夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


“シェア”という考え方 II 

2011年12月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回に続いて“シェア”について考えてみたい。前回見たように、日本語の特質であるところの「環境依存性」は、日本人に「世間」という人間関係の強い縛りを強いてきた。以前「男性性と女性性 II」の項で、

(引用開始)

男性の「所有原理」と「空間重視」、女性の「関係原理」と「時間(リアルタイム)重視」は、男性性と女性性それぞれの欲望形式と認識形式とを言い表したキーワードなのだろう。

(引用終了)

と述べ、社会にとって大切なのは、男性性と女性性とのバランスであると書いたことがあるが、「世間」という人間関係の縛りは、社会に女性性の「関係原理」の方が過剰に働く結果だと思われる。

 一方、この国の支配者たちは、人々の間に「世間」という縛りがあるのを良いことにして、昔の律令制からいまの官僚制に至るまで、男性性特有の「所有原理」をもって上から人々を押さえつけてきた。それは、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

にある左側の古いパラダイムと重なる。

 以上の二点をまとめると、日本はこれまで、社会や人々は「世間」という関係原理、政治やビジネスは「律令」という所有原理によって形作られてきた訳だ。

 地球規模でエネルギー循環が求められるようになり、日本が安定成長時代に入った今、われわれの社会は必然的に変わらざるを得ない。どう変わらなければならないかというと、人々は「世間」に縛られすぎることなく「所有原理」を自覚して精神的に自立すること、政治やビジネスは、女性性に基づく「関係原理」を大胆に取り入れること、この二つである。

 以前これと似たことを「複眼でものを見る必要性」の項で、小沢一郎氏の「民主党代表選挙投票前決意表明文」(2010年9月)の一部を引用しながら考察したことがある。ここで、小沢氏の表明文の一部をもう一度引用しよう。

(引用開始)

 私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意思を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。

(引用終了)
<9/14/2010 MSN産経ニュースより>

個人の精神的自立と、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。ここには所有原理と関係原理、男性性と女性性との両立の重要性が見事に表明されていると思う。最後に、三浦氏が指摘した、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

といったパラダイム項目に、

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

という私なりの項目を四つ付け加えておきたい。

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“わたし”とは何か

2011年07月05日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「継承の文化」の項で、「あなた」という二人称について、

(引用開始)

人間の存在は、環境(社会)がなければ積極的な意味を持たない。社会という環境を、「他者」という味気ないことばでではなく、この「あなた」ということばで表現し、日本人にとって「あなた」とは何か、を問う力作が“「あなた」の哲学”村瀬学著(講談社現代新書)である。(中略)村瀬氏は、日本人が「あなた」と呼びかける先は、目の前の相手だけではなく、親子三代を含む「三世代存在」、さらには日本の社会と文化を継承する「至高的存在」であるという。

(引用終了)

と書き、「継承の文化」について探ったけれど、今回は、あなたと呼びかける「わたし」の側についていろいろと考えてみたい。

 まず、“<心>はからだの外にある” 河野哲也著(NHKブックス)から引用しよう。

(引用開始)

 身体は環境のなかを動き回り、光や空気の振動などの媒質を利用しながら、環境中の事物や事象と接してゆく。知覚者である動物が知らなければならないのは、自分を取り囲んでいる生態学的環境がどのようになっているかである。とするならば、知覚が生じる舞台は、やはり知覚者の頭のなかではなく、知覚者を取り囲んだ環境においてなのである。知覚された世界とは、まさに知覚者の周囲にある環境そのものなのである。(中略)自己とは、あくまで環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用のなかで成立する徹底的に身体的な存在である。自己は身体的存在として世界の一部をなしており、自己と世界とは内在的意識と物理的世界という二つの異質な領域をなしているのではない。

(引用終了)
<同書41−44ページより>

河野氏はここで、ギブソンのアフォーダンス理論をベースに<心>の哲学を論じておられる。環境から切り離された「わたし」は存在し得ないというわけだ。

 以前「心と脳と社会の関係」の項で、月本洋氏の“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)を参照しながら、

(引用開始)

 月本氏はさらに、心というものはこのような脳の働きであり、それは自己完結的なものではなく、複数の人間の間に作用する相互作用であるとする。氏は、物質間に重力が相互作用を及ぼしているように、人間には心が相互作用を及ぼしているという。

(引用終了)

と書き、次の「社会の力」の項でさらに、

(引用開始)

 特に「社会」の及ぼす力は重要だ。「心と脳と社会の関係」でみたように、社会とは自分と他人とを心的相互作用で結ぶ集合である。それは言葉だけでなく、振る舞いや姿勢、顔の表情などの身体運動、拍手や発声、身体を育む食、身体を守る衣服や家、自然の風景、場としての学校や職場、街並みなど、「身体」に係る全てのものが含まれる。勿論身体を規制するところの慣習、制度としての政治や法律なども含まれる。これら社会の有り様全てが、日々われわれ日本人の脳神経回路の組織化に寄与しているのである。

(引用終了)

と続けたけれど、人の脳と身体にとって、環境(社会)の及ぼす力は大きい。月本氏の「身体運動意味論」は、河野氏のアフォーダンス理論における自己のあり方を、脳科学の面から補強する。

 身体は環境(社会)の中にある。「わたし」は身体を通して環境の意味を発見し、それを現在進行形の頭の中に記憶として蓄える。環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。身体は環境の中にあり続けるから、このサイクルに終わりは無い。

 環境のアフォーダンスについては、“包まれるヒト <環境>の存在論”佐々木正人編(岩波書店)や、“環境のオントロジー”河野哲也・染谷昌義・齋藤暢人編著(春秋社)などの本にさらに詳しい。

 ところで、河野氏や月本氏が使う<心>という単語は、英語で言うところの”Mind”と”Heart”とを併せた意味合いが強く、「“しくみ”と“かたち”」の項で見た三木成夫氏の“こころ”=内臓系とは違うようだ。

 さて、環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。ここまではいいだろう。では「わたし」にとって、「わたし」自身は「至高的存在」になり得るだろうか。

 勿論「わたし」の身体は自己意識のなかにあるだろう。五感の源である身体は、「わたし」にとって大切なものだ。「至高的存在」としてのあなたを発見するのも「わたし」の五感に違いない。しかしそれは「非至高的(日常的)存在」の一部に過ぎないのではないか。

 逆に、「わたし」に呼びかけられたところのあなたの立場に立ってこの問題を考えてみよう。あなたの中にも、「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」がある。けれど、そのなかに「わたし」に呼びかけられたところの「至高的存在」としてのあなたはあるだろうか。おそらくそれは無いのではないか。

 自分のことを「至高的存在」と思う人はあまりいないと思う。そう思うのはギリシャ神話に出てくる自己愛の強いナルキッソスぐらいだろう。彼も一時そう思っただけで、年を重ねればいつまでも自分を「至高的存在」と思っているわけにはいかなかった筈だ。しかし幸か不幸か彼は水面に映る自分の姿に口づけをしようとしてそのまま落ちて水死してしまった。

 どういうことか整理してみよう。ここで「わたし」を甲、「わたし」に呼びかけられた「至高的存在」としてのあなたを乙として考えてみる。

 甲の中にあるのは、乙を含む「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。乙の中にあるのは、別の「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。ただし、乙の中にある「至高的存在」に甲が含まれていれば、甲と乙はいわゆる「相思相愛」ということになる。

 人は無数の「非至高的(日常的)存在」に取り囲まれて、生き抜くためにいつも四苦八苦している。お金のことや身体の健康のこと、その身に降りかかるあらゆる不条理。しかしそのなかでも人は、日々「至高的存在」に近づこうと努力する。その姿が、別の人から「至高的存在」に見えることがある。“見る者”と“見られる者”とは別々の存在だ。

