このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それらを牽引するのは、フレキシブルで判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると主張してきた。ここでいうスモールビジネスとは、起業理念が明確な小規模企業を指す。従業員数の目安としては、社長1人から全員で30人くらいまでを想定しているが、業種によって適正規模があるからあまり拘らなくても良い。
先日“小商いのすすめ”平川克美著(ミシマ社)という本を読んだ。このブログでの主張と重なるところが多いので、今回はこの本を紹介したい。まずは新聞の書評から。
(引用開始)
装丁のセンスと「小商い」という言葉の響きに惹かれて手に取った。が、著者が前書きで断っているように、本書は小規模ビジネスの指南本ではない。
グローバル資本主義が行き詰まり、経済成長神話や原発安全神話が崩壊した今、我々はどんなやり方で未来を描くべきか。本書では貧しくも活気があった昭和30年代を見つめ直しながらそのヒントを探る。キーワードは経済の縮小均衡とヒューマン・スケール(身の丈)の復興だ。
金融技術によって膨らませた経済とは対極にある、地に足のついた、血の通った営み――そんな“小商いの哲学”に日本再生の希望を見る。「経営規模としては、むしろ小なるを望む」と謳ったソニーの設立趣意書を「小商いマニフェスト」と捉え、その精神を軽視したが故に、ソニーは輝きを失ったと説くのだ。
換言すれば、経済成長の夢から覚めて「大人になれ」ということ。例えば高度成長を主導した下村治は、日本の拡大均衡が限界に達したことを1980年代半ばに見抜いていたという。
小商いとは「身の回りの人間的なちいさな問題を、自らの責任において引き受ける」生き方のことでもある。脱・経済成長論は多々あれど、興味をそそるタイトルが本書の白眉。小商いを旨とする版元の出版社のありようが著者の主張を体現している。(ミシマ社・1680円)
(引用終了)
<朝日新聞 4/1/2012(ルビ省略)>
ということで、この本には私が勤めていたソニーの設立趣意書も出てくる。小商いについて、さらに本書から引用しよう。
(引用開始)
小商いとは、自分が売りたい商品を、売りたい人に届けたいという送り手と受け手を直接的につないでいけるビジネスという名の交通であり、この直接性とは無縁の株主や、巨大な流通システムの影響を最小化できるやり方です。
当然のことながら、そこに大きな利潤が生まれることはありません。
しかし、小商いであるがゆえに、それほど大きな利潤というものも必要とはしていない。
何よりも、送り手と受け手の関係が長期にわたって継続してゆくことで、送り手は自分が行なっていることが意味のあることであり、社会に必要とされているのだと実感することができることが重要なのです。
(引用終了)
<同書 212ページ>
本書の鍵となるコンセプトは、書評にもあるとおり「ヒューマン・スケール」という言葉だろう。本書のあとがきから引用する。
(引用開始)
人間は誰でも自然の摂理のなかから偶然にこの世に生れ落ち、数十年を経て再び自然の摂理の中に回収されていく存在です。
本書の中で繰り返し述べているヒューマン・スケールとは、まさに人間がどこまでいっても自然性という限界を超え出ることはできない存在であり、その限界には意味があるのだということから導き出した言葉です。
小商いという言葉は、そのヒューマン・スケールという言葉の日本語訳なのです。
(引用終了)
<同書 227ページ>
ヒューマン・スケールという言葉には、物事を判断するに及んで「自分を外さない」という意味も込められている。
(引用開始)
ひとは、自分を棚上げにしたところでは何でも言うことが可能ですが、自分を棚上げしてなされた言葉は中空に浮遊するだけで、他者に届くことはありません。
(引用終了)
<同書 132ページ>
このブログでも、「
集合名詞(collective noun)の罠」の項で、「これまで人間社会で起こったことのすべては一人一人の判断と行動(あるいは非行動)の結果であり、これからもそれ以外はあり得ないということを我々は肝に銘じるべきだろう。(中略)ビジネスの現場でも、本当のところ個人の力が全てである。何かを成し遂げるためには、社員一人ひとりが持てる力をフルに発揮する以外に道はない。スモールビジネスにおいては特に、社長以下社員一人ひとりの行為がそのまますぐ会社の業績・評価につながる。」と述べたことがある。
著者の平川氏はさらに、ヒューマン・スケールとは、本来自分には責任のない「いま・ここ」に対して、責任を持つ生き方だという。
(引用開始)
そういった合理主義的には損な役回りをする人があって、はじめて地域という「場」に血が通い、共同体が息を吹き返すことができる。(中略)
ともかく、誰かが最初に贈与的な行為をすることでしか共同体は起動していかない。
合理主義的には損な役回りといいましたが、ほんとうはそうとばかりはいえないだろうとわたしは思っています。
なぜなら、責任がないことに責任を持つときに、はじめて「いま・ここ」に生きていることの意味が生まれてくるからです。
自分が「いま・ここ」にいるという偶然を、必然に変えることができる。
(引用終了)
<同書 195−196ページ>
この考え方は、「人は自分のために生まれるのではなく、社会のために生まれてくる」とする私の「
生産と消費論」とシンクロする。人は、自然の摂理のなかから、本来自分には責任のない「いま・ここ」(社会)に生まれてくる。そして、その「いま・ここ」に貢献することで、生きていることの意味が生じてくるのだ。この考え方については、
小説“僕のH2O”でも展開しているので併せてお読みいただければ嬉しい。
平川氏は、新聞のインタビュー記事(東京新聞 3/4/2012)のなかで、この本は、執筆中の昨年三月に東日本大震災があり、同じ年の六月に一年半介護した父親を看取るという二つの体験がなければ書けなかったとし、「毎日早く帰ってスーパーに立ち寄り、ご飯をつくって洗濯する。それを続けて分かったのは、人間は自分のために生きているのではない、ということです。自分を必要としてくれる人間のために生きているときに、生命エネルギーはものすごく上がるんです。震災以降にわれわれが身に付けなければいけない耐性はそれだと思う」と述べておられる。また、同インタビュー記事によると、平川氏は、現在IT関連など二つの会社を都内で経営しているが、社員は合わせて十人。自ら「小商い」を実践しているとのことである。小商い(スモールビジネス)については、ここのカテゴリ「
起業論」でもいろいろな角度から論じているので、参照していただきたい。