夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


都市の時間

2009年03月24日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「集団の時間」で述べた、都市の時間について敷衍しておこう。都市(人が便利さを求めて作り出したもの全般)の時間原理はなぜ金利(=interest)なのか。まずは「集団の時間」から引用する。

(引用開始)

 集団においては、人の脳が作り出したものに、何らかの公共的な序列をつける必要が出てくる。公共的な序列に組み入れられたもの(値段が付けられたもの)は、市場を介して流通させることが出来る。その値段を決める市場の時間原理が金利(=interest)なのである。

(引用終了)

ここでいう時間とは、人が考え出した時計で測ることができる均一な時間である。次に前回の「効率と効用」から引用する。

(引用開始)

 「効率」には値段がつけられるが、「効用」には値段がつけられない。新幹線チケットに値段はつくが、親しい友人と楽しむ旅に値段はつかない。

(引用終了)

市場を介して流通させることが出来るのは「効率」、すなわち便利さの度合いを比較できるものである。

 市場における商品の値段の高低は、数値化された便利さ度合いの比較である。数値化された便利さは、利益率という比率(ratio)で計算することが可能になる。数値化して比率(ratio)で表すわけだ。あるものを使うと、他のものを使う場合に比べてどれだけ余剰利益を生むかということである。

 生産と消費の等価性からいえば、利益という余剰は計算上の架空ものだが、その金を銀行に預けておくと金利が付く。人は、市場で、銀行金利とその商品の利益率を比較して、銀行に預金するか商品に投資するかを決定する。市場における商品価値の計算基準は金利なのである。

 市場における商品の値段は金利との比較で成り立っている。ではなぜそれが「時間」という単位で表されなければならないのか。再び前回の「効率と効用」から引用しよう。

(引用開始)

 「効率」には尺度としての時間が関わっている。「効用」に共通の尺度は存在しない。

(引用終了)

 新幹線がなぜ高いかというと、ローカル線よりも速く目的地へ着くからであり、それは時間の関数である。勿論ここでいう時間とは、時計で測ることができる均一な時間である。貴重品がなぜ高いかといえば、それを入手するのにどれだけ手間隙をかけたかということであり、即ち時間の関数である。「効率」が良いということはより速いということ、即ち加速度がより大きいということなのである。金利も勿論均一な時間の関数である。

 金利の増減を基準にして、人が便利さを求めて作り出したもの全般の値段が高下する。市場における商品の値段は金利との比較で成り立っており、比較に用いられる唯一の尺度は、時計で測ることができる均一な「時間」なのである。

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モチベーションの分布

2009年03月03日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「ハブ(Hub)の役割」で紹介した「渋滞学」の著者西成活裕氏の最新本のなかに、

(引用開始)

 これ(アリの行動)に関連して、企業や組織において「2対6対2の法則」といわれているものがある。これは、全体のうち2割の人はよく働き、6割はふつうに働き、そして残りの2割はあまり働かない、ということを表したものだ。そしてこのトップ2割の人が企業の利益の8割を稼ぎ、残りの8割の人は利益の2割しか貢献していない、という意味で、「8対2の法則」ともいわれる。しかしこの働かない集団が将来の生存のために大きな役割を果たす可能性があるのがアリの社会なのだ。働かない人を抱え込むのは短期的には無駄と考えられるが、長期間で見れば何か別の角度から大きな貢献をしてくれるかもしれない。

(引用終了)
<「無駄学」西成活裕著(新潮選書)39ページより。カッコ内は引用者による補足。>

という話がある。

 これは私が組織で働いていたときの経験から云える事なのだが、いろいろな集団の「よく働く2割の人」だけを集めてきて、別の目的を与えて働いてもらうと、なぜか再び「全体のうち2割の人はよく働き、6割はふつうに働き、そして残りの2割はあまり働かない」という現象が起こる。

 西成氏の論点は、一見無駄と思われる中にも将来役に立つものもあるから、無駄かどうか判断するにはまず目的を定めることが重要だということなのだが、私の経験則から云えるのは、目的を変えると再び無駄が生まれるということなのである。

 この「よく働く、ふつうに働く、あまり働かない」人たちの分布を「モチベーションの分布」と呼ぼう。「2対6対2の法則」は、「全体のうち2割の人はよく働き、6割はふつうに働き、そして残りの2割はあまり働かない」ということだから、この分布は概ね釣鐘型の「正規分布」に従うと思われる。

 釣鐘型の「正規分布」は、人の身長やみかんの大きさなど、自然界に広く見られる現象だ。モチベーションとは「やる気」である。人が興味を持つ対象はそもそも千差万別で、ある目的に対する「やる気」は、その人の興味の度合いに比例するだろうから、無作為にある目的を定めると、どうしても「全体のうち2割の人はよく働き、6割はふつうに働き、そして残りの2割はあまり働かない」という分布が出現してしまうのだろう。

 ある目的集団では皆の足を引っ張っている人が、別の目的集団ではリーダーシップを発揮したり、会社でバリバリ働くやり手の男性が、家ではなにもしないグータラ亭主だったりするのは、概ねこの法則に従っているわけだ。

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エッジ・エフェクト

2009年02月10日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「相転移と同期現象」のなかで、“生産と消費の連鎖が同期すると、相転移現象としての社会の活性化が生まれる”と書いたけれど、社会の活性化に役立つもう一つの効果が「エッジ・エフェクト」である。

 エッジ・エフェクトとは、異なるモノが接する界面から新たなコトが生成(融合)するダイナミズムのことを云う。相転移を熱力学的な現象とすれば、エッジ・エフェクトは化学反応的な現象と言えるだろう。チェロ奏者のヨーヨー・マ氏は、「アートビジネス」で紹介した分子生物学者の福岡伸一氏との会談のなかで、

(引用開始)

M (前略)生物学にも、確か2つの生態系が出会う場所で生成される現象を呼ぶ熟語として、「エッジ・エフェクト」という言葉があるよね。
F エッジ・エフェクト……界面作用ですね。
M 生態学的にいうと、森林と砂漠の界面にあるサバンナ、あるいは地政学的(に)いうと、フランスとドイツの界面にあるアルザス・ロレーヌ地方。そういう場所では、何か激しい、そしてすばらしいことが起こる。

