夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


核家族の価値観

2022年08月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「街場の建築家」の項の最後に、「(直系家族ではなく)核家族や新しい家族の価値観を良く消化・吸収しておく必要があると思う」と書いた。今回はその「核家族」の価値観について考えてみたい。

 「家族類型から見た戦後日本」の項にあるように、核家族型の特徴は、親子関係が権威主義的でないことだ。親が子を導くのは権威によってではなく自らの価値観によってである。親子関係を一般的組織に広げて考えれば、メンバーを導くのはリーダーの理念や価値観であり、それが明確に示されれば組織は健全に働く。逆に親やリーダーの価値観が偏っていれば子供や組織はうまく育たない。

 次に、核家族は横で見守る親族がいないから、集団との軋轢(あつれき)に対するバッファーとして、local communityの役割が重要だ。それがないと、親子だけで集団と対峙せざるを得ない。親の力が弱いと子供は(親も)集団圧力に負けてしまう。組織もスタート時単独では弱いからそれを保護する機構を必要とする。local communityは多様な価値観の交流・発展の場としても重要。

 また、権威によらない価値の伝達には、相手をリラックスさせて納得してもらう必要がある。そのためにはユーモアが欠かせない。以前「現場のビジネス英語“sense of humor”」の項で欧米人のユーモアを幾つか拾い出したことがあるので参照して戴きたい。

 日本は戦前まで直系家族型だったから、こういった親の価値観の自律性、local communityの役割への認識が甘い。親は外の権威(世間の評判や学校教育、宗教の教えや統治者の指示)によって子を導くことが多く、親子は集団との軋轢に裸で対峙させられ、その圧力に負けることが多い。組織における外の権威にはOBの圧力や古い習慣なども加わろう。いまでも学校などでは真面目で冗談を言わない生徒の方が信用される傾向がある。

 核家族の具体例を欧米文学に探すと、アメリカのローラ・インガルス・ワイルダーが書いた『大草原の小さな家』という児童小説がまず念頭に浮かぶ。テレビドラマにもなったから覚えている方も多いだろう。映画でいうと『サウンド・オブ・ミュージック』で、マリアがトラップ大佐と結婚したあとのトラップ・ファミリー。日本の歌では吉田拓郎の「落陽」という曲に直系家族にない生き方の芽生えを感じる。

 核家族における価値観を消化・吸収しないと、これからの日本の家族や組織はやってゆけないと思う。直系家族にあった家長の権威がまだ残っていてそれに守られる家族や組織もあるだろうが、戦後、直系家族の家長の権威は法制度的に消滅しているからだ。精神的に自立して理念を子供に伝える、対話する、ユーモアのセンスを欠かさず、local communityを大切にして自ら参加する、そういった人が増えると良いと思う。

 さて、以前「近代家族」の項で、近代以降の家族を指す社会学の用語として「近代家族」という言葉を紹介し、その特徴を、

1.家内領域と公共領域の分離
2.家族成員相互の強い情緒的関係
3.子供中心主義
4.男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.家族の団体性の強化
6.社交の衰退
7.非親族の排除
8.核家族

と記したことがある。これは西洋近代の特徴のひとつである「資本主義」の労働者家族にフィットした家族形態で、欧米の核家族を祖型としている。戦争に負けて核家族化した日本以外でも、それまで直系家族や共同体家族型だった西側社会の多くが資本主義の徹底化でこのように形態変化した(日本同様それまでの家族類型の特徴を保ちつつ)。しかしこれは後期近代に至り制度疲労を起こしてきた。そこでモノコト・シフト時代の家族について、「新しい家族の枠組み」の項で、

1.家内領域と公共領域の近接
2.家族成員相互の強い理性的関係
3.価値中心主義
4.資質と時間による分業
5.家族の自立性の強化
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族

といった特徴を挙げた。ここでいう大家族とは家族類型としての直系家族や共同体家族を指すのではなく、local communityによりオープンな家族形態をイメージしている。この新しい家族の価値観については、項を改めて考えてみたい。

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後期近代 II

2022年07月30日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 今年3月にアップした「家族類型から見た戦後日本」の項との繋がりで、フランス家族類型学者エマニュエル・トッド氏の『第三次世界大戦はもう始まっている』(文春新書、2022年6月初版)という本を読んだ。まず本の帯表紙とカバー表紙裏、帯裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

「米国は“支援”することでウクライナを“破壊”している」
現代最高の知性が読み解くウクライナ戦争

「第三次世界大戦はもう始まっている」
本来、簡単に避けられたウクライナ戦争の原因と責任はプーチンではなく米国とNATOにある。事実上、米露の軍事衝突が始まり「世界大戦化」してしまった以上、戦争は容易に終わらず、露経済よりも西側経済の脆さが露呈してくるだろう。

・この戦争は第二次大戦より第一次大戦に似ている
・戦争の原因と責任は米国とNATOにある
・「手遅れになる前にウクライナ軍を破壊する」が露の目的だった
・反露に固執するポーランドの動きに注意せよ
・ノルド・ストリーム2の停止は米国の悲願だった
・独仏は“真のNATO”に入っていない
・「欧州と日本をロシアから離反させる」が米国の戦略だ
・人口が流出していたウクライナは戦争前から「破綻国家」だった
・ロシア経済よりも西側経済の脆弱さが露呈するだろう
・超大国は一つだけより二つ以上ある方がいい
・米国の“危うい行動”こそ日本にとって最大のリスクだ

(引用終了)

 このブログでは、「後期近代」の項で、
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 西洋で発祥した「近代」の特徴は、

〇 個の自立
〇 機会平等
〇 因習打破
〇 合理主義
〇 地理的拡大
〇 資本主義
〇 民主政治

といったことだが、これが徹底化した「後期近代」の特徴は、

〇 貧富の差の拡大
〇 男女・LGBT差別
〇 自然環境破壊
〇 デジタル・AI活用、高齢化
〇 グローバリズム
〇 金融資本主義
〇 衆愚政治

となるだろうか(項目の順番同士、ゆるい因果関係・進展関係で結ばれるように配置した)。この間、良いことも沢山あったが、徹底化して煮詰まった結果はあまり美しい状態とはいえない。
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と書き、「近代」から「後期近代」への変遷を、
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 個の自立、機会平等、因習打破によって起こされた産業は新たな富を生みだしたが、欲望を肯定し男性優位の競争社会を是とした資本主義は、結果的に富者と貧者とを分けた。キリスト教精神を伴った地理的拡大は、自然を征服の対象としか捉えず、現地国を植民地化・属国化してさらに産業を伸ばした。合理主義による科学の発展は人の寿命を延ばし、富者は家や車、ファッションなどの物質(モノ)によって貧者との差別化を図るようになった。権力を握った富者は、金融と情報の操作を通じて貧者を支配する術を得た。
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と纏め、さらに、
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 「後期近代」の先に見える未来の姿は、negativeに考えると、

● 高度監視社会
● 政治の不安定化(監視社会への人々の反撥)
● 災害の頻発(恐慌やパンデミックを含む)

といったものになるだろうが、モノコト・シフトが行き渡り、かつ複眼主義でいうAとBのバランスが取れれば、

● local communityの充実
● 継続民主政治による社会の安定
● 自然環境の保全

といったことが実現する可能性もある。(中略)

 暗い未来(前者)と明るい未来(後者)は、モノコト・シフト進行の地域差・時間差、その国(国語)のABバランス、近代化の進み具合や社会構造などに応じて、当面地球上の各地域にモザイク状に分布するものと思われる。最終的にどちらが優位に立つのかはまだわからない。
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と書いた。

 フランス人のトッド氏が語る世界情勢は、後期近代の暗い未来の方を予感させる。たしかに「空間(space)と場所(place)」の項でみたセキュリティ管理された空間(space)の増殖、サイバー空間の監視強化、ウクライナ戦争、日本の元首相の暗殺、コロナウイルスの猖獗、などを併せ見ると、世界はnegativeの方向に進んでいるように思える。

 とはいえまだ勝負がついたわけではないだろう。「界とハビトゥス」の項などで紹介した『建築家の解体』松村淳著(ちくま新書)にある「街場の建築家」のように、positiveな未来へむけた仕事をしている人も多い筈。暗い未来と明るい未来のせめぎ合いは続いている。後者の実現に向けて何をすべきかさらに考えたい。

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界とハビトゥス

2022年07月28日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『建築家の解体』村松淳著(ちくま新書)という本を面白く読んだ。社会学者による建築家の解題で、フランスの社会学者ピエール・ブルデュー(1930-2002)の<界>や<ハビトゥス>、イギリスの社会学者アンソニー・ギデンズ(1938−)の<後期近代>や<空間(space)と場所(place)>といった概念を援用し、日本の建築家が果たしてきた社会的役割を概観、後期近代における建築家の職業像を探る内容となっている。松村氏については、去年「後期近代」の項で、氏の前著『建築家として生きる』(晃洋書房)から<後期近代>について引用させてもらった。今回はブルデューの<界>と<ハビトゥス>について、『建築家の解体』から引用したい。

 <界>とは、社会の中に存在する集団のことで、各界は相対的に自立している。それぞれの界には固有の秩序や規範、動的なメカニズムが存在している。

(引用開始)

 近代社会は歴史的な機能分化の過程で、様々な界を生み出していった。政治界や経済界、スポーツ界などである。こうした界はさらに下位分化し、様々な下位界を生み出している。例えばスポーツ界が下位分化したものとして、<角界(相撲界)><野球界><サッカー界>などが生み出されている。ここで重要なことは、すべての下位界は独自の仕組み、規則と規則性を有している、ということであり、他の界からの影響を受けることのない、相対的な自律性を保っているということである。それぞれの界には、そこを取り仕切っている者がいる。そしてそれぞれの界に入るためには、そうした権力者・支配者が課してくる基準を満たす必要があるのだ。
 さらに界において、位置(position)も重要である。界の内部の者たち(行為者)は、それぞれの位置に収まっている。その位置は何によって決まるのだろうか。答えは、それぞれの行為者が持っている<資本>の総量と種類による。資本とはあとで、より詳しく言及するが、芸能界に所属している芸能人であれば、ルックスや歌唱力、演技力など、その界で役に立ちそうな資質のことである。(中略)
 界で進行している闘争とは、その界固有の資本の分布構造を守り通すか、ひっくり返すかの闘いである。資本を独占している者たちはそれを守り通そうとする戦略を打ち立てる。一方で、資本を持たない新参者は、それをひっくり返す転覆の戦略を練るのである。

(引用終了)
<同書 40−41ページ>

 <ハビトゥス>とは、界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す。

(引用開始)

 また、ハビトゥスは、単独で使用できる概念ではなく、界や資本といった他の重要な概念と組み合わせて考えるべきものである。ハビトゥスとその他の概念との関係性について理解するために社会学者の磯直樹による整理を確認してみたい。

  ハビトゥスは特定の界の中で、その規則と特定の作用を受け続ける。一方で、ある界において行為者がどのように振舞うかは、ハビトゥスの作用に大きく依存するのである。界における行為者の客観的な位置関係は資本の種類と総量によって規定されるが、実際に界の中でどのように闘争やゲームを行えるかは、どのようなハビトゥスを有しているかによって異なる。これが、界の内部とハビトゥスの関係である。

(引用終了)
<同書 45−46ページ>

 この<界>と<ハビトゥス>、界の「社会の中に存在する集団」という定義を上位統合すると、「世界の中に存在する社会集団」となり、日本国民(nation)を「列島に住む日本語を母語とする集団」という一つの<界>とみることができる。その場合、日本国民という界(日本界?)の<ハビトゥス>は、「界において行為者が身に付ける暗黙の知の体系で、その界において個人がほぼ自動的に行っている価値判断やモノの見方を指す」わけだから、「集団の無意識」の項でみた戦後日本の無意識と重なるように思う。

 さて、日本という界を取り仕切っている者は誰か。それは「国家理念の実現」の項でみた米軍と官僚だろう。村松氏は『建築家の解体』の中で、後期近代において、それまであった建築家の界とハビトゥスは、自由に職能を展開していくうえで足かせとなる可能性があるとし、「街場の建築家」というあたらしい建築家像を提出しておられる。日本国民という界とハビトゥスにおいても、後期近代を生き延びるには、新しい国民像が必要になってくると思う。今の界とハビトゥスをよく研究し、次の展開に備えたい。

