夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


タノシイとウレシイ

2016年08月02日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 黒川伊保子さんの新しい本、『感じることば』(河出文庫)を面白く読んだ。黒川さんは、「株式会社感性リサーチ代表取締役。メーカーで人工知能の開発に従事した後、世界初の語感分析法を開発。マーケティング分野に新境地を拓く感性分析の第一人者」(カバー表紙裏の略歴から)で、このブログではこれまで、「発音体感」「発音体感 II」などの項でその著書を紹介してきた。
 
 この本に、「楽しい(タノシイ)」と「嬉しい(ウレシイ)」の語感の違いを説明した箇所がある。「成程!」と思ったので紹介しておきたい。まずは二つの言葉の語感から。

(引用開始)

 今この瞬間の充実した気持ち。それを記憶に留めるのが、タノシイ。
 今までずっと抱いてきた気持ち。それを溢れさせるのが、ウレシイ。

(引用終了)
<同書 103ページ>

とある。では、どうしてそう言えるのか。発音体感に即した説明を以下引用する。まずはウレシイの方から、そのあとタノシイについて。

(引用開始)

 ウレシイは、口腔に、内向する力を創り出す母音ウで始まることば。ウを発音するとき、私たちは、舌にくぼみをつくるようにして奥へ引く。このため、ウには、受け止めるイメージ、あるいは内向するイメージがある。
 さらに、先頭音に使われるウには、発音の口腔形を作ってから、実際に音が発生するまでに時間がかかるという特徴がある。このため、先頭にウが来ることばには、「長く抱く、内向して熟成させる」イメージがある。すなわち、先頭のウには、“思いの時間”があるのである。
 だから、ウレシイもウラメシイも、「ずっと思っていたこと」に由来した気持ちの表明によく似合う。妻が夫をウチノヒトと呼ぶようになるまでにいくばくかの時間が必要なのも、ウの時間パワーのせいだ。
 二音目のレは、舌を広くして、ひらりと翻す。まるで宝塚のレビューのように、何かを華やかにお披露目するイメージだ。
 続くシは、光と風を感じさせる。舌の上を滑りでた息が、前歯の裏側で擦られて、放射線状に広がるから。最後のイは、舌に前向きの強い力を加えて、前向きの意志を感じさせる母音。語尾に使うと、「差し出す感じ」「押し出す感じ」を添える。
 こうして、ウレシイの発音体感は、「私の心にずっと抱いていたものを誇らしげに披露する」というイメージを創りだす。ウレシイと言われた側も、その発音体感を無意識のうちに想起して、その語感に照らされる。だから、「あなたとの時間が嬉しい」というのは、この上ない愛のことばなのである。
 さぁ、一方の、タノシイのほう。
 先頭音のタは、舌に息を孕(はら)んで、一気に弾き出す音だ。音の発生直前、舌が息を孕んで膨らむので、充実感がある。っぷり、んまり、らふく、らり……その充填されて膨らんだ印象は、発音時の舌が感じていることに他ならない。
 発音の瞬間には、舌の上の唾をすべてはがすようにして、息が弾き出される。このため、唾が派手に飛ぶ。これが、賑やかさやいきいきとした生命力を醸し出す。
 こうして、タ行の音は、発音直後の膨らむ舌が感じる充実感、充満感、確かさ、ぎりぎりまで耐える粘りと、発話直後の飛び散る唾によって生じる賑やかさや生命力という二重のイメージを持っているのである。
 したがって、タノシイは、先頭音のタが、充実した賑やかな時間を表現している。包み込むようなノスタルジーのノにいって、それを思い出に変え、続くシイで光の中に押し出す。
 このため、面白いことに、タノシイと言ったそばから、目の前の現実も思い出に変っていくのである。
 あるいは、人は、現在進行中の楽しい出来事を記憶に留めようとして、あえてこのことばを口にするのかもしれない。

(引用終了)
<同書 100−102ページ(傍点は太字)>

いかがだろう。発音時に口内で起る壮大な熱力学と流動力学(!)。

 さて、デートのとき、この「ウレシイ」と「タノシイ」はどのようなsituationで使われるかを見てみよう。

(引用開始)

「楽しかったわ」
 デートの終盤、オトナの女性がこれを口にしたら、ほぼ九割は「さぁ、帰りましょう」の合図である。「充実した時間だった。いい思い出になったよね」というご挨拶。もちろん相手を嫌っているわけじゃないけれど、離れがたさよりも、電車の時間や家族の心配が気になっている。
 ただし、気をつけて。あまりにも離れがたい思いが強すぎて、勢いのあるタノシイで、なんとか踏ん切りをつけようとする場合もある。
 トテモ、ノシカッ、マ、アッテネ。あまりにも離れがたくて、ここまで舌の破裂音を重ねないと、とても帰れない……そんな思いを幾度か重ねた後、やがて率直に「あなたに逢えて、嬉しい」と甘いため息をつく晩がやってくるのだろう。その果ての「あなたと過ごした時間は楽しかったわ、ありがとう」と別れゆくその日まで、男と女の時間は、ウレシイとタノシイの綾織りなのに違いない。

(引用終了)
<同書 103−104ページ(傍点は太字)>

 日本語の語感は、この発音体感と、石川九揚氏の「筆蝕体感」によって形成される、というのが(黒川さんと石川氏に導かれての)私の考え。起業家の皆さんは、社名や商品名を創るときなどに、この二つ(発音体感と筆蝕体感)を参考にすると良いと思う。

 尚、黒川さんの著書については、「日本語の力」「少数意見」「男性性と女性性」「現場のビジネス英語“sleep on it”」「流行について」などの項でも紹介してきた。併せてお読みいただきたい。

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動詞形と名詞形

2015年09月01日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「環境中心の日本語」に続いて言葉の問題をもう一つ。新聞のコラムを引用する。

(引用開始)

 人とは何者か―ホモ・ロクエンス(ラテン語で、話す人)という言い方がありますが、ことばと人間の営みは密接に結びついています。
 我々には「一を聞いて十を知る」文化があります。均一性の高い社会ゆえでしょう。各国に散らばって生きてきたユダヤ人には「千を聞いて百を知る」という格言があり、異国で生きる必然性が反映されています。十倍と十分の一、想像を絶する違いです。国・国民(ネイション)の間(インター)を意味する「インターナショナル」を考えるテーマともなります。今は「グローバル」という言葉が行き交ってます。これはグローブ(地球)レベルで一つになろうということを経済活動の面から追求することに端を発しています。
 こうした流れの中、ことばの使用で気になることがあります。経済発展を志向するあまり、物への執着からか、ことばにおいて「物(もの)化」が目立ちます。動詞を使うべきところで名詞を用いる傾向です。「対応をしていきます」とか、もっとひどいのは「情報をお伝えをしてまいります」とかです。変ですよね。それに類することはE.フロムが名著“To have or to be?”で「多くの悩みを持っています」といった言い回しは所有意識の表われの典型だと指適しています。フロムさんへの同感から書きました。「人はパンのみにて生くるものに非(あら)ず」(安村仁志=中京大学長)

(引用終了)
<東京新聞夕刊 7/14/2015(傍点省略)>

 ご存知のように、このブログでは「モノコト・シフト」と称してこれからの時代を予見している。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 このコラム執筆者がいうように、「物(もの)化」=「動詞を使うべきところで名詞を用いる傾向」と、「物への執着」=「グローバリズム」とは、関連し合っているのかもしれない。そうだとすると、モノコト・シフトの時代、「対応をしていきます」というような言い方は次第に減り、「合わせていきます」といった動詞形が復活してくるのだろうか。政治家や巷の何気ない言葉遣いに注目してみるとしよう。

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環境中心の日本語

2015年08月25日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日新聞に「個性的な言葉」と題した、日本語教師(52歳)の投稿が掲載されていた。

(引用開始)

 かつて私は約三年にわたり中国の江南、浙江、広東省にある三つの大学で、日本語や日本文化を教えていました。
 どこの大学でも必ず中国人学生に受ける日本語があります。それは、そば屋で客が注文する時の「私はキツネです」「僕はタヌキです」。日本人なら、「私はキツネを注文します」の省略と分かりますが、中国語にはこのような表現方法がないため、日本語は面白いと感じるようです。
 一般的に、日本人は文法をあまり重んじないように見て取れます。一方で、人と物が同化するような特有の言語感覚や表現の豊かさは、独自の特色ある国民性を表しています。世界では、よく日本語は曖昧だといわれていますが、かなり情緒的で個性的だとも思うのです。
 他者とのコミュニケーションをする上で、一番身近なのが言葉です。私は五十年余り付き合ってきましたが、ことばの世界は広く深く、言葉はとても不思議な存在です。

(引用終了)
<東京新聞 7/6/2015>

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比を論じている。この「私はキツネ」「僕はタヌキ」という表現方法こそ、Bの日本語的発想の典型例である。何故か。この言い方は、言葉の省略というよりも、そば屋のテーブル(を囲む仲間)という場所・環境を中心に、そこにおける自分の取り分を「キツネ」あるいは「タヌキ」、と捉える発想なのである。中心は、あくまでテーブとそれを囲む仲間だ。

 同じことは、接客文化の違いとして捉えることもできる。『新・観光立国論』デービッド・アトキンソン著(東洋経済新報社)に次のような箇所がある。

(引用開始)

 また、個人的に驚いたのは、日本のレストランのスタッフには、どの客が何を注文したのか覚えていない人が多いことです。たとえば、5人くらいで店に行くと、料理をテーブルに運んできたスタッフは「○○のお客さま」と注文を読み上げて、客に手を上げさせます。場合によってですが、どうも確認の意味でもないことが多いようです。これは驚きでした。海外の多くでは、テーブルを担当しているスタッフは誰がどの料理を注文したのかを頭に入れて、何も言わずに正しく注文した人の前におくのが基本中の基本ですが、日本ではまったく違うということに驚く外国人は多いのです。

