夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


新しい民泊

2018年07月21日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「民泊新法」の項で、“民泊とは、「住宅の閾(しきい)」を利用して(あるいはちょっと拡張して)行うnon profitな公的活動の筈。一般の営利事業とは違う。それに対して「住宅宿泊事業法」などという仰々しい名前の規制を被せるのはそもそもお門違いではないのか”と書いたけれど、今から3年前、「“コト”のシェアと“サービス”」の項で、

(引用開始)

 このレベルでしかシェア・サービスが語られないのであれば、次に出てくるのは政府による「規制緩和」の話になってしまう。東京オリンピックに向けてどの法律をどう変えて「民泊」を進めるかなどなど。どこまで許可するか、しないか、それが官僚の手の上でもてあそばれるだけだ。

(引用終了)

と書いたことを思い出した。「このレベル」とは、「本来“コト”のシェアは双方向・相互作用である筈なのに、シェア・サービスはまだ業者から顧客への一方向としてしか捉えられていないレベル」という意味。

 3年前の予想通りになったような日本の「民泊」。このままではつまらないから、思考実験として、「新しい民泊」を考えてみたい。まずあなたが「迷惑をかけずに訪日客と交流してきた善意の家主」だとしよう。しかし民泊新法下では営業日数制限や立ち入り検査などの規制が多すぎて事業を続けられない。それならば、いっそのこと宿泊客から金をとらないnon profitな活動に衣替えしたらどうだろう。住宅の閾を貸して訪日客と交流するだけのシンプルな活動。もともと善意の家主なのだから利益は追わない。もらうのはチップだけ。そのかわり宿泊者にはできるだけ近隣商店街で食事や買い物をしてもらう。

 近隣住民の理解、(民法新法を含む既存の宿泊サービスにまつわる法的束縛を受けないことへの)宿泊者の同意、商店街への事前説明などが必要だが、口コミでファンを作ればスタートできる筈。これまで何人もの訪日客と交流してきたのだから。当初は持ち出しになるだろうが、商店街の売り上げが増えれば、店主たちが部屋のメンテナンス費用ぐらい善意で出してくれるかもしれない。

 名前も「民泊」ではなく、街ではやり始めている「オープン・ガーデン(Open Garden)」からヒントを得て、「Open Room for Stay」、略して「ORS」としてはどうだろう。留学生向けホームステイの観光客バージョンと考えても良いかもしれない。

 先日「新しい家族概念」の項で、これからの家族と会社組織の共通点を、

1.家内領域と公共領域の接近→より近い市場での小商い
2.家族構成員相互の理性的関係→社員間のコンセンサス重視
3.価値中心主義→会社理念の共有
4.資質と時間による分業→社員の適材適所
5.家族の自立性の強調→社員の自主性の強調
6.社交の復活→福利厚生の充実
7.非親族への寛容→多様な社員構成
8.大家族→非儲け主義

と符合させだが、自分のところの宿泊者むけに観光案内などの有料サービスを始めてもいいわけで(会社登記もアリ)、「ORS」は家族概念と会社組織の融合を地で行くような事業になるのではないだろうか。

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新しい家族概念

2018年06月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「江戸時代の土地所有」、「小さな経済圏」と、日本の土地問題、住宅問題について見てきた。モノコト・シフトの時代とはいえ、日本にはまだ古い社会的仕組みが多く残っている。

 モノコト・シフトとは、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による行き過ぎた資本主義への反省として、また、科学の還元主義的思考によるモノ信仰の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、動きの見えないモノよりも動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 一方に「建築自由」、公よりも私を優先する土地所有制度があり、もう一方に「一住宅=一家族」、公と私の境界をはっきりさせ私人には公的領域に手を出させない住宅制度がある。この二つの制度を変えない限り、「私」はますます内に閉じ籠り、「公」はますます官僚支配に覆われる。

「私」:高層マンションの一角で携帯ゲームに耽る若者
「公」:勝手に働き方を決め賭博場を作る中央官僚

 「熱狂の時代」の項で書いたように、モノコト・シフトには、暴力を誘発するネガティブな側面がある。いま社会の仕組みを変えないと、そちらが前面に出て、殺人や傷害事件が今よりもさらに増加するだろう。自身への暴力(自傷・自殺)も増える。

 先日「新しい会社概念」の項で、モノコトシフト時代の会社組織について、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という原理を紹介した。「小さな経済圏」の話と併せて考えると、これからの家族概念は、この会社組織のあり方と近接してくるように思えるがいかがだろう。

 モノコトシフト時代の家族の特徴について、以前「新しい家族の枠組み」の項で次のように纏めたことがある。

1.家内領域と公共領域の接近
2.家族構成員相互の理性的関係
3.価値中心主義
4.資質と時間による分業
5.家族の自立性の強調
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族

これは、それより前の「近代家族」が、
 
1.家内領域と公共領域の分離
2.家族構成員相互の強い情緒的関係
3.子供中心主義
4.男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.家族の団体性の強調
6.社交の衰退
7.非親族の排除
8.核家族

という特徴を持つことから考え出したのだが、前者は、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という会社組織のあり方と符合するようにみえる。たとえば、

1.家内領域と公共領域の接近→より近い市場での小商い
2.家族構成員相互の理性的関係→社員間のコンセンサス重視
3.価値中心主義→会社理念の共有
4.資質と時間による分業→社員の適材適所
5.家族の自立性の強調→社員の自主性の強調
6.社交の復活→福利厚生の充実
7.非親族への寛容→多様な社員構成
8.大家族→非儲け主義

のように。

 「新しい会社概念」の項でみたこれまでの会社組織の原理は「より早く、より遠くへ、より合理的に」というもので、これは「近代家族」の特徴と親和性がある。そしてそれは「一住宅=一家族」という住宅政策とリンクする。前回の『脱住宅』序章から引用しよう。

(引用開始)

 一九世紀の産業革命以降、人間の生き方を取り巻く環境が急激に変化しました。なかでも最も大きな変化の一つだと私が思うのは、「一住宅=一家族」という住まい方が一つの普遍性を獲得したことです。一つの家族が一つの住宅に住む、そういった住宅の形式が誕生したこと、そしてこれこそ理想だと多くの人が受け入れていったこと、それこそ「住宅革命」と呼んでいいほどの二〇世紀の大転換であり、二〇世紀を象徴する出来事の一つだと考えています。「一住宅=一家族」という住宅の誕生には、産業革命が大きく影響しています。この住宅は産業労働者のために発明されたからです。(中略)
 その平穏な生活は労働者側からも、理想的な生活だと考えられました。労働者にとっては、仕事から離れ、家族のプライバシーを守りながら安らかに過ごせる空間ですから、喜んでこれを受け入れたのです。一方、供給者側にとってはすべての労働者に同じような住宅を供給することで、同じような家族が再生産されます。つまりばらつきのない均一な労働力を継続的に確保することができるわけです。そしてそれはそのままばらつきのない均一な製品に結びつきます。直接的に利潤に結びつくと考えられたわけです。一九世紀の産業資本家たちのこうした考え方は、第一次世界大戦後のヨーロッパ諸国の国家に運営システムにも大きな影響を与えました。

(引用終了)
<同書 14ページ>

 「私」を外の「公」へ向かわせ、「公」を「私」のneedsに向かわせる。「私」が「公」を支え、「公」が「私」を守る社会。閾や広場の必要性。ヒューマン・スケールの小商いと小さな経済圏としての住宅。多様な家族。会社組織と家族組織の近接。ここまで考えてくると、新しい時代の会社と家族は、「教義と信仰」の項で紹介した、徳川幕府が導入した「家(イエ)」というユニークなシステムと重なってくる。あるいは「デンマークという幸せの国」でみた北欧の国々の先進性。いづれにしてもこれからの日本には大きな社会変革が求められるだろう。さらに研究したい。

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江戸時代の土地所有

2018年06月16日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 日本の土地問題に関して、以前「建築自由と建築不自由」の項で、“日本では、近代化、復興と成長を推し進めるために都市計画法が存在したので、土地所有も建築自由のままできてしまった”と書き、「対抗要件と成立要件」の項で、この建築自由の考え方の基は、明治政府が民法を制定するにあたり手本としたフランスの民法が、土地所有権者の自由を尊重するものだったことにあるらしいと記した。ここで「建築自由」というのは、土地は本来的に所有者の自由になるものだという考え方を指す。それに対して「建築不自由」とは、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという(ドイツ法の)考え方だ。

 今の日本はこの「建築自由」、土地は利用よりも所有が優先するという考え方が蔓延し、廃屋や空き地の第三者有効利用がなかなか進まない。人口が減って私有地の約20%が所有者不明となっているにもかかわらず、行政はそれを利用するための有効な手が打てない。

 それでは、明治時代以前の土地所有はどうなっていたのか。『百姓の力』渡辺尚志著(角川ソフィア文庫)によって、一般的な土地所有のあり方を見てみたい。「おわりに」から引用する。

(引用開始)

 江戸時代における百姓の耕地・屋敷地の所有は、近代的土地所有とは異なる性質をもっていました。まず、土地は幕府・領主との重層的関係のもとにあり、絶対的・排他的所有ではありませんでした。また、契約文書の文言より慣行が優先される場合があり、「契約の絶対性」が貫かれていませんでした。所有の主体の多くは家・村落共同体のような集団であり、個人的所有権は弱かったという点など、近代・現代の所有とは大きく違う点が少なくなかったのです。江戸時代後期には、地主・豪農層を中心に、近代的土地所有につながる考え方も芽生えていましたが、いまだ支配的にはなりえませんでした。
 日本における近代的土地所有権は、明治政府により、上から設定されたという性格が強いものでした。江戸時代の土地所有関係に対して、地券交付・地租改正を通じた近代的土地所有権の実現は、甚大な影響をおよぼしました。個人の排他的な土地所有権を認定することによって、村内の土地各種の有機的な結びつきを切断し、従来の個別所有地のもつ共同体的性格、「村の土地は村のもの」を否定したのです。
 地租改正の実施と、明治一六(一八八三)年以降に続発した困民党事件をはじめとする負債農民騒擾の鎮静化を経て、土地所有のあり方は大きく変わりました。困民党事件後も、農民の間から、近世的な土地所有意識がすっかり消えてしまったわけではありません。ただ、それは弱体化し、近代的な土地所有観念が優勢になったことも否定できません。その意味で、地租改正と困民党事件は、農民の土地所有に関して、近世と近代を分かつ大きな画期でした。以降、明治二〇(一八八七)年の登記法施行、同二二年の地券廃止・土地台帳規則制定と、近代的土地所有は急激に整備されていったのです。

