夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


本物を見抜く力

2013年11月05日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「経済の三層構造」の項で述べたように、モノコト・シフト時代には、人々は「コト経済」に対して親近感を抱く。しかし「コーポラティズム」を武器として利益の収奪を図る1%のgreedとbureaucracyにとって、それは好ましいことではない。だから彼らは、コト経済の「擬態」を作り出して、自分たちが作り出したシステム(行き過ぎた資本主義)に、人々を繋ぎとめようとする。

 「認知の歪みを誘発する要因」の項で述べたように、greedとbureaucracyは、人々を認知の歪みに陥れようと数々の罠を編み出すわけだが、コト経済の「擬態」もその罠うちの一つである。

 コト経済の「擬態」とは何か。コト経済とは、生命の営みを含めた人と外部との相互作用全般を指す。その擬態とは、贋物の人と外部との相互作用である。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の項の最後に書いたように、「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっていることだ。人と外部の相互作用とは、人の固有の「時空」と外部の「時空」とが相互に作用しあって、その結果新しい何かが生まれるプロセスである。時空の共振、魂の交感といってもよいだろう(人と人との相互作用は「生産と消費」の関係にある)。しかし、贋物には新しい何かを生み出す力がない。上辺だけの人間関係、書割の風景、味のしない食物、感動を呼ばないイベントなどなど。

 そのコトが本物か贋物かを見破るには、そのコトによって自分が感動するかどうかじっと見ればよい。感じればよい。贋物には人を真に感動させる力がない。だから、しばらく体験していれば本物との違いが分かるはずだ。

 greedとbureaucracyは、昔から“コト”の持つ力を利用してきた。パンとサーカス、スリー・エス(セックス・スポーツ・スクリーン)などなど。それらの“コト”は初めから贋物の場合もあるが、宗教行事、スポーツ・イベント、コンサートなど、本物の感動を与えるコトが起こっている話を聞きつけて、それを換骨奪胎し、贋物にすり替えて使い回すケースも多い。コトには人を陶酔させる麻薬のような作用があるから、それによって認知の歪み(思い込み)が生じると、そのあと贋物にすり替えられても気付かないことがあるのだ。だから陶酔させるような“コト”に対しては自戒して、陽性感情への過度の傾斜に歯止めをかけなければならない。参考までに、「認知の歪み」のパターンを再掲しておこう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

 それにしても、本物の評価は難しい。上記したように、往々にして本物が贋物にすり替えられたりするからでもあるが、本物を感じることができるかどうかは、自分の側に問題がある場合もあるからだ。いくら周りで素晴らしいコトが起こっていても、自分の側にそれを受け止めるだけの力(時空)がなくては、ネコに小判、馬の耳に念仏状態になってしまう。

 またコトに対する感動は、ある人にとっての感動が、別の人にとっては日常というケースもある。それぞれの人生経験、興味のあり様などによって感動のあり様は違ってくる。いくら風光明媚なところでも、そこに長く暮らしていれば慣れてしまって感動が薄れてしまう。いくら美味しい食べ物でもいつも食べていれば何も感じなくなってしまう。逆に、贋物だとわかっていてもその中のある部分に感動することがある。

 昨今の贋物・擬態は、技術進化によって以前よりも格段に本物に似せて作られ、演じられる。概ね、その活動に「理念と目的」が無い(見えない)場合は、贋物と考えて良いと思う。日々自己研鑽に努め、本物を見抜く力を養って「コト経済」を満喫する一方、greedとbureaucrcyの嘘には騙されないよう心掛けたいものだ。

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経済の三層構造

2013年10月29日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「政治と経済と経営について」の項で、経済とは、「自然の諸々の循環を含めて、人間を養う社会の根本の理法・摂理である。経済とは、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかない」と書いたけれど、ここでその「経済」の全体構造について、コト経済、モノ経済、マネー経済、という三つの層に分けて考えてみたい。

 「コト経済」とは、食・睡・排といった人の生命の営みそのものを指すと同時に、それ以外の、人と外部との相互作用全般を表す。私の造語だが意味は理解していただけると思う。

 「モノ経済」とは、衣・食・住といった生活必需品の循環であると共に、その他、ハコモノ、贅沢品など商品の交通全般を表す。

 「マネー経済」とは、モノの循環を助ける潤滑剤としての役割と共に、信用創造と金利を通して、計算上の利潤を齎す会計的仕組みを表す。

 纏めると、

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

ということになる。

 このブログでは、21世紀を「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(略してモノコト・シフト)」の時代としているが、それは、20世紀の大量生産・輸送・消費システムと、人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「コーポラティズム」のような“行き過ぎた資本主義”に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心が高まっている、という意味である。

 “行き過ぎた資本主義”と“モノ信仰”は、地球環境の破壊と貧富格差の拡大を齎した。

 モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域への求心力が高まってくると思う。a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)は、地球環境の破壊に直面する人々にとって、より重要な関心事となるからである。

 とくにこの時代、(greed以外の)人々の間では、「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろう。貧富の格差拡大に直面する人々にとって、所有よりも関係、私有よりも共同利用、格差よりも分配、独り占めよりも分担、といった生き方・考え方が切実なものとなってくる筈だからだ。

 a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力と、「コト経済」に対する親近感。「経済」をこのように、コト経済、モノ経済、マネー経済と分けて考えることで、今の時代のニーズがより良く見えてくるのではないだろうか。

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政治と経済と経営について

2013年10月22日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「里山システムと国づくり」の項で、政治と経済、経営について、その定義を簡単に書いたけれど、ここで今一度それぞれの定義について、「複眼主義」の観点から整理しておきたい。

 「経済」とは、自然の諸々の循環を含めて、人間を養う社会の根本の理法・摂理である。経済とは、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかない。

 「政治」とは、社会集団における利害の合理による調停・調整であり、そのプリンシプル(principle)は、集団において制度的に合意された「理念と目的」に基づくものでなければならない(プリンシプルとは、原理・原則・信条のこと)。

 「経営」とは、集団の「理念と目的」の実現に努めること。通常、国家経営を統治(governance)、企業経営を(management)と呼ぶ。経営には、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心

両方の能力が求められる。前者は「戦略」や「政治」能力であり、後者は主に「工程改善」能力である(詳細はさらにカテゴリ「起業論」を参照のこと)。

 以上の定義から、「里山システムと国づくり」で述べたことを再度確認しよう。

 まず大切なことは、経済が、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかないことだ。このブログでは、カテゴリ「生産と消費論」のなかで、生産とは「他人のための行為」全般を指し、消費とは「自分のための行為」全般であると述べてきたが、それはこの考え方に基づくものだ。「マネー資本主義」が、いかに偏ったものかということでもある。

 次に大切なのは、国の経営には「理念と目的」が必要だということだ。20世紀の国の「理念と目的」は、日本の富国強兵など、モノ中心主義に沿った中央集権的なものだったと思う。21世紀のモノコト・シフト時代のそれは、多様な「コト」の起こる環境や場を守る、地方分権的な理念が入っていなければならない。「里山システムと国づくり」の項で述べたような重層的なプロセスによって練り上げられた「理念と目的」の作成が急務だと思う。今の内閣にそれが見えているとは思えない。議会が国家理念を検討しているとも聞かない。

 最後に確認しておきたいのは、国の経営において、政治は万能ではないということだ。政治は、所詮、集団の利害の調整でしかない。政治は、経営の一部でしかない。国の「理念と目的」に基づいて、合理的な調整を行なえる者を「政治家」と呼び、greed(過剰な名声欲と財欲)によって調整を行なう者を「政治屋」と呼ぶ。

 「外交」も政治であるから、日本の国づくりを里山から始め、里山同士が国を越えて繋がるとすれば、外交交渉も、そういった地方の連携の交通整理が主な仕事になるはずである。安全保障や通商条約などについても、地方の流域価値を重層的に集約した、その国の「理念と目的」に沿った形で交渉が進められなければならない筈だ。

 いまの日本の議会や内閣には「政治屋」が多すぎる。そして、「理念と目的」の見えないままの国家経営。さらに、そもそも「理念と目的」を語る資格のない官僚が、そういうお粗末な政治屋を裏から操って、国家を運営(とても経営とは呼べない)しているという事態。これらが、今の日本の危機の本質だと思う。

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自分の殻を破る

2013年07月02日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「思考の癖」の項で、自分の後姿(思考の癖)をよく知ると、それによって生じた認知の歪みを修正できると述べたけれど、もっと積極的考えれば、自分の後姿をよく知ると、自分の殻そのものを打ち破ることが出来ると思う。

 ここでいう自分の殻とは、性格や思考の癖、知識や経験などを合わせた自分の力の限界を指し、性格(パーソナリティ)そのものではない。殻とは、英語でいうdispositions(資質)という言葉に近いのではないだろうか。だから(この定義でいうと)自分の殻を破るとは、自分の資質を高めるという意味になる。

