夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


古代史の表と裏

2017年01月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)という本を面白く読んだ。副題に“前方後円墳や「倭国大乱」の実像”とある。以前「歴史の表と裏」の項で、日本の戦後を例にその外史(裏史)を辿ったが、今回はこの本に沿って、日本古代の外史を探ってみたい。尚、この本は2015年10月の出版。長野氏には同年1月に出た『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)という本もある。併せて手掛かりとしたい。こちらの副題は“卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す”。本カバー裏表紙の著者紹介によると、長野氏は工学博士、元国土交通省湾岸技術研究所部長。ライフワークは海洋史、土木史研究という。

 概要把握のためにまずその紹介文を、帯表紙、カバー表紙裏、帯裏表紙の順で引用しておく。勿論詳細は両書をお読みいただきたい。

(引用開始)

『古代史の謎は「鉄」で解ける』

<「船の専門家」だから語れる、交易が支えた古代史>
鉄資源の流れから、「前方後円墳は実利を得る「『公設市場』」と看破。価値ある論説だ。(ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者竹村公太郎)

船をつくるための鉄斧や武器となる刀の材料になるなど、鉄は古来きわめて重要な資源であった。紀元前から倭人は鉄を朝鮮半島から輸入していたが、1〜2世紀に、『後漢書』などが伝える「倭国大乱」が起こる。著者はこれを、高句麗の南下によって起こった「鉄の爆発」を伴う社会変革だと考える。それ以降、日本に遊牧民の文化である「光る塚」がつくられ、「鉄の集落」が全国で形成された。やがて前方後円墳が大量に築造されるが、あの不思議な形状は鉄の交易に関わる秀逸なアイデアの賜であった――。船と港の専門家が、鉄の交易に着目し日本の原像を探る。

〇 鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」
〇 黒曜石と土笛が語る草創期の「鉄の路」
〇 高句麗の南下によって生まれた「倭国大乱」
〇 日本海を渡る知恵――準構造船の技術革新
〇 突然できた日本海の鉄の集落
〇 鉄から見た卑弥呼の国――倭国と大和は別の国
〇 敦賀王国をつくった応神天皇
〇 倭国が朝鮮半島で戦った理由――「鉄の路」の維持
〇 前方後円墳はなぜ普及し、なぜ巨大化したのか
〇 埴輪の役割


『古代史の謎は「海路」で解ける』

<技術者の「知」が文献学の壁を破る>
船や海への分析から、邪馬台国が日本海側にあることが見えてくる。深く納得。(ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者竹村公太郎)

「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米が洛陽まで約2000kmの航海を行ったという。邪馬台国が畿内の内陸にあった場合、彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、交易は主に日本海側で行われていたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人(かいじん)の身になって丹後半島の遺跡に身を置けば、鉄と翡翠で繫栄する「王国」の姿が見えてくる……。さらに応神帝の「海運業」や「大化の改新」などの謎を、港湾や運河の建造に長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。

〇 丹後王国をつくった半島横断船曳道
〇 丹後王国の繁栄をつくった日本最古の「製鉄・玉造りコンビナート」
〇 「神武東征」は当時の刳り船では不可能だった
〇 卑弥呼の特使難升米も瀬戸内海を通れなかった
〇 敦賀王国をつくった応神帝と氣比神
〇 雄略帝の瀬戸内海啓開作戦
〇 継体王朝が拓いた「近畿水回廊」とは?
〇 奈良の都の出勤風景と「無文銀銭」・「富本銭」の謎
〇 難しかった孝徳天皇の難波津プロジェクト
〇 「大化の改新」の陰に消された日本海洋民族の都「倭京」
〇 解けた「音戸の瀬戸開削」の謎――厳島詣の道

(引用終了)
<引用者によって括弧などを追加(フリガナ省略)>

 日本古代外史を考える際の鍵は、正史であるところの『日本書紀』からどれだけ離れて真実を探ることができるかだ(長野氏は正史を「中央史観」と呼ぶ)。このブログではこれまでその点で共通する小林惠子氏(「繰り返し読書法」)と栗本慎一郎氏(「関連読書法」)、関裕二氏(「時系列読書法」)の諸本を紹介してきた。小林氏は大陸史書の読み込み、栗本氏は経済人類学的所見、関氏は作家的ひらめきと地形・考古学的視点といった特長を持っている。

 長野氏は『古代史の謎は「鉄」で解ける』の第一章を次のような文章で始める。

(引用開始)

 大昔、朝鮮半島には、遊牧民族、農耕民族と一握りの海洋民族が静かに暮らしていた。鉄が朝鮮半島でつくられ始め、隣の大国中国が侵略したのをきっかけに、ここの民族は存亡をかけた大きな戦いの渦に巻き込まれた。それが千年近く続き、日本まで巻き込まれた。

(引用終了)
<同書 16ページ>

始まりは紀元前三世紀のことという。

 この遊牧、農耕、海洋といった民族概念が重要だ。民族によってその文化や言語、宗教や歴史、さらにはその居場所と統治機構の在り方が違う。当初日本列島には、海岸地域に暮らす海洋民族(おそらく朝鮮半島のそれと同類)、内陸に暮らす狩猟民族がいただろう。それが半島と交易するなかで、農耕民族、遊牧民族が移入し、彼らの文化、居場所が形成される。その後、各民族が棲み分け、共生、あるいは戦いながら各々の文化を熟成、列島で鉄がつくられ始める紀元七世紀ごろより、日本は半島・大陸から離れて独自の民族的発展を遂げてゆく。各民族文化のブレンド具合が今に繋がってくるわけだ。

 長野氏は、鉄の伝播・生産に基づいた時代区分を次のように分ける。第一段階は鉄の使用段階、二番目は鉄器を製作(鍛造)した段階、三番目は鉄器を鋳造した段階。この三段階と、手漕ぎ丸木舟、準構造船、帆船といった船(と航海技術)の発展三段階を組み合わせ、さらに地形や気象の変化を加味し、長野氏は各民族の進展を跡付ける。

 それが紹介文にあるような内容で、正史において隠された倭人の実態、船曳道、丹後や敦賀の繁栄、瀬戸内海海路の開通時期、関東地方の底力、交易市場としての前方後円墳、などが解明される。他の外史や新発見と突き合わせることでさらに興味深い仮説が見出されるだろう。例えば先日、青谷横木遺跡(鳥取市)から出土した七世紀末〜八世紀初めの板から、奈良県明日香村の高松塚古墳国宝壁画(同時期)と似た複数の女性を描いた図(女子群像)が見つかった。こういった女子群像を含む人物像は中国や北朝鮮の墓に描かれているから、そういう大陸・半島の葬送文化が都の奈良以外に直接普及していた証拠になるのではないか。

 「日本海側の魅力」の項で述べたように、私は日本列島への文化の流入ルートとしていわゆる「時計回り」、シベリアから北海道を経て東北、北陸へと伝わった筈のヒトとモノのトレースに興味を持っている。長野氏も、

(引用開始)

 鉄の歴史を追うとき、高句麗の歴史に踏み込み、中央史観が中心地と見なす近畿以外の信州、群馬、埼玉の高麗の国の歴史をさらに詳しく調べてみる必要がある。それによって、全く違う日本史が見えてくる。
 三世紀の宗教祭祀の実際、たとえば、高句麗から鬼神の思想と信仰にもとづいた魔よけ思想が、二世紀頃に日本に渡来している。また、その時代の道教の神仙思想や牽牛と織女を中心とする七夕の儀式、中国東北部の原野を家畜と旅する放牧民の祭祀、状況を想像すれば、その時代の日本人の精神構造がわかるような気がする。

(引用終了)
<同書 209ページ>

と書いておられる。高句麗、その周辺の扶余、沃祖、挹婁、粛慎、靺鞨、さらには背後にあった鮮卑、柔然、突厥、高車といった国々の動きに注目すべきだ。これからも研究を続けたい。

 尚、本の帯表紙にコメントを寄せている竹村公太郎氏は、長野氏と同じ元国土交通省職員(河川局長)、二人は実務家という点で共通している。このブログでは「地形と気象から見る歴史」、「中小水力発電」の項などで竹村氏の著書も紹介してきた。併せてお読みいただきたい。

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女性による父性代行

2016年10月11日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日TVのWOWOWチャンネルで、『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』(チャン・ショウチョン監督)という映画を観た。プロムラム・ガイドから紹介文を引用しよう。

(引用開始)

行方不明の父の船小屋を改修して珈琲店を始めた岬と、幼い2人の子供を抱えるシングルマザーの絵里子。石川県能登半島の珠洲市を舞台に、2人の女性の交流を温かく綴る。

(引用終了)

2015年の作品で、岬を演じるのは永作博美、絵里子を演じるのは佐々木希。

 この作品は、以前「何も起こらない映画」の項で書いた、「場所と人との関係が中心テーマで、ドラマチックなストーリー展開がなく、淡々とその時空が描かれるような映画、場所と登場人物たちの魅力だけでもっているような作品」の範疇に入るだろう。

 主人公岬は独身、幼い時に別れた漁師の父の帰りを待つために海辺で珈琲店を始める。もう一人の絵里子もシングルマザーだから、どちらも父性とは縁遠く、映画は「日米の映画対比」の項でみた複眼主義のB側、

------------------------------------------
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
------------------------------------------

の考え方で進んでゆく。しかし最後が少し違った。

 父親らしき遺骨が海で見つかったことにより、岬は父を待ち続けることの虚しさから海辺を去る。だが最後、岬は海辺の珈琲店に戻ってくる。絵里子が岬を「おかえり」と迎え、岬が「ただいま」というところで映画は幕を閉じる。そのときの岬は、これまで(父をただ待っていた時)と違い、自らが父性を代行するという決意に満ちた表情のように見えた。

 <日本の戦後の父性不在>の問題は、女性による父性代行によって補われ得る。そのことをこのラストは示唆しているように思えた。外国(台湾)の女性が監督を務めたことで一味違った出来栄えとなったのだろうか。

 それにしても日本海の映像が美しい。まさに「日本海側の魅力」である。其処ここに使われる「青」の小道具(衣服や椅子など)も印象に残った。

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庄内弁の小説

2016年08月16日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日「庄内平野の在来野菜」の項で庄内弁について触れたが、庄内弁を多用した小説といえば、『春秋山伏記』藤沢周平著(新潮文庫)を挙げることが出来る。周知のように、藤沢周平(本名小菅留治)は山形県鶴岡(庄内地方)の出身の作家である。

