夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


勝負の弁証法

2013年12月10日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ゲームや競技などの勝負事を弁証法の一つとして考える。どういうことか説明しよう。弁証法とは、テーゼ(一つの意見)とアンチテーゼ(反対の意見)が止揚されてジンテーゼ(新たな見識)へと到るプロセスを指すわけだが、それは、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という発展構造として捉えることが可能だ(「3の構造 II」)。

 一方、勝負事とは、AとBとが一定のルールの下で戦い、新しい結果(勝者と敗者)が生まれるプロセスだが、戦いの場、自然環境、両者の力量の差、戦術や気魄、応援、勝者の喜び、敗者の落胆などのプロセス全体を俯瞰すれば、勝負事もまた、何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる、という発展構造(弁証法)として見ることが出来る筈だ。これはプロ、アマを問わない。

 上の二点を言い換えれば、勝負事は、「本物を見抜く力」の項で述べた、人の時空と外部の時空とが作用しあって新しい何かが生まれる、という“コト経済”の一種であり、弁証法は、コト経済のプロセスを跡付ける“メタ・ロジック”である。

 さて、弁証法には証明すべき元の命題が必要だ。コト経済における命題とは何か。それは、「政治と経済と経営について」の項で述べた、その集団の「理念と目的」ということになろう。社会集団の理念と目的の完成は、数式の証明のようにストレートには行かないだろうが、それは、社会の到るところで波のように起こる“コト”の一つひとつが、弁証法ロジックを伴って、少しづつ高みに達していくというダイナミズムの内に成される。

 そう考えると、勝負事にも固有の合意された「理念と目的」がある筈だ。なぜその勝負を行なおうとするのかという「理念」と、その勝負によって何を達成したいのかという「目的」。

 弁証法における命題と同じくらい、勝負事において達成されるべき「理念と目的」は大切な筈なのだが、往々にして、勝負事においては結果(勝ち負け)だけがクローズアップされるケースが多い。皆、「理念と目的」の方を忘れてしまうのだ。勝つ為の努力は勿論大切だが、それだけに目を奪われていると、「理念と目的」の方を忘れてしまう。

 弁証法において、止揚される意見は、新たな「見識」の中に包摂される。止揚された意見は、けっして排除される訳ではなく、高みに達するために積み重ねられた礎の一つとしてロジックの内に存在し続ける。別の言い方をすれば、止揚される意見がなければ、新たな見識も生まれ得ないということだ。

 社会においても、起こった“コト”はなくならない。歴史はなくならない。歴史に学ぶという意味は、そこで起こった“コト”全てを俯瞰してそこから教訓を得るということである。

 勝負事においても、敗者がいなければ勝者は居ない。だから、敗者とその戦いのプロセス全体は、勝者の内に包摂されなければならないと思う。勝負を観戦するときは、まずその「理念と目的」をしっかり見極めて、さらに、敗者とその戦いのプロセス全体が、掲げられた理念に達するために積み重ねられた「礎」なのだということを忘れないようにしたいものだ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:35 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

地方の時代 II

2013年10月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き、地方都市の魅力・意義について考えたい。“(株)貧困大国アメリカ”堤未果著(岩波新書)によると、いまアメリカを中心に世界で「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)が進行しているという。本書から引用しよう。

(引用開始)

 いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
 グローバリゼーションと技術革命によって、世界中の企業は国境を超えて拡大するようになった。価格競争のなかで効率化が進み、株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売者、労働力、特許、消費者、税金対策用本社機能にいたるまで、あらゆるものが多国籍化されてゆく。流動化した雇用が途上国の人件費を上げ、先進国の賃金は下降して南北格差が縮小。その結果、無国籍化した顔のない「1%」とその他「99%」という二極化が、いま世界中に広がっているのだ。
 巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に委譲する新しい形態へと進化した。ロビイスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業寄りの法改正で、“障害”を取り除いてゆく。
 コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。

(引用終了)
<同書 273−274ページ>

 この「1%」によるコーポラティズムは、以前「世界の問題と地域の課題」の項で述べた、世界の問題としての「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」そのものだ。それに対して、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)は、世界の「99%」が希求する新しい時代の規範である。

 モノコト・シフトの時代においては、「個の自立」と、コトの起こる小規模な「地方都市」が必要であり、コーポラティズムを撃退できるのは、そのような“コト”同士の横の連携だろう。堤さんは、

(引用開始)

 食、教育、医療、暮らし。この世に生まれ、働き、人とつながり、誰かを愛し、家族をいつくしみ、自然と共生し、文化や伝統、いのちに感謝し、次の世代にバトンを渡す。そんなごく当たり前の、人間らしい生き方をすると決めた「99%」の意思は、欲で繋がる「1%」と同じように、国境を越えて繋がってゆく。
 意思を持つ「個のグローバリゼーション」は、私たちの主権を取り戻すための、強力な力になるだろう。

(引用終了)
<同書 277ページ>

と述べておられる。単なる“モノ”の流通ではなく、物語を持った“コト”の横の連携。流域思想でいうところの「両端の奥の物語」を持った“コト”同士の共振。日本語発のそういう物語をもっと紡いでゆきたいものだ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:34 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

女子力

2013年09月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「若者の力」の項で紹介した“地方にこもる若者たち”阿部真大著(朝日新書)に、「ギャル的マネジメント」という言葉が出てくる。多様性への対応の四段階、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

を踏まえて、著者は「ギャル的マネジメント」について次のように語る。

(引用開始)

流動性・多様性の増す現代社会において、若者たちは、「分離」(違う者同士互いに干渉し合わない)の段階のハイポコミュニカティブ(過小にコミュニケーション志向の)な傾向と、「統合」(違う者同士がぶつかり合い落としどころを探っていく)の段階のハイパーコミュニカティブ(過剰にコミュニケーション志向の)な傾向とに二極化していると考えられる。前者は男性に、後者は女性に強く見られる傾向であるが、これらはともに他者の違いを認めるものである。

「ギャル的マネジメント」とは、身近な人間関係の多様性に意識的で、同質的な仲間集団に対する愛着心は強いながらも異質な他者とのコミュニケーションを厭わず、謙虚に集団をまとめあげていくような仕切り方のことを指す。これは、「分離」から「統合」の段階へとステップアップするのに必須な資質であり、つまりは内にこもる若者を外に引き出すコツを導く鍵であり、「新しい公共」の構築への鍵である。

(引用終了)
<同書 198ページより>

「ギャル的マネジメント」とは、「男性性と女性性 II」の項で述べた「女性性に基づく関係原理」と「男性性に基づく所有原理」とを、上手にバランスさせる能力だと思われる。「森ガール」の更なる進化系といえるかもしれない。人は性差に拘らず、ある比率で、男性脳=「所有原理」、と女性脳=「関係原理」の両方の機能を持っている。だから「ギャル的マネジメント」は女性だけでなく、男性にも可能なマネジメント・スタイルである。

 日本はこれまで、社会や人々は「世間」という関係原理、政治やビジネスは「律令」という所有原理によって形作られてきた。「“シェア”という考え方 II」の項で述べたように、モノコト・シフト後の日本は、社会や人々は「世間」に縛られすぎることなく「所有原理」を自覚して精神的に自立すること、政治やビジネスにおいては「律令」主義を排して「関係原理」を取り入れること、が必要になってくる。

 モノコト・シフトのパラダイム項目は、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感
世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といったことだ。多様な価値観の渦の中で、「ギャル的マネジメント」は、新しい日本の構築に欠かせない力なのであろう。ただし多様性を認めるには、人々が自立していなければならない。そのためには「新しい日本語」が必要になる筈だ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 08:56 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

若者の力

2013年09月10日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 “地方にこもる若者たち”阿部真大著(朝日新書)という面白い本を読んだ。本の帯には「地方都市はほどほどパラダイス 満員電車、高い家賃、ハードな仕事…… もう東京には憧れない」とある。まずカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

都会と田舎の間に出現した、魅力的な地方都市。若者が地方での生活に感じる幸せと不安とは―――?
気鋭の社会学者が岡山での社会調査を元に描き出す、リアルな地方都市の現実と新しい日本の姿。

(引用終了)

ということで、これは、新しい日本の社会を作る「若者の力」についての本だ。著者は、いまの岡山を次のように描く。

(引用開始)

容赦なく進行する郊外のモータライゼーション、国道沿いに並ぶ巨大な路面店やショッピングモール、シャッター通りが増え高齢化の進む旧市街、人口の減少に悩む過疎地域、縮小する製造業と拡大するサービス業、地域社会と切り離された「脱社会化」した若者たち、古き良き「戦後社会」の幻影にしがみつく年長世代、広がる貧困とそのなかでいよいよ閉塞していく近代家族。すべてが「どこかで見た光景」であった。

(引用終了)
<同書 208ページより>

以前私は「継承の文化」の項で、いまの日本社会の姿を「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」と描写したことがあるけれど、それとよく似た日本のどこにでもある(郊外の)光景だ。

 「アッパーグラウンド」の項で述べたように、世界中でモノコト・シフトが進んでいるにも拘らず、今の日本の大人たちは「心ここに在らず」の状態のまま、大量生産・輸送・消費システムが作り出したこの寒々とした光景の中で暮らし、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政を許している。

