夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


思考の軸

2025年12月03日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「後期近代 IV」の項で、複眼主義のA側偏重の人もB側偏重の人も、反対側の思考や特徴を忘れずに、「事に当たって相応しい発想を選ぶ」ようにアドバイスしたけれど、今回はそのための補助線として、発想における「思考の軸」について書いてみたい。

 我々は事に当たり、いくつかの見方(主義)をベースに発想し、様々検討を加えた上で判断を下す。その見方をここでは以下の四つに分類したい。

「理想主義」:日頃持っている「理想」に基づいて物事を判断する
「ロマン主義」:自分が持つロマン(夢)に沿って判断する
「現実主義」:目の前にある「現実」に照らし合わせて判断する
「損得主義」:自分にとって(あるいは人にとって)損か得かで判断する

人は、理想がなければ生きる目標はないし、ロマンがなければ人生つまらない。しかし、現実をみなければ生き延びられないし、ときに損得を考える必要もある。それが大人のコモンセンス(社会生活上誰もが知っている共通の認識、思慮、分別、良識など倫理的な事柄)だと思う。

 この四つの主義、「理想主義」の反対は「損得主義」、「現実主義」の反対は「ロマン主義」と考えられるから、
思考の軸.jpg
【図1】

という構図を描くことが出来る。これを「思考の軸」と呼ぼう。複眼主義のA側、B側でいえば、十字の左側はA側主導、右側はB側主導の発想といえるだろう。複眼主義の生産と消費論でいえば、十字の上側は生産(他人のための行為)的発想、下側は消費(自分のための行為)的発想といえるかもしれない。

 あなたは、様々な事(買い物、政治談議、結婚、子育て、仕事、旅行など)に当り、これらのうちどの発想を主に選んでいるだろうか。この構図を使って、自分のAB偏重具合、人格性向を知り、「事に当たって相応しい発想を選ぶ」力を養っていただきたい。

 またこの構図、
思考の軸2.jpg
【図2】

と書き入れると、それぞれの主義の間にさらに四つの中間的な象限が見えて来る。それぞれの象限は、

@ 理想主義ではあるが、現実を見極める力もある
A 理想主義であり、同時にロマンを追い求める
B 現実を見極めながら、損得を第一に考える
C ロマンを追い求めながら、損得を忘れない

ということで、この図表は、どの象限に言動が最も頻繁にヒットするかで、その人の人物評価に使うこともできる。それぞれの象限に応じて思いつく典型的なprofessionとしては、

@ 志のある政治家
A 芸術家
B 政商
C ギャンブラー

といったところか。もしあなたの言動がBかCばかりヒットするようであれば、コモンセンスに照らして、すこし生き方を改めたほうがいいかもしれない。ここまで書いて「タフでなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格はない」という例のフィリップ・マーロウの台詞を思い出したが、「タフさ」とはBとC、「優しさ」とは@とA、と考えれば、この構図、マーロウの台詞とも辻褄が合うように思うがいかがだろう。

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後期近代 IV

2025年11月19日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

Q:前々回の「コモンセンス外の言動」や前回の「複眼主義の復習」におけるABバランスの話は興味深いですが、その先にどういった展開をお考えなのでしょうか?

A:西洋近代文明は、後期に至り多くの人々をA側偏重に導いてきました。その反動がモノコト・シフト(B側偏重)であるわけですが、どちらも偏重が過度に進むと「コモンセンス外の言動」を惹起してしまう。これからの地域近代文明を実現するために、AとBのバランスを取ることが大切だと考えています。

Q:地域近代文明の特徴とは?

A:地域近代文明とは、地域特色(文化、宗教、言語など)を生かした、

〇 個の自立
〇 機会平等
〇 因習打破
〇 資本主義
〇 民主政治

の起動であり、その中核を担うのは中産階級だと思います。

Q:AとBのバランスを取ることって昔でいう文武両道のようなことですかね。

A:そうそう。

Q:集団の無意識とABバランスとの関連はどうですか?

A:日本人は言語的にB側偏重になりやすく、西洋人はA側偏重になりやすい。中国、ロシア、その他の地域については、家族類型と言語、歴史(とくに西洋化具合との関係)などに応じて偏重具合も分かれてくるでしょう。

Q:心理学では「人は自分の中に様々な人格を住まわせている」などといいますがそれとABのバランスは関係ありますか?

A:その話と通ずるところはあるかもしれませんね。我々はプライベートなこと(恋愛、結婚、子育て、仕事、旅行、介護など)に当ってA側に偏ったりB側に偏ったりしますから。居住履歴(海外・国内)、学科専攻、読書遍歴、子弟・友人関係などにも影響されます。でも集合論的に考えると、世界規模の潮流である「文明動向」が最も人格(思考と行動の様式)に影響を与えると思います。

Q:A側偏重とB側偏重、それぞれのキャラクターを分かり易く説明すると?

A:A側偏重の人は、西洋近代の諸価値の下で育っていてその延長線上で物事を考えがち。自立心が強い、体壁系なので戦いを恐れない、現実的、経営者に多い、といったところ。弱点としてはgreed(過剰な財欲と名声欲)に陥りやすいと思います。B側偏重の人は、西洋近代の衰えを感じている人で、自然に親しむ、平和主義で争いを好まない、ロマン的、といったところ。弱点としては認知の歪みに陥りやすいかな。

Qなるほど、イメージが湧きます。住まいに関してA側偏重派は都心のマンションを好み、B側偏重派は田舎移住を考えそうですね。

A:スポーツでいえばA側偏重は都市型スポーツ、B側偏重は山登りなんかを好むかな。山ガールなんていいますしね。

Q:最後に読者へのアドバイスなどあれば。

A:私は西洋近代の諸価値の下で育った世代で、環境的にもA側偏重に近いところにいました。しかし、ここのところモノコト・シフトを肌で感じていて、B側偏重派への共感を強く持っています。読者へのアドバイスとしては、A側偏重の人も、B側偏重だと思う人も、反対側の思考や特徴を忘れずに、事に当って相応しい発想を選ぶ。そして共に地域充実社会の実現に力を注いで欲しいと思います。

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複眼主義の復習

2025年11月12日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「コモンセンス外の言動」の項で、コモンセンス外言動の要因の一つとして、

<2>AとBのバランス

を挙げ、

――――――――――――――――――
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

などの内容を指し、複眼主義では両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。
――――――――――――――――――

という複眼主義の対比のうち、どちらかへの過度の傾斜がコモンセンス外の言動を生んでしまうと書いたが、このAとBについて、これまでこのブログでみてきた上記以外の思考傾向・特徴を、復習の為にさらにいくつか記載しておきたい。

A、a系:

〇世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
〇デジタル回路思考主体
〇体壁・解糖系
〇子音語
〇理性重視、都市指向
〇「近」への反応
〇ひらめき
〇自立と効率
〇空間(space)意識強い

B、b系:

〇世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
〇アナログ回路思考主体
〇内臓・ミトコンドリア系
〇母音語
〇感性重視、自然指向
〇「遠」との共振
〇直感
〇共生と効用
〇場所(place)意識強い

以上だが、「後期近代 III」の項で、今の時代の特徴の一つは「中産階級の減少・没落」であり、中産階級の政治的考えは概ねコモンセンスに基づいた「中道」であると書いた。複眼主義でいうABのバランスを大切に考えることは、この“コモンセンスに基づいた「中道」”を支える考え方と重なると思う。

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コモンセンス外の言動

2025年10月15日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 去年「後期近代 III」の項で、後期近代は中産階級の減少・没落に特徴づけられるとし、中産階級の政治的考えは、概ねコモンセンス(社会生活上誰もが知っている共通の認識、思慮、分別、良識など倫理的な事柄)に基づいている、と書いたが、ここではコモンセンスから外れる言動(考えと行動)について、(政治的なものだけでなく広く一般的な言動も含めて)その要因を探ってみたい。

 今回も前提として、複眼主義の対比を援用する。その対比(AとB)とは、
――――――――――――――――――
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

などの内容を指し、複眼主義では両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。
――――――――――――――――――
というもの。以下、コモンセンスから外れる言動の要因を列挙し、それぞれについてコメントしていこう。

<1>三つの宿痾

 以前「三つの宿痾」の項で書いた、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲(greed)
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義(bureaucracy)
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

という人類の宿痾三つの何れかによって、コモンセンスを外れた言動が生まれる。詳細は同項を参照していただきたいが、(3)の例としては、

二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)

などがある。それらは、

<内的要因>

体全体:病気・疲労・五欲
脳(大脳新皮質)の働き領域:無知・誤解・思考の癖(くせ)
身体(大脳旧皮質・脳幹)の働き領域:感情(陽性感情と陰性感情)
−陽性感情(愛情・楽しみ・嬉しさ・幸福感・心地よさ・強気など)
−陰性感情(怒りと憎しみ・苦しみ・悲しさ・恐怖感・痛さ・弱気など)

<外的要因>

自然的要因:災害や紛争・言語や宗教・その時代のパラダイム
人工的要因:greedとbureaucracyによる騙しのテクニック各種

によって生まれる。

<2>AとBのバランス

 複眼主義の対比から言えることの一つに、脳(大脳新皮質)は新しいことを考えるのが得意であり、身体(大脳旧皮質及び脳幹)は継続性を重んじる、という傾向がある。コモンセンスのある人はAとBのバランスが良い。複眼主義でも両者のバランスを大切に考える。しかし人はこのバランスを崩して、コモンセンス外の言動を取ることがある。A側に傾斜したものでは、ひたすら理屈っぽい言動、過激な言動、計略など。B側に傾斜したものとは、身体(大脳旧皮質及び脳幹)の継続性を重視した言動。身体の弱った老人の言動はこちらが多くなりやすい。脳と身体は繋がっているから相互に影響を受ける。<1>の(3)における体全体(病気・疲労・五欲)と感情(陽性感情と陰性感情)による認知の歪みが重症化するとその悪い例となる。空気や雰囲気に呑まれたり、情(友情や愛情)に引き摺られたりしてコモンセンス外の言動に走ってしまうのは、B側の影響が強い日本人によくみられる。
 尚、いわゆる常識(社会で一般的に当たり前とされている知識、考え方)と倫理性がベースにあるコモンセンスとは別物。常識は新しい優れた考えによって上書きされ得る。つねに常識を疑うのがコモンセンスだともいえる。このブログについて、“世の中には間違った常識がいっぱい転がっています。「夜間飛行」は、私が本当だと思うことを世の常識にとらわれずに書いていきます”と記したのはこのことを指しているつもりだ。

<3>社会的拘束

 何らかの社会的な拘束で、本心とは違う言動を迫られそれがコモンセンスを外れた言動になることがある。

〇脅迫を受けている
〇借金がある
〇主従関係、契約関係がある

などなど。こういった要因はなかなか表に出ないので判断が難しいが、その人の言動の一貫性、社会的な地位や立場、などを調べると解ってくる。この要因は政治家やマスコミの言動に現れることが多い。

 以上だが、人がコモンセンス外の言動を見せる場合、その要因を上記したなかから見つけ出し、どのように対応するかを判断して欲しい。要因が複合的な場合もある。勿論、自分の言動についても上記と照らし合わせ自省したい。

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統帥権と国体

2025年05月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 去年の一月から、GHQ占領下日本でおきた初代国鉄総裁の死を巡る『下山事件 最後の証言』柴田哲孝著(祥伝社文庫)を皮切りに、

<戦後史>
『日本永久占領』片岡鉄哉著(講談社+α文庫)
『占領史追跡』青木冨貴子著(新潮文庫)
『在日米軍基地』川名普史著(中公新書)
『ワシントンハイツ』秋尾沙戸子著(新潮社)
『軍隊なき占領』ジョン・G・ロバーツ+グレン・デイビス著(講談社+α文庫)
『731』青木冨貴子著(新潮文庫)
『昭和天皇の敗北』小宮京著(中公選書)
『近衛文麿「黙」して死す』鳥居民著(草思社)

