夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


何も起らない映画

2016年04月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 現代の日本映画には「何も(ドラマが)起らない映画」という筋がある。場所と人との関係が中心テーマで、ドラマチックなストーリー展開がなく、淡々とその時空が描かれるような映画、場所と登場人物たちの魅力だけでもっているような作品。私が辿った範囲では、2006年の『かもめ食堂』(荻上直子監督)がその劈頭を飾るようだ。

『かもめ食堂』(荻上直子監督)2006年
『めがね』(荻上直子監督)2007年
『食堂かたつむり』(富永まい監督)2008年
『プール』(大森美香監督)2009年
『マザーウォーター』(松本佳奈監督)2010年
『レンタネコ』(荻上直子監督)2012年
『しあわせのパン』(三島有紀子監督)2012年
『パンとスープとネコ日和』(松本佳奈監督)2013年

と続く。「ファッションについて II」の項で触れた2015年の『縫い裁つ人』(三島有紀子監督)や、「日米の映画対比」の項で紹介した2014/2015年『リトル・フォレスト(春・秋/冬・春)』(森淳一監督)なども、この筋に重なると思う。これらの作品は、自然描写、食べ物、丁寧に描かれる日々の暮らし、四季の移り変わり、人々の関係性など、複眼主義でいうところのB側、

------------------------------------------
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
------------------------------------------

の考え方が横溢している。原作や企画、監督(上記)や出演者には女性が多い。原作者では群ようこさん、企画としては霞澤花子さん、出演者では小林聡美さんやもたいまさこさん、市川実日子さんなどなど。

 B側の映画(B級映画ではない!)は観ていていつもホンワカとした気分になる。なんとなく懐かしい気分になる。それは、観客としての自分の生命の時空と、映画の中の時空とがシンクロするからではないだろうか。だから見終わった後も心地よさが残る。元気になる。皆さんはいかがだろう。

 普通映画では、上映1時間半なりの中に、起承転結を踏まえた枠組み(フレーム)があり、そこで恋愛や戦争、社会問題といった各種ストーリーが展開するわけだが、その枠組みは、「背景時空について」の項でみた「人の脳が認識しようとする主役を、単体として浮かび上がらせる為のもの」である。観客は脳の働きでストーリーを追う。複眼主義でいうA側の作用だ。

------------------------------------------
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
------------------------------------------

だから普通の映画の場合、場所や登場人物の魅力は勿論大切だが、ストーリーが駄目だと映画自体面白くない。例えば、最近DVDで観た『ソロモンの偽証(前編・事件/後編・裁判)』(成島出監督)は、登場人物・柏木卓也のキャラクターが弱いこともあって、ラストがいまひとつだった。

 ストーリーが存在しない「何も(ドラマが)起らない映画」においては、起承転結といった枠組みもない。あるのは場所と登場人物の魅力だけである。いってみれば場所そのものが「フレーム」となる。あとは全て「シークエンス」。こういう映画は、日本以外にはあまりないのではないか。先日イギリス・イタリア合作の『おみおくりの作法』(ウンベルト・パゾリーニ監督)を観ていてそうなる(何も起らない)かと思ったら、最後にドラマが待っていた。他にはあるだろうか。すこし調べてみよう。いずれにしても、日本の女性監督は世界へ出て行って、どんどん「何も(ドラマが)起らない映画」を作ったらどうだろう。そっち(B側)だけを強調した映画。『かもめ食堂』や『プール』の発展形として、場所だけでなく出演者もその地域の人々を中心としたもの。

 たとえば「日米映画の対比」で紹介した『警察署長ジェッシイ・ストーン』をベースにしてそれを作る。警察署長ジェッシイ(トム・セレック)の住む海辺の小さな家、彼はいつもウィスキーを飲みながらブラームスのピアノ協奏曲を聴いている。となりのソファには大きな犬が寝そべっている。夜の海、月の光、朝の日差し、田舎町パラダイスに住む人たちの日々の暮らし、寄せる荒波、漁師たちの生活、太平洋という自然。そこへジェッシイの元妻がロス・アンジェルスから移り住んでくる。彼女は町で何か店を開く。そんな、場所と人との関係だけをテーマにした『パラダイス』。事件は何も起らない。そんな映画はどうだろう。

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ラファエル前派の絵画

2016年04月05日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 20世紀を前にしたイギリスの絵画も見ておこう。先日、渋谷の「Bunkamuraザ・ミュージアム」で、ヴィクトリア朝時代に華開いた、ラファエル前派の作品展を観た。「英国の夢 ラファエル前派展」がそれで、作品はリバプール国立美術館所属のコレクションの中から選ばれたとカタログにあった。同館プロデューサー木島俊介氏の新聞紹介記事を引用しよう。

(引用開始)

革新の中の夢想

 一八四八年、イギリスに誕生した「ラファエル前派」グループの活動は、現代という時代に向かって旧い社会構造を変容させることとなる産業革命が、ヨーロッパ全域に波及しようとしていたまさにその直中において、夢想され、かつまた実践された、はかなく切実な美しさの追求であった。それは旧弊に陥っていたアカデミズムに反抗したことにおいては切実な革新運動であったが、ラファエロ的古典主義以前に回帰すべきとしたところにおいては、大いに夢想的であって、この困難な矛盾を実践に移そうとするものであった。ミレイ、ハント、ロセッティという画家たちは、ダンテ、ボッカチョといったイタリア文学や、アーサー王伝説といった中世物語に題材をとったことにおいて反時代的であったが、その彼らも、彼らの時代の現実に体験される苦悩、愛、希望の表明は避けられない。この断層が、繊細優美な表現と謎めいた象徴主義とによって、実に見事に埋めあわされたのである。むしろ、表現の新しさが現実の欲望を旧い主題のなかに生きさせたというべきだろう。今回の展覧会では、既に著名な前期の画家たちに加えて、バーン=ジョーンズ、ストラウィック、ウォーターハウスといった「ラファエル前派」第二第世代ともいうべき画家たちの魅力的な作品も多く見られる。美しさのなか込められている彼らの希求をぜひ見いだしていただきたい。

(引用終了)
<東京新聞 12/19/2015(フリガナ省略)>

 ラファエル前派の革新性は、フランス印象派のように実験的な方向へは行かなかったけれど、絵画の枠を超えて、ウィリアム・モリス(1834−1896)のアーツ&クラフツ運動に引き継がれた。これは、手工芸の革新を通して芸術を再生させるという運動で、壁紙、刺繍、タペストリー、テキスタイル、ステンドグラス、家具、装飾、本の装丁、印刷など生活工芸品のデザイン及び生産を主とした。
 
 『百花深処』<イギリスの庭>で触れた20世紀の造園家ガートルード・ジェキル(1843-1932)は、このアーツ&クラフツ運動と縁が深い。同項で紹介した『旅するイングリッシュガーデン』横明美著(八坂書房)には、

(引用開始)

 彼女の最初のキャリアは、クラフトウーマンだった。アーツ&クラフツ運動を始めたウィリアム・モリスに1869年に出会い、テキスタイル・デザインを師事した。間もなく刺繍やタペストリー、銀製品、木彫、インテリア・デザインなどの仕事を始め、勢力的にこなすが、40代になると視力の衰えが激しく、目を酷使する仕事を諦めるよう医師に宣告された。
 一方で、1875年にはウィリアム・ロビンソンの雑誌『ガーデン』の女流ライターとして連載を始めるが、あくまでもガーデニングは趣味だった。ところが華麗な転身が待っていた。1889年、友人宅のお茶会でアーツ&クラフツ運動に造詣の深いエドワード・ラッチェンスに出会ったのだ。ラッチェンスはニューデリーの都市計画など、多くの公共事業を手がけた、新進気鋭の建築家だった。25歳の年齢差だったが、二人はすぐ意気投合し、田園を廻りながらコッテージの石組みやティンバーフレームについて熱く語り合う。こうして年齢も性別も越えた、世紀のコラボレーションが始まった。屋外での作業が主であるガーデニングは、彼女の目にとって負担が軽く、一石二鳥だった。

(引用終了)
<同書 140ページ(文中「勢力的」は「精力的」の間違いか)>

とある。ラファエル前派の革新性は、アーツ&クラフツ運動を経由して20世紀の造園にまで引き継がれたといえるだろう。

 <イギリスの庭>の項で、イギリス庭園の非整形性には、古いケルト文化の影響があるのではないかと私見を述べたが、ラファエル前派やアーツ&クラフツ運動にも、スコットランドやアイルランド文化の影響を窺うことができると思う。ミレイはスコットランドで「春(林檎の花咲く頃)」を描いた。アーサー王伝説もキリスト教以前からある古い物語だ。横明美さんの文章に出て来るイングリッシュ・フラワーガーデンの父、園芸家、ガーデンライター(園芸作家)のウィリアム・ロビンソン(1838−1935)はアイルランド出身。そういえば今回の作品展はアイルランドに近いリバプール国立美術館所属のコレクションである。

 20世紀を席巻した大量生産の時代、キリスト教文化圏絵画の主流は、点描画、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくが、ラファエル前派に底流した古いケルト的精神は、絵画の枠を超え、生活芸術や造園へと流れ込んだと考えられる。それもやがて二つの世界大戦とアメリカ文化全盛によって、地下に潜ってしまうのではあるが。アーツ&クラフツ運動の意義とその失敗については、「場所の力」の項で紹介した『場所原論』隈研吾著(市ヶ谷出版社)でも取り上げられている。

 これからの絵画表現として、「21世紀の絵画表現」「額縁のゆらぎ」の項などで「主題を持たず動き(時間)そのものを描こうとする筋」について考えてきたが、もう一つ、この「汎神論的、自然崇拝的な絵画」という筋もあるのではないか。今のラファエル前派の人気はその辺りにあると思われる。

 ラファエル前派については、2014年にも、六本木の森アーツセンターギャラリーで「テート美術館の至宝 ラファエル前派展」が開かれた。そのときはミレイの「オフィーリア」も来ていた。自然豊な川に浮かぶ死せる少女をそこで見たときの不思議な印象が忘れられない。それは、高層ビルの天辺という20世紀の頂点的場所で、19世紀と21世紀とを結ぶ回路(の一つ)を体感したせいなのかもしれない。

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額縁のゆらぎ

2016年03月29日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「21世紀の絵画表現」の項で、

(引用開始)

 去年の11月、国立新美術館で、ゴッホ、スーラーからモンドリアンまでの点描画を集めた「印象派を越えて 点描の画家たち」を観た。19世紀後半に生まれたこれらの点描画は、思考におけるアナログからデジタルへのシステム転換であり、それは、20世紀の現代人の孤立した実存を支える「新しいパラダイム」の到来を告げるものであったとされる。(中略)
 20世紀の西洋絵画は、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくわけだが、その過程は、点描画のデジタル・システムをさらに推し進めて、形態それ自体をも解体してゆく、還元主義的な精神運動として捉えることが出来るように思う。

(引用終了)

と書いたことがある。前々回「20世紀を前にした絵画変革」の項で、『名画に隠された「二重の謎」』(三浦篤著)という本を紹介し、その中にあるスーラ(スーラー)の試みについて、「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」と書いたが、今回、再びスーラに焦点を当て、その「新しいパラダイム」へ向けた改革を追ってみたい。

