夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


観光業について II 

2015年09月22日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「観光業について」の項に引き続き、これからの観光業にとって大切だと思われることを検討してみたい。前回の復習になるが、モノコト・シフト時代は、経済三層構造、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

において、特にa領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」(a、b両領域)に対する親近感が増す。観光業は「コト経済」(b領域)がベースだから、ヨーロッパなど先進諸国における、後者(「コト経済」への親近感)の増大を追い風にすべきである。「コト経済」の真価は、別の層「マネー経済」の指標では捉えきれない、むしろ、

(1)日本語(文化)のユニークさをアピールする
(2)パーソナルな人と人との繋がりをつくる
(3)街の景観を整える(庭園都市)

といったGDPに表われない部分に磨きを掛けることが大切になる、という話だった。

 21世紀は、モノコト・シフトの時代であるとともに、ユーラシア大陸の発展が期待される世紀でもある。ユーラシア大陸とは、ヨーロッパとアジアとを合わせた地形的に独立した地域を指す。最近(2015年8月に)出た『中国、アラブ、欧州が手を結びユーラシアの時代が勃興する』副島隆彦著(ビジネス社)は、これからはアメリカの時代が終わり、中国を中心としたユーラシアの時代が来ることを予言する内容の本だ。「あとがき」から一部引用しよう。

(引用開始)

 いちばん新しい中国の話題は、AIIBアジアインフラ投資銀行の設立である。そして中国政府が4月に打ち出した「一帯一路」構想は、これからの世界に向かって中国が示した大きなヴィジョンだ。ユーラシア大陸のド真ん中に、10億人の新たな需要が生まれる、中国とロシアと、アラブ世界とヨーロッパ(インドも加わる)が組んで、新たなユーラシアの時代が始まるのだ。

(引用終了)
<同書 231ページ(フリガナ省略)>

詳しくは本書をお読みいただきたいが、一帯一路の「一帯(ワンベルト)」とはユーラシア大陸を貫通する幾本もの鉄道と幹線道路のであり、「一路(ワンルート)」とは南米諸国にも繋がる世界横断航路を示しているという。規模の大きな話である。

 英国と日本は、ちょうど西と東からユーラシア大陸を挟むような位置にある。この大陸の発展を観光業の観点でみれば、西欧諸国を西の端として、中欧と北欧、中近東、インド、中国、ロシアを含む大陸全土から、多くの人が日本を訪れるということである。前回、「日本海側の魅力」の項で論じた関心事、と書いたのはこのことだ。

 今の時点では、モノコト・シフトの波を早く被った地域(先進国)と、まださざなみ程度の地域(開発途上国)の違いがあるから、ユーラシアから日本へ来る人々の多くは、単純にモノを買い求めることが興味の中心かもしれない。しかしやがてモノコト・シフトが進めば、彼らの間でも「コト経済」(b領域)への親近感が高まるに違いない。そのとき、日本が大陸と同じではつまらないではないか。だから、

(1)日本語(文化)のユニークさをアピールする
(2)パーソナルな人と人との繋がりをつくる
(3)街の景観を整える(庭園都市)

といった話になるわけだ。「日本の森」の項などで見たとおり、日本列島は南北に長く山が多い。世界のどこにも見られないような多様な森、山、海岸線が広がっている。そういう自然環境(で起る様々なコト)も訪れる人々を魅了するだろう。

 日本の歴史を振り返り、古代からのユーラシアとの接点をいろいろと探り出すのも面白いかもしれない。ユーラシア大陸の西端にある英国と組んで、二つの島国の似ているところ、違っているところを大陸の文化と関連付けて研究するのも楽しいかもしれない。

 その他の地域、南北アメリカ大陸、オセアニア、東南アジア、アフリカ大陸からの観光客に対しても、同様のことがいえる。「コト経済」の最先端を実践する国としての日本、そういう魅力が世界の人々をこの地へ引き寄せる筈だ。

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観光業について

2015年09月15日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 「環境中心の日本語」の項で引用した『新・観光立国論』デービッド・アトキンソン著(東洋経済新報社)について改めて紹介したい。まず新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 東京五輪開催決定のIOC総会での「お・も・て・な・し」のプレゼン。日本では好評だが、欧州では一つ一つ区切った話し方は相手を見下す態度にとられ、「否定的意見が多い」との記述に一瞬、目が点に。
 在日25年。敏腕証券アナリストから創業300年超の文化財修繕会社の社長に。茶道に通じ、京町家に住むイギリス人が、日本の外国人観光客誘致戦略に「勘違い」はないかただすべく、日本語で書いた辛口提案書だ。
 「世界に誇るおもてなしの心」も、外国人にとっては旅の途中での「人との触れ合い」程度の話で第一目的にはならない。そこには「自分たちが世界でも特別な存在」との「自画自賛」の「上から目線」を感じるという。
 気候、自然、文化、食事の「観光立国の4条件」を満たす希有な国なのに、お金を落としてもらうための、外国人目線に立ったサービスが不足した「観光後進国」との指適も耳が痛い。
 人口減少社会でGDPを増やすには、外国人観光客を「短期移民」と位置づける戦略が必要との論法が面白い。だから、「おもてなし」の精神以上にサービスとインフラを整備せよと。
 観光支出の多い欧州などの「上客」を呼び込む方法も披露。特に文化財の意味を伝える見せ方の提案は傾聴すべきだ。

(引用終了)
<朝日新聞 7/5/2015>

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

という対比を論じているが、この本は特にAの観点から、日本の観光業の足りないところを論じたものだ。たとえば、ゴールデンウィークは無くしたほうが良いなど、日本語的発想とは一味違った指適が多い。観光関連で起業を目指す人にお勧めの本である。

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 「経済の三層構造」や「“モノ”余りの時代」の項で論じたように、モノコト・シフトの時代には、経済の三層構造、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

において、特にa領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」(a、b両領域)に対する親近感が増す。尚、ここでいう「経済」とは、自然の諸々の循環を含め人間を養う社会の根本理念・摂理(人間存在システムそのもの)をいう。

 開発途上国の国民の間では、前者<a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力>の方が、後者<「コト経済」(a、b両領域)に対する親近感>よりも重要だろうが、生活必需品が行き渡っている先進諸国の上層国民の間においては、後者の方が重視されるはずだ。観光業はそもそも「コト経済」(b領域)をベースにしたビジネスだから、これからの観光業は、この後者の増大を最大限に追い風とすべきなのであろう。この本でアトキンソン氏は、観光支出の多い欧州などの「上客」をより重点的に呼び込むべきだとしているが、それはこういった背景を踏まえているのだと思われる。

 世界的に見て今の時点では、モノコト・シフトの波を早く被った地域(先進国)と、まださざなみ程度の地域(開発途上国)の違いはある。開発途上国の国民が日本へ買出しに来るのは、モノ信仰の故かもしれない。しかしモノコト・シフトが進めば、彼らの間でも「コト経済」(b領域)への親近感が高まるだろう。

 モノコト・シフトの時代、この本に付け加えて我々のなすべきことは、

(1)日本語(文化)のユニークさをアピールする
(2)パーソナルな人と人との繋がりをつくる
(3)街の景観を整える(庭園都市

など、GDPに表われない部分に磨きを掛けることだと思う。ITを活用するのもいいだろう。「コト経済」の真価は、「マネー経済」の指標では捉えきれない。この件、「日本海側の魅力」の項で論じた関心事と併せ、さらに別途検討してみよう。

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posted by 茂木賛 at 12:27 | Permalink | Comment(0) | 起業論

日本海側の魅力

2015年07月14日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日青森の奥入瀬へ旅行したついでに、津軽まで足を伸ばしてその先の日本海を見てきた。今回は日本海側について書いてみたい。

 最近日本海や日本海側について書いた本が多い。北陸新幹線開通の影響かもしれないが、それ以上に、モノコト・シフトの時代、人々の関心が大量生産時代に発展した太平洋側から、発展の遅れた日本海側へ向いてきているせいではないだろうか。

 モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 発展が遅れると(それでもなんとか持ちこたえていると)一周遅れで時代の先端に立つことがある。日本海側もその一例に違いない。こちら側にはまだ自然が多く残されている。

 日本海や日本海側について書かれた本のうち目に留まったものをざっと挙げるだけで、

『裏が、幸せ。』酒井順子著(小学館、3/2/2015)
『北陸から見た日本史』読売新聞北陸支局編(洋泉社、3/5/2015)
『日本海ものがたり』中野美代子著(岩波書店、4/22/2015)

がある。単行本が出たのは少し前だが最近文庫になった『奇跡のレストラン アル・ケッチャーノ』一志治夫著(文春文庫、3/10/2015)もある。これは山形の庄内平野にあるレストランの物語だ。

 私自身、青森や秋田、北陸など、最近日本海側へ行く機会が増えた。増えたというより意図的に日本海側への旅を増やしているというべきかもしれない。まあ、京都や奈良、四国や瀬戸内海、長野や福島、北海道などへも行っているから実際の比率はそうでもないかもしれないが、気持ちの上で日本海側への旅は格別なものがある。『裏が、幸せ。』の書評を引用しよう。

(引用開始)

日本海側から価値の転回迫る

 近代日本は国民国家として統合されると同時に「表」と「裏」の分断を経験した。重工業中心の国土開発から取り残されがちだった日本海側、いわゆる裏日本は雪に閉ざされる冬の厳しさもあり、過疎化を深めた地域も多い。
 しかし、そんな日本海沿岸を旅行して現地の人々と交わり、それぞれの地に縁のある人物の生きざまや文学作品に触れた著者は、改めて「裏」の魅力に惹かれ始める。
 それは弱者に同情する「判官びいき」ではない。たとえば輪島塗の漆器には暗さの中でこそ浮かび上がる美がある。光よりも陰翳を味わおうとするその感性は、輝かしい未来を無邪気に夢見た経済成長を終え、限りある条件の中での成熟を目指すことにあるこれからの日本に必要なものだろうと著者は指適する。
 折しも北陸新幹線開通とタイミングが一致。親しみやすい文体も相まって観光指南書として楽しく読めるが、実は価値観の本質的な転回を迫る野心的な一冊でもある。武田徹(評論家)