 前回、自分の後姿(思考の癖)をよく知るためには、言語や時代のパラダイムなどと並んで、自分の性格について理解を深める必要があると書いたわけだが、自分の性格の来歴を知れば、思考の癖が見えてくると同時に、どうすればその癖を直せるかも分かってくると思う。知識や経験は別に積むとして、自分の性格とその来歴、思考の癖との相関を見つめることで、どういうトレーニングをすれば、自分の殻を破れるか、自分の資質を高めることが出来るかが分かってくる筈だ。

 参考までに、「6つのパーソナリティ」の項で述べたPCM (Process Communication Model)による性格(パーソナリティ)の分類を再掲しておこう。

(1)リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。
(2)ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。
(3)パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。
(4)ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。
(5)プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。
(6)レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかがという反応重視。

 勿論、この分類はいわば「理念型」で、現実にはみなそれぞれの要素を併せ持っているわけだが、食べ物の味覚(甘み・酸味・塩味・苦味・旨み)と同じで、性格はその特徴が前面に出てくるから、どのタイプが一番当て嵌まるかを見れば、自分の性格が大体分かると思う。

 性格の来歴については、生来的(内的)なものとして、性差、体質、体格、運動の癖(利き腕など)があり、後天的(外的)なものとしては、育てられた環境(家族や社会)、教育、人生経験などがあるだろう。

 性差については、「6つのパーソナリティ」の項で、男性は(2)、(3)、(5)、女性は(1)、(4)、(6)のタイプが多いらしいと書いたけれど、さらに「女性性と男性性」などの項も参照していただきたい。

 自分の殻などという曖昧な言葉を使ったため、話が逆に見えにくくなったかもしれない。整理の意味で、このブログで使っている言葉の定義を書いておこう。全体の構成が分かると思う。

●本来の人とは、

理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類

●人の健全な認知(思い)とは、

健全な脳(大脳新皮質)の働きと健全な身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き

●健全な脳の働きとは、

相手や環境についての構造や働きを理解し記憶できること、決断できること、責任感を持っていること、自分の思考の癖、性格、得意・不得意を自覚できていること、過剰なgreed(財欲と名声欲)を抑えることができること、感情や好き嫌いを抑えることができること。

思考の癖とは、健全な脳の働きを妨げる要因となるような習慣

●健全な身体の働きとは、

相手の気持ちを思いやり敬うができること、相手や環境につて豊かな感情を持ち共感(または反感)できること、自分の体調(恒常性)や三欲(食・睡・排)を調整・コントロールできていること。

●性格(パーソナリティ)とは、

脳の働きと身体の働きとを合わせたその人の特徴

●自分の殻とは、

性格や思考の癖、知識や経験などを合わせた自分の力の限界を意味し、英語でいうdispositions(資質)に近いと思われる。

●認知の歪みとは、

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

●認知の歪みを誘発する要因とは、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
(greedとは人の過剰な財欲と名声欲、bureaucracyとは官僚主義)

●人類の宿啞とは、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムの運用とその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

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思考の癖

2013年06月25日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 認知の歪みを誘発する内的要因のうち、脳の働き領域にある「思考の癖」について話を敷衍したい。同じ領域でも、「無知」や「誤解」は要因として分かりやすいが、思考の癖がなぜここに挙がるのか。

 思考の癖とは、たとえば相手が言ったことを理解する際、自分の考えに引き付けて解釈してしまうようなことだ。いつも物事を突き詰めて考える癖のある人は、相手の何気ない一言に対しても深読みしてしまう。

 人には思考の癖以外にも、性格、得意・不得意、好き嫌い、体質、体格、運動の癖、顔つき、性差など、様々な違いがあるが、その中で思考の癖ほど、自覚しにくいことはないと思う。他のことは他人にも見えやすい。しかし思考の癖は、外から見えるようになるには長く付き合っていないとなかなか分からないので、他人から指摘されることも稀で、特に自覚するのが難しいわけだ。自分の後姿や寝相がよく分からないように。また同じ組織やグループにいると、癖そのものが似てくるから、長く付き合っていてもお互いに指摘できない場合が多い。だから認知の歪みを誘発しやすい。

 思考の癖が事故に繋がった例でいうと、最近起こった東海村の加速器施設放射能漏れ事件などがそうではないかと思う。この実験施設にいる人たちは皆、素粒子や放射性物質の専門家だから、放射の漏れの可能性について「無知」だったり「誤解」をしていたりすることは無いだろう。新聞記事からの憶測に過ぎないから間違っているかもしれないが、危険性の過小評価という思い込み(認知の歪み)を誘発する要因として、「思考の癖」以外の内的要因、外的要因はなかなか考えにくい。分かりやすく言えば、放射能を扱うことに慣れきっていて、その危険性について甘く考えていたということなのではないだろうか。参考までに「認知の歪みを誘発する要因」の一覧を今一度掲載しておく。

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<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き:感情(陽性感情と陰性感情)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
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 よく、同じ会社の人は考え方が似てくるという。松下なら松下らしさ、ソニーならソニーらしさというわけだが、これなども一種の思考の癖であろう。何かに直面したとき、その会社特有の思考の癖が出るわけだ。良い面もあるが、特に危機管理においては自分達の思考の癖を自覚していた方が良いと思う。

 考えてみれば、東日本大震災においても、特に津波に対する認識の癖、あれだけ高い堤防を越えて津波が来ることはありえないと考えていた思考の癖が、その地域の人の生死を分けたといえるかもしれない。

 福島の原発事故はどうか。東海村の加速器施設放射能漏れ事件同様、現場の人たちに慣れと甘い考えがあったことは否めないだろうが、この場合それに加えて、原子力発電への過度の依存という20世紀型の時代パラダイム、さらにはgreedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種が「安全神話」という形で(私を含む)人々の認知の歪みを誘発し、それが現場の思考の癖を助長していたと思う。

 これほど思考の癖は恐ろしい。起業を志す方々は、性格、得意・不得意、好き嫌いなどと同様、自分の「思考の癖」をきちんと自覚しておくことをお勧めする。

 思考の癖は、組織や言語、時代の価値観、騙しのテクニックなどによって助長されると同時に、その人の性格や性差などからも大いに影響を受ける。冒頭に述べた物事を突き詰めて考える癖は、慎重な性格から齎される場合が多いだろう。以前「マップラバーとは」の項で述べた二つの思考の型、「6つのパーソナリティ」の項で述べた性格分類などについて理解を深めれば、自分の後姿(思考の癖)がよりよく見えてくるかもしれない。

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羅針盤のずれ

2013年06月04日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 山を歩いていて道に迷う場合、途中東西南北の方位感覚が何かの間違いで少しずれてしまい、それがやがて拡大していってしまうケースが多い。いわば脳裏の羅針盤にずれが生じるわけで、昼間ならば太陽の位置など、晴れた夜ならば星座の位置などによって修正可能だが、星の無い夜間ともなるとお手上げで、登山の本には、夜になったら無理な移動はするなと書いてある。

 一般的な認知においても、この「羅針盤のずれ」が起こる場合がある。「認知の歪みを誘発する要因」の項で、歪みの可能性要因の一つに、

脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)

を挙げた。アフォーダンス理論によれば、人は知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚他)によって運動を通してこの世界を日々発見し、脳(大脳新皮質)の働きがそれを刻々更新してゆく。だから、思考の過程において、(無知・誤解・思考の癖によって)方位感覚が少しずれてしまう(認知が歪む)と、修正する契機が無い場合、それが脳裏でどんどん拡大していってしまう危険性があるわけだ。

 「認知の歪みを誘発する要因」の項で、何かの専門家であればあるほどそれ以外の領域で認知の歪みに陥りやすいと書いたけれど、羅針盤のずれは、真面目な人であればあるほど起こりやすいといえる。なぜなら真面目な人は何でも理詰めに考え抜こうとするから、修正する契機がないと、ちょっとしたずれがそのまま拡大しやすい。いってみれば星のない夜間に無理やり移動するようなことになってしまうのだ。

 以前「平岡公威の冒険」の項で、平岡公威(ペンネーム三島由紀夫)について、

(引用開始)

 平岡は、西洋近代が発明した均一時間と均一空間という座標軸の上に、“見る者”と“見られる者”とを並べて置いてしまった。そしてその同一化という果たせぬ夢を追求し、“認識と行為”、“精神と肉体”などといった対立項を措定しながら、“文武両道”から“知行合一”へとその信条を進めていった。そして最後は自ら措定した二項対立を止揚すべく、戦後日本の欺瞞的な政治体制に身体をぶつけて死んでしまった。

(引用終了)

と書いたけれど、ことの他真面目だった平岡は、西洋近代が発明した均一時間の上に“見る者”と“見られる者”とを並べて置いてしまう、という小さな間違いから、その論理をとことん考え抜いた挙句、自死に至るほどの「羅針盤のずれ」を抱え込んでしまったのだと思う。彼がもうすこし不真面目だったら、あるいは身近に勇気を持って間違いを指摘する友人があったら、彼の星のない夜の移動のような最後の行動は止められただろう。彼の思考軌跡を愛惜の念を込めて「平岡公威の冒険」と名付ける由縁だ。

