夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


住宅からの象徴の消失

2016年08月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『日本の家』中川武著(角川ソフィア文庫)という本を読んだ。去年(2015年)10月に出版された文庫。元の単行本は2002年6月TOTO出版から刊行されたと奥付にある。建築史家が日本の家屋の詳細を綴ったもので、手軽だが写真や図も多く巻末の用語解説も充実している。本カバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

たとえば大黒柱に縁側、上がり框や雪見障子、畳に襖――日本の家には四季を取り入れ、古来の習俗と共に生きてきた先人の知恵と情緒、美意識が込められている。その歴史や変遷、計算された構造を紐解きながら、家の持つ本来の意味、住まうとは何かを考える。生活が西欧化し、自由なデザインや利便性の高い住宅建築が急増する現代、伝統的な家のしつらいを見直し、世界が憧れた日本建築の全てを美しい写真と共にたどる決定版!

(引用終了)

 本の内容は、「境界空間」や「仕切り」などといった項目ごとに、<三和土(たたき)><上がり框>といった細目が並ぶ。目次を列記すると、

「境界空間」
<三和土(たたき)>
<上がり框(あがりかまち)>
<沓脱石(くつぬぎいし)>
<縁側(えんがわ)>
<土庇(どひさし)>

「仕切り」
<格子(こうし)>
<葦簀(よしず)>
<襖(ふすま)>
<雪見障子(ゆきみしょうじ)>

「場」
<囲炉裏(いろり)>
<風呂(ふろ)>
<茶の間(ちゃのま)>
<勝手(かって)>

「部位」
<大黒柱(だいこうばしら)>
<長押(なげし)>
<押板(おしいた)>
<天井(てんじょう)>

「しつらい」
<畳(たたみ)>
<箱階段(はこかいだん)>
<箪笥(たんす)>

「素材」
<漆(うるし)>
<瓦(かわら)>

「象徴」
<仏壇(ぶつだん)>
<表札(ひょうさつ)>
<地鎮祭(じちんさい)>

ということで、今の洋風家屋では忘れられた細目も多くあって勉強になる。

 このブログではこれまで、「広場の思想と縁側の思想」「境界設計」などの項で、日本家屋における「境界」の特徴を見てきたが、この本の「境界空間」「仕切り」では、その歴史や構造についてより詳細に知ることができる。

 日本の家屋は、当然のことながら、日本の家族制度と共に変遷してきた。戦前までの日本では、「公」=父性は、「個人」ではなく「家」によって担われていたが、戦後、新憲法がそれを壊して「個人」に置き換えた。近代の産業構造とも相俟って、家族制度は「家父長制」から「近代家族(核家族制)」に移行したが、個人の精神的自立が進まない日本において、「公」の担い手の(家から個人への)移行はスムーズではなかった。社会制度との整合も進まず、育児・教育・雇用・介護・相続などの面で、家族と社会における責任と権限の混乱は今も続いている。

「場」
<囲炉裏(いろり)>
<風呂(ふろ)>
<茶の間(ちゃのま)>
<勝手(かって)>

「象徴」
<仏壇(ぶつだん)>
<表札(ひょうさつ)>
<地鎮祭(じちんさい)>

の各細目は、このあたりのことを考える上で参考になる。「象徴」という項目の下に付けられた短い文章を引用したい。

(引用開始)

住宅とは何か、と問われれば、すぐには答えられないほど多くの説明が必要なように思われる。では、住宅を象徴するものは何か、という問いではどうだろうか。その答えの一つに、家族があるだろう。では家族とは、と問うと、また曖昧になってくる。そこで強引に、家族を象徴するものは生と死である、と考えることにする。現在(いま)、住宅から生と死が消滅しつつあり、家族共同体や、地縁から縁遠くなって久しい。これらはもちろん、本来象徴的にしか住宅に含むことができないものであった。この、住宅からの象徴の喪失こそ、伝統的な日本住宅の衰退の始まりだったのではないだろうか。

(引用終了)
<同書237ページ>

 近代の産業構造は二一世紀になってさらに変わり、これからは「新しい家族の枠組み」が必要とされるようになってきた。「家父長制度」→「近代家族(核家族制)」→「新しい家族の枠組み」といった変遷とその混乱を、「住宅からの象徴の消失」といった観点からみるのは面白い。

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神道について

2016年07月19日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『神道はなぜ教えがないのか』島田裕巳著(ワニ文庫)を面白く読んだ。日本固有の神道は、開祖も、教義も、救済もない、ないないづくしの不思議な宗教だという。本カバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 古代から現代にいたるまで私たちの暮らしに深く関わっている「神道」。だが私たち日本人は「神道」という宗教の本質を本当に理解しているといえるだろうか?本書では、開祖もいなければ、教義もない、そして救済もない「ない宗教」としての神道の本質を見定め、その展開を追う。日本人が神道とどのようにかかわってきたかを明らかにすることは、私たち日本人の基本的な世界観や人生観を考えることにつながっていくのである。

(引用終了)

 先日「宗教から芸術へ」の項で、同じ島田氏の『宗教消滅』(SB新書)という本を論じた際、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

において、宗教における「教義」の部分は、もっぱらAの側で理論構築され、感性が支配する「信仰」部分は、おおむねBの側と親和性が強いと書いたが、日本固有の神道にはなんとAの側がないわけだ。日本語的発想だけでA側の教義を構築することの難しさである。ちなみに、西洋と出会う前の日本では、古来A側は漢文的発想によって担われてきた。

 同項ではまた、普通の宗教はAとBのバランスの上に築かれるもので、独善的な教義や行き過ぎた信仰行為は抑制されると書いたが、神道の場合、Aがなくてどのように信仰が抑制され得るのか。教義がなくてどのように信仰があるのか。

 神道のもとを辿れば、古代から日本列島にあった自然信仰に行き着く。『百花深処』<修験道について>の項でみたように、古代からの自然信仰は中国の陰陽五行思想と習合して神道となり、その神道は仏教と習合する。神道はその後、儒教とも習合する。つまり日本人は、神道の教義のない部分を、他の思想や宗教の教義で補ってきた。「教義」は外来思想・宗教、「信仰」は神道ということで、AとBのバランスをなんとか保ってきたわけだ。

 しかし、王政復古によって誕生した明治政府は、祭政一致の国家体制をつくるべく、「神仏判然令」(「神仏分離令」ともいう)によって、神社から仏教的要素を一掃した。廃仏毀釈である。江戸時代より、神道の「教義」の部分をなんとか自前の思想でつくろうということで「国学」が生まれていたのだが、明治政府はこれを利用した。それを復古神道という。

 だが、西洋はこの段階で近代国家をつくっており、古い祭政一致の試みは失敗に終る。明治政府は次に西洋の立憲君主制を範に取り、天皇を君主とする立憲君主制を採用する。さらに天皇を現人神とする「皇室祭祀」を整えた。その際、神道は国家全体の祭祀であり宗教ではないとされた。それが国家神道である。形だけ西洋に範を取りながら、頭は祭政一致にあったのだろう。

 宗教でなければ「教義」も「信仰」もない。神道が「ない宗教」だったからできた荒業というべきである。だが国家神道は国民をむちゃくちゃな戦争へ駆り立てていった。もはや国にAとBのバランスを取るメカニズムは存在しなかった。

 戦後、国家神道は崩壊し、神社には宗教法人格が与えられる。明治以前に戻ったわけだが、神道に「教義」はないのだから、AとBのバランスは崩れたままだ。A側の不在。これは『百花深処』で書いた<日本の戦後の父性不在>に繋がる問題である。

 これからの時代、「宗教から芸術へ」の項で見たように、共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになっていくべきだと思う。A側は、宗教の教義によってではなく、「日本流ディベート」の項で述べたような「対話」をベースにしたResource Planning、立法・行政制度設計であるべきだろう。その際、A側不在の神道は、昔の自然信仰の象徴として機能させるべきだと思う。

 先日あたらしい小説『記号のような男』を書いた。主眼は「形のあるものをつなぐと、形のないことのつながりが見えてくる」というテーマなのだが、社会の奥にある人々の心の拠り所として、「神道=山岳信仰」というコンセプトを明示採用してみた。併せてお読みいただけると嬉しい。

P.S. 小説『記号のような男』はリライト中。小説投稿サイト「カクヨム」の該当記事を非公開にしました。(5/5/2019)電子書籍サイト「茂木賛の世界」に小説『記号のような男』のリライトバージョンをアップしました。(5/26/2019)

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宗教から芸術へ

2016年06月21日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 宗教学者島田裕巳氏の『宗教消滅』(SB新書)という本を興味深く読んだ。副題に「資本主義は宗教と心中する」とある。本の帯裏表紙から著者の現状認識を引用しよう。

(引用開始)

イスラム国、
無縁社会、
ゼロ葬―――
宗教崩壊は、他人事ではない!
●仏教――真言宗の本山である高野山で参拝者が4割減!
●カトリック――フランスでは空っぽの教会が次々とサーカスに売却
●プロテスタント――韓国で現世利益だけを訴える偽キリスト教が跋扈
●イスラム教――人口増による世俗化で原理主義との対立が激化
●創価学会――婦人部の会員が高齢化し集票能力に翳り
●幸福の科学――若い世代に受け継がれずに90年代の信者が高齢化
●アメリカ――広がるのは病気治しの奇跡宗教ばかり
●中国――バチカン非公認のカトリックを政府が弾圧

(引用終了)

島田氏はこういった各宗教の状況を丁寧に辿りながら、高度資本主義社会はやがてあらゆる宗教を消滅させるだろうと予測する。本のカバー裏表紙には、

(引用開始)

高度資本主義が、世界の宗教を滅ぼす!

