夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


熱狂の時代

2015年11月10日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」の項で、梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)を紹介したが、そのなかの「近づき過ぎず、取り込まれない」と題された第3章に、竹林の話がある。竹林は地下茎でどこまでも増えてゆくから、たくさん生えているようでも全体が一つの個体のようなものだという話で、そのあと梨木さんは次のように書く。

(引用開始)

 様々な方向性を持つ雑多な木がつくりだす場の雰囲気と、一つの方向に先鋭的に深化してゆく場のムード。多様性に溢れた前者が健康的で、排他的な後者が病的に感じられるのはたぶん多くの人が納得できることだろうけれど、どちらの「引き寄せる力」の磁場が強いかというと、一概には言えない。それぞれ、そのときの自分の意識の持ちようによって予想もできない力をはっきするものだから。

(引用終了)
<同書 24ページより(フリガナ省略)>

ここで竹林は排他的で熱狂的な全体主義の例えとなっている。

 モノコト・シフトの時代は、冷たい脳(大脳新皮質)の働きよりも、熱くなりやすい身体(大脳旧皮質と脳幹)の働きを重視するから、それは一面「熱狂の時代」ともなる。

 以前「勝負の弁証法 II」の項で、「勝負が“コト”であってみれば、“モノコト・シフト”の時代、世界中でスポーツ・イベントやゲームがますます興隆するであろう」と書き、「nationとstate」の項で、「総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を強めると思われる」と書いたけれど、スポーツも政治も、そして戦争も、人々が熱狂しやすいイベントだ。

 熱狂することの問題点は、「三つの宿啞」の項で示した、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

のうち、(3)の認知(思考)の歪みが生じ易いことである。熱狂によって感情が大きく揺すぶられると、過剰な財欲と名声欲(greed)と官僚主義(bureacracy)の放つ騙しのテクニック各種によって、人々の思考が一つの方向に束ねられる危険性が高まる。

 「モノコト・シフトの研究」の項で、「都市の一部には、利権がらみで意図的にA偏重社会の持続を画策する人々もいる」と書いたけれど、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

において、greedとbureacracyに侵された人々は、民衆のBに基づく「熱狂」を自分達の利権維持のために利用する。

 熱狂がスポーツ・イベントに向かっているうちは良いが、それがマネー経済や政治、特に戦争に向かい始めたら気をつけなければならない。梨木さんは「近づき過ぎず、取り込まれない」のなかで、幼い時、竹林のしんとした静けさに悲壮感に近いリリシズムを感じたと書き、その章の最後に、

(引用開始)

 大人になった今はただ、社会全体が排他的な竹林になるのが怖い。そしてそこから抜け出せなくなるのが。

(引用開始)
<同書25ページより>

と付け加えておられる。上の対比にもある通り、日本語はそもそもBに偏しているから特に気をつけたい。先の大戦時を思い起こすべきだ。

 これからの日本にとって、2020年に予定されている東京オリンピックは一つの試金石だと思う。今後greedとbureacracyによってオリンピックへの「熱狂」を煽るありとあらゆるプロパガンダが繰り出されるに違いない。そしてそれが、都市集中やナショナリズム高揚へと巧妙に仕切られていく。だから浮かれてはならない。常にクールな頭(大脳新皮質)で、物事の表と裏を見極めるようにしなければならない。

 時代がBに偏して来るからといって、個人ベースではAの重要さを忘れてしまってはいけない。複眼主義でいつも繰り返すように、活き活きとした社会を創る為には、AとBのバランスが重要なのである。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:31 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

自分と外界の<あいだ>を設計せよ

2015年11月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「モノコト・シフトの研究」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で、これからは、「固有の時空」を大切にする時代であり、大切な固有時空には、

● ある程度持続する
● まわりに好影響を与える

といった特徴があると述べた。最近文庫になった梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)は、日常生活で出会う様々な時空について、細やかな観察眼で綴った心地良いエッセイ集である。

 時空をどう見極めるか、自分と外界との<あいだ>をいかに設計し、悪影響を及ぼす時空を遠ざけ、好影響を与えるそれに接近するか、そういったことが、

1 堅実で、美しい
2 たおやかで、へこたれない
3 近づき過ぎず、取り込まれない
4 足元で味わう
5 ゆるやかにつながる
6 みんな本物
7 近づき過ぎず、遠ざからない
8 世界は生きている
9 「スケール」を小さくする

などなど、全部で28の章に分けて書いてある。本カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

 ふとした日常の風景から、万華鏡のごとく様々に立ち現れる思いがある。慎ましい小さな花に見る、堅実で美しい暮らし。静かな真夜中に、五感が開かれて行く感覚。古い本が教えてくれる、人と人との理想的なつながり。赤ちゃんを見つめていると蘇る、生まれたての頃の気分……。世界をより新鮮に感じ、日々をより深く生きるための「羅針盤」を探す、清澄な言葉で紡がれた28のエッセイ。

(引用終了)

とある。自分に好影響を与える場所についての梨木さんの文章も本書から引用しておこう。

(引用開始)

 別に有名なスポットでも何でもないのだが、ああ、ここはすてき、と思う場所がある。林の中に、そこだけぽかんと陽の光が当っているような場所。広葉樹の若葉が、天蓋のように空を覆っているような場所。異国で迷って路地を入っていくと、思いもかけない中庭を見つける。涼しい風が吹いて、ベンチがあり、行きずりの人のためにも開かれている。あるいは古いデパートの、喧騒を離れた場所にある踊り場。入るとくつろぐ喫茶店。
 町中のあちこちに、日本中のあちこちに、世界中のあちこちに、そういう場所があることを憶えている。心が本当に疲れているときは、砂漠のオアシスを目指すように、頭の中でそういう場所を彷徨う。
 大好きな場所をいくつか持っていることはいい。

(引用終了)
<同書 112ページより(フリガナ省略)>

 ちなみに、「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」というタイトルは、先日「住宅の閾(しきい)について」の項で紹介した『権力の空間/空間の権力』の副題「個人と国家の<あいだ>を設計せよ」からアナロジーとして拝借した。これからの時代、「個人と国家」間だけではなく、「自分と外界」との間の設計そのものが問われると思うからだ。

 自分とは一つの大きな渦(vortex)である。それを取り巻く外界は、大小様々な渦に満ちている。「食排、運動、仕事、読書、恋愛、気象、我々自身とそのまわりでは無数の“コト”が日々起っている。そしてまた消滅している」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で書いた通りである。

 コトを大切に考えるこれからの時代、いかに自分と外界との間を上手く設計するかはとても重要なファクターになる筈だ。自分のためだけではなく、周囲に自分が好影響を与え続けるためにも。それはまた個人の自立をも促す。個人と国家間の設計作業が始まるのはその後だ。

 この設計図は起業家にも欠かせない。モノコト・シフト時代の産業システムは大量生産・輸送・消費から、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といったものに変わっていく。朝昼晩、どのように自分と外界(この場合は身近な顧客、従業員、家族など)との間合いを取るか、それが遠隔操作で外界との話を済ませてきたこれまでと違って重要な課題となるだろう。

 作家としての梨木さんは、本の執筆を通して読者に好影響を与えようとしている。先日も『百花深処』<人が育つ場所>の項で、梨木さんの『雪と珊瑚と』(角川文庫)と『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫)について評論したが、よい本を書くために必要な身の回りの設計、『不思議な羅針盤』は、彼女のそういう想いを乗せた内容ともなっている。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 12:55 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

複眼主義美学

2015年09月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 今年2月「郷愁的美学」の項をアップしてから、文芸評論『百花深処』の方でその周辺を「複眼主義美学」と称して継続的に探ってきた。5月に「吉野民俗学と三木生命学」の項で途中経過を報告したが、改めてここに全体を纏めておきたい。


 複眼主義美学とは、藤森照信の『茶室学』、泉鏡花の『草迷宮』や吉田健一の『金沢』、九鬼周造の『「いき」の構造』や『風流に関する一考察』などを手がかりにして、自律神経系(交感神経と副交感神経)、脳(大脳新皮質)の働きと身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き、都市と自然、男性性と女性性、といった複眼主義の諸対比を用い、日本および西洋の思考・美意識構造を分析したものである。

日本人の思考と美意識:
-------------------------------------
日本古来の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動でありながら、自然を友とすることで、高みに飛翔し続ける抽象的思考よりも、場所性を帯び、外来思想の習合に力を発揮する。例としては修験道など。その美意識は反骨的であり、落着いた副交感神経優位の郷愁的美学(寂び)を主とする。交感神経優位の言動は、概ね野卑なものとして退けられる。
-------------------------------------
-------------------------------------
日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
-------------------------------------

西洋人の思考・美意識:
-------------------------------------
西洋の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動であり、都市(人工的なモノとコト全般)に偏していて、高みに飛翔し続ける抽象的思考に優れている。例としては神学や哲学など。その美意識は、交感神経優位の反重力美学(高揚感)を主とする。副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる。
-------------------------------------
-------------------------------------
西洋の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、都市に偏していて、モノやコトの安定化に力を発揮する。例としてはイギリスの女流小説など。その美意識は、静かな副交感神経優位の郷愁的美学(エレガンス)を主とする。交感神経優位の強い情動は、多くの場合魔的なものとして恐れられる。
-------------------------------------

 人は皆ある比率で男性性と女性性とを持っているから、両方の性性の思考・美意識を有している。今の日本人は、日本古来の思考・美意識と、西洋的なものとの混合型。人によってそのレベルは異なる。何か強いプレシャーを受けると、先祖帰りして古来の思考・美意識に戻ることがある。日本的なるものを理解する西洋人も最近増えてきている。
 
 複眼主義では、そもそも「都市」(人工的なモノやコト全般)は男性性(所有原理・空間原理)、「自然」は女性性(関係原理・時間原理)に偏していると考える。一神教によって育まれた西洋人の思考は、原則的に人間中心の発想で、反自然=「都市」をベースに発展してきた。だから西洋人の思考は、男女ともに、男性的な合理精神に引き寄せられる。一方、日本人の思考は、原則的に環境中心の発想で、縄文の昔から「自然」との融和を基に展開してきた。だから日本人の思考は、男女とも女性的な感性に引き寄せられる。

 「都市」に偏した西洋人の思考から形成される美意識は、主に、男性的な反重力美学(高揚感)と、その行き過ぎを抑えるよう(カウンターとして)働く女性的な郷愁的美学(エレガンス)、「自然」に偏した日本人の思考から生まれる美意識は、主に、女性的な反重力美学(華やかさ)と、その行き過ぎを抑えるように(カウンターとして)働く男性的な郷愁的美学(寂び)である。

 以上だが、これらの特徴抽出は、私の知識と経験に基づく仮説であり、どこかに正典があるわけではない。あくまでも私がこれまで「複眼主義」として集成してきた考え方の延長線上にある。また複眼主義における二項対比は、「かならず」というものではなく、「どちらかというと」という曖昧さを許容する。複眼主義美学についても同様に捉えていただきたい。

