夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


田沼意次の時代

2018年07月29日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 この間「評伝小説二作」の項で、新井白石と荻生徂徠は反目し合っていたとし、“駄目な組織は、バカが仲良く連(つる)んでいるかリコウが反目しあっているかだというけれど、徳川幕府の衰退(「内的要因と外的要因」)は、すでにこの時期にその萌芽があったのかもしれない。二人が膝を突き合わせて徳川幕府の正当性などを論じてくれていたらその後の列島の歴史も変わっていただろうに”と書いたが、その後の歴史を眺めると、十代将軍家治に仕えた田沼意次(1719−1788)の時代、幕府は力を取り戻す最後のチャンスを手にしていたように思える。

 「内的要因と外的要因」の項で、徳川幕府崩壊の内的理由を、

〔1〕武士のサラリーマン化
〔2〕「家(イエ)」システムの形骸化
〔3〕幕府正当性の理論付けが弱かった
〔4〕鎖国により海外情報や交易が限定的
〔5〕AとBのバランス悪し

としたが、『百花深処』<蘭学について>の項でも書いたように、田沼意次の時代、彼が採った(蝦夷地開発やロシア交易までもを射程に入れようとする)積極的な開明政策により、蘭学の知識を背景とした多彩な思想家が活躍、その結果海外の情報が国内に多く入るようになった。たとえば『解体新書』が刊行されたのは安永三年(1774)、平賀源内がエキテルを完成させたのは同五年(1776)。〔4〕が変われば〔1〕から〔3〕や〔5〕にも変化が生じたかもしれない。〔5〕の「AとB」とは、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心 
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

を指す。「反転法」の項でみたように、この時代は社会のB側への傾斜が強かった。列島のA側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。複眼主義では両者のバランスを大切に考える。

 「評伝小説二作」で読みたいと記した『漆の実のみのる国(上)(下)』藤沢周平著(文春文庫)。上杉鷹山(1751−1822)の米沢藩改革を書いた著者の絶筆だが、この本(下)の中に田沼時代への言及があった。武士階級と商人階級との間に一線を引いた八代将軍吉宗の諸政策を記した後、藤沢は次のように書いている。

(引用開始)

 しかしつぎの時代の実力者老中田沼意次は、吉宗がこだわったようには商人階級にへだてをおかなかった。むしろかれらが持つ財力を積極的に政治に利用しようとした。
 意次が九代家重の時代を経て、十代将軍家治治政下の老中として行政的な手腕をふるうようになっても、やったことは吉宗時代の政策の踏襲とみられるものも少なくない。たとえば倹約令の発布、荒地開発、貨幣改鋳といったようなことだが、しかしこれらの政策は、この時代に政策をすすめるためには誰がやってもある程度は同じようなことにならざるを得なかったことであろう。
 だが意次は、吉宗がやらなかったことにも手をつけた。下総国の印旛沼、手賀沼の干拓は、吉宗が手をつけ、財政事情が行きづまって放棄した事業である。意次は行きづまりが幕府の出費でやったがために起こったことを見抜き、これを町人請負の形で再度とり上げた。干拓を請け負ったのは大坂の富商天王寺屋藤八郎、江戸の長谷川新五郎である。
 事業そのものは、このあと天明六年に起きた大洪水による利根川決潰で挫折するけれども、町人の財力を利用した請負い開発は、意次の体面にこだわらない柔軟な行政ぶりを物語るものであったろう。
 また意次の時代に株仲間(株によって同業者の数を制限するためにつくった組合)の公認が急増し、株仲間の公認は商人の利益保護につながる制度であるために、意次と商人たちとの癒着、ひいては収賄がうわさされたけれども、意次は意次で株仲間から上がる運上金、冥加金を、幕府財政をささえる重要な経済政策のひとつとして考えていたのであろう。意次は経済政策にあかるく、政策の実行にあたっては果断なところがあった。
 運上金の吸い上げだけにあきたらず、のちに意次は貸金会所というものまでつくろうとした。全国の寺社、百姓、町人から出資金をつのり、これに幕府の出資金も加えて官制の金貸し機関をつくり、大名に貸し付けようとしたもので、意次が失脚したための日の目を見なかったが、目のつけどころは卓抜で、またきわめて商人的でもある。
 同じく失脚によって実現しなかったが、意次は蝦夷地の大開発とここを足場にした開国貿易を考えていたとも言われ、政権末期にはその調査に着手していた。長崎貿易にも力をいれ、俵物輸出の増加で成功をおさめていただけに、田沼意次の積極的な経済政策は、政権が持続すれば以降のわが国の経済、外交に特筆すべき展開をもたらした可能性がある。
 
(引用終了)
<同書 151−152ページ>

鷹山は地道で堅実だが意次は大胆で山師的だったという評価もある中、藤沢の晩年のこの高評価は興味深い。意次は将軍家治の死とともに失脚、つぎの十一代将軍家斉の治政下、老中松平定信による寛政の改革が始まる。これはしかし意次の政策と違い緊縮財政に偏したものに終わった。

 田沼意次の開明政策によって〔4〕に変化が生じたのに、それが〔1〕から〔3〕、〔5〕に影響を与えなかったのは、変化のボリュームが小さすぎて転移点に達しなかったということなのだろうが、この時代のことをもうすこし微細に研究してみたい。

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新曲のことなど

2018年07月08日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 以前「音楽活動その他」の項で、友人(K-Kodama君)と始めたバンド「HUSHBYRD」のサイトのことを書いたが、新曲を載せたので紹介したい。タイトルは「Cry For Me」。サイトをクリックして「News Songs」の一曲目にある(収められたアルバム「STEP BACK」からも辿ることができる)。
 
 男はフランスとスペインの国境で彼女と別れた。気分一新、バイクでピレネー山脈を越えて北へ向かうものの、心の何処かに悲しい気持ちが残っている。導入部のAメロのピアノが悲しみを表現、ロック調のBメロ・Cメロでバイクの疾走感を描く。途中、不思議なギターサウンドが、心に蘇る悲しい気持ちを彩る。最後、Aメロのピアノが走り去る男の後姿にオーバーラップして曲が終わる。後半、バイクをHONDAと歌うのは勿論ビーチボーイズへのオマージュ。歌詞は(古いけど)寺尾聡の「Reflections」の世界に近いかな。コメント大歓迎!

 また、前回紹介した八ヶ岳の自然を謳った「High & Blue」、Music Videoをアップしたのでチェック(トップページ上覧にある「VIDEO」をクリック)してみて戴きたい。

追記:

 「Cry For Me」は、「On The Border」との組曲となっている。「On The Border」(同じくアルバム「STEP BACK」に収録)は、パリの街角で昔の恋人を見かけた男が、別れた当時のことを回想する内容。その別れた場所が「Cry For Me」と同じフランスとスペインの国境の街。「On The Border」の方が先に出来ていて、こちらはK-Kodama君がAl Stewartを聴いていて作ったEuropian Tasteの軽快な曲。「Cry For Me」は「On The Border」のsituationを借りて、身勝手でクールに振舞うくせに寂しがり屋な男を描こうとした。両方の曲に「ピレネー山脈」がキーワードとして使われている。

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関東学

2018年06月04日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『日本史への挑戦』森浩一・網野善彦共著(ちくま学芸文庫)という本がある。副題は“「関東学」の創造をめざして”。第一刷発行は2008年12月(大巧社のハードカバー版発刊は2000年8月)。まず本の帯表紙、カバー裏表紙の紹介文を順に引用しよう。

(引用開始)

「関東」から日本を問う
いま明らかになる、その豊かな個性と潜在力

「関東」は、日本史のなかでは鄙の地として、奈良や京都のはるか遠景に置かれてきた。しかし、この地に鎌倉幕府が置かれ、江戸幕府が開かれたのは偶然ではなく、関東に大きな潜在力があったからである。――古代考古学と中世史の二人の碩学が、関東という地域社会の独自な発展の歴史を掘り起こし、日本列島の中で、また東アジア、アメリカ大陸との交流も視野に入れて、その豊かな個性を明らかにする。地理的な特徴、交通と交易、独自な産業、渡来人の文化、宗教の系譜など、さまざまな視点から関東の歴史を語り、新たな「関東学」の地平を開く、刺激的な対論。

(引用終了)

 先日「古代史の表と裏 II」の項で、“(1)は、古代海洋国家群を通過して、或いはさらに北から、時計回りに内陸に入ってきた遊牧民族を祖に持つと思われる”と書いたが、この本の中に、そのことにつながる叙述がある。ここで(1)とは、列島の父性(国家統治能力)の源泉、

(1)騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2)乗船文化=武士思想の一側面 
(3)漢字文化=律令体制の確立
(4)西洋文化=キリスト教と合理思想

における(1)騎馬文化を指す。

(引用開始)

 「関東学」の対象になる範囲は、さきほど網野さんからでましたので、そういう地域に、なにか地理的な特徴がないかと思って考えたのですが、東西だけではなく南北にずうっと続いているのが関東ではないでしょうか。(中略)
 それから北のほうは、山越えをすると新潟のほうへでて日本海沿岸につながります。このルートは非常に重要ではないかと思います。日本海の方面から入ってきた大陸の文化、主に朝鮮半島や華北の文化だと思うのですが、そういうものがたとえば群馬のあたりに影響する。だから群馬の高崎市にある綿貫観音山という前方後円墳からは、近畿ではみないような遺物が出ています。その一つに銅製の水瓶があるのですが、その発掘があってしばらくして、中国山西省の北斉の墓で、ほとんど同じものが出たのです。北朝につながる文物といってよいでしょう。その目でもう一度見直すと、観音山古墳には「三人童女」と俗に呼んでいる若い少女が三人、一つの楕円形の敷物に座っている埴輪があります。その埴輪をよく見ると、スカートの先端にレースのようなものがついている。これなどは北魏の雲崗の石窟の、横に描かれている供養者の女人のスカートに非常によく似ています。おそらく鮮卑族の女性の服装につながるものでしょう。そうすると観音山古墳というのは、日本列島のなかでのつながりはどうか。もちろん埴輪という目でみれば日本列島のなかのものになるけれども、埴輪に表現されている女性の衣装などを見た場合に、朝鮮半島を飛び越えて北魏につながるものも出てくるわけです。北魏は北から南下して大同から都を洛陽に移します。そして洛陽にきたら、みずから漢人との融合を政策としたとされている。だから北魏は日本の歴史ではあまり関係を評価されていません。ところが北魏のことを書いた『洛陽伽藍記』を読んでいたら、洛陽の都には扶桑館があって、「東夷」に人たちがそこに住んでいる、とある。一種のゲストハウスですね。国家対国家の正史にのこるような交渉があったかどうかはともかくとして、商人たちの交渉はあったと思いますね。そういうふうに北からの文化も入ってきます。だから群馬県には、渡来系の人たちが集中して住み、そのために一つの群をつくった多胡郡という地域があって、中国の六朝に流行した形の碑がたっています。この碑はそのルートからの影響をうけたものだろうと思います。
 つぎに、これは当然ですが、東西の道ですね。東の道はのちの白河関への道、そして海岸通りの勿来関、古くは菊田関とよばれていた関を通る道など数本の道があると思うけれども、エミシ(蝦夷)との交流の道になっていて、東ないし北から人びとや品物の入ったルートでしょうね。(中略)「蝦夷」といえば東北のことだと思い込んでいる文献学の人がいるように思いますし、考古学者にもそれに輪をかけてそう考えている人がいます。しかし七、八世紀、あるいは九世紀ころの文献を断片的にみても、エミシとの衝突をしているときもあれば、交易をしている状況もあるから、関東のなかでのエミシの問題やエミシとの交流については、いままであまり意識されていないと思います。これは大いにやらなくてはいけないでしょう。
 西方へのルートは、ふつう碓氷峠とか箱根や足柄からのルートを考えるけれども、それ以外にも、長野や山梨県から埼玉県や群馬県へ入る小さな山道は、相当多いですね。大きなルートは今日の中央線沿いや信越線沿いのルートですが、それ以外にも多くの道があります。何年か前、小渕前首相〔当時〕の出身地の群馬県中之条町によったら、天神や川端という弥生遺跡がほぼ今日の集落に重なるようにしてあるのを知りました。町の歴史館に陳列してある遺物を見ても、関東屈指の弥生集落で、このとき交通路の重要さを改めて感じました。中之条は西へ行くと鳥居峠をこして長野県の上田へ通じているし、草津を通って北方の新潟、つまり日本海方面にも行けるところなんです。弥生時代といっても、米の生産だけでなく、交通上の要地であることも富の一部だったのですね。
 そして長野には、高句麗系の王族を中心にした大集団が一つの郡(高井郡)をつくっています。高井郡には日本の積石塚の半分ぐらいは集中している。そういう集団のさらに拡張したというか、周囲に広まったのが、山梨の渡来系の集団です。山梨は二十年ほど前まで積石塚はないといわれていたけれど、最近は県の西部にたくさん見つかっています。以前は積石塚というのは、四国の石清尾山古墳群のような大きな板状の石を積んだものが連想されていたのでしょうね。さらに東京都の狛江市のあたりまで広がっていて、霊亀二年(七一六)に武蔵国に高麗郡ができたのです。
 長野県の高井郡には高井氏という、高句麗にあっても国王の家柄、一代目の朱蒙(鄒牟)という伝説上の始祖王の子孫を唱える、高句麗でも名門の一族が移ってきています。しかも有力な家来衆を従えてきていて、卦婁、後部、前部、下部、上部など高句麗での名前もずっと残っています。それが西から関東へくる道ぞいの状況です。