日本社会において、新宗教が衰退しているからといって、多くの人は何の問題も感じないかもしれない。しかし、新宗教の教団が、皆、戦後に急速に拡大していったことを考えると、そこには日本社会が変容をとげようとする姿が見えてくる。しかも衰退しているのは新宗教だけではない。仏教だろうと神道だろうと、やはり衰退の兆しが見える。なぜ、そうした事態が生じているのか。これから考えようとするのは、極めて重要な問題である。

(引用終了)

とある。氏はこのような問題意識から、さまざまな国や地域の宗教をめぐる状況を調べるなかで、そこに予想以上の大きな変動が起っていることがわかってきたという。高度資本主義による伝統的な社会システムの崩壊、個人が共同体とは無縁な生活を送る状況などなど。詳しくは本書をお読みいただきたいが、「あとがき」から氏の言葉を引用したい。

(引用開始)

 なぜそうした変化が起っているのか。
 そこには、資本主義のおかれた今日的な状況が深くかかわっている。東西の冷戦が終焉を迎えたときには、資本主義が世界全体に広まり、それによって自由で豊な社会が各地に拡大されていくと信じられた。
 しかし、冷戦の崩壊がもたらした経済のグローバル化は、必ずしも豊かさだけをもたらしたわけではない。経済格差や貧困、そして、異なる宗教を信仰する人々のあいだでの対立や抗争をももたらした。
 経済は無限に発展し続けるものではない。ある程度の豊かさが実現されれば、高度な発展には終焉がもたらされる。資本主義は、市場を拡大することで発展していくものだが、市場の拡大にはどうしても限界があるからだ。
 経済と宗教とは深く連動している。とくにそのことは、現代の社会において明確になってきたのかもしれない。宗教は、日本人の多くが考えるように、たんにこころの問題ではなく、社会の動きと密接な関係を持っているのだ。
 経済学の分野では、昨今、資本主義の終焉ということが強く言われるようになってきた。資本主義が終焉を迎えるということは、それと深く連動してきた宗教にも根本的な変化がもたらされることを意味する。それはどうやら、宗教の消滅という方向にむかいつつあるのである。
 資本主義の先に何があるのか。それを考える上においても、宗教の動向を見ていくことは不可欠である。本書が人類社会のこれからを考えていく上で、少しでも役立てば幸いである。

(引用終了)
<同書242−243ページ>

 この先に何があるのか。このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと書いている。モノコト・シフトとは、「 “モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。動きのない「モノ」は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるAと親和性が強く、動きのある「コト」はBと親和性が強い。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 宗教に引き寄せてこの対比を考えてみると、一神教と多神教の違いはあるが、宗教における「教義」の部分は、もっぱらAの側で理論構築され、感性が支配する「信仰」部分は、おおむねBの側と親和性が強い。

 普通の宗教はAとBのバランスの上に築かれるもので、独善的な教義や行き過ぎた信仰行為は抑制されるが、島田氏のいう宗教崩壊とは、このバランスが崩れた状態を指すだろう。

 モノコト・シフトの時代は、Bの考え方の比重が高まるわけで、時として過激な熱狂=信仰が社会を揺り動かす。このことは「熱狂の時代」の項で書いた。熱狂は外に向かって先鋭化するとテロなどを起こす。一方それについていけない人々の一部は、熱狂心をゲームやアイドルなどに振り向ける。それが行き過ぎると殺傷事件などを引き起こす。

 この先の時代、AとBのバランスをどう取っていくか。参考になることが『芸術立国論』平田オリザ著(集英社新書)に書いてある。この本は2001年初版だからもう15年前に出たものだがその内容は今尚新鮮だ。本のカバー裏の紹介文を引用する。

(引用開始)

 日本再生のカギは芸術文化立国をめざすところにある!著者は人気劇作家・演出家として日本各地をまわり、また芸術文化行政について活発に発言する論客として知られる。精神の健康、経済再生、教育等の面から、日本人に今、いかに芸術が必要か、文化予算はどう使われるべきかを、体験とデータをもとに綿密に検証する。真に実効性のある芸術文化政策を提言する画期的なヴィジョンの書。これは芸術の観点から考えた構造改革だ!

(引用終了)

 演劇など「芸術」による立国。この考え方は日本だけでなくこれからの(宗教が消滅する)世界に通用すると思う。近代以前、さらに近代に入ってからもしばらく、社会はAとBのバランス統治を、健全な宗教に求めてきた。しかし伝統的共同体が崩壊する一方で科学が発展し、いろいろな事象の因果関係がより高解像度で見えてくると、宗教に代わる、より理知的なバランス統治の仕組みが必要になってくる。これまでの「近代家族」の枠組みは、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

であり、これからの「新しい家族の枠組み」は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

である。これからの共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになっていく筈だ。理知的といっても複眼主義でいうAの側だけでなく、Bの側にも充分訴えかけるもの。人々の熱狂をも吸収できる仕組み。それはAとB双方に親和性を持つ「芸術」以外にないのではないか。芸術による街づくり。それがこれから求められると思う。先日『百花深処』<二冊の本について>の項でみた、「邸宅美術館」とも通ずる考え方である。

 尚、平田氏には、最近の著作とし『下り坂をそろそろと下りる』(講談社現代新書)がある。その問題意識は『芸術立国論』から変らない。その間に書かれた『わかりあえないことから』(講談社現代新書)について、以前「会話と対話」の項で論じた。このことは前回「日本流ディベート」でも触れた。出版の順番は、

『芸術立国論』(2001年)
『わかりあえないことから』(2012年)
『下り坂をそろそろと下りる』(2016年)

である。「会話と対話」の項も併せてお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 15:03 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

日本流ディベート

2016年06月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今回は『和の国富論』藻谷浩介著(新潮社)にある「日本流ディベート」という言葉を紹介したい。この言葉は、<第四章:「崩壊学級」でリーダーが育つ……菊池省三(元小学校教師)>の中に出てくる。少し長くなるがその対話部分を引用する。

(引用開始)

藻谷 もう一つ、菊池先生の授業で素晴らしいと思ったのは、ディベートです。
菊池 そう言ってもらえるのは嬉しいです。二十年近く前から始めたんですが、当時はまだ「一斉指導がすべて」「授業は知識を教えるもの」という古い授業感の時代でしたから、すっかりお偉方の先生から睨まれてしまって……周りの教師仲間も離れていき、あの頃はかなり苦しい思いをしました。
藻谷 きっと「小学生に“言い争い”をさせるなんて、とんでもない」とか、訳の分からん批判をする人がいたんでしょう。でも、ディベートは世界に出て行くビジネスパーソンになるためには必須のスキルです。もちろん、義務教育で世界に通じるビジネスパーソンを育てる必要はないいだけど……。
菊池 いや、ディベートはやり方がまずいとトラブルになりかねないので、事前にルールを丁寧に説明します。ディベートと言うと、アメリカ型のガチガチの討論をイメージしてしまうかもしれませんが、私の授業では、相手のプライドを叩き潰すような議論はルール違反。互いの価値観を尊重しながら堂々と意見をぶつけ合う“日本流ディベート”をやろうとしています。
藻谷 そこが素晴らしいと思ったポイントです。自動車でも料理でも、西洋のものが日本に入ってくると、マイルドで優しく、かつ汎用性が高い形にモディファイされて、それがまた西洋社会に還元されていく。特に日本に限らずアジアでのビジネスでは、相手のメンツを立てつつ、かつ言うべきことは言って、互いが折り合う地点を見つけていくという能力が極めて重要になりますから、今後、菊池先生の日本流ディベートの教育はどんどん世界に広がっていくべきではないでしょうか。
菊池 ただ、ディベートを授業に取り入れるためにいろいろ勉強したのですが、やはり個が自立している西洋社会に比べると、日本はまだ「群れ」社会だと思いました。「群れ」の外にいる人とのコミュニケーション力がとても弱い。(中略)だから、お互いを知り合い、「安心できる集団」と「自分への自信」を育むため、私の学級では「ほめ言葉シャワー」をやるんです。帰りのホームルームで、その日の日直がみなの前に立ち、クラスの子たちが思い思いに挙手して、その子のいいところを見つけて、とにかく褒めまくる。褒めるためには、その子に関心を抱いてよく観察しないといけませんし、その理由を表現する力も必要です。子供は誰でも「褒められたい」という思いがあるから、そこを刺戟されると、次はもっと褒められたいとやる気が出る、この好循環を生み出すためには、それなりの方法論が必要ですが、「ほめ言葉シャワー」をうまく回せるようになれば、集団に対する安心感と、自分に対する自信が培われます。するとクラスに落ち着きが生まれ、互いに相手を尊重する雰囲気が生まれます。

(引用終了)
<同書 125−127ページ>

 以前「会話と対話」の項で、『わかりあえないことから』平田オリザ著(講談社現代新書)の「会話」と「対話」の定義、

「会話」:価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。

を紹介し、「複眼主義」によって、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視

と関連付けたことがあるが、「日本流ディベート」は、日本人が両方を上手くコントロールして成果を挙げる手法として素晴らしいと思う。

 「会話と対話」の項でも述べたが、ディベート(対話)は、「新しい家族の枠組み」8項目、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

とも整合するし、起業家にとってもその能力は欠かすことが出来ない。「ほめ言葉シャワー」という手法は子供だけでなく大人の間でも通用すると思う。皆さんの組織でも実践してみてはいかがだろう。

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英国の歴史

2015年07月07日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 福田恒存の『私の英国史』が中公文庫から復刻されたので、この春じっくりと読んだ。単行本は1980年に出たとあるから35年ぶりのこと、端正な旧仮名の文章は読みやすく、内容は重厚だが分りやすい。カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

ノルマン人征服から、チャールズ一世の処刑(清教徒革命)まで。美徳と悪徳、利己心と虚栄心、愚行と蛮行……、史劇さながらに展開する歴代国王の事績を、公正な眼差しで叙述した、シェイクスピア翻訳者・福田恒存が書きたかった英国史。ジョン・バートン編「空しき王冠」(福田逸・訳)を併録。
解説・浜崎洋介

(引用終了)

とあり、本の帯には<現代日本のために……「反省の鑑(かがみ)」としての英国史>とあった。

 ノルマン人征服からプランタジネット朝、テューダー朝からステュアート朝に至る歴史の中で、立憲君主制がどのようにして成立し維持されてきたのか、本の帯にあるように、同じ体制を標榜する日本国との違いについて考えさせられる。反省の鑑は立憲君主制のことだけに限らない。以前「nationとstate」や「ヒト・モノ・カネの複合統治」の項で21世紀の国家(state)のあり方について論じたが、United Kingdomという連邦国家は複合社会であり、その歴史と今を深く知ることは、これからの日本列島の統治そのものを論じる上で大いに参考になる筈だ。同じ島国という類似性もある。本書の「あとがき」から引用したい。

(引用開始)