 人の思考と美意識を、このように自律神経や脳の働き、性性と関連づけ、さらには、日本と西洋といった文化の違いに応じて体系立てたのは、初めての試みではないだろうか。「ヤンキーとオタク」の項で論じたような日本論も、この分析を援用することでさらに興味深い検討が可能となる筈だ。これからも様々な視点からこの仮説の整合性を検証していきたい。ご意見・ご指適もお待ちしている。

 さっそくこの成果を基に、最近『百花深処』<平岡公威の冒険 3>をアップした。三島由紀夫(本名平岡公威)のクロスジェンダー的表現の秘密に迫ったもの。お読みいただけると嬉しい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 13:40 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

郷愁的美学

2015年02月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「反重力美学」の項で、交感神経由来の美的感覚であるところの、重力に逆らうものに対する憧れを、「反重力美学」と名付けた。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型など、重力から逃れようとする運動や形態に対して、人間は本能的に美を感じ取るという話だ。

 それに対して、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌、長閑な田園風景など、郷愁を誘う物事に対して感じるのは、同じ自律神経でも、副交感神経由来の美的感覚だと思われる。

 「交感神経と副交感神経」の項で見たように、副交感神経は、消化が行なわれているときに活性化し、<安らぎと結びつき>作用による身体的適応に関連しているわけだから、その美的感覚は、身体がリラックスしたときに発動する筈だ。確かに、いとしさや香りを感じるのはそういうときに違いない。この副交感神経由来の美学を、「反重力美学」と対にして、「郷愁的美学」と名付けたい。複眼主義の関連対比でいえば、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という連なりになる。

 この美的感覚の対比は、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>などで検討した、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

といった時空構造とどう繋がるのだろうか。

 「反重力美学」の項で言及したように、反重力美学は西洋的なリズム感を伴っている。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型に憧れるのは男性の方が多いから、「男性性」と「反重力美学」は親和性が強い。一方、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌など郷愁を誘う物事を好む女性は多いから、「女性性」と「郷愁的美学」は親和性が強い。しかし、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という対比は機能的(functional)な分類で、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

の対比は構造的(structual)な分類だから、二つの対比は同じではない。

 美的感覚は、機能的な@「反重力美学」とA「郷愁的美学」という対比と、構造的なB「男性性」とC「女性性」とが「縦軸と横軸」の関係性を持ちながら、その全体を形成しているといえるだろう。
img001.jpg
だから、四つの項目の比率は、その対象や鑑賞者の心身状態によって違ってくる。

 音楽を例に取ってみよう。様々な音楽のうち、リズムを重視するジャズの感覚は、どちらかというと「反重力美学」的であり、嗜好者には男性性を出自に持つ人たちが多い。メロディーを重視するリラックス系音楽は「郷愁的美学」であり、嗜好者には女性性を出自に持つ人たちが多い。しかし、女性のジャズ愛好家はいるし、リラックス系音楽を好む男性もいる。ジャズでもスローな曲は郷愁的だ。そして人は、鑑賞するときの気分(心身状態)に応じて、ジャズを聴いたりリラックス系の音楽を聴いたりする。

 それぞれの比率は、その人の育ち、風土や言語といった文化的背景の違いによっても異なるに違いない。たとえば日本では、男性でもわび・さびなど「郷愁的美学」を好む人が多い。それは、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>の項で述べたように、日本の男性性(螺旋運動)が、場所に牽引され、抽象的な高みに飛翔し続けないことと大いに関係がありそうだ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:18 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

金沢の魅力

2014年12月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 この秋、金沢の町を少し歩いてきた。『金沢を歩く』山出保著(岩波新書)によると、金沢は「ヒューマンスケールのまち」だという。確かに、金沢城址・兼六園から30分もあれば、旧市域のどこへでも歩いて行くことができる。

 金沢の町を上から眺めると、東に浅野川(女川)、西に犀川(男川)が流れている。その中心の台地に金沢城址・兼六園などがあるわけだが、二つの川は用水路で結ばれていて、市中いたるところに清らかな水が流れている。

 金沢は、戦国武将の前田利家が築城とまちづくりを行なったわけだから、室町・江戸時代の文化様式を色濃く残している。成巽閣、長町武家屋敷跡、にし・ひがし茶屋街、寺町などなど。空襲の被害を免れたから今でも古い家並みが多く残っている。

 金沢は金箔、加賀友禅、九谷焼など、職人文化の町でもある。石川県立美術館や石川県立歴史博物館、金沢21世紀美術館など文化施設も多い。泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星などの文学者、鈴木大拙、西田幾多郎などの思想家たちも金沢の出身だ。鮮魚、加賀野菜などを扱う近江町市場の賑わいもある。郷土料理や鮨、和菓子やケーキなども美味しかった。

 最近文芸評論『百花深処』<出口なき迷宮>の項において、「女性的な鏡花の小説世界と、反転同居の悟りを齎す利休の茶室。この二つの時空構造の共通性にこそ、日本文化の真髄があるのではないか」と書いたけれど、金沢という町の魅力は、バランスよくこの二つをその懐に擁しているところではないかと思う。

 その象徴が「泉鏡花記念館」と禅の「鈴木大拙館」だ。前者は東の浅野川の畔、後者は西の犀川に近い場所にある。旧市域を歩いて実感したのは、文化の豊かさと共に、このバランスの良さだ。勿論、東京や京都、その他の町にも、女性的な鏡花の小説世界と禅の茶室はあるだろう。しかし金沢は、東西がそれぞれの個性を発揮しながら、全体がコンパクトに纏まっている。

 『金沢を歩く』を書いた山出保氏は、1990年から5期20年金沢市長を勤めておられた。本の新聞紹介記事には、

(引用開始)

 一国一城の武家文化を基礎とする城下町の景観とものづくりの伝統。街の個性をコミュニティーとして確認しながら、新しい仕掛けをつくってきた都市の歴史と魅力を、5期20年市長を務めた著者が語る。二つの美術館をつなぐ「美術の小径(こみち)」や歴史景観の町並みなどを紹介。

(引用終了)
<朝日新聞 9/14/2014>

とある。以前「元気なリーダー」の項で、元気な街にはかならず元気なリーダーが居ると書いたことがあるが、市長のリーダーシップによって金沢の今があるようだ。氏はこの本の「あとがき」に、

(引用開始)

 まちは、長い時間のスパンのなかで、ていねいにつくりあげていくことが大切です。
 まちづくりには、テーマがあってストーリーが必要です。理念のもとに、計画と方針があるべきです。計画と方針に沿って、拙速を避け、識者や市民の意見を聴きながら、ゆっくりとつくりあげていく過程が、まちづくりでしょう。もし、理念や計画・方針を変えようとするなら、識者による審議と市民の合意が欠かせません。
 「まちは市民の手に成る芸術品」といわれます。市民一人ひとりの協力と参画が必要です。
 いたずらに効率と機能を追い求めるのではなく、歴史や伝統を重んじ、住む人の息づかいが聞こえる、そんなまちこそ望まれます。あわせて、まちは美しくなければなりません。そのためにも、緑と水を守り育てるほか、市民と企業の美的感性が磨かれ、高められなければならないのです。

(引用終了)
<同書 207−208ページより>

と書いておられる。金沢は、これからもたびたび訪れたいと感じさせる町だ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:16 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

文化の三角測量

2014年11月25日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『〈運ぶヒト〉の人類学』川田順三著(岩波新書)という本を読んだ。本カバー裏の紹介文には次のようにある。

(引用開始)

アフリカで生まれ、二足歩行を始めた人類は、空いた手で荷物を運び、世界にちらばっていった。この〈運ぶ〉という能力こそが、ヒトをヒトたらしめたのではないか?アフリカ、ヨーロッパ、東アジアの三つの地点を比較対照し、〈運ぶ〉文化の展開と身体との関係を探る。人類学に新たな光を当てる冒険の書。

(引用終了)

これまでヒトについての名称は、ホモ・サピエンス(知恵のあるヒト)、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)、ホモ・ヒエラルキクス(階層化好きのヒト)、ホモ・ファベル(作るヒト)など色々とあるが、川田氏はホモ・ポルターンス(運ぶヒト)という視点から、ヒトとその文化を考察する。

 その際使われる手法が、アフリカ、ヨーロッパ、東アジアの三つの地点を比較対照する、所謂「文化の三角測量」だ。

(引用開始)

 文化を比較するのには、大きく分けて二つの方法があるといえる。
 一つは、歴史上関係があったことが明らかな文化を比較するもので、たとえば日本列島の文化と、中国大陸や朝鮮半島の文化の比較がそれにあたる。その場合、影響や伝播によっておこった変化、受入れられたものと、受入れられなかったもの、なぜそうだったのか、などが関心の対象となる。
 もう一つは、地理的にも文化的にも著しくへだたり、相互に直接の影響関係がまったく、あるいはほとんどなかったような三つの文化を比較するもので、この本で私が用いるのはこの方法だ。私の場合、人類学を志してからの主な研究対象地域が、日本からはじまって、西アフリカ、フランスへと広がってゆき、二○代のはじめから現在まで六〇年あまり、三つの地域を行き来して研究をつづけるうちに、ひとりでに身についた比較の方法でもある。

(引用終了)
<同書 22−23ページより>

ということで、川田氏は、前者を歴史的比較、後者を論理的、ないしは発見的比較と呼ぶ。後者においては、一つの文化だけを見ていたのでは気づかない隠れた意味を発見することができるという。

 氏はこの手法、文化の三角測量(フランス文化、日本文化、旧モシ王国の比較)によって、ヒトと道具における三つのモデル、

A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)
C=人間(人体)の道具化(旧モシ王国)

を措定する。

A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)

については、以前「脳と身体」の項で、複眼主義の二項対比に引き寄せて論じたことがある。併せてお読みいただきたい。Aには「二重の意味での人間非依存」があり、Bには「二重の意味での人間依存」があるという指摘が重要だ。

(引用開始)

 モデルAにおける「二重の意味での人間非依存」とは、第一に、人間の巧みさに依存せず、誰がやっても同じようによい結果が得られるように道具を工夫するという嗜好性と、第二に、人力を省き、畜力、水力、風力など、人力以外のエネルギーをできるだけ利用して、より大きな結果を得ようとする嗜好性に、その特徴を見ることができる。(中略)
 これに対して、モデルBの「二重の意味での人間依存」の第一は、人間の巧みさによって単純で機能未分化な道具を多機能に使いこなすことであり、第二に、よい結果を得るために、人力を惜しみなく投入することである。
 第一の点は、箸や船を進める艪(ろ)に、よい例を見ることができよう。第二の点は、限られた水田(灌漑による稲作は、同じ土地でいくらでも連作が可能な、まれな農法だ)で、労働生産性は無視して土地生産性を上げるための、惜しみない勤労を推奨する価値観に見ることができるだろう。

(引用終了)
<同書 102−104ページより>

前者モデルAが、西洋近代文明へ繋がることは容易に想像がつく。

 モデルA=西洋近代文明はその後世界を席巻し、グローバル化していく。川田氏はそれを幾つかのステージに分け、今は第五のグローバル化時代だという。

(引用開始)