(引用終わり)
<「ロハスの思考」福岡伸一著(ソトコト新書)224−225ページより。Mはマ氏、Fは福岡氏。カッコ内は引用者による補足。>

と語っておられる。マ氏自身中国人を両親としてパリで生まれ、間もなく一家でニューヨークへ移り住んだ経歴の人だから、経験的にもエッジ・エフェクトやフュージョン(融合)という概念に触発されるのだろう。

 「マージナル・マン」という言葉がある。「部落問題・人権辞典ウェブ版」から一部引用しよう。

(引用開始)

 異質な諸社会集団のマージン(境域・限界)に立ち、既成のいかなる社会集団にも十分帰属していない人間。境界人、限界人、周辺人などと訳される。マージナル・マンの性格構造や精神構造、その置かれている状況や位置や文化を総称して、マージナリティーと呼ぶ。マージナル・マンの概念は、1920年代の終わり頃に、アメリカの社会学者バークが、ジンメルの<異邦人>の概念(潜在的な放浪者、自分の土地を持たぬ者)の示唆を受けて構築した。(中略)

 マージナル・マンは、自己の内にある文化的・社会的境界性を生かして、生まれ育った社会の自明の理とされている世界観に対して、ある種の距離を置くことが可能である。それゆえにマージナル・マンは、人生や現実に対して創造的に働きかける契機をもっている。

(引用終わり)

 マ氏は、正にこのマージナル・マンとして、「シルクロード・プロジェクト」など、様々な分野で活躍されている。マージナル・マンは、エッジ・エフェクトに敏感だ。私も小学生のときに1年半ニューヨークで暮らし、成人してからも仕事で13年間アメリカに居た経験があるから、マージナル・マンとしての素地があると思う。起業支援などを通して様々な人と知り合うことに意義を感じているのは、きっとそのせいに違いない。今度のフラクターマン氏の講演のお手伝いも楽しみだ。これからもいろいろな「場」でエッジ・エフェクトを機能させていきたい。

 ところでマ氏と福岡氏との会談は、日本におけるマ氏のチェロ演奏会のときに行なわれたものらしく、冒頭、福岡氏が当日の演奏曲目を紹介している。その中に、J・S・バッハ「サラバンド(無伴奏チェロ組曲第5番ハ短調)」があった。バッハの無伴奏チェロ組曲は全6曲あって、スペインのチェロ奏者パブロ・カザルスの演奏が有名だが、そのビデオの一部が先日NHK・BSの「名曲探偵アマデウス」で紹介されていた。

 「名曲探偵アマデウス」は、元天才指揮者で探偵の天出臼夫と、音感だけは抜群の助手響カノンの二人が、数々のクラシック名曲の謎に挑むという愉快な番組だ。チェリスト古川展生氏の演奏を聴きながら、バッハの特徴とされる三つの旋律の流れ(ポリフォニー)、重音(複数の弦を同時に弾くこと)や開放弦の効果、五弦のチェロなど、曲の特徴やこの曲に纏わる作曲家の想いについて、天出臼夫探偵が(依頼人に対する謎解きの形で)次々に説明していく。

 バッハの無伴奏組曲は勿論ヨーヨー・マ氏も録音している。私の持っているCDは、”Inspired by Bach・The Cello Suites, Yo-Yo Ma”(Sony Records)という題名で、様々なアーティストとのコラボレーションをフィルムにしたときのものだ。”From the Six-Part Film Series”という副題が付いている。そのうち第5番は「希望への苦闘」というタイトルで、歌舞伎俳優・坂東玉三郎の舞踏との共同作品である。

 そういえば、「ホームズとワトソン」で述べた探偵(Resource Planning)と助手(Process Technology)の役割分担は、全体を大局的に俯瞰して事件の謎を解いていく探偵天出臼夫と、与えられた事件の環境に入り込んで天出を助ける役割の助手響カノン、ということで、(だいぶコメディー・タッチだが)この名曲探偵コンビでも見事に描き分けられていて興味深い。

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進化のアナロジー

2009年01月06日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「アフォーダンスについて」「免疫について」「アフォーダンスと多様性」などで、生態心理学(アフォーダンス)と生命情報学(免疫など)の社会科学への応用を提唱してきたが、以前「カーブアウト」で紹介した「細胞の文化、ヒトの社会」(北大路書房)の著者で生物学者の池田清彦氏は、以前より生物学の社会科学への応用を考えてこられた。

 氏はその「細胞の文化、ヒトの社会」のなかで、「人間の文化と伝統が人間という個人を要素とするコミュニケーションによって伝承されるように、細胞の文化と伝統は高分子間のコミュニケーションによって伝承される」(同書142ページ)と書かれている。

 進化について氏は、「生物は突然変異と自然選択で進化した」とするネオダーウィニズムへのアンチテーゼとして、DNAと細胞に関連して「情報系=DNA」と「反応系=細胞質」という区分を設けた上で、「生物の進化とは、反応系を中心として情報系をまき込む、細胞内の高分子間のコミュニケーションシステムの変化と考えねばならない。」(同書135ページ)と指摘されている。

 「免疫について」で指摘したように、個体内部のエネルギー循環(免疫系−自律神経)と、個体間のエネルギー循環(知覚系−脳神経)とが相似的構造を持つと考えれば、上の文章の「生物」を「社会」、「反応系」を「集団組織」、「情報系」を「言語」、「細胞内の高分子間」を「個体間」と置き換え、「社会の進化とは、集団組織を中心として言語をまき込む、個体間のコミュニケーションの変化と考えられる」と言い直すことができるだろう。

 社会の進化には「言葉」の果たす役割が大きいのだ。池田氏も、「柴谷篤弘と私は一九八〇年代の半ばすぎから、ソシュールの構造主義言語学を枕に、生物の『構造』と言語構造の同型性を強く主張してきた」(同書127ページ)と書いておられる。

