夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


林業について

2023年05月24日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『森林で日本は蘇る』白井裕子著(新潮新書、2021年)という本を有意義に感じながら読んだ。副題は「林業の瓦解を食い止めよ」。伝統木造の大切さ、建築基準法の問題、景観や建築を自国の財産としない日本、木材の良さを生かせない制度、多様性を活かせない政策、徴収される新税の話などなど。まず著者の主張を同書の章立てから紹介したい。

(引用開始)

第1章 日本の建築基準法には自国の伝統木造は存在しない
木の長所と魅力を活かした伝統的な構法がないがしろにされている。
大工棟梁の技能も伝統構法も世界に誇れるものなのに……。

第2章 自国の伝統文化は国益に直結する
景観や建築を自国の財産としてきたフランス。
思想も哲学もない日本の建築基準法は一体どこを目指しているのか。

第3章 山麓の小さな製材所が持つ大きな可能性
木材の良さを生かせない制度、政策が価格を下げている。
闇雲な大規模化を目指す前に足元にある知恵を見直すことがチャンスを生む。

第4章 誰のためのバイオマス発電か
あまりに違う欧州の真似をしても資源も産業も疲弊する。
バイオマスは、エネルギーを使う現場から考える。

第5章 美しい山林から貴重な銘木が採れる列島なのに……
かつて銘木には1本3000万円以上で取引されたものもあった。
いまでも価値のある木は存在している筈なのだが……。

第6章 森林資源の豊かさと多様性を生かせない政策
諸外国が羨むほどの森林資源を活用できないのはなぜか。
豊かな資源で海外へ、将来へ打ち出す戦略を。

第7章 山中で価値ある木々が出番を待っている
日本の木の素晴らしさを日本人はどれだけ知っているのだろう。
この価値を高める製材業と林業の復活を。

第8章 林業機械から分かること
欧州の林業技術展の面白さはどこからくるのか。
日本は何よりもまず死傷事故を減らすこと。

第9章 いつの間にか国民から徴収される新税
補助金で縛るほど、林業は廃れる。
本質的な改革と成長は、おのれの意欲と意志で動き出すことから。

(引用終了)
<同書目次より>

 第1章と第2章に日本の建築基準法の話がでてくる。建築基準法の問題は、以前「都市計画の不在」の項で都市計画との関連で指摘したが、林業や伝統木造の視点からも問題を抱えているという。このように、林業を家づくりや街づくりと直結させて考えることで、森林問題をより身近なこととして捉えることができそうだ。

 第2章では伝統文化と国益の関係が語られる。以前「国家の理念(Mission)」の項で述べた、「これからの日本の国家の理念(どのような分野で、どのように世界に貢献しようとするのかを表現した声明文)」を考える上で、林業と伝統木造は、充分その一分野となり得ると思う。尚、以前別の候補として「発酵食品」を挙げたことがある。

 このブログでは、これからの産業形態の一つとして「多品種少量生産」を挙げているが、第3章から第8章を読むと、多様性に富んだ日本の林業こそ、多品種少量生産に向いていると思える。家づくりと街づくりに直結した、スモールビジネスとしての林業。その将来性は大いにあると思う。

 最後に、本書を読むきっかけとなった新聞の書評を引用しておきたい。

(引用開始)

 白井裕子著『森林で日本は蘇る』(新潮新書・21年)は、林業は国によっては「国家を支える一つの基幹産業で」あり、「自立した『産業』であるべき」で、日本の森林・林業はその位置にある、という。その課題を実現するには、経済力を重視する立場に立って、まずは制度や公的関与から森林・林業を解き放つことが必要という。その上で、森林・林業にこそ数多く貯(た)め込まれている、日本人としての考えや気質が作り上げてきた個性的部分を再評価すべきだ、とする。

(引用終了)
<日経新聞 4/8/2023(「森林産業 豊かな将来性」より)

この「森林産業 豊かな将来性」(富山大学学長・岡田秀二)には、“新たな日本づくりにつながる創造的森林産業”という言葉がある。これからも日本の林業に注目してゆきたい。

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“する”ことと“しない”こと

2021年02月05日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 書類を整理していたら、古い新聞コラムの切り抜きが出てきた。タイトルは「禁止事項を作る」、執筆は分子生物学者福岡伸一氏。

(引用開始)

 川本三郎さん。ひそかに尊敬する文筆家である。彼がこんなことを書いていた。「しない」ことを増やすことで身を律する。新作映画の星取表みたいな仕事を受けない。行きつけの店紹介や書斎拝見といった取材は断る。書くことでも禁止事項を作る。男の美学、独断と偏見、生きざま、癒し。そのような言葉を使わない。「僕」を主語にしない。
 抑制が利いた、それでいてあたたかな文章。秘密はこんなところにあるのだ。全く及ばないけれど、私も自ら決めていることがある。「うまく言えないのだが」「言葉にできないけれど」「筆舌につくしがたい」そういう言い回しを決して用いないようにする。それが私の禁止事項である。もちろんこの世界にはうまく言葉につくしがたいことがいっぱいある。それでもできるだけそこに接近し、それをすくいあげ、そして光をあてる言葉を求めるのが、私の仕事だと思う。だから言葉を探す。
 たとえば、私はフェルメールの絵が好きだ。美しいと思う。それは何に由来するのだろう。いろんな場所へ行き、たくさんの作品を見た。でもなかなかわからなかった。あるときふと思った。絵の中にあるのは、移ろいゆくものをその一瞬だけ、とめてみたいという願いなのだ。そしてそこにとどめられたものは凍結された時間ではなく、再び動きだそうとする予感である。
 それは何かに似ている。微分という言葉が浮かんできた。動きを記述しようと数学者たちが考え出した微分法。フェルメールの思いは、同時代のニュートンの夢と同じ願いだったのだ。私はフェルメールを少しだけ語れるようになった気がした。

(引用終了)
<日経新聞(「あすへの話題」)7/17/2008>

フェルメールは17世紀オランダの画家。福岡氏のこの画家への想いはやがて『フェルメール 光の王国』(木楽舎)という美しい本に結実する。この本ついては以前「贅沢な週末」の項で触れたことがある。川本氏については「荷風を読む」の項で氏の『老いの荷風』(白水社)という本を紹介した。

 禁止事項を作る意義について考えてみよう。何かを為すとは、その方向へ流れを作ることであり、それを続けていると、逆を為すことが難しくなる。自分の意に染まないことでも、繰り返しているとそれを止めることが難しくなる。つまり癖が付くということだ。台が傾斜して、上のものが転げ落ちていく感じか。禁止事項を作るというのは、そういう方向への流れを作り出さないということなのである。

 このブログで私が気をつけているのは、かなり考えが固まってからでないと記事をアップしないということ。確信が持てるようになるまで待つということだ。間違いもあってよいが、それに気づいたらすぐに修正する。間違った方向への流れを作らない。

 もう一歩進めて考えると、何かを“する”ということは、そのとき、他のすべてを“しない”ことと同義でもある。何かを食べるとは、そのとき他の何ものをも食べないということ。何処かへ行くとは、そのとき他の処へ行かない、行けないということ。短い人生、有意義に活動するには、この行動選択の重さに思いを致すことが大事だと思う。

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ミッション・イズ・ボス

2021年01月11日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 企業における理念(Mission)の重要性については、これまで、

理念(Mission)先行の考え方
理念希薄起業
組織は“理念と目的”が大事

などの項で力説してきた。それに関連して、昨秋読んだ新聞コラムを紹介したい。

(引用開始)

「ミッション・イズ・ボス」

 日経産業新聞で興味深い言葉を見かけた。急成長を遂げる米半導体大手エヌビディアで使われているそうだ。ヒエラルキー(階層制)はなく、その時々に果たすべきミッション(使命、重要な任務)のもと必要な人たちが集まって仕事をするのだという。
 ミッションという上司との間では、ハラスメントも起きない。同じ目的のもと期間限定で集まったチームならば、やりがいもあって、風通しもよさそうだ。もちろんストレスのない理想郷などこの世にないだろうが。
 国連の世界幸福度ランキングで日本は順位を下げている。主観的な幸福感にもとづく。働く人ならば一日の多くの時間をすごす職場の環境が無縁ということはないだろう。
 二〇三〇年の世界のあるべき姿を一七の目標という形で示した国連のSDGs(持続可能な開発目標)の一つは「働きがいも経済成長も」。ディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)がキーワードとなる。
 環境省ではやりがい向上などのため、担当外の仕事を二割まで認める方針を決めたという。中央省庁は近年、若手職員の離職の多さが問題となっている。従属ありきだった日本の組織の縦横に張り巡らされた壁に風穴をあけていくことは、ディーセント・ワークを実現し、ひいては持続可能な成長への一つの道筋のように思う。(早川由紀美)

(引用終了)
<東京新聞(私説「論説室から」)10/19/2020>

 「従属ありきだった日本の組織の縦横に張り巡らされた壁」とは、「“世間”の研究」の項などで見てきた、“世間”という同調圧力の強い組織の壁と同義だろう。

 「その時々に果たすべきミッション(使命、重要な任務)」とは、このブログでの用語、

―――――――――――――――――――――
「理念(Mission)」:その会社がどのような分野で、どのように社会へ貢献しようとするのかを表現した声明文。

「目的(Objective)」:その会社が具体的に何を達成したいのかを纏めた文章で、理念(Mission)の次に大切なもの。

「事業(Business)」:会社の目的(Objective)の実現手段。

「目標(Goal)」:事業の達成ゴール。年度別、月別など。いつ頃まで何をするのか。事業の最終目的を予め明らかにしておくことも大切。
―――――――――――――――――――――

でいう「事業(Business)」レベルにおける個別な任務を指すようだが、いづれにしても属人的なヒエラルキーではなく、客観的な指標を上司(Boss)とすれば、組織の同調圧力はシャットアウト出来る。「僭越ながら」「烏滸がましい」「差し出がましい」「出過ぎた真似」「身の程知らず」といった属人的な言葉は聴かれなくなる筈だ。日本の多くの会社でこの考え方が標準となると良いのだが。

 尚、このブログでの「理念(Mission)」など各用語の具体例について「後継者づくり」の項で、それを基にした小説を「小説『古い校舎に陽が昇る』について」の項で紹介した。併せてお読みいただけると嬉しい。

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中国ビジネス II

2020年12月05日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 中国の話を続けよう。最近(2019年11月)出た『中国の行動原理』益尾知佐子著(中公新書)という本は、エマニュエル・ドット氏の家族類型論をベースに、中国人の行動原理を分析している。副題は「国内潮流が決める国際関係」。新聞の書評には、

(引用開始)

大胆な発想で緻密に分析

 中国共産党政権の対外政策の根っこにある考え方に迫ろうと試みた一冊。著者が手がかりとするのは、フランスの社会学者エマニュエル・ドット氏が打ち出した家族類型論である。それによれば中国の伝統的な家族構造は、父親が家族に対して圧倒的な権威を持つ一方、相続の面で男の兄弟は平等な「外婚制共同体家族」だという。
 この家族構成を基礎とする社会の秩序には4つの特徴がある、と著者は指摘する。ひとつには、最高指導者に権威が集中する。第2に組織内の分業はボスが独断で決める。第3に、部署の間では競争や対立が起きがちで、連携や協力は難しい。
 そして最後に、組織全体としての凝集力や運営方法に安定性がなく、トップの寿命や時々の考え方によって波が生じる。そうした波の表れとして、著者は毛沢東時代からの対外政策の変動を読み解いている。
 著者みずから「学術論文では書けないざっくりさで」と表明しているように、かなり大胆な議論ではある。ただ、研究者らしい実証的な分析がふんだんに盛り込んであって、読み応えがある。東南アジア諸国連合(ASEAN)との交流の窓口が広西チワン族自治区になった経緯や、東シナ海などの海洋問題が近年に噴出した背景の検証は綿密で、興味深い。