 しかし阿部氏は、今の若者たちの中に、新しい日本の社会を作るエネルギーが生まれているという。1990年代以降のモータリゼーションが生み出した巨大な路面店やショッピングモールは、若者たちに、地方特有のしがらみや因習から自由な「ほどほど」の都市空間を与えた。一方、(モノコト・シフトによる)近代家族の崩壊は、若者たちが反抗の対象とすべき「大人の世界の安定性」そのものを無化してしまった。社会の安定性の崩壊は、画一的な生き方の押し付けから若者たちを解放する一方、多様な価値観の渦の中に若者たちを放り出すこととなった。著者は、その先に「都会と田舎の間に出現した新しい社会」(同書のサブタイトル)の可能性を見る。

 本書に引用されている“ダイバシティ・マネジメント――多様性をいかす組織”谷口真美著(白桃書房)によると、多様性への組織の対応には、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

といった四段階があるという。著者は、この考え方を多様な価値観の渦の中に放り出された若者たちの生き方に応用し、一部の若者たちは第四段階の「統合」の段階に進んでいるという。そして、

(引用開始)

現在「こもっている」若者は、「同化」ではなく「分離」の段階にあるのではないか。社会の多様性を認識したうえで「こもる」という選択をしているのであれば、彼らは既に「統合」に向けた準備ができていると言えるかもしれない。そう考えると、準備ができていないのは「こもっていないで外に出ろ」と声高に叫ぶような、社会の多様性に鈍感で未だ「同化」の段階にある「大人」たちではないか。「新しい公共」が社会の多様性を前提とする「統合」によって構築されるのであれば、「同化」の段階にある大人たちより彼らのほうが「新しい公共」に近い場所にいると言えるだろう。

(引用終了)
<同書 199ページより>

と述べる。ここでいう「新しい公共」とは、以前「自立と共生」の項で引用した、2009年鳩山政権所信表明演説にある「人を支えるという役割を、『官』と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという価値観です」といった内容のことで、モノコト・シフト以降の日本社会の「公共」のあり方と言ってよいだろう。

 「心ここに在らず」の大人たちが大量生産・輸送・消費システムが作り出した寒々とした光景の中で、惰性のまま、財欲に駆られた人々による強欲支配と、無責任な官僚行政を許し続けるのであれば、新しい日本社会の構築は、「統合」に向かう若者たちに期待すべきだ。これからも若者たちの勉強や起業を応援したい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:17 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

再び複眼主義について

2013年08月13日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「時空の分離」の項で、

(引用開始)

 21世紀を迎え、世界は「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代を迎えている。「時を含んだ“コト”」を研究するには、まずこの「時空の分離」を見直す必要があると思うがいかがだろう。

(引用終了)

と書いたけれど、今回もこのテーマについて考えてみたい。

 様々な“コト”は、そのサイズの中に、そのコトを起こすためのエネルギーを固有の時間とともに内包している。「酵素の働きと寿命との関係」の項で探ったのはその法則性だ。生物だけでなく、石炭や石油など鉱物であっても、“コト”としての長い長い固有の時間をその体内に秘めている。全ての“モノ”(existance or being)は“コト”(becoming)なのである。鉱物や宇宙の時間は生物のそれに比して恐ろしく長いから、我々がそれに気付かないだけだ。

 アインシュタイン以前の“モノ”信仰は、そこに流れる時間の存在を前提としていたため、分解・合成による利用の行き過ぎについては自然な制約があったと思う。“モノ”はexistanceであると共にbeingでもあったわけだ。アインシュタイン以降の「時を抜いた“モノ”」信仰は、「時を含んだ“コト”」をも「物質」と見なすようになった。石炭しかり、石油しかり、動物しかり、植物しかり、そして人しかり。変化した物質は「中間体」という名を与えらるようになった。“モノ”はexistance一辺倒に変わったというべきか。

 20世紀の文明は、その「物質」を次から次へと破壊することでエネルギーを取り出し、それを工学的に変換して都市文明を維持してきた。“コト”の時間とサイズを圧縮してエネルギーを無理やり取り出してきたわけだ。

 このブログで以前、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請だ。

(引用終了)
<「場所の力」より>

と書いたけれど、「時を抜いた“モノ”」信仰は、効率を求める近代文明を加速的に拡大させ、やがて放射性物質までエネルギーとして分解し、利用するようになった。そしてそれが、地球の環境自体を加速的に破壊させるに至り(その際たるものが核爆発だろう)、21世紀の時代のパラダイムは、「時を抜いた“モノ”」信仰から、「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方に移りつつあるというのが私の見立てだ。

 西洋近代文明を育んだ「存在のbe」は、自立精神とともに“モノ”信仰を生み、やがてそれは「時を抜いた“モノ”」信仰へと発展した。環境破壊は、21世紀における地球規模の問題の一つだが、それは主に、「存在のbe」を駆使して作り出された西洋近代文明の「行き過ぎ」によるものだと思う。人は本来、地球という「時を含んだ“コト”」と同期しながら生息している。石炭、石油、特に放射性物質を急速にエネルギーとして開放すれば、地球環境は激変せざるを得ない。「時を抜いた“モノ”」信仰が、地球の環境自体を加速的に破壊させたわけだ。

 先日「再び存在のbeについて」の項の最後に、

(引用開始)

 話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。

(引用終了)

と書いたが、今の日本語は「存在のbe」をその語彙に持たない。日本人は、西洋近代文明を真似てここまで来たけれど、「存在のbe」を理解していないから本当の近代社会を築くことがまだできない。しかし、Process Technologyを得意とする日本語は、もともと「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方には親和性がある。それが逆に、環境問題で悩む世界にとっての存在価値となる。

 人が近代文明を享受し、「生産」(他人のための行為)の質を高めていくためには、「存在のbe」を理解し、“コト”としての生物や鉱物を、そこに流れる時間を感じつつ、環境を決定的に破壊しない範囲で適時エネルギーに変えていかなければならない。

 「存在のbe」と「環境のbecoming」、その両方の重要性。「複眼主義」において、脳(大脳新皮質)の働き=Resource Planningと、身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き=Process Technologyとのバランスを大切に考えようというのは、このことを言っている。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:15 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

世界の問題と地域の課題

2013年04月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、人の過剰な財欲と名声欲がイニシエーター(initiator)であり、官僚主義が実行部隊(executor)、認知の歪みがプロモーター(promoter)であると論じ、「理念希薄企業」の項で、それを会社組織に即して眺めてみた。

 演説の草稿風に纏めれば、
-------------------------------------------------------
社会の自由を抑圧するのは、人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出す「壁」というシステムの自己増幅、さらに我々の認知の歪みがそれらを助長する。システムの自己増幅を担うのは官僚主義。

What suppress freedom of our society are human greed, and the “wall” system created by human greed with its self re-productions carried on by bureaucracy, which are furthered by our cognitive distortions.
-------------------------------------------------------
という具合。いかがだろう。

 この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、いわば人類共通の問題である。世界(地球規模)の問題は、このほかに「環境破壊」と「貧富格差の拡大」の二つを挙げることが出来るだろう。これらは互いに作用しながら、今の「世界の問題」の全体を形成している。

 従って、これからの人類は、この三つを克服し、その上で、個人の生き方の自由と、文化の多様性を守らなければならない。と同時に、世界は21世紀に入り、 “モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代を迎えているというのが私の認識だ。

 このブログでは、日本社会に相応しいこれからの産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それを牽引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると論じている。これは、世界の今の状況を、日本社会の事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に当て嵌めた場合の考え方だ。世界は勿論全て繋がっているから、物品の輸出入はあるし、日本から大量生産・輸送・消費が無くなるわけではないけれど、これからの日本社会を牽引していくのは、起業理念の濃厚な小規模企業(とその横の連携)だと考える。

 そう考える一端を述べよう。日本社会は、冒頭の三種、

1.イニシエーター(過剰な財欲と名声欲)
2.実行部隊(官僚主義)
3.プロモーター(認知の歪み)

のうち、歴史的・文化的背景から、2.の官僚主義が、ことのほか肥大化した社会だ。詳細はこのブログの「公と私論」や「言葉について」などのカテゴリで縷々綴ってきたから繰り返さないけれど、リスクをとらない、波風を立てない、といったメンタリティが、日本社会を濃い霧のように覆っている。官僚主義は、国の機関や民営化された組織、理念を失った会社や学校、その他惰性に流されたあらゆる組織、職業に忍び込んでいる。この現状の打破は、新しい“コト”を起こす自立した理念濃厚なスモールビジネスと、その横の連携によってのみ可能だろう。

 「理念希薄企業」の項で述べたように、理念を失った組織の運営目的は「利益」だから、そのためには効率が優先される。公的機関では弱者の切り捨てが行なわれるだろう。そのままだと個人の海外移住が増えていくに違いない。産業システムでは、効率の良い大量生産・輸送・消費に向かう。しかしいま日本は経済的・社会的状況からして多品種少量生産の時代を迎えているから、多くの理念希薄企業は必然的に海外との競争に敗れていくだろう。