(引用終了)
<同書 61−73ページ(フリガナ及び注省略)>

長い引用になったが、越や北陸の古代海洋国家群を通過して、或いはもっと北方から、時計回りに関東に入ってくる遊牧民族の様子がよくわかる。『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)89ページにあるように、彼らは海を渡った後、先達が築いた川沿いの石墳墓や天空の星を道しるべに内陸へ移動しただろう。

 狩猟や騎馬文化、武士のルーツについての話もある。

(引用開始)

網野 もう一つは、関東について狩猟について考えてみたほうが良いと思います。さきほどもいったように将門と牧の関係も深かったといわれていますが、幕府成立直後に頼朝の行った富士の裾野での大規模な巻狩は、東国の王権の性格をよく示していますね。牧を背景にして馬を飼育し、騎馬で狩猟をやるわけです。これも関東の大事な文化要素です。
 前の話と関連させますと、『延喜式』には武蔵国の檜前馬牧をあげていますが、この牧は浅草付近ではなく、美里町駒衣付近に想定してよいでしょう。美里町の白石古墳群や後山王遺跡からは、立派な馬の埴輪が出土していて、馬牧がおかれたとしてもおかしくない環境です。(中略)
 埴輪にはかなり地域的特色があります。それをいままで地域的特色としてはとらえていません。つまり日本文化をいうときに、ならしてしまって、関東にはこういう例がある、群馬にはこういう例がある、とほかの土地にもあるかのように扱うけれども、これもきちっととらえ直さなければいけないですね。なぜ人物や馬の埴輪が関東に多いか。馬の埴輪なんて、全国の出土数の九割は関東に集中しているでしょう。(中略)
網野 狩猟はもちろん中世でも全国でやっていますし、九州も盛んだったと思いますが、関東の狩猟は非常に長く深い伝統があるのでしょうね。ですから頼朝が政権を樹立すると、まず最初に関東の原野で大規模な巻狩をやって大デモンストレーションをします。(中略)
 馬に乗って弓を射るということから考えると、明治や大正の時代に書かれた関東についての諸論文についての評価というか注目度が弱いといえます。たとえば、大正七年(一九一八)に鳥居龍蔵先生が雑誌『武蔵野』にお書きになった「武蔵野の高麗人(高句麗人)」、あれは短い文章ですが、みごとに問題提起をした論文ですね。武蔵野には高句麗系の高麗氏が住んでいる、そしてそれが武蔵野の武人になるという流れで書いています。そういう発想はその後あまりないのですね。十年ほど前に埼玉県行田市の酒巻一四号墳で、馬のおしりに旗を立てた埴輪、まるで高句麗の壁画に描かれている馬を埴輪にしたようなものが、初めて出ました。埴輪の旗ですから一センチぐらい分厚いものですけど、あのときに「大和に出ればおかしくないけれど、なぜ埼玉に出たのだろう」という新聞談話がありましたが、なぜ鳥居先生の有名な論文を読まずに発言したのかと。鳥居論文を読んでいれば、「鳥居龍蔵先生が大正時代に見通されたとおりのものが出ました」でよいわけでしょう。

(引用終了)
<同書 146−152ページ(フリガナ及び注省略)>

 関東学の対象はもちろん古代だけではない。この本には中世や近世に関する興味深い話も多く載っている。森氏の「文庫のためのあとがき」によるとこの対談が行われたのは1999年10月。いまでは両著者とも鬼籍に入られたが、このような地域学研究はその後も続いたのだろうか。いろいろと調べてみたい。

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古代史の表と裏 II

2018年05月23日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『古代の技術を知れば「日本書紀」の謎が解ける』長野正孝著(PHP新書)が出版された(2017年10月)。長野氏には「古代史の表と裏」の項で紹介した『古代史の謎は「海路」で解ける』(2015年1月)、『古代史の謎は「鉄」で解ける』(2015年10月)が既にある。当著は続編の体裁。概要把握のためにその紹介文を、帯表紙、カバー表紙裏、帯裏表紙の順で引用しよう。

(引用開始)

<技術者の「知」が古代史研究の盲点を突く>
出雲、丹後、敦賀などの『古代海洋王国』が消された理由がよく分かった。(ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者竹村公太郎氏推薦)

日本最初の正史である『日本書紀』には頻繁に軍隊の派遣がある。当時の交通の技術を考えれば、特に冬季における軍隊の移動が難しいことは明白であるにも拘わらず、なぜ冬場の行軍の記述が多くあるのだろうか? また、対馬で二世紀ごろから海の安全を祈る太占(ふとまに)やアマテラスの信仰が行われていたこと、そして、出雲や丹後が交易で栄えていたことに、『日本書紀』はなぜ触れていないのか? 津島、壱岐、丹後、敦賀など現地を訪れ、技術者の視点で先入観を排して分析すると、『日本書紀』の実質的な編纂者である藤原氏の深謀が明らかになった。古代史研究の盲点を突く意欲作。

第一章 出雲はなぜ泡(うたかた)の国とされたのか
第二章 海路でつながる壱岐、沖ノ島の神々
第三章 神功皇后の九州遠征――奪われた九州の遺産(レガシー)
第四章 「倭の五王」の国・出雲王国
第五章 神武東征――国威発揚と国土荘園化
第六章 虚構から現実の歴史に――継体天皇の淀川凱旋
第七章 隠され、無視され続けた古代海洋王国群
第八章 解けた巨大古墳群の謎――百舌鳥・古市古墳群考察
第九章 『日本書紀』の呪縛を解く

(引用終了)
<引用者によって括弧などを追加>

 「古代史の表と裏」の項では、“日本古代外史を考える際の鍵は、正史であるところの『日本書紀』からどれだけ離れて真実を探ることができるかだ(長野氏は正史を「中央史観」と呼ぶ)”と記した。当著で長野氏は、八世紀に書かれた『日本書紀』のトリックを「郭公(かっこう)の托卵の技」として解く。それは、

(引用開始)

 ご存じの通り、鳥の郭公は他の鳥の巣に卵を産む習性がある。その雛は他の卵より早く孵り、遺伝子に組み込まれた行動で、目の見えないうちから他の卵を巣から蹴り出してしまう。親は知らないから、この残った雛を大切に育てる。藤原氏は、このようにして他の氏族の神を自分の氏神にする替え、消したり、移したりした。藤原氏が舞台の配役を代え、その配役がスターになってゆく仕掛けである。

(引用終了)
<同書 87ページ(フリガナ省略)>

ということ。対馬や壱岐、九州北部、丹後や敦賀などで信仰されていた地元の神々を、中央の神話に取り込みながら、天孫降臨や神武東征、神功九州遠征などのストーリーを創作し、その末裔が列島を支配する今の王権であるかのように見せ、地方豪族がその権威に服従するように仕向けると同時に、対外的には王権の正当性を主張する。同族会社を乗っ取るのに、家系図に細工して、周囲に自分が古くからの一族の末裔であることを信じ込ませる手口とそっくり。

 「古代史の表と裏」の項では、“当初日本列島には、海岸地域に暮らす海洋民族(おそらく朝鮮半島のそれと同類)、内陸に暮らす狩猟民族がいただろう。それが半島と交易するなかで、農耕民族、遊牧民族が移入し、彼らの文化、居場所が形成される。その後、各民族が棲み分け、共生、あるいは戦いながら各々の文化を熟成、列島で鉄が作られ始める紀元七世紀ごろより、日本は半島・大陸から離れて独自の民族的発展を遂げてゆく。各民族文化のブレンド具合が今に繋がってくるわけだ”とも書いた。長野氏は当著で、このなかの「海洋民族」としての倭人にスポットを当て、彼らが日本海側を中心に作り上げた「古代海洋王国群」を丁寧にトレースする。氏によると、『三国志』(東夷伝倭人の条)の卑弥呼や『宋書』(倭国伝)に記された倭の五王(讃・珍・済・興・武)の国々は、共にこの古代海洋王国群に含まれるという(卑弥呼は丹後、倭の五王は出雲か)。この説は、『魏志倭人伝の謎を解く』渡邊義浩著(中公新書2012年5月)、『倭の五王』河内春人著(中公新書2018年1月)といった最近の学者の研究と照らし合わせても矛盾がないように見える。鍵は瀬戸内海横断航路がいつ開通したかだ。

(引用開始)

 簡単に説明すれば、手漕ぎの舟は潮流が約二ノット(時速三・八キロメートル)を超えると、物理的に前に進めない。瀬戸内海にはマラソンランナーと同程度の流速があり、数多くの岩礁がある。具体的には、最強時には関門海峡で時速十七・四キロメートル、大畠瀬戸で時速一二・八キロメートル、来島海峡で時速一九・一キロメートル、備讃瀬戸で時速六・三キロメートル、明石海峡で時速一二・四キロメートル、鳴門海峡で時速一九・四キロメートル。この海を、手漕ぎの船団で隊列を組んで航行を始めるには手助けがないと無理がある(潮流の数値は海上保安庁海洋情報部)。古代も大きくは違っていなかっただろう。
 さらに、瀬戸内海には水がない島が数多くある。東西の瀬戸内海が通れるようになったのはいつか? 拙著『古代史の謎は「鉄」で解ける』で述べたが、四世紀末から五世紀初めである。瀬戸内海で最も航海が難しい芸予諸島の遺跡から、いつ頃、鉄器が発見されたかでわかる。
「神武東征」が弥生時代であれば、瀬戸内海には高地遺跡が数多くあり、船団でも通ろうものなら島から弩による攻撃が行われただろう。その状況を示している遺跡もある。
 この海は、「渡しの神」の助けがなければ、食料も水も得られない。ここの海の航行が難しかったからである。ここの神々は対馬や壱岐を中心とする神々とは違う。天気予報は必要なかったが、必要なのは急流の中で船を操る神業であった。

(引用終了)
<同書 152−153ページ(フリガナ省略)>

 文芸評論『百花深処』では、列島の父性(国家統治能力)の研究を続けており、その源泉として、

(1)騎馬文化=中世武士思想のルーツ
(2)乗船文化=武士思想の一側面 
(3)漢字文化=律令体制の確立
(4)西洋文化=キリスト教と合理思想

を挙げているが、古代海洋国家群は、このうちの主に(2)が形作られるのに貢献しただろう。ちなみに、(1)は、古代海洋国家群を通過して、或いはさらに北から、時計回りに内陸に入ってきた遊牧民族を祖に持つと思われる。

 『日本書紀』を信じている人は列島の本当の歴史を知らない。『日本書紀』は藤原政権に有利になるように真実を隠してしまった。権力者による歴史の改竄。列島ではそれ以降もたびたび同じような手口が繰り返されてきたのではないか。これからも様々な時代の歴史の裏を探っゆきたい。

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評伝小説二作

2018年05月05日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「音楽活動その他」の項で、列島における父性(国家統治能力)の系譜を辿る研究の一環として江戸時代の思想家たちに嵌っている、と書いた。読んでいるのは、思想家たち自身の著書(現代語訳)や彼らに関する評論が主だが、彼らを主人公にした評伝小説も、思想背景や時代の雰囲気を知る上で参考になる。興味をお持ちの方のために、ここで、最近私が読んだ二作品を紹介したい。

 一作目は、新井白石(1657−1725)を描いた『新装版 市塵(上)(下)』藤沢周平著(講談社文庫)。カバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 貧しい浪人生活から儒者、歴史家としてようやく甲府藩の召し抱えられた新井白石は、綱吉の死後、六代将軍家宣となった藩主とともに天下の経営にのり出していく。和漢の学に精通し、幕藩改革の理想に燃えたが、守旧派の抵抗は執拗だった、政治家としても抜群の力量を発揮した白石の生涯を描く長編感動作。(上)

 内政外交の両面で新井白石は難題に挑んでいく。綱吉時代に乱れた経済立て直しのための通貨改革、朝鮮使節との交渉。国のため、民のために正論を吐く白石だが、その活躍ぶりを快く思わない政敵も増えた。そんななか、白石を全面的に庇護してきた家宣の死で、白石の運命は、また大きく変わることとなった。(下)

(引用終了)
<フリガナ省略>

藤沢周平の略歴をカバー表紙裏から引用しておく。

(引用開始)