 私は本文の中で、「英国史の基調音」といふ言葉を用ゐたが、それは宗教的には英国国教会といふ鵺的なものを生み、道徳的には愛国心と利己心との妥協によって、個人の自由を確保し、政治的には中央集権的指導力(統治する技術)と民主主義(統治される或は統治させる技術)とを融合させ、心情的には国家主義と国際主義とを両立させる事によつて、ヨーロッパのどの国よりも先に近代国家として出発した事を意味する。随つて「私の英国史」は「英国の為の英国史」ではなく、「現代日本の為の英国史」といふ意味でもある。正直に言つて、私は過去の英国の歴史に対して飽くまで忠実であらうと努めながらも、現代の日本にとつてこれほど格好な反省の鑑はあるまいと思ふ箇処が随所にあり、さう書き添へたい誘惑に駆られる事が屢々であった。福沢諭吉に倣つて新「西洋事情」英国篇の積りだと言つたら、その厚顔無恥を嗤はれるであらうか。

(引用終了)
<同書 367ページより。フリガナ省略>

 ご存知のようにこのブログでは「複眼主義」と称して、

A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想

という対比を論じているが、政治体制の背景には当然言葉がある。百年戦争(フランスとの戦い)や薔薇戦争(ランカスター家とヨーク家の争い)、英国国教会設立などの詳しい背景を知ることは、英語の来歴を考える上でも重要だ。

 読むきっかけを与えてくれた新聞の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

アングロサクソン人定住から百年戦争などをへて、清教徒革命のチャールズ一世処刑まで、歴代国王の盛衰や波乱が史劇のごとく展開する英国史。シェークスピア翻訳の泰斗でもある保守派の論客が、民主主義を標榜する戦後日本にとり<反省の鑑>とすべき点は多いとの思いを込めて執筆。バートン編「空しき王冠」を併録。

(引用終了)
<東京新聞 4/5/2015(フリガナ省略)>

この名著を復刻した中公文庫の編集部と、協力したご子息の福田逸氏に感謝したい。

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高度成長という幻想

2015年03月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 これからの日本のあるべき姿や将来展望を、ここまで、政治・政策の視点から(「地方の時代 III」)、識者の対談から(「心ここに在らずの大人たち」)、体験的エッセイとして(「フルサトをつくる若者たち」)、さらに小説を通じて(「限界集落は将来有望」)見てきたわけだが、それを、経済を通して考えるのが『脱・成長神話』武田春人著(朝日新書)という本である。副題に「歴史から見た日本経済のゆくえ」とある。まず新聞の書評を紹介しよう。

(引用開始)

量より質で広がる選択肢

 「成長の限界」とか「脱成長」という言葉が使われ始めてから久しいが、新聞や雑誌には相変わらずいまのデフレから脱却し、いかにして成長復活への道を探るべきかという論説があちこちに見られる。現政権が「アベノミクス」の三本の矢のひとつに「成長戦略」を掲げていることからもわかるように、かつての高度成長の記憶はいまだに私たちの思考法を支配しているかのようだ。だが著者は、歴史家の立場から資本主義経済三百年の歴史を振り返り、永続的な高度成長などは一時的な現象に過ぎない、と説得力をもって論じている。
 成長なしでは私たちの生活が豊にならないのではないか、という反論がある。しかし、経済成長至上主義の呪縛から解き放たれると、「多様な選択肢の可能性」が見えてくる。所得や消費の「量」が大きければよいと考えるのではなく、例えば自発的なワークシェアによって「働き手」の選択の幅が広がり、過剰消費を避けながらも労働生産性が上昇し、労働時間の削減や生活の「質」が向上することは十分に可能であるという。
 本書によれば、もともと、日本語の「はたらく」という言葉は、「傍(はた)」を「楽(らく)にする」という意味とする考え方があり、自分のためだけに長時間仕事をするのではなく、村などの共同体のために汗を流すことを指す言葉だったという。著者は、「労働=苦役」という経済学の労働観から自由になれば、社会的責任を果たしながら生き生きとした仕事もできるようになり、活力が失われることはないと主張している。
 J・S・ミルが『経済学原論』のなかで、「定常状態」における人間的・精神的な進歩について語ったのは十九世紀の半ばだったが、「環境と資源の制約」が本当に意味で深刻になった現代、ようやく「成長神話」からの脱却の準備ができたのかもしれない。本書は、その意味を多方面から考えるよい機会を提供してくれるだろう。

(引用終了)

<東京新聞 2/22/2014>

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。このブログではまた、経済というものを、自然の諸々の循環を含め人間を養う社会の根本理念・摂理(人間集団の存在システムそのもの)とし、その全体を三つの層で捉えている。

「コト経済」

a: 生命の営みそのもの
b: それ以外、人と外部との相互作用全般

「モノ経済」

a: 生活必需品
b: それ以外、商品の交通全般

「マネー経済」

a: 社会にモノを循環させる潤滑剤
b: 利潤を生み出す会計システム

という三層で、モノコト・シフトの時代においては、経済の各層において、a領域(生命の営み、生活必需品、モノの循環)への求心力が高まると共に、特に「コト経済」(a、b両領域含めて)に対する親近感が強くなってくるだろうと予測している。

 経済というものを、「コト経済」「モノ経済」「マネー経済」という三層の集合体としてみれば、永続的な高度成長という概念は、「マネー経済」のb領域においてのみ成立することがわかる。他の領域では、需要と供給はバランスが取れれば均衡するのだ。資本主義経済が成立してから300年、持続的高度成長などというものが一時的な現象であったという本書の主張は最もなものだと思う。

 地球の限られた資源を、どのように有効活用し人々の生活を安定させるか、安定した生活のなかから生まれる多様な文化をまたどのように社会にフィードバックして生活に活用するか、ということが政策として問われているのであって、「マネー経済」のb領域だけを見てそれを決めようというのはまったく馬鹿げた話なのだ。

 「地方の時代 III」の項で紹介した「ミニマ・ヤポニア―日本を)」で田中康夫氏も、「小日本主義」「量から質へ」という言葉によって成長神話からの脱却を主張している。田中氏は『33年後のなんとなく、クリスタル』でも、敢て小説の最後に50年後にも一億人程度を保つという日本政府の人口予測を載せ、その成長神話に基づく間違った政策を批判している。

 以前「国家理念の実現」の項で、高齢化、少子化をいち早く迎えた今の日本は、モノコト・シフトの最先端を走っていると書いたけれど、この本『脱・成長神話』にも、

(引用開始)

 「ゼロ成長」を受入れることができると、1990年代から四半世紀に及ぶ日本の「経済停滞」も違った風景に見えてきます。日本の現状は、先進国がいずれも歩まねばならない「ゼロ成長」の先駆けとなる時代として見えてくるからです。つまり、日本は先進国経済の最先端に位置しているのです。

(引用終了)
<同書 216ページ>

という文章がある。最先端にいる我々がこれからどう進むか、それが、後に続く世界全体のこれからを決めるといっても言い過ぎではないと思う。

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しなやかな<公>の精神

2015年01月06日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 文芸評論『百花深処』<日本の女子力と父性について>の項で、『33年後のなんとなく、クリスタル』田中康夫著(河出書房新社)について書いたけれど、この小説、作者(と思しきヤスオ)が過去の自作の続編に登場し、フィクションとリアル(らしさ)が交叉する中で、過去のフィクション自体に新しい事実(由利が当時ヤスオと付き合っていたことなど)を付加してしまう、というユニークなスタイルで書かれている。

 これは、書き手が専業作家であれば、オリジナル作品の自律性が損なわれてしまうと考えて躊躇するかもしれない手法だ。田中氏がそこまでして新作にヤスオを登場させ、フィクションとリアルを交差させたのは、この国あり方を問うメッセージのインパクトを高める為ということが一つ。もう一つは、政治活動も恋愛も作家活動もボランティアも、「人の喜びこそ我が楽しみ」という意味で全て等価、と言い切る田中氏において、読者に新しい小説スタイルを愉しんでもらいたいという、サービス精神の表れではないかと思う。

 以前「現場のビジネス英語“after you”」の項で、after youというフレーズについて述べた。エレベーターなどで相手にかけるこの言葉は、

A:After you.
B:Thank you.
A:It’s my pleasure!

とつづく場合が多い。ここに出てくる“It’s my pleasure!”というフレーズは、まさに「人の喜びこそ我が楽しみ」という意味である。相手に先を譲り、それに対して相手が感謝の気持ちを述べたところで、あなたの喜びは私の楽しみですと声を掛ける。

 「人の喜びこそ我が楽しみ」という考え方は、複眼主義の「生産(他人のための行為)は消費(自分のための行為)に先行する」、「人は自分のためではなく他人や社会のために生まれてくる」といった考え方と重なる。

 田中氏はまた、ご自分のホームページ(「田中康夫Official Web Site」)で継続的に情報を発信し、それを誰にでもアクセスできるようにしている。こういった氏の姿勢は、クリエイティビティをシェアすると共に、社会に蓄積される暗黙知に信頼を置き、その先のことをそれらの人びとに委ねようとする新しい「公」の精神ともいえる。

A:After you.
B:Thank you.
A:It’s my pleasure!