 「視覚と聴覚」で紹介した解剖学者の養老孟司氏も、「養老孟司の人間科学講義」(ちくま学芸文庫)のなかで、言葉と脳(社会)、遺伝子と細胞との関係について、「情報系1」、「情報系2」といった分類を用いてその「同型性」を指摘されている。(同書50ページ)

 池田清彦氏と養老孟司氏、それに仏文学者で「ファーブル昆虫記(全10巻)」ジャン・アンリ・ファーブル著(集英社)の訳者奥本大三郎氏を加えた三人は、虫捕りのお仲間としても知られている。三人の最新共著「虫捕る子だけが生き残る」(小学館101新書)では、皆さんで子どもにとって言葉以前のリアルな感覚(虫捕り)の重要性を説いておられる。

 さて、池田氏は「細胞の文化、ヒトの社会」のなかで、時間について、「我々が存在しなくとも多分、自然は自存するだろう。少なくともそのことを疑う根拠はない。しかし我々が存在しなければ、いかなる時間も存在しない。」(同書52ページ)と書かれている。

 私が「集団の時間」のなかで述べた、

「個人」: 脳(t = 0)と身体(t = life)
「集団」: 都市(t = interest)と自然(t = ∞)

という4種類の時間構造は、池田氏のこの時間論の延長上にある。

 これからも、生物学や免疫学などを学びながら、個体内部のエネルギー循環(免疫系−自律神経)と、個体間のエネルギー循環(知覚系−脳神経)とが相似的構造であるとする「個体内部と個体間との相似構造論」を深化・発展させ、社会科学や企業経営への応用について考えていきたい。

 尚、池田清彦氏の著作では、生物学全般については「新しい生物学の教科書」(新潮文庫)、構造主義科学については「構造主義科学論の冒険」(講談社学術文庫)が良い入門書である。

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視覚と聴覚

2008年12月23日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「集団の時間」や「公(public)と私(private)」などでみた脳と身体、都市と自然について、徹底的に論じてきたのが解剖学者の養老孟司氏である。私の考察は多く氏の著書に啓発されてきた。最近、初期の「唯脳論」に並ぶ論考「人間科学」養老孟司著(筑摩書房)がちくま学芸文庫に収録された(「養老孟司の人間科学講義」)ので、興味のある方は是非お読みいただきたい。

 「養老孟司の人間科学講義」の中に、言葉に関して、視覚と聴覚の観点から論じた部分がある。一部引用してみよう。

『もっとも重要な点は、言語が聴覚と視覚に共通な情報処理過程として成立していることである。(中略)ところが言語が視聴覚という、まったく異質な二つの感覚を「結合する」からこそ、音声言語はたとえば擬音語をしだいに排除し、文字言語は象形文字の「象形性」を消していくのである。(中略)こうして近代言語は、聴覚に特有、および視覚に特有の性質を、言語の記号系から排除しつつ成立する。』(同書196−198ページ)

近代化が都市化=脳化のことであるとすれば、英語的発想と日本語的発想の対比、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き−「公(public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き−「私(private)」

から、日本語に擬音語や擬態語が多い(「日本語について」)理由が納得できる。脳の働きによって排除されるべきオノマトペ(擬音語や擬態語)が未だ多く見られる事実は、象形文字としての漢字が使われていることとも相俟って、日本語に身体性が色濃く残っている(身体の働きが重視される)証拠だろう。

 視覚と聴覚の関係については、「カミとヒトの解剖学」養老孟司著(ちくま学芸文庫)にも面白い指摘がある。解剖学的にいうと、もともと脊椎動物には「第三の目」とでもいうべき光受容細胞があり、ヒトを含む哺乳類ではそれが「松果体」と呼ばれる器官に転化しているらしい。

『そういうわけで、視覚系というものを、目だけではなく、松果体を含めた広義のものと考えるならば、脊椎動物は、脳の下位中枢と深く関連する光受容器すなわち「第三の目」を、いまわれわれが持っている通常の「目」と独立に持っていた、あるいはいまでも持っているのである。そこに、われわれの現在持つ「目」が、耳と異なって、下位の脳と関連が薄い理由があるのではないか。ここでは視覚系は、一種の「二重構造」を示すことになる。耳であれば「陶酔」に関連するような、生に対してより「根源的」な部分を、視覚系では、もともと松果体が受け持つ。ところが、哺乳類では、なぜかそれが脳との直接の関連を絶ってしまう。それによって、深いところで我々を支配する「根源的なもの」と視覚との連関が絶たれ、単純で透明で明晰な「アポロ世界」のみが、現にわれわれが目として知っている構造によって構成される。他方、耳では両者がおそらく相変わらず渾然一体となっているのである。』

いかがだろう、これが、なぜ視覚がより明晰なプラトン的世界に親和性をもち、聴覚が混沌としたアリストテレス的世界に親和性があるかということに対する養老氏の推論なのである。

 これからも養老孟司の数々の知見を参考にしながら、脳と身体、都市と自然、言葉などについて考えて行きたい。

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相転移と同期現象

2008年12月16日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「競争か協調か II」のなかで、「競争を選ぶか協調を選ぶかは、資源全体の多寡・増減に依る」という原則に関連して、コイン・パーキングの例で、需要供給のバランスに応じて値段を上げたり下げたりするのではなく、他のビジネスとの協調・連携によって新しいサービスを作り出していくことの重要性を指摘した。これは、非線形科学でいう「相転移」の考え方を応用したものだ。

 「非線形科学」蔵本由起著(集英社新書)によると、「相転移」とは、「氷、水、水蒸気のような物質のマクロな姿は、相とよばれています。個体、液体、気体は、物質の代表的な相です。温度を変えていくと、一般に相は突如変化しますが、これを相転移とよびます。」(38ページ)と定義される。

 「全体の性質が要素の性質の単純な合成からわかるというのが線形システムの特徴」(同書16ページ)であるから、需要供給のバランスに応じて値段を上げたり下げたりするのは、水の温度を上げたり下げたりしているのと同じ線形的な考え方である。しかし、それだけでは地域社会の活性化には繋がらない。地域社会の活性化とは、水がお湯になる程度の話ではなく、お湯が激しく沸騰するような「相転移」現象だからである。