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集団の無意識

2022年07月20日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「家族類型から見た戦後日本」の項で、『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』鹿島茂著(ベスト新書)を参照しながら、戦後日本の家族の問題を考えたが、同書の中で鹿島氏は、自分がトッドの家族類型論に行き着いたもとには、ヴァルター・ベンヤミン(1892-1940)の「集団の無意識」というコンセプトがあった、と述べておられる。今回は、戦後日本の(集団としての)無意識について、私の考えを整理しておきたい。まず同書から鹿島氏のその部分を引用しよう。

(引用開始)

 私がトッドに興味を持ったきっかけは、「集団の無意識」というものへの関心からでした。
 ドイツの哲学者ヴァルター・ベンヤミンはこの集団の無意識(ただし、ベンヤミンは集団の意識と呼ぶ)について、大体こんなことを述べています。
 個人は一人ひとりはっきりと覚醒しているが、これが集まって集団となると、個人が覚醒しているのとは裏腹に集団は深い眠りに入っていく。とくに、資本主義が発展していくと、眠りは深くなり、集団はそのなかで夢をみる。それは集団の無意識としてさまざまな形象となって現れる。たとえば、パサージュ、万博会場、鉄道駅あるいはモード、広告など。だから、「集団の無意識」を解き明かすには、こうした夢の形象について考えなければならない。
 私が初期に、万国博、デパート、広告を取り入れたジャーナリズムなどを取り上げたのはこうした問題意識からでした。やがて、ベンヤミンから出発して、たどり着いたのが人口動態学でした。人口にこそ集団の無意識が最も強くあらわれると確信し、ルイ・アンリに始まるフランスの歴史人口学者の系譜をたどって行って、トッドに行き着いたわけです。こうしてトッドの著作をすべて読み、家族類型、女性識字率、といったトッドの提示する概念こそが人類の無意識を解く最も重要なパラメターだと今は思っています。

(引用終了)
<同書34−35ページ>

 考えを整理するに当り、戦後日本の無意識をいくつかの項目に分けて検討してみる。そしてそれぞれの最後に夢の形象も選んでみた。

(1)家族類型

 戦後日本の家族制度は、占領軍によってそれまでの直系家族からアメリカ的な絶対核家族に変更された。しかし核家族の価値観は未消化・不十分で、人々のメンタルには、それまでの直系家族的価値観が残っている。儒教的価値観、組織における先輩・後輩関係の重要視、妻よりも夫の不倫への世間的寛容、老後の親の面倒をみる、先祖代々の墓を継承する、などが依然として長男(もしくは長女)の仕事とされているケースなど。しかし直系家族にあった家長の権威と権力は、制度的には消滅している。夢の形象には無能な二世議員、三世議員たちの姿が相応しいだろう。

(2)平和憲法

 戦後日本の無意識のなかに平和憲法が占める度合いは大きいと思われる。戦争は憲法第9条によって回避でき、本土は(安保条約があるから)駐留米軍によって守られる。国民は経済成長に邁進すればよく、国家統治能力(父性)は必要ではない。制度的には官僚が米軍を補佐、政治的には衆愚政治であっても経済が回れば善しとする。夢の形象は広島の原爆ドームか。

(3)言語特性

 「脳における自他認識と言語処理」の項の仮説に基づくと、日本語は母音言語であり、脳内の自他分離機能をあまり刺激しないという。そのことで日本人には個の自立よりも、グループ内の関係性に気を配る傾向が強い(気配り、忖度など)と考えられる。主格中心の英語的発想に比べて、日本語的発想は環境中心で、空間重視・所有原理の男性性よりも、時間重視・関係原理の女性性が優位。華やかさや粘り強さはあるが、全体を俯瞰し適材適所を構築する力は強くない。夢の形象はサブカルのかわいいキャラクターたち。

(4)歴史認識

 日本は万世一系の天皇を頂点とする神の国である。これは明治維新以降強化された歴史認識だが、直系家族的価値観と並び、戦後も根強く人々の無意識下に眠っている。だから災害時などに人々はよく神に祈る(苦しい時の神頼み)。神道は教義を持たないから、他の新しい宗教にも寛容だ。夢の形象は神社の鳥居だろうか。

 以上、戦後日本の無意識を4項目に整理したが、無能な政治家、原爆ドーム、ゆるキャラ、神社の鳥居、といった夢の形象を繋いでみると、戦後日本の無意識の内に、国家統治のための理念的・戦略的能力を示すような形象が見当たらない。いまだに国家運営を(日米安保と日米合同会議などによって)米軍に委ねて平気でいられるメンタルは、無能な政治家を選挙で国会に送り込み、過ちは繰り返しませぬと唱え続け、テレビの漫才やゆるキャラに熱中し、事あるごとに神社にお参りする人々の「集団の無意識」が為せる業(わざ)なのだ。国家統治能力(父性)の不在。しかしこれからの時代、今のままで果たして日本はやってゆけるのだろうか。この問題を解決しなければ、いかなる政治・憲法議論もただの空論でしかないと思うがいかがだろう。

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家族類型から見た戦後日本

2022年03月09日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『エマニュエル・トッドで読み解く世界史の深層』鹿島茂著(ベスト新書)を興味深く読んだ。トッド氏は1951年生まれのフランス家族人類学者。この本は、彼の家族類型論をベースに、仏文学者の鹿島氏が、世界の歴史やこれからの社会について語ったもの。目次は次の通り。

序章  人類史のルール
第一章 トッド氏に未来予測を可能にする家族システムという概念
第二章 国家の行く末を決める「識字率」
第三章 世界史の謎
第四章 日本史の謎
第五章 世界と日本の深層
第六章 これからの時代を生き抜く方法
あとがき

 ドット氏の家族類型については、以前「中国ビジネス II」の項で、
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エマニュエル・ドットの家族類型はまず、

@親子関係が自由で兄弟関係が不平等な「絶対核家族」
A親子関係が自由で兄弟関係が平等な「平等主義核家族」
B親子関係が権威的で兄弟関係が不平等な「権威主義家族」
C親子関係が権威的で兄弟関係が平等な「共同体家族」

の4つに分けられる。親子関係が自由か権威的かとは、子供が結婚後も親と同居するなら権威的、独立するなら自由とする。兄弟関係が平等か不平等かとは、相続にあたって親の財産が男の兄弟の間で均等に分割されるなら平等、1人を残してその他が相続から排除されるなら不平等とする。例として、

@はイングランド、オランダなど
Aはフランス北部など
Bは日本、朝鮮半島、ドイツなど
Cは中国、ロシアなど

が挙げられている。Cの「共同体家族」は、近親婚(主としていとこ婚)のタブーがどの程度許容されるかによってさらに、

●外婚制共同体家族:いとこ同士の結婚不可
●内婚制共同体家族:いとこ同士の結婚の許容
●中間形態型共同家族:兄妹・姉弟の子供同士の結婚の許容

に分けられ、近親相姦を厳しく禁ずる中国は、「外婚制共同体家族」の家族形態をとるということになる。
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と纏めたことがある。鹿島氏による家族類型の解説は、「権威主義家族」を「直系家族」と呼んでいる以外同じだが、ここでは今一度鹿島氏の本からそれぞれの特徴を引用しておく。

(引用開始)

(1) 絶対核家族〔イングランド・アメリカ型〕

 結婚した男子は親とは同居せず、かならず別居して別の核家族を構成します。そのため、親の権威は永続的ではなく、親子関係も権威主義的ではありません。結婚しなくとも、生計が成り立ち次第、子どもは独立する傾向にあります。親はあまりこれに干渉しません。親の財産は、兄弟のなかの誰か一人に相続されますが、それが誰かははっきりとは決められていません(遺言に一応依拠)。兄弟間に平等意識はなく、相続をめぐってしばしば争いが起ります。この不平等が前提となった競争意識がのちに資本主義を生むと説明されます。子どもの早期の独立が奨励されますから、教育には不熱心で、識字率も高くはありません。
 ただし女性の地位は比較的高く、したがって女性識字率も比較的高く出ます。トッドはこの理由について、兄弟間の不平等が兄妹あるいは姉弟の平等を生むとしていますが、これについては後述します。いずれにしろ、覚えておくべきは、この類型においては女性識字率は高く、よって出産調整の開始も比較的早いということです。
〔主要地域〕イングランド、オランダ、デンマーク、アメリカ合衆国、オーストラリア、ニュージーランド
〔イデオロギー〕自由主義、資本主義(市場経済)、二大政党、小さな政府、株式資本主義

(2)平等主義核家族〔フランス・スペイン型〕

 この類型においても核家族が原則です。子どもは早くから独立傾向を示し、結婚後に親と同居することはまずありません。そのため、親の権威は永続的でなく、親子関係は非権威主義的です。この点はイングランド型と同じなのですが、兄弟間、とくに遺産相続が完全に完全に平等である点が大きく違います。遺産は正確に均等に分割されます。親子関係が権威主義的ではないため、識字率は低く出て、教育への関心も低く、家庭内における女性の地位は直系家族や絶対核家族に比べると低いのが普通です。その理由は兄弟間が平等であるため、姉妹が排除されやすいからと説明されます。
〔主要地域〕フランスのパリ盆地一帯、スペイン中部、ポルトガル南西部、ポーランド、ルーマニア、イタリア南部、中南米
〔イデオロギー〕共和主義、無政府主義(サンジカリズム)、小党分立、大きな政府

(3)直系家族〔ドイツ・日本型〕

 結婚した家族の一人(多くは長男)と両親が同居するのが原則。親の権威は永続的で、親子関係は権威主義的です。兄弟間は不平等で、財産はそのなかの一人(多くは長男)のみに相続されます。次男以下と女子は相続に預かれないか、財産分与を受けて、結婚後は家を出ます。ポイントは長男の嫁で、未婚の兄弟姉妹に対して権威を持つことが要求されますから、長男とあまり年のちがわない女性が選ばれることになります。この類型においては、識字率、特に女性の識字率は高く出て、類型として教育熱心な傾向にあります。
〔主要地域〕ドイツ、オーストリア、スイス、チェコ、スウェーデン、ノルウェイ、ベルギー、フランス周辺部(ドイツ国境地域、南仏)、スペインのカタロニア地域・バスク地域、ポルトガル北部、スコットランド、アイルランド、韓国、北朝鮮、日本
〔イデオロギー〕自民族中心主義、社会民主主義、ファシズム、政権交代の少ない二大政党制、土地本位制、会社資本主義

(4)外婚制共同体家族〔ロシア・中国型〕

 男子は長男、次男以下の区別なく、結婚後も両親と同居します。そのため、かなりの大家族となります。父親の権威は強く、兄弟たちは結婚後もその権威に従います。ただし、父親の死後は、財産は完全に兄弟同士で平等に分割され、兄弟はこのときにそれぞれ独立した家を構えます。トッドは、こうした父親の強い権威と兄弟間の平等が、ロシア・中国型の共産主義、つまりマルクス・レーニン主義(スターリニズム)を生んだと考えます。この外婚制共同体家族と共産主義国家の分布の見事な一致の発見が、イデオロギーを家族類型型から説明するトッド理論が生まれたと述懐しています。
 この類型においては、長男の嫁という特権的なポジションがありませんから、嫁の初婚年齢は低く、したがって家庭内における女性の地位も低いのが普通です。又兄弟の完全平等という要素も姉妹を排除することで成り立ちますから、余計に女性の地位は低く、当然、女性の識字率は低く出て、教育への関心も低くなります。
 ただし、ロシアは直系家族であったノルマン人の植民によって生まれたという歴史的背景もあり、中国よりは女性の地位と初婚年齢、それに識字率が高く出ています。
〔主要地域〕ロシア、中国、フィンランド、フランスの中央山間部、イタリア中部、ハンガリー、セルビア、ボスニア、ブルガリア、マケドニア、ベトナム北部
〔イデオロギー〕スターリン型共産主義、一党独裁型資本主義

 この四類型が互いに影響しあいながら歴史は変容し、多様なイデオロギーや思想、文化を生み出していくというわけです。
 また、その変容の過程において、親子関係、兄弟関係のほかに、重要なパラメターとして作用するのが、「識字率」と「出生率」です。この二つについても、トッドの定義を簡単に述べておきましょう。

●識字率
 母語で読み書き能力を持つ一五歳以上の人が、ある母集団中で何%を占めるかを示す数値。トッドは、男性の識字率が五〇%を超えると社会変革への気運が生まれ、続いて女性の識字率が五〇%を超えると出生率が下がり、社会が安定することに気付きました。女性の識字率が五〇%を超えた時点を、トッドは「テイク・オフ」と呼び、その地域/社会は近代化の段階に入ったと推定します。(中略)