<戦前史>
『満洲国グランドホテル』平山周吉著(芸術新聞社)
『〈満洲〉の歴史』小林英夫著(講談社現代新書)
『「憲政常道」の近代日本』村井良太著(NHKブックス)
『副島隆彦の歴史再発掘』副島隆彦著(ビジネス社)
『愚かなる開戦』鈴木壮一著(毎日ワンズ)
『増補新版・終戦と近衛上奏文』新谷卓著(彩流社)
『近衛文麿と日米開戦』川田稔編(祥伝社新書)

などといった本を再読または初読してきた。そのなかで戦前戦後、政治家各々の問題もさることながら、国家制度の不備について思う所があったので、最近「X」(旧Twitter)の方に<統帥権と国体>というタイトルで思う所を書いた。今回はそれをここに転記しさらにその下に追記、敷衍しておきたい。

――――――――――――――――
O5/03/2025「X」(旧Twitter)
<統帥権と国体>『増補新版・終戦と近衛上奏文』、『近衛文麿と日米開戦』を読了。明治憲法下の制度の問題は「現人神天皇制」と「統帥権の独立」だろう。国民は天皇の赤子であり、その天皇が軍の最高指揮権を持つ体制下では、内閣総理大臣が内政・外交をコントロールすることは不可能。

<統帥権と国体>A 敗戦後、現人神天皇制は「象徴天皇制」へ、統帥権の独立は「統帥権の米国委任」へと変化。主権の所在は国民にあるとされるが象徴天皇制には解釈の恣意性が残る。軍の最高指揮権が米軍にある体制下では、戦前同様内閣総理大臣が内政・外交をコントロールできるとは考え難い。

<統帥権と国体>B 第一次世界大戦後の政党政治から1940年代の軍と政治の動きを追うなかで思うのは、国家制度をまともなものにしないと、再び戦争に巻き込まれる可能性が大きいということ。

<統帥権と国体>C 果たして今の日本に国家制度をまともなものに出来る人物はいるだろうか。戦前、近衛文麿は「新体制」と称してそれをやろうとしたが失敗、(他の理由も勿論あるけれど)アメリカとの戦争を止めることは出来なかった。
――――――――――――――――

 「幕末史の表と裏」の項で書いたように、明治政府は薩長の中間・下級武士、京都の下級公家たちが明治天皇をすり替えてつくった疑いがあり、「現人神天皇制」と「統帥権の独立」は、彼らの権力の隠れ蓑として導入された可能性が高い。その体制をそのまま大正、昭和へと引き継いでしまったことに戦前日本の悲劇があったように思う。西園寺公望は政党政治を確かなものにしようと努力したが道半ばで死去、近衛文麿は「新体制」と称し政党によって「統帥権の独立」他を改めようとしたが、「それは幕府を作るのと同じだ」と宮内官僚に諫められて断念してしまった。アメリカとの戦争を止めることが出来なかった理由は、軍人の暴走、政治家の力不足、スパイの暗躍、英米の思惑等様々あれど、明治政府がつくった国家体制の脆弱性がその根本にあると思う。

 そうだとすると今はどうかということになるが、「サンフランシスコ・システム」の項等で書いてきたような米軍による日本支配体制では、戦争を回避するのは難しいだろう。「象徴天皇制」についても『昭和天皇の敗北』の冒頭に、

(引用開始)

 平成二十八年(二〇一六)年八月八日、平成の天皇がメディアを通じて「象徴としてのお務めについて」おことばを発した。それまで平成の天皇は「象徴」を突き詰めて考え、行動してきたと評価されてきた。その天皇が自ら譲位を求めるなど、誰もが予想しない、きわめて異例な出来事であった。譲位が現行制度に存在しないのだから、おことばは、新たな立法や皇室典範の改正などを求める行為に他ならない。天皇は政治的行為をしないという誰もが漠然と信じていた空気のようなものが崩れた。
 政治的機能を何一つ有さないはずの天皇が政治を動かす。
 唐突に時間の流れが断ち切られ、あたかも戦後の終わりが告げられたようであった。

(引用終了)
<「はじめに―戦後の終わりから始まりへ」iiiページ)

とあるように、解釈に恣意性が残る曖昧なものだ。戦後の国家体制は戦前のそれ同様きわめて脆弱なものだと考えざるを得ない。

 いま政治家のなかに、西園寺公望や近衛文麿ほどの人物はいるだろうか。いないのであれば、このブログを読みに来てくれる皆さんのような方の中からそういう人物が現れることを期待するしかない。私も、これからの望ましい国家体制について「新しい統治思想の枠組み II」などで考えてきた。併せてお読みいただけると嬉しい。

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役割社会

2024年12月13日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『蔦屋重三郎 江戸を編集した男』田中優子著(文春新書)という本を面白く読んだ。蔦屋重三郎は江戸中期の版元(出版業者)で、吉原文化、天明狂歌、洒落本や黄表紙、浮世絵などを編集した。彼の人脈に連なる大田南畝、山東京伝、喜多川歌麿、東洲斎写楽らの活躍、当時の世相、後に連なる葛飾北斎、曲亭馬琴、十返舎一九らの消息が豊富な挿絵とともに描かれているので、あの時期についての理解度が上がった。

 この本には江戸時代の「役割社会」についての言及がある。その点について、これからの地域充実社会との関連で思う所を記しておきたい。「役割社会」とは、徳川幕府が作った社会秩序と価値観の内部で、士農工商隅々に亘るまで役割がはっきり分けられており、それぞれが与えられた役割を果たすことで、各々の存在が承認されるような社会のことである。蔦屋重三郎は出版業を通じてそういった「役割」の外(そと)に「別世」を作り出し、息苦しくなりがちな社会に文化によって風穴を開けたが、「役割社会」そのものは江戸時代を通じて維持され徳川平和の礎となった。

 「役割社会」について思いつく論点は今のところ5つある。江戸時代と環境は異なるが現代でも参考にすべき点は多いと思う。

1.役割社会は、地域社会という舞台で各々が与えられた役を演ずるわけだから、それが機能するためには、観客側である社会の成熟が必要。地域社会の中核を担うのは金持ちでも貧乏でもない中間層だから、そういった階層が充実していないと役割社会は機能しない。

2.与えられた役割とは、各々にとって自分の存在意義を確認できるものであり、以前「不変項」などの記事で述べた「居場所」と同様なものである。

3.役割社会が継続するためには息苦しさを軽減する「別世」の存在が必要。それを力で押さえつけると不満が溜まり社会の安定性が損なわれる。「田沼意次の時代」の項でも述べたが、蔦屋重三郎が活躍したのは老中田沼意次が開明政策をもって幕府を差配した時期で、田沼が失脚したあとの寛政の改革は、緊縮財政に偏した窮屈なものでそれが幕府衰退の一因になったと思われる。

4.その人の資質に応じて役割を入れ替えることができる制度的な仕組みが担保されていること。『江戸時代の「格付け」がわかる本』大石学監修(洋泉社歴史新書)によると、当時の身分はその人を一生制約するわけではなく入れ替わり可能だったという。限定的なものではあっただろうが。

5.生身の人間を社会的役割としてのみ見てしまわないための法的整備。本の最後、蔦屋重三郎に欠けていた視点として田中さんは、

(引用開始)

それは、作品を担うのは「生身の人間」であるという観点である。この観点は、人間を社会的役割としてのみ見てしまう社会全体の問題だ。人権思想が広がっていくと、そこに「労働」という概念が入り、「生身の人間」の観点から労働には制約が加えられる。労働から外れた行動についても人権の侵害という観点から、法に訴えることができる。

(引用終了)
<同書 230−231ページ>

と書いておられる。

 「後期近代 III」の項で、これからの地域充実社会は、中産階級が充実しなければならないと書いたが、中産階級の充実と役割社会は車の両輪のようなものなのかもしれない。それをどのように設計・構築するかさらに考えたい。

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後期近代 III

2024年11月15日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今という時代の文明的位置づけについてこれまで、

後期近代
後期近代 II

と綴ってきたが、最近「X」(旧Twitter)の方で追加的に思う所を書いたので、ここにそれを転記して纏めておきたい。

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@ 現代は西洋近代が終った「ポスト・モダン」の時代などではなく、近代化が徹底し「後期近代」に入った時代。その先に見える未来は、negativeに考えると「高度監視社会」、positveに考えると「地域充実社会」となるだろう。

A 後期近代の特徴の一つは「中産階級の減少・没落」。西洋近代が合理主義と機会平等を推し進めた結果、先進国(G7)を中心に地域社会が充実し「中産階級」が興隆した。しかし後期近代に至り、社会は一握りの「富裕層」とその他大勢の「貧困層」とに分離、「中産階級」は減少・没落した。

B 今の先進国の政府は、富裕層による貧困層のコントロール装置と化している。ヨーロッパの一部では貴族と官僚によるコントロール、ヨーロッパのその他とアメリカでは軍産と官僚によるコントロール。彼らの支配ツールとして「情報操作」「戦争」と過激な「宗教」が使われる。

C 中産階級において、若年層は過激で老年層は保守的、女性性は安定を好み男性性は競争を好む、といった違いはあれど、彼らは基本的に合理主義と機会平等を尊重、その政治的考えは「中道」である。

D 中産階級が減少・没落した現在、政治家や政治的考えを「右」だ「左」だと評価・判断し、支持や否定するのはナンセンス。「右」や「左」は、厚い中産階級があるなかで「中道」からのズレを補正するための議論だから。

E 中産階級が死に瀕している現在、政治家や政治的考えを支持・否定する基準は、彼ら彼女らが富裕層と貧困層の分離を固定化しようとする「高度監視社会」派か、中間層の再興を指向する「地域充実社会」派か、という一点だと思う。

F 近代化に後れを取った国々(BRICS)は、いまの段階で独裁から民主政治へと向かい中間層の充実を図ろうとしている。後期近代に入った先進国が余計なちょっかいを出さない限り、それらの国々は中産階級が興隆し「地域充実社会」へ向かうと考えられる。

G 日本はG7の一角を占めながら、歴史的経緯から未だ米軍支配下にある特殊な国。そもそも日本の近代は「個の自立」を伴わない疑似近代社会。戦前は主に英国、戦後米国の恩恵を受けて中産階級の興隆はあったが、それは経済に偏した歪(いびつ)な形のもの。

H 明治維新以降の日本に、文化的に新しいものは少ない。リットン調査団からパペット・ステーツと呼ばれた戦前の満州国なども歪(いびつ)さの表れか。ただ、日本には近代以前の遺産が豊富で、西洋や他地域にはない面白さがある。日本語という稀な母音言語もその一つ。

I 疑似近代の日本も、後期近代に入り他の先進国同様「中産階級の減少・没落」に直面している。日本はまず「個の自立」によって疑似近代から近代へと歩みを進めなければならないが、政治家や政治的考えを支持する基準は、中間層の再興を指向する「地域充実社会」派かどうかであるべき。

J 今の日本には、近代以前(近世まで)の遺産を生業にしている人たちが少なからずいる。歌舞伎役者、落語家、日本画家、茶道家、庭師、日本料理人などなど。一方、日本にも西洋近代を良く知る人たちがいる。医者、科学者、思想家、実業家、バイリンガル、お雇い外国人など。

K 日本が「高度監視社会」派に支配されたままだと、前者は観光資源としての役割しかなくなり、後者は消滅するか富裕層に吸収されてしまうだろうが、「地域充実社会」派が主導権を得ると、前者と後者が橋渡しされて、地域に根差した新しい日本的中産階級が形作られる可能性が出てくる。

L その例になるような話として、今日の東京新聞「TOKYO発」というコラムに、地元の呉服店、川越で地域誌を発行する女性、着物研究家の英国人、技術力の高い地元の織物会社らのコラボで、幕末の江戸っ子を魅了した川越唐桟(とうさん)という織物が蘇りつつあるという記事が載っていた。