1927年、山形県生まれ。’73年「暗殺の年輪」で直木賞を受賞し人気作家となった。’86年「白き瓶」で吉川英二文学賞、’90年「市塵」で芸術選奨文部大臣賞。’97年、69歳で死去。上杉鷹山を描いた「漆の実のみのる国」が絶筆となった。

(引用終了)

このブログでは、以前「庄内弁の小説」の項で、氏の『春秋山伏記』を紹介したことがある。

 二作目は、荻生徂徠(1666−1728)を描いた『知の巨人 荻生徂徠伝』佐藤雅美著(角川文庫)。こちらもカバー裏表紙の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 江戸時代中期、儒学の世界を根底から覆した学者、荻生徂徠。幼い頃から書物に親しみ、父の江戸追放で上総に逼塞するも、独学で学問を身につける。その才と学識の深さから柳沢吉保に取り立てられ、徳川吉宗の政治にも影響を与えた。貧困、学者からの無視、妬み交じりの反撥……どんな苦境にも学問への情熱を絶やさず、近代思想の礎を築いた不屈の天才。彼が追い求めた思想と、その生き様を描いた歴史小説の金字塔。解説・宇野重規

(引用終了)

佐藤雅美の略歴もカバー表紙裏から引用しておく。

(引用開始)

1941年兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒。雑誌記者を経て作家となる。85年『大君の通貨』で第4回新田次郎文学賞、94年『恵比寿屋吉兵衛手控え』で第110回直木賞を受賞。主な近著に、『御奉行の頭の火照り 物書同心居眠り紋蔵』『美女二万両強奪のからくり縮尻鏡三郎』等がある。

(引用終了)

 新井白石と荻生徂徠、二人は徳川時代中期、四代将軍家綱から八代吉宗までの時代を共に生きた。年齢差は9歳(白石が年長)。しかし白石は徂徠を「風変わりなことをやるただの酔狂者」と見ていたようだし、徂徠は白石のことを文盲と罵っている((『知の巨人 荻生徂徠伝』193−194ページ)。駄目な組織は、バカが仲良く連(つる)んでいるかリコウが反目しあっているかだというけれど、徳川幕府の衰退(「内的要因と外的要因」)は、すでにこの時期にその萌芽があったのかもしれない。二人が膝を突き合わせて徳川幕府の正当性などを論じてくれていたらその後の列島の歴史も変わっていただろうに。二人の考え方の違いについては、『荻生徂徠「政談」現代語訳』尾藤正英抄訳(講談社学術文庫)に載っている訳者の「国家主義の祖型としての徂徠」が興味深い。

 『市塵(上)(下)』と『知の巨人 荻生徂徠伝』、思想家の評伝だから内容は地味だが、どちらも文芸評論(『百花深処』)で展開している列島の父性(国家統治能力)の系譜を巡る研究に役立たせてもらった。そちらも併せて読んでみて戴きたい。そういえば、思想家以外の評伝、「経営の落とし穴」で紹介した『天地明察』(数学者・渋川春海の評伝)も、徳川時代を考える上で大いに参考になった。同じ作家(冲方丁)の『光圀伝(上)(下)』(角川文庫)、あるいは藤沢周平の『漆の実のみのる国(上)(下)』(文春文庫)なども面白そうだ。入手して読んでみたい。

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音楽活動その他

2018年04月07日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 コンサルの仕事の手を休めてから、音楽活動(といっても作曲と録音)を始めた。学生時代にバンドを組んでいた友人(K-Kodama君)と再開したもので、唄は下手だがホームページなども作って楽しんでいる(サイトはこちら)。バンド名は「HUSHBYRD」。最新曲「High & Blue」は八ヶ岳の自然を謳ったもの。

庭園・芸術都市」たる「国家の理念(mission)」を実践すべく始めた活動(大げさ!)、コメントなどで応援していただけると嬉しい。ホームページでは歌詞(音符マークをクリック)を見ながら楽しむこともできる。八ヶ岳近辺の写真もある(「GALLERY」をクリック)。

 また、ここのところ文芸評論(『百花深処』)にも力を入れている。こちらは列島における父性(国家統治能力)の系譜を辿る研究。最近は江戸時代の思想家たちに嵌っている。併せてお読みください。

 昨日、スタジオジブリの高畑勲監督の訃報に接した。二年ほど前、「日本アニメの先進性」の項で『かぐや姫の物語』ついて書いた。ご冥福を祈る。

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反転法

2018年02月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「徳川時代の文化興隆」の項で、徳川時代中期以降に関し、“社会全体として(A側とB側の)バランスを欠いていても、そこで生まれた文化・芸術(浮世絵など)は、やがて西洋に影響を及ぼすまでになる。「日本語的発想」のユニークさ、奥深さには興味が尽きない”と書いたが、この日本語的発想を支えた認識法に、以前『百花深処』<反転同居の悟り>の項で紹介した、「反転法」というものがある。臨済宗大徳寺派の僧一休宗純に発し、千利休によって茶道に持ち込まれたものだ。全文はそちらを参照いただきたいが、同項から一部をここに引用しておこう。

(引用開始)

 「反転同居」とは、正反対の存在が隣り合い、時には正が反を内に包み、時には反が正を内に包み込むような関係性であり、その悟りとは、その背中合わせの対立物の只中に、平然と座して動じない仏教的信条を指す。負けて勝つというか、勝って負けるというか。いづれにしても小乗的な個人救済の思想であり、大乗的な大衆救済とは異なる。(中略)

弁証法:正・反・合による進展
反転法:正・反の反転
対極法:正・反対立の持続

この三つの「対立物の関係認識」は面白い。たとえば、『〈運ぶヒト〉の人類学』川田順三著(岩波新書)にある、文化の三角測量(フランス文化、日本文化、旧モシ王国の比較)における、ヒトと道具の三つのモデル、

A=道具の脱人間化(フランス文化)
B=道具の人間化(日本文化)
C=人間(人体)の道具化(旧モシ王国)

を思い起こさせる。Aは弁証法による環境の普遍化、Bは反転法による環境と人間の一体化、Cは対極法による環境と人間の対立の持続。

 藤森氏は、この反転同居の悟りのことを、『つなぐ建築』隈研吾著(岩波書店)における隈氏との対談の中で「うっちゃり」と表現している。利休が活躍した安土桃山はイエズス会など西欧の思想が入ってきた時代だ。隈氏は、利休にそれが出来たのはヨーロッパとの出会いが大きかったのではという。西洋の弁証法を知ったが故に、それとは別の独自の反転法(うっちゃり)に辿り着くことができたというわけだ。

 隈氏は、その著書『小さな建築』(岩波新書)で、自作「ふくらむ茶室」は主従の序列を否定した回転型の構造を持つという。茶室には水屋が付き物だが、この二つは主従関係、序列関係にない。客と主人の空間は、陰陽ダイヤグラムのごとく、互いに攻めあい、えぐりあいながら回転する。だから利休の反転法は、回転法でもあるという。

(引用終了)

正・反という対立物は新しい合へと統一せず、離れてにらみ合いもせず、隣り合い、時には正が反を内に包み、時には反が正を内に包む。環境と人とが一体化して反転し続けるユニークな認識法。

 徳川文化の特色を描いたものに、『江戸の想像力』田中優子著(筑摩書房)という本がある。そのなかの「俳諧」に関する考察を引用したい。

(引用開始)

 俳諧は俳句ではない。俳諧は五七五の発句に七七の付句をし、また五七五の第三句をつけて、最後の挙句まで続けてゆく。それは座と呼ばれる場で行われる、一回的な興行(パフォーマンス)であり、しかも複数の人間が相互の関係を即興的に作りながら出来あがってゆく詩である。近代詩の概念にこれほど遠い詩もない。他の作者の作った前の句には、付きすぎも離れすぎもしないよう、細心の注意を払いながら付けてゆかなくてはならない。なぜなら、離れすぎれば「連」ではないただの「別の句」になってしまうし、付きすぎれば、「連」として後へ開かれてゆかない「同じ句」になってしまうからである。こうしてはじめて、他と同じものではない、だからといって他と別のものでもない個々の存在、というものが生まれ、それが生まれることによってはじめて、それらが「連なってゆく世界」が出来上がる。こうして連なる世界では、時間的には前のものに付けてゆく、という順番をとるのだが、前のものが後のものを生み出す、というだけにはならず、後のものが、前のものの意味を変えてしまう、ということが起こる。(中略)
 まず連句では、こうしてひとつの句は別の句の存在によって成り立っている。またひとつの句は別の句を存在させ、それに意味を与えたり付け加えたり変えたりする。ひとつひとつを全体から切り離して論ずることはできず、ということは、ひとりの作者を、他の作者や「座」から切り離して論ずることもできない。これらをひとくくりにしてフレームを与え、完結したものとして論ずることも、とても難しい。それが何句で終結していようと(たいては三十六句だが)、また続けようと思えば続けることができるほど、その世界は外に向かって開かれているからだ。こうして連句は、連なる、という方法を作品の内の論理としてもっている。

(引用終了)
<同書 73−76ページ>

連という方法と座という場によって成り立つ俳諧の認識法は、中世以来の反転法と重なるように思われるがいかがだろう。

 反転法は、この本の後半にある列挙という「ひたすら並べる精神」とも関係がありそうだ。「尽くし、競べ、道行、双六、絵巻」などの羅列の型式。マテオ・リッチなどの世界地図について述べた「第四章 世界の国尽くし」から引用する。

(引用開始)

 地図はやがて「国尽くし」「国競べ」「世界双六」になっていった。日本の世界認識はなぜそのようなかたちをとるようになるのだろう。「知」を組み立ててゆくのではない。ましてや種や類や属を立てて、その中に分類してゆくのではない。知を羅列してゆく、ひたすら並べてゆくのである。分類の発想になれてしまった我々から見ると、近世以前の表現の中に見られるこの「ひたすら並べる」精神は、驚きである。(中略)白石は『神輿万国全図』にブラウ地図を並べ、オランダ人とイタリア人と日本人を並べ、カトリックとプロテスタントを並べ、キリスト教に仏教と儒教倫理を並べて、すべてを相対化し、結局もっとも現実的な判断をする。(中略)思想家たちの系譜でいえば、荻生徂徠は聖人という超人間的なものを想定することによって儒教の絶対性をまぬがれ、本居宣長は神という超価値的なものを設定することによって、どんな思想体系や政治体制も、歴史の自然な流れのひとつのめぐりあわせにすぎないことにしてしまった。つまり、どうやら日本近世は、相対化というメカニズムを働かせるために様々な方法をもっていたらしいのだ。ものごとに意味付けし、価値を認め、価値の上下をつけ、あるものに絶対の位置を与えたり、逆にあるものを排除したり、体系を作りあげたりするのではなく、今、人を引きとめ、凍りつかせ、固まらせているものがあると、それを徹底的に相対化してしまう、という機構を、思想の習慣としてもっていたようなのだ。むろん、今あるものを相対化しても、その後に新たな価値づけや、新たな体系の組み変えが行われるわけではない。なぜなら、結局どれも相対的なのだから、相対化作業の最後に、絶対の切り札が出てくるわけはないのだ。何かが選ばれるとしても、それはその場の「よりよいもの」にすぎないし、その判断は、おおかた現実的な判断に拠っている。そのような「柔軟化作用」ともいうべき機構を、彼らはもっていた。それは「俳諧」の方法ともつながっているかもしれない。
 この「相対化」「柔軟化」のためにはいろいろな道具を用意していたはずだが、「並べる」というやり方も、そのひとつであったような気がする。

(引用終了)
<同書 230−234ページ>

列挙は、相対化、柔軟化によって、対立物に反転の契機を探ろうとする精神態度のようだ。このあと同書は「第五章 愚者たちの宇宙」で、列挙が相対化という機能を果たした事例として上田秋声の『春雨物語』を挙げ詳細を論じている。興味のある方は本文に当たって戴きたい。

 反転法はこのように徳川文化の興隆を支えたと思われるが、これを複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

で考えてみよう。列島のA側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。複眼主義では両者のバランスを大切に考える。

 反転法は一休や利休の「漢文的発想」に基づくA側の認識法だが、徳川時代その担い手は学者や商人たちであり、国家統治とは縁遠い文化・芸術面においてその効力を発揮した。反転法は非体系的だから国家統治には向かないのだろう。徳川時代末期、西洋の英語的発想=弁証法が漢文的発想に置き換わってゆくと、蘭学や陽明学といった別のA側思想が力を付け幕府政策に影響力を持ってくるが、それまでの間、平和が続いた社会は全体的にB側への傾斜が強かったというわけだ。