 第二次大戦という人類にとって空前の破壊の後に始まった、アメリカ主導の第四次グローバリゼーションのあと、ソ連圏の崩壊以降現在までつづく第五のグローバル化には、三つの特徴を見ることができる。
 その一は、対戦終結後まもなくの技術の進歩と経済的豊かさへの漠然とした夢が、地球規模での資源の枯渇や環境破壊への危機感によって消えたこと。その二は、戦後の冷戦構造が、社会主義ブロックの崩壊によって消滅し、新・自由主義経済の弱肉強食が、世界を覆うようになったこと。第三に「情報」が肥大し、金融経済だけでなく、人類の精神生活全般にとってもつ意味が、極めて大きくなったことだ。
 現在世界に求められているのは、根本的なパラダイム、考え方の枠組みの変換だ。局所療法、対症療法が、いたるところで頭打ちの困難に直面している現状で、人間の技術と、ヒト=自然関係のありかたについての、パラダイムの根源的再検討と変換への模索が必要だ。
 この本で見てきたように、私たちの先祖が二足歩行により、荷物を運んでアフリカを出た結果、ホモ・サピエンスは生物の単一の種speciesとしては例外的に、世界のあらゆる自然環境に適応して異常増殖した。そして私たちの個体数は、現在でも七〇億あまり、二〇五〇年には九〇億をゆうに越えると予想されている、それは、他の多くの生物種を日々絶滅させながら、私たちが一日も休まず歩きつづけている、ヒト中心に考える限り、出口の見えない道でもある。種間倫理の探求が、差し迫った現実の問題となっている一方で、宣戦布告なきヒト同士の殺し合いが、今ほど激しい時代もなかったであろう。(中略)
 文化、とくに月まで到達した科学技術の進歩に人々が喝采する一方、二十世紀は未曾有の規模で、ヒト同士の大量殺戮が行なわれた世紀だ。ヒト同士が大規模に殺し合っただけでなく、「知恵のある人」がその技術力で、ヒト以外の種の生物を無制限に殺し、生態系の調和を危うくしたのも二十世紀だ。
 こうした暗い未来図を前にして、私たちが抱きうるせめてもの希望は、ヒトを絶望に向かって追い立ててきたグローバルな流れの底で、あちこちにささやかな逆流をおこしてきた、それ自体決して固定されたものでない、「エスニック」なものの芽を、「グローバル」との関係で育ててゆく努力ではないだろうか。

(引用終了)
<同書 154−157ページより>

ここにある考え方は、このブログにおける「モノコト・シフト」の認識と踵を一にするものだ。「エスニック」とは、それぞれの土地(場所)の民族文化に由来するさまであり、画一的でない多様な「コト」が起きる原動力である。

 モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による、「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。

 川田氏はこの本の最後で、われわれが「運ぶヒト」の原点に帰ることを提唱する。

(引用開始)

 アフリカでは、子どもが学校へ行くときにも、本やカバンを頭の上に乗せてゆく。日本のように太陽光がつよく、暑い国で、子どものときから荷物を手に持たず、帽子代わりに頭上で運ぶ週間がひろまれば、まず間違いなく姿勢が良くなる。女性も、頭に本をのせて歩く美容体操をしなくても、靴のかかとをひきずらなくなるだろう。
 リサイクル可能な植物容器の半球型ヒョウタンの器で、頭上運搬――思えばそれは、この本のはじめに描かれた、直立二足歩行を達成した「運ぶヒト」が、アフリカを旅立ってゆく姿でもあった。
 自分自身の身体を使って、身の丈(たけ)に合ったものを運ぶという、ヒトの原点にあったはずのつつましさを思い出すこと――現代以降の地球に生きる私たちホモ・サピエンス、知恵のあるヒトが、その名に値するよう、他の生きものたちと一緒にさぐってゆくべき長い道のりが、私たちの前には、のびている。

(引用終了)
<同書 169−170ページより>

これはモデルC=人間(人体)の道具化の再導入でもありなかなか興味深い。

 尚、ヒトと道具における三つのモデル、

A=道具の脱人間化
B=道具の人間化
C=人間(人体)の道具化

については、姉妹サイト「茂木賛の世界」で始めた文芸評論『百花深処』の<反転同居の悟り>の項でも触れた。併せてお読みいただければ嬉しい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:56 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

二つの短編小説

2014年11月11日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 最近二つの短編小説を書き上げた。姉妹サイト「茂木賛の世界」にアップしたので、興味のある方は仕事の合間にでも「作品リスト」から選んでお読みいただければ嬉しい。長さはともに15枚程度(400字詰原稿用紙換算)。

 一つは「老木に白雪」。昔、化野念仏寺を訪れた際にアイデアが浮かんだ。京都は奥嵯峨の山中に住む老翁のところへ、東京の元大尉より一通の遺書が届くところから話が始まる。最後の一行に集中していくための展開に悩んでいたが、知恵の逃避行を入れることで一気に完成した。

 もう一つは「夜のカフェ」。昔、ゴッホの弟テオ宛の手紙を読んだ際にアイデアが浮かんだ。ブラジルW杯決勝前夜、ブエノスアイレスの酒場での出来事を描いた作品だ。最近読んだ『ブエノスアイレス午前零時』藤沢周著(河出文庫)からインスピレーションを得て出来上がった。

 二つはペアのような作品で、どちらも、固有の場所を背景に、死を越えた人の意思のようなものを表現しようとしたものだ。人は誰も心の中に愛する人を持っている。母であったり息子であったり、妻であったり夫であったり。そして、愛する人の魂がこの世を去ったとしても、残された側の心の中にあるその人の記憶は消えることがない。

 こうして昔の着想を作品化することができ些(いささ)か感慨深い。小説を書くのは愉しい。レトリックの勉強も生かしたつもりだ。これからも面白いテーマを見つけて書いていきたいと思う。

 尚、「夜のカフェ」について最近友人から以下の感想を貰った。

(引用開始)

 読みました。女性が主人公なのにヘミングウェイの男の雰囲気を感じさせました。説明的でない簡潔でさりげない会話に内在する感情の微妙なすれ違いに、お互いの交差しない想いが印象的でした。ヘミングウェイの短編集やR.チャンドラーの作品のような雰囲気が好きなので、面白く読ませていただきました。

(引用終了)

味のある言葉で嬉しい。皆さんからも是非コメントなどお寄せいただければと思う。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:55 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

虚の透明性とモダニズム文学

2014年08月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日「虚の透明性」の項で、隈研吾氏は評論家吉田健一のいう「たそがれとしての近代」と近代建築の「虚の透明性」とを重ね合わせた、と書き、隈氏の著書『僕の場所』から、

(引用開始)

 「虚の透明性」という概念は、僕にとって腑に落ちるものでした。それは「近代=モダン」という時代の根底にある、重要な概念です。「たそがれ」の時代には、すべてが重なって見えるのです。ロウはその意味で、僕が目指す「たそがれ」の時代の建築の姿を暗示してくれた、大切な恩人です。
 現在の中に過去があり、現在の中に未来がある。自分の中にも他人があり、他人の中にも自分がいる。そのような重層性こそが、「近代=モダン」という「たそがれ」の時代の本質です。(中略)
 過去と現在が重層し、近くと遠くのものが重層する状態こそが、「近代=モダン」という時代のすべての領域に共通する特質なのです。

(引用終了)
<同書 190−191ページ>

という文章を引用したが、吉田健一の主張を継いだ作家丸谷才一(本名根村才一)は、モダニズム文学について、その著書『樹液そして果実』(集英社)の中で、次のように書いている。

(引用開始)

 一体にモダニズムについて考えるときには、時間というふもの、歴史といふものが重要な装置となります。今がすぐ今でなくなるやうに、現代はやがて現代でなくなる。しかしさういふ、時間につきもののうつろいやすさ、はかなさのなかに、特異な美の形、詩情がある。花やかさ、華奢で贅沢な趣がある。これは日本的な美の感じ方の特徴でもあるのですが、さう言へば平安朝の日本語には「今めかし」といふ言葉があって、これは、(1)現代的である、(2)花やかである、の両義を持つてゐました。そこで「モデルニテ」はいつそ「今めかしさ」と訳せば一番いいかもしれません。(中略)
 一方、今を気にかけることは昔を意識させるし、現代を楽しむことは古代を思ひ出させる。そこで新しさと伝統とがかへつて結びつく。歴史は平凡に退屈に流れていくものではなくつて、現代を過去との関係に緊張関係が起り、冒険の意欲が生じる。「歴史というのは、ぼくがなんとか目を覚ましたい思っている悪夢なんです」と『ユリシーズ』のなかでスティーヴン・ディーダラスは言ふ。古典主義が前衛を生む。

(引用終了)
<同書 212−213ページ、フリガナ省略>

モダニズム文学は、今を大切にするが故に、かえって歴史や伝統、神話や社会のあり方といったものを重要に考え、それに新たな光を当てようとする(新たな見かたを与えようとする)わけだ。そういえば、丸谷の作品にはそういった特徴が多く見出される。

1.古典に新たな光を当てようとする(源氏物語や忠臣蔵など)
2.言葉への拘り(旧仮名や多彩なレトリックの使用)
3.社会のあり方への提言(社交や挨拶の重視、書評やエッセイの執筆)

 丸谷才一は2012年に亡くなった。その後『丸谷才一』(文藝別冊、河出書房新社)や『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正編(集英社新書)なども出て、氏の文学の評価は高い。しかしなぜか、彼のあとを継ぎ、旧仮名でレトリックに富んだ文章を書く人はあまり居ないようだ。

 幸い丸谷才一は、その拘り抜いた日本語で、数多くの小説やエッセイ、評論や書評を書いているから、それらを読み返しながら、氏の「虚の透明性」に富んだ世界を愉しむとしよう。後期の小説『輝く日の宮』について、作家阿刀田高氏が書いた文章がある。

(引用開始)

 丸谷才一『輝く日の宮』(講談社文庫)とタイトルを見ただけで、「えっ、本当。すごい」と胸を弾ませる人もいるだろう。知る人ぞ知る、出色のテーマである。しかも碩学・丸谷才一が綴っているのだ。
 もとはと言えば『源氏物語』だ。日本文学の金字塔だが、どのくらい読まれているのだろうか。現代語訳で須磨・明石くらいまで……。あるいは「桐壺」だけ読んだなあ」。書名しか知らない人も多い。
 が、それはともかく、この「源氏物語」は天下の名作ながら、ちょっと不思議なところがある。第一帖の『桐壺』と第二帖の「帚木」と、二つのあいだのつながりがヘンテコなのだ。うまくつながっていない。つながりがわるいばかりか、このあたりで当然説明しておかなければ、あとで困ってしまうような……前に説明しておいてくれなければ、「なんでこんなことが急に起るの」と読者に疑念を抱かせるような構造になっているのだ。名作として大きな瑕、そう言えなくもない。
 そこでここには……第一帖と第二帖とのあいだには『輝く日の宮』という一帖があったのではないか、と古来、言われているのだが、学説としては否定されている。完全否定。散逸があったわけでもないらしい。
 でもね、学者がいくら否定しても読めば読むほど『輝く日の宮』の存在を信じたくなってしまう。実在していた、と願いたくなる。
 そこへ丸谷才一が切り込んだとなると、これは相当におもしろかろう。
 私は数年前、四六版で出版されたときに瞥見していたのだが、書店の店頭で文庫本のあるのを見つけて購入、長旅のつれづれに読みふけった。
 ペダンチック。でも凄い。存在しなかったと言われる『輝く日の宮』を想像することは『源氏物語』の成立やストーリー展開を深く理解することに通じる。それだけでもお得用だが、最後に研究者を越えた……つまり小説家である丸谷のみごとなイマジネーションが用意されていて、ミステリー小説の趣さえある。だから種あかしは控えるが、私は熟読、興奮、大満足、優れた奇書と思った。