 「わたし」とは、社会の「至高的存在」を映し出す鏡のようなものではないだろうか。多くの人が慕う「至高的存在」は皆の鏡に映るので、逆に「彼は人の鑑だ」などと云われる。西郷隆盛のことを「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く鼓のような男」というのは、西郷という「至高的存在」に対する、「わたし」の鏡の性能に関する話なのである。

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南船北馬

2011年05月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日の東日本大地震で、書棚の本が多少崩れ落ちたのだが、片付けるとき一冊の本が目に止まった。“老子”金谷治著(講談社学術文庫)である。パラパラと頁を開いてみると、昔読んだので忘れていたが、「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」「其の雄を知りて、其の雌を守る」など、このブログで書いていることの参考になる内容があった。

 これはまた後日じっくり読むことにして、とりあえず老子や荘子の思想を復習してみようと思って手にしたのが、これまた本棚に奥に埋もれていた“飲食男女”福永光司・河合隼雄〔聞き手〕共著(朝日出版社)である。

 この本は、臨床心理学者の河合隼雄氏が、中国哲学者の福永光司氏に「老荘思想」についていろいろと聞く内容となっている。目次を見ると、

第一章 道とはなにか
第二章 命の哲学――生老病死と飲食男女
第三章 万物斉同という思想
第四章 日本に受け継がれた老荘思想
第五章 今こそ求められる老荘的発想
第六章 老荘思想入門

ということで、本のサブタイトルには“老荘思想入門”とある。尚、著者の河合氏も福永氏も共に既に故人である。

 この本の中で、福永氏が繰り返し述べているのが、老荘思想の「道教」と、孔孟思想の「儒教」の違いをわかりやすく示す「船の文化と馬の文化」という言葉である。詳しくは同書をご覧戴きたいが、船の文化とは、中国大陸南の老荘思想を象徴し、馬の文化とは、大陸北の儒教を象徴する。

 船の文化の特徴は、天候や気候に左右される「混沌」を是とし、社会としては横に結ぶ連帯を尊ぶ。馬の文化の特徴は、天候や気候に左右されない「秩序」を是とし、社会としては縦に貫く支配構造を尊ぶ。

 「南船北馬」とは、広辞苑によると、“(中国の南方は川が多いから船で行き、北方は陸地続きだから馬を馳せる意)絶えず各地にせわしく旅行すること”とあるけれど、このブログでは、南の船の文化を象徴する「道教」と、北の馬の文化を象徴する「儒教」とを対照的に示す言葉として、今回のタイトルに使用した。

 さて、前回「体壁系と内臓系」の項でみた“胎児の世界”三木成夫著(中公新書)21ページに不思議な記号が書き込まれている。南北の方位を示すローマ字「N」の矢印だ。そのページには、無脊椎動物と脊椎動物の、内臓系と体壁系の横断面略図があるのだが、北の方位に体壁系が、そして南の方位に内蔵系が描かれている。

 この謎解きは、三木氏の“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)に書かれている。135ページから166ページに亘る「南と北の生物学」の部分だ。その初めの文章を引用しよう。

(引用開始)

 先年「胎児の世界」を描いた挿絵の一つに、人体の横断面を略図で載せたが、その時、図の片隅に、かなり唐突な感じの記号を一個入れておいた。およそ解剖図とは無縁の、それは地図に出てくる、あの「北方」を表すローマ字「N」の矢印だった。当時としては、ただ漠然と一部の読者を想定しての、それは、ささやかな問題提起だったのである。(中略)
 
(引用終了)
<同書137ページより>

詳しくは同書をお読みいただきたいが、ここで三木氏は、体壁系の中枢部が『脳髄』であり、“あたま”の世界は「冷」=「北」で形象され、内蔵系の中枢が『心臓』と『子宮』であり、“こころ”の世界は「温」=「南」で形象される、と述べておられる。北の「体壁王国」と南の「内臓王国」というわけだ。

 この「冷の体壁系」と「温の内臓系」という対照性は、上でみた福永氏のいう「北の馬の文化」と「南の船の文化」と整合するように思われる。“あたま”=「秩序」と“こころ”=「混沌」といった対照性である。すなわち、

A 体壁系、冷たい“あたま”
a 馬の文化、縦に貫く支配

B 内臓系、温かい“こころ”
b 船の文化、横に結ぶ連帯

ということで、これをさらに先日「複眼主義のすすめ」の項で示した「公(public)」と「私(private)」の対比に当て嵌めると、

「公(public)」     「私(private)」

脳(t = 0)        身体(t = life)
都市(t = interest)   自然(t = ∞)
自立           共生

解糖系          ミトコンドリア系
男性性          女性性
体壁系          内臓系

北             南
馬の文化        船の文化
孔孟思想        老荘思想

となる。都市の孔孟思想、自然の老荘思想という対比構造は昔からよく云われている。

 それにしても、中国の古い思想と現代の生命形態学とが、こうも見事に(「公(public)」と「私(private)」の対比軸上で)シンクロするとは驚きである。「複眼主義」の奥の深さを示していると思う。そういえば“胎児の世界”(中公新書)にも、「北」と「南」の双極を示唆する挿話として、「月の砂漠」と「椰子の実」という二つの歌曲への言及があった。

 “飲食男女”で語られた内容は、南船北馬以外にも、老荘思想の日本仏教への影響、神道と道教など、奥が深く興味は尽きない。これからも歴史や宗教についていろいろと勉強していきたい。

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複眼主義のすすめ

2011年04月04日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「男性性と女性性」「男性性と女性性 II」の項における指摘を纏めると、以下のような対比になる。

Α 男性性=「空間重視」「所有原理」
α 共通時間軸の設定→都市の時間(t = interest)

Β 女性性=「時間重視」「関係原理」
β 身体時間(t = life)の尊重→自然の時間(t = ∞)

 ここで「マップラバーとは」の項における議論を思い起こして欲しい。その部分を以下再録する。

(引用開始)

 これまで「公と私論」などで展開してきたホームズとワトソンの対比に、このマップラバーとマップヘイターを追加すると、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」−マップラバー

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」−マップヘイター

となる。そもそも身体は(六十兆個の)細胞からできているのだから、細胞が究極のマップヘイターだとする福岡氏の説は、この対比とうまく整合するわけだ。ちなみに、ここでいう「脳の働き」とは、大脳新皮質主体の思考であり、「身体の働き」とは、身体機能を司る脳幹・大脳旧皮質主体の思考のことであるから念のため(詳しくは「脳と身体」の項を参照のこと)。

(引用終了)

 マップラバーとは、地図大好き人間のことで、男性性と女性性の議論で言えば空間重視の「男性性」と重なる。マップヘイターとは、地図嫌い人間のことで、時間重視の「女性性」と重なる。すなわち上のΑ/αとΒ/βの対比と、このA/aとB/bの対比とが重なってくるわけだ。

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」−マップラバー
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」
α 共通時間軸の設定→都市の時間(t = interest)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」−マップヘイター
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」
β 身体時間(t = life)の尊重→自然の時間(t = ∞)

