夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


integrityをインストールせよ

2014年12月16日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「国家理念の実現」の項で、そろそろ我々もどのような道筋で合理的なstateをつくるかきちんと話し合うべきだと書いたが、その際に必要なのは、話し合う人たちがintegrityを持っているということだ。

 integrityとは何か。『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)から引用しよう。

(引用開始)

「インテグリティ(integrity)」というのは、アメリカ人が人間を評価する場合の非常に重要な概念で、「インテグレート」とは統合するという意味ですから、直訳すると「人格上の統合性、首尾一貫性」ということになると思います。つまりあっちこっちで言うことを変えない。倫理的な原理原則がしっかりしていて、強いものから言われたからといって自分の立場を変えない。また自分の利益になるからといって、いいかげんなウソをつかない、ポジショントークをしない。
 そうした人間のことを「インテグリティがある人」と言って、人格的に最高の評価をあたえる。「高潔で清廉な人」といったイメージです。一方、「インテグリティがない人」と言われると、それは人格の完全否定になるそうです。ですからこうした状態をただ放置している日本の政治家や官僚たちは、実はアメリカ人の交渉担当者から、心の底から軽蔑されている。そういった証言がいくつもあります。

(引用終了)
<同書 13−14ページより>

ここでいう「こうした状態」とは、沖縄米軍飛行訓練基準が米国内のそれと違っている状態を指す。

 強い国の言うことはなんでも聞き、相手が自国では絶対にできないようなことでも原理原則なく受入れ、その一方で自分たちが本来保護すべき国民の人権は守らない、といった官僚・政治家のことを「インテグリティがない」というわけだ。

 このintegrityという言葉、日本語では「高潔」、「清廉」などと訳されるが、これでは「統合性」のニュアンスが出ない。一体具体的に何が統合されているのか。

 以前『21世紀を生きる学習者のための活動基準』(アメリカ・スクール・ライブラリアン協会編)という本の編集協力(翻訳のお手伝い)をしたことがある。ここで挙げられている学習の基準は大きく分けて、

skills(スキル)
dispositions(資質)
responsibilities(責任)
self-assessment(自己評価)

の四つあり、学生はこれらを学ぶべく様々なカリキュラムをこなす。integrityで思い浮かぶのは、これら四つが高いレベルで統合された人だ。

 四つの基準を高いレベルで統合した人格。これはあくまでも私の言葉解釈だが、integrityを保つには、単に高潔であればよいというものではなく、この四つの面での学習と努力が必要だと思う。

 逆にいうと、人は誰でも学習によってintegrityを持つことが出来るということでもある。高潔を求めて仏門に入る必要があるわけではない。

 上の四つのうち、dispositionsだけはぴったりくる訳語がなくて困った。結局「資質」と訳したのだが、ぴったりこないのは、日本語の「資質」という言葉が、教育によって後天的に高められるというよりも、生得的なニュアンスが強いからだろう。dispositions in action(行動に結びつく資質)ともいい、それは、思考や知的活動を左右する持続的な信念や態度のことで、実際の活動によって評価できるとする。日本では、スキル(技能)、責任、自己評価などは教えるが、この「資質」はあまり教えないのではないだろうか。これが日本人の「公」の弱い理由(の一つ)ではないかと思う。

 integrityは、stateの議論みならず、business全般においても極めて重要だ。スキル、資質、責任、自己評価をバランスよく学び、高いレベルで統合された人格を目指そうではないか。資質の向上については、「自分の殻を破る」の項も参照していただきたい。

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国家理念の実現

2014年12月09日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)という本を読んだ。日本国という非独立国家の法的実態を明らかにした好著である。

 この本には、敗戦占領時代から現在まで、憲法などの法的状況が歴史的・体系的に分るように書いてある。昭和天皇の光と影への言及も良い。詳細は本書をお読みいただきたいが、日本国という「state」の統治に関して、今も憲法の上位に日米地位協定が存在しているという。

 矢部氏はこの本の「あとがき」に、日本の国家権力構造の変遷を次のようにまとめる。

(引用開始)

戦前(昭和初期):天皇+日本軍+内務官僚
戦後@(昭和後期):天皇米軍+財務・経済・外務・法務官僚+自民党
戦後A(平成期):米軍+外務・法務官僚

(引用終了)
<同書 282ページより。枠内文字は太字とした>

 以前「nationとstate」の項で、「nationとは、文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団、すなわち民族や国民を意味し、stateとは、その集団の居場所と機構を意味する」とし、stateは「人々の間で合意された『理念と目的』に基づいて合理的に運営されなければならない」と書いたけれど、通常stateにおいては「憲法」の理念と目的が最上位のものであるから、日本国憲法の上に別のものがあるのであれば、いまの日本国は非合理的に運営されているわけだ。

 それをどのような道筋で合理的なstateにしていくか。今年はスコットランドで英国からの独立を問うた住民投票があり、カタルーニャでスペインからの独立を問うた(非公式の)住民投票があったが、そろそろ日本でもそういう話をnationの側できちんと話し合うべき時代になっていると思う。

 街づくりやビジネスの経営にとっても、人の居場所である「state」側がしっかり合理的に運営されていなければ、その理念の実現に影響が出る。

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べてきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 高齢化、少子化をいち早く迎えた今の日本は、モノコト・シフトの最先端を走っている。時代の最先端をゆく日本のstate(集団の居場所と機構)はどうあるべきか。それを論するには、まずこの本を読み、日本やアメリカの組織や法律についての解像度(理解度)を上げていくことが不可欠だ。その意味で、この本は日本文化を共有するnation側の人々の必読書といえるだろう。

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二つの透明性と複眼主義

2014年07月29日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今回は「虚の透明性」の項で述べた、二つの透明性と複眼主義の対比、

A 「都市」−「脳(大脳新皮質)の働き」−「実の透明性」
B 「自然」−「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」−「虚の透明性」

について話を進めたい。

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 「公(Public)」−男性性−〔所有原理・空間重視〕

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 「私(Private)」−女性性−〔関係原理・時間重視〕

といった対比をもとに、「ヤンキーとオタク」の項で、

ヤンキー文化=女性原理のもとで追求される男性性
オタク文化=男性原理のもとで追及される女性性

という斉藤環氏の優れた分析を援用し、

「出自」→「志向」

A、a系 → B、b系(オタク)
B、b系 → A、a系(ヤンキー)

A、a系 → A、a系(マッチョ)
B、b系 → B、b系(フェミニン)

といった「出自と志向」を分析した。さらに「ヤンキーとオタク II」の項では、建築家隈研吾氏を例に挙げて、

「出自」→「ひねり」→「志向」

A、a系 → B、b系 → A、a系

という複雑なケースにまで話を進めた。

 二つの透明性と複眼主義の(冒頭の)対比は、A、a系の仕事を生業とする建築家でありながら、虚の透明性(B、b系)を大切に考えるようになった隈氏が、「ひねり」を加えたヤンキーであって少しもおかしくないことを示している。いやむしろ、ひねりを加えたヤンキーであるべき必然性がみえてくる、と言うべきかも知れない。

 『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21)で斉藤氏の対談相手として最後に登場する建築家隈研吾氏は、ヤンキーのなかにあるバッドセンス(バッドテイスト)に注目したとして、

(引用開始)

 そういうバッドテイストを自分はどのように建築の中で活(い)かしていけばいいのかをずっと考えていたんです。歌舞伎座をつくりながら、あっ、これがそうなんだをわかった気がしたんです。それは和風の中にあったんですが、これまで和風建築をつくってきた人たちもまた、きわめてヤンキー的だったということに気がつきました(笑)。

(引用終了)
<同書 216ページ>

と語っておられる。

「出自」→「志向」

A、a系 → A、a系(マッチョ)

のままでは、コンクリートのビルは建てられても歌舞伎座は建てられないわけだ。

 隈氏はさらにオタクへの関心を訊ねられ、

(引用開始)

 おたくとヤンキーというのは、ノンヒエラルキーな二〇世紀的工業世界が崩れてきた中で人間が生きていくための二つの道なんだと思います。おたく的な建築ってなんだろうと考えると、思い浮かぶのは妹島和代さんです。彼女はオラオラの逆で、自分はこれまでどんなにひどい目に遭ってきたのかということをいうから、みんな大好きになります。その才能はすごいと思います。プレゼンにおいてもオラオラではない率直さが、逆に希少価値のようなものに感じられ、「この人は信じるに足るかもしれない」と思わせられる素朴さがあるんですね。作るものも、とがっていなくて、ザハの反対です。
斉藤 現代日本においては、ヤンキー的な器の中におたく的なコンテンツが入っている構造ものがヒットするとも言われています。ジブリのアニメなどは、おたくが作ってヤンキーが売っているとも言われてますが、建築家はそれを一人でやらなきゃいけないのかなという気がします。
 実際のところ、建築の世界でもおたくがつくってますね。それでヤンキーがオラオラと説明しているという。ザハ・ハディドの作品でよくできていると思われる建物は、日本人がチーフを務めていたりするんです。オラオラで最後までやるんではなく、最後はオタクが細かく収めていく。そういう補完性が必要な領域なんですね。

(引用終了)
<同書 245−246ページ、フリガナ省略)

