夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


二重言語としての日本語

2011年06月14日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「音声言語と書字言語」の項において、

(引用開始)

西欧では、表音文字であるアルファベットが普及したから、その文化の中心に「音楽」があり、東洋では、表意文字である漢字が普及したから、その文化の中心に「書」がある、ということらしい。

(引用終了)

と書いた上で、声中心の言語を「音声言語」と呼び、書字中心の言語を「書字言語」と呼んだけれど、ここで日本の平仮名とカタカナを考えてみると、これはもともと漢字から作られたとはいえ一種の表音文字だから、日本語は、表意文字としての漢字と、表音文字としての平仮名・カタカナによる「二重言語」であることが分かる。

 この日本語の二重言語性について、石川九楊氏の“二重言語国家・日本”(NHKブックス)から引用したい。

(引用開始)

 現在の日本語は大まかに言って、漢字と女手(平仮名)、つまりは漢語と和語の「詞」を中核に、これに和語の「辞」を添えることによって成立している言語である。だが、この漢語は単なる中国語ではなく、また和語も単なる古孤島語(倭語)ではない。
 日本語における漢語とは、漢語の背後に和語が、また和語とは、和語の背後に漢語が貼りつき、複線化した語彙を指す。たとえば、地方によってどれほど発音が異なっても、中国語の「雨」は「雨」にすぎないが、日本語の一部である漢語の「雨」は「雨(ウ)」であると同時に「あめ」であり、和語の「あめ」は「あめ」であると同時に「雨(ウ)」であるという二重・複線の構造を持っている。
 中国語を輸入するにとどまらず、中国語に相当する和語を新たに創出する二重・複線化運動によって、日本語はつくりあげられた。和語は古来から存在した倭語というよりも、擬似中国時代に再編され、また新たに創り出されたのだ。

(引用終了)
<同書129ページより>

いかがだろう。日本語は、表音文字(平仮名・カタカナ)と表意文字(漢字)が組み合わさったものだが、ベースはあくまでも漢字(書字言語)だから、アルファベット(音声言語)のような音楽性は見られない。二重言語の詳細については、さらに本書をお読みいただきたい。

 これまでこのブログでは、言葉の「発音体感」と「筆蝕体感」とについて書いてきたけれど、これら言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきは、空気と紙媒体に対する身体運動(口腔や手の運動)のアフォーダンスである。母音語でありかつ二重言語である日本語において、この二つ(「発音体感」と「筆蝕体感」)は、特に深い意味があると思う。言葉に関するソシュールやパースなどの記号論は、ここからあとの話なのである。

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音声言語と書字言語

2011年06月07日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「対位法のことなど」の項で、石川九楊氏の“「書く」ということ”(文春新書)から、以下の文章を引用した。

(引用開始)

 東アジアは書字中心の言語であり、その文化の中心に書があり、対する西欧は声中心の言語であり、その文化の中心に音楽がある(後略)

(引用終了)
<同書122ページ>

 ここで、この二つについて、さらに石川九楊氏の“「書く」ということ”から引用したい。

(引用開始)

 無文字社会は音楽を、文字化社会は書を発展させる。なるほど西欧のアルファベットは、文字には違いないが、母音と子音とからなるその発音記号のごとき文字は、言葉における声や音への注意を促し、クラシック音楽やオペラ、バレエなどを文学の周辺に再組織し、音楽や舞踏を発展させてきた。
 これに対して、秦時代の脱神話文字「漢字」の成立によって、古代宗教文字の形式を残したまま政治文字=文字へと転生を遂げた東アジアの言語は、周囲の無文字の前音楽的言語を解体し、文字中心言語地帯として、音楽や舞踏の発展を妨げ、書を文学の周辺に組織し、発展させた。

(引用終了)
<同書39−40ページ>

西欧では、表音文字であるアルファベットが普及したから、その文化の中心に「音楽」があり、東洋では、表意文字である漢字が普及したから、その文化の中心に「書」がある、ということらしい。

 そもそも西欧で何故、東洋における「漢字」のような文字は生まれなかったかというと、エジプトの象形文字=古代宗教文字から脱神話文字が生まれる可能性はあったのだが、高度な政治的・思想的語彙と表現を持つギリシャ語(アルファベットの原形)が地域を席巻したからだという。石川氏はさらに同書の中で、

(引用開始)

 文化における真の世界基準(グローバルスタンダード)は、西欧アルファベット声文化と異なる東アジア書字文化を欠いては生まれえず、文(かきことば)をも含めた言語学の世界基準は東アジアの膨大な書字史を中心に据えて今後構築されていかねばならない。西欧古典音楽(クラシック)は、たとえば日本の声明や雅楽と同程度の一種の西欧地方音楽とは考えることはできず、やはり、音楽の世界基準と考えることができよう。同様に、東アジアの書は単に東アジア地方に咲いた特殊なカリグラフィと済ますことはできず、書字の世界基準の位置にあるのではないだろうか。

(引用終了)
<同書121ページ>

と書いておられる。言葉というものを、この二つ(音声と書字)の分類から見ていくと、いろいろと面白いことが見えてきそうだ。声中心の言語を「音声言語」と呼び、書字中心の言語を「書字言語」と呼んで、今後さらにこの二つについて考えてみたい。

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筆蝕体感

2011年05月31日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「発音体感」と「発音体感 II」の項で、日本語の母音と子音の発音体感について纏めておいた。発音体感とは、発音された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。ここで次に、言葉の「筆蝕体感」について書いてみたい。

 以前「対位法のことなど」の項で紹介した、“「書く」ということ”(文春新書)の著者で書家の石川九揚氏によると、筆蝕とは、紙と筆記用具の尖端との間に働く力のことを云う。同氏の“書に通ず”(新潮選書)から引用しよう。

(引用開始)

「かく」という行為は、手に刃物や農具や筆記具などの尖(とが)った道具を手にした人間が、土や木、石、金属、紙、なんだってよいのですが、それらの対象に対して働きかけてこれを変形する行為です。(中略)
「かく」という行為は、道具の尖端と対象とが接触し、対象からの反撥を抑(おさ)え込み、摩擦と抵抗を感じながらさまざまの力を加え、やがて対象から離脱するという三段階のプロセスを持っています。(中略)
 この対象と筆記用具の尖端との間に働く力を、ここでは「筆蝕(ひっしょく)」と呼ぶことにします。作者が対象から感じる触感や感触、その触感や感触がキャンバスに跡形として定着されたタッチという意味での「筆触」のみならず、一つの字画を書く「ひとかき」という意味でのストローク、さらに書くことは「引っ掻く」ことや「欠く」ことも背後に含んでいますから、「蝕(むしば)む」という文字を使って「筆蝕」と使うことにします。(中略)
「書く」ということは「筆蝕する」と言い換えることもできます。そして「筆蝕する」とは、思考する、考えることの別名でもあります。
 頭のなかでもやもや、ぼんやりした意識であったものが、書くことによって、眼前にさまざまな想念の像が少しずつ姿を現わし、言葉に転じていきます。書くということは、この想念の像を記録するだけでなく、その想念の像をつくりだす力でもあります。
 筆記具の尖端が紙(対象)に触れ、力をやりとりする現場である筆蝕はこの想念の像と言葉をつくり、それらをこわす場でもあります。(中略)
 筆蝕は思考する。書き手である作者が思考すると言うよりも、筆蝕が思考するのです。書くことなしに、作家や詩人の脳裏に小説や詩の言葉がくっきりと浮かんでいるなどということはありません。あくまで書くことを通じて、小説や詩は生まれてくるわけです。むろん実際に書いていない場合にも思考することはありえます。しかし書字(しょじ)を知った後のそれは、幻想、無自覚の中でペンを走らせているのだと考える方が正確です。

(引用終了)
<同書26−37ページ>

「筆蝕体感」とは、「発音体感」の対として私が考えた造語だが、書かれた文字の筆蝕によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)はたらきを示す。とくに漢字とひらがなを使用する日本語においては、筆蝕体感は思考において極めて重要な役割を果たしていると思う。

 筆蝕体感の例として、ひらがなの「も」という文字について、同じく石川氏の“逆耳の言”(TBSブリタニカ)から引用したい。

(引用開始)

「もう師走も半ば」という会話が交わされるようになった。「もう」の「も」や「師走も」の「も」にはこもごもの思いが盛り込まれているが、平仮名の中でも特異で孤立した書きぶりの文字が、「も」である。
「あ」「お」「ぬ」「め」「わ」など右回転で書かれる平仮名が多い中で、「も」の第一筆は左回転(逆回転)で書かれる。これが第一。「し」もまた左回転の文字だが、漢字「之」の崩しに生じたこともあって、縦に伸びる。漢字「毛」から生じた「も」は、少し斜めに倒れた放物線を描く。
 第二に、この第一筆の末尾が、上方にはね上げられる。「い(井・胃)」や「と(戸)」などを除けば、他の文字と連合してはじめて語を形成する平仮名は、下部の閉じたはね上げる書きぶりは少ない。
 第三に、次字との結合を求めて、最終筆は下部に至る平仮名が多い中で、「も」は、「か」「ひ」む」と並んで上部で書き終わる。
 第四。さらにこの終わりの位置が、前述の三字においてはいずれも右上方に来るのに対して、「も」は逆に左、中ほどにくる。
 そして第五。逆回転運動の第一筆の後、右下方から左上方へと第一筆を宙空で横切り、第二筆は反転して右回転で第一筆と交叉する。この動きを抽象化すると、正方形の四隅の右上から左下、左下から右下、さらに右下から左上、そして左上から右下という「文(あや)」の航路をたどる。
 第六に、「き」「ま」では短い横筆が二筆書かれ、これを後続の長い縦画が切断するが、「も」は逆に反復画が最後に来る。
 つまり、「も」は逆転に逆転を重ねた書きぶりを内に秘めた特異な文字である。否定と肯定、結合と分離、言語以前の意識のくぐもった、含みの多い語である日本語においては、「も」が重ねられる「もしも」の語の深みはただ事ではない。順接に順接を重ねるシュミレーションが横行し、「もしも」と問うことが少なくなったせいか、未来へ向けた理想や希望が描けないでいる。

