夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


志向の様式

2014年06月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「ヤンキーとオタク II」の項で、

(引用開始)

認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。

(引用終了)

と書いたけれど、この様式(変化)についての説明が不足していたかもしれない。

 これは、ルネッサンス期の技法説明などに用いられるセオリーで、芸術運動は概ね、

アルカイック:初歩的で、古拙的。
クラシック:円熟して、古典的。
マニエリスム:形式的で、技巧的。
バロック:歪んだ真珠のようなスタイル。
グロテスク:異様で、怪奇的。

といった流れに沿って、発展・終結するとされる。

 この様式・形態変化は、芸術ばかりではなく、あらゆる「時空」の変化に当て嵌まるだろう、というのが私の考えだ。スケールの大・小・長・短は問わない。星の一生、会社、レストランの味、流行、建築様式などなど。認知や思考による「志向」(人が追及する認識と欲望の形式)もその例外ではない筈である。

 思考は学習によって深まってゆく。「志向」におけるアルカイックからクラシックへのポジティブな変容を支えるのは、そういった学習効果である。しかし、以前「自分の殻を破る」の項で纏めたように、認知や思考は、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種
(greedとは人の過剰な財欲と名声欲、bureaucracyとは官僚主義)

によって、常に歪みを生ずるリスクを抱えている。クラシック段階に達した「志向」は、気をつけないとやがて歪み、マニエリスムからバロック、そしてグロテスクな段階へと変容してゆく。

 マニエリスムからバロックまではまだ良い(味わいが継続している)が、グロテスク段階に至ると、その人の「志向」は誰からも相手にされなくなってしまうだろう。だから、興味の横展開などによって自分の関心分野を広げ、思考をつねに新規にしてゆくことが求められるわけだ。

 「思考を常に新規にしてゆく」のはそれほど難しいことではない。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

に則って、A、a系とB、b系との間を行ったりきたりしながら思考を展開してゆけば宜しい。

 川に流れに例えれば、自分の舟(思考)を操りながら、あるときは橋の上から俯瞰し、あるときは流れの渦に巻き込まれるようにして、ゆっくりと下ってゆく感じだ。「橋の上から俯瞰する」ことがA、a系の発想で、「流れの渦に巻き込まれるようにして」というのがB、b系であることはお分かりいただけると思う。この比喩は「現場のビジネス英語“Resource PlanningとProcess Technology”」の項でも引用したことがある。そこには他の比喩もあるから読むと参考になるかもしれない。

 川を下るのに慌てる必要はない。支流を見つけたらそちらへ行くも良し、行かぬも良し。途中風景を楽しみながら、まわりの舟とも会話しながら、ゆっくりと下ってゆく。橋の上から別の川を見つけたらそっちへ移ってもよい。そうこうして、川が変わる、あるいは同じ川でも流れが変われば(自分の殻を破れば)、あなたの「志向」は、ふたたびアルカイック状態に戻るだろう。そのとき、あなたの舟(思考)は、以前より一回り大きくなっているはずだ。

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ヤンキーとオタク II 

2014年06月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

<公と私論>

 先日「ヤンキーとオタク」の項で、

(引用開始)

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

(引用終了)

と書いたが、まず「屈折した人の精神パターン」について説明してみよう。ヤンキーやオタクについては、先日の項をお読みいただきたい。

 建築家や経営者など、集団を束ねる仕事の人や、作家や役者など、仕事で個性を際立たせたい人は、自分の出自とは反対の性性を自家薬籠中の物とした上で、意図的に、ヤンキー、あるいはオタク的キャラクターを演じようとする場合がある。キャラを際立たせることで仕事がやり易くなるからだ。前者にはヤンキー的な人が多く、後者にオタク的な人が多いのではないか(勿論その逆もあるだろう)。

 たとえば建築家の隈研吾氏は、出自としては男性性が強いにもかかわらず、女性性を自家薬籠中の物にした上で、建築家・経営者としてヤンキー文化を志向するという「ひねり」を加えているように見受けられる。『ヤンキー化する日本』での斉藤環氏との対談や、「モダニズムからヤンキーへ」という歌舞伎座設計始末記(『新建築』5/2013号)を読むとそう感じられる。

「出自」→「ひねり」→「志向」

男性性 → 女性性 → 男性性

というパターンである。昔ソニーの盛田昭夫氏が「経営者はネアカでなければならない」と言ったが、それも同じようなパターンだと思う。

 次に「特定の分野にフォーカスした行動分析」について。以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、認知の歪み(思考の歪み)は精神的自立を阻害すると述べ、「認知の歪みを誘発する要因」の項で、人は認知の歪みから完全に自由であることは出来ないと述べたが、全般的にはバランスが取れていても、特定の分野にフォーカスすると、人は(自分でも気付かないうちに)けっこう思考の歪みに陥っていることがある。噂話を耳にしたとき、酒に酔ったとき、自分が詳しくない分野の新聞記事を読んだとき、スポーツを観戦しているときなどなど。そういう時、本来はバランスが取れた人格者が突如キャラの立った態度に出ることがある。

 たとえば、運転席に着いた人が急にヤンキー的態度を取ることがある。それは車の運転という特定の行動において、その人の脳に、下に記したようなさまざまな認知の歪みが発生するからだろう。

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

「こんなところに路駐するなバカヤロ!」「歩行者信号はとっくに赤だぞ!」などなど。皆さんも経験があるのではないか。私にも覚えがある。小さな認知の歪みは大したことではないが、それが積もり積もるとやがて行動が間違った方向へズレてしまうから気をつけたい。

 最後に「志向の様式変化追跡」とは何か。認識と欲望の形式には、初歩的で純粋な段階からグロテスクな最終段階まで、様々な傾向(様式)があると考えられる。芸術様式などでよく使われる「アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク」という流れをそれに当て嵌めて考えると、ヤンキー・オタク文化の度合いが掴みやすいと思う。「彼のヤンキー度はもうバロック的だな」「彼女はクラシカルな山オタクだね」などなど。

 これを逆に言うと、ある特定の事柄(issue)に固執したヤンキー・オタク文化は、やがて形式主義的(マンネリ)になり、最後にはグロテスクな色合いを帯びるから、人は、いつも新しいことにチャレンジしていないと駄目だということでもある。このことは、ヤンキーやオタクに限らず、バランスよく男性性・女性性を志向しようとする一般の人にも当て嵌まると思う。自分の関心分野を広げる(「興味の横展開」を続ける)ことで、常に気持ちを若々しく保っていただきたい。

 ついでに、以前「6つのパーソナリティ」の項でみたパーソナリティ・タイプ(性格の要素)を短く纏め、それに男性性・女性性要素も加えた上で表にしておこう。

リアクター:感情・フィーリングを重要視する人。(女性性)
ワーカホリック:思考・論理、合理性を重要視する人。(男性性)
パシスター:自分の価値観や信念に基づいて行動する人。(男性性)
ドリーマー:内省、創造性に生きる静かな人。(女性性)
プロモーター:行動の人。チャレンジ精神が旺盛。(男性性)
レベル:反応・ユーモアの人。好きか嫌いかという反応重視。(女性性)

自分が志向したい性格や文化の参考になると思う。

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ヤンキーとオタク

2014年06月03日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『ヤンキー化する日本』斉藤環著(角川oneテーマ21)という面白い本を読んだ。カバー帯表には「この国は“気合い(だけ)”で動いてる」とある。まずその内容を新聞の書評から紹介しよう。

(引用開始)

 「ヤンキー」は今の日本の傾向を理解するのに必須のキーワードだが、どれくらい認知されているだろう。定義は明快――バッドセンス、キャラとコミュニケーション、アゲアゲのノリと気合い、リアリズムとロマンティシズム、角栄的リアリズム、ポエムな美意識と“女性”性。
 このフィルターにひっかかる社会現象が世に溢(あふ)れている。安倍政権はまんまヤンキーだ。「ノリと気合い」でなんとかなると思って靖国神社に参拝し憲法を変えようとしている。ヤンキーは現実的な難関を精神の力で越えられると信じてしまう。それは「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」と斉藤氏は言う。
 前著『世界が土曜の夜の夢なら』に始まったヤンキー解析が、本書では六人の相手との対談に展開される。そのメンバーが村上隆、溝口敦、デーブ・スペクター、與那覇潤、海猫沢めろん、隈研吾。あまりに広範囲なヤンキー文化の浸透ぶりに目まいがするほど。
 ヤンキーに対抗するのはオタク。深いが狭く、細部ばかりにこだわる不器用な性格。それでは、知識人とはつまり知識オタクなのか。

(引用終了)
<毎日新聞 4/13/2014>

ここにある『世界が土曜の夜の夢なら』(角川書店、2012年)という本で、斉藤氏は、日本の様々なポップカルチャーを分析し、

ヤンキー文化=女性原理のもとで追求される男性性
オタク文化=男性原理のもとで追及される女性性

という原理を抽出した。そして、今の日本には「ヤンキー文化」が蔓延していると論じた。

 斉藤氏は、その前の『関係する女 所有する男』(講談社現代新書、2009年)の中で、男性性と女性性について、

男性性:「所有原理」「空間重視」
女性性:「関係原理」「時間重視」

という「認識および欲望の形式」を指摘している。これは複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−女性性

と整合する(「男性性と女性性 II」の項参照のこと)。

 従って、日本人(日本語的発想をする人)にヤンキーが多くて不思議はないという話になるが、新鮮なのは、『世界が土曜の夜の夢なら』において、斉藤氏が人の「出自」と「志向」とを分けて社会を分析したことだろう。

 ここでいう「出自」「志向」は私の言葉。出自とはその人がもともと持っている認識と欲望の形式を指し、志向とは、その人が追求する認識と欲望の形式を指す。ヤンキーはアゲアゲのノリと気合いで動くから、一見男性的だが、出自を辿るとその精神は案外女性的なのだ、というのが(出自と志向による)斉藤氏の分析である。