 以上を踏まえ、これまでこのブログで見てきた様々な対比のうち、「公(public)と私(private)」という対比の軸上に乗る、主な項目を並べてみるとしよう。

「公(public)」    「私(private)」

脳(t = 0)       身体(t = life)
都市(t = interest)  自然(t = ∞)
自立          共生

主格中心        環境中心
広場           縁側
マップラバー      マップヘイター

Resource Planning   Process Technology
効率           効用
子音語         母音語

解糖系         ミトコンドリア系
男性性         女性性

他にもあるだろうが、主なものはこのようなところだろうか。いかがだろう。社会や街づくり、ビジネスや言語システム、人体のエネルギー生成といった複数の系が、「公(public)」と「私(private)」という対比軸の上に、ある広がりを持って集約される様が見て取れるだろう。各対比の詳細については、カテゴリなどから過去の記事を辿ってみて欲しい。

 さて、このブログで繰り返し述べてきたことは、これらの対比を認識した上で、尚且つしっかりと両者のバランスを取ることであった。二つの対比を踏まえて、さらにその先へ進もうということであった。

 二項の対比や双極性を単に相反するものとしてではなく、違いがさらにその系を次の階層へ発展させる形式として捉えること。「3の構造」でいえば、弁証法のテーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼ、武道の守・破・離といった、発展性を内包したシステムとして考えること。プラグマチズムの創始者・チャールズ・パース流に言えば、連続する推論の実践としてみること。そして自分をその系から外さないこと。その態度をここで「複眼主義」と呼びたい。

 複眼主義とは、単にある系の対比とそのバランスを考えるということばかりではなく、複数の系の間の相関も踏まえながら、物事を多面的に考えるということでもある。これからも、新たな対比や、系の相関、そしてそのバランスなどについて考えていきたい。

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複眼でものを見る必要性

2011年01月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「継承の文化」「継承の文化 II」の両項で、街づくりにおける「過去と現在との繋がり」の重要性について考察してきたが、街づくりには、過去の歴史と現在だけではなく、外部からの新しい息吹も欠かせない。新しい息吹がないと、共同体は縮小均衡に向かってしまう。街づくりにおいて、「新しいものをどう取り入れるか」ということは、「過去と現在との繋がり」と同じように重要な課題である。

 日本では明治以降、海外の新しいものを取り入れるかたちで近代化が進んだ。しかし、それまで長い間「お上」に頼ってきた人々は、海外のものを取り入れる際にも、自己判断によってではなく、「官僚」に頼ることでその支配を受け入れてきた。

 「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項で述べたように、近代化社会とは、利害関係に基づいて人為的につくられる共同体であるから、本来個人の自立を前提とする。そうしないと、単に弱いものが虐げられるゆがんだ社会になってしまう。しかし日本人は、海外の新しい息吹を取り入れるに当たり、それまでの「お上に頼る方法」で進めてきてしまった。

 官僚主導で都市化が進められ、効率が優先され、土地が分割され、戦争が行われ、世代が分断され、弱いものが虐げられてきた。その過程で、もともと日本人が持っていた「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」も忘れられてしまった。敗戦後、大量生産・消費時代に至って都市化はさらに進み、生産と消費の現場が分断され、流域両端の「奥」が忘れられると同時に、街の中間領域である「外」も多くはシャッター通りに変貌してしまった。その結果が、「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」という日本社会の典型的な姿なのではないだろうか。

 外部から入る新しいものは玉石混交で商売も絡むから、「奥」を大切に守るためには、騙されないようにしなければならない。「騙されるな!」の項で述べたように、騙されないためには自分で物事の本質を見抜くことが必要で、そのためには「精神的な自立」がまず必要となる。自分の考えを主張しながら、最終的には合議で決着するという精神が必要になってくるのである。

 昔は外部から入る新しいものも限られていたので、人里は単なる「奥」の延長でよかったかもしれない。いまでもそういう土地は(島嶼部などに)残っているかもしれない。しかし新しいものの流入が増えたところは、両端の「奥」を守るためにこそ、個人の精神的自立と合議的精神が必要になってくるのだ。

 このことを、小沢一郎氏の「民主党代表選挙投票前決意表明文」(去年9月)の一部を引用しながら考察してみたい。

(引用開始)

 私には夢があります。役所が企画した、まるで金太郎あめのような町ではなく、地域の特色にあった町作りの中で、お年寄りも小さな子供たちも近所の人も、お互いがきずなで結ばれて助け合う社会。青空や広い海、野山に囲まれた田園と大勢の人たちが集う都市が調和を保ち、どこでも一家だんらんの姿が見られる日本。その一方で個人個人が自らの意思を持ち、諸外国とも堂々と渡り合う自立した国家日本。そのような日本に作り直したいというのが、私の夢であります。

(引用終了)
<9/14/2010 MSN産経ニュースより>

この文の前半は、「流域両端の奥」をしっかりと踏まえた街づくりが述べられている。そして後半(“その一方で”以降)で、精神的自立を踏まえた合議的精神が述べられる。「三世代存在としてのあなた」を共有した上で、さらに共同体に対してはっきりとものを言うことが求められている。

 「流域両端の奥」は、「至高としてのあなた」というプライベートな感性によって深化し、「精神的自立を踏まえた合議的精神」は、「公」としての自立した個人を前提とする。このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を見てきたけれど、「流域両端の奥」=「私(private)」、「合議的精神」=「公(public)」として捉えれば、この両方を上手くバランスさせていく必要性、いわば「複眼でものを見る必要性」があるということだと思う。それは「広場の思想と縁側の思想」の両立と考えても良い。「効率と効用」、「脳と身体」、「都市と自然」のバランスと云っても良いだろう。

 このことは、長く律令国家の「お上」に頼ってきた日本人にとっては、かなり高度な技といわなければならない。とくに「言葉について」などで考察してきた日本語の特質を考えると、簡単なことではないだろう。これまで日本人が長く「お上」に頼ってきた資質は、「階層性の生物学」の項で述べた、日本人の階層性への無頓着な態度とも関連しているに違いない。しかし小沢一郎氏の夢であるところの「流域両端の奥」と「合議的精神」とを両立させるためには、どうしても、複眼視点で行動するという、複雑な手続きが必要になってくるのである。

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日本人と身体性

2010年08月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「高度な経営」の項で、

(引用開始)

「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の表出形態の奥にあるエッセンスは、環境を中心に据えた身の処し方、つまりは「身体性」そのものであると考えることができる。

(引用終了)

と書いたけれど、日本人の「身体性」について、最近面白い本を読んだので紹介したい。“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”中野明著(新潮選書)がそれである。本カバーの紹介文を引用しよう。

(引用開始)

150年前の「混浴図」が現代日本人に奇異に見えるのはなぜか?
「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」。幕末、訪日した欧米人は公衆浴場が混浴なのに驚いた。当時の裸体感がいまと異なっていたのだ。しかし、次第に日本人は裸を人目に晒すことを不道徳と考えるようになり、私的な空間以外では肉体を隠すようになった。その間、日本人の心の中で性的関心がどのように変化していったかを明らかにする。

(引用終了)

日本語に備わった「環境を守る力」は、話し手の意識を、環境と一体化させる傾向がある。自分の身体も自然環境の一部であってみれば、特に近代以前、日本において裸は互いに隠しあう筋合いのものではなかったのだろう。

 中野氏によると、明治以降日本人が裸を隠すようになったのは、政府が施行した法律や、ライフスタイルの変化などによるという。

 日本語の「環境を守る力」が、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」として表出することは、これまで「迷惑とお互いさま」の項などでみてきた。

 公衆浴場において「男女が無分別に入り乱れて、互いの裸体を気にしないでいる」昔の日本の状況は、「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項で、

(引用開始)

 本来、ゲマインシャフトは「私(private)」の領域に属し、ゲゼルシャフトは「公(public)」の領域に属す。しかし、日本では二つの違いの意識が希薄である。

(引用終了)