●出生率(合計特殊出生率)
 一人の女性が一生のうちで産む子供の平均人数。トッドは、女性の識字率が五〇%を超えると出産調整が始まり、出生率が下がることに注目しました。つまり、人口学で最大の問題となっている出生力転換、多産多死社会から少子少死社会への転換の原因は経済ではなく、女性の識字率にあると考えたのです。ここから、テイク・オフのパラメターとしての女性の識字率と出生率(合計特殊出生率)の相関関係が俄然、クローズアップされるようになりました。なぜなら、家族類型によって女性の識字率はかなり異なるので、女性の識字率がもともと高い家族類型、たとえば直系家族などではそれが出生率の低下を招くので、テイク・オフが早くなるが、共同体家族においては外婚制にしろ内婚制にしろ、総じて女性識字率が低いので、出生率は高止まりで、したがってテイク・オフが遅れるということが言えるからです。(後略)

(引用終了)
<同書 26−33ページより>

以上だが、家族類型にはこのほかに、「起源的核家族」と呼ばれるものがある。それは上の四つの類型以前の家族形態で、

(引用開始)

 この起源的核家族が、父方居住、母方居住、双方居住、統合的核家族、一時的同居を伴う核家族などのバージョンを経た後、農耕や定住などさまざまな要因の影響で、「絶対核家族」「平等主義核家族」「直系家族」「共同体家族」の四つの形態に分化していくのではないかということです。

(引用終了)
<同書 74ページ>

例えば日本の平安時代の妻問婚は、起源的核家族の母方居住とされる。

 その他鹿島氏は、日本の直系家族型は、中国や韓国のような男系原則ではなく双系である(跡継ぎは女性でも構わない)こと、直系家族においては、しばしば権威と権力との分離が起る(跡継ぎが権威は持つけれど実際の権力は他の者が持つ)こと、などを指摘している。

 前回「帰属集団について」の項で、“ここでいう帰属集団とは、家族の上位にある社会構成員の拠り所といった意味で、江戸時代は「村落共同体」、明治以降は「家」、戦後(バブル崩壊まで)は「企業」、という変遷を経て今に至った。(中略)今の多くの日本人は、拠り所としての帰属先が無いまま、(市町村や都道府県といった中間機構を経由しつつ)政府の行政に直面する羽目に陥っているから、結婚だけでなく子育てや仕事、社交などにおいてとてもストレスが大きいのではないだろうか”と書き、“家族の帰属先としての「新しい拠り所」をどう制度設計してゆけば良いのか、さらに考えたい”と結んだが、今回はこの鹿島氏の本によって、戦後日本の家族そのものの変遷を辿ってみたい。

(引用開始)

■きわめて「アメリカ的な」日本国憲法
 昭和二〇年(一九四五)八月一五日の玉音放送で戦争は終わり、連合国軍最高司令長官マッカーサーによる日本占領が行われます。これはソ連による満州占領などと比べると実に平和的、民主的、紳士的な占領であり、満州からの引揚者に言わせると、こんなものは占領とは呼べないということですが、しかし、マッカーサーはこれまでどんな占領軍もやらなかったことをやったのです。
 それは、戦争中から行われていた日本研究の成果を応用して、軍国日本の諸悪の根源は直系家族にありとみなして、直系家族を核家族に無理やり変更するような諸政策を実行に移したのです。
 その最たるものが『日本国憲法』の前文であり、ここに謳われているのは直系家族原理を否定し、それに代える核家族の原理をもってすることです。つまり、きわめてアメリカ的な核家族原理に基づく憲法が日本国憲法なのです。マッカーサーはさらに一歩進んで、直系家族原理の中核である家督相続を廃止させ、民法からも直系家族要素を一掃させました。通説では、占領軍は憲法、刑事訴訟法に比べると民法改正には関与しなかったといわれますが、しかし、皮肉なことに民法改正においても、父親であるマッカーサーの「意志」を忖度しようという学者が多数出て、民法は完全にアメリカ的な絶対家族的なものに変更されました。

■教育勅語を廃止し、自由主義教育へ
また、教育という直系家族的な理念が幅を聞かせていた分野でも、教育勅語を廃止し、教育基本法を始めとする教育三法により、絶対核家族的な自由な自由教育主義にこれを変更させました。
 ひとことでいえば、マッカーサーは憲法と民法と教育から直系家族理念を一掃することで、日本の家族システムを変更するという、これまでどんな占領軍もやったことのない冒険に乗り出したのです。

 しかし、朝鮮戦争を巡ってトルーマンと対立したマッカーサーがGHQ総司令官を解任され、昭和二十七年に占領が終ると、日本のあらゆる中間団体で直系家族理念が復活しはじめます。政治の分野では、それでも大っぴらに直系家族理念に回帰することはできませんでしたが、規制のまったくない企業と官僚組織と労働組合では直系家族理念が蘇り、日本の企業と官僚組織のほとんどは直系家族に逆戻りしました。もっとも、戦後の復興には、こうした直系家族的組織運営はジャスト・フィットしたらしく、戦前の陸軍に代わって企業と官僚組織と労働組合が日本株式会社として発展をリードしていったのです。

(引用終了)
<同書 179−181ページ>

この「日本株式会社」がバブル崩壊で衰退したことは、前回「帰属集団について」の項で見た通り。

 以上を踏まえ、「帰属集団について」の指摘を家族類型でみると、“江戸時代の直系家族(農民)の上にあった拠り所は「村落共同体」、同じく直系家族の武士の拠り所は「家(イエ)」、明治時代の直系家族の拠り所も「家」、そして核家族化が進んだ戦後(バブル崩壊まで)は「企業」だった。しかし企業の力が衰退したバブル崩壊以降、多くの核家族は、拠り所としての帰属先が無いまま、(市町村や都道府県といった中間機構を経由しつつ)政府の行政に直面する羽目に陥っているから、結婚だけでなく子育てや仕事、社交などにおいてとてもストレスが大きいのではないだろうか”と言い換えることが出来る。アメリカでは、家族の拠り所として教会や地域コミュニティが存在するが、戦後日本の核家族は急ごしらえで周りの環境が整えられていないのだ。私たち誰もが否応なく所属する今の中間団体(国家と個人の間に位置する政府、政党、軍隊、会社、学校、宗教団体、町内会、部活動など)は、必ずしも家族の拠り所にはならない。

 戦後日本の家族は、占領軍によってそれまでの直系家族からアメリカ的な絶対核家族に変更された。しかし人々のメンタルには、それまでの直系家族的価値観が残っている。私は法律家ではないから不正確かもしれないが、たとえば、家族の遺産相続は(遺言がない限り)男女双系の平等核家族的に為されるが、老後の親の面倒をみる、先祖代々の墓を継承する、親族の法事に出る、などは依然として長男(もしくは長女)の仕事とされているケースが多い。金銭的には兄弟姉妹平等なのに、メンタル的には直系家族意識が残っているのだ。この不平等感がしばしば家族争議の種ともなる。この家族類型という視点を入れつつ、家族の帰属先としての「新しい拠り所」をどう制度設計してゆけば良いのか、さらに考えたい。

 このブログで追及してきた戦後日本の国家統治能力(父性)の不在(「父性の系譜」)も、その原因の一つにこの家族システムの変更を挙げることが出来るだろう。直系家族にあった家長(長男)の権威と権力が制度的に消滅したこと、核家族における父性体現が未消化・不十分、国家統治に間接的に影響を及ぼす教会や地域コミュニティの役割(家族の拠り所)が設計されていないこと、などが考えられる。

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帰属集団について

2021年12月31日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『仲人の近代』阪井裕一郎著(青弓社)という本を面白く読んだ。副題は「見合い結婚の歴史社会学」。本の帯には“「結婚」や「家」と密接に関わりがあった仲人は、どのように広まり定着して、なぜ衰退に至ったのか。明治期から戦前、そして戦後に至る仲人の役割や見合い結婚のありようをたどり、仲人の近・現代史から近代日本の家族や結婚をめぐる価値観の変容を照射する”とある。日本の近代化を語るのに、「仲人」という仕組みに目を付けたところが秀悦。まず紹介を兼ねて新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

 結婚式から仲人が姿を消して久しい。いまや仲人という言葉を知らない若者も少なくない。仲人という制度の盛衰は近代史の重要な側面であるにもかかわらず、これまであまり注目されてこなかった。結婚の媒介として仲人の制度はいつ成立し、時が流れるなかで、いかに変容したのか。本書は意外な角度から近代史の風景を眺める扉を開けてくれた。
 仲人は古代から続いてきた日本の伝統文化だと思われがちだが、江戸時代には仲人を立てる結婚形式が武士階級に限られており、明治時代以前の村落社会では仲人だけでなく、「見合い」という習慣も行き渡っていなかった。
 日本は鎌倉時代から続いた「夜這い」の風習があり、結婚の仲介には「若者仲間」や「若者連」と呼ばれる青年男子の集団が大きくかかわっていた。配偶者の自由な選択という点において、近代以前の日本はむしろ世界の最先端に立っていた。
 近代の「文明化」の過程において、一つの逆転が起きた。地方や農漁村の婚姻習慣は野蛮な風俗とみなされ、風紀紊乱を取り締まるために、媒酌家婚という儒教的な道徳が規範化された。明治維新の立役者で、後に政府の中枢に入った旧藩士の価値観も影響しているだろうが、それ以上に、明治国家は家制度を統治の根幹においたからだ。家族主義という伝統の創出において、仲人の媒介による結婚は伝統的な婚姻様式として正当化された。近代以降、結婚が自由になったのではない。反対に、近代化に伴い、男女交際や配偶者選択の自由が奪われ、婚姻様式が画一化した。手際よい交通整理によって、近代史の真実が言説の迷路を抜け出し、みごとによみがえってきた。
 大正時代になると、恋愛を尊重する言説が登場する一方、恋愛は「正しい恋愛」と「正しくない恋愛」に区別され、家族主義の論理だけでなく、優生思想の観点から媒酌結婚が推奨されるようになった。
 人間の行動様式は内省的な知性によって規定されるだけでなく、行動の様式化は信念の形成を方向付けることもある。そのあたり見極めは難しいが、著者は言説のみならず、緻密な資料調査を通して、結婚媒介の実態にも迫った。
 結婚媒介業は明治期にさかのぼるが、のちにその公共的な側面が注目された。一九三〇年、初の公営結婚相談所が誕生し、やがて「社会事業」や「厚生事業」の根幹に位置付けられた。戦時下には「産めよ殖やせよ」政策に合わせて、結婚報国懇話会や戦時版の婚活システム「結婚斡旋網」といった官制のネットワークまでが作られるようになった。
 戦後日本の企業文化と仲人という制度の関係についての論証も鮮やかだ。経営家族主義のもとで従業員は企業に対する帰属意識が強化され、高度経済成長期の仲人ブームを支えた。バブル崩壊後、企業に対する帰属意識が希薄化するにつれ、仲人という慣習は形骸化し、やがて日本的経営との訣別とともに、旧早期に姿を消した。
 近代史を振り返ると、社会構成員の帰属先は「村落共同体」から「家」へ、「家」から「企業」へと変わってきた。帰属集団の構造的変化こそ、仲人の誕生から消滅への道のりを規定したとする著者の仮説は十分、説得力のあるものだ。
評:張競(明治大学教授・比較文化)

(引用終了)
<毎日新聞 11/27/2021(フリガナ省略)>

ここでいう帰属集団とは、家族の上位にある社会構成員の拠り所といった意味で、江戸時代は「村落共同体」、明治以降は「家」、戦後(バブル崩壊まで)は「企業」、という変遷を経て今に至った。仲人システムは、明治から戦後・高度成長まで続いたが今は衰退。このことは、我々の帰属先がいま見えなくなっていることと符合すると思われる(今でもそれら帰属先は一部に残っているが一般的な話として)。

 社会構成員の拠り所としての、社会的に認知された帰属集団、共同体。その存在意義について、『日本のリアル』養老孟司著(PHP新書、2012年)という対談本から、養老氏の次の言葉を引用しておこう。対談の相手は食卓の変化を通じて家族の変容を調査している岩村暢子氏。

(引用開始)

