夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


脳腸バランス

2013年01月21日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 “脳はバカ、腸はかしこい”藤田紘一郎著(三五館)という愉快な本を読んだ。まず新聞の書評から紹介しよう。

(引用開始)

 寄生虫学者である著者の体内に4年ぶりに新しい生命が宿った。その名はホマレちゃん。初代サトミちゃんから数えて6代目にあたるサナダムシの幼虫が著者の小腸に着床したのだ。ホマレちゃんは2カ月足らずで10メートル以上に育つ発育ぶりを示した。著者が近年、糖質を制限し悪い油の摂取を避ける健全な食生活を送っているからだ。
 著者は寄生虫と共生し、腸内細菌を増やすことで体の免疫力を高め、この腸内環境が「幸せ物質」と呼ばれるドーパミンやセロトニンの前駆体を合成し、脳まで運ぶ重要な役割を果たしていることを、自らの体で実証する。生命の歴史で言えば、腸神経系は40億年前にでき、たかだか5億年前からの脳を支配している。「脳論」の一歩先を行く「腸論」で、恋愛、健康から社会病理まで見事に読み解く。目からうろこの免疫最新情報も満載。三五館・1260円。

(引用終了)
<東京新聞 11/13/2012>

 このブログでは、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」

という二項対比・双極性を指摘し、二つのバランスの大切さを強調しているが、藤田氏のいう「腸」は、この対比でいうところの「身体の働き」と重なり、「脳」は、「脳の働き」と重なっている。大脳新皮質の働きは、社会を構成し始めた人(ヒト)において著しく発達した。だから脳(大脳新皮質)はそもそも社会のための“公器”なのであって、自分の欲望の充足のためにあるものではない。以前「日本語と社会の同質性」の項で、

(引用開始)

日本語的発想における脳の働きは、どうしても身体の働き(脳幹・大脳旧皮質の思考)に引きずられてしまうので、「公(Public)」の概念をしっかりさせておかないと、生産(他人のための行為)に向かうよりも、消費(自分のための行為)に向かってしまうようだ。

(引用終了)

と書いたけれど、いまの日本人は、脳(大脳新皮質)を自分のためだけに働かせすぎる。そういう今の日本社会を憂う藤田氏は、自分の健康のためには“脳はバカ”だから、「腸」を鍛えなさいと主張しておられるのだと思う。

 健康における「腸」の大切さに関する本は、“腸!いい話”伊藤裕著(朝日新書)、“腸脳力”長沼敬憲著(BABジャパン)、“腸は第二の脳”松生恒夫著(河出ブックス)などもある。併せて読むと腸の働きについてさらに理解が深まるだろう。

 藤田氏の“脳はバカ、腸はかしこい”の副題には、“腸を鍛えたら、脳がよくなった”とある。上の新聞の書評にもあるように、自分の健康のために「腸」を鍛えると、「脳」の働きもよくなるというわけだ。詳しくは本書をお読みいただきたいが、一部引用してみよう。

(引用開始)

トリプトファンやフェルニアラニンなどのアミノ酸からセロトニンやドーパミンを合成するためには、葉酸やナイアシン、ビタミンB6といったビタミン類が必要です。これらのビタミン類は私たちの体内では合成できません。腸内細菌が作っているのです。腸内細菌がバランスよく、数多く存在しないと、幸せ物質であるセロトニンとやる気物質であるドーパミンが不足し、うつ状態になったりイライラしたりするのです。

(引用終了)
<同書 91−92ページ>

セロトニンやドーパミンなどの神経伝達物質については、以前「仕事の達人」の項でも触れたことがある。「腸」を鍛え、そして「脳」の働きを強め、社会のためにより良い仕事をしようではないか。

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硬水と軟水

2012年09月11日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先回「長野から草津へ」の項で、温泉のことを書いたけれど、温泉の多くは鉱物(ミネラル)を含んでいる。ミネラルの中でも、カルシウムとマグネシウムを多く含む水を「硬水」(そうでない水を軟水)という。日本には温泉が多いが、自然水は総じて軟水であるという。“水と身体の健康学”藤田紘一郎著(ソフトバンク クリエイティブ サイエンス・アイ新書)から、硬水と軟水ができるしくみについて引用しよう。

(引用開始)