 この『春秋山伏記』は、羽黒山の山伏(修験者)と庄内地方の村人たちを描いた物語である。著者の「あとがき」にもあるが、どちらかというと山伏よりも村人の生活に焦点が当てられている。その「あとがき」から一部引用しよう。

(引用開始)

 庄内平野に霰が降りしきるころ、山伏装束をつけ、高足駄を履いた山伏が、村の家々を一軒ずつ回ってきたことをおぼえている。(中略)
 こういう子供のころの記憶と、病気をなおし、卦を立て、寺子屋を開き、つまり村のインテリとして定住した里山伏に対する興味が、この小説の母体になっている。
 とは言っても、山伏に対する子供のころの畏怖は、まだ私の中に残っているようだ。彼らは普通人と同じように、村の中で暮らすことも出来たが、修験によって体得した特殊な精神世界を所有することで、彼らは一点やはり普通の村びとと違っていただろうと考える。そこは、ただの人間である私には、のぞき見ることが出来ない世界である。畏怖はそこからくる。
 そういうわけで、この小説は山伏が主人公のようでありながら、じつは江戸後期の村びとの誰かれが主人公である物語になっている。
 またこの小説で、私はほとんど恣意的なまでに、方言(庄内弁)にこだわって書いている。およみくださる読者は閉口されるに違いないが、私には、方言は急速に衰弱にむかっているという考えがあるので、あまりいい加減な言葉も書きたくなかったである。ご諒承いただきたいものである。

(引用終了)
<同書 306-308ページ(フリガナ省略)>

閉口するどころか、私は大いに庄内弁を楽しんだ。村人たちが遣う日常の言葉は物語にリアリティを与えている。土地の言葉は歴史(時空の集積)そのものだからだ。

 同書の解説によると、「庄内弁とは恐らく、京都の言葉が海岸沿いに北進してこの地方に定着し、東北訛(なま)りと融合したものであろう」とのことである。その一端を同書から抜書きしてみよう。物語の最初に、村人「おとし」が、山伏・大鷲坊となって帰ってきた「鷲蔵」と出会うときの会話。

(引用開始)

「お前(め)、鷲蔵さんでねえろが?」
「ンだ」
 と大男の山伏は言った。
「あいや、肝消(きもげ)だ(驚いた)ごど」
 おとしは本当に驚いて言った。
「せば、おらっさけだ(さっき)、鷲蔵さんから助けらえだなだがや」
「お前(め)は誰(だえ)だっけの?」
 大鷲坊は首をひねってじっとおとしの顔を見た。
「おら、重右ェ門(じようえむ)のおとしだども」
「重右ェ門? ああ、おとし……」(中略)「思い出した。お前(め)は泣き味噌(みそ)の女子(おなんこ)での。俺がわぎさ行(え)っただけで、泣き出したもんだった」
「ンだがものう。鷲蔵さんはおっかなかったもの」
「しかし、あの泣き味噌が、きれいなあねさまになったもんだの」
「やんだ、おら」
 おとしは顔を隠して言い、手を離すと赤い顔になって大鷲坊をみ、小さな笑い声を立てた。眼の前の怖い山伏が、あの鼻つまみの鷲蔵だとわかった気楽さと、きれいなあねさまというひと言に誘われて、思わず若い身振りになっていた。(中略)
「おとし、さっけだ(さっき)がら、その……」
 大鷲坊がおとしの抱えている笊(ざる)を指さした。
「笊かっつめ(抱え)でいるども、それは何だ?」
「あ、これ」
 おとしはあわてて笊の青物をさしだした。
「これ、さっけあだのお礼に持ってきたなだもの。だべでくらへ」

(引用終了)
<同書 24−25ページ>

 「庄内平野の在来野菜」でも書いたように、これからはこういうlocalな価値がものを云う時代だと思う。『春秋山伏記』は、昭和53年(1978年)に書かれた。戦後の高度成長期(1955年−1973年)と、その後のバブル期(1985年−1991年)との中間時点である(各期の年代は諸説ある内の一つ)。多くの日本人が経済成長に舞い上がっていたこの時期、将来を見据えてこういう作品を残してくれた作家もいたのである。

 修験道については、以前『百花深処』<修験道について>の項で書いたことがある。併せてお読みいただきたい。写真は先日旅行時に撮った羽黒山五重の塔。

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日本の美術館

2016年08月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、日本の街づくりに必要なコンセプトとして、「庭園・芸術都市」(庭園や里山、邸宅美術館や芸術劇場を持つ流域都市)を提唱しているが、その提唱者としては、最近出版された『フランス人がときめいた日本の美術館』ソフィー・リチャード著(集英社インターナショナル)を紹介しないわけにゆかない。ソフィーさんの写真が添えられた本の帯表紙から、紹介文を引用しよう。

(引用開始)

フランスの美術史家が、10年かけて日本各地を旅し、選りすぐった「本当に価値のある」美術館。英語圏で大評判のガイドブック待望の翻訳!
朽木ゆり子氏推薦!「私も知らない美術館がこんなに!ソフィーさんの眼力に脱帽」

(引用終了)

ということで、この本には日本全国、50箇所ほどの美術館・博物館が、綺麗な写真と共に、基本見開き一ページ/一箇所で紹介されている。それ以外に追加情報として言及された美術館もある。

 彼女の「日本の読者の皆さんへ」という巻頭にある文章を一部紹介する。

(引用開始)

 世界中どこへ行っても美術館めぐりをするのが好きなので、日本でも美術館を訪ねてまわりました。ほどなく、この国には信じられないほど多くの美術館があること、その一方で、日本語のできない者が美術館情報を見つけるのは容易でないことがわかりました。美術館への好奇心が高まるままに、もともとリストづくりが好きだったわたしは、訪ねてみたい美術館の一覧表をつくりはじめました。
 そんなある日、美術館をテーマにして本を書こうと思い立ったのです。日本文化を知るにはそれがいちばんだと思いました。伝統美術から最先端をいく現代アート。写真から民藝。芸術家の住まいを改装した瀟洒な美術館から堂々たる大型美術館……。日本の美術館はバラエティに富んでいます。わたしはこうした美術館を通じて過去と現代の日本のすばらしさを知り、日本を体験することができました。

(引用終了)
<同書 2−3ページ(フリガナ省略)>

 このブログでは、「観光業について」や「観光業について II」の項などで、海外観光客向けになすべきこととして、

(1)日本語(文化)のユニークさをアピールする
(2)パーソナルな人と人との繋がりをつくる
(3)街の景観を整える(庭園都市)

という三点を挙げているが、この本の原著は、海外の人々に(1)の日本文化のユニークさをアピールする役割を果たしてくれているわけだ。そして日本語のこの本は、我々日本人に、日本がこれから「庭園・芸術都市」としてやってゆく自信を与えてくれる。

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モランディと中川一政

2016年05月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 東京ステーションギャラリーで、「ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏」展を観た。ジョルジョ・モランディ(1890−1964)はイタリアの画家。瓶や器、ボローニャの街角風景などを繰り返し描いた。展覧会の新聞広告から引用しよう。

(引用開始)

 生没年を見ればわかる通り、モランディが生きた時代は20世紀の幕開け、芸術上の革命が次から次へと起った激動期です。その中で、モランディは、前衛的な絵画動向を横目で見つつ、故郷のボローニャのアトリエにこもって、静物画という限定された主題に取り組みました。簡素な生活スタイル、簡素な画題、簡素な色彩、簡素な形。しかしその簡素さは、全く逆に、絵画というものを攻め、突き詰めるためにあえて選ばれた冒険の結果でした。
 パッと見で上品な絵と判断されがちなモランディは、「静か」「静謐」などお定まりの形容で語られることがしばしば。が、実際には、ふらつくような筆の運動、微妙な器の配置、ぎりぎりのラインで呼応し合う色調の組み合わせなど、画面はじつに饒舌です。
 線・色・形・空間の手に汗握る展開を目の当たりに出来るモランディの絵画。その面白さを圧縮させているのが、器やテーブルの境界に現れる輪郭線です。周囲に溶け込んでいたり境目をがっちり切り分けたり、一本の瓶の周囲でさえ多様な変化を見せる輪郭線は、それだけで見る目を飽きさせません。目で辿ると、モランディの絵の密度(詰まった感じ)の秘密もわかるでしょう。輪郭の部分こそ、色と形が押し合いへし合いし、絵の空間を決定する要のポイントだからです。ゆらゆら揺れるモランディの線はおそらく、その押し合いへし合いの結果なのです。(東京ステーションギャラリー 学芸員・成相肇)

(引用終了)
<東京新聞 2/2016掲載(抜粋)>

モランディの絵の特徴は、造形のミニマム化、色彩の旋律、テーマ性の排除、といった言葉に纏めることができるだろう。

 20世紀は、大量生産・輸送・消費システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による“行き過ぎた資本主義”が跋扈し、科学の「還元主義思考」によって生まれた“モノ信仰”が蔓延する時代だった。世界は今もその残滓に苦しんでいるが、20世紀の画家たちは、主に二つの方法でこれに立ち向かった。一つは“モノ信仰”を逆手にとって、要素還元的な絵画で時代を批判・揶揄する方法。フォービズム、キュビズムなどの画家たちだ。もう一つは時代に背を向けてひたすら「コト」の孤高を守る方法。モランディはこちら側の画家だったと思う。勿論二つの方法を使い分けた画家もいるし、時代に妥協してしまった画家たちも多くいただろう。

 東京ステーションギャラリーでモランディを堪能した後日、旅行中、偶々湯河原にある「真鶴町立中川一政美術館」で中川一政(1893−1991)の絵を観た。モランディはボローニャで、瓶や器、街角の風景を描いたが、中川も真鶴に居を定め、壷の薔薇や箱根駒ケ岳、福浦突堤の風景などを繰り返し描いた。中川の絵にも、造形のミニマム化、色彩の旋律、テーマ性の排除といった特徴がある。これは面白い発見だった。

 20世紀の西洋絵画の主流は、フォービズム、キュビズム、抽象絵画、シュルレアリズム、表現主義へと変化してゆくが、モランディも中川も、それらを横目で見ながら、終始一貫して同じ絵を描き続けた(風土と対象は違うけれど)。生年月日をみると、二人は同世代であり、物心付いたのは共に20世紀初頭であることがわかる。