と書いたことと呼応しているに違いない。日本語における「話し手の意識を環境と一体化させる傾向」と「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の二つは同根の蔓であり、二つ合わせて日本人の「私(private)」と「公(public)」に対する意識を曖昧にさせるわけだ。


 「私(private)と公(public)の意識の曖昧性」はまた、以前「広場の思想と縁側の思想」で紹介した、“「縁側」の思想”ジェフリー・ムーサス著(祥伝社)の次のような分析とも呼応しているだろう。

(引用開始)

 町家を改造していく中で、私が最も関心を持ったのは、日本建築における「あいまいな場所」です。例えば、縁側は屋根があるので「外」ではありませんが、壁がないので完全な「内」でもありません。この「あいまいさ」こそが、日本建築における独自の要素、コンセプトであると私は考えています。(同書11ページ)

 日本の伝統的な家屋は外と内の境界がはっきりしておらず、外から内、内から外へと段階的に連なっているようです。第二章でお話したように、町家の構造にはとりわけその特徴が顕著で、層(layer)になっていて、外でもなく内でもない中間的なあいまいな場所があります。
 このような場所として、日本人にとって最もイメージしやすいのが「縁側」です。縁側は家の外でしょうか?それとも家の内でしょうか?(同書107ページ)

(引用終了)

 中野氏は、“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”のなかで、

(引用開始)

 歴史学者牧原憲夫氏は、昔の家屋について「庶民にとって家の内と外は画然とは分化しておらず、路地は土地の延長でしかなかった」という。そして裸体を取り締まるということは、「家屋と路地が渾然一体だった地域社会から、路上を“公共”の空間として剥離すること」と指摘する。さらに、「道路はもはや住民のものではなく、“私生活”はしだいに家のなかに閉じ込められていく」。これも裸体を極度に隠したひとつの副作用と考えてよい。

(引用終了)
<同書225−226ページ>

と指摘しておられる。日本人の身体性、私(private)と公(public)、家屋の内と外などについて、田舎の温泉にでも浸かりながら、ゆっくり考えることにしようか。

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情報公開

2010年08月18日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項で、

(引用開始)

 本来、ゲマインシャフトは「私(private)」の領域に属し、ゲゼルシャフトは「公(public)」の領域に属す。しかし、日本では二つの違いの意識が希薄である。「先輩と後輩の関係」は、大学や会社だけでなく、官僚や公共団体など、日本の機能組織のいたるところで見られる。

(引用終了)

と書いた。しかし、日本の機能組織(ゲゼルシャフト)におけるこの麗しい人間関係も、組織がきびしい競争に晒されると長くは続かない。個人の権利と義務を明確化し、組織の効率的な運営を図らなければ、組織そのものが生き残れないからだ。

 とはいえ、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」は日本語そのものに根ざしているので、同じ言語を使いながら、個人の権利と義務を明確化し、組織の効率的な運営を図るのは簡単ではない。変革は往々にして上辺を取り繕っただけに終わり、努力は骨抜きにされる。中途半端になされる変革ほど始末が悪いものはない。組織は複雑骨折の様相を呈することになる。昨今、我々の周りには、肥大化した「偽装機能組織」がいたるところに転がっている。

 「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項ではさらに、

(引用開始)

我々は、「自然発生的な組織」=「ゲマインシャフト」と、「人為的な組織」=「ゲゼルシャフト」との違いをしっかりと認識し、そのどちらにも影響を及ぼす日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」に対して、殊の外自覚的でなければならない。

(引用終了)

と書いたけれど、機能組織のリーダーは、特に日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」への対応策を持つことが必要だろう。

 「自立と共生」の項で触れた“空気の研究”(文春文庫)の著者山本七平氏は、その著書の中で、「空気の支配」に対して「水を指す」ことを奨励した。また、“空気は 読まない”(集英社)の著者鎌田實氏は、その本の中で、「空気に流されるな、空気をかきまわせ」と述べておられる。最近、組織の公用語を英語にする会社も増えているという。しかし、機能組織のリーダーにとって、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」に対する最も基本的な策は、「情報公開」ではなかろうか。

 個人の権利と義務を明示した上で、意思決定のプロセスをオープンにすること。組織の構成員に何がどうなっているのかを知らせ、彼らの知識や智恵を活用しながら、組織の効率的な運営を図ること。「情報公開」は、組織メンバーの大脳新皮質を活性化させる。彼らの意識を啓発する。日本語における主体の論理や、「存在としてのbe」への意識を覚醒させる。

 「脳と身体」の項で述べたように、人の集まりであるところの会社も一つの有機体であってみれば、組織には脳と身体機能の両方が必要であり、「容器の比喩と擬人の比喩」などで述べたように、「日本語に身体性が残り続ける」のであれば、「情報公開」によって、組織メンバーの脳機能の活性化を図る必要があるわけだ。組織が競争に打ち勝つには、「情報公開」によって組織メンバーの能力を結集し、その上で、最適戦略を立案することが求められるのである。

 また、企業における「情報公開」の重要性は、以前「リーダーの役割」の項で述べた、

(引用開始)

 情報密度はベキ則分布に従うから、リーダーは社員との情報交換を頻繁に繰り返さなければならない。全体の情報量が多ければ収益のチャンスも増える。

(引用終了)

という指摘とも重なる筈だ。

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上座と下座

2010年08月10日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前々回「ゲマインシャフトとゲゼルシャフト」の項で、

(引用開始)

 「先輩と後輩の関係」維持は、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の典型的な表出形態であろう。

(引用終了)

と書いたけれど、日本の機能組織(ゲゼルシャフト)においては、「先輩と後輩の関係」以外にも、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の表出形態が様々見受けられる。「迷惑をかけない」「空気を読む」「派閥をつくる」「敬語の使用」「上座と下座」「お辞儀」などなど。波風を立てないために「相手にあわせる」というのも、その表出形態一つであろう。以前「迷惑とお互いさま」の項で紹介した、海原純子氏の新聞連載コラムから、別の記事を引用しよう。

(引用開始)

 アメリカと日本の往復で仕事をしていると、ボストンに着いてしばらくの間、そして日本に帰ってからしばらくの間は、何となく調子がヘンである。時差ボケではなく、仕事の流れがスムーズではないのだ。
 この原因は一体何だろう、と考えて気がついた。アメリカにいるとき、周囲のペースにあわせようとすると調子がヘンになり、日本に帰って来て、自分のペースで仕事をすると周囲とぎくしゃくするのである。
 発言も同じ。アメリカの研究室でみなの意見を聞きながら自分の発言のタイミングを探していると、いつの間にか論点がかわってチャンスを逃す。つまり、アメリカでは、自分のペースを守らないと疲れるし、日本にいる時は、相手にあわせることが大事なのだ。(後略)

(引用終了)
<毎日新聞「一日一粒心のサプリ」4/25/2010より>

心療内科医である海原氏の研究機関は、日米とも機能組織(ゲゼルシャフト)の筈なのだが、日本では、地縁組織(ゲマインシャフト)的な「相手にあわせる」対応が求められるという訳だ。

 日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の表出形態は、往々にして「組織内の秩序を乱さないように努力する姿」となり、硬直化した組織では、そういった表出形態のうち、どれか一つでも作法を間違えると仲間から白い目で見られ、それが続くとみんなから爪弾きに会うことになる。

 「組織内の秩序を乱さないように努力する姿」は、ときに滑稽な光景を生み出す。先日都内の電車に乗っていたら、液晶画面でマナー・クイズのようなものをやっていた。そのお題がなんと、エレベーターの中での立つ位置のどこが「上座」でどこが「下座」かを当てる、というものであった。日本においては、エレベーター(機能空間)の中にも「上座と下座」が存在するのである。