硬水と軟水ができるしくみ

 地中に染み込んだ雨や雪は地層によってゴミや汚れがろ過され、同時に地層内のミネラルを吸収して湧きでてきます。こうした水を一般にミネラルウォーターと呼んでいます。そのミネラルのなかでもっとも注目されているのが、カルシウムとマグネシウムの量です。水の硬度はカルシウムとマグネシウムの量から数値化されています。WHO(世界保健機構)は、水1リットル中に溶けているカルシウムとマグネシウムの量を数値化した値(硬度)が120ミリグラム以上を硬水、それ以下を軟水と規定しています。
 水の硬度は、採水地によって値が大きく異なります。ミネラルの含有量は、地層や地形その他の諸条件の影響を受けるからです。日本は国土の起伏がはげしく、高地から低地までの水の流れが速いため、地層のミネラルを吸収する期間が短く、ミネラル成分の含有量の少ない軟水の水が多く生まれます。
 一方、ヨーロッパ大陸は石灰岩層の地層が多く、平坦な大地が延々と広がっています。そうした土地から長い年月をかけて水が湧きだすため、地層のミネラルを豊富に吸収した硬水ができあがったのです。軟水はまろやかな水で飲みやすく、身体への負担が少ないという特徴があります。これに対して硬水は、体質改善などの健康作用の高い水です。(後略)

(引用終了)
<同書 62ページ>

 先日「音響空間」の項で、中村明一氏の“倍音”(春秋社)から、

(引用開始)

 まず国土の問題として、日本は非常に湿気を多く含んだ自然環境にあります。柔らかい土、草木、落ち葉に覆われ、日本中が響かない空間になっていたのです。音が響かないと、相対的に、高い音、倍音が聞こえてくるようになります。ですから、私たち日本人は、常にそれらの倍音が存在するところに生息していたことになります。(中略)
 これと対比して、西欧の場合を見てみると、家は石や煉瓦でできており、道路も石畳で造られていました。石に覆われているということは、非常に音が響く空間だということです。その音が響く空間で、西欧人は生活していました。(後略)

(引用終了)

との文章を引用したが、ヨーロッパに硬水が多く、日本に軟水が多いという話も、この響く空間、響かない空間の違いと重なるように思われる。

 水の違いは、料理の違いにも現れる。ヨーロッパの料理は、硬水を使った方が本来の味がでるという。日本料理には軟水が合う。ヨーロッパと日本という土地の特性の違いが、音楽、言語、料理など、幅広い文化の違いとなって顕れてくるのは興味深い。今後、中国、アジア、中東や南北アメリカ大陸などについても、このあたりのことを研究してみよう。

 そいうえば、「イームズのトリック」の項などでその著書を紹介してきた福岡伸一氏の“生物と無生物のあいだ”(講談社現代新書)という本に、マンハッタンの喧騒について次のような文書があった。

(引用開始)

 マンハッタンで絶え間なく発せられるこれらの音は、摩天楼のあいだを抜けて高い空に拡散していくのではない。むしろ逆方向に、まっすぐ垂直に下降していくのだ。マンハッタンの地下深くには、厚い巨大な一枚岩盤が広がっている。高層建築の基礎杭はこの岩盤にまで達している。摩天楼を支えるために地中深く打ち込まれた何本もの頑丈な鋼鉄パイプに沿って、そべての音はいったんこの岩盤へ到達し、ここで受け止められる。岩盤は金属にも勝る硬度を持ち、音はこの巨大な鉄琴を細かく震わせる。表面の起伏のあいだで、波長が重なり合う音は倍音となり、打ち消しあう音は弱められる。ノイズは吸収され、徐々にピッチが整えられていく。こうして整流された音は、今度は岩盤から上に向かって反射され、マンハッタン全体に斉一的に放射される。
 この反射音は、はじめは耳鳴り音のようにも、あるいは低い気流のうなりにも聴こえる。しばしば、幻聴のようにも感じられる。しかし街の喧騒の中に、その通奏低音は確かに存在している。

(引用終了)
<同書 205−206ページ>

マンハッタンでリズムの効いたジャズを聴きながら、硬水で割ったウィスキーなどを飲めば、いやが上にも気分が高揚するに違いない。

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posted by 茂木賛 at 09:26 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

笑いの効用

2012年08月28日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 “マンガでわかる神経伝達物質の働き”野口哲典著(ソフトバンク クリエイティブ サイエンス・アイ新書)を読んでいたら、笑いの効用について次のように書いてあった。

(引用開始)