 スーラの絵画の特徴はその点描画手法にある。三浦氏は『名画に隠された「二重の謎」』のなかで、スーラが「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」の絵の端の部分に、点描によって細い帯状の縁取りが施していることを指摘する。それは額縁の内側に書かれた点描による額縁なのである。スーラはまた、「シャユの踊り」では点描で描いた枠の形態を内側にカールさせる。「夕方、オンフルール」では額縁そのものに点描による彩色を施す。さらに「サーカス」では、内側に書かれた縁取りと額縁の彩色を併用する。まさに「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」なのだが、そのことについて三浦氏は、

(引用開始)

 以上のように、《グランド・ジャッド》(P147上)の「縁取り」をきっかけとして、スーラの絵の「枠」に関して調べてみると、思わぬ視野を得ることになった。スーラの作品においては、「額縁」は「絵」に従属する「装飾」で周囲との「境界」を画するという単純な捉(とら)え方は、もはや崩れてしまっている。「額縁」そのものが「彩色」されたり、「額縁」の内側に、点描の「縁取り」が加えられたり、額縁に似た枠が描き込まれたりしていた。こうした多様な枠取りを見ていくと、スーラは「絵」と「額縁」を別個のものとして捉えるのではなく、「額縁」を含めて絵画作品を構想していたという見方が可能になってくる。
 特に「彩色された額縁」の場合は、その方向が明確に出ている。しかし、「縁取り」や「内側に描かれた額縁」の場合も、それらは「絵」から「額縁」への唐突な以降を和らげるための単なる緩衝(かんしょう)地帯ではなく、あくまでも絵の一部として機能しているのではなかろうか。ただし、それらは絵の内側と外側の間に位置する中間領域であり、内にも外にも属さない曖昧(ああいまい)さを示している。
 西洋絵画は、現実の擬似(ぎじ)的なイメージを表すときは、絵画を囲む現実との間に明確な線引きを必要とし、その役目を額縁が担っていた。しかし絵画が現実から独立した造形物に変化すると、額縁本来の役割が希薄になり、さまざまな形で絵画に取り込まれる現象が出現したように思われる。つまりところ、「枠」や「額縁」の存在に豊なゆらぎを与え、それらを絵画に吸収しよう試みたのがスーラであったと言ってよかろう。

(引用終了)
<同書 162−163ページ>

と書く。「印象派を越えて 点描の画家たち」展を観たときは本書未読だったので、残念ながらこの重要な点に気付かなかった。

 先日「背景時空について」の項で、背景時空とは、人の脳が認識しようとする主役を単体として浮かび上がらせる為のものであるとし、絵画の額縁(フレーム)もその一つであると指適した。スーラは、この背景時空そのものに揺らぎを与えたのであった。正に「新しいパラダイム」へ向けた改革というべきであろう。

 このあと西洋近代絵画は、点描画のコンセプトをさらに推し進めて形態それ自体をも解体してゆくわけだが、スーラはまだそこまで行っていない。

(引用開始)

 スーラにとって芸術のキーワードは「調和」であったという。《グランド・ジャッド》を見ても、そこにはパリ郊外の島で余暇を楽しむさまざまな階級、職業の人々の調和があり、斬新な主題を古典的な構図でまとめあげた伝統と近代の調和もあり、さらには色彩理論、光学理論を絵画に適用するという意味で芸術と科学の調和もあると言えよう。そこにはまた、内側と外側の関係を捉え直すような、絵と枠との調和もまた見出すことができるのである。

(引用終了)
<同書 163ページ>

と三浦氏は述べる。

 これからの絵画は、この「調和」をどのように取り戻すのか。「21世紀の絵画表現」では、「フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものを描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない」と書いたけれど、また時をみてこの辺りのことを考えてみたい。

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小説『古い校舎に陽が昇る』について

2016年03月22日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 電子書籍サイト「茂木賛の世界」で、小説『古い校舎に陽が昇る』の集中連載を終えた。本作は「綾木孝二郎」シリーズの二作目で、一作目『蔦の館』を同サイトにアップしたのが2014年の9月だから、1年半ぶりのこととなる。140枚程度の拙いものだが時間があればお読みいただきたい。

 本作は、2014年の12月に書いた「後継者づくり」のスキームをそのまま使ってストーリーを展開させた。登場人物たちの名前もそのまま用いている。

 「後継者づくり」の項で、「なんだか小説みたいになってきた」と書いたのは、当時から、この地方自治と街づくりの話が小説に発展する予感があったからかもしれない。

 小説に発展したのは、2015年2月に「地方の時代 III」で紹介した『脱・談合知事』チームニッポン特命取材班著/田中康夫監修(扶桑社新書)と『日本を MNIMA JAPONIA』田中康夫著(講談社)を読んだからである。これらの本によって地方自治の様々な問題に眼を開かされた。田中氏に感謝したい。

 このテーマが「綾木孝二郎」シリーズと合体したのは、『百花深処』<二冊の本について>でも書いたように、同シリーズが「主人公の趣味や信条を通して、現代社会の一面を描くこと」を目的としている一種のビヘイビア小説だからだ。

 地方自治と街づくりは当ブログでもメイン・テーマの一つだが、小説の形でこれを展開できたのは良かった。そういえば他の『あなたの中にあなたはいない』などの作品も当ブログ記事と連動している。読者の皆さんも興味あるテーマがあったらお寄せいただきたい。感想もお待ちしている。

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20世紀を前にした絵画変革

2016年03月15日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 映画の話の次は絵画について書こう。『名画に隠された「二重の謎」』三浦篤著(小学館101ビジュアル新書)という本が面白かった。本カバー表紙裏の紹介文には、

(引用開始)

「見ることの専門家」である「わたし」が美術館でみつけた、名画に残された「事件」の痕跡。
その小さな痕跡を探ってゆくと、
大きな謎の存在が明らかになる……。
19世紀末、芸術の都パリを震撼させた「二重の謎」が、
いま白日の下にさらされる。
共謀したのはゴッホやマネ、ドガ、セザンヌなどの巨匠たち。
西洋近代絵画に起った一連の「変革」の意味について、
推理小説仕立てで描き出す、新しいスタイルの美術入門書。
美麗な図版と貴重な部分図、満載!

(引用終了)

とある。目次にある「事件」とは以下の通り。

第一章 謎は細部に宿る
1 マネのためらい――「残された二つの署名」
2 アングルの予言――「ヴィーナスの二本の右腕」
3 クールベの告白――「二人の少年の冒険」

第二章 映し出された謎
1 ドガの情念――「見捨てられた人形」
2 ボナールの幻視――「鏡の間の裸婦」
3 マティスの緊張――「闇に向かって開かれた窓」

第三章 名画の周辺に隠された謎
1 ゴッホの日本語――「右側と左側」
2 スーラの額縁――「内側と外側」
3 セザンヌの椅子――「右側と左側」再び

 著者はこれらの作品について次のように書く。

(引用開始)

 結局のところ、19世紀フランスとは、絵画が絵画を意識した時代であったと思う。優れた画家は皆、絵画を構成する形式的な要素に敏感に反応した。絵が何でできていて、どのように描かれ、何を目指すのかという問題に、各々の画家が各々の観点から取り組んだ成果が作品にほかならない。19世紀後半のフランスにおいて、絵画は、自らが作られたイメージであることを鋭く意識したのである。

(引用終了)
<同書 185ページ>

 写真の出現などによって、絵画とは何かということが意識された時代。この本は、当時の画家たちの次のような興味深い試みを明らかにする。

マネ:絵の平面性を確信した画家における空間と平面の葛藤。
アングル:形態を自由にデフォルメ、コラージュする先駆的な造形意識。
クールベ:伝統的絵画を揺るがす無垢や素朴さといった新しい美意識。
ドガ:画中画にこだわる画家の芸術家という存在への認識や問いかけ。
ボナール:鏡を偏愛する画家における虚構性と多層性の表現。
マティス:戦争という非人間的な状況への反応。
ゴッホ:絵と文字の合成による異文化への興味、画家としての感性。
スーラ:絵画の枠取りに対する固執と多様な手法。
セザンヌ:周辺的なモティーフによる造形と色彩表現。

引用を続けよう。

(引用開始)

 ある主題を三次元空間に展開する物語的、逸話的な場面として、写実的に描写する伝統的な絵画が、徐々に崩壊への道を歩んでいた。現実再現性が皆無(かいむ)になったわけではないが、そのレベルは確実に低下しつつあった。
 奥行きが浅くなり、表面が浮上した絵画においては、空間がゆがみ、人体が変形し、筆触の効果が露(あらわ)になった。書名も額縁も絵の一部と化し、絵の中の文字が自己主張を始めた。もはや絵画はイリュージョンではなく、絵の具を塗られた表面でしかなかった。絵画は虚構のイメージとして構成され描かれという認識が行きわたり、そのための手段に対する意識が浸透していった。その結果、イメージは単純ではなく複層的になる。絵の中に絵が挿入され、絵画の比喩(ひゆ)でもある鏡や窓のモティーフが意味を担い、存在感をもった。
 まさに、絵画とは何かという諸条件が意識された時代。絵は平面であり、構図や形態は自由にしてよく、アカデミックな価値観に縛られる必要などなくなった。デフォルメもコラージュも問題ないし、上手(うま)い下手(へた)という技術は異なる、子供のような新鮮な感受性が必要とされた。現実再現ではなく、自由な感性を媒介(ばいかい)にして色彩と形態で作られるものこそが絵画であることが、次第に明瞭になっていったのである。(中略)
 19世紀後半から20世紀初頭のパリにおいて、絵画が絵画であることに目覚めた。その結果、それまでの常識、基準、枠組みが覆(くつがえ)され、斬新な試みが実践される状況が生まれた。フランス近代絵画史とはそのような歩みであったと、私の眼には映るのである。

(引用終了)
<同書 185-187ページ>

20世紀を前にしたこれらの変革はなかなか奥が深い。

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日米の映画対比

2016年03月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「ファッションについて II」の項で、最近DVDで観た映画を幾つか挙げたので、今回は映画続きで、最近WOWOWチャンネルで観た映画シリーズを二つ紹介したい。どちらも少し前の作品だから御覧になった人も多いだろうし、今さら紹介でもないだろうが、例の複眼主義の、

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A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
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B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
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という対比によくマッチするので書いてみたい。

 一つは日本の『リトル・フォレスト』(森淳一監督)である。五十嵐大介の人気漫画を橋本愛主演で実写映像化したもので、東北の小さな集落に移り住んだ主人公が、自給自足に近い暮らしを通して自分を見つめ直すというもの。シリーズは、

「夏・秋」(2014年)
「冬・春」(2015年)

の二作(括弧内は発表年)。この作品にはBの側の考え方が横溢している。特に、「冬・春」の最後に主人公が踊る郷土の舞いが素晴らしい。以前「複眼主義美学」の項において、

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日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
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と書いたけれど、橋本愛の姿・表情は、まさに「生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)」そのもので、観る者をつよく惹き付ける。この交感神経優位の女性美については、『百花深処』<華やかなもの>の項も参照していただきたい。