と述べておられる。オタク的といわれた妹島和代さんはSANAAで西沢立衛氏と組んで仕事をしているから、オタク的部分とヤンキー的部分とを二人で補完し合いながら作業を進めているのだろう。二人で補完し合うという仕事形態については、このブログでも以前「ホームズとワトソン」や「借りぐらしのArrietty」の項などで論じたことがある。

 さて、このブログでは、21世紀はモノよりもコトを大切に考える「モノコト・シフト」の時代であると繰り返し述べてきた。ここで、二つの透明性を補助線として、モノとコトを複眼主義的に再定義してみると、

A、a系: 世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる
B、b系: 世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる

という大きな絵柄を描くことができそうだ。20世紀はA、a系(実の透明性)が偏重されてきたけれど、複眼主義から見ても、21世紀は、両方のバランスが回復するよう、B、b系(虚の透明性)をより大切にすべき時代だということなのである。

 尚、複眼主義の体系的な理解には、「評論集“複眼主義”について」で紹介した本や、図を多く用いた「複眼主義入門」などをお読みいただければと思う。「複眼主義入門」は、サンモテギ・リサーチ・インクのFacebookページからevernote経由でpdf版を閲覧できる。

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二つの透明性と西欧近代文明

2014年07月22日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「虚の透明性」の項で述べた、二つの透明性と西欧近代文明の話を続けたい。隈研吾氏はその本『僕の場所』(大和書房)のなかで、アメリカを中心とした20世紀の西欧近代建築は、「実の透明性」を追求したが「虚の透明性」はあまり追求しなかったと述べている。その箇所を引用しよう。

(引用開始)

 コルビュジエやミースの建築はヨーロッパ近代という特殊な時代の産物ですが、同時にまたコルビュジエ達の眼は、アメリカという新しい場所、時代を向いていました。モダニズム建築は、20世紀という、アメリカがリードする新たな高度成長の時代のための、便利な建築様式でもあったのです。
 コルビュジエにもミースにも、ヨーロッパの時代が終わり、アメリカの時代が始まろうとしていることがはっきりと見えていました。19世紀的で産業革命的な工業ではなく、大量生産を基本とするアメリカ的な工業が20世紀の覇権を取ることが、彼らにははっきりと見えていたのです。(中略)
 彼ら二人は、「虚の透明性」の表現だけではなく、「実の透明性」の表現にもたけていたので、アメリカでもてはやされたのです。ガラス、細い鉄、薄いコンクリートなどの最先端の工業製品によってもたらされる実際の透明感を、見事に建築デザインへと昇華させたのです。結果として、コルビュジエもミースも、日本を含む新世界で大いにもてはやされ、最終的には20世紀の巨匠という特別な扱いを受けるわけです。(中略)
 コーリン・ロウから「虚の透明性」を教わったせいで、コルビュジエやミースに対する違和感は少し薄れましたが、それで彼らにのめり込んだわけでもありません。彼らの中の「実の透明性」の部分、アメリカ受けを狙った部分、ガラスっぽい部分、コンクリートっぽい部分、鉄っぽい部分を、どうやったら消していけるのだろうか。学生時代の僕はぼんやりとそんなことを考えていました。もちろん、解決策がすぐに思い付くわけでもなく、拒否のもやもやとした気分だけが続いていました。

(引用終了)
<同書 192−194ページ>

「拒否のもやもやとした気分だけが続いていた」隈氏は、その後(本のタイトルからもわかるように)「場所」を大切に考える建築家となった。そのことはこれまで「場所のリノベーション」や「場所の力」の項で述べてきた。「場所」は、「実の透明性」よりも「虚の透明性」の概念と親和性がある。「虚の透明性」は、自分の今の居場所を大切にしなければ見えてこない。

 「21世紀の文明様式」の項で述べたように、「平等志向」と「陋習からの開放」などによって進展したはずの西欧近代文明は、21世紀に至り、バロックを通り越してグロテスクな様相を呈してきた。その理由の一つは、20世紀を牽引したアメリカが、分りにくい「虚の透明性」よりも、分りやすい「実の透明性」を偏重しすぎたせいだと思われる。ガラスや鉄筋コンクリートを使った高層ビルの乱立するニューヨークが、20世紀における「近代=モダン」の中心地となった。実の透明性の偏重、過度の平等志向は、「自由化」の名の下における結果の不平等放置とgreedを生んだのではないか。

 これからは、大量生産されたモノよりも、その場その場で起きる一回性のコトを大切に考える「モノコト・シフト」の時代である。そういう時代には、コトが起こる場所を大切に考える「虚の透明性」という概念が重要性を増してくる筈だ。隈氏の建築が、日本のみならずアメリカやヨーロッパ、中国など世界各地で人気なのは、彼の創り出す「虚の透明性」空間が評価されてに違いない。

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虚の透明性

2014年07月15日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『僕の場所』隈研吾著(大和書房)という本を読んでいたら、「虚の透明性」という言葉があった。レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる絵画や建築を指す言葉らしい。英語では「Phenomenal Transparency」。

 この言葉は、建築史家のコーリン・ロウが『マニエリスムと近代建築』という著書の中で使ったもので、ガラスなどの実の透明性(Literal Transparancy)と対になる概念だという。『僕の場所』から引用しよう。

(引用開始)

 一つはガラスやアクリルのような、実際に透明な素材を使うことによって獲得できる透明性で、彼はそれを「実の透明性」と名付けました。
 もう一つの透明性は、実際には透けていないにもかかわらず、空間構成のトリックによって、幾つかの層(レイヤー)状の空間が重なることで感じられる透明性で、これをロウは「虚の透明性」と名付けました。

(引用終了)
<同書 189ページ>

近代建築の特徴には、

1.実の透明性(Literal Transparancy)

ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な空間

2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)

レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる空間

の二つがあるというわけだ。

 隈氏はこの「虚の透明性」という言葉を、評論家吉田健一が『ヨオロッパの世紀末』の中で使った「近代=モダン」の定義と重ね合わせる。再び『僕の居場所』から。

(引用開始)

 僕は吉田健一から「近代=モダン」というものを教え込まれました。一言で言えば、それは「たそがれとしての近代」です。19世紀を吹き荒れた産業革命と高度成長の嵐の後に来たのが「近代」です。「新しい世界」を作ろうとするユートピア精神が支配した19世紀の後に、「近代=モダン」という成熟した静かな時代が来たというのが、吉田による「近代=モダン」の定義です。

(引用終了)
<同書 188ページ>

隈氏はこの「たそがれとしての近代」を「虚の透明性」と重ね合わせ、

(引用開始)

 「虚の透明性」という概念は、僕にとって腑に落ちるものでした。それは「近代=モダン」という時代の根底にある、重要な概念です。「たそがれ」の時代には、すべてが重なって見えるのです。ロウはその意味で、僕が目指す「たそがれ」の時代の建築の姿を暗示してくれた、大切な恩人です。
 現在の中に過去があり、現在の中に未来がある。自分の中にも他人があり、他人の中にも自分がいる。そのような重層性こそが、「近代=モダン」という「たそがれ」の時代の本質です。(中略)
 過去と現在が重層し、近くと遠くのものが重層する状態こそが、「近代=モダン」という時代のすべての領域に共通する特質なのです。

(引用終了)
<同書 190−191ページ>

と述べる。

 「実の透明性」と「虚の透明性」、近代建築を巡るこの二つの概念の対比は面白い。西欧近代文明の特徴(旗印)には「平等志向」や「陋習からの開放」などあるが、オープンな情報公開を前提とする「平等志向」は実の透明性、自分の居場所から複雑な歴史を見通すことが必要な「陋習からの開放」は、虚の透明性の概念と重なるように思う。

1.実の透明性(Literal Transparancy)

・ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な時空
・平等志向

2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)

・レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる時空
・陋習からの開放

 「実の透明性」は目に見えるので分りやすい。「虚の透明性」はオープンに見通せないので、どちらかというと分りにくい。平等志向は誰にでもわかるが、陋習からの開放は、自分の居場所が分らないと把握できない。陋習という「思考の歪み」に浸っている人には、その陋習自体を客観視できないからだ。

 一方、テーマは違うが、複眼主義でいう「脳の働き」「身体の働き」と、二つの透明性の関連も指摘できそうだ。「公(Public)」の役割を担う「脳の働き」は実の透明性、「私(Private)」で複雑な「身体の働き」は虚の透明性という具合。

A 「都市」−「脳(大脳新皮質)の働き」−「実の透明性」
B 「自然」−「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」−「虚の透明性」

これら二つの透明性と西欧近代文明、複眼主義などについて、さらに項を改めて考えてみたい。

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三つの宿痾

2014年07月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「21世紀の文明様式」の項で、文明を蝕む宿痾として、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

を挙げたけれど、今回はこの三つについて敷衍したい。いろいろと考えてみても、人類にとっての宿痾(治らない病気)は、概ねこの三つに集約されるのではないだろうか。

(1) 人の過剰な財欲と名声欲(greed)

 人には五つの欲望(食欲・睡欲・排欲・財欲・名声欲)があるが、前の三つ(食欲・睡欲・排欲)は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

におけるB、b系に属し、後の二つ(財欲・名声欲)はA、a系に属している。

B、b系の時間は寿命(t = life)によって掣肘されているから、前の三つの欲望はあまり暴走することはない。しかしA、a系の時間は常に現在進行形(t = 0)だから、後者の二つは気をつけていないと果てしなく増殖する。