(引用終了)
<同書 118−119ページ>

 日本人は環境(テーブルとそれを囲む仲間)中心に考える。料理を運んできたスタッフはどの料理をテーブルのどこに置くか、客はどの料理がどこに置かれるかが問題で、その際、誰が何を注文したかは中心的課題ではない。だから、客の方が手を挙げて料理の位置を示すことに心理的抵抗がない。配膳プロセスにはむしろ積極的に協力しようとする人の方が多いのではないか。Process Technologyとはそういうプロセスへの積極的な協力姿勢・技術を指す。

 日本(語)人は何事もまず環境中心に考える。普通の生活においても、個人よりも社会(というよりも世間)中心に発想する。だから人(世間)に迷惑が掛かることを極端に恐れる。上下関係や先輩・後輩関係ばかりに特に目がいく。それが他の言語との際立った違いである。

この問題について、これまでも「議論のための日本語」「議論のための日本語 II」などを書いてきた。併せてお読みいただければ嬉しい。

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英語の前進性

2014年10月28日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 『翻訳問答』片岡義男・鴻巣友季子共著(左右社)を読んだ。副題は「英語と日本語行ったり来たり」。左右社というのはあまり見ない出版社だがこれは秀悦な本だ。二人が英語の名作小説の冒頭を翻訳し語り合う内容で、小説を読む愉しさ、書く楽しさを教えてくれる。作家と翻訳家の違いも面白い。新聞の簡単な書評を紹介しよう。

(引用開始)

 英語を日本語に「翻訳」するとはどういうことなのか。「あてはめ主義」で行くとクールに語る作家・片岡と、「文体が降りてくる」という憑依体質の職人・鴻巣が、名高い小説の一場面を競訳し、互いの訳について話し合う。オースティンやチャンドラー、サリンジャーにE・ブロンテ……小説のタイプはさまざま。原作者の意図だけでなく、小説の語りそのものをくみ取り、言葉を選んでいく結果の、異なる二つの日本語文。細部にわたるやりとりは「翻訳」の本質に踏み込む。落語の「こんにゃく問答」を想起させる表題にもにんまりするが、片岡による英語題は「Lost and Found in Translation」。さて、これを日本語訳すれば?

(引用終了)
<朝日新聞 8/17/2014>

 英語題名の「Lost and Found in Translation」は、ソフィア・コッポラ監督の映画「Lost in Translation」と、遺失物取扱所を意味する「Lost and Found」とを合わせた愉快なアイデアだ。「Found」が翻訳の奥深さを言い表している。

 たとえば「おわりに」のなかに、金子光晴の「富士」という詩の最後の五行が、アーサー・ビナード氏の英訳と共に引用してある。

(引用開始)

雨は止んでゐる。
息子のゐないうつろな空に
なんだ。糞面白くもない
あらひざした浴衣のやうな
富士。

これをビナードさんはこう英訳しています。

The rain has let up. Overhead
The sky is empty, our son nowhere in sight.
This is shit, and on top of it all,
There’s Fuji, looking like a faded
old bathrobe.

(引用終了)
<213−214ページ>

この英訳について、片岡氏は、日本語の場合「息子のゐないうつろな空に」という文章は「息子の」「ゐない」「うつろな」が全部「空」にかかって全体が一つの名詞形になっているけれど、英訳では、いきなりOverheadという言葉がきて読者の視線を上に向かわせたあと、the sky is emty「空はからっぽだ」と空だけを問題にし、次にour son nowhere in sight と息子が問題にされ、すべてが「空」にかかってはいない、と論じる。

 原文では、「雨は止んでゐる」と「息子のゐないうつろな空に」との間(の視線の移動など)を読者が補わなければならないが、英訳では、Overheadという言葉で書き手側が明示する。片岡氏は原文の方が、

(引用開始)

片岡 読む人に負担がかかりますね。最後に富士が出てきて、そこにすべての言葉が掛かっているのですから。僕は英訳のほうが好きです。言葉のならびかた、つまり機能のしかたが、当然のことですが、まるっきりちがいます。英語には輪郭や機能がはっきりした言葉のつながりがあるので、明確な前進性が出ます。

(引用終了)
<同書 215ページ>

と述べる。このあたりが翻訳による「Found」の部分なのだろう。この「前進性」という英語の特徴を示す言葉が面白い。

(引用開始)

片岡 この英訳はどの言葉もきちんと論理的に整理されていて、読者の気持ちが脇へ漏れ出す隙間がないのです。ということは、書く人も読む人も、前に進むしかないのです。
鴻巣 片岡さんの文は素材のまま読者に渡して、読者の調味してもらっているように見えます。この「富士」にもおなじ印象を持ちました。日本語原文ははじめから調味されていますが、英訳のほうは「空です、うつろです、息子はいません」とフラットに並列されていますね。
片岡 the sky is empty, のコンマの存在がまた注目です。
鴻巣 このコンマ、具体的に何も指示していませんね。
片岡 コンマによって左右に分けられた、二つの状況の並列でしょう。しかし、そうすることによって、誰も止めることのできない前進力が生まれます。

(引用終了)
<同書 215−216ページ>

これを複眼主義に引き寄せて言えば、英語は「主格中心」の言葉なので書き手が明示的に話を前進させてゆくのに対して、日本語は「環境中心」だから、書き手は後ろに下がって全体の景色が前面に出る、という違いといえるだろう。

 だから、英訳では前進性を味わえるが、原文の方では、書き手と遠くに見える富士との間の、前進性のない、まったりとした空気感を味わうことが出来る。英訳ではこの空気感は後方に退く。ここは翻訳による「Lost」の部分かもしれない。

 ところで英語題名「Lost and Found in Translation」は片岡訳とあるが、そうすると「英語と日本語行ったり来たり」という日本語の副題は鴻巣さんが考えたのだろうか。こちらは二人の「問答」の感じ、バイリンガル作家と翻訳家の資質の違いをうまく伝えている。

 また、この本で片岡氏が述べる『「風呂に入る」という日本語の意味が子どもの僕にはわからなかった』という話は、『日本語と英語』片岡義男著(NHK出版新書)にも載っている。併せて読むと日本語と英語の違いに関する興味が深まると思う。

 『日本語と英語』に関しては、以前「いつのまにかそうなっている」と「現在地にあなたはいない」という二つの記事を書いた。こちらも参考にしていただけると嬉しい。

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助詞の研究 V 

2014年09月29日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 日本語の助詞「が」についてもうすこし追ってみよう。「助詞の研究 IV」の項では、「が」も「の」も、古くは所有、所属を示す助詞だったけれど、江戸時代以降、「が」だけが主格を表わす助詞としても使われるようになった、ということだった。なぜ「が」の方がそういう役割を担うようになったのか。

 『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)によると、「が」と「の」の違いは、「が」が主として内扱いにする人物につくのに対して、「の」は外扱いにする場合に使用されたところだという。「わが子」「山の端」といった感じだ。それでその後どうなったか。

(引用開始)

大野 このように、助詞「が」は本来、体言と体言の間に入るのが基本だったんですけれども、「が」と下の体言の間に動作を表わす動詞が入ってくるようになります。もともと「が」の上に体言は人物であることが多いものですから、それが動作の主体となって、「が」は下の動詞と結びつきやすい状態が生じました。この場合、動詞は下の体言につづくので連体形です。連体形は体言相当の資格があるので、「人物+が+動詞の連体形」という形式は「体言+が+体言」という「が」の使い方の基本の形に合致しているわけです。ところが一方で、前に係り結びのときにお話したように、係り結びが広く使われるようになって連体形終止が多くなり、それによってかえって連体形終止の価値が失われた。つまり、それによって連体形終止を特徴とする係り結びが分らなくなり、本来の終止形の終止よりも連体形終止という終止の仕方が一般化するようになったのです。すると、ここに見られる「人物+が+連体形」という形は連体形による終止の形と意識されるようになり、この形から、主語を表わす「が」を含む文、たとえば「花が咲く」のような形式が、終止できる形として一般化されてきたのです。つまり、「が」に限って、「私が見る」とか、「春が来た」という形は、江戸時代以降に一般化したのです。
 場所を表わす連体助詞であるという点では同じようなものであった「の」と「が」のうち、「の」は外扱いにする助詞だったので客観的な状態を言うのに使われて形容詞句を作り、もとの役割を保ったのにたいし、「が」のほうはそれが承ける人や物を内扱いする助詞で、人物を承けることが多かったので、その下の動詞の連体形といっしになって、「……がする」という動作を表わすことが多くなり、今日のように主格の助詞として使われるようになったと考えられます。

(引用終了)
<同書 294−295ページ>

言葉が時代に沿って流動・変化してゆく様がよく見える。この本を読むと他にもそういう例が沢山あって面白い。引用はしなかったけれど、例として短歌が多く載っているので分りやすい。興味のある方は是非お読みいただきたい。

 場所の内扱い、外扱いというのは、環境をさらに細かく内と外に分けるわけで、「環境中心」の日本語ならではの着想といえる。確かに今でも「わが子」「わが町」というのと「私の子」「私の町」というのではニュアンスに微妙な違いがある。前者は後者よりもより親密な感じだ。日本(語)人はこの微妙なニュアンスの違いを使いこなしながら、今も日々社会生活を送っているわけだ。

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助詞の研究 IV

2014年09月23日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 日本語の助詞の歴史についてここまで、

「は」の働き:問題の提起、場所や環境の提示(「助詞の研究」)
「の」「に」の働き:所有する物や所属する場所を示す(「助詞の研究 II」)
「ぞ」「か」「も」「が」:疑問詞を承ける(「助詞の研究 III」)
「なむ」「や」「こそ」「は」:疑問詞を承けない(「助詞の研究 III」)

と見てきたが、今回は「が」の働きについて考えてみたい。これまで同様、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)から引用する。

(引用開始)