 最後、参考までに、「複眼主義美学」で纏めた「日本人の思考と美意識」を再掲しておこう。 

日本人の思考と美意識:
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日本古来の男性性の思考は、空間原理に基づく螺旋的な遠心運動でありながら、自然を友とすることで、高みに飛翔し続ける抽象的思考よりも、場所性を帯び、外来思想の習合に力を発揮する。例としては修験道など。その美意識は反骨的であり、落着いた副交感神経優位の郷愁的美学(寂び)を主とする。交感神経優位の言動は、概ね野卑なものとして退けられる。
-------------------------------------

-------------------------------------
日本古来の女性性の思考は、時間原理に基づく円的な求心運動であり、自然と一体化することで、「見立て」などの連想的具象化能力に優れる。例としては日本舞踊における扇の見立てなど。その美意識は、生命感に溢れた交感神経優位の反重力美学(華やかさ)を主とする。副交感神経優位の強い感情は、女々しさとしてあまり好まれない。
-------------------------------------

 芸術作品は、内部に独自のA側とB側のバランスをもっている。作者によってA側(構成など)がより面白いもの、B側(描写など)が印象的なもの、双方のバランスが絶妙なものがある。さらに交感神経優位の遠心運動系、副交感神経優位の求心運動系といった美意識の違いもある。これらの対比に関連する『百花深処』<迷宮と螺旋>の項なども併せてお読みいただきたい。

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徳川時代の文化興隆

2018年02月10日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回「教義と信仰」の項で、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

において、徳川幕府初期、両者(A側とB側)のバランスは程よく保たれていたと書いた。列島のA側は長く漢文的発想が担っていたが、戦国時代以降、漢文的発想と西洋語的発想とは共存、その後長い時間をかけて漢文的発想は英語的発想に置き換わってゆく。複眼主義では両者のバランスを大切に考える。

 しかし、「経営の落とし穴」や『百花深処』<近世の武士について>の項で見たように、徳川時代中期以降、武士は官僚化、サラリーマン化し、幕府が導入した朱子学は停滞、A側の新しい発想は学者や商人たちが局所的に担うようになる。『百花深処』<預治思想について>の項で触れた鎖国政策も手伝って、社会全体は次第にB側への傾斜を強めてゆく。

 『文明としての徳川日本』芳賀徹著(筑摩書房)という本などを読むと、その芳醇な在りようがよく見える。新聞の書評を抜粋引用しよう。

(引用開始)

 「江戸時代」とはいわず、「徳川日本」という言葉にこだわっているのには理由がある。徳川日本を一つの独立した文明体として捉えるべきだと、著者が考えているからだ。
 この主張の根底には近代とは何かという問いかけがあるのであろう。明治以降、日本は西洋に倣い、近代社会の構築に成功した、と言われている。しかし、この認識の共有には一つの落とし穴が待ち受けている。政治制度や経済構造については「古くて」「遅れた」ものが「新しくて」「先進的」なものに取って代わられたとの解釈が成り立つとしても、文芸や習俗、道徳や信仰の話になると、文化アイデンティティという問題がたちまち炙り出されてしまう。
 かつては、幕府時代は自由を抑圧する封建社会と見なされ、近代化は個人を封建的な社会関係から解放する過程だと考えられていた。それに対し、近代への歴史的転換は明治になって一夜のうちに成し遂げられたのではなく、徳川時代においてその準備が既に整えられているとする見方がある。両者はまったく相反するように見えるが、個人主義や合理主義に代表される「近代性」を普遍的価値とし、西洋の基準で日本の近世を眺めている点では変わりはない。
 前者に対し、著者はもとより歯牙にもかけないが、かといって、後者のような論にも与しない。そのかわり、十七、十八世紀の日本と西洋を比較することによって、「近世」と「近代」とを相対化し、価値中立的な立場から眺めようとしている。
 歴史の大きな流れから時代精神を捉えるかわりに、文化の移り変わりを映し出すさざ波に注目した。美術、詩歌から博物学や蘭学にいたるまで、今日なお強い光芒を放つ作品群を紹介し、時代の先駆者たちの横顔を精神史の天幕にくっきりと浮かび上がらせた。(後略)

(引用終了)
<毎日新聞 10/8/2017(フリガナ省略)>

紹介されているのは、「洛中洛外図屏風」、俵屋宗達「風神雷神図屏風」、松尾芭蕉、貝原益軒、杉田玄白、俵屋宗達、平賀源内、與謝蕪村、渡辺崋山などなど。

 社会全体として(A側とB側の)バランスを欠いていても、そこで生まれた文化・芸術(浮世絵など)は、やがて西洋に影響を及ぼすまでになる。「日本語的発想」のユニークさ、奥深さには興味が尽きない。これからもいろいろと見ていこう。徳川時代の出版物について書いた「江戸時代のベストセラー」の項も参照していただきたい。

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江戸時代のベストセラー

2017年09月18日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 必要あって江戸時代に関する文献を各種読んでいる。最近読んだ『江戸のベストセラー』清水惠三郎著(洋泉社)という本は、江戸時代に流行った書物12冊を取り上げて、著者の略歴や本の内容、出版の背景や出版社の事情などを記したもの。その12冊を目次順(出版年順)にみると、

『嵯峨本』角倉素庵 <慶長9(1604)年頃>
『塵劫記』吉田光由 <寛永4(1627)年頃>
『好色一代男』井原西鶴 <天和2(1682)年>
『武監』松会三四郎 <貞享2(1685)年>
『曽根崎心中』近松門左衛門 <元禄16(1703)年>
『養生訓』貝原益軒 <正徳3(1731)年>
『解体新書』杉田玄白 <安永3(1774)年>
『吉原細見』蔦屋重三郎 <天明3(1783)年>
『東海道中膝栗毛』十返舎一九 <享和2(1803)年>
『南総里見八犬伝』滝沢馬琴 <文化11〜天保12(1814〜41)年>
『東海道四谷怪談』鶴屋南北 <文政8(1825)年>
『江戸繁昌記』寺門静軒 <天保3(1832)年>

ということで、有名どころが並んでいる。

 著者の清水氏は雑誌プレジデントの元編集長。ジャーナリスティックな目で江戸時代の出版活動を概観しているところがユニーク。本帯表紙には、“武家名鑑、算術指南書、健康読本、江戸タウンガイド、ファンタジー小説、ホラー小説、生活実用書、遊郭風俗ガイド……、発禁処分続出!現代に通じるヒットの秘密!!”とある。

 それぞれ章の巻頭には、『嵯峨本』:洛中有数の素封家にして知識人が創り出した「豪華本」への憧憬、『塵劫記』:技術大国ニッポンへの道を拓いた和算入門のバイブル、『好色一代男』:稀代の好色男を狂言回しに江戸の享楽を活写したベストセラーの嚆矢、といったキャッチが掲げられている。『武監』:幕府体制の実用書、代表的な江戸土産でもあった江戸の武家名鑑、『養生訓』:読み継がれること300年!「健康書」の超ロングセラーはいかにして生まれたか、『解体新書』:近代医学の曙となった江戸のプロジェクトX、『ターヘル=アナトミヤ』翻訳、『東海道中膝栗毛』:衆道の凸凹コンビが繰り広げる珍道中が大ヒットした理由、『南総里見八犬伝』:終われないのは江戸の昔も同じ!元祖ドラゴンボールの憂鬱、『東海道四谷怪談』:200年の時空を超えて、「平成の夏」を戦慄させる江戸のモダン・ホラー、『江戸繁昌記』:貧乏儒者のコンプレックスが生んだ漢文専門書のベストセラー、と続く。他の文献と併せ江戸社会を知る手掛かりとしたい。

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荷風を読む

2017年08月28日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 この夏、『老いの荷風』川本三郎著(白水社)という本を読んだ。川本氏は永井壮吉(ペンネーム永井荷風)の研究家としてよく知られていて、『荷風と東京』(都市出版)、『荷風好日』(岩波書店)などの著書がある。本書は荷風の晩年の暮らしと作品に焦点を当てた評論集。本帯表紙には「第一人者の視点と筆さばき。『墨東綺譚』以降の作品を中心に、老いを生きる孤独な姿を描く」とある。まず新聞の書評を引用しよう。

(引用開始)

戦争に粘り強く否をとなえる文学

 明治・大正・昭和にわたり活躍した文学者の永井荷風は、太平洋戦争後の一九五九年、七九才で亡くなった。
 近代の作家としてずばぬけて長寿である。老いをゆたかに多彩に描いた。
 不思議な人で、若い頃から老いに魅せられていた。フランス遊学から帰国した三十代の頃より、特徴的に老いをテーマとした。作品にぞくぞくと個性的な老人を登場させた。
 たとえば『すみだ川』では、老いた遊び人がからだを張り、甥の純愛を守る。社会批判のエッセイにも、世相や政府に毒舌をふるう塩辛じいさんたちがいきいきと活躍する。
 明らかに荷風は、老いを戦略的に活用した。その荷風が自身、真に老いたとき。さあ、どうなるか。いかに老いを生きるか。著者は注目する。
 本書は、「昭和十九年(一九四四)、戦局が悪化してゆくなか、この年に六十五才になる荷風の偏奇館での独居生活は厳しさを増していた」とのことばで始まる。
 荷風の老年には戦争が重くのしかかる。「独居高齢者」の少ない当時、配給はじめ全てがシングルの荷風には不利だった。加えて自宅の偏奇館は、昭和二十年三月の東京大空襲で燃えた。以来、各地をさまよう。
 ここで荷風はダメになったとされる。戦後の文壇に復活したとはいえ、作品の実態は虚しいと酷評される。
 著者はその文学史に待ったをかける。老後に四度も空襲に遭った荷風。PTSDを患っていたかもしれない。しかしなお現実の風速に食らいつく。空襲で焼け出された庶民を描く。つよい作家魂ではないか。
 『問はずがたり』をはじめ「羊羹」「買出し」「にぎり飯」など戦後に発表された作品群は、なるほどかつてのエネルギーはないが、戦争の不条理にこづき回されて生きる庶民の生を無情に乾いた筆致でえぐる。その試みを評価する。
 荷風への愛情がある。こまやかな目配りがある。何しろ著者は自身の人生の信念をこめ、長く荷風文学とともに生きてきた人。全編に、批評の神髄の愛情があたたかく薫る。
 老荷風を支える人もいた。その群像劇も興味深い。戦下、荷風をつれて明石・岡山へと逃げた音楽家。荷風の暮らしを助けた鉄工所重役、男性ダンサー。荷風の死を発見した家政婦の「とよさん」。おかげで死体は腐らなかった。
「荷風のひかげのような小説」が、出征する若者に愛されたという事実はかくべつに感動的だ。
 安岡章太郎は中国戦線で病み、病院にあった『墨東綺譚』をしみじみ読んだ。田村隆一が学徒出陣するさい、祖父は苦心して『墨東綺譚』を手に入れ、愛する孫に贈った。
 胸を突かれる。老いた男がどぶの匂う場末の遊び場で、掃き溜めに鶴のごとき娼婦と出会い、たがいに一瞬の夢をみるはかない物語が、そんなにも深く戦いにおもむく若者の魂と触れ合っていたとは。
 このくだりにも明らかだ。軟弱・退嬰的とされる荷風文学は、じつは戦争に滅法つよい。荷風の老いは、人間がくり返す戦いに、しずかに粘り強く否をとなえる。
 老いと死を知る人間が、なぜ戦おうか。争おうか。代わりにつかの間の生の美しさ、楽しさを愛するのみ。戦いの虚無を笑うのみ。
 荷風はまじめに自分の文学と人生を合致させようとした。自身も、人生のさいごの美を楽しむ老人として歩こうとした。うまくいかず、頭も足ももつれたが、死の前日まで務めた。そして独りで倒れた。
 荷風文学と戦争。本書が提起するテーマは、これからの世紀にいよいよ切実である。

(引用終了)
<毎日新聞 6/25/2017(フリガナ省略)>

書評は近代文学研究者持田叙子さんによるもの。持田さんにも『朝寝の荷風』(人文書院)、『荷風へ、ようこそ』(慶應義塾大学出版社)といった著書がある。

 『老いの荷風』には、荷風の「問わずがたり」「来訪者」「浮沈」「羊羹」「或夜」「にぎり飯」「心づくし」「買出し」「吾妻橋」といった、晩年の小説が紹介されている。あまり読む機会が得られないこれらの作品とその背景について知ることが出来るのは有難い。この本にはまた、『文人荷風抄』(高橋英雄著)、『荷風余話』(相磯凌霜著)、『わが荷風』(野口富士夫著)など、荷風に関した評論・随筆の書評もある。『文人荷風抄』については、以前「日本語の勁(つよ)さと弱さ」の項で触れたことがある。フランス語の弟子の話が印象的。書評には『荷風へ、ようこそ』(持田叙子著)も含まれている。持田さんの『朝寝の荷風』は既に読んでいたが、『荷風へ、ようこそ』(2009年出版)の方は読み逃していたのでさっそく入手した。