(引用終了)
<毎日新聞 9/1/2013、フリガナ省略>

気に入った作品なので紹介文を引用しておいた。手軽な文庫だから皆さんも手にしてみてはいかがだろう。文庫でもきちんと旧仮名のままにしてあるところが佳い。永井荷風や三島由紀夫などの小説は、単行本は旧仮名でも文庫では新仮名づかいに変換してあって興ざめだが、丸谷才一は生前それを良しとしなかったようだ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 12:15 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

21世紀の絵画表現

2014年03月25日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 去年の11月、国立新美術館で、ゴッホ、スーラーからモンドリアンまでの点描画を集めた「印象派を越えて 点描の画家たち」を観た。19世紀後半に生まれたこれらの点描画は、思考におけるアナログからデジタルへのシステム転換であり、それは、20世紀の現代人の孤立した実存を支える「新しいパラダイム」の到来を告げるものであったとされる。私は作品を観ながら「点描画が20世紀のパラダイムの到来を告げる絵画表現であったとしたら、21世紀のモノコト・シフト時代の、新しいそれは何なのだろう?」ということを考えた。

 20世紀の西洋絵画は、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくわけだが、その過程は、点描画のデジタル・システムをさらに推し進めて、形態それ自体をも解体してゆく、還元主義的な精神運動として捉えることが出来るように思う。その運動は、この世紀の戦争や環境破壊と踵を一にしている。だとしたら、21世紀の「コト」への関心を示す絵画表現とは何か?

 滝のモチーフで知られる日本画家の千住博は、『動的平衡 ダイヤローグ』福岡伸一著(木楽舎)における福岡氏との対談の中で、次のように述べている。

(引用開始)

千住 絵画は、それ自体、動かない。けれど、モネの睡蓮の絵のように、温度の差や光のうつろい、音や気配、湿度や匂いを目に見えるようにすることで成り立っています。これらはすべて「動き」ですよね。むしろ、絵のなかで動きを止めることによって、かえって違和感から動きが強調されることもある。
福岡 おっしゃるとおり、絵画は動きを表すために、時間を止めていますよね。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』や「真珠の首飾りの少女」も、ちょうど写真家がそうするように、ある決定的な瞬間を切り取っている。そこには、その瞬間に至る時間と、そこから出発する時間とが一瞬のうちに捉えられています。
 フェルメールが自分の「部屋」を見つけたように、千住さんは「滝」を発見されたと思うんですが、滝とはまさに、常に水が流動する動的な存在ですよね。滝を描くにあたっては、やはり動きを絵のなかに捉えたいという思いがあったんでしょうか。
千住 それはもちろん、ありました。動的なものとは、つまり、プロセスですよね。滝は上から下へと水が流れ落ちる、いわばプロセスそのものです。あるとき、私は滝の動きを観て非常に感動したんです。それは、人類がなぜ芸術を生み出したのか、その起源にまで遡るような本能的な感動だった。そして、なんとかこの動きのプロセスをつかみ取りたい、描きたいと思ったんです。

(引用終了)
<同書 202−203ページ>

ということで、フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものをキャンバスに描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない。

 20世紀には、写真や映画といった新しい視覚表現も興隆してきた。モノコト・シフト時代の新しい表現ということで、最近観た2本の映画を紹介したい。

 1本目は、『かぐや姫の物語』高畑勲監督(スタジオジブリ)という日本の映画だ。『かぐや姫の物語』は、一枚の絵全体が動くようなアニメーションが特に素晴らしかった。この、背景時空の無い、水彩画のような動画、絵画のような深みを持ちつつ、「コト」表現として充分な情報量があるアニメは、新しい視覚表現の一つの方向だと思われる。動画(投射光)でありながら、絵画(間接光)のような余韻を持つこのような手の掛かる作画方法を基に、137分の作品を作ってしまう日本アニメの底力は凄いと思う。母音満開の音楽も良かった。

 スタジオジブリの映画『風立ちぬ』は、滅びの美学だった。動く水彩画のようなアニメ『かぐや姫の物語』は、そこからの再生の美学なのかもしれない。高畑勲監督が「宮崎駿さんは引退を撤回するかもしれませんよ」と言ったのは、盟友による再生の美学を観たいという意味なのかもしれない。

 もう1本は、「議論のための日本語 II 」の項でも触れた、『ゼロ・グラビティ』A・キュアロン監督(ワーナー・ブラザース)という映画だ。これは、『かぐや姫の物語』の対極にあるようなCG・特撮・3Dを駆使したアメリカ映画だけれど、モノコト・シフト時代の視覚表現のもう一つの方向性には、このような、特撮による「コト」表現の極大化もあるのだ。今年のアカデミー賞で、監督賞をはじめ最多7冠に輝いたのも頷ける。3D眼鏡による、地球を見下ろす宇宙の疑似体験が面白かった。

 『かぐや姫の物語』と『ゼロ・グラビティ』両者に共通しているのは、地球賛歌のテーマだ。これも、資源循環を大切に考えるべき21世紀の大切な視点の一つに違いない。前者は月への帰還、後者は地球への帰還というラストの対比も面白かった。『かぐや姫の物語』が日本人のアニメ手仕事の集大成とすれば、『ゼロ・グラビティ』は西洋人の機械による特撮の集大成ともいえる。

 『ゼロ・グラビティ』には、20世紀の行き着く先を暗示した映画『2001年宇宙の旅』(1968年公開)へのオマージュも随所に見られた。『2001年宇宙の旅』に関しては、「三拍子の音楽」の項も参照していただきたい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 16:27 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

カヤックと鯨の骨のモニュメント

2014年02月18日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「竜神伝説」の項で紹介した梨木香歩さんの『冬虫夏草』は、鈴鹿山中愛知川流域という狭いミクロ・コスモスの物語だった。「青玉伝説」の項で紹介した星川淳氏の『タマサイ 魂彩』は、海流域というマクロ・コスモスを跨ぐ壮大な物語だ。そのスケールは対照的だが、内容は共に、聖なる奥山と人の心の奥とを結ぶ「両端の奥の物語」である。小説を演出する「竜神」と「青玉」、二つの伝説はどちらも、それぞれの流域を繋ぐ“コト”の象徴としての役割を果たしていた。

 私は二つを並行的に読み進めながら、竜神伝説と青玉伝説の神秘を愉しむとともに、前者の「内部に籠もる」感じと後者の「外へ拓く」感じの双極性、いわゆる「内臓系と体壁系的双極性」をも同時に楽しんだ。複眼主義でいえば、内臓系=女性性、体壁系=男性性ということで、梨木さんと星川氏の性別と重なるわけだが、女性性を感じさせる小説の主人公が男性(綿貫征四郎)で、男性性を感じさせる小説のメイン主人公が女性(由紀)というのもまた、メビウスの輪のように捻れていて興味深い。

 奥山と人の心の奥とを結ぶ物語といえば、今から18年前(1996年)に急逝した、写真家星野道夫氏のことを想い起こす。星野氏は、アラスカを舞台に、自然と人の魂とを繋ぐ優れた写真(とエッセイ)を数多く残したことで知られている。小学館から出版されている、

『アラスカ 風のような物語』星野道夫著
『アラスカ 永遠なる命(いのち)』星野道夫著
『ぼくの出会ったアラスカ』星野道夫著

の3冊は、持ち運ぶのに便利な文庫スタイル(小学館文庫)でありながら、多くの写真とエッセイを楽しむことのできる素敵なシリーズ本だ。解説はそれぞれ、作家大庭みな子氏、尊父星野逸馬氏、奥様星野直子さんとなっている。私は『冬虫夏草』と『タマサイ 魂彩』を読み進めながら、合間に上の3冊のページを開いては、その素晴らしい写真とエッセイを堪能した。

 たとえば、『アラスカ 風のような物語』の冒頭にある、雄大な自然をバックに写した動物たち。平原を横切るカリブーの群れ、夕暮れのマッキンレー山脈を背にして湖に佇む一頭のムース、白い息を吐きながら雪原を歩む二頭の北極グマの後姿、切り株の上で木の実を食む愛らしいアカリス。そして(これは植物だが)、陽を浴びて背を伸ばす紫色のワイルドクロッカス。最初のカリブーの写真の右上には、

(引用開始)

あらゆる生命は同じ場所にとどまってはいない
人も、カリブーも、星さえも、
無窮の彼方へ旅を続けている

(引用終了)

という言葉が刻まれている。3冊の本には、全編に亘ってこのような詩情豊な写真と文章が載っている。是非手に取ってご覧いただきたい。

 梨木香歩さんと星川淳氏は、それぞれ、星野氏の写真を本のカバーに使っている。梨木さんのそれは、『春になったら苺を摘みに』(新潮文庫)と『水辺にて』(ちくま文庫)、星川氏のそれは、『ベーリンジアの記憶』(幻冬舎文庫)と今回の『タマサイ 魂彩』(南方新社)である。『水辺にて』で使われたのはカヤックの写真。梨木さんは同書の「発信、受信。この藪を抜けて」の項で、その辺りのことを次のように書いている。

(引用開始)

 ちょうど連載の第一稿を編集部へ送り、それから一人で近くの雪の降るS湖に漕ぎに行った日のことだった。帰宅すると郵便が届いていた。出版社から回送されてきたひとまとまりの中に、ポストカードが二枚、丁寧に封筒に入れられて入っていた。そのポストカードの写真を、思わず見つめ直した。一枚目の写真はたぶんアラスカの湖、カヤックが一艘浮かんでいる。私のカヤックと全く同じ色(大きさと形は違う。写真に写っているものは、いわゆる、「長期のツーリングに耐える」、大荷物を運ぶための、けれどやはりフォールディングタイプ)、係留されていて、固定されたパドルが片方、湖面に入っている。人はいない。たぶんこの艇の持ち主はこの写真を撮っている当人。そしてきっとそれは、と確かめるとやはり、アラスカの写真で有名な、亡くなった写真家のものだった。(中略)
 そのポストカードに書かれた肝心の文章自体は、私の過去の作品使用に関する、短いがとても感じのいい礼状のようなものだったが、添えられていた異国の歌の詩が、どういうわけか、このとき私が巻き込まれていた状況を俯瞰するようなものだった。それまで会ったことも話したこともないその送り主は、こちらの事情などご存知のはずもないのに、それらは本当にタイムリーに、まるでいくつもの偶然を利用し、届いた、「何か」からの「信号」のように、そのときの私の内側と奇妙にも深く響き合った。