 世界規模の問題は、世界規模で正すことができればいちばん良いのだろろうが、我々人類はまだそのような便利なツール(tool)を持っていない。あるのはあくまでも、国や地域における政治、経済、産業、言語といったローカルなシステムでしかない。国や地域によって、その置かれた政治や経済、文化や自然の状態は異なっている。だから、人々はそれぞれの国や地域で、「世界の問題」にそれぞれ対処していかなければならないのだ。人類の目指すところは同じだとしても。これからも「世界の問題と地域の課題」、そしてその処方箋についていろいろと考えてゆきたいと思う。

 先回触れた村上春樹の新作“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”(文藝春秋)に関して一言付け加えておきたい。「1963年」の項で書いた「“1Q84”の世界をどうするか」という課題について、歴史と向き合うことの重要性、個人の精神的自立と信頼するもの同士の共生の必要性については充分描かれているものの、「社会の自由を抑圧するのは、人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅、さらにそれを助長するのが我々の認知の歪み」との戦いの観点でいえば、今回は、共同体員の認知の歪みを巡る旅と、そこからの回復に終始した内容で、過剰な財欲と名声欲、あるいはそのシステムについてはほとんど触れられていない。“1Q84”の主人公(天吾)が最後に到達した「父性」についてもあまり言及されていない。それらは以降の作品に引き継がれるのだろう。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:21 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

認知の歪みとシステムの自己増幅

2013年03月26日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「1963年」の項で、村上春樹の小説に触れ、「我々が共に戦うのは人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力である」という意味のことを書いたけれど、そのシステムの自己増幅を助長するのは、人々の「認知の歪み」なのだと思う。認知の歪みとは、誤った思い込みのことで、全てか無か、白か黒かと物事を両極端に考える二分割思考、過去の体験から一足飛びに結論を急ぐ過度の一般化、悪い面だけを見て良い免を評価しない選択的抽象化、何事も「〜すべき」「〜してはならない」と決め付ける教義的思考などを指す。

 村上春樹の短編小説集“レキシントンの幽霊”(文春文庫)のなかに“沈黙”という一編がある。そこに描かれた「人の言いぶんを無批判に受入れて、そのまま信じてしまう連中」こそ、認知の歪みを抱えた人々の姿なのではないだろうか。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間(人の心を巧みに扇動する財欲と名声欲の権化のような人物)の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当りもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任もとりやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。夢の中には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。

(引用終了)
<同書 84ページ(括弧内は引用者による補足)>

以前「自立と共生」の項で、「精神的自立」の大切さについて述べたことがあるけれど、認知の歪み(二分割思考、過度の一般化、選択的抽象化、教義的思考など)は、精神的自立を阻害する。その歪みに付け込む悪意に簡単に踊らされてしまう。そして、本人に悪気がなくとも、間接的に「システム」の増幅を補完することになってしまう。「認知の歪み」の項で紹介した「複眼主義」などによって、そういう「顔なし」にならないための努力をしたいものだ。

 さて、この財欲と名声欲をコントロールできない輩が作りだした「システム」を実際に動かしているのは誰かというと、それは、財欲と名声欲の権化のような人物の後ろに隠れている「官僚」(bureaucrats)と呼ばれる一群である。彼らは「システム」を粛々と運営し、その増幅を図り、それが生み出す財と名声のおこぼれを貰いながら密かに生きている。彼らは国家だけではなく、民営化された機関、理念を失った会社や学校、その他あらゆる惰性に流された組織に忍び込んで来る。立派な建物をシロアリが蝕むように。

 この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」、問題は三つあることが分かる。一つは人の過剰な財欲と名声欲。「五欲について」の項で述べたように、人は誰でも身体の働きとしての「食欲・睡欲・排欲」を持ち、脳の働きとして「財欲と名声欲」を持っていて、「財欲と名声欲」は無限に増殖し得る危険な欲望だ。しかし多くの人は、理性によってそれをコントロールすることができる。人は本来、「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」なのである。こういう「真っ当な人間」が作る組織は健全である。だが一部、財欲と名声欲をコントロールできない輩がいるのが問題の第一。

 そしてもうひとつの問題が、上で述べた認知の歪み。認知の歪みを抱えた人々(顔なし)は、悪気がなくても、財欲と名声欲をコントロールできない輩が作りだした「システム」の自己増幅を助長してしまう。

 そして最後が「官僚」(bureaucrats)と呼ばれるシロアリの群れ。どれも問題なのだが、理性によって財欲と名声欲をコントロールすることと、認知の歪みを正すことを啓蒙してゆけば、時間はかかるかもしれないが、「真っ当な人間」たちを増やすことができる。また、人は誰でも一定期間たてば死んでしまうから、前の二つは困った人たちだけれども、いづれ個体としては死んでしまうから、次の世代に期待することも出来る。しかし最後の問題、官僚主義の問題は、「システム」と共にずっと引き継がれていくから、多少のことでは壊すことができない。むしろストレスを受けると焼け太りする。だから、「真っ当な人間」たちが、それぞれの持ち場で、継続的に気を配って排除しなければならない。

 「神経伝達物質とホルモン」項で、自律神経とホルモン系、免疫系の三つが互いに影響しながら我々の体の恒常性を保っていると述べ、「活性酸素」の項で、体の恒常性が、体内に発生し病や老化を齎す活性酸素を抑制・除去する、と述べたけれど、この社会の「システム」の自己増幅は、身体における「活性酸素」の増殖と同じようなものだ。「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」の問題は、他人事ではなく、我々自身にいつでも忍び寄ってくる病原として捉えるべきなのかもしれない。そうだとすれば、自律神経とホルモン系、免疫系の三つに相当するのが、理性による過剰な財欲と名声欲のコントロール、複眼主義などによる認知の歪みの修正、そして官僚主義の排除なのではないだろうか。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 11:46 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

日本語と社会の同質性

2012年12月11日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本の農業」の項で紹介した神門善久氏は、その著書“日本農業への正しい絶望法”(新潮新書)の中で、日本社会の「同質性の問題」を指摘しておられる。その部分を引用しよう。

(引用開始)

「自由」なはずの今日の日本においても、不愉快な正論を大衆は抹殺しようとする。マスコミと「識者」が事実を捻じ曲げた論陣を張ることでそういう大衆に迎合する。本書では、農業という話題を使って、七十五年前も今も変わらない日本社会の体質を描いた。
 おそらく、日本社会の同質性の高さが、この歪みの元凶だろう。不快な事実から目を背けようとするのは日本人に限ったことではない。しかし、異質性が高く、価値観の異なる隣人に常に晒されている社会では、相互監視の緊張感があり、非生産的な逃避行に対しては隣人が目ざとく咎める。ところが、日本社会は同質性が高いため、まとまって「見なかったことにしよう」という雰囲気を作れば、それが通用してしまう。

(引用終了)
<同書 230−231ページ>

 このブログでは、カテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで、環境に同化しやすい日本語の特色について繰り返し述べてきた。日本語は、母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>との繋がりを生む。<我>と<汝>との繋がり、すなわち「和」を生み出す日本語には異質物を調和させる力があり、それ故に自然環境を守る力が強いのだが、同時にそれは、自然環境に対してだけでなく人為的な組織に対しても同じような力として働く。自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力になってしまう。それがいわゆる「ヨソ者排除」という社会の悪しき風習を助長するのだと思う。

 母音言語の環境依存性については、「母音言語と自他認識」の項で、以下のような循環運動として説明したことがある。

(引用開始)

1.   人の言語野は左脳にある
2.   子供ははじめ右脳経由で言葉を覚える
3.   習熟すると人は左脳(言語野)で言葉を処理するようになる
4.   人の脳の自他認識機能は右脳にある

5.   日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい
6.   英語は子音の比重が大きい

7.   人は発話時に母音を内的に聴く
8.   社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される
9.   母親と社会から日本語(母音語)を聴かされて育つと、母音に習熟し、発話時に母音を左脳で聴くようになる
10.  母親や社会から英語(子音語)を聴かされれて育つと、母音に習熟せず、発話時に母音を右脳で聴き続ける

11.  日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない
12.  欧米人は発話時に自他分離の右脳を刺激する

13.  日本語は容器(空間)の比喩が多く、擬人の比喩が少ない
14.  英語は擬人の比喩が多く、容器(空間)の比喩が少ない

15.  日本語は空間(環境や場)の論理が多く、主体の論理が少ない
16.  英語は主体の論理が多く、空間(環境や場)の論理が少ない

17.  日本語的発想は環境中心で、環境と一体化しやすい
18.  英語的発想は主格中心で、環境と一体化しにくい

19.  日本語に身体性が残り続け、母音の比重が大きくあり続ける
20.  英語は子音の比重が大きくあり続ける

(引用終了)

 このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(Private)」−女性性

といった二項対比を論じているけれど、我々が人為的な環境・組織からの精神的な自立を果たすためには、Aの側の力を意識的に強化していかなければならない筈である。

 以前「五欲について」の項で、脳の働き(大脳新皮質主体の思考)を生産(他人のための行為)に持ちいず、消費(自分のための行為)のみに使っていると、名声欲と財欲とが無限増殖すると述べたけれど、日本語的発想における脳の働きは、どうしても身体の働き(脳幹・大脳旧皮質の思考)に引きずられてしまうので、「公(Public)」の概念をしっかりさせておかないと、生産(他人のための行為)に向かうよりも、消費(自分のための行為)に向かってしまうようだ。戦前までは、よくも悪しくも家制度が「公(Public)」の概念を作っていたのだが、戦後は、父権が喪失し「公(Public)」の概念が希薄になってしまった。「マスコミと「識者」が事実を捻じ曲げた論陣を張って大衆に迎合する」のは、環境依存型の日本語の特質である「ヨソ者排除」意識に加えて、戦後顕著になった「公(Public)」の概念の欠如という面もあると思う。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:12 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