 もう一つはトム・セレック主演のアメリカ映画シリーズ『警察署長ジェッシイ・ストーン』だ。ロバート・B・パーカーの推理小説を映像化したもので、ボストン郊外の田舎町パラダイスで発生する様々な事件に、警察署長ジェッシイ(トム・セレック)が挑むというもの。シリーズは、

「影に潜む」(2005年)
「闇夜を渉る」(2006年)
「湖水に消える」(2006年)
「訣別の海」(2007年)
「薄氷を漂う」(2009年)
「非情の影」(2010年)
「奪われた純真」(2011年)
「消された疑惑」(2012年)

とこれまで八作品ある(括弧内は同じく発表年)。監督は2011年の「奪われた純真」以外ロバート・ハモン監督、「奪われた純真」はディック・ローリー監督。こちらの作品はAの側の考え方を軸にストーリーが展開する。「複眼主義美学」の項において、

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西洋の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動であり、都市(人工的なモノとコト全般)に偏していて、高みに飛翔し続ける抽象的思考に優れている。例としては神学や哲学など。その美意識は、交感神経優位の反重力美学(高揚感)を主とする。副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる。
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と書いたが、主人公は離婚を機に酒におぼれ、ロス・アンジェルスの刑事を辞めて田舎町の警察署長になったくらいだから、決して勇ましいヒーローではない。推理小説系は、概ねAの側が強い。ジェッシイも、事件解決に至る最後では「交感神経優位の反重力美学(高揚感)」を演じる。しかしいつもの彼は、海辺の小さな家に住み、ウィスキーを飲みながらブラームスのピアノ協奏曲を聴く。となりのソファには大きな犬が寝そべっている。この感じが「副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる」そのもので、このアンチ・ヒーロー振り(と田舎町パラダイスの零落ぶり)が、西洋近代文明の黄昏を表現しているようで観る者の郷愁を誘う。トム・セレックの熟練した演技が、反重力とノスタルジアの間を揺れ動く今のアメリカ(の男性性)を上手く描き出している。尚、西洋近代文明の黄昏については「21世紀の文明様式」の項などを参照されたい。

 いかがだろう、以上、日米の映画を複眼主義の対比で読み解いてみた。これからもときどき面白いと思った映画を紹介してみたい。この年末年始には『スター・ウォーズ フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督)や『007スペクター』(サム・メンデス監督)も見た。これらの長く続くシリーズについては、いづれ別の角度から書く機会があるかもしれない。

 この複眼主義対比のマッチングは、以前「21世紀の絵画表現」の項でみた、『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)と『ゼロ・グラビティ』(A・キュアロン監督)という二つの映画にも当て嵌まる。Aが『ゼロ・グラビティ』(特にマット・コワルスキー役=ジョージ・クルーニー)、Bが『かぐや姫の物語』だ。併せてそちらもお読みいただければ嬉しい。

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ファッションについて II

2016年03月01日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 ファッションに関する話を続けよう。まず、ファッションと他のアート表現との違いについて。前回、ファッションは、模倣と差異化の「両価性」を持つという説を紹介したが、差異化は「脳の働き」であり、相手の視線を自分に集めさせ、自分のあり方に知覚者を服従させるという意味において、絵画や音楽など他のアート表現とあまり違わないと思われる。しかし、ファッションは身体と外界との物理境界における視覚的表現だから、他のアートよりも人に模倣されやすい。それが他のアートとの一番の違いだろう。「両価性」といわれる所以だ。

 そう考えると、アート表現としてファッションから一番遠いのは、小説や詩などの言語表現であろう。頭のなかで推敲された言語表現の模倣は難しい。難しさの度合いとしては、そのあと絵画や映画、音楽ときて、ファッションの次に模倣されやすいアート表現は何だろう、演技だろうか。演技はファッション同様、身体表現だから、その中身はともかく、外面は比較的模倣されやすい。昔、高倉健のヤクザ映画を見終わった客はみな彼を真似て歩いていた。

 その他を考えてみると、ダンスは演技に近いだろう。マンガは絵画、アニメは映画の一種。肌に直接描く化粧、刺青、さらに整形などもあるが、そのpopularityは模倣しやすい順に並ぶ筈だ。言語表現の中でも、キャッチコピーなどは、誰でも真似(口ずさむことが)できるからファッションに近いといえる。

 以前「文庫読書法(2014)」の項で、『キャラクター精神分析』斎藤環著(ちくま文庫)を紹介したが、この中にある、ヤンキーやオタクといった「キャラ」、すなわち、「人間という主格=固有性と同一性(一般性)の混沌から、同一性部分だけを拡大強調、主格もどきとして複製し、与えられた環境=場において、相手とのコミュニケーションするときに使う道具(tool)」も、演技の道具として模倣されやすい。「キャラ」は仮面と同じ役割を果たすわけだ。

 ファッション・ブランドを身に纏う人は、その「両価性」(模倣と差異化)を楽しむ。前回、創造することとは神の世界創造のごとく無根拠であるという説も紹介したが、新しいブランドは、どのような理由で成功したり失敗したりするのだろう。勿論資金的な問題やマネジメントの上手い下手はある。しかしそういったことのほかに、そのブランドの差異化の位相が、時代の流行よりも「少しだけ」先を行っていることに成功の秘訣があるように思う。

 説明してみよう。どうして「少しだけ」流行の先を行ったファッションが良いのか。遥か先を行ったファッションはなぜ駄目なのか。流行や時代精神は、「流行について」の項で書いたような感性変化の7年周期や28年周期、文明のあり方を巡る時代のパラダイム・シフト、素材や技術革命、景気の循環、気象の変化といった様々な要因の組み合わせによって移り変わる。暗黙知によって人はその兆しを察知するわけだが、その小さな差異を追確認するのに、一番手っ取り早いアート表現は何か。

 そう、模倣しやすいファッションが一番手っ取り早いのだ。言語表現や絵画、映画や音楽なども、やがて流行に追随してくるだろうけれど、それを待っていては時間がかかりすぎる。しかもそれらは模倣しにくい。人々は、変化の兆しを体現したファッションを纏うことで、その変化の兆しを互いに確認しあうのだ。次に化粧やキャッチコピー、そして先端的なダンスや演劇によって、さらに音楽や映画、絵画、そして最後に言語表現によって、新しい流行や時代精神が追認されていくのだと思う。

 時代の遠い先を行くファッションを創る人もいる。そういう音楽や絵画、言語表現もある。しかしそういう作品はなかなか売れない。多くの人にすぐには受入れられないからだ。それが流行や時代精神に敏感な目利きによって発掘され、時代の少しばかり先を行く形にプロデュースされると、一気に流行の最先端に躍り出ることがある。しかし模倣されやすい表現順に、大衆化、質の低下といった問題が生じる。だから、売れないものを作っている方が幸せかもしれない。時代の先を行く精神だけを気高く保持しながら。最近DVDで観た映画『はじまりのうた』(ジョン・カーニー監督)や『繕い裁つ人』(三島有紀子監督)、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督)などは、この辺りの事情を描きたかったのだと思う。時代の先を行く精神をどれだけ保持できるかが勝負の分かれ目なのだ。

 ファッションに関して次のような人々がいる。

(1)なるべく目立たないようにする。個性を出さない。
(2)目立つ恰好をする。
(3)伝統的であろうとする。
(4)無頓着である。

(1)は環境にブレンド・インすることを優先する人たち。日本人に多い。(2)は主格中心に考える人たち。ファッショナブルな人たちもこの括りに入る。日本社会ではときどき浮いてしまう。(3)はファッショナブルなのだけれど歴史性を重んじる人々。ただ新しいものが面倒くさいだけの人もこの括りに入る。(4)はあまりファッションに頭を使わない人々。家にいるときは誰でも普段着だからこの括りに入る。あなたはどういう人だろうか。勿論時と場合(TPO)による複数回答もありだ。

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ファッションについて

2016年02月23日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 境界の話に戻ろう。『境界の現象学』河野哲也著(筑摩選書)という本がある。「皮膚、家、共同体、国家。幾層もの境界を徹底的に問い直し、まったく新しい世界のつながり方を提示する」(本の帯より)ことを意図した内容で、副題に「始原の海からの流体の存在論へ」とある。この本に「ファッションと生まれることの現象学」という章がある。今回はこれを導き手に、「自分と外界との<あいだ>を設計せよ」の一例として、ファッションについて考えてみたい。

 ファッションとは何か。まずそれについて同書から引用しよう。

(引用開始)

 複雑で長い歴史を持つファッションを定義することは難しい。しかしさしあたり、流行とは、スタイルの共時的模倣であると定義できよう。ファッションとは、衣服なり化粧なりの外見のスタイルを、同時期的に模倣することである。この模倣の伝搬の仕方は、「伝染する」と呼びたくなるような急激な速さで広まることもある。これに対して伝統とは、スタイルを通時的に模倣することであり、過去の様式を受け入れることである。伝統は、服従や訓練や教育によって人工的に見につけるものである。学校の制服などはこれに当る。
 ジンメルによれば、ファッションは「両価的」である。ファッションは、帰属しているグループの仲間の模倣であるが、同時に、他のグループから自分たちを差異化する。ファッションとは、自分をある差異化されたグループへと同化することである。それは、個性と同調を同時に追及する。(中略)
 ファッションは遊戯であり、それゆえに、おのれの無根拠性を示し、それによって同時に世界の無根拠性をも顕にする。しかし、ファッションは否定的な効果だけをもつものではない。ファッションは意味も目的もない変化であるが、同時に誘惑である。ファッションは、服飾であろうと化粧であろうと、他人に見られなければならない。他人の目を引き、他人から鑑賞されることのない外見はファッションたりえない。

(引用終了)
<同書 33−40ページ>

ファッションとは、意味も目的もない遊戯でありながら、なにやら誘惑的であり、一筋縄ではいかない「両価的」なものだという。

 「両価的」とは、「模倣」と「差異化」の二つの方向を指すわけだが、模倣するとは“見る”ことであり、差異化するとは“見られる”ことを意味する。「平岡公威の冒険」の項で述べたように、普通、ものを“見る”のは脳の働きであり、“見られる”のは身体の働きだが、ファッションの場合、“見られる”ことの方が脳の働き(差異化)となり、“見る”ことの方が身体の働き(模倣)になる。

(引用開始)

 見ることは、一見すると能動的な行為に思われる。しかし、見る対象に視線を合わせ、対象を目で追い、目をこらして調整しなければならない点で、対象のあり方を受容しなければならない。この意味で、見ることは受動的である。他方、見られることは、一見受身的なことに思われる。しかし、知覚するものの視線を自分に集めさせ、注目を引きつけ続けて、自分のあり方に知覚者を服従させる点において能動的である。見られるという受動性は、自分の発する可視性の中に相手を捉え、可視性を放射することによって、周囲の他者たちの態度を変容させる。見られることは、見る者を誘惑することである。

(引用終了)
<同書 40ページ>

ファッションは、通常の“見る者”と“見られる者”の立場を反転させる。自分と境界との<あいだ>を設計する上で、ファッションのこの「両価性」を弁えておくことは重要だと思われる。さらに著者の文章を追ってみよう。

