夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


広場の思想と縁側の思想

2009年01月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「公(public)と私(private)」のなかで、

「日本社会になぜ公的意識が根付かないのか、日本の都市になぜ広場が無いのか、日本人はなぜユーモアのセンスがないのか、等々の疑問への答えの一部が見えてくる。そもそも日本語的発想は、『公的表現』を構築する力が弱いのだ。」

と書いたが、広場について、「ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか」佐野敬彦著(平凡社)から引用してみよう。佐野氏は、大阪芸術大学(環境・建築芸術学)教授で、長くヨーロッパで美術や建築を研究された方である。

「ヨーロッパと日本の都市の風景の違いを考える時、まっさきに浮かんでくるのはヨーロッパの広場の情景であり、反対に日本には広場がないということである。」(同書68ページ)

「広場はギリシャのアゴラやローマのフォールムから始まった。アゴラは政治討議や代表の決定を聞くための民会が行なわれる集会の場であると共に、市場広場であった。フォールムも公共広場と訳されるように政治と商業のための場であった。」(71ページ)

「日本では、例えば東京には広場がない。駅前広場というものがあるが、広場というには名ばかりで、バスやタクシーのターミナルになっている。車のためのものである。都心で見ると、銀座にはもちろん広場がない。新宿の歌舞伎町にはコマ劇場前の小空間があるが、現在ではイベントのための空間となっている。かつてJR新宿駅西口は地下広場といわれ、若者が集まってフォークソングなどを歌ったりしたところだが、通路であるとされて禁止されることとなった。(中略)歴史的に民主政治のなかった日本では市民のための広場はなかった。積極的につくらないようにしてきた。それがいまも続いている。」(83ページ)

「広場の思想」は、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

と対応するのだろう。以前「建築について」で書いたように、都市と建物について語るには、その国の言葉の本質に迫らなければ成らない。日本に「広場」がないのは、誰かが作らないようにしてきたというよりも、「歴史的に民主政治のなかった日本」に、公的表現を構築する言葉(日本語)が充分に育っていないから、誰にも「広場」を作ることが出来ない、と云った方が正確だと思う。

 一方、日本の建築の良さは何処にあるのか。建築家の隈健吾氏はそれを「自然と対話する能力」にあるという。氏の新著「自然な建築」(岩波新書)から引用しよう。

「その意味で、日本の大工は驚くほどラジカルである。しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番よいと語り伝えてきた。機能的にも、見かけも一番しっくりくると伝えた。それを一種の職人の芸談として、神秘化してはいけない。場所に根の生えた生産行為こそが、存在と表象とをひとつにつなぎ直すということを、彼らは直感的に把握していたのである。その方法の現代における可能性を、具体的な場所を通じて、ひとつひとつ探っていくのが、この本の手段である。」(同書16ページ)

隈氏は、新聞に次のように書いておられる。

「自分をとり囲む、自分では手に負えず、コントロールできないものと対話し、とことんつきあっていく能力が残っている状態を『自然』と呼びたい。美しい景色が残っていれば『自然』が残っているわけではない。(中略)日本には幸いにそんな『自然』が残っている事を、なるべく具体的なエピソードとして伝えたくなって、自分でもドキドキしながらこの本を書いた。」(東京新聞12/2008「自著を語る」より)

 さらに、日本の伝統建築に魅せられたアメリカ人建築家で、ご自身も京都の町家に住んでおられるジェフリー・ムーサス氏は、その著書「『縁側』の思想」(祥伝社)の中で、日本建築の象徴として「縁側」について語っている。

「町家を改造していく中で、私が最も関心を持ったのは、日本建築における『あいまいな場所』です。例えば、縁側は屋根があるので『外』ではありませんが、壁がないので完全な『内』でもありません。この『あいまいさ』こそが、日本建築における独自の要素、コンセプトであると私は考えています。」(同書11ページ)