 事業方針でも、商品開発でも、体調管理やダイエットでもなんでも、ちょっと羅針盤にずれが生じているかな、と思ったら、一度立ち止まり、脳裏の地図を広げ、書を読み、人に意見を聞き、もういちど自分の立ち位置を見直すのが良いだろう。また、身近にそういう人がいたら、是非親身になって間違いを指摘(自分が間違っている可能性も含めて議論)して欲しい。逆に人から「you are wrong」といわれても怒ってはいけない。現在進行形の脳(大脳新皮質)の働きはいつも羅針盤のずれと背中合わせなのだから、人の親身な意見には謙虚に耳を傾けるべきだ。勿論、私の羅針盤にもずれが生じている可能性がある。自覚している思考の癖、無知領域、弱点や不得意分野も多い。なにせこのブログ、「夜間飛行」と称しているくらいだから、星の無い夜の飛行にはくれぐれも気を付けるようにする積もりだが、間違いがあれば是非指摘していただければと思う。互いに切磋琢磨して認知の歪みをできるだけ防ごうではないか。

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認知の歪みを誘発する要因

2013年05月13日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 経営を圧迫する認知の歪みの弊害については、これまで「認知の歪み」や「世界の問題や地域の課題」などの項で述べてきたが、その認知の歪みを誘発する、様々な要因についても考えてみたい。その前に「認知の歪み」のパターンを整理しておこう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

 これらの歪みを誘発する内的要因は、脳や身体に起こる様々な出来事だ。必ず誘発するわけではないが、まず、病気、疲労、五欲(食・睡・排・名声・財)そのもの、の三つを挙げておきたい。体が健康でなかったり、疲れすぎていたり、五欲への執着があると、頭の切れが悪くなって認知の歪みに陥りやすい。

 上の三つは体全体への影響だが、特に脳の働き(大脳新皮質の働き)領域に関しては、上に加えて、無知、誤解、思考の癖(くせ)の三つを挙げることができる。人は誰でも知らないことがあり、誤解したり思考の癖があったりするわけで、そういったこと自体が悪いわけではないが、それらはいづれ認知の歪みを誘発するから、人は学ばなければならないし、誤解や思考の癖による間違いについては、その可能性について常に自覚的でなければならない。

 特に身体の働き(大脳旧皮質・脳幹の働き)の領域としては、感情そのものを挙げることができる。感情を、陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)と陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)とに分けると、陰性感情のほうが認知の歪みに結びつきやすいようだ。“「つながり」の進化生物学”岡ノ谷一夫著(朝日出版社)に、

(引用開始)

 悲しみ、怒りといったネガティブな感情は、人をだましやすいものです。悪いことというのは生存に影響するから、生き物は悪い情報のほうに動かされやすい傾向があります。悪い情報は、それが間違っているとしても、さしあたりそれを避けるような行動を誘発しやすいわけですね。

(引用終了)
<同書 204ページ>

とある。自律神経バランスなどの身体管理に気を配って、陰性感情への過度の傾斜には歯止めをかけなければならない。尚、このブログでいう脳の働き、身体の働きについては、「脳と身体」の項を参照していただきたい。

 自戒を込めて書くが、それでも人は、内的要因による認知の歪みから完全に自由であることは出来ない。特に何かの専門家であればあるほど、それ以外の事柄について認知の歪みに陥りやすいことは特筆しておく必要があるだろう。専門家や高学歴者は、自分の専門領域の知識や見識でほかのこと類推しがちだ。だから、認知の歪み、なかでも過度の一般化(overgeneralization)や、拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)などに陥りやすい。

 これを経営に即して言えば、セールスの専門家は経理のことが分からないし、経理の専門家は技術のことがわからない、技術者は人事のことが分からない、そして、経営のトップは現場のことが分からなくなる、といった困った状態だ。大切なのは、上で述べたようなことに皆ができるだけ自覚的であること、自分の専門分野以外のことも学び、よく話し合って、誤解や間違いをできるだけ少なくすることである。

 歪みを誘発する外的要因には、自然発生的なものと人工的なものがある。自然発生的なもとは、災害や紛争、言語や宗教、その時代のパラダイム(その時代や分野において当然のことと考えられていた認識)や流行などのことで、それらは人々の認知を一様にある方向へ歪ませる。現代のパラダイムとその歪みについては、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」や「近代家族」の項などを参照いただきたい。

 人工的なものとは、過剰な財欲と名声欲(greed)と官僚主義(bureaucracy)が、人々を認知の歪みに陥れるために編み出す数々の罠のことだ。平たく言えば騙しのテクニックである。人々を認知の歪みに陥れ、巧妙にその資産を奪うのがgreedとbureaurcracyの目的だ。それらは概ね、上に挙げた内的要因を誘引する形を取る。多くの場合、自然発生的な外的要因をうまく利用して、人工的に内的要因を作り出し、人々の認知をその望む方向へ歪ませる。

 古くはいわゆるスリー・エスと呼ばれる政策があった。スリー・エスとは、セックス・スポーツ・スクリーン(映画)のことを指す。日本では戦後、敗戦による焦土化を一種の災害と考えさせ、人々の認知を経済復興というテーマに縛り付けておくために導入された。この政策は主に人々の陽性感情を利用する。

 ショック・ドクトリンと呼ばれる政策もある。災害によって人々がショック状態や茫然自失状態に陥っていることにつけこんで、人々の認知をその望む方向へ歪ませようとするものだ。ほかにも、紛争を戦争へと拡大したり、宗教を装ったり、人々の無知を利用したり、デマや風評を垂れ流して陰性感情を煽ったり、利益を貪る騙しのテクニックにはきりが無い。

 人を病に陥れる騙しのテクニックもいろいろとあるようだ。先日“知っておきたい有害物質100”齋藤勝裕著(サイエンス・アイ新書)という本を読んだが、健康を害する有害物質はこれでもかと思うほど実に多い。本に書かれた以外にもまだまだあるに違いない。「世界の問題と地域の課題」の項で書いたように、greedとbureaurcracyは、産業システムとして、効率の良い大量生産・輸送・消費へ向かう。最近“新農薬ネオニコチノイドが日本を脅かす”水野玲子著(七つ森書館)という本を読んだが、食品や薬の大量生産・輸送・消費は、とくに騙しの温床になりやすいと思われる。

 これらの外的要因にどう対処したら良いのか。残念ながら、内的要因同様、人はこれらの外的要因による認知の歪みから完全に自由であることはできない。しかしその影響について自覚的であることは出来る。面倒でも、一つひとつの事柄についてよく考え、必要ならば現場に足を運び、自分の脳と身体とで事実を確認し、認知の歪みに陥らないよう努力しようではないか。起業している皆さんは、是非内外の要因に騙されないようにして、ビジネスを成功させて欲しい。起業していない人も、騙されないようにして、「自立と共生」の項で述べた精神的自立を果たしていただきたい。

 このブログで提唱している「複眼主義」の考え方は、認知の歪みに陥らないために、思考に複数の軸を設定し、理性と感性、男性性と女性性、母音語と子音語など、様々な二項対比や双極性を相互に関連付け、世の中を包括的に理解し、バランスの取れた考え方を実践しようとするものだ。先日上梓した電子書籍“複眼主義入門”では、そのエッセンスを、図を多く用いてわかりやすく説明している。無料なので是非一度お読みいただければと思う。こちらのfacebook page(サンモテギ・リサーチ・インク)から、5月1日付でアップされた“複眼主義入門.pdf”をクリックしてすぐに閲覧することもできる。

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農業的価値観

2013年05月07日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログで提唱している、これからの産業システム(多品種少量生産・食の地産地消・資源循環・新技術)にせよ、スモールビジネス(小規模企業)にせよ、流域思想(山岳と海洋を繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりと考える思想)にせよ、“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)にせよ、どれも、いわゆる「農業的」な価値観と親和性を持っている。

 “千曲川ワインバレー 新しい農業への視点”玉村豊男著(集英社新書)という本は、この「農業的価値観」を、21世紀の日本人の暮らしのあり方の中心に据えてはどうかという提案である。まず本のカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 千曲川流域を活性化したい、就農希望の若者やワイナリー開設を夢見る人の背中を押したい、という思いから始まったプロジェクト「千曲川ワインバレー」。
 流域にブドウ畑や新たなワイナリーを集積、更にはそのノウハウを伝授するワインアカデミーを設立するなど、本書では壮大なプロジェクトの全容を明らかにし、そこから見えてきた日本の農業が抱えている問題や展望にも迫る。様々な実践の先にあったのは「縁側カフェ」や「エコロジカルな生活観光」といった新しいライフスタイルの提案であり、日本農業の可能性だった。

(引用終了)


 農業については、「日本の農業」の項で紹介したようなシビアな見方もあるが、これから先の日本にとって、そういった現実を踏まえつつも、「農業的価値観」を追求することは大切なことだと思う。さらに玉村氏の言葉を本文からいくつか引用しよう。

(引用開始)

