夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


縦軸と横軸

2008年11月18日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「生産と消費の等価性」などで見てきた「生産と消費論」と、「公(public)と私(private)」などでみてきた「Resource Planning(R.P.)とResource Planning(P.T.)」との相互関係を、ここで一度簡単に整理しておこう。初めての方は、まず以前の関連記事をお読みいただきたい。

 「生産と消費論」では、

I 「生産−理性的−統合中心」
II 「消費−感性的−分散中心」

という対比をみてきた。一方、「R.P.とP.T.」では、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比をみてきた。それぞれ、ビジネスを行っていく上での重要なファクターだった訳だが、前者は主に、商品やサービスに関する議論であり、後者は主に、経営や組織運営に関する話だった。ビジネスを離れて云えば、前者は、個人と集団社会とのつながりに関する考察であり、後者は、個人(あるいは組織)における脳及び身体機能に関する考察だ。

 ここで、前者のつながり(個人と集団)を縦軸に、後者の対比(公と私)を横軸にとり、両軸を中央で交差させると、二つが組み合わさったひとつの図を作ることができる。
c.jpg
 「生産と消費論」は、この図における上下の関係であり、「R.P.とP.T.」は、この図における左右の対比である。「生産」は下から上へのベクトル、「消費」は上から下へのベクトル、「脳」の機能は主に左辺、「身体」の機能は主に右辺の活動、と見ていただければよい。

 「生産と消費論」と「R.P.とP.T.」をこのように(縦軸と横軸によって)繋ぐと、ひとつの図の下に、個人と集団、公と私を四極に配した「人間世界全体」を表示することができる。右上、右下、左下、左上、それぞれの領域が何を意味するのか、今後この図を参考にしながらいろいろなことを見ていこう。

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posted by 茂木賛 at 11:57 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

公(public)と私(private)

2008年10月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「脳と身体」のなかで考察した、「主格中心」=脳の働き、「環境中心」=身体の働きという対比を、さらに「公(public)と私(private)」の観点から追ってみよう。尚、ここでいう「公」とは、私企業なども含む社会一般=公(おおやけ)を意味し、「私」とは、それ以外のプライベート=私事(わたくしごと)を意味している。

A Resource Planning(R.P.)−英語的発想−主格中心
a 脳の働き

B Process Technology(P.T.)−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き

 まずこの図式の意味を今一度整理しておこう。思考の原点に自分という「主格」を置く英語的発想の原動力は、「脳」(特に大脳新皮質)の働きである。一方、思考原点に「環境」を置く日本語的発想の原動力は、「身体」の働きといえる。前者はR.P.的思考に優れ、後者はP.T.的思考に優れている。企業経営には、両者を備えた強い包容力が必要である。

 それでは先に進もう。脳の働きの一つの特徴は、「マイナスの働き」が無いことである。どういうことかと云うと、これまでの人類の歴史は、(失われてしまったものも多いだろうが)誰かの脳に記憶されている。その記憶がコトバによって記録され、共有されることによって、別の誰かが新たな仮説を生む。その仮説が検証され、行動が起こり、それがまた新たな歴史となる。脳の働きはその繰り返しだ。すなわち脳は、(社会にとって)共存・共栄の原理の下にあるといえよう。

 脳は身体の欲望を満たすために自己中心的に振舞うときもある。しかし、「生産が先か消費が先か」で述べたように、人の生きる目的そのものが「生産」(他人のための行為)であってみれば、脳の働きの本質的な役割もまた、社会=公への貢献であると考えて良い筈である。

 積み重ねられた記憶がコトバによって記録され、社会に共有される。知識を蓄積する「脳」の働きは人類の共有財産であり、「公(public)」の性格を持つ。すなわち「主格中心」の発想は、脳の働きを通して、社会的な「公」に属するのだ。いつも引き合いに出す「相棒」でいえば、杉山右京は手柄を独り占めすることがない。彼の頭脳は(警視庁という)「公」のものだからだ。

 一方の「身体」はどうか。「身体」が私的(プライベート)なものであることはいうまでもない。私的な身体は、脳の働きと違っていつも「マイナスの働き」=「死」の可能性に晒されている。身体は(t = life)という寿命をもち、自然界の循環法則に則って、死ぬことによって新しい生命に場所を譲る。「身体」は自然に属している。「環境中心」の発想は、身体の働きを通して、自然的な「私(private)」の性格を持つのである。

 先回「競争か協調か」の中で考察した、「競争を選ぶか協調を選ぶかは、資源全体の多寡・増減に依る」という原則は、企業や組織だけではなく、すでに自然界そのものにあるのかもしれない。

 身体と同じように、自然界そのものも、苛烈な種の生存競争が繰り広げられる一方で、全体として多様性や生態系バランスが保持される。自然界は、資源全体の多寡・増減に応じて、その場その場で競争したり協調したりしながら、全体として大きな循環システムを形作っている。「相棒」でいえば、「体力派」の亀山がいつも捜査一課の伊丹相手に鍔迫り合いと連携プレイとを繰り返すのは自然界の法則に適っているわけだ。

 ここまでを纏めてみよう。「主格中心」の発想は、知識を蓄積する脳の働きを通して、社会的な「公」の性格を持つ。「環境中心」の発想は、身体の働きを通して、自然的な「私」の性格を持つ。勿論、脳の働きが全て「公」的なもので、「身体」の働きが全て「私」的なものだということではない。脳は、主な働きとして「公」的役割を担い、身体は、主な働きとして「私」的なものだということであるから念のため。「身体」のうちでも「顔」は社会における公的役割を担っているし、「脳」の働きでも「内省」は私的な役割を果たしている。

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比・連動から何が見えてくるだろうか。ひとつは、日本社会になぜ公的意識が根付かないのか、日本の都市になぜ広場が無いのか、日本人はなぜユーモアのセンスがないのか、等々の疑問への答えの一部が見えてくる。そもそも日本語的発想は、「公的表現」を構築する力が弱いのだ。

 公的表現の第一歩は、自分というものを冷静に客観視するところから始まるが、日本語における「わたし」という言葉の中には、すでに自分の置かれた立ち位置が相手との私的な関係性として(「おれ」でも「わし」でも「ぼく」でも「あたい」でもないものとして)含まれてしまう。英語における「I(アイ)」が、相手との関係性を持たない「公的な自己」を表現し得るのと事情が違う。

 といってもこれはどちらが良いとか悪いとかという話ではない。日本語的発想には逆に、豊かな自然環境を守る力が育まれていると思う。日本語的発想には日本語的発想の特徴があり、英語的発想には英語的発想の特徴があるということだ。だが、日本語がもうすこし公的表現を構築する力を蓄えれば、日本の社会はもっとバランスの取れたものに成るのではないかと思う。

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posted by 茂木賛 at 10:08 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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