(引用終了)
<同書 46−47ページ>

同書カバーの靄に翳む湖に浮かぶカヤックの写真は、美しく幻想的だ。

 星川氏の『ベーリンジアの記憶』では、鯨の骨のモニュメントの写真が使われている。その写真について、氏は同書のあとがきの中で次のように書いている。

(引用開始)

 末筆ながら、この物語の誕生にもかかわり、出版を喜んでくれた写真家の星野道夫氏が九六年、カムチャッカ半島でヒグマに襲われ帰らぬ人となった。ちょうど私が前述の一年にわたる旅をするころ、星野氏も絶筆となった『森と氷河と鯨』(世界文化社)の連載でアラスカとシベリアにまたがる旅をしていて、忙しい中からこんな感想を寄せてくれた。

  ……読み始めてすぐこの世界に入ってゆくことができました。現代と重複させながら書かれたのも良かったと思います。“すきま”という言葉はとても面白く、イメージをふくらませてくれました。骨が散らばるベーリンジアの書き方は、つかみどころのないこの草原に確かなイメージを与えてくれました。とても好きだった言葉は、“かんじんなのは他人の考えをよむことじゃない。そのもっと奥にある大きな願いというか、たくさんの人間や生きものが、太初のときからずっと抱きつづけてきた希望をくみとることだ”というところです。

 死の直前、ロシア側チョコト半島の海辺で鯨の骨のモニュメントに出会ったとき、星野氏はその撮影に大量のフィルムを費やしていいる。もしかすると、彼の頭の中にはユカナたちの見た<境>の風景が重なっていたのかもしれない。――そんな勝手な想像から、文庫本化にあたって遺作の一枚を表紙に使わせていただいた。

(引用終了)
<同書 311−312ページ>

同書カバーを飾る鯨の骨のモニュメント写真は、明瞭にして超越的だ。

 星野氏が存命であれば、『冬虫夏草』と『タマサイ 魂彩』が出たところで、梨木さん、星川氏、そして星野氏3人の「鼎談」などを企画したいところだ。テーマは「自然と人の魂を繋ぐ物語について」。北海道とアラスカ、鯨とオオワシ、カヤック、琵琶湖と屋久島、竜神と青玉伝説、沖縄とハワイ、きっと話は尽きないだろうに…。その早すぎる死(享年43歳)に対して、哀惜の念を禁じえない。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:27 | Permalink | Comment(1) | アート&レジャー

青玉伝説

2014年02月11日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「竜神伝説」の項で紹介した『冬虫夏草』と同時に読み進めたのが、友人星川淳氏の小説『タマサイ 魂彩』(南方新社)という本だ。今回はその話をしたい。まず、本カバーの帯と表紙裏の案内文を紹介しよう。

(引用開始)

魂の源流をたどって<海の道>へ――
青い石が語る祖霊たちの声
新しいSF=ソウルフィクションの誕生か!?

まことに、この世は白い民の訪れと、あの火筒のせいで終わる。
これから五百年後、その病が地上を覆い尽くし、焼き尽くすだろう。
だが、われらは次の世の備えをしなくてはならぬ。
そのとき、青い石を通じて魂の自由を思い出させるのは
私らよりももっと古い祖霊たちの声だ。

(引用終了)

 本書の主人公は、以前「文庫読書法(2010)」の項で紹介した、星川氏の『ベーリンジアの記憶』と同じ語り手由紀、それと、種子島に鉄砲が伝来した16世紀を生きる龍太の二人である。

 話は、由紀の生きる201X年と、龍太の時代1545−1550年を舞台として、交互に展開する。由紀は、飛行機で日本からカナダ、ハワイ、屋久島、沖縄、広島、アメリカ・ニューメキシコへと旅をし、16世紀の龍太は、舟で種子島から黒潮にのって北米大陸へ、そして大陸沿いに南へ下る。その間、由紀は様々な人と巡り会い、龍太は各地で冒険を繰り返す。男女の愛の物語も進行する。

 21世紀と16世紀という離れた時空を繋ぐのは、両方に登場する「青玉(ターコイズ)」だ。昔、ヒマラヤ山中にある、宝石のような湖で生まれた三つの美しい青玉。そのうちの二つは龍太の時代に、龍太や双子の姉妹の手を経て、もう一つは他の時代に別ルートで、共に北米大陸に渡る。

 三つの青玉は、その後さらに数奇の運命を辿り、最終的に、一つは主人公由紀のブレスレットに、もう一つは由紀がハワイで出会うケン(由紀の許婚となる男性)の胸に、そして三つ目は、北米大陸インディアンの末裔の手元に残された。

 「三つの石がふたたび出会うのは、次の世がはじまるとき。この世の終わりが終わるときだ」とは、龍太が出会った土地の老女の言葉だった。その予言をなぞるように、由紀とケンは、旅先ニューメキシコの地で(201X年8月28日に)、三つ目の青玉を持つインディアン女性と邂逅する…。

 この小説のテーマは、太古の昔からあったであろう、太平洋を跨ぐ民族の交流を跡付けることと、火縄銃に象徴されるヨーロッパ文明の次に来る筈の、新しい時代について考えることだ。その意味でこの本は、前作『ベーリンジアの記憶』や、星川氏の他の活動と密接に繋がっている。本の「あとがき」から一部引用しよう。

(引用開始)

 前作以来、魂の源流を探っていくと、そのむこうに現代や未来の問題が見えてくる、そしてその逆も真である、一見不思議だけれども、ある意味ではあたりまえの共時世界に馴染んだ私にとって、この物語は時間と空間を越えた“親族”の来歴の一端です。過去から未来を見ているのか、未来から過去を見ているのか――いやじつは、私たちの深い学びはそういう矢印とはあまり関係なく起こるのかもしれません。

(引用収容)

民族交流の本当の歴史、物質文明の次の世界、どちらも21世紀のモノコト・シフト時代の重要なテーマである。これからも氏の仕事を応援したい。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 16:28 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

竜神伝説

2014年02月04日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「両端の奥の物語」の項で、流域の両端(奥山と奥座敷)を言葉で繋ぐ梨木香歩さんのエッセイを紹介したけれど、去年の秋出版された梨木さんの『冬虫夏草』(新潮社)は、小説の形で流域の両端を結ぶ味わい深い物語だ。初めに、本カバーの帯(表、裏)から案内文を引用しておこう。

(引用開始)

ここはすでに、天に近い場所(ところ)なのだ――。
『家守綺譚』の主人公にして新米精神労働者たる綿貫征四郎が、鈴鹿山中で繰り広げる心の冒険の旅。それはついこのあいだ、ほんの百年すこしまえの物語。

疎水に近い亡友の生家の守(もり)を託されている、駆け出しもの書き綿貫征四郎。行方知れずになって半年あまりが経つ愛犬ゴローの目撃情報に加え、イワナの夫婦者が営むという宿屋に泊まってみたい誘惑に勝てず、家も原稿もほっぽり出して分け入った秋色いや増す鈴鹿の山襞深くで、綿貫がしみじみと瞠目させられたもの。それは、自然の猛威に抗いはせぬが心の背筋はすくっと伸ばし、冬なら冬を、夏なら夏を生き抜こうとする真摯な姿だった。人びとも、人間(ひと)にあらざる者たちも……。

(引用終了)
<傍点省略>

どこか漱石『草枕』の語り手を髣髴させる本書の主人公綿貫征四郎は、愛知川流域を遡る道中、村びとや友人の細菌学者、河童や天狗、赤竜の化身などと巡り会い、最後に瀑声轟く滝の下で愛犬ゴローと再会する。

 この小説は、以前に出版された『家守綺譚』(新潮文庫)の続編であり、ほぼ同時に出版された『村田エフェンディ滞土録』(角川文庫)とも話が繋がっている。その繋がりを演出するのが、いづれの書にも登場する「竜神」だ。『家守綺譚』の白竜、『村田エフェンディ滞土録』に登場する火の竜サラマンドラ、そして『冬虫夏草』の赤竜の化身である。

 村人たちの言い伝えによると、奥山竜ヶ岳から四方へ流れ出る宇賀川、青川、田光川、そして愛知川は、それぞれ白竜、青竜、黒竜、赤竜に守られているという。そのなかで、愛知川を管轄する赤竜が、長いことその地を留守にしていた。征四郎は道中、愛知川に戻る赤竜の化身と出会う。赤竜が愛知川に戻れば川は守られる。しかし、征四郎の亡友高堂は、宿に泊まる征四郎の枕頭で、「この地は将来、巨大な河桁によって水の底に沈む」と不吉な予言を残す。巨大な河桁とは、おそらく昭和に入って出来た永源寺ダムのことのようだが、この小説ではそこまで詳らかではない。

 鈴鹿地方の竜神伝説は、以前「“タテとヨコ”のつながり」の項で述べた『オオカミの護符』の「オイヌさま」同様、流域の奥山と奥座敷とを結ぶ山岳信仰の神秘の象徴である。各地の流域には、このような奥山と奥座敷との間を結ぶ「魂の通う道」があった。しかし、大量生産・輸送・消費の時代に(ダムなどによって)寸断され、その多くが忘れ去られてしまった。「ついこのあいだ、ほんの百年すこしまえ」まで頻繁な行き来があったのに。

 21世紀のモノコト・シフトの時代、これら山岳信仰の神秘は、流域を繋ぐ“コト”の象徴として、再び見直され始めている。梨木さんは、その辺りのことについて雑誌のインタビューの中で次のように述べておられる。

(引用開始)

 ここ数年来、私自身意識する自分の「志向」として、匂い立つようなローカリティが書きたい、ということがあります。車で国道を走っていてもどうかすると北海道も鹿児島も同じような郊外型大型店やショッピングモールばかりで、方言も、もう昔のような方言は今の若い人には使えない、という話は全国至るところで聞きます。それはすなわち、噛み応えのある「その土地らしさ」が消え失せつつあるということ。おっしゃるような、土地の歴史、神話、地勢、習俗ひっくるめたローカリティというものを、せめて作品の中に、微(かす)かにでも残したい、という思いはあります。

(引用終了)
<小説現代1月号 581−582ページ>

 この小説は、村人たちが豊な方言で語る土地の伝承や風習、各章を彩る草木の名前、最後に泊まる竜の眷属イワナの宿、愛犬ゴローが見つかる暴たる竜など、愛知川流域の人や天地自然の気を描いて余すところがない。完成させた梨木さんの筆力を称えたい。また、綿貫征四郎物語は今後も書き続けられるだろうからそれも楽しみだ。

 本書を読んで興味を覚えた人は、『家守綺譚』と『村田エフェンディ滞土録』にも当って戴きたい。世界が広がり、感興が増すに違いない。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 09:53 | Permalink | Comment(2) | アート&レジャー

日本語の勁(つよ)さと弱さ

2013年10月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 今年も夏休みを蓼科にある兄の山荘で過ごすことができた。今回山へ持っていった本は、