(引用終了)
<朝日新聞 4/12/2015(フリガナ省略)>

本の帯には、<これからの日本で輝くのは「控えめだけれど、豊かで強靭な」日本海側です。>とある。開発が遅れた日本海側は起業チャンスとして、将来有望だと思う。

 この本でも紹介されているけれど、雑誌『自遊人』の編集部は、新潟にある(東京から新潟に移した)という。このブログでは「心ここに在らずの大人たち」「フルサトをつくる若者たち」「限界集落は将来有望」「高度成長という幻想」などの項で、これからは「地方の時代」だと述べてきた。雑誌『ソトコト』が最近「地方で起業するローカルベンチャー」という特集を組んだ(7/2015号)のもその表れだろう。中でも「日本海側」は、これから発展が期待されるユーラシア大陸への玄関口でもある。だからそれを視野に入れた発想のビジネスも展開できる。

 私にとって日本海側への旅が格別な理由がもう一つある。それは古代史に関わる関心事で、日本列島への文化の流入ルートとしていわゆる「時計回り」、シベリアから北海道をへて東北、北陸へと伝わった筈のヒトとモノのトレースに興味を持っている。今回青森では三内丸山遺跡も見てきた。

 ビジネス的な関心と古代史的な興味、それがあるからこれからも日本海側への旅を続けようと思う。尚、金沢のことは「金沢の魅力」の項をどうぞお読み下さい。

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posted by 茂木賛 at 13:20 | Permalink | Comment(0) | 起業論

“モノ”余りの時代

2015年04月20日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 『余剰の時代』副島隆彦著(ベスト新書)は、この時代、余るのはモノばかりではなくヒトも余るということを正面から取り上げた本だ。本カバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

この厳しい時代を生き延びるための本当の知恵

 21世紀の現代を生きる私たちは今、途方もなく厳しい時代を生きている。「余剰・過剰」問題という怪物が世界を徘徊している。モノを作っても売れない。どんなに値段を下げても売れない。だから、人間が余ってしまう。従業員を「喰(く)わせてやる」ことができない。社会は失業者予備軍で溢(あふ)れている。とりわけ若者が就職できない。
 実は百年前のヨーロッパで始まった、この解決不能の問題を、人類の中の最も精鋭な人たちがすでに真剣に悩みぬいていた。
 ヴォルテール、ニーチェ、ケインズに導かれ、政治思想家であり、かつ金融・経済予測本のトップランナーである著者が、この難問に挑む。

(引用終了)

 このブログではまた、経済というものを、自然の諸々の循環を含め人間を養う社会の根本理念・摂理(人間集団の存在システムそのもの)とし、その全体を三つの層で捉えている。

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という三層で、モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力が高まると共に、特に「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろうと予測している。

 この時代、「モノ経済」bは基本的に余ってくる。ヒトも頭数(あたまかず)として捉えれば「モノ経済」bに含まれるから余るわけだ。社会生活全体に「マネー経済」bが強く絡んでいる先進国においては、生産効率が重視されるからヒトが余る。生産効率の悪い後進国においては労働力を得るためにヒトが増える。しかしやがて効率は上がる。だがすぐにヒトは減らない。だから(「マネー経済」bを縮小させない限り)21世紀は当面これまで以上にヒトが余ってくるのだ。

 昔戦争は領土を増やすために行なわれたが、大量生産の時代に入り砲弾や戦車などの「モノ経済」bが余ってくると、その消費の為にも戦争が行なわれるようになった。21世紀の戦争はさらに余ったヒトも含めて消費してしまおうという恐ろしい側面を持つ。モノコト・シフトの時代は「三つの宿啞」との戦いでもある。だから副島氏はこの本で「生き延びる思想10カ条」を説く。

(引用開始)

1 夢・希望で生きない
2 自分を冷酷に見つめる
3 自分のことは自分でする
4 綺麗事をいわない
5 国家に頼らない
6 ズルい世間に騙されない
7 ある程度臆病でいる
8 世の中のウソを見抜く
9 疑う力を身につける
10 いつまでもダラダラと生きない

(引用終了)
<同書 202−203ページ>

最後の「いつまでもダラダラと生きない」というのがいい。私も以前ビジネスに関連して「騙されるな!」という項を書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

 この本で扱う政治思想の射程距離は長い。副島氏の主著の一つに1995年に出版された『現代アメリカ政治思想の大研究』(筑摩書房)という本がある。今は講談社α文庫に『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』として収められている。私は1998年に読んで大いに勉強になった。最も大切なのは『余剰の時代』(89ページ)にも掲げられている「ヨーロッパ政治思想の全体像」という一枚の表だ。

 西洋政治思想の根本には、アリストテレス/エドマンド・バークの「自然法(Natural Law)派」と、ジョン・ロックやヴォルテールの「自然権(Natural Rights)派」との対立がある。自然権派からルソーなどの「人権(Human Rights)派」が生まれた。「自然法(Natural Law)派」と、ジェレミー・ベンサ(タ)ムの「人定法(Positive Law)派」との対立もある。くわしくは本書や『世界覇権国アメリカを動かす政治家と知識人たち』をお読みいただきたいが、一言でいえば、

「自然法派」:
人間も自然界の法則で生きているのだからあまり激しいことはするな
「自然権派」:
人間には本来自然に生きていくだけの権利がある
「人権派」:
貧困者でも生き延びる権利がある
「人定法派」:
法律は人間がきめたことであって自然界の法則とは違う

ということになる。副島氏はこれらの政治思想を解説した後、

保守本流:自然法派
官僚:自然権派
多数派:人権派

という現代の西洋政治地図を提示する。いまの官僚は「人間には本来自然に生きていくだけの権利がある」とする自然権派を標榜しながら、福祉国家を運営できるのは我々とばかり、楽観主義的な「貧困者でも生き延びる権利がある」とする人権派を押さえ込む。保守本流は「人間も自然界の法則で生きているのだからあまり激しいことはするな」という自然法派だが上品だから官僚支配になかなか勝てない。本来ジョン・ロックやヴォルテールの「自然権派」は王権からの民主独立派だったのだが、楽観的であるが故に過激なルソーらの「人権派」との内部争いに敗れた。

 「人定法派」からは「リバータリアニズム」が生まれた。「自分のことは自分でやれ。自分の力で自分の生活を守れ」という思想だ。副島氏の「生き延びる思想10カ条」はこの思想から来ている。複眼主義的にいえば、

「都市の働き」:人定法
「自然の働き」:自然法

という複眼的な考え方が正しい。各種の権利は人定法内の諸規定として考えるべきだ。だから「都市」で身を守るにはこの「生き延びる思想10カ条」が相応しいといえるだろう。
img006.jpg
人と世界は円を斜め上から見たところとして表現。世界は斜線によって「都市の働き」=「公」、「自然の働き」=「私」に分けられる。人は斜線によって「脳の働き」=「公」、「身体の働き」=「私」に分けられる。詳しくは前項「複眼主義の時間論」なども参照のこと。

 この本によって西洋政治思想の基本を学び、騙されないようにしてモノコト・シフトの時代を生き延びようではないか。

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限界集落は将来有望

2015年03月17日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで、前々回の「心ここに在らずの大人たち」や前回「フルサトをつくる若者たち」の項で、限界集落に近い田舎に拠点を構え、「生きる」と「楽しむ」を自給するのは、モノコト・シフト時代の確かな暮らし方でありそこにスモールビジネスの活躍の場も大いにある筈だ、と述べてきたが、その主張を小説の形で表現したものが、『限界集落株式会社』黒野信一著(小学館文庫)とその続編『脱・限界集落株式会社』同著(小学館)という二冊の本だ。前者『限界集落株式会社』は最近TVドラマ化されたから知っている人もおられると思う。内容について、本のカバーや帯にある文章を紹介しよう。 

(引用開始)

 起業のためにIT企業を辞職した多岐川優が、人生の休息で訪れた故郷は、限界集落と言われる過疎・高齢化のため社会的な共同生活の維持が困難な土地だった。優は、村の人たちと交流するうちに、集落の農業経営を担うことになった。現代の農業や地方集落が抱える様々な課題、抵抗と格闘し、限界集落を再生しようとするのだが……。
 集落の消滅を憂う老人達、零細農業の父親と娘、田舎に逃げてきた若者。かつての負け組みが立ち上がる!過疎・高齢化・雇用問題・食糧自給率、日本に山積する社会不安を一掃する逆転満塁ホームランの地域活性エンタテインメント。(『限界集落株式会社』カバー裏表紙)

 東京から来た多岐川優の活躍で、消滅の危機を脱した止村。あれから4年――。駅前のシャッター通り商店街、再開発か、現状維持か!?優との行き違いから家を出ていた美穂は、劣勢側の駅前商店街保存に奮闘するが……。地方が直面する問題に切り込む、地域活性エンタテインメント!人口減少社会の希望がここにある!!(『脱・限界集落株式会社』帯裏表紙)

(引用終了)

 『限界集落株式会社』は農業による地域の活性化であり、『脱・限界集落株式会社』は駅前商店街再生による地域の活性化だ。どちらも小説ではあるけれど、現実的で、起業を目指す人にとっていろいろと参考になると思う。

 ストーリーは本を読んでのお楽しみとして、ここでは『限界集落株式会社』の解説から、「フルサトをつくる若者たち」の項でも述べたマネー経済について書かれた部分を引用しておこう。