(引用終了)
<同書74−75ページ>

いかがだろう。「も」と書いたときの複雑な「筆蝕体感」がご理解いただけただろうか。それにしても、「も」と書くときに、指先にこんな大事件が起こっているとは思いもしなかった。

 さてここで、「発音体感」と「筆蝕体感」とを併せて考えると、我々の思考は、まず音韻によってある意識と所作と情景が結ばれ、その後筆蝕によって新たな意識と所作と情景が加わるということなのであろうか。たとえば「も」という語は、発音体感によると、

<子音>「M」: 柔らかさの質、丸さ、母性、遅さ
<母音>「O」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。

ということで、「包み込むような柔らかさ」が伝わってくるわけだが、それが紙に書かれると、上述の筆蝕体感によって、さらに「逆転に逆転を重ねた複雑さ」が加わってくるという次第だ。なるほど「もも」という名前には、包み込むような優しさと、内に秘めた複雑な気性が感じられる。

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発音体感 II 

2011年04月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「発音体感」の項で、母音の発音体感について書いたので、ここで、子音(息を制御して出す音)の発音体感の属性についても、“怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか”黒川伊保子著(新潮新書)に沿ってまとめておこう。

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<清音>

「K」: 硬さ(最大)、強さ(清音中最大)、乾きの質(最大)
「T」: 硬さ(大/Kに準じる)、強さ(Kと同等)、湿度・粘性(最大)
「S」: 空気感、摩擦係数の低さ、適度な湿度感
「H」: 温感、適度なドライ感、空気感、早さ
「N」: 密着度(最大)、粘性(最大)、癒し
「M」: 柔らかさの質、丸さ、母性、遅さ
「R」: 弾性、理知的、リズム感、冷たさ
「P」: 気持ち良い破裂を伴う柔らかさ

<濁音>

「B、G、D、Z」: 清音の属性に、力強さ(膨張+放出+振動)が加わる

<その他>

「Y、W、V」: 直前のことばの音や、直後の母音の属性を演出(和らげたり拡散したり)する
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 意識や質感といったクオリア詳細、上記以外「C」「L」「F」などについてはさらに本書を参照して欲しいが、基本的には、これら子音の発音体感と、以前まとめた母音の発音体感、

「A」: 口腔前方を自然に開いた開放音。明るく自然で、あっけらかんとしている。存在を認める音、認識の始点。
「I」: 喉の奥から舌の中央部に向けて力が入り、まっすぐに意識対象に突き進む音。前向きで一途、尖った感じ。
「U」: 口腔内の小さな閉空間。痛みなどを受け止めて体内にキープする音。内向する感情や、内に秘めた潜在力を示す。
「E」: 口腔内に生じる平たい奥行き。平たい空間の広さ、遠さ、時の永遠をイメージさせる。遠慮やエレガントさを示す。おもねる感情なども示す。
「O」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。

との組み合わせによって、単語としての「発音体感」が得られるということになる。本書には、具体例として「のぞみ」や「ひかり」、「カゴメ」や「キリン」など、さまざまな商品のネーミング評価なども載っているので、マーケティングの手引書としてもお読みいただきけると思う。

 さて、「発音体感」とは、発声された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。とすれば、これは日本語だけでなく、ある程度世界共通のものなのかもしれない。黒川氏もこの本の中で、

(引用開始)

 ことばの音を、単に聴覚情報としてではなく、脳のすぐ近くで起こる物理現象として捉える。そう考えると、ことばの音が意外に大きな印象を脳に与えていることがおわかりになるのではないか。また物理現象として精査すれば、今日まで主観でしか語られなかったことばの感性(語感)を客観視できる。
 つまり、このことは、「ことばの音が意味に先んじて潜在脳を牛耳(ぎゅうじ)っていて、その感性には人類共通普遍の仕組みがある」という仮説を証明する手がかりになるのである。

(引用終了)
<同書48ページ>

と述べておられる。私のいたソニーという会社なども、アルファベットでは「SONY」ということで、さわやかな「S」、つつみこむ「O」、親密な「N」、突き進む「い」音を和らげる「Y」といった発音体感によって、世界の人々に「さわやかで包容力があり、親密で先進性があり、かつ親しみやすい」企業イメージを与えてきたのかもしれない。

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クワタの傑作

2011年04月11日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 桑田佳祐(クワタ)の傑作、といっても、この2月に発売されたアルバム“MUSICMAN”のことではない。その前のCDシングル“君にサヨナラを”に収録された、“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”のことである。

 以前「リズムと間」の項で、母音言語である日本語は、カナ一文字が音声認識単位であり、日本語の歌は主に「拍」と「間」によって構成される。それに対して、子音言語である英語は、子音から子音への一渡り(シラブル)が最小音声認識単位であり、英語の歌は主に「リズム(律動)」と「ビート(脈動)」によって構成される、と書いたことがある。

 この違いを前にして、日本人シンガー・ソングライターであるクワタは、母音言語たる日本語を、なんとか西洋風の「リズム」と「ビート」に乗せようと苦労してきた。松丸本舗の松岡正剛氏も、その著書“日本数寄”(ちくま学芸文庫)の中で、日本語を造形してきた歌の歴史の一例として、クワタの「愛の言霊(ことだま)」について論じている(同書109−114ページ)。

 その努力は、日本語を英語風に発音したり、途中に英語のフレーズを挿入したり、聞き違えをわざと活用したり、歌詞と発音を違(たが)えたりすることで、ある程度実を結んできたわけだが、“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”、特にそのなかの「みだれ髪」の部分において、クワタは、与謝野晶子の五つの短歌を、自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したと思われる。

 どういうことか。まずは歌われる五つの短歌を、CDの歌詞カードから引用する。

(引用開始)

やは肌の あつき血潮(ちしほ)に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
乳ぶさおさへ 神秘(しんぴ)のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅(くれなゐ)ぞ濃き
いとせめて もゆるがままに もえしめよ 斯くぞ覚ゆる 暮れて行く春
春みじかし 何に不滅(ふめつ)の いのちぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ
人の子の 恋をもとむる 唇に 毒ある蜜を われぬらむ願ひ

(引用終了)
<短歌五七五七七に沿って句を分割した>

 曲のこの部分は、イントロにお寺の鐘の音と虫の声があり、それに続いて美しいメロディーがスタートする。

 歌詞は日本語(母音言語)だから、始めは、メロディーの音符に対応して音(おん)がベタに乗るように唄われる。当然リズム感がなく、そのままいくと、どこかで日本的な「間」が必要になる展開を予感させるのだが、ここでクワタは天才的な解決を図る。それは、「短歌三十一文字を連続して読まない」という離れ業である。

 最初の短歌の終わり七文字“道を説く君”の部分を前の二十四文字から切り離し、次の急上昇するサビのメロディー・ラインに乗せて歌う。そのときクワタは得意の「日本語を英語風に発音する」という技を取り入れて、“Michiwotookkimii”という具合に歌うことで、曲にリズム感を回復させるのだ。

 メロディーの展開をあくまでも優先し、短歌31文字を一つの括りとして読まないことによって、さらには二番目の短歌が下降するメロディー・ラインとともに一気に歌われることによって、短歌そのものの意味が掴み辛いことは確かだ。しかし、この解決法によって、クワタは「みだれ髪」の歌詞を、自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したと思われる。

 二番目の短歌も、終わり七文字の部分“暮れて行く春”が、次の急上昇するメロディー・ラインに乗せて、“Kureteyuukhaluu”という具居合いに歌われる。そして次の短歌の始まりが「春みじかし」ということで、前の短歌との意味的なつながりも創り出され、さらに、ここには綺麗なハーモニーとストリングスが被さるので、リズム感のみならず、曲としても一気にクライマックスに達する。

 そして最後の短歌は、新しいサビのメロディーとともに、どちらかというと旧来の「日本語を英語風に発音する」方法によって、静かに語り下ろされる。

 曲を言葉で説明するのは難しい。皆さんも是非一度“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”を聴いてみて欲しい。私の言いたいことがお分かりいただけると思う。

 この至玉の小曲がMedley全体の中で一層際立つのは、前の騒々しい「人間失格」と、後ろのこれまた喧しいインド風の「蜘蛛の糸」とに挟まれている、という構成の妙もあるだろう。

 また、歌詞が短歌そのものであり、旧かな・文語体であることも幸いしたように思う。西洋風のメロディーとリズムには、旧かな・文語体の方が乗せやすいのかもしれない。Medley八番目の「一握の砂」は短歌ではないけれど、石川啄木の旧かな・文語体の詩(歌詞)が、カントリー風のメロディーとリズムに上手く乗っている。石川啄木の詩といえばどちらかというと短調に合いそうだが、長調にして明るく歌ったこともこの部分の成功に寄与していると思う。

 口語体の小説、特に「人間失格」や「蟹工船」、「我輩は猫である」などでは、さすがのクワタも苦労している。得意の「日本語を英語風に発音したり、途中に英語のフレーズを挿入したり、聞き違えをわざと活用したり、歌詞と発音を違(たが)えたり」といったテクニックを駆使して無理やり歌っているけれど、歌詞がリズムに上手く乗っているとは言いがたい。最後の「銀河鉄道の夜」の部分に至っては、メロディーやリズムに乗せることを放棄して、語り下ろしにしてしまった。

 それでも、私はこの“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”を「クワタの傑作」と評したい。その理由は、「みだれ髪」と「一握の砂」の部分で、(短くはあるが)日本語を自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したからである。このことは、松岡氏のいう「日本語を造形してきた歌の歴史の一例」としても、クワタの業績として(「愛の言霊」などと並び)後世に残るのではないだろうか。

 クワタにとって、この解決法は云わば「苦し紛れ」であったのかもしれない。あるいはそれほど意図的にやったのではないのかもしれない。一つの実験として気軽にやってみただけかもしれない。私が知らないだけで、他にもっと優れた事例があるかもしれない。その辺のところはいつかご自身に聞いてみたい気がする。

 いずれにしてもこの「実験」は、今年2月に発売されたアルバム“MUSICMAN”に確実に活かされている。「みだれ髪」の文語体は一部「古の風吹く杜」へ、「蜘蛛の糸」のストーリーと「一握の砂」のバイオリンは「銀河の星屑」へなどなど。