 どこの国にもプロトコル(外交儀礼)はある。どこの国の機能組織(ゲゼルシャフト)にも、合理的な配慮に基づくプロトコル的対応はあってしかるべきだ。しかし、エレベーターの中での立つ位置までうるさく言う国はあまりないのではないか。いくらなんでもやりすぎだろう。

 海原氏は日本の機能組織(ゲゼルシャフト)で、「相手にあわせる」こと以外にも、「迷惑をかけない」「空気を読む」「派閥をつくる」「敬語の使用」「上座と下座」「お辞儀」などなど、様々な「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の表出形態に遭遇し、その都度、対応にご苦労されているに違いない。

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ゲマインシャフトとゲゼルシャフト

2010年07月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「迷惑とお互いさま」の項で、日本語の「自然環境を守る力」は、自然環境に対してだけでなく、人為的な組織に対しても同じように働くようだと指摘し、「少数意見」や「ハーモニーとは」などで、その「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」について論じてきたけれど、今回は、「人為的な組織」と「自然発生的な組織」の違いそのものについて考えてみたい。

 ドイツの社会学者フェルディナント・テンニースは、社会組織について、「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」という二つの概念を提起した。ゲマインシャフトとは、地縁・血縁などにより自然発生した社会集団を指し、ゲゼルシャフトとは、利害関係に基づいて人為的に作られた社会組織を指す。テンニースは、人間社会が近代化するとともに、社会組織は「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」へと変遷していくとした。このブログでいう「人為的な組織」は、テンニースの「ゲゼルシャフト」という概念に近く、「自然発生的な組織」は、「ゲマインシャフト」に近いと思う。

 テンニースはさらに、社会組織が「ゲマインシャフト」から「ゲゼルシャフト」へと変遷していく過程で、人間関係そのものは、疎遠になっていくと考えた。社会の機能化に伴って個人の権利と義務が明確化され、それまでのウエットな人間関係は、利害関係に基づくドライなものへと変質するからだ。

 しかし、日本語に備わった「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」は、地縁・血縁などにより自然発生した「ゲマインシャフト」においてのみならず、明治の近代化以降、利害関係に基づいて人為的に作られた「ゲゼルシャフト」においても、それまで同様作動し続ける。

 たとえば、「先輩と後輩の関係」について考えてみよう。どこの国でも、血縁により自然発生した親族内(ゲマインシャフト)において、一族の長老が先輩として敬われ、子供たちが若輩ものとして扱われるのは自然なことであろう。一方、大学や会社などの機能組織(ゲゼルシャフト)においては、個人の権利と義務が明確化され、効率的な運営が図られるのが普通である。

 しかし日本では、大学や会社などにおいても、入学・入社年次によって、あたかも親族内のような「先輩と後輩の関係」が築かれる。先輩は後輩の面倒を見ることが暗黙のうちに了解され、後輩は先輩を立てることが求められる。個人の権利と義務の明確化や、効率的な組織運営は二の次で、組織構成員はひたすらその関係維持に腐心する。「先輩と後輩の関係」維持は、「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」の典型的な表出形態であろう。

 機能組織(ゲゼルシャフト)も一つの有機体であれば、合理性と同時に、人間関係をスムーズに運ぶための工夫も必要である。組織が充分小さく、先輩と後輩との親密性が長く保てるのであれば、「先輩と後輩との関係」維持も良いけれど、機能組織(ゲゼルシャフト)は、あくまでも目標達成の為に(人為的に)作られるもであり、組織運営には、合理性と人間性とのバランスが欠かせない筈だ。

 本来、ゲマインシャフトは「私(private)」の領域に属し、ゲゼルシャフトは「公(public)」の領域に属す。しかし、日本では二つの違いの意識が希薄である。「先輩と後輩の関係」は、大学や会社だけでなく、官僚や公共団体など、日本の機能組織のいたるところで見られる。我々は、「自然発生的な組織」=「ゲマインシャフト」と、「人為的な組織」=「ゲゼルシャフト」との違いをしっかりと認識し、そのどちらにも影響を及ぼす日本語の「自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力」に対して、殊の外自覚的でなければならない。

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自立と共生

2010年02月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」「存在としてのbeについて」「言語技術」と書き綴ってきたのは、「内需主導と環境技術」で述べた、鳩山首相の所信表明演説にある「自立と共生」、特にその「自立」のコンセプトについて、日本語の本質にまで碇を下し「社会の力」の根本から考えてみたかったからだ。「自立」のコンセプトについて考えることは、前回「言語技術」の最後で触れた、「日本の縦型社会の見直し」とも重なる作業になる筈だ。何故ならば、これまでの日本の縦型社会は「自立」を必要としない共同体だったからである。

 結論めいた話の前に、まず去年10月の鳩山首相の所信表明演説から「自立と共生」に関する部分を引用しよう。

(引用開始)

 働くこと、生活の糧を得ることは容易なことではありません。しかし、同時に、働くことによって人を支え、人の役に立つことは、人間にとって大きな喜びとなります。
 私が目指したいのは、人と人が支え合い、役に立ち合う「新しい公共」の概念です。「新しい公共」とは、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという新しい価値観です。(中略)
 新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するというものではありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念を育(はぐく)み発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことが出来るのです。
 私は、国、地方、そして国民が一体となり、すべての人々が互いの存在をかけがえのないものだと感じあえる日本を実現するために、また、一人ひとりが「居場所と出番」を見いだすことのできる「支えあって生きていく日本」を実現するために、その先頭に立って、全力で取り組んでまいります。

(引用終了)
<10/27/09 東京新聞より>

 ここで、私なりに「自立」のコンセプトについて整理する。例の「3の構造」によって「自立」のコンセプトを分析すれば、

1. 身体的自立
2. 精神的自立
3. 経済的自立

の三つに分けることが出来るだろう。定義はそれぞれ、

1. 身体的自立

健康で他人の手を借りずに呼吸、歩行、食事などができること

2. 精神的自立

他人に騙されることなく自分で物事の本質を見抜くことができること

3. 経済的自立

自力で生計が立てられること

といったところだろうか。鳩山首相のいう「自立と共生」の理念を実現させるためには、「教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加して」もらうことが重要で、そのためには、出来るだけ多くの人が経済的に自立している必要がある。

 経済的に自立するためには、親の遺産でもない限り、働かなければならないから、その為にまず身体的に自立していなければならない。また、精神的に自立していなければ、すぐに他人に騙されてしまい、経済的自立を保つことが出来ない。鳩山首相のいう「自立と共生」のためには、出来るだけ多くの人が、

1. 身体的自立
2. 精神的自立
3. 経済的自立

の三つを果たすことが重要なのである。

 しかし一方、皆がみんな経済的自立を果たすことは難しい。だから、まず三つの自立を果たした人たちが、それぞれの地域で1.と2.の自立を果たした人々を支えることが必要になってくる。これが「共生(その一)」である。次に、1.と2.の自立を果たした人たちが、教育を通して1.の身体的自立だけを果たしている人たちを2.の精神的自立に導かなければならない。これが「共生(その二)」である。そして、これらの人たちが力を合わせて1.の身体的自立を果たせなくなった人々を支える。これが「共生(その三)」である。鳩山首相のいう「支えあって生きていく日本」は、これらの活動の総体なのである。

 尚、1.の身体的自立を果たせなくなった人でも、2.の精神的自立さえ果たしていれば、社会に「出番」はある。障害を乗り越え懸命に生きることは、まわりの人々に生きる勇気を与える。そのことだけでも立派な「出番」である。

