夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


行動の契機

2012年07月02日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 先回「複眼主義とは何か」の項で、複眼主義とは、脳と身体、都市と自然といった二項対比・双極性について、

(一)その特質を、的確に抽出すること
(二)どちらか片方に偏らないバランスの取れた考え方を実践すること
(三)特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと

であると纏めたけれど、この複眼主義において、「行動の契機」は何によって与えられるのだろうか。ここでいう「行動」とは、日常生活上のことではなく、人生における目標、仕事の動機、生きる目的といったことを指す。今回はこのことについて考えてみたい。

 脳と身体、都市と自然といった二項対比・双極性の系は、行動の契機というよりも、個人や社会における「公(public)と私(private)」のバランスであった。行動の契機(人生における目標、仕事の動機、生きる目的)における二項対比・双極性は、この系列とは別の、そう、このブログで再三論じている「生産と消費論」という系に求められる。

 「小説“僕のH2O”について」の項で書いたように、「生産と消費論」における二項対比・双極性は、

1. 人は社会の中で生産(他人のための行為)と消費(自分のための行為)を繰り返していく。人は自分のために生まれるのではなく、社会のために生まれてくる。

2. ある人の生産は他のある人の消費であり二つは等価である。生産は主に理性(交感神経)的活動であり、消費は主に感性(副交感神経)的活動である。

というものだ。人生そのものが他人の為などというと、宗教かボランティア活動と誤解されかねないが、この考え方は、自分の為のことをしてはいけないのではなく、「それが回りまわって人の為になる」というところに力点を置いている。

 この二項対比・双極性において、行動の契機(人生における目標、仕事の動機、生きる目的)とは、社会のために生まれてきた個人が、どのような分野でその貢献を果たすのかということであるから、それはここでいう「生産」のあり様であるということが出来る。

 人は自由意志に基づいて、自分の得意分野で「生産」を行なうことができる。以前「継承の文化」の項で述べたように、それは至高的存在としての“あなた”に近づこうとする自由意思である。

 この生産と消費の系列については、これまで、

I   生産−交感神経優位−理性−統合
II  消費−副交感神経優位−感性−分散

といった二項対比・双極性を指摘してきた(詳しくはカテゴリ「生産と消費論」の記事をお読みいただきたい)。

 さて、それでは「脳と身体」や「都市と自然」の系における二項対比・双極性と、「生産と消費」の系列におけるそれとの関係はどのようなものなのだろうか。それについては以前「“わたし”とは何か II」の項で、

(引用開始)

 この「脳と身体」の双極性と「生産と消費」の対極性は、前者を横軸にとれば、後者は縦軸となる関係である。相関の詳細については、「縦軸と横軸」、「楕円と斜線分」、「上下のベクトル」の各項を参照していただきたい。

(引用終了)

と書いたことがある。すなわち、人(脳と身体)は、都市と自然に対して、影響を及ぼし(生産活動)及ぼされる(消費活動)という関係にある。人は、生産活動を通して、行動の契機(人生における目標、仕事の動機、生きる目的)を実現しようとする。

 私の場合、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(public)」
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(private)」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を自分のうちにバランスよく保ちながら、行動の契機としては、「理念(Mission)と目的(Objectives)の重要性」の項でも述べたように、サンモテギ・リサーチ・インク(SMR)を立ち上げ、

企業理念:
電子出版などの新しいエレクトロニクス・ビジネスを通じて人間の知の拡大に貢献する

活動目的:
1.エレクトロニクス業界におけるビジネス・コンサルティング
2.電子出版などにおけるコンテンツ企画および作成
3.電子出版などにおけるコンテンツ配信、販売
4.その他上記関連業務

といった内容の生産活動を行なっている。このブログでの発信も勿論その一環である。

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“わたし”とは何か III 

2011年07月19日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「“わたし”とは何か」「“わたし”とは何か II」において、「わたし」とは社会の「至高的存在」(あなた)を映す鏡であり、生きがいとはその「至高的存在」に近づくことだと述べてきた。ここでは視点を変えて、ときどき近親者や友人の中に見え隠れする「わたし」自身について述べてみたい。

 近親者や友人のなかに、ちらりと自分の姿が見えることがある。母親が子供に語るその子の幼かったころの想い出、部下が上司に語るその上司の会議での態度に感銘を受けた話、仲間との集合写真に写る自分の姿、などなど。そういう、いわば社会の遠景に見える自分の姿をいとおしく感じることがある。それは、「至高的存在」に近づく努力とはまったく別なところにあるのだが、人が時としてこのような気持ちを抱くのはなぜだろう。

 「“わたし”とは何か」の項で、河野哲也氏の「自己とは、あくまで環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用のなかで成立する徹底的に身体的な存在である。」という言葉を紹介した。人は環境(社会)から独立した存在ではあり得ない。いわば社会から離れられない生き物だ。だから社会の中に自分の姿を見つけると、自分の居場所を見つけたような安心感があるのだろう。ここでいう「居場所」とは、物理的な場所ではなく、人から見守られているという精神的な安心感のことである。

 以前「エッジ・エフェクト」の項で、“マージナル・マン”という言葉を紹介したけれど、それほど大げさ(特別な人)でなくとも、「生産」に携わる人は誰でも、朝親しい日常から離れて(境界を跨いで)仕事をし、それを終えると夜、また親しい日常へ帰ってくる。近親者や友人が齎(もたら)す安心感。この安心感があればこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。

 人から見守られているという安心感は、隣近所との朝の挨拶、行きつけの店で店主と交わすやりとりなどでも確認できる。特に災害に遭った場合や病気になったときなどは、見ず知らずの人からでも一声掛けて貰うととても励みになる。

 ここで、親しい人の死が何故それほど悲しいのかを考えてみよう。それは、親しい人にもう会えないからばかりではなく、その人の中にあった自分がその人と一緒に消えてしまうからではないだろうか。人はなんと多くの他人を自分の記憶のうちに住まわせるのだろう。なかでも「わたし」の鏡に映る「至高的存在」(あなた)の姿は常に眩く輝いている。人生の晩年のドラマは、そういう知己を現実世界で次々と失っていくということであり、それはまた、他人の中にあった自分を次々に失っていくということでもあるのだ。自分の中にある親しい人の存在感はその人が亡くなった後も消えることはないから、人は長生きすればするほど、晩年、その(自分のうちに住む他人と他人のうちに住む自分の数の)非対称性に耐えなければならない。