(引用開始)

 本書を読み進めていくと頭に浮かぶ疑問がる。
 はたして人が生きていくうえで必要なのはお金だろうか、それとも水や食糧だろうか。いわゆるマネー資本主義とよばれる思想が、いつの頃からか隆盛を極めるようになった。自分の存在価値は稼いだお金の額で決まると、大なり小なり皆が思っている。それどころか、他人の価値までをも、稼いだ金の多寡で判断しようとしてはいないだろうか。
 本来は、必要な何かと交換するための手段であったはずの通貨が、それ自体を集めることが目的化してしまう矛盾。
 いくら人里離れた農村といえども、現代社会においてはマネー経済と無縁ではいられない。それは「限界集落」と「株式会社」という一見相反するような、前近代と近代との融合を感じさせるタイトルにも表れているのだろう。

(引用終了)
<同書466ページ>

こういった問題提起を含みながら、多岐川優と美穂を中心とした個性あるれる面々の愉快な物語が展開していくわけだ。本とTVドラマとではストーリーが少し違っているようだから、ドラマだけ見た人は本も読むことをお勧めする。

 これからの日本のあるべき姿や将来展望を、ここまで、政治・政策の視点から(「地方の時代 III」)、識者の対談から(「心ここに在らずの大人たち」)、体験的エッセイとして(「フルサトをつくる若者たち」)追いかけてきたわけだが、こうしたエンタテインメント小説を通して考えるのも面白い。

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後継者づくり

2014年12月30日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 よく経営者の最大の仕事は適任後継者を選ぶことだというが、前回の「現場のビジネス英語“dispositions”」から引き続いて考えれば、それは会社の「理念と目的」を自らのdispositionsとして習得し得た者の中から最適任者を選ぶという話になる。

 事業経験者の中から後継者を選ぶという人がいるが、「事業(Buisness)」は「理念と目的」の下位に位置付くものであってみれば、「理念と目的」をdispositionsとして習得していない者はいくら事業に精通していても後継者にはならない。

 逆に、事業経験は全くないが「理念と目的」だけならよく理解しているという人があった場合どうするか。これは、

skills(スキル)
dispositions(資質)
responsibilities(責任)
self-assessment(自己評価)

のうち、事業運営というskillsがない場合に当る。

 少し具体的な例で考えてみよう。先日の「空き家問題をポジティブに考える」に因んで、次のようなケースを想定しよう。架空の話だからその積もりで。

「石田商店(経営者:石田肇)」:

「理念」:土地や建物の有効利用を促進し、地元社会・文化の活性化を計る
「目的」:町の空き家率を下げる

「ビジネスモデル」:

「事業」:不動産の紹介
「目標」:@町の空き家率を全国平均以下にする A通年での黒字化

(背景)石田肇は都心の大手不動産会社に勤めていたが定年退職を機に、地元で小さな不動産会社を開業した。

 さて、石田はそろそろ引退したいと考えて後継者について考え始めた。候補者は以下のとおり。

石田みどり:肇の娘。都内の美術館でキュレーターの仕事をしている。父の会社の理念には共鳴するものの、地元に帰る意思は今のところなし。

石田健:肇の息子。都内の病院で医師をしている。そろそろ地元に帰って開業したいと考えている。

石田優紀子:肇の妻。ガーデニングが趣味。夫の仕事を手伝っているので不動産の実務には詳しい。

高見賢治:石田が仕事の片腕として頼りにしている不動産業のプロ。しかし経営者タイプではない。

五反田裕太:地元へ戻ってきた若者で石田の仕事を手伝ってくれている。農業がやりたくて今研修中。

五反田沙織:裕太の妻でネックレスなどのアクセサリー作家。

 なんだか小説みたいになってきたが、この中から石田肇氏は後継者を選ぼうと思っている。実際は、他にも地元の商工会議所や前の職場の友人などにコンタクトして適任者を探すなどするのだろうが、話が長くなるのでここではこの6人の中から選ぶという設定にする。

 事業経験者の中から選ぶというのであれば、高見賢治、石田優紀子、五反田裕太ということになろう。一番の経験者は高見賢治だが、彼は実務屋で「理念と目的」をdispositionsとして習得してない。

 逆に、事業経験は全くないが「理念と目的」を理解しているということであれば、石田みどりということになる。息子の石田健も候補者ではあるが医者だからその道を歩ませた方がいいだろう。五反田裕太も候補だが、彼には農業というやりたい事がある。

 ここで石田肇は、高見を教育して「理念と目的」を自らの資質にするまで待つか、石田みどりを説得して地元へ帰って来させるか、という二つの選択肢を持つことになった。

 結果として、石田は後者を選んだ。その背景には、事業の目標だった「町の空き家率を全国平均以下にする」ことにある程度目処が立ったことと、もう一つの目標だった「年度での黒字化」も去年達成したという事実がある。石田は、娘と話し合い、利害関係者の合意を取り付けた上で、「理念と目的」と「ビジネスモデル」を次のように改めた。

「石田商店(経営者:石田みどり)」:

「理念」:地域社会・文化の活性化を計る
「目的」:@町の空き家率を下げる A文化活動の支援

「ビジネスモデル」:

「事業」:@不動産の紹介 A個人美術館の設立
「目標」:@人材の活用 A個人美術館運営を軌道に乗せる

みどりと話し合う中で、石田は、彼女の夢が小さな美術館を持つことだと知り、それなら自宅の一部を改築して小さな美術館にしようと思い立ち、彼女と合意の上、それを軸に「理念と目的」を書き直し、「ビジネスモデル」を再編した。

「目標」:A個人美術館運営を軌道に乗せる

はすこし曖昧だが、明確化(たとえば「5年以内に通年での黒字化を果たす」など)はもう少し後になってから決める旨を註に書き込んだ。これは「現場のビジネス英語“crossing the bridge”」の要領。目標設定如何で(自宅の一部から)もっと大きな建物にすることも出来る。

 ここでいえることは、もし「理念と目的」と「ビジネスモデル」、特に「事業」の「最終目標」が設定されていなかったら、石田にこのような判断ができたかどうか疑問だということだ。もしかすると、(後継者選びの際)高見賢治の教育の方に行ったかもしれない。結果は分らないが、石田は「理念と目的」、「ビジネスモデル」を当初からはっきりさせておいたことで、納得できる後継者づくりが出来たわけだ。

 もし当初の最終目標、@町の空き家率を全国平均以下にする、A通年での黒字化、に両方とも目処が立っていなかったとしたらどうだろう。その場合、娘みどりの夢である個人美術館は先延ばしせざるを得ないだろう。地域の活性化はまだ道半ばであり、資金的にも個人美術館を設立できるような状況にはないのだから。石田はもっと別のことを考える必要がある。しかし「理念と目的」と「ビジネスモデル」が当初設定されていたからこそ、安易に個人美術館設立に動いてはいけないということが分るわけで、その重要性に変わりはない。

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里山システムと国づくり II 

2014年04月22日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『しなやかな日本列島のつくり方』藻谷浩介著(新潮社)は、『里山資本主義』(角川oneテーマ21)の共著者藻谷氏による、日本再生へ向けた対談集だ。対談の相手は、現場に腰を据えた各分野の専門家7人。

第一章「商店街」は起業家精神を取り戻せるか――新雅史(社会学者)
第二章「限界集落」と効率化の罠――山下裕介(社会学者)
第三章「観光地」は脱・B級志向で強くなる――山田桂一郎(地域経営プランナー)
第四章「農業」再生の鍵は技能にあり――神門善久(農業経済学者)
第五章「医療」は激増する高齢者に対応できるか――村上智彦(医師)
第六章「赤字鉄道」はなぜ廃止してはいけないか――宇都宮浄人(経済学者)
第七章「ユーカリが丘」の奇跡――嶋田哲夫(不動産会社社長)

ということで、商店街、限界集落、観光地、農業、医療、鉄道、街づくりについて、現状を踏まえた上で、21世紀の展望を語る内容となっている。

 『里山資本主義』については、以前「里山システムと国づくり」の項でも紹介したことがあるが、藻谷氏は、最近の新聞インタビュー記事の中で次のように語っている。

(引用開始)

 「日本には偶然にも自然環境に恵まれた住みやすい場所にある。その結果、金銭換算できない資源が多く、経済成長していない田舎でも生きていける。そのことを計算に入れないで日本はダメだダメだと言っているのを見直しましょうという話です」
 「マネー資本主義の最大の問題は、お金をもうけるのに未来から奪い取るやりかたをすること。簿外資産を消費して蓄財している。簿外資産は地下資源や水、大気、そして子どもです」
 「未来から子どもを奪い取り、未来に汚染物質の借金を残している。里山資本主義では資源の循環、再生が可能な範囲でほどほどに稼ぐ」。

(引用終了)
<東京新聞 3/30/2014>

 この対談集において、藻谷氏はこういったご自分の考えを、分野別に専門家と共に検討し、具体的な解決策を見出そうとする。その意味でこの本は、『里山資本主義』の続編、実践編といっても良いだろう。地域密着型スモールビジネスの起業を目指す人にとっても、大切なヒントが詰まっていると思うので、是非手にしてみていただきたい。

 尚、新雅史氏の著書『商店街はなぜ滅びるのか』(光文社新書)については「近代家族」の項で、神門善久氏の著書『日本農業への正しい絶望法』(新潮新書)については「日本の農業」の項で、それぞれ紹介したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。


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地形と気象から見る歴史

2014年04月15日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『日本史の謎は「地形」で解ける』竹村公太郎著(PHP文庫)、その続編『日本史の謎は「地形」で解ける 〔文明・文化篇〕』同著(同文庫)という2冊の本を面白く読んだ。著者の竹村氏は、元建設省河川局長で現在は日本水フォーラム事務局長。新聞の書評によってまず後者の内容を紹介しよう。

