉える日本語。その二つの言葉の間で、思考し、楽しみ、書き続けてきた作家が、きわめて日常的で平凡な用例をとおして、その根源的な際を浮き彫りにする異色の体験的日本語論/英語論。

(引用終了)

 この本に、「いつのまにかそうなっている」と題された項目がある。このブログでいう、日本人はなぜ人為的な環境・組織からの精神的自立が果たせないのかという話に繋がるので、少々長いが一部を引用してみたい。

(引用開始)

 主語は必要ない、という日常の言葉で、日本の人たちはその日常を生きる。自分は言葉で生きている、というような自覚などいっさい必要がないほどの日常だ。そしてそこは主語のない世界だ。言葉の構造によって言いあらされる内容のなかに、主語は内蔵される。したがってそれは暗黙の了解事項であり、いちいちおもてにあらわれる必要はないし、言葉の構造じたい、常に主語を明確に立てるようには出来ていない。
 主語がIやyouならそれらは主語にならないし、Iやyouの思考や行動を引き受けて言いあらわす動詞も、必要ないから姿をあらわさない。動詞が働きかける目的語その他、主語からの一連の構造的つながりはそこになく、そのかわりに、いつのまにかそうなっている状態、というものが言いあらわされる。英語では、なんらかの動詞によって、そうなっていきつつある動態として表現されるものが、日本語ではすでにそうなっている状態が、名詞で言いあらわされる。そうなっている状態とは、Iやyouによって思考され行動された結果のものではなく、いつのまにかそうなり、いまもそのとおりそこにある、その状態というものだ。(中略)
 なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在。思考が嫌いなのだろう。というよりも、それが出来ない。主語は隠れていることがほとんど常に可能だから、主語の主語たるゆえんである思考も隠れる、つまりそれは出来ないし嫌いだとなると、当然のこととして、思考に基づく行動も嫌いだろう。だから思考と行動の両方を放棄しても、日常の言葉を日常的に使って日常を営むには、いっさいなんの不自由もない。
 いつのまにかそうなっていて、いまもそうなったままの状態のなかに、人は入りたいと願う。いつのまにかそうなって、いまもそのままに、そこにある状態。人々はこれが大好きだ。だからそこに自分も入りたがる。いつのまにかそうなってそこにある状態とは、現状とその延長に他ならない。それが大好きでそこに入っていたいのだから、いまそこにあるその状態には、身をまかせるかのように従わざるを得ない。なんの疑問も抱くことなく、ほぼ自動的に従う。だから問題はなにも見えないし解決もされない。現状は悪化していくいっぽうだとしても。
 Youという呼びかけのひと言は、きわめてぜんたい的だ。youと呼ばれたその人のすべてがyouなのだ。youというひと言のなかに、そう呼ばれたその人のすべてがある。その人はyouと呼ばれることによって、すべてが丸出しのような状態になる。
 日本語の場合は呼びかけかたにいろいろある。そのときその場でその相手から必要とされる自分、という部分的な自分が、いろんな呼びかけかたのひとつひとつをとおして、呼びかけられる。それ以外の自分は隠れている。保護されている。自分は他者に対してほとんど常に、部分的な自分なのだ。Iについてもまったくおなじだ。Iがそうだから、youもそうなる。その時その場でその相手に必要とされる部分的な自分など、Iやyouにはあり得ない。(後略)

(引用終了)
<同書 101−104ページ>

いかがだろう。日本人はなぜ人為的な環境・組織からの精神的自立が果たせないのかというと、日本語が「なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在」の言語だからなのだ。日本人が、公的な領域で精神的自立を果たすためには、日本語のなかに、Iやyouとおなじような「ぜんたい的」な主格を表す言葉が必要なのだろう。

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“選手”という呼び方

2011年12月06日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本のモノづくり」の項で、日本のモノづくりの質が高いのは、日本語が母音語であることと、それに伴って起こる「自他認識」の希薄性が「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」を生み、それが自然や組織ばかりではなく機械などの無機的環境に対しても働くという「日本語の特質」に由るところが大きいと述べたけれど、この特質は一方において、「自分の属する組織を盲目的に守る力」ともなり、悪くすると機能組織が破綻していても「組織内の秩序を乱さないように努力する力」にまで墜することがある。

 日本語が母音語であることとそれに伴って起こる「自他認識」の希薄性のメカニズムについては、「母音言語と自他認識」の項を参照して欲しい。複雑だが興味深いプロセスだ。

 「相手にあわせる」「迷惑をかけない」「空気を読む」「派閥をつくる」「敬語の使用」「上座と下座」「先輩と後輩」「お辞儀」などといった「出来るだけ周囲に波風を立てないための気配り」は確かに日本独特のものである。以前「上座と下座」の項で、日本にはエレベーターの中にも上座と下座があるらしいと述べたけれど、我々は日常生活の上で常に周囲への気配りを強いられる。

 このことに関連して、先日、新聞のコラムに面白い話が載っていたので紹介しよう。

(引用開始)

後輩の呼び方

 たとえ無名の役者であっても「さん」付け、「君」付けで呼ぶことを心掛けている。呼び捨てにした相手が突然出世し、その時になって「さん」付けで呼ぶのは、ばつが悪いからだ。
 一つの仕事がキッカケで、スターになる芸能界。死体役のA君が、数年後、主役になっていることも珍しくない。
 こうした例は何もタレントだけじゃない。
 僕の放送作家の先輩は、駆け出しの作家を「おい、おまえ」と呼び、そこそこ売れてくると、「○○」と呼び捨てにする。そして、その作家が番組のチーフを担うくらい出世すると、「○○選手」と呼ぶようになる。
 なぜ「選手」なのか?明確な理由は本人に聞かないとわからないが、自分の威厳を保ちつつ、相手への尊敬の念を表すのに、きっとバランスが良い呼び方なのだろう。先輩にとって出世する後輩の扱いは難しい。
 先日、前人未到の三百セーブを達成した中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手は僕の大学の後輩だ。
 プロ野球選手になる前、都市対抗野球で東京に来た際、彼に寿司をおごったことがある。
 「気合入れて頑張れよ」
 先輩面して声を掛けた自分が今ではとても恥ずかしい。
 ちなみに日本を代表する大投手を、僕は何て呼ぶのか?
 「岩瀬選手」である。

(引用終了)
<東京新聞 9/14/2011>

コラムの著者は水野宗徳という放送作家さんで、業界の慣例を正直に面白く書いておられるが、みなさんの所属する組織や業界でも似たような話があるのではないだろうか。

 日本では、機能組織(ゲゼルシャフト)においても、「先輩と後輩」の関係が精神的に維持される。だから、後輩が先輩より偉くなると、組織的には序列が逆転するということで、両者に精神的葛藤が生まれる。とくに先輩の方にその葛藤は強いはずだ。“選手”という絶妙な呼び方が出現するのはそういう理由なのだろう。これも「出来るだけ周囲に波風を立てないための気配り」の典型的な表出形態なのである。しかしこのような「気配り」は、仕事の出来不出来とは関係がない。むしろこういった感情が地下に潜ると、不要ないじめの温床になりかねない。

 日本語の「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」は、一方で「日本のモノづくり」の素晴らしさを生むけれど、内向すると「出来るだけ周囲に波風を立てないための気配り」となり、それが地下に潜ると不要ないじめや仕事のサボタージュを生みかねない。「日本のモノづくり」の素晴らしさは、同時にこのような弊害も抱え込んでいることを頭に入れてにおいたほうが良いだろう。