 勿論、コイン・パーキング場の「棲み分け戦略」や「付加価値戦略」だけで地域社会が活性化するわけではない。しかしそういった店舗・産業を巻き込んだチームワークが、やがて大きなうねりとなって地域全体に波及していくのだ。

 非線形科学といえば、以前「スモールワールド・ネットワーク」や「ハブ(Hub)の役割」で論じた複雑系ネットワーク理論も、非線形科学のひとつだった。非線形科学には、これら以外にも興味深い現象を扱った分野が多い。そのひとつに「同期現象」というものがある。

 同期現象とは、「二つのリズムが相互作用すると、周期がピタリと一致して歩調関係は少しも乱れない、ということが起こるのです。」(同書129ページ)ということだが、「並行読書法」や「脳について」で述べた「ニューロンの同時発火」もその一例だろう。

 同期現象はリズムの相互作用だが、リズムは振動であり、振動はさらに様々な波動を生み出していく。「相転移としての集団同期」(同書148ページ)の項によると、二つの現象(相転移と同期現象)には密接な関連があるという。「生産と消費の等価性」のなかで、「生産と消費の連鎖は波のようなものだ。波は増幅したり減衰したりしながら、社会を縦横に駆け巡る。振幅が大きいほど活気のある豊かな社会だといえる。」と書いたが、これを二つの現象に関連付けて、(コイン・パーキング場のサービスなどの)生産と消費の連鎖が同期すると、相転移現象としての社会の活性化が生まれる、と考えてもよいのかもしれない。

 同期現象については、「SYNC−なぜ自然はシンクロしたがるのか−」スティーヴン・ストロガッツ著(早川書房)などにさらに詳しい。

 非線形科学とは、「生きた自然に格別の関心を寄せる数理的な科学」(「非線形科学」18ページ)といわれる。「1+1=2」というのが線形的な、比例法則の基本的考え方だとすれば、「1+1=1」、もしくは「1+1=多数」というのが非線形的な考え方である。ビジネスも人という「生きた自然」を相手にしているのだから、このような「数理的な科学」が必要なのだ。今後も、非線形科学のビジネスへの応用についていろいろと考えていこう。

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脳と身体

2008年09月30日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 これまで「現場の英語」シリーズや「ホームズとワトソン」などで、

A Resource Planning(R.P.)−英語的発想−主格中心
B Process Technology(P.T.)−日本語的発想−環境中心

という対比をみてきた。ビジネスを行っていく上での重要ファクターだった訳だが、今回はこの対比についてさらに踏み込んで考えてみたい。

 まずAとBの違いをもう一度整理しておこう。英語的発想は思考の原点に自分という「主格」を置くのに対して、日本語的発想はそれを置かず「環境」を主体にして思考する。「主格中心」の発想法はものごとを分析的に考えるR.P.的思考に優れ、「環境中心」の発想法は自ら動きの中に飛び込んでものごとの改善を図るP.T.的活動に優れている。企業経営には、この二つを同時に備えた包容力が必要である。

 「脳について」で紹介した「日本人の脳に主語はいらない」(講談社選書メチエ)の著者月本洋氏は、ご専門の人工知能やデーターマイニング、最近の脳科学の実験などから、日本語と英語の特徴をそれぞれ摘出し、

「日本語は、空間の論理が多く、主体の論理が少ない。これに対して、英語は、主体の論理が多く、空間の論理が少ない」(同書235−236ページ)

と述べておられる。「空間」を「環境」という言葉に置き換えれば、私の指摘と重なると思う。

 さて、以前「アフォーダンスと多様性」で脳と身体の話をした。

「人は、常に現在進行形としての脳と、一定の寿命を持つ身体とを抱えて、この社会に(一過性的に)関わっている」(「アフォーダンスと多様性」より)

a 現在進行形としての脳の働き(t = 0)
b 限りある寿命をもつ身体(t = life)

ここでAとB、aとb二種類の対比をじっくり眺めてみると、「主格」は脳の働きによって生じ、「環境」は身体によって支えられるから、

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き

という連動がみえてくる。勿論後者(B – b)は脳を使わないということではなく、脳を身体機能と一体化させて使うという意味だ。医学博士ア谷博征氏は、その著書「グズな大脳思考、デキる内臓思考」(明日香出版社)のなかで脳と身体について次のように指摘しておられる。

『 さて、ここでもう一度、脳の階層を整理しましょう。

第一の脳:内臓
生命の根源的な欲求をつかさどります。

第二の脳:脳幹・大脳旧皮質
内臓の動きと強い関係を持つ「内臓」脳です。

第三の脳:大脳新皮質
土台である第一の脳(内臓)の欲求を満たすために、第二の脳の感情・情動を利用して発達していく部分です。

 私たちの内臓が、全てのベースになっているわけです。
 さて、私が命名した「内臓思考」。これは、内臓そしてそれに密接につながっている脳幹・大脳旧皮質から出てくるものです。階層でいうと、第一と第二の脳です。
 解剖学的には内臓−脳幹・大脳旧皮質に存在する力です。ここが、自然を感知できるところです。
大脳新皮質に頼る「大脳思考」では、自然を細かく分析することはできても、自然全体を把握することはできません。(後略)』(同書105−107ページ)

「脳を身体機能と一体化させて使う」ことは、ア谷氏の指摘する「内臓思考」に対応する。

 文化人類学者の川田順造氏は、その著書「もうひとつの日本への旅」(中央公論新社)の中で、技術文化の嗜好性において、日本人には「二重の意味での人間依存性」があり、西洋人には「二重の意味での人間非依存性」があると指摘されている。少し長くなるがその部分を引用しよう。