(引用開始)

風土から知る意外な事実

 地形と気象の考察を根幹として、歴史の意外な事柄が推論により解き明かされてゆく。幕末、欧米が日本を植民地化しなかったのは、地震の多発とコレラを恐れたことによるという。一九二一(大正十)年を境に乳児死亡率が減少したのは、化学兵器として考えていた塩素をシベリア出兵撤退で水道の殺菌に回したからで、それを行なったのは、細菌学専門の後藤新平(元外務大臣・東京市長)であったと述べる。
 過去、通常では考え得なかった歴史読解の鍵や事柄が随所に示される。徳川家康の鷹狩りは実は地形調査であり、江戸の発展は森林エネルギーに拠るとする。江戸の消費生活を支えたのは参勤交代で出てくる地方の大名たちで、いま東京に出て来て消費生活を送る学生と仕送りをする地方の親は「現代版の参勤交代」であると指摘。
 著者は海外にも目を向け、約百基のピラミッドはナイル川の堤防治水事業で、台地の三基のピラミッドは灯台であったと論じる。一方、日本は既存のダムを利用すべきだと説くなど、河川技術の専門家である著者ならではの立論も示す。歴史の謎に風土に即した工学の光を当て、新しい推理のプロセスが楽しめるオリジナル文庫だ。気温の温暖化に関連して、広大な北海道が百年後の「食料自給のための切り札」となると予測するなど、未来の光明を見る思いがする。「文化は消費である」「弱者のベンチャー企業こそが、新しい工夫をして未知の世界に挑戦していける」と説く。心に残る文章だ。
 地形や地質や災害に悩むのではなくそれを巧みに利用する大切さも学ぶ。民族の性格はその土地の気象や地形が決めるという説も傾聴に値する。古地図や写真など図版も豊富だ。
 なお、同じ著者による『日本史の謎は「地形」で解ける』(同文庫、昨年十月刊)も、京都が千年以上都であり続けた理由を陸路・海路の起点という地形の上から説明するなど、独自の論を展開していて興味深い。

(引用終了)
<東京新聞 3/16/2014(フリガナは省略)>

内容には勿論異論もあるだろうが、竹村氏は河川技術の専門家として、現場に足を運び、データを集め、異なる事象間の関係を推理して、歴史の常識にチャレンジする。だから面白い。

 竹村氏の文明構造モデルについて、『日本史の謎は「地形」で解ける 〔文明・文化篇〕』から引用しておこう。

(引用開始)

 文明は、上部構造と下部構造で構成されている。文明の下部構造は、上部構造を支えている。その下部構造は、地形と気象に立脚している。下部構造がしっかりしていれば、上部構造は花開いていく。下部構造が衰退すれば、上部構造も衰退していく。
 社会の下部構造とは、単なる土木構造物ではない。
 下部構造は「安全」「食糧」「エネルギー」「交流」という4個の機能で構成されている。

(引用終了)
<同書 6ページより>

上部構造(文化)は、「産業」「商業」「金融」「医療」「教育」「芸術」「スポーツ」と分類されている。「地形と気象から見る歴史」とは、このような考えに基づく仮説形成なのである。私が特に面白いと思った章は以下の通り。

『日本史の謎は「地形」で解ける』

第3章 なぜ頼朝は鎌倉に幕府を開いたか
源頼朝が幼少の頃配流になった「伊豆の小島」とは、伊豆半島の中央にある「韮山町蛭ヶ小島」だったとは知らなかった。それだから、彼は少年時代湘南地方を縦横に駆け巡り、やがて土地勘のある鎌倉に幕府を開設したのだという。

第5章 半蔵門は本当に裏門だったのか
江戸城の地形から推理した結論は、西側の半蔵門が江戸城の正門だったとのこと。そこから話は第6章 赤穂浪士の討ち入りはなぜ成功したか、へと繋がっていく。家康と徳川幕府の話は、ほかでもいろいろと分析されている。利根川東遷、参勤交代が果たした役割、江戸への集積システムなどなど。

『日本史の謎は「地形」で解ける 〔文明・文化篇〕』

第3章 日本人の平均寿命をV字回復させたのは誰か
上の新聞書評にもある通り、なぜ日本が世界一の長寿命国になれたかは、大正10年に東京市長だった後藤新平に拠るところが大きいという。改めて後藤新平の伝記を読みたくなる話だ。

第16章 日本文明は生き残れるか
その地形の特色から、日本では分散型の水力発電において、新しいダムを作らずに、全国の既存ダムの運用変更やダムの嵩上げによって、試算上、新たに出力930万kW(100万kWの原子力発電所9基分!)の水力発電が可能という。

 2冊の本には、この他、地形から来る日本人の縮み志向、小型化志向、もったいない精神などについての分析や、気象からくる日本人の気性、将棋誕生の秘密などなど、盛り沢山の内容となっている。皆さんも是非目を通してみていただきたい。

 尚、竹村氏と養老孟司氏との共著『本質を見抜く力』(PHP新書)について、以前「流域思想 II」の項などで紹介したことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。養老孟司氏もそうだが、科学技術者の一般書には、新鮮な発想が多く、起業のアイデアとしても様々参考になると思う。

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儲からない経営

2013年12月31日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 今回は、最近読んで面白かった『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」』渡邉格著(講談社)という本を紹介しよう。いつものようにまず新聞書評によってその内容を紹介する。

(引用開始)

 おいしいと評判の岡山のパン屋さんは“21世紀のマルクス”であるらしい。江戸時代の風情が残る人口8千人の山あいの町。著者はここで、地元の素材と天然菌にこだわったパン屋を営む。規模は小さくとも地域内で富を循環させて、自然や生態系を守りながら心豊かに暮らす――その生き方の背景には、効率や利潤第一の資本主義経済に対する強烈な違和感がある。
 天然酵母パンの奥深き風味にも似て、本書の内容も重層的だ。元フリーターの起業物語であると同時に、食の安全や地域経済再生の提言でもある。瞠目すべきはマルクスの『資本論』をパンづくりの観点から読み解いていること。自然栽培の作物に比べ、無理やり栄養を与えられたものは生命力に乏しく腐敗しやすい(つまり財政出動などの「肥料」で経済を太らせてもダメ)など、菌と発酵の話もめっぽうおもしろく、考えさせられる。
 菌とマルクスに導かれ、著者は「腐る経済」なる理想にたどり着く。やがては土に還る自然の摂理に反して増え続けるお金。「腐らない」お金が問題を引き起こしているからだ。ネーミングは目を引くが、少々腑に落ちない部分も。だが前代未聞の菌が主役のビジネス書ゆえ、そこは大目に見よう。静かなる革命の書は、読むほどにライ麦パンの酸っぱい香りが漂う気がする。

(引用終了)
<朝日新聞 11/3/2013 フリガナは省略>

どこが「少々腑に落ちない部分」なのかは不明だが、だいたいの内容はお分かりいただけると思う。このブログでは、モノコト・シフト時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それを牽引するのは、理念濃厚なスモールビジネスであるとしているが、このパン屋さんは、正にこれからの時代の代表選手だろう。

 この本には少なくとも三つのポイントがある。一つは天然酵母によるパン作りの話し、二つは食材の地産地消活動、そして、三つ目が「儲からない経営」。前の二つの詳細は本をお読みいただくとして、ここでは第三の儲からない経営について、「経済の三層構造」の観点から論じてみたい。経済の三層構造とは、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

であり、モノコト・シフトの時代には、特にa領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」(a、b両領域)に対する親近感が増す。尚、ここでいう「経済」とは、「自然の諸々の循環を含めて、人間を養う社会の根本理法・理念」を指す。

 この構造で見えてくるのは、儲け(利潤)というものが、「マネー経済」の

b: 利潤を生み出す会計システム

からしか生まれないという事実だ。それ以外の経済における生産と消費は、互いに等価である。事業には再投資の為の資金が必要だが、それは「マネー経済」の

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤

によって(商品の価格に上乗せされる形で)ストックされ捻出される。この上乗せ分は、

b: 利潤を生み出す会計システム

から発した余剰マネーではなく、ビジネスの「理念と目的」を達成するために必要な蓄え(コストの先取り)だ。身体にたとえれば、運動のための体脂肪のようなものである。

 だから、モノコト・シフト時代のビジネスは、「儲からない経営」で一向に構わない。むしろ、その方が経済合理的だと思う。皆さんはいかがだろう、是非この本を読んでご一緒に考えていただきたい。

 この本にはもう一つ、地方都市の魅力というポイントがある。著者が移り住んだのは、岡山県の真庭市という山あいの小さな町だ。しかしそこには、草木染で暖簾をつくる職人、200年以上の歴史を誇る造り酒屋、豊な水、江戸の風情を残す町並みがあり、活き活きと暮らす人々の姿がある。「地方の時代」の項で述べたように、モノコト・シフトの時代の革命は、大規模都市からではなく、このような魅力溢れる地方都市(や「都市の中のムラ」)から始まってゆく。

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本物を見抜く力

2013年11月05日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「経済の三層構造」の項で述べたように、モノコト・シフト時代には、人々は「コト経済」に対して親近感を抱く。しかし「コーポラティズム」を武器として利益の収奪を図る1%のgreedとbureaucracyにとって、それは好ましいことではない。だから彼らは、コト経済の「擬態」を作り出して、自分たちが作り出したシステム(行き過ぎた資本主義)に、人々を繋ぎとめようとする。

 「認知の歪みを誘発する要因」の項で述べたように、greedとbureaucracyは、人々を認知の歪みに陥れようと数々の罠を編み出すわけだが、コト経済の「擬態」もその罠うちの一つである。