 私たちがワインに求めているのは、産地やつくり手によってそれぞれに異なる個性であり、それぞれが違うことによって生まれる付加価値です。(中略)
 ふたつとして同じものがない、というのは、農業のもつ価値にほかなりません。(中略)
 均一でないことや企画にあわないことを、効率的でない、といって切り捨てる時代はもう終わりました。この三十年、あるいは二十年間におけるワインの世界での確信は、農業的価値観を発見した私たちが、ワインが農業のもつ価値をあますところなく表現していることに気づいたときからはじまったのです。
 ひとつひとつ違う、その土地からしか生まれない、自然の力がつくり出す、でもそこにはたしかに人間が介在する……。(中略)
 ワインという商品は、すでに述べたように農業の産物ですから、ひとつとして同じものはありません。
 だから、隣にライバルがあってもいいのです。むしろ、あってくれたほうがいい。同じクリマ(気候)とテロワール(土地)をもつひとまとまりの地域であっても、できるワインはそれぞれに違うのですから、飲み較べてその違いを味わってもらったほうが、よりそのメーカーの個性を理解してもらえるでしょう。その意味で、ワインメーカーは競争より共存を求めるのです。

(引用終了)
<同書 120−124ページ>

競争か協調か」の項で述べたように、ビジネスにおいては、全体の経営資源の多寡によって、競争して勝ち残りを狙うのか、協調して共存を図るのか戦略が分かれるが、ワインにおいては、同じ味の生産量が限られるから、協調して共存を図るメリットの方が大きいというわけだ。

 それにしても最近の日本のワインは味が良くなった。私も近くの酒屋でよく長野や山梨のワインを買ってくる。小布施ワイナリー、五一わいん林農園、井筒ワイン、グレースワイナリーなどなど。

 最後に本の帯に印刷された文章も引用しておこう。

(引用開始)

私はいま会う人ごとの「千曲川ワインバレー」の実現がもたらす未来を熱く語っているのですが、この地域にワイナリーが集積することは、農業を中心とした新しいライフスタイルが多くの人の目に見えるかたちで定着し、それがこれからの日本人の暮らしのあり方を変えていくのではないか、と期待しているからです。信じるか、信じないかはともかく、まず私の話を聞いてください。(本文より)

(引用終了)

 玉村氏のワインづくりについては、以前「里山ビジネス」の項などでも紹介したことがある。言うまでもなく、氏の経営する「ヴィラデスト・ガーデンファーム・アンド・ワイナリー」は、理念濃厚な小規模企業の一つである。

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理念濃厚企業

2013年04月29日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 “建築家、走る”隈研吾著(新潮社)という本を読んだ。隈氏の著作については、これまでも「場所の力」の項などで紹介してきた。氏の建築は、場所という「コトが起こるところ」の力を最大限利用しようとする。それは“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代に相応しい。この本は、氏のそういった建築思想の来歴を、家庭環境やバブル崩壊期の苦労、右手の怪我や、初めて中国で手がけた「竹の家」のことなどを通して、自伝的に跡付けようとしたものだ。その率直な語り口に好感が持てる。新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 4月開場の新しい歌舞伎座の設計を手がけた建築家が、建築とは何か、建築家とは何者かを、自身と自作を通して語る。バブル崩壊後の10年で地方の建築物をいくつかつくり、「その場所でしかできない」「際立って特別な建築」への思いが深まったという。それは同時に「コンクリートに頼ってできた、重くてエバった感じ」の20世紀的建築の否定でもある。制約があれば、それを乗り越えて面白いものができるという発想で、利き腕の右手の怪我も完全に治さない。建築家に要求されるのは、心身兼ね備えたタフさ。グローバリゼーションの時代、「競走馬」として世界を飛び回る建築家が見れば、日本だけが21世紀に取り残されている。

(引用終了)
<朝日新聞 3/17/2013>

 隈氏は、過剰な財欲と名声欲が生み出した「アメリカンドリーム」、“モノ”の象徴としての「コンクリート」、官僚主義に犯された「サラリーマン」、という三つを否定しながら、「場所」というひとつの言葉にたどり着く。そして最終的に、「何かが生まれるプロセスを、真剣な思いの人たちと共有したい」というシンプルな心情に行き着く。

 前回「世界の問題と地域の課題」の項で、理念希薄企業がはびこる日本の現状打破は、自立した理念濃厚な小規模企業と、その横の連携によてのみ可能だろうと書いたけれど、隈氏の設計事務所(総勢150人)は、そういった理念濃厚な小規模企業の一つだと思う。今この建築家が面白い。

 ところで、新聞の書評にもある新歌舞伎座だが、先日柿葺(こけら)落四月大歌舞伎に行ってきた。建物や内装は素晴らしいが、やはり背後霊のように聳える高層ビルが目障りだった。それは、昨今出来た三菱一号館や東京駅舎、郵政ビルの復元建築と同様な敷地光景だ。一極集中が招いた余裕の少ない東京都心の風景。しかし今の日本社会において、一企業の力で歌舞伎とその周辺の社会資本を運営維持していくのが大変なことは分かる。隈氏はこの本で、歌舞伎座について、

(引用開始)

 歌舞伎座をコンクリートのハコの一つにしようとする外部の圧力とは、戦い抜く気持ちでした。

(引用終了)
<同書 63ページ>

と語っている。自らが出来るだけのことをすれば、歌舞伎座がコンクリートのハコになってしまうことだけは避けられるだろう、そんな思いで隈氏はこの設計を引き受けたに違いない。「1963年」の項で、村上春樹の小説に言及して、

(引用開始)

 現実が「暗澹たる“1Q84”の世界」だとしたら、いずれ「“1Q84”の世界をどうするか」ということが書かれねばならない。私が思うところ、その戦いは、青豆と天吾が手を取り合ったように、一人ひとりの精神的「自立」と、信頼するもの同士の「共生」によってなされる筈だ。そしてその戦法は、敵と無闇に刃を交える決戦主義ばかりではない筈だ。

(引用終了)

と書いたけれど、隈氏も建築の世界において、決戦主義ではない方法で「アメリカンドリーム」「コンクリート」「サラリーマン」という敵(私の言葉でいえば「人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出す「壁」というシステム」)と戦っておられるのだと思う。

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理念希薄企業

2013年04月09日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日上梓した電子書籍“複眼主義 起業論”の中で、

(引用開始)

 会社を非難する場などで、よく「大企業のくせに」という言葉を聞くことがありますね。資産や売り上げ、従業員数などが大きいくせにやっていることが社会の為になっていない、といった意味なのでしょうが、私はこの「大企業」という言葉があまり好きではありません。「大」という言葉には、「大人」や「大学」のように、レベルが高いという意味が内包されているように思います。会社で最も大切なのは、「理念と目的」であり、図体がいくら大きくても、「理念と目的」が希薄な会社は、けっしてレベルの高い一流企業ではありません。ですから、そういう会社のことは、「大企業」ではなく「理念希薄企業」と呼びたいと思っています。世の中には、「大企業」と「中小企業」があるのではなく、理念と目的をしっかり持った「理念濃厚企業」と、そうでない「理念希薄企業」が存在する、というわけです。

(引用終了)
<同書「ホームズとワトソン II」の項より>

と書いた。会社の理念の重要性については、先日「理念(Mission)先行の考え方」の項でも触れたところだ。

 先々回「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」について述べたが、会社組織において、この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」が発現するのは、そういった「理念希薄企業」に於いてである。どういうことか説明しよう。

 電子書籍“複眼主義 起業論”でも書いたように、会社とは、そもそも社会の役に立つために存在するはずのものだ。会社は、複眼主義で言うところの「生産」(他人のための行為)を、個人を超えた規模で行なう場合に設立されるもので、会社の「理念」とは、その会社がどの分野で、どのように社会へ貢献しようとするのかを表現した声明文(Statement)である。そして会社の「目的」とは、その会社が具体的に何を達成したいのかを纏めたものだ。だから、会社にとって、「理念と目的」はその存在意義に関わる最も大切なものの筈である。

 「理念希薄企業」とは、その最も大切な「理念と目的」、なかでも「理念」を失った、あるいは失いかけた企業を指す。そういう会社には、弱った体に活性酸素が増殖するように、「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」という病原が忍び寄ってくる。

 先々回の「認知の歪みとシステムの自己増幅」に沿って「理念希薄企業」を覗いてみよう。勿論そういう会社が起業当時の「理念」を思い出して、あるいは見直して、「理念濃厚企業」として再生する場合もあるだろうが、ここでは病原に犯された会社の姿を覗いてみたい。

 まずその企業の株主と経営トップに、起業したときの人たちに代わって、財欲と名声欲(greed)の権化のような人たちが陣取っているのが見える。かれらの会社運営の目的は「利益」である。そしてその利益から得られる配当である。次に見えてくるのは、中間管理層としての官僚たち(bureaucrats)である。彼らは会社の組織を粛々と運営し、その拡大を図り、それが生み出す財と名声のおこぼれを株主と経営トップから貰いながら、ときには株主と経営トップを代弁して社会に対して偽りの情報を流す。さらに見ると、「理念希薄企業」には、実に大勢の「顔なし」たちが生息している。かれらは、経営トップや中間管理層の言うことを無批判に受入れて、そのまま信じ込んでしまう「認知の歪み」を抱えた人たちだ。