 「人は自分と反対の(あるいは同じ)性性を求める」というはたらき・運動(「出自」→「志向」)に注目したのが氏の着眼の面白さだと思う。

「出自」→「志向」

男性性 → 女性性 (オタク)
女性性 → 男性性 (ヤンキー)

このことで、「出自」と「志向」との間にいくつかのパターンを読み取ることが可能になり、社会分析がより緻密にできるようになった。動きのあるダイナミックな見方ができるようになった。たとえば次のようなパターンもあるのではないか。

「出自」→「志向」

男性性 → 男性性 
女性性 → 女性性 

これは「自分と同じ性性を求める」ということで、前者は男性性による「所有原理」「空間重視」の徹底追求型であり、後者は女性性による「関係原理」「時間重視」の徹底追求型である。前者を「マッチョ」、後者を「フェミニン」とでも名付けようか。

 「出自と志向」による分析によって、さらに屈折した人の精神パターン、特定の分野にフォーカスした行動分析や、志向の様式変化追跡(アルカイック→クラシック→マニエリスム→バロック→グロテスク)なども可能になると思われる。また項を改めて論じてみたい。

 さて、紹介文にある「個人対個人ではありえたとしても、戦争においてはありえない」とはどういうことか。斉藤氏は、ヤンキー文化は「気合い」で何でも乗り越えられるとするけれど、それは戦争や経営といった「合理的判断」を必要とする局面においては通用しないと述べている。そして合理的判断ができるようにするには、そこでヤンキー文化を一旦分離・切断する必要があると述べる。

(引用開始)

斉藤 日本的な行動主義はなぜかヤンキー主義に帰結してしまう。そこが問題ということなんでしょうね。最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と私は言い続けてきましたが、TPPの導入や移民受け入れのような「痛み」なしには難しいかもしれません。とはいえ私も「切断」実現のために、「気合い」抜きで説得を続けたいと思います(笑)。

(引用終了)
<同書 178ページ>

 近代社会では、「公(Public)」にとって大切なのは「個の精神的自立」である。このことはこのブログで繰り返し述べてきた(「自立と共生」の項など)。「合理的判断」とは、複眼主義でいうところのA、a系、Resource Planning(資源分配)そのものだ。伝統的社会においては、「公(Public)」は「権威(原理や組織)」に拠って運営されていたから、合理的判断を司るA、a系(男性性)において「個の精神的自立」は必ずしも必要とされなかった。族長の判断によって集団の公的行事が運営されていた。しかし、近代社会のルールにおいては、そこに「個の精神的自立」がインストールできていないと、人は、外の権威(原理や組織)に簡単に騙されてしまう。斉藤氏のいう「痛み」である。70年前、多くの日本人が無謀な戦争に巻き込まれていったのがその例だ。

 残念ながら日本人は、言葉の特性もあって、精神的自立を果たしていない人がまだ多い。日本的ヤンキーが志向する男性性は、外の権威に弱い。それでは戦前と同じことになる。だから斉藤氏は、最大の切断は「公共」概念とセットで個人主義を再インストールすること、と語っておられるのだろう。

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posted by 茂木賛 at 10:22 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

デンマークという幸せの国

2014年04月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「社交のための言葉」「議論のための日本語」「議論のための日本語 II」の各項において、複眼主義の、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

という対比から、A、a系の言葉の強化が、近代的社会にとってどれほど重要かということを論じてきたわけだが、ここでその例として、デンマークという国について考えてみたい。

 『デンマーク流「幸せの国」のつくりかた』銭本隆行著(明石書店)という本から、デンマークと日本を比較した文章を引用しよう。

(引用開始)

 デンマークと日本を比べたときに、なにが異なるのだろう。たしかに制度は異なる。しかし、その制度を利用する国民の姿勢そのもに大きな違いを感じる。国民そのものが制度を支えている。ただの客体ではなく主体なのである。自ら積極的に参加し、自分の住みやすい社会を作り上げている。世の中を変えるには、この主体性というものはとても大切だ。
 対して受身の日本人。しかし、ただの制度の受け手では、いつまで経っても望むものは手に入らない。日本人が“主体的国民”となるためのヒントを、これまでみてきたデンマークがら得たい。それはデンマーク人のだれもが持ついかの3つの姿勢である。

「自己決定」
「連帯意識」
「民主主義」

「自己決定」とは、読んで字のごとく、自分で決定するということである。日本人は、自分でものごと決めているだろうか? たとえば、多くの外国人が日本人を評して、「おとなしい」「いうことを聞いてくれる」。しかし、これらは裏を返せば、「意見をいわない」「自分の考えを持たない」と消極的な意味も含まれる。
「連帯意識」とは、他人との共同である。自己主張が強いデンマーク人は、この意識を強く持っている。考え方や背景が違えど、「同じ人間」ということで、手をお互いに差し伸べあう。妬み、嫉み、お互いの足の引っ張りあい、が常態の日本とは大きく異なる。
「民主主義」とは、政治システムの話ではない。簡単にいえば、「徹底的に話し合ってものごとを決める」という姿勢である。これは、デンマーク人に徹底的に浸透している。デンマーク人と話していると、1時間に1回は絶対に「デモクラシー(民主主義)」という言葉がついて出てくるほどだ。
 こうした「民主主義」が機能する前提として、「自己決定」と「連帯意識」の原則は不可欠である。つまり、「自己決定」をする主体的な国民が、相手の意見も認める「連帯意識」を持つことで、はじめて「民主主義」は可能なのである。「自己決定」「連帯意識」「民主主義」のいずれかひとつが欠けても、デンマークという国は成り立たない。

(引用終了)
<同書 227−228ページ>

私はデンマーク語が分らないし、まだ訪れたこともないから、この本に全面的に依存するしかないのだが、「主体性」を主格中心、「受身」を環境中心と言い換えれば、銭本氏の主張は、複眼主義の対比構造に当て嵌まるように思う。

 デンマークは、最近のいくつかの幸福度調査において世界1位に輝いている。勿論近代国家の幸福度は、地理的な位置、自然環境や歴史状況、国のサイズなどにも左右されるだろうが、言葉の力も大きい筈だ。デンマーク語は英語と同じ西欧の言葉だから、A、a系の言葉が強いものと思われる。国連による2010−2012の間の国別幸福度ランキングを見ても、

1.デンマーク
2.ノルウェー
3.スイス
4.オランダ
5.スウェーデン
6.カナダ
7.フィンランド
8.オーストリア
9.アイスランド
10.オーストラリア

ということで、西欧系の国々が上位を占めている。

 『デンマーク流「幸せの国」のつくりかた』を読むと、社会が抱える問題点も含めて、デンマークのことが多少わかる。新聞の書評も載せておこう。

(引用開始)

 さまざまな「幸福度調査」で一位となり、高福祉で知られる国デンマーク。本書はその社会保障制度などをわかりやすく解説する。
 著者は、福祉や教育を専門とするデンマークの国民高等学校「日欧文化交流学校」の学院長。時事通信と産経新聞で11年間の記者経験がある。豊富な経験と取材に基づいて、この「幸せの国」の歴史や文化を、ユーモアを交えた筆致で紹介。有名な高い税金、若者の生活保護や薬物依存の増加、高い犯罪率など、負の側面にも鋭く切り込んでいる。
 それにしても、福祉の充実ぶりには改めて驚かされる。法定の「週37時間労働」が順守され、「夫が午後3時に帰宅するのがストレス」という妻の声も。転職経験は平均6回、資格取得のために休職する間も給与が支払われる支援制度……。日本では考えられないことばかりだ。
 社会を支えているのは、自分の意思を貫く「自己決定」、他人との協調を重んじる「連帯意識」、そして徹底的に話し合う「民主主義」というデンマーク人気質。著者は日本人に向けて、この3点こそが「“自分の人生”を生きていくために役立つツール」だと説いている。

(引用終了)
<毎日新聞 11/4/2012>

 複眼主義の考え方が間違っていなければ、以前「日本語の力」の項でみたように、日本語のような母音言語は世界でも珍しいから、B、b系の力(現場で与えられた環境を守り何かを紡ぎだしてゆく力)ランキングでは、日本は世界一なのではないか。これで、我々が少しでもA、a系の力を鍛えれば、全体としての幸福度ランキング上昇は間違いないと思われる。皆さんも是非この本などを読みながら、言葉の持つ力に想いを馳せていただきたい。

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足に靴を合わせる

2014年02月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『養老孟司の大言論 I 希望とは自分が変わること』養老孟司著(新潮文庫)を読んだ。この「大言論シリーズ」は、季刊雑誌『考える人』に連載された氏の文章を纏めたもので、2011年に3冊の単行本として出版された。今回その第1冊目が文庫化された訳だが、このあと続けて、3月に『養老孟司の大言論 II 嫌いなことから、人は学ぶ』(新潮文庫)、4月には『養老孟司の大言論 III 大切なことは言葉にならない』(新潮文庫)が出版されるという。

 本書で特に面白かったのは、「ただの人」、「エリートとはなにか」、「個人主義とはなんだ」と題された、最後の3章だ。ここで養老氏は、戦後日本社会の基本最小単位が、「家」から「個人」になったこと(とその余波)について論じておられる。

 氏は、戦後日本が、新憲法に基づくいわゆる民主主義の下で、共同体の基本最小単位を、それまで長く培われてきた「家」から、アメリカ流の「個人」に変更したことを指摘の上で、

(引用開始)