M 今回のアメリカ大統領選挙では中間層の再興を指向する「地域充実社会」派(トランプ)が勝利し「高度監視社会」派支配に歯止めが掛かった。米軍支配下の日本も、そちらへ動きを加速させるチャンスだと思う。各党の中では減税をメインに掲げる「れいわ新選組」の主張が真っ当に見える。

N 「西洋近代」とは、西洋近代文明(Western Modern Civilization)のこと。先進国で中間層が上手く再興し、後進国で中間層が興隆すれば、これからは、それぞれの国が地域充実社会を築き上げる「地域近代」、地域近代文明(Local Modern Civilization)の時代が来るのではないだろうか。
--------------------------------------------------------

以上だが、「中産階級」の政治的考えは概ねコモンセンス(社会生活上誰もが知っている共通の認識、思慮、分別、良識など倫理的な事柄)に基づいている。それは概ね人類共通だから、「地域近代」の時代になっても各地域の政治的考えにあまり違いは生まれないと思う。

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表現された“コト”

2023年05月18日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで、「モノ」と「コト」について、

---------------------------------------
話者から見て、
動きが見えない時空=モノ
動きが見える時空=コト
---------------------------------------

と書いてきた。今回は表現された“コト”について考えてみたい。

 同じ“コト”でも、表現されたコト、バーチャルなコトは、体験するコトと違って、場所に関係なく話者の脳内だけに「動きが見える時空」を生じせしめる。それらは所詮、言葉の羅列であったり、映像のシークエンスであるから“モノ”なのではあるが。“コトもどき”とでもいうべきか。

 表現されたコト、バーチャルなコトは我々の世界を広げるが、そこには往々にして「嘘(ウソ)」が入り込む。意図しないウソ(情報不足や間違い)もあるが、意図的なウソもある。歴史のウソ、報道のウソ、人物評のウソなどなど。どうやってそれを見破るか、その手立てをいくつか挙げてみたい。このブログを読みに来るのは世のウソに敏感な人たちだろうから、対策はそれぞれお持ちだと思うが、以下、頭を整理する意味で読んで貰えればと思う。

(1)知識を増やす

ウソは情報の非対称によって生まれる。ウソの発信者は自らを利するためにこの非対称性を利用する。情報の非対称とは、自分は知っているが相手が知らない、相手は知っているが自分が知らない、といった自分と相手との情報量の違いだ。ウソを見抜くにはこちら側の知識をできるだけ増やすことが鍵となる。私は1963年に米国ケネディ大統領が暗殺されたとき、たまたまニューヨークに暮らしていた。そのこともあってあの事件の衝撃は今も忘れられない。誰が大統領を狙撃したのか、真実を探るためにその後さまざまな本を読み知識を増やしている。

(2)現場に身を置く

勿論行けない場所もあるけれど、出来るだけ現場に足を運んで、表現されたコトの世界を体感することが大切だ。「経験」とはそういったものの集積。金も掛かるけれど体験することは何物にも代えがたい。

(3)多面的に分析する

ウソを見破るための知識は多面的であることが望ましい。ウソはコトの一面だけを強調する。一面だけを見せてそれが全部だと錯覚させる。多面的に分析することでその時空の本当の動きが見えて来る。例えば、列島の古代史について私は日本語の歴史書や解説だけではなく、中国語の史書や墓誌(翻訳物)、経済人類学、海運や土木の工学、歴史小説などの知見を幅広く読み込んで、正史に書かれていない真実を探る努力をしている。

(4)認知の歪み(思い込み)を直す

人は誰しも認知の歪みを抱えている。たとえば、

●過度の一般化
●マイナス思考
●結論への飛躍
●拡大解釈と過小評価
●感性的決めつけ
●教義的思考
●レッテル貼り

などなど(詳しくは「認知の歪み」の項を参照のこと)。ウソを吐く側は、我々の認知の歪みに付込むから、知識を増やす過程で認知の歪みもできるだけ補正しておく必要がある。

(5)体調を整える

体調が万全でないと気弱になって甘いウソに引っかかる。気分がすぐれないときに、ふらふらと占い師に見てもらってその言葉を信じ込んでしまう人など。

(6)ウソを吐く人から離れる

以前「コトの制御」の項でも述べたが、禍事からは距離を置くのがベスト。ウソを吐く相手には近づかないこと。

 以上、意図的なウソにどうすれば引っかからないで済むかを挙げてみた。人はそれでも騙される。騙されたとわかったら、(1)から(6)までを改めて履行する。間違いを認める勇気と、考えを修正する柔軟な態度も重要だ。

 纏めると、騙されるのは、相手と知識の差、経験の差、金の差、能力の差があるから。騙されないために、惜しまず必要な時間と金を投資せよということ落ち着くだろうか。

 なぜこのようなことを改めて書いたかというと、IT時代になってウソを吐く側の手が込んできたと感じるからだ。特にメディアによるウソが多い。モノコト・シフトの時代で“コト”への関心が高まっていることもウソの横行の背景にあると考えられる。大きく言えば「後期近代」がもたらす軋轢だろうか。逆に、“コト”への関心が高まるということは、ウソを見抜く力も付いてくる筈だから、先行きが全く暗いというわけではないけれど。

 尚、ウソへの対策として、精神的自立の大切さを語った「騙されるな!」や文章についての「行間を読む」、コトの醍醐味は自分と対象との相互作用にあると述べた「本物を見抜く力」という項もある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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モノコト・シフトの研究 V 

2023年01月16日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、今の時代に見える傾向を「モノコト・シフト」と呼んでいる。モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。地域差があるから一概にはいえないが、日本の若年層の間ではシンプルな家や簡素化した生活が好まれ、キャンプや車中泊、トレランやジョギング、ソーシャルネットワークやゲームなどが流行りの先端を行く。観光業界などでは「コト消費」という言葉も生まれている。

 西洋近代ではこれまでも、人々が因習打破や人間性の回復を求め、自然など動きのある“コト”を大切に考えようとするムーブメントはあった。古くはウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動、近くではサンフランシスコのフラワー・チルドレンなど。しかし当時は、宇宙や生命の原理はその物質解析の先に見えてくると信じられていて、“モノ信仰”の行き詰まりまではなかったと思う。自然は大切だが“モノ”は生活を豊かにし、世界を進歩させるというのが常識だった。

 動きのある“コト”といえば、過去二回の世界大戦も、戦争という渦のような“コト”に人々が巻き込まれた事例だが、それは人々が求めたというよりも、権力を握った富者が、金融と情報の操作を通じて人々を扇動した、といった方が正確だろう。新しい武器(“モノ”)がふんだんに供給され、“モノ信仰”のもとにあった人々はその威力に酔わされた。戦に負け、焼け野原に立った人々が次に求めたのも、復興物資という“モノ”であった。権力を握った富者は武器の供給で儲け、復興物資の供給で二度儲けたわけだ(greedの面目躍如)。

 2022年も、サッカーのW杯など人々を興奮させる様々なコトがあった。「後期近代 II」の項でみたウクライナでの戦争も起きたし、コロナ禍も続いている。今回は、モノコト・シフト以前の“コト”への熱狂と、モノコト・シフト時代のそれとの違いについて考えてみたい。

 「モノとコトの間 II」などの項で記してきたように、複眼主義ではモノとコトについて、

---------------------------------------
話者から見て、
動きが見えない時空=モノ
動きが見える時空=コト
---------------------------------------

と定義し、「世界はそれら無数の時空の入れ子構造としてある」と考える。一方、西洋近代の科学は「宇宙は唯一無二の空間であり、そこには均一の時間が過去から未来へ滔々と流れている」ことを前提にしていて、コトは「モノが時間の流れに沿って変化する現象」であると考えるから、コトの原因を探るには、それを構成するモノを解析すればよいとなる(還元主義)。

 複眼主義では、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を掲げ、AとBのバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。

モノとコトをこの対比に関連付けると、

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

ということで、モノコト・シフトとは人々がB側を重視する傾向を指す。

 モノコト・シフト以前は、コトの背後にはモノがあると信じられてきたし、モノは生活を豊かにし、世界を進歩させると思われてきたから、一時の熱狂(Bへの過度の傾斜)はあっても、やがて(一部を除き)人々はAとBとのバランスを回復した。

 しかしモノコト・シフト時代以降は、モノ信仰が薄れているから、いっとき何かに熱狂(Bへの過度の傾斜)すると、人は永くその影響下に留まる(B側偏重が続く)ようになる。薬漬けになってしまう人々、ゲームオタクで引きこもりになる若者、戦争の長期化などなど。また、他人のB側傾斜をみて、反動で過度にA側偏重にシフトする人もでてくる。

 環境破壊や富の偏在化がA側偏重への反省を生み、それがB側への傾斜を齎したけれど、それが度を超すと、AとBのバランスを欠いた状態が出来するという次第。例えば戦争の長期化において、A側偏重の人はデジタル・AIを活用するドローン兵器使用にあまり抵抗感がないだろう。

 日本人(日本語的発想の人)はもともとB側に傾斜している。先の大戦では最後まで熱狂が覚めなかった。2023年が「新たな戦前」と呼ばれるのは、そういった日本人の特徴がふたたび顕著に顕れてきた兆しかもしれない。だから今の日本人はむしろA側を強くして、AとBのバランスを取らなければならない。その為には、例えば外国語を学ぶのも良い(「近代西欧語のすすめ」)。

 モノコト・シフトの時代、複眼主義によって、線形科学が(真理の追求などではなく)工学的なものにすぎないことを認識した上で、そうはいってもB側だけに過度に入れ込まないこと、AとBのバランスを保つことの大切さを肝に銘じたい。

モノコト・シフトの研究
モノコト・シフトの研究 II
モノコト・シフトの研究 III
モノコト・シフトの研究 IV

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コモンズ思考

2022年10月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『コモンズ思考をマッピングする』山本眞人著(BMFT出版部)を読んだ。四百頁余りの労作で、最近のコモンズを巡る議論を整理し、その先を考える内容の本。中南米などでの実例紹介も豊富だ。副題には「ポスト資本主義的ガバナンスへ」とある。本の目次は次の通り。

---------------------------------------------
序章
第1章 E・オストロムのコモンズ研究
第2章 ヴァナキュラーな領域と複雑性
第3章 過去と現在のエンクロージャー
第4章 生態的コモンズの囲い込みとカウンター・ヘゲモニー
第5章 都市コモンズの囲い込みとカウンター・ヘゲモニー
第6章 デジタル・コモンズの囲い込みとカウンター・ヘゲモニー
第7章 「コモンズ+P2P」思考を地図化(マッピング)する――ポスト資本主義的ガバナンスへ
補論 クレーバー&ヴェングロー“The Dawn of Everything”を読む
あとがき
参考文献リスト
---------------------------------------------

ポスト資本主義的ガバナンスにおいて鍵となるのは、

@ハイ・モダニズム vs 複雑性・多様性
A新たなエンクロージャー vs カウンター・ヘゲモニー(コモンズの復権)
Bネオ・リベラリズム vs 社会的連帯経済

という三つの対抗軸だと山本氏はいう。@ハイ・モダニズムとは、自己完結的な政策科学と中央政府によるトップ・ダウン的政策を支持するイデオロギーのことで、科学技術の進歩、生産の拡大、社会秩序の合理的なデザイン、自然に対する支配を過信する。A新たなエンクロージャーとは、情報・知識のデジタル化とインターネットの普及による「共の潜在力」の拡大という状況のもと、これを囲い込み、営利企業の資本蓄積のチャンスにしようとする企てを指す。Bネオ・リベラリズムとは、国家による福祉・公共サービスの縮小と、大幅な規制緩和、市場原理主義の重視を特徴とする経済思想のこと。山本氏は、これらと対抗する@複雑性・多様性、Aカウンター・ヘゲモニー(コモンズの復権)、B社会的連帯経済の充実こそ、ポスト資本主義的ガバナンスの目指すべき方向であると説く。