 クワタは、「みだれ髪」と「一握の砂」の成功で、日本語を上手く西洋風のメロディーに乗せることに、大きな手がかりを得たのではないだろうか。“MUSICMAN”では、上記2曲以外にも様々な形で日本語を西洋風のメロディーに乗せることに挑戦している。これからもクワタの仕事から目が話せない。

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発音体感

2011年03月15日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 東日本巨大地震が起こった。被災された方々に心よりお見舞い申しあげる。このブログでは、あえて平常心で記事を書いてゆくこととする。復旧作業や耐久生活の合間、一時一緒に「知」の飛行を楽しんでいただければと思う。

 これまで「日本語の力」「少数意見」「民族移動と言語との関係」「日本の生産技術の質が高い理由」などで紹介してきた“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)という本を、皆さんはすでにお読みになっただろうか。まだなら是非お読みいただきたい。母音を主体に音声認識する世界にも珍しい「日本語」という言葉のことがよく理解できると思う。

 今回はこの本と、同じ黒川氏の“怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか”(新潮新書)に沿って、母音の「発音体感」について纏めておきたい。「発音体感」とは、発声された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。

「あ」: 口腔前方を自然に開いた開放音。明るく自然で、あっけらかんとしている。存在を認める音、認識の始点。

「い」: 喉の奥から舌の中央部に向けて力が入り、まっすぐに意識対象に突き進む音。前向きで一途、尖った感じ。

「う」: 口腔内の小さな閉空間。痛みなどを受け止めて体内にキープする音。内向する感情や、内に秘めた潜在力を示す。

「え」: 口腔内に生じる平たい奥行き。平たい空間の広さ、遠さ、時の永遠をイメージさせる。遠慮やエレガントさを示す。おもねる感情なども示す。

「お」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。

 日本語は、以上の母音に子音の発音体感が加わって、言葉としての「発音体感」が得られる仕組みになっている。子音の発音体感とは、

「か行」: 硬さ最大。強さ(清音中)最大。乾き最大。緊張やスピードを示す。

「さ行」: 空気感があり、摩擦係数が小さく、適度な湿度感がある。

「た行」: 硬さ「か行」に準ずる。強さ「か行」と同等。湿度・粘性最大。

などなど。

 さて、以上を踏まえ、“日本語はなぜ美しいのか”にある以下のショート・ストーリーをお読みいただきたい。途中解説文を一部省略したところがあることをお断りしておく。

(引用開始)

 渋谷のセンター街で、深夜に、家にいるはずの妻の姿を見かけたら、誰でも「あっ」と驚いて立ち止まるだろう。
 このとき、身体は、脳天から吊られたような状態になって、余分な力がどこにも入っていない、完璧なニュートラル・バランスだ。

 夫婦関係が健全なら、夫は妻に近づいて声をかけようとするだろう。
 このとき、「あっ」で吊られたようになっている身体の呪縛をほどくには、ほっと力を抜くオと、前に出るイの組み合わせ「おい」が一番効く。

 しかし、妻の隣に若い男がいたら、夫は「えっ」とのけぞって、再び立ち止まるに違いない。
 エは、発音点が前方にありながら、舌を平たくして、下奥に引き込むようにして出す音だ。このため、「広々と遠大な距離感」を感じさせ、前へ出ようとしていたのに、何かのトラブルでのけぞる感覚に最もよく似合う。

 妻の隣にいたのが、最近とみに背が伸びた自分の息子だったら、夫は再び「おいおい」と言いながら、ふたりに近づくはずだ。この場合の「おい」は、ほどけるオの方にアクセントがある。妻を呼び止めようとした、最初の「おい(いに傍点)」とはニュアンスが違う。

 ほっとした思いも手伝って、「おまえたち、こんな時間にこんなところで、何、遊んでるんだ?」とちょっと偉そうに声をかけて、「あなたこそ、残業じゃなかったの?」と言い返されたら、出す声は、「うっ」しかない。受身で痛みに耐えるときのウである。

(引用終了)
<同書156-158ページより>

いかがだろう。母音の発音体感を巡る、なんとも秀逸なショート・ストーリーではないだろうか。母音を主体に音声認識する日本語の力は、日本人の気持ちを身体の奥から支えている。この力は、いま列島を襲った驚天の事態を乗り越える心の糧になる筈だ。皆さんも、これまで「あっ」「おい」「えっ」「おいおい」「うっ」などの母音を使った時の自分を思い起こし、明日の復興に向けたショート・ストーリーを作ってみていただきたい。きっと希望が胸に沸くことと思う。

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バイリンガルについて

2010年11月30日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日“日本語は敬語があって主語がない”金谷武洋著(光文社新書)という本を読んでいたら、歌手の宇多田ヒカルが、「作詞する際に、英語と日本語では気持ち的にどう違うか」という質問に(英語で)答えた文章が載っていた。周知のように宇多田さんはバイリンガルである。

(引用開始)

There were differences that came out naturally through the process of writing in a different language, obviously. (…) The nature of Japanese and English is just so different. Both have pros and cons, but I found that with English I could be more upfront, powerful, in a good way, which included things like humour and sexyness and playfulness and some poetic language that, in Japanese, might sound all too much like, a weirdness or too much goofiness. So there was a new freedom with English that really let me make new things that I don’t think I would come up otherwise.
(どちらの言葉を使うかによって、出てくるものが明らかに違いますね。自然にそうなるんです。日本語と英語って全然違うものだから。どっちにも長所と短所がありますけど、英語だったら、遠慮なくはっきり言えるし、パワフルな言葉遣いができるんですよ。もちろんいい意味でね。それはユーモアとかセクシィさとか遊び心、あるいは詩的な表現ができるってことにもなる。日本語で同じことを言ったら、ぜんぜん変で格好がつかなくて、とても使えないんですけどね。だから英語には自由がある。日本語だったら言えないことも大丈夫ですから)[訳:金谷]

(引用終了)
<同書179ページ>

尚、この本の著者金谷氏については、以前「日本語の力」の項でその著書“日本語は亡びない”(ちくま新書)を紹介したことがある。

 前回「騙されるな!」の項で、日本語的発想における「自他認識」の薄弱性について、

(引用開始)

 「自他認識」の薄弱性は、話し手と聞き手が一体化しやすく「環境や場を守る力」は強いのだが、話し手が環境や場に縛られすぎると、事の本質が見えなくなることがある。

(引用終了)

と書いたけれど、このことと、宇多田さんの云う「英語だったら、遠慮なくはっきり言えるし、パワフルな言葉遣いができるんですよ。(中略)日本語で同じことを言ったら、ぜんぜん変で格好がつかなくて、とても使えないんですけどね。だから英語には自由がある。」という発言とは、日本語(と英語)の特徴について、同じ見方をしていると思う。話し手が環境や場に縛られすぎると、遠慮なくはっきりものを言い難(にく)くなり、それが重なると、聞き手との間で次第に事の本質が見えなくなってしまう。

 バイリンガルであれば、このブログで見てきた、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比がよく実感できるのではないだろうか。「エッジ・エフェクト」の項で書いた通り、かく云う私も、小学生のときにニューヨークで暮らしたことがあり、その後も長くアメリカで暮らしてきたから、日本語と英語のバイリンガルである。

 バイリンガルはまた、「エッジ・エフェクト」や「パラダイム・シフト II」の項で紹介したところの“マージナル・マン”たる資格がある。マージナル・マンとは、

(引用開始)

 異質な諸社会集団のマージン(境域・限界)に立ち、既成のいかなる社会集団にも十分帰属していない人間。境界人、限界人、周辺人などと訳される。マージナル・マンの性格構造や精神構造、その置かれている状況や位置や文化を総称して、マージナリティーと呼ぶ。マージナル・マンの概念は、1920年代の終わり頃に、アメリカの社会学者バークが、ジンメルの<異邦人>の概念(潜在的な放浪者、自分の土地を持たぬ者)の示唆を受けて構築した。(中略)

 マージナル・マンは、自己の内にある文化的・社会的境界性を生かして、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して、ある種の距離を置くことが可能である。それゆえにマージナル・マンは、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっている。

(引用終わり)
<「部落問題・人権辞典ウェブ版」より>

といった人たちのことだ。

 全国のバイリンガルの諸君諸姉、ビジネスや学問、その他「公(public)」に関ることについて、環境や場の雰囲気に怯むことなく、「人生や現実に対して創造的に働きかけ」ていこうではないか。

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母音言語と自他認識

2010年11月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本の生産技術の質が高い理由」の項で、

(引用開始)

日本語が母音語であることと、それに伴って起こる、日本語的発想における「自他認識」の薄弱性

(引用終了)

と書いたけれど、このことについては、「脳における自他認識と言語処理」や「社会の力」の項で、以下の循環運動(IVから再びIへ)として説明した。

(引用開始)

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い(文化的特徴)

(1)言語野は左脳にある
(2)社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される

II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)

(3)脳の自他認識機能は右脳にある
(4)人は発話時に母音を内的に聴く
(5)日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない

III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)

IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

(引用終了)

 詳しくは「脳における自他認識と言語処理」や「社会の力」などの項を見て欲しいが、ここではすこし順番を変え、言葉をさらに補足しながら、この循環運動を説明してみよう。また仮説の域を出ないことも多いだろうが、興味深い理論だと思う。

1. 人の言語野は左脳にある
2. 子供ははじめ右脳経由で言葉を覚える
3. 習熟すると人は左脳(言語野)で言葉を処理するようになる
4. 人の脳の自他認識機能は右脳にある

5. 日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい
6. 英語は子音の比重が大きい

7. 人は発話時に母音を内的に聴く
8. 社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される
9. 母親と社会から日本語(母音語)を聴かされて育つと、母音に習熟し、発話時に母音を左脳で聴くようになる
10. 母親や社会から英語(子音語)を聴かされれて育つと、母音に習熟せず、発話時に母音を右脳で聴き続ける

11. 日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない
12. 欧米人は発話時に自他分離の右脳を刺激する