 荷風は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

でいうと、A側発想の強い人だ。西洋語(英語・フランス語)に堪能で、作品には漢文脈の文体を駆使した(西洋と出会うまで日本のA側は長く漢文的発想が担っていた)。

 「レトリックについて II」で述べたように、明治以降日本は、漢文を減らし平仮名を増やすことと、わかりやすい口語文で書くことを推進した。「漢文脈からの離脱」と「言文一致」である。その結果、日本語から漢文的発想が失われ、(英語的発想も上手く取り込めなかったから)日本語によるA側発想そのものが弱くなった。

 そういう中、荷風は最後まで漢文的発想に拘った。その端正な文章を私は愛惜する。しかし、荷風は「公(Public)」としての発言を避け、芸事や花柳界といった「私(Private)」の世界に耽溺した。作家として、自らの身体の要求、感性に率直に耳を傾けることを優先した。A側の眼でB側を愛でることに力を注いだ。『百花深処』で言えば<隠者の系譜>に連なるが<反転同居の悟り>も会得していただろう。まさに書評にある“荷風はまじめに自分の文学と人生を合致させようとした。自身も、人生のさいごの美を楽しむ老人として歩こうとした。うまくいかず、頭も足ももつれたが、死の前日まで務めた。そして独りで倒れた”ということなのだが、何が彼をしてそのような生き方を選ばせたのか。さらに考えてみたい。

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東のケルト

2017年08月02日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続き『縄文とケルト』松本武彦著(ちくま新書)の話をしたい。まず前回引用した文章(「おわりに」)の先をさらに引用する。

(引用開始)

 大陸中央部の平原で芽生えて根を張った、この文明の知識体系やそれに沿った行動様式は、環境の悪化と資源の低落による危機を肥やしにして、その実利的な結実率の高さゆえに周辺の地域にも急速にはびこっていった。ケルトとは、ユーラシア大陸の中央部から主として西方へと進んだこの動きを、一つの人間集団の移動拡散というドラマになぞらえて、後世の人びとが自らのアイデンティティと重ねながらロマン豊かに叙述したものである。
 いっぽう、ユーラシア大陸中央部から東方にも同様の動きが進んだ。克明な一国史の叙述を大の得意とするわが国の歴史学や考古学では、この島国にしっかりと足をつけて西の海の向こうをにらむ姿勢をもとに、このような動きを、弥生時代に水田稲作をもたらした「渡来人」、古墳時代に先進的な知識をもってやってきた「渡来人」(古くは「帰化人」)に集約して描こうとしてきた。後者は一時、東のケルトとでもいうべき「騎馬民族」に含めて描かれようとしたが、島国日本の伝統と純粋さを信じたい心根と、日本考古学一流の実証主義とがあいまったところから大きな反発を受け、その時点では不成功の試みに終わった。
 ともあれ、西と東のケルトは、ともにその最後の到達地であるブリテン島と日本列島とにそれぞれ歴史的な影響を及ぼし、環濠集落のような戦いと守りの記念物や、不平等や抑圧を正当化する働きをもった王や王族の豪華な墓をそこに作り出した。紀元前三〇〇〇年を過ぎたころから紀元前後くらいまでの動きである。

(引用終了)
<同書「おわりに」 237-238ページ>

 ここに「東のケルト」という言葉が出てくる。ケルトとは何か。同書によってその定義を見てみよう。

(引用開始)

 ケルトとは、古い時代に中央アジアから西進してきた集団の一派で、言語や文化のうえでヨーロッパの基層を形成したと考えられてきた人びとのことをいう。考古学では、青銅器時代の後半から鉄器時代にかけて、すなわち紀元前一〇〇〇年を過ぎてからの数百年のあいだ、現在のフランス、ドイツ、オーストリア、チェコなどのヨーロッパ大陸中央部で栄えた文化の担い手が、ケルトに当たるとみなされてきた。馬を駆り、丘の上に城砦を築き、地中海や北海の地方と広く交易をし、戦車などを副葬する大きな墳丘墓を築いた人びとである。さらに時期が下がってローマ時代になると、その支配にときに立ち向かい、ときに傭兵や商売相手ともなる辺境民の雄として、歴史記録に登場することになる。

(引用終了)
<同書 170ページ>

 ここのところ『百花深処』の方で、父性(国家統治能力)の系譜を探る作業を続けていることは「かぐや姫考」でも書いた。そのなかで、「北方アジア経由の遊牧民族」を中世武士思想のルーツたる「騎馬文化」の一翼と措定したのだが、「北方アジア経由の遊牧民族」はこの「東のケルト」と重なる。

 これまで日本人の歴史学者や考古学者は、なかなかこのような大きなスケールでものを見ようとしなかった。ものごとを大きく上から俯瞰すること。

(引用開始)

 このように、大陸の辺境に浮かぶ島々に国を作った外からの力を、英国史では「ケルト」というグローバルな動きの一翼としてとらえ、日本史ではあくまでも島民としての立場からみた「渡来人」の受け入れとして理解してきた。大陸からの営力が外縁の島々に及ぶさまを、英国では宇宙の高いところから眺めているのに比べ、日本では島の地面に足をつけ、目の高さで海の向こうを見つめている。いうなれば、同じ動きを、英国史ではヨーロッパ史の一部としてみているのに対し、日本史ではどこまでも日本史としてにらんでいるのである。

(引用終了)
<同書 223ページ>

これは、以前から「現場のビジネス英語“Resource PlanningとProcess Technology” 」や「鳥瞰的な視野の大切さ」などの項で強調してきた、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるA側の視点である。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。さらに「おわりに」の引用を続けよう。

(引用開始)

 しかし、東西ケルトの動きの最終的帰結ともいえる大陸の古代帝国――漢とローマ――が日本列島とブリテン島とに関わった程度と方向性は大きく異なり、そのことは、両地域がたどったその後の歴史の歩みの違いと、そこから来る相互の個性を作り出すに至る。大陸との間を隔てる海が狭かったがゆえにローマの支配にほぼ完全に飲み込まれたブリテン島では、文字や貨幣制度など、抽象的な記号を媒介とする知財や情報の交換システム――人類第三次の知識体系――に根ざした新しいヨーロッパ社会の一翼としてその後の歴史の歩みに入っていった。
 これに対し、もっと広い海で大陸から隔てられていた日本列島は、漢の直接支配下に入ることなく、王族たちが独自の政権を作り、前方後円墳という固有の記念物を生み出し、独自のアイデンティティを固める時期がイギリスよりもはるかに長かった。私たち現代日本人は、このような感性や世界観を受け継いでいる。「縄文時代」「弥生時代」「古墳時代」と、同じ島国のイギリスの歴史ではほとんど用いられない一国史的な時代区分を守り、東のケルト史観たる騎馬民族説に反発する日本人の歴史学者や考古学者の観念もまた、そこに由来するのかもしれない。

(引用終了)
<同書「おわりに」 238−239ページ>

 モノコト・シフトでB側に注目が集まるのはいいが、思考は常にA側とB側の視点のバランスを取る必要がある。日本語的発想はそもそもB側だから、日本人はA側をより意識しなければならない。複眼的視野を持つ松本氏のこれからの仕事に注目したい。そういえば「かぐや姫考」で紹介した孫崎紀子さんも俯瞰してペルシャと日本列島との関係を見ておられた。松本氏や孫崎さんのような人がもっと出てくると、歴史の真相がより見えてくるのだが。

 最後に、本書第四章にある文章の間違いを指摘しておきたい。

(引用開始)

 つまり、青銅器時代の記念物は、新石器時代のそれに比べて、集団よりも個人を、平等性よりも階層性を表現した記念物と言ってよいだろう。このような記念物による、個人や階層を前面に押し出したまつりが、支配的な思潮を表す世の中になってきた。これが、新石器時代から青銅器時代へ、ひいては「文明」から「非文明」へという時代の移り変わりの、歴史的本質だったのである。

(引用終了)
<同書 164ページ>

この最後の“「文明」から「非文明」へ”は、“「非文明」から「文明」へ”の間違いだと思う。

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文明と非文明の社会

2017年08月01日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『縄文とケルト』松本武彦著(ちくま新書)という本が出た。日本列島とイギリスの古代遺跡を比較検討する内容で、副題に「辺境の比較考古学」とある。まず本カバー表紙裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 ユーラシア大陸の正反対の位置にある日本とイギリス。新石器時代、大陸では四大文明の地域のような「文明型」の社会が広まっていくなか、その果てにあった両地域は、「非文明型」の社会へと発展していった。直接的な交流がないこの二つの地域になぜ共通性が生まれたのか? また、同じホモ・サピエンスなのに、なぜ大陸とは異なる方向へ進んだのか? ストーンサークルや巨大な墓など、それぞれの遺跡を訪れることで、いままで見えてこなかった知られざる歴史に迫る。

(引用終了)

 去年「観光業について II」の項で、観光客には日本語(文化)のユニークさをアピールするべきだとし、特にこれからはユーラシアからの観光客が増えるだろうから、“日本の歴史を振り返り、古代からのユーラシアとの接点をいろいろと探り出すのも面白いかもしれない。ユーラシア大陸の西端にある英国と組んで、二つの島国の似ているところ、違っているところを大陸の文化と関連付けて研究するのも楽しいかもしれない”と書いたが、そのままの内容の本がこうして出版されたことはとても嬉しい。

 両国の古代遺跡の類似性・違いは、地図などと併せて整理すれば観光資源として大いに役立つだろう。新聞の紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

 太陽の運行に生死を重ねたり、斧を振り上げた時の重みと遠心力に破壊力を想起したり。「文明」以前、人類が共有した感覚が、先史時代の遺跡のかたちに投影されている。英国と日本、それぞれの遺跡を探訪して比較。大陸の東西の果てで、金属器の伝播とともに変わってゆく「非文明」の世界を生きた人々の精神世界を読み解く。

(引用終了)
<朝日新聞 6/11/2017(フリガナ省略>

 最初の引用のなかに、「文明型」と「非文明型」の社会という言葉が出てくる。約一万年前、氷河期が終わって温暖化した中緯度地帯の平原や森林で、人びとは多人数で定住するようになる。やがて約五千年前ごろ、太陽の活動に変化が起こり、地位緯度地帯の多くの地域は、冷涼化と資源の減少に直面した。この危機の中で、大陸中央部の平原では農耕を強化し、それを取り仕切る王や都市を核とする「文明」の社会が出来た。そこから離れた辺境の島々では、集団のきずなを強化し、資源がもたらす太陽や季節の順調なめぐりに精神的な働きかけを行う「非文明」の社会が発展したという。

(引用開始)

 非文明の社会。それは、人間が「科学」という思考と行為にたどりつくより前に生み出していた高度な知の体系の上に構築されたシステムだった。自らの生と死を軸としたさまざまな現象をアナロジー(類似やたとえ)の網でつむぎ合わせ、万象のしくみを説明しようとした。アナロジーは、ホモ・サピエンスのすべての個体が長い進化の結果として普遍的に共有した心の働きであるために、この段階での記念物は、地球上のどこへ行ってもよく似ている。たとえばストーン・サークルは、日本列島やブリテン島だけではなく、この段階に属するすべての大陸や海洋の社会で認められる形である。定住して大きな社会を作り始めたヒトが、初めて発展させた第一次の知識体系。人類学の巨人クロード・レヴィ=ストロースが「野生の思考」と呼んだものと、それは重なるところがあるのだろう。
 これに対して文明とは、非文明のさまざまな知的試行や積み重ねの中から生み出されて広まった、人類第二次の知識体系である。さまざまな出来事の見かけや外見をそぎ落とし、内側にあってそれを動かす原理と構造をえぐり出すことを旨とするこの知の威力は強大で、成功率は飛躍的に高く、広まった先々でさまざまな革新や発展をもたらした。だが、実利的な合理性がきわめて強いがゆえに、この知の体系は、周囲の万物や万象を統制して収奪する志向が強く、自然に対しては集約的農業にみられる環境の改変、牧畜を端緒とする生命への干渉などを、人間に対しては戦争や抑圧、不平等や階層化などを導いた。

(引用終了)
<同書「おわりに」 236−237ページ>

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと書いている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。動きのない「モノ」は、複眼主義の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

におけるAと親和性が強く、動きのある「コト」はBと親和性が強い。複眼主義ではAとBのバランスを大切に考える。

 これに「文明型」と「非文明型」の社会を重ねると、「非文明型」、つまり引用にある「第一次知識体系」はBと親和性が強く、「文明型」、つまり「第二次知識体系」はAと親和性が強い(Aの英語的発想は勿論今の英語)。「文明型」の社会が行き詰まる中、「非文明型」社会から学べることは多いと思う。

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かぐや姫考

2017年07月23日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『「かぐや姫」誕生の謎』孫崎紀子著(現代書館)という本を読んだ。ここのところ『百花深処』の方で父性(国家統治能力)の系譜を探る作業を続けているのだが、その中で、古代民族文化を辿る資料の一つとしてこの本と出合った。父性の系譜とは直接関係しないが、かぐや姫の出自についての面白い仮説なので、こちらで紹介したい。著者は元外交官孫崎享氏の奥様。