 これから3.の経済的自立を目指す人は、このブログの「起業論」を初めから順にお読みいただきたい。何かヒントが見つかるかもしれない。安定成長時代と助け合う社会の必要性については「チームプレイ」の項をお読みいただきたい。

 これまでの日本の縦型社会は、人を支えるという役割を、「官」と言われる人たちが担ってきた。その結果、個人の経済的自立は社会にとって必要条件ではなかった。そして精神的自立はむしろ障害であった。「官」が効率よく社会を回していくには税金が必要で、税金を効率よく集めるには、個人は精神的に自立せず騙されやすい方がよい。つまり、身体的自立さえ果たしていれば、あとは「官」がうまく社会をコントロールするというわけだ。日本社会は律令国家時代から一貫して「官」が支配する社会であった。「お上」と呼ばれる人たちが民衆を支配する社会であった。それを鳩山首相は、「民」が互いに支え合う民主社会に変えようというのである。

 この歴史的な偉業(!)を成し遂げるためには、小手先の改革ではすぐに行き詰まってしまうだろう。日本の過去を振り返ってみれば、鳩山首相のいう「自立と共生」がいかに大変なことかが分るはずだ。日本の歴史的・社会学的分析は、“失敗の本質”戸部良一他著(中公文庫)、“空気の研究”山本七平著(文春文庫)などに詳しい。この「自立と共生」がいかに大変かという認識が、「自立」のコンセプトについて、日本語の本質にまで碇を下して「社会の力」の根本から考えてみたかった所以である。

 ここまでの考察で、鳩山首相のいう「自立と共生」を実現させるためには、個人の「精神的自立」が最も大切であることが分った。「経済的自立」は身体的自立と精神的自立がなければ果たせない。「身体的自立」がなくとも精神的自立があれば社会に出番を見つけることが出来る。社会に貢献することが出来る。「精神的自立」さえ果たしていれば、地域社会に必ず自分の「居場所と出番」があるのだ。それでは「精神的自立」と「日本語」との間にどのような関連があるのか。以下見ていこう。

 日本語の本質については、これまで「広場の思想と縁側の思想」の項で、

(引用開始)

 日本語的発想には豊かな自然を守る力はあるけれど、都市計画などを纏める力が足りない。これからの日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、自然(身体)と都市(脳)とのバランスを回復することである。

(引用終了)
<「広場の思想と縁側の思想」より>

という課題を提出し、「容器の比喩と擬人の比喩」などで、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比を見てきた。「精神的自立」とは、他人に騙されることなく自分で物事の本質を見抜くことである。そのためには、自らの立ち位置を主体的にしっかりと把握しなければならない。上の対比でいえば、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

を強化し、まわりの空気や環境に左右されない主体的な自己を確立することなのである。勿論Aばかりだと逆に自然環境を守ることが難しくなる。日本語でともすると疎かになる「主体的な自己」を強化し、その上で、AとBのバランス、身体と脳とのバランスを回復することが、「自立と共生」社会を実現させるための必要条件である。

 ここまで「容器の比喩と擬人の比喩」「容器の比喩と擬人の比喩 II」「存在としてのbeについて」「言語技術」で見てきたのも、AとBのバランス、身体と脳とのバランスを回復することの重要性であった。

 鳩山首相のいう「支えあって生きていく日本」を実現するためには、政府による経済政策だけではなく、我々一人ひとりが言葉の本質にまで碇を下し、曖昧さの無い「主体の論理」を日本語のなかに構築し、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えることが必要とされるのである。最後にもういちど首相の所信表明演説から同箇所を引用しておこう。

(引用開始)

 新たな国づくりは、決して誰かに与えられるものではありません。政治や行政が予算を増やしさえすれば、すべての問題が解決するというものではありません。国民一人ひとりが「自立と共生」の理念を育(はぐく)み発展させてこそ、社会の「絆」を再生し、人と人との信頼関係を取り戻すことが出来るのです。

(引用終了)

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政権交代

2009年07月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 去年の7月「集団の時間」のなかで、

(引用開始)

 さて、社会問題の多くは、この2種類の時間の混同から起こる。たとえば政治と宗教。政治は自然(t = ∞)の時間には関与できないし、逆に宗教は都市 (t = interest)の時間に関与すべきではない。なぜなら、政治とは人が作り出したシステムであり、宗教とは人知を超えた自然の力の別名だからだ。前者は効率が重要であり、後者は効率とは無関係だ。それを混同し、ある政治体制が永遠に続くと幻想したり、逆に宗教が人間社会すべてに超越すると妄想したりするのは間違っている。

(引用終了)

と書いたけれど、あれから一年、自公体制から民主党主導による政権交代が近づいている。好ましいことだと思う。これまで日本では自民党による一党支配が長く続いてきたが、「ある政治体制が永遠に続く」というのは幻想に過ぎない。

 このブログの初回「スモールビジネスの時代」のなかで、

(引用開始)

 最近、品質や安全の問題が頻発し、高度成長時代を支えた大量生産・輸送・消費システムが軋みをみせている。大量生産を可能にしたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織だが、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった、安定成長時代の産業システムを牽引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスなのではないだろうか。

(引用終了)


と書いたけれど、これからの安定成長時代に求められる政治は、「フレキシブルで、判断が早く、地域に密着した」仕組みをベースにしたものでなければならない。中央集権的な官僚主導の政治は、「高度成長時代を支えた大量生産・輸送・消費システム」には効果があったかもしれないが、これからの社会には相応しくないのである。

 政権に就く新しい政治指導者は、情報を公開し、「多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった、安定成長時代の産業システム」を政策の基盤に据え、軸がぶれないように心がけながら、効率の良い国家運営を行なってほしいと思う。

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楕円形と斜線分

2009年05月19日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「公(public)と私(private)」の中で、

(引用開始)

「主格中心」の発想は、知識を蓄積する脳の働きを通して、社会的な「公」の性格を持つ。「環境中心」の発想は、身体の働きを通して、自然的な「私」の性格を持つ。勿論、脳の働きが全て「公」的なもので、「身体」の働きが全て「私」的なものだということではない。脳は、主な働きとして「公」的役割を担い、身体は、主な働きとして「私」的なものだということであるから念のため。「身体」のうちでも「顔」は社会における公的役割を担っているし、「脳」の働きでも「内省」は私的な役割を果たしている。

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

(引用終了)

と書いたけれど、この構造を、楕円形と斜めの線分で下の図のように描くことが出来る。
脳と身体
中央の楕円内部は、個人の「脳と身体」を表している。中心線の左側は「公(public)」の領域、右側は「私(private)」の領域である。基本的に「脳の働き」は左側、「身体の働き」は右側だが、楕円内部の斜線によって、「顔」など身体でも公的役割を担っている部分が「公(public)」の領域に属し(左上)、脳の働きでも「内省」など私的な役割を果たしている部分が「私(private)」の領域に属している(右下)ことを現している。

 また、以前「集団の時間」で考察したように、社会集団において、個人の「脳」と対応するのは「都市」であり、個人の「身体」と対応するのは「自然」であるから、都市と自然の構造も、脳と身体同様、楕円形と斜めの線分で下の図のように描くことが出来る。
都市と自然
中央の楕円内部は、社会集団の「都市と自然」を表している。基本的に「都市の働き」は左側、「自然の働き」は右側だが、楕円内部の斜線によって、「庭園」など都市の機能に組み込まれた自然の一部が「公(public)」の領域に属し(左上)、「廃墟」など自然に還った都市の一部が「私(private)」の領域に属している(右下)ことを現している。