13. 日本語は容器(空間)の比喩が多く、擬人の比喩が少ない
14. 英語は擬人の比喩が多く、容器(空間)の比喩が少ない

15. 日本語は空間(環境や場)の論理が多く、主体の論理が少ない
16. 英語は主体の論理が多く、空間(環境や場)の論理が少ない

17. 日本語的発想は環境中心で、環境と一体化しやすい
18. 英語的発想は主格中心で、環境と一体化しにくい

19. 日本語に身体性が残り続け、母音の比重が大きくあり続ける
20. 英語は子音の比重が大きくあり続ける

 いかがだろう。複雑で分りにくいかもしれないが、この循環運動が理解できれば、日本語のいろいろな問題がよくわかるようになるのではないか。さらに詳しくは「言葉について」の各項、「脳における自他認識と言語処理」でも引用した“日本人の脳に主語はいらない”月本洋著(講談社選書メチエ)などを参照して欲しい。

 ところで「脳における自他認識と言語処理」の項では、月本洋氏の同書について、

(引用開始)

 尚氏は、日本語が世界の言語の中で、母音を最もよく発音する言語であること、日本語は主語や人称代名詞をあまり使用しない、という二点から、「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」(第5章)と仮定されているが、これは(氏も書かれているように)まだ検証が足りず、私の今までの考察(「日本語について」「視覚と聴覚」などで見た日本語に擬音語や擬態語が多いこと)からして、むしろ原因と結果を逆転させて「主語や人称代名詞を省略する日本文化は母音の比重が大きい」とした方が自然だと思われる。

(引用終了)

と書いたけれど、よく考えてみれば「母音の比重が大きい言語は主語や人称代名詞を省略しやすい」ということと、「主語や人称代名詞を省略する日本文化は母音の比重が大きい」こととは、同じ現象を言い換えたに過ぎないだけかもしれない。いずれにしても、

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい(文化的特徴)
II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

という循環運動(IVから再びIへ)が大切であると思う。

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<お知らせ>

社団法人全国学校図書館協議会」から、私が編集協力させていただいた「21世紀を生きる学習者のための活動基準(シリーズ 学習者のエンパワーメント 第1巻)」と「学校図書館メディアプログラムのためのガイドライン(シリーズ 学習者のエンパワーメント 第2巻)」の二冊が発行されました。

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日本の生産技術の質が高い理由

2010年11月02日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「言葉について」の各項などで、日本語が母音語であることと、それに伴って起こる、日本語的発想における「自他認識」の薄弱性は、「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」(「日本人と身体性」)を生み、それがいい意味では「自然環境を守る力」(「日本語の力」)となるけれど、一方において「自分の属する組織を盲目的に守る力」(「迷惑とお互いさま」)ともなり、悪くすると「組織内の秩序を乱さないように努力する力」(「上座と下座」)にまで墜することを見てきた。

 「日本語の力」「少数意見」「民族移動と言語との関係」などで紹介してきた“日本語はなぜ美しいのか”(集英社新書)の著者黒川伊保子氏は、日本語における「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」は、自然や組織ばかりではなく、機械などの無機的環境に対しても働くと述べておられる。同書の「日本の生産技術の質が高い理由」という項より引用しよう。

(引用開始)

 融和癖が高じて、日本人は、たとえば工場の機械とも一体化する。
 ある日本の精密機器の生産管理者が、「光ファイバーの微細なコネクタを接着するとき、日本人の工員は、なにも言わなくても、有効範囲のど真ん中にくるように接着してくれる。欧米人は、平気で有効範囲ぎりぎりの接着をするので、どうしても現場の耐久性が日本製のほうが良いのです」と話してくれたことがある。
 欧米人の工員に注意すると、「有効範囲に入っているのに、注意される筋合いはない」と気にも留めてくれない。「たしかにそうだ、気持ちの問題なのだが、その気持ちを真ん中に集中してくれないか?」と言っても、相手は「言っていることの意味がわからない」と首をすくめるのだそうだ。
 逆に日本人の工員に「あなたは、なぜ、真ん中を狙うのか」と尋ねたら、「真ん中が気持ちいいから。これがずれると、気持ち悪い」と答えたのである。日本人なら、この発言に深くうなずかれることだろう。(中略)

 日本の工場の質の高さは、枚挙にいとまがない。
 あるメーカーでは、日本とベルギーにまったく同じ生産ラインを作って稼動させている。同じシステムに、同じマニュアル。なのに、不良品の発生率がまったく違うので、日本の生産管理のチームを派遣した。報告は次のようなものだったという。
「ベルギーの工場では、生産機械のアラームが鳴ってから、ラインを止める。日本の工場では、アラームが鳴る前に、工員が微かな異常に気づいてラインを止め、トラブルを未然に防いでいる。ベルギーの工場では、当然のようにアラームが鳴っていたが、日本の工場では、創設以来、機械のアラームなど鳴らしたことがない。
 現場の『あれ、おかしいな。いつもと違う』という気づきは、機械の音や動きなど一つ一つの属性に着目しても表出しない微細な差を総体イメージとして感じる、第六感の範疇なので、到底マニュアル化できない。ベルギーの工場に日本の工場と同じ質を期待するのは無理である」
 境界線を融和し、拡張できる日本人の特性、ここに極まれり、という話である。

(引用終了)
<同書175−177ページ>

 これまでこのブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比について様々な角度から見てきたが、日本人の生産技術の質の高さも、その根本に、環境中心の日本語的発想があるということなのだろう。

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民族移動と言語との関係

2010年10月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「赤筋と白筋」の項で、アフリカから長い旅をしてきた日本人は赤筋(ミトコンドリア系)が発達している、という安保教授の説を紹介したけれど、氏はさらに、日本語について、“かたよらない生き方 病気にならない免疫生活のススメ”(海竜社)のなかで、次のように書いておられる。

(引用開始)

 それは言葉にも表れています。主語・述語、目的語の言語体系は中国まできていますが、日本と韓国は、主語の次に目的語をもってきて、結論は後まわしにするような言語体系です。
 だから、民族の思想、東洋思想の謎も、アフリカからの移動とそれに対応してきた赤筋、白筋、その内容を決定してきた自律神経の働きに関係していると私は考えています。(中略)
 長い旅をしてきて、ミトコンドリア系の多い民族としてたどり着き、日本風土は温帯性気候で雨量が多くて、そう興奮しなくてもいいような環境だから、穏やかな気性や文化が育まれたのだと思います。四季の変化があり、それに合わせて冬の食べ物を用意したり、桜が咲いたら花を見て楽しんだり、メリハリをつけて自然に同調しながら生きてきたわけです。そういう文化から強引に自然を変えるという発想が出てこないのは当然でしょう。
 こういう生活文化なので、異質のものを「調和」したり、「均衡」をとったりする感性が培われてきたのです。

(引用終了)
<同書161−164ページ>

 日本人が「調和」を好むことは、以前「日本語の力」の項でも、金谷武博氏や黒川伊保子氏、長谷川櫂氏などの著書を引用しながら論じてきた。なかでも、黒川伊保子氏は、日本語が母音語であることに注目し、母音語の使い手は人や自然と融和する傾向があると指摘された。黒川氏の“日本語はなぜ美しいのか”(集英社新書)にはまた、民族移動と言葉との関係についても言及がある。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 さて、身体性から論じれば、自然発生音の母音の方が当然発音しやすいので、本来なら世界の主流が母音語であってもよいはずである。驚いたり、伸びをしたり、痛みを耐えたり、しみじみしたとき、自然に口をついて出る母音をコミュニケーションの中心に使う方が、音韻上は無理が無い。(中略)
 古代、大陸全体が豊かな緑におおわれていたアフリカが砂漠化し始めて、人類が北へと旅を始めた。砂漠や寒冷地のような過酷な環境と闘うようになると、大らかに口を開けていられないので、子音語化が始まる。
 機械のようなデジタル音である子音語は、論理的で合理的な意識をヒトの脳に与える。やがて、怒涛(どとう)のような科学の発達と、侵略の論理が世界の潮流になった。このようにして、人類は、何か大きな渦に巻き込まれていったのではないだろうか。
 環境は言語を作り、意識は人を作る。いったん言語を選択してしまうと、今度は、その言語の発音特性がヒトの意識を作り出す。意識はエスカレートしていき、やがて、止まらない潮流が人々を呑み込んでいくことになる。
 子音の選択こそが、ヨーロッパ世界の本当の失楽園に違いないと、私が考えるゆえんはここにある。しかし、そのとき、人類の発祥に地といわれる、アフリカの緑豊かな地を後にした人たちに、他にどんな選択肢があったのだろう。(中略)
 さて、その頃、豊かな自然に恵まれた日本列島は砂漠化もせず、太平洋の西端にぽつんと暮らしていた日本人には、この国を後にするような事情がなかった。砂嵐も知らず、凍る大地も知らず、民族移動の通り道にもならない日本人には、残念ながら、子音語を選択するチャンスがなかったのだ。完全に、世界の潮流には乗り遅れたまま、今に至っている。
 そう。なんと、私たちはいまだに、楽園の住人なのである。

(引用終了)
<同書180−182ページ>

 赤筋と白筋の発達と、母音語と子音語の発達とは時間軸上並列的な出来事ではないだろうけれど、両氏の指摘は、日本語の特質を考える上で興味深い。民族移動において日本列島がアフリカから遠く離れた極東の地にあり、なおかつ自然環境に恵まれていたことと、日本語が結論を後まわしにする構文構造であり母音語であることとは、歴史的に深く関連している気がするが、皆さんはいかがだろう。

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尚、本項に関連して、「反重力美学」のコメント欄も参照していただければと思う。

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posted by 茂木賛 at 07:09 | Permalink | Comment(2) | 言葉について

リズムと間

2010年06月29日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「対位法のことなど」の項で、「西欧社会は、互いに自己を主張しながら、全体として調和(ハーモニー)を醸す術に長けているのかもしれない」と書いたけれど、この場合の調和とは、社会という人為的な組織における、人同士のハーモニーであり、これは、「迷惑とお互いさま」で引用した海原純子氏がいうところの、西欧的「お互いさまの精神」による調和といえるだろう。

 一方、「日本語の力」で引用した、長谷川櫂氏のいう「さまざまな異質なものをなごやかに調和させる力」は、人為的な組織における人同士のハーモニーというよりも、人と自然との共生によって生ずる和であり、「迷惑とお互いさま」の項で書いたように、日本語の自然環境を守る力が人為的な組織に対しても同じように働いてしまうとすれば、この力は、「ハーモニーとは」の項で引用した石井宏氏がいう「各人が個性を犠牲にして、ユニゾンになるように努力した成果」としての和、すなわち、海原氏がいうところの日本的「迷惑をかけない精神」による和といえるのではないだろうか。