 この理性の利かなくなった財欲と名声欲のことを、人は昔からgreedと呼んで忌み嫌ってきた。しかしいくら忌み嫌っても増殖するものは増殖する。癌細胞のように。だから健康管理と同じくいつも早め早めに手を打たなければならないわけだ。財欲と名声欲は、(他の三欲と違って)原理的に歯止めが利かない。ここが重要なポイント。

(2) システムとその自己増幅を担う官僚主義(bureaucracy)

 富と名声を手に入れたgreedは、(悪知恵を働かせて)それを自己増幅させるためのシステムを構築する。官僚主義とは新しいことを始めないことである。言われたことだけを言われた通りにやる。その官僚たちがgreedの支配下に入り、システムの自己増幅を担うようになると、社会の自由抑圧はより強化される。そして官僚たちはシステムのおこぼれに与ることでさらに増殖する。まるでシロアリのように。

(3)認知の歪み(cognitive distortions)の放置

 認知や思考は、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種

の影響によって、常に、

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

といった歪みを生ずるリスクを抱えている。歪みを放置しておくと、greedとbureaucracyが支配するシステムに簡単に騙されてしまう。それは周りの真っ当な人たちにとって大変迷惑なことだ。

 また、市井の人びとの犯罪の多くは、この認知や思考の歪みに根ざしている。病気や疲労、五欲、無知や誤解、紛争や宗教、陰性感情の爆発など(からくる認知・思考の歪み)による犯罪である。だから、人は常に歪みを正す努力を続けなければならない。健康のために身体の歪みを正すように。

 以上、一つひとつ見てきたが、この三つは他人事ではなく、我々一人一人の内に棲みついている宿啞である。だれでも、富と名声を得れば嬉しくなってそれを増やそうとし、面倒くさくなれば前と同じ事をやり、どこかに認知や思考の歪みを抱えている。

 冒頭述べたように、人類にとっての宿啞は、概ねこの三つに集約されると思う。さまざまな性悪説や犯罪のルーツ、環境破壊や差別の元を探っていくと、だいたいこの三つに遡ることができる。特に最後の「認知の歪み」の影響範囲は広い。

 人類の宿痾がこの三つに集約されるということは、逆に言えば、この三つさえ上手くコントロールできれば、人類の寿命は今よりももうすこし長くなるということである。カテゴリ「生産と消費論」で縷々述べてきたように、そもそも人は社会のために生まれてくる。本来、ヒトは「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」なのである。この「三つの宿痾」をうまく掣肘して、これからの文明様式を、生き生きとしたアルカイック・クラシック段階に戻したいものだ。それが出来なければ、(今の西欧近代文明の影響範囲は地球規模だから)この星(地球)は早々に滅びるだろう。

 尚今回のテーマは、以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項などでも述べたことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。

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21世紀の文明様式

2014年07月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「志向の様式」の項で、あらゆる時空の変化は、

アルカイック:初歩的で、古拙的。
クラシック:円熟して、古典的。
マニエリスム:形式的で、技巧的。
バロック:歪んだ真珠のようなスタイル。
グロテスク:異様で、怪奇的。

といった流れに沿って発展・終結するとし、「志向」(人が追及する認識と欲望の形式)も外からの刺激がないと、最後はグロテスクなものになってしまうと書いたけれど、「志向」の集積である「文明」もまた、同じ運命の下にある。

 20世紀半ばに円熟し古典期を迎えた西欧近代文明は、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

という三つの宿痾によって、環境破壊と貧富格差が増大し、21世紀初頭において一部はすでにグロテスクの段階に達している。

 文明の終焉はこれまでにもあったが、西欧近代文明の影響範囲は地球規模だから、このままにしておくと地球そのものが滅んでしまう。日本も明治以降、西欧近代文明の一翼を担ってきた。近代日本語をつくり、議会制民主政治を目指し、要素還元主義科学を応用して便利な道具や機器を造り、それを世界に普及させてきた。だから我々にも、西欧近代文明に刺激を与えその流れを変える責任があると思う。

 その刺激の一つが、このブログで「モノからコトへのパラダイム・シフト(モノコト・シフト)」と呼んでいる、世界各地で澎湃と起こりつつある新しいトレンドだ。それは、モノよりもコトを大切にする生き方・考え方で、環境破壊と貧富の格差増大の源にある「行き過ぎた資本主義」に対する反省として、また、要素還元主義によって生まれた「モノ信仰」の行き詰まりに抗して表出した、新しい思考の枠組みである。

“モノからコトへ”のパラダイム・シフト
場のキュレーション
時空の分離
経済の三層構造
21世紀の絵画表現

などの項をお読みいただくとモノコト・シフトの姿が見えてくるだろう。

 西欧近代文明の時空は(地球規模ではあるが)一様ではない。「モノコト・シフト」の進んでいる地域もあれば、そうでない地域もある。進んでいる階層もあれば、そうでない階層もある。その中で、いち早く「モノ経済」が飽和状態に達したいまの日本(の多くの地域と階層)は、モノコト・シフトの最前線に立っているのではないだろうか。人口も減り大量生産・輸送・消費システムを増強する必要もない。だから日本は、この新しい思考の枠組みに移行しやすい筈だ。

 日本が世界に貢献できるのは、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

における、B、b系分野であろう。「モノと物質主義」の項でみたように、B、b系はもともと自然環境との共生が得意だ。我々はこの力をさらに磨き、世界によい刺激を与え続けなければならないと思う。

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志向の様式

2014年06月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「ヤンキーとオタク II」の項で、

(引用開始)

認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。

(引用終了)

と書いたけれど、この様式(変化)についての説明が不足していたかもしれない。

 これは、ルネッサンス期の技法説明などに用いられるセオリーで、芸術運動は概ね、

アルカイック:初歩的で、古拙的。
クラシック:円熟して、古典的。
マニエリスム:形式的で、技巧的。
バロック:歪んだ真珠のようなスタイル。
グロテスク:異様で、怪奇的。

といった流れに沿って、発展・終結するとされる。

 この様式・形態変化は、芸術ばかりではなく、あらゆる「時空」の変化に当て嵌まるだろう、というのが私の考えだ。スケールの大・小・長・短は問わない。星の一生、会社、レストランの味、流行、建築様式などなど。認知や思考による「志向」(人が追及する認識と欲望の形式)もその例外ではない筈である。

 思考は学習によって深まってゆく。「志向」におけるアルカイックからクラシックへのポジティブな変容を支えるのは、そういった学習効果である。しかし、以前「自分の殻を破る」の項で纏めたように、認知や思考は、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
(greedとは人の過剰な財欲と名声欲、bureaucracyとは官僚主義)

によって、常に歪みを生ずるリスクを抱えている。クラシック段階に達した「志向」は、気をつけないとやがて歪み、マニエリスムからバロック、そしてグロテスクな段階へと変容してゆく。

 マニエリスムからバロックまではまだ良い(味わいが継続している)が、グロテスク段階に至ると、その人の「志向」は誰からも相手にされなくなってしまうだろう。だから、興味の横展開などによって自分の関心分野を広げ、思考をつねに新規にしてゆくことが求められるわけだ。

 「思考を常に新規にしてゆく」のはそれほど難しいことではない。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

に則って、A、a系とB、b系との間を行ったりきたりしながら思考を展開してゆけば宜しい。

 川に流れに例えれば、自分の舟(思考)を操りながら、あるときは橋の上から俯瞰し、あるときは流れの渦に巻き込まれるようにして、ゆっくりと下ってゆく感じだ。「橋の上から俯瞰する」ことがA、a系の発想で、「流れの渦に巻き込まれるようにして」というのがB、b系であることはお分かりいただけると思う。この比喩は「現場のビジネス英語“Resource PlanningとProcess Technology”」の項でも引用したことがある。そこには他の比喩もあるから読むと参考になるかもしれない。

 川を下るのに慌てる必要はない。支流を見つけたらそちらへ行くも良し、行かぬも良し。途中風景を楽しみながら、まわりの舟とも会話しながら、ゆっくりと下ってゆく。橋の上から別の川を見つけたらそっちへ移ってもよい。そうこうして、川が変わる、あるいは同じ川でも流れが変われば(自分の殻を破れば)、あなたの「志向」は、ふたたびアルカイック状態に戻るだろう。そのとき、あなたの舟(思考)は、以前より一回り大きくなっているはずだ。

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ヤンキーとオタク II 

2014年06月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

<公と私論>

 先日「ヤンキーとオタク」の項で、

(引用開始)

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

(引用終了)

と書いたが、まず「屈折した人の精神パターン」について説明してみよう。ヤンキーやオタクについては、先日の項をお読みいただきたい。

 建築家や経営者など、集団を束ねる仕事の人や、作家や役者など、仕事で個性を際立たせたい人は、自分の出自とは反対の性性を自家薬籠中の物とした上で、意図的に、ヤンキー、あるいはオタク的キャラクターを演じようとする場合がある。キャラを際立たせることで仕事がやり易くなるからだ。前者にはヤンキー的な人が多く、後者にオタク的な人が多いのではないか(勿論その逆もあるだろう)。

 たとえば建築家の隈研吾氏は、出自としては男性性が強いにもかかわらず、女性性を自家薬籠中の物にした上で、建築家・経営者としてヤンキー文化を志向するという「ひねり」を加えているように見受けられる。『ヤンキー化する日本』での斉藤環氏との対談や、「モダニズムからヤンキーへ」という歌舞伎座設計始末記(『新建築』5/2013号)を読むとそう感じられる。