『 技術文化の嗜好性に見る日本と西洋
 ここで、すこし道草になるが、日本の「二重の意味での人間依存性」に対する、西洋の「二重の意味での人間非依存性」について、簡単に述べておこう。
 「二重の意味での人間依存性」というときの「二重」の第一は、複雑な道具立てや装置に頼らず、人間の巧みさによって、道具なしか、簡単な道具を多様に使って作業することだ。素足で鞴を漕いだり作業対象を固定するとか、二本の棒切れに過ぎない箸を、使う人の巧みさで、多機能に使い分けるとか、三十六ページにも触れた、フランスのものに比べて道具としてははるかに簡単で、着脱自在な天秤棒とかは、その例だ。
 日本の技術文化の志向性に見られる「二重の意味での人間依存性」の第二は、より良い結果を得るために、尽力を惜しみなく投入することだ。朝は霜を踏んで野良に行き、夕べは星をいただいて帰るといわれた日本農民の勤勉ぶり、残業をものともしない現代の産業戦士の勤勉にもその異端が窺えるだろう。
 これに対して、西洋の「二重の意味での人間非依存性」はどうか。いま述べた日本の例と対比させていえば、第一の人間非依存性は、個人の巧みさに頼らず、誰がやっても同じようなよい結果が得られるように道具ないし装置を工夫すること、第二の人間非依存性は、できるだけ人力を省き、畜力や風水力など人間以外のエネルギーを利用して、より大きな結果を得ることだ。(後略)」(同書74ページ)

 川田氏が指摘される日本の「二重の意味での人間依存性」は、私の指摘する、日本語的発想が身体の働きを通してP.T.的活動に優れているということに対応し、西洋の「二重の意味での人間非依存性」は、英語的発想が脳(特に大脳新皮質)の働きを通してR.P.的活動に優れていることに対応すると思われる。

A R.P.−英語的発想−主格中心
a 脳の働き

B P.T.−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き

という図式は、会社経営が何故AとBを同時に備えていなければならないかということに対する、別の視点からの傍証でもある。それは、人の集まりであるところの会社も一つの有機体であれば、組織には脳と身体機能の両方が必要ということなのだ。

 この、「主格中心」=脳の働き、「環境中心」=身体の働きという対比から、今後また様々な考察を展開していきたい。しかし今回のところは、「ホームズとワトソン」に登場した杉山右京がしばしば「頭脳派」と呼ばれ、亀山薫が「体力派」と呼ばれることを思い出しておくに留めよう。

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脳について

2008年08月28日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「人を褒めるということ」のなかで脳の研究について触れたが、ここで私の脳についての興味を整理しておこう。

 一つ目は脳と身体機能との関係である。脳がどのように臓器をコントロールし、また臓器がどのように脳へフィードバックをかけるのか、感覚器官と臓器とを結ぶ神経やホルモンの役割、遺伝子と行動様式との関係などなど。ヒトが進化と共にどのような能力を獲得し、また失ったのかということにも興味がある。「内臓が生みだす心」西原克成著(NHKブックス)によると、脊椎動物の進化には大きく分けて三つの段階があったという。第一段階は、海中移動による「口肛分離」、第二段階は、上陸劇による「造血の骨髄腔への移動」、第三段階は、哺乳類の誕生による「歯の発達」。いずれの段階も重力が強く影響を及ぼしているという。

 二つ目は、脳と言語について。知覚システムと環境との相互作用については以前「アフォーダンスについて」で述べたが、人は言葉(含数字)によって世界を理解し、自ら思考し、また他人と意思を通じ合う。知覚システムと脳と言葉との関係はさらに興味深いテーマである。人はどのように言葉を獲得し、使いこなし、また逆にそれに縛られるのか。「日本人の脳に主語はいらない」月本洋著(講談社選書メチエ)によると、「人間は言葉を理解する時に、仮想的に身体を動かすことでイメージを作って、言葉を理解している」(4ページ)という。

 三つ目は、脳内の情報伝達の仕組みについてである。以前「並行読書法」のなかで、「並行読書法の効用は、脳のニューロン・ネットワークから見ると、まるでスモールワールドのような話だが、ニューロンの同時発火という同期現象から考えると、むしろ熱力学や波動理論と関係がありそうだ。」と書いたが、「脳のなかの水分子」(紀伊國屋書店)の著者中田力氏によると、脳にはニューロン・ネットワークの他にもう一つ高電子密度層があり、その仕組みが人の「内因性の賦活(自由意志や創造力、ひらめき)」を支えているという。

 以上挙げた三つ、脳と身体、脳と言語、脳内の情報伝達の仕組みを、これまでの時間論(「アフォーダンスと多様性」、「集団の時間」)に沿ってそれぞれ積分すると、都市と自然、都市と言語、都市の情報伝達の仕組み、となる。脳の研究は即ち社会(都市と自然)の研究に直結している。

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集団の時間

2008年07月01日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「アフォーダンスと多様性」の中で、「個」における、脳(t = 0)と身体(t = life)という2種類の時間について述べ、この2種類に対応する「集団」の時間とはどのようなものなのかと疑問を投げかけておいた。今回はそれについて考えてみよう。

 その前に、もう一度「個」の時間について振り返ってみる。「個」には、脳(t = 0)と身体(t = life)の2種類の時間があった。脳(t = 0)とは、脳が常に「現在進行形」であることを指している。以前の議論を思い出して欲しい。

 『さて、アフォーダンス理論の重要な点の三つ目は、「知覚システム」には終わりがないということだ。どういうことかというと、我々は、世界の何処で何をしていようが、常に世界全体を(一挙に)把握しているということである。知覚システムは常に環境からの情報をそれまでの情報に重ね合わせて修正を加え続ける。たとえば、今あなたはPCの画面を覗いているが、画面の後ろにある壁、部屋全体、家や街、そして世界全体を(一挙に)把握している筈だ。あなたの頭の中にはあなたがこれまで体験してきた世界の全てが同時にある。アフォーダンスではこれを「異所同時性」と呼ぶ。つまり、脳は常に「現在進行形」なのだ。』(「アフォーダンスについて」)

 脳が常に「現在進行形」であるのに対して、(脳を含む)身体には人それぞれ「寿命」がある。身体(t = life)とは、限りある自分の身体時間(寿命)のことであった。生き物は人に限らず全て固有の寿命を持つ。「ゾウの時間 ネズミの時間」本川達雄著(中公新書)の紹介文を引用しよう。