岩村:十数年調査してきて、やはり家族それぞれがますます「自分」を大切にし、個を優先するようになっていると感じています。食卓にもそれははっきり表れていて、家族が家にいても同時に食卓に着かず、たとえ一緒に食卓を囲んでも違う物を食べる「バラバラ食」、さらには一日三食も崩れて、みんな自分のペースで好きな時間に勝手に食べる「勝手食い」も増えています。「バラバラ食」や「勝手食い」の家では、親は子供が何を食べたのかも知らなかったり、無関心になっている。
養老:そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考え方でやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのか分からない人は多いはずなんです。(中略)先日、ヨーロッパに行って、ようやくわかったのですが、ユダヤ人は、いったんユダヤ人になったらずっとユダヤ人なんです。永久にユダヤ人であるとは、死んでも共同体のメンバーであり続けるという意味です。人間にはそういう共同体が必要なのだと思います。中国人社会にも華僑会のような相互扶助組織があるでしょう。一種、マフィア的でもありますが、構成員に対しては、保険会社や銀行がしてくれないようなこともしてくれる。

(引用終了)
<同書 18−28ページより>

皆さんの中には「そんな帰属集団、無いほうが清々していい」と思う人もあるだろう。それは「個」として生きる力のある人で、未成年を含め一般的には、家族の上位に何らかの拠り所があったほうが生きやすいと思う。社会的に認知された拠り所がないと、自殺を誘発したり、如何わしい新興宗教や闇組織などがその代わりを果たす可能性がある。

 今の多くの日本人は、拠り所としての帰属先が無いまま、(市町村や都道府県といった中間機構を経由しつつ)政府の行政に直面する羽目に陥っているから、結婚だけでなく子育てや仕事、社交などにおいてとてもストレスが大きいのではないだろうか。著者の阪井氏は、終章“「ポスト仲人社会」を考える”の最後に、

(引用開始)

 われわれは、仲人とともに日本社会が何を失ったのかを問うていく必要がある。この問いは、裏を返せば、近代日本が「仲人」に何を託し、依存してきたのかを考えることでもある。近・現代の日本は「仲人」という存在に多くの役割を背負わせたがゆえに、本来ならば発達すべきだった重要な社会関係が未発達のまま放置されてきたともいえる。あるいは、仲人という「伝統」に頼る発想しかもっていなかったゆえに、パートナー関係や家族関係をめぐって未解決のままにされてきた問題があるのかもしれない。
 現代社会で、家族や結婚を巡る諸問題、そして家族を超えた社交関係や相互扶助の理念を問い直すうえでも、あらためて「仲人の近代」を問うことには意義があるはずだ。仲人というシステムが、社会のどのような機能を担保し、同時に社会から何を簒奪してきたのか、そして、それが消滅したことで社会から何が失われたのかを考えることは、現代日本の「デモクラシー」のあり方を探る際に必要になる作業の一つだと考えている。

(引用終了)
<同書 201−202ページ>

と書いておられる。

 以前、新しい時代の家族のあり方について「新しい家族の枠組み」(2012年)の項で、前出した養老氏の一案について「賢人ネットワーク」(2016年)の項でそれぞれ見たが、家族の帰属先としての「新しい拠り所」をどう制度設計してゆけば良いのか、さらに考えたい。

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モノとコトの間 

2021年12月08日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日、ツイッターで「モノとコトの間」というタイトルの連続投稿をしたが、こちらでも同じ論点を整理・敷衍しておきたい。モノとコトの違いを突き詰めて考えることで、今の時代に起こっている「モノからコトへのパラダイム・シフト(モノコト・シフト)」の特性の一端を明らかにしたいからだ。

 複眼主義では、世界は無数の固有時空の複合体であると考える。世界を線、平面、立体、時間といった次元分割では考えない。これを踏まえて複眼主義におけるモノとコトとの定義は、

話者からみて、
動きが見えない時空=モノ
動きが見える時空=コト

となる。

 この定義にある「話者からみて」とはどういうことかまず説明しよう。ある対象を考えるとき、話者の着眼点によって、それをモノと見るかコトとして見るかが違ってくる。たとえば「地層」をどう見るか。同じ地層でも、それを岩の塊としてみればモノ、地球の活動の跡としてみればコト、となる。

 ここで現れる違いはなにかというと、地層をモノとして見る人は、自分の生命時空(寿命と身体)の尺度で地層を捉えるのに対して、コトとして見る人は、地球生命時空の尺度で地層を捉えているということである。普通の人は前者、地質学に関心のある人は後者の見かたをするだろう。

 人の生命時空と地球生命時空とはあまりにも速さ大きさが違いすぎるから、人は普通地層の動きを直接見ることがない。だからそれをモノと見る。しかし、地球の活動に興味をいだいていれば、地層を見てその動きを感じることが出来る。だからそれをコトとして見るわけだ。

 この違いはまた、対象を自分都合で考えるか、相手都合で考えるかの違いともいえよう。自分都合で考えるとは、対象を自分の時空に引き寄せて、その基準で対象を値踏みするということ。地層は、自分の生命時空(寿命)とはおよそ関わらないから、普通の人にとってそれは単なる「岩の塊=モノ」でしかない。ときに美しい「モノ」かもしれないが。相手都合で考えるとは、対象を相手の時空(この場合は地球生命時空)に合わせて、その尺度で自分との関係を考えるということ。その場合地層は、自分に「地球生命時空の活動=コト」を知らせてくれる貴重な相方となる。

 複眼主義ではモノとコトの特徴を、

「モノ」:空間重視・所有原理
「コト」:時間重視・関係原理

とも分析してきた(そして生き方としては、どちらか一方の見かたに偏らないバランス感覚を大切に考える)。

 これまでこのブログでは、モノコト・シフトについて、次のように書いてきた。

------------------------------------------
モノコト・シフトとは、「モノからコトへ≠フパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。
------------------------------------------

今回の話を踏まえると、モノコト・シフトの時代とは、同じ対象でもそれを常に自分都合で考えるのではなく、できるだけ相手都合で考えようとする思いやりの時代、ともいえるだろう。

 同じ対象をモノと見るかコトとして見るか、例を続けよう。たとえば人。人を人口(労働人口など)として考えればモノ、生物(命)として考えればコトとなる。社会学的には前者、文学的には後者だろう。

 たとえば種(タネ)。タネを売買対象と考えればモノ、植物(命)と考えればコト。商売人はタネを「モノ」として考えるのに対して、心ある農家はタネを「コト」として考えている筈だ。これに関して先日、『農業消滅』鈴木宣弘著(平凡社新書)という本を読んだ。ここに出てくるグローバル企業や政治家は、タネをひたすら「モノ」として考えているに違いない。副題は「農政の失敗がまねく国家存亡の危機」。本カバー表紙裏の紹介文を引用しておこう。

(引用開始)

徹底した規制緩和で、食料関連の市場規模はこの30年で1.5倍に膨らむ一方、食料自給率は38%まで低下。農業の総収入は13.5兆円から10.5兆円へと減少し、低賃金に、農業従事者の高齢化と慢性的な担い手不足もあいまって、“農業消滅”が現実のものとなろうとしている。
人口増加による食糧需要の増大や気候変動による生産量の減少で、世界的に食料の価格が高騰し、輸出制限が懸念されるなか、日本は食の安全保障を確立することができるのか。
農政の実態を明らかにし、私たちの未来を守るための展望を論じる。

(引用終了)

著者のようにタネを「コト」として考える人がもっと増えればよいのだが。

 同じ対象をモノと見るかコトとして見るか。たとえばウイルス。それを感染人口で捉えればモノ、細胞とのやりとりを観察すればコト。前者はワクチン、行動制限、治療薬で対応できるとするが、異変種への対応を常時に求められる。後者はそのルーツを分析し、暮らし方を変えるなどしてウイルスとの共生の道を探る筈。いかがだろう。この辺りの話は、

コロナウイルスとモノコト・シフト」(2020年3月10日)
周辺国で完結する市場」(2020年6月22日)
応仁の乱後の日本」(2020年8月1日)

の各項も参照いただきたい。

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後期近代

2021年10月19日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『建築家として生きる』松村淳著(晃洋書房)という本を読んでいたら、「後期近代」という言葉があった。同書は、これからの建築家のあり方を社会学的観点から論じたもの。「後期近代」という言葉は、建築家と社会との関りを考える上での時代設定として使われている。建築家については別の機会に書くとして、今回はこの時代認識について考えたい。まず言葉の内容について同書から引用しよう。

(引用開始)

 それでは後期近代とはどのような時代なのだろうか。A・ギデンズは「二〇世紀末の今日、多くの人びとが論じるように、われわれは新たな時代の幕開けに立ち会っている」と述べ、その時代の転換を指称するための多様な名称の登場に言及しながら、その多くが「ポスト・モダニティ」「ポスト工業社会」などといった既存の社会のあり方との間の断絶を意識させる概念であると指摘する。それはJ-F・リオタールの「大きな物語の終焉論」に極まるが、ギデンズはリオタールに代表されるような、全てを包摂するような大きな物語の消散を主張する議論を否定的に論じながら、自らの立場については以下のように述べている。

 “社会組織について体系的認識を得ることができないという感情のなかに表出する方向感覚の喪失は、自分たちには完全に理解できない、大部分統制が不可能に思える事象世界のなかに自分たちが巻き込まれているという、われわれの多くがいだく意識に主に起因している、と私は主張したい。なぜそうなったのかを分析するためには、ただポスト・モダニティ等々の新語を創作するだけでは不十分である。むしろ、ある明らかな理由から従来の社会科学では十分に解明がなされてこなかったモダニティそのものの本質について、もう一度考察し直す必要がある。われわれは、ポスト・モダニティという時代に突入しているのではなく、モダニティのもたらした帰結がこれまで以上に徹底化し、普遍化していく時代に移行しようとしている。(Giddens 1990-1193: 15)”

 ギデンズはこのように述べ、現代をポスト・モダンではなく再帰的近代や後期近代と呼び、それまでの時代が完全に終わって、全く新しい時代に突入するという見立てを退け、むしろ近代化が徹底していく時代であると説くのである。

(引用終了)
<同書 18−19ページ>

この時代認識に私も賛同したい。

 西洋で発祥した「近代」の特徴は、

〇 個の自立
〇 機会平等
〇 因習打破
〇 合理主義
〇 地理的拡大
〇 資本主義
〇 民主政治

といったことだが、これが徹底化した「後期近代」の特徴は、

〇 貧富の差の拡大
〇 男女・LGBT差別
〇 自然環境破壊
〇 デジタル・AI活用、高齢化
〇 グローバリズム
〇 金融資本主義
〇 衆愚政治

となるだろうか(項目の順番同士、ゆるい因果関係・進展関係で結ばれるように配置した)。この間、良いことも沢山あったが、徹底化して煮詰まった結果はあまり美しい状態とはいえない。

 個の自立、機会平等、因習打破によって起こされた産業は新たな富を生みだしたが、欲望を肯定し男性優位の競争社会を是とした資本主義は、結果的に富者と貧者とを分けた。キリスト教精神を伴った地理的拡大は、自然を征服の対象としか捉えず、現地国を植民地化・属国化してさらに産業を伸ばした。合理主義による科学の発展は人の寿命を延ばし、富者は家や車、ファッションなどの物質(モノ)によって貧者との差別化を図るようになった。権力を握った富者は、金融と情報の操作を通じて貧者を支配する術を得た。

 このブログでは、今の時代に見える傾向を「モノコト・シフト」と呼んでいる。モノコト・シフトとは、20世紀の「大量モノ生産・輸送・消費システム」と人のgreed(過剰な財欲と名声欲)が生んだ、「行き過ぎた資本主義」(環境破壊、富の偏在化など)に対する反省として、また、科学の「還元主義的思考」によって生まれた“モノ信仰”の行き詰まりに対する新しい枠組みとして、(動きの見えない“モノ”よりも)動きのある“コト”を大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。今回の文脈で考えれば、それは「後期近代」に対する反省・関心の転換ともいえる。モノコト・シフトの一例は「タネを育てる」の項で見た。

 「後期近代」の先に見える未来の姿は、negativeに考えると、

● 高度監視社会
● 政治の不安定化(監視社会への人々の反撥)
● 災害の頻発(恐慌やパンデミックを含む)

といったものになるだろうが、モノコト・シフトが行き渡り、かつ複眼主義でいうAとBのバランスが取れれば、

● local communityの充実
● 継続民主政治による社会の安定
● 自然環境の保全

といったことが実現する可能性もある。複眼主義のAとBとは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

などの内容を指し、複眼主義では両者のバランスを大切に考える。ただし、
・各々の特徴は「どちらかと云うと」という冗長性あり。
・感性の強い影響下にある思考は「身体の働き」に含む。
・男女とも男性性と女性性の両方をある比率で併せ持つ。
・列島におけるA側は中世まで漢文的発想が担っていた。
・今でも日本語の語彙のうち漢語はA側の発想を支える。