(引用終了)
<同書 239−240ページ(フリガナ省略)>

江戸時代の土地所有は、あきらかに「建築不自由」、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという考え方だ。

 明治新政府は、西洋に追い付け追い越せというスローガンの下、国に民法というものがあること自体が大事で、それまでの考え方との整合性は深く考えなかったのではないか。そのうちに手直しすればよいと思っていたのかもしれない。しかし、戦争に次ぐ戦争、さらに大敗戦と続く中、その機会はついに訪れなかった。

 「建築自由」は公よりも私を優先する。実験的な面白い建物が都市にできるのは良いが、環境保護や景観への配慮は退く。建てたものは古びるから責任者たちがいなくなれば廃屋や廃墟が増える。統治の問題。同書の「おわりに」から最後の部分を引用しよう。

(引用開始)

 現在、私的欲望の野放図な解放は、生態系の破壊や資源の枯渇のみならず、人類の生存まで脅かすにいたりました。転じて江戸時代を見れば、村落共同体は村域内のすみずみまで責任をもち、結果として環境保護や資源の保全という機能を担っていました。つまり、村は土地の共同所有にもとづき、村人の生を担保していたのです。
 これは私たちの先祖の貴重な達成として、繰り返し思い起こされるべきでしょう。

(引用終了)
<同書 241ページ>

これからの時代、先人の知恵に学ぶところは多い筈。『百姓の力』には、土地所有以外にも共同体のあり方がさまざま紹介されていて示唆に富む。副題は「江戸時代から見える日本」。一読をお勧めしたい。

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サンフランシスコ・システム

2017年09月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『知ってはいけない』矢部宏治著(講談社現代新書)を読んだ。副題は「隠された日本支配の構造」。矢部氏の本にはこれまで、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』、『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(両著とも集英社インターナショナル)などあるが、当書はそれらの内容をかみ砕いて整理したもの。章ごとに四コマ漫画などもあって読みやすい。

 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(2014年10月29日発行)については、「国家理念の実現」、<日本の女子力と父性について>、<平岡公威の冒険 5>、<日本の戦後の父性不在>、「歴史の表と裏」などで論じてきた。『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(2016年5月31日発行)については、<根村才一の憂鬱>の中で触れたことがある。

 著者が「サンフランシスコ・システム」と呼ぶ米軍による日本支配は、「国際憲章」→「サンフランシスコ平和条約」→「安保法体系」・「吉田・アチソン交換公文」→「日米合同委員会」・「日米安全保障協議委員会(2+2)」→「基地権密約」・「裁判権密約」・「指揮権密約」といった法的構造を持つ(本書254−255ページ)。これらを(新たな国家理念に基づいて)一つ一つ変更してゆかなければ日本国(state)の独立はないわけだが、その際重要なのは、朝鮮戦争の終結(平和条約締結)であると著者は示唆する。

 1950年に北朝鮮と韓国との間の紛争として始まった朝鮮戦争は、1953年に休戦したが、未だ平和条約は結ばれていない。休戦協定は、参戦した中国と北朝鮮連合軍対、韓国側として参戦した米軍主体の国連軍との間で結ばれている。詳細は本書をお読みいただきたいが、サンフランシスコ平和条約は1951年に署名(1952年から発効)されており、「サンフランシスコ・システム」は、中朝連合軍と国連軍とが戦争状態にある前提で設計・構築されている。朝鮮戦争平和条約が結ばれれば、サンフランシスコ・システムにも見直す契機が訪れる筈。

 父性(国家統治能力)不在の今の政府では、(朝鮮戦争の)平和条約締結に向けた外交など望むべくもないが、条約締結後に、どのような法的構造によって国の独立と安全保障とを担保するか、我々が研究することはできる。矢部氏も「あとがき」の中で、

(引用開始)

急いで調べる必要があるのは、他国のケーススタディです。

〇大国と従属関係にあった国が、どうやって不平等条約を解消したのか。
〇アメリカの軍事支配を受けていた国が、どうやってそこから脱却したのか。
〇自国の独裁政権を倒した人たちは、そのときどのような戦略を立てていたのか。

これからは、そうした「解決策を探す旅」が始まります。

(引用終了)
<同書 258ページ>

と書いておられる。この本で関心を持つ人が増えると良いと思う。

 日本国の独立があろうがなかろうが日々の生活は進んでいく。しかし、連合国軍占領時代(1951年)に生まれた身としては、日本独立の道筋を見極めたい気持ちがある。朝鮮戦争の平和条約締結に向けた外交戦略も含め、これからも研究を続けたい。

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日本の大統領

2016年12月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「鳥瞰的な視野の大切さ」の項で、先のアメリカの大統領選挙に触れ、このブログで提唱している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

を基に、

(引用開始)

トランプ大統領はビジネスライクにA側の仕事をこなしてゆくことだろう。そのとき日本のアメリカとの政治交渉は、B側に偏った日本的発想の政治家たちでは歯が立たない。水戸岡氏のような、A側の大切さが解り尚且つBの重要性に気付いている人が、日本stateに必要となってくるに違いない。

(引用終了)

と書いたが、ここで、日本stateの代表にどのような人が相応しいか考えてみたい。「プライムアーティストしての天皇」の項で紹介した『天皇と憲法』島田裕巳著(朝日新書)でいう「日本の大統領」にどのような人が相応しいのか。

 以前『百花深処』<日本の戦後の父性不在>の項で、日本国の権力者が米軍に従属する道を選んだ理由を、

(1) 環境中心の考え方
(2) 優秀な人材は経済復興に
(3) 認知の歪み
(4) ヤンキー化
(5) 老人の隠居
(6) 国家理念の不在

と纏めたが、父性の復活を果たす(この六項目を一つずつ引っ繰り返してゆく)には、第一に、(1)の環境中心の考え方=B側の発想から脱却し、A側の発想ができる人が必要である。これは議論の余地がないと思う。

 このブログで最近取り上げた、

黒川伊保子さん(「脳と身体 II」)
竹村公太郎氏(「中小水力発電」)
島田裕巳氏(「プライムアーティストしての天皇」)
伊東豊雄氏(「みんなの家 II」)
西原克哉氏(「重力進化学 II」)

の各氏は、水戸岡氏(「物事の繋がりの重要性」)同様、AとBのバランスを心得た有能な人々だろう。

 思考実験として、日本の大統領にいかなる人が相応しいかを、この6名の中で考えてみる。先日「女性による父性代行」の項で、『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』(チャン・ショウチョン監督)という映画を紹介し、

(引用開始)

<日本の戦後の父性不在>の問題は、女性による父性代行によって補われ得る。そのことをこのラストは示唆しているように思えた。

(引用終了)

と書いたが、これをヒントに、私は黒川伊保子さんに注目したい。

 黒川さんは女性だからB側の発想については自家薬籠の中の物。尚且つA側の発想ができる。日本はもともと女性性が強い。外国も日本の強さをそこに見ている筈。とすれば、女性でA側の発想ができる人、そういう人が日本の大統領として一番相応しいのではあるまいか。いかがだろう。

 勿論、実際の大統領には、女性でA側の発想ができる人というだけではなく、それ以外の様々な資質、見識、能力他が求められるから、最適な人がいまの日本に居るかどうかわからないけれど。

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プライムアーティストとしての天皇

2016年10月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 宗教学者島田裕巳氏の『天皇と憲法』(朝日新書)という本を読んだ。副題に「皇室典範をどう変えるか」とある。カバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

天皇制に最大の危機が訪れている――。
このまま何もしなければ、皇室以外の宮家が消滅することはもちろん、皇位継承資格者がまったくいなくなる事態も予想される。
天皇がいなければ首相の任命も、法律の公布もできない。
つまり、日本が国家としての体をなさなくなる。
私たちは現在の憲法を見直し、その大胆な改革を
めざすべき状況に立ち至っているのである。

(引用終了)

 島田氏の著書についてはこれまで、『宗教消滅』(SB新書)を「宗教から芸術へ」の項で、『神道はなぜ教えがないのか』(ワニ文庫)を「神道について」の項で論じてきた。本書は今年天皇が「生前退位」の意向を示したことを受けて緊急出版されたものだが、議論はそれらの著書の延長線上にある。ここで論じる内容も前二項を踏まえたものとなるから、そちらにも目を通していただきたい。

 同氏も本書の構想を以前から持っておられたようだ。「あとがき」で、「私は、生前退位の問題が起こる少し前から、現在の日本国憲法と大日本帝国憲法、それに新旧の皇室典範を収録して解説を加えた本を作りたいという意向をもっていて、本書の編集をしてくれた大場葉子さんに提案していた。それが、天皇に生前退位の意向があるという報道がなされたことで、一気に実現することになった」と書いておられる。

 本書の目次は、

はじめに
第一章 天皇とは何か
第二章 わび状としての日本国憲法
第三章 大日本帝国憲法と皇室典範との関係
第四章 皇室典範が温存されたことの問題点
第五章 どのように憲法を変えていかなければならないのか
おわりに
あとがき
付録:皇室典範、旧皇室典範

となっている。第一章は、国の象徴とは何か、皇室典範と憲法の関係、女帝について、天皇の仕事、皇位継承における議論など。第二章は、おしつけ憲法と自主憲法、第九条を巡る議論、わび状としての誓約、使命を終えた憲法など。第三章は、明治時代の憲法と皇室典範の説明。第四章は、国家神道が解体されたにもかかわらず戦後も残された皇室典範、核家族としての天皇家といった問題点の整理。第五章では、公選大統領制の導入という新しい考え方が示される。

 このブログでは、以前「nationとstate」の項で、

(引用開始)

nationとは、文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団、すなわち民族や国民を意味し、stateとは、その集団の居場所と機構を意味するという。日本は、歴史的な経緯から「民族・国民」と「国家」の一体性が強いが、二つは必ずしもイコールではないわけだ。