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二重言語としての日本語

2011年06月14日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「音声言語と書字言語」の項において、

(引用開始)

西欧では、表音文字であるアルファベットが普及したから、その文化の中心に「音楽」があり、東洋では、表意文字である漢字が普及したから、その文化の中心に「書」がある、ということらしい。

(引用終了)

と書いた上で、声中心の言語を「音声言語」と呼び、書字中心の言語を「書字言語」と呼んだけれど、ここで日本の平仮名とカタカナを考えてみると、これはもともと漢字から作られたとはいえ一種の表音文字だから、日本語は、表意文字としての漢字と、表音文字としての平仮名・カタカナによる「二重言語」であることが分かる。

 この日本語の二重言語性について、石川九楊氏の“二重言語国家・日本”(NHKブックス)から引用したい。

(引用開始)

 現在の日本語は大まかに言って、漢字と女手(平仮名)、つまりは漢語と和語の「詞」を中核に、これに和語の「辞」を添えることによって成立している言語である。だが、この漢語は単なる中国語ではなく、また和語も単なる古孤島語(倭語)ではない。
 日本語における漢語とは、漢語の背後に和語が、また和語とは、和語の背後に漢語が貼りつき、複線化した語彙を指す。たとえば、地方によってどれほど発音が異なっても、中国語の「雨」は「雨」にすぎないが、日本語の一部である漢語の「雨」は「雨(ウ)」であると同時に「あめ」であり、和語の「あめ」は「あめ」であると同時に「雨(ウ)」であるという二重・複線の構造を持っている。
 中国語を輸入するにとどまらず、中国語に相当する和語を新たに創出する二重・複線化運動によって、日本語はつくりあげられた。和語は古来から存在した倭語というよりも、擬似中国時代に再編され、また新たに創り出されたのだ。

(引用終了)
<同書129ページより>

いかがだろう。日本語は、表音文字(平仮名・カタカナ)と表意文字(漢字)が組み合わさったものだが、ベースはあくまでも漢字(書字言語)だから、アルファベット(音声言語)のような音楽性は見られない。二重言語の詳細については、さらに本書をお読みいただきたい。

 これまでこのブログでは、言葉の「発音体感」と「筆蝕体感」とについて書いてきたけれど、これら言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきは、空気と紙媒体に対する身体運動(口腔や手の運動)のアフォーダンスである。母音語でありかつ二重言語である日本語において、この二つ(「発音体感」と「筆蝕体感」)は、特に深い意味があると思う。言葉に関するソシュールやパースなどの記号論は、ここからあとの話なのである。

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音声言語と書字言語

2011年06月07日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「対位法のことなど」の項で、石川九楊氏の“「書く」ということ”(文春新書)から、以下の文章を引用した。

(引用開始)

 東アジアは書字中心の言語であり、その文化の中心に書があり、対する西欧は声中心の言語であり、その文化の中心に音楽がある(後略)

(引用終了)
<同書122ページ>

 ここで、この二つについて、さらに石川九楊氏の“「書く」ということ”から引用したい。

(引用開始)

 無文字社会は音楽を、文字化社会は書を発展させる。なるほど西欧のアルファベットは、文字には違いないが、母音と子音とからなるその発音記号のごとき文字は、言葉における声や音への注意を促し、クラシック音楽やオペラ、バレエなどを文学の周辺に再組織し、音楽や舞踏を発展させてきた。
 これに対して、秦時代の脱神話文字「漢字」の成立によって、古代宗教文字の形式を残したまま政治文字=文字へと転生を遂げた東アジアの言語は、周囲の無文字の前音楽的言語を解体し、文字中心言語地帯として、音楽や舞踏の発展を妨げ、書を文学の周辺に組織し、発展させた。

(引用終了)
<同書39−40ページ>

西欧では、表音文字であるアルファベットが普及したから、その文化の中心に「音楽」があり、東洋では、表意文字である漢字が普及したから、その文化の中心に「書」がある、ということらしい。

 そもそも西欧で何故、東洋における「漢字」のような文字は生まれなかったかというと、エジプトの象形文字=古代宗教文字から脱神話文字が生まれる可能性はあったのだが、高度な政治的・思想的語彙と表現を持つギリシャ語(アルファベットの原形)が地域を席巻したからだという。石川氏はさらに同書の中で、

(引用開始)

 文化における真の世界基準(グローバルスタンダード)は、西欧アルファベット声文化と異なる東アジア書字文化を欠いては生まれえず、文(かきことば)をも含めた言語学の世界基準は東アジアの膨大な書字史を中心に据えて今後構築されていかねばならない。西欧古典音楽(クラシック)は、たとえば日本の声明や雅楽と同程度の一種の西欧地方音楽とは考えることはできず、やはり、音楽の世界基準と考えることができよう。同様に、東アジアの書は単に東アジア地方に咲いた特殊なカリグラフィと済ますことはできず、書字の世界基準の位置にあるのではないだろうか。

(引用終了)
<同書121ページ>

と書いておられる。言葉というものを、この二つ(音声と書字)の分類から見ていくと、いろいろと面白いことが見えてきそうだ。声中心の言語を「音声言語」と呼び、書字中心の言語を「書字言語」と呼んで、今後さらにこの二つについて考えてみたい。

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筆蝕体感

2011年05月31日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「発音体感」と「発音体感 II」の項で、日本語の母音と子音の発音体感について纏めておいた。発音体感とは、発音された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。ここで次に、言葉の「筆蝕体感」について書いてみたい。

 以前「対位法のことなど」の項で紹介した、“「書く」ということ”(文春新書)の著者で書家の石川九揚氏によると、筆蝕とは、紙と筆記用具の尖端との間に働く力のことを云う。同氏の“書に通ず”(新潮選書)から引用しよう。

(引用開始)

「かく」という行為は、手に刃物や農具や筆記具などの尖(とが)った道具を手にした人間が、土や木、石、金属、紙、なんだってよいのですが、それらの対象に対して働きかけてこれを変形する行為です。(中略)
「かく」という行為は、道具の尖端と対象とが接触し、対象からの反撥を抑(おさ)え込み、摩擦と抵抗を感じながらさまざまの力を加え、やがて対象から離脱するという三段階のプロセスを持っています。(中略)
 この対象と筆記用具の尖端との間に働く力を、ここでは「筆蝕(ひっしょく)」と呼ぶことにします。作者が対象から感じる触感や感触、その触感や感触がキャンバスに跡形として定着されたタッチという意味での「筆触」のみならず、一つの字画を書く「ひとかき」という意味でのストローク、さらに書くことは「引っ掻く」ことや「欠く」ことも背後に含んでいますから、「蝕(むしば)む」という文字を使って「筆蝕」と使うことにします。(中略)
「書く」ということは「筆蝕する」と言い換えることもできます。そして「筆蝕する」とは、思考する、考えることの別名でもあります。
 頭のなかでもやもや、ぼんやりした意識であったものが、書くことによって、眼前にさまざまな想念の像が少しずつ姿を現わし、言葉に転じていきます。書くということは、この想念の像を記録するだけでなく、その想念の像をつくりだす力でもあります。
 筆記具の尖端が紙(対象)に触れ、力をやりとりする現場である筆蝕はこの想念の像と言葉をつくり、それらをこわす場でもあります。(中略)
 筆蝕は思考する。書き手である作者が思考すると言うよりも、筆蝕が思考するのです。書くことなしに、作家や詩人の脳裏に小説や詩の言葉がくっきりと浮かんでいるなどということはありません。あくまで書くことを通じて、小説や詩は生まれてくるわけです。むろん実際に書いていない場合にも思考することはありえます。しかし書字(しょじ)を知った後のそれは、幻想、無自覚の中でペンを走らせているのだと考える方が正確です。