「このように、西洋と日本の建築技術は異なる形で発展していきました。そしてそれは自然に対する接し方にも影響したといえるでしょう。アメリカとヨーロッパでは、壁が外と内の境界を作ったため、住民と自然とを分離してしまい、未知なる自然への恐れや畏怖心を持つことにつながったのです。ハリケーンなどはコントロールできない脅威とし捉えられています。
 ところが、日本人は家に居ながらも自然に接してきたため、長い歳月の中、台風などの自然の猛威を経験しながらそれを受け入れ、豊かな気持ちで暮らす知恵を育んできたようです。生け花から食べ物に至るまで、四季おりおりのを楽しむ日本人の生活習慣が、それを証明しているといえるでしょう。」(106ページ)

「日本の伝統的な家屋は外と内の境界がはっきりしておらず、外から内、内から外へと段階的に連なっているようです。第二章でお話したように、町家の構造にはとりわけその特徴が顕著で、層(layer)になっていて、外でもなく内でもない中間的なあいまいな場所があります。
 このような場所として、日本人にとって最もイメージしやすいのが『縁側』です。縁側は家の外でしょうか?それとも家の内でしょうか?」(107ページ)

いかがだろうか。「縁側の思想」は、

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

と呼応している。日本語的発想には、豊かな自然環境を守る力が育まれているのだ。

 このように、広場の思想と縁側の思想は、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

それぞれから生まれる。従って、個人にとって脳と身体の働きのバランスが大切なように、日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、この二つ(広場の思想と縁側の思想)を上手くバランスさせていくことだと思われる。


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<お知らせ>

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posted by 茂木賛 at 10:49 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

縦軸と横軸

2008年11月18日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「生産と消費の等価性」などで見てきた「生産と消費論」と、「公(public)と私(private)」などでみてきた「Resource Planning(R.P.)とResource Planning(P.T.)」との相互関係を、ここで一度簡単に整理しておこう。初めての方は、まず以前の関連記事をお読みいただきたい。

 「生産と消費論」では、

I 「生産−理性的−統合中心」
II 「消費−感性的−分散中心」

という対比をみてきた。一方、「R.P.とP.T.」では、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比をみてきた。それぞれ、ビジネスを行っていく上での重要なファクターだった訳だが、前者は主に、商品やサービスに関する議論であり、後者は主に、経営や組織運営に関する話だった。ビジネスを離れて云えば、前者は、個人と集団社会とのつながりに関する考察であり、後者は、個人(あるいは組織)における脳及び身体機能に関する考察だ。

 ここで、前者のつながり(個人と集団)を縦軸に、後者の対比(公と私)を横軸にとり、両軸を中央で交差させると、二つが組み合わさったひとつの図を作ることができる。
c.jpg
 「生産と消費論」は、この図における上下の関係であり、「R.P.とP.T.」は、この図における左右の対比である。「生産」は下から上へのベクトル、「消費」は上から下へのベクトル、「脳」の機能は主に左辺、「身体」の機能は主に右辺の活動、と見ていただければよい。

 「生産と消費論」と「R.P.とP.T.」をこのように(縦軸と横軸によって)繋ぐと、ひとつの図の下に、個人と集団、公と私を四極に配した「人間世界全体」を表示することができる。右上、右下、左下、左上、それぞれの領域が何を意味するのか、今後この図を参考にしながらいろいろなことを見ていこう。

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posted by 茂木賛 at 11:57 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

公(public)と私(private)

2008年10月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「脳と身体」のなかで考察した、「主格中心」=脳の働き、「環境中心」=身体の働きという対比を、さらに「公(public)と私(private)」の観点から追ってみよう。尚、ここでいう「公」とは、私企業なども含む社会一般=公(おおやけ)を意味し、「私」とは、それ以外のプライベート=私事(わたくしごと)を意味している。

A Resource Planning(R.P.)−英語的発想−主格中心
a 脳の働き

B Process Technology(P.T.)−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き

 まずこの図式の意味を今一度整理しておこう。思考の原点に自分という「主格」を置く英語的発想の原動力は、「脳」(特に大脳新皮質)の働きである。一方、思考原点に「環境」を置く日本語的発想の原動力は、「身体」の働きといえる。前者はR.P.的思考に優れ、後者はP.T.的思考に優れている。企業経営には、両者を備えた強い包容力が必要である。