 いかがだろう、いささかグロテスクに「理念希薄企業」を描写したけれど、皆さんの周りにも、昨今こういった会社が少なくないのではあるまいか。「真っ当な人間」であれば、誰でも「理念濃厚企業」で働きたいと思うに違いない。そして、もし自分に、個人を超えた規模で「生産」(他人のための行為)をしてみたい分野があるのであれば、準備万端整えた上で、理念濃厚なスモールビジネスとして「起業」することをお勧めしたい。

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認知の歪み

2013年02月26日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日パラパラとスポーツ系雑誌を読んでいたら、ダイエットが成就しない背景には誤った思い込み=認知の歪みがあるとして、幾つかの例が書いてあった。経営についても、業績が伸びない背景に同じことがあると思うので、ここにそれを引用しておきたい。

(引用開始)

 減量が成就しない背景には、誤った思い込み=認知の歪みが隠れていることが多い。いくつか典型例を挙げてみよう。
 まずは二分割思考。全てか無か、白か黒かと物事を両極端に捉える完全主義者の思考で、一度でもサボると減量を放棄する恐れがある。
 過度の一般化も困りモノ。過去のネガティブ体験から、一足飛びに結論を急ぐ傾向である。減量のペースが少し落ちるなど、ちょっとしたつまずきで「まだダメだ↓」とやる気が大幅ダウンする。
 悪い面だけを見て、良い面を評価しないのが選択的抽象化。ちゃんとできている目標があるのに、なかなかできない目標ばかりが気になると、成功体験が得にくい。
 最後は何事も「〜すべき」「〜してはいけない」と決めつける教義的思考。決め事を少しでも破ると罪悪感が生じ、負い目から行動目標を完全に投げ出しかねない。(後略)

(引用終了)
<“Tarzan”(マガジンハウス)No.619 113ページより>

 経営において、これら二分割思考、過度の一般化、選択的抽象化、教義的思考といった「認知の歪み」に陥らないためにはどうしたらよいか。雑誌では、減量のためには他の考えがないか自問自答を繰り返すことを推奨している。

 このブログでは、そういった認知の歪みに陥らないために、「複眼主義」という考え方を提唱している。減量といったシンプルな目的の場合は、他の考えがないか自問自答を繰り返すことで足りるだろうけれど、経営といった複雑なオペレーションの場合などは、もっと体系的な考え方が必要だと思う。

 体系的といっても、幾つかの視点を並行的に組合わせただけでは、認知の歪みはなかなか取れない。近視の矯正眼鏡と遠視用の眼鏡を一緒に掛けても正しい像が得られないように。

 複眼主義では、思考に複数の軸を設定し、生産と消費、理性と感性、男性性と女性性、母音語と子音語など様々な二項対比や双極性を相互に関連付け、世の中を包括的に理解し、バランスの取れた考え方を実践しようとする。

 誤った思い込みのまま世の中を見ていると、正しい行動の指針が得られない。得られないどころか、行動が間違った方向へズレてしまい、人生を台無しにしかねない。複眼主義は、

(一) 世の中の二項対比・双極性の性質を、的確に抽出すること
(二) どちらかに偏らないバランスの取れた考え方を実践すること
(三) 特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと 

を通して世の中を見、人生における行動の指針を得ようとするものだ。経営にも役立つ考え方だと思う。

 今回、「評論集“複眼主義”について」で紹介した本に加え、「複眼主義入門」をiPad-Zine(iPadで読める無料電子書籍サイト)から上梓した。複眼主義のエッセンスを、図を多く用いてわかりやすく解説したので、是非お読みいただきたいと思う。

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理念(Mission)先行の考え方

2013年01月01日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 会社で最も重要なのは、その理念(Mission)だろう。以前「理念(Mission)と目的(Objective)の重要性」の項で、

(引用開始)

 会社を始める際には、なぜその会社を興そうとしたのかという理念(Mission)と、具体的に何を達成したいのかという目的(Objective)を、自分できちんと書いてみることが重要である。

 いくら小さくとも会社は一つの共同体だから、その理念と目的を、社員やお客様、さらには社会に対してわかりやすく伝えることが大切なのである。この二つをはっきりさせず、ただお金が儲かるからとか、人に頼まれたからという理由で始めても、会社という共同体は長続きしない。

(引用終了)

と書いたけれど、「創業理念」は起業した後も重要である。何故なら、その文言は、なぜその会社が営業を続けるのかを示す、いわば会社の存在理由(レゾンデートル)だからである。

 この理念先行型の考え方は、起業や会社運営という大きな場面だけではなく、その中で、さまざまなプロジェクトを推進・実行する際や、個人のキャリアプラン作りにも有効である。“ミッションからはじめよう!”並木裕太著(ディスカヴァー・トゥエンティワン)は、その為のフレームワークを平明に解説した本だ。新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

使命を重視し課題の整理を

 ビジネスとは絶え間ない課題解決のこと。航空会社の経営企画室に配属された「大空翔子」は、格安航空会社への対抗策という課題を会社から与えられる。戸惑う彼女の前に登場したのが、コンサルタント「並木裕太」。彼はフレームワークやツリーやらの専門用語を駆使して課題を解決に導く。
 裕太が説く解決のステップは、「ミッション(使命)、ロジック(論理)、リアライズ(実行)」。リアライズには「レジスター(認識)、エンゲージ(向かい合い)、コミット(責任を持つ)」の三つが必要ということで、翔子は随所で「また出た、横文字! 耳障りだし、意味がわからない」と、ツッコミまくる。そのツッコミに裕太が答える中で、意味不明の用語がわかりやすく解説されていく、という仕掛けだ。
 著者は外資系コンサルタント会社出身で、この本も、コンサルお得意のロジカルシンキングを扱っているが、「ロジック」よりも「ミッション」を重要視した点に、新たなひらめきがある。ミッションとは「なぜ、それを実行するのかというそもそもの志、使命」のこと。ビジネスの現実はロジカルとはいい難いが、ミッションという軸が見え、課題整理のスキルがあれば、前に進むことはできる。そのスキルの最先端を、誰にも使い勝手よく整理している。

(引用終了)
<朝日新聞 5/13/2012>

ということで、この本には、ミッションをつくる上で役に立つツールが多く紹介されている。一読をお勧めしたい。

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現在地にあなたはいない

2012年12月25日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 “日本語と英語”片岡義男著(NHK出版新書)によって、日本語の話を続けよう。この本には、先回引用した「いつのまにかそうなっている」という項を含め、全部で83項目の日本語と英語に関する挿話が載っている。先回引用した本カバー裏の紹介文にある、「風呂を取る(take a bath)」ものだと思っていた少年は、ずっと「風呂に入る」ということが分からなかった…という話は、前書きの「一枚にインデックスカードに値する」という項に書かれている。日本語は、「状態」や「環境」主体の言葉だから、日本人は「風呂」を場所に見立ててそこに「入る」わけだが、動詞で能動的に働きかける主格中心の英語では、人が「風呂を取る」と表現する。たしかに日本人は何にでも入りたがる。

(引用開始)

 風呂に入る以外に、日本語の人たちは、どこへ入るか。小学校に入る。会社に入る。保険に入る。家庭に入る。話に入る。仲間に入る。人の輪に入る。鬼籍に入る、という入りかたもある。「風呂を取る」などと言っていた子供が風呂に入ることを学んだのは、ずっとあとになってからのことだった。

(引用終了)
<同書 18ページ>

仲間に入りたがるから、日本人は仲間外れにされることを極端に怖がる。会社に入るから、「出る」ことに勇気がいるわけだ。このように、83項目の挿話のどれも面白いのだが、英語と日本語の違いを端的に表すのが“「現在地」にあなたはいない”という一番初めの挿話だ。引用してみよう。

(引用開始)

 駅の改札口を出て、確かにこちらだったと思いながら、南口の商店街のほうへ歩いていこうとすると、交番の向かい側、タクシー乗り場の端に、近所の案内地図の掲示板が立っているのを見つける。最近ではこのような掲示板は堅牢な構造物となっている場合が多い。駅を中心とした単なる地図が、透明な保護樹脂に守られて暇そうにしている。役に立たない地図だから暇なのだ。
 この近辺案内地図のまんなかあたり、少しだけ下の位置に、赤い色で塗りつぶした丸、三角、あるいは四角などの図形があり、その図形の上に黒い愛想のない文字で、「現在位置」と印刷してあるのを誰もが見る。「現在位置」とは不思議な言葉だが、誰もそんなことは思わない。「あなたが現在いる位置はここです」という意味が、現・在・位・置の、そしてこの順にならんだ、四つの漢字による言葉の内部に折りたたまれている。日本で標準的な教育を受けた人なら、そのくらいのことは言われるまでもなくわかる。「現在位置」という漢字の列をひと目見ただけで、その内部に折たたまれている意味が、誰にでもとっさに理解できる。(中略)
 近辺案内地図の「現在位置」あるいは「現在地」という日本語に該当する英語の言いかたは、You are Hereだ。案内地図をふと見た人は誰もが、ほとんど名ざしで、youと特定される。そのyouはhereつまり、「ここ」にあるのだ。youと名ざしされたその人の問題として、hereという地図上の一点が提示される。誰でもがyouであり得るけれど、案内地図のなかからyouと言われたなら、そのときそこで地図を見ているその人が、特定されている。このことに比べると、「現在位置」、あるいは「現在地」という日本語の言いかたは、状況の一般論だ。現在という漠然の極みのような状態のなかに、「位置」や「地」が、なぜだか知らないがそこにある。