 ところがわれわれの社会は、そこで「個人」を立て損なった。立てたつもりだということは明らかだが、千年以上も続いた社会制度を、紙切れの上の文字だけで変えることができると思っているのは、言説のみで生きている人たちか、かつてのシロタ女史のような若者だけであろう。家制度は消えたが、代わりの個人がそこまで育っていない。
 そもそも個人とは、永続する個性を前提としている。日本の世間が個性を認めるかというなら、まず認めはすまい。日本の伝統的思想からいうなら、個性は永続するどころではない。この国は諸行無常で、無我なのである。面倒になったら「靴に足を合わせろ」と、いまでもいうに違いない。
 永続する個性を保証したのは、じつは一神教の霊魂不滅である。その霊魂不滅を要請したのは、聖書に書かれた最後の審判である。霊魂が不滅でなければ、最後の審判に意味はない。(後略)

(引用終了)
<同書 192−193ページ>

と述べる。尚、シロタ女史とは、敗戦国日本を支配した連合国最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、新憲法の作成に関与した米国籍の若い女性だ。

 このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

といった二項対比を論じている。この対比で考えると、養老氏のいう「靴に足を合わせろ」という思想は、靴=環境ということで、B、bの日本語的発想そのものということができる。一方の「永続する個性」は、キリスト教を源とする西欧近代化を支えた思想で、A、aの英語的発想と重なる。

 敗戦後の日本は、「近代家族」の枠組みによって、「モノ経済」による高度成長を遂げてきた。近代家族の特徴は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家庭領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったものだが、日本人の多くは、高度成長期の公共領域において、靴=環境を、「家制度」から会社などの「組織」に置き換え、「巨人軍は永久に不滅です!」といったメンタリティで、(個人の自立など考えることなく)会社のために一心不乱に働いてきた。

 日本が、敗戦からこれほど早く「モノ経済」の繁栄を勝ち得たのは、この「靴に足を合わせる」メンタリティのお陰だったということができるだろう。その一方で、戦後の家内領域は、核家族化して縮小した。

 しかし、大量生産・輸送・消費社会の限界が見え始めた今の日本は、「コト経済」による、共存型の成熟社会への変換を迫られている。そこでは、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムが大切になってくる。それを支える家族のあり方も「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったものになってくる筈だ。そうなると、「靴に足を合わせる」だけではなく、「足に靴を合わせる」発想も必要になってくる、というのが私の見立てだ。すなわち、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」

のバランスを大切に考えること、「公(Public)」の領域では、自立した個人として、自分の足に靴の方を合わせ、「私(Private)」の領域では、共生する仲間と一緒に、靴に足を合わせつつ生きる、という「複眼主義」的考え方が大切になってくる、ということだ。

 日本人は、一神教抜きで、(公共領域において)「個人」を立てなければならない。その難しいチャレンジを、今後も皆さんとご一緒に考えたいと思う。私が考える方策のひとつは、「新しい日本語」の項で述べたように、明治以降の近代日本語を鍛えることである。同項では次の3点を挙げた。

1.公(Public)の場で使う言葉の創造
2.初等教育の改革
3.不思議な日本語の見直し

他にもあると思うので、ご意見などを戴けたらと思う。

 尚、養老氏は、戦後の「家制度」崩壊の問題点を、『日本のリアル』(PHP新書)における岩村揚子さんとの対談でも指摘しておられる。それについては、「近代家族 III」の項を参照していただきたい。

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勝負の弁証法 II 

2013年12月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「勝負の弁証法」の項では、勝負の弁証法の適用範囲を、「勝負事=明示されたルールの元で戦うゲームや競技」に限定して話を進め、勝負事には合意された「理念と目的」が大切だということと、敗者とその戦いのプロセスは、つねに勝者の内に包摂されなければならない、ということを論じた。今回は、それ以外の戦い、すなわち、ルールがあって無き様な国同士の戦争や、そもそもルールのない裏切りに満ちた抗争、正当防衛、自然界の生存競争、生物進化などに話を広げ、弁証法ロジックとの関係について考えてみたい。

 まず、戦争や抗争について。明示的なルールのある無しは、「ルールが無い」ことがルールだと考えれば、ゲームや競技と同じ土俵に乗せて考えることができる。しかし、勝負の弁証法が通用するのは、その勝負に合意された「理念と目的」が存在する場合である。戦争や抗争に(一方的な「理念と目的」はあり得ても)当事者双方に合意されたそれがあるとは考えにくい。従って、戦争や抗争は、弁証法ロジックの対象にならないと思われる。単なる「喧嘩」だ。

 次に、正当防衛について。降りかかった火の粉を払う行為には、法律的に認められた正当防衛と、そうでない場合とがあろう。前者には法律という「ルール」があり、後者にはそれが無い。しかし、いづれの場合でも、当事者同士は加害者と被害者の関係だから、そもそも合意された「理念と目的」などある由もなく、従って、これも弁証法ロジックの対象にはならないと思われる。

 自然界の生存競争について。生存競争には、弱肉強食など(明示されてはいなくとも)一定のルールがあることが知られている。しかし、自然界そのものに合意された「理念と目的」があるかどうかは「神のみぞ知る」だ。

 ここまで検証してくると、勝負における弁証法ロジックは、ゲームや競技に限定された話であったように思える。では生物の進化はどうか。

 生物の進化に、明示的ルールや「理念と目的」など無いように見える。しかし進化には、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という発展構造がある。生物進化のみならず、自然界の諸々の出来事は、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という“コト”そのものである。実は、人智が考え出した「弁証法ロジック」自体、自然界の出来事や生物進化の様子を模倣したものなのだ。だから、大きく考えれば、生存競争もそういう“コト”の一局面だし、人の喧嘩や正当防衛行為ですら、社会において起こる“コト”の一部であると云うことが出来る。

 さて、自然界に、勝ち組と負け組みはない。人類が勝ち組だとする考え方は浅はかな驕りであって、いつか人が住めない地球環境が齎されれば、人類は簡単に滅ぶだろう、嘗て恐竜が(巨大隕石によって?)滅んだように。勝ち組と負け組みがないのは、自然には(神を持ち出さない限り)明示的な「理念と目的」が無いからだ。「集団の時間」や「自然の時間」の項で述べたように、自然の時間は無限大(t = ∞)だから、限定的な「理念」や「目的」を決めようがないわけだ。

 ここまで考えて来ると、勝負における「理念と目的」の設定は、「都市」(人の脳が作り出した様々な機能・構造)においてのみ意味を持つことが分る。勝負の弁証法は、様々な戦い、争いの中で、「都市」において、その構成員によって合意された「理念と目的」があるものにのみ適応されるロジックなのである。

 「理念と目的」(の設定)は、極めて都市的なものである。それは、生存競争や生物進化にはない特色だ。勝負事において(勝つ為の努力は勿論大切だが)負けることは問題ではない。再チャレンジへの闘志さえ持ち続ければ、人は幾度でも勝負に参加できる。そういえば、選挙も勝負事の一つだ。健全な社会であれば、選挙に勝った候補者は、負けた候補者と、その他全有権者を代表する立場になる筈だ。勝者は、敗者およびそのプロセス全てを包摂し、「理念と目的」をより高いレベルへ押し上げる役割を付与されたと考えるべきである。だから、そこでは、勝ち逃げが一番悪いということになる。

 プレイヤーの中には、勝つと責任がかかってくるから、それを回避しようとわざと負ける者もいる。「理念と目的」をより高いレベルへ押し上げる役割を付与されることに耐えられないからだ。それを人は「敗北主義者」という。勝ち逃げと敗北主義者。どちらも戦いの場を選び損ねた卑怯者たちの謂いである。

 勝負が“コト”であってみれば、“モノコト・シフト”の時代、世界中でスポーツ・イベントやゲームなどがますます興隆するであろうことは容易に想像できる。ワールドカップ、オリンピック、各種コンテスト、チェスや囲碁、将棋、ネットゲームなどなど。それがスポーツやゲームに留まっている分には良いが、greed(過剰な財欲と名声欲)が関わってくると、抗争や戦争にエスカレートする危険性もある。試合の開催が利権の巣窟と化すわけだ。こういう時代だからこそ、今一度、戦いの「理念と目的」をよく見定めようではないか。

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勝負の弁証法

2013年12月10日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ゲームや競技などの勝負事を弁証法の一つとして考える。どういうことか説明しよう。弁証法とは、テーゼ(一つの意見)とアンチテーゼ(反対の意見)が止揚されてジンテーゼ(新たな見識)へと到るプロセスを指すわけだが、それは、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という発展構造として捉えることが可能だ(「3の構造 II」)。

 一方、勝負事とは、AとBとが一定のルールの下で戦い、新しい結果(勝者と敗者)が生まれるプロセスだが、戦いの場、自然環境、両者の力量の差、戦術や気魄、応援、勝者の喜び、敗者の落胆などのプロセス全体を俯瞰すれば、勝負事もまた、何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる、という発展構造(弁証法)として見ることが出来る筈だ。これはプロ、アマを問わない。

 上の二点を言い換えれば、勝負事は、「本物を見抜く力」の項で述べた、人の時空と外部の時空とが作用しあって新しい何かが生まれる、という“コト経済”の一種であり、弁証法は、コト経済のプロセスを跡付ける“メタ・ロジック”である。

 さて、弁証法には証明すべき元の命題が必要だ。コト経済における命題とは何か。それは、「政治と経済と経営について」の項で述べた、その集団の「理念と目的」ということになろう。社会集団の理念と目的の完成は、数式の証明のようにストレートには行かないだろうが、それは、社会の到るところで波のように起こる“コト”の一つひとつが、弁証法ロジックを伴って、少しづつ高みに達していくというダイナミズムの内に成される。

 そう考えると、勝負事にも固有の合意された「理念と目的」がある筈だ。なぜその勝負を行なおうとするのかという「理念」と、その勝負によって何を達成したいのかという「目的」。

 弁証法における命題と同じくらい、勝負事において達成されるべき「理念と目的」は大切な筈なのだが、往々にして、勝負事においては結果(勝ち負け)だけがクローズアップされるケースが多い。皆、「理念と目的」の方を忘れてしまうのだ。勝つ為の努力は勿論大切だが、それだけに目を奪われていると、「理念と目的」の方を忘れてしまう。