(引用終了)
<同書26−37ページ>

「筆蝕体感」とは、「発音体感」の対として私が考えた造語だが、書かれた文字の筆蝕によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)はたらきを示す。とくに漢字とひらがなを使用する日本語においては、筆蝕体感は思考において極めて重要な役割を果たしていると思う。

 筆蝕体感の例として、ひらがなの「も」という文字について、同じく石川氏の“逆耳の言”(TBSブリタニカ)から引用したい。

(引用開始)

「もう師走も半ば」という会話が交わされるようになった。「もう」の「も」や「師走も」の「も」にはこもごもの思いが盛り込まれているが、平仮名の中でも特異で孤立した書きぶりの文字が、「も」である。
「あ」「お」「ぬ」「め」「わ」など右回転で書かれる平仮名が多い中で、「も」の第一筆は左回転(逆回転)で書かれる。これが第一。「し」もまた左回転の文字だが、漢字「之」の崩しに生じたこともあって、縦に伸びる。漢字「毛」から生じた「も」は、少し斜めに倒れた放物線を描く。
 第二に、この第一筆の末尾が、上方にはね上げられる。「い(井・胃)」や「と(戸)」などを除けば、他の文字と連合してはじめて語を形成する平仮名は、下部の閉じたはね上げる書きぶりは少ない。
 第三に、次字との結合を求めて、最終筆は下部に至る平仮名が多い中で、「も」は、「か」「ひ」む」と並んで上部で書き終わる。
 第四。さらにこの終わりの位置が、前述の三字においてはいずれも右上方に来るのに対して、「も」は逆に左、中ほどにくる。
 そして第五。逆回転運動の第一筆の後、右下方から左上方へと第一筆を宙空で横切り、第二筆は反転して右回転で第一筆と交叉する。この動きを抽象化すると、正方形の四隅の右上から左下、左下から右下、さらに右下から左上、そして左上から右下という「文(あや)」の航路をたどる。
 第六に、「き」「ま」では短い横筆が二筆書かれ、これを後続の長い縦画が切断するが、「も」は逆に反復画が最後に来る。
 つまり、「も」は逆転に逆転を重ねた書きぶりを内に秘めた特異な文字である。否定と肯定、結合と分離、言語以前の意識のくぐもった、含みの多い語である日本語においては、「も」が重ねられる「もしも」の語の深みはただ事ではない。順接に順接を重ねるシュミレーションが横行し、「もしも」と問うことが少なくなったせいか、未来へ向けた理想や希望が描けないでいる。

(引用終了)
<同書74−75ページ>

いかがだろう。「も」と書いたときの複雑な「筆蝕体感」がご理解いただけただろうか。それにしても、「も」と書くときに、指先にこんな大事件が起こっているとは思いもしなかった。

 さてここで、「発音体感」と「筆蝕体感」とを併せて考えると、我々の思考は、まず音韻によってある意識と所作と情景が結ばれ、その後筆蝕によって新たな意識と所作と情景が加わるということなのであろうか。たとえば「も」という語は、発音体感によると、

<子音>「M」: 柔らかさの質、丸さ、母性、遅さ
<母音>「O」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。

ということで、「包み込むような柔らかさ」が伝わってくるわけだが、それが紙に書かれると、上述の筆蝕体感によって、さらに「逆転に逆転を重ねた複雑さ」が加わってくるという次第だ。なるほど「もも」という名前には、包み込むような優しさと、内に秘めた複雑な気性が感じられる。

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発音体感 II 

2011年04月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「発音体感」の項で、母音の発音体感について書いたので、ここで、子音(息を制御して出す音)の発音体感の属性についても、“怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか”黒川伊保子著(新潮新書)に沿ってまとめておこう。

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<清音>

「K」: 硬さ(最大)、強さ(清音中最大)、乾きの質(最大)
「T」: 硬さ(大/Kに準じる)、強さ(Kと同等)、湿度・粘性(最大)
「S」: 空気感、摩擦係数の低さ、適度な湿度感
「H」: 温感、適度なドライ感、空気感、早さ
「N」: 密着度(最大)、粘性(最大)、癒し
「M」: 柔らかさの質、丸さ、母性、遅さ
「R」: 弾性、理知的、リズム感、冷たさ
「P」: 気持ち良い破裂を伴う柔らかさ

<濁音>

「B、G、D、Z」: 清音の属性に、力強さ(膨張+放出+振動)が加わる

<その他>

「Y、W、V」: 直前のことばの音や、直後の母音の属性を演出(和らげたり拡散したり)する
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 意識や質感といったクオリア詳細、上記以外「C」「L」「F」などについてはさらに本書を参照して欲しいが、基本的には、これら子音の発音体感と、以前まとめた母音の発音体感、

「A」: 口腔前方を自然に開いた開放音。明るく自然で、あっけらかんとしている。存在を認める音、認識の始点。
「I」: 喉の奥から舌の中央部に向けて力が入り、まっすぐに意識対象に突き進む音。前向きで一途、尖った感じ。
「U」: 口腔内の小さな閉空間。痛みなどを受け止めて体内にキープする音。内向する感情や、内に秘めた潜在力を示す。
「E」: 口腔内に生じる平たい奥行き。平たい空間の広さ、遠さ、時の永遠をイメージさせる。遠慮やエレガントさを示す。おもねる感情なども示す。
「O」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。

との組み合わせによって、単語としての「発音体感」が得られるということになる。本書には、具体例として「のぞみ」や「ひかり」、「カゴメ」や「キリン」など、さまざまな商品のネーミング評価なども載っているので、マーケティングの手引書としてもお読みいただきけると思う。

 さて、「発音体感」とは、発声された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。とすれば、これは日本語だけでなく、ある程度世界共通のものなのかもしれない。黒川氏もこの本の中で、

(引用開始)

 ことばの音を、単に聴覚情報としてではなく、脳のすぐ近くで起こる物理現象として捉える。そう考えると、ことばの音が意外に大きな印象を脳に与えていることがおわかりになるのではないか。また物理現象として精査すれば、今日まで主観でしか語られなかったことばの感性(語感)を客観視できる。
 つまり、このことは、「ことばの音が意味に先んじて潜在脳を牛耳(ぎゅうじ)っていて、その感性には人類共通普遍の仕組みがある」という仮説を証明する手がかりになるのである。

(引用終了)
<同書48ページ>

と述べておられる。私のいたソニーという会社なども、アルファベットでは「SONY」ということで、さわやかな「S」、つつみこむ「O」、親密な「N」、突き進む「い」音を和らげる「Y」といった発音体感によって、世界の人々に「さわやかで包容力があり、親密で先進性があり、かつ親しみやすい」企業イメージを与えてきたのかもしれない。

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クワタの傑作

2011年04月11日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 桑田佳祐(クワタ)の傑作、といっても、この2月に発売されたアルバム“MUSICMAN”のことではない。その前のCDシングル“君にサヨナラを”に収録された、“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”のことである。