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“わたし”とは何か II 

2011年07月11日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「“わたし”とは何か」の項で、「わたし」と社会の関係を「公と私論」の観点から論じたが、今回は、「わたし」と社会の関係を、「生産と消費論」との関連で考えてみたい。

 尚、このブログでいう「生産」とは、単にお金に換算できる仕事だけを指すのではなく、ボランティア活動などの「他人のためになる行為全般」を指す。「消費」とは、単に金銭的な消費行為だけでなく、食事、睡眠、休暇などの「自分のためになる行為全般」を指す。詳細はカテゴリ「生産と消費論」を参照のこと。

 先日「自律神経と生産と消費について」の項で、

(引用開始)

多く場合、活動的な体調が「生産」の緊張を支え、リラックスした体調が「消費」の心理状態を支えている。従って、「生産」には交感神経優位の体調が必要で、「消費」には副交感神経優位の体調が必要といえる。すなわち、

「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位

という対比が可能になるわけだ。勿論、どちらの自律神経が優位かということであって、「生産」には交感神経だけが使われるとか、「消費」には副交感神経だけが使われるということではないので念のため。

(引用終了)

と書いたように、「生産」は交感神経優位の理性的・統合的な活動であり、「消費」は副交感神経優位の感性的・分散的活動である。従って、

「生産」の司令塔は「脳の働き(大脳新皮質主体の思考)」
「消費」の司令塔は「身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)」

ということが出来るだろう。勿論、実際に働いたり休んだりするのは「わたし」の脳と身体両方である。

 この「脳と身体」の双極性と「生産と消費」の対極性は、前者を横軸にとれば、後者は縦軸となる関係である。相関の詳細については、「縦軸と横軸」、「楕円と斜線分」、「上下のベクトル」の各項を参照していただきたい。

 さて、前回、人は日々「至高的存在」に近づこうと努力するが、「わたし」自身はその人にとって「至高的存在」ではあり得ない、と述べた。このことを「生産と消費論」の観点からみると、「至高的存在」に近づくことは「生産」(他人のためになる行為全般)であり、「消費」(自分のためになる行為全般)では無いということである。そして、「至高的存在」に近づくことが人生の目的であるならば、人生は「生産」のためにあるということになる。

 このことは、以前「生産が先か消費が先か」の項で、

(引用開始)

人はまずこの世に生まれてくる。そしてこの「生まれてくる」ことは決して「自分の為」ではありえない。人は何のために生まれてくるかと言うと、家族や社会の為に生まれてくる。このことは大変重要なことだ。

(引用終了)

と書いたことと整合する。

 ここにおいて、人生の意味が構造的に明らかになる。人生の意味とは、少しでも「至高的存在」に近づき、それをさらに高めることに貢献することである。それが「生産」活動の本質であり、その活動を支えるために「消費」がある。そして、人は社会の中でこの二つの行為を繰り返している。ある人の「生産」は別の人の「消費」であり、ある人の「消費」は別の人の「生産」である。

 人は「生産」(交感神経優位)と「消費」(副交感神経優位)とを繰り返しながら、「至高的存在」を目指す。それは、呼吸(吸気:交感神経調整、呼気:副交感神経調整)を繰り返しながら、山の頂を目指す登山家のようなものだともいえる。いや、登山とはそもそも人生のアナロジーなのだろう。「人はなぜ山に登るのか、そこに山があるから」と言う問答は有名だが、人はなぜ「至高的存在」を目指すのかといえば、人生がそこにあるからということである。

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自律神経と生産と消費活動について

2011年06月28日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「交感神経と副交感神経」の項で、

(引用開始)

 この「自律神経系」と「生産と消費論」のアナロジーについては、また項を改めて考えてみよう。

(引用終了)

と書いたけれど、今回はこのことについて少し掘り下げてみたい。まずこのブログにおける「生産」と「消費」の定義から。

 このブログでいう「生産」とは、単にお金に換算できる仕事だけを指すのではなく、ボランティア活動などの「他人のためになる行為全般」を指す。「消費」とは、単に金銭的な消費行為だけでなく、食事、睡眠、休暇などの「自分のためになる行為全般」を指す。詳細はカテゴリ「生産と消費論」を参照のこと。

 次に、自律神経(交感神経と副交感神経)の役割を再度確認しておこう。今回は、“ガンは自分で治せる”安保徹著(マキノ出版)から引用する。

(引用開始)

 交感神経と副交感神経は正反対の働きをし、両者は互いに拮抗(きっこう)するように働いています。交感神経は主に運動時や昼間の活動時に優位になる神経で、心臓の拍動(はくどう)を高め、血管を収縮(しゅうしゅく)させて血圧を上げ、消化管の働きを止めて、体を活動的な体調に整えます。
 副交感神経は食事のときや休息時に優位になる神経で、心臓の拍動をゆるやかにし、血管を拡張して血流を促し、心身をリラックスモードに整えます。また細胞に分泌(ぶんぴつ)や排泄(はいせつ)を促す働きがあり、副交感神経が優位になると、消化液の分泌や排便が促進されます。

(引用終了)
<同書23−24ページ>

 それでは次に、この自律神経と生産と消費活動の関係を見てみよう。多く場合、活動的な体調が「生産」の緊張を支え、リラックスした体調が「消費」の心理状態を支えている。従って、「生産」には交感神経優位の体調が必要で、「消費」には副交感神経優位の体調が必要といえる。すなわち、

「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位

という対比が可能になるわけだ。勿論、どちらの自律神経が優位かということであって、「生産」には交感神経だけが使われるとか、「消費」には副交感神経だけが使われるということではないので念のため。

 この対比については、さらに「理性と感性」「統合と分散」の項などを参照して欲しい。自律神経という人の体内活動が、生産と消費という人の社会活動とこのような形でリンクするのは、なかなか興味深い。

 自律神経と生産と消費活動の現場をもう少し微細に見てみよう。自律神経は、心臓や血管、胃腸や汗腺など内臓諸器官の働きを調整している。呼吸を調整しているのも自律神経で、息を吸うときは交感神経が、吐くときは副交感神経が調整している。

 我々は何かの作業に集中していると、ときどき息を吐(つ)くのを忘れてしまうことがある。これは体調が交感神経優位になるため、副交感神経の調整する呼気が疎かになるわけだ。これが「息吐く暇も無い」という状態だ。以前「体壁系と内臓系」の項で指摘したように、呼吸(特に吸気)は体壁系の横隔膜によって行われるから、人は息を止めることが出来でしまう。