(引用終了)

と書き、stateは、nation(の人々の間)で合意された「理念と目的」に基づいて、合理的に統治・運営されなければならないと述べた。

 詳細は本書をお読みいただきたいが、島田氏の大統領制議論をこれに引き付けて考えると、天皇は(stateを縛る憲法下に置くのではなく)nationの側で日本民族や国民を象徴する存在とし、新設の大統領がhead of state(国家元首)としてstate側を代表すべきという考え方のようだ。首相はstateでの筆頭業務執行官(プライムミニスター)。

(引用開始)

 できることは、憲法を改正して、日本にも大統領制を導入することである。現在、天皇の国事行為とされていることの大半を大統領の果たすべき役割とするように、新しい憲法で定めるのである。
 それは、憲法に支えられた天皇制という形態を廃止することにはなるが、あえて天皇や皇室の存在を否定する必要はない。天皇と大統領が役割を分担し、併存すればいいのだ。
 その際に、天皇の地位その他を憲法によっては規定しないことである。天皇を憲法の枠から解放することは、かえって皇位継承を容易にする可能性がある。少なくともその負担を小さくすることができるし、どう継承するかを、天皇家の主体的な判断で決定できるようにもなるからだ。憲法改正にともなって、皇室典範も大幅に変わるか、もしくは廃止されるはずだ。

(引用終了)
<同書 189−190ページ>

 天皇を憲法や皇室典範などというstate側を縛る法律から自由にする。これはなかなか良いアイデアだと思う。明治時代に作られた天皇制そのものを見直そうということだ。

 この場合天皇は、日本の文化を象徴することとなるだろう。これは三島由紀夫(本名平岡公威)の「文化概念としての天皇」と近い考え方といえるかもしれない。

 「宗教から芸術へ」と「神道について」の両項では、これからの時代、共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになってゆくべきであり、「庭園・芸術都市」こそこれからの日本に相応しいとしたが、そのコンセプトを是とすると、日本の天皇は、その共同体の象徴として、自然と芸術を守る「筆頭芸術家(プライムアーティスト)」と呼ぶべき存在になるわけだ。

 東京の真ん中で自然を守る家(皇居)に住まい、各種芸術活動を支援し正月には歌会始を行うなど、思えば今でも天皇は「プライムアーティスト」として活動しておられる。だから国会の召集などのstate側の仕事を大統領に任せれば、そのつとめは今とほとんど変わらないだろう。

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賢人ネットワーク

2016年08月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『百花深処』で<根村才一の憂鬱>を書き、当ブログで「住宅からの象徴の喪失」を書いたが、その両項で扱った<日本の戦後の父性不在>の問題が頭から離れない。複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を掲げ、A側とB側のバランスを大切に考えるが、父性不在とは社会がB側に偏重してこのバランスが取れていない状態である。

 西洋と出会う前の日本では、古来A側は漢文的発想で担われてきた。「レトリックについて II」の項でもみたが、明治以降の近代日本語は、「漢文脈からの離脱」と「言文一致」によって、(もともと日本語的発想はB側が強いのにさらに)A側の発想を弱めてしまった。

 A側の発想が弱まったことは、産業構造の変化に伴う公的役割の移行、すなわち、家父長制度下での「家」から近代家族(核家族制)下での「個」への移行、をより困難なものにした。「個」が公的役割を担うには自立が求められるが、そのためにはどうしても「主格中心」の発想を強く持たなければならない。「近代西欧語のすすめ」の項で論じたのもこのことである。家父長制度の下で自立を求められたのは家長だけだったが、近代社会ではそれが核家族の世帯主に広がった。二一世紀に入り、産業構造変化によって「近代家族」は「新しい家族の枠組み」へと移り変わるが、ここにおいて公的役割を担うべき主体は、さらにすべての成年男女へと広がった。社会としてA側とB側のバランスをどう取るか。

 『日本の大問題』養老孟司・藻谷浩介共著(中央公論新社)という本を読みながら考えていたのもこのことだった。本の副題は「現在をどう生きるか」。本の帯表紙には藻谷氏の写真の横に「日本人は大丈夫でしょうか」とあり、養老氏の写真の横に(藻谷氏の質問に答えるような形で)「案外あてになる」と書いてある。「案外あてになる」のは日本人のどの部分なのか。氏のロジックに沿って考えてみよう。本文からその対話部分を引用しよう。

(引用開始)

藻谷 マスコミの経済担当どころか、経済学者でも、アベノミクスの論点が何なのかすら見えていない。「専門家」がこれで、日本は大丈夫なのでしょうか。
養老 いや、本質的には大丈夫だと思っています。前も、大衆は信用できるかという話になりましたね。日本人は、心の奥ではわかっていて、妥当な判断ができる。案外あてになるな、というのが僕の感覚です。

(引用終了)
<同書 184ページ>

「あてになる」のは「日本の大衆」。「心の奥ではわかっていて」とあるから、それは、複眼主義でいうA側の「脳(大脳新皮質)の働き」というよりも、B側の「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」の部分だろう。日本(語)人はこちら側が強い。氏はそれをB側の「感覚」で把握する。そして別の個所で氏は次のようにいう。

(引用開始)

養老 日本の場合、結局、個は定着できないんです。夏目漱石が西洋文化とぶつかって一番悩んだこと、それは個の問題でしょう。悩みすぎたのか、胃潰瘍になって死んでいます。

(引用終了)
<同書 189ページ>

日本人には「個」が定着しないからA側の理性的思考はだめだけれど、B側の身体感性的思考は充分あてになるということなのだ。

 ところで、ここを読んで私は夏目漱石(本名夏目金太郎)の『三四郎』(新潮文庫)の有名な個所を思い出した。上京する三四郎と、かの男(広田先生)との列車内の会話である。

(引用開始)

 三四郎は(中略)「然しこれから日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「亡(ほろ)びるね」と云った。

(引用終了)
<同書 23ページ>

藻谷氏は山口県出の赤門卒業、養老氏は赤門の先生だから、藻谷氏が三四郎で、養老氏が広田先生。日本の将来についての養老氏の答えは「日本人は案外あてになる」で、広田先生の答えは「亡(ほろ)びるね」だから真逆だけれど、複眼主義を補助線にして考えれば、日本が「亡びる」のはA側の発想が弱いからであり、「案外あてになる」のはB側の発想の方だとわかる。

 しかし、社会はB側だけに依存するわけにはいかない。極端なB側依存は全体主義を招く(戦前の大日本帝国のように)。このブログでは日本語の強化によって「個」の自立を促すことを提唱しているが、養老氏は日本のA側問題(父性の不在)についてどう考えるのか。それがこの項のタイトルにした「賢人ネットワーク」である。

(引用開始)

藻谷 状況依存が強い人は、アイデンティティやインテグリティ(人格的統一性)が弱くなるのでは。
養老 だから、完全な状況依存なら、その人はいらない。その人自体が状況の一部になってしまうようでは。(中略)
藻谷 世の中が滅茶苦茶になってから果敢に抵抗するのでは、英雄的な話としてはおもしろいけれど、そもそも英雄が必要な状況になる前に止めるほうがずっと良い。そう思いながらささやかに行動しているのですが、無茶な金融緩和などを見ていると、どうも雲行きが怪しくなってきました。
養老 もともとフリーメイソンとかマフィアというのは、そのためにできたんじゃないでしょうか。つまり、社会の問題を早期に是正したいと考えた人たちが作ったんじゃないか。ネットワークを使って、水面下で問題の芽を摘み取っていくために。(中略)
藻谷 日本で言えば、京都の町衆がそのネットワークに近いかもしれません。
養老 結局、都市化するとそういうものができてくるような気がします。みんな公のネットワークが頼りにならないことはよくわかっていますから。日本はそれを「世間」という言い方をしてなんとかやってきたわけです。日本で、目に見えず、社会の安定に寄与してきたのが「世間」です。
藻谷 その「世間」を、都市化の中でズタズタに解体したのが戦後日本かもしれません。それぞれの会社の中に世間があって、辞めたらサヨナラ。そうであればこそ確かに、善意の裏ネットワークというのは、これからの日本で大事になるかもしれませんね。私も年間に登壇・面談・会食の類を千回以上重ねる生活なので、できる範囲でそこそこネットワークを形成してきているかもしれません。
養老 いざとなると、藻谷さんの知り合いたちが動き出すかもしれませんよ。僕自身、すこしそうなって来ているんです。
藻谷 養老マフィアができつつある(笑)。

(引用終了)
<同書 199−213ページ>

養老マフィアとでもいうべき「賢人ネットワーク」を機能させること、それが養老氏のA側対策であるらしい。

 家父長制度に代わる新しい賢人ネットワーク。それは表立った組織とはならないけれど、非組織的な強靭な抵抗の仕方だという(同書215ページ)。何がどう動き始めるかまだわからないが、養老氏の今後の活動が興味深い。

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住宅からの象徴の消失

2016年08月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『日本の家』中川武著(角川ソフィア文庫)という本を読んだ。去年(2015年)10月に出版された文庫。元の単行本は2002年6月TOTO出版から刊行されたと奥付にある。建築史家が日本の家屋の詳細を綴ったもので、手軽だが写真や図も多く巻末の用語解説も充実している。本カバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

たとえば大黒柱に縁側、上がり框や雪見障子、畳に襖――日本の家には四季を取り入れ、古来の習俗と共に生きてきた先人の知恵と情緒、美意識が込められている。その歴史や変遷、計算された構造を紐解きながら、家の持つ本来の意味、住まうとは何かを考える。生活が西欧化し、自由なデザインや利便性の高い住宅建築が急増する現代、伝統的な家のしつらいを見直し、世界が憧れた日本建築の全てを美しい写真と共にたどる決定版!