丸谷 ちょっと脱線の気味があるんですけれども、「が」という助詞は、昔あまり使われなかったんではないですか。「の」が使われたのでは……。
大野 「の」と「が」では使われ方に全く差がありました。助詞の中でいちばん多く使われたのは「の」で、使用頻度では「が」は十位までに入りませんでした。
丸谷 それで主格に使う「が」は、いつ頃から出てきたんですか。
大野 主格に使って、下がマルで切れるようになるのは一般的には江戸時代からです。今は「私が行く」と言いますけれども、もとは「我が行く」で切れることはなかった。「我が行く道」みたいに下に「道」のような名詞(体言)がこなければだめだったんです。「わが国」「君が代」みたいな使い方がいちばん古い使い方です。
丸谷 それは所有を表わすものですね。
大野 所有、所属を表わします。要するに「が」とか「の」とかは、名詞と名詞の間に入って、「が」の上の言葉は所属の場所を表わしたんです。(中略)
丸谷 すると、王朝和歌で主格を表わす助詞というのはないわけですか。
大野 日本語に主格を表わす専属の助詞はなかったんです。裸でよかったんです。「花美し」「山高し」とか、「花咲く」「われ行く」と言いました。動作の主体をきちっと表わす特別の助詞はありませんでした。「私が取る」のような言い方は、江戸時代になっておそらく主として関東から始まるんです。(中略)もともと関東では「が」をよく使っていたんです。「が」というのは、その上の人間が卑下するとか、その人間を蔑視するとかの場合に使うものだったんです。関東は関西から蔑視されていたし、関東人は卑下していたから、関西よりも一般的に「が」を多く使ったようです。
 それが主格を表現する助詞にどうしてなることができたかというと、いろいろな条件が絡み合っていたんですね。まず係り結びで「ぞ」「なむ」「や」「か」がきた場合に、倒置によって下の終結が連体形になったでしょう。その形がたくさん使われているうちに、倒置による強調ということが忘れられ、文末の連体形があたかも終止を兼ねる形のように受け取られ始めたんです。つまり古い連体形が終止の役目と連体の役目とを一つ形で兼ねるようになった。連体形は体言に相当する資格があって、名詞の代用をすることができますから、本来は名詞と名詞との間に入るはずだった「が」を「体言+が+名詞」の代わりに「体言+が+連体形」の形で使うことが可能となった。そこで「此のやうな事がある」などという表現が江戸時代に広まったんです。つまり「事がある」といえば、「事」は体言で、その下に「が」が来て、その下の「ある」が連体形で、つまり体言扱いになるから、これは「体言+が+体言」と同じ形だと意識されるようになったんです。これは室町時代にもないことはないけれども、およそ江戸時代以降のことです。それまでは、ゼロで主格を表わした。「事あり」とか「われ取る」と言ったんです。しかし、「われ取る」では、「われを取る」のか、「われが取る」のか、文脈によらなくては分らなかった。そこではっきりしようというわけで、「が」が入り込むようになったんです。

(引用終了)
<同書 200−202ページ>

長い引用になったが、ここでわかることは、「が」という助詞はもともと「の」や「に」と同じように所有、所属を示すものだったけれど、係り結びとの関連で、江戸時代以降、主格を表現する助詞としても使われるようになったということだ。「助詞の研究 II」の項で、

(引用開始)

大野 このように考えますと、「の」と「に」という助詞が、非常に古い時代には一元的にくっついていた時期があるという感じがします。そして次に「が」という助詞が出てきますと、さらに日本人の場所認識が、はっきりしてきたといえるんじゃないでしょうか。

(引用終了)
<同書 282ページ>

とあるのは、主格助詞として以前の、所有、所属を示す「が」の役割について言っているわけだ。

 今の日本語で「私が」「私が」というと、相手にあまり良い顔をされないのは、「が」を主格助詞として使っていても、そこに昔の所有的ニュアンス(さらには卑下や蔑視といったニュアンス)が残っているからかもしれない。「は」は問題の提示であり、「が」も由来を辿ると所有、所属を示す助詞だったということは、どちらも、純粋に主格を表現するにはそぐわないということになる。以前「議論のための日本語 II」の項で、存在のbeを「!」記号を使い、

I think, therefore, I amは、「私は考える、だから私!。」
Chances areは「チャンス!。」
Let it beは「そのまま!。」

と訳してみてはどうかと書いたけれど、助詞の「は」も「が」も使わないこの方法はなかなかいい線なのではないだろうか。

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助詞の研究 III

2014年09月09日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)には、「係り結び」についても詳しい分析がある。

 係り結びとは、ある分節が係助詞によって条件付けされた場合、述語の最後尾部分が呼応して特定の活用形に決まるという法則で、第一ファミリーとして「ぞ」「か」「なむ」「や」、第二として「こそ」、第三ファミリーとして「は」「も」がある。それぞれ「強調」、「逆説」、「判断」という条件付けを司る。第一ファミリーは、述語の最後尾部分が連体形で終わる。第二は已然形で終わり、第三の場合は終止形で終わる。

 国語学者大野晋はこの本の中で、それぞれの係り結びを、その構造と来歴からさらに次のように分類する。

<疑問詞を承ける>
承ける語の扱い方:不確実・未知・新情報

「ぞ」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。新情報として提示し、教示・強調する。連体形終止。
「か」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。判断不能を表示する。連体形終止。
「も」:個と個を対比して提題。その下は否定不確定性判断が多い。終止形終止。

<疑問詞を承けない>
承ける語の扱い方:確実・既知・旧情報

「なむ」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。内心の確信を示す。連体形終止。
「や」:本来は終助詞。倒置によって係助詞の位置に立つようになった。話し手の確信、あるいは見込みを表明して相手に問う。連体形終止。
「こそ」:衆から個を選抜して提題。已然形と呼応して、逆説確定条件を形成した。後に強調的終止。
「は」:個と個を対比して提題。その下は肯定・否定・推量など何でもよい。明確な判断。

係り結びという複雑な法則がきれいに二つ(疑問詞を承ける・承けない)に分類され、三つのファミリーのそれぞれが、この二つの分類の下に、異なる条件付けの役割を負って並ぶ。

 詳しくは本書をお読みいただきたいが、この「疑問詞を承ける・承けない」という係り結びの二分類は、そもそも助詞「は」と「が」の「疑問詞を承ける・承けない」と繋がっているらしい(「は」は疑問詞を承けない、「が」は疑問詞を承ける)。「誰が」とはいうが「誰は」とは普通言わない。係り結びそのものは近代日本語からは消えてしまったけれど、生き残った助詞は、その古い名残を今も継続しているわけだ。とても面白い分析だと思う。

 ところで、「助詞の研究」の項で「は」の役割、「助詞の研究 II」の項で「の」の役割について見、そのどちらにおいても、日本語がいかに「環境中心」の言語であるかということを示してきたが、この本『日本語で一番大事なもの』の係り結びに関する話のなかでも、そのことに言及した部分があるので引用しておきたい。

(引用開始)

大野 日本は、明治時代以来、たとえばイギリスから機関車を買って来て運転の仕方習うとか、技師を連れてきて橋を架けるとかして、そのうちに見様見真似で、機関車をつくったり、橋を架けたりできるようになってきた。ところが、日本語の場合には、あいにく英語やフランス語、ドイツ語と、その言語構造が本質的に違うんです。だから、自分の目で母国語と外国語とを見くらべ、その現象を通して本質的に違うところを見抜くことが必要なんです。しかし、日本人は、この現象の本質を見抜くことをきらうんですね。「こういうことがありました。次にこういうことがありました、そしてこうなりました」という、「ありました」形態で事を続けていくのが好きなんです。
丸谷 横へ横へと並列的に並べるだけで、本質をつきとめようとはしない……。
大野 ですから、係り結びという場合でも、「ぞ」「なむ」「や」「か」がきたら連体形で結ぶ、「こそ」がきたら已然形で結ぶという、現象を述べるだけなんです。

(引用終了)
<同書 91−92ページ>

環境を中心にして、すなわち、与えられた場所や起った事柄に身を寄せてそこからの視点(だけ)で物事を考えると、そこから見える現象に捉えられて、場所や事柄本来の構造、来歴を見失ってしまう。横へ横へと現象が並列的に並ぶだけで、いつまでたっても本質が見極められない。

 とはいえ、あまり性急に結論を出すのも考えものではある。これからも助詞の研究等を通して、さらに深く日本語の本質に迫りたい。

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助詞の研究 II

2014年08月26日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「助詞の研究」の項で、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)という本を紹介しながら、「は」という助詞を通して、環境(場所や事柄)中心の日本語的発想について考えたが、今回も引き続き、今度は「の」や「に」の研究を通して、日本語の場所感覚がいかに発達しているかについて見てみたい。同書から引用する。

(引用開始)

大野 目的格をあらわす「を」なんていう助詞は、あったってなくたっていいのです。日本人は、目的語を言うときには、目的語だぞということを明示しない。「水飲んだか」「飯食ったか」でいいので、「水を飲んだか」「飯を食ったか」などとは言わないでしょう。実は、「を」という助詞は後世になって、といっても平安時代から多く使われるようになったようで、もともとあまり使わなかったんです。それから、「花咲く」「月出づ」でよかった。前に言いましたように、日本語ではもともと動作の主体を明確にあらわす助詞はなかったのです。ところが、「に」だけは非常にはっきりしていますし、「の」という助詞も使われることが多かったんですね。「の」と「に」が圧倒的に使用度数が多い助詞です。たとえば『源氏物語』のなかで使われている助詞の中で、いちばん多いのは「の」です。多い順に言いますと、「の」「に」「も」「て」「を」「と」「は」「ば」「や」の順です。
丸谷 「も」がそんなに多いんですか。
大野 『源氏物語』に「も」が多いのは、万事、物事は不確かだと捉えているということですね。「も」は不確定・不確実を示す助詞でしたから。それで、「の」と「に」の使用頻度が多いということは、日本人は内・外の場所感覚が非常に強く、場所的にものをとらえるということです。内とか外とかという場所についてはっきりした意識をもっていて、それをあらわす助詞は必ずはっきりつけるというわけです。その代わり、「誰がするか」という「人」を示す主格助詞は発達が非常に遅かったんです。