 それでは先に進もう。脳の働きの一つの特徴は、「マイナスの働き」が無いことである。どういうことかと云うと、これまでの人類の歴史は、(失われてしまったものも多いだろうが)誰かの脳に記憶されている。その記憶がコトバによって記録され、共有されることによって、別の誰かが新たな仮説を生む。その仮説が検証され、行動が起こり、それがまた新たな歴史となる。脳の働きはその繰り返しだ。すなわち脳は、(社会にとって)共存・共栄の原理の下にあるといえよう。

 脳は身体の欲望を満たすために自己中心的に振舞うときもある。しかし、「生産が先か消費が先か」で述べたように、人の生きる目的そのものが「生産」(他人のための行為)であってみれば、脳の働きの本質的な役割もまた、社会=公への貢献であると考えて良い筈である。

 積み重ねられた記憶がコトバによって記録され、社会に共有される。知識を蓄積する「脳」の働きは人類の共有財産であり、「公(public)」の性格を持つ。すなわち「主格中心」の発想は、脳の働きを通して、社会的な「公」に属するのだ。いつも引き合いに出す「相棒」でいえば、杉山右京は手柄を独り占めすることがない。彼の頭脳は(警視庁という)「公」のものだからだ。

 一方の「身体」はどうか。「身体」が私的(プライベート)なものであることはいうまでもない。私的な身体は、脳の働きと違っていつも「マイナスの働き」=「死」の可能性に晒されている。身体は(t = life)という寿命をもち、自然界の循環法則に則って、死ぬことによって新しい生命に場所を譲る。「身体」は自然に属している。「環境中心」の発想は、身体の働きを通して、自然的な「私(private)」の性格を持つのである。

 先回「競争か協調か」の中で考察した、「競争を選ぶか協調を選ぶかは、資源全体の多寡・増減に依る」という原則は、企業や組織だけではなく、すでに自然界そのものにあるのかもしれない。

 身体と同じように、自然界そのものも、苛烈な種の生存競争が繰り広げられる一方で、全体として多様性や生態系バランスが保持される。自然界は、資源全体の多寡・増減に応じて、その場その場で競争したり協調したりしながら、全体として大きな循環システムを形作っている。「相棒」でいえば、「体力派」の亀山がいつも捜査一課の伊丹相手に鍔迫り合いと連携プレイとを繰り返すのは自然界の法則に適っているわけだ。

 ここまでを纏めてみよう。「主格中心」の発想は、知識を蓄積する脳の働きを通して、社会的な「公」の性格を持つ。「環境中心」の発想は、身体の働きを通して、自然的な「私」の性格を持つ。勿論、脳の働きが全て「公」的なもので、「身体」の働きが全て「私」的なものだということではない。脳は、主な働きとして「公」的役割を担い、身体は、主な働きとして「私」的なものだということであるから念のため。「身体」のうちでも「顔」は社会における公的役割を担っているし、「脳」の働きでも「内省」は私的な役割を果たしている。

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比・連動から何が見えてくるだろうか。ひとつは、日本社会になぜ公的意識が根付かないのか、日本の都市になぜ広場が無いのか、日本人はなぜユーモアのセンスがないのか、等々の疑問への答えの一部が見えてくる。そもそも日本語的発想は、「公的表現」を構築する力が弱いのだ。

 公的表現の第一歩は、自分というものを冷静に客観視するところから始まるが、日本語における「わたし」という言葉の中には、すでに自分の置かれた立ち位置が相手との私的な関係性として(「おれ」でも「わし」でも「ぼく」でも「あたい」でもないものとして)含まれてしまう。英語における「I(アイ)」が、相手との関係性を持たない「公的な自己」を表現し得るのと事情が違う。

 といってもこれはどちらが良いとか悪いとかという話ではない。日本語的発想には逆に、豊かな自然環境を守る力が育まれていると思う。日本語的発想には日本語的発想の特徴があり、英語的発想には英語的発想の特徴があるということだ。だが、日本語がもうすこし公的表現を構築する力を蓄えれば、日本の社会はもっとバランスの取れたものに成るのではないかと思う。

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posted by 茂木賛 at 10:08 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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