(引用終了)

 本の内容は、「境界空間」や「仕切り」などといった項目ごとに、<三和土(たたき)><上がり框>といった細目が並ぶ。目次を列記すると、

「境界空間」
<三和土(たたき)>
<上がり框(あがりかまち)>
<沓脱石(くつぬぎいし)>
<縁側(えんがわ)>
<土庇(どひさし)>

「仕切り」
<格子(こうし)>
<葦簀(よしず)>
<襖(ふすま)>
<雪見障子(ゆきみしょうじ)>

「場」
<囲炉裏(いろり)>
<風呂(ふろ)>
<茶の間(ちゃのま)>
<勝手(かって)>

「部位」
<大黒柱(だいこうばしら)>
<長押(なげし)>
<押板(おしいた)>
<天井(てんじょう)>

「しつらい」
<畳(たたみ)>
<箱階段(はこかいだん)>
<箪笥(たんす)>

「素材」
<漆(うるし)>
<瓦(かわら)>

「象徴」
<仏壇(ぶつだん)>
<表札(ひょうさつ)>
<地鎮祭(じちんさい)>

ということで、今の洋風家屋では忘れられた細目も多くあって勉強になる。

 このブログではこれまで、「広場の思想と縁側の思想」「境界設計」などの項で、日本家屋における「境界」の特徴を見てきたが、この本の「境界空間」「仕切り」では、その歴史や構造についてより詳細に知ることができる。

 日本の家屋は、当然のことながら、日本の家族制度と共に変遷してきた。戦前までの日本では、「公」=父性は、「個人」ではなく「家」によって担われていたが、戦後、新憲法がそれを壊して「個人」に置き換えた。近代の産業構造とも相俟って、家族制度は「家父長制」から「近代家族(核家族制)」に移行したが、個人の精神的自立が進まない日本において、「公」の担い手の(家から個人への)移行はスムーズではなかった。社会制度との整合も進まず、育児・教育・雇用・介護・相続などの面で、家族と社会における責任と権限の混乱は今も続いている。

「場」
<囲炉裏(いろり)>
<風呂(ふろ)>
<茶の間(ちゃのま)>
<勝手(かって)>

「象徴」
<仏壇(ぶつだん)>
<表札(ひょうさつ)>
<地鎮祭(じちんさい)>

の各細目は、このあたりのことを考える上で参考になる。「象徴」という項目の下に付けられた短い文章を引用したい。

(引用開始)

住宅とは何か、と問われれば、すぐには答えられないほど多くの説明が必要なように思われる。では、住宅を象徴するものは何か、という問いではどうだろうか。その答えの一つに、家族があるだろう。では家族とは、と問うと、また曖昧になってくる。そこで強引に、家族を象徴するものは生と死である、と考えることにする。現在(いま)、住宅から生と死が消滅しつつあり、家族共同体や、地縁から縁遠くなって久しい。これらはもちろん、本来象徴的にしか住宅に含むことができないものであった。この、住宅からの象徴の喪失こそ、伝統的な日本住宅の衰退の始まりだったのではないだろうか。

(引用終了)
<同書237ページ>

 近代の産業構造は二一世紀になってさらに変わり、これからは「新しい家族の枠組み」が必要とされるようになってきた。「家父長制度」→「近代家族(核家族制)」→「新しい家族の枠組み」といった変遷とその混乱を、「住宅からの象徴の消失」といった観点からみるのは面白い。

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神道について

2016年07月19日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著(ワニ文庫)を面白く読んだ。日本固有の神道は、開祖も、教義も、救済もない、ないないづくしの不思議な宗教だという。本カバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 古代から現代にいたるまで私たちの暮らしに深く関わっている「神道」。だが私たち日本人は「神道」という宗教の本質を本当に理解しているといえるだろうか?本書では、開祖もいなければ、教義もない、そして救済もない「ない宗教」としての神道の本質を見定め、その展開を追う。日本人が神道とどのようにかかわってきたかを明らかにすることは、私たち日本人の基本的な世界観や人生観を考えることにつながっていくのである。

(引用終了)

 先日「宗教から芸術へ」の項で、同じ島田氏の『宗教消滅』(SB新書)という本を論じた際、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

において、宗教における「教義」の部分は、もっぱらAの側で理論構築され、感性が支配する「信仰」部分は、おおむねBの側と親和性が強いと書いたが、日本固有の神道にはなんとAの側がないわけだ。日本語的発想だけでA側の教義を構築することの難しさである。ちなみに、西洋と出会う前の日本では、古来A側は漢文的発想によって担われてきた。

 同項ではまた、普通の宗教はAとBのバランスの上に築かれるもので、独善的な教義や行き過ぎた信仰行為は抑制されると書いたが、神道の場合、Aがなくてどのように信仰が抑制され得るのか。教義がなくてどのように信仰があるのか。

 神道のもとを辿れば、古代から日本列島にあった自然信仰に行き着く。『百花深処』<修験道について>の項でみたように、古代からの自然信仰は中国の陰陽五行思想と習合して神道となり、その神道は仏教と習合する。神道はその後、儒教とも習合する。つまり日本人は、神道の教義のない部分を、他の思想や宗教の教義で補ってきた。「教義」は外来思想・宗教、「信仰」は神道ということで、AとBのバランスをなんとか保ってきたわけだ。

 しかし、王政復古によって誕生した明治政府は、祭政一致の国家体制をつくるべく、「神仏判然令」(「神仏分離令」ともいう)によって、神社から仏教的要素を一掃した。廃仏毀釈である。江戸時代より、神道の「教義」の部分をなんとか自前の思想でつくろうということで「国学」が生まれていたのだが、明治政府はこれを利用した。それを復古神道という。

 だが、西洋はこの段階で近代国家をつくっており、古い祭政一致の試みは失敗に終る。明治政府は次に西洋の立憲君主制を範に取り、天皇を君主とする立憲君主制を採用する。さらに天皇を現人神とする「皇室祭祀」を整えた。その際、神道は国家全体の祭祀であり宗教ではないとされた。それが国家神道である。形だけ西洋に範を取りながら、頭は祭政一致にあったのだろう。

 宗教でなければ「教義」も「信仰」もない。神道が「ない宗教」だったからできた荒業というべきである。だが国家神道は国民をむちゃくちゃな戦争へ駆り立てていった。もはや国にAとBのバランスを取るメカニズムは存在しなかった。

 戦後、国家神道は崩壊し、神社には宗教法人格が与えられる。明治以前に戻ったわけだが、神道に「教義」はないのだから、AとBのバランスは崩れたままだ。A側の不在。これは『百花深処』で書いた<日本の戦後の父性不在>に繋がる問題である。

 これからの時代、「宗教から芸術へ」の項で見たように、共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになっていくべきだと思う。A側は、宗教の教義によってではなく、「日本流ディベート」の項で述べたような「対話」をベースにしたResource Planning、立法・行政制度設計であるべきだろう。その際、A側不在の神道は、昔の自然信仰の象徴として機能させるべきだと思う。

 先日あたらしい小説『記号のような男』を書いた。主眼は「形のあるものをつなぐと、形のないことのつながりが見えてくる」というテーマなのだが、社会の奥にある人々の心の拠り所として、「神道=山岳信仰」というコンセプトを明示採用してみた。併せてお読みいただけると嬉しい。

P.S. 小説『記号のような男』はリライト中。小説投稿サイト「カクヨム」の該当記事を非公開にしました。(5/5/2019)電子書籍サイト「茂木賛の世界」に小説『記号のような男』のリライトバージョンをアップしました。(5/26/2019)

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宗教から芸術へ

2016年06月21日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 宗教学者島田裕巳氏の『宗教消滅』(SB新書)という本を興味深く読んだ。副題に「資本主義は宗教と心中する」とある。本の帯裏表紙から著者の現状認識を引用しよう。

(引用開始)

イスラム国、
無縁社会、
ゼロ葬―――
宗教崩壊は、他人事ではない!
●仏教――真言宗の本山である高野山で参拝者が4割減!
●カトリック――フランスでは空っぽの教会が次々とサーカスに売却
●プロテスタント――韓国で現世利益だけを訴える偽キリスト教が跋扈
●イスラム教――人口増による世俗化で原理主義との対立が激化
●創価学会――婦人部の会員が高齢化し集票能力に翳り
●幸福の科学――若い世代に受け継がれずに90年代の信者が高齢化
●アメリカ――広がるのは病気治しの奇跡宗教ばかり
●中国――バチカン非公認のカトリックを政府が弾圧

(引用終了)

島田氏はこういった各宗教の状況を丁寧に辿りながら、高度資本主義社会はやがてあらゆる宗教を消滅させるだろうと予測する。本のカバー裏表紙には、

(引用開始)

高度資本主義が、世界の宗教を滅ぼす!

日本社会において、新宗教が衰退しているからといって、多くの人は何の問題も感じないかもしれない。しかし、新宗教の教団が、皆、戦後に急速に拡大していったことを考えると、そこには日本社会が変容をとげようとする姿が見えてくる。しかも衰退しているのは新宗教だけではない。仏教だろうと神道だろうと、やはり衰退の兆しが見える。なぜ、そうした事態が生じているのか。これから考えようとするのは、極めて重要な問題である。

(引用終了)

とある。氏はこのような問題意識から、さまざまな国や地域の宗教をめぐる状況を調べるなかで、そこに予想以上の大きな変動が起っていることがわかってきたという。高度資本主義による伝統的な社会システムの崩壊、個人が共同体とは無縁な生活を送る状況などなど。詳しくは本書をお読みいただきたいが、「あとがき」から氏の言葉を引用したい。

(引用開始)

 なぜそうした変化が起っているのか。
 そこには、資本主義のおかれた今日的な状況が深くかかわっている。東西の冷戦が終焉を迎えたときには、資本主義が世界全体に広まり、それによって自由で豊な社会が各地に拡大されていくと信じられた。
 しかし、冷戦の崩壊がもたらした経済のグローバル化は、必ずしも豊かさだけをもたらしたわけではない。経済格差や貧困、そして、異なる宗教を信仰する人々のあいだでの対立や抗争をももたらした。
 経済は無限に発展し続けるものではない。ある程度の豊かさが実現されれば、高度な発展には終焉がもたらされる。資本主義は、市場を拡大することで発展していくものだが、市場の拡大にはどうしても限界があるからだ。
 経済と宗教とは深く連動している。とくにそのことは、現代の社会において明確になってきたのかもしれない。宗教は、日本人の多くが考えるように、たんにこころの問題ではなく、社会の動きと密接な関係を持っているのだ。
 経済学の分野では、昨今、資本主義の終焉ということが強く言われるようになってきた。資本主義が終焉を迎えるということは、それと深く連動してきた宗教にも根本的な変化がもたらされることを意味する。それはどうやら、宗教の消滅という方向にむかいつつあるのである。
 資本主義の先に何があるのか。それを考える上においても、宗教の動向を見ていくことは不可欠である。本書が人類社会のこれからを考えていく上で、少しでも役立てば幸いである。