 このブログでは「ポスト資本主義」という言葉は使っていないが、西洋近代が煮詰まった今の状況を「後期近代」と呼び、その特徴を、

〇 貧富の差の拡大
〇 男女・LGBT差別
〇 自然環境破壊
〇 デジタル・AI活用、高齢化
〇 グローバリズム
〇 金融資本主義
〇 衆愚政治

と纏めた。このブログではまた、「複眼主義」と「モノコト・シフト」という二つのキーワードを使って、人の生き方と社会の在り方を探ってきた。複眼主義とは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比において、両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。

モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。

その上で、後期近代の先に見える未来の姿について、negativeに考えると、

● 高度監視社会
● 政治の不安定化(監視社会への人々の反撥)
● 災害の頻発(恐慌やパンデミックを含む)

といったものになるだろうが、モノコト・シフトが行き渡り、かつ複眼主義でいうAとBのバランスが取れれば、

● local communityの充実
● 継続民主政治による社会の安定
● 自然環境の保全

といったこと(positiveな未来)が実現する可能性もあると書いた。山本氏のいうポスト資本主義的ガバナンスは、このpositiveな方の未来への道と重なると思う。

@ハイ・モダニズム vs 複雑性・多様性
A新たなエンクロージャー vs カウンター・ヘゲモニー(コモンズの復権)
Bネオ・リベラリズム vs 社会的連帯経済

におけるハイ・モダニズムは“モノ信仰”や自然環境破壊と、新たなエンクロージャーは“高度監視社会”と、ネオ・リベラリズムは“グローバリズム”と近接している。positiveな未来は、コモンズ思考と共にあるわけだ。

 山本氏は、補論においてクレーバー&ヴェングローの“The Dawn of Everything”を紹介する中で、(王の主権と結びついた)官僚制の弊害も指摘しておられる。このブログでも以前「“モノ”余りの時代」の項で、自然権派を標榜する官僚について論じたことがある。併せてお読みいただけると嬉しい。

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核家族の価値観

2022年08月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「街場の建築家」の項の最後に、「(直系家族ではなく)核家族や新しい家族の価値観を良く消化・吸収しておく必要があると思う」と書いた。今回はその「核家族」の価値観について考えてみたい。

 「家族類型から見た戦後日本」の項にあるように、核家族型の特徴は、親子関係が権威主義的でないことだ。親が子を導くのは権威によってではなく自らの価値観によってである。親子関係を一般的組織に広げて考えれば、メンバーを導くのはリーダーの理念や価値観であり、それが明確に示されれば組織は健全に働く。逆に親やリーダーの価値観が偏っていれば子供や組織はうまく育たない。

 次に、核家族は横で見守る親族がいないから、集団との軋轢(あつれき)に対するバッファーとして、local communityの役割が重要だ。それがないと、親子だけで集団と対峙せざるを得ない。親の力が弱いと子供は(親も)集団圧力に負けてしまう。組織もスタート時単独では弱いからそれを保護する機構を必要とする。local communityは多様な価値観の交流・発展の場としても重要。

 また、権威によらない価値の伝達には、相手をリラックスさせて納得してもらう必要がある。そのためにはユーモアが欠かせない。以前「現場のビジネス英語“sense of humor”」の項で欧米人のユーモアを幾つか拾い出したことがあるので参照して戴きたい。

 日本は戦前まで直系家族型だったから、こういった親の価値観の自律性、local communityの役割への認識が甘い。親は外の権威(世間の評判や学校教育、宗教の教えや統治者の指示)によって子を導くことが多く、親子は集団との軋轢に裸で対峙させられ、その圧力に負けることが多い。組織における外の権威にはOBの圧力や古い習慣なども加わろう。いまでも学校などでは真面目で冗談を言わない生徒の方が信用される傾向がある。

 核家族の具体例を欧米文学に探すと、アメリカのローラ・インガルス・ワイルダーが書いた『大草原の小さな家』という児童小説がまず念頭に浮かぶ。テレビドラマにもなったから覚えている方も多いだろう。映画でいうと『サウンド・オブ・ミュージック』で、マリアがトラップ大佐と結婚したあとのトラップ・ファミリー。日本の歌では吉田拓郎の「落陽」という曲に直系家族にない生き方の芽生えを感じる。

 核家族における価値観を消化・吸収しないと、これからの日本の家族や組織はやってゆけないと思う。直系家族にあった家長の権威がまだ残っていてそれに守られる家族や組織もあるだろうが、戦後、直系家族の家長の権威は法制度的に消滅しているからだ。精神的に自立して理念を子供に伝える、対話する、ユーモアのセンスを欠かさず、local communityを大切にして自ら参加する、そういった人が増えると良いと思う。

 さて、以前「近代家族」の項で、近代以降の家族を指す社会学の用語として「近代家族」という言葉を紹介し、その特徴を、

1.家内領域と公共領域の分離
2.家族成員相互の強い情緒的関係
3.子供中心主義
4.男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.家族の団体性の強化
6.社交の衰退
7.非親族の排除
8.核家族

と記したことがある。これは西洋近代の特徴のひとつである「資本主義」の労働者家族にフィットした家族形態で、欧米の核家族を祖型としている。戦争に負けて核家族化した日本以外でも、それまで直系家族や共同体家族型だった西側社会の多くが資本主義の徹底化でこのように形態変化した(日本同様それまでの家族類型の特徴を保ちつつ)。しかしこれは後期近代に至り制度疲労を起こしてきた。そこでモノコト・シフト時代の家族について、「新しい家族の枠組み」の項で、

1.家内領域と公共領域の近接
2.家族成員相互の強い理性的関係
3.価値中心主義
4.資質と時間による分業
5.家族の自立性の強化
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族

といった特徴を挙げた。ここでいう大家族とは家族類型としての直系家族や共同体家族を指すのではなく、local communityによりオープンな家族形態をイメージしている。この新しい家族の価値観については、項を改めて考えてみたい。

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後期近代 II

2022年07月30日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今年3月にアップした「家族類型から見た戦後日本」の項との繋がりで、フランス家族類型学者エマニュエル・トッド氏の『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書、2022年6月初版)という本を読んだ。まず本の帯表紙とカバー表紙裏、帯裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「米国は“支援”することでウクライナを“破壊”している」
現代最高の知性が読み解くウクライナ戦争

「第三次世界大戦はもう始まっている」
本来、簡単に避けられたウクライナ戦争の原因と責任はプーチンではなく米国とNATOにある。事実上、米露の軍事衝突が始まり「世界大戦化」してしまった以上、戦争は容易に終わらず、露経済よりも西側経済の脆さが露呈してくるだろう。

・この戦争は第二次大戦より第一次大戦に似ている
・戦争の原因と責任は米国とNATOにある
・「手遅れになる前にウクライナ軍を破壊する」が露の目的だった
・反露に固執するポーランドの動きに注意せよ
・ノルド・ストリーム2の停止は米国の悲願だった
・独仏は“真のNATO”に入っていない
・「欧州と日本をロシアから離反させる」が米国の戦略だ
・人口が流出していたウクライナは戦争前から「破綻国家」だった
・ロシア経済よりも西側経済の脆弱さが露呈するだろう
・超大国は一つだけより二つ以上ある方がいい
・米国の“危うい行動”こそ日本にとって最大のリスクだ

(引用終了)

 このブログでは、「後期近代」の項で、
-------------------------------------------------
 西洋で発祥した「近代」の特徴は、

〇 個の自立
〇 機会平等
〇 因習打破
〇 合理主義
〇 地理的拡大
〇 資本主義
〇 民主政治

といったことだが、これが徹底化した「後期近代」の特徴は、

〇 貧富の差の拡大
〇 男女・LGBT差別
〇 自然環境破壊
〇 デジタル・AI活用、高齢化
〇 グローバリズム
〇 金融資本主義
〇 衆愚政治

となるだろうか(項目の順番同士、ゆるい因果関係・進展関係で結ばれるように配置した)。この間、良いことも沢山あったが、徹底化して煮詰まった結果はあまり美しい状態とはいえない。
-------------------------------------------------
と書き、「近代」から「後期近代」への変遷を、
-------------------------------------------------
 個の自立、機会平等、因習打破によって起こされた産業は新たな富を生みだしたが、欲望を肯定し男性優位の競争社会を是とした資本主義は、結果的に富者と貧者とを分けた。キリスト教精神を伴った地理的拡大は、自然を征服の対象としか捉えず、現地国を植民地化・属国化してさらに産業を伸ばした。合理主義による科学の発展は人の寿命を延ばし、富者は家や車、ファッションなどの物質(モノ)によって貧者との差別化を図るようになった。権力を握った富者は、金融と情報の操作を通じて貧者を支配する術を得た。
-------------------------------------------------
と纏め、さらに、
-------------------------------------------------
 「後期近代」の先に見える未来の姿は、negativeに考えると、

● 高度監視社会
● 政治の不安定化(監視社会への人々の反撥)
● 災害の頻発(恐慌やパンデミックを含む)

といったものになるだろうが、モノコト・シフトが行き渡り、かつ複眼主義でいうAとBのバランスが取れれば、

● local communityの充実
● 継続民主政治による社会の安定
● 自然環境の保全

といったことが実現する可能性もある。(中略)

 暗い未来(前者)と明るい未来(後者)は、モノコト・シフト進行の地域差・時間差、その国(国語)のABバランス、近代化の進み具合や社会構造などに応じて、当面地球上の各地域にモザイク状に分布するものと思われる。最終的にどちらが優位に立つのかはまだわからない。
-------------------------------------------------
と書いた。

 フランス人のトッド氏が語る世界情勢は、後期近代の暗い未来の方を予感させる。たしかに「空間(space)と場所(place)」の項でみたセキュリティ管理された空間(space)の増殖、サイバー空間の監視強化、ウクライナ戦争、日本の元首相の暗殺、コロナウイルスの猖獗、などを併せ見ると、世界はnegativeの方向に進んでいるように思える。

 とはいえまだ勝負がついたわけではないだろう。「界とハビトゥス」の項などで紹介した『建築家の解体』松村淳著(ちくま新書)にある「街場の建築家」のように、positiveな未来へむけた仕事をしている人も多い筈。暗い未来と明るい未来のせめぎ合いは続いている。後者の実現に向けて何をすべきかさらに考えたい。

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界とハビトゥス

2022年07月28日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『建築家の解体』村松淳著(ちくま新書)という本を面白く読んだ。社会学者による建築家の解題で、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の<界>や<ハビトゥス>、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ(1938−)の<後期近代>や<空間(space)と場所(place)>といった概念を援用し、日本の建築家が果たしてきた社会的役割を概観、後期近代における建築家の職業像を探る内容となっている。松村氏については、去年「後期近代」の項で、氏の前著『建築家として生きる』(晃洋書房)から<後期近代>について引用させてもらった。今回はブルデューの<界>と<ハビトゥス>について、『建築家の解体』から引用したい。

 <界>とは、社会の中に存在する集団のことで、各界は相対的に自立している。それぞれの界には固有の秩序や規範、動的なメカニズムが存在している。

(引用開始)

 近代社会は歴史的な機能分化の過程で、様々な界を生み出していった。政治界や経済界、スポーツ界などである。こうした界はさらに下位分化し、様々な下位界を生み出している。例えばスポーツ界が下位分化したものとして、<角界(相撲界)><野球界><サッカー界>などが生み出されている。ここで重要なことは、すべての下位界は独自の仕組み、規則と規則性を有している、ということであり、他の界からの影響を受けることのない、相対的な自律性を保っているということである。それぞれの界には、そこを取り仕切っている者がいる。そしてそれぞれの界に入るためには、そうした権力者・支配者が課してくる基準を満たす必要があるのだ。
 さらに界において、位置(position)も重要である。界の内部の者たち(行為者)は、それぞれの位置に収まっている。その位置は何によって決まるのだろうか。答えは、それぞれの行為者が持っている<資本>の総量と種類による。資本とはあとで、より詳しく言及するが、芸能界に所属している芸能人であれば、ルックスや歌唱力、演技力など、その界で役に立ちそうな資質のことである。(中略)
 界で進行している闘争とは、その界固有の資本の分布構造を守り通すか、ひっくり返すかの闘いである。資本を独占している者たちはそれを守り通そうとする戦略を打ち立てる。一方で、資本を持たない新参者は、それをひっくり返す転覆の戦略を練るのである。