(引用開始)

 自己を特定の社会的な役割や慣習、固定的なアイデンティティに基づかせる伝統的社会とは異なり、私たちは、誰もが誰でもない者として自分の周囲を通り過ぎていく社会に生きている。そうした社会に生きる身体は、ファッションに身を包む。ファッションは見られることによって新しいものとして地上に再降臨する。新たに創造されたものは、新しいがゆえに、古いものから切断され、無根拠である。創造することとは、神の世界創造のごとく、無根拠である。あるいは、無意味な行為といってもよい。「新しい」とは過去から切り離されていることである。こうした新しく創造された無根拠なものを地上に普及させることが、ファッションである。ファッションを身にまとう人は、創造されたものを人の目の前に見せ、人の視線を集め、自分を人々の中へと定着させる。それは、すなわち、誕生したものを地上へ定着させること、言い換えれば、養育することである。ファッショナブルな人とは、そうした、いわば誕生と養育とを繰り返し生きる人間である。
 新たな皮膚=衣服を作り指すとは、新しい生き物を生み出し、育てることである。ファッションは、パーソナリティの心理学者が到底、追いつかないほどに、はるかに深遠な存在論的な出来事である。表面は深遠である。

(引用終了)  
<同書 42ページ>

ファッショナブルであることは、極めて生産的(他人のための行為)であるわけだ。新しい時代は、新たらしいファッションと共にやってくる。これから街にどのようなファッションが表れるのか、興味深い。

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日本アニメの先進性

2016年01月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「日本アニメの先進性」などというと、何を今さらと言われそうだが、前回の「背景時空について」に関連付けて書くのでご一読いただきたい。ただしここで書くのは日本アニメといっても専ら高畑勲監督のことである。

 以前「21世紀の絵画表現」の項で、『かぐや姫の物語』高畑勲監督(スタジオジブリ)について、

(引用開始)

『かぐや姫の物語』は、一枚の絵全体が動くようなアニメーションが特に素晴らしかった。この、背景時空の無い、水彩画のような動画、絵画のような深みを持ちつつ、「コト」表現として充分な情報量があるアニメは、新しい視覚表現の一つの方向だと思われる。

(引用終了)

と書いたことがある。この“背景時空の無い”というのは映画のパンフレットからヒントを得た言葉だ。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 従来のアニメーションでは背景とセル画は別々の様式で描かれる。これはセルアニメーションと言う手法を採用する際に避けては通れないものだった。しかし、高畑監督が挑戦したのは、背景とキャラクターが一体化し、まるで1枚の絵が動くかのようなアニメーション。アニメーションの作り手たちが一度は夢見る表現である。(中略)一見あっさりしているようで、実は図抜けた画力と膨大な手間の集積によって生み出された、本当の“リアル”を感じさせる表現は、78歳の高畑勲が生み出した全く新しいアニメーション表現として、アニメーション史のエポックメイキング的作品となるだろう。

(引用終了)
<同パンフレット「プロダクションノート」より>

 先日新聞に、高畑監督が自身のアニメ表現や日本人の完成の特徴について語ったシンポジウムの記事があった。『かぐや姫の物語』の手書きの特徴を生かした線による表現について「雨の線が浮世絵を思わせる。日本の伝統的な絵画の影響があるのでは」などの質問に対して、


(引用開始)

 高畑さんは「僕は普通の人と同じくらいしか浮世絵を見ていない。けれど日本に住んで育ってきたこと自体が、僕の一つの特徴になっている。と回答。日本には雨や波、炎など、固定していない「現象」を描く伝統があると説明し、「これは西欧絵画にはない特徴。日本は現象を見て、本質は問わない傾向がある。だから平安時代から、滑って転ぶというような描きにくいポーズもたくさん描かれている。そういう伝統とアニメは関係している」と話した。

(引用終了)
<東京新聞夕刊 9/24/2015>

とあった。ここでいう“固定していない「現象」”とは、複眼主義の対比、

------------------------------------------
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
------------------------------------------

------------------------------------------
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
------------------------------------------

におけるB側の日本語的発想、「モノコト・シフトの研究 II」の項でいう「事象(matter)を脳(大脳新皮質)で考えるのではなく、身体(大脳旧皮質+脳幹)で考える」ことだと思う。“本質を問わない傾向”というのが面白い。本質を問うには「分析」しなければならないから、A側の話になってしまうわけだ。

 日本人はB側の優位に拠って、アニメーションにおいてついに「背景時空」を無くすレベルにまで到達した。「日本アニメの先進性」という所以である。勿論制作にお金は掛かっただろうが、これはジブリにしか出来なかった快挙だと思う。スタジオジブリについては、かつて「借りぐらしのArrietty」の項でその特長を書いたことがある。

 高畑監督は、今年米アニー章功労賞を受賞したという(発表・授賞式は今年2月6日)。

(引用開始)

「アニメ界のアカデミー賞」と呼ばれるアニー賞を主催する国際アニメ映画協会は一日、功労賞の一つで、アニメ界のへの長年の貢献をたたえる「ウィンザー・マッケイ賞」を日本のアニメ映画監督の高畑勲さん(八〇)に授与すると発表した。(以下略)

(引用終了)
<東京新聞 12/8/2015>

21世紀のアニメの方向性を示唆する映画を作ったのだから、単なる功労賞ではなくアニメ大賞であるべきだが、まあそれはおいおい西洋人も解ってくるのではないか。 

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熱狂の時代

2015年11月10日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」の項で、梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)を紹介したが、そのなかの「近づき過ぎず、取り込まれない」と題された第3章に、竹林の話がある。竹林は地下茎でどこまでも増えてゆくから、たくさん生えているようでも全体が一つの個体のようなものだという話で、そのあと梨木さんは次のように書く。

(引用開始)

 様々な方向性を持つ雑多な木がつくりだす場の雰囲気と、一つの方向に先鋭的に深化してゆく場のムード。多様性に溢れた前者が健康的で、排他的な後者が病的に感じられるのはたぶん多くの人が納得できることだろうけれど、どちらの「引き寄せる力」の磁場が強いかというと、一概には言えない。それぞれ、そのときの自分の意識の持ちようによって予想もできない力をはっきするものだから。

(引用終了)
<同書 24ページより(フリガナ省略)>

ここで竹林は排他的で熱狂的な全体主義の例えとなっている。

 モノコト・シフトの時代は、冷たい脳(大脳新皮質)の働きよりも、熱くなりやすい身体(大脳旧皮質と脳幹)の働きを重視するから、それは一面「熱狂の時代」ともなる。

 以前「勝負の弁証法 II」の項で、「勝負が“コト”であってみれば、“モノコト・シフト”の時代、世界中でスポーツ・イベントやゲームがますます興隆するであろう」と書き、「nationとstate」の項で、「総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を強めると思われる」と書いたけれど、スポーツも政治も、そして戦争も、人々が熱狂しやすいイベントだ。

 熱狂することの問題点は、「三つの宿啞」の項で示した、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

のうち、(3)の認知(思考)の歪みが生じ易いことである。熱狂によって感情が大きく揺すぶられると、過剰な財欲と名声欲(greed)と官僚主義(bureacracy)の放つ騙しのテクニック各種によって、人々の思考が一つの方向に束ねられる危険性が高まる。

 「モノコト・シフトの研究」の項で、「都市の一部には、利権がらみで意図的にA偏重社会の持続を画策する人々もいる」と書いたけれど、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

において、greedとbureacracyに侵された人々は、民衆のBに基づく「熱狂」を自分達の利権維持のために利用する。

 熱狂がスポーツ・イベントに向かっているうちは良いが、それがマネー経済や政治、特に戦争に向かい始めたら気をつけなければならない。梨木さんは「近づき過ぎず、取り込まれない」のなかで、幼い時、竹林のしんとした静けさに悲壮感に近いリリシズムを感じたと書き、その章の最後に、

(引用開始)

 大人になった今はただ、社会全体が排他的な竹林になるのが怖い。そしてそこから抜け出せなくなるのが。

(引用開始)
<同書25ページより>

と付け加えておられる。上の対比にもある通り、日本語はそもそもBに偏しているから特に気をつけたい。先の大戦時を思い起こすべきだ。

 これからの日本にとって、2020年に予定されている東京オリンピックは一つの試金石だと思う。今後greedとbureacracyによってオリンピックへの「熱狂」を煽るありとあらゆるプロパガンダが繰り出されるに違いない。そしてそれが、都市集中やナショナリズム高揚へと巧妙に仕切られていく。だから浮かれてはならない。常にクールな頭(大脳新皮質)で、物事の表と裏を見極めるようにしなければならない。

 時代がBに偏して来るからといって、個人ベースではAの重要さを忘れてしまってはいけない。複眼主義でいつも繰り返すように、活き活きとした社会を創る為には、AとBのバランスが重要なのである。

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自分と外界の<あいだ>を設計せよ

2015年11月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「モノコト・シフトの研究」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で、これからは、「固有の時空」を大切にする時代であり、大切な固有時空には、

● ある程度持続する
● まわりに好影響を与える

といった特徴があると述べた。最近文庫になった梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)は、日常生活で出会う様々な時空について、細やかな観察眼で綴った心地良いエッセイ集である。

 時空をどう見極めるか、自分と外界との<あいだ>をいかに設計し、悪影響を及ぼす時空を遠ざけ、好影響を与えるそれに接近するか、そういったことが、

1 堅実で、美しい
2 たおやかで、へこたれない
3 近づき過ぎず、取り込まれない
4 足元で味わう
5 ゆるやかにつながる
6 みんな本物
7 近づき過ぎず、遠ざからない
8 世界は生きている
9 「スケール」を小さくする

などなど、全部で28の章に分けて書いてある。本カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

 ふとした日常の風景から、万華鏡のごとく様々に立ち現れる思いがある。慎ましい小さな花に見る、堅実で美しい暮らし。静かな真夜中に、五感が開かれて行く感覚。古い本が教えてくれる、人と人との理想的なつながり。赤ちゃんを見つめていると蘇る、生まれたての頃の気分……。世界をより新鮮に感じ、日々をより深く生きるための「羅針盤」を探す、清澄な言葉で紡がれた28のエッセイ。

(引用終了)

とある。自分に好影響を与える場所についての梨木さんの文章も本書から引用しておこう。

(引用開始)

 別に有名なスポットでも何でもないのだが、ああ、ここはすてき、と思う場所がある。林の中に、そこだけぽかんと陽の光が当っているような場所。広葉樹の若葉が、天蓋のように空を覆っているような場所。異国で迷って路地を入っていくと、思いもかけない中庭を見つける。涼しい風が吹いて、ベンチがあり、行きずりの人のためにも開かれている。あるいは古いデパートの、喧騒を離れた場所にある踊り場。入るとくつろぐ喫茶店。
 町中のあちこちに、日本中のあちこちに、世界中のあちこちに、そういう場所があることを憶えている。心が本当に疲れているときは、砂漠のオアシスを目指すように、頭の中でそういう場所を彷徨う。
 大好きな場所をいくつか持っていることはいい。