「出自」→「ひねり」→「志向」

男性性 → 女性性 → 男性性

というパターンである。昔ソニーの盛田昭夫氏が「経営者はネアカでなければならない」と言ったが、それも同じようなパターンだと思う。

 次に「特定の分野にフォーカスした行動分析」について。以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、認知の歪み(思考の歪み)は精神的自立を阻害すると述べ、「認知の歪みを誘発する要因」の項で、人は認知の歪みから完全に自由であることは出来ないと述べたが、全般的にはバランスが取れていても、特定の分野にフォーカスすると、人は(自分でも気付かないうちに)けっこう思考の歪みに陥っていることがある。噂話を耳にしたとき、酒に酔ったとき、自分が詳しくない分野の新聞記事を読んだとき、スポーツを観戦しているときなどなど。そういう時、本来はバランスが取れた人格者が突如キャラの立った態度に出ることがある。

 たとえば、運転席に着いた人が急にヤンキー的態度を取ることがある。それは車の運転という特定の行動において、その人の脳に、下に記したようなさまざまな認知の歪みが発生するからだろう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

「こんなところに路駐するなバカヤロ!」「歩行者信号はとっくに赤だぞ!」などなど。皆さんも経験があるのではないか。私にも覚えがある。小さな認知の歪みは大したことではないが、それが積もり積もるとやがて行動が間違った方向へズレてしまうから気をつけたい。

 最後に「志向の様式変化追跡」とは何か。認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。「彼のヤンキー度はもうバロック的だな」「彼女はクラシカルな山オタクだね」などなど。

 これを逆に言うと、ある特定の事柄(issue)に固執したヤンキー・オタク文化は、やがて形式主義的(マンネリ)になり、最後にはグロテスクな色合いを帯びるから、人は、いつも新しいことにチャレンジしていないと駄目だということでもある。このことは、ヤンキーやオタクに限らず、バランスよく男性性・女性性を志向しようとする一般の人にも当て嵌まると思う。自分の関心分野を広げる(「興味の横展開」を続ける)ことで、常に気持ちを若々しく保っていただきたい。

 ついでに、以前「6つのパーソナリティ」の項でみたパーソナリティ・タイプ(性格の要素)を短く纏め、それに男性性・女性性要素も加えた上で表にしておこう。

リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。(女性性)
ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。(男性性)
パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。(男性性)
ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。(女性性)
プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。(男性性)
レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかという反応重視。(女性性)

自分が志向したい性格や文化の参考になると思う。

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ヤンキーとオタク

2014年06月03日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『ヤンキー化する日本』斉藤環著(角川oneテーマ21)という面白い本を読んだ。カバー帯表には「この国は“気合い(だけ)”で動いてる」とある。まずその内容を新聞の書評から紹介しよう。

(引用開始)

 「ヤンキー」は今の日本の傾向を理解するのに必須のキーワードだが、どれくらい認知されているだろう。定義は明快――バッドセンス、キャラとコミュニケーション、アゲアゲのノリと気合い、リアリズムとロマンティシズム、角栄的リアリズム、ポエムな美意識と“女性”性。
 このフィルターにひっかかる社会現象が世に溢(あふ)れている。安倍政権はまんまヤンキーだ。「ノリと気合い」でなんとかなると思って靖国神社に参拝し憲法を変えようとしている。ヤンキーは現実的な難関を精神の力で越えられると信じてしまう。それは「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」と斉藤氏は言う。
 前著『世界が土曜の夜の夢なら』に始まったヤンキー解析が、本書では六人の相手との対談に展開される。そのメンバーが村上隆、溝口敦、デーブ・スペクター、與那覇潤、海猫沢めろん、隈研吾。あまりに広範囲なヤンキー文化の浸透ぶりに目まいがするほど。
 ヤンキーに対抗するのはオタク。深いが狭く、細部ばかりにこだわる不器用な性格。それでは、知識人とはつまり知識オタクなのか。

(引用終了)
<毎日新聞 4/13/2014>

ここにある『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店、2012年)という本で、斉藤氏は、日本の様々なポップカルチャーを分析し、

ヤンキー文化=女性原理のもとで追求される男性性
オタク文化=男性原理のもとで追及される女性性

という原理を抽出した。そして、今の日本には「ヤンキー文化」が蔓延していると論じた。

 斉藤氏は、その前の『関係する女 所有する男』(講談社現代新書、2009年)の中で、男性性と女性性について、

男性性:「所有原理」「空間重視」
女性性:「関係原理」「時間重視」

という「認識および欲望の形式」を指摘している。これは複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

と整合する(「男性性と女性性 II」の項参照のこと)。

 従って、日本人(日本語的発想をする人)にヤンキーが多くて不思議はないという話になるが、新鮮なのは、『世界が土曜の夜の夢なら』において、斉藤氏が人の「出自」と「志向」とを分けて社会を分析したことだろう。

 ここでいう「出自」「志向」は私の言葉。出自とはその人がもともと持っている認識と欲望の形式を指し、志向とは、その人が追求する認識と欲望の形式を指す。ヤンキーはアゲアゲのノリと気合いで動くから、一見男性的だが、出自を辿るとその精神は案外女性的なのだ、というのが(出自と志向による)斉藤氏の分析である。

 「人は自分と反対の(あるいは同じ)性性を求める」というはたらき・運動(「出自」→「志向」)に注目したのが氏の着眼の面白さだと思う。

「出自」→「志向」

男性性 → 女性性 (オタク)
女性性 → 男性性 (ヤンキー)

このことで、「出自」と「志向」との間にいくつかのパターンを読み取ることが可能になり、社会分析がより緻密にできるようになった。動きのあるダイナミックな見方ができるようになった。たとえば次のようなパターンもあるのではないか。

「出自」→「志向」

男性性 → 男性性 
女性性 → 女性性 

これは「自分と同じ性性を求める」ということで、前者は男性性による「所有原理」「空間重視」の徹底追求型であり、後者は女性性による「関係原理」「時間重視」の徹底追求型である。前者を「マッチョ」、後者を「フェミニン」とでも名付けようか。

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

 さて、紹介文にある「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」とはどういうことか。斉藤氏は、ヤンキー文化は「気合い」で何でも乗り越えられるとするけれど、それは戦争や経営といった「合理的判断」を必要とする局面においては通用しないと述べている。そして合理的判断ができるようにするには、そこでヤンキー文化を一旦分離・切断する必要があると述べる。

(引用開始)

斉藤 日本的な行動主義はなぜかヤンキー主義に帰結してしまう。そこが問題ということなんでしょうね。最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と私は言い続けてきましたが、TPPの導入や移民受け入れのような「痛み」なしには難しいかもしれません。とはいえ私も「切断」実現のために、「気合い」抜きで説得を続けたいと思います(笑)。

(引用終了)
<同書 178ページ>

 近代社会では、「公(Public)」にとって大切なのは「個の精神的自立」である。このことはこのブログで繰り返し述べてきた(「自立と共生」の項など)。「合理的判断」とは、複眼主義でいうところのA、a系、Resource Planning(資源分配)そのものだ。伝統的社会においては、「公(Public)」は「権威(原理や組織)」に拠って運営されていたから、合理的判断を司るA、a系(男性性)において「個の精神的自立」は必ずしも必要とされなかった。族長の判断によって集団の公的行事が運営されていた。しかし、近代社会のルールにおいては、そこに「個の精神的自立」がインストールできていないと、人は、外の権威(原理や組織)に簡単に騙されてしまう。斉藤氏のいう「痛み」である。70年前、多くの日本人が無謀な戦争に巻き込まれていったのがその例だ。

 残念ながら日本人は、言葉の特性もあって、精神的自立を果たしていない人がまだ多い。日本的ヤンキーが志向する男性性は、外の権威に弱い。それでは戦前と同じことになる。だから斉藤氏は、最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と語っておられるのだろう。

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デンマークという幸せの国

2014年04月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「社交のための言葉」「議論のための日本語」「議論のための日本語 II」の各項において、複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

という対比から、A、a系の言葉の強化が、近代的社会にとってどれほど重要かということを論じてきたわけだが、ここでその例として、デンマークという国について考えてみたい。

 『デンマーク流「幸せの国」のつくりかた』銭本隆行著(明石書店)という本から、デンマークと日本を比較した文章を引用しよう。

(引用開始)

 デンマークと日本を比べたときに、なにが異なるのだろう。たしかに制度は異なる。しかし、その制度を利用する国民の姿勢そのもに大きな違いを感じる。国民そのものが制度を支えている。ただの客体ではなく主体なのである。自ら積極的に参加し、自分の住みやすい社会を作り上げている。世の中を変えるには、この主体性というものはとても大切だ。
 対して受身の日本人。しかし、ただの制度の受け手では、いつまで経っても望むものは手に入らない。日本人が“主体的国民”となるためのヒントを、これまでみてきたデンマークがら得たい。それはデンマーク人のだれもが持ついかの3つの姿勢である。