(引用終了)
<同書 281−282ページ>

大野は続けて、「が」という主格助詞が発達すると、日本人の場所的認識はさらにはっきりしてきたという。

(引用開始)

大野 このように考えますと、「の」と「に」という助詞が、非常に古い時代には一元的にくっついていた時期があるという感じがします。そして次に「が」という助詞が出てきますと、さらに日本人の場所認識が、はっきりしてきたといえるんじゃないでしょうか。

(引用終了)
<同書 282ページ>

 日本語は、今でも、「の」と「に」に強く拘った、環境(場所や事柄)中心・優先の言葉だとつくづく思う。「が」と並んで主格助詞のようにみえる「は」が、実は環境を提示するための助詞であることは前項で見たとおり。

 日本人は、環境に共感し、あるいは反撥するのは得意だが、環境を俯瞰してその是非を論ずるのは苦手だ。漱石の「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい」という考えは今でも充分通用する。

 上に「も」の話がでてきたところで「発音体感」と「筆蝕体感」のことを思い出した。「も」という発音の「包み込むような柔らかさ」、「も」と書いたときの複雑な筆蝕、これらは「も」が不確定・不確実を示す助詞であることを体感させる。「発音体感」と「筆蝕体感」それに「意味の変遷」。これらの関係性も助詞研究の面白いテーマに違いない。

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助詞の研究

2014年08月19日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 以前「議論のための日本語 II」の項で、『話し言葉の日本語』井上ひさし・平田オリザ共著(新潮文庫)という本を紹介し、そこにある「議論のための日本語」に関する井上のことばを紹介したが、この本には、日本語における助詞について(同じく井上の)次のような指摘がある。

(引用開始)

井上 時枝文法では、助詞は表現される事柄に対する話し手の立場の表現だといっていますね。たとえば甲という少年が勉強している、乙も丙も勉強しているとします。そうすると、甲につく助詞によって意味が変わってくるという。
「甲は勉強している」
「甲が勉強している」
「甲も勉強している」
「甲でも勉強している」
「甲だけ勉強している」
「甲まで勉強している」
とかいろいろあるわけです。僕はこれを最初に読んだときは感動しましたね(笑)。時枝さんの説は、助詞に関しては非常に正確な定義だと思うんですけど、そのへんから平田さんのせりふは始まっている。たとえば、
「私は、あなたを、愛します」
 という主語+述語というせりふは日本語ではあまり言わないで、むしろ、
「わかる?」「……好きだよ
 とか言う。簡単にいうとそれが口語ではないかと。つまり、現代口語演劇というのは大変なネーミングですが、名詞、動詞を外し、むしろ、いままで「おまけ的」扱いに思われていた付属語を重要視する。実際、そうした付属語が、普通の日本人の普通の会話のなかで主役を演じているのではないかというのが、平田さんの日本語論のひとつなわけです。

(引用終了)
<同書 54−55ページ>

日本語においては、助詞(や助動詞)の果たす役割がとても大きいという指摘だが、助詞(や助動詞)について、その歴史的変遷も含め縦横に論じたのが、『日本語で一番大事なもの』大野晋・丸谷才一共著(中公文庫)という本だ。

 この『日本語で一番大事なもの』という対談本の中に、「主格の助詞はなかった」という章がある。複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

という対比を掲げ、日本語は、英語のような「主格中心」の発想よりも、「環境中心」の発想が基本であると論じてきたが、助詞の研究からもそのことが言えるようなので、以下引用したい。

(引用開始)

丸谷 中学校のときの国文法では、係り結びといえば、「ぞ」「なむ」「か」「や」「こそ」だけで、「は」「も」が係りの助詞だなんてことは教わりませんでした。それで、「は」はなんとなく主格の助詞だと思っていたわけですね。ですから最近の国文法で、「は」「も」が係助詞になっていると聞いてびっくりしていたんですが、今度勉強して、なるほどそうなのかな、という気になってきたところです。(中略)「は」が主格の助詞だとわれわれが漠然と思っていたのは、あれは英文法の影響なんでしょうか。
大野 そうですね。明治時代から後に、英文法をもとにして、大槻文彦が日本語の文法を組み立てた。そのときに、ヨーロッパでは文を作るとき主語を必ず立てる。そこで「文には主語と述語が必要」と決めた。そこで、日本語では主語を示すのに「は」を使う、と考えたのです。ヨーロッパにあるものは日本にもなくてはぐあいが悪いというわけで、無理にいろんなものをあてはめた。(中略)
丸谷 つまりヨーロッパ風の意味では、日本語には主語というものがない。それを、「文」である以上なければおかしいというのでむりやりこしらえたんですね。(中略)

(引用終了)
<同書 186−187ページ>

ということで、大野によれば、日本語の助詞「は」は、その上にくる言葉をそれが話題であること提示し、下に答えを求める形式であるという。

(引用開始)

大野 要するに古来日本では、「は」の上にくる言葉(その表す物体でも、性質でも、何でも)は話題になって出てくる。これは目的語でもいい。たとえば「(ワインの)白は好きじゃない」というと「白」は目的語ですね。それから「アメリカは行ったことがない」「ヨーロッパは行ったことがある」という場合は、「アメリカには行ったことがない」「ヨーロッパには行ったことがある」ということで、「は」は場所格です。だから「は」は、動作の主をいう主格だとか、処分の対象をいう目的格だとか、あるいは場所格だとかいった、格には特別の限定はないいんです。「白は」というと、それは一種の問題提起なんで、その問題に何か答えなければならない。「飲みます」とか、「飲みません」とか、「好きです」とか、「嫌いです」とか。だから「は」は「は」の上の言葉(「は」の指す実態)を問題として提起し、下に答えを求める形式なんです。これが「は」の根本なんです。

(引用終了)
<同書 194−195ページ、傍点省略>

というわけだ。明治以降、英文法をもとにして「文には主語と述語が必要」と決め、日本語では主語を示すのに「は」を使うとしたけれど、それは日本語の実態とはかけ離れた卓上の空論だった。

 日本(語)人は今も、様々な助詞(や助動詞)を使いながら、提示される事柄(環境)に対する話し手の立場を表現し続ける。「近代西欧語のすすめ」の項で述べたように、近代日本語は、日常会話のみならず公的議論においても、その発想が「環境中心」のままなのだ。

 この『日本語で一番大事なもの』という本には、これ以外、係り結びや已然形、「かも」と「けり」、「か」と「や」、「ぞ」と「が」などなど、助詞に関する様々な研究成果が語られている。日本語を支えるいろいろな助詞(や助動詞)の役割について、これからもこの本を繰り返し読んで理解を深めたい。

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近代西欧語のすすめ

2014年06月10日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 「レトリックについて」および「レトリックについて II」の項で、レトリックとは、公的な文章表現において論旨を上手く伝えていくための技術・型であること、近代日本語は明治以降の「漢文脈からの離脱」と「言文一致」によってレトリックをあまり使わないようになってしまい、その結果今の日本人の公的な思考そのものが、総じて散文的で写実性で説明するだけのものになってしまったこと、について述べてきた。

 また前回「ヤンキーとオタク」の項で、近代社会では個人の精神的自立が必要だが、日本人の多くは日本語の特性もあって、その自立を果たしていないと書いた。ここでいう「日本語の特性」とはレトリックばかりを指すのではない。「議論のための日本語」や「議論のための日本語 II」などで述べてきた日本語の「環境依存性」をも含めた、包括的な話だ。

 近代日本語の「環境依存性」は、言文一致運動によって、もともとプライベートで自然環境依存的だった「和語」に公的文章が全面的に寄りかかったため、公的思考にも和語の影響が広がったものと考えられる。和語は自然音をベースとした母音語であり、与えられた自然環境を中心に置いた「なる」「入る」構文がその基本である。「そうなる」「山に入る」などなど。良くいえばシンプルで柔軟だ。言文一致運動が、話し言葉である「和語」に寄りかかるのは当然といえば当然だが、それが「漢文脈からの離脱」と並行していたため、明治以降の近代日本語は、レトリックもなにも全て「和語」の構造の元に展開されるようになってしまった。ここが重要なポイントだと思う。それまでの日本語は、公的文章にはもっと複雑な漢文脈が使われていたのである。 

 「公(Public)」における「なる」「入る」構造の文章は、人工的組織をも、あたかも自然物のように勘違いさせる危険性を帯びている。だから気を付けなければならない。会社や国家などにおける規則や法律には、それを決めた主体(取締役会や議会)があるのだが、「その規則(法律)は今日からこうなりました」と書かれると、あたかも自然の力が働いてそう変わったかのように錯覚してしまう。「○○会社に入社しました」というと、契約によってその組織で働くようになっただけなのに、なぜか会社との一体感が生まれ、やがて「巨人軍は永久に不滅です!」といった気持ちにまでなってしまう。この辺のことは、「いつのまにかそうなっている」と「現在地にあなたはいない」の項で、作家片岡義男氏の本を参考にしながら敷衍したことがある。

 これからの日本語において、レトリックを強化すると同時に、言葉の環境依存性に対しても自覚的であるためには、近代西欧語を勉強することが役に立つと思う。「社交のための言葉」や「レトリックについて」の項でその文章を引用した作家丸谷才一氏は、『文章読本』(中公新書)のなかで、

(引用開始)

厭がられるのを承知の上で思ひきつて書きつけると、近代西欧語のうち何か一つをいちおう勉強すること。これはずいぶん面倒な話だが、われわれが対応しなければならない現実の性格から言つて、仕方がないことなのだ。