(引用終了)
<同書 112ページより(フリガナ省略)>

 ちなみに、「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」というタイトルは、先日「住宅の閾(しきい)について」の項で紹介した『権力の空間/空間の権力』の副題「個人と国家の<あいだ>を設計せよ」からアナロジーとして拝借した。これからの時代、「個人と国家」間だけではなく、「自分と外界」との間の設計そのものが問われると思うからだ。

 自分とは一つの大きな渦(vortex)である。それを取り巻く外界は、大小様々な渦に満ちている。「食排、運動、仕事、読書、恋愛、気象、我々自身とそのまわりでは無数の“コト”が日々起っている。そしてまた消滅している」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で書いた通りである。

 コトを大切に考えるこれからの時代、いかに自分と外界との間を上手く設計するかはとても重要なファクターになる筈だ。自分のためだけではなく、周囲に自分が好影響を与え続けるためにも。それはまた個人の自立をも促す。個人と国家間の設計作業が始まるのはその後だ。

 この設計図は起業家にも欠かせない。モノコト・シフト時代の産業システムは大量生産・輸送・消費から、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といったものに変わっていく。朝昼晩、どのように自分と外界(この場合は身近な顧客、従業員、家族など)との間合いを取るか、それが遠隔操作で外界との話を済ませてきたこれまでと違って重要な課題となるだろう。

 作家としての梨木さんは、本の執筆を通して読者に好影響を与えようとしている。先日も『百花深処』<人が育つ場所>の項で、梨木さんの『雪と珊瑚と』(角川文庫)と『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫)について評論したが、よい本を書くために必要な身の回りの設計、『不思議な羅針盤』は、彼女のそういう想いを乗せた内容ともなっている。

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複眼主義美学

2015年09月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 今年2月「郷愁的美学」の項をアップしてから、文芸評論『百花深処』の方でその周辺を「複眼主義美学」と称して継続的に探ってきた。5月に「吉野民俗学と三木生命学」の項で途中経過を報告したが、改めてここに全体を纏めておきたい。


 複眼主義美学とは、藤森照信の『茶室学』、泉鏡花の『草迷宮』や吉田健一の『金沢』、九鬼周造の『「いき」の構造』や『風流に関する一考察』などを手がかりにして、自律神経系(交感神経と副交感神経)、脳(大脳新皮質)の働きと身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き、都市と自然、男性性と女性性、といった複眼主義の諸対比を用い、日本および西洋の思考・美意識構造を分析したものである。

日本人の思考と美意識:
-------------------------------------
日本古来の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動でありながら、自然を友とすることで、高みに飛翔し続ける抽象的思考よりも、場所性を帯び、外来思想の習合に力を発揮する。例としては修験道など。その美意識は反骨的であり、落着いた副交感神経優位の郷愁的美学(寂び)を主とする。交感神経優位の言動は、概ね野卑なものとして退けられる。
-------------------------------------
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日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
-------------------------------------

西洋人の思考・美意識:
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西洋の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動であり、都市(人工的なモノとコト全般)に偏していて、高みに飛翔し続ける抽象的思考に優れている。例としては神学や哲学など。その美意識は、交感神経優位の反重力美学(高揚感)を主とする。副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる。
-------------------------------------
-------------------------------------
西洋の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、都市に偏していて、モノやコトの安定化に力を発揮する。例としてはイギリスの女流小説など。その美意識は、静かな副交感神経優位の郷愁的美学(エレガンス)を主とする。交感神経優位の強い情動は、多くの場合魔的なものとして恐れられる。
-------------------------------------

 人は皆ある比率で男性性と女性性とを持っているから、両方の性性の思考・美意識を有している。今の日本人は、日本古来の思考・美意識と、西洋的なものとの混合型。人によってそのレベルは異なる。何か強いプレシャーを受けると、先祖帰りして古来の思考・美意識に戻ることがある。日本的なるものを理解する西洋人も最近増えてきている。
 
 複眼主義では、そもそも「都市」(人工的なモノやコト全般)は男性性(所有原理・空間原理)、「自然」は女性性(関係原理・時間原理)に偏していると考える。一神教によって育まれた西洋人の思考は、原則的に人間中心の発想で、反自然=「都市」をベースに発展してきた。だから西洋人の思考は、男女ともに、男性的な合理精神に引き寄せられる。一方、日本人の思考は、原則的に環境中心の発想で、縄文の昔から「自然」との融和を基に展開してきた。だから日本人の思考は、男女とも女性的な感性に引き寄せられる。

 「都市」に偏した西洋人の思考から形成される美意識は、主に、男性的な反重力美学(高揚感)と、その行き過ぎを抑えるよう(カウンターとして)働く女性的な郷愁的美学(エレガンス)、「自然」に偏した日本人の思考から生まれる美意識は、主に、女性的な反重力美学(華やかさ)と、その行き過ぎを抑えるように(カウンターとして)働く男性的な郷愁的美学(寂び)である。

 以上だが、これらの特徴抽出は、私の知識と経験に基づく仮説であり、どこかに正典があるわけではない。あくまでも私がこれまで「複眼主義」として集成してきた考え方の延長線上にある。また複眼主義における二項対比は、「かならず」というものではなく、「どちらかというと」という曖昧さを許容する。複眼主義美学についても同様に捉えていただきたい。

 人の思考と美意識を、このように自律神経や脳の働き、性性と関連づけ、さらには、日本と西洋といった文化の違いに応じて体系立てたのは、初めての試みではないだろうか。「ヤンキーとオタク」の項で論じたような日本論も、この分析を援用することでさらに興味深い検討が可能となる筈だ。これからも様々な視点からこの仮説の整合性を検証していきたい。ご意見・ご指適もお待ちしている。

 さっそくこの成果を基に、最近『百花深処』<平岡公威の冒険 3>をアップした。三島由紀夫(本名平岡公威)のクロスジェンダー的表現の秘密に迫ったもの。お読みいただけると嬉しい。

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郷愁的美学

2015年02月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「反重力美学」の項で、交感神経由来の美的感覚であるところの、重力に逆らうものに対する憧れを、「反重力美学」と名付けた。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型など、重力から逃れようとする運動や形態に対して、人間は本能的に美を感じ取るという話だ。

 それに対して、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌、長閑な田園風景など、郷愁を誘う物事に対して感じるのは、同じ自律神経でも、副交感神経由来の美的感覚だと思われる。

 「交感神経と副交感神経」の項で見たように、副交感神経は、消化が行なわれているときに活性化し、<安らぎと結びつき>作用による身体的適応に関連しているわけだから、その美的感覚は、身体がリラックスしたときに発動する筈だ。確かに、いとしさや香りを感じるのはそういうときに違いない。この副交感神経由来の美学を、「反重力美学」と対にして、「郷愁的美学」と名付けたい。複眼主義の関連対比でいえば、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という連なりになる。

 この美的感覚の対比は、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>などで検討した、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

といった時空構造とどう繋がるのだろうか。

 「反重力美学」の項で言及したように、反重力美学は西洋的なリズム感を伴っている。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型に憧れるのは男性の方が多いから、「男性性」と「反重力美学」は親和性が強い。一方、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌など郷愁を誘う物事を好む女性は多いから、「女性性」と「郷愁的美学」は親和性が強い。しかし、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という対比は機能的(functional)な分類で、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

の対比は構造的(structual)な分類だから、二つの対比は同じではない。

 美的感覚は、機能的な@「反重力美学」とA「郷愁的美学」という対比と、構造的なB「男性性」とC「女性性」とが「縦軸と横軸」の関係性を持ちながら、その全体を形成しているといえるだろう。
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だから、四つの項目の比率は、その対象や鑑賞者の心身状態によって違ってくる。

 音楽を例に取ってみよう。様々な音楽のうち、リズムを重視するジャズの感覚は、どちらかというと「反重力美学」的であり、嗜好者には男性性を出自に持つ人たちが多い。メロディーを重視するリラックス系音楽は「郷愁的美学」であり、嗜好者には女性性を出自に持つ人たちが多い。しかし、女性のジャズ愛好家はいるし、リラックス系音楽を好む男性もいる。ジャズでもスローな曲は郷愁的だ。そして人は、鑑賞するときの気分(心身状態)に応じて、ジャズを聴いたりリラックス系の音楽を聴いたりする。

 それぞれの比率は、その人の育ち、風土や言語といった文化的背景の違いによっても異なるに違いない。たとえば日本では、男性でもわび・さびなど「郷愁的美学」を好む人が多い。それは、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>の項で述べたように、日本の男性性(螺旋運動)が、場所に牽引され、抽象的な高みに飛翔し続けないことと大いに関係がありそうだ。

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金沢の魅力

2014年12月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 この秋、金沢の町を少し歩いてきた。『金沢を歩く』山出保著(岩波新書)によると、金沢は「ヒューマンスケールのまち」だという。確かに、金沢城址・兼六園から30分もあれば、旧市域のどこへでも歩いて行くことができる。

 金沢の町を上から眺めると、東に浅野川(女川)、西に犀川(男川)が流れている。その中心の台地に金沢城址・兼六園などがあるわけだが、二つの川は用水路で結ばれていて、市中いたるところに清らかな水が流れている。

 金沢は、戦国武将の前田利家が築城とまちづくりを行なったわけだから、室町・江戸時代の文化様式を色濃く残している。成巽閣、長町武家屋敷跡、にし・ひがし茶屋街、寺町などなど。空襲の被害を免れたから今でも古い家並みが多く残っている。

 金沢は金箔、加賀友禅、九谷焼など、職人文化の町でもある。石川県立美術館や石川県立歴史博物館、金沢21世紀美術館など文化施設も多い。泉鏡花、徳田秋聲、室生犀星などの文学者、鈴木大拙、西田幾多郎などの思想家たちも金沢の出身だ。鮮魚、加賀野菜などを扱う近江町市場の賑わいもある。郷土料理や鮨、和菓子やケーキなども美味しかった。

 最近文芸評論『百花深処』<出口なき迷宮>の項において、「女性的な鏡花の小説世界と、反転同居の悟りを齎す利休の茶室。この二つの時空構造の共通性にこそ、日本文化の真髄があるのではないか」と書いたけれど、金沢という町の魅力は、バランスよくこの二つをその懐に擁しているところではないかと思う。

 その象徴が「泉鏡花記念館」と禅の「鈴木大拙館」だ。前者は東の浅野川の畔、後者は西の犀川に近い場所にある。旧市域を歩いて実感したのは、文化の豊かさと共に、このバランスの良さだ。勿論、東京や京都、その他の町にも、女性的な鏡花の小説世界と禅の茶室はあるだろう。しかし金沢は、東西がそれぞれの個性を発揮しながら、全体がコンパクトに纏まっている。

 『金沢を歩く』を書いた山出保氏は、1990年から5期20年金沢市長を勤めておられた。本の新聞紹介記事には、

(引用開始)

 一国一城の武家文化を基礎とする城下町の景観とものづくりの伝統。街の個性をコミュニティーとして確認しながら、新しい仕掛けをつくってきた都市の歴史と魅力を、5期20年市長を務めた著者が語る。二つの美術館をつなぐ「美術の小径(こみち)」や歴史景観の町並みなどを紹介。