 この西欧的「お互いさまの精神による調和」と、日本的「迷惑をかけない精神による和」の違いの根本に、「子音を中心とした言語(子音語)」と、「母音を中心とする言語(母音語)」の違いが存在する。「日本語の力」や「少数意見」で紹介した“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)から、この二つについて引用しておこう。

(引用開始)

 つまり、ことばの音を、母音と子音に分類できるように、世界の言語は、母音骨格で音声認識する「母音語」族と、子音骨格で音声認識をする「子音語」族の二種類に分けられるのだ。

(引用終了)
<同書166ページ>

 さて今回はさらに、子音語と母音語の違いを、音楽の面から「リズム」と「間」という二つのキーワードによって見て行きたい。

 まず、“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)から、母音語におけることばの最小認識単位について引用する。

(引用開始)

 日本語では、ことばの音の最小認識単位は、カナ一文字にあたる。カキクケコKaKiKuKeKoのように子音一音+母音一音、あるいは単母音で構成されている。これら一音一音を成り立たせているのは、母音の存在感である。
 また、日本語のリズムは、一つの発音単位を一拍として、「タタタ、タタタタ、タタタタタ」のように、まるで手拍子のように几帳面に構成されている。俳句の五七五、短歌の五七五七七も、拍という発音単位があるからこそ生まれた文化だ。

(引用終了)
<同書164ページ>

 母音語である日本語は、カナ一文字が最小の音声認識単位であり、その発音単位を黒川氏は「拍」と呼ぶ。一方、子音語である英語におけることばの最小認識単位はどうか。同書からさらに引用する。

(引用開始)

 英語では、シラブルと呼ばれる子音から子音への一渡りが、最小の音声認識単位である。前にも書いたが、日本人がク・リ・ス・マ・スと五拍で認識するChristmasは、英語人はChrist+masの二シラブルで聴き取っている。

(引用終了)
<同書165ページ>

 子音語である英語は、シラブル(子音から子音への一渡り)が最小の音声認識単位である。

 音楽表現において、この「拍」と「シラブル」の違いはどう現れてくるのか。“西洋音楽から見たニッポン”石井宏著(PHP研究所)から、日本語の歌の特徴に関する記述を引用する。

(引用開始)

 日本の歌に規則的なリズムもなければビートもないのは、まず日本語という他に類例のない伸縮自在の言語に由来すると思われ、そこではビートよりも歌詞の意味が歌い方を支配し、歌詞の句切りが歌の区切りとなり、その句切りは休符というような一定の長さをもつものではなく、日本語で“間(ま)”と呼ぶようなものである。日本音楽にはもちろん、合奏もあり踊りの音楽もあるので、リズムをもつものもある。しかし、ソロにおいてきわめて重要なのはリズムではなくこの“間”である。

(引用終了)
<同書213ページ>

 カナ一文字が最小の音声認識単位であるところの日本語の歌は、「拍」と「間」によって構成される。それに対して、シラブル(子音から子音への一渡り)が最小の音声認識単位であるところの英語の歌は、シラブルを繋ぐものとしての「ビート(脈動)」や「リズム(律動)」によって構成されるということがわかる。

 石井氏は、“西洋音楽から見たニッポン”(PHP研究所)のなかで、さらに言葉の「粒子性」と「線性」について次のように考察されている。

(引用開始)

 サンスクリット系、つまりインド=ヨーロピアン語族の系統の言語では、一つのシラブルを単位とした粒子の連続のような発音が行われる。これに対してウラル・アルタイ語族の末端の国ニッポンでは、言葉はひとかたまり、ないしは一本の線のように発音され、西洋語にあるような発音における粒子性がない。

(引用終了)
<同書26ページ>

 西洋の音楽は、粒子の連続だから「ビート(脈動)」や「リズム(律動)」が重要であり、日本の音楽は、一本の線だから「拍」や「間」による抑揚が大切なのであろう。

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ハーモニーとは

2010年06月15日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 今回も、「迷惑とお互いさま」の項で述べた、日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」について考察を続けたい。

 尚、前回「少数意見」の項で、「健全な組織は、新しい息吹を吹き込む異物を自らの中に積極的に抱えていなければならない」と書いたけれど、旧弊化した組織が新しく生まれ変わるプロセスについては、以前「パラダイム・シフト」や「パラダイム・シフト II」で論じたので、参照していただければと思う。

 日本の社会について、以前“現場のビジネス英語「否定形の質問について」”の項で紹介した“西洋音楽から見たニッポン”(PHP研究所)の著者石井宏氏は、そのあとがきの中で次のように指摘しておられる。

(引用開始)

 たとえば、本文の中でも書いたように、仲良く協調するというのは日本人にとっては甚(はなは)だ重要な道徳だが、白人社会にあってはそれほどのことではない。むしろ、隣人とは無害であってくれればそれでいい、くらいにしか思っていない。
 個人、個性というものが発達した人間同士が、日本人の理想とするようなユニゾン(ひとつの音)の合唱になるはずがないのである。これに対して、白人たちは、ドとミとソで、“和音”ができる、すなわち、ハーモニーが生まれる、と考えるのである。ドも、ミも、ソも、それぞれ個性があるのだが、これら三つの音を同時に鳴らすと、不思議に溶け合った別の響きがして、ドでもミでもソでもない世界が生まれる。彼らはこれをハーモニーと呼ぶ。三つの音がお互いに自己を主張しているのに、彼らの目から見ると、立派に溶け合ったハーモニーなのである。
 これに対して、“全員一致”を理想とする日本人は全員がドになるのを“和(ハーモニー)”と考え、ミだとかソだとかを唱える人間を排除する。
 今から何十年も前に、『日本人とユダヤ人』という本を書いたイザヤ・ベンダサンは、ユダヤ人のあいだでは、満票ということは考えられないので、もしそんな結果が生じたら、その投票は無効になると言っている。つまり、個性ある人間たちが投票して満票になるとすれば、それは冗談の類としか考えられないからである。
 にもかかわらず、日本の社会では今でも「満場一致」は冗談ではなく美徳である。それは「各人が個性を犠牲にして、ユニゾンになるように努力した麗(うるわ)しい成果」だからである。ドレミファを全部調律し直して、ドばかりにしてしまったピアノを、日本人は素晴らしい楽器だと考えるのである。西洋人は、そんな楽器は信用しない。ドがあり、ミがあり、ソがあって、初めて音楽になるのだから。
 この「ドしか鳴らない楽器」は直ちに全体主義に結びつく思想でもある。「満場一致」は戦争中のスローガンの「挙国一致」と同じものである。「挙国一致」思想は特高警察を生み、雑音を出す連中をしょっ引いて、ドだけしか鳴らないようにしたのであった。

(引用終了)
<同書268−269ページ>

 いかがだろう。日本語における「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」が強いという特徴は、以前「言語技術」の項で述べた、

(引用開始)

日本語的発想では環境(空間)中心に物事を考えがちなので、環境を守る力は大きいけれど、主体的にものごとを決定していく力が弱いということなのである。サッカーで云えば、チームワークはよいのだが、シュートの決定力に欠けるということだろうか。

(引用終了)
<「言語技術」より>

という指摘と、表裏一体を成していると思われる。この問題は、「容器の比喩と擬人の比喩 II」の最後に書いた、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題と重なっている。

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少数意見

2010年06月08日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「迷惑とお互いさま」の項で述べた、日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」について、「日本語の力」の項で紹介した“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)にも同様な指摘があるので、以下、引用しつつコメントしてみたい。

(引用開始)

 先に述べたとおり、母音語(日本語)の使い手は、話し合っているうちに意識が融和してしまう。このため、合意はうやむやにして、境界線を譲り合うのが、実のところ、組織の美しいあり方である。
 なぜなら、母音語人に合議制を強要すると、妄信的でヒステリックな集団になってしまうことがあるからだ。
 意識が融和して、話し合っている他者を自我の一部に取り込んでしまうために、「この人は自分とは違う」ということをどうにも認められなくなってくるのである。このため、大勢ができ上がって、強い連帯感が形成されると、大勢に合意できない者を激しく排除してしまうことがある。民主主義の基本精神とはほど遠い、思想統制が勝手に働いてしまう国なのだ。
 合議制は、「他者は自分とは違う」と、目に見えて、そして身に染みて感じているアメリカのような国にこそふさわしい制度なのだと思う。

(引用終了)
<同書171−172ページ。括弧内は引用者による。>

 日本語における「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」は、組織内の少数意見を排斥する力となる。そこで少数意見の持ち主たちは、自分の属する組織から離脱するか、あるいは組織内に少数派閥を作ろうとするわけだ。

(引用開始)

 とはいえ、日本では、事実上多くの組織が、合議制のようなふりをしながら、陰では派閥の会合で境界線を探り合っている。功罪ともにあるが、まあ、いい落しどころなのじゃないだろうか。

(引用終了)
<同書172ページ>

 日本の多くの組織が派閥均衡型であることは良く知られている。組織内で揉め事があっても、派閥の長らが集まって「いい落しどころ」を見つければ、ほぼ全員がそれに従うという慣習については、みなさんも実感するところではないだろうか。すなわち「空気を読む」ということである。それでも従わない頑固者はどうなるか。

(引用開始)

 しかしながら、この国では、組織の少数派が、実に理不尽な吊るし上げや、激しい排除にさらされる危険性がある。男社会のシャープなキャリアウーマンや、進学校の夢見がちな少年、帰国子女、大阪のヤクルトファン、武士道に感激しないスポーツマン……誰かを激しく攻撃したくなったときには、一回だけ踏みとどまってみたほうがいいと思う。私たちは融和癖があり、この融和癖のせいで、思いもよらぬいじわるな思想統制を強いてしまうことがあるからだ。優しさが高じて残酷になるというのは、なんとも残念なことである。

(引用終了)
<同書172ページ>

 黒川氏のいう「誰かを激しく攻撃したくなったときには、一回だけ踏みとどまってみたほうがいい」というアドバイスはとても重要だと思う。以前「エッジ・エフェクト」の項で指摘したように、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して距離を置く境界人(マージナル・マン)は、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっており、組織が危機に陥ったときに再生の力を発揮する存在だからである。