 二人は共にセザンヌ(1839−1906)から影響を受けたという。セザンヌについては、「20世紀を前にした絵画変革」の項で、「周辺的なモティーフによる造形と色彩表現」と纏めたが、20世紀に入り、モランディと中川はこの試みをさらに持続展開させたともいえるだろう。

 テーマ性の排除と色彩の旋律だけならば、抽象画でも表現できる。しかし「造形」が加わると、アフォーダンス的な知覚が刺戟される。アフォーダンス理論では、世界はミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)からなっていて、人は自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、視覚)によって、運動を通してこの世界を日々発見するとされる。絵を観るのも視覚による運動である。二人は「造形」を捨てなかったことで、そしてそれを瓶や器、街角の風景、壷の薔薇や箱根駒ケ岳といった形に「ミニマム化」することで、観る人の知覚システムをより強く喚起することに成功した。

 これまで、21世紀の絵画表現について、

●動きそのものを描こうとする絵画(「21世紀の絵画表現」)
●汎神論的、自然崇拝的な絵画(「ラファエル前派の絵画」)
●豊な時間を内包する絵画(「写実絵画について」) 

と書いてきたが、モランディや中川の、

○造形のミニマム化
○色彩の旋律
○テーマ性の排除

といった特徴は、今世紀どのように引き継がれるのだろう。最後の「テーマ性の排除」が、「豊な時間を内包する絵画(写実絵画)」へと引き継がれることは想像できる。他二つの特徴の行方についてはどうか。この辺りまた項を改めて考えてみよう。

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象徴主義絵画

2016年04月26日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 19世紀後半の象徴主義絵画についても触れておきたい。象徴主義について、『西洋美術史』高階秀爾監修(美術出版社)から引用する。

(引用開始)

 象徴主義は、19世紀後半の(印象主義と並ぶ)もう一つの重要な芸術の流れである。科学と機械万能の時代の実利的なブルジョワ精神、芸術の卑俗化を嫌悪した文学者や芸術家は、人間存在とその運命に関する深い苦悩、精神性への欲求から、内的な思考や精神の状態、夢の世界などを表現しようとした。それゆえに象徴主義は、主題や表現手段の上できわめて多様な形を取った国際的な潮流となった。
 イギリスに現れたラファエル前派は、最初の象徴主義の運動の一つにかぞえられる。

(引用終了)
<同書 147ページ(括弧内は引用者による補注)>

先日取り上げた「ラファエル前派の絵画」は、象徴主義の表れのひとつでもあったわけだ。

 象徴主義絵画といえば、去年(2015年)4月、ブリジストン美術館の(新築工事のために長期休館する直前に開かれた)「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展で、ギュスターヴ・モローの『化粧』という小品(33.0cm x 19.3cm)を観た。

(引用開始)

あでやかな東方風の装いの女性が、柱あるいは衝立に物憂げにもたれかかっています。その身にまとった鮮やかな色彩の豪奢な織物と美しい宝石類は、彼女が権力者の寵愛を受ける立場であることを想起させます。非常に繊細なデッサン、そして水彩絵具の即興的な性質を生かし、色彩の濃淡や、質感を描き分けて完成させた魅力溢れる作品です。モローは旧約聖書の時代と空間、すなわち古代とオリエントから着想を得て多くの作品を描きました。堅固で暗い建築空間の中に、人物の衣装や装身具のあざやかで豊な色彩を合わせ、固さと柔らかさ、あるいは明暗などの絶妙なコントラストを表すことによって、ドラマティックで演劇性に富んだ絵画を制作しました。

(引用終了)
<カタログ「ブリジストン美術館名作選」より>

 休館となったブリジストン美術館の良さは、19世紀以降のフランスを中心とした西洋近代美術が系統だって揃えられていることだった。印象派、ポスト印象派、フォービズム、キュビズム、抽象画などなど。残念だが、数年後、新たに生まれ変わった姿が見られるということなので期待して待つとしよう。

 ギュスターヴ・モローについて『西洋美術史』には次のようにある。

(引用開始)

モローは聖書や異教的な神話を題材にしながら抽象的な概念を描き出した画家で、「オルフェウスの首を抱くトラキアの娘」《IX-21》は彼のデビュー時代の代表作である。モローが作り出した驚くべきイメージ、とりわけサロメのような邪悪で魅惑的な女性像は、ビアズリー《IX-22》、クリムトなどの画家や世紀末の文学、音楽全般に大きな影響を与えた。

(引用終了)
<同書 149ページ(図版省略)>

 オーブリー・ビアズリーの作品は、『百花深処』<エレガントな女性美>の項で紹介した「ザ・ビューティフル 英国唯美主義 1860−1900」で、『クライマックス―サロメ』(素描)など7点を観ることができた。『クライマックス―サロメ』と他の2点は、作家オスカー・ワイルドの戯曲本『サロメ』の挿絵として描かれたもので、それらは、今でも1880年代のデカダンスの縮図と見做されているという。

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写実絵画について

2016年04月19日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日、千葉市郊外(あすみが丘)にある「ホキ美術館」で、五味文彦氏や大畑稔浩氏などの写実絵画を観てきた。写実絵画とは、対象を見たまま詳細に描く絵画で、ホキ美術館には主に日本の現代作家約50人による400点以上のコレクションが集められている。

 数年前(2010年)にオープンしたばかり、交通の便もあまり良くないロケーションにも拘らず、美術館は多くの人で賑わっていた。何故このような絵画がいま人気なのだろうか。

 写実絵画が写真と異なるところは、写真が「一焦点」であるのに対し、写実絵画は「多焦点」であることだろう。絵のどの部分にも焦点が合っているから、観ているうちに、画家が描いた長い長い時間と、自分の生命の時間とがシンクロする。絵のテーマにではなく、描かれた対象(と自分との関係性)に心地よさを感じ始める。「何も起らない映画」の項で書いた、「観客としての自分の生命の時空と、映画の中の時空とがシンクロする」のと似たようなことが起るのだ。

 写真は、額縁フレームという背景時空の中に主題が納まるが、写実絵画は、額縁に収まった絵が鑑賞者の前で動き出す。「額縁のゆらぎ」の項で紹介したスーラの絵とは違い、堅牢な額縁中の絵そのものが時間を内包しているのだ。そこに写実絵画の人気の秘密があるような気がする。素朴な鑑賞者でも「すご〜い、写真みたい!」といいながら美術館を巡るうちに、だんだん絵の時空と自分の時空とがシンクロして、全点見終わる頃には、不思議な満足感に涵(ひた)されるという次第。

 写実絵画を描く画家の一人青木敏郎氏は、フェルメールの『デルフトの眺望』を見て仰天しこの道に入ったという。「21世紀の絵画表現」で千住博氏の滝の絵について、「フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものを描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない」と書いたが、それに即して写実絵画についていえば、フェルメールから写実絵画に繋がる、時間を豊に内包した絵画という別の筋があり、その線上にも、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない。

 ここまで、21世紀の絵画表現について、

●動きそのものを描こうとする絵画(「21世紀の絵画表現」)
●汎神論的、自然崇拝的な絵画(「ラファエル前派の絵画」)
●豊な時間を内包する絵画(「写実絵画について」) 

と書いてきた。この三つは21世紀の映画における、

○背景時空そのものが動くアニメ(「21世紀の絵画表現」)
○汎神論的、自然崇拝的な映画(『指輪物語』など)
○何もドラマが起らない映画(「何も起らない映画」)

と対応するように思うがいかがだろう。

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何も起らない映画

2016年04月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 現代の日本映画には「何も(ドラマが)起らない映画」という筋がある。場所と人との関係が中心テーマで、ドラマチックなストーリー展開がなく、淡々とその時空が描かれるような映画、場所と登場人物たちの魅力だけでもっているような作品。私が辿った範囲では、2006年の『かもめ食堂』(荻上直子監督)がその劈頭を飾るようだ。

『かもめ食堂』(荻上直子監督)2006年
『めがね』(荻上直子監督)2007年
『食堂かたつむり』(富永まい監督)2008年
『プール』(大森美香監督)2009年
『マザーウォーター』(松本佳奈監督)2010年
『レンタネコ』(荻上直子監督)2012年
『しあわせのパン』(三島有紀子監督)2012年
『パンとスープとネコ日和』(松本佳奈監督)2013年

と続く。「ファッションについて II」の項で触れた2015年の『縫い裁つ人』(三島有紀子監督)や、「日米の映画対比」の項で紹介した2014/2015年『リトル・フォレスト(春・秋/冬・春)』(森淳一監督)なども、この筋に重なると思う。これらの作品は、自然描写、食べ物、丁寧に描かれる日々の暮らし、四季の移り変わり、人々の関係性など、複眼主義でいうところのB側、

------------------------------------------
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
------------------------------------------

の考え方が横溢している。原作や企画、監督(上記)や出演者には女性が多い。原作者では群ようこさん、企画としては霞澤花子さん、出演者では小林聡美さんやもたいまさこさん、市川実日子さんなどなど。

 B側の映画(B級映画ではない!)は観ていていつもホンワカとした気分になる。なんとなく懐かしい気分になる。それは、観客としての自分の生命の時空と、映画の中の時空とがシンクロするからではないだろうか。だから見終わった後も心地よさが残る。元気になる。皆さんはいかがだろう。

 普通映画では、上映1時間半なりの中に、起承転結を踏まえた枠組み(フレーム)があり、そこで恋愛や戦争、社会問題といった各種ストーリーが展開するわけだが、その枠組みは、「背景時空について」の項でみた「人の脳が認識しようとする主役を、単体として浮かび上がらせる為のもの」である。観客は脳の働きでストーリーを追う。複眼主義でいうA側の作用だ。

------------------------------------------
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
------------------------------------------

だから普通の映画の場合、場所や登場人物の魅力は勿論大切だが、ストーリーが駄目だと映画自体面白くない。例えば、最近DVDで観た『ソロモンの偽証(前編・事件/後編・裁判)』(成島出監督)は、登場人物・柏木卓也のキャラクターが弱いこともあって、ラストがいまひとつだった。