(引用終了)
<日経新聞 1/25/2020>

とある。

 同書によると、エマニュエル・ドットの家族類型はまず、

@親子関係が自由で兄弟関係が不平等な「絶対核家族」
A親子関係が自由で兄弟関係が平等な「平等主義核家族」
B親子関係が権威的で兄弟関係が不平等な「権威主義家族」
C親子関係が権威的で兄弟関係が平等な「共同体家族」

の4つに分けられる。親子関係が自由か権威的かとは、子供が結婚後も親と同居するなら権威的、独立するなら自由とする。兄弟関係が平等か不平等かとは、相続にあたって親の財産が男の兄弟の間で均等に分割されるなら平等、1人を残してその他が相続から排除されるなら不平等とする。例として、

@はイングランド、オランダなど
Aはフランス北部など
Bは日本、朝鮮半島、ドイツなど
Cは中国、ロシアなど

が挙げられている。Cの「共同体家族」は、近親婚(主としていとこ婚)のタブーがどの程度許容されるかによってさらに、

●外婚制共同体家族:いとこ同士の結婚不可
●内婚制共同体家族:いとこ同士の結婚の許容
●中間形態型共同家族:兄妹・姉弟の子供同士の結婚の許容

に分けられ、近親相姦を厳しく禁ずる中国は、「外婚制共同体家族」の家族形態をとるということになる。

 著者はこの家族形態が中国の社会形態のモデルとなっているという。

(引用開始)

 中国の外婚制共同体家族では、共同体の正式な成員である男子同士は、基本的に父と息子の上下の権威関係の束で構築されており、平等を建前とする兄弟間の横の結びつきは希薄、あるいは緊張含みですらある。筆者の経験では、中国社会がこうした家族形態を組織作りの暗黙のモデルにしていることを念頭におけば、中国の社会組織、またその動き方がとても理解しやすくなる。中国人の組織の作り方や組織の動き方は、今日でも基本的に、この外婚制共同体家族のあり方に沿ったものだからである。

(引用終了)
<同書 68ページ>

新聞書評にある中国社会秩序の4つの特徴、

1.最高指導者に権威が集中する
2.組織内の分業はボスが独断で決める
3.部署の間では競争や対立が起きがちで、連携や協力は難しい
4.組織全体としての凝集力や運営方法に安定性がない

はここから生じてくる。これらの特徴は、「中国ビジネス」の項で見た、

〇聖人による政治、宗族による禅譲が理想
〇文民支配だがランキングに異常な拘りが生まれる
〇党派闘争が起る

といった社会学的理解とも符合する。中国でビジネスを展開する際に留意しておきたい彼らの行動原理である。

 著者は、中国の社会組織の特徴を、日本の伝統的な「権威主義家族」のそれと比較して次のように書く。

(引用開始)

 日本人が作る伝統的な社会組織は、階層が何層にも重なり、家系図のように枝分かれする。家のなかでは自分がいて、両親がいて、祖父母がいて、さらには曽祖父母がいるかもしれない。しかしそれ以外にも、叔父さんや叔母さんの一家も近くに住んでいて、家族のようにふる舞っているかもしれない。伝統的には、こうした家族はずっと一緒に、あるいはすぐ近くに住み続け、組織は長期持続を前提とする。
 日本では一般的に、年長者ほど、上の世代であるほど敬意を受ける。また長男は家を継承できるため、同じ世代のなかにも明確な序列がある。ただし日本では、跡継ぎとして家業や本業を継承する長男には、年少の弟や姉妹、さらには分家の面倒をみる義務もあり、兄弟は親が死んだ後も一族として親しい関係を保ち続けることが多い。
 これは会社にあてはめれば、平社員の上に、係長、課長、部長、社長がいて、それから会長がいる、そういう階層的な組織である。同期のメンバーは、仕事ができて将来を嘱望される社員と、あまりそうではないが組織のなかでそれなりに役割を果たしている社員とに分かれている。ただし基本的には、年をとればみんなある程度は尊重されるため、組織のなかで待つことが重要である。またこのなかでは、権威と責任は一番年長の父親だけに集中するわけではない。それぞれの世代の何人もの人に段階的に分散する(たとえば次男は三男より少し立場が上である)。
 では、こうした組織のなかで人々はどう動くのか。あなたが平社員だとする。担当係のなかで問題が発生し、係長がうまい指示を出せないでいる場合、あなたはどうするだろうか。多少は待つだろうが、このままでは組織全体にとってまずいなと思ったとき、多くの人は機会を捉え、課長や部長に問題を報告、もしくは相談するのではないだろうか。
 あなたがそれによって、課長や部長が係長に対して直接何か行動を起こしてくれるのを期待しているかもしれない。日本の組織では、現場からのボトムアップの提案は、組織を守るために必要不可欠とみなされることが多いし、あなたが組織に咎められるリスクはほとんどない。もしかすると、課長や部長はあなたのことを気の利く奴だと評価してくれるかもしれない。
 日本では、組織のどこかで問題が発生すれば、組織を守るために誰もがどんな役割もこなす。総合職で採用された人間が、最初工場まわりから始めるのは当然である。組織のメンバーはその全体的な仕組みを理解しておくべきで、これを後輩に教え込むのは先輩の重要な役割である。
 このようなシステムのなかでは、権威は多くの人物に分散する。そのため組織内で誰が実権を持つのかが特定しにくい一方、組織は一丸となって繁栄をめざし、他者に対して排他的なグループを形成しやすい。(中略)
 なお、念を押しておくと、筆者の目的は、中国よりも日本の社会の方が優れていると主張することではまったくない。日本社会が地上の楽園ではないことは、われわれ自身がよく知っている。いわゆる「あの戦争」で、日本は責任の所在すらはっきりさせないまま、他者の尊厳を顧みない対外的軍事行動を国家一丸となって拡大させた。これは日本型の社会秩序が最悪の形で機能した例であろう。そこまでいかずとも、日本では重層的で固定的な階層構造が人々の日常生活の隅々まで規定し、少しでもそのルールに抵触する行動をとれば冷遇される。電車のなかで子供が走り回るなど、あってはならないこととされる。
 それに比べれば中国では、組織全体の統制力は緩い。ボスの価値観に抵触しない限り、個々の人々はわりと高い独立性を持って勝手に愉しくやっており、それなりの気楽さがある。ボスにダメだと言われない限り、中国人は自由である。他人の子供が走り回っても、中国人はまず気にしない。
 それぞれの国の社会秩序は、よし悪しの問題では議論できない。中国でも日本と同様に、伝統に基づく独自の秩序が生き続けているというだけである。

(引用終了)
<同書 69−83ページ(フリガナ省略)>

後半の話は、「中国ビジネス」の項で紹介した『男脳中国 女脳日本』の観察とも繋がってくる。

 日本の伝統的な「権威主義家族」は、「百花深処」<近世の「家(イエ)」について>の項でみた江戸時代の「家(イエ)」制度と、明治以降の家父長制度とを源泉に持つのだろうが、「日本語を鍛える」の項で述べた日本語近代化の失敗、戦後のGHQによる変革と「近代家族」の項でみたような家族意識、さらに最近のモノコト・シフトによる意識変化によって、複雑骨折の様相を呈している。この問題は項を改めて書いてみたい。

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中国ビジネス

2020年11月23日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 本棚を整理していたら『男脳中国 女脳日本』谷崎光著(集英社インターナショナル)という本をみつけた。副題は「なぜ彼らはだますのか」。出版は2012年3月。本帯の裏表紙には、

(引用開始)

中国人は「男」によく似ている。面子(プライド)命で、おおざっぱで博打好きなリスクテイカー。だけど政治には強く、金と権力が好きなパワー指向。一方、日本人は「女」である。まじめでやることはなんでもていねいで几帳面。手先も器用。この男女の違いから、中国と日本を読み解いてみようと思う。
―著者まえがきより

(引用終了)

とある。新聞の書評によって内容を簡単に紹介しよう。

(引用開始)

 中国商社勤務を経て、その後北京大学に留学し、いまは北京在住。そんな中国通の女性作家が描く日中文化論。中国はおおざっぱで金と権力が大好きでリスクを辞さない。日本人は丁寧で几帳面だが小心で空気を読んでばかり。そんな間柄を男女関係になぞらえる。だが、現実の性別は別。現にある日本の商社の中国人女性副社長は、留学先の日本で社長の愛人になり中国人夫を捨て、金と地位と子供を手にした揚げ句、子供の日用品や食料まで会社の経費で落とすという厚かましさなのだ。
 抱腹絶倒の中国ウォッチ本。

(引用終了)
<日刊ゲンダイ 4/17/2012>

 男脳中国、女脳日本という指摘は、「日本語を鍛える」の項などこのブログで言及している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

と整合的だ。日本でも江戸時代までは漢字・漢文がA側の発想を支える主流だったわけだから、中国語的発想がA側に強くて不思議はない。

 著者の谷崎さんは彼らにたやすく騙される日本人たちを憂いて次のようにいう。

(引用開始)

 今の日本が危機的状況を脱する方法がひとつだけあるとするならば、個人ひとりひとりが強くなることだろう。独立か会社員か、などということはさほど重要ではない。個人が会社の、または誰かの言いなりにならない力をつけるしかない。

(引用終了)
<同書 286ページ>

個人の自立、複眼主義でいうA側の力を付けることがここでも求められるわけだ。

 私もソニー時代に仕事で中国へ何度も行ったが、この本の指摘は概ね実感と合う。研究書ではないから読み易い。中国ビジネスに興味のある方は一読されるとよいと思う。

 2013年2月に出た『おどろきの中国』橋爪大三郎・大澤真幸・宮台真司共著(講談社現代新書)は、もう少し学問寄りの本だ。本帯表紙には“そもそも「国家」なのか? あの国を動かす原理は何か? 私たちはどう付き合ってゆけばいいのか?”とある。新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

西洋を標準とせずに見る

 中国に進出している日本企業の数は3万社に近いと言われる。米国進出企業の5倍弱だ。本来、隣接する名目GDP(国内総生産)世界2位と3位の国が良好な関係を保つことは、お互いの大きな利益になる。また、欧州大陸の例にもあるように、経済関係の深化は最大の安全保障になりうる。
 しかし、頭でそれが分かっていても、中国を理解することは非常に難しい。中国でビジネスを行ってきた人ですら戸惑っている。本書はその理由を、「われわれが、社会や文化を理解するうえでの基本となる理論や枠組みが、学問のレベルでも、また常識のレベルでも、西洋を標準としてきた」からだと主張する。
 中国を「ディープ」に旅行してきた3人の社会学者による熱い鼎談(ていだん)で本書は構成されている。
「陥りやすい勘違いや落とし穴など、目を付けるべきポイント」がテーマに選ばれた。「中国は『国家』なのか」「2千年以上前に統一できたのはなぜか」「日本人と幹事の関係」「なぜ近代化が遅れたのか」「日中戦争とはなんだったのか」「『社会主義市場経済』の衝撃」「民主化の可能性は?」等々である。
 橋爪氏は、「中国の実際を日本人は知らなすぎる」と述べている。その批判は耳に痛いが、本書には“目からウロコ”の議論が多数載っている。