(引用終了)
<同書 354ページ>

と書いておられる。以前私も「バイリンガルについて」の項で、

(引用開始)

 バイリンガルであれば、このブログで見てきた、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比がよく実感できるのではないだろうか。

(引用終了)

と書いた。バイリンガルならずとも、英語などの西欧語を勉強すれば、言葉の階層性や、精神的自立の基にある「存在のbe」について理解が深まる筈だ。それはまた、日本語のレトリック強化にも繋がるに違いない。

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レトリックについて II 

2014年05月27日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「レトリックについて」の項で、レトリックとは公的な文章表現において論旨を上手く伝えていくための技術・型であり、ビジネス文章でも大切な要素であると書いたけれど、総じて、明治以来の近代日本語は、レトリックを使わなくなった。特に、対句や反復、修辞的疑問(反語)などの言い回しは、小説などにおいてもほとんど見なくなった。それは何故なのか。今回は、近代日本語においてレトリックが衰退した経緯について考えてみたい。

 『日本語のミッシング・リンク』今野真二著(新潮選書)を読むと、「漢字平仮名交じり文」という今の書き言葉は、明治以降の「漢文脈からの離脱」と「言文一致」という、二つの流れが結びついてできたことがわかる。明治以降の日本は、漢文を減らし平仮名を増やすことと、わかりやすい口語文で書くことを推進してきたわけだが、この二つは相互に深く結びついていた。同書から引用しよう。

(引用開始)

「日本語を仮名で書く」ということは、原理的には「書き方」についてのことがらであるはずであっても、そのことと「言文一致」とは結びつきやすい。さらにいえば、表裏一体ものであったともいえよう。「言文一致」の進行にともなって、書きことばから漢語は減り、漢字も減ったとみることができるし、あるいは書きことばから漢語・漢字を減らすことで、「言文一致」が進行していったとみることもできる。いずれにしても、「漢文脈からの離脱」と「言文一致」とは深く結びついていたと考える。

(引用終了)
<同書 249−250ページ>

 「漢文脈からの離脱」と「言文一致」、どちらも近代化を急ぐ明治の政策と合致した動きだった。それは「言葉の効率化」だったといってもいいだろう。日本語からレトリックが失われた(あまり使われなくなった)のは、この過程にあると思われる。

 レトリックは、公的な文章において論旨を上手く伝えていくための技術だから、長年公的文章を支えてきた漢文脈から離脱すれば、当然その技術は使えなくなる。言文一致は、話しことばと書きことばを一致させようということだ。話し言葉は基本的に私的なものだから、話すように書けば、当然公的性が損なわれる。漢文脈からの離脱によって「対句」などが、言文一致によって「反復」などのレトリックが使われなくなった。

 確かに「漢文脈からの離脱」は、家制度・身分制度からの解放を促し、「言文一致」はことばの伝達効率を高めただろう。しかし、レトリックが失われた結果、今の日本語文の多くは、散文的な写実性で説明するだけのものになった。前回引用した『文章読本』のなかで、丸谷才一氏は(日本では様式が嫌われるとした上で)次のように述べている。

(引用開始)

 それゆゑ近代日本の文章はとかく地味なものになりがちで、派手な言ひまわし、趣向のある表現、綾に富んだ言葉は何かにつけてしりぞけられた。まづ雅文系および漢文系のレトリックがすこしづつ嫌われだし(これが明治大正)、次に西洋ふうのレトリックがうわべだけほんの少ししか取り入れられず(これが昭和)、そして最後に和漢のそれぞれが決定的に放逐されて(これが戦後)、かうして、よく言へば率直で完結、悪く言へば味も素気(そっけ)もない言葉づかいがはびこることになつたのが、この百年のレトリックの歴史だった。

(引用終了)
<同書 373−374ページ>

明治・大正・昭和という時代変遷のなかで、レトリックは少しずつしかし確実に失われていったわけだ。

 言葉は思考の道具である。レトリックがあまり使われなくなった結果、今の日本人の公的な思考そのものが、総じて、散文的で写実性で説明するだけのものになってしまったといったら言い過ぎだろうか。いまでも、強い怒り、深い感動、晴れ晴れとした気持ちなどは、よく文語調で言い表される。「弁償せよ!」「風立ちぬ」「絶景かな!」などなど。これは、そのことを逆から証明しているように思う。

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レトリックについて

2014年05月20日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「社交のための言葉」の項で、社交について考えるために、作家丸谷才一氏の挨拶についての本を紹介したが、今回は、氏の『思考のレッスン』(文春文庫)と『文章読本』(中公文庫)によって、言葉のレトリック(言いまわしの型)について考えてみたい。

 社交のための挨拶が主に話し言葉によるものだったのに対して、レトリックは、主に書き言葉(文章)に関することだ。まずは『思考のレッスン』から、レトリックとは何かについて引用しよう。

(引用開始)

 レトリックというと、日本ではなんだかうさん臭いものと考えられているでしょう。西洋でもそういうところはあって、「レトリックにすぎない」とか、「レトリックの細工師」とか、軽蔑的に使われることが多いようですね。東洋でも、「文章は小枝なり」といった言い方がある。
 それはレトリックをロジック抜きで考えるからなんですね。くだらないことをにぎやかに言うのがレトリックだと思われがちだけれど、本来レトリックとは、ロジックと手を携えて、論旨を上手に伝えていくための技術なんです。その相関的な関係が大事なんです。

(引用終了)
<同書 256−257ページ>

ということで、レトリックとは、文章において「論旨を上手に伝えていくための技術」であることをまず理解したい。

 それでは、丸谷氏の『文章読本』によって、レトリックの項目を見てゆこう。その前に、同書によってレトリックのもう一つの基本を押えておく。

(引用開始)

 レトリックの基本となるものは、大きく構へた、派手好みの、芝居がかった、つまり公的な表現である。さりげない、渋く抑へた、内々(うちうち)の、つまり私的な表現ではない。

(引用終了)
<同書 225ページ>

社交の挨拶も公的な営みだったが、レトリックも勝れて公的なものである。

 では具体的に見てゆこう。『文章読本』の第九章「文体とレトリック」から、順番に列記する。

隠喩(メタファー):AはBである、というかたちのもの。
直喩(シミリー):AはBのようだ、というかたち(隠喩の直接性を緩めたもの)。
擬人法(プロソポピーア):抽象概念や物に人間のような性質を与えたもの。
迂言法(ペリフラシス):言葉数を多く使って遠まわしに言う技法。
代称(ケニング):何度も話題にのぼるものを別の言葉で婉曲に言う。
頭韻(アリタレイション):綺麗は汚い、汚いは綺麗、といった反復表現。
畳語法(エピジュークシス):同音語をつづけて強調するもの。
首句反復(アナフォーラ):文首・句首の同一語をくりかえすもの。
結句反復(エピフォーラ):文尾に同じ語句をくりかえして印象を強める。
前辞反復(アナディプロシス)前の文中の最後の言葉を次の文で繰り返す。
対句(アンティセシス):二つのものを互いに対比させて表現する。
連辞省略(アシンデント):節や句を接続詞抜きでつなぐ技法。
誇張法(ハイパーボリ):ものごとを誇張して表現する。
緩叙法(マイオウシス):ものごとを控えめに表現する。
曲言法(ライトウティーズ):反対語を否定して強い肯定をあらわす技法。
修辞的疑問(レトリカル・クエスチョン):漢文でいうところの反語。
換喩(メトニミー):事物をその属性をもって言い表す。
撞着語法(オクシモロン):矛盾する語を二つ結びつけて真理を差し出す。
擬声語・擬態語(オノマトピーア):描写するものの声や動作を音声で表現。
諺・パロディ・洒落(パン):文章の効果を高めるために使う。

 ふう〜、全部で20項目もあった(!)。それぞれの具体的な例については、直接『文章読本』に当たっていただきたい。『野火』(大岡昇平著)を綿密に読み込んだ、丸谷氏の行き届いた解説が楽しめる。

 レトリックとは、公的な文章表現において、論旨を上手く伝えていくための技術・型である。ビジネス文章やキャッチ・コピーでも、上手なレトリックを使えば、説得力や躍動感のあるものが書ける筈だ。社交の挨拶同様、レトリックについても良く学び、日本語表現を鍛えようではないか。

 尚、比喩については、日本語の特徴を論じた「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」の項なども参考にしていただきたい。

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議論のための日本語 II

2014年03月18日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回同様、「議論のための日本語」について話を続けたい。前回も引用した「新しい日本語」の項で、「公(Public)の場で使う言葉の創造」として、人称名詞の件と並んで私が提起したのは、英語、存在としてのbeの日本語訳についてである。

(引用開始)

 その一つは、存在としてのbeである。「XXはYYである」という等価のbe、説明のbeとは違ったかたちで、これを簡潔に表現できないものだろうか。

(引用終了)
<「新しい日本語」の項より>

 「再び存在のbeについて」の項などでも書いたが、英語のbe動詞には、基本的に(1)存在のbe、(2)等価のbe、(3)説明のbe、と三種類ある。たとえば、

(1) の例:I think, therefore, I am.
(2) の例:My name is Bond, James Bond.
(3) の例:She is so pretty.