 ストーリーが存在しない「何も(ドラマが)起らない映画」においては、起承転結といった枠組みもない。あるのは場所と登場人物の魅力だけである。いってみれば場所そのものが「フレーム」となる。あとは全て「シークエンス」。こういう映画は、日本以外にはあまりないのではないか。先日イギリス・イタリア合作の『おみおくりの作法』(ウンベルト・パゾリーニ監督)を観ていてそうなる(何も起らない)かと思ったら、最後にドラマが待っていた。他にはあるだろうか。すこし調べてみよう。いずれにしても、日本の女性監督は世界へ出て行って、どんどん「何も(ドラマが)起らない映画」を作ったらどうだろう。そっち(B側)だけを強調した映画。『かもめ食堂』や『プール』の発展形として、場所だけでなく出演者もその地域の人々を中心としたもの。

 たとえば「日米映画の対比」で紹介した『警察署長ジェッシイ・ストーン』をベースにしてそれを作る。警察署長ジェッシイ(トム・セレック)の住む海辺の小さな家、彼はいつもウィスキーを飲みながらブラームスのピアノ協奏曲を聴いている。となりのソファには大きな犬が寝そべっている。夜の海、月の光、朝の日差し、田舎町パラダイスに住む人たちの日々の暮らし、寄せる荒波、漁師たちの生活、太平洋という自然。そこへジェッシイの元妻がロス・アンジェルスから移り住んでくる。彼女は町で何か店を開く。そんな、場所と人との関係だけをテーマにした『パラダイス』。事件は何も起らない。そんな映画はどうだろう。

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ラファエル前派の絵画

2016年04月05日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 20世紀を前にしたイギリスの絵画も見ておこう。先日、渋谷の「Bunkamuraザ・ミュージアム」で、ヴィクトリア朝時代に華開いた、ラファエル前派の作品展を観た。「英国の夢 ラファエル前派展」がそれで、作品はリバプール国立美術館所属のコレクションの中から選ばれたとカタログにあった。同館プロデューサー木島俊介氏の新聞紹介記事を引用しよう。

(引用開始)

革新の中の夢想

 一八四八年、イギリスに誕生した「ラファエル前派」グループの活動は、現代という時代に向かって旧い社会構造を変容させることとなる産業革命が、ヨーロッパ全域に波及しようとしていたまさにその直中において、夢想され、かつまた実践された、はかなく切実な美しさの追求であった。それは旧弊に陥っていたアカデミズムに反抗したことにおいては切実な革新運動であったが、ラファエロ的古典主義以前に回帰すべきとしたところにおいては、大いに夢想的であって、この困難な矛盾を実践に移そうとするものであった。ミレイ、ハント、ロセッティという画家たちは、ダンテ、ボッカチョといったイタリア文学や、アーサー王伝説といった中世物語に題材をとったことにおいて反時代的であったが、その彼らも、彼らの時代の現実に体験される苦悩、愛、希望の表明は避けられない。この断層が、繊細優美な表現と謎めいた象徴主義とによって、実に見事に埋めあわされたのである。むしろ、表現の新しさが現実の欲望を旧い主題のなかに生きさせたというべきだろう。今回の展覧会では、既に著名な前期の画家たちに加えて、バーン=ジョーンズ、ストラウィック、ウォーターハウスといった「ラファエル前派」第二第世代ともいうべき画家たちの魅力的な作品も多く見られる。美しさのなか込められている彼らの希求をぜひ見いだしていただきたい。

(引用終了)
<東京新聞 12/19/2015(フリガナ省略)>

 ラファエル前派の革新性は、フランス印象派のように実験的な方向へは行かなかったけれど、絵画の枠を超えて、ウィリアム・モリス(1834−1896)のアーツ&クラフツ運動に引き継がれた。これは、手工芸の革新を通して芸術を再生させるという運動で、壁紙、刺繍、タペストリー、テキスタイル、ステンドグラス、家具、装飾、本の装丁、印刷など生活工芸品のデザイン及び生産を主とした。
 
 『百花深処』<イギリスの庭>で触れた20世紀の造園家ガートルード・ジェキル(1843-1932)は、このアーツ&クラフツ運動と縁が深い。同項で紹介した『旅するイングリッシュガーデン』横明美著(八坂書房)には、

(引用開始)

 彼女の最初のキャリアは、クラフトウーマンだった。アーツ&クラフツ運動を始めたウィリアム・モリスに1869年に出会い、テキスタイル・デザインを師事した。間もなく刺繍やタペストリー、銀製品、木彫、インテリア・デザインなどの仕事を始め、勢力的にこなすが、40代になると視力の衰えが激しく、目を酷使する仕事を諦めるよう医師に宣告された。
 一方で、1875年にはウィリアム・ロビンソンの雑誌『ガーデン』の女流ライターとして連載を始めるが、あくまでもガーデニングは趣味だった。ところが華麗な転身が待っていた。1889年、友人宅のお茶会でアーツ&クラフツ運動に造詣の深いエドワード・ラッチェンスに出会ったのだ。ラッチェンスはニューデリーの都市計画など、多くの公共事業を手がけた、新進気鋭の建築家だった。25歳の年齢差だったが、二人はすぐ意気投合し、田園を廻りながらコッテージの石組みやティンバーフレームについて熱く語り合う。こうして年齢も性別も越えた、世紀のコラボレーションが始まった。屋外での作業が主であるガーデニングは、彼女の目にとって負担が軽く、一石二鳥だった。

(引用終了)
<同書 140ページ(文中「勢力的」は「精力的」の間違いか)>

とある。ラファエル前派の革新性は、アーツ&クラフツ運動を経由して20世紀の造園にまで引き継がれたといえるだろう。

 <イギリスの庭>の項で、イギリス庭園の非整形性には、古いケルト文化の影響があるのではないかと私見を述べたが、ラファエル前派やアーツ&クラフツ運動にも、スコットランドやアイルランド文化の影響を窺うことができると思う。ミレイはスコットランドで「春(林檎の花咲く頃)」を描いた。アーサー王伝説もキリスト教以前からある古い物語だ。横明美さんの文章に出て来るイングリッシュ・フラワーガーデンの父、園芸家、ガーデンライター(園芸作家)のウィリアム・ロビンソン(1838−1935)はアイルランド出身。そういえば今回の作品展はアイルランドに近いリバプール国立美術館所属のコレクションである。

 20世紀を席巻した大量生産の時代、キリスト教文化圏絵画の主流は、点描画、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくが、ラファエル前派に底流した古いケルト的精神は、絵画の枠を超え、生活芸術や造園へと流れ込んだと考えられる。それもやがて二つの世界大戦とアメリカ文化全盛によって、地下に潜ってしまうのではあるが。アーツ&クラフツ運動の意義とその失敗については、「場所の力」の項で紹介した『場所原論』隈研吾著(市ヶ谷出版社)でも取り上げられている。

 これからの絵画表現として、「21世紀の絵画表現」「額縁のゆらぎ」の項などで「主題を持たず動き(時間)そのものを描こうとする筋」について考えてきたが、もう一つ、この「汎神論的、自然崇拝的な絵画」という筋もあるのではないか。今のラファエル前派の人気はその辺りにあると思われる。

 ラファエル前派については、2014年にも、六本木の森アーツセンターギャラリーで「テート美術館の至宝 ラファエル前派展」が開かれた。そのときはミレイの「オフィーリア」も来ていた。自然豊な川に浮かぶ死せる少女をそこで見たときの不思議な印象が忘れられない。それは、高層ビルの天辺という20世紀の頂点的場所で、19世紀と21世紀とを結ぶ回路(の一つ)を体感したせいなのかもしれない。

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額縁のゆらぎ

2016年03月29日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「21世紀の絵画表現」の項で、

(引用開始)

 去年の11月、国立新美術館で、ゴッホ、スーラーからモンドリアンまでの点描画を集めた「印象派を越えて 点描の画家たち」を観た。19世紀後半に生まれたこれらの点描画は、思考におけるアナログからデジタルへのシステム転換であり、それは、20世紀の現代人の孤立した実存を支える「新しいパラダイム」の到来を告げるものであったとされる。(中略)
 20世紀の西洋絵画は、フォービズム、キュビズムを経て抽象絵画、シュルレアリスム、表現主義へと変化してゆくわけだが、その過程は、点描画のデジタル・システムをさらに推し進めて、形態それ自体をも解体してゆく、還元主義的な精神運動として捉えることが出来るように思う。

(引用終了)

と書いたことがある。前々回「20世紀を前にした絵画変革」の項で、『名画に隠された「二重の謎」』(三浦篤著)という本を紹介し、その中にあるスーラ(スーラー)の試みについて、「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」と書いたが、今回、再びスーラに焦点を当て、その「新しいパラダイム」へ向けた改革を追ってみたい。

 スーラの絵画の特徴はその点描画手法にある。三浦氏は『名画に隠された「二重の謎」』のなかで、スーラが「グランド・ジャッド島の日曜日の午後」の絵の端の部分に、点描によって細い帯状の縁取りが施していることを指摘する。それは額縁の内側に書かれた点描による額縁なのである。スーラはまた、「シャユの踊り」では点描で描いた枠の形態を内側にカールさせる。「夕方、オンフルール」では額縁そのものに点描による彩色を施す。さらに「サーカス」では、内側に書かれた縁取りと額縁の彩色を併用する。まさに「絵画の枠取りに対する固執と多様な手法」なのだが、そのことについて三浦氏は、

(引用開始)

 以上のように、《グランド・ジャッド》(P147上)の「縁取り」をきっかけとして、スーラの絵の「枠」に関して調べてみると、思わぬ視野を得ることになった。スーラの作品においては、「額縁」は「絵」に従属する「装飾」で周囲との「境界」を画するという単純な捉(とら)え方は、もはや崩れてしまっている。「額縁」そのものが「彩色」されたり、「額縁」の内側に、点描の「縁取り」が加えられたり、額縁に似た枠が描き込まれたりしていた。こうした多様な枠取りを見ていくと、スーラは「絵」と「額縁」を別個のものとして捉えるのではなく、「額縁」を含めて絵画作品を構想していたという見方が可能になってくる。
 特に「彩色された額縁」の場合は、その方向が明確に出ている。しかし、「縁取り」や「内側に描かれた額縁」の場合も、それらは「絵」から「額縁」への唐突な以降を和らげるための単なる緩衝(かんしょう)地帯ではなく、あくまでも絵の一部として機能しているのではなかろうか。ただし、それらは絵の内側と外側の間に位置する中間領域であり、内にも外にも属さない曖昧(ああいまい)さを示している。
 西洋絵画は、現実の擬似(ぎじ)的なイメージを表すときは、絵画を囲む現実との間に明確な線引きを必要とし、その役目を額縁が担っていた。しかし絵画が現実から独立した造形物に変化すると、額縁本来の役割が希薄になり、さまざまな形で絵画に取り込まれる現象が出現したように思われる。つまりところ、「枠」や「額縁」の存在に豊なゆらぎを与え、それらを絵画に吸収しよう試みたのがスーラであったと言ってよかろう。