(引用終了)
<朝日新聞 9/14/2014>

とある。以前「元気なリーダー」の項で、元気な街にはかならず元気なリーダーが居ると書いたことがあるが、市長のリーダーシップによって金沢の今があるようだ。氏はこの本の「あとがき」に、

(引用開始)

 まちは、長い時間のスパンのなかで、ていねいにつくりあげていくことが大切です。
 まちづくりには、テーマがあってストーリーが必要です。理念のもとに、計画と方針があるべきです。計画と方針に沿って、拙速を避け、識者や市民の意見を聴きながら、ゆっくりとつくりあげていく過程が、まちづくりでしょう。もし、理念や計画・方針を変えようとするなら、識者による審議と市民の合意が欠かせません。
 「まちは市民の手に成る芸術品」といわれます。市民一人ひとりの協力と参画が必要です。
 いたずらに効率と機能を追い求めるのではなく、歴史や伝統を重んじ、住む人の息づかいが聞こえる、そんなまちこそ望まれます。あわせて、まちは美しくなければなりません。そのためにも、緑と水を守り育てるほか、市民と企業の美的感性が磨かれ、高められなければならないのです。

(引用終了)
<同書 207−208ページより>

と書いておられる。金沢は、これからもたびたび訪れたいと感じさせる町だ。

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文化の三角測量

2014年11月25日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『〈運ぶヒト〉の人類学』川田順三著(岩波新書)という本を読んだ。本カバー裏の紹介文には次のようにある。

(引用開始)

アフリカで生まれ、二足歩行を始めた人類は、空いた手で荷物を運び、世界にちらばっていった。この〈運ぶ〉という能力こそが、ヒトをヒトたらしめたのではないか?アフリカ、ヨーロッパ、東アジアの三つの地点を比較対照し、〈運ぶ〉文化の展開と身体との関係を探る。人類学に新たな光を当てる冒険の書。

(引用終了)

これまでヒトについての名称は、ホモ・サピエンス(知恵のあるヒト)、ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)、ホモ・ヒエラルキクス(階層化好きのヒト)、ホモ・ファベル(作るヒト)など色々とあるが、川田氏はホモ・ポルターンス(運ぶヒト)という視点から、ヒトとその文化を考察する。

 その際使われる手法が、アフリカ、ヨーロッパ、東アジアの三つの地点を比較対照する、所謂「文化の三角測量」だ。

(引用開始)

 文化を比較するのには、大きく分けて二つの方法があるといえる。
 一つは、歴史上関係があったことが明らかな文化を比較するもので、たとえば日本列島の文化と、中国大陸や朝鮮半島の文化の比較がそれにあたる。その場合、影響や伝播によっておこった変化、受入れられたものと、受入れられなかったもの、なぜそうだったのか、などが関心の対象となる。
 もう一つは、地理的にも文化的にも著しくへだたり、相互に直接の影響関係がまったく、あるいはほとんどなかったような三つの文化を比較するもので、この本で私が用いるのはこの方法だ。私の場合、人類学を志してからの主な研究対象地域が、日本からはじまって、西アフリカ、フランスへと広がってゆき、二○代のはじめから現在まで六〇年あまり、三つの地域を行き来して研究をつづけるうちに、ひとりでに身についた比較の方法でもある。

(引用終了)
<同書 22−23ページより>

ということで、川田氏は、前者を歴史的比較、後者を論理的、ないしは発見的比較と呼ぶ。後者においては、一つの文化だけを見ていたのでは気づかない隠れた意味を発見することができるという。

 氏はこの手法、文化の三角測量(フランス文化、日本文化、旧モシ王国の比較)によって、ヒトと道具における三つのモデル、

A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)
C=人間(人体)の道具化(旧モシ王国)

を措定する。

A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)

については、以前「脳と身体」の項で、複眼主義の二項対比に引き寄せて論じたことがある。併せてお読みいただきたい。Aには「二重の意味での人間非依存」があり、Bには「二重の意味での人間依存」があるという指摘が重要だ。

(引用開始)

 モデルAにおける「二重の意味での人間非依存」とは、第一に、人間の巧みさに依存せず、誰がやっても同じようによい結果が得られるように道具を工夫するという嗜好性と、第二に、人力を省き、畜力、水力、風力など、人力以外のエネルギーをできるだけ利用して、より大きな結果を得ようとする嗜好性に、その特徴を見ることができる。(中略)
 これに対して、モデルBの「二重の意味での人間依存」の第一は、人間の巧みさによって単純で機能未分化な道具を多機能に使いこなすことであり、第二に、よい結果を得るために、人力を惜しみなく投入することである。
 第一の点は、箸や船を進める艪(ろ)に、よい例を見ることができよう。第二の点は、限られた水田(灌漑による稲作は、同じ土地でいくらでも連作が可能な、まれな農法だ)で、労働生産性は無視して土地生産性を上げるための、惜しみない勤労を推奨する価値観に見ることができるだろう。

(引用終了)
<同書 102−104ページより>

前者モデルAが、西洋近代文明へ繋がることは容易に想像がつく。

 モデルA=西洋近代文明はその後世界を席巻し、グローバル化していく。川田氏はそれを幾つかのステージに分け、今は第五のグローバル化時代だという。

(引用開始)

 第二次大戦という人類にとって空前の破壊の後に始まった、アメリカ主導の第四次グローバリゼーションのあと、ソ連圏の崩壊以降現在までつづく第五のグローバル化には、三つの特徴を見ることができる。
 その一は、対戦終結後まもなくの技術の進歩と経済的豊かさへの漠然とした夢が、地球規模での資源の枯渇や環境破壊への危機感によって消えたこと。その二は、戦後の冷戦構造が、社会主義ブロックの崩壊によって消滅し、新・自由主義経済の弱肉強食が、世界を覆うようになったこと。第三に「情報」が肥大し、金融経済だけでなく、人類の精神生活全般にとってもつ意味が、極めて大きくなったことだ。
 現在世界に求められているのは、根本的なパラダイム、考え方の枠組みの変換だ。局所療法、対症療法が、いたるところで頭打ちの困難に直面している現状で、人間の技術と、ヒト=自然関係のありかたについての、パラダイムの根源的再検討と変換への模索が必要だ。
 この本で見てきたように、私たちの先祖が二足歩行により、荷物を運んでアフリカを出た結果、ホモ・サピエンスは生物の単一の種speciesとしては例外的に、世界のあらゆる自然環境に適応して異常増殖した。そして私たちの個体数は、現在でも七〇億あまり、二〇五〇年には九〇億をゆうに越えると予想されている、それは、他の多くの生物種を日々絶滅させながら、私たちが一日も休まず歩きつづけている、ヒト中心に考える限り、出口の見えない道でもある。種間倫理の探求が、差し迫った現実の問題となっている一方で、宣戦布告なきヒト同士の殺し合いが、今ほど激しい時代もなかったであろう。(中略)
 文化、とくに月まで到達した科学技術の進歩に人々が喝采する一方、二十世紀は未曾有の規模で、ヒト同士の大量殺戮が行なわれた世紀だ。ヒト同士が大規模に殺し合っただけでなく、「知恵のある人」がその技術力で、ヒト以外の種の生物を無制限に殺し、生態系の調和を危うくしたのも二十世紀だ。
 こうした暗い未来図を前にして、私たちが抱きうるせめてもの希望は、ヒトを絶望に向かって追い立ててきたグローバルな流れの底で、あちこちにささやかな逆流をおこしてきた、それ自体決して固定されたものでない、「エスニック」なものの芽を、「グローバル」との関係で育ててゆく努力ではないだろうか。

(引用終了)
<同書 154−157ページより>

ここにある考え方は、このブログにおける「モノコト・シフト」の認識と踵を一にするものだ。「エスニック」とは、それぞれの土地(場所)の民族文化に由来するさまであり、画一的でない多様な「コト」が起きる原動力である。

 モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、20世紀の大量生産システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による、「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方・考え方への関心の高まりを指す。

 川田氏はこの本の最後で、われわれが「運ぶヒト」の原点に帰ることを提唱する。

(引用開始)

 アフリカでは、子どもが学校へ行くときにも、本やカバンを頭の上に乗せてゆく。日本のように太陽光がつよく、暑い国で、子どものときから荷物を手に持たず、帽子代わりに頭上で運ぶ週間がひろまれば、まず間違いなく姿勢が良くなる。女性も、頭に本をのせて歩く美容体操をしなくても、靴のかかとをひきずらなくなるだろう。
 リサイクル可能な植物容器の半球型ヒョウタンの器で、頭上運搬――思えばそれは、この本のはじめに描かれた、直立二足歩行を達成した「運ぶヒト」が、アフリカを旅立ってゆく姿でもあった。
 自分自身の身体を使って、身の丈(たけ)に合ったものを運ぶという、ヒトの原点にあったはずのつつましさを思い出すこと――現代以降の地球に生きる私たちホモ・サピエンス、知恵のあるヒトが、その名に値するよう、他の生きものたちと一緒にさぐってゆくべき長い道のりが、私たちの前には、のびている。

(引用終了)
<同書 169−170ページより>

これはモデルC=人間(人体)の道具化の再導入でもありなかなか興味深い。

 尚、ヒトと道具における三つのモデル、

A=道具の脱人間化
B=道具の人間化
C=人間(人体)の道具化

については、姉妹サイト「茂木賛の世界」で始めた文芸評論『百花深処』の<反転同居の悟り>の項でも触れた。併せてお読みいただければ嬉しい。

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二つの短編小説

2014年11月11日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 最近二つの短編小説を書き上げた。姉妹サイト「茂木賛の世界」にアップしたので、興味のある方は仕事の合間にでも「作品リスト」から選んでお読みいただければ嬉しい。長さはともに15枚程度(400字詰原稿用紙換算)。

 一つは「老木に白雪」。昔、化野念仏寺を訪れた際にアイデアが浮かんだ。京都は奥嵯峨の山中に住む老翁のところへ、東京の元大尉より一通の遺書が届くところから話が始まる。最後の一行に集中していくための展開に悩んでいたが、知恵の逃避行を入れることで一気に完成した。

 もう一つは「夜のカフェ」。昔、ゴッホの弟テオ宛の手紙を読んだ際にアイデアが浮かんだ。ブラジルW杯決勝前夜、ブエノスアイレスの酒場での出来事を描いた作品だ。最近読んだ『ブエノスアイレス午前零時』藤沢周著(河出文庫)からインスピレーションを得て出来上がった。

 二つはペアのような作品で、どちらも、固有の場所を背景に、死を越えた人の意思のようなものを表現しようとしたものだ。人は誰も心の中に愛する人を持っている。母であったり息子であったり、妻であったり夫であったり。そして、愛する人の魂がこの世を去ったとしても、残された側の心の中にあるその人の記憶は消えることがない。

 こうして昔の着想を作品化することができ些(いささ)か感慨深い。小説を書くのは愉しい。レトリックの勉強も生かしたつもりだ。これからも面白いテーマを見つけて書いていきたいと思う。

 尚、「夜のカフェ」について最近友人から以下の感想を貰った。

(引用開始)