 「動物のサイズが違うと機敏さが違い、寿命が違い、総じて時間の流れる速さが違ってくる。行動圏も生息密度も、サイズと一定の関係がある。ところが一生の間に心臓が打つ総数や体重あたりのそうエネルギー使用量は、サイズによらず同じなのである。本書はサイズからの発想によって動物のデザインを発見し、その動物のよって立つ論理を人間に理解可能なものにする新しい生物学入門書であり、かつ人類の将来に貴重なヒントを提供する。」(本のカバーの紹介文)

 ここまでは良いだろう。「個」には、脳(t = 0)という「現在進行形」の時間(自己言及性)と、身体(t = life)という「寿命」時間(一過性)の2種類の時間があるわけだ。それではそれが「集団」の時間とどう切り結ぶのか。

 結論からいうと、「集団」(=社会)にも2種類の時間があるのである。ひとつは都市 (t = interest)の時間であり、もう一つは自然 (t = ∞)の時間である。ここでいう「都市」とは人が便利さを求めて作り出したもの全般を指す。「個」に2種類の時間があるのならば、その集合体であるところの「集団」にもそれに対応する2種類の時間があるのだ。

 都市の時間は人間の脳(t = 0)の時間に対応し、自然の時間は人の身体(t = life)の時間に対応する。皆さんは、「集団」の時間はこの世にただ一つと教えられてきただろう。過去から未来へ滔々と流れる均一の時間。しかしよく考えてみれば、そのことを証明した人はいないし、「集団」の時間が一つでなくてはならない理由はなにもない。

 集団においては、人の脳が作り出したものに、何らかの公共的な序列をつける必要が出てくる。公共的な序列に組み入れられたもの(値段が付けられたもの)は、市場を介して流通させることが出来る。その値段を決める市場の時間原理が金利(=interest)なのである。利率は社会によって異なる。

 身体は自然から生まれ自然へと還るものだ。だから自然 (t = ∞)は、「個」における身体(t = life)の時間と対応する。自然においては全てのものが循環する。循環する時間には果てがない。t = ∞というのは、自然の時間は無限大という意味である。厳密に言えば自然にも寿命があるのだろうが、人知の及ばない範囲の問題なのでここでは無限大としておいてよいだろう。

 都市は個々人の「主格」が作り出すものであり、自然は「環境」が主役だ。「アフォーダンスと多様性」の最後に、集団の時間を考えるには『思考の原点に自分という「主格」を置く英語的発想と、「環境」を主体にして思考する日本語的発想の違いが補助線となる』と書いたのはそういう意味である。社会にとって重要なのは両者(都市と自然)のバランスである。

 さて、社会問題の多くは、この2種類の時間の混同から起こる。たとえば政治と宗教。政治は自然(t = ∞)の時間には関与できないし、逆に宗教は都市 (t = interest)の時間に関与すべきではない。なぜなら、政治とは人が作り出したシステムであり、宗教とは人知を超えた自然の力の別名だからだ。前者は効率が重要であり、後者は効率とは無関係だ。それを混同し、ある政治体制が永遠に続くと幻想したり、逆に宗教が人間社会すべてに超越すると妄想したりするのは間違っている。それはあたかも「個」において、脳が自分を唯一の存在だと思い込んだり、逆に何も考えずに全てを感情に任せて暮らせば万事上手くいくと考えるのと同じレベルの間違いだ。イエスの福音書を待つまでもなく、「カエサルのものはカエサルへ、神のものは神へ」ということなのである。

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アフォーダンスと多様性

2008年04月14日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前まとめたアフォーダンスの考え方(「アフォーダンスについて」)と、先々回「免疫について」で述べたことを、「個」と「集団」という二つのレベルに分けて整理しておこう。このブログを初めて見る人は、まずこれらの記事に目を通していただけれればと思う。

 「個」におけるアフォーダンスで重要な点は、常に思考や行動の枠組みから「自分」というものを外さないこと(自己言及性)と、脳は常に「現在進行形」(time = 0)であるということだった。一方、免疫で重要なのは、限りある自分の身体時間(t = life)における自律神経(交感神経と副交感神経)のバランスである。

 「個」におけるアフォーダンスと免疫との考え方を整理してみると、人は生きている限りこの2種類の時間から逃れられないことがわかる。人は、常に現在進行形としての脳と、一定の寿命を持つ身体とを抱えて、この社会に(一過性的に)関わっているわけだ。

 「集団」におけるアフォーダンスで大切なことは、環境と知覚とが、運動を通して表裏一体とされる点であった。私はこれを「生産と消費との相補性」と呼び、お互いの交換価値が等しいことを指摘した。一方、免疫から導かれたのは、「生産−理性的活動−交感神経優位」vs.「消費−感性的活動−副交感神経優位」という循環式だった。

 「集団」におけるアフォーダンスと免疫との考え方を整理してみると、人間社会の基本構造が、生産と消費の相補性、理性的活動と感性的活動の循環にあることがわかる。

 個体内部のエネルギー循環(免疫系‐自律神経)と、個体間のエネルギー循環(知覚系−脳神経)とは、それぞれの環境におけるエネルギー循環システムとして、相似的構造を持つのだろうとも指摘した。「個」における身体が、様々な運動や栄養を必要とするように、現在進行形としての脳と、一定の寿命を持つ身体とを抱えた個人同士が豊かな日々を送り、その資産が社会に還元されるためには、「集団」のスモールワールド性、多様性が重要なわけだ。

 最近私は、親しかった従兄の一人を病で亡くした。彼は長年の会社勤めのあと、「樹木・環境ネットワーク協会」という特定非営利活動法人で、ボランティア活動に力を入れていた。友人を大切にする笑顔の素敵な人だったが、彼はこれからも樹木を愛する多くの人たちの中に生き続けるに違いない。

 さて、「集団」における相補性と循環性とは、「個」における自己言及性と一過性と対になっている。とすると、脳(t = 0)と身体(t = life)という2種類の時間に対応する、「集団」の時間とはどのようなものであろうか?