(引用終了)
<同書242−243ページ>

 この先に何があるのか。このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと書いている。モノコト・シフトとは、「 “モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。動きのない「モノ」は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるAと親和性が強く、動きのある「コト」はBと親和性が強い。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 宗教に引き寄せてこの対比を考えてみると、一神教と多神教の違いはあるが、宗教における「教義」の部分は、もっぱらAの側で理論構築され、感性が支配する「信仰」部分は、おおむねBの側と親和性が強い。

 普通の宗教はAとBのバランスの上に築かれるもので、独善的な教義や行き過ぎた信仰行為は抑制されるが、島田氏のいう宗教崩壊とは、このバランスが崩れた状態を指すだろう。

 モノコト・シフトの時代は、Bの考え方の比重が高まるわけで、時として過激な熱狂=信仰が社会を揺り動かす。このことは「熱狂の時代」の項で書いた。熱狂は外に向かって先鋭化するとテロなどを起こす。一方それについていけない人々の一部は、熱狂心をゲームやアイドルなどに振り向ける。それが行き過ぎると殺傷事件などを引き起こす。

 この先の時代、AとBのバランスをどう取っていくか。参考になることが『芸術立国論』平田オリザ著(集英社新書)に書いてある。この本は2001年初版だからもう15年前に出たものだがその内容は今尚新鮮だ。本のカバー裏の紹介文を引用する。

(引用開始)

 日本再生のカギは芸術文化立国をめざすところにある!著者は人気劇作家・演出家として日本各地をまわり、また芸術文化行政について活発に発言する論客として知られる。精神の健康、経済再生、教育等の面から、日本人に今、いかに芸術が必要か、文化予算はどう使われるべきかを、体験とデータをもとに綿密に検証する。真に実効性のある芸術文化政策を提言する画期的なヴィジョンの書。これは芸術の観点から考えた構造改革だ!

(引用終了)

 演劇など「芸術」による立国。この考え方は日本だけでなくこれからの(宗教が消滅する)世界に通用すると思う。近代以前、さらに近代に入ってからもしばらく、社会はAとBのバランス統治を、健全な宗教に求めてきた。しかし伝統的共同体が崩壊する一方で科学が発展し、いろいろな事象の因果関係がより高解像度で見えてくると、宗教に代わる、より理知的なバランス統治の仕組みが必要になってくる。これまでの「近代家族」の枠組みは、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

であり、これからの「新しい家族の枠組み」は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

である。これからの共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになっていく筈だ。理知的といっても複眼主義でいうAの側だけでなく、Bの側にも充分訴えかけるもの。人々の熱狂をも吸収できる仕組み。それはAとB双方に親和性を持つ「芸術」以外にないのではないか。芸術による街づくり。それがこれから求められると思う。先日『百花深処』<二冊の本について>の項でみた、「邸宅美術館」とも通ずる考え方である。

 尚、平田氏には、最近の著作とし『下り坂をそろそろと下りる』(講談社現代新書)がある。その問題意識は『芸術立国論』から変らない。その間に書かれた『わかりあえないことから』(講談社現代新書)について、以前「会話と対話」の項で論じた。このことは前回「日本流ディベート」でも触れた。出版の順番は、

『芸術立国論』(2001年)
『わかりあえないことから』(2012年)
『下り坂をそろそろと下りる』(2016年)

である。「会話と対話」の項も併せてお読みいただければ嬉しい。

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日本流ディベート

2016年06月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今回は『和の国富論』藻谷浩介著(新潮社)にある「日本流ディベート」という言葉を紹介したい。この言葉は、<第四章:「崩壊学級」でリーダーが育つ……菊池省三(元小学校教師)>の中に出てくる。少し長くなるがその対話部分を引用する。

(引用開始)

藻谷 もう一つ、菊池先生の授業で素晴らしいと思ったのは、ディベートです。
菊池 そう言ってもらえるのは嬉しいです。二十年近く前から始めたんですが、当時はまだ「一斉指導がすべて」「授業は知識を教えるもの」という古い授業感の時代でしたから、すっかりお偉方の先生から睨まれてしまって……周りの教師仲間も離れていき、あの頃はかなり苦しい思いをしました。
藻谷 きっと「小学生に“言い争い”をさせるなんて、とんでもない」とか、訳の分からん批判をする人がいたんでしょう。でも、ディベートは世界に出て行くビジネスパーソンになるためには必須のスキルです。もちろん、義務教育で世界に通じるビジネスパーソンを育てる必要はないいだけど……。
菊池 いや、ディベートはやり方がまずいとトラブルになりかねないので、事前にルールを丁寧に説明します。ディベートと言うと、アメリカ型のガチガチの討論をイメージしてしまうかもしれませんが、私の授業では、相手のプライドを叩き潰すような議論はルール違反。互いの価値観を尊重しながら堂々と意見をぶつけ合う“日本流ディベート”をやろうとしています。
藻谷 そこが素晴らしいと思ったポイントです。自動車でも料理でも、西洋のものが日本に入ってくると、マイルドで優しく、かつ汎用性が高い形にモディファイされて、それがまた西洋社会に還元されていく。特に日本に限らずアジアでのビジネスでは、相手のメンツを立てつつ、かつ言うべきことは言って、互いが折り合う地点を見つけていくという能力が極めて重要になりますから、今後、菊池先生の日本流ディベートの教育はどんどん世界に広がっていくべきではないでしょうか。
菊池 ただ、ディベートを授業に取り入れるためにいろいろ勉強したのですが、やはり個が自立している西洋社会に比べると、日本はまだ「群れ」社会だと思いました。「群れ」の外にいる人とのコミュニケーション力がとても弱い。(中略)だから、お互いを知り合い、「安心できる集団」と「自分への自信」を育むため、私の学級では「ほめ言葉シャワー」をやるんです。帰りのホームルームで、その日の日直がみなの前に立ち、クラスの子たちが思い思いに挙手して、その子のいいところを見つけて、とにかく褒めまくる。褒めるためには、その子に関心を抱いてよく観察しないといけませんし、その理由を表現する力も必要です。子供は誰でも「褒められたい」という思いがあるから、そこを刺戟されると、次はもっと褒められたいとやる気が出る、この好循環を生み出すためには、それなりの方法論が必要ですが、「ほめ言葉シャワー」をうまく回せるようになれば、集団に対する安心感と、自分に対する自信が培われます。するとクラスに落ち着きが生まれ、互いに相手を尊重する雰囲気が生まれます。

(引用終了)
<同書 125−127ページ>

 以前「会話と対話」の項で、『わかりあえないことから』平田オリザ著(講談社現代新書)の「会話」と「対話」の定義、

「会話」:価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

を紹介し、「複眼主義」によって、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

と関連付けたことがあるが、「日本流ディベート」は、日本人が両方を上手くコントロールして成果を挙げる手法として素晴らしいと思う。

 「会話と対話」の項でも述べたが、ディベート(対話)は、「新しい家族の枠組み」8項目、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

とも整合するし、起業家にとってもその能力は欠かすことが出来ない。「ほめ言葉シャワー」という手法は子供だけでなく大人の間でも通用すると思う。皆さんの組織でも実践してみてはいかがだろう。

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英国の歴史

2015年07月07日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 福田恒存の『私の英国史』が中公文庫から復刻されたので、この春じっくりと読んだ。単行本は1980年に出たとあるから35年ぶりのこと、端正な旧仮名の文章は読みやすく、内容は重厚だが分りやすい。カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

ノルマン人征服から、チャールズ一世の処刑(清教徒革命)まで。美徳と悪徳、利己心と虚栄心、愚行と蛮行……、史劇さながらに展開する歴代国王の事績を、公正な眼差しで叙述した、シェイクスピア翻訳者・福田恒存が書きたかった英国史。ジョン・バートン編「空しき王冠」(福田逸・訳)を併録。
解説・浜崎洋介

(引用終了)

とあり、本の帯には<現代日本のために……「反省の鑑(かがみ)」としての英国史>とあった。

 ノルマン人征服からプランタジネット朝、テューダー朝からステュアート朝に至る歴史の中で、立憲君主制がどのようにして成立し維持されてきたのか、本の帯にあるように、同じ体制を標榜する日本国との違いについて考えさせられる。反省の鑑は立憲君主制のことだけに限らない。以前「nationとstate」や「ヒト・モノ・カネの複合統治」の項で21世紀の国家(state)のあり方について論じたが、United Kingdomという連邦国家は複合社会であり、その歴史と今を深く知ることは、これからの日本列島の統治そのものを論じる上で大いに参考になる筈だ。同じ島国という類似性もある。本書の「あとがき」から引用したい。

(引用開始)

 私は本文の中で、「英国史の基調音」といふ言葉を用ゐたが、それは宗教的には英国国教会といふ鵺的なものを生み、道徳的には愛国心と利己心との妥協によって、個人の自由を確保し、政治的には中央集権的指導力(統治する技術)と民主主義(統治される或は統治させる技術)とを融合させ、心情的には国家主義と国際主義とを両立させる事によつて、ヨーロッパのどの国よりも先に近代国家として出発した事を意味する。随つて「私の英国史」は「英国の為の英国史」ではなく、「現代日本の為の英国史」といふ意味でもある。正直に言つて、私は過去の英国の歴史に対して飽くまで忠実であらうと努めながらも、現代の日本にとつてこれほど格好な反省の鑑はあるまいと思ふ箇処が随所にあり、さう書き添へたい誘惑に駆られる事が屢々であった。福沢諭吉に倣つて新「西洋事情」英国篇の積りだと言つたら、その厚顔無恥を嗤はれるであらうか。

(引用終了)
<同書 367ページより。フリガナ省略>

 ご存知のようにこのブログでは「複眼主義」と称して、

A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想

という対比を論じているが、政治体制の背景には当然言葉がある。百年戦争(フランスとの戦い)や薔薇戦争(ランカスター家とヨーク家の争い)、英国国教会設立などの詳しい背景を知ることは、英語の来歴を考える上でも重要だ。