(1)の訳:我思う、故に我あり
(2) の訳:私の名前はボンド、ジェームス・ボンドである。
(3) の訳:彼女はとても可愛い。

近代日本語におけるbe動詞の訳は、「何々は何々である」もしくは「何々は+形容詞など」となるわけだが、(1)存在のbeは、どうやってもこれだけでは表現できない。(1)はいまの近代日本語では簡潔に訳せないのだ(だから訳が古文調になる)。

 この存在のbeは、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

における、A、aの「主格」の拠点を表す重要な言葉である。もともとキリスト教の霊魂不滅から齎された「永続する個性」が、時代を経て、存在のbeによって「自立した個人」という概念になり、それがいまの西欧近代社会の「公(Public)」の精神を支えているのである。

 この存在のbeが日本語にない(簡潔に表現できない)ということは、日本社会においては、世間体や馴れ合いが生じる「私(Private)」空間は常に近景にあるが、民主政治や権利と義務が生じる「公(Public)」の場は、あくまで遠景にあるということだ。会話は得意だが主張や対話は不得意ということである。

 前回「議論のための日本語」の項で論じた人称代名詞の問題も、「公」の場において、「私」的空間で使われる「わたし」「僕」「おれ」「手前」、「あなた」「君」「お前」「きさま」といった(環境中心の)人称代名詞を使おうとする故の混乱ともいえる。存在のbeと人称名詞の問題は、議論のための日本語の脆弱さという点で、互いに深く関連している筈だ。

 この存在のbeと「自立した個人」をどう説明したら実感して貰えるだろう。みなさんは映画『ゼロ・グラビティ』をご覧になっただろうか。あの映画の冒頭、ベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)が一人で宇宙遊泳を楽しんでいる感じ、通信でヒューストンとジョークを交わしながら、陽気にスペース・シャトルの周りをぐるぐると周っている感じ、とでもいえばわかって貰えるだろうか。ジョージ・クルーニーは一人、何もない宇宙空間で、いかにも自立して存在していた。

 それに較べるとメディカル・エンジニアのライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)は、初めての宇宙飛行ということもあって、環境(スペース・シャトルとのロープ)に縋って何やら作業していた。ストーリーの展開は、事故で宇宙空間に放り出されたサンドラ・ブロックを、ジョージ・クルーニーが冷静に探し出し、ロープを繋いで彼女を国際宇宙ステーションまで誘導するのだが、二人が揃って生還するには残った酸素の量が少なすぎることを覚り、ジョージはサンドラを助けるために、自らの命綱を断つ。Resource Planningの極致とでもいうべき決断(!)。「社交のための言葉」ではないが、ジョージが最後まで社交精神、“sense of humor”を失わないことにも注目してほしい。

 その後のストーリーは映画を見てのお楽しみということにして、さて、存在のbeをどう日本語に訳すか。私がいま考えるのは、「!」記号を使ってみたらどうかということだ。

I think, therefore, I amは、「私は考える、だから私!。」
Chances areは「チャンス!。」
Let it beは「そのまま!。」

という具合。発音をどうするかは未定。感嘆符は人の気持ちを立ち止まらせるから、日本語にとって目新しい「存在のbe」の表現に相応しいと思う。数学の「階乗」という意味も、「自立」の社会的波及力を示しているようでインパクトがある。この場合、いまの感嘆符「!」は「!!」に変更すればよい。

 『話し言葉の日本語』井上ひさし・平田オリザ共著(新潮文庫)という本を読むと、この議論(主張や対話)のための日本語の脆弱さに対して、作家故井上ひさし氏が強い危機感を持っておられたことが伝わってくる。「自分の母語を鍛えようとしない人たちはいずれ滅びます」(283ページ)と井上氏はいう。本書から、議論のための日本語に関する井上氏のことばを引用しよう。

(引用開始)

井上 僕がいちばん興味を持っているのは、「満州」問題なんです。(中略)当時の日本には、自分たちが危機に陥ったとき、仲間内を助ける「言葉」はあるんですが、国家とか団結とか敗戦とかを、包括的につかまえる言葉をもたなかった。そのために、代表を出し、難民をどう守るかという交渉をすることが出来なかった。
 もっと言えば、戦後責任を日本人は他の諸国に対してとっていないといわれますが、それもひょっとしたら、日本語が悪いんじゃないか、または日本語を十分使い切っていないために、そうしたことが起きてしまっているのではないか、と思うのです。(中略)
 満州問題を考えていくと、すぐにシベリア抑留という問題につながってきます。(中略)つまり、当時の日本人たちは連合国側と交渉しようという意欲もなければ、言葉も知らない。つまり、自立していないんです。仲たがいした恋人たちが月を見ながら、言葉もかわさずに、お互い仲直りするなんてことは戦争ではありえないわけですから(笑)。ですから「何を書くか」という問題を考えるときには、ある思想、信念をもった人間なり、家族なりの「自立」が必要で、それが主張や対話という名の「言葉」を生むわけですから、自立はひとつの大きなキーワードになるのだと思います。

(引用終了)
<291−295ページより>

外国との交渉において必要なのは、議論のための「言葉」である。人は言葉で考えるわけだから、交渉人の頭の中に議論するための言葉が存在していなければ、会議の場で何語に翻訳しようと議論は出来ない。

 存在のbeの訳語に「!」を使う件、いかがだろう、人称代名詞の数字利用と同様、拙い初歩的な提案かもしれないが、こういう議論を重ねることで、近代日本語に、「公(Public)」の場で使える新しい言葉が加わればと切に思う。

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議論のための日本語

2014年03月11日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「社交のための言葉」の項で、ビジネスには社交が欠かせないと書いたけれど、ビジネスには議論も欠かせない。ここでいう議論とは、(理念実現の為の)戦略、施策や計画を練る際、様々な意見を持ち寄ってその内容を弁証法的に高めてゆく対話を指す。これは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

という複眼主義の対比でいえば、(社交と同じく)A、aの領域の話である。

 いまの日本語で行なう議論は、最後に人格の批判や中傷に墜する場合が多い。それは、「足に靴を合わせる」の項で述べたように、公共の場であっても、日本(語)人は自分の靴=環境を中心にものごとを考えてしまい、議論の相手に対して、その人がどのような意見を述べているかではなく、どのような靴を履いているか(どのような環境にいる人なのか)が主たる関心事となってしまうからである。先日の都知事選挙の議論でもそれが顕著だったように思う。

 森林太郎(号:鷗外)の作品に「杯」(明治43年発表)という短編小説がある。西洋人の「自立精神」といったものを、温泉宿に集う少女たちを主人公にして印象的に描いた作品で、『山椒太夫・高瀬舟』(新潮文庫)の中に収められている。このブログの姉妹サイト「茂木賛の世界」(短編小説館「日本文学」の中)にも載せておいたので覗いてみていただけると嬉しい。これを読むに、鷗外も、日本人の過剰な環境中心の考え方に問題を感じていたに違いない。

 議論の場においては、その人がどのような環境にいるかではなく、その人の意見がどのようなものかが重要であり、年齢、性別、上司・部下、先輩・後輩、といった靴=環境は関係ない。

 この問題に関して私が(「新しい日本語」の項で)提出した日本語改善案は、公共の議論において、環境に依存する人称代名詞を、非環境依存的な表現にしてはどうかというものだ。

 よく知るように、日本語の人称代名詞は、概ねその場の関係性に応じて、自分は「わたし」「僕」「おれ」「手前」、相手は「あなた」「君」「お前」「きさま」、第3者は「彼・彼女」「彼ら」「やつら」など沢山存在する。それまで「わたし」と言っていた人が急に「おれ」と言い出したら、互いの関係性が変わったことを示す。それまで「あなた」と呼ばれていたのが急に「お前」「きさま」と呼ばれ始めたらなにかが変わったことが分る。

 私的な場所ではそれも良いが、公共の議論では、呼び方・呼ばれ方が変わっただけで、その人の意見そのものが変わったように受け取られてしまう。それまで「わたしはこう考えます」と言っていた人が急に「おれはこう考えるんだよ」と言い出したら、まわりの人は引くだろう。いまの日本語のままでは、意見の内容が、人称名詞に隷属化してしまうわけだ。

 だから、公共の議論の場では、

自分は「1」
相手は「2」
第3者は「3」

と称することにしてはどうかというのが私の提案だ。自分の意見は「1の意見は」、相手の意見は「2の意見は」、第3者の意見は「3の意見は」という具合。これは、

「1」=「I」
「2」=「you」
「3」=「he、she、they」

と英語(の人称代名詞)を数字に置き換えただけのことだが、たとえば「君の案のままでは不十分だけれど、わたしの案と併せれば良くなりそうだね」というより、「2の案のままでは不十分だけれど、1の案と併せれば良くなりそうだね」と言ったほうが、案や意見が人間関係に縛られたものではなく、公のテーブルに載った客観物であると見なしやすいのではないだろうか。いかがだろう。

 まあ、これは拙い初歩的な提案かもしれないが、近代日本語に、公(Public)の場で使う新しい言葉を加えてゆくことは、これからの日本の発展とって非常に大切なことだと思う。

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社交のための言葉

2014年03月04日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 前回「足に靴を合わせる」の項で触れた「新しい家族の枠組み」の中に、「社交の復活」という項目(6番目)がある。

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

 これからの時代は、生活の様々なシーンで「社交」が大切になってくる筈だが、いまの日本語は、あまりそれに適していないと思われるところがある。「あれは単なる社交辞令さ」といえば悪口に決まっている。社交とは、優れて都会的な振舞いである。複眼主義の対比でいえば、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
α 都市の時間(t = interest)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
β 自然の時間(t = ∞)

におけるA、aの領域の話だ。だからいまの日本(語)人にはなかなか難しい。

 この面における近代日本語の欠陥について早くから自覚的だったのは、作家の丸谷才一氏だとおもう。氏はその著書『挨拶はたいへんだ』(朝日文庫)における野坂昭如氏との対談のなかで、社交的挨拶の難しさについて次のように述べている。

(引用開始)

野坂 そんなふうにいろいろな配慮が必要なのは、結局、村落共同体での挨拶とはちがふ、都市社会での挨拶の仕方を考へなければいけないからでせう。
丸谷 そのとほりですね。われわれが今、挨拶の問題で困っているのは、村落共同体的な社会から都市的な社会へ、移りかけてゐるし、あるいは移ってしまってゐる。ところが言葉の実態はそれに伴つてゐない。新しい型は出来てゐないし、古い型はとうに亡んでしまつた。つまり非常に困る。その困り方を痛感するから、ぼくの困り方を例に出すことで、みんなで考へようというのがこの本なんです。