 読みました。女性が主人公なのにヘミングウェイの男の雰囲気を感じさせました。説明的でない簡潔でさりげない会話に内在する感情の微妙なすれ違いに、お互いの交差しない想いが印象的でした。ヘミングウェイの短編集やR.チャンドラーの作品のような雰囲気が好きなので、面白く読ませていただきました。

(引用終了)

味のある言葉で嬉しい。皆さんからも是非コメントなどお寄せいただければと思う。

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虚の透明性とモダニズム文学

2014年08月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日「虚の透明性」の項で、隈研吾氏は評論家吉田健一のいう「たそがれとしての近代」と近代建築の「虚の透明性」とを重ね合わせた、と書き、隈氏の著書『僕の場所』から、

(引用開始)

 「虚の透明性」という概念は、僕にとって腑に落ちるものでした。それは「近代=モダン」という時代の根底にある、重要な概念です。「たそがれ」の時代には、すべてが重なって見えるのです。ロウはその意味で、僕が目指す「たそがれ」の時代の建築の姿を暗示してくれた、大切な恩人です。
 現在の中に過去があり、現在の中に未来がある。自分の中にも他人があり、他人の中にも自分がいる。そのような重層性こそが、「近代=モダン」という「たそがれ」の時代の本質です。(中略)
 過去と現在が重層し、近くと遠くのものが重層する状態こそが、「近代=モダン」という時代のすべての領域に共通する特質なのです。

(引用終了)
<同書 190−191ページ>

という文章を引用したが、吉田健一の主張を継いだ作家丸谷才一(本名根村才一)は、モダニズム文学について、その著書『樹液そして果実』(集英社)の中で、次のように書いている。

(引用開始)

 一体にモダニズムについて考えるときには、時間というふもの、歴史といふものが重要な装置となります。今がすぐ今でなくなるやうに、現代はやがて現代でなくなる。しかしさういふ、時間につきもののうつろいやすさ、はかなさのなかに、特異な美の形、詩情がある。花やかさ、華奢で贅沢な趣がある。これは日本的な美の感じ方の特徴でもあるのですが、さう言へば平安朝の日本語には「今めかし」といふ言葉があって、これは、(1)現代的である、(2)花やかである、の両義を持つてゐました。そこで「モデルニテ」はいつそ「今めかしさ」と訳せば一番いいかもしれません。(中略)
 一方、今を気にかけることは昔を意識させるし、現代を楽しむことは古代を思ひ出させる。そこで新しさと伝統とがかへつて結びつく。歴史は平凡に退屈に流れていくものではなくつて、現代を過去との関係に緊張関係が起り、冒険の意欲が生じる。「歴史というのは、ぼくがなんとか目を覚ましたい思っている悪夢なんです」と『ユリシーズ』のなかでスティーヴン・ディーダラスは言ふ。古典主義が前衛を生む。

(引用終了)
<同書 212−213ページ、フリガナ省略>

モダニズム文学は、今を大切にするが故に、かえって歴史や伝統、神話や社会のあり方といったものを重要に考え、それに新たな光を当てようとする(新たな見かたを与えようとする)わけだ。そういえば、丸谷の作品にはそういった特徴が多く見出される。

1.古典に新たな光を当てようとする(源氏物語や忠臣蔵など)
2.言葉への拘り(旧仮名や多彩なレトリックの使用)
3.社会のあり方への提言(社交や挨拶の重視、書評やエッセイの執筆)

 丸谷才一は2012年に亡くなった。その後『丸谷才一』(文藝別冊、河出書房新社)や『書物の達人 丸谷才一』菅野昭正編(集英社新書)なども出て、氏の文学の評価は高い。しかしなぜか、彼のあとを継ぎ、旧仮名でレトリックに富んだ文章を書く人はあまり居ないようだ。

 幸い丸谷才一は、その拘り抜いた日本語で、数多くの小説やエッセイ、評論や書評を書いているから、それらを読み返しながら、氏の「虚の透明性」に富んだ世界を愉しむとしよう。後期の小説『輝く日の宮』について、作家阿刀田高氏が書いた文章がある。

(引用開始)

 丸谷才一『輝く日の宮』(講談社文庫)とタイトルを見ただけで、「えっ、本当。すごい」と胸を弾ませる人もいるだろう。知る人ぞ知る、出色のテーマである。しかも碩学・丸谷才一が綴っているのだ。
 もとはと言えば『源氏物語』だ。日本文学の金字塔だが、どのくらい読まれているのだろうか。現代語訳で須磨・明石くらいまで……。あるいは「桐壺」だけ読んだなあ」。書名しか知らない人も多い。
 が、それはともかく、この「源氏物語」は天下の名作ながら、ちょっと不思議なところがある。第一帖の『桐壺』と第二帖の「帚木」と、二つのあいだのつながりがヘンテコなのだ。うまくつながっていない。つながりがわるいばかりか、このあたりで当然説明しておかなければ、あとで困ってしまうような……前に説明しておいてくれなければ、「なんでこんなことが急に起るの」と読者に疑念を抱かせるような構造になっているのだ。名作として大きな瑕、そう言えなくもない。
 そこでここには……第一帖と第二帖とのあいだには『輝く日の宮』という一帖があったのではないか、と古来、言われているのだが、学説としては否定されている。完全否定。散逸があったわけでもないらしい。
 でもね、学者がいくら否定しても読めば読むほど『輝く日の宮』の存在を信じたくなってしまう。実在していた、と願いたくなる。
 そこへ丸谷才一が切り込んだとなると、これは相当におもしろかろう。
 私は数年前、四六版で出版されたときに瞥見していたのだが、書店の店頭で文庫本のあるのを見つけて購入、長旅のつれづれに読みふけった。
 ペダンチック。でも凄い。存在しなかったと言われる『輝く日の宮』を想像することは『源氏物語』の成立やストーリー展開を深く理解することに通じる。それだけでもお得用だが、最後に研究者を越えた……つまり小説家である丸谷のみごとなイマジネーションが用意されていて、ミステリー小説の趣さえある。だから種あかしは控えるが、私は熟読、興奮、大満足、優れた奇書と思った。

(引用終了)
<毎日新聞 9/1/2013、フリガナ省略>

気に入った作品なので紹介文を引用しておいた。手軽な文庫だから皆さんも手にしてみてはいかがだろう。文庫でもきちんと旧仮名のままにしてあるところが佳い。永井荷風や三島由紀夫などの小説は、単行本は旧仮名でも文庫では新仮名づかいに変換してあって興ざめだが、丸谷才一は生前それを良しとしなかったようだ。

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21世紀の絵画表現

2014年03月25日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 去年の11月、国立新美術館で、ゴッホ、スーラーからモンドリアンまでの点描画を集めた「印象派を越えて 点描の画家たち」を観た。19世紀後半に生まれたこれらの点描画は、思考におけるアナログからデジタルへのシステム転換であり、それは、20世紀の現代人の孤立した実存を支える「新しいパラダイム」の到来を告げるものであったとされる。私は作品を観ながら「点描画が20世紀のパラダイムの到来を告げる絵画表現であったとしたら、21世紀のモノコト・シフト時代の、新しいそれは何なのだろう?」ということを考えた。

 20世紀の西洋絵画は、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくわけだが、その過程は、点描画のデジタル・システムをさらに推し進めて、形態それ自体をも解体してゆく、還元主義的な精神運動として捉えることが出来るように思う。その運動は、この世紀の戦争や環境破壊と踵を一にしている。だとしたら、21世紀の「コト」への関心を示す絵画表現とは何か?

 滝のモチーフで知られる日本画家の千住博は、『動的平衡 ダイヤローグ』福岡伸一著(木楽舎)における福岡氏との対談の中で、次のように述べている。

(引用開始)

千住 絵画は、それ自体、動かない。けれど、モネの睡蓮の絵のように、温度の差や光のうつろい、音や気配、湿度や匂いを目に見えるようにすることで成り立っています。これらはすべて「動き」ですよね。むしろ、絵のなかで動きを止めることによって、かえって違和感から動きが強調されることもある。
福岡 おっしゃるとおり、絵画は動きを表すために、時間を止めていますよね。フェルメールの『牛乳を注ぐ女』や「真珠の首飾りの少女」も、ちょうど写真家がそうするように、ある決定的な瞬間を切り取っている。そこには、その瞬間に至る時間と、そこから出発する時間とが一瞬のうちに捉えられています。
 フェルメールが自分の「部屋」を見つけたように、千住さんは「滝」を発見されたと思うんですが、滝とはまさに、常に水が流動する動的な存在ですよね。滝を描くにあたっては、やはり動きを絵のなかに捉えたいという思いがあったんでしょうか。
千住 それはもちろん、ありました。動的なものとは、つまり、プロセスですよね。滝は上から下へと水が流れ落ちる、いわばプロセスそのものです。あるとき、私は滝の動きを観て非常に感動したんです。それは、人類がなぜ芸術を生み出したのか、その起源にまで遡るような本能的な感動だった。そして、なんとかこの動きのプロセスをつかみ取りたい、描きたいと思ったんです。

(引用終了)
<同書 202−203ページ>

ということで、フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものをキャンバスに描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない。

 20世紀には、写真や映画といった新しい視覚表現も興隆してきた。モノコト・シフト時代の新しい表現ということで、最近観た2本の映画を紹介したい。

 1本目は、『かぐや姫の物語』高畑勲監督(スタジオジブリ)という日本の映画だ。『かぐや姫の物語』は、一枚の絵全体が動くようなアニメーションが特に素晴らしかった。この、背景時空の無い、水彩画のような動画、絵画のような深みを持ちつつ、「コト」表現として充分な情報量があるアニメは、新しい視覚表現の一つの方向だと思われる。動画(投射光)でありながら、絵画(間接光)のような余韻を持つこのような手の掛かる作画方法を基に、137分の作品を作ってしまう日本アニメの底力は凄いと思う。母音満開の音楽も良かった。

 スタジオジブリの映画『風立ちぬ』は、滅びの美学だった。動く水彩画のようなアニメ『かぐや姫の物語』は、そこからの再生の美学なのかもしれない。高畑勲監督が「宮崎駿さんは引退を撤回するかもしれませんよ」と言ったのは、盟友による再生の美学を観たいという意味なのかもしれない。

 もう1本は、「議論のための日本語 II 」の項でも触れた、『ゼロ・グラビティ』A・キュアロン監督(ワーナー・ブラザース)という映画だ。これは、『かぐや姫の物語』の対極にあるようなCG・特撮・3Dを駆使したアメリカ映画だけれど、モノコト・シフト時代の視覚表現のもう一つの方向性には、このような、特撮による「コト」表現の極大化もあるのだ。今年のアカデミー賞で、監督賞をはじめ最多7冠に輝いたのも頷ける。3D眼鏡による、地球を見下ろす宇宙の疑似体験が面白かった。

 『かぐや姫の物語』と『ゼロ・グラビティ』両者に共通しているのは、地球賛歌のテーマだ。これも、資源循環を大切に考えるべき21世紀の大切な視点の一つに違いない。前者は月への帰還、後者は地球への帰還というラストの対比も面白かった。『かぐや姫の物語』が日本人のアニメ手仕事の集大成とすれば、『ゼロ・グラビティ』は西洋人の機械による特撮の集大成ともいえる。