 弁証法において、止揚される意見は、新たな「見識」の中に包摂される。止揚された意見は、けっして排除される訳ではなく、高みに達するために積み重ねられた礎の一つとしてロジックの内に存在し続ける。別の言い方をすれば、止揚される意見がなければ、新たな見識も生まれ得ないということだ。

 社会においても、起こった“コト”はなくならない。歴史はなくならない。歴史に学ぶという意味は、そこで起こった“コト”全てを俯瞰してそこから教訓を得るということである。

 勝負事においても、敗者がいなければ勝者は居ない。だから、敗者とその戦いのプロセス全体は、勝者の内に包摂されなければならないと思う。勝負を観戦するときは、まずその「理念と目的」をしっかり見極めて、さらに、敗者とその戦いのプロセス全体が、掲げられた理念に達するために積み重ねられた「礎」なのだということを忘れないようにしたいものだ。

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地方の時代 II

2013年10月01日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き、地方都市の魅力・意義について考えたい。“(株)貧困大国アメリカ”堤未果著(岩波新書)によると、いまアメリカを中心に世界で「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)が進行しているという。本書から引用しよう。

(引用開始)

 いま世界で進行している出来事は、単なる新自由主義や社会主義を超えた、ポスト資本主義の新しい枠組み、「コーポラティズム」(政治と企業の癒着主義)にほかならない。
 グローバリゼーションと技術革命によって、世界中の企業は国境を超えて拡大するようになった。価格競争のなかで効率化が進み、株主、経営者、仕入れ先、生産者、販売者、労働力、特許、消費者、税金対策用本社機能にいたるまで、あらゆるものが多国籍化されてゆく。流動化した雇用が途上国の人件費を上げ、先進国の賃金は下降して南北格差が縮小。その結果、無国籍化した顔のない「1%」とその他「99%」という二極化が、いま世界中に広がっているのだ。
 巨大化して法の縛りが邪魔になった多国籍企業は、やがて効率化と拝金主義を公共に持ち込み、国民の税金である公的予算を民間企業に委譲する新しい形態へと進化した。ロビイスト集団が、クライアントである食産複合体、医産複合体、軍産複合体、刑産複合体、教産複合体、石油、メディア、金融などの業界代理として政府関係者に働きかけ、献金や天下りと引きかえに、企業寄りの法改正で、“障害”を取り除いてゆく。
 コーポラティズムの最大の特徴は、国民の主権が軍事力や暴力ではなく、不適切な形で政治と癒着した企業群によって、合法的に奪われることだろう。

(引用終了)
<同書 273−274ページ>

 この「1%」によるコーポラティズムは、以前「世界の問題と地域の課題」の項で述べた、世界の問題としての「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」そのものだ。それに対して、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)は、世界の「99%」が希求する新しい時代の規範である。

 モノコト・シフトの時代においては、「個の自立」と、コトの起こる小規模な「地方都市」が必要であり、コーポラティズムを撃退できるのは、そのような“コト”同士の横の連携だろう。堤さんは、

(引用開始)

 食、教育、医療、暮らし。この世に生まれ、働き、人とつながり、誰かを愛し、家族をいつくしみ、自然と共生し、文化や伝統、いのちに感謝し、次の世代にバトンを渡す。そんなごく当たり前の、人間らしい生き方をすると決めた「99%」の意思は、欲で繋がる「1%」と同じように、国境を越えて繋がってゆく。
 意思を持つ「個のグローバリゼーション」は、私たちの主権を取り戻すための、強力な力になるだろう。

(引用終了)
<同書 277ページ>

と述べておられる。単なる“モノ”の流通ではなく、物語を持った“コト”の横の連携。流域思想でいうところの「両端の奥の物語」を持った“コト”同士の共振。日本語発のそういう物語をもっと紡いでゆきたいものだ。

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女子力

2013年09月17日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回の「若者の力」の項で紹介した“地方にこもる若者たち”阿部真大著(朝日新書)に、「ギャル的マネジメント」という言葉が出てくる。多様性への対応の四段階、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

を踏まえて、著者は「ギャル的マネジメント」について次のように語る。

(引用開始)

流動性・多様性の増す現代社会において、若者たちは、「分離」(違う者同士互いに干渉し合わない)の段階のハイポコミュニカティブ(過小にコミュニケーション志向の)な傾向と、「統合」(違う者同士がぶつかり合い落としどころを探っていく)の段階のハイパーコミュニカティブ(過剰にコミュニケーション志向の)な傾向とに二極化していると考えられる。前者は男性に、後者は女性に強く見られる傾向であるが、これらはともに他者の違いを認めるものである。

「ギャル的マネジメント」とは、身近な人間関係の多様性に意識的で、同質的な仲間集団に対する愛着心は強いながらも異質な他者とのコミュニケーションを厭わず、謙虚に集団をまとめあげていくような仕切り方のことを指す。これは、「分離」から「統合」の段階へとステップアップするのに必須な資質であり、つまりは内にこもる若者を外に引き出すコツを導く鍵であり、「新しい公共」の構築への鍵である。

(引用終了)
<同書 198ページより>

「ギャル的マネジメント」とは、「男性性と女性性 II」の項で述べた「女性性に基づく関係原理」と「男性性に基づく所有原理」とを、上手にバランスさせる能力だと思われる。「森ガール」の更なる進化系といえるかもしれない。人は性差に拘らず、ある比率で、男性脳=「所有原理」、と女性脳=「関係原理」の両方の機能を持っている。だから「ギャル的マネジメント」は女性だけでなく、男性にも可能なマネジメント・スタイルである。

 日本はこれまで、社会や人々は「世間」という関係原理、政治やビジネスは「律令」という所有原理によって形作られてきた。「“シェア”という考え方 II」の項で述べたように、モノコト・シフト後の日本は、社会や人々は「世間」に縛られすぎることなく「所有原理」を自覚して精神的に自立すること、政治やビジネスにおいては「律令」主義を排して「関係原理」を取り入れること、が必要になってくる。

 モノコト・シフトのパラダイム項目は、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感
世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といったことだ。多様な価値観の渦の中で、「ギャル的マネジメント」は、新しい日本の構築に欠かせない力なのであろう。ただし多様性を認めるには、人々が自立していなければならない。そのためには「新しい日本語」が必要になる筈だ。

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若者の力

2013年09月10日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 “地方にこもる若者たち”阿部真大著(朝日新書)という面白い本を読んだ。本の帯には「地方都市はほどほどパラダイス 満員電車、高い家賃、ハードな仕事…… もう東京には憧れない」とある。まずカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

都会と田舎の間に出現した、魅力的な地方都市。若者が地方での生活に感じる幸せと不安とは―――?
気鋭の社会学者が岡山での社会調査を元に描き出す、リアルな地方都市の現実と新しい日本の姿。

(引用終了)

ということで、これは、新しい日本の社会を作る「若者の力」についての本だ。著者は、いまの岡山を次のように描く。

(引用開始)

容赦なく進行する郊外のモータライゼーション、国道沿いに並ぶ巨大な路面店やショッピングモール、シャッター通りが増え高齢化の進む旧市街、人口の減少に悩む過疎地域、縮小する製造業と拡大するサービス業、地域社会と切り離された「脱社会化」した若者たち、古き良き「戦後社会」の幻影にしがみつく年長世代、広がる貧困とそのなかでいよいよ閉塞していく近代家族。すべてが「どこかで見た光景」であった。

(引用終了)
<同書 208ページより>

以前私は「継承の文化」の項で、いまの日本社会の姿を「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」と描写したことがあるけれど、それとよく似た日本のどこにでもある(郊外の)光景だ。

 「アッパーグラウンド」の項で述べたように、世界中でモノコト・シフトが進んでいるにも拘らず、今の日本の大人たちは「心ここに在らず」の状態のまま、大量生産・輸送・消費システムが作り出したこの寒々とした光景の中で暮らし、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政を許している。

 しかし阿部氏は、今の若者たちの中に、新しい日本の社会を作るエネルギーが生まれているという。1990年代以降のモータリゼーションが生み出した巨大な路面店やショッピングモールは、若者たちに、地方特有のしがらみや因習から自由な「ほどほど」の都市空間を与えた。一方、(モノコト・シフトによる)近代家族の崩壊は、若者たちが反抗の対象とすべき「大人の世界の安定性」そのものを無化してしまった。社会の安定性の崩壊は、画一的な生き方の押し付けから若者たちを解放する一方、多様な価値観の渦の中に若者たちを放り出すこととなった。著者は、その先に「都会と田舎の間に出現した新しい社会」(同書のサブタイトル)の可能性を見る。

 本書に引用されている“ダイバシティ・マネジメント――多様性をいかす組織”谷口真美著(白桃書房)によると、多様性への組織の対応には、

第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>

といった四段階があるという。著者は、この考え方を多様な価値観の渦の中に放り出された若者たちの生き方に応用し、一部の若者たちは第四段階の「統合」の段階に進んでいるという。そして、

(引用開始)

現在「こもっている」若者は、「同化」ではなく「分離」の段階にあるのではないか。社会の多様性を認識したうえで「こもる」という選択をしているのであれば、彼らは既に「統合」に向けた準備ができていると言えるかもしれない。そう考えると、準備ができていないのは「こもっていないで外に出ろ」と声高に叫ぶような、社会の多様性に鈍感で未だ「同化」の段階にある「大人」たちではないか。「新しい公共」が社会の多様性を前提とする「統合」によって構築されるのであれば、「同化」の段階にある大人たちより彼らのほうが「新しい公共」に近い場所にいると言えるだろう。

(引用終了)
<同書 199ページより>

と述べる。ここでいう「新しい公共」とは、以前「自立と共生」の項で引用した、2009年鳩山政権所信表明演説にある「人を支えるという役割を、『官』と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという価値観です」といった内容のことで、モノコト・シフト以降の日本社会の「公共」のあり方と言ってよいだろう。