(引用終了)
<同書 162−163ページ>

と書く。「印象派を越えて 点描の画家たち」展を観たときは本書未読だったので、残念ながらこの重要な点に気付かなかった。

 先日「背景時空について」の項で、背景時空とは、人の脳が認識しようとする主役を単体として浮かび上がらせる為のものであるとし、絵画の額縁(フレーム)もその一つであると指適した。スーラは、この背景時空そのものに揺らぎを与えたのであった。正に「新しいパラダイム」へ向けた改革というべきであろう。

 このあと西洋近代絵画は、点描画のコンセプトをさらに推し進めて形態それ自体をも解体してゆくわけだが、スーラはまだそこまで行っていない。

(引用開始)

 スーラにとって芸術のキーワードは「調和」であったという。《グランド・ジャッド》を見ても、そこにはパリ郊外の島で余暇を楽しむさまざまな階級、職業の人々の調和があり、斬新な主題を古典的な構図でまとめあげた伝統と近代の調和もあり、さらには色彩理論、光学理論を絵画に適用するという意味で芸術と科学の調和もあると言えよう。そこにはまた、内側と外側の関係を捉え直すような、絵と枠との調和もまた見出すことができるのである。

(引用終了)
<同書 163ページ>

と三浦氏は述べる。

 これからの絵画は、この「調和」をどのように取り戻すのか。「21世紀の絵画表現」では、「フェルメールからモネの睡蓮を通って、主題を持たず動き(時間)そのものを描こうとする筋があり、その線上に、21世紀の絵画表現の一つがあるのかもしれない」と書いたけれど、また時をみてこの辺りのことを考えてみたい。

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小説『古い校舎に陽が昇る』について

2016年03月22日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 電子書籍サイト「茂木賛の世界」で、小説『古い校舎に陽が昇る』の集中連載を終えた。本作は「綾木孝二郎」シリーズの二作目で、一作目『蔦の館』を同サイトにアップしたのが2014年の9月だから、1年半ぶりのこととなる。140枚程度の拙いものだが時間があればお読みいただきたい。

 本作は、2014年の12月に書いた「後継者づくり」のスキームをそのまま使ってストーリーを展開させた。登場人物たちの名前もそのまま用いている。

 「後継者づくり」の項で、「なんだか小説みたいになってきた」と書いたのは、当時から、この地方自治と街づくりの話が小説に発展する予感があったからかもしれない。

 小説に発展したのは、2015年2月に「地方の時代 III」で紹介した『脱・談合知事』チームニッポン特命取材班著/田中康夫監修(扶桑社新書)と『日本を MNIMA JAPONIA』田中康夫著(講談社)を読んだからである。これらの本によって地方自治の様々な問題に眼を開かされた。田中氏に感謝したい。

 このテーマが「綾木孝二郎」シリーズと合体したのは、『百花深処』<二冊の本について>でも書いたように、同シリーズが「主人公の趣味や信条を通して、現代社会の一面を描くこと」を目的としている一種のビヘイビア小説だからだ。

 地方自治と街づくりは当ブログでもメイン・テーマの一つだが、小説の形でこれを展開できたのは良かった。そういえば他の『あなたの中にあなたはいない』などの作品も当ブログ記事と連動している。読者の皆さんも興味あるテーマがあったらお寄せいただきたい。感想もお待ちしている。

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20世紀を前にした絵画変革

2016年03月15日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 映画の話の次は絵画について書こう。『名画に隠された「二重の謎」』三浦篤著(小学館101ビジュアル新書)という本が面白かった。本カバー表紙裏の紹介文には、

(引用開始)

「見ることの専門家」である「わたし」が美術館でみつけた、名画に残された「事件」の痕跡。
その小さな痕跡を探ってゆくと、
大きな謎の存在が明らかになる……。
19世紀末、芸術の都パリを震撼させた「二重の謎」が、
いま白日の下にさらされる。
共謀したのはゴッホやマネ、ドガ、セザンヌなどの巨匠たち。
西洋近代絵画に起った一連の「変革」の意味について、
推理小説仕立てで描き出す、新しいスタイルの美術入門書。
美麗な図版と貴重な部分図、満載!

(引用終了)

とある。目次にある「事件」とは以下の通り。

第一章 謎は細部に宿る
1 マネのためらい――「残された二つの署名」
2 アングルの予言――「ヴィーナスの二本の右腕」
3 クールベの告白――「二人の少年の冒険」

第二章 映し出された謎
1 ドガの情念――「見捨てられた人形」
2 ボナールの幻視――「鏡の間の裸婦」
3 マティスの緊張――「闇に向かって開かれた窓」

第三章 名画の周辺に隠された謎
1 ゴッホの日本語――「右側と左側」
2 スーラの額縁――「内側と外側」
3 セザンヌの椅子――「右側と左側」再び

 著者はこれらの作品について次のように書く。

(引用開始)

 結局のところ、19世紀フランスとは、絵画が絵画を意識した時代であったと思う。優れた画家は皆、絵画を構成する形式的な要素に敏感に反応した。絵が何でできていて、どのように描かれ、何を目指すのかという問題に、各々の画家が各々の観点から取り組んだ成果が作品にほかならない。19世紀後半のフランスにおいて、絵画は、自らが作られたイメージであることを鋭く意識したのである。

(引用終了)
<同書 185ページ>

 写真の出現などによって、絵画とは何かということが意識された時代。この本は、当時の画家たちの次のような興味深い試みを明らかにする。

マネ:絵の平面性を確信した画家における空間と平面の葛藤。
アングル:形態を自由にデフォルメ、コラージュする先駆的な造形意識。
クールベ:伝統的絵画を揺るがす無垢や素朴さといった新しい美意識。
ドガ:画中画にこだわる画家の芸術家という存在への認識や問いかけ。
ボナール:鏡を偏愛する画家における虚構性と多層性の表現。
マティス:戦争という非人間的な状況への反応。
ゴッホ:絵と文字の合成による異文化への興味、画家としての感性。
スーラ:絵画の枠取りに対する固執と多様な手法。
セザンヌ:周辺的なモティーフによる造形と色彩表現。

引用を続けよう。

(引用開始)

 ある主題を三次元空間に展開する物語的、逸話的な場面として、写実的に描写する伝統的な絵画が、徐々に崩壊への道を歩んでいた。現実再現性が皆無(かいむ)になったわけではないが、そのレベルは確実に低下しつつあった。
 奥行きが浅くなり、表面が浮上した絵画においては、空間がゆがみ、人体が変形し、筆触の効果が露(あらわ)になった。書名も額縁も絵の一部と化し、絵の中の文字が自己主張を始めた。もはや絵画はイリュージョンではなく、絵の具を塗られた表面でしかなかった。絵画は虚構のイメージとして構成され描かれという認識が行きわたり、そのための手段に対する意識が浸透していった。その結果、イメージは単純ではなく複層的になる。絵の中に絵が挿入され、絵画の比喩(ひゆ)でもある鏡や窓のモティーフが意味を担い、存在感をもった。
 まさに、絵画とは何かという諸条件が意識された時代。絵は平面であり、構図や形態は自由にしてよく、アカデミックな価値観に縛られる必要などなくなった。デフォルメもコラージュも問題ないし、上手(うま)い下手(へた)という技術は異なる、子供のような新鮮な感受性が必要とされた。現実再現ではなく、自由な感性を媒介(ばいかい)にして色彩と形態で作られるものこそが絵画であることが、次第に明瞭になっていったのである。(中略)
 19世紀後半から20世紀初頭のパリにおいて、絵画が絵画であることに目覚めた。その結果、それまでの常識、基準、枠組みが覆(くつがえ)され、斬新な試みが実践される状況が生まれた。フランス近代絵画史とはそのような歩みであったと、私の眼には映るのである。

(引用終了)
<同書 185-187ページ>

20世紀を前にしたこれらの変革はなかなか奥が深い。

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日米の映画対比

2016年03月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「ファッションについて II」の項で、最近DVDで観た映画を幾つか挙げたので、今回は映画続きで、最近WOWOWチャンネルで観た映画シリーズを二つ紹介したい。どちらも少し前の作品だから御覧になった人も多いだろうし、今さら紹介でもないだろうが、例の複眼主義の、

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A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」
------------------------------------------

------------------------------------------
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
------------------------------------------

という対比によくマッチするので書いてみたい。

 一つは日本の『リトル・フォレスト』(森淳一監督)である。五十嵐大介の人気漫画を橋本愛主演で実写映像化したもので、東北の小さな集落に移り住んだ主人公が、自給自足に近い暮らしを通して自分を見つめ直すというもの。シリーズは、

「夏・秋」(2014年)
「冬・春」(2015年)

の二作(括弧内は発表年)。この作品にはBの側の考え方が横溢している。特に、「冬・春」の最後に主人公が踊る郷土の舞いが素晴らしい。以前「複眼主義美学」の項において、

-------------------------------------
日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
-------------------------------------

と書いたけれど、橋本愛の姿・表情は、まさに「生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)」そのもので、観る者をつよく惹き付ける。この交感神経優位の女性美については、『百花深処』<華やかなもの>の項も参照していただきたい。

 もう一つはトム・セレック主演のアメリカ映画シリーズ『警察署長ジェッシイ・ストーン』だ。ロバート・B・パーカーの推理小説を映像化したもので、ボストン郊外の田舎町パラダイスで発生する様々な事件に、警察署長ジェッシイ(トム・セレック)が挑むというもの。シリーズは、

「影に潜む」(2005年)
「闇夜を渉る」(2006年)
「湖水に消える」(2006年)
「訣別の海」(2007年)
「薄氷を漂う」(2009年)
「非情の影」(2010年)
「奪われた純真」(2011年)
「消された疑惑」(2012年)

とこれまで八作品ある(括弧内は同じく発表年)。監督は2011年の「奪われた純真」以外ロバート・ハモン監督、「奪われた純真」はディック・ローリー監督。こちらの作品はAの側の考え方を軸にストーリーが展開する。「複眼主義美学」の項において、