 読むきっかけを与えてくれた新聞の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

アングロサクソン人定住から百年戦争などをへて、清教徒革命のチャールズ一世処刑まで、歴代国王の盛衰や波乱が史劇のごとく展開する英国史。シェークスピア翻訳の泰斗でもある保守派の論客が、民主主義を標榜する戦後日本にとり<反省の鑑>とすべき点は多いとの思いを込めて執筆。バートン編「空しき王冠」を併録。

(引用終了)
<東京新聞 4/5/2015(フリガナ省略)>

この名著を復刻した中公文庫の編集部と、協力したご子息の福田逸氏に感謝したい。

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高度成長という幻想

2015年03月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 これからの日本のあるべき姿や将来展望を、ここまで、政治・政策の視点から(「地方の時代 III」)、識者の対談から(「心ここに在らずの大人たち」)、体験的エッセイとして(「フルサトをつくる若者たち」)、さらに小説を通じて(「限界集落は将来有望」)見てきたわけだが、それを、経済を通して考えるのが『脱・成長神話』武田春人著(朝日新書)という本である。副題に「歴史から見た日本経済のゆくえ」とある。まず新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

量より質で広がる選択肢

 「成長の限界」とか「脱成長」という言葉が使われ始めてから久しいが、新聞や雑誌には相変わらずいまのデフレから脱却し、いかにして成長復活への道を探るべきかという論説があちこちに見られる。現政権が「アベノミクス」の三本の矢のひとつに「成長戦略」を掲げていることからもわかるように、かつての高度成長の記憶はいまだに私たちの思考法を支配しているかのようだ。だが著者は、歴史家の立場から資本主義経済三百年の歴史を振り返り、永続的な高度成長などは一時的な現象に過ぎない、と説得力をもって論じている。
 成長なしでは私たちの生活が豊にならないのではないか、という反論がある。しかし、経済成長至上主義の呪縛から解き放たれると、「多様な選択肢の可能性」が見えてくる。所得や消費の「量」が大きければよいと考えるのではなく、例えば自発的なワークシェアによって「働き手」の選択の幅が広がり、過剰消費を避けながらも労働生産性が上昇し、労働時間の削減や生活の「質」が向上することは十分に可能であるという。
 本書によれば、もともと、日本語の「はたらく」という言葉は、「傍(はた)」を「楽(らく)にする」という意味とする考え方があり、自分のためだけに長時間仕事をするのではなく、村などの共同体のために汗を流すことを指す言葉だったという。著者は、「労働=苦役」という経済学の労働観から自由になれば、社会的責任を果たしながら生き生きとした仕事もできるようになり、活力が失われることはないと主張している。
 J・S・ミルが『経済学原論』のなかで、「定常状態」における人間的・精神的な進歩について語ったのは十九世紀の半ばだったが、「環境と資源の制約」が本当に意味で深刻になった現代、ようやく「成長神話」からの脱却の準備ができたのかもしれない。本書は、その意味を多方面から考えるよい機会を提供してくれるだろう。

(引用終了)

<東京新聞 2/22/2014>

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。このブログではまた、経済というものを、自然の諸々の循環を含め人間を養う社会の根本理念・摂理(人間集団の存在システムそのもの)とし、その全体を三つの層で捉えている。

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という三層で、モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力が高まると共に、特に「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろうと予測している。

 経済というものを、「コト経済」「モノ経済」「マネー経済」という三層の集合体としてみれば、永続的な高度成長という概念は、「マネー経済」のb領域においてのみ成立することがわかる。他の領域では、需要と供給はバランスが取れれば均衡するのだ。資本主義経済が成立してから300年、持続的高度成長などというものが一時的な現象であったという本書の主張は最もなものだと思う。

 地球の限られた資源を、どのように有効活用し人々の生活を安定させるか、安定した生活のなかから生まれる多様な文化をまたどのように社会にフィードバックして生活に活用するか、ということが政策として問われているのであって、「マネー経済」のb領域だけを見てそれを決めようというのはまったく馬鹿げた話なのだ。

 「地方の時代 III」の項で紹介した「ミニマ・ヤポニア―日本を)」で田中康夫氏も、「小日本主義」「量から質へ」という言葉によって成長神話からの脱却を主張している。田中氏は『33年後のなんとなく、クリスタル』でも、敢て小説の最後に50年後にも一億人程度を保つという日本政府の人口予測を載せ、その成長神話に基づく間違った政策を批判している。

 以前「国家理念の実現」の項で、高齢化、少子化をいち早く迎えた今の日本は、モノコト・シフトの最先端を走っていると書いたけれど、この本『脱・成長神話』にも、

(引用開始)

 「ゼロ成長」を受入れることができると、1990年代から四半世紀に及ぶ日本の「経済停滞」も違った風景に見えてきます。日本の現状は、先進国がいずれも歩まねばならない「ゼロ成長」の先駆けとなる時代として見えてくるからです。つまり、日本は先進国経済の最先端に位置しているのです。

(引用終了)
<同書 216ページ>

という文章がある。最先端にいる我々がこれからどう進むか、それが、後に続く世界全体のこれからを決めるといっても言い過ぎではないと思う。

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しなやかな<公>の精神

2015年01月06日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 文芸評論『百花深処』<日本の女子力と父性について>の項で、『33年後のなんとなく、クリスタル』田中康夫著(河出書房新社)について書いたけれど、この小説、作者(と思しきヤスオ)が過去の自作の続編に登場し、フィクションとリアル(らしさ)が交叉する中で、過去のフィクション自体に新しい事実(由利が当時ヤスオと付き合っていたことなど)を付加してしまう、というユニークなスタイルで書かれている。

 これは、書き手が専業作家であれば、オリジナル作品の自律性が損なわれてしまうと考えて躊躇するかもしれない手法だ。田中氏がそこまでして新作にヤスオを登場させ、フィクションとリアルを交差させたのは、この国あり方を問うメッセージのインパクトを高める為ということが一つ。もう一つは、政治活動も恋愛も作家活動もボランティアも、「人の喜びこそ我が楽しみ」という意味で全て等価、と言い切る田中氏において、読者に新しい小説スタイルを愉しんでもらいたいという、サービス精神の表れではないかと思う。

 以前「現場のビジネス英語“after you”」の項で、after youというフレーズについて述べた。エレベーターなどで相手にかけるこの言葉は、

A:After you.
B:Thank you.
A:It’s my pleasure!

とつづく場合が多い。ここに出てくる“It’s my pleasure!”というフレーズは、まさに「人の喜びこそ我が楽しみ」という意味である。相手に先を譲り、それに対して相手が感謝の気持ちを述べたところで、あなたの喜びは私の楽しみですと声を掛ける。

 「人の喜びこそ我が楽しみ」という考え方は、複眼主義の「生産(他人のための行為)は消費(自分のための行為)に先行する」、「人は自分のためではなく他人や社会のために生まれてくる」といった考え方と重なる。

 田中氏はまた、ご自分のホームページ(「田中康夫Official Web Site」)で継続的に情報を発信し、それを誰にでもアクセスできるようにしている。こういった氏の姿勢は、クリエイティビティをシェアすると共に、社会に蓄積される暗黙知に信頼を置き、その先のことをそれらの人びとに委ねようとする新しい「公」の精神ともいえる。

A:After you.
B:Thank you.
A:It’s my pleasure!

という会話についてもどこかで取り上げておられた。

 『33年後のなんとなく、クリスタル』の販促において、ロッタに本を紹介させたり、メグミにPOPを作ってもらったり、ホームページで様々な人の書評をなかだちしたりするのも、単なる広告作戦ではなく、本について作者以外の関与を積極的に呼び込もうとする、田中氏のサービス精神、公的精神の表れなのだろう。それはまたネット時代における「“ハブ(Hub)”の役割」の実践でもあると思う。

 「人の喜びこそ我が楽しみ」という考え方には、自分だけがよければ他はどうでも良いと考える現代人特有の冷たさがない。権利と義務に縛られた人間関係ではなく、「出来る時に出来る事を出来る人が出来る限り」というしなやかな人間関係。これこそ21世紀に求められる「公」の精神であろう。

 我々も、“It’s my pleasure!”の精神で、理念の実現に邁進したいものだ。尚、クリエイティビティをシェアする「クリエイティブ・コモンズ」の考え方については、「シェア社会」の項を参照していただきたい。

 『33年後のなんとなく、クリスタル』には、2060年とそれ以降の人口予測の表が本文の一部として掲載されている。オリジナルの前著『なんとなく、クリスタル』にも、将来の人口予測の表が本文の一部として掲載されていた。

 巻末の表が2060年とそれ以降をカバーしていること、それが前著同様の位置づけ(本文の一部)にあることの二点から、『66年後のなんとなく、クリスタル』が2047年に書かれることが予測される。田中氏も雑誌のインタビューで、「『33年後〜』も30年くらい経ってから、(時代の変容が)見えていた、と言われるようなものになれば本望です。」と述べておられる。

 2047年に『66年後のなんとなく、クリスタル』が書かれるとすると、その内容のトーンを決めるのは、『33年後のなんとなく、クリスタル』に関わった人たち(読者、編集者、登場人物のモデルなど)、田中氏とクリエイティビティをシェアした人たち全てに違いない。

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integrityをインストールせよ

2014年12月16日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「国家理念の実現」の項で、そろそろ我々もどのような道筋で合理的なstateをつくるかきちんと話し合うべきだと書いたが、その際に必要なのは、話し合う人たちがintegrityを持っているということだ。

 integrityとは何か。『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)から引用しよう。

(引用開始)

「インテグリティ(integrity)」というのは、アメリカ人が人間を評価する場合の非常に重要な概念で、「インテグレート」とは統合するという意味ですから、直訳すると「人格上の統合性、首尾一貫性」ということになると思います。つまりあっちこっちで言うことを変えない。倫理的な原理原則がしっかりしていて、強いものから言われたからといって自分の立場を変えない。また自分の利益になるからといって、いいかげんなウソをつかない、ポジショントークをしない。
 そうした人間のことを「インテグリティがある人」と言って、人格的に最高の評価をあたえる。「高潔で清廉な人」といったイメージです。一方、「インテグリティがない人」と言われると、それは人格の完全否定になるそうです。ですからこうした状態をただ放置している日本の政治家や官僚たちは、実はアメリカ人の交渉担当者から、心の底から軽蔑されている。そういった証言がいくつもあります。