 以前「リズムと間」の項で、母音言語である日本語は、カナ一文字が音声認識単位であり、日本語の歌は主に「拍」と「間」によって構成される。それに対して、子音言語である英語は、子音から子音への一渡り(シラブル)が最小音声認識単位であり、英語の歌は主に「リズム(律動)」と「ビート(脈動)」によって構成される、と書いたことがある。

 この違いを前にして、日本人シンガー・ソングライターであるクワタは、母音言語たる日本語を、なんとか西洋風の「リズム」と「ビート」に乗せようと苦労してきた。松丸本舗の松岡正剛氏も、その著書“日本数寄”(ちくま学芸文庫)の中で、日本語を造形してきた歌の歴史の一例として、クワタの「愛の言霊(ことだま)」について論じている(同書109−114ページ)。

 その努力は、日本語を英語風に発音したり、途中に英語のフレーズを挿入したり、聞き違えをわざと活用したり、歌詞と発音を違(たが)えたりすることで、ある程度実を結んできたわけだが、“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”、特にそのなかの「みだれ髪」の部分において、クワタは、与謝野晶子の五つの短歌を、自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したと思われる。

 どういうことか。まずは歌われる五つの短歌を、CDの歌詞カードから引用する。

(引用開始)

やは肌の あつき血潮(ちしほ)に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
乳ぶさおさへ 神秘(しんぴ)のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅(くれなゐ)ぞ濃き
いとせめて もゆるがままに もえしめよ 斯くぞ覚ゆる 暮れて行く春
春みじかし 何に不滅(ふめつ)の いのちぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ
人の子の 恋をもとむる 唇に 毒ある蜜を われぬらむ願ひ

(引用終了)
<短歌五七五七七に沿って句を分割した>

 曲のこの部分は、イントロにお寺の鐘の音と虫の声があり、それに続いて美しいメロディーがスタートする。

 歌詞は日本語(母音言語)だから、始めは、メロディーの音符に対応して音(おん)がベタに乗るように唄われる。当然リズム感がなく、そのままいくと、どこかで日本的な「間」が必要になる展開を予感させるのだが、ここでクワタは天才的な解決を図る。それは、「短歌三十一文字を連続して読まない」という離れ業である。

 最初の短歌の終わり七文字“道を説く君”の部分を前の二十四文字から切り離し、次の急上昇するサビのメロディー・ラインに乗せて歌う。そのときクワタは得意の「日本語を英語風に発音する」という技を取り入れて、“Michiwotookkimii”という具合に歌うことで、曲にリズム感を回復させるのだ。

 メロディーの展開をあくまでも優先し、短歌31文字を一つの括りとして読まないことによって、さらには二番目の短歌が下降するメロディー・ラインとともに一気に歌われることによって、短歌そのものの意味が掴み辛いことは確かだ。しかし、この解決法によって、クワタは「みだれ髪」の歌詞を、自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したと思われる。

 二番目の短歌も、終わり七文字の部分“暮れて行く春”が、次の急上昇するメロディー・ラインに乗せて、“Kureteyuukhaluu”という具居合いに歌われる。そして次の短歌の始まりが「春みじかし」ということで、前の短歌との意味的なつながりも創り出され、さらに、ここには綺麗なハーモニーとストリングスが被さるので、リズム感のみならず、曲としても一気にクライマックスに達する。

 そして最後の短歌は、新しいサビのメロディーとともに、どちらかというと旧来の「日本語を英語風に発音する」方法によって、静かに語り下ろされる。

 曲を言葉で説明するのは難しい。皆さんも是非一度“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”を聴いてみて欲しい。私の言いたいことがお分かりいただけると思う。

 この至玉の小曲がMedley全体の中で一層際立つのは、前の騒々しい「人間失格」と、後ろのこれまた喧しいインド風の「蜘蛛の糸」とに挟まれている、という構成の妙もあるだろう。

 また、歌詞が短歌そのものであり、旧かな・文語体であることも幸いしたように思う。西洋風のメロディーとリズムには、旧かな・文語体の方が乗せやすいのかもしれない。Medley八番目の「一握の砂」は短歌ではないけれど、石川啄木の旧かな・文語体の詩(歌詞)が、カントリー風のメロディーとリズムに上手く乗っている。石川啄木の詩といえばどちらかというと短調に合いそうだが、長調にして明るく歌ったこともこの部分の成功に寄与していると思う。

 口語体の小説、特に「人間失格」や「蟹工船」、「我輩は猫である」などでは、さすがのクワタも苦労している。得意の「日本語を英語風に発音したり、途中に英語のフレーズを挿入したり、聞き違えをわざと活用したり、歌詞と発音を違(たが)えたり」といったテクニックを駆使して無理やり歌っているけれど、歌詞がリズムに上手く乗っているとは言いがたい。最後の「銀河鉄道の夜」の部分に至っては、メロディーやリズムに乗せることを放棄して、語り下ろしにしてしまった。

 それでも、私はこの“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”を「クワタの傑作」と評したい。その理由は、「みだれ髪」と「一握の砂」の部分で、(短くはあるが)日本語を自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したからである。このことは、松岡氏のいう「日本語を造形してきた歌の歴史の一例」としても、クワタの業績として(「愛の言霊」などと並び)後世に残るのではないだろうか。

 クワタにとって、この解決法は云わば「苦し紛れ」であったのかもしれない。あるいはそれほど意図的にやったのではないのかもしれない。一つの実験として気軽にやってみただけかもしれない。私が知らないだけで、他にもっと優れた事例があるかもしれない。その辺のところはいつかご自身に聞いてみたい気がする。

 いずれにしてもこの「実験」は、今年2月に発売されたアルバム“MUSICMAN”に確実に活かされている。「みだれ髪」の文語体は一部「古の風吹く杜」へ、「蜘蛛の糸」のストーリーと「一握の砂」のバイオリンは「銀河の星屑」へなどなど。

 クワタは、「みだれ髪」と「一握の砂」の成功で、日本語を上手く西洋風のメロディーに乗せることに、大きな手がかりを得たのではないだろうか。“MUSICMAN”では、上記2曲以外にも様々な形で日本語を西洋風のメロディーに乗せることに挑戦している。これからもクワタの仕事から目が話せない。

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発音体感

2011年03月15日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 東日本巨大地震が起こった。被災された方々に心よりお見舞い申しあげる。このブログでは、あえて平常心で記事を書いてゆくこととする。復旧作業や耐久生活の合間、一時一緒に「知」の飛行を楽しんでいただければと思う。

 これまで「日本語の力」「少数意見」「民族移動と言語との関係」「日本の生産技術の質が高い理由」などで紹介してきた“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)という本を、皆さんはすでにお読みになっただろうか。まだなら是非お読みいただきたい。母音を主体に音声認識する世界にも珍しい「日本語」という言葉のことがよく理解できると思う。

 今回はこの本と、同じ黒川氏の“怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか”(新潮新書)に沿って、母音の「発音体感」について纏めておきたい。「発音体感」とは、発声された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。