という会話についてもどこかで取り上げておられた。

 『33年後のなんとなく、クリスタル』の販促において、ロッタに本を紹介させたり、メグミにPOPを作ってもらったり、ホームページで様々な人の書評をなかだちしたりするのも、単なる広告作戦ではなく、本について作者以外の関与を積極的に呼び込もうとする、田中氏のサービス精神、公的精神の表れなのだろう。それはまたネット時代における「“ハブ(Hub)”の役割」の実践でもあると思う。

 「人の喜びこそ我が楽しみ」という考え方には、自分だけがよければ他はどうでも良いと考える現代人特有の冷たさがない。権利と義務に縛られた人間関係ではなく、「出来る時に出来る事を出来る人が出来る限り」というしなやかな人間関係。これこそ21世紀に求められる「公」の精神であろう。

 我々も、“It’s my pleasure!”の精神で、理念の実現に邁進したいものだ。尚、クリエイティビティをシェアする「クリエイティブ・コモンズ」の考え方については、「シェア社会」の項を参照していただきたい。

 『33年後のなんとなく、クリスタル』には、2060年とそれ以降の人口予測の表が本文の一部として掲載されている。オリジナルの前著『なんとなく、クリスタル』にも、将来の人口予測の表が本文の一部として掲載されていた。

 巻末の表が2060年とそれ以降をカバーしていること、それが前著同様の位置づけ(本文の一部)にあることの二点から、『66年後のなんとなく、クリスタル』が2047年に書かれることが予測される。田中氏も雑誌のインタビューで、「『33年後〜』も30年くらい経ってから、(時代の変容が)見えていた、と言われるようなものになれば本望です。」と述べておられる。

 2047年に『66年後のなんとなく、クリスタル』が書かれるとすると、その内容のトーンを決めるのは、『33年後のなんとなく、クリスタル』に関わった人たち(読者、編集者、登場人物のモデルなど)、田中氏とクリエイティビティをシェアした人たち全てに違いない。

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integrityをインストールせよ

2014年12月16日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「国家理念の実現」の項で、そろそろ我々もどのような道筋で合理的なstateをつくるかきちんと話し合うべきだと書いたが、その際に必要なのは、話し合う人たちがintegrityを持っているということだ。

 integrityとは何か。『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)から引用しよう。

(引用開始)

「インテグリティ(integrity)」というのは、アメリカ人が人間を評価する場合の非常に重要な概念で、「インテグレート」とは統合するという意味ですから、直訳すると「人格上の統合性、首尾一貫性」ということになると思います。つまりあっちこっちで言うことを変えない。倫理的な原理原則がしっかりしていて、強いものから言われたからといって自分の立場を変えない。また自分の利益になるからといって、いいかげんなウソをつかない、ポジショントークをしない。
 そうした人間のことを「インテグリティがある人」と言って、人格的に最高の評価をあたえる。「高潔で清廉な人」といったイメージです。一方、「インテグリティがない人」と言われると、それは人格の完全否定になるそうです。ですからこうした状態をただ放置している日本の政治家や官僚たちは、実はアメリカ人の交渉担当者から、心の底から軽蔑されている。そういった証言がいくつもあります。

(引用終了)
<同書 13−14ページより>

ここでいう「こうした状態」とは、沖縄米軍飛行訓練基準が米国内のそれと違っている状態を指す。

 強い国の言うことはなんでも聞き、相手が自国では絶対にできないようなことでも原理原則なく受入れ、その一方で自分たちが本来保護すべき国民の人権は守らない、といった官僚・政治家のことを「インテグリティがない」というわけだ。

 このintegrityという言葉、日本語では「高潔」、「清廉」などと訳されるが、これでは「統合性」のニュアンスが出ない。一体具体的に何が統合されているのか。

 以前『21世紀を生きる学習者のための活動基準』(アメリカ・スクール・ライブラリアン協会編)という本の編集協力(翻訳のお手伝い)をしたことがある。ここで挙げられている学習の基準は大きく分けて、

skills(スキル)
dispositions(資質)
responsibilities(責任)
self-assessment(自己評価)

の四つあり、学生はこれらを学ぶべく様々なカリキュラムをこなす。integrityで思い浮かぶのは、これら四つが高いレベルで統合された人だ。

 四つの基準を高いレベルで統合した人格。これはあくまでも私の言葉解釈だが、integrityを保つには、単に高潔であればよいというものではなく、この四つの面での学習と努力が必要だと思う。

 逆にいうと、人は誰でも学習によってintegrityを持つことが出来るということでもある。高潔を求めて仏門に入る必要があるわけではない。

 上の四つのうち、dispositionsだけはぴったりくる訳語がなくて困った。結局「資質」と訳したのだが、ぴったりこないのは、日本語の「資質」という言葉が、教育によって後天的に高められるというよりも、生得的なニュアンスが強いからだろう。dispositions in action(行動に結びつく資質)ともいい、それは、思考や知的活動を左右する持続的な信念や態度のことで、実際の活動によって評価できるとする。日本では、スキル(技能)、責任、自己評価などは教えるが、この「資質」はあまり教えないのではないだろうか。これが日本人の「公」の弱い理由(の一つ)ではないかと思う。

 integrityは、stateの議論みならず、business全般においても極めて重要だ。スキル、資質、責任、自己評価をバランスよく学び、高いレベルで統合された人格を目指そうではないか。資質の向上については、「自分の殻を破る」の項も参照していただきたい。

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国家理念の実現

2014年12月09日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治著(集英社インターナショナル)という本を読んだ。日本国という非独立国家の法的実態を明らかにした好著である。

 この本には、敗戦占領時代から現在まで、憲法などの法的状況が歴史的・体系的に分るように書いてある。昭和天皇の光と影への言及も良い。詳細は本書をお読みいただきたいが、日本国という「state」の統治に関して、今も憲法の上位に日米地位協定が存在しているという。

 矢部氏はこの本の「あとがき」に、日本の国家権力構造の変遷を次のようにまとめる。

(引用開始)

戦前(昭和初期):天皇+日本軍+内務官僚
戦後@(昭和後期):天皇米軍+財務・経済・外務・法務官僚+自民党
戦後A(平成期):米軍+外務・法務官僚

(引用終了)
<同書 282ページより。枠内文字は太字とした>

 以前「nationとstate」の項で、「nationとは、文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団、すなわち民族や国民を意味し、stateとは、その集団の居場所と機構を意味する」とし、stateは「人々の間で合意された『理念と目的』に基づいて合理的に運営されなければならない」と書いたけれど、通常stateにおいては「憲法」の理念と目的が最上位のものであるから、日本国憲法の上に別のものがあるのであれば、いまの日本国は非合理的に運営されているわけだ。

 それをどのような道筋で合理的なstateにしていくか。今年はスコットランドで英国からの独立を問うた住民投票があり、カタルーニャでスペインからの独立を問うた(非公式の)住民投票があったが、そろそろ日本でもそういう話をnationの側できちんと話し合うべき時代になっていると思う。

 街づくりやビジネスの経営にとっても、人の居場所である「state」側がしっかり合理的に運営されていなければ、その理念の実現に影響が出る。

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べてきた。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 高齢化、少子化をいち早く迎えた今の日本は、モノコト・シフトの最先端を走っている。時代の最先端をゆく日本のstate(集団の居場所と機構)はどうあるべきか。それを論するには、まずこの本を読み、日本やアメリカの組織や法律についての解像度(理解度)を上げていくことが不可欠だ。その意味で、この本は日本文化を共有するnation側の人々の必読書といえるだろう。

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二つの透明性と複眼主義

2014年07月29日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今回は「虚の透明性」の項で述べた、二つの透明性と複眼主義の対比、

A 「都市」−「脳(大脳新皮質)の働き」−「実の透明性」
B 「自然」−「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」−「虚の透明性」

について話を進めたい。

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 「公(Public)」−男性性−〔所有原理・空間重視〕

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 「私(Private)」−女性性−〔関係原理・時間重視〕

といった対比をもとに、「ヤンキーとオタク」の項で、

ヤンキー文化=女性原理のもとで追求される男性性
オタク文化=男性原理のもとで追及される女性性

という斉藤環氏の優れた分析を援用し、

「出自」→「志向」

A、a系 → B、b系(オタク)
B、b系 → A、a系(ヤンキー)

A、a系 → A、a系(マッチョ)
B、b系 → B、b系(フェミニン)

といった「出自と志向」を分析した。さらに「ヤンキーとオタク II」の項では、建築家隈研吾氏を例に挙げて、

「出自」→「ひねり」→「志向」

A、a系 → B、b系 → A、a系

という複雑なケースにまで話を進めた。

 二つの透明性と複眼主義の(冒頭の)対比は、A、a系の仕事を生業とする建築家でありながら、虚の透明性(B、b系)を大切に考えるようになった隈氏が、「ひねり」を加えたヤンキーであって少しもおかしくないことを示している。いやむしろ、ひねりを加えたヤンキーであるべき必然性がみえてくる、と言うべきかも知れない。

 『ヤンキー化する日本』(角川oneテーマ21)で斉藤氏の対談相手として最後に登場する建築家隈研吾氏は、ヤンキーのなかにあるバッドセンス(バッドテイスト)に注目したとして、

(引用開始)

 そういうバッドテイストを自分はどのように建築の中で活(い)かしていけばいいのかをずっと考えていたんです。歌舞伎座をつくりながら、あっ、これがそうなんだをわかった気がしたんです。それは和風の中にあったんですが、これまで和風建築をつくってきた人たちもまた、きわめてヤンキー的だったということに気がつきました(笑)。

(引用終了)
<同書 216ページ>

と語っておられる。

「出自」→「志向」

A、a系 → A、a系(マッチョ)

のままでは、コンクリートのビルは建てられても歌舞伎座は建てられないわけだ。

 隈氏はさらにオタクへの関心を訊ねられ、

(引用開始)

 おたくとヤンキーというのは、ノンヒエラルキーな二〇世紀的工業世界が崩れてきた中で人間が生きていくための二つの道なんだと思います。おたく的な建築ってなんだろうと考えると、思い浮かぶのは妹島和代さんです。彼女はオラオラの逆で、自分はこれまでどんなにひどい目に遭ってきたのかということをいうから、みんな大好きになります。その才能はすごいと思います。プレゼンにおいてもオラオラではない率直さが、逆に希少価値のようなものに感じられ、「この人は信じるに足るかもしれない」と思わせられる素朴さがあるんですね。作るものも、とがっていなくて、ザハの反対です。
斉藤 現代日本においては、ヤンキー的な器の中におたく的なコンテンツが入っている構造ものがヒットするとも言われています。ジブリのアニメなどは、おたくが作ってヤンキーが売っているとも言われてますが、建築家はそれを一人でやらなきゃいけないのかなという気がします。
 実際のところ、建築の世界でもおたくがつくってますね。それでヤンキーがオラオラと説明しているという。ザハ・ハディドの作品でよくできていると思われる建物は、日本人がチーフを務めていたりするんです。オラオラで最後までやるんではなく、最後はオタクが細かく収めていく。そういう補完性が必要な領域なんですね。

(引用終了)
<同書 245−246ページ、フリガナ省略)

と述べておられる。オタク的といわれた妹島和代さんはSANAAで西沢立衛氏と組んで仕事をしているから、オタク的部分とヤンキー的部分とを二人で補完し合いながら作業を進めているのだろう。二人で補完し合うという仕事形態については、このブログでも以前「ホームズとワトソン」や「借りぐらしのArrietty」の項などで論じたことがある。