 それを解くには、『現場のビジネス英語「Resource PlanningとProcess Technology」』で述べた、思考の原点に自分という「主格」を置く英語的発想と、「環境」を主体にして思考する日本語的発想の違いが補助線となる筈だが、この項、また日を改めて考えてみよう。

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免疫について

2008年04月02日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 私は医学の専門家ではないが、「免疫」についていろいろと興味を持って勉強している。

 私の興味は今のところ少なくとも三つの視点から成り立っている。一つは自分の健康管理だ。体の健康を保つためには免疫の知識が欠かせない。参考になるのは「これだけで病気にならない」西原克成著(祥伝社新書)や「自分ですぐできる免疫革命」安保徹著(だいわ文庫)などなど。

 もうひとつは、上の安保徹教授(新潟大学大学院)がその重要性を説かれている、自律神経(交感神経と副交感神経)のバランスと、私が『「理性」と「感性」』の中で書いたこととの関連だ。

 安保教授は、交感神経優位が興奮する体調を生み、副交感神経優位がリラックスする体調を生むと述べておられる。一方、私が指摘したのは、「生産」は「理性的」活動を中心とし、「消費」は「感性的」活動を中心としているということだ。

 多くの場合、理性的活動が仕事の緊張を生み、感性的活動が余暇のリラックスした心理状態を支えているから、交感神経優位の体調が「生産活動」には必要で、その逆に、副交感神経優位の体調が「消費活動」を支えている、という対比が可能となる。「生産−理性的活動−交感神経優位」、「消費−感性的活動−副交感神経優位」というわけだ。

 社会における生産や消費は、人間の脳がその活動を采配している。免疫系は自律神経の話だが、自己と非自己、自然免疫と獲得免疫などを巡る存在論的な側面と併せて、免疫と脳科学との関係を今後さらに勉強したい。

 最後は、以前「並行読書法」の中で述べた、「人体免疫システムに関する知見は、行き詰ったアメリカの行動科学の先にある、新しい社会科学のあり方に示唆を与える。」という視点だ。

 「ウェブ新時代」で紹介した東京大学教授の西垣通氏は、日経新聞朝刊の「やさしい経済学」で、社会科学としての生命情報学について、示唆に富む連載記事を書かれた。「生命的な情報組織」という題で3月4日から8回連載、各回のタイトルは、
1. ウェブ上の人格
2. 分散人格と複合人格
3. 自立的システム
4. 思考機械をめざして
5. 個体とは何か
6. ヒトの共同体
7. 機械化されたヒト
8. ITは知恵の手だて
というもので、全体としての論旨は、シャノンのコミュニケーション論に代表される旧来の機械的な情報学から、インターネット社会の可能性を踏まえた生命情報中心の情報学へ、発想の転回を促す内容である。図書館などで是非お読みいただきたい。

 免疫学や生命情報学を社会科学に適応する研究は、まだその途に就いたばかりだが、「逆システム学―市場と生命のしくみを解き明かす―」金子勝、児玉龍彦共著(岩波新書)や「免疫をもつコンピュータ 生命に倣うネットワークセキュリティ」溝口文雄、西山裕之共著(岩波科学ライブラリー)などは、その先端的な試みとして重要だろう。

 「生産と消費について」の中で、ある人の「生産活動」は別のある人の「消費活動」であると述べたが、免疫系と脳の言語系、すなわち、心と体の状態をつなぐ自律神経のバランス(免疫系)と、社会をつなぐ「生産」と「消費」のバランス(言語系)とは、「環境におけるエネルギーの循環」という点で、そもそも相似的構造になるのかもしれない。

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アフォーダンスについて

2008年02月09日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日来「集合名詞(collective noun)の罠」と「ウェブ新時代」とで触れた「アフォーダンス」について、もう少し(私の理解している範囲で)説明しておいた方が良いかもしれない。

 アフォーダンス理論では、我々の住むこの世界は、古典幾何学でいうような、直線や平面、立体でできているのではなくて、ミーディアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そしてその二つが出会うところのサーフェス(表面)から出来ているとされる。そして我々は、自らの知覚システム(基礎的定位、聴覚、触覚、味覚・嗅覚、視覚の五つ)によって、運動を通してこの世界を日々発見する。ジェームズ・ギブソン(1904-1979)というアメリカの学者が主宰した理論で、心理学やリハビリ医療、さらにはアートや建築の目指すところと親和性がある。

 この論理の重要な点は少なくとも三つある。一つは、常に思考や行動の枠組みから「自分」というものを外さないということ。私は「集合名詞(collective noun)の罠」で、行為主体として自己の重要性を指摘し、自己言及性に富んだアフォーダンスとの親近性に触れた。

 二つ目は、環境と知覚とが、運動を通して表裏一体とされる点である。私の「生産と消費論」では、生産と消費はコインの裏表のようなものなのだが、それは、(アフォーダンス理論で)環境と知覚とが表裏一体とされるのと同じ構造のように思われる。「集合名詞(collective noun)の罠」では、これを「生産と消費との相補性」と呼んだ。

 表裏一体ということは、お互いの交換価値が等しいということである。私はこの価値等価性を「通貨とは異なる価値基準の鼎立」として、さらに展開・深化できないものかと考えている。これまでの経済理論では、生産と消費とは別々の場面で、それぞれ異なった動機で行われ、その価値は通貨という客観的な価値基準で決まるとされている。このようなアフォーダンス理論の経済学への適用は、まだあまりなされていないのではないだろうか。

 三嶋博之早稲田大学教授も、私へのご返事の中で、「経済学的な生産と消費に関してアフォーダンス理論と関連づけて議論されたものは、私自身は心理学の領域に身をおいていることもあって情報が制限されているせいかもしれませんが、存じておりません。(中略)直感的なものですが、貨幣という媒介物を経ずに、生産と消費の双対性を議論する方法は、アフォーダンス理論の直接知覚論と構造的に似ていると思います。」とお書きになっている。