(引用終了)
<同書 28−30ページ>

近辺案内地図における日本語の「現在地」という表示と、英語の「you are here」という表示の違いに、「状態」や「環境」を中心に考える日本語的発想と、「主格」を中心に考える英語的発想の違いとが端的に示されている。

 以前「言語技術」の項で、“英文法の謎を解く”副島隆彦著(ちくま新書)から、

(引用開始)

 日本文を英文(ヨーロッパ語の文)と比較して、ひとつの大きな特徴があることに気づく。日本文は、どんなに複雑に見えようとも「A=B」に還元できる言語である。「きのうは疲れた」でも、「みんなの願いは景気回復だ」でも「彼はダメだ」「彼女はうるさい」でも何でも、全て、この「A=B」の構成になっている。これを英文に直すと、それが何通りかの文構成になるのである。ここに日本語という言語の重大な秘密が隠されているのではないか。

(引用終了)
<同書52−53ページ>

という文章を引用したけれど、日本語には、「A=B」を表す等価としてのbe動詞はあるけれど、存在そのものを表すbe(存在詞)が不在である。「you are here」のare(be動詞)は、この存在詞なのであって、「A=B」を表す等価としてのbeではない。

日本語に「you are here」と云える言葉を創り出さない限り、日本人はいつまでも○○に入りたがり続けるだろう。この○○は、TPPでも、原子力ムラでもいいが、○○に入る(出る)というメンタリティに留まっている限り、手ごわい組織との交渉は、初めから負けるに決まっている。なぜならそこには、自立した個人(Iやyou)が不在なのだから。この先の片岡氏の文章を引用しよう。

(引用開始)

 「現在位置」、あるいは「現在地」は、案内地図の掲示板が立っているその位置を示しているだけだ。目的地までの道順を探そうとしてその案内板の前に立つ人がいれば、その人は案内板とほぼおなじ位置にいると言ってもいいだろう、という恐ろしいまでのyouの不在が、「現在位置」、あるいは「現在地」の背後にある。「あなたがいまいるのはここです」ときちんと日本語で表記した案内地図が、しかし、この日本にけっしてないわけではない、きっとどこかにある。

(引用終了)
<同書 30ページ>

ということでこの項は終わっている。「あなたがいまいるのはここです」ときちんと日本語で表記した案内地図。それは、はたして日本の何処かにあるだろうか。

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posted by 茂木賛 at 16:28 | Permalink | Comment(0) | 起業論

スモールビジネスのマーケティング

2012年07月24日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、起業理念が明確な小規模企業(スモールビジネス)を応援している。“小が大を越えるマーケティングの法則”岩崎邦彦著(日経新聞出版社)は、スモールビジネスにおけるマーケティングについて書かれた本だ。新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 人口減少社会の日本で企業が生き残るためのマーケティング戦略を紹介する。キーワードは書名にある「小」だ。
 高度成長期には大企業による同一商品の大量生産、大量販売によって生活水準が向上した。当時の消費社会のキーワードは「大」だった。だが豊かさを手にした消費者は次に他人とは違う商品やサービスを好むようになる。多様性が重視されるこうした社会では「大」より「小」が重要になる。小さな企業、小さな店にチャンスが生まれる。
 著者は長年、地域社会と消費行動を研究テーマとしてきた。そこから見えてきたのは「全国」から「地方」、「総合」から「専門」、「効率性」から「感性」などへの社会構造と消費者意識の変化だ。
 本書では、多くの消費者調査で浮かんだ、消費者の細分化した好みを解説。随所に設問を挟むなど読者の理解を助ける工夫も凝らしている。
 商品開発や営業に携わる人には、日本の消費者の実像を知るのに役立つだろう。個性的で独自色を出せる「小規模の強み」を探し出し、それを調和のとれた形に組み合わせる必要性を感じるはずだ。
 また、本書を読み進めていけば、新しい強みを見つけることだけが大切ではないこともわかる。個性的な強みがありながら見過ごしているケースがあり、身の回りでの再発見から商機をつかむことが可能だからだ。

(引用終了)
<日経新聞 5/6/2012>

ということで、この本には、「ほんもの力」「きずな力」「コミュニケーション力」という3つの力に注目したマーケティング戦略が平明に書かれている。本の帯裏には、

(引用開始)

「全国」から「地域」へ、「総合」から「専門」へ、「画一性」から「個性」へ、「量」から「質」へ、「無難」から「本物」へ、「効率性」から「感性」へ――時代のトレンドは、小さな企業に吹く追い風。
3つの力「ほんもの力」「きずな力」「コミュニケーション力」
でチャンスをつかみとれ!

(引用終了)

とある。興味のある方にお勧めしたい。

 ここのところ、スモールビジネスに関連する本が多く出版されている。“計画と無計画のあいだ”三島邦弘著(河出書房新社)、“「本屋」は死なない”石橋毅史著(新潮社)、“営業部は今日で解散します”村尾隆介著(大和書房)、“小商いのすすめ”平川克美著(ミシマ社)などなど。スモールビジネスとは、モノを大量生産・販売するのではなく、その場所に起こるコトをベースとした商売である。やはり時代は「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」を迎えているのだろう。

 尚、“「本屋」は死なない”については「本の系譜」、“営業部は今日で解散します”については「これからのモノづくり」、“小商いのすすめ”については「ヒューマン・スケール」の各項で紹介した。併せてお読みいただけると嬉しい。

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ヒューマン・スケール

2012年06月19日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それらを牽引するのは、フレキシブルで判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると主張してきた。ここでいうスモールビジネスとは、起業理念が明確な小規模企業を指す。従業員数の目安としては、社長1人から全員で30人くらいまでを想定しているが、業種によって適正規模があるからあまり拘らなくても良い。

 先日“小商いのすすめ”平川克美著(ミシマ社)という本を読んだ。このブログでの主張と重なるところが多いので、今回はこの本を紹介したい。まずは新聞の書評から。

(引用開始)

 装丁のセンスと「小商い」という言葉の響きに惹かれて手に取った。が、著者が前書きで断っているように、本書は小規模ビジネスの指南本ではない。
 グローバル資本主義が行き詰まり、経済成長神話や原発安全神話が崩壊した今、我々はどんなやり方で未来を描くべきか。本書では貧しくも活気があった昭和30年代を見つめ直しながらそのヒントを探る。キーワードは経済の縮小均衡とヒューマン・スケール(身の丈)の復興だ。
 金融技術によって膨らませた経済とは対極にある、地に足のついた、血の通った営み――そんな“小商いの哲学”に日本再生の希望を見る。「経営規模としては、むしろ小なるを望む」と謳ったソニーの設立趣意書を「小商いマニフェスト」と捉え、その精神を軽視したが故に、ソニーは輝きを失ったと説くのだ。
 換言すれば、経済成長の夢から覚めて「大人になれ」ということ。例えば高度成長を主導した下村治は、日本の拡大均衡が限界に達したことを1980年代半ばに見抜いていたという。
 小商いとは「身の回りの人間的なちいさな問題を、自らの責任において引き受ける」生き方のことでもある。脱・経済成長論は多々あれど、興味をそそるタイトルが本書の白眉。小商いを旨とする版元の出版社のありようが著者の主張を体現している。(ミシマ社・1680円)

(引用終了)
<朝日新聞 4/1/2012(ルビ省略)>

ということで、この本には私が勤めていたソニーの設立趣意書も出てくる。小商いについて、さらに本書から引用しよう。

(引用開始)

 小商いとは、自分が売りたい商品を、売りたい人に届けたいという送り手と受け手を直接的につないでいけるビジネスという名の交通であり、この直接性とは無縁の株主や、巨大な流通システムの影響を最小化できるやり方です。
 当然のことながら、そこに大きな利潤が生まれることはありません。
 しかし、小商いであるがゆえに、それほど大きな利潤というものも必要とはしていない。 
 何よりも、送り手と受け手の関係が長期にわたって継続してゆくことで、送り手は自分が行なっていることが意味のあることであり、社会に必要とされているのだと実感することができることが重要なのです。

(引用終了)
<同書 212ページ>

 本書の鍵となるコンセプトは、書評にもあるとおり「ヒューマン・スケール」という言葉だろう。本書のあとがきから引用する。

(引用開始)