(引用終了)
<同書 13−14ページより>

ここでいう「こうした状態」とは、沖縄米軍飛行訓練基準が米国内のそれと違っている状態を指す。

 強い国の言うことはなんでも聞き、相手が自国では絶対にできないようなことでも原理原則なく受入れ、その一方で自分たちが本来保護すべき国民の人権は守らない、といった官僚・政治家のことを「インテグリティがない」というわけだ。

 このintegrityという言葉、日本語では「高潔」、「清廉」などと訳されるが、これでは「統合性」のニュアンスが出ない。一体具体的に何が統合されているのか。

 以前『21世紀を生きる学習者のための活動基準』(アメリカ・スクール・ライブラリアン協会編)という本の編集協力(翻訳のお手伝い)をしたことがある。ここで挙げられている学習の基準は大きく分けて、

skills(スキル)
dispositions(資質)
responsibilities(責任)
self-assessment(自己評価)

の四つあり、学生はこれらを学ぶべく様々なカリキュラムをこなす。integrityで思い浮かぶのは、これら四つが高いレベルで統合された人だ。

 四つの基準を高いレベルで統合した人格。これはあくまでも私の言葉解釈だが、integrityを保つには、単に高潔であればよいというものではなく、この四つの面での学習と努力が必要だと思う。

 逆にいうと、人は誰でも学習によってintegrityを持つことが出来るということでもある。高潔を求めて仏門に入る必要があるわけではない。

 上の四つのうち、dispositionsだけはぴったりくる訳語がなくて困った。結局「資質」と訳したのだが、ぴったりこないのは、日本語の「資質」という言葉が、教育によって後天的に高められるというよりも、生得的なニュアンスが強いからだろう。dispositions in action(行動に結びつく資質)ともいい、それは、思考や知的活動を左右する持続的な信念や態度のことで、実際の活動によって評価できるとする。日本では、スキル(技能)、責任、自己評価などは教えるが、この「資質」はあまり教えないのではないだろうか。これが日本人の「公」の弱い理由(の一つ)ではないかと思う。

 integrityは、stateの議論みならず、business全般においても極めて重要だ。スキル、資質、責任、自己評価をバランスよく学び、高いレベルで統合された人格を目指そうではないか。資質の向上については、「自分の殻を破る」の項も参照していただきたい。

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国家理念の実現

2014年12月09日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)という本を読んだ。日本国という非独立国家の法的実態を明らかにした好著である。

 この本には、敗戦占領時代から現在まで、憲法などの法的状況が歴史的・体系的に分るように書いてある。昭和天皇の光と影への言及も良い。詳細は本書をお読みいただきたいが、日本国という「state」の統治に関して、今も憲法の上位に日米地位協定が存在しているという。

 矢部氏はこの本の「あとがき」に、日本の国家権力構造の変遷を次のようにまとめる。

(引用開始)

戦前(昭和初期):天皇+日本軍+内務官僚
戦後@(昭和後期):天皇米軍+財務・経済・外務・法務官僚+自民党
戦後A(平成期):米軍+外務・法務官僚

(引用終了)
<同書 282ページより。枠内文字は太字とした>

 以前「nationとstate」の項で、「nationとは、文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団、すなわち民族や国民を意味し、stateとは、その集団の居場所と機構を意味する」とし、stateは「人々の間で合意された『理念と目的』に基づいて合理的に運営されなければならない」と書いたけれど、通常stateにおいては「憲法」の理念と目的が最上位のものであるから、日本国憲法の上に別のものがあるのであれば、いまの日本国は非合理的に運営されているわけだ。

 それをどのような道筋で合理的なstateにしていくか。今年はスコットランドで英国からの独立を問うた住民投票があり、カタルーニャでスペインからの独立を問うた(非公式の)住民投票があったが、そろそろ日本でもそういう話をnationの側できちんと話し合うべき時代になっていると思う。

 街づくりやビジネスの経営にとっても、人の居場所である「state」側がしっかり合理的に運営されていなければ、その理念の実現に影響が出る。

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べてきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 高齢化、少子化をいち早く迎えた今の日本は、モノコト・シフトの最先端を走っている。時代の最先端をゆく日本のstate(集団の居場所と機構)はどうあるべきか。それを論するには、まずこの本を読み、日本やアメリカの組織や法律についての解像度(理解度)を上げていくことが不可欠だ。その意味で、この本は日本文化を共有するnation側の人々の必読書といえるだろう。

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二つの透明性と複眼主義

2014年07月29日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今回は「虚の透明性」の項で述べた、二つの透明性と複眼主義の対比、

A 「都市」−「脳(大脳新皮質)の働き」−「実の透明性」
B 「自然」−「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」−「虚の透明性」

について話を進めたい。

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 「公(Public)」−男性性−〔所有原理・空間重視〕

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 「私(Private)」−女性性−〔関係原理・時間重視〕

といった対比をもとに、「ヤンキーとオタク」の項で、

ヤンキー文化=女性原理のもとで追求される男性性
オタク文化=男性原理のもとで追及される女性性

という斉藤環氏の優れた分析を援用し、

「出自」→「志向」

A、a系 → B、b系(オタク)
B、b系 → A、a系(ヤンキー)

A、a系 → A、a系(マッチョ)
B、b系 → B、b系(フェミニン)

といった「出自と志向」を分析した。さらに「ヤンキーとオタク II」の項では、建築家隈研吾氏を例に挙げて、

「出自」→「ひねり」→「志向」

A、a系 → B、b系 → A、a系

という複雑なケースにまで話を進めた。

 二つの透明性と複眼主義の(冒頭の)対比は、A、a系の仕事を生業とする建築家でありながら、虚の透明性(B、b系)を大切に考えるようになった隈氏が、「ひねり」を加えたヤンキーであって少しもおかしくないことを示している。いやむしろ、ひねりを加えたヤンキーであるべき必然性がみえてくる、と言うべきかも知れない。

 『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21)で斉藤氏の対談相手として最後に登場する建築家隈研吾氏は、ヤンキーのなかにあるバッドセンス(バッドテイスト)に注目したとして、

(引用開始)

 そういうバッドテイストを自分はどのように建築の中で活(い)かしていけばいいのかをずっと考えていたんです。歌舞伎座をつくりながら、あっ、これがそうなんだをわかった気がしたんです。それは和風の中にあったんですが、これまで和風建築をつくってきた人たちもまた、きわめてヤンキー的だったということに気がつきました(笑)。

(引用終了)
<同書 216ページ>

と語っておられる。

「出自」→「志向」

A、a系 → A、a系(マッチョ)

のままでは、コンクリートのビルは建てられても歌舞伎座は建てられないわけだ。

 隈氏はさらにオタクへの関心を訊ねられ、

(引用開始)

 おたくとヤンキーというのは、ノンヒエラルキーな二〇世紀的工業世界が崩れてきた中で人間が生きていくための二つの道なんだと思います。おたく的な建築ってなんだろうと考えると、思い浮かぶのは妹島和代さんです。彼女はオラオラの逆で、自分はこれまでどんなにひどい目に遭ってきたのかということをいうから、みんな大好きになります。その才能はすごいと思います。プレゼンにおいてもオラオラではない率直さが、逆に希少価値のようなものに感じられ、「この人は信じるに足るかもしれない」と思わせられる素朴さがあるんですね。作るものも、とがっていなくて、ザハの反対です。
斉藤 現代日本においては、ヤンキー的な器の中におたく的なコンテンツが入っている構造ものがヒットするとも言われています。ジブリのアニメなどは、おたくが作ってヤンキーが売っているとも言われてますが、建築家はそれを一人でやらなきゃいけないのかなという気がします。
 実際のところ、建築の世界でもおたくがつくってますね。それでヤンキーがオラオラと説明しているという。ザハ・ハディドの作品でよくできていると思われる建物は、日本人がチーフを務めていたりするんです。オラオラで最後までやるんではなく、最後はオタクが細かく収めていく。そういう補完性が必要な領域なんですね。

(引用終了)
<同書 245−246ページ、フリガナ省略)

と述べておられる。オタク的といわれた妹島和代さんはSANAAで西沢立衛氏と組んで仕事をしているから、オタク的部分とヤンキー的部分とを二人で補完し合いながら作業を進めているのだろう。二人で補完し合うという仕事形態については、このブログでも以前「ホームズとワトソン」や「借りぐらしのArrietty」の項などで論じたことがある。

 さて、このブログでは、21世紀はモノよりもコトを大切に考える「モノコト・シフト」の時代であると繰り返し述べてきた。ここで、二つの透明性を補助線として、モノとコトを複眼主義的に再定義してみると、

A、a系: 世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる
B、b系: 世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる

という大きな絵柄を描くことができそうだ。20世紀はA、a系(実の透明性)が偏重されてきたけれど、複眼主義から見ても、21世紀は、両方のバランスが回復するよう、B、b系(虚の透明性)をより大切にすべき時代だということなのである。

 尚、複眼主義の体系的な理解には、「評論集“複眼主義”について」で紹介した本や、図を多く用いた「複眼主義入門」などをお読みいただければと思う。「複眼主義入門」は、サンモテギ・リサーチ・インクのFacebookページからevernote経由でpdf版を閲覧できる。

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二つの透明性と西欧近代文明

2014年07月22日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「虚の透明性」の項で述べた、二つの透明性と西欧近代文明の話を続けたい。隈研吾氏はその本『僕の場所』(大和書房)のなかで、アメリカを中心とした20世紀の西欧近代建築は、「実の透明性」を追求したが「虚の透明性」はあまり追求しなかったと述べている。その箇所を引用しよう。

(引用開始)