 さて、このブログでは、21世紀はモノよりもコトを大切に考える「モノコト・シフト」の時代であると繰り返し述べてきた。ここで、二つの透明性を補助線として、モノとコトを複眼主義的に再定義してみると、

A、a系: 世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる
B、b系: 世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる

という大きな絵柄を描くことができそうだ。20世紀はA、a系(実の透明性)が偏重されてきたけれど、複眼主義から見ても、21世紀は、両方のバランスが回復するよう、B、b系(虚の透明性)をより大切にすべき時代だということなのである。

 尚、複眼主義の体系的な理解には、「評論集“複眼主義”について」で紹介した本や、図を多く用いた「複眼主義入門」などをお読みいただければと思う。「複眼主義入門」は、サンモテギ・リサーチ・インクのFacebookページからevernote経由でpdf版を閲覧できる。

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二つの透明性と西欧近代文明

2014年07月22日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「虚の透明性」の項で述べた、二つの透明性と西欧近代文明の話を続けたい。隈研吾氏はその本『僕の場所』(大和書房)のなかで、アメリカを中心とした20世紀の西欧近代建築は、「実の透明性」を追求したが「虚の透明性」はあまり追求しなかったと述べている。その箇所を引用しよう。

(引用開始)

 コルビュジエやミースの建築はヨーロッパ近代という特殊な時代の産物ですが、同時にまたコルビュジエ達の眼は、アメリカという新しい場所、時代を向いていました。モダニズム建築は、20世紀という、アメリカがリードする新たな高度成長の時代のための、便利な建築様式でもあったのです。
 コルビュジエにもミースにも、ヨーロッパの時代が終わり、アメリカの時代が始まろうとしていることがはっきりと見えていました。19世紀的で産業革命的な工業ではなく、大量生産を基本とするアメリカ的な工業が20世紀の覇権を取ることが、彼らにははっきりと見えていたのです。(中略)
 彼ら二人は、「虚の透明性」の表現だけではなく、「実の透明性」の表現にもたけていたので、アメリカでもてはやされたのです。ガラス、細い鉄、薄いコンクリートなどの最先端の工業製品によってもたらされる実際の透明感を、見事に建築デザインへと昇華させたのです。結果として、コルビュジエもミースも、日本を含む新世界で大いにもてはやされ、最終的には20世紀の巨匠という特別な扱いを受けるわけです。(中略)
 コーリン・ロウから「虚の透明性」を教わったせいで、コルビュジエやミースに対する違和感は少し薄れましたが、それで彼らにのめり込んだわけでもありません。彼らの中の「実の透明性」の部分、アメリカ受けを狙った部分、ガラスっぽい部分、コンクリートっぽい部分、鉄っぽい部分を、どうやったら消していけるのだろうか。学生時代の僕はぼんやりとそんなことを考えていました。もちろん、解決策がすぐに思い付くわけでもなく、拒否のもやもやとした気分だけが続いていました。

(引用終了)
<同書 192−194ページ>

「拒否のもやもやとした気分だけが続いていた」隈氏は、その後(本のタイトルからもわかるように)「場所」を大切に考える建築家となった。そのことはこれまで「場所のリノベーション」や「場所の力」の項で述べてきた。「場所」は、「実の透明性」よりも「虚の透明性」の概念と親和性がある。「虚の透明性」は、自分の今の居場所を大切にしなければ見えてこない。

 「21世紀の文明様式」の項で述べたように、「平等志向」と「陋習からの開放」などによって進展したはずの西欧近代文明は、21世紀に至り、バロックを通り越してグロテスクな様相を呈してきた。その理由の一つは、20世紀を牽引したアメリカが、分りにくい「虚の透明性」よりも、分りやすい「実の透明性」を偏重しすぎたせいだと思われる。ガラスや鉄筋コンクリートを使った高層ビルの乱立するニューヨークが、20世紀における「近代=モダン」の中心地となった。実の透明性の偏重、過度の平等志向は、「自由化」の名の下における結果の不平等放置とgreedを生んだのではないか。

 これからは、大量生産されたモノよりも、その場その場で起きる一回性のコトを大切に考える「モノコト・シフト」の時代である。そういう時代には、コトが起こる場所を大切に考える「虚の透明性」という概念が重要性を増してくる筈だ。隈氏の建築が、日本のみならずアメリカやヨーロッパ、中国など世界各地で人気なのは、彼の創り出す「虚の透明性」空間が評価されてに違いない。

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虚の透明性

2014年07月15日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『僕の場所』隈研吾著(大和書房)という本を読んでいたら、「虚の透明性」という言葉があった。レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる絵画や建築を指す言葉らしい。英語では「Phenomenal Transparency」。

 この言葉は、建築史家のコーリン・ロウが『マニエリスムと近代建築』という著書の中で使ったもので、ガラスなどの実の透明性(Literal Transparancy)と対になる概念だという。『僕の場所』から引用しよう。

(引用開始)

 一つはガラスやアクリルのような、実際に透明な素材を使うことによって獲得できる透明性で、彼はそれを「実の透明性」と名付けました。
 もう一つの透明性は、実際には透けていないにもかかわらず、空間構成のトリックによって、幾つかの層(レイヤー)状の空間が重なることで感じられる透明性で、これをロウは「虚の透明性」と名付けました。

(引用終了)
<同書 189ページ>

近代建築の特徴には、

1.実の透明性(Literal Transparancy)

ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な空間

2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)

レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる空間

の二つがあるというわけだ。

 隈氏はこの「虚の透明性」という言葉を、評論家吉田健一が『ヨオロッパの世紀末』の中で使った「近代=モダン」の定義と重ね合わせる。再び『僕の居場所』から。

(引用開始)

 僕は吉田健一から「近代=モダン」というものを教え込まれました。一言で言えば、それは「たそがれとしての近代」です。19世紀を吹き荒れた産業革命と高度成長の嵐の後に来たのが「近代」です。「新しい世界」を作ろうとするユートピア精神が支配した19世紀の後に、「近代=モダン」という成熟した静かな時代が来たというのが、吉田による「近代=モダン」の定義です。

(引用終了)
<同書 188ページ>

隈氏はこの「たそがれとしての近代」を「虚の透明性」と重ね合わせ、

(引用開始)

 「虚の透明性」という概念は、僕にとって腑に落ちるものでした。それは「近代=モダン」という時代の根底にある、重要な概念です。「たそがれ」の時代には、すべてが重なって見えるのです。ロウはその意味で、僕が目指す「たそがれ」の時代の建築の姿を暗示してくれた、大切な恩人です。
 現在の中に過去があり、現在の中に未来がある。自分の中にも他人があり、他人の中にも自分がいる。そのような重層性こそが、「近代=モダン」という「たそがれ」の時代の本質です。(中略)
 過去と現在が重層し、近くと遠くのものが重層する状態こそが、「近代=モダン」という時代のすべての領域に共通する特質なのです。

(引用終了)
<同書 190−191ページ>

と述べる。

 「実の透明性」と「虚の透明性」、近代建築を巡るこの二つの概念の対比は面白い。西欧近代文明の特徴(旗印)には「平等志向」や「陋習からの開放」などあるが、オープンな情報公開を前提とする「平等志向」は実の透明性、自分の居場所から複雑な歴史を見通すことが必要な「陋習からの開放」は、虚の透明性の概念と重なるように思う。

1.実の透明性(Literal Transparancy)

・ガラスやアクリルなどを使った透明で均等な時空
・平等志向

2.虚の透明性(Phenomenal Transparaency)

・レイヤーを上手く重ねることで奥行きを感じさせる時空
・陋習からの開放

 「実の透明性」は目に見えるので分りやすい。「虚の透明性」はオープンに見通せないので、どちらかというと分りにくい。平等志向は誰にでもわかるが、陋習からの開放は、自分の居場所が分らないと把握できない。陋習という「思考の歪み」に浸っている人には、その陋習自体を客観視できないからだ。

 一方、テーマは違うが、複眼主義でいう「脳の働き」「身体の働き」と、二つの透明性の関連も指摘できそうだ。「公(Public)」の役割を担う「脳の働き」は実の透明性、「私(Private)」で複雑な「身体の働き」は虚の透明性という具合。

A 「都市」−「脳(大脳新皮質)の働き」−「実の透明性」
B 「自然」−「身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き」−「虚の透明性」

これら二つの透明性と西欧近代文明、複眼主義などについて、さらに項を改めて考えてみたい。

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三つの宿痾

2014年07月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「21世紀の文明様式」の項で、文明を蝕む宿痾として、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

を挙げたけれど、今回はこの三つについて敷衍したい。いろいろと考えてみても、人類にとっての宿痾(治らない病気)は、概ねこの三つに集約されるのではないだろうか。

(1) 人の過剰な財欲と名声欲(greed)

 人には五つの欲望(食欲・睡欲・排欲・財欲・名声欲)があるが、前の三つ(食欲・睡欲・排欲)は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

におけるB、b系に属し、後の二つ(財欲・名声欲)はA、a系に属している。

B、b系の時間は寿命(t = life)によって掣肘されているから、前の三つの欲望はあまり暴走することはない。しかしA、a系の時間は常に現在進行形(t = 0)だから、後者の二つは気をつけていないと果てしなく増殖する。

 この理性の利かなくなった財欲と名声欲のことを、人は昔からgreedと呼んで忌み嫌ってきた。しかしいくら忌み嫌っても増殖するものは増殖する。癌細胞のように。だから健康管理と同じくいつも早め早めに手を打たなければならないわけだ。財欲と名声欲は、(他の三欲と違って)原理的に歯止めが利かない。ここが重要なポイント。

(2) システムとその自己増幅を担う官僚主義(bureaucracy)

 富と名声を手に入れたgreedは、(悪知恵を働かせて)それを自己増幅させるためのシステムを構築する。官僚主義とは新しいことを始めないことである。言われたことだけを言われた通りにやる。その官僚たちがgreedの支配下に入り、システムの自己増幅を担うようになると、社会の自由抑圧はより強化される。そして官僚たちはシステムのおこぼれに与ることでさらに増殖する。まるでシロアリのように。