(引用終了)
<同書 243ページ>

社交には、村落共同体的な馴れ合いではなく、自立した都会的な言葉が必要なのである。この『挨拶はたいへんだ』と『あいさつは一仕事』(朝日文庫)の2冊は、丸谷氏の各種挨拶文を纏めたユニークな本だ。氏が苦労して練り上げた日本語のスピーチが楽しめる。一読を勧めたい。

 『あいさつは一仕事』の中で、対談相手の和田誠氏は、丸谷流スピーチ術の心得を次の七つに纏めている。

その一「原稿を作って準備する」
その二「長すぎるのはだめ」
その三「余計な前置きを入れるな」
その四「引用は一つにせよ」
その五「おもしろい話を入れろ」
その六「ゴシップを有効に使え」
その七「悪口を言うなら対策を考えておけ」

 以前「現場のビジネス英語“sence of humor”」の項で、近代日本語は環境べったりで、自らの無知や誤解、思考の癖、不得意分野などに自覚的であるという「精神的自立の条件」に不十分であり、そのせいで日本人はユーモアのセンスに欠けているのではないかと指摘したけれど、社交に大切なものの一つは、このユーモアのセンスである。それは、その五「おもしろい話を入れろ」という心得と重なる。

 ビジネスでも挨拶は欠かせない。「新しい家族の枠組み」の時代、丸谷氏の本などを読みながら、自分の「社交のための言葉」を鍛えようではないか。

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新しい日本語

2013年09月03日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、これまでモノコト・シフト後の社会について、「新しい家族の枠組み」「新しい住宅」などの項でその特徴を探ってきたが、ここでは、前回の「会話と対話」の項を踏まえて、「新しい日本語」について考えてみたい。他にもあるだろうが、まず以下3点について述べる。

1.公(Public)の場で使う言葉の創造

カテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで書いてきたように、今の日本語は、前回見た二項対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

のうち、Aの領域における構文や語彙が不足していると思う。だから、普段使うBの領域の日本語はそのままにしておいて、公(Public)の場で使う言葉を、幾つか新しく作ってみてはどうだろうか。

 その一つは、存在としてのbeである。「XXはYYである」という等価のbe、説明のbeとは違ったかたちで、これを簡潔に表現できないものだろうか。

 もう一つは、環境に依存する人称名詞、私や僕、手前や俺、あなたや君、お前やきさまといった言葉を、非環境依存的に表現したいということである。たとえば数字ではどうだろう。自分は1。相手は2。第三者は3。自分の意見は「1の意見は」、相手の意見は「2の意見は」第三者の意見は「3の意見は」という具合だ。

2.初等教育の改革

 平田オリザ氏は、その著書“わかりあえないことから”(講談社現代新書)の中で、これからの初等教育では、「国語」という科目をやめて、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けるべきだと述べている。その部分を引用してみよう。

(引用開始)

 私は初等教育段階では、「国語」を完全に解体し、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けることを提唱してきた。
「表現」には、演劇、音楽、図工はもとより、国語の作文やスピーチ、現在は体育に押しやられているダンスなどを含める。(中略)
「ことば」科では、文法や発音・発声をきちんと教える。現在、日本は先進国の中で、ほとんど唯一、発音・発声をきちんと教えない国となっている。口の開き方や舌のポジションをしっかり教えていくことが、話し言葉の教育の基礎となる。
 初等教育の過程では、この「ことば」科の中に、英語や地域の実情に応じて、韓国語や中国語を入れていけばいい。そうすれば、子どもたちは日本語をもう少し相対的に眺めることができるようになるだろう。

(引用終了)
<同書 59−60ページ>

このような改革によって、子どもたちが「会話と対話」の両方をきちんと学ぶことが出来るようになれば素晴らしいと思う。

3.不思議な日本語の見直し

 今の日本語には不思議な表現が沢山ある。たとえば「入力」と「出力」。英語ではinputとoutputだが、これは何かを出し入れすることであって、「力」とは無関係だ。中国語では「輸入」と「輸出」というらしいが、そのほうが正しく、日本語のように「力」という言葉をつけると、forceが加わっているような誤解が生じる。「酸性とアルカリ性」、「酸化と還元」の両方に使われている「酸」という言葉も分かりにくい。酸性はacidityだからこれで良いが、酸化の場合はoxidizationなのだから、「酸素化」とした方が良いのではあるまいか。「入力」、「出力」、「酸化」のような不思議な日本語は、どんどん正しい言葉に直していくべきだ。

 勿論、日本語の改革は一朝一夕には行かないだろう。真摯な研究と広汎な議論が必要だ。以上はほんのたたき台に過ぎないが、他人任せにしておいて良い訳ではあるまい。これからもいろいろと考えてゆきたい。

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会話と対話

2013年08月27日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 “わかりあえないことから”平田オリザ著(講談社現代新書)という本を有意義に感じながら読んだ。このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」

という対比を掲げ、両者のバランスを大切にする生き方を「複眼主義」と呼んで推奨しているが、平田氏が指摘する、日本人における「対話」能力の必要性は、この考えと重なるように思う。どういうことか説明するために精神科医の斉藤環氏による書評を引用しよう。

(引用開始)

矛盾を抱えた「コミュ力」偏重

 著者の経歴は興味深い。10代で世界一周自転車旅行を決行して体験記を出版し、90年代には「静かな演劇」ブームを牽引したかと思えば、最近ではコミュニケーション論の専門家として名をなしている。
 いっけんばらばらに思われるその活動の軌跡も、本書を読めば、むしろ一貫したテーマの追求であったことが見えてくる。
 かつて旧守的な日本の演劇界に苛立っていた青年は、今わが国の国語教育の抱えた大問題に直面している。著者のいう「ダブルバインド」問題である。
 それは簡単に言えばこういうことだ。明治以降に急ごしらえで整備された国語教育は、タテマエとしては欧米型のコミュニケーションを教えようとしつつも、ホンネの部分では「和を乱さず」「空気を読」み、互いに察し合うような“コミュ力”を求めている。この矛盾を温存したまま、日本社会はどんどん“コミュ力”偏重社会になりつつある。
 私たちは今なお、わかりあえない他者を前提とした「対話」よりも、気心の知れた者どうしの「会話」ばかりを大切にしてはいないか。そのことが多くの子供たちに生きづらさをもたらしてはいないだろうか。
 著者はこうした状況を打開すべく、空気を読み合う「協調性」よりも、他者と交渉するための「社交性」の大切さを強調する。そこで必要となるのは、複数の役割を主体的に“演じ分ける”能力であるという。この指摘には膝を打った。
 震災以降、ばらばらになってしまった私たちの心は、そうなって初めて、対話に向けて開かれた。ここから先も、決して楽な道のりではない。せめて辛い時には、著者の口ぐせを真似てみよう。「みんなちがって、たいへんだ」と。

(引用終了)
<朝日新聞 4/21/2013(フリガナ省略)>

 平田氏による「会話」と「対話」の定義は、

「会話」:価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

ということで、これをこのブログの対比と関連付ければ、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

となるだろう。平田氏が指摘するように、今の日本語に欠けているのは、公(Public)的な「対話」のための語彙なのだ。

 また、平田氏のいう「対話」と「社交性」の重視は、このブログで挙げているモノコト・シフト以降の「新しい家族の枠組み」の価値観、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

とも整合する。「対話」と「社交性」は、これから海外で飛躍しようとする起業家にとっても、欠かすことのできない能力である。

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再び存在のbeについて

2013年07月30日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 <言葉について>

 上野で“夏目漱石の美術世界”展を観た。漱石と東西絵画との繋がりを探る展覧会だが、なかでも近代日本語文学創始者の一人としての夏目漱石と、19世紀末のターナー、ウォーターハウス、ミレイらイギリス絵画との出会いが興味深かった。漱石がロンドンに暮らしたのは今から111年ほど前の1900年〜1902年のことだ。もう111年と云おうか、まだ111年と云おうか。

 その展覧会のカタログに、漱石の“我輩は猫である”という日本語の英訳があるのだが、それは“I am a cat”となっていた。以前「存在としてのbeについて」の項で、

(引用開始)

 ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、“I am a cat”という訳が多いようだ。“I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。

(引用終了)

と書き、電子書籍評論集“複眼主義 言語論”のなかで、その英訳を“The cat am I”ではどうか、と書いたが、今回の展示会のカタログではネット検索どおり“I am a cat”となっていた。

 英語のbe動詞には、基本的に(1)存在のbe、(2)等価のbe、(3)説明のbe、と三種類ある。たとえば、

(1) の例:I think, therefore, I am.
(2) の例:My name is Bond, James Bond.
(3) の例:She is so pretty.