 コト経済の「擬態」とは何か。コト経済とは、生命の営みを含めた人と外部との相互作用全般を指す。その擬態とは、贋物の人と外部との相互作用である。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の項の最後に書いたように、「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっていることだ。人と外部の相互作用とは、人の固有の「時空」と外部の「時空」とが相互に作用しあって、その結果新しい何かが生まれるプロセスである。時空の共振、魂の交感といってもよいだろう(人と人との相互作用は「生産と消費」の関係にある)。しかし、贋物には新しい何かを生み出す力がない。上辺だけの人間関係、書割の風景、味のしない食物、感動を呼ばないイベントなどなど。

 そのコトが本物か贋物かを見破るには、そのコトによって自分が感動するかどうかじっと見ればよい。感じればよい。贋物には人を真に感動させる力がない。だから、しばらく体験していれば本物との違いが分かるはずだ。

 greedとbureaucracyは、昔から“コト”の持つ力を利用してきた。パンとサーカス、スリー・エス(セックス・スポーツ・スクリーン)などなど。それらの“コト”は初めから贋物の場合もあるが、宗教行事、スポーツ・イベント、コンサートなど、本物の感動を与えるコトが起こっている話を聞きつけて、それを換骨奪胎し、贋物にすり替えて使い回すケースも多い。コトには人を陶酔させる麻薬のような作用があるから、それによって認知の歪み(思い込み)が生じると、そのあと贋物にすり替えられても気付かないことがあるのだ。だから陶酔させるような“コト”に対しては自戒して、陽性感情への過度の傾斜に歯止めをかけなければならない。参考までに、「認知の歪み」のパターンを再掲しておこう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

 それにしても、本物の評価は難しい。上記したように、往々にして本物が贋物にすり替えられたりするからでもあるが、本物を感じることができるかどうかは、自分の側に問題がある場合もあるからだ。いくら周りで素晴らしいコトが起こっていても、自分の側にそれを受け止めるだけの力(時空)がなくては、ネコに小判、馬の耳に念仏状態になってしまう。

 またコトに対する感動は、ある人にとっての感動が、別の人にとっては日常というケースもある。それぞれの人生経験、興味のあり様などによって感動のあり様は違ってくる。いくら風光明媚なところでも、そこに長く暮らしていれば慣れてしまって感動が薄れてしまう。いくら美味しい食べ物でもいつも食べていれば何も感じなくなってしまう。逆に、贋物だとわかっていてもその中のある部分に感動することがある。

 昨今の贋物・擬態は、技術進化によって以前よりも格段に本物に似せて作られ、演じられる。概ね、その活動に「理念と目的」が無い(見えない)場合は、贋物と考えて良いと思う。日々自己研鑽に努め、本物を見抜く力を養って「コト経済」を満喫する一方、greedとbureaucrcyの嘘には騙されないよう心掛けたいものだ。

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経済の三層構造

2013年10月29日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「政治と経済と経営について」の項で、経済とは、「自然の諸々の循環を含めて、人間を養う社会の根本の理法・摂理である。経済とは、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかない」と書いたけれど、ここでその「経済」の全体構造について、コト経済、モノ経済、マネー経済、という三つの層に分けて考えてみたい。

 「コト経済」とは、食・睡・排といった人の生命の営みそのものを指すと同時に、それ以外の、人と外部との相互作用全般を表す。私の造語だが意味は理解していただけると思う。

 「モノ経済」とは、衣・食・住といった生活必需品の循環であると共に、その他、ハコモノ、贅沢品など商品の交通全般を表す。

 「マネー経済」とは、モノの循環を助ける潤滑剤としての役割と共に、信用創造と金利を通して、計算上の利潤を齎す会計的仕組みを表す。

 纏めると、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

ということになる。

 このブログでは、21世紀を「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(略してモノコト・シフト)」の時代としているが、それは、20世紀の大量生産・輸送・消費システムと、人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「コーポラティズム」のような“行き過ぎた資本主義”に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心が高まっている、という意味である。

 “行き過ぎた資本主義”と“モノ信仰”は、地球環境の破壊と貧富格差の拡大を齎した。

 モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域への求心力が高まってくると思う。a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)は、地球環境の破壊に直面する人々にとって、より重要な関心事となるからである。

 とくにこの時代、(greed以外の)人々の間では、「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろう。貧富の格差拡大に直面する人々にとって、所有よりも関係、私有よりも共同利用、格差よりも分配、独り占めよりも分担、といった生き方・考え方が切実なものとなってくる筈だからだ。

 a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」に対する親近感。「経済」をこのように、コト経済、モノ経済、マネー経済と分けて考えることで、今の時代のニーズがより良く見えてくるのではないだろうか。

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政治と経済と経営について

2013年10月22日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「里山システムと国づくり」の項で、政治と経済、経営について、その定義を簡単に書いたけれど、ここで今一度それぞれの定義について、「複眼主義」の観点から整理しておきたい。

 「経済」とは、自然の諸々の循環を含めて、人間を養う社会の根本の理法・摂理である。経済とは、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかない。

 「政治」とは、社会集団における利害の合理による調停・調整であり、そのプリンシプル(principle)は、集団において制度的に合意された「理念と目的」に基づくものでなければならない(プリンシプルとは、原理・原則・信条のこと)。

 「経営」とは、集団の「理念と目的」の実現に努めること。通常、国家経営を統治(governance)、企業経営を(management)と呼ぶ。経営には、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

両方の能力が求められる。前者は「戦略」や「政治」能力であり、後者は主に「工程改善」能力である(詳細はさらにカテゴリ「起業論」を参照のこと)。

 以上の定義から、「里山システムと国づくり」で述べたことを再度確認しよう。

 まず大切なことは、経済が、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかないことだ。このブログでは、カテゴリ「生産と消費論」のなかで、生産とは「他人のための行為」全般を指し、消費とは「自分のための行為」全般であると述べてきたが、それはこの考え方に基づくものだ。「マネー資本主義」が、いかに偏ったものかということでもある。

 次に大切なのは、国の経営には「理念と目的」が必要だということだ。20世紀の国の「理念と目的」は、日本の富国強兵など、モノ中心主義に沿った中央集権的なものだったと思う。21世紀のモノコト・シフト時代のそれは、多様な「コト」の起こる環境や場を守る、地方分権的な理念が入っていなければならない。「里山システムと国づくり」の項で述べたような重層的なプロセスによって練り上げられた「理念と目的」の作成が急務だと思う。今の内閣にそれが見えているとは思えない。議会が国家理念を検討しているとも聞かない。

 最後に確認しておきたいのは、国の経営において、政治は万能ではないということだ。政治は、所詮、集団の利害の調整でしかない。政治は、経営の一部でしかない。国の「理念と目的」に基づいて、合理的な調整を行なえる者を「政治家」と呼び、greed(過剰な名声欲と財欲)によって調整を行なう者を「政治屋」と呼ぶ。

 「外交」も政治であるから、日本の国づくりを里山から始め、里山同士が国を越えて繋がるとすれば、外交交渉も、そういった地方の連携の交通整理が主な仕事になるはずである。安全保障や通商条約などについても、地方の流域価値を重層的に集約した、その国の「理念と目的」に沿った形で交渉が進められなければならない筈だ。

 いまの日本の議会や内閣には「政治屋」が多すぎる。そして、「理念と目的」の見えないままの国家経営。さらに、そもそも「理念と目的」を語る資格のない官僚が、そういうお粗末な政治屋を裏から操って、国家を運営(とても経営とは呼べない)しているという事態。これらが、今の日本の危機の本質だと思う。

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自分の殻を破る

2013年07月02日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「思考の癖」の項で、自分の後姿(思考の癖)をよく知ると、それによって生じた認知の歪みを修正できると述べたけれど、もっと積極的考えれば、自分の後姿をよく知ると、自分の殻そのものを打ち破ることが出来ると思う。

 ここでいう自分の殻とは、性格や思考の癖、知識や経験などを合わせた自分の力の限界を指し、性格(パーソナリティ)そのものではない。殻とは、英語でいうdispositions(資質)という言葉に近いのではないだろうか。だから(この定義でいうと)自分の殻を破るとは、自分の資質を高めるという意味になる。

 前回、自分の後姿(思考の癖)をよく知るためには、言語や時代のパラダイムなどと並んで、自分の性格について理解を深める必要があると書いたわけだが、自分の性格の来歴を知れば、思考の癖が見えてくると同時に、どうすればその癖を直せるかも分かってくると思う。知識や経験は別に積むとして、自分の性格とその来歴、思考の癖との相関を見つめることで、どういうトレーニングをすれば、自分の殻を破れるか、自分の資質を高めることが出来るかが分かってくる筈だ。

 参考までに、「6つのパーソナリティ」の項で述べたPCM (Process Communication Model)による性格(パーソナリティ)の分類を再掲しておこう。

(1)リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。
(2)ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。
(3)パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。
(4)ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。
(5)プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。
(6)レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかがという反応重視。

 勿論、この分類はいわば「理念型」で、現実にはみなそれぞれの要素を併せ持っているわけだが、食べ物の味覚(甘み・酸味・塩味・苦味・旨み)と同じで、性格はその特徴が前面に出てくるから、どのタイプが一番当て嵌まるかを見れば、自分の性格が大体分かると思う。

 性格の来歴については、生来的(内的)なものとして、性差、体質、体格、運動の癖(利き腕など)があり、後天的(外的)なものとしては、育てられた環境(家族や社会)、教育、人生経験などがあるだろう。

 性差については、「6つのパーソナリティ」の項で、男性は(2)、(3)、(5)、女性は(1)、(4)、(6)のタイプが多いらしいと書いたけれど、さらに「女性性と男性性」などの項も参照していただきたい。