-------------------------------------
西洋の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動であり、都市(人工的なモノとコト全般)に偏していて、高みに飛翔し続ける抽象的思考に優れている。例としては神学や哲学など。その美意識は、交感神経優位の反重力美学(高揚感)を主とする。副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる。
-------------------------------------

と書いたが、主人公は離婚を機に酒におぼれ、ロス・アンジェルスの刑事を辞めて田舎町の警察署長になったくらいだから、決して勇ましいヒーローではない。推理小説系は、概ねAの側が強い。ジェッシイも、事件解決に至る最後では「交感神経優位の反重力美学(高揚感)」を演じる。しかしいつもの彼は、海辺の小さな家に住み、ウィスキーを飲みながらブラームスのピアノ協奏曲を聴く。となりのソファには大きな犬が寝そべっている。この感じが「副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる」そのもので、このアンチ・ヒーロー振り(と田舎町パラダイスの零落ぶり)が、西洋近代文明の黄昏を表現しているようで観る者の郷愁を誘う。トム・セレックの熟練した演技が、反重力とノスタルジアの間を揺れ動く今のアメリカ(の男性性)を上手く描き出している。尚、西洋近代文明の黄昏については「21世紀の文明様式」の項などを参照されたい。

 いかがだろう、以上、日米の映画を複眼主義の対比で読み解いてみた。これからもときどき面白いと思った映画を紹介してみたい。この年末年始には『スター・ウォーズ フォースの覚醒』(J・J・エイブラムス監督)や『007スペクター』(サム・メンデス監督)も見た。これらの長く続くシリーズについては、いづれ別の角度から書く機会があるかもしれない。

 この複眼主義対比のマッチングは、以前「21世紀の絵画表現」の項でみた、『かぐや姫の物語』(高畑勲監督)と『ゼロ・グラビティ』(A・キュアロン監督)という二つの映画にも当て嵌まる。Aが『ゼロ・グラビティ』(特にマット・コワルスキー役=ジョージ・クルーニー)、Bが『かぐや姫の物語』だ。併せてそちらもお読みいただければ嬉しい。

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ファッションについて II

2016年03月01日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 ファッションに関する話を続けよう。まず、ファッションと他のアート表現との違いについて。前回、ファッションは、模倣と差異化の「両価性」を持つという説を紹介したが、差異化は「脳の働き」であり、相手の視線を自分に集めさせ、自分のあり方に知覚者を服従させるという意味において、絵画や音楽など他のアート表現とあまり違わないと思われる。しかし、ファッションは身体と外界との物理境界における視覚的表現だから、他のアートよりも人に模倣されやすい。それが他のアートとの一番の違いだろう。「両価性」といわれる所以だ。

 そう考えると、アート表現としてファッションから一番遠いのは、小説や詩などの言語表現であろう。頭のなかで推敲された言語表現の模倣は難しい。難しさの度合いとしては、そのあと絵画や映画、音楽ときて、ファッションの次に模倣されやすいアート表現は何だろう、演技だろうか。演技はファッション同様、身体表現だから、その中身はともかく、外面は比較的模倣されやすい。昔、高倉健のヤクザ映画を見終わった客はみな彼を真似て歩いていた。

 その他を考えてみると、ダンスは演技に近いだろう。マンガは絵画、アニメは映画の一種。肌に直接描く化粧、刺青、さらに整形などもあるが、そのpopularityは模倣しやすい順に並ぶ筈だ。言語表現の中でも、キャッチコピーなどは、誰でも真似(口ずさむことが)できるからファッションに近いといえる。

 以前「文庫読書法(2014)」の項で、『キャラクター精神分析』斎藤環著(ちくま文庫)を紹介したが、この中にある、ヤンキーやオタクといった「キャラ」、すなわち、「人間という主格=固有性と同一性(一般性)の混沌から、同一性部分だけを拡大強調、主格もどきとして複製し、与えられた環境=場において、相手とのコミュニケーションするときに使う道具(tool)」も、演技の道具として模倣されやすい。「キャラ」は仮面と同じ役割を果たすわけだ。

 ファッション・ブランドを身に纏う人は、その「両価性」(模倣と差異化)を楽しむ。前回、創造することとは神の世界創造のごとく無根拠であるという説も紹介したが、新しいブランドは、どのような理由で成功したり失敗したりするのだろう。勿論資金的な問題やマネジメントの上手い下手はある。しかしそういったことのほかに、そのブランドの差異化の位相が、時代の流行よりも「少しだけ」先を行っていることに成功の秘訣があるように思う。

 説明してみよう。どうして「少しだけ」流行の先を行ったファッションが良いのか。遥か先を行ったファッションはなぜ駄目なのか。流行や時代精神は、「流行について」の項で書いたような感性変化の7年周期や28年周期、文明のあり方を巡る時代のパラダイム・シフト、素材や技術革命、景気の循環、気象の変化といった様々な要因の組み合わせによって移り変わる。暗黙知によって人はその兆しを察知するわけだが、その小さな差異を追確認するのに、一番手っ取り早いアート表現は何か。

 そう、模倣しやすいファッションが一番手っ取り早いのだ。言語表現や絵画、映画や音楽なども、やがて流行に追随してくるだろうけれど、それを待っていては時間がかかりすぎる。しかもそれらは模倣しにくい。人々は、変化の兆しを体現したファッションを纏うことで、その変化の兆しを互いに確認しあうのだ。次に化粧やキャッチコピー、そして先端的なダンスや演劇によって、さらに音楽や映画、絵画、そして最後に言語表現によって、新しい流行や時代精神が追認されていくのだと思う。

 時代の遠い先を行くファッションを創る人もいる。そういう音楽や絵画、言語表現もある。しかしそういう作品はなかなか売れない。多くの人にすぐには受入れられないからだ。それが流行や時代精神に敏感な目利きによって発掘され、時代の少しばかり先を行く形にプロデュースされると、一気に流行の最先端に躍り出ることがある。しかし模倣されやすい表現順に、大衆化、質の低下といった問題が生じる。だから、売れないものを作っている方が幸せかもしれない。時代の先を行く精神だけを気高く保持しながら。最近DVDで観た映画『はじまりのうた』(ジョン・カーニー監督)や『繕い裁つ人』(三島有紀子監督)、『バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)』(アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督)などは、この辺りの事情を描きたかったのだと思う。時代の先を行く精神をどれだけ保持できるかが勝負の分かれ目なのだ。

 ファッションに関して次のような人々がいる。

(1)なるべく目立たないようにする。個性を出さない。
(2)目立つ恰好をする。
(3)伝統的であろうとする。
(4)無頓着である。

(1)は環境にブレンド・インすることを優先する人たち。日本人に多い。(2)は主格中心に考える人たち。ファッショナブルな人たちもこの括りに入る。日本社会ではときどき浮いてしまう。(3)はファッショナブルなのだけれど歴史性を重んじる人々。ただ新しいものが面倒くさいだけの人もこの括りに入る。(4)はあまりファッションに頭を使わない人々。家にいるときは誰でも普段着だからこの括りに入る。あなたはどういう人だろうか。勿論時と場合(TPO)による複数回答もありだ。

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ファッションについて

2016年02月23日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 境界の話に戻ろう。『境界の現象学』河野哲也著(筑摩選書)という本がある。「皮膚、家、共同体、国家。幾層もの境界を徹底的に問い直し、まったく新しい世界のつながり方を提示する」(本の帯より)ことを意図した内容で、副題に「始原の海からの流体の存在論へ」とある。この本に「ファッションと生まれることの現象学」という章がある。今回はこれを導き手に、「自分と外界との<あいだ>を設計せよ」の一例として、ファッションについて考えてみたい。

 ファッションとは何か。まずそれについて同書から引用しよう。

(引用開始)

 複雑で長い歴史を持つファッションを定義することは難しい。しかしさしあたり、流行とは、スタイルの共時的模倣であると定義できよう。ファッションとは、衣服なり化粧なりの外見のスタイルを、同時期的に模倣することである。この模倣の伝搬の仕方は、「伝染する」と呼びたくなるような急激な速さで広まることもある。これに対して伝統とは、スタイルを通時的に模倣することであり、過去の様式を受け入れることである。伝統は、服従や訓練や教育によって人工的に見につけるものである。学校の制服などはこれに当る。
 ジンメルによれば、ファッションは「両価的」である。ファッションは、帰属しているグループの仲間の模倣であるが、同時に、他のグループから自分たちを差異化する。ファッションとは、自分をある差異化されたグループへと同化することである。それは、個性と同調を同時に追及する。(中略)
 ファッションは遊戯であり、それゆえに、おのれの無根拠性を示し、それによって同時に世界の無根拠性をも顕にする。しかし、ファッションは否定的な効果だけをもつものではない。ファッションは意味も目的もない変化であるが、同時に誘惑である。ファッションは、服飾であろうと化粧であろうと、他人に見られなければならない。他人の目を引き、他人から鑑賞されることのない外見はファッションたりえない。

(引用終了)
<同書 33−40ページ>

ファッションとは、意味も目的もない遊戯でありながら、なにやら誘惑的であり、一筋縄ではいかない「両価的」なものだという。

 「両価的」とは、「模倣」と「差異化」の二つの方向を指すわけだが、模倣するとは“見る”ことであり、差異化するとは“見られる”ことを意味する。「平岡公威の冒険」の項で述べたように、普通、ものを“見る”のは脳の働きであり、“見られる”のは身体の働きだが、ファッションの場合、“見られる”ことの方が脳の働き(差異化)となり、“見る”ことの方が身体の働き(模倣)になる。

(引用開始)

 見ることは、一見すると能動的な行為に思われる。しかし、見る対象に視線を合わせ、対象を目で追い、目をこらして調整しなければならない点で、対象のあり方を受容しなければならない。この意味で、見ることは受動的である。他方、見られることは、一見受身的なことに思われる。しかし、知覚するものの視線を自分に集めさせ、注目を引きつけ続けて、自分のあり方に知覚者を服従させる点において能動的である。見られるという受動性は、自分の発する可視性の中に相手を捉え、可視性を放射することによって、周囲の他者たちの態度を変容させる。見られることは、見る者を誘惑することである。

(引用終了)
<同書 40ページ>

ファッションは、通常の“見る者”と“見られる者”の立場を反転させる。自分と境界との<あいだ>を設計する上で、ファッションのこの「両価性」を弁えておくことは重要だと思われる。さらに著者の文章を追ってみよう。