 「心ここに在らず」の大人たちが大量生産・輸送・消費システムが作り出した寒々とした光景の中で、惰性のまま、財欲に駆られた人々による強欲支配と、無責任な官僚行政を許し続けるのであれば、新しい日本社会の構築は、「統合」に向かう若者たちに期待すべきだ。これからも若者たちの勉強や起業を応援したい。

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再び複眼主義について

2013年08月13日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「時空の分離」の項で、

(引用開始)

 21世紀を迎え、世界は「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代を迎えている。「時を含んだ“コト”」を研究するには、まずこの「時空の分離」を見直す必要があると思うがいかがだろう。

(引用終了)

と書いたけれど、今回もこのテーマについて考えてみたい。

 様々な“コト”は、そのサイズの中に、そのコトを起こすためのエネルギーを固有の時間とともに内包している。「酵素の働きと寿命との関係」の項で探ったのはその法則性だ。生物だけでなく、石炭や石油など鉱物であっても、“コト”としての長い長い固有の時間をその体内に秘めている。全ての“モノ”(existance or being)は“コト”(becoming)なのである。鉱物や宇宙の時間は生物のそれに比して恐ろしく長いから、我々がそれに気付かないだけだ。

 アインシュタイン以前の“モノ”信仰は、そこに流れる時間の存在を前提としていたため、分解・合成による利用の行き過ぎについては自然な制約があったと思う。“モノ”はexistanceであると共にbeingでもあったわけだ。アインシュタイン以降の「時を抜いた“モノ”」信仰は、「時を含んだ“コト”」をも「物質」と見なすようになった。石炭しかり、石油しかり、動物しかり、植物しかり、そして人しかり。変化した物質は「中間体」という名を与えらるようになった。“モノ”はexistance一辺倒に変わったというべきか。

 20世紀の文明は、その「物質」を次から次へと破壊することでエネルギーを取り出し、それを工学的に変換して都市文明を維持してきた。“コト”の時間とサイズを圧縮してエネルギーを無理やり取り出してきたわけだ。

 このブログで以前、

(引用開始)

 世界は、XYZ座標軸ののっぺりとした普遍的な空間に(均一の時を刻みながら)ただ浮かんでいるのではなく、原子、分子、生命、ムラ、都市、地球といった様々なサイズの「場」の入れ子構造として存在する。それぞれの「場」は、固有の時空を持ち、互いに響きあい、呼応しあい、影響を与え合っている。この「場所の力」をベースに世界(という入れ子構造)を考えることが、モノコト・シフトの時代的要請だ。

(引用終了)
<「場所の力」より>

と書いたけれど、「時を抜いた“モノ”」信仰は、効率を求める近代文明を加速的に拡大させ、やがて放射性物質までエネルギーとして分解し、利用するようになった。そしてそれが、地球の環境自体を加速的に破壊させるに至り(その際たるものが核爆発だろう)、21世紀の時代のパラダイムは、「時を抜いた“モノ”」信仰から、「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方に移りつつあるというのが私の見立てだ。

 西洋近代文明を育んだ「存在のbe」は、自立精神とともに“モノ”信仰を生み、やがてそれは「時を抜いた“モノ”」信仰へと発展した。環境破壊は、21世紀における地球規模の問題の一つだが、それは主に、「存在のbe」を駆使して作り出された西洋近代文明の「行き過ぎ」によるものだと思う。人は本来、地球という「時を含んだ“コト”」と同期しながら生息している。石炭、石油、特に放射性物質を急速にエネルギーとして開放すれば、地球環境は激変せざるを得ない。「時を抜いた“モノ”」信仰が、地球の環境自体を加速的に破壊させたわけだ。

 先日「再び存在のbeについて」の項の最後に、

(引用開始)

 話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。

(引用終了)

と書いたが、今の日本語は「存在のbe」をその語彙に持たない。日本人は、西洋近代文明を真似てここまで来たけれど、「存在のbe」を理解していないから本当の近代社会を築くことがまだできない。しかし、Process Technologyを得意とする日本語は、もともと「時を含んだ“コト”」を大切にする考え方には親和性がある。それが逆に、環境問題で悩む世界にとっての存在価値となる。

 人が近代文明を享受し、「生産」(他人のための行為)の質を高めていくためには、「存在のbe」を理解し、“コト”としての生物や鉱物を、そこに流れる時間を感じつつ、環境を決定的に破壊しない範囲で適時エネルギーに変えていかなければならない。

 「存在のbe」と「環境のbecoming」、その両方の重要性。「複眼主義」において、脳(大脳新皮質)の働き=Resource Planningと、身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き=Process Technologyとのバランスを大切に考えようというのは、このことを言っている。

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世界の問題と地域の課題

2013年04月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項で、「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、人の過剰な財欲と名声欲がイニシエーター(initiator)であり、官僚主義が実行部隊(executor)、認知の歪みがプロモーター(promoter)であると論じ、「理念希薄企業」の項で、それを会社組織に即して眺めてみた。

 演説の草稿風に纏めれば、
-------------------------------------------------------
社会の自由を抑圧するのは、人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出す「壁」というシステムの自己増幅、さらに我々の認知の歪みがそれらを助長する。システムの自己増幅を担うのは官僚主義。

What suppress freedom of our society are human greed, and the “wall” system created by human greed with its self re-productions carried on by bureaucracy, which are furthered by our cognitive distortions.
-------------------------------------------------------
という具合。いかがだろう。

 この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」は、いわば人類共通の問題である。世界(地球規模)の問題は、このほかに「環境破壊」と「貧富格差の拡大」の二つを挙げることが出来るだろう。これらは互いに作用しながら、今の「世界の問題」の全体を形成している。

 従って、これからの人類は、この三つを克服し、その上で、個人の生き方の自由と、文化の多様性を守らなければならない。と同時に、世界は21世紀に入り、 “モノからコトへ”のパラダイム・シフト(モノコト・シフト)の時代を迎えているというのが私の認識だ。

 このブログでは、日本社会に相応しいこれからの産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それを牽引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると論じている。これは、世界の今の状況を、日本社会の事情(歴史や経済、地理や人口構成など)に当て嵌めた場合の考え方だ。世界は勿論全て繋がっているから、物品の輸出入はあるし、日本から大量生産・輸送・消費が無くなるわけではないけれど、これからの日本社会を牽引していくのは、起業理念の濃厚な小規模企業(とその横の連携)だと考える。

 そう考える一端を述べよう。日本社会は、冒頭の三種、

1.イニシエーター(過剰な財欲と名声欲)
2.実行部隊(官僚主義)
3.プロモーター(認知の歪み)

のうち、歴史的・文化的背景から、2.の官僚主義が、ことのほか肥大化した社会だ。詳細はこのブログの「公と私論」や「言葉について」などのカテゴリで縷々綴ってきたから繰り返さないけれど、リスクをとらない、波風を立てない、といったメンタリティが、日本社会を濃い霧のように覆っている。官僚主義は、国の機関や民営化された組織、理念を失った会社や学校、その他惰性に流されたあらゆる組織、職業に忍び込んでいる。この現状の打破は、新しい“コト”を起こす自立した理念濃厚なスモールビジネスと、その横の連携によってのみ可能だろう。

 「理念希薄企業」の項で述べたように、理念を失った組織の運営目的は「利益」だから、そのためには効率が優先される。公的機関では弱者の切り捨てが行なわれるだろう。そのままだと個人の海外移住が増えていくに違いない。産業システムでは、効率の良い大量生産・輸送・消費に向かう。しかしいま日本は経済的・社会的状況からして多品種少量生産の時代を迎えているから、多くの理念希薄企業は必然的に海外との競争に敗れていくだろう。

 世界規模の問題は、世界規模で正すことができればいちばん良いのだろろうが、我々人類はまだそのような便利なツール(tool)を持っていない。あるのはあくまでも、国や地域における政治、経済、産業、言語といったローカルなシステムでしかない。国や地域によって、その置かれた政治や経済、文化や自然の状態は異なっている。だから、人々はそれぞれの国や地域で、「世界の問題」にそれぞれ対処していかなければならないのだ。人類の目指すところは同じだとしても。これからも「世界の問題と地域の課題」、そしてその処方箋についていろいろと考えてゆきたいと思う。

 先回触れた村上春樹の新作“色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年”(文藝春秋)に関して一言付け加えておきたい。「1963年」の項で書いた「“1Q84”の世界をどうするか」という課題について、歴史と向き合うことの重要性、個人の精神的自立と信頼するもの同士の共生の必要性については充分描かれているものの、「社会の自由を抑圧するのは、人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅、さらにそれを助長するのが我々の認知の歪み」との戦いの観点でいえば、今回は、共同体員の認知の歪みを巡る旅と、そこからの回復に終始した内容で、過剰な財欲と名声欲、あるいはそのシステムについてはほとんど触れられていない。“1Q84”の主人公(天吾)が最後に到達した「父性」についてもあまり言及されていない。それらは以降の作品に引き継がれるのだろう。

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認知の歪みとシステムの自己増幅

2013年03月26日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「1963年」の項で、村上春樹の小説に触れ、「我々が共に戦うのは人の過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力である」という意味のことを書いたけれど、そのシステムの自己増幅を助長するのは、人々の「認知の歪み」なのだと思う。認知の歪みとは、誤った思い込みのことで、全てか無か、白か黒かと物事を両極端に考える二分割思考、過去の体験から一足飛びに結論を急ぐ過度の一般化、悪い面だけを見て良い免を評価しない選択的抽象化、何事も「〜すべき」「〜してはならない」と決め付ける教義的思考などを指す。