 「体壁系と内臓系」の項などで紹介した三木成夫氏は、その著書“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)のなかで、「仕事の唄」について考察しておられる。日本では昔から作業中息吐きを忘れないように、一緒に唄を歌いながら(息を吐きながら)作業をしたという。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 田植えから稲刈りまで、船曳(ひ)きから樵(きこり)まで、人びとは山に海に四季色とりどりの唄ごえに合わせて仕事の手を進めていったのである。そこには「仕事すなわち息抜き」の等式があった。
 現在、ヨーガや太極拳からカラオケに至るまで、呼吸に関係する健康と娯楽のブームであるという。しかしこれらは仕事の息詰まりに対する精一杯の息抜きとして作用しているようだ。私はむしろ、この現代こそ、あの仕事の唄の呼吸の掛け声を、日々の作業の上にも何らかの形でよみがえらせるべき時ではないかと思っている。
 もちろん声で歌う必要は無い。「クビ」を正しく、肩肘(ひじ)の力を抜いて横隔膜の余分の張りをとり、つねに、この唄の吐く息で手を進めてゆけば、それでよいのだ。
 仕事になれるとは、要するに、この呼吸をマスターすることではないだろうか。

(引用終了)
<同書27ページ>

 呼吸を正しく行わないと、交感神経優位の状態が続くことになり、いっとき作業の効率は上がるだろうが、身体は低酸素状態になる。そうなると、「解糖系とミトコンドリア系」の項で述べたように、エネルギー生成系のほうもミトコンドリア系から解糖系にシフトしていく。解糖系エネルギーは、瞬発力に優れているが持久力には向かない。だからそのままではやがて仕事も行き詰ってしまうわけだ。皆さんも、

「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位

という大枠を理解した上で、呼吸法などを工夫しながら、バランスよく仕事を進めていただきたい。

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posted by 茂木賛 at 09:56 | Permalink | Comment(0) | 生産と消費論

上下のベクトル

2010年01月18日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

久しぶりに「生産と消費」について。以前「楕円形と斜線分」のなかで、

(引用開始)

 二つの楕円の相互関係、斜線によって分けられた楕円形内部各領域の意味、全体の構図と時間論との繋がりなどについては、また項を改めて考えてみたい。

(引用終了)

と書いた。この項では、そのうちの「二つの楕円の相互関係」について整理したい。二つの図形は以下の通りである。
都市と自然
脳と身体
尚「斜線によって分けられた楕円形内部各領域の意味」については、一部「庭園について」の項で触れた。

 二つの楕円の相互関係は、「個人と社会集団」の関係である。勿論上の楕円が集団、下の楕円が個人である。そしてこの「個人と社会集団」を繋ぐのは、人の「行為」である筈だ。さらに、人の「行為」は、これまで「生産と消費論」のなかで縷々述べてきたように、「他人のための行為(生産)」と「自分のための行為(消費)」とに分けられる。従って、この二つの楕円は、「生産」と「消費」という二つのベクトルによって結ぶ(関係付ける)ことができる。

「生産」 ↑    
「消費」 ↓ 

 次に、以前「縦軸と横軸」のなかで示した、「個人と社会集団」と「公と私」との関係を思い起こしていただきたい。

(引用開始)

 ここで、前者のつながり(個人と集団)を縦軸に、後者の対比(公と私)を横軸にとり、両軸を中央で交差させると、二つが組み合わさったひとつの図を作ることができる。
c.jpg
(引用終了)

よく見ていただければ分かるように、「縦軸と横軸」の図の、縦軸上の上下に二つの「楕円形と斜線分」、横軸上、二つの楕円の間に「上下のベクトル」を書き込めば、「生産と消費」、「公と私」、「脳と身体」、「都市と自然」という四つの対比構造を、ひとつの図の下に表示することができる。

 いかがだろう。「縦軸と横軸」「楕円形と斜線分」「上下のベクトル」という三組の補助線によって、これまで「生産と消費論」、「公と私論」、「脳と身体」などで論じてきた各対比構造が相互に繋がり、全体の関係が把握しやすくなったのではないだろうか。今後はさらに、「全体の構図と時間論との関係」や「斜線によって分けられた楕円形内部各領域の意味」、「日本語的発想と英語的発想における図形の相違」などについて見て行きたい。

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効率と効用

2009年03月17日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 「効率」と「効用」という二つのキーワードから、経済を考えてみよう。ここでいう経済とは、 “それ自体法則であるところの自然界の諸々の循環を含めて人間を養うシステム”(6ページ)「経済人類学を学ぶ」栗本慎一郎編著(有斐閣選書)を指し、社会の根本システム、その理法・摂理を意味する。

 これまで「生産と消費について」などで見てきた「生産と消費論」を纏めると、

1. 人は社会の中で生産(他人のための行為)と消費(自分のための行為)を繰り返していく。人は自分のために生まれるのではなく社会のために生まれてくる。
2. ある人の生産は他のある人の消費であり二つは等価である。生産は主に理性的活動であり消費は主に感性的活動である。
 
というものだった。詳しくはカテゴリ「生産と消費論」の記事を順にお読みいただきたい。

1. 個人における生産と消費の循環(「人の生産活動に注目するということ」)
2. 社会における生産と消費の交換(「生産と消費について」)
3. 生産と消費の相補性(「アフォーダンスについて」)
4. 生産と消費の人間属性(「理性と感性」)
5. マーケティングにおける生産と消費(「統合と分散」「統合と分散II」)
6. 生産あっての消費(「生産が先か消費が先か」)
7. 生産の質を高める消費(「贅沢の意味」)
8. 生産と消費の等価性(「人を褒めるということ」「生産と消費の等価性」)

 ここで、生産活動から生ずる便益のうち、計量化できるものを「効率」、出来ないものを「効用」と呼ぼう。A地点からB地点まで移動するのに、どれだけ早く移動できるかが「効率」であり、道中をいかに楽しめるかが「効用」である。

 「効率」には値段がつけられるが、「効用」には値段がつけられない。新幹線チケットに値段はつくが、親しい友人と楽しむ旅に値段はつかない。どこかのクレジットカード会社にも、友情や愛情など、お金では買えない素晴らしいものを「プライスレス」と表現する宣伝があった。