「自己決定」
「連帯意識」
「民主主義」

「自己決定」とは、読んで字のごとく、自分で決定するということである。日本人は、自分でものごと決めているだろうか? たとえば、多くの外国人が日本人を評して、「おとなしい」「いうことを聞いてくれる」。しかし、これらは裏を返せば、「意見をいわない」「自分の考えを持たない」と消極的な意味も含まれる。
「連帯意識」とは、他人との共同である。自己主張が強いデンマーク人は、この意識を強く持っている。考え方や背景が違えど、「同じ人間」ということで、手をお互いに差し伸べあう。妬み、嫉み、お互いの足の引っ張りあい、が常態の日本とは大きく異なる。
「民主主義」とは、政治システムの話ではない。簡単にいえば、「徹底的に話し合ってものごとを決める」という姿勢である。これは、デンマーク人に徹底的に浸透している。デンマーク人と話していると、1時間に1回は絶対に「デモクラシー(民主主義)」という言葉がついて出てくるほどだ。
 こうした「民主主義」が機能する前提として、「自己決定」と「連帯意識」の原則は不可欠である。つまり、「自己決定」をする主体的な国民が、相手の意見も認める「連帯意識」を持つことで、はじめて「民主主義」は可能なのである。「自己決定」「連帯意識」「民主主義」のいずれかひとつが欠けても、デンマークという国は成り立たない。

(引用終了)
<同書 227−228ページ>

私はデンマーク語が分らないし、まだ訪れたこともないから、この本に全面的に依存するしかないのだが、「主体性」を主格中心、「受身」を環境中心と言い換えれば、銭本氏の主張は、複眼主義の対比構造に当て嵌まるように思う。

 デンマークは、最近のいくつかの幸福度調査において世界1位に輝いている。勿論近代国家の幸福度は、地理的な位置、自然環境や歴史状況、国のサイズなどにも左右されるだろうが、言葉の力も大きい筈だ。デンマーク語は英語と同じ西欧の言葉だから、A、a系の言葉が強いものと思われる。国連による2010−2012の間の国別幸福度ランキングを見ても、

1.デンマーク
2.ノルウェー
3.スイス
4.オランダ
5.スウェーデン
6.カナダ
7.フィンランド
8.オーストリア
9.アイスランド
10.オーストラリア

ということで、西欧系の国々が上位を占めている。

 『デンマーク流「幸せの国」のつくりかた』を読むと、社会が抱える問題点も含めて、デンマークのことが多少わかる。新聞の書評も載せておこう。

(引用開始)

 さまざまな「幸福度調査」で一位となり、高福祉で知られる国デンマーク。本書はその社会保障制度などをわかりやすく解説する。
 著者は、福祉や教育を専門とするデンマークの国民高等学校「日欧文化交流学校」の学院長。時事通信と産経新聞で11年間の記者経験がある。豊富な経験と取材に基づいて、この「幸せの国」の歴史や文化を、ユーモアを交えた筆致で紹介。有名な高い税金、若者の生活保護や薬物依存の増加、高い犯罪率など、負の側面にも鋭く切り込んでいる。
 それにしても、福祉の充実ぶりには改めて驚かされる。法定の「週37時間労働」が順守され、「夫が午後3時に帰宅するのがストレス」という妻の声も。転職経験は平均6回、資格取得のために休職する間も給与が支払われる支援制度……。日本では考えられないことばかりだ。
 社会を支えているのは、自分の意思を貫く「自己決定」、他人との協調を重んじる「連帯意識」、そして徹底的に話し合う「民主主義」というデンマーク人気質。著者は日本人に向けて、この3点こそが「“自分の人生”を生きていくために役立つツール」だと説いている。

(引用終了)
<毎日新聞 11/4/2012>

 複眼主義の考え方が間違っていなければ、以前「日本語の力」の項でみたように、日本語のような母音言語は世界でも珍しいから、B、b系の力(現場で与えられた環境を守り何かを紡ぎだしてゆく力)ランキングでは、日本は世界一なのではないか。これで、我々が少しでもA、a系の力を鍛えれば、全体としての幸福度ランキング上昇は間違いないと思われる。皆さんも是非この本などを読みながら、言葉の持つ力に想いを馳せていただきたい。

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足に靴を合わせる

2014年02月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『養老孟司の大言論 I 希望とは自分が変わること』養老孟司著(新潮文庫)を読んだ。この「大言論シリーズ」は、季刊雑誌『考える人』に連載された氏の文章を纏めたもので、2011年に3冊の単行本として出版された。今回その第1冊目が文庫化された訳だが、このあと続けて、3月に『養老孟司の大言論 II 嫌いなことから、人は学ぶ』(新潮文庫)、4月には『養老孟司の大言論 III 大切なことは言葉にならない』(新潮文庫)が出版されるという。

 本書で特に面白かったのは、「ただの人」、「エリートとはなにか」、「個人主義とはなんだ」と題された、最後の3章だ。ここで養老氏は、戦後日本社会の基本最小単位が、「家」から「個人」になったこと(とその余波)について論じておられる。

 氏は、戦後日本が、新憲法に基づくいわゆる民主主義の下で、共同体の基本最小単位を、それまで長く培われてきた「家」から、アメリカ流の「個人」に変更したことを指摘の上で、

(引用開始)

 ところがわれわれの社会は、そこで「個人」を立て損なった。立てたつもりだということは明らかだが、千年以上も続いた社会制度を、紙切れの上の文字だけで変えることができると思っているのは、言説のみで生きている人たちか、かつてのシロタ女史のような若者だけであろう。家制度は消えたが、代わりの個人がそこまで育っていない。
 そもそも個人とは、永続する個性を前提としている。日本の世間が個性を認めるかというなら、まず認めはすまい。日本の伝統的思想からいうなら、個性は永続するどころではない。この国は諸行無常で、無我なのである。面倒になったら「靴に足を合わせろ」と、いまでもいうに違いない。
 永続する個性を保証したのは、じつは一神教の霊魂不滅である。その霊魂不滅を要請したのは、聖書に書かれた最後の審判である。霊魂が不滅でなければ、最後の審判に意味はない。(後略)

(引用終了)
<同書 192−193ページ>

と述べる。尚、シロタ女史とは、敗戦国日本を支配した連合国最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、新憲法の作成に関与した米国籍の若い女性だ。

 このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

といった二項対比を論じている。この対比で考えると、養老氏のいう「靴に足を合わせろ」という思想は、靴=環境ということで、B、bの日本語的発想そのものということができる。一方の「永続する個性」は、キリスト教を源とする西欧近代化を支えた思想で、A、aの英語的発想と重なる。

 敗戦後の日本は、「近代家族」の枠組みによって、「モノ経済」による高度成長を遂げてきた。近代家族の特徴は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家庭領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったものだが、日本人の多くは、高度成長期の公共領域において、靴=環境を、「家制度」から会社などの「組織」に置き換え、「巨人軍は永久に不滅です!」といったメンタリティで、(個人の自立など考えることなく)会社のために一心不乱に働いてきた。

 日本が、敗戦からこれほど早く「モノ経済」の繁栄を勝ち得たのは、この「靴に足を合わせる」メンタリティのお陰だったということができるだろう。その一方で、戦後の家内領域は、核家族化して縮小した。

 しかし、大量生産・輸送・消費社会の限界が見え始めた今の日本は、「コト経済」による、共存型の成熟社会への変換を迫られている。そこでは、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムが大切になってくる。それを支える家族のあり方も「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったものになってくる筈だ。そうなると、「靴に足を合わせる」だけではなく、「足に靴を合わせる」発想も必要になってくる、というのが私の見立てだ。すなわち、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

のバランスを大切に考えること、「公(Public)」の領域では、自立した個人として、自分の足に靴の方を合わせ、「私(Private)」の領域では、共生する仲間と一緒に、靴に足を合わせつつ生きる、という「複眼主義」的考え方が大切になってくる、ということだ。

 日本人は、一神教抜きで、(公共領域において)「個人」を立てなければならない。その難しいチャレンジを、今後も皆さんとご一緒に考えたいと思う。私が考える方策のひとつは、「新しい日本語」の項で述べたように、明治以降の近代日本語を鍛えることである。同項では次の3点を挙げた。

1.公(Public)の場で使う言葉の創造
2.初等教育の改革
3.不思議な日本語の見直し

他にもあると思うので、ご意見などを戴けたらと思う。

 尚、養老氏は、戦後の「家制度」崩壊の問題点を、『日本のリアル』(PHP新書)における岩村揚子さんとの対談でも指摘しておられる。それについては、「近代家族 III」の項を参照していただきたい。

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勝負の弁証法 II 

2013年12月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「勝負の弁証法」の項では、勝負の弁証法の適用範囲を、「勝負事=明示されたルールの元で戦うゲームや競技」に限定して話を進め、勝負事には合意された「理念と目的」が大切だということと、敗者とその戦いのプロセスは、つねに勝者の内に包摂されなければならない、ということを論じた。今回は、それ以外の戦い、すなわち、ルールがあって無き様な国同士の戦争や、そもそもルールのない裏切りに満ちた抗争、正当防衛、自然界の生存競争、生物進化などに話を広げ、弁証法ロジックとの関係について考えてみたい。

 まず、戦争や抗争について。明示的なルールのある無しは、「ルールが無い」ことがルールだと考えれば、ゲームや競技と同じ土俵に乗せて考えることができる。しかし、勝負の弁証法が通用するのは、その勝負に合意された「理念と目的」が存在する場合である。戦争や抗争に(一方的な「理念と目的」はあり得ても)当事者双方に合意されたそれがあるとは考えにくい。従って、戦争や抗争は、弁証法ロジックの対象にならないと思われる。単なる「喧嘩」だ。