 健全な組織は、新しい息吹を吹き込む異物を自らの中に積極的に抱えていなければならない。このことは、「流域思想 II」で述べた、「多様性の尊重」という考え方とも通ずるものだと思う。

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迷惑とお互いさま

2010年06月01日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本語の力」の項で、

(引用開始)

日本語は母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>の繋がりを生む。<我>と<汝>の繋がり、即ち「和」を生み出す日本語には、異質の物を調和させる力があり、それ故に、日本語は自然環境を守る力が強いのであろう。

(引用終了)

と書いたけれど、日本語の自然環境を守る力は、往々にして、自然環境に対してだけではなく、人為的な組織に対しても同じように働いてしまうようである。ボストン在住の心療内科医である海原純子氏は、新聞の連載コラムに次のように書いておられる。

(引用開始)

 アメリカに住んで気がつくのは、「迷惑とお互いさま」の論理の違いである。日本では子供のころから、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」などと言われて育つから、他人の思惑か視線が行動の基準になったりする。
 人さまに迷惑をかけないように努力するのは大事だが、逆にいうと、迷惑をかけられた時はひどく立腹して、相手の人間性を否定してしまうこともある。もう二度と付き合わない、などということもおきる。迷惑にはいろいろある。時間に遅れる。約束をキャンセルする。予定をかえる。こういったことで「迷惑をかけられて」トラブルになったりストレスを感じたりもする。
 アメリカの場合は、「お互いさま」の論理が先行する。自分が迷惑をかけるかもしれないが、相手の迷惑にも許容範囲が広くなるというスタイルだ。ボストンに20年以上住んでいる日本人が、「迷惑をかけあう、という感覚ですかね」と言っていたが、この思考性に気づかないとアメリカに住むことはストレスになるだろう。(後略)

(引用終了)
<毎日新聞「一日一粒心のサプリ」11/15/2009より>

 私もアメリカに長く住んでいたから、海原氏の指摘に同感する。アメリカに暮らしていて、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」といった意味のフレーズは聞いたことがない。そういえば日本には「見て見ぬ振り」「長い物に巻かれろ」「波風を立てるな」「仕方がない」など、社会や人に迷惑をかけないための慣用句が多い。作家の加賀乙彦氏は、その著書“不幸な国の幸福論”(集英社新書)のなかで、日本の社会について、

(引用開始)

 集団の和を重んじ、見られる自分を強く意識する社会にあっては、相手の視線や言葉の裏に隠された勘定まで読み取って心配りのできる人が、高く評価されてきました。その繊細な感情ゆえに、日本独自の文化や芸術を生み出すことができたわけですが、一方で、人目を気にしすぎたり、主体性や自主性が育ちにくいという問題も生じてしまった。

(引用終了)
<同書52ページ>

と書いておられる。日本語の「自然環境を守る力」という本来の長所が、自然環境を超えて人為的組織にも及び、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」という短所として働いてしまう、ということであろうか。

 このブログでは、これまで「広場の思想と縁側の思想」の項などで、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用開始)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題を提出し、「容器の比喩と擬人の比喩」などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」


という対比を見てきたが、日本語のこの「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」についても併せて考えていきたい。

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日本語の力

2010年04月27日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「自立と共生」の項で、日本語と対比して「英語的発想ばかりだと自然環境を守ることが難しくなる」と書いたけれど、ここで、日本語の持つ「環境を守る力」について纏めておきたい。まずは“日本語は亡びない”金谷武洋著(ちくま新書)から引用しよう。

(引用開始)

 日本語をよく観察すると、日本人がいかに「対話の場」を大切にする民族かということに驚く。話し手である自分がいて、自分の前に聞き手がいる。聞き手は二人以上のこともあるが多くは一人だ。ここで大切なのは、この「対話の場」に<我>と<汝>が一体となって溶け込むということだ。この点が日本文化の基本であるように思えてならない。日本語における<我>は、決して「対話の場」からわが身を引き剥がして、上空から<我>と<汝>の両者を見下ろすような視線を持たない。<我>の視点は常に「いま・ここ」にあり、「ここ」とは対話の場である。(中略)
 これに対して、西洋の考え方は自己から世界を切り取るところに特徴があるように思える。自分に地球の外の一転を与えよ、地球を動かしてみせると豪語したのはアルキメデスだった。自分を「我思う、ゆえに我あり」と、思考する<我>を世界と対峙させることで<我>の存在証明にしようと試みたのはデカルト(『方法序説』一六三七)である。端的に言えば、西洋の<我>は<汝>と切れて向き合うが、日本の<我>は<汝>と繋がり、同じ方向を向いて視線を溶け合わすと言えるだろう。

(引用終了)
<同書106−107ページ>

著者の金谷氏は、長年カナダで日本語を教えておられる方だ。上の観察は外国人に日本語を教える現場での実感なのであろう。

 次に“日本語はなぜ美しいのか”黒川伊保子著(集英社新書)から引用する。

(引用開始)

 前にも述べたが、日本語は、母音を主体に言語認識をする、世界でも珍しい言語である。
 対して、欧米各国やアジア各国の言語は、すべて、子音を主体に音声認識している。しかも、これらのことばの使い手の脳では、母音は、ことばの音として認識しておらず、右脳のノイズ処理領域で「聞き流して」いるのだ。
 話者の音声を、母音で聴く人類と、子音で聴く人類。「言語を聴く、脳の方法」という視点でいえば、世界は、大きく、この二つに分類される。
 この二つの人類は、脳の使い方が違い、ことばと意識の関係性とコミュニケーションの仕組みが、まったく違うのである。(中略)
 というわけで、母音語の使い手による対話と、子音語の使い手による対話は、潜在的な意味において、まったく異なる行為なのである。
 前者は、融和するために手段としてことばを使う。仲良くなる方法を探るのが、対話の目的なのだ。話せば話すほど、意識は融和していくので、意味的な合意はさほど重要ではない。心安らかな語感のことば(親密な大和言葉)をどれだけたくさん交わしたかに、感性上の意味がある。
 後者は、境界線を決める手段としてことばを使う。境界線のせめぎ合いが、対話の目的なのだ。話せば話すほど意識は対峙するので、意味的な合意と、権利と義務の提示、絶え間ない好意の表明が不可欠となる。(中略)
 母音語の使い手は、自然とも融和する。
 母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に“語りかけて”くるのである。当然、母音の親密感を、自然音にも感じている。
 だから、私たちは、虫の音を歌声のように聞き、木の葉がカサコソいう音に癒しを感じ、サラサラ流れる小川に弾むような喜びを感じる。自然と融和し、対話しながら、私たちは生きてきたのだ。

(引用終了)
<同書62と170―173ページ>

著者の黒川氏は、コンピューターメーカーで人工知能の開発に関わり、脳と言葉を研究されていたという。そういえば、同じく母音と子音について「脳における自他認識と言語処理」などで紹介してきた“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)の著者、月本洋氏の専攻も、人工知能、データマイニングとのことだった。

 最後に“和の思想”長谷川櫂著(中公新書)から引用しよう。

(引用開始)

 和とは本来、さまざまな異質なものをなごやかに調和させる力のことである。なぜ、この和の力が日本という島国に生まれ、日本人の生活と文化における創造力の源となったか。これがこの本の主題である。
 その理由には次の三つがある。まず、この国が緑の野山と青い海原のほか何もない、いわば空白の島国だったこと。次にこの島々に海を渡ってさまざまな人々と文化が渡来したこと。そして、この島国の夏は異様に蒸し暑く、人々は蒸し暑さを嫌い、涼しさを好む感覚を身につけていったこと。こうして、日本人は物と物、人と人、さらには神と神のあいだに間をとることを覚え、この間が異質なものを共存させる和の力を生み出していった。間とは余白であり、沈黙でもある。

(引用終了)
<同書205−206ページ>

長谷川氏は、“「奥の細道」をよむ”(ちくま新書)、“決定版 一億人の俳句入門”(講談社現代新書)などの著書がある、気鋭の俳人である。

 以上、三冊の本から日本語について引用してきたが、纏めると、日本語は母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>の繋がりを生む。<我>と<汝>の繋がり、即ち「和」を生み出す日本語には、異質の物を調和させる力があり、それ故に、日本語は自然環境を守る力が強いのであろう。

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言語技術

2010年02月16日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 「容器の比喩と擬人の比喩 II」で提起した「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題について、子どもの教育の視点から考えてみたい。“「言語技術」が日本のサッカーを変える”田嶋幸三著(光文社新書)は、サッカーの教育現場における言語の重要性について書かれた本である。本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「そのプレーの意図は?」と訊かれたとき、監督の目を見て答えを探ろうとする日本人。世界の強国では子どもでさえ自分の考えを明確に説明し、クリエイティブなプレーをしている。
日本サッカーに足りないのは自己決定力であり、その基盤となる論理力と言語力なのだ。
本書は、公認指導者ライセンスやエリート養成機構・JFAアカデミー福島の仮クラムで始まった「ディベート」「言語技術」といった画期的トレーニングの理論とメソッドを紹介する。

(引用終了)

 「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」などで引用してきた“日本語は論理的である”月本洋著(講談社選書メチエ)によると、日本語もけっして論理的でないわけでは無いが、空間の論理が多用されるため、主体の論理が疎かになるという。月本氏は、この主体の論理を「主語−述語」、空間の論理を「主題−解説」という関係で説明しておられる。「主語−述語」の関係は「AがBをする」、「主題−解説」は「AはBである」と置き換えて考えれば分りやすい。日本語では「AはBである」という云い回しが多用されるということである。前回「存在としてのbeについて」の項でご紹介した副島隆彦氏も、“英文法の謎を解く” (ちくま新書)の中で、

(引用開始)

 日本文を英文(ヨーロッパ語の文)と比較して、ひとつの大きな特徴があることに気づく。日本文は、どんなに複雑に見えようとも「A=B」に還元できる言語である。「きのうは疲れた」でも、「みんなの願いは景気回復だ」でも「彼はダメだ」「彼女はうるさい」でも何でも、全て、この「A=B」の構成になっている。これを英文に直すと、それが何通りかの文構成になるのである。ここに日本語という言語の重大な秘密が隠されているのではないか。