日本の農業

2012年11月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 “日本農業への正しい絶望法”神門善久著(新潮新書)といういささか刺激的なタイトルの本を有意義に感じながら読んだ。本の紹介文をまず引用しよう。

(引用開始)

「有機栽培」「規制緩和」「企業の参入」等のキーワードをちりばめて、マスコミ、識者が持て囃す「農業ブーム」は虚妄に満ちている。日本農業は、良い農産物を作る魂を失い、宣伝と演出で誤魔化すハリボテ農業になりつつあるのだから。JAや農水省を悪者にしても事態は解決しない。農家、農地、消費者の惨状に正しく絶望する。そこからしか農業再生はありえないのだ。徹底したリアリズムに基づく激烈なる日本農業論。

(引用終了)
<同書カバー裏より>

ということで、この本は日本の農業の問題点を率直に抉り出す優れた研究である。

 このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それらを牽引するのは、フレキシブルで判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると主張している。

 戦後の高度成長時代を支えてきたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織によって可能となった大量生産・輸送・消費システムだったが、高齢化が進む今の日本はすでに安定成長時代に入っている。当然のことながら、これまでと同じ産業システムでは立ち行かない。

 勿論これからも大量生産が日本から無くなることないだろうが、新しい価値や文化を育むのは、多品種少量生産の方に違いない。「近代家族」の崩壊、「新しい家族の枠組み」の必要性、いま世界規模で起こっている「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)も、日本の多品種少量生産への追い風になるだろう。

 詳細は本書をお読みいただきたいが、神門氏はこの本の中で、日本農業の本来の強みである「技能集約型農業」の復活を主張しておられる。技能集約型農業は、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術という四つの産業システムに適合するだけでなく、まさに地域に密着したスモールビジネスであり、これからの日本を牽引すべき職業であると云えるだろう。

 神門氏はまた、「技能集約型農業」による雇用について次のように述べる。

(引用開始)

 かつての高度経済成長期の工業化の局面では、人口が都市に集中し、大量消費・大量生産を進めることで経済成長を遂げた。しかし、脱工業化時代の今日にあっては、首都圏一極集中をあらため、地方文化を育てて日本社会を多様化する方が有利だ。脱工業化時代では、ソフトの開発能力が国力の浮沈の鍵を握る。ソフト開発では画一的発想の打破という創造的破壊が不可欠であり、そのためには、つねにさまざまな価値観や文化を社会に共存させておく必要がある。農作業のあり方は地域の気象や地形を色濃く反映するため、農業者は地域への意識が強くなりがちで、地域社会の担い手としても好適だ。したがって、技能集約型農業による農村雇用の創出は、農業のみならず、国内の文化の多様性を通じて、脱工業化時代の日本経済全般の活性化に役立つ。

(引用終了)
<同書 103−104ページより>

ということで、これは、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える「流域思想」とも親和性が強い。

 だが一方、先日「新しい家族の枠組み」の項で、

(引用開始)

 日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。

(引用終了)

と述べたように、今の日本人のメンタリティーや思考法が、このまま変わることがなければ、「技能集約型農業」も絵に描いた餅でしかない。

 今の日本を覆う、農地利用の乱れ、消費者の舌の劣化、放射能災害の放置、うわべだけの農業ブーム、ヨソ者排除という社会の悪しき風習などなど、真の「技能集約型農業」の確立には、まだ幾多のハードルを乗り越えなければならない。それを踏まえて、神門氏はこの本を“日本農業への正しい絶望法”というタイトルにされたのだろう。まず必要なのは日本人の「精神的自立」なのである。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 16:16 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

新しい家族の枠組み

2012年10月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 近代家族を超える新しい家族の枠組みについて考えてみよう。新しい枠組みの方向性については、これまで「“シェア”という考え方」、「“シェア”という考えかた II」の項で、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といったパラダイム・シフトとして提示してきたが、これをベースに、「近代家族」の特徴、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

に倣ってそれを列記してみる。

 高度成長経済が終わり、不況で外で安定的収入を得ることでかろうじて保たれてきた父権が崩れ、妻が働きに出ることで性別分業が意味を失い、高齢化社会によって子供中心主義が崩壊したこれからの家族は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったものになるのではないだろうか。

 日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。「近代家族 II」の項の最後に、

(引用開始)

 「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代、街づくりにおいても、地域単位の新しい枠組みと、官僚まかせ主義からの脱却が求められている。

(引用終了)

と書いたけれど、この「新しい家族の枠組み」をベースに、商店街や街づくり、食生活や住宅などについて考えてゆこうではないか。新しいスモールビジネスの種もいろいろと見つかると思う。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:01 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

近代家族 III

2012年10月02日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回、前々回と、「近代家族」の限界とそれに代わる新しい枠組みの必要性について、主に街づくりの観点からみてきたが、このことを食生活について見たのが、“日本のリアル”養老孟司著(PHP新書)という本の第一章である。この本は、

(引用開始)

「本当の仕事」をしている4人と考える。
「家族の絆」の実状 岩村楊子
耕さない田んぼ 岩澤信夫
ダム、震災、牡蠣(かき) 畠山重篤
森林を合理的に救う 鋸谷(おがや)茂

(引用終了)
<同書 帯の紹介文より>

ということで、養老氏とそれぞれの人との対談集であり、そのうちの第一章が、岩村楊子氏との対談「現代人の日常には、現実がない」である。

 岩村氏には、“変わる家族 変わる食卓”(勁草書房、中公文庫)などの著書があり、今の日本家族の平均的な食生活の実態はそれらの本に詳しい。岩村氏は対談で次のように述べる。

(引用開始)

 十数年調査してきて、やはり家族がそれぞれますます「自分」を大切にし、個を優先するようになっていると感じています。食卓にもそれははっきりと表れていて、家族が家にいても同時に食卓に着かず、たとえ一緒に食卓を囲んでも違うものを食べる「バラバラ食」、さらには一日三食も崩れて、みんな自分のペースで好きな時間に勝手に食べる「勝手食い」も増えています。「バラバラ食」や「勝手食い」の家では、親は子供が何を食べたのかも知らなかったり、無関心になっている。

(引用終了)
<同書 19ページ>

前回も引用した「近代家族」の特徴は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったことである。岩村氏の調査は、これらの限界をよく示している。養老氏は、日本社会について次にように述べる。

(引用開始)

 そもそも、高度成長期に若い世代の多くが地方から東京に出てきたのは、「絆」というややこしい人間関係を断ち切るためでもありました。
 戦後、民法改正で家制度がなくなりましたが、その影響が残っていたときは、人々はまだ理屈抜きで故郷と結びついていました。(中略)
 ところが、今ではお盆や正月に帰る故郷がない人が増えています。それはどういうことかというと、結局のところ、日本人は戦後、絆をお金に変えてきたんですね。
 昔は、仕事もしないでブラブラしている人間が親戚にいても、みんなで助け合ってなんとか食わせていました。それが今では、親戚を頼れなくなったので、それぞれが保険に入ったり、行政の福祉サービスを受けたり、あるいは生活保護を受けるしかなくなっています。
 そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考えかたでやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのかわからない人は多いはずなんです。

(引用終了)
<同書 23−24ページ>

養老氏の言葉は、日本の近代家族が初めから内包していた問題点をよく言い表している。日本人の思考法の基には勿論「日本語」がある。日本語については、このブログでもカテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで論じているので参照していただきたい。

 この本は、岩村氏の他、不耕起栽培の岩澤信夫氏、「鉄と海と山の話」の項でも紹介した畠山重篤氏、森と木の研究所代表鋸谷茂氏との対談を収める。養老氏は岩澤氏との対談の中で、最近人々が自然と触れなくなったとし、

(引用開始)

 僕はずっと前から「参勤交代を復活させるべき。都会の人は、たとえば一年のうち三ヶ月は田舎で暮らす、という制度を作ったらどうか」と主張してきました。
 都会は、食料や木材などあらゆるものを供給する田舎がなければ成り立ちません。それはちょうど、身体がなければ頭が成り立たないのと同じことです。しかし頭はそうは考えたがりません。だから、身体という自然を使うことを覚え、外の自然に触れる機会をつくることが大切なんです。

(引用終了)
<同書 90ページ>

と述べておられる。

 近代家族を超えた新しい枠組みの必要性は、街づくりばかりではなく、食生活や、そのほかの日常生活を含む、今の日本社会のあり方全体についていえるのである。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:15 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

五欲について

2012年07月09日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「複眼主義とは何か」、「行動の契機」の両項において、複眼主義の考え方について整理してきた。そして、複眼主義には「脳と身体」、「都市と自然」、「生産と消費」という三つの系があり、この三つは互いに関係し合っていることを論じてきた。今回は、応用問題として、五欲(食・睡・排・名声・財)について「複眼主義」に拠って考えてみたい。