 次に、正当防衛について。降りかかった火の粉を払う行為には、法律的に認められた正当防衛と、そうでない場合とがあろう。前者には法律という「ルール」があり、後者にはそれが無い。しかし、いづれの場合でも、当事者同士は加害者と被害者の関係だから、そもそも合意された「理念と目的」などある由もなく、従って、これも弁証法ロジックの対象にはならないと思われる。

 自然界の生存競争について。生存競争には、弱肉強食など(明示されてはいなくとも)一定のルールがあることが知られている。しかし、自然界そのものに合意された「理念と目的」があるかどうかは「神のみぞ知る」だ。

 ここまで検証してくると、勝負における弁証法ロジックは、ゲームや競技に限定された話であったように思える。では生物の進化はどうか。

 生物の進化に、明示的ルールや「理念と目的」など無いように見える。しかし進化には、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という発展構造がある。生物進化のみならず、自然界の諸々の出来事は、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という“コト”そのものである。実は、人智が考え出した「弁証法ロジック」自体、自然界の出来事や生物進化の様子を模倣したものなのだ。だから、大きく考えれば、生存競争もそういう“コト”の一局面だし、人の喧嘩や正当防衛行為ですら、社会において起こる“コト”の一部であると云うことが出来る。

 さて、自然界に、勝ち組と負け組みはない。人類が勝ち組だとする考え方は浅はかな驕りであって、いつか人が住めない地球環境が齎されれば、人類は簡単に滅ぶだろう、嘗て恐竜が(巨大隕石によって?)滅んだように。勝ち組と負け組みがないのは、自然には(神を持ち出さない限り)明示的な「理念と目的」が無いからだ。「集団の時間」や「自然の時間」の項で述べたように、自然の時間は無限大(t = ∞)だから、限定的な「理念」や「目的」を決めようがないわけだ。

 ここまで考えて来ると、勝負における「理念と目的」の設定は、「都市」(人の脳が作り出した様々な機能・構造)においてのみ意味を持つことが分る。勝負の弁証法は、様々な戦い、争いの中で、「都市」において、その構成員によって合意された「理念と目的」があるものにのみ適応されるロジックなのである。

 「理念と目的」(の設定)は、極めて都市的なものである。それは、生存競争や生物進化にはない特色だ。勝負事において(勝つ為の努力は勿論大切だが)負けることは問題ではない。再チャレンジへの闘志さえ持ち続ければ、人は幾度でも勝負に参加できる。そういえば、選挙も勝負事の一つだ。健全な社会であれば、選挙に勝った候補者は、負けた候補者と、その他全有権者を代表する立場になる筈だ。勝者は、敗者およびそのプロセス全てを包摂し、「理念と目的」をより高いレベルへ押し上げる役割を付与されたと考えるべきである。だから、そこでは、勝ち逃げが一番悪いということになる。

 プレイヤーの中には、勝つと責任がかかってくるから、それを回避しようとわざと負ける者もいる。「理念と目的」をより高いレベルへ押し上げる役割を付与されることに耐えられないからだ。それを人は「敗北主義者」という。勝ち逃げと敗北主義者。どちらも戦いの場を選び損ねた卑怯者たちの謂いである。

 勝負が“コト”であってみれば、“モノコト・シフト”の時代、世界中でスポーツ・イベントやゲームなどがますます興隆するであろうことは容易に想像できる。ワールドカップ、オリンピック、各種コンテスト、チェスや囲碁、将棋、ネットゲームなどなど。それがスポーツやゲームに留まっている分には良いが、greed(過剰な財欲と名声欲)が関わってくると、抗争や戦争にエスカレートする危険性もある。試合の開催が利権の巣窟と化すわけだ。こういう時代だからこそ、今一度、戦いの「理念と目的」をよく見定めようではないか。

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勝負の弁証法

2013年12月10日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ゲームや競技などの勝負事を弁証法の一つとして考える。どういうことか説明しよう。弁証法とは、テーゼ(一つの意見)とアンチテーゼ(反対の意見)が止揚されてジンテーゼ(新たな見識)へと到るプロセスを指すわけだが、それは、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という発展構造として捉えることが可能だ(「3の構造 II」)。

 一方、勝負事とは、AとBとが一定のルールの下で戦い、新しい結果(勝者と敗者)が生まれるプロセスだが、戦いの場、自然環境、両者の力量の差、戦術や気魄、応援、勝者の喜び、敗者の落胆などのプロセス全体を俯瞰すれば、勝負事もまた、何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる、という発展構造(弁証法)として見ることが出来る筈だ。これはプロ、アマを問わない。

 上の二点を言い換えれば、勝負事は、「本物を見抜く力」の項で述べた、人の時空と外部の時空とが作用しあって新しい何かが生まれる、という“コト経済”の一種であり、弁証法は、コト経済のプロセスを跡付ける“メタ・ロジック”である。

 さて、弁証法には証明すべき元の命題が必要だ。コト経済における命題とは何か。それは、「政治と経済と経営について」の項で述べた、その集団の「理念と目的」ということになろう。社会集団の理念と目的の完成は、数式の証明のようにストレートには行かないだろうが、それは、社会の到るところで波のように起こる“コト”の一つひとつが、弁証法ロジックを伴って、少しづつ高みに達していくというダイナミズムの内に成される。

 そう考えると、勝負事にも固有の合意された「理念と目的」がある筈だ。なぜその勝負を行なおうとするのかという「理念」と、その勝負によって何を達成したいのかという「目的」。

 弁証法における命題と同じくらい、勝負事において達成されるべき「理念と目的」は大切な筈なのだが、往々にして、勝負事においては結果(勝ち負け)だけがクローズアップされるケースが多い。皆、「理念と目的」の方を忘れてしまうのだ。勝つ為の努力は勿論大切だが、それだけに目を奪われていると、「理念と目的」の方を忘れてしまう。

 弁証法において、止揚される意見は、新たな「見識」の中に包摂される。止揚された意見は、けっして排除される訳ではなく、高みに達するために積み重ねられた礎の一つとしてロジックの内に存在し続ける。別の言い方をすれば、止揚される意見がなければ、新たな見識も生まれ得ないということだ。

 社会においても、起こった“コト”はなくならない。歴史はなくならない。歴史に学ぶという意味は、そこで起こった“コト”全てを俯瞰してそこから教訓を得るということである。

 勝負事においても、敗者がいなければ勝者は居ない。だから、敗者とその戦いのプロセス全体は、勝者の内に包摂されなければならないと思う。勝負を観戦するときは、まずその「理念と目的」をしっかり見極めて、さらに、敗者とその戦いのプロセス全体が、掲げられた理念に達するために積み重ねられた「礎」なのだということを忘れないようにしたいものだ。

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地方の時代 II

2013年10月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き、地方都市の魅力・意義について考えたい。“(株)貧困大国アメリカ”堤未果著(岩波新書)によると、いまアメリカを中心に世界で「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)が進行しているという。本書から引用しよう。

(引用開始)

 いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
 グローバリゼーションと技術革命によって、世界中の企業は国境を超えて拡大するようになった。価格競争のなかで効率化が進み、株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売者、労働力、特許、消費者、税金対策用本社機能にいたるまで、あらゆるものが多国籍化されてゆく。流動化した雇用が途上国の人件費を上げ、先進国の賃金は下降して南北格差が縮小。その結果、無国籍化した顔のない「1%」とその他「99%」という二極化が、いま世界中に広がっているのだ。
 巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に委譲する新しい形態へと進化した。ロビイスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業寄りの法改正で、“障害”を取り除いてゆく。
 コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。

(引用終了)
<同書 273−274ページ>

 この「1%」によるコーポラティズムは、以前「世界の問題と地域の課題」の項で述べた、世界の問題としての「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」そのものだ。それに対して、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)は、世界の「99%」が希求する新しい時代の規範である。

 モノコト・シフトの時代においては、「個の自立」と、コトの起こる小規模な「地方都市」が必要であり、コーポラティズムを撃退できるのは、そのような“コト”同士の横の連携だろう。堤さんは、

(引用開始)

 食、教育、医療、暮らし。この世に生まれ、働き、人とつながり、誰かを愛し、家族をいつくしみ、自然と共生し、文化や伝統、いのちに感謝し、次の世代にバトンを渡す。そんなごく当たり前の、人間らしい生き方をすると決めた「99%」の意思は、欲で繋がる「1%」と同じように、国境を越えて繋がってゆく。
 意思を持つ「個のグローバリゼーション」は、私たちの主権を取り戻すための、強力な力になるだろう。

(引用終了)
<同書 277ページ>

と述べておられる。単なる“モノ”の流通ではなく、物語を持った“コト”の横の連携。流域思想でいうところの「両端の奥の物語」を持った“コト”同士の共振。日本語発のそういう物語をもっと紡いでゆきたいものだ。

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女子力

2013年09月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「若者の力」の項で紹介した“地方にこもる若者たち”阿部真大著(朝日新書)に、「ギャル的マネジメント」という言葉が出てくる。多様性への対応の四段階、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

を踏まえて、著者は「ギャル的マネジメント」について次のように語る。

(引用開始)