(引用終了)
<同書 40−41ページ>

 <ハビトゥス>とは、界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す。

(引用開始)

 また、ハビトゥスは、単独で使用できる概念ではなく、界や資本といった他の重要な概念と組み合わせて考えるべきものである。ハビトゥスとその他の概念との関係性について理解するために社会学者の磯直樹による整理を確認してみたい。

  ハビトゥスは特定の界の中で、その規則と特定の作用を受け続ける。一方で、ある界において行為者がどのように振舞うかは、ハビトゥスの作用に大きく依存するのである。界における行為者の客観的な位置関係は資本の種類と総量によって規定されるが、実際に界の中でどのように闘争やゲームを行えるかは、どのようなハビトゥスを有しているかによって異なる。これが、界の内部とハビトゥスの関係である。

(引用終了)
<同書 45−46ページ>

 この<界>と<ハビトゥス>、界の「社会の中に存在する集団」という定義を上位統合すると、「世界の中に存在する社会集団」となり、日本国民(nation)を「列島に住む日本語を母語とする集団」という一つの<界>とみることができる。その場合、日本国民という界(日本界?)の<ハビトゥス>は、「界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す」わけだから、「集団の無意識」の項でみた戦後日本の無意識と重なるように思う。

 さて、日本という界を取り仕切っている者は誰か。それは「国家理念の実現」の項でみた米軍と官僚だろう。村松氏は『建築家の解体』の中で、後期近代において、それまであった建築家の界とハビトゥスは、自由に職能を展開していくうえで足かせとなる可能性があるとし、「街場の建築家」というあたらしい建築家像を提出しておられる。日本国民という界とハビトゥスにおいても、後期近代を生き延びるには、新しい国民像が必要になってくると思う。今の界とハビトゥスをよく研究し、次の展開に備えたい。

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集団の無意識

2022年07月20日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「家族類型から見た戦後日本」の項で、『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』鹿島茂著(ベスト新書)を参照しながら、戦後日本の家族の問題を考えたが、同書の中で鹿島氏は、自分がトッドの家族類型論に行き着いたもとには、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の「集団の無意識」というコンセプトがあった、と述べておられる。今回は、戦後日本の(集団としての)無意識について、私の考えを整理しておきたい。まず同書から鹿島氏のその部分を引用しよう。

(引用開始)

 私がトッドに興味を持ったきっかけは、「集団の無意識」というものへの関心からでした。
 ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンはこの集団の無意識(ただし、ベンヤミンは集団の意識と呼ぶ)について、大体こんなことを述べています。
 個人は一人ひとりはっきりと覚醒しているが、これが集まって集団となると、個人が覚醒しているのとは裏腹に集団は深い眠りに入っていく。とくに、資本主義が発展していくと、眠りは深くなり、集団はそのなかで夢をみる。それは集団の無意識としてさまざまな形象となって現れる。たとえば、パサージュ、万博会場、鉄道駅あるいはモード、広告など。だから、「集団の無意識」を解き明かすには、こうした夢の形象について考えなければならない。
 私が初期に、万国博、デパート、広告を取り入れたジャーナリズムなどを取り上げたのはこうした問題意識からでした。やがて、ベンヤミンから出発して、たどり着いたのが人口動態学でした。人口にこそ集団の無意識が最も強くあらわれると確信し、ルイ・アンリに始まるフランスの歴史人口学者の系譜をたどって行って、トッドに行き着いたわけです。こうしてトッドの著作をすべて読み、家族類型、女性識字率、といったトッドの提示する概念こそが人類の無意識を解く最も重要なパラメターだと今は思っています。

(引用終了)
<同書34−35ページ>

 考えを整理するに当り、戦後日本の無意識をいくつかの項目に分けて検討してみる。そしてそれぞれの最後に夢の形象も選んでみた。

(1)家族類型

 戦後日本の家族制度は、占領軍によってそれまでの直系家族からアメリカ的な絶対核家族に変更された。しかし核家族の価値観は未消化・不十分で、人々のメンタルには、それまでの直系家族的価値観が残っている。儒教的価値観、組織における先輩・後輩関係の重要視、妻よりも夫の不倫への世間的寛容、老後の親の面倒をみる、先祖代々の墓を継承する、などが依然として長男(もしくは長女)の仕事とされているケースなど。しかし直系家族にあった家長の権威と権力は、制度的には消滅している。夢の形象には無能な二世議員、三世議員たちの姿が相応しいだろう。

(2)平和憲法

 戦後日本の無意識のなかに平和憲法が占める度合いは大きいと思われる。戦争は憲法第9条によって回避でき、本土は(安保条約があるから)駐留米軍によって守られる。国民は経済成長に邁進すればよく、国家統治能力(父性)は必要ではない。制度的には官僚が米軍を補佐、政治的には衆愚政治であっても経済が回れば善しとする。夢の形象は広島の原爆ドームか。

(3)言語特性

 「脳における自他認識と言語処理」の項の仮説に基づくと、日本語は母音言語であり、脳内の自他分離機能をあまり刺激しないという。そのことで日本人には個の自立よりも、グループ内の関係性に気を配る傾向が強い(気配り、忖度など)と考えられる。主格中心の英語的発想に比べて、日本語的発想は環境中心で、空間重視・所有原理の男性性よりも、時間重視・関係原理の女性性が優位。華やかさや粘り強さはあるが、全体を俯瞰し適材適所を構築する力は強くない。夢の形象はサブカルのかわいいキャラクターたち。

(4)歴史認識

 日本は万世一系の天皇を頂点とする神の国である。これは明治維新以降強化された歴史認識だが、直系家族的価値観と並び、戦後も根強く人々の無意識下に眠っている。だから災害時などに人々はよく神に祈る(苦しい時の神頼み)。神道は教義を持たないから、他の新しい宗教にも寛容だ。夢の形象は神社の鳥居だろうか。

 以上、戦後日本の無意識を4項目に整理したが、無能な政治家、原爆ドーム、ゆるキャラ、神社の鳥居、といった夢の形象を繋いでみると、戦後日本の無意識の内に、国家統治のための理念的・戦略的能力を示すような形象が見当たらない。いまだに国家運営を(日米安保と日米合同会議などによって)米軍に委ねて平気でいられるメンタルは、無能な政治家を選挙で国会に送り込み、過ちは繰り返しませぬと唱え続け、テレビの漫才やゆるキャラに熱中し、事あるごとに神社にお参りする人々の「集団の無意識」が為せる業(わざ)なのだ。国家統治能力(父性)の不在。しかしこれからの時代、今のままで果たして日本はやってゆけるのだろうか。この問題を解決しなければ、いかなる政治・憲法議論もただの空論でしかないと思うがいかがだろう。

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家族類型から見た戦後日本

2022年03月09日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』鹿島茂著(ベスト新書)を興味深く読んだ。トッド氏は1951年生まれのフランス家族人類学者。この本は、彼の家族類型論をベースに、仏文学者の鹿島氏が、世界の歴史やこれからの社会について語ったもの。目次は次の通り。

序章  人類史のルール
第一章 トッド氏に未来予測を可能にする家族システムという概念
第二章 国家の行く末を決める「識字率」
第三章 世界史の謎
第四章 日本史の謎
第五章 世界と日本の深層
第六章 これからの時代を生き抜く方法
あとがき

 ドット氏の家族類型については、以前「中国ビジネス II」の項で、
-------------------------------------------
エマニュエル・ドットの家族類型はまず、

@親子関係が自由で兄弟関係が不平等な「絶対核家族」
A親子関係が自由で兄弟関係が平等な「平等主義核家族」
B親子関係が権威的で兄弟関係が不平等な「権威主義家族」
C親子関係が権威的で兄弟関係が平等な「共同体家族」

の4つに分けられる。親子関係が自由か権威的かとは、子供が結婚後も親と同居するなら権威的、独立するなら自由とする。兄弟関係が平等か不平等かとは、相続にあたって親の財産が男の兄弟の間で均等に分割されるなら平等、1人を残してその他が相続から排除されるなら不平等とする。例として、

@はイングランド、オランダなど
Aはフランス北部など
Bは日本、朝鮮半島、ドイツなど
Cは中国、ロシアなど

が挙げられている。Cの「共同体家族」は、近親婚(主としていとこ婚)のタブーがどの程度許容されるかによってさらに、

●外婚制共同体家族:いとこ同士の結婚不可
●内婚制共同体家族:いとこ同士の結婚の許容
●中間形態型共同家族:兄妹・姉弟の子供同士の結婚の許容

に分けられ、近親相姦を厳しく禁ずる中国は、「外婚制共同体家族」の家族形態をとるということになる。
----------------------------------------------
と纏めたことがある。鹿島氏による家族類型の解説は、「権威主義家族」を「直系家族」と呼んでいる以外同じだが、ここでは今一度鹿島氏の本からそれぞれの特徴を引用しておく。

(引用開始)

(1) 絶対核家族〔イングランド・アメリカ型〕

 結婚した男子は親とは同居せず、かならず別居して別の核家族を構成します。そのため、親の権威は永続的ではなく、親子関係も権威主義的ではありません。結婚しなくとも、生計が成り立ち次第、子どもは独立する傾向にあります。親はあまりこれに干渉しません。親の財産は、兄弟のなかの誰か一人に相続されますが、それが誰かははっきりとは決められていません(遺言に一応依拠)。兄弟間に平等意識はなく、相続をめぐってしばしば争いが起ります。この不平等が前提となった競争意識がのちに資本主義を生むと説明されます。子どもの早期の独立が奨励されますから、教育には不熱心で、識字率も高くはありません。
 ただし女性の地位は比較的高く、したがって女性識字率も比較的高く出ます。トッドはこの理由について、兄弟間の不平等が兄妹あるいは姉弟の平等を生むとしていますが、これについては後述します。いずれにしろ、覚えておくべきは、この類型においては女性識字率は高く、よって出産調整の開始も比較的早いということです。
〔主要地域〕イングランド、オランダ、デンマーク、アメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランド
〔イデオロギー〕自由主義、資本主義(市場経済)、二大政党、小さな政府、株式資本主義

(2)平等主義核家族〔フランス・スペイン型〕

 この類型においても核家族が原則です。子どもは早くから独立傾向を示し、結婚後に親と同居することはまずありません。そのため、親の権威は永続的でなく、親子関係は非権威主義的です。この点はイングランド型と同じなのですが、兄弟間、とくに遺産相続が完全に完全に平等である点が大きく違います。遺産は正確に均等に分割されます。親子関係が権威主義的ではないため、識字率は低く出て、教育への関心も低く、家庭内における女性の地位は直系家族や絶対核家族に比べると低いのが普通です。その理由は兄弟間が平等であるため、姉妹が排除されやすいからと説明されます。
〔主要地域〕フランスのパリ盆地一帯、スペイン中部、ポルトガル南西部、ポーランド、ルーマニア、イタリア南部、中南米
〔イデオロギー〕共和主義、無政府主義(サンジカリズム)、小党分立、大きな政府

(3)直系家族〔ドイツ・日本型〕

 結婚した家族の一人(多くは長男)と両親が同居するのが原則。親の権威は永続的で、親子関係は権威主義的です。兄弟間は不平等で、財産はそのなかの一人(多くは長男)のみに相続されます。次男以下と女子は相続に預かれないか、財産分与を受けて、結婚後は家を出ます。ポイントは長男の嫁で、未婚の兄弟姉妹に対して権威を持つことが要求されますから、長男とあまり年のちがわない女性が選ばれることになります。この類型においては、識字率、特に女性の識字率は高く出て、類型として教育熱心な傾向にあります。
〔主要地域〕ドイツ、オーストリア、スイス、チェコ、スウェーデン、ノルウェイ、ベルギー、フランス周辺部(ドイツ国境地域、南仏)、スペインのカタロニア地域・バスク地域、ポルトガル北部、スコットランド、アイルランド、韓国、北朝鮮、日本
〔イデオロギー〕自民族中心主義、社会民主主義、ファシズム、政権交代の少ない二大政党制、土地本位制、会社資本主義

