前回同様、「議論のための日本語」について話を続けたい。前回も引用した「
新しい日本語」の項で、「公(Public)の場で使う言葉の創造」として、人称名詞の件と並んで私が提起したのは、英語、存在としてのbeの日本語訳についてである。
(引用開始)
その一つは、存在としてのbeである。「XXはYYである」という等価のbe、説明のbeとは違ったかたちで、これを簡潔に表現できないものだろうか。
(引用終了)
<「新しい日本語」の項より>
「
再び存在のbeについて」の項などでも書いたが、英語のbe動詞には、基本的に(1)存在のbe、(2)等価のbe、(3)説明のbe、と三種類ある。たとえば、
(1) の例:I think, therefore, I am.
(2) の例:My name is Bond, James Bond.
(3) の例:She is so pretty.
(1)の訳:我思う、故に我あり
(2) の訳:私の名前はボンド、ジェームス・ボンドである。
(3) の訳:彼女はとても可愛い。
近代日本語におけるbe動詞の訳は、「何々は何々である」もしくは「何々は+形容詞など」となるわけだが、(1)存在のbeは、どうやってもこれだけでは表現できない。(1)はいまの近代日本語では簡潔に訳せないのだ(だから訳が古文調になる)。
この存在のbeは、複眼主義の対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
における、A、aの「主格」の拠点を表す重要な言葉である。もともとキリスト教の霊魂不滅から齎された「永続する個性」が、時代を経て、存在のbeによって「自立した個人」という概念になり、それがいまの西欧近代社会の「公(Public)」の精神を支えているのである。
この存在のbeが日本語にない(簡潔に表現できない)ということは、日本社会においては、世間体や馴れ合いが生じる「私(Private)」空間は常に近景にあるが、民主政治や権利と義務が生じる「公(Public)」の場は、あくまで遠景にあるということだ。会話は得意だが主張や対話は不得意ということである。
前回「
議論のための日本語」の項で論じた人称代名詞の問題も、「公」の場において、「私」的空間で使われる「わたし」「僕」「おれ」「手前」、「あなた」「君」「お前」「きさま」といった(環境中心の)人称代名詞を使おうとする故の混乱ともいえる。存在のbeと人称名詞の問題は、議論のための日本語の脆弱さという点で、互いに深く関連している筈だ。
この存在のbeと「自立した個人」をどう説明したら実感して貰えるだろう。みなさんは映画『ゼロ・グラビティ』をご覧になっただろうか。あの映画の冒頭、ベテラン宇宙飛行士マット・コワルスキー(ジョージ・クルーニー)が一人で宇宙遊泳を楽しんでいる感じ、通信でヒューストンとジョークを交わしながら、陽気にスペース・シャトルの周りをぐるぐると周っている感じ、とでもいえばわかって貰えるだろうか。ジョージ・クルーニーは一人、何もない宇宙空間で、いかにも自立して存在していた。
それに較べるとメディカル・エンジニアのライアン・ストーン(サンドラ・ブロック)は、初めての宇宙飛行ということもあって、環境(スペース・シャトルとのロープ)に縋って何やら作業していた。ストーリーの展開は、事故で宇宙空間に放り出されたサンドラ・ブロックを、ジョージ・クルーニーが冷静に探し出し、ロープを繋いで彼女を国際宇宙ステーションまで誘導するのだが、二人が揃って生還するには残った酸素の量が少なすぎることを覚り、ジョージはサンドラを助けるために、自らの命綱を断つ。Resource Planningの極致とでもいうべき決断(!)。「
社交のための言葉」ではないが、ジョージが最後まで社交精神、“sense of humor”を失わないことにも注目してほしい。
その後のストーリーは映画を見てのお楽しみということにして、さて、存在のbeをどう日本語に訳すか。私がいま考えるのは、「!」記号を使ってみたらどうかということだ。
I think, therefore, I amは、「私は考える、だから私!。」
Chances areは「チャンス!。」
Let it beは「そのまま!。」
という具合。発音をどうするかは未定。感嘆符は人の気持ちを立ち止まらせるから、日本語にとって目新しい「存在のbe」の表現に相応しいと思う。数学の「階乗」という意味も、「自立」の社会的波及力を示しているようでインパクトがある。この場合、いまの感嘆符「!」は「!!」に変更すればよい。
『話し言葉の日本語』井上ひさし・平田オリザ共著(新潮文庫)という本を読むと、この議論(主張や対話)のための日本語の脆弱さに対して、作家故井上ひさし氏が強い危機感を持っておられたことが伝わってくる。「自分の母語を鍛えようとしない人たちはいずれ滅びます」(283ページ)と井上氏はいう。本書から、議論のための日本語に関する井上氏のことばを引用しよう。
(引用開始)
井上 僕がいちばん興味を持っているのは、「満州」問題なんです。(中略)当時の日本には、自分たちが危機に陥ったとき、仲間内を助ける「言葉」はあるんですが、国家とか団結とか敗戦とかを、包括的につかまえる言葉をもたなかった。そのために、代表を出し、難民をどう守るかという交渉をすることが出来なかった。
もっと言えば、戦後責任を日本人は他の諸国に対してとっていないといわれますが、それもひょっとしたら、日本語が悪いんじゃないか、または日本語を十分使い切っていないために、そうしたことが起きてしまっているのではないか、と思うのです。(中略)
満州問題を考えていくと、すぐにシベリア抑留という問題につながってきます。(中略)つまり、当時の日本人たちは連合国側と交渉しようという意欲もなければ、言葉も知らない。つまり、自立していないんです。仲たがいした恋人たちが月を見ながら、言葉もかわさずに、お互い仲直りするなんてことは戦争ではありえないわけですから(笑)。ですから「何を書くか」という問題を考えるときには、ある思想、信念をもった人間なり、家族なりの「自立」が必要で、それが主張や対話という名の「言葉」を生むわけですから、自立はひとつの大きなキーワードになるのだと思います。
(引用終了)
<291−295ページより>
外国との交渉において必要なのは、議論のための「言葉」である。人は言葉で考えるわけだから、交渉人の頭の中に議論するための言葉が存在していなければ、会議の場で何語に翻訳しようと議論は出来ない。
存在のbeの訳語に「!」を使う件、いかがだろう、人称代名詞の数字利用と同様、拙い初歩的な提案かもしれないが、こういう議論を重ねることで、近代日本語に、「公(Public)」の場で使える新しい言葉が加わればと切に思う。