流動性・多様性の増す現代社会において、若者たちは、「分離」(違う者同士互いに干渉し合わない)の段階のハイポコミュニカティブ(過小にコミュニケーション志向の)な傾向と、「統合」(違う者同士がぶつかり合い落としどころを探っていく)の段階のハイパーコミュニカティブ(過剰にコミュニケーション志向の)な傾向とに二極化していると考えられる。前者は男性に、後者は女性に強く見られる傾向であるが、これらはともに他者の違いを認めるものである。

「ギャル的マネジメント」とは、身近な人間関係の多様性に意識的で、同質的な仲間集団に対する愛着心は強いながらも異質な他者とのコミュニケーションを厭わず、謙虚に集団をまとめあげていくような仕切り方のことを指す。これは、「分離」から「統合」の段階へとステップアップするのに必須な資質であり、つまりは内にこもる若者を外に引き出すコツを導く鍵であり、「新しい公共」の構築への鍵である。

(引用終了)
<同書 198ページより>

「ギャル的マネジメント」とは、「男性性と女性性 II」の項で述べた「女性性に基づく関係原理」と「男性性に基づく所有原理」とを、上手にバランスさせる能力だと思われる。「森ガール」の更なる進化系といえるかもしれない。人は性差に拘らず、ある比率で、男性脳=「所有原理」、と女性脳=「関係原理」の両方の機能を持っている。だから「ギャル的マネジメント」は女性だけでなく、男性にも可能なマネジメント・スタイルである。

 日本はこれまで、社会や人々は「世間」という関係原理、政治やビジネスは「律令」という所有原理によって形作られてきた。「“シェア”という考え方 II」の項で述べたように、モノコト・シフト後の日本は、社会や人々は「世間」に縛られすぎることなく「所有原理」を自覚して精神的に自立すること、政治やビジネスにおいては「律令」主義を排して「関係原理」を取り入れること、が必要になってくる。

 モノコト・シフトのパラダイム項目は、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感
世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といったことだ。多様な価値観の渦の中で、「ギャル的マネジメント」は、新しい日本の構築に欠かせない力なのであろう。ただし多様性を認めるには、人々が自立していなければならない。そのためには「新しい日本語」が必要になる筈だ。

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若者の力

2013年09月10日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 “地方にこもる若者たち”阿部真大著(朝日新書)という面白い本を読んだ。本の帯には「地方都市はほどほどパラダイス 満員電車、高い家賃、ハードな仕事…… もう東京には憧れない」とある。まずカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

都会と田舎の間に出現した、魅力的な地方都市。若者が地方での生活に感じる幸せと不安とは―――?
気鋭の社会学者が岡山での社会調査を元に描き出す、リアルな地方都市の現実と新しい日本の姿。

(引用終了)

ということで、これは、新しい日本の社会を作る「若者の力」についての本だ。著者は、いまの岡山を次のように描く。

(引用開始)

容赦なく進行する郊外のモータライゼーション、国道沿いに並ぶ巨大な路面店やショッピングモール、シャッター通りが増え高齢化の進む旧市街、人口の減少に悩む過疎地域、縮小する製造業と拡大するサービス業、地域社会と切り離された「脱社会化」した若者たち、古き良き「戦後社会」の幻影にしがみつく年長世代、広がる貧困とそのなかでいよいよ閉塞していく近代家族。すべてが「どこかで見た光景」であった。

(引用終了)
<同書 208ページより>

以前私は「継承の文化」の項で、いまの日本社会の姿を「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」と描写したことがあるけれど、それとよく似た日本のどこにでもある(郊外の)光景だ。

 「アッパーグラウンド」の項で述べたように、世界中でモノコト・シフトが進んでいるにも拘らず、今の日本の大人たちは「心ここに在らず」の状態のまま、大量生産・輸送・消費システムが作り出したこの寒々とした光景の中で暮らし、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政を許している。

 しかし阿部氏は、今の若者たちの中に、新しい日本の社会を作るエネルギーが生まれているという。1990年代以降のモータリゼーションが生み出した巨大な路面店やショッピングモールは、若者たちに、地方特有のしがらみや因習から自由な「ほどほど」の都市空間を与えた。一方、(モノコト・シフトによる)近代家族の崩壊は、若者たちが反抗の対象とすべき「大人の世界の安定性」そのものを無化してしまった。社会の安定性の崩壊は、画一的な生き方の押し付けから若者たちを解放する一方、多様な価値観の渦の中に若者たちを放り出すこととなった。著者は、その先に「都会と田舎の間に出現した新しい社会」(同書のサブタイトル)の可能性を見る。

 本書に引用されている“ダイバシティ・マネジメント――多様性をいかす組織”谷口真美著(白桃書房)によると、多様性への組織の対応には、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

といった四段階があるという。著者は、この考え方を多様な価値観の渦の中に放り出された若者たちの生き方に応用し、一部の若者たちは第四段階の「統合」の段階に進んでいるという。そして、

(引用開始)

現在「こもっている」若者は、「同化」ではなく「分離」の段階にあるのではないか。社会の多様性を認識したうえで「こもる」という選択をしているのであれば、彼らは既に「統合」に向けた準備ができていると言えるかもしれない。そう考えると、準備ができていないのは「こもっていないで外に出ろ」と声高に叫ぶような、社会の多様性に鈍感で未だ「同化」の段階にある「大人」たちではないか。「新しい公共」が社会の多様性を前提とする「統合」によって構築されるのであれば、「同化」の段階にある大人たちより彼らのほうが「新しい公共」に近い場所にいると言えるだろう。

(引用終了)
<同書 199ページより>

と述べる。ここでいう「新しい公共」とは、以前「自立と共生」の項で引用した、2009年鳩山政権所信表明演説にある「人を支えるという役割を、『官』と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという価値観です」といった内容のことで、モノコト・シフト以降の日本社会の「公共」のあり方と言ってよいだろう。

 「心ここに在らず」の大人たちが大量生産・輸送・消費システムが作り出した寒々とした光景の中で、惰性のまま、財欲に駆られた人々による強欲支配と、無責任な官僚行政を許し続けるのであれば、新しい日本社会の構築は、「統合」に向かう若者たちに期待すべきだ。これからも若者たちの勉強や起業を応援したい。

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再び複眼主義について

2013年08月13日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「時空の分離」の項で、

(引用開始)

 21世紀を迎え、世界は「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代を迎えている。「時を含んだ“コト”」を研究するには、まずこの「時空の分離」を見直す必要があると思うがいかがだろう。

(引用終了)

と書いたけれど、今回もこのテーマについて考えてみたい。

 様々な“コト”は、そのサイズの中に、そのコトを起こすためのエネルギーを固有の時間とともに内包している。「酵素の働きと寿命との関係」の項で探ったのはその法則性だ。生物だけでなく、石炭や石油など鉱物であっても、“コト”としての長い長い固有の時間をその体内に秘めている。全ての“モノ”(existance or being)は“コト”(becoming)なのである。鉱物や宇宙の時間は生物のそれに比して恐ろしく長いから、我々がそれに気付かないだけだ。

 アインシュタイン以前の“モノ”信仰は、そこに流れる時間の存在を前提としていたため、分解・合成による利用の行き過ぎについては自然な制約があったと思う。“モノ”はexistanceであると共にbeingでもあったわけだ。アインシュタイン以降の「時を抜いた“モノ”」信仰は、「時を含んだ“コト”」をも「物質」と見なすようになった。石炭しかり、石油しかり、動物しかり、植物しかり、そして人しかり。変化した物質は「中間体」という名を与えらるようになった。“モノ”はexistance一辺倒に変わったというべきか。

 20世紀の文明は、その「物質」を次から次へと破壊することでエネルギーを取り出し、それを工学的に変換して都市文明を維持してきた。“コト”の時間とサイズを圧縮してエネルギーを無理やり取り出してきたわけだ。

 このブログで以前、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請だ。

(引用終了)
<「場所の力」より>

と書いたけれど、「時を抜いた“モノ”」信仰は、効率を求める近代文明を加速的に拡大させ、やがて放射性物質までエネルギーとして分解し、利用するようになった。そしてそれが、地球の環境自体を加速的に破壊させるに至り(その際たるものが核爆発だろう)、21世紀の時代のパラダイムは、「時を抜いた“モノ”」信仰から、「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方に移りつつあるというのが私の見立てだ。

 西洋近代文明を育んだ「存在のbe」は、自立精神とともに“モノ”信仰を生み、やがてそれは「時を抜いた“モノ”」信仰へと発展した。環境破壊は、21世紀における地球規模の問題の一つだが、それは主に、「存在のbe」を駆使して作り出された西洋近代文明の「行き過ぎ」によるものだと思う。人は本来、地球という「時を含んだ“コト”」と同期しながら生息している。石炭、石油、特に放射性物質を急速にエネルギーとして開放すれば、地球環境は激変せざるを得ない。「時を抜いた“モノ”」信仰が、地球の環境自体を加速的に破壊させたわけだ。

 先日「再び存在のbeについて」の項の最後に、

(引用開始)

 話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。

(引用終了)

と書いたが、今の日本語は「存在のbe」をその語彙に持たない。日本人は、西洋近代文明を真似てここまで来たけれど、「存在のbe」を理解していないから本当の近代社会を築くことがまだできない。しかし、Process Technologyを得意とする日本語は、もともと「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方には親和性がある。それが逆に、環境問題で悩む世界にとっての存在価値となる。