 自分の殻などという曖昧な言葉を使ったため、話が逆に見えにくくなったかもしれない。整理の意味で、このブログで使っている言葉の定義を書いておこう。全体の構成が分かると思う。

●本来の人とは、

理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類

●人の健全な認知(思い)とは、

健全な脳(大脳新皮質)の働きと健全な身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き

●健全な脳の働きとは、

相手や環境についての構造や働きを理解し記憶できること、決断できること、責任感を持っていること、自分の思考の癖、性格、得意・不得意を自覚できていること、過剰なgreed(財欲と名声欲)を抑えることができること、感情や好き嫌いを抑えることができること。

思考の癖とは、健全な脳の働きを妨げる要因となるような習慣

●健全な身体の働きとは、

相手の気持ちを思いやり敬うができること、相手や環境につて豊かな感情を持ち共感(または反感)できること、自分の体調(恒常性)や三欲(食・睡・排)を調整・コントロールできていること。

●性格(パーソナリティ)とは、

脳の働きと身体の働きとを合わせたその人の特徴

●自分の殻とは、

性格や思考の癖、知識や経験などを合わせた自分の力の限界を意味し、英語でいうdispositions(資質)に近いと思われる。

●認知の歪みとは、

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

●認知の歪みを誘発する要因とは、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
(greedとは人の過剰な財欲と名声欲、bureaucracyとは官僚主義)

●人類の宿啞とは、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムの運用とその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

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思考の癖

2013年06月25日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 認知の歪みを誘発する内的要因のうち、脳の働き領域にある「思考の癖」について話を敷衍したい。同じ領域でも、「無知」や「誤解」は要因として分かりやすいが、思考の癖がなぜここに挙がるのか。

 思考の癖とは、たとえば相手が言ったことを理解する際、自分の考えに引き付けて解釈してしまうようなことだ。いつも物事を突き詰めて考える癖のある人は、相手の何気ない一言に対しても深読みしてしまう。

 人には思考の癖以外にも、性格、得意・不得意、好き嫌い、体質、体格、運動の癖、顔つき、性差など、様々な違いがあるが、その中で思考の癖ほど、自覚しにくいことはないと思う。他のことは他人にも見えやすい。しかし思考の癖は、外から見えるようになるには長く付き合っていないとなかなか分からないので、他人から指摘されることも稀で、特に自覚するのが難しいわけだ。自分の後姿や寝相がよく分からないように。また同じ組織やグループにいると、癖そのものが似てくるから、長く付き合っていてもお互いに指摘できない場合が多い。だから認知の歪みを誘発しやすい。

 思考の癖が事故に繋がった例でいうと、最近起こった東海村の加速器施設放射能漏れ事件などがそうではないかと思う。この実験施設にいる人たちは皆、素粒子や放射性物質の専門家だから、放射の漏れの可能性について「無知」だったり「誤解」をしていたりすることは無いだろう。新聞記事からの憶測に過ぎないから間違っているかもしれないが、危険性の過小評価という思い込み(認知の歪み)を誘発する要因として、「思考の癖」以外の内的要因、外的要因はなかなか考えにくい。分かりやすく言えば、放射能を扱うことに慣れきっていて、その危険性について甘く考えていたということなのではないだろうか。参考までに「認知の歪みを誘発する要因」の一覧を今一度掲載しておく。

----------------------------------------------
<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き:感情(陽性感情と陰性感情)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
----------------------------------------------

 よく、同じ会社の人は考え方が似てくるという。松下なら松下らしさ、ソニーならソニーらしさというわけだが、これなども一種の思考の癖であろう。何かに直面したとき、その会社特有の思考の癖が出るわけだ。良い面もあるが、特に危機管理においては自分達の思考の癖を自覚していた方が良いと思う。

 考えてみれば、東日本大震災においても、特に津波に対する認識の癖、あれだけ高い堤防を越えて津波が来ることはありえないと考えていた思考の癖が、その地域の人の生死を分けたといえるかもしれない。

 福島の原発事故はどうか。東海村の加速器施設放射能漏れ事件同様、現場の人たちに慣れと甘い考えがあったことは否めないだろうが、この場合それに加えて、原子力発電への過度の依存という20世紀型の時代パラダイム、さらにはgreedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種が「安全神話」という形で(私を含む)人々の認知の歪みを誘発し、それが現場の思考の癖を助長していたと思う。

 これほど思考の癖は恐ろしい。起業を志す方々は、性格、得意・不得意、好き嫌いなどと同様、自分の「思考の癖」をきちんと自覚しておくことをお勧めする。

 思考の癖は、組織や言語、時代の価値観、騙しのテクニックなどによって助長されると同時に、その人の性格や性差などからも大いに影響を受ける。冒頭に述べた物事を突き詰めて考える癖は、慎重な性格から齎される場合が多いだろう。以前「マップラバーとは」の項で述べた二つの思考の型、「6つのパーソナリティ」の項で述べた性格分類などについて理解を深めれば、自分の後姿(思考の癖)がよりよく見えてくるかもしれない。

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羅針盤のずれ

2013年06月04日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 山を歩いていて道に迷う場合、途中東西南北の方位感覚が何かの間違いで少しずれてしまい、それがやがて拡大していってしまうケースが多い。いわば脳裏の羅針盤にずれが生じるわけで、昼間ならば太陽の位置など、晴れた夜ならば星座の位置などによって修正可能だが、星の無い夜間ともなるとお手上げで、登山の本には、夜になったら無理な移動はするなと書いてある。

 一般的な認知においても、この「羅針盤のずれ」が起こる場合がある。「認知の歪みを誘発する要因」の項で、歪みの可能性要因の一つに、

脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)

を挙げた。アフォーダンス理論によれば、人は知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚他)によって運動を通してこの世界を日々発見し、脳(大脳新皮質)の働きがそれを刻々更新してゆく。だから、思考の過程において、(無知・誤解・思考の癖によって)方位感覚が少しずれてしまう(認知が歪む)と、修正する契機が無い場合、それが脳裏でどんどん拡大していってしまう危険性があるわけだ。

 「認知の歪みを誘発する要因」の項で、何かの専門家であればあるほどそれ以外の領域で認知の歪みに陥りやすいと書いたけれど、羅針盤のずれは、真面目な人であればあるほど起こりやすいといえる。なぜなら真面目な人は何でも理詰めに考え抜こうとするから、修正する契機がないと、ちょっとしたずれがそのまま拡大しやすい。いってみれば星のない夜間に無理やり移動するようなことになってしまうのだ。

 以前「平岡公威の冒険」の項で、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)について、

(引用開始)

 平岡は、西洋近代が発明した均一時間と均一空間という座標軸の上に、“見る者”と“見られる者”とを並べて置いてしまった。そしてその同一化という果たせぬ夢を追求し、“認識と行為”、“精神と肉体”などといった対立項を措定しながら、“文武両道”から“知行合一”へとその信条を進めていった。そして最後は自ら措定した二項対立を止揚すべく、戦後日本の欺瞞的な政治体制に身体をぶつけて死んでしまった。

(引用終了)

と書いたけれど、ことの他真面目だった平岡は、西洋近代が発明した均一時間の上に“見る者”と“見られる者”とを並べて置いてしまう、という小さな間違いから、その論理をとことん考え抜いた挙句、自死に至るほどの「羅針盤のずれ」を抱え込んでしまったのだと思う。彼がもうすこし不真面目だったら、あるいは身近に勇気を持って間違いを指摘する友人があったら、彼の星のない夜の移動のような最後の行動は止められただろう。彼の思考軌跡を愛惜の念を込めて「平岡公威の冒険」と名付ける由縁だ。

 事業方針でも、商品開発でも、体調管理やダイエットでもなんでも、ちょっと羅針盤にずれが生じているかな、と思ったら、一度立ち止まり、脳裏の地図を広げ、書を読み、人に意見を聞き、もういちど自分の立ち位置を見直すのが良いだろう。また、身近にそういう人がいたら、是非親身になって間違いを指摘(自分が間違っている可能性も含めて議論)して欲しい。逆に人から「you are wrong」といわれても怒ってはいけない。現在進行形の脳(大脳新皮質)の働きはいつも羅針盤のずれと背中合わせなのだから、人の親身な意見には謙虚に耳を傾けるべきだ。勿論、私の羅針盤にもずれが生じている可能性がある。自覚している思考の癖、無知領域、弱点や不得意分野も多い。なにせこのブログ、「夜間飛行」と称しているくらいだから、星の無い夜の飛行にはくれぐれも気を付けるようにする積もりだが、間違いがあれば是非指摘していただければと思う。互いに切磋琢磨して認知の歪みをできるだけ防ごうではないか。

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認知の歪みを誘発する要因

2013年05月13日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 経営を圧迫する認知の歪みの弊害については、これまで「認知の歪み」や「世界の問題や地域の課題」などの項で述べてきたが、その認知の歪みを誘発する、様々な要因についても考えてみたい。その前に「認知の歪み」のパターンを整理しておこう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

 これらの歪みを誘発する内的要因は、脳や身体に起こる様々な出来事だ。必ず誘発するわけではないが、まず、病気、疲労、五欲(食・睡・排・名声・財)そのもの、の三つを挙げておきたい。体が健康でなかったり、疲れすぎていたり、五欲への執着があると、頭の切れが悪くなって認知の歪みに陥りやすい。

 上の三つは体全体への影響だが、特に脳の働き(大脳新皮質の働き)領域に関しては、上に加えて、無知、誤解、思考の癖(くせ)の三つを挙げることができる。人は誰でも知らないことがあり、誤解したり思考の癖があったりするわけで、そういったこと自体が悪いわけではないが、それらはいづれ認知の歪みを誘発するから、人は学ばなければならないし、誤解や思考の癖による間違いについては、その可能性について常に自覚的でなければならない。