 村上春樹の短編小説集“レキシントンの幽霊”(文春文庫)のなかに“沈黙”という一編がある。そこに描かれた「人の言いぶんを無批判に受入れて、そのまま信じてしまう連中」こそ、認知の歪みを抱えた人々の姿なのではないだろうか。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 でも僕が本当に怖いと思うのは、青木のような人間(人の心を巧みに扇動する財欲と名声欲の権化のような人物)の言いぶんを無批判に受け入れて、そのまま信じてしまう連中です。自分では何も生み出さず、何も理解していないくせに、口当たりの良い、受入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する連中です。彼らは自分が何か間違ったことをしているんじゃないかなんて、これっぽっちも、ちらっとでも考えたりはしないんです。自分が誰かを無意味に、決定的に傷つけているかもしれないなんていうことに思い当りもしないような連中です。彼らはそういう自分たちの行動がどんな結果をもたらそうと、何の責任もとりやしないんです。本当に怖いのはそういう連中です。そして僕が真夜中に夢をみるのもそういう連中の姿なんです。夢の中には沈黙しかないんです。そして夢の中に出てくる人々は顔というものを持たないんです。

(引用終了)
<同書 84ページ(括弧内は引用者による補足)>

以前「自立と共生」の項で、「精神的自立」の大切さについて述べたことがあるけれど、認知の歪み(二分割思考、過度の一般化、選択的抽象化、教義的思考など)は、精神的自立を阻害する。その歪みに付け込む悪意に簡単に踊らされてしまう。そして、本人に悪気がなくとも、間接的に「システム」の増幅を補完することになってしまう。「認知の歪み」の項で紹介した「複眼主義」などによって、そういう「顔なし」にならないための努力をしたいものだ。

 さて、この財欲と名声欲をコントロールできない輩が作りだした「システム」を実際に動かしているのは誰かというと、それは、財欲と名声欲の権化のような人物の後ろに隠れている「官僚」(bureaucrats)と呼ばれる一群である。彼らは「システム」を粛々と運営し、その増幅を図り、それが生み出す財と名声のおこぼれを貰いながら密かに生きている。彼らは国家だけではなく、民営化された機関、理念を失った会社や学校、その他あらゆる惰性に流された組織に忍び込んで来る。立派な建物をシロアリが蝕むように。

 この「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」、問題は三つあることが分かる。一つは人の過剰な財欲と名声欲。「五欲について」の項で述べたように、人は誰でも身体の働きとしての「食欲・睡欲・排欲」を持ち、脳の働きとして「財欲と名声欲」を持っていて、「財欲と名声欲」は無限に増殖し得る危険な欲望だ。しかし多くの人は、理性によってそれをコントロールすることができる。人は本来、「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」なのである。こういう「真っ当な人間」が作る組織は健全である。だが一部、財欲と名声欲をコントロールできない輩がいるのが問題の第一。

 そしてもうひとつの問題が、上で述べた認知の歪み。認知の歪みを抱えた人々(顔なし)は、悪気がなくても、財欲と名声欲をコントロールできない輩が作りだした「システム」の自己増幅を助長してしまう。

 そして最後が「官僚」(bureaucrats)と呼ばれるシロアリの群れ。どれも問題なのだが、理性によって財欲と名声欲をコントロールすることと、認知の歪みを正すことを啓蒙してゆけば、時間はかかるかもしれないが、「真っ当な人間」たちを増やすことができる。また、人は誰でも一定期間たてば死んでしまうから、前の二つは困った人たちだけれども、いづれ個体としては死んでしまうから、次の世代に期待することも出来る。しかし最後の問題、官僚主義の問題は、「システム」と共にずっと引き継がれていくから、多少のことでは壊すことができない。むしろストレスを受けると焼け太りする。だから、「真っ当な人間」たちが、それぞれの持ち場で、継続的に気を配って排除しなければならない。

 「神経伝達物質とホルモン」項で、自律神経とホルモン系、免疫系の三つが互いに影響しながら我々の体の恒常性を保っていると述べ、「活性酸素」の項で、体の恒常性が、体内に発生し病や老化を齎す活性酸素を抑制・除去する、と述べたけれど、この社会の「システム」の自己増幅は、身体における「活性酸素」の増殖と同じようなものだ。「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅力」の問題は、他人事ではなく、我々自身にいつでも忍び寄ってくる病原として捉えるべきなのかもしれない。そうだとすれば、自律神経とホルモン系、免疫系の三つに相当するのが、理性による過剰な財欲と名声欲のコントロール、複眼主義などによる認知の歪みの修正、そして官僚主義の排除なのではないだろうか。

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日本語と社会の同質性

2012年12月11日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「日本の農業」の項で紹介した神門善久氏は、その著書“日本農業への正しい絶望法”(新潮新書)の中で、日本社会の「同質性の問題」を指摘しておられる。その部分を引用しよう。

(引用開始)

「自由」なはずの今日の日本においても、不愉快な正論を大衆は抹殺しようとする。マスコミと「識者」が事実を捻じ曲げた論陣を張ることでそういう大衆に迎合する。本書では、農業という話題を使って、七十五年前も今も変わらない日本社会の体質を描いた。
 おそらく、日本社会の同質性の高さが、この歪みの元凶だろう。不快な事実から目を背けようとするのは日本人に限ったことではない。しかし、異質性が高く、価値観の異なる隣人に常に晒されている社会では、相互監視の緊張感があり、非生産的な逃避行に対しては隣人が目ざとく咎める。ところが、日本社会は同質性が高いため、まとまって「見なかったことにしよう」という雰囲気を作れば、それが通用してしまう。

(引用終了)
<同書 230−231ページ>

 このブログでは、カテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで、環境に同化しやすい日本語の特色について繰り返し述べてきた。日本語は、母音を主体に言語認識するので、対話者同士の意識や自然との融和を促し、対話の場における<我>と<汝>との繋がりを生む。<我>と<汝>との繋がり、すなわち「和」を生み出す日本語には異質物を調和させる力があり、それ故に自然環境を守る力が強いのだが、同時にそれは、自然環境に対してだけでなく人為的な組織に対しても同じような力として働く。自分の属する組織を盲目的に守ろうとする力になってしまう。それがいわゆる「ヨソ者排除」という社会の悪しき風習を助長するのだと思う。

 母音言語の環境依存性については、「母音言語と自他認識」の項で、以下のような循環運動として説明したことがある。

(引用開始)

1.   人の言語野は左脳にある
2.   子供ははじめ右脳経由で言葉を覚える
3.   習熟すると人は左脳(言語野)で言葉を処理するようになる
4.   人の脳の自他認識機能は右脳にある

5.   日本語には身体性が強く残っていて母音の比重が大きい
6.   英語は子音の比重が大きい

7.   人は発話時に母音を内的に聴く
8.   社会と母国語の学習によって脳神経回路が組織化される
9.   母親と社会から日本語(母音語)を聴かされて育つと、母音に習熟し、発話時に母音を左脳で聴くようになる
10.  母親や社会から英語(子音語)を聴かされれて育つと、母音に習熟せず、発話時に母音を右脳で聴き続ける

11.  日本人は発話時に自他分離の右脳をあまり刺激しない
12.  欧米人は発話時に自他分離の右脳を刺激する

13.  日本語は容器(空間)の比喩が多く、擬人の比喩が少ない
14.  英語は擬人の比喩が多く、容器(空間)の比喩が少ない

15.  日本語は空間(環境や場)の論理が多く、主体の論理が少ない
16.  英語は主体の論理が多く、空間(環境や場)の論理が少ない

17.  日本語的発想は環境中心で、環境と一体化しやすい
18.  英語的発想は主格中心で、環境と一体化しにくい

19.  日本語に身体性が残り続け、母音の比重が大きくあり続ける
20.  英語は子音の比重が大きくあり続ける

(引用終了)

 このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(Public)」−男性性

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(Private)」−女性性

といった二項対比を論じているけれど、我々が人為的な環境・組織からの精神的な自立を果たすためには、Aの側の力を意識的に強化していかなければならない筈である。

 以前「五欲について」の項で、脳の働き(大脳新皮質主体の思考)を生産(他人のための行為)に持ちいず、消費(自分のための行為)のみに使っていると、名声欲と財欲とが無限増殖すると述べたけれど、日本語的発想における脳の働きは、どうしても身体の働き(脳幹・大脳旧皮質の思考)に引きずられてしまうので、「公(Public)」の概念をしっかりさせておかないと、生産(他人のための行為)に向かうよりも、消費(自分のための行為)に向かってしまうようだ。戦前までは、よくも悪しくも家制度が「公(Public)」の概念を作っていたのだが、戦後は、父権が喪失し「公(Public)」の概念が希薄になってしまった。「マスコミと「識者」が事実を捻じ曲げた論陣を張って大衆に迎合する」のは、環境依存型の日本語の特質である「ヨソ者排除」意識に加えて、戦後顕著になった「公(Public)」の概念の欠如という面もあると思う。

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日本の農業

2012年11月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 “日本農業への正しい絶望法”神門善久著(新潮新書)といういささか刺激的なタイトルの本を有意義に感じながら読んだ。本の紹介文をまず引用しよう。

(引用開始)

「有機栽培」「規制緩和」「企業の参入」等のキーワードをちりばめて、マスコミ、識者が持て囃す「農業ブーム」は虚妄に満ちている。日本農業は、良い農産物を作る魂を失い、宣伝と演出で誤魔化すハリボテ農業になりつつあるのだから。JAや農水省を悪者にしても事態は解決しない。農家、農地、消費者の惨状に正しく絶望する。そこからしか農業再生はありえないのだ。徹底したリアリズムに基づく激烈なる日本農業論。

(引用終了)
<同書カバー裏より>

ということで、この本は日本の農業の問題点を率直に抉り出す優れた研究である。

 このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それらを牽引するのは、フレキシブルで判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると主張している。

 戦後の高度成長時代を支えてきたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織によって可能となった大量生産・輸送・消費システムだったが、高齢化が進む今の日本はすでに安定成長時代に入っている。当然のことながら、これまでと同じ産業システムでは立ち行かない。