 暗い未来(前者)と明るい未来(後者)は、モノコト・シフト進行の地域差・時間差、その国(国語)のABバランス、近代化の進み具合や社会構造などに応じて、当面地球上の各地域にモザイク状に分布するものと思われる。最終的にどちらが優位に立つのかはまだわからない。

 「後期近代」の特徴を精査し、モノコト・シフト、複眼主義といったコンセプトを使って、さらに未来の展望を考えたい。

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社会と国民

2020年11月06日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここのところ「自粛警察」「“群れ”と“集団”」「同調圧力」などの項で、社会と世間との違い、日本には世間はあるが社会がない、といったことを見てきた。今回は一歩進めて、社会と国民について考えてみたい。社会がない日本の国民とは何なのだろうか。それぞれの言葉の簡単な定義は、上記及び「nationとstate」「国家の理念(Mission)」などの項から、

「社会」:バラバラの個人の集合体で法のルールによって動く。
「世間」:法のルールではなく同調圧力によって動く。

「国民(nation)」:文化や言語、宗教や歴史を共有する人々の集団。
「国家(state)」:国民の居場所と機構。

としよう。

 『「社会」のない国、日本』菊谷和宏著(講談社選書メチエ)という本がある。副題は「ドレフュス事件・大逆事件と荷風の悲嘆」、書名の「社会」にはコンヴィヴィアリテ(共に生きることという意味のフランス語)というルビが振られている。本カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

国家による冤罪事件として知られるフランスのドレフュス事件と日本の大逆事件。スパイの嫌疑を受けたドレフュスは最終的に無罪になったが、日本では幸徳秋水ら一二名が処刑された。両国の違いはどこにあるのか?答えは、日本には「国家」はあるが「社会」はないことにある。今日も何ら変わっていないこの事実に抗い、「共に生きること(コンヴィヴィアリテ)」を実現するには?日本の未来に向けられた希望の書!

(引用終了)

とある。

 著者の菊谷氏は、国家とは制度、システムであるとした上で、次のように書く。

(引用開始)

 制度とは、別言すればルールだ。それは現実(内容)そのものではなく、むしろ現実に押し当てられ現実を規制しようとする「形式」だ。(中略)
 だから、国家においては、各人は匿名的なのだ。人はそこでは「国民」という形式的な資格としてのみ現れる。そこでは各人はいわばそれぞれの機能を果たす部品であり、交換可能な存在だ。そこでは人格やその唯一性(ユニークネス)は考慮されない。ドレフュスがそうであったように。
 これと異なって、家族や地域に代表される共同体は、先に述べた通り情的なものだ。それは構成員の「情」に支えられている。(中略)
 共同体とは、端的に言って、人間の「生の条件」だ。それは、それが生に与えられたものである限りにおいて環境であって、いわば自然条件だ。(中略)それは意思によって選択されたものでも知性によって構築されたものでもなく、自然によって与えられたものであるのだから否定できないのだ。本書でも、永井荷風とその家族との、とりわけ父との関係の中にみることができた。
 これらに対して社会とは、意思的なものなのだ。繰り返すが、社会は各人が他者を人間であると「意思する」ことに基づいている。そのような各人の行為、各人の賭けを土台としているものだ。それは他者の人間性=創造性=自発性=自由の承認である。つまりそれは、人々が自由意志をもって日々生きているという社会生活の現実の有り様そのものであり、いわば「生の内容」なのだ。既に拙稿で詳述し、本書の第1章第四節でも触れた通り、神的超越性を前提としない場合、つまり人間が人間であり社会が社会であることの根拠に照らし合わせて論理的に考え続けた場合、人間の人間性は「そこに賭けるという意思」にならざるをえないのだから。(中略)
 人間性の発祥地(partie)フランスの歴史の中で、社会はhumanite(人間性、人類)の全体として表象され、そのようなものとして生み出された。それは人が共に生きる現実それ自体であった。

(引用終了)
<同書 217−228ページ>

社会とは、「人間の意思」によって作られるものであり、自然によって与えられる家族や地域といった共同体とは違う、という菊谷氏の主張はこのブログの考察と整合的だ。

 社会は人の意思によって生み出され、共同体=世間は人の情によって保たれる。複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいえば、

A 社会(意思によって作られる)
B 世間(自然によって与えられる)

ということになろう。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。人は常に自分の立場を、社会と世間とのバランスの上で考えなければならない。

 「社会」とは、フランスなどの西洋近代が生み出した概念であり、人間の「共に生きる意思」によって作られるもの。それは、自然に与えられる家族や地域といった共同体=世間とは異なる。そうだとすると、近代国家という制度側面においては、国民はまず社会人であることが求めらる。日本国という国家に日本国民がいる。しかし列島という自然条件と国家という制度が1対1対応し、言語特性によってB側に傾斜した人が多い日本では、世間の集合体がそのまま国民となってしまっているところに問題があるのだろう。

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新しい統治思想の枠組み II

2019年10月05日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「新しい統治思想の枠組み」の項で、21世紀における新しい統治の枠組みを、

<新しい統治思想>
「対象」:日本国
「至高」:自然
「教義」:非線形科学の知見を取り入れたもの(新規起草)
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。代議制民主政体。因果律。

とし、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
A、a系:デジタル回路思考
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間原理」「関係原理」
B、b系:アナログ回路思考
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

におけるB側の活用を提起したわけだが、それは「幕末史の表と裏」などで述べた、近世のあらまほしき統治思想の骨格、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治とは切り離して自由化

*「預治思想」=「天命を預かり治める」
*「天道思想」=「自然を敬う考え方」

〇 列島の統治思想では天命=天道とする
〇 天道=自然現象=民意
〇 民意を上手く掬い上げるために代議制を導入する
〇 代議制のベースは家(イエ)とする

の継承を意識したものでもあった。「幕末史の表と裏」ではまた、4つのA側の国家統治能力(父性)、

(1) 騎馬文化(中世武士思想のルーツ)
(2) 乗船文化(武士思想の一側面)
(3) 漢字文化(律令体制の確立)
(4) 西洋文化(キリスト教と合理思想)

と、「反転法」という国家統治には向かないが文化・芸術面で効力を発揮するA側の力を、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)
〇 文化政策(宗教・芸術)

に上手く割り振ることの重要性にも言及した。

 今回は、「教義」=“非線形科学の知見を取り入れたもの”について考えを敷衍したい。「教義」とは、その思想の本質を書き記した文章で、非線形科学とは、永続的でなかなか収束しない非線形現象・複雑系の追求だから、非線形科学の知見を教義に取り入れるとは、統治思想の本質をなにか一つの“不変なもの”に置かないということと同義である。

 鴨長明『方丈記』に「行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」という言葉があるが、時と共に流れる「河」を「統治思想の本質」と解釈すれば、河の「水」は不変ではないということで、なにか一つの不変なものに固執しない当教義の惹句(キャッチ)として相応しいのではないか。

 また非線形科学には未知なことが多い。だからその知見を取り入れる教義は、断定するのではなく現在進行形のメンタルで起草されなければならないし、実務的な決めごとには、常に“想定外”を見越しておかなければならない。駆動させるシステムには、冗長性(redundancy)の装備がマスト。「日本列島の来歴」の項で述べたように、我々は自然災害の多い列島に暮らしている。この教義の惹句として相応しいもうひとつは、寺田寅彦の「天災は忘れられたる頃来る」という言葉であろう。

 非線形科学の研究成果は昨今、ネットワークや人工知能、医療や気象予報など様々な分野で実用化が進んでいる。たとえば『渋滞学』西成活裕著(新潮選書2006年初版)には、高速道路の渋滞緩和に、複雑系科学の知見が生かされているとある。本カバー裏表紙の紹介文を引用しておこう。

(引用開始)

事故もないのに自然渋滞って、なぜ起きるんだろう?

人混み、車、アリ、インターネット……世の中、渋滞だらけである。生まれたばかりの研究「渋滞学」による分野横断的な発想から、その原因と問題解決の糸口が見えてきた。高速道路の設計のコツから混雑した場所での通路の作り方、動く歩道の新利用法まで。一方で、駅張り広告やお金、森林火災など、停滞が望ましいケースでのヒントにも論及。渋滞は、面白い!

(引用終了)

ニュートン粒子と自己駆動粒子、ASEPモデル、統計力学、セルオートマトン法、インターネットの渋滞、粉粒体、ブラジルナッツ現象、パーコレーション、トポロジー、スモールワールド、スケールフリー、ハブ(Hub)、ゲーム理論、パイこね変換などなど、非線形科学の知見とその工学的成果がこの本には各種報告されている。

 教義に非線形科学の知見を取り入れることによって、選挙や立法、司法、行政といった国の統治システムの刷新が加速する筈だ。選挙の投票率が低いのは国民の意見が統治に反映されにくいということだから、代議制民主政体からすれば一種の情報の渋滞とみる事ができる。それを正すには、渋滞学の知見を選挙制度に生かせばよい。いまの統治システムは社会をモノの集積体として捉えるから、選挙は投票用紙の過半数を取るか取らないかだけしかない。教義という思想の本質に非線形科学の知見を取り入れれば、そういった改善が統治システムの随所で起き始めると思う。

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新しい統治思想の枠組み

2019年09月13日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 二か月程前に「新しい統治正当性」を書いて以来、『百花深処』の方で、

天道思想について II
渋沢栄一と天道思想
武士の再興 II
渋沢栄一と福沢諭吉
渋沢・福沢の統治思想(仮想)

と、日本近代におけるあらまほしき統治理論の枠組みを探ってきた。最新の<渋沢・福沢の統治思想(仮想)>の項では、

<渋沢・福沢の統治思想(仮想)>
「対象」:日本国
「至高」:自然
「教義」:論語+西洋合理思想
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。代議制民主政体。因果律。

と記し、

(引用開始)

 さて、これで日本は20世紀を乗り越え、実り多い21世紀を迎えられただろうかというと、そうはならなかったと思う。「教義」が論語+西洋合理思想だけでは、日本の統治は、官僚たちに牛耳られていたに違いない。儒教の聖人政治はそのままでは漢字文化=律令体制の確立に傾斜するし、『夜間飛行』「“モノ”余りの時代」で述べたように、西洋合理思想においては、自然権派はその後過激な人権派に敗れ、やがて人権派は官僚たちに敗れるからだ。実り多い未来に向けて、そうならないような「教義」の深化が必要である。

(引用終了)

というところまで考えを進めた。

 一方このブログでは、「フィードバック効果」の項で、フィードバック効果が働く「非線形現象」とそうでない「線形現象」とを比較し、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
A、a系:デジタル回路思考
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
B 女性性=「時間原理」「関係原理」
B、b系:アナログ回路思考
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

において、これからの列島統治はB系の思考を活用すべき、というロジックを提出した。国家統治は体系的なA系思考がメインだとしても、これからはモノコト・シフト(モノからコトへのパラダイム・シフト)の時代でもあり、B系思考の活用が重要になる筈だからだ。

 これら二つ(官僚主義に陥らないための「教義」の深化と、B系思考の活用)から、日本における新しい統治思想として、

<新しい統治思想>
「対象」:日本国
「至高」:自然
「教義」:非線形科学の知見を取り入れたもの(新規起草)
「信仰」:教義を守る
「特徴」:政治による集団救済。代議制民主政体。因果律。

という枠組みが導き出される。明治の先達・渋沢と福沢の肩の上に乗って、そこから21世紀の「教義」を展望した形。

 「至高」が“自然”であってみれば、その「教義」は、論語+西洋合理思想から一歩進んで、「生きた自然に格別の関心を寄せる数理的な科学」である「非線形科学」の知見を取り入れたものがやはり相応しい。20世紀後半に西洋の合理主義的科学から派生してきた、「カオス」、「フラクタル」、「ネットワーク理論」、「パターン形成」、「リズムと同期」など、自然をダイナミックに捉える「非線形科学」。この自然学はまだまだ新たな発見を伴うだろうから、新しいことを嫌う官僚主義には太刀打ちできない。いかがだろう、今後さらに考えを詰めてみたい。

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新しい統治正当性

2019年07月15日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「神道について」、「戦国史の表と裏」、「幕末史の表と裏」でみてきたように、秀吉から明治維新に至る列島の統治正当性は「神国日本」にあった。日本は天皇を祖とする神国であるという統治の正当化。