「あ」: 口腔前方を自然に開いた開放音。明るく自然で、あっけらかんとしている。存在を認める音、認識の始点。

「い」: 喉の奥から舌の中央部に向けて力が入り、まっすぐに意識対象に突き進む音。前向きで一途、尖った感じ。

「う」: 口腔内の小さな閉空間。痛みなどを受け止めて体内にキープする音。内向する感情や、内に秘めた潜在力を示す。

「え」: 口腔内に生じる平たい奥行き。平たい空間の広さ、遠さ、時の永遠をイメージさせる。遠慮やエレガントさを示す。おもねる感情なども示す。

「お」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。

 日本語は、以上の母音に子音の発音体感が加わって、言葉としての「発音体感」が得られる仕組みになっている。子音の発音体感とは、

「か行」: 硬さ最大。強さ(清音中)最大。乾き最大。緊張やスピードを示す。

「さ行」: 空気感があり、摩擦係数が小さく、適度な湿度感がある。

「た行」: 硬さ「か行」に準ずる。強さ「か行」と同等。湿度・粘性最大。

などなど。

 さて、以上を踏まえ、“日本語はなぜ美しいのか”にある以下のショート・ストーリーをお読みいただきたい。途中解説文を一部省略したところがあることをお断りしておく。

(引用開始)

 渋谷のセンター街で、深夜に、家にいるはずの妻の姿を見かけたら、誰でも「あっ」と驚いて立ち止まるだろう。
 このとき、身体は、脳天から吊られたような状態になって、余分な力がどこにも入っていない、完璧なニュートラル・バランスだ。

 夫婦関係が健全なら、夫は妻に近づいて声をかけようとするだろう。
 このとき、「あっ」で吊られたようになっている身体の呪縛をほどくには、ほっと力を抜くオと、前に出るイの組み合わせ「おい」が一番効く。

 しかし、妻の隣に若い男がいたら、夫は「えっ」とのけぞって、再び立ち止まるに違いない。
 エは、発音点が前方にありながら、舌を平たくして、下奥に引き込むようにして出す音だ。このため、「広々と遠大な距離感」を感じさせ、前へ出ようとしていたのに、何かのトラブルでのけぞる感覚に最もよく似合う。

 妻の隣にいたのが、最近とみに背が伸びた自分の息子だったら、夫は再び「おいおい」と言いながら、ふたりに近づくはずだ。この場合の「おい」は、ほどけるオの方にアクセントがある。妻を呼び止めようとした、最初の「おい(いに傍点)」とはニュアンスが違う。

 ほっとした思いも手伝って、「おまえたち、こんな時間にこんなところで、何、遊んでるんだ?」とちょっと偉そうに声をかけて、「あなたこそ、残業じゃなかったの?」と言い返されたら、出す声は、「うっ」しかない。受身で痛みに耐えるときのウである。

(引用終了)
<同書156-158ページより>

いかがだろう。母音の発音体感を巡る、なんとも秀逸なショート・ストーリーではないだろうか。母音を主体に音声認識する日本語の力は、日本人の気持ちを身体の奥から支えている。この力は、いま列島を襲った驚天の事態を乗り越える心の糧になる筈だ。皆さんも、これまで「あっ」「おい」「えっ」「おいおい」「うっ」などの母音を使った時の自分を思い起こし、明日の復興に向けたショート・ストーリーを作ってみていただきたい。きっと希望が胸に沸くことと思う。

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バイリンガルについて

2010年11月30日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日“日本語は敬語があって主語がない”金谷武洋著(光文社新書)という本を読んでいたら、歌手の宇多田ヒカルが、「作詞する際に、英語と日本語では気持ち的にどう違うか」という質問に(英語で)答えた文章が載っていた。周知のように宇多田さんはバイリンガルである。

(引用開始)

There were differences that came out naturally through the process of writing in a different language, obviously. (…) The nature of Japanese and English is just so different. Both have pros and cons, but I found that with English I could be more upfront, powerful, in a good way, which included things like humour and sexyness and playfulness and some poetic language that, in Japanese, might sound all too much like, a weirdness or too much goofiness. So there was a new freedom with English that really let me make new things that I don’t think I would come up otherwise.
(どちらの言葉を使うかによって、出てくるものが明らかに違いますね。自然にそうなるんです。日本語と英語って全然違うものだから。どっちにも長所と短所がありますけど、英語だったら、遠慮なくはっきり言えるし、パワフルな言葉遣いができるんですよ。もちろんいい意味でね。それはユーモアとかセクシィさとか遊び心、あるいは詩的な表現ができるってことにもなる。日本語で同じことを言ったら、ぜんぜん変で格好がつかなくて、とても使えないんですけどね。だから英語には自由がある。日本語だったら言えないことも大丈夫ですから)[訳:金谷]

(引用終了)
<同書179ページ>

尚、この本の著者金谷氏については、以前「日本語の力」の項でその著書“日本語は亡びない”(ちくま新書)を紹介したことがある。

 前回「騙されるな!」の項で、日本語的発想における「自他認識」の薄弱性について、

(引用開始)

 「自他認識」の薄弱性は、話し手と聞き手が一体化しやすく「環境や場を守る力」は強いのだが、話し手が環境や場に縛られすぎると、事の本質が見えなくなることがある。

(引用終了)

と書いたけれど、このことと、宇多田さんの云う「英語だったら、遠慮なくはっきり言えるし、パワフルな言葉遣いができるんですよ。(中略)日本語で同じことを言ったら、ぜんぜん変で格好がつかなくて、とても使えないんですけどね。だから英語には自由がある。」という発言とは、日本語(と英語)の特徴について、同じ見方をしていると思う。話し手が環境や場に縛られすぎると、遠慮なくはっきりものを言い難(にく)くなり、それが重なると、聞き手との間で次第に事の本質が見えなくなってしまう。

 バイリンガルであれば、このブログで見てきた、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比がよく実感できるのではないだろうか。「エッジ・エフェクト」の項で書いた通り、かく云う私も、小学生のときにニューヨークで暮らしたことがあり、その後も長くアメリカで暮らしてきたから、日本語と英語のバイリンガルである。

 バイリンガルはまた、「エッジ・エフェクト」や「パラダイム・シフト II」の項で紹介したところの“マージナル・マン”たる資格がある。マージナル・マンとは、

(引用開始)

 異質な諸社会集団のマージン(境域・限界)に立ち、既成のいかなる社会集団にも十分帰属していない人間。境界人、限界人、周辺人などと訳される。マージナル・マンの性格構造や精神構造、その置かれている状況や位置や文化を総称して、マージナリティーと呼ぶ。マージナル・マンの概念は、1920年代の終わり頃に、アメリカの社会学者バークが、ジンメルの<異邦人>の概念(潜在的な放浪者、自分の土地を持たぬ者)の示唆を受けて構築した。(中略)

 マージナル・マンは、自己の内にある文化的・社会的境界性を生かして、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して、ある種の距離を置くことが可能である。それゆえにマージナル・マンは、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっている。

(引用終わり)
<「部落問題・人権辞典ウェブ版」より>

といった人たちのことだ。

 全国のバイリンガルの諸君諸姉、ビジネスや学問、その他「公(public)」に関ることについて、環境や場の雰囲気に怯むことなく、「人生や現実に対して創造的に働きかけ」ていこうではないか。

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母音言語と自他認識

2010年11月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本の生産技術の質が高い理由」の項で、

(引用開始)

日本語が母音語であることと、それに伴って起こる、日本語的発想における「自他認識」の薄弱性

(引用終了)

と書いたけれど、このことについては、「脳における自他認識と言語処理」や「社会の力」の項で、以下の循環運動(IVから再びIへ)として説明した。

(引用開始)

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い(文化的特徴)

(1)言語野は左脳にある
(2)社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される

II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)

(3)脳の自他認識機能は右脳にある
(4)人は発話時に母音を内的に聴く
(5)日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない

III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)

IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

(引用終了)

 詳しくは「脳における自他認識と言語処理」や「社会の力」などの項を見て欲しいが、ここではすこし順番を変え、言葉をさらに補足しながら、この循環運動を説明してみよう。また仮説の域を出ないことも多いだろうが、興味深い理論だと思う。

1. 人の言語野は左脳にある
2. 子供ははじめ右脳経由で言葉を覚える
3. 習熟すると人は左脳(言語野)で言葉を処理するようになる
4. 人の脳の自他認識機能は右脳にある

5. 日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい
6. 英語は子音の比重が大きい

7. 人は発話時に母音を内的に聴く
8. 社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される
9. 母親と社会から日本語(母音語)を聴かされて育つと、母音に習熟し、発話時に母音を左脳で聴くようになる
10. 母親や社会から英語(子音語)を聴かされれて育つと、母音に習熟せず、発話時に母音を右脳で聴き続ける

11. 日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない
12. 欧米人は発話時に自他分離の右脳を刺激する

13. 日本語は容器(空間)の比喩が多く、擬人の比喩が少ない
14. 英語は擬人の比喩が多く、容器(空間)の比喩が少ない

15. 日本語は空間(環境や場)の論理が多く、主体の論理が少ない
16. 英語は主体の論理が多く、空間(環境や場)の論理が少ない

17. 日本語的発想は環境中心で、環境と一体化しやすい
18. 英語的発想は主格中心で、環境と一体化しにくい

19. 日本語に身体性が残り続け、母音の比重が大きくあり続ける
20. 英語は子音の比重が大きくあり続ける

 いかがだろう。複雑で分りにくいかもしれないが、この循環運動が理解できれば、日本語のいろいろな問題がよくわかるようになるのではないか。さらに詳しくは「言葉について」の各項、「脳における自他認識と言語処理」でも引用した“日本人の脳に主語はいらない”月本洋著(講談社選書メチエ)などを参照して欲しい。

 ところで「脳における自他認識と言語処理」の項では、月本洋氏の同書について、

(引用開始)

 尚氏は、日本語が世界の言語の中で、母音を最もよく発音する言語であること、日本語は主語や人称代名詞をあまり使用しない、という二点から、「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」(第5章)と仮定されているが、これは(氏も書かれているように)まだ検証が足りず、私の今までの考察(「日本語について」「視覚と聴覚」などで見た日本語に擬音語や擬態語が多いこと)からして、むしろ原因と結果を逆転させて「主語や人称代名詞を省略する日本文化は母音の比重が大きい」とした方が自然だと思われる。

(引用終了)

と書いたけれど、よく考えてみれば「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」ということと、「主語や人称代名詞を省略する日本文化は母音の比重が大きい」こととは、同じ現象を言い換えたに過ぎないだけかもしれない。いずれにしても、

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい(文化的特徴)
II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

という循環運動(IVから再びIへ)が大切であると思う。

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<お知らせ>

社団法人全国学校図書館協議会」から、私が編集協力させていただいた「21世紀を生きる学習者のための活動基準(シリーズ 学習者のエンパワーメント 第1巻)」と「学校図書館メディアプログラムのためのガイドライン(シリーズ 学習者のエンパワーメント 第2巻)」の二冊が発行されました。

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日本の生産技術の質が高い理由

2010年11月02日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「言葉について」の各項などで、日本語が母音語であることと、それに伴って起こる、日本語的発想における「自他認識」の薄弱性は、「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」(「日本人と身体性」)を生み、それがいい意味では「自然環境を守る力」(「日本語の力」)となるけれど、一方において「自分の属する組織を盲目的に守る力」(「迷惑とお互いさま」)ともなり、悪くすると「組織内の秩序を乱さないように努力する力」(「上座と下座」)にまで墜することを見てきた。

 「日本語の力」「少数意見」「民族移動と言語との関係」などで紹介してきた“日本語はなぜ美しいのか”(集英社新書)の著者黒川伊保子氏は、日本語における「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」は、自然や組織ばかりではなく、機械などの無機的環境に対しても働くと述べておられる。同書の「日本の生産技術の質が高い理由」という項より引用しよう。

(引用開始)

 融和癖が高じて、日本人は、たとえば工場の機械とも一体化する。
 ある日本の精密機器の生産管理者が、「光ファイバーの微細なコネクタを接着するとき、日本人の工員は、なにも言わなくても、有効範囲のど真ん中にくるように接着してくれる。欧米人は、平気で有効範囲ぎりぎりの接着をするので、どうしても現場の耐久性が日本製のほうが良いのです」と話してくれたことがある。
 欧米人の工員に注意すると、「有効範囲に入っているのに、注意される筋合いはない」と気にも留めてくれない。「たしかにそうだ、気持ちの問題なのだが、その気持ちを真ん中に集中してくれないか?」と言っても、相手は「言っていることの意味がわからない」と首をすくめるのだそうだ。
 逆に日本人の工員に「あなたは、なぜ、真ん中を狙うのか」と尋ねたら、「真ん中が気持ちいいから。これがずれると、気持ち悪い」と答えたのである。日本人なら、この発言に深くうなずかれることだろう。(中略)

 日本の工場の質の高さは、枚挙にいとまがない。
 あるメーカーでは、日本とベルギーにまったく同じ生産ラインを作って稼動させている。同じシステムに、同じマニュアル。なのに、不良品の発生率がまったく違うので、日本の生産管理のチームを派遣した。報告は次のようなものだったという。
「ベルギーの工場では、生産機械のアラームが鳴ってから、ラインを止める。日本の工場では、アラームが鳴る前に、工員が微かな異常に気づいてラインを止め、トラブルを未然に防いでいる。ベルギーの工場では、当然のようにアラームが鳴っていたが、日本の工場では、創設以来、機械のアラームなど鳴らしたことがない。
 現場の『あれ、おかしいな。いつもと違う』という気づきは、機械の音や動きなど一つ一つの属性に着目しても表出しない微細な差を総体イメージとして感じる、第六感の範疇なので、到底マニュアル化できない。ベルギーの工場に日本の工場と同じ質を期待するのは無理である」
 境界線を融和し、拡張できる日本人の特性、ここに極まれり、という話である。

(引用終了)
<同書175−177ページ>

 これまでこのブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比について様々な角度から見てきたが、日本人の生産技術の質の高さも、その根本に、環境中心の日本語的発想があるということなのだろう。

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民族移動と言語との関係

2010年10月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「赤筋と白筋」の項で、アフリカから長い旅をしてきた日本人は赤筋(ミトコンドリア系)が発達している、という安保教授の説を紹介したけれど、氏はさらに、日本語について、“かたよらない生き方 病気にならない免疫生活のススメ”(海竜社)のなかで、次のように書いておられる。

(引用開始)

 それは言葉にも表れています。主語・述語、目的語の言語体系は中国まできていますが、日本と韓国は、主語の次に目的語をもってきて、結論は後まわしにするような言語体系です。
 だから、民族の思想、東洋思想の謎も、アフリカからの移動とそれに対応してきた赤筋、白筋、その内容を決定してきた自律神経の働きに関係していると私は考えています。(中略)
 長い旅をしてきて、ミトコンドリア系の多い民族としてたどり着き、日本風土は温帯性気候で雨量が多くて、そう興奮しなくてもいいような環境だから、穏やかな気性や文化が育まれたのだと思います。四季の変化があり、それに合わせて冬の食べ物を用意したり、桜が咲いたら花を見て楽しんだり、メリハリをつけて自然に同調しながら生きてきたわけです。そういう文化から強引に自然を変えるという発想が出てこないのは当然でしょう。
 こういう生活文化なので、異質のものを「調和」したり、「均衡」をとったりする感性が培われてきたのです。