 「効率」には尺度としての時間が関わっている。「効用」に共通の尺度は存在しない。コンピューターなどの「効率」系商品は都市で流通し、温泉などの「効用」系サービスは自然と共にある。「効率」は脳が判別し、「効用」は身体が実感する。「効率と効用」は互いに影響しあいながら、社会の“人間を養うシステム”を構成している。人にとって脳と身体のバランスが大切なように、社会にとっては、効率と効用(=都市と自然)のバランスが重要である。

 以前「競争か協調か II」の最後に、

(引用開始)

ビジネスの難しいところは、「生産と消費との等価性」を念頭に置きつつ、社会(都市)の約束事としてのお金の必要性を忘れてはならないところにある。(中略) 経営とは「金と良心との両立」を図ることなのである。

(引用終了)

と書いたけれど、社会における「効率と効用」のバランスは、経営における「金と良心との両立」と重なっている。

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生産と消費の等価性

2008年11月11日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日の新聞投書欄に「『幸せは買えない』実感」という記事があった。全文を引用してみよう。

「先日、前から気になっていたお店にランチを食べに行きました。ゆっくり味わい、その後デザートもお願いしました。すると、お店の人が笑顔で、『これさっきの団体さんが残したケーキだけど、おすそ分け』と小さなケーキをくれました。
 突然のことに驚きながらも、思わず『うれしい』といって頭を下げました。このケーキは本当に小さい物でしたが、私には、どんなに高価な物よりも百倍優しく、幸せな気持ちでいっぱいになりました。そしてふと、付加価値というものを考えてしまいました。
 現在日雇いアルバイトで生計を立てている、という人が少なくありません。これが問題化しているのは、そこに人間関係のジレンマが生まれ、彼らが不当な扱いを強いられて、働くことに価値が見出せなくなっているせいだと考えます。
 すなわち、企業が利益を上げることに重きを置いている、ということなのですが、商品に価値を与える前に、そこで働く人々に付加価値を与える方がよっぽど大切なことではないでしょうか。
 あの小さいケーキから見いだした付加価値は私だけのメジャーから生み出されたものです。しかし、それは、お店の人の優しさがあって初めて生まれ得たものです。
 先日の本誌「筆洗」にゴーリキーによれば『金と良心は反比例する』とありましたが、この法則を壊す人がもっと増えてほしいと思います。と同時に、私達は自ら価値を見極めつくり出す能力も必要です。俗っぽい言い方ですが、幸せはお金では買えない、とあらためて実感しました。」(9/22/08東京新聞)

以前「人を褒めるということ」のなかで『称賛が現金を受け取ることと同様な効果を生むということは、報酬が金銭の多寡に関わらないということであり、「生産と消費の等価性」を示唆するものでもある。』と書いたが、「生産と消費の等価性」は、称賛同様、このような形でも成り立つことが分かる。

 勿論ここで云う「生産と消費の等価性」とは、物理的に等しいということではなく、生産と消費の取引に「余剰」が生まれないという意味である。アフォーダンス理論でいうところの「環境と知覚との相補性」と同じことだ(詳しくは上述「人を褒めるということ」、さらには「アフォーダンスについて」、「生産と消費の分離・断絶」などを参照のこと)。この場合、「小さなケーキ」を介して、お店の人の優しい気持ちと、「私」の幸せな気持ちとが「等価」なのである。

 この投書を書いた19歳の大学生は、このお店で得た「幸せな気持ち」を糧に新聞へ投書した。担当の記者がそれを掲載する、それを読んだ私がここへ転記、皆さんがそれを読む。一つの「小さなケーキ」がこうした生産と消費の連鎖反応を起こしていく。その間だれも儲かりもしなければ損をしたわけでもない。生産と消費の連鎖は波のようなものだ。波は増幅したり減衰したりしながら、社会を縦横に駆け巡る。振幅が大きいほど活気のある豊かな社会だといえる。

 さて、生産と消費の取引に「余剰」は生まれないとはいっても、お店を構えて「小さなケーキ」を作るにはお金が掛かることも事実だ。このお店の場合、団体さんが残したケーキだったから良いけれど、いつもケーキを只でお客に配っていたのでは採算が取れないだろう。

 ビジネスの難しいところは、「生産と消費との等価性」を念頭に置きつつ、社会(都市)の約束事としてのお金の必要性を忘れてはならないところにある。経営者は、この二つのさじ加減をうまく調節しながら、よりよいサービスを作り出し継続させていかなければならない。そのためにResource Planning(R.P.)やProcess Technology(P.T.)といった知恵もあるわけだが、投書にある言葉を使えば、経営とは「金と良心との両立」を図ることなのである。そしてそれこそが経営の醍醐味であるといえるだろう。

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人を褒めるということ

2008年08月07日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 少し前の新聞に、『「称賛=精神的励み」研究で裏づけ』という記事があった。短いコラムなので全文引用しよう。

 『自然科学研究機構生理学研究所(愛知県岡崎市)の定藤規弘教授の研究チームが、他人から褒められると、ヒトの脳は現金を受け取った場合と同じ部位が活性化するという研究結果を発表した。
 ロイター通信によると、十九人の健康な男女を対象に、カードゲームで勝って賞金を得たときと他人から褒められたときの脳の反応を、それぞれ特殊な磁気共鳴画像装置(MRI)で撮影して比較した。
 研究チームは、今回の研究結果は、称賛はヒトに精神的な励みを与えるという長年の仮説を科学的に裏付けるものだとしている。
 研究の結果は、米科学誌「ニューロン」に掲載された。』(5/13/08「東京新聞」より)

 「生産が先か消費が先か」で述べたように、人生の目的が消費(自分のための行為)ではなく生産(他人のための行為)であってみれば、人の脳には、その生産行為に対して、本能的に喜びを感ずる仕組みが備わっている筈だ。相手から受ける称賛は、その行為が本当に相手のためになったことの証であり、称賛が現金を受け取ることと同様な効果を生むというこの研究結果は、その本能を証明するものだと思われる。

 また、以前「生産と消費の分離・断絶」の中で、『「通貨価値」なるものをいったん外して考えれば、ある人の「生産」が別のある人の「消費」であり、ある人の「消費」が別の或る人の「生産」なのだから、社会における「生産」と「消費」の価値総和は、互いに見合っている筈なのである。』と書いたけれど、称賛が現金を受け取ることと同様な効果を生むということは、報酬が金銭の多寡に関わらないということであり、「生産と消費の等価性」を示唆するものでもある。