(引用終了)
<朝日新聞 3/3/2013>

 本の目次は、

まえがき
第1部 中国とはそもそも何か
第2部 近代中国と毛沢東の謎
第3部 日中の歴史問題をどう考えるか
第4部 中国のいま・日本のこれから
あとがき

で、第1部を読めば中国の社会学的理解の概要が得られる。著者のひとり橋爪氏は小室直樹の弟子だから、内容的には1996年に出た『小室直樹の中国原論』小室直樹著(徳間書店)における幇(ヨコの共同体)、宗族(タテの共同体としての父系集団)、情誼(人間関係)、儒教と法家の役割、最高聖典としての歴史、といった基礎知識を踏まえたものとなっている。第1部の内容をいくつか箇条書きにしてみよう。

〇中国には中央という意識しかない(名前がない)
〇周囲は東夷、南蛮、西戎、北狄
〇西洋標準でいう国家とはいえない
〇ヨーロッパのEUと似ている
〇二千年以上前に統一できたのは地形的要因が大きい
〇政治的統一こそが根本
〇儒教によって支配しツールとして法家を使う
〇幇としての中国共産党
〇聖人による政治、宗族による禅譲が理想
〇過去(歴史)指向
〇天が統治権を付与するが農民の支持が正統を証明
〇天とは統一できたという事実を物象化したもの
〇日本の国学は天を否定
〇科挙の本質は軍事では決めないということ
〇文民支配だがランキングに異常な拘りが生まれる
〇党派闘争が起る
〇漢字による言語共同体
〇農民は団結できない
〇過去指向も漢字の有限要素性が大きい
〇道教、仏教は裏儒教という考え方

といったところだが、多くの人は未だ宗族や幇にしばられ、支配ツールとしての法は人の権利を守らない。「社会と国民」の項で論じた西洋近代の「社会」(個人の自立と法による公平)はまだ中国にないことがわかる。

 前半では中国の人々の男性性が強いことを見たが、多くの人のそれ(男性性)を、いかに他者の人間性=創造性=自発性=自由の承認にまで持ってくるかが、いまの中国の課題なのだろう。

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応仁の乱後の日本

2020年08月01日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「周辺国で完結する市場」の項の最後に、コロナ後の社会のあり方について、「監視社会下でのグローバル資本主義ではなく、よりローカルな“コト”を大切にしてゆくにはどうしたら良いか。さらに考えたい」と書いたが、「里山システムと国づくり」や「個業の時代」の項などでその著書を紹介した藻谷浩介氏(地域エコノミスト)は、今の日本の状況を「応仁の乱頃の日本と似ている」と述べておられる。『「再エネ大国日本」への挑戦』山口豊+スーパーJチャンネル土曜取材班著(山と渓谷社)から、山口氏との対談の一部を引用しよう。

(引用開始)

藻谷 「田舎など要らない、都会がすべてだ」という発想は、室町時代中期の応仁の乱の頃の、京都に引きこもっていた公家衆とよく似ていますね。歴史は同じパターンを繰り返すんです。
 応仁の乱を経て、日本中の田舎が、「都に年貢を送るのはばかばかしい」と言い始めました。それで京都の経済基盤は崩壊し、日本は地方地方で経済基盤を蓄えた戦国大名の時代になったわけです。
ですが京都の公家から地方の大名に転身できたのは、京を捨てて高知県の中村に移った土佐一条氏だけでした。これも長曾我部にやられてしまうわけですが、とにかく室町時代半ばまであんなに威張っていた公家は、戦国時代には権力者になれなかったんですね。
 国際化も同じで、地方の大名が南蛮貿易で力を蓄えたのに対し、京都の公家は伝統にこもって西洋社会に無関心でした。
 驚くほど外国に無関心で、内輪の論理で動いているのは、東京の多くの大企業や政府組織も同じです。彼らこそ、昔の京都の公家の現代版ではないでしょうか。(中略)京都の公家が全然気づかないうちに、関ヶ原の東の尾張の国の守護代の、そのまた分家だった織田家が、津島の港を差配して経済力をつけていた。そこから信長が出てくるわけです。独自に大陸貿易をしていた山口の大内氏も富を蓄え、それを接収した毛利氏が強くなる。豊臣政権は大阪の貿易で稼ぎ、徳川政権は辺境だった関東平野の生産力を高めました。他方で、京都の公家の収入源だった荘園は死滅し、京都周辺にいた商人も、大阪や江戸に移住して発展していったのです。
 これから東京の収入源がどうなっていくのかはわかりませんが、エネルギー自給率を高めて経済力をつける地方は、東京がどうなろうとも増えていくでしょう。

(引用終了)
<同書 214−228ページ>

今の時代を応仁の乱頃と比べる視点が面白い。応仁の乱後、日本は群雄割拠の戦国時代へ入っていくわけだが、これからの日本も、エネルギーや食の自給自足が進み、地方が力を付ける時代になっていくという見方である。

 この『「再エネ大国日本」への挑戦』(2020年3月1日発行)という本は、

(引用開始)

<日本には全電力の180%もの再エネが眠っている(環境省)>
日本が化石燃料の購入のために支払った19兆円(2018年度)。
このお金の流れを変えれば、日本は再生する。

2053年には1億人を下回るとされる日本の人口。
超高齢化、年金、地方消滅と多くの問題を抱えるなかで、
若い世代が増え、豊かさを実現しながら、
温暖化対策にも貢献している町がある。
その成功のヒントは、再生可能エネルギーとお金の流れにあった。
日本復興・再生への「明るい未来」を描く渾身のドキュメント!
テレビ朝日スーパーJチャンネル
土曜のメインキャスター山口豊が書き下ろした初の著書。

(引用終了)
<本帯表紙、カバー表紙裏紹介文>

ということで、“ローカルなコト”を大切にしてゆくべきコロナ後の社会へのヒントが多く描かれている。副題は「再生可能エネルギー+循環社会が人口減少と温暖化の危機を救う!」。同書の目次も以下に記しておこう。

序章  再生可能エネルギーと共生する持続可能な新しい社会
第1章 温泉エネルギー・地熱バイナリー発電でV字回復
    福島県・土湯温泉
第2章 豊かな水の小水力発電で若い世代が移住してくる村へ
    岐阜県・石徹白集落
第3章 若い移住者による起業で15億円の経済効果!奇跡の村
    岡山県・西粟倉村
第4章 捨てられていた木が莫大なお金に!「真庭システム」の挑戦
    岡山県・真庭市
第5章 太陽光の集中管理、電気自動車の大量導入でエネルギー自給50%へ
    沖縄県・宮古市
第6章 災害にも強い分散型エネルギー 地場産の天然ガス事業
    千葉県・睦沢町
第7章 再エネ大国へ、識者からの提言
第8章 再生可能エネルギー大国日本の未来

著者と藻谷氏との対談は第7章にある。

 地方は“ローカルなコト”に満ちている。『進化する里山資本主義』藻谷浩介監修、Japan Times Satoyama推進コンソーシアム編(株式会社ジャパンタイムズ出版)という本も出版された(2020年5月5日発行)。これは、

(引用開始)

<地方は“消滅”しない>
実践例から見えてきた
地域経済は関係人口でよみがえる。

金銭的利益最優先の「マネー資本主義」のアンチテーゼとして、「里山資本主義」が提唱されてから7年。本書では、実践家たちへの取材をもとに、各地で里山資本主義の種がまかれ、芽が出て、花が咲き始める様子を描きながら、そこにあった「成功要因」を明らかにする。お金に依存することなく、人と人とのつながりによって地域活性化を目指す人たちに不可欠なガイドであると同時に、日本と世界が進むべき道を明快に照らしだした1冊。

本書の構成
第1章 「里山資本主義」の目指す世界
第2章 周防大島が“里山資本主義のふるさと”と呼ばれる理由
    ―20年間の地方再生ストーリー
第3章 人と地域と事業をつなぐ「プラットフォーム」
第4章 「ふるさと創生」から「地方創生」へ
    ―自治体はどう変わったか
第5章 フロントランナーとして注目される実践家たち
第6章 里山資本主義の新たな可能性
    藻谷浩介×御立尚資

(引用終了)
<本帯表紙、カバー表紙裏、帯裏表紙紹介文>

という内容で、「里山システムと国づくり」の項で紹介した『里山資本主義』の続編といった体裁。以下、第5章の実践家たちを紹介しておこう。

〇 地域の課題と資源を「生業」に変える
域外に流出した仕事をもう一度自分たちの手に 
赤城直人(一般社団法人アシタカ代表)岡山県真庭市
〇 顧客とのつながりを感じたい
六次産業の本当の意味
石野智恵(広島県倉橋島ちりめん網元石綿水産)
〇 地域資源を活かしたビジネスの先進地・西粟倉村で
  持続可能なコミュニティを実現する
  大島奈緒子(株式会社ようび ようび建築設計室室長)
〇 日本の水産業を救う
  女性起業家が巻き起こした六次産業化という革命
  坪内知佳(株式会社GHIBLI代表取締役)山口県萩市
〇 国産漆を救う活動を行政から民間へ
  松沢卓生(株式会社浄法寺漆産業代表取締役)岩手県

どの起業家たちも生き生きと活動している様子が清々しい。

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周辺国で完結する市場

2020年06月22日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前々回「ひらめきと直感」、前回「自粛警察」の両項を並べると、人に直感(intuition)を齎してくれるB側は、自粛警察という行き過ぎも引き寄せることが分かった。ここでいうB側とは勿論、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるB側で、複眼主義では両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。

 一方、人にひらめき(inspiration)を齎してくれるA側は、間違えると、過剰な財欲と名声欲(greed)を引き寄せる。このことは「五欲について」や「三つの宿痾」の項などで見た通り。

 さて、先日「コロナウイルスとモノコト・シフト」の項で、

(引用開始)

 コロナウイルスの流行を目の当たりにしたことによって、日本各地でさらにモノコト・シフトが加速するだろう。しかし一方、これまでの枠組で利益を得てきた集団は、中央集権による監視社会の方を指向するだろう。人類は今この二大潮流の鬩ぎ合いの場に立ち会っている。

(引用終了)

と書いた。今回は、この二大潮流の鬩ぎ合う世界の今後を考えてみたい。

 モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。“モノ”は所有原理、“コト”は関係原理の下にある。つまり、世界全体で、複眼主義でいうところの「B側」への偏重が起っているということだ。

 法政大学教授水野和夫氏の「新型コロナ 出口はどこに」という新聞インタビュー記事に次のようにあった。水野氏についてはこれまでも、「新しい会社概念」、「ヒト・モノ・カネの複合統治 II」の項などでその著書を紹介してきた。

(引用開始)

<周辺国で完結する市場に>

 新型コロナウイルスは16世紀以来世界に広がってきた、グローバル資本主義というシステムを終焉(しゅうえん)させる役割を果たすことになるでしょう。
 このシステムは21世紀を迎えたころから、限界が見え始めていました。地球上にフロンティアはなくなり、電子金融空間でしか利益を出せなくなった。富は一握りの人たちに集中し、格差はどんどん拡大していました。
 人・モノ・カネの移動を促進したグローバル化は、皮肉なことにウイルスの移動も活発化させました。以前なら、武漢で封じ込められたかもしれない新型コロナは「一帯一路」で欧州から米国に広がり、グローバル資本主義の中心ニューヨークが最大の被害を受ける結果を生みました。(中略)
 これを機に、世界経済の構造を大転換させるべきです。世界秩序が崩壊していく状況下で、世界中にサプライチェーンを張り巡らせるのではなく、狭い地域で完結できる構造へと変えていくのです。
 日本は、韓国・台湾・豪州・ニュージーランドと経済的連携を強め、ブロック化していくべきです。韓国と台湾から工業製品を、豪州やニュージーランドから農産物を調達し、サプライチェーンを縮小する。つまり、人・モノ・カネの流れを限定した地域内で経済を回していくのです。
 韓国・台湾・豪州・ニュージーランドは、いずれもコロナ対策で成功しました。新たな感染症が起きた時、日本と協力して防疫体制をとれるようにする。次のウイルスの脅威に備える体制の構築こそが出口戦略のあるべき姿です。
 安倍晋三首相は、コロナ前のグローバル資本主義や成長戦略に戻せると思っているように見受けられます。しかし、日本経済の最大の問題は供給過剰にあります。空き家が増えているのに新築住宅を建て続け、食品や衣服もつくりすぎでロスが出ている。もう無駄な経済成長よりも、ムダをなくして、労働時間を減らすほうを優先すべきです。(後略)