 『ゼロ・グラビティ』には、20世紀の行き着く先を暗示した映画『2001年宇宙の旅』(1968年公開)へのオマージュも随所に見られた。『2001年宇宙の旅』に関しては、「三拍子の音楽」の項も参照していただきたい。

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カヤックと鯨の骨のモニュメント

2014年02月18日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「竜神伝説」の項で紹介した梨木香歩さんの『冬虫夏草』は、鈴鹿山中愛知川流域という狭いミクロ・コスモスの物語だった。「青玉伝説」の項で紹介した星川淳氏の『タマサイ 魂彩』は、海流域というマクロ・コスモスを跨ぐ壮大な物語だ。そのスケールは対照的だが、内容は共に、聖なる奥山と人の心の奥とを結ぶ「両端の奥の物語」である。小説を演出する「竜神」と「青玉」、二つの伝説はどちらも、それぞれの流域を繋ぐ“コト”の象徴としての役割を果たしていた。

 私は二つを並行的に読み進めながら、竜神伝説と青玉伝説の神秘を愉しむとともに、前者の「内部に籠もる」感じと後者の「外へ拓く」感じの双極性、いわゆる「内臓系と体壁系的双極性」をも同時に楽しんだ。複眼主義でいえば、内臓系=女性性、体壁系=男性性ということで、梨木さんと星川氏の性別と重なるわけだが、女性性を感じさせる小説の主人公が男性(綿貫征四郎)で、男性性を感じさせる小説のメイン主人公が女性(由紀)というのもまた、メビウスの輪のように捻れていて興味深い。

 奥山と人の心の奥とを結ぶ物語といえば、今から18年前(1996年)に急逝した、写真家星野道夫氏のことを想い起こす。星野氏は、アラスカを舞台に、自然と人の魂とを繋ぐ優れた写真(とエッセイ)を数多く残したことで知られている。小学館から出版されている、

『アラスカ 風のような物語』星野道夫著
『アラスカ 永遠なる命(いのち)』星野道夫著
『ぼくの出会ったアラスカ』星野道夫著

の3冊は、持ち運ぶのに便利な文庫スタイル(小学館文庫)でありながら、多くの写真とエッセイを楽しむことのできる素敵なシリーズ本だ。解説はそれぞれ、作家大庭みな子氏、尊父星野逸馬氏、奥様星野直子さんとなっている。私は『冬虫夏草』と『タマサイ 魂彩』を読み進めながら、合間に上の3冊のページを開いては、その素晴らしい写真とエッセイを堪能した。

 たとえば、『アラスカ 風のような物語』の冒頭にある、雄大な自然をバックに写した動物たち。平原を横切るカリブーの群れ、夕暮れのマッキンレー山脈を背にして湖に佇む一頭のムース、白い息を吐きながら雪原を歩む二頭の北極グマの後姿、切り株の上で木の実を食む愛らしいアカリス。そして(これは植物だが)、陽を浴びて背を伸ばす紫色のワイルドクロッカス。最初のカリブーの写真の右上には、

(引用開始)

あらゆる生命は同じ場所にとどまってはいない
人も、カリブーも、星さえも、
無窮の彼方へ旅を続けている

(引用終了)

という言葉が刻まれている。3冊の本には、全編に亘ってこのような詩情豊な写真と文章が載っている。是非手に取ってご覧いただきたい。

 梨木香歩さんと星川淳氏は、それぞれ、星野氏の写真を本のカバーに使っている。梨木さんのそれは、『春になったら苺を摘みに』(新潮文庫)と『水辺にて』(ちくま文庫)、星川氏のそれは、『ベーリンジアの記憶』(幻冬舎文庫)と今回の『タマサイ 魂彩』(南方新社)である。『水辺にて』で使われたのはカヤックの写真。梨木さんは同書の「発信、受信。この藪を抜けて」の項で、その辺りのことを次のように書いている。

(引用開始)

 ちょうど連載の第一稿を編集部へ送り、それから一人で近くの雪の降るS湖に漕ぎに行った日のことだった。帰宅すると郵便が届いていた。出版社から回送されてきたひとまとまりの中に、ポストカードが二枚、丁寧に封筒に入れられて入っていた。そのポストカードの写真を、思わず見つめ直した。一枚目の写真はたぶんアラスカの湖、カヤックが一艘浮かんでいる。私のカヤックと全く同じ色(大きさと形は違う。写真に写っているものは、いわゆる、「長期のツーリングに耐える」、大荷物を運ぶための、けれどやはりフォールディングタイプ)、係留されていて、固定されたパドルが片方、湖面に入っている。人はいない。たぶんこの艇の持ち主はこの写真を撮っている当人。そしてきっとそれは、と確かめるとやはり、アラスカの写真で有名な、亡くなった写真家のものだった。(中略)
 そのポストカードに書かれた肝心の文章自体は、私の過去の作品使用に関する、短いがとても感じのいい礼状のようなものだったが、添えられていた異国の歌の詩が、どういうわけか、このとき私が巻き込まれていた状況を俯瞰するようなものだった。それまで会ったことも話したこともないその送り主は、こちらの事情などご存知のはずもないのに、それらは本当にタイムリーに、まるでいくつもの偶然を利用し、届いた、「何か」からの「信号」のように、そのときの私の内側と奇妙にも深く響き合った。

(引用終了)
<同書 46−47ページ>

同書カバーの靄に翳む湖に浮かぶカヤックの写真は、美しく幻想的だ。

 星川氏の『ベーリンジアの記憶』では、鯨の骨のモニュメントの写真が使われている。その写真について、氏は同書のあとがきの中で次のように書いている。

(引用開始)

 末筆ながら、この物語の誕生にもかかわり、出版を喜んでくれた写真家の星野道夫氏が九六年、カムチャッカ半島でヒグマに襲われ帰らぬ人となった。ちょうど私が前述の一年にわたる旅をするころ、星野氏も絶筆となった『森と氷河と鯨』(世界文化社)の連載でアラスカとシベリアにまたがる旅をしていて、忙しい中からこんな感想を寄せてくれた。

  ……読み始めてすぐこの世界に入ってゆくことができました。現代と重複させながら書かれたのも良かったと思います。“すきま”という言葉はとても面白く、イメージをふくらませてくれました。骨が散らばるベーリンジアの書き方は、つかみどころのないこの草原に確かなイメージを与えてくれました。とても好きだった言葉は、“かんじんなのは他人の考えをよむことじゃない。そのもっと奥にある大きな願いというか、たくさんの人間や生きものが、太初のときからずっと抱きつづけてきた希望をくみとることだ”というところです。

 死の直前、ロシア側チョコト半島の海辺で鯨の骨のモニュメントに出会ったとき、星野氏はその撮影に大量のフィルムを費やしていいる。もしかすると、彼の頭の中にはユカナたちの見た<境>の風景が重なっていたのかもしれない。――そんな勝手な想像から、文庫本化にあたって遺作の一枚を表紙に使わせていただいた。

(引用終了)
<同書 311−312ページ>

同書カバーを飾る鯨の骨のモニュメント写真は、明瞭にして超越的だ。

 星野氏が存命であれば、『冬虫夏草』と『タマサイ 魂彩』が出たところで、梨木さん、星川氏、そして星野氏3人の「鼎談」などを企画したいところだ。テーマは「自然と人の魂を繋ぐ物語について」。北海道とアラスカ、鯨とオオワシ、カヤック、琵琶湖と屋久島、竜神と青玉伝説、沖縄とハワイ、きっと話は尽きないだろうに…。その早すぎる死(享年43歳)に対して、哀惜の念を禁じえない。

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posted by 茂木賛 at 10:27 | Permalink | Comment(1) | アート&レジャー

青玉伝説

2014年02月11日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「竜神伝説」の項で紹介した『冬虫夏草』と同時に読み進めたのが、友人星川淳氏の小説『タマサイ 魂彩』(南方新社)という本だ。今回はその話をしたい。まず、本カバーの帯と表紙裏の案内文を紹介しよう。

(引用開始)

魂の源流をたどって<海の道>へ――
青い石が語る祖霊たちの声
新しいSF=ソウルフィクションの誕生か!?

まことに、この世は白い民の訪れと、あの火筒のせいで終わる。
これから五百年後、その病が地上を覆い尽くし、焼き尽くすだろう。
だが、われらは次の世の備えをしなくてはならぬ。
そのとき、青い石を通じて魂の自由を思い出させるのは
私らよりももっと古い祖霊たちの声だ。

(引用終了)

 本書の主人公は、以前「文庫読書法(2010)」の項で紹介した、星川氏の『ベーリンジアの記憶』と同じ語り手由紀、それと、種子島に鉄砲が伝来した16世紀を生きる龍太の二人である。

 話は、由紀の生きる201X年と、龍太の時代1545−1550年を舞台として、交互に展開する。由紀は、飛行機で日本からカナダ、ハワイ、屋久島、沖縄、広島、アメリカ・ニューメキシコへと旅をし、16世紀の龍太は、舟で種子島から黒潮にのって北米大陸へ、そして大陸沿いに南へ下る。その間、由紀は様々な人と巡り会い、龍太は各地で冒険を繰り返す。男女の愛の物語も進行する。

 21世紀と16世紀という離れた時空を繋ぐのは、両方に登場する「青玉(ターコイズ)」だ。昔、ヒマラヤ山中にある、宝石のような湖で生まれた三つの美しい青玉。そのうちの二つは龍太の時代に、龍太や双子の姉妹の手を経て、もう一つは他の時代に別ルートで、共に北米大陸に渡る。

 三つの青玉は、その後さらに数奇の運命を辿り、最終的に、一つは主人公由紀のブレスレットに、もう一つは由紀がハワイで出会うケン(由紀の許婚となる男性)の胸に、そして三つ目は、北米大陸インディアンの末裔の手元に残された。

 「三つの石がふたたび出会うのは、次の世がはじまるとき。この世の終わりが終わるときだ」とは、龍太が出会った土地の老女の言葉だった。その予言をなぞるように、由紀とケンは、旅先ニューメキシコの地で(201X年8月28日に)、三つ目の青玉を持つインディアン女性と邂逅する…。

 この小説のテーマは、太古の昔からあったであろう、太平洋を跨ぐ民族の交流を跡付けることと、火縄銃に象徴されるヨーロッパ文明の次に来る筈の、新しい時代について考えることだ。その意味でこの本は、前作『ベーリンジアの記憶』や、星川氏の他の活動と密接に繋がっている。本の「あとがき」から一部引用しよう。

(引用開始)

 前作以来、魂の源流を探っていくと、そのむこうに現代や未来の問題が見えてくる、そしてその逆も真である、一見不思議だけれども、ある意味ではあたりまえの共時世界に馴染んだ私にとって、この物語は時間と空間を越えた“親族”の来歴の一端です。過去から未来を見ているのか、未来から過去を見ているのか――いやじつは、私たちの深い学びはそういう矢印とはあまり関係なく起こるのかもしれません。

(引用収容)

民族交流の本当の歴史、物質文明の次の世界、どちらも21世紀のモノコト・シフト時代の重要なテーマである。これからも氏の仕事を応援したい。

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posted by 茂木賛 at 16:28 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

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