 西洋のキリスト教、ユダヤ教、中東のイスラム教、中国の儒教といった宗教は、それぞれ行動規範としての「教義」を持つ。それが国家統治における法の基となる。しかし神道は、独自の教義を持たない。それ故に、信徒の行動に歯止めがかからず、国家統治の思想としては危険極まりない。戦前の日本はそのために無謀な戦争に突入した。

 政治学者の白井聡氏は、『国体論 菊と星条旗』(集英社新書)において、戦後のアメリカによる列島統治正当化は、明治維新の枠組みの流用だったと論じている。この本は2018年4月に出版された。同年6月の新聞書評を引用しよう。

(引用開始)

対米従属なぜ 大胆な全体像

 日本はなぜかくも対米従属的なのか。トランプ大統領の機嫌を取ることにやっきな安倍政権の動きをみるたびに誰しも思うこの疑問を、著者は「国体」という意外な言葉で説明する。
 一般的に国体とは、戦前日本の特殊な国家体制を意味する。天皇は父として臣民を慈しんでいる。だから臣民は喜んで天皇に奉仕しなければならない。このように天皇と臣民は家族であり、その関係は単なる支配・服従ではないとされた。
 著者は、この構造を戦後の日米関係にも見いだす。アメリカは慈父として日本を守ってくれている。だから日本は「思いやり予算」などで答えなければならない。戦後の日本は、天皇の上にアメリカを戴くかたちで国家システムを再編し、存続させたというのである。
 この体制では、日本の自立など望みがたい。「戦後の国体」に忠実であるほど、立憲主義を破壊してでも、沖縄を足蹴にしてでも、今上天皇を蔑ろにしてでも、アメリカに付き従わなければならないからだ。その果てに待つものが破滅であろうと、献身的な従属は止まらない。
 本書は、日本の戦前と戦後を「国体の歴史」としてパラレルに捉え直し、その形成から崩壊までを大胆に論じている。多くの読者を魅了しているのも、複雑な近代史を独創的かつ図式的に整理し、「なぜ対米従属が止められないのか」との疑問に「それは国体だからだ」と明確に答えているからだろう。
 もちろん明快さの裏には強引さが隠れている。だが、昨今の歴史研究は実証を重んずるあまり、しばしば細部にこだわり全体像の提示を軽んじてきた。その反動が「大東亜戦争は聖戦だった」式の大づかみすぎる歴史観の流行ではなかったか。
 読者は見取り図を求めている。その欲望をむげにしてはならない。今日の課題は、陰謀論に警戒しつつも、重箱の隅いじりに陥らず、全体像の向上を図ることだろう。本書の受容も、その文脈に置くと生産的である。

(引用終了)
<朝日新聞 6/2/2018(フリガナ省略)>

 著者は戦前と戦後の「国体の歴史」をそれぞれ三つの段階、

<戦前>

「天皇の国民」:明治維新から明治天皇没(1912年)まで。
「天皇なき国民」:大正政変から男子普通選挙法(1925年)まで。
「国民の天皇」:三・一五事件から敗戦(1945年)まで。

<戦後>

「アメリカの日本」:敗戦から連続企業爆破事件(1975年)まで。
「アメリカなき日本」:ロッキード事件からバブル崩壊(1993年)まで。
「日本のアメリカ」:阪神淡路大震災から今上天皇「お言葉」(2016年)まで。

に分け、パラレルに展開する国民の意識変遷を概観する。その上で著者は、今上天皇の「お言葉」は、「アメリカを事実上天皇と仰ぐ戦後の国体において日本人は霊的一体性を本当に保つことができるのか」との問いかけであるとし、歴史の転換を画するものでありうるという。ただし、

(引用開始)

「お言葉」が歴史の転換を画するものでありうるということは、その可能性を持つということ、言い換えれば、潜在的にそうであるにすぎない。その潜在性・可能性を現実態に転嫁することが出来るのは、民衆の力だけである。
 民主主義とは、その力の発動に与えられた名前である。

(引用終了)
<同書340ページ> 

として論考を終える。

 戦前の天皇を頂点とする国体は、「神国日本」というフィクションの上に成り立っていた。戦後のアメリカを頂点とする国体も、彼らが導入した象徴天皇制によって、相変わらず同じフィクションの上に成り立っている。「神国日本」という神輿の担い手は、「歴史の表と裏」で示唆したように、戦前から今に至るまで基本的に変わっていない。この認識がまず重要だ。

 歴史の転換を迎える日本は、新しい統治正当性を「神国日本」ではなく、別のところに求めるべきだと思う。といって、排他的な一神教ではないもの。私は「父性の系譜」の項で、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治とは切り離して自由化

*「預治思想」=「天命を預かり治める」
*「天道思想」=「自然を敬う考え方」

〇 列島の統治思想では天命=天道とする
〇 天道=自然現象=民意
〇 民意を上手く掬い上げるために代議制を導入する
〇 代議制のベースは家(イエ)とする

という近世のあらまほしき統治思想の骨格は、今の時代でも通用するのではないかと書いた。その理由は、天道思想の自然を敬う考え方は、20世紀後半に西洋の合理主義的科学から派生してきた、自然をダイナミックに捉える「非線形科学」をその教義とすることが可能だからだ。「天命=天道=自然=民意」を至高として、「自然を敬う考え方=非線形科学」を教義とする国家統治。4つのプレートがせめぎ合い、自然災害の多い列島に相応しい統治思想ではなかろうか。この件、項を改めてさらに考えを展開してみたい。

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父性の系譜

2018年09月05日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 一昨日、文芸評論『百花深処』の方で<代議制>の項をアップした。これで去年の春から延々と書き連ねてきた列島の国家統治能力(父性)に関する考察「父性の系譜」が一段落した。まだ先を続けるつもりだが、昨日、フェースブックの「ページ」に簡単な纏めの文章を載せた。連載各項の位置づけを記した簡単な道案内のようなものでしかないけれど、その文章をこちらにも再掲したい。

---------------------------------------------
 文芸評論『百花深処』<代議制>をアップしました。日本人(日本語を母語とする人)の国家統治能力(父性)の研究「父性の系譜」の通し番号としては㉜になります。

 昨年春、戦後の国家統治能力(父性)の不在を何とかできないかと思って始めた、日本の父性の仕組みを歴史的に振り返ろうという試み。取敢えずの出発点は、『江戸の思想史』田尻祐一郎著(中公新書)で出会った、列島独自の思想「中世の武士思想」と、列島独自の仕組み「近世の家(イエ)制度」でした。

@<中世武士の思想>
A<近世の「家(イエ)」について>

どちらも日本の国家統治能力(父性)と関係がありそうなのですが、今では両方とも過去の遺物となってしまっています。

 私はその独自性の喪失が、戦後の国家統治能力(父性)不在と関係があるのではないかと考え、二つはなぜ生まれたのか、どのような理由で消滅してしまったのか、という観点から歴史を遡ることにしました。

B<父性の源泉>
C<武士のルーツ>

 歴史を古代まで遡ると、列島には、

(1) 騎馬文化(中世武士思想のルーツ)
(2) 乗船文化(武士思想の一側面)
(3) 漢字文化(律令体制の確立)

というタイプの異なる国家統治能力(父性)があることが分かってきました。

D<古代の民族文化>
E<古代の民族文化 II>
F<古代の民族文化 III>
G<古代の民族文化 IV>

 さらに戦国時代に入ると、

(4) 西洋文化(キリスト教と合理思想>

がそれに加わります。

H<信長における父性>
I<信長の舞>
J<父性の源泉 II>

 次に見たのは、

(1) 騎馬文化(中世武士思想のルーツ)
(2) 乗船文化(武士思想の一側面)
(3) 漢字文化(律令体制の確立)
(4) 西洋文化(キリスト教と合理思想>

というこの4つのタイプが、徳川時代に入ってどのように機能したのかという点です。そこで分かってきたのは、徳川初期までは力のあった(1)が次第に弱まり、中期以降は(3)が主流になっていったこと、(2)と(4)は傍流ながらそれなりに機能していたことでした。

K<近世の武士について>

 「中世の武士思想」が弱まると、「近世の家(イエ)制度」も弱くなっていきました。この列島独自の思想と制度が弱体化していった挙句、徳川幕府は崩壊します。そのことから、私は、徳川幕府が崩壊したのは(1)が弱まってしまったからではないか、という仮説を立てました。

 そこでもう一度徳川時代以前に戻り、武士たちが生み出した統治思想を整理しました。

L<天道思想について>
M<預治思想について>

 さらに現代の目で、それに欠けていることを追加し、

(1) 騎馬文化(中世武士思想のルーツ)
(2) 乗船文化(武士思想の一側面)
(3) 漢字文化(律令体制の確立)
(4) 西洋文化(キリスト教と合理思想>

をバランスよく機能させる統治思想を考えてみました。それは、

〇 中央政治(外交・防衛・交易)は預治思想による集権化
〇 地方政治(産業・開拓・利害調整)は天道思想による分権化
〇 文化政策(宗教・芸術)は政治と切り離して自由化

〇 列島の預治思想では天命=天道とする
〇 天道=自然現象=民意
〇 民意を上手く掬い上げるために代議制を導入する
〇 代議制のベースは家(イエ)とする

といった内容です。

N<新しい思想>

 この新しい統治思想の骨格は、今の時代でも通用するのではないか。その有効性をさらに検討すべく、世界および日本(徳川時代まで)の宗教・思想を概観しました。

O<宗教・思想基本比較表>
P<国学について>
Q<蘭学について>
R<日本陽明学について>
S<安藤昌益と三浦梅園>
㉑<伊藤仁斎と荻生徂徠>
㉒<新井白石>
㉓<武士の土着>
㉔<武士の再興>

 また、戦国時代の統治実態や、(1)と(3)の背景についても再検証しました。

㉕<天道思想による統治>
㉖<関東戦国時代>
㉗<信長の城>
㉘<騎馬民族と農耕民族>

 それらをベースに新しい統治思想の論点を補強。

㉙<一所懸命と天下布武>
㉚<「神国日本」論>
㉛<百姓の家(イエ)の成立>

 そして今回、天道思想と預治思想における代議制のロジックを纏める所まで論を進めることができました。

㉜<代議制>

 これからは、幕末の開国から昭和の敗戦、さらに戦後へと続く歴史を振り返ってみたいと思います。そのうえで、今の時代に通用する列島の統治思想を纏めてみたいと考えています。
---------------------------------------------

 以上だが、日本の国家統治能力(父性)不在についての考察は、『百花深処』と並行して、ブログ『夜間飛行』の方でも(どちらかというと)経営的観点から綴ってきた。

「経営の落とし穴」(12/3/2017)
「教義と信仰」(1/6/2018)
「徳川時代の文化興隆」(2/10/18)
「反転法」(2/12/2018)
「経営の停滞」(3/19/18)
「内的要因と外的要因」(3/30/18)
「評伝小説二作」(5/5/18)
「江戸時代の土地所有」(6/16/18)
「新しい家族概念」(6/24/18)
「田沼意次の時代」(7/29/18)

特に「新しい家族概念」の項では、21世紀の家族概念と近世の「家(イエ)」システムとの近接性を指摘。この点は今後の列島の統治思想の鍵になると思う。

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人口減少問題と国家理念

2018年07月22日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日新聞の社説(毎日新聞 7/15/2018)で人口減少問題が取り上げられていた。日本はかって経験したことのない勢いで人口が減っていく、日本だけが急激な速度で人口が減っていけば社会はその変化に耐えきれなくなる、何もしなければ危機は確実に深まる、国民皆保険の土台が崩れる、空き家が増える、過疎地の道路や橋は老朽化したまま放置される、大学の倒産が増える、都市の高齢化率が高まる、人口減少はいったんスイッチが入ると止められなくなる、人口減少に対する安倍政権の対策は甘い、などと指摘したうえで、「これから数十年かけて日本に訪れる巨大な変化は、従来の制度や慣習をなぎ倒すほどの威力がある。ただ長期にわたる政策のビジョンと、世代をまたいで持続する社会の強い意志があれば、この変化にも必ず対応できる筈だ。悲観論に閉じこもってはいけない。冷静に、そして覚悟を持って未来に備えるために、人口減少という大波について集中的に考えてみたい」と結ぶ。

 2017年の3月、「国家の理念(Mission)」の項で、国家理念とは「国家がどのような分野で、どのように世界へ貢献しようとするのかを表現した声明文」と書いたが、この新聞の社説は、人口減少にどう対処したよいかを考えようというばかりで、日本がどのように世界へ貢献したら良いかを考えよう、という視点に欠けている。