(引用終了)
<朝日新聞 5/9/2020>

韓国・台湾・豪州・ニュージーランドとのブロック経済、という視点が興味深い。ウイルス感染という“コト”との共生も、モノコト・シフト時代に必要な対応の一つなのだろう。

 社会が何かで急激に「B側」に振れると、日本では自粛警察のような内向きの相互監視、アメリカでは外向きの都市暴動のようなことが起りやすい。その違いは「現場のビジネス英語“damn it!”」の項でみたように文化の違いだろうが、きちんとA側とB側とのバランスを考えた上で、監視社会下でのグローバル資本主義ではなく、よりローカルな“コト”を大切にしてゆくにはどうしたら良いか。さらに考えたい。

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コロナウイルスとモノコト・シフト

2020年03月10日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログをお読みの方には耳新しい話ではないと思うが、新型コロナウイルスの流行に寄せ、「モノコト・シフト」の本質について整理しておきたい。

 モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。

 20世紀、大量モノ生産・輸送・消費を可能にしたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織だが、コトを大切にするこれからの時代を代表するのは、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった産業システムであり、それをけん引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスである。先日「タネを育てる」の項でその最前線をみた。

 21世紀初頭のいま、世界的に見て、モノコト・シフトは、進んでいる国・地域(先進地域)と、そうでない国・地域(後進地域)が混在している。人々のマインド・セットも、余計なモノを捨ててコトを大切にする生き方を選ぼうとする群と、まだモノに固執する群とに分かれている。生活必需品が行き渡るにつれて後者は次第に減っていく筈だが、過渡期現象として、モノを捨てないままにコトを楽しもうとする一群も発生する。古いマインド・セットのまま、新しい時代の波に乗ろうと考える人たちだ。

 モノコト・シフトの本質は、分散であり、手作りであり、身の丈に合った経済活動なのだが、古いマインド・セットのまま、新しい時代の波に乗ろうとする人々は、大量生産・輸送・消費、大きな組織のなかでコトを楽しもうとする。従ってそれは都市集中型となる。

 都市集中型のコトといえば、ポジティブな面では、オリンピックなどのスポーツイベント、大きなライブ・コンサートなど。ネガティブな面では、集団感染やmass shootingなど。ポジティブな面だけ選べれば良いが、コトの発生はそう上手くコントロールできない。すなわち、この古いマインドセットを変えない限り、人々は新型コロナウイルスのような集団感染の発生を常に警戒していなければならない。それはまた、中央集権による監視社会を受け入れることに繋がる。

 21世紀の希望に満ちた社会は、以下のようなキーワードとともにあると思う。必要最小限の都市機能と豊かな自然、地方分権と食の地産地消、身の丈に合ったスモールビジネス、着眼大局・着手小局、広場と継続民主主義、Tiny House、Off Grid、YouTube、多品種少量生産、互恵的な経済、人的交流、朝市、長期滞在型の観光、再生可能エネルギー、新技術、資源循環、自立と共生、自由、多様な文化、Local Artなどなど。

 コロナウイルスの流行を目の当たりにしたことによって、日本各地でさらにモノコト・シフトが加速するだろう。しかし一方、これまでの枠組で利益を得てきた集団は、中央集権による監視社会の方を指向するだろう。人類は今この二大潮流の鬩ぎ合いの場に立ち会っている。

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タネを育てる

2020年01月04日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『タネの未来』小林宙著(家の光協会)という本を紹介したい。副題は「僕が15歳でタネの会社を起業したわけ」、本の帯には「伝統野菜を守るために日本を旅する高校生」とある。内容について新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

 なぜ十五歳の少年がタネの会社を創ったのか? そのタネ明かし本である。
 著者は高校二年生。中学三年の時に、「鶴頸(かくけい)種苗流通プロモーション」という会社を立ち上げた。全国各地を訪ね歩き、集めた伝統野菜のタネをネットで交換・販売する。なぜ、中学生が? 野菜のタネを? 四つの扉が開いて、この問いが解き明かされる。
 第一は、いま世界で起きているタネ独占の話である。遺伝子組み換え作物をはじめ、タネ開発に巨額の投資を行った企業はそのタネの「自家採取」禁止を求め、種苗法が改正された。タネの「公益性」を体現していた種子法も廃止された。こうした動きをもっと多くの人に知ってほしい。
 第二は、伝統野菜のタネが急速に消えている現実である。採種する農家もタネ屋さんも高齢化し、廃業している。生物種の絶滅と同様に、各地の特色ある伝統野菜も絶滅している。全国の種苗商店を訪ねるたびに著者は感じた。これはなんとかしなければ。
 第三は、実際の会社の立ち上げと事業の苦労話である。ここで「鶴頸」という名前が著者の畑のある群馬県伊勢崎市に因(ちな)むことや、両親と二人の妹の理解と手助けが支えとなっていることが明かされる。事業が目ざすのは、タネの開発ではなく「今あるタネを残していくこと」である。
 第四は、著者の生い立ちとタネとの出会いである。小学生の時に発見したアサガオやドングリの不思議。さらに自身のアレルギー体質。さまざまな本や人との出会い。そこから得られた確信。遺伝的多様性を残すことが「僕たちの未来にとって必要だ」。
 本書を開くと著者の写真と次の一文が。「タネを手放すことは未来を手放すこと」。これこそ、著者が直感的に得た啓示であり、現在も著者を突き動かしている信念だ。
 生物や農業の本質と言える地域性と多様性。その危機に対して、行動を起こした少年とそれを支える家族の物語は、爽やかな読後感を伴って読者にも野菜を育てたくさせるだろう。最後にある家族からの言葉にも心が和む。

(引用終了)
<東京新聞 11/3/2019>

「ネットで交換・販売」とあるが、この本が書かれた時点(2019年9月)では実店舗での委託販売が主で、インターネットを使ったビジネスは次のステップとされている。

 「組織は“理念と目的”が大事」の項などで述べてきたように、ビジネスには、明確な理念(どのような分野でどのように社会に貢献しようとするのか、なぜその活動を始めようとしたのか)と、目的(具体的に何を達成したいのか)が必要だ。さらに目的を実現する手段(事業)の範囲設定も大切。小林くんのそれは、

<理念>: 日本の多様なタネと食文化を残したい
<目的>: 日本全国の伝統野菜のタネを守る
<事業>: タネを全国で流通させる

となるだろうか。彼の言葉でいうと、

(引用開始)

 僕が起業した「鶴頸種苗流通プロモーション」の主な事業内容は、めずらしい伝統野菜のタネ、つまり消滅する可能性の高いタネを、全国から集めて販売することだ。言い換えると、ごく小さな地域に留まっている、なくなりそうなタネの数々を、僕が取り寄せて流通させることで保存していくこと、とも言える。日本にはこんなにも多様なタネと食文化があるのに、それがなくなってしまうことは、なによりもまず、もったいないと僕は思う。その思いが、僕が起業しようと考えた最初の動機だ。(中略)
 いざ事業化するとなると、自分は事業を通じて何を達成したいのか、理念が必要になるだろう。それは、日本全国の伝統野菜のタネを守ることで間違いない。じゃあどうしたら伝統野菜のタネを守ることができるのか、改めて考えてみた。やっぱりどう考えても、自分一人で集めて保存していくことはできない。それなら、日本各地にいる伝統野菜のタネの所有者がそれぞれにタネを保存する? でもそれは、いってみれば現状がそもそもそういう状態だ。このままでいたら、種苗店が閉店し、採種農家がタネをとるのをやめ、各地で一つ、また一つとタネが消えていくのを止められない。地域を超えてタネの需要を生み出し、全国規模で流通させる仕組みが必要だと思い至った。タネを地域にとどめておかず、流通させることで保存していくのだ。

(引用終了)
<同書 46−51ページ>

となる。「鶴頸種苗流通プロモーション」は、ここのところがしっかりしているから、周りの大人たちからの協力が得やすいのだろう。

 このブログを開始した2007年、「スモールビジネスの時代」という記事の冒頭に次のように書いた。

(引用開始)

 最近、品質や安全の問題が頻発し、高度成長時代を支えた大量生産・輸送・消費システムが軋みをみせている。大量生産を可能にしたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織だが、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった、安定成長時代の産業システムをけん引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスではないだろうか。

(引用終了)

その5年後の2012年には、「モノコト・シフト」という言葉を創った。それは、20世紀の大量モノ生産・輸送・消費システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。

 「鶴頸種苗流通プロモーション」は社員一人のスモールビジネスであり、タネから多様な野菜が育つ“コト”を大切に考えた取り組みである。まさにモノコト・シフト時代の最前線といえるだろう。

 20世紀の「行き過ぎた資本主義」は、今も、独占支配、監視社会、民族抑圧といった形で人々を苦しめている。タネ独占の話については、最近出た『売り渡される食の安全』山田正彦著(角川新書)などに詳しい。併せて読むことをお勧めしたい。

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民泊新法

2018年07月03日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 新聞を読んでいたら「民泊撤退ビジネス急増」という記事が目に付いた。住宅宿泊事業法(民泊新法)が施行された途端に民泊からの撤退が急増しているという。民泊とは、住宅の空き部屋を宿泊用に貸すこと。新聞記事の冒頭部分を引用しよう。

(引用開始)

 民泊の廃業や縮小で生じた空き部屋を活用したり、家具の処分を手伝ったりするサービスの利用が急増している。15日に施行された住宅宿泊事業法(民泊新法)で、営業日数や安全設備の規制が厳しくなった。煩雑な手続きやコスト増で民泊の継続を断念するケースが相次ぐ。事業からの円滑な撤退を目指す家主の需要を取り込んでいる。
 「規制でがんじがらめ。迷惑をかけずに訪日客と交流してきた善意の家主まで締め出している」。民泊の廃業を決めた東京都新宿区の男性は憤る。
 新法で営業日数は年間180日までに制限された。自治体によっては独自の上乗せ規制も可能。男性は営業可能日数の大幅減少や任意の立ち入り検査を嫌い、民泊から撤退した。(後略)

(引用終了)
<日経新聞 6/23/2018>

記事はこのあと、部屋を賃貸マンション・貸会議室に模様替えするサービスや、不要になった家具を引き取るビジネスを伝える。

 前回「新しい家族概念」の項で、日本社会の古い仕組みを、

(引用開始)

 一方に「建築自由」、公よりも私を優先する土地所有制度があり、もう一方に「一住宅=一家族」、公と私の境界をはっきりさせ私人には公的領域に手を出させない住宅制度がある。この二つの制度を変えない限り、「私」はますます内に閉じ籠り、「公」はますます官僚支配に覆われる。

(引用終了)

と書いたけれど、民泊新法もこの典型のように見える。

(1)公よりも私を優先する土地所有制度(「建築自由」)があるから、近隣住民とトラブルを起こしても構わないと考える民泊業者が出る。

(2)それを止めるのに、公と私の境界をはっきりさせ私人には公的領域に手を出させない制度(「一住宅=一家族」)からしか法的対応ができないから、外側から様々な規制(民泊新法)を掛ける。