 「生産と消費の等価性」については、以前、アフォーダンス理論の重要な点のひとつとしても触れた。

 『二つ目は、環境と知覚とが、運動を通して表裏一体とされる点である。私の「生産と消費論」では、生産と消費はコインの裏表のようなものなのだが、それは、(アフォーダンス理論で)環境と知覚とが表裏一体とされるのと同じ構造のように思われる。「集合名詞(collective noun)の罠」では、これを「生産と消費との相補性」と呼んだ。
 表裏一体ということは、お互いの交換価値が等しいということである。私はこの価値等価性を「通貨とは異なる価値基準の鼎立」として、さらに展開・深化できないものかと考えている。これまでの経済理論では、生産と消費とは別々の場面で、それぞれ異なった動機で行われ、その価値は通貨という客観的な価値基準で決まるとされている。このようなアフォーダンス理論の経済学への適用は、まだあまりなされていないのではないだろうか。』(「アフォーダンスについて」)

 定藤規弘教授チームの研究結果は、単に「称賛はヒトに精神的な励みを与えるという長年の仮説を科学的に裏付ける」だけではなく、最近の「行動経済学」や「神経経済学」が対象とする、人の「利他的行動」のルーツに迫るものだと思う。今後もこの分野の研究に注目してゆきたい。

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贅沢の意味

2008年07月08日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 「生産が先か消費が先か」で考察したように、人生は「生産」(他人のための行為)あっての「消費」(自分のための行為)だとすると、その逆を前提と考えていた人にとっては、いろいろなことがこれまでと違って見えてくる筈だ。たとえば贅沢をすることの意味はどうだろう。

 人生の目的が「消費」だと考えていた人にとって、「贅沢」とはいわば究極のゴールだろう。「バリ島へ行くために今お金を貯めているのよ」ということであれば、バリ島で贅沢な時を過ごしてしまえばそこで人生はリセットされ、次からは別の、より大きな「贅沢」を探さなければならない。そしてとうとう次が実現できない日が来ると、その人の人生はそこで終わってしまう。

 しかし人生の目的が「生産」であってみれば、バリ島で過ごした贅沢な時間は次の「生産」へ向けた準備期間に相当するだけで、次により大きな贅沢が出来なくとも、人生がそこで終わることはない。

 では贅沢をすることに意味はないのだろうか。贅沢は(人生の)敵なのだろうか。決してそうではあるまい。なぜならば、バリ島で贅沢な時間を過ごすことの出来た人には、次に、その人にしかできない集中度の高い「生産」が可能となるはずだからだ。バリ島でリフレッシュした女性は、帰国後、長年胸に温めてきた独立・起業が出来るかもしれないのだ。

 贅沢に限らず、なかなか味わえない特別な体験をした人には、そのことによって、その人にしか出来ない「生産」が可能となる。人生の目的が「生産」であってみれば、贅沢や特別な体験は、その人とその人を取り巻く社会にとって貴重な財産になるのだ。大金持ちの家に生まれてきた人、逆に貧乏のどん底から這い上がってきた人、「コーヒーハンター」の著者のように長年海外で暮らしてきた人、事故で九死に一生を得た人、出世コースのトップに立った人などなど。

 贅沢や特別な体験とは、次の「生産」の質を高めるための「消費」であると考えれば、出来る人は(他人に迷惑が掛からない範囲で)どんどん贅沢や特別な体験をすべきだということになる。社会の平等性とは、全員が横並びで我慢することでは決して無く、贅沢が出来る人はその分だけ社会に貢献し、出来ない人はそれなりに貢献するという幅のある考え方でなければならない。社会には多様性が必要だ。特別な体験をした人は必ずそれを社会へ返してくれることが分かっていれば、人の贅沢を羨む必要もない。

 しかしこのことを逆から考えると、特別な体験をした人には、その人にしかできない集中度の高い「生産」を行う責任が生まれるということでもある。たとえば「ハブ」と呼ばれる知人・友人が非常に多い人たち。そういう人たちは、『広く門戸を開き、公平性(次数相関「±0」)を心がけることで、数多くのリアルな「場」を作り出し、社会のスモールワールド性をより加速させること』(「ハブ(Hub)の役割」より)が期待されるわけだが、むしろ彼らはそのような「社会的責任」を持つと考えた方が良いだろう。

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生産が先か消費が先か

2008年06月17日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)についてこれまで、
1. 個人における生産と消費の循環(「人の生産活動に注目するということ」)
2. 社会における生産と消費の交換(「生産と消費について」)
3. 生産と消費の等価性(「アフォーダンスについて」)
4. 生産と消費の人間属性(「理性と感性」)
5. マーケティングにおける生産と消費(「統合と分散統合と分散II」)
などを見てきたが、そもそも人は、「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)のうち、どちらのために生きているのだろうか。生産あっての消費なのだろうか、消費あっての生産なのだろうか。

 皆さんの中には、「生産」よりも「消費」が先なのではないかと思う人がいるだろう。「俺は飲む為に働いているのだ」とか「競馬をやるために稼いでいるのだ」あるいは「バリ島へ行くために今(働いて)お金を貯めているのよ」という訳だ。一方で、「消費」よりも「生産」が先だと考える人も多いだろう。「働いて家族に楽をさせたい」、「困っている人たちを助けるためにバイトでお金を貯めています」などなど。あるいは「両方とも大事です」という人もいるに違いない。

 この疑問に答えるためには、そもそも人は何の為にこの世に生まれてくるのか、という根本に立ち返って考えてみる必要がある。人はまずこの世に生まれてくる。そしてこの「生まれてくる」ことは決して「自分の為」ではありえない。人は何のために生まれてくるかと言うと、家族や社会の為に生まれてくる。このことは大変重要なことだ。
 
 人は死ぬことは選べるが、生まれることは選べない。人は好むと好まざるとに関わらず社会の一員としてこの世に生まれてくる。だから生まれてくることが、その人が最初に行う「生産活動」と考えることが出来る。

 人はだれでもまずこの世に生まれるという「生産活動」から始める。そしてそのあとは、「生産」と「消費」を繰り返していく。その繰り返しの中で、わたしたちはときどき「消費」のために「生産」をしているのではないかと錯覚することもある。しかし、今述べた、わたしたちがこの世に生まれてきたことの本質的な意味を考えれば、勿論両方とも大事には違いないとしても、「消費」することよりも「生産」することの方が先にあるのだ、と納得できるのではないだろうか。