 私に言わせれば社説の問題設定は間違っている。人口が減れば社会はその変化に耐えられなくなる、だからそれに備えようというのであれば、答えは、出生率を上げるなり移民を増やすなりして「人口減少を食い止める」というだけの話になるではないか。そうではなく、日本はどのような分野で世界に貢献できるのか、という理念先行型で考えなくてはいけないと私は思う。日本はXXの分野で世界に貢献したい、そのために国内人口はどのくらい、国外人口はどのくらい最低限必要だ、という形で考えを進めていけば、おのずとそのための施策が見えてくる筈だ。結果、国内人口数は当面今より少なくて済むかもしれない。尚ここでいう日本とは、日本語を母語とする国民といった意味。

 国民皆保険、空き家増加、インフラの老朽化、大学の倒産、高齢化、東京一極集中などの問題と、人口減少現象とは実は直結しているわけではない。このブログでも論じてきたように、例えば空き家問題は土地政策や家族概念の変化等に起因している。インフラの老朽化は経済成長を経験した世界中どこでも起きている。なんでもかんでも人口減少問題に引き付けて「縮む日本社会」などと総括すべきではないのだ。そこには思考停止が待っている。あとは政府の勝手な移民政策、出産奨励、外国人観光客増加案、シュリンク都市計画、税金値上げなどが施行されるだけだろう。

 世界は日本の人口減少に無条件で協力してくれるほど甘くない。世界にはこれまで滅んだ(言語が消滅した)国は数多い。日本がそのうちの一つとなっても世界は困らないかもしれない。しかし、日本(日本語による発想)がXXの分野で世界に貢献していて、それが他をもって替えられないのであれば、世界は日本の存続に協力してくれるかもしれない。はやくそのXXについて議論しようではないか。

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新しい民泊

2018年07月21日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「民泊新法」の項で、“民泊とは、「住宅の閾(しきい)」を利用して(あるいはちょっと拡張して)行うnon profitな公的活動の筈。一般の営利事業とは違う。それに対して「住宅宿泊事業法」などという仰々しい名前の規制を被せるのはそもそもお門違いではないのか”と書いたけれど、今から3年前、「“コト”のシェアと“サービス”」の項で、

(引用開始)

 このレベルでしかシェア・サービスが語られないのであれば、次に出てくるのは政府による「規制緩和」の話になってしまう。東京オリンピックに向けてどの法律をどう変えて「民泊」を進めるかなどなど。どこまで許可するか、しないか、それが官僚の手の上でもてあそばれるだけだ。

(引用終了)

と書いたことを思い出した。「このレベル」とは、「本来“コト”のシェアは双方向・相互作用である筈なのに、シェア・サービスはまだ業者から顧客への一方向としてしか捉えられていないレベル」という意味。

 3年前の予想通りになったような日本の「民泊」。このままではつまらないから、思考実験として、「新しい民泊」を考えてみたい。まずあなたが「迷惑をかけずに訪日客と交流してきた善意の家主」だとしよう。しかし民泊新法下では営業日数制限や立ち入り検査などの規制が多すぎて事業を続けられない。それならば、いっそのこと宿泊客から金をとらないnon profitな活動に衣替えしたらどうだろう。住宅の閾を貸して訪日客と交流するだけのシンプルな活動。もともと善意の家主なのだから利益は追わない。もらうのはチップだけ。そのかわり宿泊者にはできるだけ近隣商店街で食事や買い物をしてもらう。

 近隣住民の理解、(民法新法を含む既存の宿泊サービスにまつわる法的束縛を受けないことへの)宿泊者の同意、商店街への事前説明などが必要だが、口コミでファンを作ればスタートできる筈。これまで何人もの訪日客と交流してきたのだから。当初は持ち出しになるだろうが、商店街の売り上げが増えれば、店主たちが部屋のメンテナンス費用ぐらい善意で出してくれるかもしれない。

 名前も「民泊」ではなく、街ではやり始めている「オープン・ガーデン(Open Garden)」からヒントを得て、「Open Room for Stay」、略して「ORS」としてはどうだろう。留学生向けホームステイの観光客バージョンと考えても良いかもしれない。

 先日「新しい家族概念」の項で、これからの家族と会社組織の共通点を、

1.家内領域と公共領域の接近→より近い市場での小商い
2.家族構成員相互の理性的関係→社員間のコンセンサス重視
3.価値中心主義→会社理念の共有
4.資質と時間による分業→社員の適材適所
5.家族の自立性の強調→社員の自主性の強調
6.社交の復活→福利厚生の充実
7.非親族への寛容→多様な社員構成
8.大家族→非儲け主義

と符合させだが、自分のところの宿泊者むけに観光案内などの有料サービスを始めてもいいわけで(会社登記もアリ)、「ORS」は家族概念と会社組織の融合を地で行くような事業になるのではないだろうか。

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新しい家族概念

2018年06月24日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 「江戸時代の土地所有」、「小さな経済圏」と、日本の土地問題、住宅問題について見てきた。モノコト・シフトの時代とはいえ、日本にはまだ古い社会的仕組みが多く残っている。

 モノコト・シフトとは、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による行き過ぎた資本主義への反省として、また、科学の還元主義的思考によるモノ信仰の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、動きの見えないモノよりも動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 一方に「建築自由」、公よりも私を優先する土地所有制度があり、もう一方に「一住宅=一家族」、公と私の境界をはっきりさせ私人には公的領域に手を出させない住宅制度がある。この二つの制度を変えない限り、「私」はますます内に閉じ籠り、「公」はますます官僚支配に覆われる。

「私」:高層マンションの一角で携帯ゲームに耽る若者
「公」:勝手に働き方を決め賭博場を作る中央官僚

 「熱狂の時代」の項で書いたように、モノコト・シフトには、暴力を誘発するネガティブな側面がある。いま社会の仕組みを変えないと、そちらが前面に出て、殺人や傷害事件が今よりもさらに増加するだろう。自身への暴力(自傷・自殺)も増える。

 先日「新しい会社概念」の項で、モノコトシフト時代の会社組織について、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という原理を紹介した。「小さな経済圏」の話と併せて考えると、これからの家族概念は、この会社組織のあり方と近接してくるように思えるがいかがだろう。

 モノコトシフト時代の家族の特徴について、以前「新しい家族の枠組み」の項で次のように纏めたことがある。

1.家内領域と公共領域の接近
2.家族構成員相互の理性的関係
3.価値中心主義
4.資質と時間による分業
5.家族の自立性の強調
6.社交の復活
7.非親族への寛容
8.大家族

これは、それより前の「近代家族」が、
 
1.家内領域と公共領域の分離
2.家族構成員相互の強い情緒的関係
3.子供中心主義
4.男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5.家族の団体性の強調
6.社交の衰退
7.非親族の排除
8.核家族

という特徴を持つことから考え出したのだが、前者は、「よりゆっくり、より近く、より寛容に」という会社組織のあり方と符合するようにみえる。たとえば、

1.家内領域と公共領域の接近→より近い市場での小商い
2.家族構成員相互の理性的関係→社員間のコンセンサス重視
3.価値中心主義→会社理念の共有
4.資質と時間による分業→社員の適材適所
5.家族の自立性の強調→社員の自主性の強調
6.社交の復活→福利厚生の充実
7.非親族への寛容→多様な社員構成
8.大家族→非儲け主義

のように。

 「新しい会社概念」の項でみたこれまでの会社組織の原理は「より早く、より遠くへ、より合理的に」というもので、これは「近代家族」の特徴と親和性がある。そしてそれは「一住宅=一家族」という住宅政策とリンクする。前回の『脱住宅』序章から引用しよう。

(引用開始)

 一九世紀の産業革命以降、人間の生き方を取り巻く環境が急激に変化しました。なかでも最も大きな変化の一つだと私が思うのは、「一住宅=一家族」という住まい方が一つの普遍性を獲得したことです。一つの家族が一つの住宅に住む、そういった住宅の形式が誕生したこと、そしてこれこそ理想だと多くの人が受け入れていったこと、それこそ「住宅革命」と呼んでいいほどの二〇世紀の大転換であり、二〇世紀を象徴する出来事の一つだと考えています。「一住宅=一家族」という住宅の誕生には、産業革命が大きく影響しています。この住宅は産業労働者のために発明されたからです。(中略)
 その平穏な生活は労働者側からも、理想的な生活だと考えられました。労働者にとっては、仕事から離れ、家族のプライバシーを守りながら安らかに過ごせる空間ですから、喜んでこれを受け入れたのです。一方、供給者側にとってはすべての労働者に同じような住宅を供給することで、同じような家族が再生産されます。つまりばらつきのない均一な労働力を継続的に確保することができるわけです。そしてそれはそのままばらつきのない均一な製品に結びつきます。直接的に利潤に結びつくと考えられたわけです。一九世紀の産業資本家たちのこうした考え方は、第一次世界大戦後のヨーロッパ諸国の国家に運営システムにも大きな影響を与えました。

(引用終了)
<同書 14ページ>

 「私」を外の「公」へ向かわせ、「公」を「私」のneedsに向かわせる。「私」が「公」を支え、「公」が「私」を守る社会。閾や広場の必要性。ヒューマン・スケールの小商いと小さな経済圏としての住宅。多様な家族。会社組織と家族組織の近接。ここまで考えてくると、新しい時代の会社と家族は、「教義と信仰」の項で紹介した、徳川幕府が導入した「家(イエ)」というユニークなシステムと重なってくる。あるいは「デンマークという幸せの国」でみた北欧の国々の先進性。いづれにしてもこれからの日本には大きな社会変革が求められるだろう。さらに研究したい。

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江戸時代の土地所有

2018年06月16日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 日本の土地問題に関して、以前「建築自由と建築不自由」の項で、“日本では、近代化、復興と成長を推し進めるために都市計画法が存在したので、土地所有も建築自由のままできてしまった”と書き、「対抗要件と成立要件」の項で、この建築自由の考え方の基は、明治政府が民法を制定するにあたり手本としたフランスの民法が、土地所有権者の自由を尊重するものだったことにあるらしいと記した。ここで「建築自由」というのは、土地は本来的に所有者の自由になるものだという考え方を指す。それに対して「建築不自由」とは、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという(ドイツ法の)考え方だ。

 今の日本はこの「建築自由」、土地は利用よりも所有が優先するという考え方が蔓延し、廃屋や空き地の第三者有効利用がなかなか進まない。人口が減って私有地の約20%が所有者不明となっているにもかかわらず、行政はそれを利用するための有効な手が打てない。

 それでは、明治時代以前の土地所有はどうなっていたのか。『百姓の力』渡辺尚志著(角川ソフィア文庫)によって、一般的な土地所有のあり方を見てみたい。「おわりに」から引用する。

(引用開始)

 江戸時代における百姓の耕地・屋敷地の所有は、近代的土地所有とは異なる性質をもっていました。まず、土地は幕府・領主との重層的関係のもとにあり、絶対的・排他的所有ではありませんでした。また、契約文書の文言より慣行が優先される場合があり、「契約の絶対性」が貫かれていませんでした。所有の主体の多くは家・村落共同体のような集団であり、個人的所有権は弱かったという点など、近代・現代の所有とは大きく違う点が少なくなかったのです。江戸時代後期には、地主・豪農層を中心に、近代的土地所有につながる考え方も芽生えていましたが、いまだ支配的にはなりえませんでした。
 日本における近代的土地所有権は、明治政府により、上から設定されたという性格が強いものでした。江戸時代の土地所有関係に対して、地券交付・地租改正を通じた近代的土地所有権の実現は、甚大な影響をおよぼしました。個人の排他的な土地所有権を認定することによって、村内の土地各種の有機的な結びつきを切断し、従来の個別所有地のもつ共同体的性格、「村の土地は村のもの」を否定したのです。
 地租改正の実施と、明治一六(一八八三)年以降に続発した困民党事件をはじめとする負債農民騒擾の鎮静化を経て、土地所有のあり方は大きく変わりました。困民党事件後も、農民の間から、近世的な土地所有意識がすっかり消えてしまったわけではありません。ただ、それは弱体化し、近代的な土地所有観念が優勢になったことも否定できません。その意味で、地租改正と困民党事件は、農民の土地所有に関して、近世と近代を分かつ大きな画期でした。以降、明治二〇(一八八七)年の登記法施行、同二二年の地券廃止・土地台帳規則制定と、近代的土地所有は急激に整備されていったのです。