(3)認知の歪み(cognitive distortions)の放置

 認知や思考は、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種

の影響によって、常に、

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

といった歪みを生ずるリスクを抱えている。歪みを放置しておくと、greedとbureaucracyが支配するシステムに簡単に騙されてしまう。それは周りの真っ当な人たちにとって大変迷惑なことだ。

 また、市井の人びとの犯罪の多くは、この認知や思考の歪みに根ざしている。病気や疲労、五欲、無知や誤解、紛争や宗教、陰性感情の爆発など(からくる認知・思考の歪み)による犯罪である。だから、人は常に歪みを正す努力を続けなければならない。健康のために身体の歪みを正すように。

 以上、一つひとつ見てきたが、この三つは他人事ではなく、我々一人一人の内に棲みついている宿痾である。だれでも、富と名声を得れば嬉しくなってそれを増やそうとし、面倒くさくなれば前と同じ事をやり、どこかに認知や思考の歪みを抱えている。

 冒頭述べたように、人類にとっての宿痾は、概ねこの三つに集約されると思う。さまざまな性悪説や犯罪のルーツ、環境破壊や差別の元を探っていくと、だいたいこの三つに遡ることができる。特に最後の「認知の歪み」の影響範囲は広い。

 人類の宿痾がこの三つに集約されるということは、逆に言えば、この三つさえ上手くコントロールできれば、人類の寿命は今よりももうすこし長くなるということである。カテゴリ「生産と消費論」で縷々述べてきたように、そもそも人は社会のために生まれてくる。本来、ヒトは「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」なのである。この「三つの宿痾」をうまく掣肘して、これからの文明様式を、生き生きとしたアルカイック・クラシック段階に戻したいものだ。それが出来なければ、(今の西欧近代文明の影響範囲は地球規模だから)この星(地球)は早々に滅びるだろう。

 尚今回のテーマは、以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項などでも述べたことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。

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21世紀の文明様式

2014年07月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「志向の様式」の項で、あらゆる時空の変化は、

アルカイック:初歩的で、古拙的。
クラシック:円熟して、古典的。
マニエリスム:形式的で、技巧的。
バロック:歪んだ真珠のようなスタイル。
グロテスク:異様で、怪奇的。

といった流れに沿って発展・終結するとし、「志向」(人が追及する認識と欲望の形式)も外からの刺激がないと、最後はグロテスクなものになってしまうと書いたけれど、「志向」の集積である「文明」もまた、同じ運命の下にある。

 20世紀半ばに円熟し古典期を迎えた西欧近代文明は、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

という三つの宿痾によって、環境破壊と貧富格差が増大し、21世紀初頭において一部はすでにグロテスクの段階に達している。

 文明の終焉はこれまでにもあったが、西欧近代文明の影響範囲は地球規模だから、このままにしておくと地球そのものが滅んでしまう。日本も明治以降、西欧近代文明の一翼を担ってきた。近代日本語をつくり、議会制民主政治を目指し、要素還元主義科学を応用して便利な道具や機器を造り、それを世界に普及させてきた。だから我々にも、西欧近代文明に刺激を与えその流れを変える責任があると思う。

 その刺激の一つが、このブログで「モノからコトへのパラダイム・シフト(モノコト・シフト)」と呼んでいる、世界各地で澎湃と起こりつつある新しいトレンドだ。それは、モノよりもコトを大切にする生き方・考え方で、環境破壊と貧富の格差増大の源にある「行き過ぎた資本主義」に対する反省として、また、要素還元主義によって生まれた「モノ信仰」の行き詰まりに抗して表出した、新しい思考の枠組みである。

“モノからコトへ”のパラダイム・シフト
場のキュレーション
時空の分離
経済の三層構造
21世紀の絵画表現

などの項をお読みいただくとモノコト・シフトの姿が見えてくるだろう。

 西欧近代文明の時空は(地球規模ではあるが)一様ではない。「モノコト・シフト」の進んでいる地域もあれば、そうでない地域もある。進んでいる階層もあれば、そうでない階層もある。その中で、いち早く「モノ経済」が飽和状態に達したいまの日本(の多くの地域と階層)は、モノコト・シフトの最前線に立っているのではないだろうか。人口も減り大量生産・輸送・消費システムを増強する必要もない。だから日本は、この新しい思考の枠組みに移行しやすい筈だ。

 日本が世界に貢献できるのは、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

における、B、b系分野であろう。「モノと物質主義」の項でみたように、B、b系はもともと自然環境との共生が得意だ。我々はこの力をさらに磨き、世界によい刺激を与え続けなければならないと思う。

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志向の様式

2014年06月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「ヤンキーとオタク II」の項で、

(引用開始)

認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。

(引用終了)

と書いたけれど、この様式(変化)についての説明が不足していたかもしれない。

 これは、ルネッサンス期の技法説明などに用いられるセオリーで、芸術運動は概ね、

アルカイック:初歩的で、古拙的。
クラシック:円熟して、古典的。
マニエリスム:形式的で、技巧的。
バロック:歪んだ真珠のようなスタイル。
グロテスク:異様で、怪奇的。

といった流れに沿って、発展・終結するとされる。

 この様式・形態変化は、芸術ばかりではなく、あらゆる「時空」の変化に当て嵌まるだろう、というのが私の考えだ。スケールの大・小・長・短は問わない。星の一生、会社、レストランの味、流行、建築様式などなど。認知や思考による「志向」(人が追及する認識と欲望の形式)もその例外ではない筈である。

 思考は学習によって深まってゆく。「志向」におけるアルカイックからクラシックへのポジティブな変容を支えるのは、そういった学習効果である。しかし、以前「自分の殻を破る」の項で纏めたように、認知や思考は、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
(greedとは人の過剰な財欲と名声欲、bureaucracyとは官僚主義)

によって、常に歪みを生ずるリスクを抱えている。クラシック段階に達した「志向」は、気をつけないとやがて歪み、マニエリスムからバロック、そしてグロテスクな段階へと変容してゆく。

 マニエリスムからバロックまではまだ良い(味わいが継続している)が、グロテスク段階に至ると、その人の「志向」は誰からも相手にされなくなってしまうだろう。だから、興味の横展開などによって自分の関心分野を広げ、思考をつねに新規にしてゆくことが求められるわけだ。

 「思考を常に新規にしてゆく」のはそれほど難しいことではない。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

に則って、A、a系とB、b系との間を行ったりきたりしながら思考を展開してゆけば宜しい。

 川に流れに例えれば、自分の舟(思考)を操りながら、あるときは橋の上から俯瞰し、あるときは流れの渦に巻き込まれるようにして、ゆっくりと下ってゆく感じだ。「橋の上から俯瞰する」ことがA、a系の発想で、「流れの渦に巻き込まれるようにして」というのがB、b系であることはお分かりいただけると思う。この比喩は「現場のビジネス英語“Resource PlanningとProcess Technology”」の項でも引用したことがある。そこには他の比喩もあるから読むと参考になるかもしれない。

 川を下るのに慌てる必要はない。支流を見つけたらそちらへ行くも良し、行かぬも良し。途中風景を楽しみながら、まわりの舟とも会話しながら、ゆっくりと下ってゆく。橋の上から別の川を見つけたらそっちへ移ってもよい。そうこうして、川が変わる、あるいは同じ川でも流れが変われば(自分の殻を破れば)、あなたの「志向」は、ふたたびアルカイック状態に戻るだろう。そのとき、あなたの舟(思考)は、以前より一回り大きくなっているはずだ。

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ヤンキーとオタク II 

2014年06月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

<公と私論>

 先日「ヤンキーとオタク」の項で、

(引用開始)

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

(引用終了)

と書いたが、まず「屈折した人の精神パターン」について説明してみよう。ヤンキーやオタクについては、先日の項をお読みいただきたい。

 建築家や経営者など、集団を束ねる仕事の人や、作家や役者など、仕事で個性を際立たせたい人は、自分の出自とは反対の性性を自家薬籠中の物とした上で、意図的に、ヤンキー、あるいはオタク的キャラクターを演じようとする場合がある。キャラを際立たせることで仕事がやり易くなるからだ。前者にはヤンキー的な人が多く、後者にオタク的な人が多いのではないか(勿論その逆もあるだろう)。

 たとえば建築家の隈研吾氏は、出自としては男性性が強いにもかかわらず、女性性を自家薬籠中の物にした上で、建築家・経営者としてヤンキー文化を志向するという「ひねり」を加えているように見受けられる。『ヤンキー化する日本』での斉藤環氏との対談や、「モダニズムからヤンキーへ」という歌舞伎座設計始末記(『新建築』5/2013号)を読むとそう感じられる。

「出自」→「ひねり」→「志向」

男性性 → 女性性 → 男性性

というパターンである。昔ソニーの盛田昭夫氏が「経営者はネアカでなければならない」と言ったが、それも同じようなパターンだと思う。

 次に「特定の分野にフォーカスした行動分析」について。以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、認知の歪み(思考の歪み)は精神的自立を阻害すると述べ、「認知の歪みを誘発する要因」の項で、人は認知の歪みから完全に自由であることは出来ないと述べたが、全般的にはバランスが取れていても、特定の分野にフォーカスすると、人は(自分でも気付かないうちに)けっこう思考の歪みに陥っていることがある。噂話を耳にしたとき、酒に酔ったとき、自分が詳しくない分野の新聞記事を読んだとき、スポーツを観戦しているときなどなど。そういう時、本来はバランスが取れた人格者が突如キャラの立った態度に出ることがある。

 たとえば、運転席に着いた人が急にヤンキー的態度を取ることがある。それは車の運転という特定の行動において、その人の脳に、下に記したようなさまざまな認知の歪みが発生するからだろう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

「こんなところに路駐するなバカヤロ!」「歩行者信号はとっくに赤だぞ!」などなど。皆さんも経験があるのではないか。私にも覚えがある。小さな認知の歪みは大したことではないが、それが積もり積もるとやがて行動が間違った方向へズレてしまうから気をつけたい。

 最後に「志向の様式変化追跡」とは何か。認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。「彼のヤンキー度はもうバロック的だな」「彼女はクラシカルな山オタクだね」などなど。

 これを逆に言うと、ある特定の事柄(issue)に固執したヤンキー・オタク文化は、やがて形式主義的(マンネリ)になり、最後にはグロテスクな色合いを帯びるから、人は、いつも新しいことにチャレンジしていないと駄目だということでもある。このことは、ヤンキーやオタクに限らず、バランスよく男性性・女性性を志向しようとする一般の人にも当て嵌まると思う。自分の関心分野を広げる(「興味の横展開」を続ける)ことで、常に気持ちを若々しく保っていただきたい。