(3)結果、この記事にあるような「迷惑をかけずに訪日客と交流してきた善意の家主」も排除されてしまう。

 このままいくと、「ヤミ民泊」といった言葉が出回り、新しく住宅の空き部屋を宿泊用に貸そうとする私人の参入ハードルは高くなる。その一方、悪知恵の働く業者は規制をかいくぐる様々なノウハウを持っているだろうから、近隣住民とトラブルを起こしても構わないと考える民泊はそう減らないのではないか。

 民泊とは、「住宅の閾(しきい)」を利用して(あるいはちょっと拡張して)行うnon profitな公的活動の筈。一般の営利事業とは違う。それに対して「住宅宿泊事業法」などという仰々しい名前の規制を被せるのはそもそもお門違いではないのか。実際に関わっているわけではないから間違っているかもしれないが。いかがだろう。

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内的要因と外的要因

2018年03月30日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで数回にわたり、徳川幕府をベンチャー企業に擬えて、武士のサラリーマン化と組織規模の問題(「経営の落とし穴」)、AとBのバランス(「教義と信仰」・「徳川時代の文化興隆」)、「家(イエ)」システム(「教義と信仰」)、ユニークな認識法(「反転法」)、経営理念の重要性(「経営の停滞」)などを論じてきた。ここでいうA、Bとは勿論複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心 
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるそれぞれを指す。列島のA側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。複眼主義では両者のバランスを大切に考える。

 前回「経営の停滞」の最後に、“国家経営の革新は幕末以降にまで持ち越されることとなった”と書いたが、今回は、何故そうなってしまったのかという理由、言い換えれば徳川幕府の崩壊の理由、を纏めてみたい。

 まず、崩壊の理由・要因を幕府の内的なものと外的なものに分けてみよう。内的要因としては、〔1〕武士のサラリーマン化、〔2〕「家(イエ)」システムの形骸化、〔3〕幕府正当性の理論付けが弱かった、〔4〕鎖国により海外情報や交易が限定的、〔5〕AとBのバランス悪し。外的要因としては、〔1〕西洋近代国家のアジア進出、〔2〕各大名(とくに西南雄藩)が力をつけてきた、〔3〕農工商(とくに商)階層が力をつけてきた、〔4〕天災など。以上のようなところだろうか。次に内的要因を子細に見ていこう。

〔1〕武士のサラリーマン化
幕府崩壊の内的要因はどれもこの〔1〕に起因・連動していると考えられる。徳川時代初期(三代将軍家光あたりまで)は幕府内に戦国武士の気風が残っていただろうが、四代家綱、五代綱吉、六代家宣、七代家継と時代が下るにつ入れて、武士のサラリーマン化と組織の肥大が進んだ。幕府は大勢のサラリーマン化した武士を抱えたまま慢性的財政難に陥る。八代将軍吉宗の時代に財政は一時持ち直すもほどなく悪化。幕府三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)はどれも財政再建を謳うが、本当に必要だったのは武士の気風の再建だったのではなかろうか。

〔2〕「家(イエ)」システムの形骸化
武士のサラリーマン化に伴って、幕府が広めた「家(イエ)」システムも形骸化してゆく。将軍家でも、実力で選ばれた吉宗(御三家紀伊からの養子)のあとは鳴かず飛ばずの将軍が続く。実力よりも血族や仲間内の諍いを経て将軍が決まるようになる。十一代将軍家斉に至っては、50年間も将軍位にありながら、政治は側近に任せ自らは奢侈な生活を送り続けた。

〔3〕幕府正当性の理論付けが弱かった
『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)から引用したい。徳川時代後期、水戸藩の会沢正志斎が「徳川国家の正当性は民心の掌握という点で無力だ」と論じたことを受けて、著者は、

(引用開始)

 というより、徳川国家はこの時まで、自らの体制を支えるべきイデオロギーについて、突き詰めて考えてこなかった。「公儀」による「泰平」は盤石に思われたから、一方で「武威」をかざし、他方で朝廷・天皇の権威(律令国家の枠組み)を利用して、儒教・仏教・神道を状況や領域ごとに組み合わせて体制を保ってこられたのである。
 それは朱子学を正当として掲げ、イデオロギー的な一元性を強固に保つことで社会体制を維持していく中国や朝鮮の科挙社会との決定的な違いである。

(引用終了)
<同書 202ページ(フリガナ省略)>

と書く。徳川朱子学がその「至高」を天皇においたのは、下克上(武ののさばり)を抑える目的だった。どこかの時点で、「至高」を信長時代の天命、もしくは戦国時代の天道等に変更しておけば、幕府は会沢正志斎ら後期水戸学の国家論に対抗できる正当性を主張できたはずだ(勿論それなりの理論は必要だが)。しかし、武士のサラリーマン化、「家(イエ)」システムの形骸化が進むなかで、そのようなその見直しはされなかった。

〔4〕鎖国により海外情報や交易が限定的
鎖国政策は、徳川時代初期にスペイン・ポルトガルの脅威と耶蘇教の禁制に伴って取られた処置だ。その後幕府が蘭学をきちんと学んで、キリスト教にもアウレリウス派からアリウス派、カトリックからプロテスタント、英国国教会からギリシャ正教、マリア信仰から理神論まで様々あることを把握していれば、そして列島にふさわしい信仰の在り方を検討していれば、スペイン・ポルトガルの脅威が減少した徳川中期のどこか(田沼時代あたり?)で、鎖国政策を変更し、交易を活発化させることも可能だった筈だ。国家統治に関する世界標準の考え方も広範に習得できたに違いない。幕府と各大名との間で海外交易に関する取り決めは必要だただろうが。

〔5〕AとBのバランス悪し
徳川時代中期以降、社会のバランスはB側に寄っていった。列島における国家統治能力としてのA側は、

(1)騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2)乗船文化=武士思想の一側面
(3)漢字文化=律令体制の確立
(4)西洋文化=キリスト教と合理思想

とあったが、幕府内においては、武士のサラリーマン化で(1)が弱まり(3)が主流になっていた。(3)の官僚主義は新しいことを嫌う。(2)と(4)はそれなりに社会で機能していたのだが、それは幕府においてではなく、(2)は特に関西において商業の思想的基盤として、(4)は長崎の出島を前線に蘭学としてだった。徳川時代末期、西洋の英語的発想=弁証法が漢文的発想に置き換わってゆくと、蘭学(と陽明学)は幕府政策に影響力を持ってくる。しかしそれは負の影響力だった。幕府主流は(3)のままだから新しいことを嫌った。だから(4)はもっぱら反幕府側の思考を支えることとなった。幕府のA側は脆弱だったといえるだろう。

 以上、内的要因〔1〕から〔5〕までを見てきた。「経営の停滞」の項で、徳川幕府は「組織理念の再確認」が必要だったのではと書いたが、これら内的要因によって、幕府は、時代にこたえる新しい国家理念を打ち出せなかった。ここが重要なポイントだと思う。そのことによって(現象的には内的要因と外的要因が殻を内側と外側から同時に叩く如くにして)、三百年弱続いた徳川幕府という卵は壊れたのだと思う。

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経営の停滞

2018年03月19日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「反転法」の項で、新井白石や荻生徂徠の認識法(列挙と相対化)について引用し、“反転法は非体系的だから国家統治には向かないのだろう”と書いたが、実際、白石や徂徠の幕府への関与は、「徳川時代の文化興隆」で書いた「朱子学の停滞」を払拭するほどの力は持たなかったようだ。『徳川将軍十五代』大石学監修(じっぴコンパクト新書)から「第3章 幕府の転換期―吉宗・家重・家治・家斉・家慶の時代―」の冒頭部分を引用する。

(引用開始)

《第3章のあらすじ》
 八代将軍吉宗から十二代家慶に至る江戸時代中期は、まさに改革に時代となる。幕府財政は悪化し、いよいよ破たんの危機を迎えていた。こうしたなか登場した吉宗は、質素倹約をモットーに享保の改革を断行。米相場に腐心しながら、財政再建に取り組んだ。
 吉宗により財政は一時持ち直したが、ほどなく悪化。十代家治の時代には田沼意次が重商主義を掲げて経済活発化を企図した。しかし、天災と貧富の差の拡大による不平が原因となって挫折。松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革も時代に逆行するばかりで、失敗に終わる。十一代家斉の時代には江戸庶民を担い手として化政文化が花開いたが、幕府崩壊の足音が忍び寄っていた。

(引用終了)
<同書 118ページ(フリガナ省略)>

B側主体の文化は花開くが、A側主体の国家経営は下り坂。ここでいうA、Bは勿論複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心 
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるそれぞれの項目を指す。列島のA側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。複眼主義では両者のバランスを大切に考える。

 会社であれ国家であれ、組織経営の革新にはまずその組織理念の再確認が必要だ。以前「国家の理念(Misiion)」の項で、近代における国家の理念というものを「国家がどのような分野で、どのように世界へ貢献しようとするのかを表現した声明文」としたが、近世にスタートした徳川幕府にそのような発想はなかったかもしれない。しかし、「経営の落とし穴」で要約した保科正之の、

〇 戦国は武断の世であった
〇 天下統一を図った秀吉が滅んだのは武をのさばらせたから
〇 家康は黄金で武を止め、朱子学によって下克上を抑えた
〇 その黄金がやがて尽きる
〇 これからは天理によって武家政治を続けたい
〇 その一歩として暦づくりを我々の手で行いたい
〇 これまでの占星術による暦づくりは公家が握っていた
〇 文治を推し及ぼす新しい暦づくりは武家が管理したい

といった統治理念はあった筈だ。徳川中期の時点で幕府に必要だったのは、財政再建だけではなく、徳川初期の(保科らの)理念を再確認した上で、下克上を抑えるために導入した朱子学をどのように発展させて(あるいは破棄して)、西洋列強の進出に抗しうる「統治理念」を構築するかである。しかし当時の幕府にはこれができなかった。先日『百花深処』<宗教・思想基本比較表>で、

<徳川朱子学>
「対象」:日本国
「至高」:天皇
「教義」:神仏儒などの宗教
「信仰」:教義を守る(儒教の教義を守る)
「特徴」:政治による集団救済。因果律。

と記したが、彼らはこの正学の範囲を自ら打ち破ることができなかった。

 「反転法」の項で、“徳川時代末期、西洋の英語的発想=弁証法が漢文的発想に置き換わってゆくと、蘭学や陽明学といった別のA側思想が力を付け幕府政策に影響力を持ってくるが、それまでの間、平和が続いた社会は全体的にB側への傾斜が強かったというわけだ”と書いたけれど、徳川幕府中期のA側は、財政再建で目いっぱいで、あるいは西洋の力を過小評価して、あるいは仲間内の諍いで、「井の中の蛙(かわず)大海を知らず」状態になっていった。ふたたび『徳川将軍十五代』から「第四章 江戸幕府崩壊―家定・家茂・慶喜の時代―」の冒頭部分を引用しよう。

(引用開始)

《第4章のあらすじ》
 嘉永六年(一八五三)六月、ペリー来航の衝撃が日本を襲う。海が日本と諸外国を隔てていた時代は今や過去のものとなった。十二代将軍家慶は、黒船来航の混乱のなかで死去し、健康面に不安を抱える家定が将軍職を継いだ。すると、幕府のあり方を巡り、家定の継嗣問題が勃発。幕閣や諸藩は一橋・南紀の二派に分かれて争った。
 この争いは十四代家茂の将軍就任によって終息したが、その後は朝廷を巻き込んで長州や薩摩といった雄藩が政治に対する発言力を強めるなか、外圧に屈し続ける幕府の求心力は低下し、いよいよ討幕の機運が高まっていく。風雲急を告げる幕末動乱の果てに徳川幕府はいかに終焉の時を迎えたのか?