(1) の訳:我思う、故に、我あり
(2) の訳:私の名前はボンド、ジェームス・ボンドである。
(3) の訳:彼女はとても可愛い。

といったところだ。

 近代日本語におけるbe動詞の基本形は、“何々は何々である”、もしくは“何々は+形容詞”という言い方になるわけだが、これでは(1)存在のbeだけはどうやっても表現できない。だから(1)だけは訳が古文のままなのだ(無理やり近代日本語にすれば「私は考える、だから私は存在する」という具合に<存在>という言葉を補って訳すしかない)。

 漱石の“我輩は猫である”というタイトルは、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが強いと思う。だから、(2)等価のbeや(3)説明のbeというよりも、まさに(1)存在のbeのような気がする。

 とすると、“I am a cat”ではあまりに(2)ないしは(3)に寄り過ぎた英訳で、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが出ていないと思う。“I am a cat”を逆に日本語に訳すと、“我輩は猫である”といった重い感じではなく“私は一匹の猫だ”くらいの(等価のbe、説明のbe的な)軽い感じになってしまうのだ。私ならば“The cat am I”とでもしたいと考えたのはこういうわけだ。

 あらためて「存在のbe」の重要性について考えてみたい。前回「アッパーグラウンド II」の項で、

(引用開始)

今の日本語はProcess Technologyには向いているが、Resource Planningには向いていない。英語は逆にResource Planningには向いているが、Process Technologyにはあまり向いていないというのが私の持論だ。勿論今の日本語を鍛えることはできる。

(引用終了)

と書いたけれど、近代日本語がProcess Technologyばかり得意で、Resource Planningに向いていない理由の一つは、この「存在のbe」をそのまま訳せない(日本語の語彙にない)ことにあると思う。

 「存在のbe」は、人が公(public)の場(domain)に自立して存在することを表す動詞だから、それが日本語の語彙に無いということは、極端に言えば、日本人は(民主政治や権利と義務が生じる)公の場には存在せず、(世間体や馴れ合いと苛めが生じる)私(private)空間にばかり住んでいるということになる。

 この存在のbeは、物事を俯瞰するResource Planningに必要な言葉である。この言葉をそのまま訳せないところに、夏目漱石たちが創始した(そして今我々が使っている)近代日本語の最大の欠陥があると思う。人が「存在」しないところに、民主政治も権利も義務もなにも「存在」し得ないのだから。

 話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。

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いつのまにかそうなっている

2012年12月18日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先回「日本語と社会の同質性」のなかで、日本語の環境依存性について触れたけれど、“日本語と英語”片岡義男著(NHK出版新書)にも、同じような指摘があるので紹介したい。まずは新聞の書評を引用する。

(引用開始)

片岡義男著『日本語と英語』 副題は「その違いを楽しむ」。英語と日本語の表現はどう違うのか?拾い上げた表現をインデックスカードに書き留めて両方の言葉と向き合ってきた著者が、具体的な例から論じる。「状態」を基本にする日本語表現と、動詞で能動的に働きかける英語。英語訳の日本古典文学に異なる世界観を読み解くなど、言葉を通して見た文化論でもある。
(NHK出版新書・735円)

(引用終了)
<朝日新聞 1028/2012>

ということで、ここでいう「状態」とは、「環境」とほぼ同義である。本のカバー裏の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

「風呂を取る(take a bath)」ものだと思っていた少年は、ずっと「風呂に入る」ということが分からなかった…主体の思考とアクション(動詞)に奉仕する言葉である英語。一方、世界をすでにでき上がっていてそこに入っていく「状態」として捉える日本語。その二つの言葉の間で、思考し、楽しみ、書き続けてきた作家が、きわめて日常的で平凡な用例をとおして、その根源的な際を浮き彫りにする異色の体験的日本語論/英語論。

(引用終了)

 この本に、「いつのまにかそうなっている」と題された項目がある。このブログでいう、日本人はなぜ人為的な環境・組織からの精神的自立が果たせないのかという話に繋がるので、少々長いが一部を引用してみたい。

(引用開始)

 主語は必要ない、という日常の言葉で、日本の人たちはその日常を生きる。自分は言葉で生きている、というような自覚などいっさい必要がないほどの日常だ。そしてそこは主語のない世界だ。言葉の構造によって言いあらされる内容のなかに、主語は内蔵される。したがってそれは暗黙の了解事項であり、いちいちおもてにあらわれる必要はないし、言葉の構造じたい、常に主語を明確に立てるようには出来ていない。
 主語がIやyouならそれらは主語にならないし、Iやyouの思考や行動を引き受けて言いあらわす動詞も、必要ないから姿をあらわさない。動詞が働きかける目的語その他、主語からの一連の構造的つながりはそこになく、そのかわりに、いつのまにかそうなっている状態、というものが言いあらわされる。英語では、なんらかの動詞によって、そうなっていきつつある動態として表現されるものが、日本語ではすでにそうなっている状態が、名詞で言いあらわされる。そうなっている状態とは、Iやyouによって思考され行動された結果のものではなく、いつのまにかそうなり、いまもそのとおりそこにある、その状態というものだ。(中略)
 なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在。思考が嫌いなのだろう。というよりも、それが出来ない。主語は隠れていることがほとんど常に可能だから、主語の主語たるゆえんである思考も隠れる、つまりそれは出来ないし嫌いだとなると、当然のこととして、思考に基づく行動も嫌いだろう。だから思考と行動の両方を放棄しても、日常の言葉を日常的に使って日常を営むには、いっさいなんの不自由もない。
 いつのまにかそうなっていて、いまもそうなったままの状態のなかに、人は入りたいと願う。いつのまにかそうなって、いまもそのままに、そこにある状態。人々はこれが大好きだ。だからそこに自分も入りたがる。いつのまにかそうなってそこにある状態とは、現状とその延長に他ならない。それが大好きでそこに入っていたいのだから、いまそこにあるその状態には、身をまかせるかのように従わざるを得ない。なんの疑問も抱くことなく、ほぼ自動的に従う。だから問題はなにも見えないし解決もされない。現状は悪化していくいっぽうだとしても。
 Youという呼びかけのひと言は、きわめてぜんたい的だ。youと呼ばれたその人のすべてがyouなのだ。youというひと言のなかに、そう呼ばれたその人のすべてがある。その人はyouと呼ばれることによって、すべてが丸出しのような状態になる。
 日本語の場合は呼びかけかたにいろいろある。そのときその場でその相手から必要とされる自分、という部分的な自分が、いろんな呼びかけかたのひとつひとつをとおして、呼びかけられる。それ以外の自分は隠れている。保護されている。自分は他者に対してほとんど常に、部分的な自分なのだ。Iについてもまったくおなじだ。Iがそうだから、youもそうなる。その時その場でその相手に必要とされる部分的な自分など、Iやyouにはあり得ない。(後略)

(引用終了)
<同書 101−104ページ>

いかがだろう。日本人はなぜ人為的な環境・組織からの精神的自立が果たせないのかというと、日本語が「なにごとも動詞をとらずにすませるための主語の不在」の言語だからなのだ。日本人が、公的な領域で精神的自立を果たすためには、日本語のなかに、Iやyouとおなじような「ぜんたい的」な主格を表す言葉が必要なのだろう。

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“選手”という呼び方

2011年12月06日 [ 言葉について ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本のモノづくり」の項で、日本のモノづくりの質が高いのは、日本語が母音語であることと、それに伴って起こる「自他認識」の希薄性が「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」を生み、それが自然や組織ばかりではなく機械などの無機的環境に対しても働くという「日本語の特質」に由るところが大きいと述べたけれど、この特質は一方において、「自分の属する組織を盲目的に守る力」ともなり、悪くすると機能組織が破綻していても「組織内の秩序を乱さないように努力する力」にまで墜することがある。

 日本語が母音語であることとそれに伴って起こる「自他認識」の希薄性のメカニズムについては、「母音言語と自他認識」の項を参照して欲しい。複雑だが興味深いプロセスだ。

 「相手にあわせる」「迷惑をかけない」「空気を読む」「派閥をつくる」「敬語の使用」「上座と下座」「先輩と後輩」「お辞儀」などといった「出来るだけ周囲に波風を立てないための気配り」は確かに日本独特のものである。以前「上座と下座」の項で、日本にはエレベーターの中にも上座と下座があるらしいと述べたけれど、我々は日常生活の上で常に周囲への気配りを強いられる。

 このことに関連して、先日、新聞のコラムに面白い話が載っていたので紹介しよう。

(引用開始)

後輩の呼び方

 たとえ無名の役者であっても「さん」付け、「君」付けで呼ぶことを心掛けている。呼び捨てにした相手が突然出世し、その時になって「さん」付けで呼ぶのは、ばつが悪いからだ。
 一つの仕事がキッカケで、スターになる芸能界。死体役のA君が、数年後、主役になっていることも珍しくない。
 こうした例は何もタレントだけじゃない。
 僕の放送作家の先輩は、駆け出しの作家を「おい、おまえ」と呼び、そこそこ売れてくると、「○○」と呼び捨てにする。そして、その作家が番組のチーフを担うくらい出世すると、「○○選手」と呼ぶようになる。
 なぜ「選手」なのか?明確な理由は本人に聞かないとわからないが、自分の威厳を保ちつつ、相手への尊敬の念を表すのに、きっとバランスが良い呼び方なのだろう。先輩にとって出世する後輩の扱いは難しい。
 先日、前人未到の三百セーブを達成した中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手は僕の大学の後輩だ。
 プロ野球選手になる前、都市対抗野球で東京に来た際、彼に寿司をおごったことがある。
 「気合入れて頑張れよ」
 先輩面して声を掛けた自分が今ではとても恥ずかしい。
 ちなみに日本を代表する大投手を、僕は何て呼ぶのか?
 「岩瀬選手」である。

(引用終了)
<東京新聞 9/14/2011>

コラムの著者は水野宗徳という放送作家さんで、業界の慣例を正直に面白く書いておられるが、みなさんの所属する組織や業界でも似たような話があるのではないだろうか。

 日本では、機能組織(ゲゼルシャフト)においても、「先輩と後輩」の関係が精神的に維持される。だから、後輩が先輩より偉くなると、組織的には序列が逆転するということで、両者に精神的葛藤が生まれる。とくに先輩の方にその葛藤は強いはずだ。“選手”という絶妙な呼び方が出現するのはそういう理由なのだろう。これも「出来るだけ周囲に波風を立てないための気配り」の典型的な表出形態なのである。しかしこのような「気配り」は、仕事の出来不出来とは関係がない。むしろこういった感情が地下に潜ると、不要ないじめの温床になりかねない。

 日本語の「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」は、一方で「日本のモノづくり」の素晴らしさを生むけれど、内向すると「出来るだけ周囲に波風を立てないための気配り」となり、それが地下に潜ると不要ないじめや仕事のサボタージュを生みかねない。「日本のモノづくり」の素晴らしさは、同時にこのような弊害も抱え込んでいることを頭に入れてにおいたほうが良いだろう。

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夜間飛行について

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