 ついでに、以前「6つのパーソナリティ」の項でみたパーソナリティ・タイプ(性格の要素)を短く纏め、それに男性性・女性性要素も加えた上で表にしておこう。

リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。(女性性)
ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。(男性性)
パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。(男性性)
ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。(女性性)
プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。(男性性)
レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかという反応重視。(女性性)

自分が志向したい性格や文化の参考になると思う。

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ヤンキーとオタク

2014年06月03日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『ヤンキー化する日本』斉藤環著(角川oneテーマ21)という面白い本を読んだ。カバー帯表には「この国は“気合い(だけ)”で動いてる」とある。まずその内容を新聞の書評から紹介しよう。

(引用開始)

 「ヤンキー」は今の日本の傾向を理解するのに必須のキーワードだが、どれくらい認知されているだろう。定義は明快――バッドセンス、キャラとコミュニケーション、アゲアゲのノリと気合い、リアリズムとロマンティシズム、角栄的リアリズム、ポエムな美意識と“女性”性。
 このフィルターにひっかかる社会現象が世に溢(あふ)れている。安倍政権はまんまヤンキーだ。「ノリと気合い」でなんとかなると思って靖国神社に参拝し憲法を変えようとしている。ヤンキーは現実的な難関を精神の力で越えられると信じてしまう。それは「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」と斉藤氏は言う。
 前著『世界が土曜の夜の夢なら』に始まったヤンキー解析が、本書では六人の相手との対談に展開される。そのメンバーが村上隆、溝口敦、デーブ・スペクター、與那覇潤、海猫沢めろん、隈研吾。あまりに広範囲なヤンキー文化の浸透ぶりに目まいがするほど。
 ヤンキーに対抗するのはオタク。深いが狭く、細部ばかりにこだわる不器用な性格。それでは、知識人とはつまり知識オタクなのか。

(引用終了)
<毎日新聞 4/13/2014>

ここにある『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店、2012年)という本で、斉藤氏は、日本の様々なポップカルチャーを分析し、

ヤンキー文化=女性原理のもとで追求される男性性
オタク文化=男性原理のもとで追及される女性性

という原理を抽出した。そして、今の日本には「ヤンキー文化」が蔓延していると論じた。

 斉藤氏は、その前の『関係する女 所有する男』(講談社現代新書、2009年)の中で、男性性と女性性について、

男性性:「所有原理」「空間重視」
女性性:「関係原理」「時間重視」

という「認識および欲望の形式」を指摘している。これは複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

と整合する(「男性性と女性性 II」の項参照のこと)。

 従って、日本人(日本語的発想をする人)にヤンキーが多くて不思議はないという話になるが、新鮮なのは、『世界が土曜の夜の夢なら』において、斉藤氏が人の「出自」と「志向」とを分けて社会を分析したことだろう。

 ここでいう「出自」「志向」は私の言葉。出自とはその人がもともと持っている認識と欲望の形式を指し、志向とは、その人が追求する認識と欲望の形式を指す。ヤンキーはアゲアゲのノリと気合いで動くから、一見男性的だが、出自を辿るとその精神は案外女性的なのだ、というのが(出自と志向による)斉藤氏の分析である。

 「人は自分と反対の(あるいは同じ)性性を求める」というはたらき・運動(「出自」→「志向」)に注目したのが氏の着眼の面白さだと思う。

「出自」→「志向」

男性性 → 女性性 (オタク)
女性性 → 男性性 (ヤンキー)

このことで、「出自」と「志向」との間にいくつかのパターンを読み取ることが可能になり、社会分析がより緻密にできるようになった。動きのあるダイナミックな見方ができるようになった。たとえば次のようなパターンもあるのではないか。

「出自」→「志向」

男性性 → 男性性 
女性性 → 女性性 

これは「自分と同じ性性を求める」ということで、前者は男性性による「所有原理」「空間重視」の徹底追求型であり、後者は女性性による「関係原理」「時間重視」の徹底追求型である。前者を「マッチョ」、後者を「フェミニン」とでも名付けようか。

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

 さて、紹介文にある「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」とはどういうことか。斉藤氏は、ヤンキー文化は「気合い」で何でも乗り越えられるとするけれど、それは戦争や経営といった「合理的判断」を必要とする局面においては通用しないと述べている。そして合理的判断ができるようにするには、そこでヤンキー文化を一旦分離・切断する必要があると述べる。

(引用開始)

斉藤 日本的な行動主義はなぜかヤンキー主義に帰結してしまう。そこが問題ということなんでしょうね。最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と私は言い続けてきましたが、TPPの導入や移民受け入れのような「痛み」なしには難しいかもしれません。とはいえ私も「切断」実現のために、「気合い」抜きで説得を続けたいと思います(笑)。

(引用終了)
<同書 178ページ>

 近代社会では、「公(Public)」にとって大切なのは「個の精神的自立」である。このことはこのブログで繰り返し述べてきた(「自立と共生」の項など)。「合理的判断」とは、複眼主義でいうところのA、a系、Resource Planning(資源分配)そのものだ。伝統的社会においては、「公(Public)」は「権威(原理や組織)」に拠って運営されていたから、合理的判断を司るA、a系(男性性)において「個の精神的自立」は必ずしも必要とされなかった。族長の判断によって集団の公的行事が運営されていた。しかし、近代社会のルールにおいては、そこに「個の精神的自立」がインストールできていないと、人は、外の権威(原理や組織)に簡単に騙されてしまう。斉藤氏のいう「痛み」である。70年前、多くの日本人が無謀な戦争に巻き込まれていったのがその例だ。

 残念ながら日本人は、言葉の特性もあって、精神的自立を果たしていない人がまだ多い。日本的ヤンキーが志向する男性性は、外の権威に弱い。それでは戦前と同じことになる。だから斉藤氏は、最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と語っておられるのだろう。

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デンマークという幸せの国

2014年04月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「社交のための言葉」「議論のための日本語」「議論のための日本語 II」の各項において、複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

という対比から、A、a系の言葉の強化が、近代的社会にとってどれほど重要かということを論じてきたわけだが、ここでその例として、デンマークという国について考えてみたい。

 『デンマーク流「幸せの国」のつくりかた』銭本隆行著(明石書店)という本から、デンマークと日本を比較した文章を引用しよう。

(引用開始)

 デンマークと日本を比べたときに、なにが異なるのだろう。たしかに制度は異なる。しかし、その制度を利用する国民の姿勢そのもに大きな違いを感じる。国民そのものが制度を支えている。ただの客体ではなく主体なのである。自ら積極的に参加し、自分の住みやすい社会を作り上げている。世の中を変えるには、この主体性というものはとても大切だ。
 対して受身の日本人。しかし、ただの制度の受け手では、いつまで経っても望むものは手に入らない。日本人が“主体的国民”となるためのヒントを、これまでみてきたデンマークがら得たい。それはデンマーク人のだれもが持ついかの3つの姿勢である。

「自己決定」
「連帯意識」
「民主主義」

「自己決定」とは、読んで字のごとく、自分で決定するということである。日本人は、自分でものごと決めているだろうか? たとえば、多くの外国人が日本人を評して、「おとなしい」「いうことを聞いてくれる」。しかし、これらは裏を返せば、「意見をいわない」「自分の考えを持たない」と消極的な意味も含まれる。
「連帯意識」とは、他人との共同である。自己主張が強いデンマーク人は、この意識を強く持っている。考え方や背景が違えど、「同じ人間」ということで、手をお互いに差し伸べあう。妬み、嫉み、お互いの足の引っ張りあい、が常態の日本とは大きく異なる。
「民主主義」とは、政治システムの話ではない。簡単にいえば、「徹底的に話し合ってものごとを決める」という姿勢である。これは、デンマーク人に徹底的に浸透している。デンマーク人と話していると、1時間に1回は絶対に「デモクラシー(民主主義)」という言葉がついて出てくるほどだ。
 こうした「民主主義」が機能する前提として、「自己決定」と「連帯意識」の原則は不可欠である。つまり、「自己決定」をする主体的な国民が、相手の意見も認める「連帯意識」を持つことで、はじめて「民主主義」は可能なのである。「自己決定」「連帯意識」「民主主義」のいずれかひとつが欠けても、デンマークという国は成り立たない。

(引用終了)
<同書 227−228ページ>

私はデンマーク語が分らないし、まだ訪れたこともないから、この本に全面的に依存するしかないのだが、「主体性」を主格中心、「受身」を環境中心と言い換えれば、銭本氏の主張は、複眼主義の対比構造に当て嵌まるように思う。

 デンマークは、最近のいくつかの幸福度調査において世界1位に輝いている。勿論近代国家の幸福度は、地理的な位置、自然環境や歴史状況、国のサイズなどにも左右されるだろうが、言葉の力も大きい筈だ。デンマーク語は英語と同じ西欧の言葉だから、A、a系の言葉が強いものと思われる。国連による2010−2012の間の国別幸福度ランキングを見ても、

1.デンマーク
2.ノルウェー
3.スイス
4.オランダ
5.スウェーデン
6.カナダ
7.フィンランド
8.オーストリア
9.アイスランド
10.オーストラリア

ということで、西欧系の国々が上位を占めている。

 『デンマーク流「幸せの国」のつくりかた』を読むと、社会が抱える問題点も含めて、デンマークのことが多少わかる。新聞の書評も載せておこう。

(引用開始)

 さまざまな「幸福度調査」で一位となり、高福祉で知られる国デンマーク。本書はその社会保障制度などをわかりやすく解説する。
 著者は、福祉や教育を専門とするデンマークの国民高等学校「日欧文化交流学校」の学院長。時事通信と産経新聞で11年間の記者経験がある。豊富な経験と取材に基づいて、この「幸せの国」の歴史や文化を、ユーモアを交えた筆致で紹介。有名な高い税金、若者の生活保護や薬物依存の増加、高い犯罪率など、負の側面にも鋭く切り込んでいる。
 それにしても、福祉の充実ぶりには改めて驚かされる。法定の「週37時間労働」が順守され、「夫が午後3時に帰宅するのがストレス」という妻の声も。転職経験は平均6回、資格取得のために休職する間も給与が支払われる支援制度……。日本では考えられないことばかりだ。
 社会を支えているのは、自分の意思を貫く「自己決定」、他人との協調を重んじる「連帯意識」、そして徹底的に話し合う「民主主義」というデンマーク人気質。著者は日本人に向けて、この3点こそが「“自分の人生”を生きていくために役立つツール」だと説いている。