 個人と集団社会の構造をこのように図示することで、これまで「「公(public)と私(private)」「脳と身体」「集団の時間」などで論じてきたポイントが、把握しやすくなったのではないだろうか。

 二つの楕円の相互関係、斜線によって分けられた楕円形内部各領域の意味、全体の構図と時間論との繋がりなどについては、また項を改めて考えてみたい。

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社会の力

2009年04月28日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで、「脳における自他分離と言語処理」の解説も兼ねて、

身体運動意味論
メタファーについて
心と脳と社会の関係

と書き続けてきたがいかがだろう、「脳における自他分離と言語処理」でみた、

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い(文化的特徴)
II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)
III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)
IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

という循環運動(IVから再びIへ)を理解いただけただろうか。念のために、補助線(1)から(5)を加えて、もう一度整理しておこう。

I  日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が多い(文化的特徴)

(1)言語野は左脳にある
(2)社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される

II  日本人は母音を左脳で聴く(身体運動意味論などより)

(3)脳の自他認識機能は右脳にある
(4)人は発話時に母音を内的に聴く
(5)日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない

III 日本語は空間の論理が多く、主体の論理が少ない(脳科学の知見より)

IV 日本語に身体性が残り続ける(社会的特性)

ということである。さらに詳しくは、「日本人の脳に主語はいらない」月本洋著(講談社選書メチエ)をじっくりとお読みいただきたい。

 この論旨の範囲で、日本人の脳と身体のバランスについて考えてみよう。脳と身体、すなわち、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

のバランスを考えていく上で、重要なことは何であろうか。ちなみに「脳と身体」で述べたように、ここでいう「脳」とは「大脳新皮質」を指し、「身体」とは「脳を身体機能のように使う」という意味である。自他分離機能は「大脳新皮質」に含まれる。

 重要なのは、補助線(2)「社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される」という部分だろう。

 特に「社会」の及ぼす力は重要だ。「心と脳と社会の関係」でみたように、社会とは自分と他人とを心的相互作用で結ぶ集合である。それは言葉だけでなく、振る舞いや姿勢、顔の表情などの身体運動、拍手や発声、身体を育む食、身体を守る衣服や家、自然の風景、場としての学校や職場、街並みなど、「身体」に係る全てのものが含まれる。勿論身体を規制するところの慣習、制度としての政治や法律なども含まれる。これら社会の有り様全てが、日々われわれ日本人の脳神経回路の組織化に寄与しているのである。

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広場の思想と縁側の思想

2009年01月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「公(public)と私(private)」のなかで、

「日本社会になぜ公的意識が根付かないのか、日本の都市になぜ広場が無いのか、日本人はなぜユーモアのセンスがないのか、等々の疑問への答えの一部が見えてくる。そもそも日本語的発想は、『公的表現』を構築する力が弱いのだ。」

と書いたが、広場について、「ヨーロッパの都市はなぜ美しいのか」佐野敬彦著(平凡社)から引用してみよう。佐野氏は、大阪芸術大学(環境・建築芸術学)教授で、長くヨーロッパで美術や建築を研究された方である。

「ヨーロッパと日本の都市の風景の違いを考える時、まっさきに浮かんでくるのはヨーロッパの広場の情景であり、反対に日本には広場がないということである。」(同書68ページ)

「広場はギリシャのアゴラやローマのフォールムから始まった。アゴラは政治討議や代表の決定を聞くための民会が行なわれる集会の場であると共に、市場広場であった。フォールムも公共広場と訳されるように政治と商業のための場であった。」(71ページ)

「日本では、例えば東京には広場がない。駅前広場というものがあるが、広場というには名ばかりで、バスやタクシーのターミナルになっている。車のためのものである。都心で見ると、銀座にはもちろん広場がない。新宿の歌舞伎町にはコマ劇場前の小空間があるが、現在ではイベントのための空間となっている。かつてJR新宿駅西口は地下広場といわれ、若者が集まってフォークソングなどを歌ったりしたところだが、通路であるとされて禁止されることとなった。(中略)歴史的に民主政治のなかった日本では市民のための広場はなかった。積極的につくらないようにしてきた。それがいまも続いている。」(83ページ)

「広場の思想」は、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

と対応するのだろう。以前「建築について」で書いたように、都市と建物について語るには、その国の言葉の本質に迫らなければ成らない。日本に「広場」がないのは、誰かが作らないようにしてきたというよりも、「歴史的に民主政治のなかった日本」に、公的表現を構築する言葉(日本語)が充分に育っていないから、誰にも「広場」を作ることが出来ない、と云った方が正確だと思う。

 一方、日本の建築の良さは何処にあるのか。建築家の隈健吾氏はそれを「自然と対話する能力」にあるという。氏の新著「自然な建築」(岩波新書)から引用しよう。

「その意味で、日本の大工は驚くほどラジカルである。しばしば、家を建てるならその場所でとれた木材を使うのが一番よいと語り伝えてきた。機能的にも、見かけも一番しっくりくると伝えた。それを一種の職人の芸談として、神秘化してはいけない。場所に根の生えた生産行為こそが、存在と表象とをひとつにつなぎ直すということを、彼らは直感的に把握していたのである。その方法の現代における可能性を、具体的な場所を通じて、ひとつひとつ探っていくのが、この本の手段である。」(同書16ページ)

隈氏は、新聞に次のように書いておられる。

「自分をとり囲む、自分では手に負えず、コントロールできないものと対話し、とことんつきあっていく能力が残っている状態を『自然』と呼びたい。美しい景色が残っていれば『自然』が残っているわけではない。(中略)日本には幸いにそんな『自然』が残っている事を、なるべく具体的なエピソードとして伝えたくなって、自分でもドキドキしながらこの本を書いた。」(東京新聞12/2008「自著を語る」より)

 さらに、日本の伝統建築に魅せられたアメリカ人建築家で、ご自身も京都の町家に住んでおられるジェフリー・ムーサス氏は、その著書「『縁側』の思想」(祥伝社)の中で、日本建築の象徴として「縁側」について語っている。

「町家を改造していく中で、私が最も関心を持ったのは、日本建築における『あいまいな場所』です。例えば、縁側は屋根があるので『外』ではありませんが、壁がないので完全な『内』でもありません。この『あいまいさ』こそが、日本建築における独自の要素、コンセプトであると私は考えています。」(同書11ページ)

「このように、西洋と日本の建築技術は異なる形で発展していきました。そしてそれは自然に対する接し方にも影響したといえるでしょう。アメリカとヨーロッパでは、壁が外と内の境界を作ったため、住民と自然とを分離してしまい、未知なる自然への恐れや畏怖心を持つことにつながったのです。ハリケーンなどはコントロールできない脅威とし捉えられています。
 ところが、日本人は家に居ながらも自然に接してきたため、長い歳月の中、台風などの自然の猛威を経験しながらそれを受け入れ、豊かな気持ちで暮らす知恵を育んできたようです。生け花から食べ物に至るまで、四季おりおりのを楽しむ日本人の生活習慣が、それを証明しているといえるでしょう。」(106ページ)

「日本の伝統的な家屋は外と内の境界がはっきりしておらず、外から内、内から外へと段階的に連なっているようです。第二章でお話したように、町家の構造にはとりわけその特徴が顕著で、層(layer)になっていて、外でもなく内でもない中間的なあいまいな場所があります。
 このような場所として、日本人にとって最もイメージしやすいのが『縁側』です。縁側は家の外でしょうか?それとも家の内でしょうか?」(107ページ)