 さて、アフォーダンス理論の重要な点の三つ目は、「知覚システム」には終わりがないということだ。どういうことかというと、我々は、世界の何処で何をしていようが、常に世界全体を(一挙に)把握しているということである。知覚システムは常に環境からの情報をそれまでの情報に重ね合わせて修正を加え続ける。たとえば、今あなたはPCの画面を覗いているが、画面の後ろにある壁、部屋全体、家や街、そして世界全体を(一挙に)把握している筈だ。あなたの頭の中にはあなたがこれまで体験してきた世界の全てが同時にある。アフォーダンスではこれを「異所同時性」と呼ぶ。つまり、脳は常に「現在進行形」なのだ。とすると、果たしてこの世界に客観的な時間は本当に流れているのかどうか。「ウェブ新時代」で触れたのはこのことだ。

 私は、古典物理学や数学が、いつも自己を外において理論を作り上げることに飽き足らなく感じていたので、自己言及性に溢れたこのアフォーダンス理論に魅せられている。尚、このテーマを小説の形で追求したのが「僕のH2O」という電子書籍(315円)だ。このサイトからもアクセスできるから是非ダウンロードして読んでみて欲しい。

 初めてアフォーダンス理論に触れる方は、「アフォーダンス―新しい認知の理論」佐々木正人著(岩波書店)や、前述した三嶋博之さんの「エコロジカル・マインド」(日本放送出版協会)などが格好の入門書になっている。

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ハブ(Hub)の役割

2008年01月02日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日スモールワールド・ネットワークについて紹介したが、「『複雑ネットワーク』とは何か」増田直紀、今野紀雄共著(講談社)は、この辺の最新の知見が整理されていて分かりやすい。

 スモールワールドに加えて、社会ネットワークでもう一つ重要なエレメントは、各人が持つ知人・友人の数(次数と呼ばれる)である。

 この次数相関(関係)によって、社会ネットワークにはスケールフリー性が生まれる。スケールフリー性とは、例の80:20の法則(全体の20%の人が80%の収入を得るという譬え)のように、平均値や分散値が捉えられないネットワークの性質を指す。

 この次数が非常に大きい頂点のことをハブ(Hub)という。インターネットの世界では、このハブの振舞い方によっていわゆるロングテール現象などが起こるらしい。「渋滞学」西成活裕著(新潮社)という本では、近年ハブの研究が道路渋滞の解明にまで及んでいることが分かって面白い。

 さて、次数相関には、「正」と「負」さらに「±0」の三種類がある。ハブが別のハブと結びつきやすい場合を「正」、ハブが次数の小さい頂点と結びつきやすい場合を「負」の相関、ハブにそういった振舞いが見られない場合を「±0」と呼ぶ。

 インターネットには「負」の相関が見られ、それがロングテール現象を生む訳だ。一方、「正」の次数相関は、「リッチ・クラブ」(特権階級)を形成しやすく、往々にして集団内部に不平等を生む。

 スモールワールドの特徴は、「小さい平均距離」「高いクラスター性」および「遠く離れた人同士の繋がりが一部存在すること」だったが、ハブが極端な「正」もしくは「負」相関を持つと、この三つのバランスが崩れ、スモールワールド性が失われてしまう。

 先日「人の生産活動に注目するということ」の中で書いたランプ屋さんの例を使って考えてみよう。ランプ屋Aさんには、インテリア・コーディネーターのCさん以外にも知人・友人が多かった。ある日Aさんは、仲間内のお金持ちだけを相手に商売をしようと考えた。

 Aさんが手間隙かけて作るランプは評判を呼び、その希少性から一時売り上げは上がった。しかし「リッチ・クラブ」内の需要が一巡すると、逆に売り上げは下がってしまった。インテリア・コーディネーターのCさん、アクセサリーのデザイナーのBさん、鏡屋のDさん、アクセサリー好きのEさんとの連携も生まれない。

 多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった、安定成長時代の産業システムは、スモールワールド性がつくり出す「多様性」と「意外性」が発展の糧になる。だからハブの役割は、広く門戸を開き、公平性(次数相関「±0」)を心がけることで、数多くのリアルな「場」を作り出し、社会のスモールワールド性をより加速させることなのだ。

「複雑ネットワーク」とは何か―複雑な関係を読み解く新しいアプローチ (ブルーバックス)   渋滞学 (新潮選書)
   

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スモールワールド・ネットワーク

2007年12月12日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「スモールワールド・ネットワーク」という言葉がある。われわれは全世界の人々とたった6つのステップで繋がっている、という話で、最近の複雑系ネットワーク理論の一つである。

 「スモールワールド・ネットワーク 世界を知るための進科学的思考法(原書題Six Degrees The Science of a Connected Age)」という本を書いたのは、ダンカン・ワッツというオーストラリア生まれの科学者で、複雑系ネットワーク理論はその後もさらに広がりを見せている。原書は2003年、翻訳書は2004年に出版された。

 「スモールワールド・ネットワーク」は、任意に選んだ相手への到達ステップが少ないこと(小さい平均的距離)と、少人数間の密な人間関係(高いクラスター性)を前提としたネットワーク理論である。

 先日「スモールビジネスの時代」の中で、「ネットワークの発達によって、今の起業家は自分の組織をむやみに大きくしないでも、(他社との連携によって)自らの理念と目的を達成できるようになった」と書いたが、念頭にこの「スモールワールド・ネットワーク」のことがあった。

 大量生産・流通・消費時代は、正規分布に基づいた考え方が主流だったが、これからの多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術時代は、スモールワールド・ネットワークの考え方が重要になるだろう。

 このネットワークが成り立つミソは、「小さい平均距離」、「高いクラスター性」と共に、(高いクラスター性を損なわない範囲で)遠く離れた人同士の繋がりが一部存在することなのだが、インターネットの発達が遠く離れた人同士を結びつける訳だ。

 直感的には、幾らインターネットの時代だといっても、「全世界の人々とたった6つのステップで繋がっている」とはなかなか思えない。しかしそれは、遠慮や諦め、面倒くさいと思ってしまう消極性故であって、この理論は、当たって砕けろという情熱と行動力があれば、世界中のどの人へもすぐに(6つのステップ以下で)コンタクト出来ることを示している。

スモールワールド・ネットワーク―世界を知るための新科学的思考法

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