(引用終了)
<同書 184ページ(フリガナ省略)>

ということで、国家経営の革新は幕末以降にまで持ち越されることとなったのである。

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教義と信仰

2018年01月06日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「経営の落とし穴」の項で、徳川幕府・保科正之の政策について、その成果とアイロニー(落とし穴)を論じたけれど、今回は複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

を参考に、「教義と信仰」という観点から、徳川幕府初期の統治政策を考えてみたい。複眼主義ではA側とB側のバランスを大切に考える。列島のA側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。

 ある宗教ないし思想を見た場合、その「教義」はA側の発想で(理論的に)作られ、その「信仰」はB側の発想で(感性的に)念じ仰がれる。

A 教義・外面
B 信仰・内面

この二重性がバランスよく機能すれば、独善的な教義や行き過ぎた信仰は抑制される。

 先日『百花深処』<天道思想について>の項で、戦国時代の天道思想の特徴を記した。そのA側は儒教道徳、B側は非排他的な神仏信仰であり、外面(教義)と内面(信仰)は互いに別物として捉えられていた。武家集団ではA側が強かったものの、B側への配慮もあったということだ。

 徳川幕府が導入した朱子学も、A側は儒教道徳であり、B側は神仏儒信仰だった。天道思想の延長のようだが、天道思想がその原点(天)を天体運行・四季循環・災害といった具体的な自然現象に置いたのに対し、幕府は(下克上を抑える目的で)それを天皇に置き、徳川幕府は天皇から統治委任を受けたという形を取った。また、耶蘇教は禁制とした。下克上(武ののさばり)が抑えられたことも手伝って、当初A側とB側のバランスは程よく保たれたといえるだろう。

 ベンチャー魂は、現実を踏まえつつ夢を追い求める姿勢だから、A側とB側の良きバランスの下で育まれる。『天地明察』で描かれた渋川春海の活躍は、教義=儒教道徳、信仰=神仏儒というバランスの取れた体制下で生まれたのだと思う。

 もう一つ、『百花深処』<近世の「家(イエ)」について>の項で、徳川幕府が「家(イエ)」というユニークなシステムを導入したことを記したが、ベンチャー魂の継承にはこの仕組みが役立った筈だ。

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経営の落とし穴

2017年12月03日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 遅ればせながら、2010年度本屋大賞1位の『天地明察』冲方丁著(角川書店)を読んだ。まず当時の書評(部分)を二つ紹介しよう。

(引用開始)

 主人公の渋川春海は、江戸時代前期に実在した人物で、囲碁の名人にして算術に長け、天文暦を専門としつつ神道にも通ずるという、大変な才人だ。それまで日本で採用されていた「宣命暦」の不正確さを指摘し、その生涯を賭して初の国産暦である「大和暦」(のちの「貞享暦」)を作り上げた。
 正確な暦を作るためには暦学の知識だけでは足りない。天文学や数学、器械工学の知識を総動員する大事業だ。その分、影響も絶大である。暦を制するものは政治と文化を制する。さらに正確な暦の販売は、莫大な利益をもたらす。新たな暦を朝廷に採用させるには高度な政治的駆け引きも必要だ。
 かくして「貞享暦」成立のドラマは、チャンバラ以上にスリリングな「戦い」として描き出された。(斉藤環<「朝日新聞」1/31/2010>)

 知れば知るほど、江戸とは面白い時代である。私は戦後マルクス主義が強い時期の歴史教育を受けた。そこでは明治以前は封建の暗黒時代だったが、いまではそう思う人は少ないであろう。ではどういう時代だったか。改暦の事業一つを例にとっても、当時の人びとはさまざまな制度上の誓約を上手に乗り越えながら、目的を成就していく。政治家はマニフェストなどという本音を表に出さず、適切な人物を登用して、黙って必要な基礎作業を進める。そのみごとな実行力、政治性に目を見張る。(中略)
 渋川の生きた時代背景は現代に似ている。関が原が終わって半世紀を過ぎ、世は武断から文治へと移り変わる。その代表として描かれるのが、渋川を庇護した会津の保科正之である。その文治の時代に囲碁、算術、測地、天文の能力を発揮したのが渋川である。
 日本の暦を作るためには。地球上の日本の位置を正確に定めなければならない。それが北極星の高さ(角度)を実地で測定する北極出地である。渋川は老中・酒井忠清に命じられてそれにも参加し、日本中を歩く。机の上の学者としてだけ、生きたわけではない。現代人もこういう風に生きられないはずがない。同じ日本人なのだから。(養老孟司<「毎日新聞」1/31/2010>)

(引用終了)

 この本で私が面白かったのは、作者が、会津藩主保科正之に語らせる、幕府による暦づくりの本意である。本文282ページから294ページに亘る部分。以下要約してみると、

〇 戦国は武断の世であった
〇 天下統一を図った秀吉が滅んだのは武をのさばらせたから
〇 家康は黄金で武を止め、朱子学によって下克上を抑えた
〇 その黄金がやがて尽きる
〇 これからは天理によって武家政治を続けたい
〇 その一歩として暦づくりを我々の手で行いたい
〇 これまでの占星術による暦づくりは公家が握っていた
〇 文治を推し及ぼす新しい暦づくりは武家が管理したい

といったところだろうか。ここにある朱子学はのちのち逆噴射して尊王攘夷思想を生み出すのだが、それはまだ先の話、このときは社会を安定させるための特効薬と考えられた。

(引用開始)

 そもそも朱子学が奨励された狙いは、
“たとえ君主が人品愚劣であっても、武力でこれを誅し、自ら君主に成り代わろうとしてはいけない”
 という思想の徹底普及にあると言えた。武断の“道徳”はその逆、下克上である。弱劣な君主を戴けば国が滅びる。より優れた者が君主に成り代わるのが当然なのだ。
 そうした戦国の常識を葬り去ることこそ、正之のみならず歴代の幕閣総員の大願であり、
「そのために幕府は多くのものを奪ってきた。儂もずいぶんとそれに加担した」
 そう言って正之は微笑んだ。やけに悲哀の漂う微笑み方だった。

(引用終了)
<同書 286ページ(フリガナ省略)>

ここで「幕府が奪った多くのもの」とは、数々の大名改易、取り潰し、厳封、山鹿素行などの幕府の教えに仇なす学問の処断などを指す。

 幕府によるこれらの施策は、日本列島に三百年近い平和を齎した。しかし一方でそれは、武士の官僚化、サラリーマン化を生む要因ともなった。渋川春海が初代となった幕府天文方は、次第に幕府内でのさまざまな政治的思惑に翻弄されるようになる。幕府天文方のその後の苦闘については『天文学者たちの江戸時代』嘉数次人著(ちくま新書)に詳しい。武士の官僚化、サラリーマン化については、『百花深処』<近世の武士について>でも論じている。興味ある方はどうぞ。

 この本、とくに保科正之の語り部分を読んでいると、小さなベンチャー企業が次第に規模を大きくしていく過程を見るような気がする。規模が大きくなるとマネジメントのための統一基準が必要になり、次第に官僚化社員が幅を利かすようになる。そうなると古くからいるベンチャー魂を持った社員はやる気を失ってしまう。ベンチャー魂を失った会社はやがて新たな企業との競争に敗れる。渋川春海はベンチャー魂を発揮して画期的な商品を開発したエンジニア、しかし会社(幕府)はそのあと自らの統一基準に縛られて次第に優れた商品を出せなくなる。新たな企業(西洋)の底力を過小評価して井の中の蛙となってゆく。渋川春海の偉業を美談として終わらせないために、読者はこのあたりのアイロニー、経営の落とし穴までをも見通さなくてはいけないと思う。

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新しい都市計画

2017年03月01日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『白熱講義 これからの日本に都市計画は必要ですか』蓑原敬他共著(学芸出版社)という本を読み終えた。初版は2014年(平成26年)。共著者は若手の研究者たちで、「空き家問題 II」の項でその著書を紹介した野澤千絵さんも名を連ねている。本帯には「都市計画の現実、矛盾と展望/1930年代生まれの都市プランナーと、70年代生まれの若手による、問いと議論の応酬」とある。

 本書前半(1部)は、蓑原氏がこれまでの歴史を振り返る「講義編」、後半(2部)は「演習編」、若手が蓑原氏に「都市計画にマスタープランは必要ですか?」などといろいろ質問し全員でディスカッションを行う形式。知識が増え、私のなかで空き家への関心は都市計画全般へと発展してきた。

 これからの都市計画はどうあるべきか。「結」と題された(若手による)あとがきから引用したい。

(引用開始)

 本書の1部の多くは、近代都市計画の発展過程のレビューに費やされている。ピーター・ホールの『明日の都市』などを導き手として、欧米における20世紀の近代都市計画の展開を理解し、かつ21世紀の現代都市計画がいかなる方向に走り出しているのかを見てきた。
 このレビューは、第一に、本場の近代都市計画と日本の都市計画との距離をどう見るか、という問いを投げかけてくる。蓑原先生は、「日本の都市計画の歪みを歪みとしてみる」ことの重要性を常に強調されていた。近代都市計画の出発点が欧州では市場経済への危惧から来る協同組合主義であるのに対し、日本(をはじめ後進都市計画国)では、国家権力への集権化の流れの中でそれを強化するかたちで導入されたこと、1950年代以降にアメリカを中心に始まった地域科学や1960年代の政府の都市計画に対する市民からの問題提起であった民衆都市計画論などの社会科学の知見を取り込んだ都市計画の理論化は日本ではほとんどフォローされなかったことなど、日本の都市計画の歴史的な展開を冷静に見つめ直してみたのである。この世界標準の都市計画に対する日本の都市計画の歪みを矯正し、近代都市計画を完成させようというのが、こうしたレビューの一つのメッセージである。
 しかし一方で、蓑原先生は歪みを矯正するという構図自体が有効性を失っているとも言う。本場の近代都市計画を支えてきたのは、都市社会の未来ビジョンとその実現に向けた合理的な道筋をデザインできるという信念に基づく設計主義であったが、その設計主義自体がすでに歴史的産物となっている。今や「計画」の理念を大きく転換し、現代都市計画へと脱皮させなければならないのである。

(引用終了)
<同書 251−252ページ>

これからの都市計画はこれまでのものとは一線を画する必要があるという。しかし、どう変えてゆくのか。

 本書「演習編」において様々な問題提起がなされてはいるが、まだ明快な答えはないようだ。あとがきには「おそらく本書に明快な答えはない。それぞれの現場での具体的な課題への取り組みに答えを見つけ出していきたい」(252ページ)とある。ちなみに「演習編」の問題提起(とディスカッション)は、

問1<都市計画にマスタープランは必要ですか?>
問2<都市はなぜ面で計画するのですか?>
問3<コンパクトシティは暮らしやすい街になりますか?>
問4<都市はどのように縮小していくのでしょうか?>
問5<都市計画はなぜ人と自然の関係性から出発しないのですか?>
問6<計画よりもシミュレーションに徹すべきではないですか?>
問7<都市計画は「時間」にどう向き合っていくのでしょうか?>

といった内容である。

 このブログでは、21世紀は「モノコト・シフト」の時代であると主張してきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 このブログで提唱している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいえば、人々の気持ちがB側へ傾斜する時代といえる。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 上の引用にある「本場の近代都市計画を支えてきたのは、都市社会の未来ビジョンとその実現に向けた合理的な道筋をデザインできるという信念に基づく設計主義であったが、その設計主義自体がすでに歴史的産物となっている」という論理。モノコト・シフトを前提とすると、ここはもうすこし丁寧な分析が必要だと思う。