“(株)貧困大国アメリカ”堤未果著(岩波新書)
“ピスタチオ”梨木香歩著(筑摩書房)
“アマン伝説”山口由美著(文藝春秋)
“占領史追跡”青木富貴子著(新潮文庫)
“文人荷風抄”高橋英夫著(岩波書店)
“福島原発の真実”佐藤栄佐久著(平凡社新書)

など。去年(「長野から草津へ」)同様、平行読書法の要領でこれらの本を読み進めた。

 “(株)貧困大国アメリカ”については、前回「地方の時代 II」の項で紹介、引用した。“ピスタチオ”は、「両端の奥の物語」の項で紹介した梨木香歩さんのエッセイ“水辺にて”(文庫本)と同時に出版された小説。日本とアフリカを精霊が繋ぐ不思議な物語だ。「ヨーロッパ人が最初にアフリカと出会ったとき、もっと互いの深いレベルで働いている何かを補完し合うような形の接触の仕方があったはずなのに、結局それはなされなかった。」(17ページ)という一文がある。彼女は、日本とアフリカの出会いを、「精霊」という互いの深いレベルで繋ごうと試みたのだろう。最後の“ピスタチオ―死者の眠りのために”という短編が味わい深い。

 “アマン伝説”は、ホテルや旅をテーマにしたノンフィクション作家による新作。取材が行き届いていて、アマンリゾーツなど、東南アジアのリゾート地図に私もだいぶ詳しくなった。“占領史追跡”は、ニューズウィーク東京支局長パケナムの日記を通して日本の戦後政治の貴重な一面を描く。

 “文人荷風抄”は、永井荷風とフランス語の弟子阿部雪子との交流を描いた評論。章立ては「文人の曝書」「フランス語の弟子」「晩年の交友」となっているけれど、眼目は真ん中のフランス語の弟子だろう。雪子(と荷風)の写真が本の絶妙な場所に載せてあるのが秀逸。

 “福島原発の真実”は、「アッパーグラウンド II」で検証した原発事故の発端となる、福島原発そのもの(特に3号機のプルサーマル導入)に対する前福島県知事による告発だ。「原発全体主義政策」という、日本の「過剰な財欲と名声欲、そしてそれが作り出すシステムの自己増幅」に対する告発書である。こういう優れた政治家の抹殺を許す土壌が今の日本(語)にはある。本書から一節を引用しておきたい。

(引用開始)

 日本では、使用済み核廃棄物――つまり、使用済み核燃料の処分方法について、歴史の批判に耐える具体案を持っている人は誰もいないのである。責任者の顔が見えず、誰も責任を取らない日本型の社会の中で、お互いの顔を見合わせながら、レミングのように破局に向かって全力で走っていく、という決意でも固めているように私には見える。大義も勝ち目もない戦争で、最後の破局、そして敗戦を私たち日本人が迎えてからまだ七〇年たっていない。
 これこそが「日本病」なのだと私は思う。

(引用終了)
<同書 205−206ページ>

 「両端の奥の物語」と「原発全体主義政策」。この両方を生み出す日本語の勁(つよ)さと弱さについて、改めて考えさせられる夏休みの読書だった。また、日本とアフリカ、フランス、アメリカ、東南アジアなど、地域間に起こるさまざまな“コト”の連携を思う読書ともなった。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:32 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

1963年

2013年02月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 遅ればせながら、“1Q84”村上春樹著(新潮文庫)を読んだ。文庫になったのを機に、1冊目から6冊目まで、主に電車やバスの中で読み継いだのだけれど、この間ずっと、車中や車窓の現実が、リトル・ピープルの支配する“1Q84”の「ズレた世界」と重なって見えるというシュールな体験が楽しめた。そして読み終えると、この身は現実(1984年の延長としての21世紀)に戻ったはずなのに、周りは依然として“1Q84”の延長のように見える。作者は小説を終わらせる都合上、青豆と天吾を1984年に戻したけれど、「現実は1984年以降、暗澹たる“1Q84”の世界に迷い込んだままだ」と言いたいのかもしれない。そうでなければ、“1Q84”の世界をあれだけ(文庫本6冊分も!)描く筈がない。

 その後、“1Q84”に関する書評や村上春樹についての評論をいろいろと読んでみた。その中の一冊、“空想読解 なるほど、村上春樹”小山鉄郎著(共同通信社)という本に、「村上春樹は1963年という年にことのほか思い入れがある」と書いてあった。1963年は、アメリカのケネディ大統領が暗殺された年であり、当時12歳の私がニューヨークで子供時代を過ごしていた年でもある。1949年生まれの村上春樹はそのとき14歳だった筈だ。小山氏は同書で次のように書いておられる。

(引用開始)

 話を簡単にするために、私の考えを先に書いてしまうと、このケネディへの記述の繰り返し、ケネディが暗殺された「1963年」の頻出は、ヴェトナム戦争への村上春樹のこだわりの表明ではないか。私はそう思うのです。

(引用終了)
<同書 55ページ>

 ケネディ大統領暗殺当時、私はニューヨーク郊外の公立の小学校に通っていた。その日学校にいた我々生徒は、何も知らされぬまま、全員構内の体育館に集められた。

 当時その小学校では、教室から教室へ授業に応じて移動する際、生徒全員が隊列を組んで廊下を歩いた。その日も我々は、教室から体育館までの暗い廊下を行進し、体育館に着くと、クラスごと纏まって木の床に座して次に起こることを待った。

 やがて体育館に入ってきた教師たちが、それぞれのクラスに対して、たった今現職の大統領がダラスで暗殺されたことを告げ、老年の教頭が即刻の休校を宣した。我々のクラスの担任は男性教師だったが、彼は目に涙を浮かべ、若く希望に溢れた大統領の不慮の死を悼んだ。そのあと、私は家のTVで暗殺当日の報道を見た。

 1963年に村上春樹がことのほか思い入れのあるという話に興味を覚えたのは、今私がその年の紐育(ニューヨーク)を舞台にした小説“太陽の飛沫”を書いているところだからである。電子書籍サイト「茂木賛の世界」で連載している。連載はもうすぐ終わるところだ。

 現実が「暗澹たる“1Q84”の世界」だとしたら、いずれ「“1Q84”の世界をどうするか」ということが書かれねばならない。私が思うところ、その戦いは、青豆と天吾が手を取り合ったように、一人ひとりの精神的「自立」と、信頼するもの同士の「共生」によってなされる筈だ。そしてその戦法は、敵と無闇に刃を交える決戦主義ばかりではない筈だ。

 私の小説“太陽の飛沫”は、1963年の夏、主人公がその辺りのことに気付くところで終わる。勿論“1Q84”などという言葉は出てこないけれど、世界が強大な「システム」によってコントロールされているという認識は共通している。思えば村上春樹は、1979年のデビュー作“風の歌を聴け”(講談社文庫)以来、戦術をいろいろと変えながらもずっとその“1Q84”的世界と戦い続けてきたのではなかったか。暗澹たる世界との戦いを始めるという意味で、私の“太陽の飛沫”は、彼の出発点となった“風の歌を聴け”に相当するといっても良いかもしれない。戦いは続編として続くことになる。

 ところで、生物学者の福岡伸一氏は、その著書“福岡ハカセの本棚”(メディアファクトリー新書)の中で、リトル・ピープルとは、あの悪名高い「利己的遺伝子」のメタファーではないかと書いておられる。勿論小説だから多義的な解釈が可能だけれど、私は、それは人の大脳新皮質に棲み着く「無限の欲望」の象徴なのではないかと思う。人の無限の欲望が「空気さなぎ」などという、一見自然な姿に擬態しているところが恐ろしい。皆さんはがいかがだろう。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:40 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

評論集“複眼主義”について

2013年02月04日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 電子書籍販売サイト「Paboo(パブー)」にて、評論集“複眼主義”茂木賛著(サンモテギ・リサーチ・インク)の販売を行なっている。表紙イラストは、友人でイラストレーターの山本峰規子さんにお願いした。本の紹介を兼ね、複眼主義とは何かについて、その前書きから引用したい。

------------------------------------------------
前書き: 複眼主義とは何か

 私は2004年まで、日本のエレクトロニクス企業に勤めておりました。思うところがあってその年に早期退職し、ビジネスコンサルタントとして「サンモテギ・リサーチ・インク」という会社を立ち上げました。会社では、企業のコンサルティング、起業のサポート、さらには書籍やブログの執筆などを行なっています。

 起業サポートの一環としてブログ「夜間飛行」を書き始めたのは、2007年の暮れのことです。今年で5年目を迎え、いまも書き続けています。そのなかで、この本のタイトルとなった「複眼主義」という考え方について、いろいろな角度から論じてきました。そして最近、この考え方について、本としてまとめておきたいと思うようになりました。

 ブログ記事は、テーマもさまざまですし、週一回仕事の合間に書いていることもあって説明が不十分なところもあります。とくに「複眼主義」のような系統だった話を理解してもらうには、過去のエントリーをいろいろと探して読んでいただかなくてはならず、月日が重なってエントリーが多くなってくると、とても手間が掛かります。それが、この考え方を本にまとめておきたいと思うようになった理由です。

 さて、複眼主義とは簡単に言うとどのような考え方でしょうか。世の中には、男と女、理性と感性、効率と効用などなど、様々な二項対比や双極性があります。複眼主義とは、

(一) 世の中の二項対比・双極性の性質を、的確に抽出すること
(二) どちらかに偏らないバランスの取れた考え方を実践すること
(三) 特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと 

と纏めることができます。

 ものごとを多面的に見ると、表面だけでなくいろいろなことが分かってきます。そこで、二項対比や双極性を踏まえた上でどちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践することを、「複眼主義」と名付けました。三つのポイントを一つずつ説明しましょう。

(一) 世の中の二項対比や双極性の性質を、的確に抽出すること

 複眼主義においては、世の中の二項対比や双極性の中から、対象を程よく絞り込み、その性質を的確に抽出することが大切です。たとえば、日本語に「心(こころ)」という言葉があります。二項対比をうまく引き出すためには、これを、「大脳新皮質主体の思考」と、「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」とに分けて考えます。大脳新皮質は、進化の過程で大きくなった脳の部分で、理性や合理的な判断を司っており、脳幹・大脳旧皮質は、感情や情動、身体の本能的な機能(自律神経系)を担っています。男と女についても、男性・女性という性別ではなく、二項対比をうまく引き出すために、「男性性」と「女性性」という、人がそれぞれ一定の比率で持っている認識の形式として考えます。

(二) どちらかに偏らないバランスの取れた考え方を実践すること

 次に、絞り込んだ二項対比や双極性を大局から眺め、どちらかだけに肩入れするのではなく、バランスの取れた考え方を実践します。どういう場面でどちらの要素が主導的になるかを分析し、実際の場面でどちらの要素を強く打ち出していくべきかを考えるわけです。ただし、「どちらかだけ」というのではなく、「どちらかというと」という曖昧さを残しておくのが複眼主義の実践面での要諦です。