 欲望の充足とは、そもそも「自分のための行為」である。従って、五欲は、

I   生産−交感神経優位−理性
II  消費−副交感神経優位−感性

という「生産と消費」の系でいうところのIIの側に属する。そして、複眼主義でいえば、人は自分のために生まれるのではなく、社会のために生まれてくるわけだから、欲望の充足は、Iの「生産」(他人のための行為)の糧となるはずである。

 それでは、五欲(食・睡・排・名声・財)を「脳と身体」の系から見てみよう。するとどういうことが言えるだろうか。五欲における前の三つ(食・睡・排)は、人だけでなく動物にも備わる「自然」な欲望である。従って、

a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(public)」
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(private)」

という「脳と身体」の系でいえばbに属する。

 一方、後の二つ(名声・財)は、大脳新皮質が発達した人間だけに備わる欲望である。従って、「脳と身体」の系でいえばaに属する。

 そもそも後者(名声・財)は、前者(食・睡・排)の身体的欲望を、人の脳が肥大化させたものである。人は、大脳新皮質を進化させて、道具を作り、計画を練り、通貨を発明し、前者(食・睡・排)の欲望をより効果的に満たす方法をいろいろと編み出してきた。その過程で生まれたのが後者(名声・財)なのである。

 前者(食・睡・排)は、人や動物を問わず須らく身体時間(t = life)に従って自然に生起・消滅する。しかし、人が大脳新皮質を進化させて獲得した後者(名声・財)は、人の脳の時間(t = 0)によってのみ制御されるので、理性を用いて意識的に抑えないと、果てし無く増殖する性質を帯びている(脳の時間については「アフォーダンスについて」の項を参照のこと)。

 「生産と消費」の系でみたように、本来「理性」は主に生産(他人のための行為)に用いられる。だから人は理性を用いて後者(名声欲と財欲)の無限増殖を抑えなければならない。しかし理性を欲望の抑制に使わず、その充足方向にのみ使っていると、後者(名声・財)は無限に増殖し、やがて人は脳と身体とのバランスを欠いた状態に陥ってしまう。

 「水の力」の項で紹介した“脳の方程式+α ぷらす・あるふぁ”中田力著(紀伊国屋書店)によると、ヒトとは本来、「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」(同書113ページ)であるという。しかし、理性を欲望充足にのみ用いていると、名声欲と財欲とが果てし無く増殖し、ヒトは「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」となってしまうのである。

 「都市と自然」という二項対比は、「脳と身体」の集合であるから、「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多く住む社会は、「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い社会」となる。

 脳は、身体的欲望を肥大させて名声欲と財欲とを生み出し、同時に、金利という都市の時間(t = interest)を編み出した。「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」が多く住む社会においては、都市の時間(t = interest)は効率の良い秩序を生み出すだろう。しかし、「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多い社会では、富の偏在が加速し、秩序が乱れ、やがて全体の活力が衰えていくだろう。だから名声欲と財欲の二つからなる「greed(貪欲)」は、「都市」の宿痾と言われるのである。

 脳と身体とのバランスが崩れていると、生産と消費のバランスも乱れてくる。「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多い社会では、生産性が低下する。名声欲と財欲とに訴える消費財(商品)が増え、生産の多様性も失われる。こうして、生産と消費の面からも、名声欲と財欲の増殖は社会の活力を衰えさせる。

 以上、五欲について、複眼主義に拠って考えてきたが、この「名声欲と財欲の無限増殖」と同じような話を、どこかで聞いたことがあるのではないだろうか。そう、癌細胞の増殖だ。成長や活力を生むための細胞分裂が、健康のバランスを欠いたために、そのまま止まらなくなる。癌細胞の増殖が止まらないと個体はやがて死に至る。名声欲と財欲の無限増殖によって、癌の増殖と同じようなことが、脳と身体、都市と自然、生産と消費の各系で起こるわけだ。

 さて、この「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多い社会とは、戦後の高度成長とその後のバブル経済を引きずった今の日本社会の姿と重って見えないだろうか。複眼主義によって、「脳と身体」、「都市と自然」、「生産と消費」のメカニズムを理解し、これからの社会をより豊かなものにしていこうではないか。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:23 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

複眼主義とは何か

2012年06月26日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここのところ「自分でよく考えるということ」や「精神的自立の必要性」の項において、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(public)」
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(private)」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を見、偏ることなく物事を考えるにはAとB両方のバランスが大切であると繰り返し述べてきた。私はこれを「複眼主義」と名付け、これまでも「複眼でものを見る必要性」や「複眼主義のすすめ」、「南船北馬」といった各項で論を拡げてきた。今回はこの「複眼主義」とは何かについて、もう一度考え方を整理してみたい。

 複眼主義の第一は、脳と身体、都市と自然といった二項対比や双極性の特質を、的確に抽出することである。例えば、脳と身体という対比において、その重要な特質は、「思考における脳と身体性の違い」にあるという点にまず気づかなければ何事も始まらない。この点に気がつけば、頭脳には大脳新皮質と脳幹・大脳旧皮質という異なる部位があり、大脳新皮質が主に論理的な思考を司り、脳幹・大脳旧皮質が身体的な機能と密接に関連していることを学び、脳の働き=大脳新皮質主体の思考、身体の働き=脳幹・大脳旧皮質の思考、といった特質の抽出が可能となる。

 複眼主義の第二は、そういった二項対比や双極性を踏まえた上で、どちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践することである。例えば、脳の働きと身体の働きとのバランスの取れた考え方とは、ある物事に対して、理詰めに考えることと身体で感じることの両方を実践し、全体を網羅的に把握・体感することである。どこかの山に登る場合を考えてみよう。理詰めに考えるとは、事前によく地図を調べ、天候を調べ、服装などを整えることである。そして身体で感じることとは、当日の体調をよく勘案して、決して無理をせず、五感を研ぎ澄まして山道を歩くことである。そうすれば、山登りを十全に楽しむことが出来るだろう。

 ものごとを両眼で見ると奥行きがみえる。単眼だと表面しか見えない。そこで、二項対比や双極性を踏まえた上で、どちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践することを、「複眼主義」と名付けたのである。

 「自由意志の役割」の項で「世界はすべて互いに関連しあったプロセスで成り立っている」というホワイトヘッドの考え方を紹介したが、複眼主義の第三は、いろいろな二項対比や双極性を、様々な角度から関連付け、発展させていくことである。例えば、男女という二項対比を考えた場合、ホルモンの違い、脳構造の違いなどから、男性性=空間重視・所有原理、女性性=時間重視・関係原理といった特質が抽出できる。次はそれを他の二項対比、例えば脳と身体の対比と関連づけてみるわけだ。そうすると、脳の働き=大脳新皮質主体の思考=男性性=空間重視・所有原理といった一連の繋がり見えてくる。そして、身体の働き=脳幹・大脳旧皮質の思考=女性性=時間重視・関係原理というもう一方の繋がりも見えてくる。

 尚、ここでいう男性性・女性性とは、人(男女)がそれぞれ一定の比率で持っている認識の形式を指す。男性、女性そのもののことではない。男は生得的に男性性比率が高いけれど、女性性も持っている。女は生得的に女性性比率が高いけれど、男性性も持つ(詳しくは「男性性と女性性」、「男性性と女性性 II」の項を参照のこと)。

 ここまで関連づけたところで、偏らないバランスの取れた考え方を実践するために、再び山に登る場合を考えてみよう。理詰めに考えるとは、事前によく地図を調べ、天候を調べ、服装などを整えることであるが、さらに男性性を発揮して、空間を重視した山の位置関係を把握し、当日の経費の概算や山登りチームの編成などを考えておく。当日は、体調をよく勘案して、決して無理をせず、女性性を発揮してその時その時の楽しみを見つけながら互いに協力し合い、五感を研ぎ澄まして山道を歩く。そうすれば、山登りをさらに楽しむことが出来るはずだ。

 こうして、いろいろな二項対比や双極性を、様々な角度から関連付け、発展させていったもの(の一部)が、冒頭のAとBの対比なのである。

 社会には、バランスの偏った考え方がいまだ多く蔓延っている。例えば、考え方が男性性に偏りすぎると、社会は公私にわたり規律が強まり、成果主義が求められるようになる。一方、考え方が女性性に偏りすぎると、何でも馴れ合い・もたれ合いになってしまう。複眼主義の考え方は、都市空間における公(public)の事項(政治・経済)は、規律と成果主義で考え陋習を廃し、地縁・血縁・家族などの私(private)な事項(文化・宗教)は、それとはまったく別の共生・伝統主義で考えるということである。そしてその二つの理念の上に立脚し、さらに社会の発展を考えるということなのである。「都市の中のムラ」の項で論じたのは、そういう社会のあり方を探る試みの一端である。

 さてここまで「複眼主義」について説明してきたが、改めて纏めておこう。

(一)二項対比や双極性の特質を、的確に抽出すること
(二)どちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践すること
(三)特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと

いかがだろう、複眼主義のエッセンスをご理解いただけただろうか。以前「マップラバーとは」の項で紹介した“世界は分けてもわからない”福岡伸一著(講談社現代新書)の最後に、「世界は分けないことにはわららない。しかし、世界は分けてもわからない」という著者の言葉がある。この言葉は複眼主義にも当て嵌まると思う。世界は、二項対比や双極性を抽出し、関連付けなければわからない。しかし、分けて関連付けるだけで、バランスの取れた考え方を実践しなければ、認識がさらに次の段階に発展していくことは望めないのである。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:37 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