 人が近代文明を享受し、「生産」(他人のための行為)の質を高めていくためには、「存在のbe」を理解し、“コト”としての生物や鉱物を、そこに流れる時間を感じつつ、環境を決定的に破壊しない範囲で適時エネルギーに変えていかなければならない。

 「存在のbe」と「環境のbecoming」、その両方の重要性。「複眼主義」において、脳(大脳新皮質)の働き=Resource Planningと、身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き=Process Technologyとのバランスを大切に考えようというのは、このことを言っている。

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世界の問題と地域の課題

2013年04月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、人の過剰な財欲と名声欲がイニシエーター(initiator)であり、官僚主義が実行部隊(executor)、認知の歪みがプロモーター(promoter)であると論じ、「理念希薄企業」の項で、それを会社組織に即して眺めてみた。

 演説の草稿風に纏めれば、
-------------------------------------------------------
社会の自由を抑圧するのは、人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出す「壁」というシステムの自己増幅、さらに我々の認知の歪みがそれらを助長する。システムの自己増幅を担うのは官僚主義。

What suppress freedom of our society are human greed, and the “wall” system created by human greed with its self re-productions carried on by bureaucracy, which are furthered by our cognitive distortions.
-------------------------------------------------------
という具合。いかがだろう。

 この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、いわば人類共通の問題である。世界(地球規模)の問題は、このほかに「環境破壊」と「貧富格差の拡大」の二つを挙げることが出来るだろう。これらは互いに作用しながら、今の「世界の問題」の全体を形成している。

 従って、これからの人類は、この三つを克服し、その上で、個人の生き方の自由と、文化の多様性を守らなければならない。と同時に、世界は21世紀に入り、 “モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代を迎えているというのが私の認識だ。

 このブログでは、日本社会に相応しいこれからの産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それを牽引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると論じている。これは、世界の今の状況を、日本社会の事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に当て嵌めた場合の考え方だ。世界は勿論全て繋がっているから、物品の輸出入はあるし、日本から大量生産・輸送・消費が無くなるわけではないけれど、これからの日本社会を牽引していくのは、起業理念の濃厚な小規模企業(とその横の連携)だと考える。

 そう考える一端を述べよう。日本社会は、冒頭の三種、

1.イニシエーター(過剰な財欲と名声欲)
2.実行部隊(官僚主義)
3.プロモーター(認知の歪み)

のうち、歴史的・文化的背景から、2.の官僚主義が、ことのほか肥大化した社会だ。詳細はこのブログの「公と私論」や「言葉について」などのカテゴリで縷々綴ってきたから繰り返さないけれど、リスクをとらない、波風を立てない、といったメンタリティが、日本社会を濃い霧のように覆っている。官僚主義は、国の機関や民営化された組織、理念を失った会社や学校、その他惰性に流されたあらゆる組織、職業に忍び込んでいる。この現状の打破は、新しい“コト”を起こす自立した理念濃厚なスモールビジネスと、その横の連携によってのみ可能だろう。

 「理念希薄企業」の項で述べたように、理念を失った組織の運営目的は「利益」だから、そのためには効率が優先される。公的機関では弱者の切り捨てが行なわれるだろう。そのままだと個人の海外移住が増えていくに違いない。産業システムでは、効率の良い大量生産・輸送・消費に向かう。しかしいま日本は経済的・社会的状況からして多品種少量生産の時代を迎えているから、多くの理念希薄企業は必然的に海外との競争に敗れていくだろう。

 世界規模の問題は、世界規模で正すことができればいちばん良いのだろろうが、我々人類はまだそのような便利なツール(tool)を持っていない。あるのはあくまでも、国や地域における政治、経済、産業、言語といったローカルなシステムでしかない。国や地域によって、その置かれた政治や経済、文化や自然の状態は異なっている。だから、人々はそれぞれの国や地域で、「世界の問題」にそれぞれ対処していかなければならないのだ。人類の目指すところは同じだとしても。これからも「世界の問題と地域の課題」、そしてその処方箋についていろいろと考えてゆきたいと思う。

 先回触れた村上春樹の新作“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”(文藝春秋)に関して一言付け加えておきたい。「1963年」の項で書いた「“1Q84”の世界をどうするか」という課題について、歴史と向き合うことの重要性、個人の精神的自立と信頼するもの同士の共生の必要性については充分描かれているものの、「社会の自由を抑圧するのは、人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅、さらにそれを助長するのが我々の認知の歪み」との戦いの観点でいえば、今回は、共同体員の認知の歪みを巡る旅と、そこからの回復に終始した内容で、過剰な財欲と名声欲、あるいはそのシステムについてはほとんど触れられていない。“1Q84”の主人公(天吾)が最後に到達した「父性」についてもあまり言及されていない。それらは以降の作品に引き継がれるのだろう。

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認知の歪みとシステムの自己増幅

2013年03月26日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「1963年」の項で、村上春樹の小説に触れ、「我々が共に戦うのは人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力である」という意味のことを書いたけれど、そのシステムの自己増幅を助長するのは、人々の「認知の歪み」なのだと思う。認知の歪みとは、誤った思い込みのことで、全てか無か、白か黒かと物事を両極端に考える二分割思考、過去の体験から一足飛びに結論を急ぐ過度の一般化、悪い面だけを見て良い免を評価しない選択的抽象化、何事も「〜すべき」「〜してはならない」と決め付ける教義的思考などを指す。

 村上春樹の短編小説集“レキシントンの幽霊”(文春文庫)のなかに“沈黙”という一編がある。そこに描かれた「人の言いぶんを無批判に受入れて、そのまま信じてしまう連中」こそ、認知の歪みを抱えた人々の姿なのではないだろうか。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間(人の心を巧みに扇動する財欲と名声欲の権化のような人物)の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当りもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任もとりやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。夢の中には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。

(引用終了)
<同書 84ページ(括弧内は引用者による補足)>

以前「自立と共生」の項で、「精神的自立」の大切さについて述べたことがあるけれど、認知の歪み(二分割思考、過度の一般化、選択的抽象化、教義的思考など)は、精神的自立を阻害する。その歪みに付け込む悪意に簡単に踊らされてしまう。そして、本人に悪気がなくとも、間接的に「システム」の増幅を補完することになってしまう。「認知の歪み」の項で紹介した「複眼主義」などによって、そういう「顔なし」にならないための努力をしたいものだ。

 さて、この財欲と名声欲をコントロールできない輩が作りだした「システム」を実際に動かしているのは誰かというと、それは、財欲と名声欲の権化のような人物の後ろに隠れている「官僚」(bureaucrats)と呼ばれる一群である。彼らは「システム」を粛々と運営し、その増幅を図り、それが生み出す財と名声のおこぼれを貰いながら密かに生きている。彼らは国家だけではなく、民営化された機関、理念を失った会社や学校、その他あらゆる惰性に流された組織に忍び込んで来る。立派な建物をシロアリが蝕むように。

 この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」、問題は三つあることが分かる。一つは人の過剰な財欲と名声欲。「五欲について」の項で述べたように、人は誰でも身体の働きとしての「食欲・睡欲・排欲」を持ち、脳の働きとして「財欲と名声欲」を持っていて、「財欲と名声欲」は無限に増殖し得る危険な欲望だ。しかし多くの人は、理性によってそれをコントロールすることができる。人は本来、「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」なのである。こういう「真っ当な人間」が作る組織は健全である。だが一部、財欲と名声欲をコントロールできない輩がいるのが問題の第一。

 そしてもうひとつの問題が、上で述べた認知の歪み。認知の歪みを抱えた人々(顔なし)は、悪気がなくても、財欲と名声欲をコントロールできない輩が作りだした「システム」の自己増幅を助長してしまう。

 そして最後が「官僚」(bureaucrats)と呼ばれるシロアリの群れ。どれも問題なのだが、理性によって財欲と名声欲をコントロールすることと、認知の歪みを正すことを啓蒙してゆけば、時間はかかるかもしれないが、「真っ当な人間」たちを増やすことができる。また、人は誰でも一定期間たてば死んでしまうから、前の二つは困った人たちだけれども、いづれ個体としては死んでしまうから、次の世代に期待することも出来る。しかし最後の問題、官僚主義の問題は、「システム」と共にずっと引き継がれていくから、多少のことでは壊すことができない。むしろストレスを受けると焼け太りする。だから、「真っ当な人間」たちが、それぞれの持ち場で、継続的に気を配って排除しなければならない。

 「神経伝達物質とホルモン」項で、自律神経とホルモン系、免疫系の三つが互いに影響しながら我々の体の恒常性を保っていると述べ、「活性酸素」の項で、体の恒常性が、体内に発生し病や老化を齎す活性酸素を抑制・除去する、と述べたけれど、この社会の「システム」の自己増幅は、身体における「活性酸素」の増殖と同じようなものだ。「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」の問題は、他人事ではなく、我々自身にいつでも忍び寄ってくる病原として捉えるべきなのかもしれない。そうだとすれば、自律神経とホルモン系、免疫系の三つに相当するのが、理性による過剰な財欲と名声欲のコントロール、複眼主義などによる認知の歪みの修正、そして官僚主義の排除なのではないだろうか。

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茂木賛が自ら書き下ろす「オリジナル作品集」、古今東西の優れた短編小説を掲載する「短編小説館」、の二つから構成されています。

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