(三) 特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと

 複眼主義では次に、ある特定の二項対比・双極性に対して、他の二項対比・双極性の特質を関連付け、項目同士の繋がりをさらに発展させていきます。ここが「複眼主義」のユニークなところかもしれません。「大脳新皮質主体の思考と脳幹・大脳旧皮質主体の思考」という二項対比・双極性(この本では「脳と身体」と呼んでいます)は、時間軸や言語システムなどと繋がりながら、「都市と自然」というもう一つの主要な二項対比・双極性と関連付いていきます。

 このような考え方は前から持っていましたが、「複眼主義」という名前を付けて系統立てて考えるようになったのは去年あたりからのことです。ブログというツールは、考えを整理していくのにとても良いメディアだと改めて感じています。それではどうぞ本文をお楽しみ下さい。
------------------------------------------------

 この本で論じられる二項対比・双極性は、主要な「脳と身体」及び「都市と自然」と、その周辺11項目。本の値段は105円。このブログの常連の方々は、すでに「複眼主義」の考え方に親しんでおられることと思うけれど、ご興味をお持ちの方は、是非販売サイトを訪れてみていただきたい。本の内容はさておき、表紙のイラストが可愛いとの評判だ。また、今年からFacebookも始めたので、そちらへもコメントをお寄せいただければ嬉しい。いろいろとお話をいたしましょう。

fukugan01r.jpg
http://p.booklog.jp/book/58461

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 17:02 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

海と心月

2012年10月09日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日新宿の「朝日カルチャーセンター」で、「密息と倍音」と「音響空間」の項で紹介した中村明一氏の講演を聴く機会を得た。中村氏とは中高(私立武蔵中学・高校)が同窓だったことがわかりご招待いただいた次第。当日は、中村氏による倍音に関する講義のあと、「鶴の巣籠」と「薩慈(さじ)」の独奏、深海さとみ氏と黒川真理氏による箏や三絃、唄もあり、久々に日本独自の音楽を堪能した。

 日本独自の音楽といえば雅楽もそうだ。私は尺八を聴きながら、三島由紀夫(本名平岡公威)の短編「蘭陵王」の一節を想起した。富士の裾野の営舎で、Sの横笛を学生達と聴いている場面だ。

(引用開始)

 私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知った。何ら発展しないこと、これが重要だ。音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるように!)、決して発展しないということ以上に純粋なことがあるだろうか。

(引用終了)
<「蘭陵王」(新潮社)258ページより(新かな・新字体に変更した)>

 中村氏の尺八演奏には「循環呼吸法」が使われる。循環呼吸法とは、吹きながら同時に息を吸い、まったく息継ぎをしないで吹き続ける呼吸法のことで、この部分を聴いていると、音楽が発展しないというよりも、さらに、一瞬時が止まったような感覚に襲われた。

 時の流れは環境変化によって知覚されるから、どこか山奥の静かなところでじっとしていると時が止まったように感じられる。しかし、耳を澄ませばせせらぎの音や鳥の声が聞こえたりして、人は改めて時の流れを知覚するわけだ。循環呼吸法によって奏でられる音は、ときにそのまま変化なく持続するから、時が止まったように感じられるのだろう。

 尺八を聴いた翌日、私は講演会場で買い求めた中村氏のCD“虚無僧尺八の世界 薩慈”(DENON)をかけながら、数日前に京橋で観た“ドビュッシー、音楽と美術”という美術展のカタログを見ていた。そういえば、三島由紀夫にはドビュッシーの“沈める寺院”を思わせる“沈める瀧”という題名の小説があった。“沈める瀧”のことは、「長野から草津へ」の項で触れた岩下尚史著“ヒタメン”にも出てくる。

 美術展のカタログの中に、ドビュッシーの音楽と浮世絵の影響について書かれた文章があったので、ふと思いついて(このような聴き方はあまりしないのだろうが)、ドビュッシーの交響詩“海”のあとに、中村氏のCDにある“心月”という静かな曲をかけてみた。このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き

という二項対比を論じているが、ドビュッシーの音楽が、Aの観点から「海」という自然を、五線譜によって知的(印象的)に描いているのに対し、中村氏の音楽は、Bの観点から「月」という自然を、息を通して身体の内側から描き出している。“海”が終わり“心月”が始まると、海のざわめきの上に、静かな月が煌々と照る様を観ているようで、尺八の音がことのほか深く心に染み入ってきた。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:44 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

長野から草津へ

2012年09月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 今年も夏休みを長野蓼科の山荘をベースにして過ごすことができた。この山荘、もともと父が建てたものだが三年前母が亡くなったあと兄が相続し管理してくれている。山荘では相変わらずの読書三昧。今年山へ持っていった本は、

“利休にたずねよ”山本兼一著(PHP研究所)
“惜櫟荘だより”佐伯泰英著(岩波書店)
“戦後史の正体 1945-2012”孫崎享著(創元社)
“隠された歴史”副島隆彦著(PHP研究所)
“楽園のカンヴァス”原田マハ著(新潮社)
“ヒタメン”岩下尚史著(雄山閣)

の六冊。いつもの平行読書法の要領でこれらの本を読み進めた。

 “利休にたずねよ”は、千利休と秀吉との確執を茶の道を通して描く。以前「都市計画の不在」の項で紹介した“対談集 つなぐ建築”(隈研吾著)のなかに、西洋への対抗軸として茶室建築の話がでてくるが、利休の茶室は、その後日本独特の数寄屋造りという建築様式を生み出す。近代建築に数奇屋を復活させたのが建築家吉田五十八であり、“惜櫟荘だより”は、その吉田が手がけた熱海の岩波茂雄の別荘を修復する物語だ。

 “戦後史の正体 1945-2012”は、元外交官が敗戦後の首相たちを評価する。評価基準は、自主派(積極的に現状を変えようと米国に働きかけた人たち)、対米追従派(米国に従い、その信頼を得ることで国益を最大化しようとした人たち)、一部抵抗派(特定の問題について米国からの圧力に抵抗した人たち)の三つ。主流を占める対米追従派の欺瞞性がよく描かれている。この研究は、“さらば吉田茂”片岡鉄哉著(文芸春秋)や“属国・日本論”副島隆彦著(五月書房)の系譜に連なるものだ。“隠された歴史”は、その副島隆彦氏による、仏陀と菩薩信仰、キリストとマリア信仰を巡る文明史的考察。本物の思想家はものごとをここまでシンプルに整理できるものなのだなと感心する。

 “楽園のカンヴァス”は、ルソーの「夢」という作品と西洋の美術界を巡る良質なミステリー。“ヒタメン”は、サブタイトルに“三島由紀夫が女に逢う時…”とあるように、平岡公威(ペンネーム・三島由紀夫)の若き日の恋人と生涯の親友二人の女性による証言である。

 直面(ヒタメン)とは、能で面を用いず素顔のままのことを指す。平岡は、素顔を隠し「三島由紀夫」という仮面を被って戦後の日本社会を生きた。そして、「平岡公威の冒険」で書いたように、最後はその(孫崎氏が分析するところの)欺瞞的な政治体制に身をぶつけて死んでしまった。その死の背景にある、流行作家という職業の過酷さが二人の女性の証言から伝わってくる。平岡にとって生計を立てることとは、すなわち仮面を付けて舞台で流行作家を演ずることであった。同書によると、平岡にとって、仮面を外して生きる可能性が一瞬あったという。彼が後日、若き日の恋人と偶然店で出会ったときのことだ。当時彼女は他の男と婚約しており、平岡も既に瑤子夫人と結婚していた。その部分を“ヒタメン”から引用しよう。

(引用開始)

 そのうち、公威さんが眼を見据えて、わたくしの前に立ちはだかったかと思うと、何の挨拶もなしに、いきなり、
「僕といっしょに、行こうよ――」
と、たった一ト言、投げつけたきり、そのほかは何も言わず、あの澄んだ眼で、熟(じっ)と、わたくしを見つめましてね……。

(引用終了)
<同書 224ページ>

その場に婚約者がいたこともあって、二人はそのまま分かれてしまう。もし彼女が平岡とあとで待ち合わせるなどしていたら、彼は三島由紀夫という流行作家の仮面を外し、「平岡公威」としていまも生きていたかもしれない。

 この六冊を同時並行に読み進めることで、千利休から吉田五十八、吉田茂から西洋グローバリズム、キリストから仏教、西洋美術から戦後の日本社会まで、広い時空を縦横に楽しむことができた。

 さて夏休み期間中、山荘をベースに草津温泉まで足を伸ばしたので、ここで温泉について纏めておこう。まずはその効用について旅行案内書から引用する。

(引用開始)

 「地中から湧出する25℃以上の温水、または19種類の物質のいずれかを含む温水」と定義される温泉。
 日本人なら誰もが愛してやまないが、なぜ温泉に入ると体の芯から温まり、疲れが取れるのか。
 <総合的に体に働く温泉5大効果>
 温泉で広々とした浴槽に入り、体を伸ばしてつかれば、以下のような5つの効果が総合的に働き、体が温まり、疲れがとれ、免疫力もアップする。
@  温熱効果
交感神経と副交感神経のバランスを整える
A  水圧効果
心肺機能を向上させるとともに、むくみや疲労回復に役立つ
B  浮力効果
浮力と水の抵抗で効果的にエネルギーを消費させる
C  転地効果
遠く離れた温泉地に行って環境が変わることにより気分をリフレッシュさせる
D  成分効果
温泉に含まれている塩分や硫黄などが肌荒れや胃腸病、冷え性、神経痛などの症状を改善する

(引用終了)
<“楽楽 軽井沢・草津”(JTBパブリッシング)142ページより>

とのことで、温泉には、呼吸法笑いなどと同様、自律神経(交感神経と副交感神経)のバランスを整える効用があるという。

 温泉の成分効果は、温泉に含まれている塩分や硫黄などの鉱物(ミネラル)によって次のように分類できる。

1.  塩化物泉
2.  炭酸水素泉
3.  硫酸塩泉
4.  単純温泉
5.  硫黄泉
6.  二酸化炭素泉
7.  含アルミニウム温泉
8.  含鉄泉
9.  含銅・鉄泉
10. 酸性泉
11. 放射能泉

泉質によってそれぞれ違った効能があるという。たとえば塩化物泉は、殺菌効果があり外傷や皮膚病、関節痛などに効く。炭酸水素泉、なかでも重曹泉は肌に潤いを与える。二酸化炭素泉は、肌に炭酸ガスがつき保温効果が高いなどなど。今回訪れた草津の温泉は、酸性・含硫黄‐アルミニウム‐硫黄塩・塩化物泉で、神経痛や筋肉痛などに効くとのこと。朝入った西の河原露天風呂は広々としていてとても気持ちが良かった。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 08:50 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

小説“僕のH2O”について

2012年05月13日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日、以前より販売していた電子書籍小説“僕のH2O”と、電子書籍コンテンツ・サイト「茂木賛の世界」で連載完結した“僕のH2O ブログ編”を一冊に纏め、電子書籍販売サイト「パブー」から新規に出版した。値段は以前と同じ315円。表紙イラストはイラストレーターのタナハシヒロ氏にお願いした。このページ右にある“僕のH2O”と題された本のタイトル(又は表紙)をクリックいただくと、パブーのサイトに遷移するので、興味のある方はお読みいただければと思う。