精神的自立の重要性

2012年05月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自分でよく考えるということ」の項で、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き―「公(public)」
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き―「私(private)」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を見、偏ることなく物事を考えるには、AとB両方のバランスが大切であると述べた。

 このバランスを個人から社会全体に拡大して見ると、大量生産・消費社会は「所有原理」が支配的だから、公私に亘って「大脳新皮質主体の思考」(脳の働き)が優位に立つ社会だと思われる。戦後日本の高度成長期は、確かに、経済的・空間的拡張に価値を置いた“モノ”中心の思考が横溢した時代だった。それに対して、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)を迎えた今の社会は、「関係原理」に基づく「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」(身体の働き)が優位に立つ時代といえるだろう。

 しかし一方、前項で、


(引用開始)

 ただし同じ「大脳新皮質主体の思考」でも、(「母音言語と自他認識」の項で述べたように)日本語においては、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分に働かないという仮説がある。

(引用終了)

と書いたように、日本社会においては、「大脳新皮質主体の思考」が優位に立つ場合でも、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分働かないようだ。その為だろうか、「環境中心」の「日本語的発想」が政治やビジネスの世界にも侵食し、せっかく良いチャンスだった高度成長時代、社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が充分定着しなかった。

 そして、本来公平であらねばならない「公(public)」の領域(政治やビジネスの世界)においても、個人の精神的自立が充分果たされぬまま、もたれあいや妬みあい、私有意識や非公開主義などが高度に構造化してしまった。今後も社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が根付かないままだと、それは是正されないことになる。

 さらにモノコト・シフトの時代は、社会全体として「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」が優位に立つ時代である。従って、今のうちに「公(public)」の領域に「主格中心」=「英語的発想」をしっかり根付かせておかないと、社会全体がますます「私(private)」に偏っていってしまう危険性があると思う。

 昨今の日本の政治やビジネスの世界を見るに、この傾向(もたれあいや非公開主義の高度な構造化)がさらに強まっているような気がするが、みなさんはどのようにお感じになっておられるだろう。「“シェア”という考え方」及び「“シェア”という考え方 II」の項で、本来「大脳新皮質主体の思考」が持つべき「精神的自立」の必要性をことさら強調したのは、そういう理由からなのである。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:34 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

“シェア”という考え方 II 

2011年12月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回に続いて“シェア”について考えてみたい。前回見たように、日本語の特質であるところの「環境依存性」は、日本人に「世間」という人間関係の強い縛りを強いてきた。以前「男性性と女性性 II」の項で、

(引用開始)

男性の「所有原理」と「空間重視」、女性の「関係原理」と「時間(リアルタイム)重視」は、男性性と女性性それぞれの欲望形式と認識形式とを言い表したキーワードなのだろう。

(引用終了)

と述べ、社会にとって大切なのは、男性性と女性性とのバランスであると書いたことがあるが、「世間」という人間関係の縛りは、社会に女性性の「関係原理」の方が過剰に働く結果だと思われる。

 一方、この国の支配者たちは、人々の間に「世間」という縛りがあるのを良いことにして、昔の律令制からいまの官僚制に至るまで、男性性特有の「所有原理」をもって上から人々を押さえつけてきた。それは、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

にある左側の古いパラダイムと重なる。

 以上の二点をまとめると、日本はこれまで、社会や人々は「世間」という関係原理、政治やビジネスは「律令」という所有原理によって形作られてきた訳だ。

 地球規模でエネルギー循環が求められるようになり、日本が安定成長時代に入った今、われわれの社会は必然的に変わらざるを得ない。どう変わらなければならないかというと、人々は「世間」に縛られすぎることなく「所有原理」を自覚して精神的に自立すること、政治やビジネスは、女性性に基づく「関係原理」を大胆に取り入れること、この二つである。

 以前これと似たことを「複眼でものを見る必要性」の項で、小沢一郎氏の「民主党代表選挙投票前決意表明文」(2010年9月)の一部を引用しながら考察したことがある。ここで、小沢氏の表明文の一部をもう一度引用しよう。

(引用開始)

 私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意思を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。

(引用終了)
<9/14/2010 MSN産経ニュースより>

個人の精神的自立と、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。ここには所有原理と関係原理、男性性と女性性との両立の重要性が見事に表明されていると思う。最後に、三浦氏が指摘した、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

といったパラダイム項目に、

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

という私なりの項目を四つ付け加えておきたい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:53 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

“わたし”とは何か

2011年07月05日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「継承の文化」の項で、「あなた」という二人称について、

(引用開始)

人間の存在は、環境(社会)がなければ積極的な意味を持たない。社会という環境を、「他者」という味気ないことばでではなく、この「あなた」ということばで表現し、日本人にとって「あなた」とは何か、を問う力作が“「あなた」の哲学”村瀬学著(講談社現代新書)である。(中略)村瀬氏は、日本人が「あなた」と呼びかける先は、目の前の相手だけではなく、親子三代を含む「三世代存在」、さらには日本の社会と文化を継承する「至高的存在」であるという。

(引用終了)

と書き、「継承の文化」について探ったけれど、今回は、あなたと呼びかける「わたし」の側についていろいろと考えてみたい。

 まず、“<心>はからだの外にある” 河野哲也著(NHKブックス)から引用しよう。

(引用開始)

 身体は環境のなかを動き回り、光や空気の振動などの媒質を利用しながら、環境中の事物や事象と接してゆく。知覚者である動物が知らなければならないのは、自分を取り囲んでいる生態学的環境がどのようになっているかである。とするならば、知覚が生じる舞台は、やはり知覚者の頭のなかではなく、知覚者を取り囲んだ環境においてなのである。知覚された世界とは、まさに知覚者の周囲にある環境そのものなのである。(中略)自己とは、あくまで環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用のなかで成立する徹底的に身体的な存在である。自己は身体的存在として世界の一部をなしており、自己と世界とは内在的意識と物理的世界という二つの異質な領域をなしているのではない。

(引用終了)
<同書41−44ページより>

河野氏はここで、ギブソンのアフォーダンス理論をベースに<心>の哲学を論じておられる。環境から切り離された「わたし」は存在し得ないというわけだ。

 以前「心と脳と社会の関係」の項で、月本洋氏の“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)を参照しながら、

(引用開始)

 月本氏はさらに、心というものはこのような脳の働きであり、それは自己完結的なものではなく、複数の人間の間に作用する相互作用であるとする。氏は、物質間に重力が相互作用を及ぼしているように、人間には心が相互作用を及ぼしているという。

(引用終了)

と書き、次の「社会の力」の項でさらに、

(引用開始)

 特に「社会」の及ぼす力は重要だ。「心と脳と社会の関係」でみたように、社会とは自分と他人とを心的相互作用で結ぶ集合である。それは言葉だけでなく、振る舞いや姿勢、顔の表情などの身体運動、拍手や発声、身体を育む食、身体を守る衣服や家、自然の風景、場としての学校や職場、街並みなど、「身体」に係る全てのものが含まれる。勿論身体を規制するところの慣習、制度としての政治や法律なども含まれる。これら社会の有り様全てが、日々われわれ日本人の脳神経回路の組織化に寄与しているのである。

(引用終了)

と続けたけれど、人の脳と身体にとって、環境(社会)の及ぼす力は大きい。月本氏の「身体運動意味論」は、河野氏のアフォーダンス理論における自己のあり方を、脳科学の面から補強する。

 身体は環境(社会)の中にある。「わたし」は身体を通して環境の意味を発見し、それを現在進行形の頭の中に記憶として蓄える。環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。身体は環境の中にあり続けるから、このサイクルに終わりは無い。

 環境のアフォーダンスについては、“包まれるヒト <環境>の存在論”佐々木正人編(岩波書店)や、“環境のオントロジー”河野哲也・染谷昌義・齋藤暢人編著(春秋社)などの本にさらに詳しい。

 ところで、河野氏や月本氏が使う<心>という単語は、英語で言うところの”Mind”と”Heart”とを併せた意味合いが強く、「“しくみ”と“かたち”」の項で見た三木成夫氏の“こころ”=内臓系とは違うようだ。

 さて、環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。ここまではいいだろう。では「わたし」にとって、「わたし」自身は「至高的存在」になり得るだろうか。

 勿論「わたし」の身体は自己意識のなかにあるだろう。五感の源である身体は、「わたし」にとって大切なものだ。「至高的存在」としてのあなたを発見するのも「わたし」の五感に違いない。しかしそれは「非至高的(日常的)存在」の一部に過ぎないのではないか。

 逆に、「わたし」に呼びかけられたところのあなたの立場に立ってこの問題を考えてみよう。あなたの中にも、「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」がある。けれど、そのなかに「わたし」に呼びかけられたところの「至高的存在」としてのあなたはあるだろうか。おそらくそれは無いのではないか。

 自分のことを「至高的存在」と思う人はあまりいないと思う。そう思うのはギリシャ神話に出てくる自己愛の強いナルキッソスぐらいだろう。彼も一時そう思っただけで、年を重ねればいつまでも自分を「至高的存在」と思っているわけにはいかなかった筈だ。しかし幸か不幸か彼は水面に映る自分の姿に口づけをしようとしてそのまま落ちて水死してしまった。