(引用終了)
<同書161−164ページ>

 日本人が「調和」を好むことは、以前「日本語の力」の項でも、金谷武博氏や黒川伊保子氏、長谷川櫂氏などの著書を引用しながら論じてきた。なかでも、黒川伊保子氏は、日本語が母音語であることに注目し、母音語の使い手は人や自然と融和する傾向があると指摘された。黒川氏の“日本語はなぜ美しいのか”(集英社新書)にはまた、民族移動と言葉との関係についても言及がある。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 さて、身体性から論じれば、自然発生音の母音の方が当然発音しやすいので、本来なら世界の主流が母音語であってもよいはずである。驚いたり、伸びをしたり、痛みを耐えたり、しみじみしたとき、自然に口をついて出る母音をコミュニケーションの中心に使う方が、音韻上は無理が無い。(中略)
 古代、大陸全体が豊かな緑におおわれていたアフリカが砂漠化し始めて、人類が北へと旅を始めた。砂漠や寒冷地のような過酷な環境と闘うようになると、大らかに口を開けていられないので、子音語化が始まる。
 機械のようなデジタル音である子音語は、論理的で合理的な意識をヒトの脳に与える。やがて、怒涛(どとう)のような科学の発達と、侵略の論理が世界の潮流になった。このようにして、人類は、何か大きな渦に巻き込まれていったのではないだろうか。
 環境は言語を作り、意識は人を作る。いったん言語を選択してしまうと、今度は、その言語の発音特性がヒトの意識を作り出す。意識はエスカレートしていき、やがて、止まらない潮流が人々を呑み込んでいくことになる。
 子音の選択こそが、ヨーロッパ世界の本当の失楽園に違いないと、私が考えるゆえんはここにある。しかし、そのとき、人類の発祥に地といわれる、アフリカの緑豊かな地を後にした人たちに、他にどんな選択肢があったのだろう。(中略)
 さて、その頃、豊かな自然に恵まれた日本列島は砂漠化もせず、太平洋の西端にぽつんと暮らしていた日本人には、この国を後にするような事情がなかった。砂嵐も知らず、凍る大地も知らず、民族移動の通り道にもならない日本人には、残念ながら、子音語を選択するチャンスがなかったのだ。完全に、世界の潮流には乗り遅れたまま、今に至っている。
 そう。なんと、私たちはいまだに、楽園の住人なのである。

(引用終了)
<同書180−182ページ>

 赤筋と白筋の発達と、母音語と子音語の発達とは時間軸上並列的な出来事ではないだろうけれど、両氏の指摘は、日本語の特質を考える上で興味深い。民族移動において日本列島がアフリカから遠く離れた極東の地にあり、なおかつ自然環境に恵まれていたことと、日本語が結論を後まわしにする構文構造であり母音語であることとは、歴史的に深く関連している気がするが、皆さんはいかがだろう。

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尚、本項に関連して、「反重力美学」のコメント欄も参照していただければと思う。

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posted by 茂木賛 at 07:09 | Permalink | Comment(2) | 言葉について

リズムと間

2010年06月29日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「対位法のことなど」の項で、「西欧社会は、互いに自己を主張しながら、全体として調和(ハーモニー)を醸す術に長けているのかもしれない」と書いたけれど、この場合の調和とは、社会という人為的な組織における、人同士のハーモニーであり、これは、「迷惑とお互いさま」で引用した海原純子氏がいうところの、西欧的「お互いさまの精神」による調和といえるだろう。

 一方、「日本語の力」で引用した、長谷川櫂氏のいう「さまざまな異質なものをなごやかに調和させる力」は、人為的な組織における人同士のハーモニーというよりも、人と自然との共生によって生ずる和であり、「迷惑とお互いさま」の項で書いたように、日本語の自然環境を守る力が人為的な組織に対しても同じように働いてしまうとすれば、この力は、「ハーモニーとは」の項で引用した石井宏氏がいう「各人が個性を犠牲にして、ユニゾンになるように努力した成果」としての和、すなわち、海原氏がいうところの日本的「迷惑をかけない精神」による和といえるのではないだろうか。

 この西欧的「お互いさまの精神による調和」と、日本的「迷惑をかけない精神による和」の違いの根本に、「子音を中心とした言語(子音語)」と、「母音を中心とする言語(母音語)」の違いが存在する。「日本語の力」や「少数意見」で紹介した“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)から、この二つについて引用しておこう。

(引用開始)

 つまり、ことばの音を、母音と子音に分類できるように、世界の言語は、母音骨格で音声認識する「母音語」族と、子音骨格で音声認識をする「子音語」族の二種類に分けられるのだ。

(引用終了)
<同書166ページ>

 さて今回はさらに、子音語と母音語の違いを、音楽の面から「リズム」と「間」という二つのキーワードによって見て行きたい。

 まず、“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)から、母音語におけることばの最小認識単位について引用する。

(引用開始)

 日本語では、ことばの音の最小認識単位は、カナ一文字にあたる。カキクケコKaKiKuKeKoのように子音一音+母音一音、あるいは単母音で構成されている。これら一音一音を成り立たせているのは、母音の存在感である。
 また、日本語のリズムは、一つの発音単位を一拍として、「タタタ、タタタタ、タタタタタ」のように、まるで手拍子のように几帳面に構成されている。俳句の五七五、短歌の五七五七七も、拍という発音単位があるからこそ生まれた文化だ。

(引用終了)
<同書164ページ>

 母音語である日本語は、カナ一文字が最小の音声認識単位であり、その発音単位を黒川氏は「拍」と呼ぶ。一方、子音語である英語におけることばの最小認識単位はどうか。同書からさらに引用する。

(引用開始)

 英語では、シラブルと呼ばれる子音から子音への一渡りが、最小の音声認識単位である。前にも書いたが、日本人がク・リ・ス・マ・スと五拍で認識するChristmasは、英語人はChrist+masの二シラブルで聴き取っている。

(引用終了)
<同書165ページ>

 子音語である英語は、シラブル(子音から子音への一渡り)が最小の音声認識単位である。

 音楽表現において、この「拍」と「シラブル」の違いはどう現れてくるのか。“西洋音楽から見たニッポン”石井宏著(PHP研究所)から、日本語の歌の特徴に関する記述を引用する。

(引用開始)

 日本の歌に規則的なリズムもなければビートもないのは、まず日本語という他に類例のない伸縮自在の言語に由来すると思われ、そこではビートよりも歌詞の意味が歌い方を支配し、歌詞の句切りが歌の区切りとなり、その句切りは休符というような一定の長さをもつものではなく、日本語で“間(ま)”と呼ぶようなものである。日本音楽にはもちろん、合奏もあり踊りの音楽もあるので、リズムをもつものもある。しかし、ソロにおいてきわめて重要なのはリズムではなくこの“間”である。

(引用終了)
<同書213ページ>

 カナ一文字が最小の音声認識単位であるところの日本語の歌は、「拍」と「間」によって構成される。それに対して、シラブル(子音から子音への一渡り)が最小の音声認識単位であるところの英語の歌は、シラブルを繋ぐものとしての「ビート(脈動)」や「リズム(律動)」によって構成されるということがわかる。