いかがだろうか。「縁側の思想」は、

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

と呼応している。日本語的発想には、豊かな自然環境を守る力が育まれているのだ。

 このように、広場の思想と縁側の思想は、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

それぞれから生まれる。従って、個人にとって脳と身体の働きのバランスが大切なように、日本社会にとって大切なのは、日本語のなかに「公的表現」を構築する力を蓄えて、この二つ(広場の思想と縁側の思想)を上手くバランスさせていくことだと思われる。


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<お知らせ>

 アメリカから社会起業家のジム・フラクターマンさんをお呼びした講演会・シンポジウムが、バリアフリー資料リソースセンター(BRC)の主催で、2月に東京と大阪で開かれます。私も参加して逐次通訳のお手伝いをする予定です。興味のある方は是非ご参加ください。


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posted by 茂木賛 at 10:49 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

縦軸と横軸

2008年11月18日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「生産と消費の等価性」などで見てきた「生産と消費論」と、「公(public)と私(private)」などでみてきた「Resource Planning(R.P.)とResource Planning(P.T.)」との相互関係を、ここで一度簡単に整理しておこう。初めての方は、まず以前の関連記事をお読みいただきたい。

 「生産と消費論」では、

I 「生産−理性的−統合中心」
II 「消費−感性的−分散中心」

という対比をみてきた。一方、「R.P.とP.T.」では、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比をみてきた。それぞれ、ビジネスを行っていく上での重要なファクターだった訳だが、前者は主に、商品やサービスに関する議論であり、後者は主に、経営や組織運営に関する話だった。ビジネスを離れて云えば、前者は、個人と集団社会とのつながりに関する考察であり、後者は、個人(あるいは組織)における脳及び身体機能に関する考察だ。

 ここで、前者のつながり(個人と集団)を縦軸に、後者の対比(公と私)を横軸にとり、両軸を中央で交差させると、二つが組み合わさったひとつの図を作ることができる。
c.jpg
 「生産と消費論」は、この図における上下の関係であり、「R.P.とP.T.」は、この図における左右の対比である。「生産」は下から上へのベクトル、「消費」は上から下へのベクトル、「脳」の機能は主に左辺、「身体」の機能は主に右辺の活動、と見ていただければよい。

 「生産と消費論」と「R.P.とP.T.」をこのように(縦軸と横軸によって)繋ぐと、ひとつの図の下に、個人と集団、公と私を四極に配した「人間世界全体」を表示することができる。右上、右下、左下、左上、それぞれの領域が何を意味するのか、今後この図を参考にしながらいろいろなことを見ていこう。

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posted by 茂木賛 at 11:57 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

公(public)と私(private)

2008年10月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「脳と身体」のなかで考察した、「主格中心」=脳の働き、「環境中心」=身体の働きという対比を、さらに「公(public)と私(private)」の観点から追ってみよう。尚、ここでいう「公」とは、私企業なども含む社会一般=公(おおやけ)を意味し、「私」とは、それ以外のプライベート=私事(わたくしごと)を意味している。

A Resource Planning(R.P.)−英語的発想−主格中心
a 脳の働き

B Process Technology(P.T.)−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き

 まずこの図式の意味を今一度整理しておこう。思考の原点に自分という「主格」を置く英語的発想の原動力は、「脳」(特に大脳新皮質)の働きである。一方、思考原点に「環境」を置く日本語的発想の原動力は、「身体」の働きといえる。前者はR.P.的思考に優れ、後者はP.T.的思考に優れている。企業経営には、両者を備えた強い包容力が必要である。

 それでは先に進もう。脳の働きの一つの特徴は、「マイナスの働き」が無いことである。どういうことかと云うと、これまでの人類の歴史は、(失われてしまったものも多いだろうが)誰かの脳に記憶されている。その記憶がコトバによって記録され、共有されることによって、別の誰かが新たな仮説を生む。その仮説が検証され、行動が起こり、それがまた新たな歴史となる。脳の働きはその繰り返しだ。すなわち脳は、(社会にとって)共存・共栄の原理の下にあるといえよう。

 脳は身体の欲望を満たすために自己中心的に振舞うときもある。しかし、「生産が先か消費が先か」で述べたように、人の生きる目的そのものが「生産」(他人のための行為)であってみれば、脳の働きの本質的な役割もまた、社会=公への貢献であると考えて良い筈である。

 積み重ねられた記憶がコトバによって記録され、社会に共有される。知識を蓄積する「脳」の働きは人類の共有財産であり、「公(public)」の性格を持つ。すなわち「主格中心」の発想は、脳の働きを通して、社会的な「公」に属するのだ。いつも引き合いに出す「相棒」でいえば、杉山右京は手柄を独り占めすることがない。彼の頭脳は(警視庁という)「公」のものだからだ。

 一方の「身体」はどうか。「身体」が私的(プライベート)なものであることはいうまでもない。私的な身体は、脳の働きと違っていつも「マイナスの働き」=「死」の可能性に晒されている。身体は(t = life)という寿命をもち、自然界の循環法則に則って、死ぬことによって新しい生命に場所を譲る。「身体」は自然に属している。「環境中心」の発想は、身体の働きを通して、自然的な「私(private)」の性格を持つのである。

 先回「競争か協調か」の中で考察した、「競争を選ぶか協調を選ぶかは、資源全体の多寡・増減に依る」という原則は、企業や組織だけではなく、すでに自然界そのものにあるのかもしれない。

 身体と同じように、自然界そのものも、苛烈な種の生存競争が繰り広げられる一方で、全体として多様性や生態系バランスが保持される。自然界は、資源全体の多寡・増減に応じて、その場その場で競争したり協調したりしながら、全体として大きな循環システムを形作っている。「相棒」でいえば、「体力派」の亀山がいつも捜査一課の伊丹相手に鍔迫り合いと連携プレイとを繰り返すのは自然界の法則に適っているわけだ。

 ここまでを纏めてみよう。「主格中心」の発想は、知識を蓄積する脳の働きを通して、社会的な「公」の性格を持つ。「環境中心」の発想は、身体の働きを通して、自然的な「私」の性格を持つ。勿論、脳の働きが全て「公」的なもので、「身体」の働きが全て「私」的なものだということではない。脳は、主な働きとして「公」的役割を担い、身体は、主な働きとして「私」的なものだということであるから念のため。「身体」のうちでも「顔」は社会における公的役割を担っているし、「脳」の働きでも「内省」は私的な役割を果たしている。

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

という対比・連動から何が見えてくるだろうか。ひとつは、日本社会になぜ公的意識が根付かないのか、日本の都市になぜ広場が無いのか、日本人はなぜユーモアのセンスがないのか、等々の疑問への答えの一部が見えてくる。そもそも日本語的発想は、「公的表現」を構築する力が弱いのだ。

 公的表現の第一歩は、自分というものを冷静に客観視するところから始まるが、日本語における「わたし」という言葉の中には、すでに自分の置かれた立ち位置が相手との私的な関係性として(「おれ」でも「わし」でも「ぼく」でも「あたい」でもないものとして)含まれてしまう。英語における「I(アイ)」が、相手との関係性を持たない「公的な自己」を表現し得るのと事情が違う。

 といってもこれはどちらが良いとか悪いとかという話ではない。日本語的発想には逆に、豊かな自然環境を守る力が育まれていると思う。日本語的発想には日本語的発想の特徴があり、英語的発想には英語的発想の特徴があるということだ。だが、日本語がもうすこし公的表現を構築する力を蓄えれば、日本の社会はもっとバランスの取れたものに成るのではないかと思う。

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posted by 茂木賛 at 10:08 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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