 「俺は飲む為に働いているのだ」というサラリーマンは、仲間と飲んで仕事の憂さをはらした後、いよいよ次の大仕事に取りかかる積もりかも知れない。「バリ島に行くためにお金を貯めているのよ」という女性は、実は「バリ島へ行ってリフレッシュしたら会社を辞めて独立したい」と密かに考えているのかも知れない。

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統合と分散 II

2008年06月10日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「統合と分散」の中で、『自らの商品・サービスが、顧客の「生産活動」もしくは「消費活動」どちらに使われるかに応じて、この「統合と分散モデル」を使った、効果的なマーケティングを編み出していくべきだと思う。』と書いたが、ビジネスによっては自らの商品・サービスが、顧客の「生産活動」と「消費活動」の両方で使われるケースもあると思う。

 たとえば例として、街中の「レストラン・カフェ」の場合を考えてみよう。顧客は商談などの「生産活動」にカフェを使うだろうし、食事などの「消費活動」にはレストランの方を主に使うだろう。こういう場合、マーケティングではどのような手法を用いればよいのだろうか。

 私ならば、まず店を大きく二つのセクションに分けるだろう。そして「カフェ」の部分は、顧客の「生産活動」(商談や仕事など)に使いやすいような明るい店作りにし、「レストラン」の部分は、顧客がリラックスできるような店作りを行うだろう。可能であれば営業時間も分ける。

 その上で、「カフェ」の方では、インターネットの使用、会員制度・ニュースレターの発行、顧客の意見を参考にしたメニュー開発、顧客の回転が低いことを見越した高めの価格設定などを積極的に行っていく。一方の「レストラン」では、分かりやすいメニューの作成、料理の質を落とさない範囲での低めの価格設定などを心がけ、顧客の生産活動を知る努力をしながら、リピーターを増やすための各種施策を行う。勿論、食材・接客の品質を高く保つことは大前提だ。

 その上でさらに、二つが同じ場所にあることを活かした、何らかのクロスマーケティング、たとえば、カフェ会員へのレストラン招待、などを試みるだろう。二つのセクションの特徴を出した名刺(裏表利用)作成なども行っていく。

 「携帯電話」などのように、(サービスではなく)商品が、顧客の「生産活動」と「消費活動」の両方で使われるケースはどうか。スモールビジネスで「携帯電話」を作ることはないだろうが、思考実験として考えてみよう。

 今の携帯各社は、世代別・男女別中心のマーケティング戦略のようだが、私ならばやはり、レストラン・カフェの場合同様、まず大きく二つの商品カテゴリーに分ける。たとえば二つを「お仕事携帯」、「お遊び携帯」と呼ぼう。それぞれに対して「統合と分散モデル」に沿ったサービスを展開する。その上でさらに、二つが同じブランドであることを活かした、クロスマーケティングを試みるだろう。

 「お仕事携帯」と「お遊び携帯」とに分けた機能・デザイン設計、それぞれに向けた(顧客の生産活動に注目した)ソフト開発などを行えば、提供する価値を明確にすることが出来るし、そもそもユーザーにとって、使って楽しい商品が出来上がると思うがいかがだろう。

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統合と分散

2008年06月03日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「理性と感性」のなかで、『仕事をしている人、「生産」をしている人は、頭を使い、物事を理論的につめながら、いろいろな事柄を「統合」の方向に持っていこうとしている。一方、自分の為になにかをしている人、「消費」をしている人の多くは、心を解き放ち、物事を感覚的に捉え、ものごとを「分散」させて楽しんでいる。』と書いたが、この「統合と分散モデル」は、企業のマーケティングにおいても大いに役立つ考え方だと思う。

 どういうことかというと、人は、生産および消費活動それぞれの現場で、様々な道具(商品)やサポート(サービス)を必要とするわけだが、統合・集中の原理の下にある「生産活動」と、分散原理の下にある「消費活動」とでは、使う道具(商品)・サポート(サービス)の目的用途が180度異なり、それに応じて、商品・サービスを提供する側のマーケティング戦略もまた、180度違うということである。

 雑誌「選択」(2/08号)は、家庭へのコンテンツ配信に関連した記事のなかで、テレビとパソコンの用途の違いを巡って、『CATVを世界展開する米リバティー・グループの総師であるジョン・マローンはかつてメディアにこう答えている。「パソコンを前にした人間と、テレビを前にした人間は決定的に違う。テレビは受動的なメディアで、パソコンのようにそれを能動的に使うひとは少ない。両方の種族を区別しなければ失敗するだろう」。たしかにテレビはソファにもたれて何も考えずにコンテンツを観賞するのにふさわしい。テレビをパソコンのように使って映像配信を検索したり、動画コンテンツを探したりする層がどれだけいるのかはわからない。』(87ページ)と指摘している。主に「生産活動」で使用されるパソコンと、もっぱら「消費活動」で使われるテレビとでは、マーケティング戦略やコンテンツ配信戦略が異なって当然なのだ。

 スモールビジネスでも、例えばオフィス街にある文具店と指圧やヒーリング・サービスの店を考えてみれば、前者は顧客の「生産活動」に利用されるのに対して、後者はもっぱら「消費活動」として利用される訳で、顧客とのコミュニケーションから店舗のデザインまで、まったく異なった戦略が求められる。

 文具店は、顧客の用途別に多用な品揃えが必要であり、詳細な顧客履歴システム、配送サービス、新しい商品の紹介などが役に立つだろう。一方の指圧やヒーリング・サービスは、顧客の気持を開放する店作りがまず大切だ。リピーターを増やすためのポイント提供、近隣レストランなどとのタイアップなども有効だろう。

 「人の生産活動に注目するということ」のなかで私は、『人の「消費活動」は、その人にとって、次の「生産活動」のための準備であることが分かる。ある商品(あるいはサービス)の購入は、それを買ったお客様にとって、次の自分の生産活動に役立てるためなのだ。』とし、『結果としての「消費」だけを見ているのでは、相手が次に何を「生産」しようとしているのか分からない。そのお客様は何のためにその商品を買ったのかということ、すなわち、そのお客様の仕事(生産活動)を知り、引き続きそのお客様の生産活動をサポートする姿勢が求められるのだ。』と書いた。

 これからのスモールビジネスは、顧客の「生産活動」に注目すると同時に、自らの商品・サービスが、顧客の「生産活動」もしくは「消費活動」どちらに使われるかに応じて、この「統合と分散モデル」を使った、効果的なマーケティングを編み出していって欲しい。