 ちょうど良い機会なので、本の紹介方々、この小説ができた背景などについて書いてみたい。“僕のH2O”はストーリー小説、“僕のH2O ブログ編”は対談小説の形をとっているが、どちらもこの「夜間飛行」のブログで綴ってきた「生産と消費論」をベースとしている。「生産と消費論」の要旨は、

1. 人は社会の中で生産(他人のための行為)と消費(自分のための行為)を繰り返していく。人は自分のために生まれるのではなく、社会のために生まれてくる。

2. ある人の生産は他のある人の消費であり二つは等価である。生産は主に理性(交感神経)的活動であり消費は主に感性(副交感神経)的活動である。

というものだ(詳しくはカテゴリ「生産と消費論」の記事を順にお読みいただきたい)。

 人生そのものが他人の為などというと、宗教かボランティア活動と誤解されかねないが、この考え方は、自分の為のことをしてはいけないのではなく、「それが回りまわって人の為になる」というところに力点を置いている。贅沢をしてはいけないのではなく、それをばねに人が(仕事などに)より力を発揮するところに注目している。経済人類学、構造主義生物学、重力進化学、アフォーダンス理論などによって、人の利他的行為の源泉や贈与の意味を探ろうとしている。これまで、人の生産活動と消費活動とをこのように定義し、論理展開した考え方は(私の知る限り)ないと思う。そのせいもあって、この論旨はなかなか理解して貰いにくい。“僕のH2O”は、この考え方を、ストーリーと対談の形で出来るだけ具体的に表現しようとしたものである。

 以下、パブーのサイトに載せた小説紹介文を引用しておこう。

(引用開始)

 僕らは朝起きてから夜寝るまで毎日「名前のついていること」ばかりしている。この世界の「まだ名前のついていないこと」というものはほとんど存在していないに等しい。大学生勉はそんなことを考えて、あるとき自らその「まだ名前のついていないこと」を始める。「僕は毎日大学に通うことに退屈している。君のようになにか目的を持って勉強することが出来たら良いと思うけれど、今の僕にはそれが見つからないんだ」ニースにいる恋人の洋子に、勉が語るその「まだ名前がついていないこと」とは?

(引用終了)

ここでいう「まだ名前のついていないこと」が、生産(人のための行為)と消費(自分のための行為)を区別していくことなのである。“ブログ編”のプロローグの一部も引用ておきたい。

(引用開始)

 これは、僕が手がけている「僕のH2O」というネット上のコミュニティー・サイトで、新しく会員になってくれたAさんと行なった対談の記録である。
 「僕のH2O」というサイトは、会員が「人のために成した行為」と「自分のために成した行為」とを日記風に書き込んで、それに点数をつけたり、コメントを寄せ合ったりするコミュニティーなのだが、最近会員が増えてきたので、コンセプトをより深く理解してもらおうと、この対談を企画した。

 「僕のH2O」のことは知っているけれど、いまひとつコンセプトが腑に落ちない、という方はこれを読んで欲しい。きっと活動の真意が分かっていただけると思う。僕にとっても、年長者で人生経験の豊富なAさんとの対話は、自分の考えを整理するのにとても役に立った。

(引用終了)

ということで、ここでは、人と社会とのかかわり(行為の波動性、利他的行為と神経経済学、自己とは何か、貨幣の意味、時間とは何か、理性と感性、行為の三態、言葉の偏り等々)について、「生産と消費論」の観点から総合的に分かりやすく解説を試みている。人が自由であるべき根拠や行動の契機も、生産と消費活動のダイナミズムに内在されていることを論証しようとしている。本編のストーリーを読んだあと、この対談を読んでいただくと理解がより深まるものと思う。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 15:59 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

1969年

2012年04月10日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先回、寅さんの映画シリーズの始まりが1969年ということで、当時のことをいろいろと想い出した。考えてみれば、いまの若い人は1969年という年をリアルタイムで知らないわけだ。私は1969年のとき18歳だったから、当時のことは今でもよく覚えている。

 1969年は、1月に東大安田講堂陥落、5月に東名高速道路が全線開通している。映画「男はつらいよ」の封切はこの年の8月27日、第二作目「続・男はつらいよ」は同じ年の11月15日である。当時のことを、“『男はつらいよ』の世界”吉村英夫著(集英社文庫)から引用しよう。

(引用開始)

 要するに、人間性を置き去りにした「高度成長」下、社会的矛盾がいやおうなく激化する時代を迎えている。むろんバブルがその彼方ではじけてしまうなど思いもよらぬ時点に、時代錯誤の落ちこぼれとでもいうべき「姓は車、名は寅次郎」のフーテンが、四角いトランクをぶら下げた雪駄ばきで、下総の国から矢切の渡しを船に乗って、混沌のるつぼ東京は江戸川べりの葛飾柴又に戻ってきたのである。
 放蕩児寅次郎の二十年ぶりの故郷への帰還である。何かが起こらないわけがない。

(引用終了)
<同書 21ページより(フリガナは省略)>

ということで、そのあと26年間も生き長らえる時代のアンチ・ヒーローは、1969年という高度成長後半期にひょっこりと登場したわけだ。

 当時私は高校三年生、世界のことなど何も知らないくせに、受験勉強の振りをしながら吉本隆明の“共同幻想論”(河出書房)などを読む、生意気盛りの若者だった。その夏封切られた寅さんの映画を私は観に行かなかった。寅さんの映画などダサいと思っていたのだろう。

 1969年といえば、去年、由紀さおり&ピンク・マリティーニによる“1969”というアルバムが発売された。佐藤利明氏(オトナの歌謡曲/娯楽映画研究家)の解説には、

(引用開始)

 1969年という年は、由紀さおりが「夜明けのスキャット」でデビューを果たしただけでなく、日本の、そして世界の音楽シーン、ポップカルチャー、政治、モラル、あらゆるコトやモノが大きく変革を遂げた年でもある。その1969年に日本でラジオから流れていた歌をセレクトして、「1969」というタイトルのアルバム企画が進んでいくなかで、由紀さおりはスタッフとともに10数曲を選曲、アレンジとプロデュースをPink Martiniに依頼することとなった。こうして両者の本格的なコラボレーションが実現に近づいた。

(引用終了)
<「1969」CDアルバムの解説より>

とある。ちなみに、Pink Martini編曲による「夜明けのスキャット」はとても佳い出来だと思う。

 思えば、1960年代というのは面白い時代だった。戦後の日本の高度成長は、復興期(1946年−54年)、前半期(55年−65年)、後半期(66年−75年)に分けられるが、1960年代は、その前半期半ばから、後半期の半ばまでに相当する。和暦でいえば昭和35年から44年である。

 東京タワーの完成が1958年、東京オリンピックの開幕が1964年、ザ・ビートルズの来日は1966年だ。世界的に見ると、ケネディ大統領の暗殺が1963年、ビートルズのアメリカ上陸1964年、ベトナムでアメリカの北爆が始まったのが1965年である。時代のパラダイムは、まさに「大量生産・輸送・消費システム」が中心だった。ベトナムでアメリカが敗北したのは、下って1975年のことである。

 1969年が終わり1970年に入ると、3月に万国博覧会が開会し、11月に三島由紀夫(ペンネーム平岡公威)が割腹自殺する。寅さんの映画は、第三作「男はつらいよ フーテンの寅」が1970年1月15日、第四作目「新・男はつらいよ」が同年2月27日、第五作目「男はつらいよ 望郷篇」が同年の8月26日、と立て続けに封切られている。三島由紀夫については以前「平岡公威の冒険」の項で書いたけれど、死に急ぐ晩年、彼はこの遠い将来のヒーロー寅さんを映画館で観る余裕があっただろうか。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:07 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

寅さん考

2012年04月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)についてあれこれ考えているうち、ふと、ある映画シリーズのことが頭に浮かんだ。ご存知、フーテンの寅さんこと車寅次郎が活躍する、映画「男はつらいよ」シリーズである。

 「モノコト・シフト」は、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

ということであるが、寅さんの行動パターンは、左側ではなく、右側の新しいパラダイム項目に概ね当て嵌まるのである(この新旧パラダイム項目については、「“シェア”という考え方」「“シェア”という考え方 II」を参照のこと)。

 寅さんは、トランク一つ以外何も私有していない。もともと縁のない金銭的なもの以外、出来ることはすべて分担しようとする。何も独占せず、唯々、まわりの人々に分け与える。孤独に陥った人々に寄り添って共感し、勇気を与える。世間を気にしながらも最後は社会正義を貫く。過度のもたれあいを拒否して自立している。所有することよりも関係性を重んじ、まったくモノに拘らない。そしていつもまわりに新しいコトを引き起こす。

 いかがだろう、勿論寅さんはあくまで放浪者であり、定着して日常生活を送る我々とは違うけれど、こうして見ると、彼の行動パターンは今の時代のパラダイムにぴったりとフィットしているではないか。

 重要なことは、この映画シリーズが、高度成長後半期の1969年に始まり、バブル崩壊後、まだ新しいパラダイムが見えてこない1995年に終わったということである。これらの作品は、時代を映す華やかな光に対する陰画として描き続けられ、寅さんは、時代錯誤的なアンチ・ヒーローとして人気を博した。そして今になってようやく、時代(のパラダイム)の方が寅さんに追いついてきたのである。

 葛飾柴又の人情味溢れる商店街や家族愛、お寺や町工場などは、いま再び見直されつつある。寅さんが旅する日本各地の今は失われた風景を懐かしむ声も多い。我々は「男はつらいよ」シリーズというこの国民的資産を繰り返し観ることで、これからの「モノコト・シフト」の時代に備えよう。そして今からでも遅くはないから、寅さんが愛した日本の流域風景や下町情緒といったものを、もう一度取り戻したいものだ。

TwitterやFacebookもやっています。
こちらにもお気軽にコメントなどお寄せください。

posted by 茂木賛 at 10:27 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

夜間飛行について

運営者茂木賛の写真
スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)主宰の茂木賛です。世の中には間違った常識がいっぱい転がっています。「夜間飛行」は、私が本当だと思うことを世の常識にとらわれずに書いていきます。共感していただけることなどありましたら、どうぞお気軽にコメントをお寄せください。

Facebookページ:SMR
Twitter:@sanmotegi


アーカイブ

スモールビジネス・サポートセンターのバナー

スモールビジネス・サポートセンター

スモールビジネス・サポートセンター(通称SBSC)は、茂木賛が主宰する、自分の力でスモールビジネスを立ち上げたい人の為の支援サービスです。

茂木賛の小説

僕のH2O

大学生の勉が始めた「まだ名前のついていないこと」って何?

Kindleストア
パブーストア

茂木賛の世界

茂木賛が代表取締役を務めるサンモテギ・リサーチ・インク(通称SMR)が提供する電子書籍コンテンツ・サイト(無償)。
茂木賛が自ら書き下ろす「オリジナル作品集」、古今東西の優れた短編小説を掲載する「短編小説館」、の二つから構成されています。

サンモテギ・リサーチ・インク

Copyright © San Motegi Research Inc. All rights reserved.
Powered by さくらのブログ