 特に身体の働き(大脳旧皮質・脳幹の働き)の領域としては、感情そのものを挙げることができる。感情を、陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)と陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)とに分けると、陰性感情のほうが認知の歪みに結びつきやすいようだ。“「つながり」の進化生物学”岡ノ谷一夫著(朝日出版社)に、

(引用開始)

 悲しみ、怒りといったネガティブな感情は、人をだましやすいものです。悪いことというのは生存に影響するから、生き物は悪い情報のほうに動かされやすい傾向があります。悪い情報は、それが間違っているとしても、さしあたりそれを避けるような行動を誘発しやすいわけですね。

(引用終了)
<同書 204ページ>

とある。自律神経バランスなどの身体管理に気を配って、陰性感情への過度の傾斜には歯止めをかけなければならない。尚、このブログでいう脳の働き、身体の働きについては、「脳と身体」の項を参照していただきたい。

 自戒を込めて書くが、それでも人は、内的要因による認知の歪みから完全に自由であることは出来ない。特に何かの専門家であればあるほど、それ以外の事柄について認知の歪みに陥りやすいことは特筆しておく必要があるだろう。専門家や高学歴者は、自分の専門領域の知識や見識でほかのこと類推しがちだ。だから、認知の歪み、なかでも過度の一般化(overgeneralization)や、拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)などに陥りやすい。

 これを経営に即して言えば、セールスの専門家は経理のことが分からないし、経理の専門家は技術のことがわからない、技術者は人事のことが分からない、そして、経営のトップは現場のことが分からなくなる、といった困った状態だ。大切なのは、上で述べたようなことに皆ができるだけ自覚的であること、自分の専門分野以外のことも学び、よく話し合って、誤解や間違いをできるだけ少なくすることである。

 歪みを誘発する外的要因には、自然発生的なものと人工的なものがある。自然発生的なもとは、災害や紛争、言語や宗教、その時代のパラダイム(その時代や分野において当然のことと考えられていた認識)や流行などのことで、それらは人々の認知を一様にある方向へ歪ませる。現代のパラダイムとその歪みについては、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」や「近代家族」の項などを参照いただきたい。

 人工的なものとは、過剰な財欲と名声欲(greed)と官僚主義(bureaucracy)が、人々を認知の歪みに陥れるために編み出す数々の罠のことだ。平たく言えば騙しのテクニックである。人々を認知の歪みに陥れ、巧妙にその資産を奪うのがgreedとbureaurcracyの目的だ。それらは概ね、上に挙げた内的要因を誘引する形を取る。多くの場合、自然発生的な外的要因をうまく利用して、人工的に内的要因を作り出し、人々の認知をその望む方向へ歪ませる。

 古くはいわゆるスリー・エスと呼ばれる政策があった。スリー・エスとは、セックス・スポーツ・スクリーン(映画)のことを指す。日本では戦後、敗戦による焦土化を一種の災害と考えさせ、人々の認知を経済復興というテーマに縛り付けておくために導入された。この政策は主に人々の陽性感情を利用する。

 ショック・ドクトリンと呼ばれる政策もある。災害によって人々がショック状態や茫然自失状態に陥っていることにつけこんで、人々の認知をその望む方向へ歪ませようとするものだ。ほかにも、紛争を戦争へと拡大したり、宗教を装ったり、人々の無知を利用したり、デマや風評を垂れ流して陰性感情を煽ったり、利益を貪る騙しのテクニックにはきりが無い。

 人を病に陥れる騙しのテクニックもいろいろとあるようだ。先日“知っておきたい有害物質100”齋藤勝裕著(サイエンス・アイ新書)という本を読んだが、健康を害する有害物質はこれでもかと思うほど実に多い。本に書かれた以外にもまだまだあるに違いない。「世界の問題と地域の課題」の項で書いたように、greedとbureaurcracyは、産業システムとして、効率の良い大量生産・輸送・消費へ向かう。最近“新農薬ネオニコチノイドが日本を脅かす”水野玲子著(七つ森書館)という本を読んだが、食品や薬の大量生産・輸送・消費は、とくに騙しの温床になりやすいと思われる。

 これらの外的要因にどう対処したら良いのか。残念ながら、内的要因同様、人はこれらの外的要因による認知の歪みから完全に自由であることはできない。しかしその影響について自覚的であることは出来る。面倒でも、一つひとつの事柄についてよく考え、必要ならば現場に足を運び、自分の脳と身体とで事実を確認し、認知の歪みに陥らないよう努力しようではないか。起業している皆さんは、是非内外の要因に騙されないようにして、ビジネスを成功させて欲しい。起業していない人も、騙されないようにして、「自立と共生」の項で述べた精神的自立を果たしていただきたい。

 このブログで提唱している「複眼主義」の考え方は、認知の歪みに陥らないために、思考に複数の軸を設定し、理性と感性、男性性と女性性、母音語と子音語など、様々な二項対比や双極性を相互に関連付け、世の中を包括的に理解し、バランスの取れた考え方を実践しようとするものだ。先日上梓した電子書籍“複眼主義入門”では、そのエッセンスを、図を多く用いてわかりやすく説明している。無料なので是非一度お読みいただければと思う。こちらのfacebook page(サンモテギ・リサーチ・インク)から、5月1日付でアップされた“複眼主義入門.pdf”をクリックしてすぐに閲覧することもできる。

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農業的価値観

2013年05月07日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログで提唱している、これからの産業システム(多品種少量生産・食の地産地消・資源循環・新技術)にせよ、スモールビジネス(小規模企業)にせよ、流域思想(山岳と海洋を繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりと考える思想)にせよ、“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)にせよ、どれも、いわゆる「農業的」な価値観と親和性を持っている。

 “千曲川ワインバレー 新しい農業への視点”玉村豊男著(集英社新書)という本は、この「農業的価値観」を、21世紀の日本人の暮らしのあり方の中心に据えてはどうかという提案である。まず本のカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 千曲川流域を活性化したい、就農希望の若者やワイナリー開設を夢見る人の背中を押したい、という思いから始まったプロジェクト「千曲川ワインバレー」。
 流域にブドウ畑や新たなワイナリーを集積、更にはそのノウハウを伝授するワインアカデミーを設立するなど、本書では壮大なプロジェクトの全容を明らかにし、そこから見えてきた日本の農業が抱えている問題や展望にも迫る。様々な実践の先にあったのは「縁側カフェ」や「エコロジカルな生活観光」といった新しいライフスタイルの提案であり、日本農業の可能性だった。

(引用終了)


 農業については、「日本の農業」の項で紹介したようなシビアな見方もあるが、これから先の日本にとって、そういった現実を踏まえつつも、「農業的価値観」を追求することは大切なことだと思う。さらに玉村氏の言葉を本文からいくつか引用しよう。

(引用開始)

 私たちがワインに求めているのは、産地やつくり手によってそれぞれに異なる個性であり、それぞれが違うことによって生まれる付加価値です。(中略)
 ふたつとして同じものがない、というのは、農業のもつ価値にほかなりません。(中略)
 均一でないことや企画にあわないことを、効率的でない、といって切り捨てる時代はもう終わりました。この三十年、あるいは二十年間におけるワインの世界での確信は、農業的価値観を発見した私たちが、ワインが農業のもつ価値をあますところなく表現していることに気づいたときからはじまったのです。
 ひとつひとつ違う、その土地からしか生まれない、自然の力がつくり出す、でもそこにはたしかに人間が介在する……。(中略)
 ワインという商品は、すでに述べたように農業の産物ですから、ひとつとして同じものはありません。
 だから、隣にライバルがあってもいいのです。むしろ、あってくれたほうがいい。同じクリマ(気候)とテロワール(土地)をもつひとまとまりの地域であっても、できるワインはそれぞれに違うのですから、飲み較べてその違いを味わってもらったほうが、よりそのメーカーの個性を理解してもらえるでしょう。その意味で、ワインメーカーは競争より共存を求めるのです。

(引用終了)
<同書 120−124ページ>

競争か協調か」の項で述べたように、ビジネスにおいては、全体の経営資源の多寡によって、競争して勝ち残りを狙うのか、協調して共存を図るのか戦略が分かれるが、ワインにおいては、同じ味の生産量が限られるから、協調して共存を図るメリットの方が大きいというわけだ。

 それにしても最近の日本のワインは味が良くなった。私も近くの酒屋でよく長野や山梨のワインを買ってくる。小布施ワイナリー、五一わいん林農園、井筒ワイン、グレースワイナリーなどなど。

 最後に本の帯に印刷された文章も引用しておこう。

(引用開始)

私はいま会う人ごとの「千曲川ワインバレー」の実現がもたらす未来を熱く語っているのですが、この地域にワイナリーが集積することは、農業を中心とした新しいライフスタイルが多くの人の目に見えるかたちで定着し、それがこれからの日本人の暮らしのあり方を変えていくのではないか、と期待しているからです。信じるか、信じないかはともかく、まず私の話を聞いてください。(本文より)

(引用終了)

 玉村氏のワインづくりについては、以前「里山ビジネス」の項などでも紹介したことがある。言うまでもなく、氏の経営する「ヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリー」は、理念濃厚な小規模企業の一つである。

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理念濃厚企業

2013年04月29日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 “建築家、走る”隈研吾著(新潮社)という本を読んだ。隈氏の著作については、これまでも「場所の力」の項などで紹介してきた。氏の建築は、場所という「コトが起こるところ」の力を最大限利用しようとする。それは“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代に相応しい。この本は、氏のそういった建築思想の来歴を、家庭環境やバブル崩壊期の苦労、右手の怪我や、初めて中国で手がけた「竹の家」のことなどを通して、自伝的に跡付けようとしたものだ。その率直な語り口に好感が持てる。新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 4月開場の新しい歌舞伎座の設計を手がけた建築家が、建築とは何か、建築家とは何者かを、自身と自作を通して語る。バブル崩壊後の10年で地方の建築物をいくつかつくり、「その場所でしかできない」「際立って特別な建築」への思いが深まったという。それは同時に「コンクリートに頼ってできた、重くてエバった感じ」の20世紀的建築の否定でもある。制約があれば、それを乗り越えて面白いものができるという発想で、利き腕の右手の怪我も完全に治さない。建築家に要求されるのは、心身兼ね備えたタフさ。グローバリゼーションの時代、「競走馬」として世界を飛び回る建築家が見れば、日本だけが21世紀に取り残されている。