(4)外婚制共同体家族〔ロシア・中国型〕

 男子は長男、次男以下の区別なく、結婚後も両親と同居します。そのため、かなりの大家族となります。父親の権威は強く、兄弟たちは結婚後もその権威に従います。ただし、父親の死後は、財産は完全に兄弟同士で平等に分割され、兄弟はこのときにそれぞれ独立した家を構えます。トッドは、こうした父親の強い権威と兄弟間の平等が、ロシア・中国型の共産主義、つまりマルクス・レーニン主義(スターリニズム)を生んだと考えます。この外婚制共同体家族と共産主義国家の分布の見事な一致の発見が、イデオロギーを家族類型型から説明するトッド理論が生まれたと述懐しています。
 この類型においては、長男の嫁という特権的なポジションがありませんから、嫁の初婚年齢は低く、したがって家庭内における女性の地位も低いのが普通です。又兄弟の完全平等という要素も姉妹を排除することで成り立ちますから、余計に女性の地位は低く、当然、女性の識字率は低く出て、教育への関心も低くなります。
 ただし、ロシアは直系家族であったノルマン人の植民によって生まれたという歴史的背景もあり、中国よりは女性の地位と初婚年齢、それに識字率が高く出ています。
〔主要地域〕ロシア、中国、フィンランド、フランスの中央山間部、イタリア中部、ハンガリー、セルビア、ボスニア、ブルガリア、マケドニア、ベトナム北部
〔イデオロギー〕スターリン型共産主義、一党独裁型資本主義

 この四類型が互いに影響しあいながら歴史は変容し、多様なイデオロギーや思想、文化を生み出していくというわけです。
 また、その変容の過程において、親子関係、兄弟関係のほかに、重要なパラメターとして作用するのが、「識字率」と「出生率」です。この二つについても、トッドの定義を簡単に述べておきましょう。

●識字率
 母語で読み書き能力を持つ一五歳以上の人が、ある母集団中で何%を占めるかを示す数値。トッドは、男性の識字率が五〇%を超えると社会変革への気運が生まれ、続いて女性の識字率が五〇%を超えると出生率が下がり、社会が安定することに気付きました。女性の識字率が五〇%を超えた時点を、トッドは「テイク・オフ」と呼び、その地域/社会は近代化の段階に入ったと推定します。(中略)

●出生率(合計特殊出生率)
 一人の女性が一生のうちで産む子供の平均人数。トッドは、女性の識字率が五〇%を超えると出産調整が始まり、出生率が下がることに注目しました。つまり、人口学で最大の問題となっている出生力転換、多産多死社会から少子少死社会への転換の原因は経済ではなく、女性の識字率にあると考えたのです。ここから、テイク・オフのパラメターとしての女性の識字率と出生率(合計特殊出生率)の相関関係が俄然、クローズアップされるようになりました。なぜなら、家族類型によって女性の識字率はかなり異なるので、女性の識字率がもともと高い家族類型、たとえば直系家族などではそれが出生率の低下を招くので、テイク・オフが早くなるが、共同体家族においては外婚制にしろ内婚制にしろ、総じて女性識字率が低いので、出生率は高止まりで、したがってテイク・オフが遅れるということが言えるからです。(後略)

(引用終了)
<同書 26−33ページより>

以上だが、家族類型にはこのほかに、「起源的核家族」と呼ばれるものがある。それは上の四つの類型以前の家族形態で、

(引用開始)

 この起源的核家族が、父方居住、母方居住、双方居住、統合的核家族、一時的同居を伴う核家族などのバージョンを経た後、農耕や定住などさまざまな要因の影響で、「絶対核家族」「平等主義核家族」「直系家族」「共同体家族」の四つの形態に分化していくのではないかということです。

(引用終了)
<同書 74ページ>

例えば日本の平安時代の妻問婚は、起源的核家族の母方居住とされる。

 その他鹿島氏は、日本の直系家族型は、中国や韓国のような男系原則ではなく双系である(跡継ぎは女性でも構わない)こと、直系家族においては、しばしば権威と権力との分離が起る(跡継ぎが権威は持つけれど実際の権力は他の者が持つ)こと、などを指摘している。

 前回「帰属集団について」の項で、“ここでいう帰属集団とは、家族の上位にある社会構成員の拠り所といった意味で、江戸時代は「村落共同体」、明治以降は「家」、戦後(バブル崩壊まで)は「企業」、という変遷を経て今に至った。(中略)今の多くの日本人は、拠り所としての帰属先が無いまま、(市町村や都道府県といった中間機構を経由しつつ)政府の行政に直面する羽目に陥っているから、結婚だけでなく子育てや仕事、社交などにおいてとてもストレスが大きいのではないだろうか”と書き、“家族の帰属先としての「新しい拠り所」をどう制度設計してゆけば良いのか、さらに考えたい”と結んだが、今回はこの鹿島氏の本によって、戦後日本の家族そのものの変遷を辿ってみたい。

(引用開始)

■きわめて「アメリカ的な」日本国憲法
 昭和二〇年(一九四五)八月一五日の玉音放送で戦争は終わり、連合国軍最高司令長官マッカーサーによる日本占領が行われます。これはソ連による満州占領などと比べると実に平和的、民主的、紳士的な占領であり、満州からの引揚者に言わせると、こんなものは占領とは呼べないということですが、しかし、マッカーサーはこれまでどんな占領軍もやらなかったことをやったのです。
 それは、戦争中から行われていた日本研究の成果を応用して、軍国日本の諸悪の根源は直系家族にありとみなして、直系家族を核家族に無理やり変更するような諸政策を実行に移したのです。
 その最たるものが『日本国憲法』の前文であり、ここに謳われているのは直系家族原理を否定し、それに代える核家族の原理をもってすることです。つまり、きわめてアメリカ的な核家族原理に基づく憲法が日本国憲法なのです。マッカーサーはさらに一歩進んで、直系家族原理の中核である家督相続を廃止させ、民法からも直系家族要素を一掃させました。通説では、占領軍は憲法、刑事訴訟法に比べると民法改正には関与しなかったといわれますが、しかし、皮肉なことに民法改正においても、父親であるマッカーサーの「意志」を忖度しようという学者が多数出て、民法は完全にアメリカ的な絶対家族的なものに変更されました。

■教育勅語を廃止し、自由主義教育へ
 また、教育という直系家族的な理念が幅を聞かせていた分野でも、教育勅語を廃止し、教育基本法を始めとする教育三法により、絶対核家族的な自由な自由教育主義にこれを変更させました。
 ひとことでいえば、マッカーサーは憲法と民法と教育から直系家族理念を一掃することで、日本の家族システムを変更するという、これまでどんな占領軍もやったことのない冒険に乗り出したのです。

 しかし、朝鮮戦争を巡ってトルーマンと対立したマッカーサーがGHQ総司令官を解任され、昭和二十七年に占領が終ると、日本のあらゆる中間団体で直系家族理念が復活しはじめます。政治の分野では、それでも大っぴらに直系家族理念に回帰することはできませんでしたが、規制のまったくない企業と官僚組織と労働組合では直系家族理念が蘇り、日本の企業と官僚組織のほとんどは直系家族に逆戻りしました。もっとも、戦後の復興には、こうした直系家族的組織運営はジャスト・フィットしたらしく、戦前の陸軍に代わって企業と官僚組織と労働組合が日本株式会社として発展をリードしていったのです。

(引用終了)
<同書 179−181ページ>

この「日本株式会社」がバブル崩壊で衰退したことは、前回「帰属集団について」の項で見た通り。

 以上を踏まえ、「帰属集団について」の指摘を家族類型でみると、“江戸時代の直系家族(農民)の上にあった拠り所は「村落共同体」、同じく直系家族の武士の拠り所は「家(イエ)」、明治時代の直系家族の拠り所も「家」、そして核家族化が進んだ戦後(バブル崩壊まで)は「企業」だった。しかし企業の力が衰退したバブル崩壊以降、多くの核家族は、拠り所としての帰属先が無いまま、(市町村や都道府県といった中間機構を経由しつつ)政府の行政に直面する羽目に陥っているから、結婚だけでなく子育てや仕事、社交などにおいてとてもストレスが大きいのではないだろうか”と言い換えることが出来る。アメリカでは、家族の拠り所として教会や地域コミュニティが存在するが、戦後日本の核家族は急ごしらえで周りの環境が整えられていないのだ。私たち誰もが否応なく所属する今の中間団体(国家と個人の間に位置する政府、政党、軍隊、会社、学校、宗教団体、町内会、部活動など)は、必ずしも家族の拠り所にはならない。

 戦後日本の家族は、占領軍によってそれまでの直系家族からアメリカ的な絶対核家族に変更された。しかし人々のメンタルには、それまでの直系家族的価値観が残っている。私は法律家ではないから不正確かもしれないが、たとえば、家族の遺産相続は(遺言がない限り)男女双系の平等核家族的に為されるが、老後の親の面倒をみる、先祖代々の墓を継承する、親族の法事に出る、などは依然として長男(もしくは長女)の仕事とされているケースが多い。金銭的には兄弟姉妹平等なのに、メンタル的には直系家族意識が残っているのだ。この不平等感がしばしば家族争議の種ともなる。この家族類型という視点を入れつつ、家族の帰属先としての「新しい拠り所」をどう制度設計してゆけば良いのか、さらに考えたい。

 このブログで追及してきた戦後日本の国家統治能力(父性)の不在(「父性の系譜」)も、その原因の一つにこの家族システムの変更を挙げることが出来るだろう。直系家族にあった家長(長男)の権威と権力が制度的に消滅したこと、核家族における父性体現が未消化・不十分、国家統治に間接的に影響を及ぼす教会や地域コミュニティの役割(家族の拠り所)が設計されていないこと、などが考えられる。

