我々はよく、集合名詞(複数の構成員から成る集団・機関・組織などを一つの単位として現す名詞)を使って、これからのことを話すことがある。たとえば、「次の選挙はきっとA党が勝つだろう」とか、「うちの会社はまた人員削減をするだろう」などである。
しかしこれは正確な言い方ではない。なぜなら、何かを成すのは個々人であって、人の集合体が何かをする訳ではないからだ。
もちろんそういう言い方の意図は、将来に起こるであろうことを集合名詞に代表させて予測するということなのだが、問題なのは、そういう言い方が多くの場合、集団に対する自らの行為の影響力を過小評価し、「大勢は決まっているのだから、自分ひとりではどうせ結果を変えられない」という諦めを含むことだ。「次の選挙はA党が勝つだろう」とか、「うちの会社はまた人員削減をするだろう」という予測にもとに、「どうせ」選挙にいかなかったり、「どうせ」経営者に文句を言わなかったりする人は多い。
我々は歴史を習う中で、過去の記述に集合名詞を使うことに慣れてしまった。はじめの例に関連させれば「A党は三年前の選挙に大勝した」、「B社は三年前に人員削減を行った」などなど。しかしこれは、それを行った個人を特定し、その名前を全て書くことが事実上不可能だから、簡便的に集合名詞で代替しているのであって、実際に「A党」や「B社」が何かを行ったのではない。集合名詞は行為の主体にはなり得ない。これまで人間社会で起ったことのすべては一人一人の判断と行動(あるいは非行動)の結果であり、これからもそれ以外はあり得ないということを我々は肝に銘じるべきだろう。これからのことを簡便的に集合名詞で決め付けてはいけないのだ。
ビジネスの現場でも、本当のところ個人の力が全てである。何かを成し遂げるためには、社員一人ひとりが持てる力をフルに発揮する意外に道はない。スモールビジネスにおいては特に、社長以下社員一人ひとりの行為がそのまますぐに会社の業績・評価に繋がる。将来、それらの行為の軌跡を第三者が振り返ってみたときに初めて、「あの小さな会社は三年前に画期的な開発を行った」と(歴史的に)語られるのである。
ところでこの、行為の主体があくまでも「個人」であるという立場は、常に思考の枠組みから自分というものを外さないという点で、複雑系の科学でいう「内部観測」の考え方に近いかもしれない。先回「生産と消費について」で書いた「生産」と「消費」の相補性と併せて、これからの社会科学には、環境に運動の意味を探る「アフォーダンス」の理論を援用していく必要がありそうだ。内部観測とアフォーダンスについては、「複雑系の科学と現代思想 アフォーダンス」佐々木正人/松野孝一郎/三嶋博之共著(青土社)を参照されたい。