 21世紀を迎え「歴史的産物」になったのは、設計主義そのものではなく、20世紀の大量生産システムを前提とした「本場の近代都市計画」であって、「都市社会の未来ビジョンとその実現に向けた合理的な道筋をデザインできるという信念」そのものではないのではないか。つまり、21世紀には、モノコト・シフトを前提とした、「合理的な道筋」が求められるということではないだろうか。それを「新しい都市計画」と呼びたい。

 都市計画は複眼主義でいうA側の仕事である。人々の気持ちがB側へ傾斜するからといって、理念や政策、計画といったA側の仕事が不必要になるわけではない。それでは、新しい都市計画の「合理的な道筋」は何を基礎に置いたら良いのだろう。

 このブログでは以前、「新しい家族の枠組み」の項で、「モノコト・シフト」時代の家族の枠組みについて、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

と纏めたことがある。参考までに、それ以前の「近代家族」の特徴は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族への排除
8. 核家族

というものだった。
 
 モノコト・シフト以前の近代都市計画は、「近代家族」の特徴を踏まえたものだった。それが歴史的遺物となった。とすると、新しい都市計画は、少なくとも「新しい家族の枠組み」を踏まえたものでなければならないと思う(勿論、「流域思想」、「庭園・芸術都市」といった理念も必要だ)。これは「空き家問題」「空き家問題 II」「空き家問題 III」で見てきた内容とも整合すると思うがいかがだろう。新しい家族の枠組みを基礎に据えた新しい都市計画、B側を大切にする都市計画。その具体化についてこれからも研究を続けたい。

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新しい会社概念

2017年01月10日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『株式会社の終焉』水野和夫著(ディスカヴァー・トゥエンティワン)という本を興味深く読んだ。水野氏には『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)というベストセラーがあるが、この本はそれをさらに先へ進めた論考で、資本の増殖ができなくなった資本主義社会において、その主役である株式会社に未来があるのかどうかを問う内容となっている。

 資本の増殖は、中心と周辺という二重構造から(中心が周辺に侵食する形で)利潤として作り出される。西洋近代は、中心としての欧米が周辺としての植民地に侵食することで繁栄、現代のグローバリズムは、中心としての先進諸国が周辺としての後進国、さらには電子・金融空間というバーチャルな市場に侵食して繁昌きたが、21世紀に至り、(長期ゼロ金利状況が示すように)資本はこれまでのように利潤が生みだせなくなってきた。そのことをもって「資本主義の終焉」と水野氏は(前著で)論じたわけだが、今回は、その終焉した資本主義下における株式会社の在り方について、

第1章 「株高、マイナス利子率は何を意味しているのか」
<「資本帝国」の株高vs.「国民国家」のマイナス金利>
第2章 「株式会社とは何か」
<「無限空間」の株式会社vs.「有限空間」のパートナーシップ>
第3章 「21世紀に株式会社の未来はあるのか」
<より多くの現金配当vs.より充実したサービス配当>

という章立てで考察、最終的に、これまでの株式会社が「より速く、より遠くに、より合理的に」という近代資本主義の原理に基づいていたのに対して、これからの会社組織は、「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」という中世的原理に立ち返るべきだと結論付ける。裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「より速く、より遠くに、より合理的に」から、「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」に。これを株式会社に当てはめれば、減益計画で十分だということ。現金配当をやめること。過剰な内部留保金を国庫に戻すこと。おそらく2020年の東京五輪までは、「成長がすべての怪我を直す」と考える、近代勢力が力を増すでしょうが、それも、向こう100年間という長期でみれば、ほんのさざ波にすぎません。

(引用終了)

 第1章の「資本帝国」とは、これまでの株式会社(の資本家たち)が目指したグローバルな市場空間を指し、「国民国家」とは、国境によって区切られた(一般人の)居住空間を指している。株高とマイナス金利は、資本帝国の優位を示す。資本帝国とは、第2章にある「無限空間」であり、一方の国民国家は、「有限空間」である。前者は<より多くの現金配当>を要求するが、後者は<より充実したサービス配当>を求める。資本主義終焉下の会社は、資本家のための<より多くの現金配当>ではなく、一般人のための<より充実したサービス配当>を第一義とすべきである。そのために会社は、それまでの「より速く、より遠く、より合理的に」という原理から、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」なることが求められるというわけだ。

 第1章では、「ROEと家計の純資産蓄積率」や「実質賃金指数」、「限界労働分配率」や「日米欧の資本生産性分解」といった指標によって現状を分析、第2章は株式会社の歴史を振り返り、第3章では再び各種の経済指標によって将来の会社の在り方を探る。本の帯表紙に<大ベストセラー『資本主義の終焉と歴史の危機』を継ぐ著者渾身の書き下ろし>、裏表紙に<水野史観、炸裂!>とあるが、確かにとても読み応えがあった。

 ご存知のように、このブログでは、「モノコト・シフト」というキーワードによって21世紀を見通そうとしてきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。水野氏のいう「より速く、より遠くに、より合理的に」という近代資本主義の原理は、モノコト・シフトでいう「モノ」への執着と重なる。時間が凍結された「モノ」は数として捉えることができ、いつでもどこへでも運ぶことができる。一方の「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」は、「コト」を大切にする態度と重なる。「コト」はその場において(時間の流れとともに)生起しどこへも運ぶことができない。

 「モノ」は複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるA側と親和性があり、「コト」はB側と親和性がある。「より速く、より遠くに、より合理的に」というのは主に脳(大脳新皮質)の働きからくる思考であり、「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」という思考は主に身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働きからくる。複眼主義では両者のバランスを大切に考えるが、21世紀社会は「コト」、つまりB側に傾くというのがモノコト・シフトの見立てで、それは水野氏の結論と同じ方向性を持つ。

 さて、これから先の問題は、

1.新しい組織概念を裏付ける宇宙論
2.state(国家)の政策舵取り
3.B側に傾斜する社会においてAとBのバランスをどう保つか

といったことだろうか。

 1.に関して、水野氏は同書第2章で、近代は、コペルニクスの宇宙論(地動説)から始まったと述べておられる。氏は、コペルニクスからニュートン、ホッブスまでの近代西洋諸理論を概観した上で、

(引用開始)

 このように、コペルニクスは、100年後の「ウェストファリア秩序体制」のいわば産婆役でした。したがって、近代の始まりは、コペルニクスが『天球の回転について』を著した1543年ということになるのです。

(引用終了)
<同書 96ページ>

と書く。宇宙論が一変したときに組織の概念も変わるということだ。そうだとすると、「よりゆっくり、より近くに、より寛容に」という思考原理に基づいた組織概念が世界規模で浸透するには、新たな宇宙論が必要だということになる。私は、「重力進化学 II」や「時間と空間」の項で述べた日本人科学者による理論がその候補だと思うがどうだろう。

 2.の問題は、3.と密接に関係する。state(国家)の政策舵取りによって地域におけるAとBのバランスが保たれるからだ。政策舵取りの大枠については「経済の三層構造」や「nationとstate」、「ヒト・モノ・カネの複合統治」の項などで言及してきたのでお読みいただきたい。これからの政策は、複眼的かつ精巧・繊細なものでなければならないと思う。

 2017年は特にアメリカ新大統領の政策が注目される。政策舵取りは主にA側の仕事だ。「鳥瞰的な視野の大切さ」の項で触れたように、トランプ大統領はビジネスライクにA側の仕事を進めていくだろうが、人には「三つの宿痾」、つまり、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

という三つの治らない病気がある。トランプ政策チームが、社会におけるAとBのバランスを保とうとする限り問題はないが、彼らが三つの宿痾のうちのどれか(あるいは複数)に深く陥ると、アメリカの影響力は大きいだけに世界は崩壊の危機に立たされることとなる。資本主義終焉下、それまで会社(ビジネス界)で発揮されていたA側の英知を内閣に集めたトランプ大統領、まずはお手並み拝見。彼は複眼的かつ精巧・繊細に事を運べるだろうか。

 トランプ大統領の政策を手短にまとめた新聞記事(「私の相場観」証券アナリスト・久保寺寛治氏)があったので引用しておく。

(引用開始)

「米国は本格世直し政策へ」

 米大統領選挙でトランプ氏が勝利したのを機に、内外株式市況は急反騰局面に転じて一カ月半が通過した。この間、新政策「トランプノミクス」への議論も深まってきた。
 新政策は以下の5項目を柱とする。@各般の規制緩和A超大規模な減税Bインフラの本格整備C通商協定の見直しD移民制度の厳格化。CとDの対外政策は荒削りで、先行きは不透明とされる。この一方、@〜Bの経済政策への評価は高い。
 近年、米国など先進国の経済は、長期停滞に陥る傾向が明白だ。この原因については諸説あるが、トランプ氏は生産拠点の海外流失が主因とみて、その是正による本格的世直しを目指す。その前途は容易ではないものの、その意気をよしとする向きも少なくはあるまい。
 対して経済政策の前途は明るい。議会が引き続き共和党優位であるからだ。これらの施策は後半から寄与する。自律回復局面にある米国経済にこの追い風が加わるため、明後2018年の成長率は3%に接近する公算が強くなった(本年は1.6%の見込み)。これにより金融当局は、年1回も抑えていた政策金利の引き上げを3回に増やす方針に転じた。
 ただ、この大型スキームには盲点がある。一般的には長期停滞の主因とされている生産性低落に対処する姿勢がほとんど見られないことで、金融当局もこの点を強く懸念している。新体制が早期にこの問題に取り組むことを期待したい。

(引用終了)
<東京新聞 12/27/2016>

 このブログは近々終わるが、これからも引き続き3点の問題、

1.新しい組織概念を裏付ける宇宙論
2.state(国家)の政策舵取り
3.B側に傾斜する社会においてAとBのバランスをどう保つか

について詳細を考えたい。

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3つの判断基準

2016年12月28日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 新聞の夕刊に「3つの判断基準」というショート・エッセイがあった。著者は種村均氏(ノリタケカンパニーリミテッド会長)。

(引用開始)

 私は日頃、自分の考えを善悪、正誤、適否という三つの判断基準で吟味している。善悪は人道に反していないかどうかであり、正誤は規範やルールに反していないか、適否はそれが最適な選択肢であるかどうかである。
 善悪の判断を誤ると、一生を台無しにしかねない。自分の人生を振り返ると今でも冷や汗が出る思いをすることがある。致命傷にならなかったのが幸運である。
 人道に反しない行為でも、手順や手続きを誤ると社会や組織に迷惑をかける。必要な届けや許可を受けて行えば褒められることでも、怠れば非難されてしまう。国には法律、社会には規範、会社には規則がある。知らなかったでは済まされない。
 三つめの適否の判断は一口では言い表せない。会社では経営者と社員の適否の判断力を高めるために苦心している。判断に必要な情報の収集と分析、判断の土台となる見識やノウハウの蓄積、判断に影響する将来変化の推定、こうした知識や能力を育てることは組織の維持発展に不可欠である。
 正誤や適否の判断において優れた能力を持ち合わせながら、善悪の判断力に問題があって人生を台無しにする人もいる。社内でも善悪についての教育に一層努力しなければなるまい。

(引用終了)
<東京新聞夕刊「紙つぶて」11/10/2016>

善悪、正誤、適否、いかにも組織の長らしい判断基準といえる。

 私の場合「3つの判断基準」は、以前「三つの宿痾」の項で書いた内容と照らし合わせたものになると思う。つまり、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