 どういうことか整理してみよう。ここで「わたし」を甲、「わたし」に呼びかけられた「至高的存在」としてのあなたを乙として考えてみる。

 甲の中にあるのは、乙を含む「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。乙の中にあるのは、別の「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。ただし、乙の中にある「至高的存在」に甲が含まれていれば、甲と乙はいわゆる「相思相愛」ということになる。

 人は無数の「非至高的(日常的)存在」に取り囲まれて、生き抜くためにいつも四苦八苦している。お金のことや身体の健康のこと、その身に降りかかるあらゆる不条理。しかしそのなかでも人は、日々「至高的存在」に近づこうと努力する。その姿が、別の人から「至高的存在」に見えることがある。“見る者”と“見られる者”とは別々の存在だ。

 「わたし」とは、社会の「至高的存在」を映し出す鏡のようなものではないだろうか。多くの人が慕う「至高的存在」は皆の鏡に映るので、逆に「彼は人の鑑だ」などと云われる。西郷隆盛のことを「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く鼓のような男」というのは、西郷という「至高的存在」に対する、「わたし」の鏡の性能に関する話なのである。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:09 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

南船北馬

2011年05月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日の東日本大地震で、書棚の本が多少崩れ落ちたのだが、片付けるとき一冊の本が目に止まった。“老子”金谷治著(講談社学術文庫)である。パラパラと頁を開いてみると、昔読んだので忘れていたが、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」「其の雄を知りて、其の雌を守る」など、このブログで書いていることの参考になる内容があった。

 これはまた後日じっくり読むことにして、とりあえず老子や荘子の思想を復習してみようと思って手にしたのが、これまた本棚に奥に埋もれていた“飲食男女”福永光司・河合隼雄〔聞き手〕共著(朝日出版社)である。

 この本は、臨床心理学者の河合隼雄氏が、中国哲学者の福永光司氏に「老荘思想」についていろいろと聞く内容となっている。目次を見ると、

第一章 道とはなにか
第二章 命の哲学――生老病死と飲食男女
第三章 万物斉同という思想
第四章 日本に受け継がれた老荘思想
第五章 今こそ求められる老荘的発想
第六章 老荘思想入門

ということで、本のサブタイトルには“老荘思想入門”とある。尚、著者の河合氏も福永氏も共に既に故人である。

 この本の中で、福永氏が繰り返し述べているのが、老荘思想の「道教」と、孔孟思想の「儒教」の違いをわかりやすく示す「船の文化と馬の文化」という言葉である。詳しくは同書をご覧戴きたいが、船の文化とは、中国大陸南の老荘思想を象徴し、馬の文化とは、大陸北の儒教を象徴する。

 船の文化の特徴は、天候や気候に左右される「混沌」を是とし、社会としては横に結ぶ連帯を尊ぶ。馬の文化の特徴は、天候や気候に左右されない「秩序」を是とし、社会としては縦に貫く支配構造を尊ぶ。

 「南船北馬」とは、広辞苑によると、“(中国の南方は川が多いから船で行き、北方は陸地続きだから馬を馳せる意)絶えず各地にせわしく旅行すること”とあるけれど、このブログでは、南の船の文化を象徴する「道教」と、北の馬の文化を象徴する「儒教」とを対照的に示す言葉として、今回のタイトルに使用した。

 さて、前回「体壁系と内臓系」の項でみた“胎児の世界”三木成夫著(中公新書)21ページに不思議な記号が書き込まれている。南北の方位を示すローマ字「N」の矢印だ。そのページには、無脊椎動物と脊椎動物の、内臓系と体壁系の横断面略図があるのだが、北の方位に体壁系が、そして南の方位に内蔵系が描かれている。

 この謎解きは、三木氏の“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)に書かれている。135ページから166ページに亘る「南と北の生物学」の部分だ。その初めの文章を引用しよう。

(引用開始)

 先年「胎児の世界」を描いた挿絵の一つに、人体の横断面を略図で載せたが、その時、図の片隅に、かなり唐突な感じの記号を一個入れておいた。およそ解剖図とは無縁の、それは地図に出てくる、あの「北方」を表すローマ字「N」の矢印だった。当時としては、ただ漠然と一部の読者を想定しての、それは、ささやかな問題提起だったのである。(中略)
 
(引用終了)
<同書137ページより>

詳しくは同書をお読みいただきたいが、ここで三木氏は、体壁系の中枢部が『脳髄』であり、“あたま”の世界は「冷」=「北」で形象され、内蔵系の中枢が『心臓』と『子宮』であり、“こころ”の世界は「温」=「南」で形象される、と述べておられる。北の「体壁王国」と南の「内臓王国」というわけだ。

 この「冷の体壁系」と「温の内臓系」という対照性は、上でみた福永氏のいう「北の馬の文化」と「南の船の文化」と整合するように思われる。“あたま”=「秩序」と“こころ”=「混沌」といった対照性である。すなわち、

A 体壁系、冷たい“あたま”
a 馬の文化、縦に貫く支配

B 内臓系、温かい“こころ”
b 船の文化、横に結ぶ連帯

ということで、これをさらに先日「複眼主義のすすめ」の項で示した「公(public)」と「私(private)」の対比に当て嵌めると、

「公(public)」     「私(private)」

脳(t = 0)        身体(t = life)
都市(t = interest)   自然(t = ∞)
自立           共生

解糖系          ミトコンドリア系
男性性          女性性
体壁系          内臓系

北             南
馬の文化        船の文化
孔孟思想        老荘思想

となる。都市の孔孟思想、自然の老荘思想という対比構造は昔からよく云われている。

 それにしても、中国の古い思想と現代の生命形態学とが、こうも見事に(「公(public)」と「私(private)」の対比軸上で)シンクロするとは驚きである。「複眼主義」の奥の深さを示していると思う。そういえば“胎児の世界”(中公新書)にも、「北」と「南」の双極を示唆する挿話として、「月の砂漠」と「椰子の実」という二つの歌曲への言及があった。

 “飲食男女”で語られた内容は、南船北馬以外にも、老荘思想の日本仏教への影響、神道と道教など、奥が深く興味は尽きない。これからも歴史や宗教についていろいろと勉強していきたい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:01 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

複眼主義のすすめ

2011年04月04日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「男性性と女性性」「男性性と女性性 II」の項における指摘を纏めると、以下のような対比になる。

Α 男性性=「空間重視」「所有原理」
α 共通時間軸の設定→都市の時間(t = interest)

Β 女性性=「時間重視」「関係原理」
β 身体時間(t = life)の尊重→自然の時間(t = ∞)

 ここで「マップラバーとは」の項における議論を思い起こして欲しい。その部分を以下再録する。

(引用開始)

 これまで「公と私論」などで展開してきたホームズとワトソンの対比に、このマップラバーとマップヘイターを追加すると、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」−マップラバー

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」−マップヘイター

となる。そもそも身体は(六十兆個の)細胞からできているのだから、細胞が究極のマップヘイターだとする福岡氏の説は、この対比とうまく整合するわけだ。ちなみに、ここでいう「脳の働き」とは、大脳新皮質主体の思考であり、「身体の働き」とは、身体機能を司る脳幹・大脳旧皮質主体の思考のことであるから念のため(詳しくは「脳と身体」の項を参照のこと)。

(引用終了)

 マップラバーとは、地図大好き人間のことで、男性性と女性性の議論で言えば空間重視の「男性性」と重なる。マップヘイターとは、地図嫌い人間のことで、時間重視の「女性性」と重なる。すなわち上のΑ/αとΒ/βの対比と、このA/aとB/bの対比とが重なってくるわけだ。

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」−マップラバー
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」
α 共通時間軸の設定→都市の時間(t = interest)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」−マップヘイター
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」
β 身体時間(t = life)の尊重→自然の時間(t = ∞)

 以上を踏まえ、これまでこのブログで見てきた様々な対比のうち、「公(public)と私(private)」という対比の軸上に乗る、主な項目を並べてみるとしよう。

「公(public)」    「私(private)」

脳(t = 0)       身体(t = life)
都市(t = interest)  自然(t = ∞)
自立          共生

主格中心        環境中心
広場           縁側
マップラバー      マップヘイター

Resource Planning   Process Technology
効率           効用
子音語         母音語

解糖系         ミトコンドリア系
男性性         女性性

他にもあるだろうが、主なものはこのようなところだろうか。いかがだろう。社会や街づくり、ビジネスや言語システム、人体のエネルギー生成といった複数の系が、「公(public)」と「私(private)」という対比軸の上に、ある広がりを持って集約される様が見て取れるだろう。各対比の詳細については、カテゴリなどから過去の記事を辿ってみて欲しい。

 さて、このブログで繰り返し述べてきたことは、これらの対比を認識した上で、尚且つしっかりと両者のバランスを取ることであった。二つの対比を踏まえて、さらにその先へ進もうということであった。

 二項の対比や双極性を単に相反するものとしてではなく、違いがさらにその系を次の階層へ発展させる形式として捉えること。「3の構造」でいえば、弁証法のテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ、武道の守・破・離といった、発展性を内包したシステムとして考えること。プラグマチズムの創始者・チャールズ・パース流に言えば、連続する推論の実践としてみること。そして自分をその系から外さないこと。その態度をここで「複眼主義」と呼びたい。