 本書の副題は「渡来の王女と“道真の祟り”」とある。まず本書帯(裏)から紹介文を引用しよう。

(引用開始)

『日本書紀』の記述を手がかりに、中世ペルシャと日本の暦や祭礼のつながり、飛鳥の遺跡や地形を調査分析。さらに神社の祭神から竹取物語最古の写本まで読み解き、飛鳥〜平安〜現代と時空を超えて「かぐや姫」誕生の謎に迫る。

(引用終了)

 この本で著者は、『竹取物語』の作者が、菅原道真の直孫文時(ふみとき)であること、かぐや姫のモデルが、ササン朝ペルシャ王・ヤズデギルド三世の娘舎衛女(シャー女)とその夫ダラとの間に生まれた娘(ダラ女)であること、竹取の翁とは、オータル(大建)という名の同じくペルシャ人(の長老)であることなどを、様々な史料から解き明かしてゆく。執筆動機などを述べた「あとがき」を引用する。

(引用開始)

 この十年余り、日本書紀に記載されているトカラ人(実はペルシャ人)たちを追いかけてきました。最後の記述、六七五年に舎衛女(シャー女)と十五歳の堕羅女(ダラ女)が天武天皇に新年の拝謁をしたところまできた時です。何気なく思ったことは、十五歳はペルシャにおける成人であるので、それまでは人質の母親と一緒であったとしても、堕羅女はもう宮中にはいられないのでないか。そうすると、ペルシャ人のいる村に行くよりほか、行く所はない。おそらく本邦初の存在であるアーリア人の両親から生まれた少女、しかも、深窓で育った十五歳のアーリア人の少女はどんなにきれいだったであろう。金髪だったかもしれない、それを見た飛鳥の人々はどんなに驚いただろう、人垣ができたかもしれない……と想像したとき、ふと思い出したのが、竹取物語でした。突然現れた、輝くばかりに美しい少女……、一目見ようとする人垣……。
 すぐに古典文学の『竹取物語』を読み、啞然としました。『竹取物語』の時代設定は、まさしく堕羅女の時代である飛鳥時代、場所も飛鳥地方での出来事でした。しかも、飛鳥には「竹取物語」ゆかりの神社、讃岐神社までありました。この神社の不思議なことは、何者かが、その名前を「散吉神の社」から「讃岐神社」に変えたことでした。また、この神社付近からは、二上山が見えます。二上山は春分にはその峰の間に陽が沈むとされ、春分が新年であるゾロアスター暦に沿って生活した当時のペルシャ人にとっては、そこはまさに格好の土地でした。
 一方、『竹取物語』の作者として、どうして「文時」が浮上したかといえば、全く違うなりゆきでした。
 日本書紀に現れるペルシャ人と日本との接点についてまとめようとした時、作者不明であることをよいことに、作者になりすまし、語らせて、「竹取物語」につなげようと決めました。そのために、作者の時代背景を調べていました。作者は、学者か僧侶。なぜならば、「竹取物語」には浄土思想が反映されています。そして富士山の噴火。
 もう一つの時代背景は、『源氏物語』の中にある「絵合わせ」の場面に登場する「竹取翁物語」です。文章を書いたのは紀貫之で、紀貫之は九四五年に没しているので、「竹取物語」の製作はこれ以前でなければなりません。
 これらを考慮すると、まず僧侶は消えます。なぜなら、この頃の浄土教の僧侶は、念仏を唱えて諸国を巡る空也の時代です。その後現れる源信は、紀貫之の没年にはまだ三歳です。
 では、この頃の貴族はどうでしょう。上流階級、学識があり、熱心な浄土思想の持ち主といえば、慶滋保胤か、その師である菅原文時が浮上しました。しかし保胤も、紀貫之の没年にはまだ十一歳です。では、文時は? といえば、なんと、すべての条件に合致します。しかも「竹取物語」についてはよく言われる藤原家に恨みを持つ者、菅原家の人物でもあります。紀貫之の没年には文時四十六歳。宮中で内記として「神社の訛りと神祇を正す仕事」をして二年が過ぎていました。ここで、神社名の「散吉」を「讃岐」にしたのは、文時だとわかったのです。思いがけず、作者が捕まってしまいました。もし神祇を正すのが文時以外の人物だったとしたら、「竹取物語」は生まれていなかったと思います。道真の孫であり、祟りの恐ろしさを誰よりも身近に体験している文時であったからこそ、お鎮まりいただくために「竹取翁物語」を書き、その中に、散吉神の社の名前であり、ご祭神の名前の一部である「さるき」とその由来を残したのだと思います。(後略)

(引用終了)
<同書 243−245ページ(フリガナ省略)>

学者にはない斬新な発想である。外交官の妻としてロンドン、モスクワ、ボストン、バグダード、オタワ、タシケント、テヘランなどで暮らした経歴が生きている。こういう研究者がもっと出てくると古代史の真相がより見えてくるのだが。

 上記に「散吉神の社」という名前がある。そこには、散吉大建命神(サルキオオタツノミコトノカミ)、散吉伊能城神(サルキイノジノカミ)という二柱の神が祀られていた。この神々はいった誰なのか。そもそも散吉(サルキ)とはどういう意味なのか。孫崎氏はその謎に果敢に挑む。「まえがき」も引用しよう。

(引用開始)

 竹取物語は、伝説ではなく、知識豊かな貴族により書かれました。これは定説です。
 ではその作者が誰かとなると、候補者は多くいながら、未だ定説はありません。
 ところが、ここにどうしても「竹取物語」を書かねばならない人物がいたのです。それは、菅原文時、つまり菅原道真の孫です。文章博士であり、和漢の文章にも和歌にも特に優れていました。
 文時は、内記の職にあった時、十年間にわたり全国の神社の神祇の乱れと神社の訛りを正しくする仕事に携わりました。六五〇〇社以上の神社にあたりましたが、そのうち半分は自分の手になるものと自ら記しています。
 その中に、大和国広瀬郡「さるき(散吉)神の社」がありました。文時はこれを「さぬき(讃岐)神社」と変えました。「さるき」から「さぬき」へ、訛りを正したのです。しかし、同時に文時は大きな悩みを抱えることになってしまいました。これにより『日本三代実録』中の二柱の散吉神をも、消してしまうことになったのです。三大実録には、散吉大建命神、散吉伊能城神の神階について書かれていました。三大実録は祖父道真の仕事で、実質、道真が編纂したものであるにかかわらず、左遷と同時に、道真の名は編者から削られています。
 文時は二柱のご祭神の祟りを畏れ、また、道真の祟りをも畏れました。道真は祟り神で知られています。そこで、文時は、散吉神の名「さるき」を別の形で残そうとしました。その方策として「さるきのみやつこ」を主人公とする物語『竹取の翁の物語』を書いたのです。
 実際に、『源氏物語』では、竹取物語は「竹取のの物語」ですし、『竹取物語』の最古の写本を含め現存する手書き写本のほとんどが、翁の名は「さるきのみやつこ」となっています。「さぬき」ではありません。
 しかし現在では、江戸時代の木版本による誤り“さぬきのみやつこ”と、「讃岐(さぬき)神社」の実在のために、すべてが「さぬき」となってしまいました。江戸時代には「散吉郷」まで「さぬきごう」と読まれました。しかし、「さきごう」と読むという資料もあり、「さき」の存在は「さるき」という音を示唆しています。
 では、いったい「さるき」とは何でしょう。『日本書紀』の斉明天皇の項にはペルシャ人たちが登場します。彼らの「長老」は「sarkar」と呼ばれました。この音が、日本人には「さるき」ととらえられたのだと思います。散吉の散は「さる」、当時、散楽は「さるごう」と読まれていました。「き」に吉があてられています。古代の日本人にはペルシャ人たちが話すサルカルという音は「さるき」と聞こえ「散吉」と音訳したのでしょう。
 これらのペルシャ人は期せずして、今につながる私たちの伝統文化に結果として関わることとなりました。このお話は、これらペルシャ人たちと謎の多い飛鳥時代の日本とのかかわりから始まります。

(引用終了)
<同書 1−3ページ(フリガナ省略、太字は傍点)>

いかがだろう、列島の古代史に興味がある方なら一読したくなるのではないか。夏休みに丁度良い読み物だとおもう。ペルシャ文化と古代日本との関係については、『ペルシャ文化渡来考』伊藤義教著(ちくま学芸文庫)にさらに詳しい。
 
 かぐや姫に関しては、以前「日本アニメの先進性」の項で、『かぐや姫の物語』高畑勲監督(スタジオジブリ)について書いたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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早苗饗−SANABURI−

2017年06月27日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 ときどき書店で買う雑誌に、以前「日本海側の魅力」の項で紹介した『自遊人』がある。編集長岩佐十良氏の思い入れが濃い、充実したライフスタイル誌だ。裏表紙に“地方のことは地方だからこそわかる。地方で考えて地方から発信する。日本で唯一の全国誌。さぁ地方の未来を地方からつくろう。”とある。同誌編集部は今から10年以上前に、東京から新潟県南魚沼市へ移転した。2017年5月号の特集は「移住」。同市にある(株)自遊人運営の旅館「里山十帖」で働く従業員たちが、自ら移住についてインタビューに答えている。

 その記事を読んだこともあって、先日「里山十帖」に一泊してきた。12室しかない小規模旅館だが、古民家を改造した建物が重厚で素晴らしい。チェックインしてすぐ、山の見える露天温泉風呂へ行った。正面に見えるのは日本百名山の一つ、巻機山。その左右にも山々が連なっている。雪の残った峰々が午後の陽に輝き、木々に覆われた裾野が温泉の足元にまで広がって眺望は抜群だ。景色を独り占めしながらゆったり風呂につかっていると、東洋系の顔立ちをした30歳代の男性が湯船に入ってきた。日本語で話しかけると英語しかできないという。そこで英語でいろいろ聞いてみると、彼(名前はディロン)はアメリカ、ロス・アンジェルスからはるばるやってきたことが分かった。職業はフード・カメラマン、この旅館がとても気に入って、夫婦でたびたび訪れているとのこと。以前「観光業について」、「観光業について II」で述べたことが実現しているようで嬉しかった。私が考える日本の観光戦略の基本は、

(1)日本語(文化)のユニークさをアピールする
(2)パーソナルな人と人との繋がりをつくる
(3)街の景観を整える(庭園都市

というものだ。「里山十帖」の場合、(1)と(3)は充分。これから先、どのように(2)を世界に広げてゆくかが課題であろうか。

 夜の山菜料理も素敵だった。日本には、こうした美しい景色、温泉、そして美味しい料理がある。メニューに書かれた「オーガニック&デトックス 早苗饗−SANABURI−」という文章を引用したい。

(引用開始)

 田植えが終わったあと、その年の豊作を祈るのと同時に、田植えに協力してくれた人々をもてなす「饗応」のことを「さなぶり」と言います。

 「早苗饗」(さなぶり)のテーマは、そんな日本の伝統を大切にしながら、新しい食の喜びを追及すること。ミシュランガイド関西の三ッ星店で修業した日本料理の技術と、アーユルヴェーダの思想を融合させて、どこにもない、里山十帖ならではの料理をご提供しています。

 無農薬&有機栽培の野菜を中心に、肉と野菜を少しずつ。繊細な味わいを活かすために、調味料はすべて天然醸造&無添加、味噌や漬け物は自家製です。なおデザートを除いて砂糖は使っておりません。素材のもつ“甘み”をお楽しみください。

 山持ちの旦那衆の蔵に大切に保管されていた骨董や、私たちが好きな作家さんの器とともにお楽しみいただければ幸いです。

(引用終了)
<句読点・改行などを追加変更(フリガナ省略)>

 翌朝温泉でディロンに会うと、彼はスマートフォンで山の写真を撮っていた。朝日に輝く山々の写真を拡大し、ロスにある自宅のバスルームの壁に貼るのだそうだ。「そうすればいつでもここにいる気分になれる」ディロンは笑いながらそういった。写真は朝食後、散歩道から撮ったその景色。

IMG_1725.JPG

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古代史の表と裏

2017年01月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 『古代史の謎は「鉄」で解ける』長野正孝著(PHP新書)という本を面白く読んだ。副題に“前方後円墳や「倭国大乱」の実像”とある。以前「歴史の表と裏」の項で、日本の戦後を例にその外史(裏史)を辿ったが、今回はこの本に沿って、日本古代の外史を探ってみたい。尚、この本は2015年10月の出版。長野氏には同年1月に出た『古代史の謎は「海路」で解ける』(PHP新書)という本もある。併せて手掛かりとしたい。こちらの副題は“卑弥呼や「倭の五王」の海に漕ぎ出す”。本カバー裏表紙の著者紹介によると、長野氏は工学博士、元国土交通省湾岸技術研究所部長。ライフワークは海洋史、土木史研究という。