(引用開始)

 自己を特定の社会的な役割や慣習、固定的なアイデンティティに基づかせる伝統的社会とは異なり、私たちは、誰もが誰でもない者として自分の周囲を通り過ぎていく社会に生きている。そうした社会に生きる身体は、ファッションに身を包む。ファッションは見られることによって新しいものとして地上に再降臨する。新たに創造されたものは、新しいがゆえに、古いものから切断され、無根拠である。創造することとは、神の世界創造のごとく、無根拠である。あるいは、無意味な行為といってもよい。「新しい」とは過去から切り離されていることである。こうした新しく創造された無根拠なものを地上に普及させることが、ファッションである。ファッションを身にまとう人は、創造されたものを人の目の前に見せ、人の視線を集め、自分を人々の中へと定着させる。それは、すなわち、誕生したものを地上へ定着させること、言い換えれば、養育することである。ファッショナブルな人とは、そうした、いわば誕生と養育とを繰り返し生きる人間である。
 新たな皮膚=衣服を作り指すとは、新しい生き物を生み出し、育てることである。ファッションは、パーソナリティの心理学者が到底、追いつかないほどに、はるかに深遠な存在論的な出来事である。表面は深遠である。

(引用終了)  
<同書 42ページ>

ファッショナブルであることは、極めて生産的(他人のための行為)であるわけだ。新しい時代は、新たらしいファッションと共にやってくる。これから街にどのようなファッションが表れるのか、興味深い。

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日本アニメの先進性

2016年01月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「日本アニメの先進性」などというと、何を今さらと言われそうだが、前回の「背景時空について」に関連付けて書くのでご一読いただきたい。ただしここで書くのは日本アニメといっても専ら高畑勲監督のことである。

 以前「21世紀の絵画表現」の項で、『かぐや姫の物語』高畑勲監督(スタジオジブリ)について、

(引用開始)

『かぐや姫の物語』は、一枚の絵全体が動くようなアニメーションが特に素晴らしかった。この、背景時空の無い、水彩画のような動画、絵画のような深みを持ちつつ、「コト」表現として充分な情報量があるアニメは、新しい視覚表現の一つの方向だと思われる。

(引用終了)

と書いたことがある。この“背景時空の無い”というのは映画のパンフレットからヒントを得た言葉だ。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 従来のアニメーションでは背景とセル画は別々の様式で描かれる。これはセルアニメーションと言う手法を採用する際に避けては通れないものだった。しかし、高畑監督が挑戦したのは、背景とキャラクターが一体化し、まるで1枚の絵が動くかのようなアニメーション。アニメーションの作り手たちが一度は夢見る表現である。(中略)一見あっさりしているようで、実は図抜けた画力と膨大な手間の集積によって生み出された、本当の“リアル”を感じさせる表現は、78歳の高畑勲が生み出した全く新しいアニメーション表現として、アニメーション史のエポックメイキング的作品となるだろう。

(引用終了)
<同パンフレット「プロダクションノート」より>

 先日新聞に、高畑監督が自身のアニメ表現や日本人の完成の特徴について語ったシンポジウムの記事があった。『かぐや姫の物語』の手書きの特徴を生かした線による表現について「雨の線が浮世絵を思わせる。日本の伝統的な絵画の影響があるのでは」などの質問に対して、


(引用開始)

 高畑さんは「僕は普通の人と同じくらいしか浮世絵を見ていない。けれど日本に住んで育ってきたこと自体が、僕の一つの特徴になっている。と回答。日本には雨や波、炎など、固定していない「現象」を描く伝統があると説明し、「これは西欧絵画にはない特徴。日本は現象を見て、本質は問わない傾向がある。だから平安時代から、滑って転ぶというような描きにくいポーズもたくさん描かれている。そういう伝統とアニメは関係している」と話した。

(引用終了)
<東京新聞夕刊 9/24/2015>

とあった。ここでいう“固定していない「現象」”とは、複眼主義の対比、

------------------------------------------
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
------------------------------------------

------------------------------------------
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
------------------------------------------

におけるB側の日本語的発想、「モノコト・シフトの研究 II」の項でいう「事象(matter)を脳(大脳新皮質)で考えるのではなく、身体(大脳旧皮質+脳幹)で考える」ことだと思う。“本質を問わない傾向”というのが面白い。本質を問うには「分析」しなければならないから、A側の話になってしまうわけだ。

 日本人はB側の優位に拠って、アニメーションにおいてついに「背景時空」を無くすレベルにまで到達した。「日本アニメの先進性」という所以である。勿論制作にお金は掛かっただろうが、これはジブリにしか出来なかった快挙だと思う。スタジオジブリについては、かつて「借りぐらしのArrietty」の項でその特長を書いたことがある。

 高畑監督は、今年米アニー章功労賞を受賞したという(発表・授賞式は今年2月6日)。

(引用開始)

「アニメ界のアカデミー賞」と呼ばれるアニー賞を主催する国際アニメ映画協会は一日、功労賞の一つで、アニメ界のへの長年の貢献をたたえる「ウィンザー・マッケイ賞」を日本のアニメ映画監督の高畑勲さん(八〇)に授与すると発表した。(以下略)

(引用終了)
<東京新聞 12/8/2015>

21世紀のアニメの方向性を示唆する映画を作ったのだから、単なる功労賞ではなくアニメ大賞であるべきだが、まあそれはおいおい西洋人も解ってくるのではないか。 

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熱狂の時代

2015年11月10日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」の項で、梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)を紹介したが、そのなかの「近づき過ぎず、取り込まれない」と題された第3章に、竹林の話がある。竹林は地下茎でどこまでも増えてゆくから、たくさん生えているようでも全体が一つの個体のようなものだという話で、そのあと梨木さんは次のように書く。

(引用開始)

 様々な方向性を持つ雑多な木がつくりだす場の雰囲気と、一つの方向に先鋭的に深化してゆく場のムード。多様性に溢れた前者が健康的で、排他的な後者が病的に感じられるのはたぶん多くの人が納得できることだろうけれど、どちらの「引き寄せる力」の磁場が強いかというと、一概には言えない。それぞれ、そのときの自分の意識の持ちようによって予想もできない力をはっきするものだから。

(引用終了)
<同書 24ページより(フリガナ省略)>

ここで竹林は排他的で熱狂的な全体主義の例えとなっている。

 モノコト・シフトの時代は、冷たい脳(大脳新皮質)の働きよりも、熱くなりやすい身体(大脳旧皮質と脳幹)の働きを重視するから、それは一面「熱狂の時代」ともなる。

 以前「勝負の弁証法 II」の項で、「勝負が“コト”であってみれば、“モノコト・シフト”の時代、世界中でスポーツ・イベントやゲームがますます興隆するであろう」と書き、「nationとstate」の項で、「総じて、今のnationという括りは、これからより分裂圧力を強めると思われる」と書いたけれど、スポーツも政治も、そして戦争も、人々が熱狂しやすいイベントだ。

 熱狂することの問題点は、「三つの宿啞」の項で示した、

(1)社会の自由を抑圧する人の過剰な財欲と名声欲
(2)それが作り出すシステムとその自己増幅を担う官僚主義
(3)官僚主義を助長する我々の認知の歪みの放置

のうち、(3)の認知(思考)の歪みが生じ易いことである。熱狂によって感情が大きく揺すぶられると、過剰な財欲と名声欲(greed)と官僚主義(bureacracy)の放つ騙しのテクニック各種によって、人々の思考が一つの方向に束ねられる危険性が高まる。

 「モノコト・シフトの研究」の項で、「都市の一部には、利権がらみで意図的にA偏重社会の持続を画策する人々もいる」と書いたけれど、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

において、greedとbureacracyに侵された人々は、民衆のBに基づく「熱狂」を自分達の利権維持のために利用する。

 熱狂がスポーツ・イベントに向かっているうちは良いが、それがマネー経済や政治、特に戦争に向かい始めたら気をつけなければならない。梨木さんは「近づき過ぎず、取り込まれない」のなかで、幼い時、竹林のしんとした静けさに悲壮感に近いリリシズムを感じたと書き、その章の最後に、

(引用開始)

 大人になった今はただ、社会全体が排他的な竹林になるのが怖い。そしてそこから抜け出せなくなるのが。

(引用開始)
<同書25ページより>

と付け加えておられる。上の対比にもある通り、日本語はそもそもBに偏しているから特に気をつけたい。先の大戦時を思い起こすべきだ。

 これからの日本にとって、2020年に予定されている東京オリンピックは一つの試金石だと思う。今後greedとbureacracyによってオリンピックへの「熱狂」を煽るありとあらゆるプロパガンダが繰り出されるに違いない。そしてそれが、都市集中やナショナリズム高揚へと巧妙に仕切られていく。だから浮かれてはならない。常にクールな頭(大脳新皮質)で、物事の表と裏を見極めるようにしなければならない。

 時代がBに偏して来るからといって、個人ベースではAの重要さを忘れてしまってはいけない。複眼主義でいつも繰り返すように、活き活きとした社会を創る為には、AとBのバランスが重要なのである。

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自分と外界の<あいだ>を設計せよ

2015年11月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 「モノコト・シフトの研究」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で、これからは、「固有の時空」を大切にする時代であり、大切な固有時空には、

● ある程度持続する
● まわりに好影響を与える

といった特徴があると述べた。最近文庫になった梨木香歩さんの『不思議な羅針盤』(新潮文庫)は、日常生活で出会う様々な時空について、細やかな観察眼で綴った心地良いエッセイ集である。

 時空をどう見極めるか、自分と外界との<あいだ>をいかに設計し、悪影響を及ぼす時空を遠ざけ、好影響を与えるそれに接近するか、そういったことが、

1 堅実で、美しい
2 たおやかで、へこたれない
3 近づき過ぎず、取り込まれない
4 足元で味わう
5 ゆるやかにつながる
6 みんな本物
7 近づき過ぎず、遠ざからない
8 世界は生きている
9 「スケール」を小さくする

などなど、全部で28の章に分けて書いてある。本カバー裏表紙の紹介文には、

(引用開始)

 ふとした日常の風景から、万華鏡のごとく様々に立ち現れる思いがある。慎ましい小さな花に見る、堅実で美しい暮らし。静かな真夜中に、五感が開かれて行く感覚。古い本が教えてくれる、人と人との理想的なつながり。赤ちゃんを見つめていると蘇る、生まれたての頃の気分……。世界をより新鮮に感じ、日々をより深く生きるための「羅針盤」を探す、清澄な言葉で紡がれた28のエッセイ。