 人間は誰でも自然の摂理のなかから偶然にこの世に生れ落ち、数十年を経て再び自然の摂理の中に回収されていく存在です。
 本書の中で繰り返し述べているヒューマン・スケールとは、まさに人間がどこまでいっても自然性という限界を超え出ることはできない存在であり、その限界には意味があるのだということから導き出した言葉です。
 小商いという言葉は、そのヒューマン・スケールという言葉の日本語訳なのです。

(引用終了)
<同書 227ページ>

 ヒューマン・スケールという言葉には、物事を判断するに及んで「自分を外さない」という意味も込められている。

(引用開始)

 ひとは、自分を棚上げにしたところでは何でも言うことが可能ですが、自分を棚上げしてなされた言葉は中空に浮遊するだけで、他者に届くことはありません。

(引用終了)
<同書 132ページ>

このブログでも、「集合名詞(collective noun)の罠」の項で、「これまで人間社会で起こったことのすべては一人一人の判断と行動(あるいは非行動)の結果であり、これからもそれ以外はあり得ないということを我々は肝に銘じるべきだろう。(中略)ビジネスの現場でも、本当のところ個人の力が全てである。何かを成し遂げるためには、社員一人ひとりが持てる力をフルに発揮する以外に道はない。スモールビジネスにおいては特に、社長以下社員一人ひとりの行為がそのまますぐ会社の業績・評価につながる。」と述べたことがある。

 著者の平川氏はさらに、ヒューマン・スケールとは、本来自分には責任のない「いま・ここ」に対して、責任を持つ生き方だという。

(引用開始)

 そういった合理主義的には損な役回りをする人があって、はじめて地域という「場」に血が通い、共同体が息を吹き返すことができる。(中略)
 ともかく、誰かが最初に贈与的な行為をすることでしか共同体は起動していかない。
 合理主義的には損な役回りといいましたが、ほんとうはそうとばかりはいえないだろうとわたしは思っています。
 なぜなら、責任がないことに責任を持つときに、はじめて「いま・ここ」に生きていることの意味が生まれてくるからです。
 自分が「いま・ここ」にいるという偶然を、必然に変えることができる。

(引用終了)
<同書 195−196ページ>

この考え方は、「人は自分のために生まれるのではなく、社会のために生まれてくる」とする私の「生産と消費論」とシンクロする。人は、自然の摂理のなかから、本来自分には責任のない「いま・ここ」(社会)に生まれてくる。そして、その「いま・ここ」に貢献することで、生きていることの意味が生じてくるのだ。この考え方については、小説“僕のH2O”でも展開しているので併せてお読みいただければ嬉しい。

 平川氏は、新聞のインタビュー記事(東京新聞 3/4/2012)のなかで、この本は、執筆中の昨年三月に東日本大震災があり、同じ年の六月に一年半介護した父親を看取るという二つの体験がなければ書けなかったとし、「毎日早く帰ってスーパーに立ち寄り、ご飯をつくって洗濯する。それを続けて分かったのは、人間は自分のために生きているのではない、ということです。自分を必要としてくれる人間のために生きているときに、生命エネルギーはものすごく上がるんです。震災以降にわれわれが身に付けなければいけない耐性はそれだと思う」と述べておられる。また、同インタビュー記事によると、平川氏は、現在IT関連など二つの会社を都内で経営しているが、社員は合わせて十人。自ら「小商い」を実践しているとのことである。小商い(スモールビジネス)については、ここのカテゴリ「起業論」でもいろいろな角度から論じているので、参照していただきたい。

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自分でよく考えるということ

2012年04月30日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「1969年」の項で自分を振り返り、

(引用開始)

 当時私は高校三年生、世界のことなど何も知らないくせに、受験勉強の振りをしながら吉本隆明の“共同幻想論”(河出書房)などを読む、生意気盛りの若者だった。

(引用終了)

と書いたけれど、私は当時から、多少偏ってはいたものの、何でも自分でよく考える習慣だけは物にしていたと思う。このブログではこれまで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き―「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き―「私(private)」

という対比を見、偏ることなく物事を考えるには、この両方を以ってバランスよく考える必要があると述べてきた。尚、ここでいう「脳の働き」とは、大脳新皮質主体の思考であり、「身体の働き」とは、身体機能を司る脳幹・大脳旧皮質主体の思考のことを指す(詳しくは「脳と身体」の項を参照のこと)。

 若かりし頃の自分を省みるに、何でもよく考える習慣はあったものの、どちらかというと、「大脳新皮質主体の思考」に偏っていたように思う。「大脳新皮質主体の思考」は、客観的に状況を把握して物事を分析するのに必要だが、人に共感し環境を体感するには、「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」が重要である。前者を「頭で考える」と譬えれば、後者は「腹で考える」といえるだろう。歳を重ねるうちにこのことがわかってきた。例えば寅さんの映画は、腹で考えることが出来ないとなかなかその良さがわからない。

 以前「複眼主義のすすめ」の項で、この対比に、

Α 男性性=「空間重視」「所有原理」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」

という別の対比を重ね合わせたことがある。人はそもそも性別によって、どちらかに偏りが出るのかもしれない。とすると、もともと男性性が優位な人は「女性性」=「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」を、女性性が優位の人は「男性性」=「大脳新皮質主体の思考」をそれぞれ鍛え、バランスよく物事を考える力を養う必要があるということになる。

 ただし同じ「大脳新皮質主体の思考」でも、(「母音言語と自他認識」の項で述べたように)日本語においては、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分に働かないという仮説がある。英語や他の外国語の勉強を通して、この機能も上手く使えるようになることが大切である。

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多様性を守る自由意志

2012年04月24日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自由意志の役割」の項で、

(引用開始)

 人間社会における「ゆらぎ」は、自然環境変化や気候変動、科学技術の発展、歴史や言葉の違い、貧富の差や社会ネットワーク・システムなどなど、それこそ無数の要因(コト)が複雑に絡み合って齎されるが、人の「自由意志」もそれらの要因の大切な一部である。とくに社会の多様性を保つために、人の「自由意志」の果たす役割は大きいと思う。

(引用終了)

と書いたけれど、「多様性を守る自由意志」というテーマにとって、最適なテキストがあった。“水を守りに、森へ”山田健著(筑摩選書)という本である。サブタイトルに“地下水の持続可能性を求めて”とある。まず新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

 サントリーで長くコピーライターを務めた著者は21世紀が迫ってきたころ、ふと、同社の事業がいかに「地下水」に依存しているかに気づく。同時に、その地下水が、森林の荒廃によっていかに危うい状況に置かれているかも。
 以来10年余りにわたって、地下水を涵養(かんよう)する森を守ろうと日本中を奔走してきた経験が、軽妙につづられる。
 ユニークなのは、企業の社会貢献ではなく、本業としての位置づけだ。水に生かされている会社が水を守るのは当たり前というわけだ。
 ミネラルウォーターなどを生産する工場の周辺で、約7千ヘクタールの森林を整備してきた。山手線を一回り大きくしたとてつもない広さだが、日本全体では微々たるものだ。
 広大な森林を守るには、国や自治体の力だけでは到底足りない。多くの企業に、本業に近いところで森林に目を向けてほしい。そう提案する。
 「だれか」ではなく「私」の問題としてとらえてこそ。今こそ必要な発想の転換だ。

(引用開始)
<朝日新聞 2/26/2012>

ということで、なぜこれが(多様性を守る自由意志というテーマにとって)最適なテキストかと云うと、まず著者に「水を守るための森づくり」という明確な自由意思があり、それが会社の本業として位置づけられることで「社会(企業活動)の多様性」が生み出されたこと、と同時に、森を再生することで「自然の多様性」が守られるからである。

 このブログでは、これからの街づくりを支えるコンセプトとして、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える「流域思想」を提唱しているが、山田氏のいう「水を守る森づくり」は、流域思想の優れた実践でもある。

 それにしても、この本によると、日本の森林の荒廃は限界に来ているようだ。山田氏によると、放置された杉や檜の人工林問題はもとより、鹿の増加による食害、カシナガという虫によるナラ枯れ、止まらない松枯れなどなど、難問が山積しているという。「自由意志の役割」の項で考察したように、「世界はすべて互いに関連しあったプロセスで成り立っている」のであるから、このことは我々水を使う人すべての問題である。

 ちなみに、山田氏は本のあとがきで、「水を守る森づくり」のお手本は、気仙沼で「森は海の恋人」活動を立ち上げた畠山重篤氏であると書いておられる。畠山氏については、私も「鉄と海と山の話」の項でその著書を紹介したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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自由意志の役割

2012年04月17日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「場のキュレーション」の項で、“石ころをダイヤに変える「キュレーション」の力”勝見明著(潮出版社)という本について、

(引用開始)

 勝見氏はまず、ものごとの捉え方には、固定的で静態的なビーイング(being =〜である)と、流動的で動態的なビカミング(becoming =〜になる)の二つの見方があると指摘する。人を見るときにも、「〜である」と捉えると固定的な見方が前面に出され、「〜になる」と捉えると、未来に向かって開かれ、様々なかかわりを通じて変化していくという「人の可能性」が浮かび上がる。