 概要把握のためにまずその紹介文を、帯表紙、カバー表紙裏、帯裏表紙の順で引用しておく。勿論詳細は両書をお読みいただきたい。

(引用開始)

『古代史の謎は「鉄」で解ける』

<「船の専門家」だから語れる、交易が支えた古代史>
鉄資源の流れから、「前方後円墳は実利を得る「『公設市場』」と看破。価値ある論説だ。(ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者竹村公太郎)

船をつくるための鉄斧や武器となる刀の材料になるなど、鉄は古来きわめて重要な資源であった。紀元前から倭人は鉄を朝鮮半島から輸入していたが、1〜2世紀に、『後漢書』などが伝える「倭国大乱」が起こる。著者はこれを、高句麗の南下によって起こった「鉄の爆発」を伴う社会変革だと考える。それ以降、日本に遊牧民の文化である「光る塚」がつくられ、「鉄の集落」が全国で形成された。やがて前方後円墳が大量に築造されるが、あの不思議な形状は鉄の交易に関わる秀逸なアイデアの賜であった――。船と港の専門家が、鉄の交易に着目し日本の原像を探る。

〇 鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」
〇 黒曜石と土笛が語る草創期の「鉄の路」
〇 高句麗の南下によって生まれた「倭国大乱」
〇 日本海を渡る知恵――準構造船の技術革新
〇 突然できた日本海の鉄の集落
〇 鉄から見た卑弥呼の国――倭国と大和は別の国
〇 敦賀王国をつくった応神天皇
〇 倭国が朝鮮半島で戦った理由――「鉄の路」の維持
〇 前方後円墳はなぜ普及し、なぜ巨大化したのか
〇 埴輪の役割


『古代史の謎は「海路」で解ける』

<技術者の「知」が文献学の壁を破る>
船や海への分析から、邪馬台国が日本海側にあることが見えてくる。深く納得。(ベストセラー『日本史の謎は「地形」で解ける』著者竹村公太郎)

「魏志倭人伝」によると、卑弥呼の特使である難升米が洛陽まで約2000kmの航海を行ったという。邪馬台国が畿内の内陸にあった場合、彼らは本当に対馬海峡を渡ることができただろうか。またこの時代、瀬戸内海は航路が未開発であったため通ることができず、交易は主に日本海側で行われていたと考えられる。当時の航海技術や地形に基づき、海人(かいじん)の身になって丹後半島の遺跡に身を置けば、鉄と翡翠で繫栄する「王国」の姿が見えてくる……。さらに応神帝の「海運業」や「大化の改新」などの謎を、港湾や運河の建造に長年従事してきた著者が技術者の「知」で解き明かす。

〇 丹後王国をつくった半島横断船曳道
〇 丹後王国の繁栄をつくった日本最古の「製鉄・玉造りコンビナート」
〇 「神武東征」は当時の刳り船では不可能だった
〇 卑弥呼の特使難升米も瀬戸内海を通れなかった
〇 敦賀王国をつくった応神帝と氣比神
〇 雄略帝の瀬戸内海啓開作戦
〇 継体王朝が拓いた「近畿水回廊」とは?
〇 奈良の都の出勤風景と「無文銀銭」・「富本銭」の謎
〇 難しかった孝徳天皇の難波津プロジェクト
〇 「大化の改新」の陰に消された日本海洋民族の都「倭京」
〇 解けた「音戸の瀬戸開削」の謎――厳島詣の道

(引用終了)
<引用者によって括弧などを追加(フリガナ省略)>

 日本古代外史を考える際の鍵は、正史であるところの『日本書紀』からどれだけ離れて真実を探ることができるかだ(長野氏は正史を「中央史観」と呼ぶ)。このブログではこれまでその点で共通する小林惠子氏(「繰り返し読書法」)と栗本慎一郎氏(「関連読書法」)、関裕二氏(「時系列読書法」)の諸本を紹介してきた。小林氏は大陸史書の読み込み、栗本氏は経済人類学的所見、関氏は作家的ひらめきと地形・考古学的視点といった特長を持っている。

 長野氏は『古代史の謎は「鉄」で解ける』の第一章を次のような文章で始める。

(引用開始)

 大昔、朝鮮半島には、遊牧民族、農耕民族と一握りの海洋民族が静かに暮らしていた。鉄が朝鮮半島でつくられ始め、隣の大国中国が侵略したのをきっかけに、ここの民族は存亡をかけた大きな戦いの渦に巻き込まれた。それが千年近く続き、日本まで巻き込まれた。

(引用終了)
<同書 16ページ>

始まりは紀元前三世紀のことという。

 この遊牧、農耕、海洋といった民族概念が重要だ。民族によってその文化や言語、宗教や歴史、さらにはその居場所と統治機構の在り方が違う。当初日本列島には、海岸地域に暮らす海洋民族(おそらく朝鮮半島のそれと同類)、内陸に暮らす狩猟民族がいただろう。それが半島と交易するなかで、農耕民族、遊牧民族が移入し、彼らの文化、居場所が形成される。その後、各民族が棲み分け、共生、あるいは戦いながら各々の文化を熟成、列島で鉄がつくられ始める紀元七世紀ごろより、日本は半島・大陸から離れて独自の民族的発展を遂げてゆく。各民族文化のブレンド具合が今に繋がってくるわけだ。

 長野氏は、鉄の伝播・生産に基づいた時代区分を次のように分ける。第一段階は鉄の使用段階、二番目は鉄器を製作(鍛造)した段階、三番目は鉄器を鋳造した段階。この三段階と、手漕ぎ丸木舟、準構造船、帆船といった船(と航海技術)の発展三段階を組み合わせ、さらに地形や気象の変化を加味し、長野氏は各民族の進展を跡付ける。

 それが紹介文にあるような内容で、正史において隠された倭人の実態、船曳道、丹後や敦賀の繁栄、瀬戸内海海路の開通時期、関東地方の底力、交易市場としての前方後円墳、などが解明される。他の外史論や新発見と突き合わせることでさらに興味深い仮説が見出されるだろう。例えば先日、青谷横木遺跡(鳥取市)から出土した七世紀末〜八世紀初めの板から、奈良県明日香村の高松塚古墳国宝壁画(同時期)と似た複数の女性を描いた図(女子群像)が見つかった。こういった女子群像を含む人物像は中国や北朝鮮の墓に描かれているから、そういう大陸・半島の葬送文化が都の奈良以外に直接普及していた証拠になるのではないか。

 「日本海側の魅力」の項で述べたように、私は日本列島への文化の流入ルートとしていわゆる「時計回り」、シベリアから北海道を経て東北、北陸へと伝わった筈のヒトとモノのトレースに興味を持っている。長野氏も、

(引用開始)

 鉄の歴史を追うとき、高句麗の歴史に踏み込み、中央史観が中心地と見なす近畿以外の信州、群馬、埼玉の高麗の国の歴史をさらに詳しく調べてみる必要がある。それによって、全く違う日本史が見えてくる。
 三世紀の宗教祭祀の実際、たとえば、高句麗から鬼神の思想と信仰にもとづいた魔よけ思想が、二世紀頃に日本に渡来している。また、その時代の道教の神仙思想や牽牛と織女を中心とする七夕の儀式、中国東北部の原野を家畜と旅する放牧民の祭祀、状況を想像すれば、その時代の日本人の精神構造がわかるような気がする。

(引用終了)
<同書 209ページ>

と書いておられる。高句麗、その周辺の扶余、沃祖、挹婁、粛慎、靺鞨、さらには背後にあった鮮卑、柔然、突厥、高車といった国々の動きに注目すべきだ。これからも研究を続けたい。

 尚、本の帯表紙にコメントを寄せている竹村公太郎氏は、長野氏と同じ元国土交通省職員(河川局長)、二人は実務家という点で共通している。このブログでは「地形と気象から見る歴史」、「中小水力発電」の項などで竹村氏の著書も紹介してきた。併せてお読みいただきたい。

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女性による父性代行

2016年10月11日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日TVのWOWOWチャンネルで、『さいはてにて やさしい香りと待ちながら』(チャン・ショウチョン監督)という映画を観た。プロムラム・ガイドから紹介文を引用しよう。

(引用開始)

行方不明の父の船小屋を改修して珈琲店を始めた岬と、幼い2人の子供を抱えるシングルマザーの絵里子。石川県能登半島の珠洲市を舞台に、2人の女性の交流を温かく綴る。

(引用終了)

2015年の作品で、岬を演じるのは永作博美、絵里子を演じるのは佐々木希。

 この作品は、以前「何も起こらない映画」の項で書いた、「場所と人との関係が中心テーマで、ドラマチックなストーリー展開がなく、淡々とその時空が描かれるような映画、場所と登場人物たちの魅力だけでもっているような作品」の範疇に入るだろう。

 主人公岬は独身、幼い時に別れた漁師の父の帰りを待つために海辺で珈琲店を始める。もう一人の絵里子もシングルマザーだから、どちらも父性とは縁遠く、映画は「日米の映画対比」の項でみた複眼主義のB側、

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B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」
------------------------------------------

の考え方で進んでゆく。しかし最後が少し違った。

 父親らしき遺骨が海で見つかったことにより、岬は父を待ち続けることの虚しさから海辺を去る。だが最後、岬は海辺の珈琲店に戻ってくる。絵里子が岬を「おかえり」と迎え、岬が「ただいま」というところで映画は幕を閉じる。そのときの岬は、これまで(父をただ待っていた時)と違い、自らが父性を代行するという決意に満ちた表情のように見えた。

 <日本の戦後の父性不在>の問題は、女性による父性代行によって補われ得る。そのことをこのラストは示唆しているように思えた。外国(台湾)の女性が監督を務めたことで一味違った出来栄えとなったのだろうか。

 それにしても日本海の映像が美しい。まさに「日本海側の魅力」である。其処ここに使われる「青」の小道具(衣服や椅子など)も印象に残った。

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庄内弁の小説

2016年08月16日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 先日「庄内平野の在来野菜」の項で庄内弁について触れたが、庄内弁を多用した小説といえば、『春秋山伏記』藤沢周平著(新潮文庫)を挙げることが出来る。周知のように、藤沢周平(本名小菅留治)は山形県鶴岡(庄内地方)の出身の作家である。

 この『春秋山伏記』は、羽黒山の山伏(修験者)と庄内地方の村人たちを描いた物語である。著者の「あとがき」にもあるが、どちらかというと山伏よりも村人の生活に焦点が当てられている。その「あとがき」から一部引用しよう。

(引用開始)

 庄内平野に霰が降りしきるころ、山伏装束をつけ、高足駄を履いた山伏が、村の家々を一軒ずつ回ってきたことをおぼえている。(中略)
 こういう子供のころの記憶と、病気をなおし、卦を立て、寺子屋を開き、つまり村のインテリとして定住した里山伏に対する興味が、この小説の母体になっている。
 とは言っても、山伏に対する子供のころの畏怖は、まだ私の中に残っているようだ。彼らは普通人と同じように、村の中で暮らすことも出来たが、修験によって体得した特殊な精神世界を所有することで、彼らは一点やはり普通の村びとと違っていただろうと考える。そこは、ただの人間である私には、のぞき見ることが出来ない世界である。畏怖はそこからくる。
 そういうわけで、この小説は山伏が主人公のようでありながら、じつは江戸後期の村びとの誰かれが主人公である物語になっている。
 またこの小説で、私はほとんど恣意的なまでに、方言(庄内弁)にこだわって書いている。およみくださる読者は閉口されるに違いないが、私には、方言は急速に衰弱にむかっているという考えがあるので、あまりいい加減な言葉も書きたくなかったである。ご諒承いただきたいものである。

(引用終了)
<同書 306-308ページ(フリガナ省略)>

閉口するどころか、私は大いに庄内弁を楽しんだ。村人たちが遣う日常の言葉は物語にリアリティを与えている。土地の言葉は歴史(時空の集積)そのものだからだ。

 同書の解説によると、「庄内弁とは恐らく、京都の言葉が海岸沿いに北進してこの地方に定着し、東北訛(なま)りと融合したものであろう」とのことである。その一端を同書から抜書きしてみよう。物語の最初に、村人「おとし」が、山伏・大鷲坊となって帰ってきた「鷲蔵」と出会うときの会話。

(引用開始)