(引用終了)

とある。自分に好影響を与える場所についての梨木さんの文章も本書から引用しておこう。

(引用開始)

 別に有名なスポットでも何でもないのだが、ああ、ここはすてき、と思う場所がある。林の中に、そこだけぽかんと陽の光が当っているような場所。広葉樹の若葉が、天蓋のように空を覆っているような場所。異国で迷って路地を入っていくと、思いもかけない中庭を見つける。涼しい風が吹いて、ベンチがあり、行きずりの人のためにも開かれている。あるいは古いデパートの、喧騒を離れた場所にある踊り場。入るとくつろぐ喫茶店。
 町中のあちこちに、日本中のあちこちに、世界中のあちこちに、そういう場所があることを憶えている。心が本当に疲れているときは、砂漠のオアシスを目指すように、頭の中でそういう場所を彷徨う。
 大好きな場所をいくつか持っていることはいい。

(引用終了)
<同書 112ページより(フリガナ省略)>

 ちなみに、「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」というタイトルは、先日「住宅の閾(しきい)について」の項で紹介した『権力の空間/空間の権力』の副題「個人と国家の<あいだ>を設計せよ」からアナロジーとして拝借した。これからの時代、「個人と国家」間だけではなく、「自分と外界」との間の設計そのものが問われると思うからだ。

 自分とは一つの大きな渦(vortex)である。それを取り巻く外界は、大小様々な渦に満ちている。「食排、運動、仕事、読書、恋愛、気象、我々自身とそのまわりでは無数の“コト”が日々起っている。そしてまた消滅している」と「モノコト・シフトの研究 II」の項で書いた通りである。

 コトを大切に考えるこれからの時代、いかに自分と外界との間を上手く設計するかはとても重要なファクターになる筈だ。自分のためだけではなく、周囲に自分が好影響を与え続けるためにも。それはまた個人の自立をも促す。個人と国家間の設計作業が始まるのはその後だ。

 この設計図は起業家にも欠かせない。モノコト・シフト時代の産業システムは大量生産・輸送・消費から、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といったものに変わっていく。朝昼晩、どのように自分と外界(この場合は身近な顧客、従業員、家族など)との間合いを取るか、それが遠隔操作で外界との話を済ませてきたこれまでと違って重要な課題となるだろう。

 作家としての梨木さんは、本の執筆を通して読者に好影響を与えようとしている。先日も『百花深処』<人が育つ場所>の項で、梨木さんの『雪と珊瑚と』(角川文庫)と『僕は、そして僕たちはどう生きるか』(岩波現代文庫)について評論したが、よい本を書くために必要な身の回りの設計、『不思議な羅針盤』は、彼女のそういう想いを乗せた内容ともなっている。

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複眼主義美学

2015年09月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 今年2月「郷愁的美学」の項をアップしてから、文芸評論『百花深処』の方でその周辺を「複眼主義美学」と称して継続的に探ってきた。5月に「吉野民俗学と三木生命学」の項で途中経過を報告したが、改めてここに全体を纏めておきたい。


 複眼主義美学とは、藤森照信の『茶室学』、泉鏡花の『草迷宮』や吉田健一の『金沢』、九鬼周造の『「いき」の構造』や『風流に関する一考察』などを手がかりにして、自律神経系(交感神経と副交感神経)、脳(大脳新皮質)の働きと身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き、都市と自然、男性性と女性性、といった複眼主義の諸対比を用い、日本および西洋の思考・美意識構造を分析したものである。

日本人の思考と美意識:
-------------------------------------
日本古来の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動でありながら、自然を友とすることで、高みに飛翔し続ける抽象的思考よりも、場所性を帯び、外来思想の習合に力を発揮する。例としては修験道など。その美意識は反骨的であり、落着いた副交感神経優位の郷愁的美学(寂び)を主とする。交感神経優位の言動は、概ね野卑なものとして退けられる。
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日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
-------------------------------------

西洋人の思考・美意識:
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西洋の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動であり、都市(人工的なモノとコト全般)に偏していて、高みに飛翔し続ける抽象的思考に優れている。例としては神学や哲学など。その美意識は、交感神経優位の反重力美学(高揚感)を主とする。副交感神経優位のノスタルジアは、ともすると軟弱さとして扱われる。
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-------------------------------------
西洋の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、都市に偏していて、モノやコトの安定化に力を発揮する。例としてはイギリスの女流小説など。その美意識は、静かな副交感神経優位の郷愁的美学(エレガンス)を主とする。交感神経優位の強い情動は、多くの場合魔的なものとして恐れられる。
-------------------------------------

 人は皆ある比率で男性性と女性性とを持っているから、両方の性性の思考・美意識を有している。今の日本人は、日本古来の思考・美意識と、西洋的なものとの混合型。人によってそのレベルは異なる。何か強いプレシャーを受けると、先祖帰りして古来の思考・美意識に戻ることがある。日本的なるものを理解する西洋人も最近増えてきている。
 
 複眼主義では、そもそも「都市」(人工的なモノやコト全般)は男性性(所有原理・空間原理)、「自然」は女性性(関係原理・時間原理)に偏していると考える。一神教によって育まれた西洋人の思考は、原則的に人間中心の発想で、反自然=「都市」をベースに発展してきた。だから西洋人の思考は、男女ともに、男性的な合理精神に引き寄せられる。一方、日本人の思考は、原則的に環境中心の発想で、縄文の昔から「自然」との融和を基に展開してきた。だから日本人の思考は、男女とも女性的な感性に引き寄せられる。

 「都市」に偏した西洋人の思考から形成される美意識は、主に、男性的な反重力美学(高揚感)と、その行き過ぎを抑えるよう(カウンターとして)働く女性的な郷愁的美学(エレガンス)、「自然」に偏した日本人の思考から生まれる美意識は、主に、女性的な反重力美学(華やかさ)と、その行き過ぎを抑えるように(カウンターとして)働く男性的な郷愁的美学(寂び)である。

 以上だが、これらの特徴抽出は、私の知識と経験に基づく仮説であり、どこかに正典があるわけではない。あくまでも私がこれまで「複眼主義」として集成してきた考え方の延長線上にある。また複眼主義における二項対比は、「かならず」というものではなく、「どちらかというと」という曖昧さを許容する。複眼主義美学についても同様に捉えていただきたい。

 人の思考と美意識を、このように自律神経や脳の働き、性性と関連づけ、さらには、日本と西洋といった文化の違いに応じて体系立てたのは、初めての試みではないだろうか。「ヤンキーとオタク」の項で論じたような日本論も、この分析を援用することでさらに興味深い検討が可能となる筈だ。これからも様々な視点からこの仮説の整合性を検証していきたい。ご意見・ご指適もお待ちしている。

 さっそくこの成果を基に、最近『百花深処』<平岡公威の冒険 3>をアップした。三島由紀夫(本名平岡公威)のクロスジェンダー的表現の秘密に迫ったもの。お読みいただけると嬉しい。

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郷愁的美学

2015年02月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「反重力美学」の項で、交感神経由来の美的感覚であるところの、重力に逆らうものに対する憧れを、「反重力美学」と名付けた。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型など、重力から逃れようとする運動や形態に対して、人間は本能的に美を感じ取るという話だ。

 それに対して、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌、長閑な田園風景など、郷愁を誘う物事に対して感じるのは、同じ自律神経でも、副交感神経由来の美的感覚だと思われる。

 「交感神経と副交感神経」の項で見たように、副交感神経は、消化が行なわれているときに活性化し、<安らぎと結びつき>作用による身体的適応に関連しているわけだから、その美的感覚は、身体がリラックスしたときに発動する筈だ。確かに、いとしさや香りを感じるのはそういうときに違いない。この副交感神経由来の美学を、「反重力美学」と対にして、「郷愁的美学」と名付けたい。複眼主義の関連対比でいえば、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という連なりになる。

 この美的感覚の対比は、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>などで検討した、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

といった時空構造とどう繋がるのだろうか。

 「反重力美学」の項で言及したように、反重力美学は西洋的なリズム感を伴っている。走る男、空へ舞い上がる鳥、天へ向いた穂先、スポーツ・カーの流線型に憧れるのは男性の方が多いから、「男性性」と「反重力美学」は親和性が強い。一方、いとしさ、懐かしい香り、心やすらぐメロディー、散る桜をうたった歌など郷愁を誘う物事を好む女性は多いから、「女性性」と「郷愁的美学」は親和性が強い。しかし、

「生産」:理性的活動−交感神経優位−反重力美学
「消費」:感性的活動−副交感神経優位−郷愁的美学

という対比は機能的(functional)な分類で、

「男性性」:螺旋的な遠心性
「女性性」:迷宮的な求心性

の対比は構造的(structual)な分類だから、二つの対比は同じではない。

 美的感覚は、機能的な@「反重力美学」とA「郷愁的美学」という対比と、構造的なB「男性性」とC「女性性」とが「縦軸と横軸」の関係性を持ちながら、その全体を形成しているといえるだろう。
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だから、四つの項目の比率は、その対象や鑑賞者の心身状態によって違ってくる。

 音楽を例に取ってみよう。様々な音楽のうち、リズムを重視するジャズの感覚は、どちらかというと「反重力美学」的であり、嗜好者には男性性を出自に持つ人たちが多い。メロディーを重視するリラックス系音楽は「郷愁的美学」であり、嗜好者には女性性を出自に持つ人たちが多い。しかし、女性のジャズ愛好家はいるし、リラックス系音楽を好む男性もいる。ジャズでもスローな曲は郷愁的だ。そして人は、鑑賞するときの気分(心身状態)に応じて、ジャズを聴いたりリラックス系の音楽を聴いたりする。

 それぞれの比率は、その人の育ち、風土や言語といった文化的背景の違いによっても異なるに違いない。たとえば日本では、男性でもわび・さびなど「郷愁的美学」を好む人が多い。それは、文芸評論『百花深処』<迷宮と螺旋>の項で述べたように、日本の男性性(螺旋運動)が、場所に牽引され、抽象的な高みに飛翔し続けないことと大いに関係がありそうだ。

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posted by 茂木賛 at 10:18 | Permalink | Comment(0) | アート&レジャー

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