という人類の三つの宿痾(治らない病気)からできるだけ遠いところにあることを判断基準にするわけだ。(1)はその判断が「過剰な財欲と名声欲」(greed)から来ていないかどうかであり、種村氏の善悪と重なるかもしれない。(2)はその判断が惰性に流されたものでないか、革新性があるかどうか、(3)はその判断が偏見や思い込みから自由であるかどうか。

 皆さんの「3つの判断基準」はどういうものだろう。種村氏や私のそれと似通ったものだろうか。組織のポジション、年齢や性別によって違ってくるかもしれない。「パーソナリティの分類いろいろ」の項で記した性格の各要素によっても違ってきそうだ。

(1)リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。
(2)ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。
(3)パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。
(4)ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。
(5)プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。
(6)レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかという反応重視。

これは6つのパーソナリティ分類だが、これを眺めると、人によっては快・不快、合理・不合理、信・不信、好き嫌いなどが基準に入ってくるのかもしれない。

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クラフトビールの研究 III

2016年12月20日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『究極にうまいクラフトビールを作る』永井隆著(新潮社)という本を読んだ。副題に“キリンビール「異端児」たちの挑戦”とある。本帯裏表紙にある紹介文を引用しよう。

(引用開始)

クラフトビールの聖地「スプリングバレーブルワリー」はこうして代官山に誕生した

大量生産に背を向けた型破りの挑戦は、最悪の業績にあえぐ巨大メーカーの片隅で始まった。個人の嗜好に合わせたビールを、つくったその場で飲んでもらう店を出す!ビールこそ最高の酒と信じる者たちが始めたプロジェクトは、やがて最先端のクラフト専門店として結実する。開店以来超満員の続く店の奇跡を描く最高のビジネス・ノンフィクション。

(引用終了)

私もときどき行くが代官山店は天井が高く気持ちの良い空間だ。

 このブログでは、21世紀の潮流としての「モノコト・シフト」に特徴的な、“「皆と同じ」から「それぞれのこだわり」へ”というトレンドに関して、クラフトビールの流行を追いかけてきた。

ビール経済学
クラフトビールの研究
クラフトビールの研究 II

この本もそういう中の一冊として紹介したい。

(引用開始)

 日本を筆頭に先進国はどこも、少子高齢化が進む。市場はどうしても小さくなっていく。「一番搾り」や「スーパードライ」といったナショナルブランドがなくなることは当分ないだろう。しかし、大量生産を前提としたものづくりは、いずれ限界が来るのではないか。社会のあり方が大量生産とは合わなくなってきているのだから。メーカーは新しい価値に通じるものづくりを創造していくべきだろう。一つの切り口は、「地域」ではないか。ワインやチーズなどの一部は、商品の規模は小さくとも、地域を切り口に人気を博している。バイクにしても、イタリアの中小メーカーはクラフト的なものづくりで生き残っているじゃないか。経済がグローバル化していくほど、個性的なモノが求められるはずだ――。

(引用終了)
<同書 45−46ページ>

和田徹氏(スプリングバレーブルワリー代表)の考えだという。

 この本は、キリンビールという大手が立ち上げたクラフトビールということで、企業内起業プロセスを覗くという面白さもある。企業内起業の成功と失敗については、以前「カーブアウト」、「カーブアウトII」の両項で論じたことがある。「カーブアウト III」では出口戦略について書いた。併せてお読みいただきたい。

 最後に新聞の書評も載せておこう。

(引用開始)

巨大設備で単品製造されるビール。規模をいかす生産が一般的だが、本書はその正反対の小規模、多品種少量に挑戦したキリンビールの異端児たちの奮闘記だ。当然、社内では衝突が起きるが突き詰めればキリンが目指している、うまいビール造りの「あるべき姿」に集約されて、彼らは次第に理解を得る。社内に“よい化学反応”を起こし、組織が活性化していく過程の描写は心地いい。

(引用終了)
<日経新聞 12/4/2016>

 このブログを始めた2007年の暮れ、その初稿「スモールビジネスの時代」の中で、これから産業界を牽引するのは、フレキシブルで判断が早く、地域に密着したスモールビジネスだろうと書いた。9年後の今、それがビール業界でも形となって現れてきたわけだ。頼もしいと思う。開始から9年、このブログもそろそろ役割を終えたようだ。私も次のステージへ進もうと思う。

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鳥瞰的な視野の大切さ

2016年12月06日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「物事の繋がりの重要性」の項で引用した『電車をデザインする仕事』水戸岡鋭治著(新潮文庫)の文章に、「それ(物事の繋がりの重要性)を理解するには、先ほど述べた鳥瞰という視点が大切です。(中略)鳥瞰的な視野で総合的に物事を進めることができれば、創造的な人間が増えていく土壌が生まれます。それが、バランスの良い社会をつくりだすのです」という部分があった(括弧内引用者)。今回はこの「鳥瞰的な視野の大切さ」について敷衍してみたい。

 まず『電車をデザインする仕事』から「鳥瞰的な視野の大切さ」について書かれた部分を引用しよう。

(引用開始)

 ヨーロッパでは政治によって文化や都市がデザインされるといわれているのですが、それに比べると日本のデザインは非常に表面的で狭いものに限定されます。その意識の違いがデザインの幅の違いに関わってきます。
 この「全体を見渡す」とは鳥瞰(ちょうかん)の視点、つまり広い視野で見る、考えるということです。多角的に大きな観点で全体を見渡すことによって「正しいデザイン」のガイドラインが描けるようになるのです。
 さらに付け加えれば、デザインにおいてこの鳥瞰という言葉のなかには「パブリック・デザイン」という意味があります。このパブリック・デザインの対極にあるのがプライベート・デザインで、自分自身のデザインを自分のやりたいように進めていっても誰からも文句を言われません。ところが、パブリック・デザインとなると公共デザインなので、多くの人が集まって生活をする公共空間を鳥瞰することが必要不可欠になるのです。

(引用終了)
<同書 23−24ページ>

 このブログで提唱している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

に引き寄せて言えば、「鳥瞰」とは空間重視でありAの視点である。「パブリック・デザイン」もAの視点だ。

 「物事の繋がりの重要性」はB側で、21世紀は世界的にこちら側が強まるだろうというのがモノコト・シフトの見立てだが、複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。日本人(日本語的発想)はもともとBの側に偏っているから、それを知る水戸岡氏は、ここで敢てAの大切さを強調しておられるのだろう。

 ちなみにモノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲(greed)による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

モノコト・シフトの研究
モノコト・シフトの研究 II
モノコト・シフトの研究 III
モノコト・シフトの研究 IV

 話は変わるが、ここで、モノコト・シフトの観点から、先の米大統領選挙の結果を説明してみたい。選挙旋風(という「コト」)の一部が、モノコト・シフトでいうBの「イベントへの熱狂」であることは間違いない。動きのある「コト」はBと親和性が強い。その線上でBの女性性を代表するヒラリー氏が選ばれてもおかしくなかったが、(1)ヒラリーが「行き過ぎた資本主義」のインサイダーと見做されたこと(メール問題やクリントン財団など)、(2)アメリカ人(英語的発想)はもともとA側に偏っていること、(3)国民の大半は(熱狂はしても)greedが操るマスコミのプロパガンダに乗らなかったこと、(4)stateの統治はそもそもA側領域の仕事であること、などの理由によって、Aの男性性の代表トランプ氏が選ばれることとなった。

 これからアメリカのB側志向(モノコト・シフト)は、政治を離れてビジネス領域で花開くのではないか。「行き過ぎた資本主義」ではない地方発の起業、「コト」を支えるインフラ整備、スポーツ・イベントやアートビジネスなどなど。一方、トランプ大統領はビジネスライクにA側の仕事をこなしてゆくことだろう。そのとき日本のアメリカとの政治交渉は、B側に偏った日本的発想の政治家たちでは歯が立たない。水戸岡氏のような、A側の大切さが解り尚且つBの重要性に気付いている人が、日本stateに必要となってくるに違いない。

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物事の繋がりの重要性

2016年11月29日 [ 起業論 ]@sanmotegiをフォローする

 『電車をデザインする仕事』水戸岡鋭治著(新潮文庫)という本を読んだ。水戸岡氏は「ななつ星in九州」などの豪華列車デザイナーとして有名。副題には「ななつ星。九州新幹線はこうして生まれた!」とある。本の帯(表紙)とカバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「JR九州」大躍進の秘密は、乗客をワクワクさせる「物語力」にあった!
未だかつて無いものを生み出す発想術・仕事術

豪華寝台列車なのに予約はいつも満員の「ななつ星in九州」。「縦長の目」が印象的な800系新幹線「つばめ」。斬新で魅力的なデザインはどのようにして生み出されたのか。「最高レベルのものを提供し、お客様に圧倒的な感動を五感で味わってもらう」というコンセプトを軸に、JR九州のD&S(デザイン&ストーリー)列車が大成功した経緯と今後について語る、プロデザイナーの発想術。

(引用終了)

本書には、水戸岡氏のイラストレーター・デザイナーとしての哲学や、鉄道デザインや公共デザインにおける現場の実際が、具体的にかつ余すところなく描かれている。デザイン系で起業を目指す人にお勧めの一冊だ。

 このブログで書いているモノコト・シフトでいえば、「ななつ星in九州」による旅は、“「皆と同じ」から「それぞれのこだわり」へ”というトレンドの究極的体験といえるだろう。水戸岡氏もこのトレンドを敏感に感じ取っおられるようだ。前回「モノコト・シフトの研究 IV」で、

(引用開始)

 思考から、自己の身体や自分がいる場所の力を外さないこと。対象を数としてではなくエネルギーとして捉えること。さまざまなコトを通してそのエネルギーを感じること。そういうモノコト・シフトの本質を理解した人が、これからのビジネスをリードしてゆく筈だ。

 事象は固有時空層を成してすべて繋がっている。モノ(物質)に対しても、人はその中に潜むエネルギーを感じ取ろうとするだろう。効率よりも効用。近代以前、人々はずっとそうしてきた。日本人の「もったいない精神」もそういう気持ちの表れだ。しかし近代以降、とくに二十世紀の大量生産システムが世の中を席巻して以来、人はモノの効用よりも利用効率を優先するようになった。モノコト・シフトが進む地域・階層では、人は効率よりもまた効用を優先するようになるに違いない。

(引用終了)

と書いたけれど、水戸岡氏もそのデザイン哲学の項で、「素晴らしいデザインは素晴らしいビジネスを生み、素晴らしいビジネスを生むことで素晴らしい暮らしを生み出す」という言葉を紹介しそれがデザインというものの在り方を示していると述べたあと、「事象の繋がりへの気付き」に言及しておられる。

(引用開始)

 さらに、この言葉から学べる教訓は、世の中のはすべての物事が繋がっていて、繋がっていないものはひとつもないということです。それを理解するには、先ほど述べた鳥瞰という視点が必要です。
 ところが多くの人間はデザインを含め、すべての仕事を繋げてしまうと厄介だからといって切り離してしまう傾向にあります。その代表例がまさに私たちが生きている縦割り社会であり、縦割り企業ということです。国家も政治家も専門に分けてしまいますが、意識レベルの高い国においては、専門に分ける必要がないので、総合的かつ創造的な社会や企業をデザインすることができます。鳥瞰的な視野で総合的に物事を進めることができれば、創造的な人間が増えていく土壌が生まれます。それが、バランスの良い社会をつくりだすのです。

(引用終了)
<同書 34−35ページ>

JR九州は今年の10月に東京証券取引所第一部へ上場し、国鉄分割30年目にして完全民営化を果たした。水戸岡氏の貢献も大きかったに違いない。本書の解説にはJR九州会長の文章が載っている。

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