 石井氏は、“西洋音楽から見たニッポン”(PHP研究所)のなかで、さらに言葉の「粒子性」と「線性」について次のように考察されている。

(引用開始)

 サンスクリット系、つまりインド=ヨーロピアン語族の系統の言語では、一つのシラブルを単位とした粒子の連続のような発音が行われる。これに対してウラル・アルタイ語族の末端の国ニッポンでは、言葉はひとかたまり、ないしは一本の線のように発音され、西洋語にあるような発音における粒子性がない。

(引用終了)
<同書26ページ>

 西洋の音楽は、粒子の連続だから「ビート(脈動)」や「リズム(律動)」が重要であり、日本の音楽は、一本の線だから「拍」や「間」による抑揚が大切なのであろう。

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ハーモニーとは

2010年06月15日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 今回も、「迷惑とお互いさま」の項で述べた、日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」について考察を続けたい。

 尚、前回「少数意見」の項で、「健全な組織は、新しい息吹を吹き込む異物を自らの中に積極的に抱えていなければならない」と書いたけれど、旧弊化した組織が新しく生まれ変わるプロセスについては、以前「パラダイム・シフト」や「パラダイム・シフト II」で論じたので、参照していただければと思う。

 日本の社会について、以前“現場のビジネス英語「否定形の質問について」”の項で紹介した“西洋音楽から見たニッポン”(PHP研究所)の著者石井宏氏は、そのあとがきの中で次のように指摘しておられる。

(引用開始)

 たとえば、本文の中でも書いたように、仲良く協調するというのは日本人にとっては甚(はなは)だ重要な道徳だが、白人社会にあってはそれほどのことではない。むしろ、隣人とは無害であってくれればそれでいい、くらいにしか思っていない。
 個人、個性というものが発達した人間同士が、日本人の理想とするようなユニゾン(ひとつの音)の合唱になるはずがないのである。これに対して、白人たちは、ドとミとソで、“和音”ができる、すなわち、ハーモニーが生まれる、と考えるのである。ドも、ミも、ソも、それぞれ個性があるのだが、これら三つの音を同時に鳴らすと、不思議に溶け合った別の響きがして、ドでもミでもソでもない世界が生まれる。彼らはこれをハーモニーと呼ぶ。三つの音がお互いに自己を主張しているのに、彼らの目から見ると、立派に溶け合ったハーモニーなのである。
 これに対して、“全員一致”を理想とする日本人は全員がドになるのを“和(ハーモニー)”と考え、ミだとかソだとかを唱える人間を排除する。
 今から何十年も前に、『日本人とユダヤ人』という本を書いたイザヤ・ベンダサンは、ユダヤ人のあいだでは、満票ということは考えられないので、もしそんな結果が生じたら、その投票は無効になると言っている。つまり、個性ある人間たちが投票して満票になるとすれば、それは冗談の類としか考えられないからである。
 にもかかわらず、日本の社会では今でも「満場一致」は冗談ではなく美徳である。それは「各人が個性を犠牲にして、ユニゾンになるように努力した麗(うるわ)しい成果」だからである。ドレミファを全部調律し直して、ドばかりにしてしまったピアノを、日本人は素晴らしい楽器だと考えるのである。西洋人は、そんな楽器は信用しない。ドがあり、ミがあり、ソがあって、初めて音楽になるのだから。
 この「ドしか鳴らない楽器」は直ちに全体主義に結びつく思想でもある。「満場一致」は戦争中のスローガンの「挙国一致」と同じものである。「挙国一致」思想は特高警察を生み、雑音を出す連中をしょっ引いて、ドだけしか鳴らないようにしたのであった。

(引用終了)
<同書268−269ページ>

 いかがだろう。日本語における「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」が強いという特徴は、以前「言語技術」の項で述べた、

(引用開始)

日本語的発想では環境(空間)中心に物事を考えがちなので、環境を守る力は大きいけれど、主体的にものごとを決定していく力が弱いということなのである。サッカーで云えば、チームワークはよいのだが、シュートの決定力に欠けるということだろうか。

(引用終了)
<「言語技術」より>

という指摘と、表裏一体を成していると思われる。この問題は、「容器の比喩と擬人の比喩 II」の最後に書いた、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題と重なっている。

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少数意見

2010年06月08日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「迷惑とお互いさま」の項で述べた、日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」について、「日本語の力」の項で紹介した“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)にも同様な指摘があるので、以下、引用しつつコメントしてみたい。

(引用開始)

 先に述べたとおり、母音語(日本語)の使い手は、話し合っているうちに意識が融和してしまう。このため、合意はうやむやにして、境界線を譲り合うのが、実のところ、組織の美しいあり方である。
 なぜなら、母音語人に合議制を強要すると、妄信的でヒステリックな集団になってしまうことがあるからだ。
 意識が融和して、話し合っている他者を自我の一部に取り込んでしまうために、「この人は自分とは違う」ということをどうにも認められなくなってくるのである。このため、大勢ができ上がって、強い連帯感が形成されると、大勢に合意できない者を激しく排除してしまうことがある。民主主義の基本精神とはほど遠い、思想統制が勝手に働いてしまう国なのだ。
 合議制は、「他者は自分とは違う」と、目に見えて、そして身に染みて感じているアメリカのような国にこそふさわしい制度なのだと思う。

(引用終了)
<同書171−172ページ。括弧内は引用者による。>

 日本語における「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」は、組織内の少数意見を排斥する力となる。そこで少数意見の持ち主たちは、自分の属する組織から離脱するか、あるいは組織内に少数派閥を作ろうとするわけだ。

(引用開始)

 とはいえ、日本では、事実上多くの組織が、合議制のようなふりをしながら、陰では派閥の会合で境界線を探り合っている。功罪ともにあるが、まあ、いい落しどころなのじゃないだろうか。

(引用終了)
<同書172ページ>

 日本の多くの組織が派閥均衡型であることは良く知られている。組織内で揉め事があっても、派閥の長らが集まって「いい落しどころ」を見つければ、ほぼ全員がそれに従うという慣習については、みなさんも実感するところではないだろうか。すなわち「空気を読む」ということである。それでも従わない頑固者はどうなるか。

(引用開始)

 しかしながら、この国では、組織の少数派が、実に理不尽な吊るし上げや、激しい排除にさらされる危険性がある。男社会のシャープなキャリアウーマンや、進学校の夢見がちな少年、帰国子女、大阪のヤクルトファン、武士道に感激しないスポーツマン……誰かを激しく攻撃したくなったときには、一回だけ踏みとどまってみたほうがいいと思う。私たちは融和癖があり、この融和癖のせいで、思いもよらぬいじわるな思想統制を強いてしまうことがあるからだ。優しさが高じて残酷になるというのは、なんとも残念なことである。

(引用終了)
<同書172ページ>

 黒川氏のいう「誰かを激しく攻撃したくなったときには、一回だけ踏みとどまってみたほうがいい」というアドバイスはとても重要だと思う。以前「エッジ・エフェクト」の項で指摘したように、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して距離を置く境界人(マージナル・マン)は、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっており、組織が危機に陥ったときに再生の力を発揮する存在だからである。

 健全な組織は、新しい息吹を吹き込む異物を自らの中に積極的に抱えていなければならない。このことは、「流域思想 II」で述べた、「多様性の尊重」という考え方とも通ずるものだと思う。

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