(引用終了)
<同書 239−240ページ(フリガナ省略)>

江戸時代の土地所有は、あきらかに「建築不自由」、土地所有権はもともと制限されているもの、義務を伴うものであるという考え方だ。

 明治新政府は、西洋に追い付け追い越せというスローガンの下、国に民法というものがあること自体が大事で、それまでの考え方との整合性は深く考えなかったのではないか。そのうちに手直しすればよいと思っていたのかもしれない。しかし、戦争に次ぐ戦争、さらに大敗戦と続く中、その機会はついに訪れなかった。

 「建築自由」は公よりも私を優先する。実験的な面白い建物が都市にできるのは良いが、環境保護や景観への配慮は退く。建てたものは古びるから責任者たちがいなくなれば廃屋や廃墟が増える。統治の問題。同書の「おわりに」から最後の部分を引用しよう。

(引用開始)

 現在、私的欲望の野放図な解放は、生態系の破壊や資源の枯渇のみならず、人類の生存まで脅かすにいたりました。転じて江戸時代を見れば、村落共同体は村域内のすみずみまで責任をもち、結果として環境保護や資源の保全という機能を担っていました。つまり、村は土地の共同所有にもとづき、村人の生を担保していたのです。
 これは私たちの先祖の貴重な達成として、繰り返し思い起こされるべきでしょう。

(引用終了)
<同書 241ページ>

これからの時代、先人の知恵に学ぶところは多い筈。『百姓の力』には、土地所有以外にも共同体のあり方がさまざま紹介されていて示唆に富む。副題は「江戸時代から見える日本」。一読をお勧めしたい。

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サンフランシスコ・システム

2017年09月27日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 『知ってはいけない』矢部宏治著(講談社現代新書)を読んだ。副題は「隠された日本支配の構造」。矢部氏の本にはこれまで、『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』、『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(両著とも集英社インターナショナル)などあるが、当書はそれらの内容をかみ砕いて整理したもの。章ごとに四コマ漫画などもあって読みやすい。

 『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』(2014年10月29日発行)については、「国家理念の実現」、<日本の女子力と父性について>、<平岡公威の冒険 5>、<日本の戦後の父性不在>、「歴史の裏と表」などで論じてきた。『日本はなぜ、「戦争ができる国」になったのか』(2016年5月31日発行)については、<根村才一の憂鬱>の中で触れたことがある。

 著者が「サンフランシスコ・システム」と呼ぶ米軍による日本支配は、「国際憲章」→「サンフランシスコ平和条約」→「安保法体系」・「吉田・アチソン交換公文」→「日米合同委員会」・「日米安全保障協議委員会(2+2)」→「基地権密約」・「裁判権密約」・「指揮権密約」といった法的構造を持つ(本書254−255ページ)。これらを(新たな国家理念に基づいて)一つ一つ変更してゆかなければ日本国(state)の独立はないわけだが、その際重要なのは、朝鮮戦争の終結(平和条約締結)であると著者は示唆する。

 1950年に北朝鮮と韓国との間の紛争として始まった朝鮮戦争は、1953年に休戦したが、未だ平和条約は結ばれていない。休戦協定は、参戦した中国と北朝鮮連合軍対、韓国側として参戦した米軍主体の国連軍との間で結ばれている。詳細は本書をお読みいただきたいが、サンフランシスコ平和条約は1951年に署名(1952年から発効)されており、「サンフランシスコ・システム」は、中朝連合軍と国連軍とが戦争状態にある前提で設計・構築されている。朝鮮戦争平和条約が結ばれれば、サンフランシスコ・システムにも見直す契機が訪れる筈。

 父性(国家統治能力)不在の今の政府では、(朝鮮戦争の)平和条約締結に向けた外交など望むべくもないが、条約締結後に、どのような法的構造によって国の独立と安全保障とを担保するか、我々が研究することはできる。矢部氏も「あとがき」の中で、

(引用開始)

急いで調べる必要があるのは、他国のケーススタディです。

〇大国と従属関係にあった国が、どうやって不平等条約を解消したのか。
〇アメリカの軍事支配を受けていた国が、どうやってそこから脱却したのか。
〇自国の独裁政権を倒した人たちは、そのときどのような戦略を立てていたのか。

これからは、そうした「解決策を探す旅」が始まります。

(引用終了)
<同書 258ページ>

と書いておられる。この本で関心を持つ人が増えると良いと思う。

 日本国の独立があろうがなかろうが日々の生活は進んでいく。しかし、連合国軍占領時代(1951年)に生まれた身としては、日本独立の道筋を見極めたい気持ちがある。朝鮮戦争の平和条約締結に向けた外交戦略も含め、これからも研究を続けたい。

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日本の大統領

2016年12月14日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「鳥瞰的な視野の大切さ」の項で、先のアメリカの大統領選挙に触れ、このブログで提唱している複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

を基に、

(引用開始)

トランプ大統領はビジネスライクにA側の仕事をこなしてゆくことだろう。そのとき日本のアメリカとの政治交渉は、B側に偏った日本的発想の政治家たちでは歯が立たない。水戸岡氏のような、A側の大切さが解り尚且つBの重要性に気付いている人が、日本stateに必要となってくるに違いない。

(引用終了)

と書いたが、ここで、日本stateの代表にどのような人が相応しいか考えてみたい。「プライムアーティストしての天皇」の項で紹介した『天皇と憲法』島田裕巳著(朝日新書)でいう「日本の大統領」にどのような人が相応しいのか。

 以前『百花深処』<日本の戦後の父性不在>の項で、日本国の権力者が米軍に従属する道を選んだ理由を、

(1) 環境中心の考え方
(2) 優秀な人材は経済復興に
(3) 認知の歪み
(4) ヤンキー化
(5) 老人の隠居
(6) 国家理念の不在

と纏めたが、父性の復活を果たす(この六項目を一つずつ引っ繰り返してゆく)には、第一に、(1)の環境中心の考え方=B側の発想から脱却し、A側の発想ができる人が必要である。これは議論の余地がないと思う。

 このブログで最近取り上げた、

黒川伊保子さん(「脳と身体 II」)
竹村公太郎氏(「中小水力発電」)
島田裕巳氏(「プライムアーティストしての天皇」)
伊東豊雄氏(「みんなの家 II」)
西原克哉氏(「重力進化学 II」)

の各氏は、水戸岡氏(「物事の繋がりの重要性」)同様、AとBのバランスを心得た有能な人々だろう。

 思考実験として、日本の大統領にいかなる人が相応しいかを、この6名の中で考えてみる。先日「女性による父性代行」の項で、『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』(チャン・ショウチョン監督)という映画を紹介し、

(引用開始)

<日本の戦後の父性不在>の問題は、女性による父性代行によって補われ得る。そのことをこのラストは示唆しているように思えた。

(引用終了)

と書いたが、これをヒントに、私は黒川伊保子さんに注目したい。

 黒川さんは女性だからB側の発想については自家薬籠の中の物。尚且つA側の発想ができる。日本はもともと女性性が強い。外国も日本の強さをそこに見ている筈。とすれば、女性でA側の発想ができる人、そういう人が日本の大統領として一番相応しいのではあるまいか。いかがだろう。

 勿論、実際の大統領には、女性でA側の発想ができる人というだけではなく、それ以外の様々な資質、見識、能力他が求められるから、最適な人がいまの日本に居るかどうかわからないけれど。

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プライムアーティストとしての天皇

2016年10月25日 [ 公と私論 ]@sanmotegiをフォローする

 宗教学者島田裕巳氏の『天皇と憲法』(朝日新書)という本を読んだ。副題に「皇室典範をどう変えるか」とある。カバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

天皇制に最大の危機が訪れている――。
このまま何もしなければ、皇室以外の宮家が消滅することはもちろん、皇位継承資格者がまったくいなくなる事態も予想される。
天皇がいなければ首相の任命も、法律の公布もできない。
つまり、日本が国家としての体をなさなくなる。
私たちは現在の憲法を見直し、その大胆な改革を
めざすべき状況に立ち至っているのである。

(引用終了)

 島田氏の著書についてはこれまで、『宗教消滅』(SB新書)を「宗教から芸術へ」の項で、『神道はなぜ教えがないのか』(ワニ文庫)を「神道について」の項で論じてきた。本書は今年天皇が「生前退位」の意向を示したことを受けて緊急出版されたものだが、議論はそれらの著書の延長線上にある。ここで論じる内容も前二項を踏まえたものとなるから、そちらにも目を通していただきたい。

 同氏も本書の構想を以前から持っておられたようだ。「あとがき」で、「私は、生前退位の問題が起こる少し前から、現在の日本国憲法と大日本帝国憲法、それに新旧の皇室典範を収録して解説を加えた本を作りたいという意向をもっていて、本書の編集をしてくれた大場葉子さんに提案していた。それが、天皇に生前退位の意向があるという報道がなされたことで、一気に実現することになった」と書いておられる。

 本書の目次は、

はじめに
第一章 天皇とは何か
第二章 わび状としての日本国憲法
第三章 大日本帝国憲法と皇室典範との関係
第四章 皇室典範が温存されたことの問題点
第五章 どのように憲法を変えていかなければならないのか
おわりに
あとがき
付録:皇室典範、旧皇室典範

となっている。第一章は、国の象徴とは何か、皇室典範と憲法の関係、女帝について、天皇の仕事、皇位継承における議論など。第二章は、おしつけ憲法と自主憲法、第九条を巡る議論、わび状としての誓約、使命を終えた憲法など。第三章は、明治時代の憲法と皇室典範の説明。第四章は、国家神道が解体されたにもかかわらず戦後も残された皇室典範、核家族としての天皇家といった問題点の整理。第五章では、公選大統領制の導入という新しい考え方が示される。

 このブログでは、以前「nationとstate」の項で、

(引用開始)

nationとは、文化や言語、宗教や歴史を共有する人の集団、すなわち民族や国民を意味し、stateとは、その集団の居場所と機構を意味するという。日本は、歴史的な経緯から「民族・国民」と「国家」の一体性が強いが、二つは必ずしもイコールではないわけだ。

(引用終了)

と書き、stateは、nation(の人々の間)で合意された「理念と目的」に基づいて、合理的に統治・運営されなければならないと述べた。

 詳細は本書をお読みいただきたいが、島田氏の大統領制議論をこれに引き付けて考えると、天皇は(stateを縛る憲法下に置くのではなく)nationの側で日本民族や国民を象徴する存在とし、新設の大統領がhead of state(国家元首)としてstate側を代表すべきという考え方のようだ。首相はstateでの筆頭業務執行官(プライムミニスター)。

(引用開始)

 できることは、憲法を改正して、日本にも大統領制を導入することである。現在、天皇の国事行為とされていることの大半を大統領の果たすべき役割とするように、新しい憲法で定めるのである。
 それは、憲法に支えられた天皇制という形態を廃止することにはなるが、あえて天皇や皇室の存在を否定する必要はない。天皇と大統領が役割を分担し、併存すればいいのだ。
 その際に、天皇の地位その他を憲法によっては規定しないことである。天皇を憲法の枠から解放することは、かえって皇位継承を容易にする可能性がある。少なくともその負担を小さくすることができるし、どう継承するかを、天皇家の主体的な判断で決定できるようにもなるからだ。憲法改正にともなって、皇室典範も大幅に変わるか、もしくは廃止されるはずだ。

(引用終了)
<同書 189−190ページ>

 天皇を憲法や皇室典範などというstate側を縛る法律から自由にする。これはなかなか良いアイデアだと思う。明治時代に作られた天皇制そのものを見直そうということだ。

 この場合天皇は、日本の文化を象徴することとなるだろう。これは三島由紀夫(本名平岡公威)の「文化概念としての天皇」と近い考え方といえるかもしれない。

 「宗教から芸術へ」と「神道について」の両項では、これからの時代、共同体の紐帯は、情緒的・宗教的なものから、より理性的なものになってゆくべきであり、「庭園・芸術都市」こそこれからの日本に相応しいとしたが、そのコンセプトを是とすると、日本の天皇は、その共同体の象徴として、自然と芸術を守る「筆頭芸術家(プライムアーティスト)」と呼ぶべき存在になるわけだ。

 東京の真ん中で自然を守る家(皇居)に住まい、各種芸術活動を支援し正月には歌会始を行うなど、思えば今でも天皇は「プライムアーティスト」として活動しておられる。だから国会の召集などのstate側の仕事を大統領に任せれば、そのつとめは今とほとんど変わらないだろう。

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posted by 茂木賛 at 12:39 | Permalink | Comment(0) | 公と私論

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