(引用終了)
<同書52−53ページ>

と述べておられる。これまでこのブログで展開してきた対比で云えば、

A 英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用−「主語−述語」
B 日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用−「主題−解説」

ということになる。日本語的発想では環境(空間)中心に物事を考えがちなので、環境を守る力は大きいけれど、主体的にものごとを決定していく力が弱いということなのである。サッカーで云えば、チームワークはよいのだが、シュートの決定力に欠けるということだろうか。

 勿論、社会全体としては、どちらが良いとか悪いとかという話ではなく、両者のバランスが大切なのだが、サッカーにおける言語教育としては、「主題−解説」の関係は日々日本語を話す中で会得できているのだから、それと対比する「主語−述語」の関係の体得が重要なわけだ。

 JFAアカデミーでは、「つくば言語技術教育研究所」の三森ゆかり氏による「言語技術」トレーニングを取り入れているという。くわしくは“「言語技術」が日本のサッカーを変える”田嶋幸三著(光文社新書)をお読みいただきたいが、その中にある、U−12(12歳以下)のトレーニング法の一部を引用しよう。

(引用開始)

 日本語は、主語があいまいなままでも通用する言語です。特に1人称の「僕・私」は会話の中でも文章の中でも欠落しがちです。逆にきちんと1人称が入っている会話や文章は「自己主張が強い」と嫌われる傾向にあります。けれども自分の考えに責任を持つためには、まず誰の考えなのかをはっきりさせることから始めなければなりません。そのために誰が主体となって考えを述べているのかを明らかにする必要があります。
 子どもが「僕(私)たち」「みんな」と複数形を使ったときも要注意です。誰が「複数」の中に含まれるのかを必ず確認する必要があります。無責任に複数形が使われることが多いからです。主語の認識は国内で生活する上でも重要ですが、子どもが将来海外でプレーしたいと望むとき、主語が動詞を規定する欧米の言語では、主語をきちっと認識しながら言葉を操ることが求められます。(後略)

(引用終了)
<同書82−84ページ>

 「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という課題は、「存在としてのbeについて」の項で述べた翻訳上の努力や、このような地道なトレーニングによって、少しずつ解決していく必要がある。と同時に、「盤上の自由」の項で触れた、「日本の縦型社会の見直し」も重要になってくるだろう。それについてはまた項を改めて考えていきたい。尚、「僕たち」や「みんな」という複数形(集合名詞)を使うことの危うさについては、このブログでも以前「集合名詞(collective noun)の罠」の項で触れたので、ご参照いただければと思う。

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存在としてのbeについて

2010年02月09日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「容器の比喩と擬人の比喩 II」の最後に、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を提起したけれど、それに関連して、英語の「存在としてのbe」について考えてみたい。

 存在としてのbeとは何か。まず、「並行読書法」でご紹介した、副島隆彦氏の主著のひとつである“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)から、be動詞の四つ用法について整理する。

(引用開始)

1.「存在」としてのbe
2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe
4.It’s…の文の中にあるbe (is)

(引用終了)
<同書17ページの図から>

be動詞には、このように四つの用法がある。そのなかで、1.「存在」としてのbeは、主格中心の英語的発想の原点である。例として、”I think, therefore, I am”(我思う、故に、我在り)という、有名な格言を思い起こしていただければよい。この「存在」としてのbeについて、副島氏の同書からさらに引用しよう。

(引用開始)

●もっとも基本的なbe動詞とは、いったい何か?

1. Jazz is (ジャズの入門書のタイトル)
2. Miles is (マイルス・デイビスのアルバムのタイトル)
3. Chances are (ボブ・マーリィのアルバムのタイトル)
4. Love is (エリック・バードンのアルバムのタイトル)

 上の四つの英文は、日本語に訳すとどうなるか。

1. ジャズとは……
2. マイルスが……
3. チャンスが……
4. 愛とは……

という訳がまず考えられる。(中略)

●「be」とは「〜が在る」ということ。「be=存在」なのだ

 isを「……がある」と訳すこと。
 すなわち、このbe動詞を「在る」と訳すことが、英語の学習の第一歩である。
 beとは「存在」のことなのである。「在(有)る」ということだ。
 従って、他の三つともに、

1. ジャズがある。
2. マイルスがいる。
3. チャンスがある。
4. 愛がある。

 という訳にしなければならないのである。

(引用終了)
<同書14−16ページ>

 1.「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができない。このことが重要である。

2.A=B(等価)としてのbe
3.S+V+CのVで説明としてのbe

については、日本語の「AはBである」という空間の論理、すなわちベン図的な空間・容器比喩で訳しても、なんとか原文と同じ意味として理解することが出来るだろう。しかし、”Jazz is”のような「存在」としてのbeは、「AはBである」という形式の空間・容器の比喩では訳すことができないのである。「ジャズはジャズである」と訳しても意味をなさないのだ。

 「存在」としてのbeは、「主体の論理」の表現そのものであり、日本語で多用される「空間の論理」では表現できない。このことは、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題において、きわめて重要な課題である。尚、4.It’s…の文の中にあるbe (is)は、1.「存在」としてのbeの変形である。

 欧米文で書かれた「存在」としてのbeを、まず「……がある」「……がいる」と訳し、そのあと、さらに文脈に応じて、最適な日本語訳を与えること。副島氏は、

1. Jazz is
2. Miles is
3. Chances are
4. Love is

という上の四つの文について、

(引用開始)

 私が、これらの四つを気のきいた訳に換えるとこうなる。

1. ジャズがわかる本
2. マイルス・デイビスのすべて
3. チャンスは必ずやってくる
4. 愛とはなにか

(引用終了)
<同書15ページ>

と書いておられる。このような翻訳の努力を通して、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題を考えていくことも大切である。

 副島氏の“BeとHaveからわかる英語のしくみ”(日本文芸社)は、他にも、”have”、”get”や”would”、時制について、格文法理論など、英語と日本語に関する重要な項目が、図やイラスト入りで分りやすく解説してあり、英語を勉強する人の必読書である。副島氏にはまた、“英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“続・英文法の謎を解く”(ちくま新書)、“完結・英文法の謎を解く”(ちくま新書)の三部作がある。

 さて、ここで応用問題として、夏目金之助(号漱石)の“我輩は猫である”という小説のタイトルについて考えてみたい。これぞまさしく「AはBである」形式の日本語文である。まず、「容器の比喩と擬人の比喩」、「容器の比喩と擬人の比喩 II」で引用した“日本語は論理的である”月本洋著(講談社選書メチエ)から引用する。

(引用開始)

 現代の日本語は、江戸末期や明治維新のころの日本語とはずいぶん変ったものになった。たとえば、「私は日本人である」という文は、現在ではまったくふつうの文である。しかし、この「〜は…である」という文は、明治時代に登場した表現であり、目新しくてハイカラな響きがしたようである。夏目漱石はそれを意識して、『我輩は猫である』という題にしたという説もある。(後略)

(引用終了)
<同書161ページ>

 夏目漱石は、英国へ留学し、おそらく「存在としてbe」に遭遇し、カルチャー・ショックを受けたことであろう。帰国後かれは、日本語において”A is B”が「AはBである」と訳されていることに気付いた。ここまでの議論を踏まえれば、漱石はこの訳に違和感を覚えた筈だ。そこでかれは、明治社会を風刺するユーモア小説を執筆するに当たり、多少の批判精神と諧謔心とをもって、小説のタイトルにこの「AはBである」形式の日本語を採用したのではないだろうか。

 結果として「我輩は猫である」は、表現の斬新さ、我輩と猫をつなぐ動詞が「存在」のbeなのか「説明」のbeなのかよく分らない曖昧さ、さらに猫が話すというそもそもの非現実性とを併せ持つ、類まれなる(多義的な)タイトルとして日本人の記憶に長く残ることになったのであろう。

 曖昧さは漱石にも自覚されていたに違いない。なぜならこの猫には名前がないのである。「我輩は猫である。名前はまだ無い。」この小説が書かれたのは1905年、いまから100年ほど前のことだ。日本人は、この猫に名前を与えないまま、「存在」のbeをきちんと理解しないまま、そのあと100年を過ごしてきてしまったのではないだろうか。

 ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、”I am a cat”という訳が多いようだ。”I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。

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容器の比喩と擬人の比喩 II

2010年02月01日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「容器の比喩と擬人の比喩」の項において、

(引用開始)

 命題論理とは、真偽を問う文同士の接続・比較ロジックであり、述語部分とは、「何々がこれこれをする」というような、文の主体−対象−動作に関するロジックである。命題論理は、「ベン図」などの空間・容器比喩で示されることが多く、述語部分は、数学のf(x)などと同様、「関数」として示されることが多い。

(引用終了)

と書いたけれど、述語部分には、「何々がこれこれをする」の他にもうひとつ、「何々はこれこれである」という文の形式がある。この「何々はこれこれである」という文は、場(空間)を設定する助詞「は」が使われているので、述語部分というよりも、むしろ、命題論理(容器の比喩)ではないのか?今回はこのことについて考えてみよう。

 その前に、この先必要になるので、月本洋氏の“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)によって、論理学における「単文」と「複文」についてレビューしておこう。単文とは、述語部分であり、上で述べた「何々がこれこれをする」や「何々はこれこれである」などのように、それ以上分解できない文の単位である。複文とは、命題論理であり、「何々がこれこれをする、かつ、何々がこれこれをしない」「何々はこれこれである、または、何々はこれこれでない」などのように、「かつ」「または」という論理接続詞で、単文をつなげたものである。

 さて、「何々はこれこれである」という言い方を英語にするとどうなるか。英語にすると、”A is B”とするのが妥当だろう。そして、英語の”A is B”であれば、主体−対象の関係を表わす擬人の比喩(主体の論理)として、たしかに述語部分であると理解できる。にもかかわらず、「何々はこれこれである」という日本語では、容器の比喩に変身してしまうのは何故なのだろうか。

 月本氏は、そこに英文和訳の問題が横たわっているという。“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)からその部分を引用したい。

(引用開始)