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帰属集団について

2021年12月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『仲人の近代』阪井裕一郎著(青弓社)という本を面白く読んだ。副題は「見合い結婚の歴史社会学」。本の帯には“「結婚」や「家」と密接に関わりがあった仲人は、どのように広まり定着して、なぜ衰退に至ったのか。明治期から戦前、そして戦後に至る仲人の役割や見合い結婚のありようをたどり、仲人の近・現代史から近代日本の家族や結婚をめぐる価値観の変容を照射する”とある。日本の近代化を語るのに、「仲人」という仕組みに目を付けたところが秀悦。まず紹介を兼ねて新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 結婚式から仲人が姿を消して久しい。いまや仲人という言葉を知らない若者も少なくない。仲人という制度の盛衰は近代史の重要な側面であるにもかかわらず、これまであまり注目されてこなかった。結婚の媒介として仲人の制度はいつ成立し、時が流れるなかで、いかに変容したのか。本書は意外な角度から近代史の風景を眺める扉を開けてくれた。
 仲人は古代から続いてきた日本の伝統文化だと思われがちだが、江戸時代には仲人を立てる結婚形式が武士階級に限られており、明治時代以前の村落社会では仲人だけでなく、「見合い」という習慣も行き渡っていなかった。
 日本は鎌倉時代から続いた「夜這い」の風習があり、結婚の仲介には「若者仲間」や「若者連」と呼ばれる青年男子の集団が大きくかかわっていた。配偶者の自由な選択という点において、近代以前の日本はむしろ世界の最先端に立っていた。
 近代の「文明化」の過程において、一つの逆転が起きた。地方や農漁村の婚姻習慣は野蛮な風俗とみなされ、風紀紊乱を取り締まるために、媒酌家婚という儒教的な道徳が規範化された。明治維新の立役者で、後に政府の中枢に入った旧藩士の価値観も影響しているだろうが、それ以上に、明治国家は家制度を統治の根幹においたからだ。家族主義という伝統の創出において、仲人の媒介による結婚は伝統的な婚姻様式として正当化された。近代以降、結婚が自由になったのではない。反対に、近代化に伴い、男女交際や配偶者選択の自由が奪われ、婚姻様式が画一化した。手際よい交通整理によって、近代史の真実が言説の迷路を抜け出し、みごとによみがえってきた。
 大正時代になると、恋愛を尊重する言説が登場する一方、恋愛は「正しい恋愛」と「正しくない恋愛」に区別され、家族主義の論理だけでなく、優生思想の観点から媒酌結婚が推奨されるようになった。
 人間の行動様式は内省的な知性によって規定されるだけでなく、行動の様式化は信念の形成を方向付けることもある。そのあたり見極めは難しいが、著者は言説のみならず、緻密な資料調査を通して、結婚媒介の実態にも迫った。
 結婚媒介業は明治期にさかのぼるが、のちにその公共的な側面が注目された。一九三〇年、初の公営結婚相談所が誕生し、やがて「社会事業」や「厚生事業」の根幹に位置付けられた。戦時下には「産めよ殖やせよ」政策に合わせて、結婚報国懇話会や戦時版の婚活システム「結婚斡旋網」といった官制のネットワークまでが作られるようになった。
 戦後日本の企業文化と仲人という制度の関係についての論証も鮮やかだ。経営家族主義のもとで従業員は企業に対する帰属意識が強化され、高度経済成長期の仲人ブームを支えた。バブル崩壊後、企業に対する帰属意識が希薄化するにつれ、仲人という慣習は形骸化し、やがて日本的経営との訣別とともに、旧早期に姿を消した。
 近代史を振り返ると、社会構成員の帰属先は「村落共同体」から「家」へ、「家」から「企業」へと変わってきた。帰属集団の構造的変化こそ、仲人の誕生から消滅への道のりを規定したとする著者の仮説は十分、説得力のあるものだ。
評:張競(明治大学教授・比較文化)

(引用終了)
<毎日新聞 11/27/2021(フリガナ省略)>

ここでいう帰属集団とは、家族の上位にある社会構成員の拠り所といった意味で、江戸時代は「村落共同体」、明治以降は「家」、戦後(バブル崩壊まで)は「企業」、という変遷を経て今に至った。仲人システムは、明治から戦後・高度成長まで続いたが今は衰退。このことは、我々の帰属先がいま見えなくなっていることと符合すると思われる(今でもそれら帰属先は一部に残っているが一般的な話として)。

 社会構成員の拠り所としての、社会的に認知された帰属集団、共同体。その存在意義について、『日本のリアル』養老孟司著(PHP新書、2012年)という対談本から、養老氏の次の言葉を引用しておこう。対談の相手は食卓の変化を通じて家族の変容を調査している岩村暢子氏。

(引用開始)

岩村:十数年調査してきて、やはり家族それぞれがますます「自分」を大切にし、個を優先するようになっていると感じています。食卓にもそれははっきり表れていて、家族が家にいても同時に食卓に着かず、たとえ一緒に食卓を囲んでも違う物を食べる「バラバラ食」、さらには一日三食も崩れて、みんな自分のペースで好きな時間に勝手に食べる「勝手食い」も増えています。「バラバラ食」や「勝手食い」の家では、親は子供が何を食べたのかも知らなかったり、無関心になっている。
養老:そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考え方でやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのか分からない人は多いはずなんです。(中略)先日、ヨーロッパに行って、ようやくわかったのですが、ユダヤ人は、いったんユダヤ人になったらずっとユダヤ人なんです。永久にユダヤ人であるとは、死んでも共同体のメンバーであり続けるという意味です。人間にはそういう共同体が必要なのだと思います。中国人社会にも華僑会のような相互扶助組織があるでしょう。一種、マフィア的でもありますが、構成員に対しては、保険会社や銀行がしてくれないようなこともしてくれる。

(引用終了)
<同書 18−28ページより>

皆さんの中には「そんな帰属集団、無いほうが清々していい」と思う人もあるだろう。それは「個」として生きる力のある人で、未成年を含め一般的には、家族の上位に何らかの拠り所があったほうが生きやすいと思う。社会的に認知された拠り所がないと、自殺を誘発したり、如何わしい新興宗教や闇組織などがその代わりを果たす可能性がある。

 今の多くの日本人は、拠り所としての帰属先が無いまま、(市町村や都道府県といった中間機構を経由しつつ)政府の行政に直面する羽目に陥っているから、結婚だけでなく子育てや仕事、社交などにおいてとてもストレスが大きいのではないだろうか。著者の阪井氏は、終章“「ポスト仲人社会」を考える”の最後に、

(引用開始)

 われわれは、仲人とともに日本社会が何を失ったのかを問うていく必要がある。この問いは、裏を返せば、近代日本が「仲人」に何を託し、依存してきたのかを考えることでもある。近・現代の日本は「仲人」という存在に多くの役割を背負わせたがゆえに、本来ならば発達すべきだった重要な社会関係が未発達のまま放置されてきたともいえる。あるいは、仲人という「伝統」に頼る発想しかもっていなかったゆえに、パートナー関係や家族関係をめぐって未解決のままにされてきた問題があるのかもしれない。
 現代社会で、家族や結婚を巡る諸問題、そして家族を超えた社交関係や相互扶助の理念を問い直すうえでも、あらためて「仲人の近代」を問うことには意義があるはずだ。仲人というシステムが、社会のどのような機能を担保し、同時に社会から何を簒奪してきたのか、そして、それが消滅したことで社会から何が失われたのかを考えることは、現代日本の「デモクラシー」のあり方を探る際に必要になる作業の一つだと考えている。

(引用終了)
<同書 201−202ページ>

と書いておられる。

 以前、新しい時代の家族のあり方について「新しい家族の枠組み」(2012年)の項で、前出した養老氏の一案について「賢人ネットワーク」(2016年)の項でそれぞれ見たが、家族の帰属先としての「新しい拠り所」をどう制度設計してゆけば良いのか、さらに考えたい。

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モノとコトの間 

2021年12月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日、ツイッターで「モノとコトの間」というタイトルの連続投稿をしたが、こちらでも同じ論点を整理・敷衍しておきたい。モノとコトの違いを突き詰めて考えることで、今の時代に起こっている「モノからコトへのパラダイム・シフト(モノコト・シフト)」の特性の一端を明らかにしたいからだ。

 複眼主義では、世界は無数の固有時空の複合体であると考える。世界を線、平面、立体、時間といった次元分割では考えない。これを踏まえて複眼主義におけるモノとコトとの定義は、

話者からみて、
動きが見えない時空=モノ
動きが見える時空=コト

となる。

 この定義にある「話者からみて」とはどういうことかまず説明しよう。ある対象を考えるとき、話者の着眼点によって、それをモノと見るかコトとして見るかが違ってくる。たとえば「地層」をどう見るか。同じ地層でも、それを岩の塊としてみればモノ、地球の活動の跡としてみればコト、となる。

 ここで現れる違いはなにかというと、地層をモノとして見る人は、自分の生命時空(寿命と身体)の尺度で地層を捉えるのに対して、コトとして見る人は、地球生命時空の尺度で地層を捉えているということである。普通の人は前者、地質学に関心のある人は後者の見かたをするだろう。

 人の生命時空と地球生命時空とはあまりにも速さ大きさが違いすぎるから、人は普通地層の動きを直接見ることがない。だからそれをモノと見る。しかし、地球の活動に興味をいだいていれば、地層を見てその動きを感じることが出来る。だからそれをコトとして見るわけだ。

 この違いはまた、対象を自分都合で考えるか、相手都合で考えるかの違いともいえよう。自分都合で考えるとは、対象を自分の時空に引き寄せて、その基準で対象を値踏みするということ。地層は、自分の生命時空(寿命)とはおよそ関わらないから、普通の人にとってそれは単なる「岩の塊=モノ」でしかない。ときに美しい「モノ」かもしれないが。相手都合で考えるとは、対象を相手の時空(この場合は地球生命時空)に合わせて、その尺度で自分との関係を考えるということ。その場合地層は、自分に「地球生命時空の活動=コト」を知らせてくれる貴重な相方となる。

 複眼主義ではモノとコトの特徴を、

「モノ」:空間重視・所有原理
「コト」:時間重視・関係原理

とも分析してきた(そして生き方としては、どちらか一方の見かたに偏らないバランス感覚を大切に考える)。

 これまでこのブログでは、モノコト・シフトについて、次のように書いてきた。

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モノコト・シフトとは、「モノからコトへ≠フパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。
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今回の話を踏まえると、モノコト・シフトの時代とは、同じ対象でもそれを常に自分都合で考えるのではなく、できるだけ相手都合で考えようとする思いやりの時代、ともいえるだろう。

 同じ対象をモノと見るかコトとして見るか、例を続けよう。たとえば人。人を人口(労働人口など)として考えればモノ、生物(命)として考えればコトとなる。社会学的には前者、文学的には後者だろう。

 たとえば種(タネ)。タネを売買対象と考えればモノ、植物(命)と考えればコト。商売人はタネを「モノ」として考えるのに対して、心ある農家はタネを「コト」として考えている筈だ。これに関して先日、『農業消滅』鈴木宣弘著(平凡社新書)という本を読んだ。ここに出てくるグローバル企業や政治家は、タネをひたすら「モノ」として考えているに違いない。副題は「農政の失敗がまねく国家存亡の危機」。本カバー表紙裏の紹介文を引用しておこう。

(引用開始)

徹底した規制緩和で、食料関連の市場規模はこの30年で1.5倍に膨らむ一方、食料自給率は38%まで低下。農業の総収入は13.5兆円から10.5兆円へと減少し、低賃金に、農業従事者の高齢化と慢性的な担い手不足もあいまって、“農業消滅”が現実のものとなろうとしている。
人口増加による食糧需要の増大や気候変動による生産量の減少で、世界的に食料の価格が高騰し、輸出制限が懸念されるなか、日本は食の安全保障を確立することができるのか。
農政の実態を明らかにし、私たちの未来を守るための展望を論じる。

(引用終了)

著者のようにタネを「コト」として考える人がもっと増えればよいのだが。

 同じ対象をモノと見るかコトとして見るか。たとえばウイルス。それを感染人口で捉えればモノ、細胞とのやりとりを観察すればコト。前者はワクチン、行動制限、治療薬で対応できるとするが、異変種への対応を常時に求められる。後者はそのルーツを分析し、暮らし方を変えるなどしてウイルスとの共生の道を探る筈。いかがだろう。この辺りの話は、

コロナウイルスとモノコト・シフト」(2020年3月10日)
周辺国で完結する市場」(2020年6月22日)
応仁の乱後の日本」(2020年8月1日)

の各項も参照いただきたい。

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後期近代

2021年10月19日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『建築家として生きる』松村淳著(晃洋書房)という本を読んでいたら、「後期近代」という言葉があった。同書は、これからの建築家のあり方を社会学的観点から論じたもの。「後期近代」という言葉は、建築家と社会との関りを考える上での時代設定として使われている。建築家については別の機会に書くとして、今回はこの時代認識について考えたい。まず言葉の内容について同書から引用しよう。

(引用開始)

 それでは後期近代とはどのような時代なのだろうか。A・ギデンズは「二〇世紀末の今日、多くの人びとが論じるように、われわれは新たな時代の幕開けに立ち会っている」と述べ、その時代の転換を指称するための多様な名称の登場に言及しながら、その多くが「ポスト・モダニティ」「ポスト工業社会」などといった既存の社会のあり方との間の断絶を意識させる概念であると指摘する。それはJ-F・リオタールの「大きな物語の終焉論」に極まるが、ギデンズはリオタールに代表されるような、全てを包摂するような大きな物語の消散を主張する議論を否定的に論じながら、自らの立場については以下のように述べている。