(引用終了)
<朝日新聞 3/17/2013>

 隈氏は、過剰な財欲と名声欲が生み出した「アメリカンドリーム」、“モノ”の象徴としての「コンクリート」、官僚主義に犯された「サラリーマン」、という三つを否定しながら、「場所」というひとつの言葉にたどり着く。そして最終的に、「何かが生まれるプロセスを、真剣な思いの人たちと共有したい」というシンプルな心情に行き着く。

 前回「世界の問題と地域の課題」の項で、理念希薄企業がはびこる日本の現状打破は、自立した理念濃厚な小規模企業と、その横の連携によてのみ可能だろうと書いたけれど、隈氏の設計事務所(総勢150人)は、そういった理念濃厚な小規模企業の一つだと思う。今この建築家が面白い。

 ところで、新聞の書評にもある新歌舞伎座だが、先日柿葺(こけら)落四月大歌舞伎に行ってきた。建物や内装は素晴らしいが、やはり背後霊のように聳える高層ビルが目障りだった。それは、昨今出来た三菱一号館や東京駅舎、郵政ビルの復元建築と同様な敷地光景だ。一極集中が招いた余裕の少ない東京都心の風景。しかし今の日本社会において、一企業の力で歌舞伎とその周辺の社会資本を運営維持していくのが大変なことは分かる。隈氏はこの本で、歌舞伎座について、

(引用開始)

 歌舞伎座をコンクリートのハコの一つにしようとする外部の圧力とは、戦い抜く気持ちでした。

(引用終了)
<同書 63ページ>

と語っている。自らが出来るだけのことをすれば、歌舞伎座がコンクリートのハコになってしまうことだけは避けられるだろう、そんな思いで隈氏はこの設計を引き受けたに違いない。「1963年」の項で、村上春樹の小説に言及して、

(引用開始)

 現実が「暗澹たる“1Q84”の世界」だとしたら、いずれ「“1Q84”の世界をどうするか」ということが書かれねばならない。私が思うところ、その戦いは、青豆と天吾が手を取り合ったように、一人ひとりの精神的「自立」と、信頼するもの同士の「共生」によってなされる筈だ。そしてその戦法は、敵と無闇に刃を交える決戦主義ばかりではない筈だ。

(引用終了)

と書いたけれど、隈氏も建築の世界において、決戦主義ではない方法で「アメリカンドリーム」「コンクリート」「サラリーマン」という敵(私の言葉でいえば「人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出す「壁」というシステム」)と戦っておられるのだと思う。

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理念希薄企業

2013年04月09日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日上梓した電子書籍“複眼主義 起業論”の中で、

(引用開始)

 会社を非難する場などで、よく「大企業のくせに」という言葉を聞くことがありますね。資産や売り上げ、従業員数などが大きいくせにやっていることが社会の為になっていない、といった意味なのでしょうが、私はこの「大企業」という言葉があまり好きではありません。「大」という言葉には、「大人」や「大学」のように、レベルが高いという意味が内包されているように思います。会社で最も大切なのは、「理念と目的」であり、図体がいくら大きくても、「理念と目的」が希薄な会社は、けっしてレベルの高い一流企業ではありません。ですから、そういう会社のことは、「大企業」ではなく「理念希薄企業」と呼びたいと思っています。世の中には、「大企業」と「中小企業」があるのではなく、理念と目的をしっかり持った「理念濃厚企業」と、そうでない「理念希薄企業」が存在する、というわけです。

(引用終了)
<同書「ホームズとワトソン II」の項より>

と書いた。会社の理念の重要性については、先日「理念(Mission)先行の考え方」の項でも触れたところだ。

 先々回「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」について述べたが、会社組織において、この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」が発現するのは、そういった「理念希薄企業」に於いてである。どういうことか説明しよう。

 電子書籍“複眼主義 起業論”でも書いたように、会社とは、そもそも社会の役に立つために存在するはずのものだ。会社は、複眼主義で言うところの「生産」(他人のための行為)を、個人を超えた規模で行なう場合に設立されるもので、会社の「理念」とは、その会社がどの分野で、どのように社会へ貢献しようとするのかを表現した声明文(Statement)である。そして会社の「目的」とは、その会社が具体的に何を達成したいのかを纏めたものだ。だから、会社にとって、「理念と目的」はその存在意義に関わる最も大切なものの筈である。

 「理念希薄企業」とは、その最も大切な「理念と目的」、なかでも「理念」を失った、あるいは失いかけた企業を指す。そういう会社には、弱った体に活性酸素が増殖するように、「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」という病原が忍び寄ってくる。

 先々回の「認知の歪みとシステムの自己増幅」に沿って「理念希薄企業」を覗いてみよう。勿論そういう会社が起業当時の「理念」を思い出して、あるいは見直して、「理念濃厚企業」として再生する場合もあるだろうが、ここでは病原に犯された会社の姿を覗いてみたい。

 まずその企業の株主と経営トップに、起業したときの人たちに代わって、財欲と名声欲(greed)の権化のような人たちが陣取っているのが見える。かれらの会社運営の目的は「利益」である。そしてその利益から得られる配当である。次に見えてくるのは、中間管理層としての官僚たち(bureaucrats)である。彼らは会社の組織を粛々と運営し、その拡大を図り、それが生み出す財と名声のおこぼれを株主と経営トップから貰いながら、ときには株主と経営トップを代弁して社会に対して偽りの情報を流す。さらに見ると、「理念希薄企業」には、実に大勢の「顔なし」たちが生息している。かれらは、経営トップや中間管理層の言うことを無批判に受入れて、そのまま信じ込んでしまう「認知の歪み」を抱えた人たちだ。

 いかがだろう、いささかグロテスクに「理念希薄企業」を描写したけれど、皆さんの周りにも、昨今こういった会社が少なくないのではあるまいか。「真っ当な人間」であれば、誰でも「理念濃厚企業」で働きたいと思うに違いない。そして、もし自分に、個人を超えた規模で「生産」(他人のための行為)をしてみたい分野があるのであれば、準備万端整えた上で、理念濃厚なスモールビジネスとして「起業」することをお勧めしたい。

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認知の歪み

2013年02月26日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日パラパラとスポーツ系雑誌を読んでいたら、ダイエットが成就しない背景には誤った思い込み=認知の歪みがあるとして、幾つかの例が書いてあった。経営についても、業績が伸びない背景に同じことがあると思うので、ここにそれを引用しておきたい。

(引用開始)

 減量が成就しない背景には、誤った思い込み=認知の歪みが隠れていることが多い。いくつか典型例を挙げてみよう。
 まずは二分割思考。全てか無か、白か黒かと物事を両極端に捉える完全主義者の思考で、一度でもサボると減量を放棄する恐れがある。
 過度の一般化も困りモノ。過去のネガティブ体験から、一足飛びに結論を急ぐ傾向である。減量のペースが少し落ちるなど、ちょっとしたつまずきで「まだダメだ↓」とやる気が大幅ダウンする。
 悪い面だけを見て、良い面を評価しないのが選択的抽象化。ちゃんとできている目標があるのに、なかなかできない目標ばかりが気になると、成功体験が得にくい。
 最後は何事も「〜すべき」「〜してはいけない」と決めつける教義的思考。決め事を少しでも破ると罪悪感が生じ、負い目から行動目標を完全に投げ出しかねない。(後略)

(引用終了)
<“Tarzan”(マガジンハウス)No.619 113ページより>

 経営において、これら二分割思考、過度の一般化、選択的抽象化、教義的思考といった「認知の歪み」に陥らないためにはどうしたらよいか。雑誌では、減量のためには他の考えがないか自問自答を繰り返すことを推奨している。

 このブログでは、そういった認知の歪みに陥らないために、「複眼主義」という考え方を提唱している。減量といったシンプルな目的の場合は、他の考えがないか自問自答を繰り返すことで足りるだろうけれど、経営といった複雑なオペレーションの場合などは、もっと体系的な考え方が必要だと思う。

 体系的といっても、幾つかの視点を並行的に組合わせただけでは、認知の歪みはなかなか取れない。近視の矯正眼鏡と遠視用の眼鏡を一緒に掛けても正しい像が得られないように。

 複眼主義では、思考に複数の軸を設定し、生産と消費、理性と感性、男性性と女性性、母音語と子音語など様々な二項対比や双極性を相互に関連付け、世の中を包括的に理解し、バランスの取れた考え方を実践しようとする。

 誤った思い込みのまま世の中を見ていると、正しい行動の指針が得られない。得られないどころか、行動が間違った方向へズレてしまい、人生を台無しにしかねない。複眼主義は、

(一) 世の中の二項対比・双極性の性質を、的確に抽出すること
(二) どちらかに偏らないバランスの取れた考え方を実践すること
(三) 特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと 

を通して世の中を見、人生における行動の指針を得ようとするものだ。経営にも役立つ考え方だと思う。

 今回、「評論集“複眼主義”について」で紹介した本に加え、「複眼主義入門」をiPad-Zine(iPadで読める無料電子書籍サイト)から上梓した。複眼主義のエッセンスを、図を多く用いてわかりやすく解説したので、是非お読みいただきたいと思う。

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夜間飛行について

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