 (「何々はこれこれである」という文の形式は)英語では、

 A is B

が基本である。これを日本語に訳すと、

AはBである

となる。(中略)そうすると、これは、助詞「は」を使っているので、容器の論理であり、主体の論理ではないと思われる読者もいよう。しかしながら、これは英語を日本語に訳した文であることに注意したい。isが「は……である」と対応しているが、そもそも「である」という語はisに相当するオランダ語を訳すために作られた造語である(中略)。
 すなわち、isを「は……である」と訳すところで、主体の論理から容器の論理に移っているのである。言い換えれば、isという主体の論理の表現にもっとも近い容器の論理の表現が「は……である」なのである。
 主体の論理では、AとBという個物が存在し、それをisがつなぐ。これに対して、容器の論理では、Aという場所が与えられ、それをBで解説する。この溝は埋めることができない。(後略)

(引用終了)
<同書125ページより。括弧内は引用者による注。>

いかがだろう。必要に迫られて、はじめて欧米文和訳を行なった人たちが、述語部分(主体の論理)の単文”A is B”を、容器の論理「AはBである」と訳してしまったのである。

A R.P.−英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を考えれば、なぜ当時の日本人が、述語部分の単文”A is B”を、容器の比喩「AはBである」と訳してまったのかが理解できる。日本語的発想では、”A is B”という主格中心の欧米文も、「AはBである」という、環境中心の容器の比喩で表現せざるを得なかったのである。

 先ほどの単文、複文の関係と、英語における「主体の論理」と「容器の論理」との関係について、月本氏は、英語の場合、単文(”A is B”のようにそれ以上分解できない文の単位)は主体の論理で構成され、複文(論理接続詞で単文をつなげたもの)は容器の論理で構成されるという。

 ここまでで解るのは、論理学上、日本語と英語は、明治時代の英文和訳によって、特に単文において、「容器の論理」と「主体の論理」とに別れてしまったということである。

 月本氏は、単文と複文、日本語と英語、容器の論理と主体の論理の関係を、以下のように纏めておられる。

(引用開始)

 複文、すなわち単文の接続は、日本語も英語も容器の論理で組み立てられている(中略)。日本語の単文は、主に容器の論理で構造化されている。これに対して、英語の単文は、主に主体の論理で構造化されている。より正確にいえば、日本語の単文は、容器の論理等の空間の論理で構造化されるが、主体の論理で構造化されることもある。英語の単文は、主に主体の論理で構造化されるが、空間の論理で構造化されることもある。

(引用終了)
<同書126ページ>

 今後、「広場の思想と縁側の思想」(1/27/09)の項から懸案であるところの、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題について、「日本語表現における主体の論理をどのように構築していくか」という問題に置き換えて考えてみよう。

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容器の比喩と擬人の比喩

2010年01月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「メタファーについて」の項で、月本洋氏の“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)を参照しながら、

(引用開始)

会話や文章で多用される「空間メタファー」は空間の論理であり、「擬人メタファー」は擬人の論理である。容器のメタファーは、閉じた曲線で区切られた空間の内と外という論理形式であり、擬人メタファーは、主体―対象―動作という論理形式である。

(引用終了)

と書き、このブログにおいて「公と私論」などで展開している、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比に、

A 英語的発想−擬人の比喩(メタファー)の多用
B 日本語的発想−容器の比喩(メタファー)の多用

という対比の追加を示唆した。

 念のために、比喩の形式は論理形式そのものであるということについて、“日本人の脳に主語はいらない”から再度引用しておこう。

(引用開始)

「私の心は満たされない」という容器のメタファーは、心を容器と見立てている。すなわち、心を容器の形式を通して認識して思考している。このように、メタファーの形式は、認識や思考の形式であるといえる。言い換えれば、われわれはメタファーの形式を用いて抽象的なことがらを認識し、思考する。(中略)空間のメタファーで表現するということは、空間の論理で表現するということである。同様に、擬人のメタファー形式を、擬人の論理もしくは主体の論理と呼ぼう。擬人のメタファーで表現するということは、擬人の論理もしくは主体の論理で表現するということである(後略)。

(引用終了)
<同書84−85ページ>

 月本氏は、そのあと去年の7月に出版された“日本語は論理的である”(講談社選書メチエ)において、日本語で多用される「容器の比喩」は、論理学や数学で使われる古典論理でいうところの「命題論理」に用いられる形式であり、英語で多用される「擬人の比喩」は、古典論理でいうところの「述語の部分」に用いられる形式であると書いておられる。私は論理学の専門家ではないが、私なりに理解したところを記してみよう。まず“日本語は論理的である”から引用する。尚、この本は去年の夏休みに読んだ本のなかの一冊である。

(引用開始)

 古典論理は命題論理と述語から構成されるが、命題論理は容器の論理すなわち容器の比喩の形式であり、述語は主体の論理すなわち擬人の比喩の形式であることがわかった。
 日本語の論理は空間の論理であり、日本語の論理の中心的役割を果たす「は」は容器の論理であるから、日本語の論理の基本は容器の論理である。したがって、日本語の論理の基本は命題論理なのである。これに対して、英語の論理は、主体の論理である。したがって、英語の論理は、述語の部分の論理であるといえる。(後略)

(引用終了)
<同書126ページ>

 命題論理とは、真偽を問う文同士の接続・比較ロジックであり、述語部分とは、「何々がこれこれをする」というような、文の主体−対象−動作に関するロジックである。命題論理は、「ベン図」などの空間・容器比喩で示されることが多く、述語部分は、数学のf(x)などと同様、「関数」として示されることが多い。

 この月本氏の“日本語は論理的である”において、日本語と英語は、同じ論理学の土俵の上で、検討・分析できるようになったと云える。単文と複文、日本語の「は」の役割など、詳しくは是非本文をじっくりとお読みいただきたい。

 このブログでは、「メタファーについて」の前後、

脳における自他分離と言語処理」(2/24/09)
身体運動意味論について」(4/7/09)
「メタファーについて」(4/14/09)
心と脳と社会の関係」(4/21/09)
社会の力」(4/28/09)

という一連の項において、

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い(文化的特徴)
II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

という循環運動(IVから再びIへ)を提示・分析し、「広場の思想と縁側の思想」(1/27/09)の項から懸案であるところの、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題について考えてきた。この循環運動と、

A R.P.−英語的発想−主格中心−擬人比喩の多用
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心−容器比喩の多用
b 身体の働き−「私(private)」

という対比からさらに何が見えてくるか、また項を改めて考えてみたい。

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日記をつけるということ

2009年07月14日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 「シグモイド・カーブ」の中で、「興味の横展開」を自覚するということは、その興味の理由と度合いを頭の中で整理することだと書いたけれど、忘れてならないのは、自分を取り巻く環境や情報量の変化によって、それが時(t = life)とともに変化してゆくということである。

 興味の理由や度合いが変化していくことは悪いことではない。皆さんも、昨日まで気が合う友達だと思っていた相手が急に色あせて見えてきたことがあると思う。人はこの変化を「成長」と呼ぶ。ときにそれは「成長」ではなく「退化」と呼ぶべき場合もあるだろうが、いずれにしても「状態の変化」には違いない。興味の理由や度合いが変化していくことは、人にとって必然的なことである。

 「状態変化」それ自体を時系列に辿れば、自分の成長の軌跡が分かる。生まれた状態の自分が、何からどういう影響を受けて、それがどう蓄積されて(あるいは蓄積されずに)今の自分に至ったのか。それを自覚していれば、自分の強み、弱みを把握することが出来る。なにか大事な決断をしなければならない時、余裕を持って、どうすべきか考えることができる。環境が激変し不安に襲われた時、自分を信じることが出来る。

 状況の変化を時系列に辿るもっとも有効な手立ては、日記(ブログ)をつけることである。私は20年以上前から、簡単な内容(仕事の打合せや旅行、気候、食事、その日買った本や、読み終えた本の内容整理など)ではあるが、日記をつけている。

 昔の日記を読み返すと、当時如何に考えが至らなかったかに赤面することもあれば、既にあの頃こんなことを考えていたのか、と驚くこともある。しかし概ね、その時の自分の興味の理由と度合いとを思い起こすことが出来る。日記をつけるということは、「繰り返し読書法」のなかで、本を繰り返し読むと書かれた内容が短期記憶から長期記憶へと移る、と述べたことに近いのだろう。日記をつけることで、その日の出来事と、自分の興味の理由と度合いとが、長期記憶として脳に残るのだ。

 日記といえば、「立体的読書法」や「庭園について」で触れた永井壮吉(号荷風)が残した「断腸亭日乗」は、日記文学の大作として有名である。“荷風と東京 「断腸亭日乗」私註”川本三郎著(都市出版)から引用しよう。


(引用開始)

 「断腸亭日乗」は大正六年(一九一七年)九月十六日、荷風三十七歳(数えで三十九歳)のときから書き始められ、死の前日の昭和三十四年(一九五九年)四月二十九日まで書き続けられた実に四十二年間に及ぶ日記である。大正六、七年ころは何日か抜けているが、やがて加速がつき、大正九年ころからはほぼ毎日、その後は昭和二十年の東京大空襲のときも、終戦直後の混乱期にも一日も欠かすことなく書き続けられた。(中略)
 先年、私は荷風の遺族(養子、従兄弟の大島一雄・芸名杵屋五叟の子息)で荷風晩年の市川の家に住む永井永光(ひさみつ)氏から、この浄書され、帙に入った「断腸亭日乗」の実物を見る機会に恵まれたが、まず手帖に鉛筆でその日のメモを書いておき、次に万年筆で大型ノートにメモから起こした文章を書く、それに推敲を重ねて、最後に筆で和紙に書く、と実に丁寧に作られたもので、まさに谷崎潤一郎がいうように「そのまゝ版下になる」ように美しいものだった。生活の芸術化とはこのことをいうのだろう。

(引用終了)
<同書10-13ページ>

始めから公開することを前提に書かれているから、自分の為だけの日記とは違うけれど、日付を追って「断腸亭日乗」を読んでいくと、書かれた内容の面白さもさることながら、明治・大正・昭和を生きた永井壮吉という人間の、「興味の理由と度合い」の変遷を知ることが出来る。それによって(永井壮吉の理性と感性を通して)読者は、日本の近代化そのものの本質を窺い知ることができるのだ。

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posted by 茂木賛 at 09:24 | Permalink | Comment(0) | 言葉について

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