 そこで、「場のキュレーション」にとって大切なのは、顧客をビーイングの存在として見るのではなく、ビカミングの存在としてみることである、と勝見氏は述べる。

(引用終了)

と書いたけれど、このビカミングの考え方について、同書から、関連する部分を引用しておきたい。

(引用開始)

 ものごとをビカミングとしてとらえる世界観は、「世界はすべて互いに関連しあったプロセスで成り立っている。したがって、世界は常に動き続ける出来事の連続体である」という考え方に由来します。イギリス出身のホワイトヘッドという哲学者が唱えた考え方です。
 ホワイトヘッドは、「世界はことごとく、常に生成発展するため、目を向けるべきはモノそのものではなく、コトが生成して消滅するプロセスである」と説きました。コトは人とモノと時間と空間の関係性の中から生まれます。そのため、コトのあり方は時間とともに変化し、生成しては消滅します。昨日のコトと今日のコトは同じようで違う。だから世の中はビーイングではなく、ビカミングである、と。
 このホワイトヘッドの考え方が、二十一世紀に入った今、注目されているのは、モノが氾濫した二十世紀が終わり、ビジネスの世界でも、単にモノを売るのではなく、どんなコトを提供できるかという、コト的な発想が求められているからでしょう。

(引用終了)
<同書 180ページ>

 さて、「世界はすべて互いに関連しあったプロセスで成り立っている」というと、この世の中のことはすべて決まっている(運命論)、自由意志など存在しない、と勘違いする人がときどきいる。しかし、繋がっていることと、決まっていることとは違う。人は自由意志を大いに発揮して、世界をより良い方向に転ずる努力をすべきである。

 以前「1/f のゆらぎ」の項で、佐治晴夫氏の著書に触れながら、自然界において、時間や空間の中の場所が変わっていくにつれて物理的な性質や状態が変化していく様子を「ゆらぎ」という、と書いたけれど、人間社会においても、平均値の近くで自律的にその性質や状態が変化する様子を「ゆらぎ」と呼ぶことができる。

 人間社会における「ゆらぎ」は、自然環境変化や気候変動、科学技術の発展、歴史や言葉の違い、貧富の差や社会ネットワーク・システムなどなど、それこそ無数の要因(コト)が複雑に絡み合って齎されるが、人の「自由意志」もそれらの要因の大切な一部である。とくに社会の多様性を保つために、人の「自由意志」の果たす役割は大きいと思う。

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場のキュレーション

2012年03月19日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「モノづくりとスモールビジネス」の項で紹介した“石ころをダイヤに変える「キュレーション」の力”勝見明著(潮出版社)に、「場のキュレーション」という言葉がある。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」との関連で、今回はこの言葉について掘り下げてみたい。その前に同書より、「モノ」と「コト」の違いを、ビジネスの観点からもう一度確認しておきたい。

(引用開始)

 モノとコトはどう違うのか。それは、そこに人間がかかわっているかどうかです。つまり、コトとはモノとユーザーとの関係性の中で生まれる文脈であり、物語であると言えます。体験と言ってもいいでしょう。その物語や体験に共感するとき、ユーザーは手を伸ばす。だから、テクノロジーの軸だけでなく、人間を中心に置くリベラルアーツの軸が必要なのです。
 モノはそのままでは単なるモノですが、キュレーションを媒介すると新しいコトに転化する。キュレーションとは単なるモノづくりではなく、コトづくりにほかなりません。

(引用終了)
<同書 65ページ>

「リベラルアーツ(liberal arts)」とは、人々を何らかの隷属や制約から解き放ち、より自由に、より豊かな生き方へと導くための見識といった意味で、ここでは、アップルのスティーブ・ジョブズがiPadの発表会で、「アップルは常に、テクノロジーとリベラルアーツの交差点に立とうとしてきました」と述べたことを踏まえている。

 さて、キュレーションとは、

@ 既存の意味を問い直して再定義し
A 要素を選択して絞り込み、結びつけて編集し
B 新しい意味、文脈、価値を生成する

ことであった。それでは「場のキュレーション」において大切なことは何なのだろう。

 勝見氏はまず、ものごとの捉え方には、固定的で静態的なビーイング(being =〜である)と、流動的で動態的なビカミング(becoming =〜になる)の二つの見方があると指摘する。人を見るときにも、「〜である」と捉えると固定的な見方が前面に出され、「〜になる」と捉えると、未来に向かって開かれ、様々なかかわりを通じて変化していくという「人の可能性」が浮かび上がる。

 そこで、「場のキュレーション」にとって大切なのは、顧客をビーイングの存在として見るのではなく、ビカミングの存在としてみることである、と勝見氏は述べる。

(引用開始)

 場のキュレーションは固定的なビーイングではなく、ビカミングでなければならない。
 常に変化し続けるルミネの成功は、空間軸だけでなく、時間軸に沿った場のキュレーションの重要性を示しています。

(引用終了)
<同書 181ページ>

ここでいう「ルミネ」とは、JR東日本の駅ビルのことである。ルミネでは、行く度ごとに売場が変化し新しい情報が発信されているという。

 以前「場所のリノベーション」の項で、建築家隈研吾氏の“建築の設計っていうのは、結局すべて「場所のリノベーション」じゃないかって思うんだよね。”という言葉を紹介したことがある。リノベーションという行為も、対象をビカミングの存在として見ることから始まる。

 隈氏のいう「場所のリノベーション」と、勝見氏のいう「場のキュレーション」とは、「建物」と「売場」という違いはあるけれど、基本的には、

@ 既存の意味を問い直して再定義し
A 要素を選択して絞り込み、結びつけて編集し
B 新しい意味、文脈、価値を生成する

という作業として、同じ地平に立っていると思われる。建築家も、キュレーターの一種族なのである。

 場のキュレーターは、「ハブ(Hub)の役割」とも近接しながら、場を再定義し、編集し、新しい価値を生成する。建築家については、さらに「建築士という仕事」や「建築について」の項なども参照して欲しい。

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モノづくりとスモールビジネス

2012年03月12日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「これからのモノづくり」の項の最後に、

(引用開始)

これからは「モノづくり」においても、地域に密着した理念あるスモールビジネスの出番なのではないだろうか。

(引用終了)

と書いたけれど、スモールビジネスの出番は、実際の「モノづくり」=「製造」以外に、“モノからコトまで”のリードタイムを短くするための「戦略・企画・デザイン・販売」などにもあると思う。自分でモノを作ることが出来なくても、気に入ったモノの「戦略・企画・デザイン・販売」などをスモールビジネスとして請け負うわけだ。

 尚、このブログでいう「スモールビジネス」とは、フレキシブルで、判断が早く、企業理念が明確な小規模企業を指す。従業員数の目安としては、以前「組織の適正規模」の項に書いたように、社長1人から全員で30人くらいまでを想定しているが、業種によって適正規模があるから、従業員数にはあまり拘らなくても良い。

 「モノづくり」に携わる人は忙しいから、なかなか自分でそれを売り込むことにまで手が回らない場合が多い。だからそういう人のために、前回紹介した“営業部は今日で解散します。”村尾降介著(大和書房)という本に、自社製品の持つ物語(コト)をいかに顧客に伝えるか、というアイデアがいろいろと書かれているわけだが、それでもやはり自社で賄うことが難しい場合、外部から売り込みを支援するスモールビジネスの出番がある。実際、“営業部は今日で解散します。”の著者村尾降介氏ご自身も、中小企業のブランド戦略を手がけるコンサルタント会社、スターブランド社の共同経営者である。

 そういった場合参考になるのが、“石ころをダイヤに変える「キュレーション」の力”勝見明著(潮出版社)という本である。新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 「キュレーション」は美術館や博物館で企画や展示を担当する専門職の「キュレーター」に由来する言葉。著者は、モノや情報が飽和状態になっているビジネスの世界でも、キュレーターのように@既存の意味を問い直して再定義しA要素を選択して絞り込み、結びつけて編集しB新しい意味、文脈、価値を生成する――ことが求められていると説く。
 実例として、米アップルやセブン―イレブンの戦略、ノンアルコールビール「キリンフリー」などの成功例を挙げる。キュレーションは単なるモノづくりだけでなく、作り手と消費者が双方向で新たな価値を「共創」する「コトづくり」であるとの視点に今日性を感じる。

(引用終了)
<朝日新聞 11/13/2011>

著者の勝見氏はこの本の中で、20世紀はモノを通じた一方的な価値の提供の時代であり、21世紀は、コトを育む双方向的な価値の共創の時代になると論じ、キュレーションを通じた新しいコトづくりを提唱しておられる。まさに「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」におけるビジネス書である。

 今の仕事に飽き足らない思いを抱いている人は、この本などを参考にしながら、気に入ったモノの「戦略・企画・デザイン・販売」を請け負うキュレーターとして、スモールビジネスを起業してみてはいかがだろう。そういえば「本の系譜」の項でみた「意思のある本屋」というのも、本(というモノ)のキュレーターとして考えることが出来る。尚、キュレーターの仕事については、以前「アートビジネス」の項でも触れたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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