「お前(め)、鷲蔵さんでねえろが?」
「ンだ」
 と大男の山伏は言った。
「あいや、肝消(きもげ)だ(驚いた)ごど」
 おとしは本当に驚いて言った。
「せば、おらっさけだ(さっき)、鷲蔵さんから助けらえだなだがや」
「お前(め)は誰(だえ)だっけの?」
 大鷲坊は首をひねってじっとおとしの顔を見た。
「おら、重右ェ門(じようえむ)のおとしだども」
「重右ェ門? ああ、おとし……」(中略)「思い出した。お前(め)は泣き味噌(みそ)の女子(おなんこ)での。俺がわぎさ行(え)っただけで、泣き出したもんだった」
「ンだがものう。鷲蔵さんはおっかなかったもの」
「しかし、あの泣き味噌が、きれいなあねさまになったもんだの」
「やんだ、おら」
 おとしは顔を隠して言い、手を離すと赤い顔になって大鷲坊をみ、小さな笑い声を立てた。眼の前の怖い山伏が、あの鼻つまみの鷲蔵だとわかった気楽さと、きれいなあねさまというひと言に誘われて、思わず若い身振りになっていた。(中略)
「おとし、さっけだ(さっき)がら、その……」
 大鷲坊がおとしの抱えている笊(ざる)を指さした。
「笊かっつめ(抱え)でいるども、それは何だ?」
「あ、これ」
 おとしはあわてて笊の青物をさしだした。
「これ、さっけあだのお礼に持ってきたなだもの。だべでくらへ」

(引用終了)
<同書 24−25ページ>

 「庄内平野の在来野菜」でも書いたように、これからはこういうlocalな価値がものを云う時代だと思う。『春秋山伏記』は、昭和53年(1978年)に書かれた。戦後の高度成長期(1955年−1973年)と、その後のバブル期(1985年−1991年)との中間時点である(各期の年代は諸説ある内の一つ)。多くの日本人が経済成長に舞い上がっていたこの時期、将来を見据えてこういう作品を残してくれた作家もいたのである。

 修験道については、以前『百花深処』<修験道について>の項で書いたことがある。併せてお読みいただきたい。写真は先日旅行時に撮った羽黒山五重の塔。

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日本の美術館

2016年08月12日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、日本の街づくりに必要なコンセプトとして、「庭園・芸術都市」(庭園や里山、邸宅美術館や芸術劇場を持つ流域都市)を提唱しているが、その提唱者としては、最近出版された『フランス人がときめいた日本の美術館』ソフィー・リチャード著(集英社インターナショナル)を紹介しないわけにゆかない。ソフィーさんの写真が添えられた本の帯表紙から、紹介文を引用しよう。

(引用開始)

フランスの美術史家が、10年かけて日本各地を旅し、選りすぐった「本当に価値のある」美術館。英語圏で大評判のガイドブック待望の翻訳!
朽木ゆり子氏推薦!「私も知らない美術館がこんなに!ソフィーさんの眼力に脱帽」

(引用終了)

ということで、この本には日本全国、50箇所ほどの美術館・博物館が、綺麗な写真と共に、基本見開き一ページ/一箇所で紹介されている。それ以外に追加情報として言及された美術館もある。

 彼女の「日本の読者の皆さんへ」という巻頭にある文章を一部紹介する。

(引用開始)

 世界中どこへ行っても美術館めぐりをするのが好きなので、日本でも美術館を訪ねてまわりました。ほどなく、この国には信じられないほど多くの美術館があること、その一方で、日本語のできない者が美術館情報を見つけるのは容易でないことがわかりました。美術館への好奇心が高まるままに、もともとリストづくりが好きだったわたしは、訪ねてみたい美術館の一覧表をつくりはじめました。
 そんなある日、美術館をテーマにして本を書こうと思い立ったのです。日本文化を知るにはそれがいちばんだと思いました。伝統美術から最先端をいく現代アート。写真から民藝。芸術家の住まいを改装した瀟洒な美術館から堂々たる大型美術館……。日本の美術館はバラエティに富んでいます。わたしはこうした美術館を通じて過去と現代の日本のすばらしさを知り、日本を体験することができました。

(引用終了)
<同書 2−3ページ(フリガナ省略)>

 このブログでは、「観光業について」や「観光業について II」の項などで、海外観光客向けになすべきこととして、

(1)日本語(文化)のユニークさをアピールする
(2)パーソナルな人と人との繋がりをつくる
(3)街の景観を整える(庭園都市)

という三点を挙げているが、この本の原著は、海外の人々に(1)の日本文化のユニークさをアピールする役割を果たしてくれているわけだ。そして日本語のこの本は、我々日本人に、日本がこれから「庭園・芸術都市」としてやってゆく自信を与えてくれる。

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モランディと中川一政

2016年05月03日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 東京ステーションギャラリーで、「ジョルジョ・モランディ 終わりなき変奏」展を観た。ジョルジョ・モランディ(1890−1964)はイタリアの画家。瓶や器、ボローニャの街角風景などを繰り返し描いた。展覧会の新聞広告から引用しよう。

(引用開始)

 生没年を見ればわかる通り、モランディが生きた時代は20世紀の幕開け、芸術上の革命が次から次へと起った激動期です。その中で、モランディは、前衛的な絵画動向を横目で見つつ、故郷のボローニャのアトリエにこもって、静物画という限定された主題に取り組みました。簡素な生活スタイル、簡素な画題、簡素な色彩、簡素な形。しかしその簡素さは、全く逆に、絵画というものを攻め、突き詰めるためにあえて選ばれた冒険の結果でした。
 パッと見で上品な絵と判断されがちなモランディは、「静か」「静謐」などお定まりの形容で語られることがしばしば。が、実際には、ふらつくような筆の運動、微妙な器の配置、ぎりぎりのラインで呼応し合う色調の組み合わせなど、画面はじつに饒舌です。
 線・色・形・空間の手に汗握る展開を目の当たりに出来るモランディの絵画。その面白さを圧縮させているのが、器やテーブルの境界に現れる輪郭線です。周囲に溶け込んでいたり境目をがっちり切り分けたり、一本の瓶の周囲でさえ多様な変化を見せる輪郭線は、それだけで見る目を飽きさせません。目で辿ると、モランディの絵の密度(詰まった感じ)の秘密もわかるでしょう。輪郭の部分こそ、色と形が押し合いへし合いし、絵の空間を決定する要のポイントだからです。ゆらゆら揺れるモランディの線はおそらく、その押し合いへし合いの結果なのです。(東京ステーションギャラリー 学芸員・成相肇)

(引用終了)
<東京新聞 2/2016掲載(抜粋)>

モランディの絵の特徴は、造形のミニマム化、色彩の旋律、テーマ性の排除、といった言葉に纏めることができるだろう。

 20世紀は、大量生産・輸送・消費システムと人のgreed(過剰な財欲と名声欲)による“行き過ぎた資本主義”が跋扈し、科学の「還元主義思考」によって生まれた“モノ信仰”が蔓延する時代だった。世界は今もその残滓に苦しんでいるが、20世紀の画家たちは、主に二つの方法でこれに立ち向かった。一つは“モノ信仰”を逆手にとって、要素還元的な絵画で時代を批判・揶揄する方法。フォービズム、キュビズムなどの画家たちだ。もう一つは時代に背を向けてひたすら「コト」の孤高を守る方法。モランディはこちら側の画家だったと思う。勿論二つの方法を使い分けた画家もいるし、時代に妥協してしまった画家たちも多くいただろう。

 東京ステーションギャラリーでモランディを堪能した後日、旅行中、偶々湯河原にある「真鶴町立中川一政美術館」で中川一政(1893−1991)の絵を観た。モランディはボローニャで、瓶や器、街角の風景を描いたが、中川も真鶴に居を定め、壷の薔薇や箱根駒ケ岳、福浦突堤の風景などを繰り返し描いた。中川の絵にも、造形のミニマム化、色彩の旋律、テーマ性の排除といった特徴がある。これは面白い発見だった。

 20世紀の西洋絵画の主流は、フォービズム、キュビズム、抽象絵画、シュルレアリズム、表現主義へと変化してゆくが、モランディも中川も、それらを横目で見ながら、終始一貫して同じ絵を描き続けた(風土と対象は違うけれど)。生年月日をみると、二人は同世代であり、物心付いたのは共に20世紀初頭であることがわかる。

 二人は共にセザンヌ(1839−1906)から影響を受けたという。セザンヌについては、「20世紀を前にした絵画変革」の項で、「周辺的なモティーフによる造形と色彩表現」と纏めたが、20世紀に入り、モランディと中川はこの試みをさらに持続展開させたともいえるだろう。

 テーマ性の排除と色彩の旋律だけならば、抽象画でも表現できる。しかし「造形」が加わると、アフォーダンス的な知覚が刺戟される。アフォーダンス理論では、世界はミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)からなっていて、人は自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、視覚)によって、運動を通してこの世界を日々発見するとされる。絵を観るのも視覚による運動である。二人は「造形」を捨てなかったことで、そしてそれを瓶や器、街角の風景、壷の薔薇や箱根駒ケ岳といった形に「ミニマム化」することで、観る人の知覚システムをより強く喚起することに成功した。

 これまで、21世紀の絵画表現について、

●動きそのものを描こうとする絵画(「21世紀の絵画表現」)
●汎神論的、自然崇拝的な絵画(「ラファエル前派の絵画」)
●豊な時間を内包する絵画(「写実絵画について」) 

と書いてきたが、モランディや中川の、

○造形のミニマム化
○色彩の旋律
○テーマ性の排除

といった特徴は、今世紀どのように引き継がれるのだろう。最後の「テーマ性の排除」が、「豊な時間を内包する絵画(写実絵画)」へと引き継がれることは想像できる。他二つの特徴の行方についてはどうか。この辺りまた項を改めて考えてみよう。

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象徴主義絵画

2016年04月26日 [ アート&レジャー ]@sanmotegiをフォローする

 19世紀後半の象徴主義絵画についても触れておきたい。象徴主義について、『西洋美術史』高階秀爾監修(美術出版社)から引用する。

(引用開始)

 象徴主義は、19世紀後半の(印象主義と並ぶ)もう一つの重要な芸術の流れである。科学と機械万能の時代の実利的なブルジョワ精神、芸術の卑俗化を嫌悪した文学者や芸術家は、人間存在とその運命に関する深い苦悩、精神性への欲求から、内的な思考や精神の状態、夢の世界などを表現しようとした。それゆえに象徴主義は、主題や表現手段の上できわめて多様な形を取った国際的な潮流となった。
 イギリスに現れたラファエル前派は、最初の象徴主義の運動の一つにかぞえられる。

(引用終了)
<同書 147ページ(括弧内は引用者による補注)>

先日取り上げた「ラファエル前派の絵画」は、象徴主義の表れのひとつでもあったわけだ。

 象徴主義絵画といえば、去年(2015年)4月、ブリジストン美術館の(新築工事のために長期休館する直前に開かれた)「ベスト・オブ・ザ・ベスト」展で、ギュスターヴ・モローの『化粧』という小品(33.0cm x 19.3cm)を観た。

(引用開始)

あでやかな東方風の装いの女性が、柱あるいは衝立に物憂げにもたれかかっています。その身にまとった鮮やかな色彩の豪奢な織物と美しい宝石類は、彼女が権力者の寵愛を受ける立場であることを想起させます。非常に繊細なデッサン、そして水彩絵具の即興的な性質を生かし、色彩の濃淡や、質感を描き分けて完成させた魅力溢れる作品です。モローは旧約聖書の時代と空間、すなわち古代とオリエントから着想を得て多くの作品を描きました。堅固で暗い建築空間の中に、人物の衣装や装身具のあざやかで豊な色彩を合わせ、固さと柔らかさ、あるいは明暗などの絶妙なコントラストを表すことによって、ドラマティックで演劇性に富んだ絵画を制作しました。

(引用終了)
<カタログ「ブリジストン美術館名作選」より>

 休館となったブリジストン美術館の良さは、19世紀以降のフランスを中心とした西洋近代美術が系統だって揃えられていることだった。印象派、ポスト印象派、フォービズム、キュビズム、抽象画などなど。残念だが、数年後、新たに生まれ変わった姿が見られるということなので期待して待つとしよう。

 ギュスターヴ・モローについて『西洋美術史』には次のようにある。

(引用開始)

モローは聖書や異教的な神話を題材にしながら抽象的な概念を描き出した画家で、「オルフェウスの首を抱くトラキアの娘」《IX-21》は彼のデビュー時代の代表作である。モローが作り出した驚くべきイメージ、とりわけサロメのような邪悪で魅惑的な女性像は、ビアズリー《IX-22》、クリムトなどの画家や世紀末の文学、音楽全般に大きな影響を与えた。

(引用終了)
<同書 149ページ(図版省略)>

 オーブリー・ビアズリーの作品は、『百花深処』<エレガントな女性美>の項で紹介した「ザ・ビューティフル 英国唯美主義 1860−1900」で、『クライマックス―サロメ』(素描)など7点を観ることができた。『クライマックス―サロメ』と他の2点は、作家オスカー・ワイルドの戯曲本『サロメ』の挿絵として描かれたもので、それらは、今でも1880年代のデカダンスの縮図と見做されているという。

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夜間飛行について

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