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posted by 茂木賛 at 13:55 | Permalink | Comment(2) | 生産と消費論

生産と消費の分離・断絶

2008年05月20日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 生産と消費との相補性について以前、『社会にとって重要なのは、ある人の「生産」が、別のある人の「消費」となる、というダイナミズムである。「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)には、必ず相手が存在する。一対多である場合もあれば一対一ということもあるだろうし、「生産」がサービスではなく物(商品)の場合は在庫期間もあるだろうが、他人のための行為にはかならず受け手が想定されるし、自分のための行為にはかならずそれを与えてくれる人が居る。』(「生産と消費について」)と書いたが、現代社会の問題の一つは、多くの場合、生産者と消費者との間が、複雑な流通や長期在庫などによって、分離・断絶していることであろう。

 『日本の「食」は安すぎる』(講談社+α新書)の著者山本謙治氏は、『現在の日本ではモノを購入する際には小売店を利用することがほとんどであるため、生産者の顔を見ることがない。だから消費者は、安くなると困る人がいるということを実感できない。いわゆる「生産と消費の断絶」の状態にあるのだ。モノを作る人の顔が見えず、商品だけがそこにある現在では、消費者が安さばかりを求めてしまうのも当然かもしれない。』(同書26ページ)と述べ、「理想的な社会とは、自らが望む生産活動に必要な糧を、消費者が納得して支払った価格で得られる状態であるはずだ。」(同25ページ)と書いておられる。

 私は「スモールビジネスの時代」のなかで、「最近、品質や安全の問題が頻発し、高度成長時代を支えた大量生産・輸送・消費システムが軋みをみせている。大量生産を可能にしたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織だが、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった、安定成長時代の産業システムを牽引するのは、フレキシブルで、判断が早く、地域に密着したスモールビジネスなのではないだろうか。」と述べたが、「食」の場合は特に、「生産者と消費者との距離の近さ」が重要だと考える。

 以前「食生活の変化と自給率」で引用した「フード・マイレージ」(日本評論社)の著者中田哲也氏は、その本の「あとがき」のなかで、「食の流通は多様化、広域化し、生産者、事業者、消費者はお互いの顔が見えにくくなっている。私たちの食生活は、世界のどこかで何かが起こる度に大きな影響を受け、あるいはマスコミの表面的な情報に簡単に踊らされるような、脆いものとなっている。(中略)現在の私たちの食は、たしかに非常に多くの深刻な問題点を抱えている。しかし、その一方で、今の病んだ社会を持続可能なものへと再生していく役割も、自然循環の制約と恵みの中で営まれる食と農こそが担い得るのではないか。できることから、自分の足元から、地域から。それが社会を変えていくきっかけになると確信している。」(225−226ページ)と書かれている。「生産者と消費者との距離の近さ」は、食品の鮮度保持や流通コスト低減だけではなく、地域社会の活性化にも繋がるのだ。

 食に限らず、これまでの高度成長時代を支えた大量生産・輸送・消費システムは、安い労働力、原材料費、流通コストを前提として、モノやサービスの質よりも、その交換効率を優先してきた。安定成長時代は、逆に、効率よりも質が重視されるだろう。そして、この「効率から質への価値転換」は、価値を測定する道具であるところの「通貨」それ自体の見直しを迫ることとなるだろう。「通貨価値」なるものをいったん外して考えれば、ある人の「生産」が別のある人の「消費」であり、ある人の「消費」が別の或る人の「生産」なのだから、社会における「生産」と「消費」の価値総和は、互いに見合っている筈なのである。

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理性と感性

2008年03月18日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「人の生産活動に注目するということ」において、『人は社会の中で、この二つの行為、「生産」と「消費」とを繰り返していることが分かる。そして、人の「消費活動」は、その人にとって、次の「生産活動」のための準備であることが分かる。ある商品(あるいはサービス)の購入は、それを買ったお客様にとって、次の自分の生産活動に役立てるためなのだ。』と書いた。

 付け加えれば、ここでいう「生産活動」とは、単にお金を稼ぐことだけではなく、仕事やボランティア活動などの、他人のために役立つ行為全般を指し、「消費活動」とは、単なる金銭的な消費活動だけではなく、食事、睡眠、休暇などの自分のための行為全般を指す。

 さて今回は、その「生産活動」と「消費活動」に関する「人間属性」を整理してみたい。「人間属性」などと難しい言い方をしたが、いいかえれば、人は「生産」と「消費」とで、それぞれ主にどの機能を使っているかということだ。

 まず、「生産活動」をしている人たちを思い浮かべてみよう。タクシーの運転手、工場の作業員、デザイナー、音楽家、企業経営者などなど。それらの人たちが仕事をしているときは、どうすれば一番効率が良いか、目的を達成するためにはどうしたらよいか等についてよく考えている筈だ。それらの人たちは、いろいろなことを分類・分析しながら、理性的に行動している。みなさんもご自分が仕事をしているときのことを思い出してみて欲しい。結構頭を使っているに違いない。使いすぎて頭が痛くなることもある。

 一方消費活動はどうかというと、同じ人たちが、山歩きをしているとき、食堂でなにかを食べている時や、自宅でテレビを見ているときは、あまりむずかしいを考えずに、味覚だとか、聴覚だとかを十分に働かせている。みなさんも仕事で頭を使いすぎたあとは、のびのびと感性を解放させてやりたいと思うだろう。

 すなわち、「生産」は「理性的」活動を中心とし、「消費」は「感性的」活動を中心としている。勿論、人間属性の分類はあくまでも「主に」どの機能を使っているかということであって、「生産活動」には理性だけが使われるとか、「消費活動」には感性だけが使われるというようなことを言っている訳ではないので念のため。

 「理性」というのは論理の積み重ねだから、直線的、積層的、一方向性、などの性質を持っている。運動としては「統合」といえるだろう。一方「感性」というのは、曲線的、変幻自在、多方向性、などの性質を持っている。運動としては「分散」だ。

 仕事をしている人、「生産」をしている人は、頭を使い、物事を理論的につめながら、いろいろな事柄を「統合」の方向に持っていこうとしている。一方、自分の為になにかをしている人、「消費」をしている人の多くは、心を解き放ち、物事を感覚的に捉え、ものごとを「分散」させて楽しんでいる。