 複眼主義とは、単にある系の対比とそのバランスを考えるということばかりではなく、複数の系の間の相関も踏まえながら、物事を多面的に考えるということでもある。これからも、新たな対比や、系の相関、そしてそのバランスなどについて考えていきたい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 11:41 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

複眼でものを見る必要性

2011年01月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「継承の文化」「継承の文化 II」の両項で、街づくりにおける「過去と現在との繋がり」の重要性について考察してきたが、街づくりには、過去の歴史と現在だけではなく、外部からの新しい息吹も欠かせない。新しい息吹がないと、共同体は縮小均衡に向かってしまう。街づくりにおいて、「新しいものをどう取り入れるか」ということは、「過去と現在との繋がり」と同じように重要な課題である。

 日本では明治以降、海外の新しいものを取り入れるかたちで近代化が進んだ。しかし、それまで長い間「お上」に頼ってきた人々は、海外のものを取り入れる際にも、自己判断によってではなく、「官僚」に頼ることでその支配を受け入れてきた。

 「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項で述べたように、近代化社会とは、利害関係に基づいて人為的につくられる共同体であるから、本来個人の自立を前提とする。そうしないと、単に弱いものが虐げられるゆがんだ社会になってしまう。しかし日本人は、海外の新しい息吹を取り入れるに当たり、それまでの「お上に頼る方法」で進めてきてしまった。

 官僚主導で都市化が進められ、効率が優先され、土地が分割され、戦争が行われ、世代が分断され、弱いものが虐げられてきた。その過程で、もともと日本人が持っていた「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」も忘れられてしまった。敗戦後、大量生産・消費時代に至って都市化はさらに進み、生産と消費の現場が分断され、流域両端の「奥」が忘れられると同時に、街の中間領域である「外」も多くはシャッター通りに変貌してしまった。その結果が、「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」という日本社会の典型的な姿なのではないだろうか。

 外部から入る新しいものは玉石混交で商売も絡むから、「奥」を大切に守るためには、騙されないようにしなければならない。「騙されるな!」の項で述べたように、騙されないためには自分で物事の本質を見抜くことが必要で、そのためには「精神的な自立」がまず必要となる。自分の考えを主張しながら、最終的には合議で決着するという精神が必要になってくるのである。

 昔は外部から入る新しいものも限られていたので、人里は単なる「奥」の延長でよかったかもしれない。いまでもそういう土地は(島嶼部などに)残っているかもしれない。しかし新しいものの流入が増えたところは、両端の「奥」を守るためにこそ、個人の精神的自立と合議的精神が必要になってくるのだ。

 このことを、小沢一郎氏の「民主党代表選挙投票前決意表明文」(去年9月)の一部を引用しながら考察してみたい。

(引用開始)

 私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意思を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。

(引用終了)
<9/14/2010 MSN産経ニュースより>

この文の前半は、「流域両端の奥」をしっかりと踏まえた街づくりが述べられている。そして後半(“その一方で”以降)で、精神的自立を踏まえた合議的精神が述べられる。「三世代存在としてのあなた」を共有した上で、さらに共同体に対してはっきりとものを言うことが求められている。

 「流域両端の奥」は、「至高としてのあなた」というプライベートな感性によって深化し、「精神的自立を踏まえた合議的精神」は、「公」としての自立した個人を前提とする。このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を見てきたけれど、「流域両端の奥」=「私(private)」、「合議的精神」=「公(public)」として捉えれば、この両方を上手くバランスさせていく必要性、いわば「複眼でものを見る必要性」があるということだと思う。それは「広場の思想と縁側の思想」の両立と考えても良い。「効率と効用」、「脳と身体」、「都市と自然」のバランスと云っても良いだろう。

 このことは、長く律令国家の「お上」に頼ってきた日本人にとっては、かなり高度な技といわなければならない。とくに「言葉について」などで考察してきた日本語の特質を考えると、簡単なことではないだろう。これまで日本人が長く「お上」に頼ってきた資質は、「階層性の生物学」の項で述べた、日本人の階層性への無頓着な態度とも関連しているに違いない。しかし小沢一郎氏の夢であるところの「流域両端の奥」と「合議的精神」とを両立させるためには、どうしても、複眼視点で行動するという、複雑な手続きが必要になってくるのである。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:55 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

日本人と身体性

2010年08月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「高度な経営」の項で、

(引用開始)

「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の表出形態の奥にあるエッセンスは、環境を中心に据えた身の処し方、つまりは「身体性」そのものであると考えることができる。

(引用終了)

と書いたけれど、日本人の「身体性」について、最近面白い本を読んだので紹介したい。“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”中野明著(新潮選書)がそれである。本カバーの紹介文を引用しよう。

(引用開始)

150年前の「混浴図」が現代日本人に奇異に見えるのはなぜか?
「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」。幕末、訪日した欧米人は公衆浴場が混浴なのに驚いた。当時の裸体感がいまと異なっていたのだ。しかし、次第に日本人は裸を人目に晒すことを不道徳と考えるようになり、私的な空間以外では肉体を隠すようになった。その間、日本人の心の中で性的関心がどのように変化していったかを明らかにする。

(引用終了)

日本語に備わった「環境を守る力」は、話し手の意識を、環境と一体化させる傾向がある。自分の身体も自然環境の一部であってみれば、特に近代以前、日本において裸は互いに隠しあう筋合いのものではなかったのだろう。

 中野氏によると、明治以降日本人が裸を隠すようになったのは、政府が施行した法律や、ライフスタイルの変化などによるという。

 日本語の「環境を守る力」が、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」として表出することは、これまで「迷惑とお互いさま」の項などでみてきた。

 公衆浴場において「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」昔の日本の状況は、「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項で、

(引用開始)

 本来、ゲマインシャフトは「私(private)」の領域に属し、ゲゼルシャフトは「公(public)」の領域に属す。しかし、日本では二つの違いの意識が希薄である。

(引用終了)

と書いたことと呼応しているに違いない。日本語における「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」と「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の二つは同根の蔓であり、二つ合わせて日本人の「私(private)」と「公(public)」に対する意識を曖昧にさせるわけだ。


 「私(private)と公(public)の意識の曖昧性」はまた、以前「広場の思想と縁側の思想」で紹介した、“「縁側」の思想”ジェフリー・ムーサス著(祥伝社)の次のような分析とも呼応しているだろう。

(引用開始)

 町家を改造していく中で、私が最も関心を持ったのは、日本建築における「あいまいな場所」です。例えば、縁側は屋根があるので「外」ではありませんが、壁がないので完全な「内」でもありません。この「あいまいさ」こそが、日本建築における独自の要素、コンセプトであると私は考えています。(同書11ページ)

 日本の伝統的な家屋は外と内の境界がはっきりしておらず、外から内、内から外へと段階的に連なっているようです。第二章でお話したように、町家の構造にはとりわけその特徴が顕著で、層(layer)になっていて、外でもなく内でもない中間的なあいまいな場所があります。
 このような場所として、日本人にとって最もイメージしやすいのが「縁側」です。縁側は家の外でしょうか?それとも家の内でしょうか?(同書107ページ)

(引用終了)

 中野氏は、“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”のなかで、

(引用開始)

 歴史学者牧原憲夫氏は、昔の家屋について「庶民にとって家の内と外は画然とは分化しておらず、路地は土地の延長でしかなかった」という。そして裸体を取り締まるということは、「家屋と路地が渾然一体だった地域社会から、路上を“公共”の空間として剥離すること」と指摘する。さらに、「道路はもはや住民のものではなく、“私生活”はしだいに家のなかに閉じ込められていく」。これも裸体を極度に隠したひとつの副作用と考えてよい。

(引用終了)
<同書225−226ページ>

と指摘しておられる。日本人の身体性、私(private)と公(public)、家屋の内と外などについて、田舎の温泉にでも浸かりながら、ゆっくり考えることにしようか。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 15:24 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

夜間飛行について

運営者茂木賛の写真
スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)主宰の茂木賛です。世の中には間違った常識がいっぱい転がっています。「夜間飛行」は、私が本当だと思うことを世の常識にとらわれずに書いていきます。共感していただけることなどありましたら、どうぞお気軽にコメントをお寄せください。

Facebookページ:SMR
Twitter:@sanmotegi


アーカイブ

スモールビジネス・サポートセンターのバナー

スモールビジネス・サポートセンター

スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)は、茂木賛が主宰する、自分の力でスモールビジネスを立ち上げたい人の為の支援サービスです。

茂木賛の小説

僕のH2O

大学生の勉が始めた「まだ名前のついていないこと」って何?

Kindleストア
パブーストア

茂木賛の世界

茂木賛が代表取締役を務めるサンモテギ・リサーチ・インク(通称SMR)が提供する電子書籍コンテンツ・サイト(無償)。
茂木賛が自ら書き下ろす「オリジナル作品集」、古今東西の優れた短編小説を掲載する「短編小説館」、の二つから構成されています。

サンモテギ・リサーチ・インク

Copyright © San Motegi Research Inc. All rights reserved.
Powered by さくらのブログ