 勿論これからも大量生産が日本から無くなることないだろうが、新しい価値や文化を育むのは、多品種少量生産の方に違いない。「近代家族」の崩壊、「新しい家族の枠組み」の必要性、いま世界規模で起こっている「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)も、日本の多品種少量生産への追い風になるだろう。

 詳細は本書をお読みいただきたいが、神門氏はこの本の中で、日本農業の本来の強みである「技能集約型農業」の復活を主張しておられる。技能集約型農業は、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術という四つの産業システムに適合するだけでなく、まさに地域に密着したスモールビジネスであり、これからの日本を牽引すべき職業であると云えるだろう。

 神門氏はまた、「技能集約型農業」による雇用について次のように述べる。

(引用開始)

 かつての高度経済成長期の工業化の局面では、人口が都市に集中し、大量消費・大量生産を進めることで経済成長を遂げた。しかし、脱工業化時代の今日にあっては、首都圏一極集中をあらため、地方文化を育てて日本社会を多様化する方が有利だ。脱工業化時代では、ソフトの開発能力が国力の浮沈の鍵を握る。ソフト開発では画一的発想の打破という創造的破壊が不可欠であり、そのためには、つねにさまざまな価値観や文化を社会に共存させておく必要がある。農作業のあり方は地域の気象や地形を色濃く反映するため、農業者は地域への意識が強くなりがちで、地域社会の担い手としても好適だ。したがって、技能集約型農業による農村雇用の創出は、農業のみならず、国内の文化の多様性を通じて、脱工業化時代の日本経済全般の活性化に役立つ。

(引用終了)
<同書 103−104ページより>

ということで、これは、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える「流域思想」とも親和性が強い。

 だが一方、先日「新しい家族の枠組み」の項で、

(引用開始)

 日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。

(引用終了)

と述べたように、今の日本人のメンタリティーや思考法が、このまま変わることがなければ、「技能集約型農業」も絵に描いた餅でしかない。

 今の日本を覆う、農地利用の乱れ、消費者の舌の劣化、放射能災害の放置、うわべだけの農業ブーム、ヨソ者排除という社会の悪しき風習などなど、真の「技能集約型農業」の確立には、まだ幾多のハードルを乗り越えなければならない。それを踏まえて、神門氏はこの本を“日本農業への正しい絶望法”というタイトルにされたのだろう。まず必要なのは日本人の「精神的自立」なのである。

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新しい家族の枠組み

2012年10月23日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 近代家族を超える新しい家族の枠組みについて考えてみよう。新しい枠組みの方向性については、これまで「“シェア”という考え方」、「“シェア”という考えかた II」の項で、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といったパラダイム・シフトとして提示してきたが、これをベースに、「近代家族」の特徴、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

に倣ってそれを列記してみる。

 高度成長経済が終わり、不況で外で安定的収入を得ることでかろうじて保たれてきた父権が崩れ、妻が働きに出ることで性別分業が意味を失い、高齢化社会によって子供中心主義が崩壊したこれからの家族は、

1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族

といったものになるのではないだろうか。

 日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。「近代家族 II」の項の最後に、

(引用開始)

 「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代、街づくりにおいても、地域単位の新しい枠組みと、官僚まかせ主義からの脱却が求められている。

(引用終了)

と書いたけれど、この「新しい家族の枠組み」をベースに、商店街や街づくり、食生活や住宅などについて考えてゆこうではないか。新しいスモールビジネスの種もいろいろと見つかると思う。

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近代家族 III

2012年10月02日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回、前々回と、「近代家族」の限界とそれに代わる新しい枠組みの必要性について、主に街づくりの観点からみてきたが、このことを食生活について見たのが、“日本のリアル”養老孟司著(PHP新書)という本の第一章である。この本は、

(引用開始)

「本当の仕事」をしている4人と考える。
「家族の絆」の実状 岩村楊子
耕さない田んぼ 岩澤信夫
ダム、震災、牡蠣(かき) 畠山重篤
森林を合理的に救う 鋸谷(おがや)茂

(引用終了)
<同書 帯の紹介文より>

ということで、養老氏とそれぞれの人との対談集であり、そのうちの第一章が、岩村楊子氏との対談「現代人の日常には、現実がない」である。

 岩村氏には、“変わる家族 変わる食卓”(勁草書房、中公文庫)などの著書があり、今の日本家族の平均的な食生活の実態はそれらの本に詳しい。岩村氏は対談で次のように述べる。

(引用開始)

 十数年調査してきて、やはり家族がそれぞれますます「自分」を大切にし、個を優先するようになっていると感じています。食卓にもそれははっきりと表れていて、家族が家にいても同時に食卓に着かず、たとえ一緒に食卓を囲んでも違うものを食べる「バラバラ食」、さらには一日三食も崩れて、みんな自分のペースで好きな時間に勝手に食べる「勝手食い」も増えています。「バラバラ食」や「勝手食い」の家では、親は子供が何を食べたのかも知らなかったり、無関心になっている。

(引用終了)
<同書 19ページ>

前回も引用した「近代家族」の特徴は、

1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族

といったことである。岩村氏の調査は、これらの限界をよく示している。養老氏は、日本社会について次にように述べる。

(引用開始)

 そもそも、高度成長期に若い世代の多くが地方から東京に出てきたのは、「絆」というややこしい人間関係を断ち切るためでもありました。
 戦後、民法改正で家制度がなくなりましたが、その影響が残っていたときは、人々はまだ理屈抜きで故郷と結びついていました。(中略)
 ところが、今ではお盆や正月に帰る故郷がない人が増えています。それはどういうことかというと、結局のところ、日本人は戦後、絆をお金に変えてきたんですね。
 昔は、仕事もしないでブラブラしている人間が親戚にいても、みんなで助け合ってなんとか食わせていました。それが今では、親戚を頼れなくなったので、それぞれが保険に入ったり、行政の福祉サービスを受けたり、あるいは生活保護を受けるしかなくなっています。
 そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考えかたでやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのかわからない人は多いはずなんです。

(引用終了)
<同書 23−24ページ>

養老氏の言葉は、日本の近代家族が初めから内包していた問題点をよく言い表している。日本人の思考法の基には勿論「日本語」がある。日本語については、このブログでもカテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで論じているので参照していただきたい。

 この本は、岩村氏の他、不耕起栽培の岩澤信夫氏、「鉄と海と山の話」の項でも紹介した畠山重篤氏、森と木の研究所代表鋸谷茂氏との対談を収める。養老氏は岩澤氏との対談の中で、最近人々が自然と触れなくなったとし、

(引用開始)

 僕はずっと前から「参勤交代を復活させるべき。都会の人は、たとえば一年のうち三ヶ月は田舎で暮らす、という制度を作ったらどうか」と主張してきました。
 都会は、食料や木材などあらゆるものを供給する田舎がなければ成り立ちません。それはちょうど、身体がなければ頭が成り立たないのと同じことです。しかし頭はそうは考えたがりません。だから、身体という自然を使うことを覚え、外の自然に触れる機会をつくることが大切なんです。

(引用終了)
<同書 90ページ>

と述べておられる。

 近代家族を超えた新しい枠組みの必要性は、街づくりばかりではなく、食生活や、そのほかの日常生活を含む、今の日本社会のあり方全体についていえるのである。

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五欲について

2012年07月09日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「複眼主義とは何か」、「行動の契機」の両項において、複眼主義の考え方について整理してきた。そして、複眼主義には「脳と身体」、「都市と自然」、「生産と消費」という三つの系があり、この三つは互いに関係し合っていることを論じてきた。今回は、応用問題として、五欲(食・睡・排・名声・財)について「複眼主義」に拠って考えてみたい。

 欲望の充足とは、そもそも「自分のための行為」である。従って、五欲は、

I   生産−交感神経優位−理性
II  消費−副交感神経優位−感性

という「生産と消費」の系でいうところのIIの側に属する。そして、複眼主義でいえば、人は自分のために生まれるのではなく、社会のために生まれてくるわけだから、欲望の充足は、Iの「生産」(他人のための行為)の糧となるはずである。

 それでは、五欲(食・睡・排・名声・財)を「脳と身体」の系から見てみよう。するとどういうことが言えるだろうか。五欲における前の三つ(食・睡・排)は、人だけでなく動物にも備わる「自然」な欲望である。従って、

a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(public)」
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(private)」

という「脳と身体」の系でいえばbに属する。

 一方、後の二つ(名声・財)は、大脳新皮質が発達した人間だけに備わる欲望である。従って、「脳と身体」の系でいえばaに属する。

 そもそも後者(名声・財)は、前者(食・睡・排)の身体的欲望を、人の脳が肥大化させたものである。人は、大脳新皮質を進化させて、道具を作り、計画を練り、通貨を発明し、前者(食・睡・排)の欲望をより効果的に満たす方法をいろいろと編み出してきた。その過程で生まれたのが後者(名声・財)なのである。

 前者(食・睡・排)は、人や動物を問わず須らく身体時間(t = life)に従って自然に生起・消滅する。しかし、人が大脳新皮質を進化させて獲得した後者(名声・財)は、人の脳の時間(t = 0)によってのみ制御されるので、理性を用いて意識的に抑えないと、果てし無く増殖する性質を帯びている(脳の時間については「アフォーダンスについて」の項を参照のこと)。

 「生産と消費」の系でみたように、本来「理性」は主に生産(他人のための行為)に用いられる。だから人は理性を用いて後者(名声欲と財欲)の無限増殖を抑えなければならない。しかし理性を欲望の抑制に使わず、その充足方向にのみ使っていると、後者(名声・財)は無限に増殖し、やがて人は脳と身体とのバランスを欠いた状態に陥ってしまう。