 こう考えてみると、「趣味を仕事にする」ということはいろいろと複雑である。「仕事」すなわち「生産」は、どんなに好きなことであっても、基本的に「理性」と「統合」の原理で動き、「趣味」は本来、「感性」と「分散」の元にある。だから、「趣味を仕事にする」ということは、本人がその仕事に本気になればなる程、趣味(の中身)が変化していくことになるのだ。

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生産と消費について

2008年01月23日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「人の生産活動に注目するということ」で、人は社会の中で「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)とを繰り返している、ということを書いたが、社会にとって重要なのは、ある人の「生産」が、別のある人の「消費」となる、というダイナミズムである。

 「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)には、必ず相手が存在する。一対多である場合もあれば一対一ということもあるだろうし、「生産」がサービスではなく物(商品)の場合は在庫期間もあるだろうが、他人のための行為にはかならず受け手が想定されるし、自分のための行為にはかならずそれを与えてくれる人が居る。自然を満喫しようと思って山歩きをしたとしても、どこかに誰か、山道を整備してくれた人が居るはずなのだ。三つ星レストランのシェフが腕によりをかけて料理を作ろうとすれば、すばらしい素材を提供する多くの農家や酪農家が必要となる。オペラ歌手にはその技量を味わう観客が必要なのだ。

 マーケティングの本を開くと、ビジネスを二つに分けて、B2C(Business to Consumer)とかB2B(Business to Business)などと呼んでいるが、自分のための行為=次に行う「生産活動」のための準備、と考えれば、すべての取引は「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)との交換に分解できることがわかる。B2CであろうがB2Bであろうが、全てのビジネスは、その商品(あるいはサービス)を必要とする相手が居て成り立つわけだ。

 だからビジネスとしては、「人の生産活動に注目せよ」ということのなるのだが、社会にとっては、「生産」と「消費」が出会う「場」が決定的に重要となる。ここでいう「場」とはフリーマーケットや野菜の朝市のことだけではない。先日も述べたように、ここでいう「生産」と「消費」には、金銭の授受を伴わない行為も含まれる。人と人が出会うところは全て「場」なのである。

 以前「ハブ(Hub)の役割」で、出来るだけ多くのリアルな「場」を作り出すことの重要性を書いておいた。スモールワールドが作り出すのは、多様性と意外性に富んだ、かけがいのない「生産」と「消費」の出会いの場なのである。

 人が心をこめてつくった商品やサービス(あるいはボランティア活動など)は、受け手に深い満足と感動を与える。そして、次にその受け手が(別の他人のために)何か良いものを作り出す力の源泉となる。この「生産」と「消費」の出会い、相補性、およびその永続的な連鎖が、真に豊かな人間社会を創り出すのだ。

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posted by 茂木賛 at 10:44 | Permalink | Comment(0) | 生産と消費論

人の生産活動に注目するということ

2007年12月19日 [ 生産と消費論 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「スモールワールド・ネットワーク」の中で、「これからの多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術時代は、スモールワールド・ネットワークの考え方が重要になるだろう」と書いた。しかし、世界中のどの人へもすぐに(6つのステップ以下で)コンタクト出来るのは良いとして、そもそも何を目的としてコンタクトするのか、が重要なのはいうまでもない。

 インターネットを活用した、昨今流行のターゲット・マーケティングやOne-to-Oneマーケティングの手法はまだ、相手の過去の消費動向を分析して、関連ある商品の宣伝を自動的に送りつけるというお手軽な発想のものが多い。しかし相手にとっては、関連商品の宣伝は迷惑なだけかもしれない。せっかく世界中のどの人へもすぐにコンタクト出来る社会になったのに、実情はお金目当ての迷惑メールが蔓延しただけ、というのでは情けない。そこで、私は声を大にして、「スモールビジネスはお客さまの生産活動に注目せよ」と提唱したい。

 ここでいう「生産活動」とは、単にお金を稼ぐことだけではなく、仕事やボランティア活動などの、他人のために役立つ行為全般を指し、「消費活動」とは、単なる金銭的な消費活動だけではなく、食事、睡眠、休暇などの自分のための行為全般を指す。すなわち、他人のために役立つ行為を、生産的な行為すなわち「生産」、自分のための行為を「消費」呼ぶ訳だ。

 そう定義してみると、人は社会の中で、この二つの行為、「生産」と「消費」とを繰り返していることが分かる。そして、人の「消費活動」は、その人にとって、次の「生産活動」のための準備であることが分かる。ある商品(あるいはサービス)の購入は、それを買ったお客様にとって、次の自分の生産活動に役立てるためなのだ。

 簡単な例を挙げて考えてみよう。たとえばある人がネットで手作りのランプを売っていたとしよう。このランプ屋さんを仮にAさんとする。あるお客さんがランプを一つ買った。そのお客さんをBさんとしよう。Aさんは新作が出来るたびにBさんに宣伝メールを送るのだが返事がない。

 しばらくしてAさんはふとあることを思い出した。それはBさんがランプを買うときに「新しい部屋で使うので」と書いてくれていたことだ。そこでAさんは「スモールビジネスはお客さまの生産活動に注目せよ」という提言を思い出して、自分の商売とは直接関係ないけれど、友人でインテリア・コーディネーターのCさんをAさんに紹介した。

 しばらくしてBさんから返事が来る。インテリア・コーディネーターは間に合っているけれど、自分はアクセサリーのデザイン・製作をしているので、手元が良く見える拡大鏡を探している、とのことだ。たまたまCさんの友人に鏡屋(Dさん)がいたのでCさんから紹介してもらう。

 さて、それからしばらくたったある日、BさんからAさんに、拡大鏡の御礼とともに、アクセサリーを買ってくれたEさんがおしゃれなランプを探している、との話が舞い込んだのである。

 もしAさんが、ランプを買うというお客の消費行動だけに注目していたら、けっしてEさんの話には繋がらなかっただろう。AさんがBさんの生産活動に目を向け、友人のCさんを紹介したことで、Aさん、Bさん、Cさん、Dさん、Eさんがそれこそ「スモールワールド・ネットワーク」で繋がったのである。

 これからは、省資源の時代でもある。そのためには人々が助け合いながら暮らしていくことが大切だ。共に助け合いながら生きていくことは、相手の「生産活動」を理解することから始まる。結果としての「消費」だけを見ているのでは、相手が次に何を「生産」しようとしているのか分からない。そのお客様は何のためにその商品を買ったのかということ、すなわち、そのお客様の仕事(生産活動)を知り、引き続きそのお客様の生産活動をサポートする姿勢が求められるのだ。

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