 “社会組織について体系的認識を得ることができないという感情のなかに表出する方向感覚の喪失は、自分たちには完全に理解できない、大部分統制が不可能に思える事象世界のなかに自分たちが巻き込まれているという、われわれの多くがいだく意識に主に起因している、と私は主張したい。なぜそうなったのかを分析するためには、ただポスト・モダニティ等々の新語を創作するだけでは不十分である。むしろ、ある明らかな理由から従来の社会科学では十分に解明がなされてこなかったモダニティそのものの本質について、もう一度考察し直す必要がある。われわれは、ポスト・モダニティという時代に突入しているのではなく、モダニティのもたらした帰結がこれまで以上に徹底化し、普遍化していく時代に移行しようとしている。(Giddens 1990-1193: 15)”

 ギデンズはこのように述べ、現代をポスト・モダンではなく再帰的近代や後期近代と呼び、それまでの時代が完全に終わって、全く新しい時代に突入するという見立てを退け、むしろ近代化が徹底していく時代であると説くのである。

(引用終了)
<同書 18−19ページ>

この時代認識に私も賛同したい。

 西洋で発祥した「近代」の特徴は、

〇 個の自立
〇 機会平等
〇 因習打破
〇 合理主義
〇 地理的拡大
〇 資本主義
〇 民主政治

といったことだが、これが徹底化した「後期近代」の特徴は、

〇 貧富の差の拡大
〇 男女・LGBT差別
〇 自然環境破壊
〇 デジタル・AI活用、高齢化
〇 グローバリズム
〇 金融資本主義
〇 衆愚政治

となるだろうか(項目の順番同士、ゆるい因果関係・進展関係で結ばれるように配置した)。この間、良いことも沢山あったが、徹底化して煮詰まった結果はあまり美しい状態とはいえない。

 個の自立、機会平等、因習打破によって起こされた産業は新たな富を生みだしたが、欲望を肯定し男性優位の競争社会を是とした資本主義は、結果的に富者と貧者とを分けた。キリスト教精神を伴った地理的拡大は、自然を征服の対象としか捉えず、現地国を植民地化・属国化してさらに産業を伸ばした。合理主義による科学の発展は人の寿命を延ばし、富者は家や車、ファッションなどの物質(モノ)によって貧者との差別化を図るようになった。権力を握った富者は、金融と情報の操作を通じて貧者を支配する術を得た。

 このブログでは、今の時代に見える傾向を「モノコト・シフト」と呼んでいる。モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。今回の文脈で考えれば、それは「後期近代」に対する反省・関心の転換ともいえる。モノコト・シフトの一例は「タネを育てる」の項で見た。

 「後期近代」の先に見える未来の姿は、negativeに考えると、

● 高度監視社会
● 政治の不安定化(監視社会への人々の反撥)
● 災害の頻発(恐慌やパンデミックを含む)

といったものになるだろうが、モノコト・シフトが行き渡り、かつ複眼主義でいうAとBのバランスが取れれば、

● local communityの充実
● 継続民主政治による社会の安定
● 自然環境の保全

といったことが実現する可能性もある。複眼主義のAとBとは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

などの内容を指し、複眼主義では両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。

 暗い未来(前者)と明るい未来(後者)は、モノコト・シフト進行の地域差・時間差、その国(国語)のABバランス、近代化の進み具合や社会構造などに応じて、当面地球上の各地域にモザイク状に分布するものと思われる。最終的にどちらが優位に立つのかはまだわからない。

 「後期近代」の特徴を精査し、モノコト・シフト、複眼主義といったコンセプトを使って、さらに未来の展望を考えたい。

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社会と国民

2020年11月06日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここのところ「自粛警察」「“群れ”と“集団”」「同調圧力」などの項で、社会と世間との違い、日本には世間はあるが社会がない、といったことを見てきた。今回は一歩進めて、社会と国民について考えてみたい。社会がない日本の国民とは何なのだろうか。それぞれの言葉の簡単な定義は、上記及び「nationとstate」「国家の理念(Mission)」などの項から、

「社会」:バラバラの個人の集合体で法のルールによって動く。
「世間」:法のルールではなく同調圧力によって動く。

「国民(nation)」:文化や言語、宗教や歴史を共有する人々の集団。
「国家(state)」:国民の居場所と機構。

としよう。

 『「社会」のない国、日本』菊谷和宏著(講談社選書メチエ)という本がある。副題は「ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」、書名の「社会」にはコンヴィヴィアリテ(共に生きることという意味のフランス語)というルビが振られている。本カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

国家による冤罪事件として知られるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件。スパイの嫌疑を受けたドレフュスは最終的に無罪になったが、日本では幸徳秋水ら一二名が処刑された。両国の違いはどこにあるのか?答えは、日本には「国家」はあるが「社会」はないことにある。今日も何ら変わっていないこの事実に抗い、「共に生きること(コンヴィヴィアリテ)」を実現するには?日本の未来に向けられた希望の書!

(引用終了)

とある。

 著者の菊谷氏は、国家とは制度、システムであるとした上で、次のように書く。

(引用開始)

 制度とは、別言すればルールだ。それは現実(内容)そのものではなく、むしろ現実に押し当てられ現実を規制しようとする「形式」だ。(中略)
 だから、国家においては、各人は匿名的なのだ。人はそこでは「国民」という形式的な資格としてのみ現れる。そこでは各人はいわばそれぞれの機能を果たす部品であり、交換可能な存在だ。そこでは人格やその唯一性(ユニークネス)は考慮されない。ドレフュスがそうであったように。
 これと異なって、家族や地域に代表される共同体は、先に述べた通り情的なものだ。それは構成員の「情」に支えられている。(中略)
 共同体とは、端的に言って、人間の「生の条件」だ。それは、それが生に与えられたものである限りにおいて環境であって、いわば自然条件だ。(中略)それは意思によって選択されたものでも知性によって構築されたものでもなく、自然によって与えられたものであるのだから否定できないのだ。本書でも、永井荷風とその家族との、とりわけ父との関係の中にみることができた。
 これらに対して社会とは、意思的なものなのだ。繰り返すが、社会は各人が他者を人間であると「意思する」ことに基づいている。そのような各人の行為、各人の賭けを土台としているものだ。それは他者の人間性=創造性=自発性=自由の承認である。つまりそれは、人々が自由意志をもって日々生きているという社会生活の現実の有り様そのものであり、いわば「生の内容」なのだ。既に拙稿で詳述し、本書の第1章第四節でも触れた通り、神的超越性を前提としない場合、つまり人間が人間であり社会が社会であることの根拠に照らし合わせて論理的に考え続けた場合、人間の人間性は「そこに賭けるという意思」にならざるをえないのだから。(中略)
 人間性の発祥地(partie)フランスの歴史の中で、社会はhumanite(人間性、人類)の全体として表象され、そのようなものとして生み出された。それは人が共に生きる現実それ自体であった。

(引用終了)
<同書 217−228ページ>

社会とは、「人間の意思」によって作られるものであり、自然によって与えられる家族や地域といった共同体とは違う、という菊谷氏の主張はこのブログの考察と整合的だ。

 社会は人の意思によって生み出され、共同体=世間は人の情によって保たれる。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいえば、

A 社会(意思によって作られる)
B 世間(自然によって与えられる)

ということになろう。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。人は常に自分の立場を、社会と世間とのバランスの上で考えなければならない。

 「社会」とは、フランスなどの西洋近代が生み出した概念であり、人間の「共に生きる意思」によって作られるもの。それは、自然に与えられる家族や地域といった共同体=世間とは異なる。そうだとすると、近代国家という制度側面においては、国民はまず社会人であることが求めらる。日本国という国家に日本国民がいる。しかし列島という自然条件と国家という制度が1対1対応し、言語特性によってB側に傾斜した人が多い日本では、世間の集合体がそのまま国民となってしまっているところに問題があるのだろう。

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新しい統治思想の枠組み II

2019年10月05日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「新しい統治思想の枠組み」の項で、21世紀における新しい統治の枠組みを、

<新しい統治思想>
「対象」:日本国
「至高」:自然
「教義」:非線形科学の知見を取り入れたもの(新規起草)
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。代議制民主政体。因果律。

とし、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
A、a系:デジタル回路思考
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間原理」「関係原理」
B、b系:アナログ回路思考
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

におけるB側の活用を提起したわけだが、それは「幕末史の表と裏」などで述べた、近世のあらまほしき統治思想の骨格、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治とは切り離して自由化

*「預治思想」=「天命を預かり治める」
*「天道思想」=「自然を敬う考え方」

〇 列島の統治思想では天命=天道とする
〇 天道=自然現象=民意
〇 民意を上手く掬い上げるために代議制を導入する
〇 代議制のベースは家(イエ)とする

の継承を意識したものでもあった。「幕末史の表と裏」ではまた、4つのA側の国家統治能力(父性)、

(1) 騎馬文化(中世武士思想のルーツ)
(2) 乗船文化(武士思想の一側面)
(3) 漢字文化(律令体制の確立)
(4) 西洋文化(キリスト教と合理思想)

と、「反転法」という国家統治には向かないが文化・芸術面で効力を発揮するA側の力を、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)
〇 文化政策(宗教・芸術)

に上手く割り振ることの重要性にも言及した。

 今回は、「教義」=“非線形科学の知見を取り入れたもの”について考えを敷衍したい。「教義」とは、その思想の本質を書き記した文章で、非線形科学とは、永続的でなかなか収束しない非線形現象・複雑系の追求だから、非線形科学の知見を教義に取り入れるとは、統治思想の本質をなにか一つの“不変なもの”に置かないということと同義である。

 鴨長明『方丈記』に「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉があるが、時と共に流れる「河」を「統治思想の本質」と解釈すれば、河の「水」は不変ではないということで、なにか一つの不変なものに固執しない当教義の惹句(キャッチ)として相応しいのではないか。

 また非線形科学には未知なことが多い。だからその知見を取り入れる教義は、断定するのではなく現在進行形のメンタルで起草されなければならないし、実務的な決めごとには、常に“想定外”を見越しておかなければならない。駆動させるシステムには、冗長性(redundancy)の装備がマスト。「日本列島の来歴」の項で述べたように、我々は自然災害の多い列島に暮らしている。この教義の惹句として相応しいもうひとつは、寺田寅彦の「天災は忘れられたる頃来る」という言葉であろう。

 非線形科学の研究成果は昨今、ネットワークや人工知能、医療や気象予報など様々な分野で実用化が進んでいる。たとえば『渋滞学』西成活裕著(新潮選書2006年初版)には、高速道路の渋滞緩和に、複雑系科学の知見が生かされているとある。本カバー裏表紙の紹介文を引用しておこう。

(引用開始)

事故もないのに自然渋滞って、なぜ起きるんだろう?

人混み、車、アリ、インターネット……世の中、渋滞だらけである。生まれたばかりの研究「渋滞学」による分野横断的な発想から、その原因と問題解決の糸口が見えてきた。高速道路の設計のコツから混雑した場所での通路の作り方、動く歩道の新利用法まで。一方で、駅張り広告やお金、森林火災など、停滞が望ましいケースでのヒントにも論及。渋滞は、面白い!

(引用終了)

ニュートン粒子と自己駆動粒子、ASEPモデル、統計力学、セルオートマトン法、インターネットの渋滞、粉粒体、ブラジルナッツ現象、パーコレーション、トポロジー、スモールワールド、スケールフリー、ハブ(Hub)、ゲーム理論、パイこね変換などなど、非線形科学の知見とその工学的成果がこの本には各種報告されている。

 教義に非線形科学の知見を取り入れることによって、選挙や立法、司法、行政といった国の統治システムの刷新が加速する筈だ。選挙の投票率が低いのは国民の意見が統治に反映されにくいということだから、代議制民主政体からすれば一種の情報の渋滞とみる事ができる。それを正すには、渋滞学の知見を選挙制度に生かせばよい。いまの統治システムは社会をモノの集積体として捉えるから、選挙は投票用紙の過半数を取るか取らないかだけしかない。教義という思想の本質に非線形科学の知見を取り入れれば、そういった改善が統治システムの随所で起き始めると思う。

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