 「水の力」の項で紹介した“脳の方程式+α ぷらす・あるふぁ”中田力著(紀伊国屋書店)によると、ヒトとは本来、「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」(同書113ページ)であるという。しかし、理性を欲望充足にのみ用いていると、名声欲と財欲とが果てし無く増殖し、ヒトは「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」となってしまうのである。

 「都市と自然」という二項対比は、「脳と身体」の集合であるから、「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多く住む社会は、「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い社会」となる。

 脳は、身体的欲望を肥大させて名声欲と財欲とを生み出し、同時に、金利という都市の時間(t = interest)を編み出した。「理性を持ち、感情を抑え、他人を敬い、優しさを持った、責任感のある、決断力に富んだ、思考能力を持つ哺乳類」が多く住む社会においては、都市の時間(t = interest)は効率の良い秩序を生み出すだろう。しかし、「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多い社会では、富の偏在が加速し、秩序が乱れ、やがて全体の活力が衰えていくだろう。だから名声欲と財欲の二つからなる「greed(貪欲)」は、「都市」の宿痾と言われるのである。

 脳と身体とのバランスが崩れていると、生産と消費のバランスも乱れてくる。「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多い社会では、生産性が低下する。名声欲と財欲とに訴える消費財(商品)が増え、生産の多様性も失われる。こうして、生産と消費の面からも、名声欲と財欲の増殖は社会の活力を衰えさせる。

 以上、五欲について、複眼主義に拠って考えてきたが、この「名声欲と財欲の無限増殖」と同じような話を、どこかで聞いたことがあるのではないだろうか。そう、癌細胞の増殖だ。成長や活力を生むための細胞分裂が、健康のバランスを欠いたために、そのまま止まらなくなる。癌細胞の増殖が止まらないと個体はやがて死に至る。名声欲と財欲の無限増殖によって、癌の増殖と同じようなことが、脳と身体、都市と自然、生産と消費の各系で起こるわけだ。

 さて、この「他人を蹴落とそうとする、悪知恵に長けた、責任感の無い哺乳類」が多い社会とは、戦後の高度成長とその後のバブル経済を引きずった今の日本社会の姿と重って見えないだろうか。複眼主義によって、「脳と身体」、「都市と自然」、「生産と消費」のメカニズムを理解し、これからの社会をより豊かなものにしていこうではないか。

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複眼主義とは何か

2012年06月26日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここのところ「自分でよく考えるということ」や「精神的自立の必要性」の項において、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(public)」
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(private)」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を見、偏ることなく物事を考えるにはAとB両方のバランスが大切であると繰り返し述べてきた。私はこれを「複眼主義」と名付け、これまでも「複眼でものを見る必要性」や「複眼主義のすすめ」、「南船北馬」といった各項で論を拡げてきた。今回はこの「複眼主義」とは何かについて、もう一度考え方を整理してみたい。

 複眼主義の第一は、脳と身体、都市と自然といった二項対比や双極性の特質を、的確に抽出することである。例えば、脳と身体という対比において、その重要な特質は、「思考における脳と身体性の違い」にあるという点にまず気づかなければ何事も始まらない。この点に気がつけば、頭脳には大脳新皮質と脳幹・大脳旧皮質という異なる部位があり、大脳新皮質が主に論理的な思考を司り、脳幹・大脳旧皮質が身体的な機能と密接に関連していることを学び、脳の働き=大脳新皮質主体の思考、身体の働き=脳幹・大脳旧皮質の思考、といった特質の抽出が可能となる。

 複眼主義の第二は、そういった二項対比や双極性を踏まえた上で、どちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践することである。例えば、脳の働きと身体の働きとのバランスの取れた考え方とは、ある物事に対して、理詰めに考えることと身体で感じることの両方を実践し、全体を網羅的に把握・体感することである。どこかの山に登る場合を考えてみよう。理詰めに考えるとは、事前によく地図を調べ、天候を調べ、服装などを整えることである。そして身体で感じることとは、当日の体調をよく勘案して、決して無理をせず、五感を研ぎ澄まして山道を歩くことである。そうすれば、山登りを十全に楽しむことが出来るだろう。

 ものごとを両眼で見ると奥行きがみえる。単眼だと表面しか見えない。そこで、二項対比や双極性を踏まえた上で、どちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践することを、「複眼主義」と名付けたのである。

 「自由意志の役割」の項で「世界はすべて互いに関連しあったプロセスで成り立っている」というホワイトヘッドの考え方を紹介したが、複眼主義の第三は、いろいろな二項対比や双極性を、様々な角度から関連付け、発展させていくことである。例えば、男女という二項対比を考えた場合、ホルモンの違い、脳構造の違いなどから、男性性=空間重視・所有原理、女性性=時間重視・関係原理といった特質が抽出できる。次はそれを他の二項対比、例えば脳と身体の対比と関連づけてみるわけだ。そうすると、脳の働き=大脳新皮質主体の思考=男性性=空間重視・所有原理といった一連の繋がり見えてくる。そして、身体の働き=脳幹・大脳旧皮質の思考=女性性=時間重視・関係原理というもう一方の繋がりも見えてくる。

 尚、ここでいう男性性・女性性とは、人(男女)がそれぞれ一定の比率で持っている認識の形式を指す。男性、女性そのもののことではない。男は生得的に男性性比率が高いけれど、女性性も持っている。女は生得的に女性性比率が高いけれど、男性性も持つ(詳しくは「男性性と女性性」、「男性性と女性性 II」の項を参照のこと)。

 ここまで関連づけたところで、偏らないバランスの取れた考え方を実践するために、再び山に登る場合を考えてみよう。理詰めに考えるとは、事前によく地図を調べ、天候を調べ、服装などを整えることであるが、さらに男性性を発揮して、空間を重視した山の位置関係を把握し、当日の経費の概算や山登りチームの編成などを考えておく。当日は、体調をよく勘案して、決して無理をせず、女性性を発揮してその時その時の楽しみを見つけながら互いに協力し合い、五感を研ぎ澄まして山道を歩く。そうすれば、山登りをさらに楽しむことが出来るはずだ。

 こうして、いろいろな二項対比や双極性を、様々な角度から関連付け、発展させていったもの(の一部)が、冒頭のAとBの対比なのである。

 社会には、バランスの偏った考え方がいまだ多く蔓延っている。例えば、考え方が男性性に偏りすぎると、社会は公私にわたり規律が強まり、成果主義が求められるようになる。一方、考え方が女性性に偏りすぎると、何でも馴れ合い・もたれ合いになってしまう。複眼主義の考え方は、都市空間における公(public)の事項(政治・経済)は、規律と成果主義で考え陋習を廃し、地縁・血縁・家族などの私(private)な事項(文化・宗教)は、それとはまったく別の共生・伝統主義で考えるということである。そしてその二つの理念の上に立脚し、さらに社会の発展を考えるということなのである。「都市の中のムラ」の項で論じたのは、そういう社会のあり方を探る試みの一端である。

 さてここまで「複眼主義」について説明してきたが、改めて纏めておこう。

(一)二項対比や双極性の特質を、的確に抽出すること
(二)どちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践すること
(三)特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと

いかがだろう、複眼主義のエッセンスをご理解いただけただろうか。以前「マップラバーとは」の項で紹介した“世界は分けてもわからない”福岡伸一著(講談社現代新書)の最後に、「世界は分けないことにはわららない。しかし、世界は分けてもわからない」という著者の言葉がある。この言葉は複眼主義にも当て嵌まると思う。世界は、二項対比や双極性を抽出し、関連付けなければわからない。しかし、分けて関連付けるだけで、バランスの取れた考え方を実践しなければ、認識がさらに次の段階に発展していくことは望めないのである。

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posted by 茂木賛 at 09:37 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

精神的自立の重要性

2012年05月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自分でよく考えるということ」の項で、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き―「公(public)」
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き―「私(private)」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を見、偏ることなく物事を考えるには、AとB両方のバランスが大切であると述べた。

 このバランスを個人から社会全体に拡大して見ると、大量生産・消費社会は「所有原理」が支配的だから、公私に亘って「大脳新皮質主体の思考」(脳の働き)が優位に立つ社会だと思われる。戦後日本の高度成長期は、確かに、経済的・空間的拡張に価値を置いた“モノ”中心の思考が横溢した時代だった。それに対して、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)を迎えた今の社会は、「関係原理」に基づく「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」(身体の働き)が優位に立つ時代といえるだろう。

 しかし一方、前項で、


(引用開始)

 ただし同じ「大脳新皮質主体の思考」でも、(「母音言語と自他認識」の項で述べたように)日本語においては、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分に働かないという仮説がある。

(引用終了)

と書いたように、日本社会においては、「大脳新皮質主体の思考」が優位に立つ場合でも、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分働かないようだ。その為だろうか、「環境中心」の「日本語的発想」が政治やビジネスの世界にも侵食し、せっかく良いチャンスだった高度成長時代、社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が充分定着しなかった。

 そして、本来公平であらねばならない「公(public)」の領域(政治やビジネスの世界)においても、個人の精神的自立が充分果たされぬまま、もたれあいや妬みあい、私有意識や非公開主義などが高度に構造化してしまった。今後も社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が根付かないままだと、それは是正されないことになる。

 さらにモノコト・シフトの時代は、社会全体として「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」が優位に立つ時代である。従って、今のうちに「公(public)」の領域に「主格中心」=「英語的発想」をしっかり根付かせておかないと、社会全体がますます「私(private)」に偏っていってしまう危険性があると思う。

 昨今の日本の政治やビジネスの世界を見るに、この傾向(もたれあいや非公開主義の高度な構造化)がさらに強まっているような気がするが、みなさんはどのようにお感じになっておられるだろう。「“シェア”という考え方」及び「“シェア”という考え方 II」の項で、本来「大脳新皮質主体の思考」が持つべき「精神的自立」の必要性をことさら強調したのは、そういう理由からなのである。

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posted by 茂木賛 at 10:34 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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