 コルビュジエやミースの建築はヨーロッパ近代という特殊な時代の産物ですが、同時にまたコルビュジエ達の眼は、アメリカという新しい場所、時代を向いていました。モダニズム建築は、20世紀という、アメリカがリードする新たな高度成長の時代のための、便利な建築様式でもあったのです。
 コルビュジエにもミースにも、ヨーロッパの時代が終わり、アメリカの時代が始まろうとしていることがはっきりと見えていました。19世紀的で産業革命的な工業ではなく、大量生産を基本とするアメリカ的な工業が20世紀の覇権を取ることが、彼らにははっきりと見えていたのです。(中略)
 彼ら二人は、「虚の透明性」の表現だけではなく、「実の透明性」の表現にもたけていたので、アメリカでもてはやされたのです。ガラス、細い鉄、薄いコンクリートなどの最先端の工業製品によってもたらされる実際の透明感を、見事に建築デザインへと昇華させたのです。結果として、コルビュジエもミースも、日本を含む新世界で大いにもてはやされ、最終的には20世紀の巨匠という特別な扱いを受けるわけです。(中略)
 コーリン・ロウから「虚の透明性」を教わったせいで、コルビュジエやミースに対する違和感は少し薄れましたが、それで彼らにのめり込んだわけでもありません。彼らの中の「実の透明性」の部分、アメリカ受けを狙った部分、ガラスっぽい部分、コンクリートっぽい部分、鉄っぽい部分を、どうやったら消していけるのだろうか。学生時代の僕はぼんやりとそんなことを考えていました。もちろん、解決策がすぐに思い付くわけでもなく、拒否のもやもやとした気分だけが続いていました。

(引用終了)
<同書 192−194ページ>

「拒否のもやもやとした気分だけが続いていた」隈氏は、その後(本のタイトルからもわかるように)「場所」を大切に考える建築家となった。そのことはこれまで「場所のリノベーション」や「場所の力」の項で述べてきた。「場所」は、「実の透明性」よりも「虚の透明性」の概念と親和性がある。「虚の透明性」は、自分の今の居場所を大切にしなければ見えてこない。

 「21世紀の文明様式」の項で述べたように、「平等志向」と「陋習からの開放」などによって進展したはずの西欧近代文明は、21世紀に至り、バロックを通り越してグロテスクな様相を呈してきた。その理由の一つは、20世紀を牽引したアメリカが、分りにくい「虚の透明性」よりも、分りやすい「実の透明性」を偏重しすぎたせいだと思われる。ガラスや鉄筋コンクリートを使った高層ビルの乱立するニューヨークが、20世紀における「近代=モダン」の中心地となった。実の透明性の偏重、過度の平等志向は、「自由化」の名の下における結果の不平等放置とgreedを生んだのではないか。

 これからは、大量生産されたモノよりも、その場その場で起きる一回性のコトを大切に考える「モノコト・シフト」の時代である。そういう時代には、コトが起こる場所を大切に考える「虚の透明性」という概念が重要性を増してくる筈だ。隈氏の建築が、日本のみならずアメリカやヨーロッパ、中国など世界各地で人気なのは、彼の創り出す「虚の透明性」空間が評価されてに違いない。

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虚の透明性

2014年07月15日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『僕の場所』隈研吾著(大和書房)という本を読んでいたら、「虚の透明性」という言葉があった。レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる絵画や建築を指す言葉らしい。英語では「Phenomenal Transparency」。

 この言葉は、建築史家のコーリン・ロウが『マニエリスムと近代建築』という著書の中で使ったもので、ガラスなどの実の透明性(Literal Transparancy)と対になる概念だという。『僕の場所』から引用しよう。

(引用開始)

 一つはガラスやアクリルのような、実際に透明な素材を使うことによって獲得できる透明性で、彼はそれを「実の透明性」と名付けました。
 もう一つの透明性は、実際には透けていないにもかかわらず、空間構成のトリックによって、幾つかの層(レイヤー)状の空間が重なることで感じられる透明性で、これをロウは「虚の透明性」と名付けました。

(引用終了)
<同書 189ページ>

近代建築の特徴には、

1.実の透明性(Literal Transparancy)

ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な空間

2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)

レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる空間

の二つがあるというわけだ。

 隈氏はこの「虚の透明性」という言葉を、評論家吉田健一が『ヨオロッパの世紀末』の中で使った「近代=モダン」の定義と重ね合わせる。再び『僕の居場所』から。

(引用開始)

 僕は吉田健一から「近代=モダン」というものを教え込まれました。一言で言えば、それは「たそがれとしての近代」です。19世紀を吹き荒れた産業革命と高度成長の嵐の後に来たのが「近代」です。「新しい世界」を作ろうとするユートピア精神が支配した19世紀の後に、「近代=モダン」という成熟した静かな時代が来たというのが、吉田による「近代=モダン」の定義です。

(引用終了)
<同書 188ページ>

隈氏はこの「たそがれとしての近代」を「虚の透明性」と重ね合わせ、

(引用開始)

 「虚の透明性」という概念は、僕にとって腑に落ちるものでした。それは「近代=モダン」という時代の根底にある、重要な概念です。「たそがれ」の時代には、すべてが重なって見えるのです。ロウはその意味で、僕が目指す「たそがれ」の時代の建築の姿を暗示してくれた、大切な恩人です。
 現在の中に過去があり、現在の中に未来がある。自分の中にも他人があり、他人の中にも自分がいる。そのような重層性こそが、「近代=モダン」という「たそがれ」の時代の本質です。(中略)
 過去と現在が重層し、近くと遠くのものが重層する状態こそが、「近代=モダン」という時代のすべての領域に共通する特質なのです。

(引用終了)
<同書 190−191ページ>

と述べる。

 「実の透明性」と「虚の透明性」、近代建築を巡るこの二つの概念の対比は面白い。西欧近代文明の特徴(旗印)には「平等志向」や「陋習からの開放」などあるが、オープンな情報公開を前提とする「平等志向」は実の透明性、自分の居場所から複雑な歴史を見通すことが必要な「陋習からの開放」は、虚の透明性の概念と重なるように思う。

1.実の透明性(Literal Transparancy)

・ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な時空
・平等志向

2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)

・レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる時空
・陋習からの開放

 「実の透明性」は目に見えるので分りやすい。「虚の透明性」はオープンに見通せないので、どちらかというと分りにくい。平等志向は誰にでもわかるが、陋習からの開放は、自分の居場所が分らないと把握できない。陋習という「思考の歪み」に浸っている人には、その陋習自体を客観視できないからだ。

 一方、テーマは違うが、複眼主義でいう「脳の働き」「身体の働き」と、二つの透明性の関連も指摘できそうだ。「公(Public)」の役割を担う「脳の働き」は実の透明性、「私(Private)」で複雑な「身体の働き」は虚の透明性という具合。

A 「都市」−「脳(大脳新皮質)の働き」−「実の透明性」
B 「自然」−「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」−「虚の透明性」

これら二つの透明性と西欧近代文明、複眼主義などについて、さらに項を改めて考えてみたい。

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三つの宿痾

2014年07月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「21世紀の文明様式」の項で、文明を蝕む宿痾として、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

を挙げたけれど、今回はこの三つについて敷衍したい。いろいろと考えてみても、人類にとっての宿痾(治らない病気)は、概ねこの三つに集約されるのではないだろうか。

(1) 人の過剰な財欲と名声欲(greed)

 人には五つの欲望(食欲・睡欲・排欲・財欲・名声欲)があるが、前の三つ(食欲・睡欲・排欲)は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

におけるB、b系に属し、後の二つ(財欲・名声欲)はA、a系に属している。

B、b系の時間は寿命(t = life)によって掣肘されているから、前の三つの欲望はあまり暴走することはない。しかしA、a系の時間は常に現在進行形(t = 0)だから、後者の二つは気をつけていないと果てしなく増殖する。

 この理性の利かなくなった財欲と名声欲のことを、人は昔からgreedと呼んで忌み嫌ってきた。しかしいくら忌み嫌っても増殖するものは増殖する。癌細胞のように。だから健康管理と同じくいつも早め早めに手を打たなければならないわけだ。財欲と名声欲は、(他の三欲と違って)原理的に歯止めが利かない。ここが重要なポイント。

(2) システムとその自己増幅を担う官僚主義(bureaucracy)

 富と名声を手に入れたgreedは、(悪知恵を働かせて)それを自己増幅させるためのシステムを構築する。官僚主義とは新しいことを始めないことである。言われたことだけを言われた通りにやる。その官僚たちがgreedの支配下に入り、システムの自己増幅を担うようになると、社会の自由抑圧はより強化される。そして官僚たちはシステムのおこぼれに与ることでさらに増殖する。まるでシロアリのように。

(3)認知の歪み(cognitive distortions)の放置

 認知や思考は、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種

の影響によって、常に、

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

といった歪みを生ずるリスクを抱えている。歪みを放置しておくと、greedとbureaucracyが支配するシステムに簡単に騙されてしまう。それは周りの真っ当な人たちにとって大変迷惑なことだ。

 また、市井の人びとの犯罪の多くは、この認知や思考の歪みに根ざしている。病気や疲労、五欲、無知や誤解、紛争や宗教、陰性感情の爆発など(からくる認知・思考の歪み)による犯罪である。だから、人は常に歪みを正す努力を続けなければならない。健康のために身体の歪みを正すように。

 以上、一つひとつ見てきたが、この三つは他人事ではなく、我々一人一人の内に棲みついている宿痾である。だれでも、富と名声を得れば嬉しくなってそれを増やそうとし、面倒くさくなれば前と同じ事をやり、どこかに認知や思考の歪みを抱えている。

 冒頭述べたように、人類にとっての宿痾は、概ねこの三つに集約されると思う。さまざまな性悪説や犯罪のルーツ、環境破壊や差別の元を探っていくと、だいたいこの三つに遡ることができる。特に最後の「認知の歪み」の影響範囲は広い。

 人類の宿痾がこの三つに集約されるということは、逆に言えば、この三つさえ上手くコントロールできれば、人類の寿命は今よりももうすこし長くなるということである。カテゴリ「生産と消費論」で縷々述べてきたように、そもそも人は社会のために生まれてくる。本来、ヒトは「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」なのである。この「三つの宿痾」をうまく掣肘して、これからの文明様式を、生き生きとしたアルカイック・クラシック段階に戻したいものだ。それが出来なければ、(今の西欧近代文明の影響範囲は地球規模だから)この星(地球)は早々に滅びるだろう。

 尚今回のテーマは、以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項などでも述べたことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 15:59 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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