(引用終了)
<毎日新聞 11/4/2012>

 複眼主義の考え方が間違っていなければ、以前「日本語の力」の項でみたように、日本語のような母音言語は世界でも珍しいから、B、b系の力(現場で与えられた環境を守り何かを紡ぎだしてゆく力)ランキングでは、日本は世界一なのではないか。これで、我々が少しでもA、a系の力を鍛えれば、全体としての幸福度ランキング上昇は間違いないと思われる。皆さんも是非この本などを読みながら、言葉の持つ力に想いを馳せていただきたい。

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足に靴を合わせる

2014年02月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『養老孟司の大言論 I 希望とは自分が変わること』養老孟司著(新潮文庫)を読んだ。この「大言論シリーズ」は、季刊雑誌『考える人』に連載された氏の文章を纏めたもので、2011年に3冊の単行本として出版された。今回その第1冊目が文庫化された訳だが、このあと続けて、3月に『養老孟司の大言論 II 嫌いなことから、人は学ぶ』(新潮文庫)、4月には『養老孟司の大言論 III 大切なことは言葉にならない』(新潮文庫)が出版されるという。

 本書で特に面白かったのは、「ただの人」、「エリートとはなにか」、「個人主義とはなんだ」と題された、最後の3章だ。ここで養老氏は、戦後日本社会の基本最小単位が、「家」から「個人」になったこと(とその余波)について論じておられる。

 氏は、戦後日本が、新憲法に基づくいわゆる民主主義の下で、共同体の基本最小単位を、それまで長く培われてきた「家」から、アメリカ流の「個人」に変更したことを指摘の上で、

(引用開始)

 ところがわれわれの社会は、そこで「個人」を立て損なった。立てたつもりだということは明らかだが、千年以上も続いた社会制度を、紙切れの上の文字だけで変えることができると思っているのは、言説のみで生きている人たちか、かつてのシロタ女史のような若者だけであろう。家制度は消えたが、代わりの個人がそこまで育っていない。
 そもそも個人とは、永続する個性を前提としている。日本の世間が個性を認めるかというなら、まず認めはすまい。日本の伝統的思想からいうなら、個性は永続するどころではない。この国は諸行無常で、無我なのである。面倒になったら「靴に足を合わせろ」と、いまでもいうに違いない。
 永続する個性を保証したのは、じつは一神教の霊魂不滅である。その霊魂不滅を要請したのは、聖書に書かれた最後の審判である。霊魂が不滅でなければ、最後の審判に意味はない。(後略)

(引用終了)
<同書 192−193ページ>

と述べる。尚、シロタ女史とは、敗戦国日本を支配した連合国最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、新憲法の作成に関与した米国籍の若い女性だ。

 このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

といった二項対比を論じている。この対比で考えると、養老氏のいう「靴に足を合わせろ」という思想は、靴=環境ということで、B、bの日本語的発想そのものということができる。一方の「永続する個性」は、キリスト教を源とする西欧近代化を支えた思想で、A、aの英語的発想と重なる。

 敗戦後の日本は、「近代家族」の枠組みによって、「モノ経済」による高度成長を遂げてきた。近代家族の特徴は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家庭領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったものだが、日本人の多くは、高度成長期の公共領域において、靴=環境を、「家制度」から会社などの「組織」に置き換え、「巨人軍は永久に不滅です!」といったメンタリティで、(個人の自立など考えることなく)会社のために一心不乱に働いてきた。

 日本が、敗戦からこれほど早く「モノ経済」の繁栄を勝ち得たのは、この「靴に足を合わせる」メンタリティのお陰だったということができるだろう。その一方で、戦後の家内領域は、核家族化して縮小した。

 しかし、大量生産・輸送・消費社会の限界が見え始めた今の日本は、「コト経済」による、共存型の成熟社会への変換を迫られている。そこでは、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムが大切になってくる。それを支える家族のあり方も「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったものになってくる筈だ。そうなると、「靴に足を合わせる」だけではなく、「足に靴を合わせる」発想も必要になってくる、というのが私の見立てだ。すなわち、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

のバランスを大切に考えること、「公(Public)」の領域では、自立した個人として、自分の足に靴の方を合わせ、「私(Private)」の領域では、共生する仲間と一緒に、靴に足を合わせつつ生きる、という「複眼主義」的考え方が大切になってくる、ということだ。

 日本人は、一神教抜きで、(公共領域において)「個人」を立てなければならない。その難しいチャレンジを、今後も皆さんとご一緒に考えたいと思う。私が考える方策のひとつは、「新しい日本語」の項で述べたように、明治以降の近代日本語を鍛えることである。同項では次の3点を挙げた。

1.公(Public)の場で使う言葉の創造
2.初等教育の改革
3.不思議な日本語の見直し

他にもあると思うので、ご意見などを戴けたらと思う。

 尚、養老氏は、戦後の「家制度」崩壊の問題点を、『日本のリアル』(PHP新書)における岩村揚子さんとの対談でも指摘しておられる。それについては、「近代家族 III」の項を参照していただきたい。

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posted by 茂木賛 at 10:25 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

勝負の弁証法 II 

2013年12月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「勝負の弁証法」の項では、勝負の弁証法の適用範囲を、「勝負事=明示されたルールの元で戦うゲームや競技」に限定して話を進め、勝負事には合意された「理念と目的」が大切だということと、敗者とその戦いのプロセスは、つねに勝者の内に包摂されなければならない、ということを論じた。今回は、それ以外の戦い、すなわち、ルールがあって無き様な国同士の戦争や、そもそもルールのない裏切りに満ちた抗争、正当防衛、自然界の生存競争、生物進化などに話を広げ、弁証法ロジックとの関係について考えてみたい。

 まず、戦争や抗争について。明示的なルールのある無しは、「ルールが無い」ことがルールだと考えれば、ゲームや競技と同じ土俵に乗せて考えることができる。しかし、勝負の弁証法が通用するのは、その勝負に合意された「理念と目的」が存在する場合である。戦争や抗争に(一方的な「理念と目的」はあり得ても)当事者双方に合意されたそれがあるとは考えにくい。従って、戦争や抗争は、弁証法ロジックの対象にならないと思われる。単なる「喧嘩」だ。

 次に、正当防衛について。降りかかった火の粉を払う行為には、法律的に認められた正当防衛と、そうでない場合とがあろう。前者には法律という「ルール」があり、後者にはそれが無い。しかし、いづれの場合でも、当事者同士は加害者と被害者の関係だから、そもそも合意された「理念と目的」などある由もなく、従って、これも弁証法ロジックの対象にはならないと思われる。

 自然界の生存競争について。生存競争には、弱肉強食など(明示されてはいなくとも)一定のルールがあることが知られている。しかし、自然界そのものに合意された「理念と目的」があるかどうかは「神のみぞ知る」だ。

 ここまで検証してくると、勝負における弁証法ロジックは、ゲームや競技に限定された話であったように思える。では生物の進化はどうか。

 生物の進化に、明示的ルールや「理念と目的」など無いように見える。しかし進化には、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という発展構造がある。生物進化のみならず、自然界の諸々の出来事は、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という“コト”そのものである。実は、人智が考え出した「弁証法ロジック」自体、自然界の出来事や生物進化の様子を模倣したものなのだ。だから、大きく考えれば、生存競争もそういう“コト”の一局面だし、人の喧嘩や正当防衛行為ですら、社会において起こる“コト”の一部であると云うことが出来る。

 さて、自然界に、勝ち組と負け組みはない。人類が勝ち組だとする考え方は浅はかな驕りであって、いつか人が住めない地球環境が齎されれば、人類は簡単に滅ぶだろう、嘗て恐竜が(巨大隕石によって?)滅んだように。勝ち組と負け組みがないのは、自然には(神を持ち出さない限り)明示的な「理念と目的」が無いからだ。「集団の時間」や「自然の時間」の項で述べたように、自然の時間は無限大(t = ∞)だから、限定的な「理念」や「目的」を決めようがないわけだ。

 ここまで考えて来ると、勝負における「理念と目的」の設定は、「都市」(人の脳が作り出した様々な機能・構造)においてのみ意味を持つことが分る。勝負の弁証法は、様々な戦い、争いの中で、「都市」において、その構成員によって合意された「理念と目的」があるものにのみ適応されるロジックなのである。

 「理念と目的」(の設定)は、極めて都市的なものである。それは、生存競争や生物進化にはない特色だ。勝負事において(勝つ為の努力は勿論大切だが)負けることは問題ではない。再チャレンジへの闘志さえ持ち続ければ、人は幾度でも勝負に参加できる。そういえば、選挙も勝負事の一つだ。健全な社会であれば、選挙に勝った候補者は、負けた候補者と、その他全有権者を代表する立場になる筈だ。勝者は、敗者およびそのプロセス全てを包摂し、「理念と目的」をより高いレベルへ押し上げる役割を付与されたと考えるべきである。だから、そこでは、勝ち逃げが一番悪いということになる。

 プレイヤーの中には、勝つと責任がかかってくるから、それを回避しようとわざと負ける者もいる。「理念と目的」をより高いレベルへ押し上げる役割を付与されることに耐えられないからだ。それを人は「敗北主義者」という。勝ち逃げと敗北主義者。どちらも戦いの場を選び損ねた卑怯者たちの謂いである。

 勝負が“コト”であってみれば、“モノコト・シフト”の時代、世界中でスポーツ・イベントやゲームなどがますます興隆するであろうことは容易に想像できる。ワールドカップ、オリンピック、各種コンテスト、チェスや囲碁、将棋、ネットゲームなどなど。それがスポーツやゲームに留まっている分には良いが、greed(過剰な財欲と名声欲)が関わってくると、抗争や戦争にエスカレートする危険性もある。試合の開催が利権の巣窟と化すわけだ。こういう時代だからこそ、今一度、戦いの「理念と目的」をよく見定めようではないか。

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posted by 茂木賛 at 10:58 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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