 笑いはヒトだけに見られる感情表現である。そして、たんに笑いといってもさまざまなものがある。
 通常は楽しいとき、うれしいとき、おもしろいときなど快感情のときに笑うが、ときには愛想笑いのように、そうでない場合にも笑うことがある。
 一般的な快感情の笑いは、好き・嫌いや快・不快の判断をしている扁桃体や視床下部の働きによるものと考えられる。
 おもしろいといった快情報が入ってくると、扁桃体で快感情が生まれ、その信号が前頭連合野に伝わり、笑うべきかどうかの最終判断をしている。
 笑ってもよいと判断すれば、脳の奥にある大脳基底核へ信号が伝わり、顔面神経を刺激して笑いの表情をつくるのである。
 愛想笑いなどは、扁桃体から快感情の信号がなくても、前頭連合野が強制的に笑いの表情をつくっているのだ。
 笑いの感情は、副交感神経の活動を活発にするため、緊張をやわらげる効果がある。同時に脳内でβエンドルフィンやドーパミンを放出させ、多幸福感を生み出すのだ。
 特にβエンドルフィンは脳内麻薬とも呼ばれているように、痛みやストレスをやわらげ、免疫力を強化する作用がある。
 こんなことから、笑いは健康のためにもよいといわれるようになったのだ。さらに特別おもしろくなくても、意識的に笑いの表情をつくったり、声をだしてわらうだけでも、こうした効果を得られることが明らかになってきた。
 心身の健康のためにも、おおいに笑うことが重要なのだ。

(引用終了)
<同書 168ページ>

呼吸について」の項で、呼気の効用について書いたけれど、笑いにも副交感神経の活動を活発にする効果があるという。疲れたときなど特に、寅さんの映画でも観ながら大いに笑いたいものだ。

 「五欲について」の項で、ヒトだけに特有なものとして名声欲と財欲について述べたが、笑いもヒトだけのものだという。チンパンジーも笑いに似た声をあげるという話をどこかで読んだ記憶があるが、笑いはきっと共同体形成の進化に伴う感情表現の一つなのだろう。そういえば、経済人類学者の栗本眞一郎氏に“パンツをはいたサル”という著書があった。

 タイのことを「微笑みの国」というけれど、もしかしたらかの国民は地球上で最も進化した人々なのかもしれない。笑いは快感情・幸福感に通じる。だから、ブータンのGNH(Gross National Happiness)という考え方は、人類の次なる進化の目標を示しているのではないだろうか。尚、神経伝達物質の働きについては、以前「仕事の達人」の項でも触れたことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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posted by 茂木賛 at 08:09 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

音響空間

2012年08月20日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「密息と倍音」の項で、

(引用開始)

日本列島に音響幅の広い母音言語が育ったのは、倍音(特に非整数次倍音)を多く含む自然・住居環境があったことが寄与していると思われる。西欧では、音がよく反射し、高い方の倍音が吸収されやすい自然・住居環境があったため、子音言語と基音を主体にした音楽が発展した。

(引用終了)

と書いたけれど、日本と西欧の「音響空間」の違いについて、中村明一氏の“倍音”(春秋社)からさらに引用しておきたい。

(引用開始)

 まず、国土の問題として、日本は非常に湿気を多く含んだ自然環境にあります。柔らかい土、草木、落ち葉に覆われ、日本中が響かない空間になっていたのです。音が響かないと、相対的に、高い音、倍音が聞こえてくるようになります。ですから、私たち日本人は、常にそれらの倍音が存在するところに生息していたことになります。
 次に、私たちの住環境を見てみましょう。日本人が伝統的に住んでいた家は、藺草(いぐさ)で編んだ畳、紙の障子や布の襖(ふすま)といった、いわば吸音材に囲まれたようなものでした。外の自然環境がそのまま、家の中に形成されていたといってもよいでしょう。こうして一層、高い音、倍音に敏感になっていったのです。
 これと対比して、西欧の場合を見てみると、家は石や煉瓦でできており、道路も石畳で造られていました。石に覆われているということは、非常に音が響く空間だということです。その音が響く空間で、西欧人は生活していました。
 先に述べた通り、響く空間においては、音が反射します。すると反射のたびに高い方の倍音が吸収されてしまい、それらを聞くことが難しくなります。低い倍音は、並行面により定常波となり増幅されます。それゆえ、西洋においては日本と反対に、基音を主体にした音楽が発展することになるわけです。

(引用終了)
<同書 78−79ページ>

響かない空間だと高い音、倍音がよく聞こえ、響く空間だと、基音がよく聞こえる。それが言語や音楽の違いに寄与しているわけだ。言語については、音響空間の他、歴史や文字の違いなども勿論併せて考えなければならない。それらについては「民族移動と言語との関係」、「音声言語と書字言語」、「二重言語としての日本語」などの項を参照して欲しい。

 さて、中村氏は同書のなかで、「ハイパーソニック・エフェクト」という興味深い研究について紹介している。それによると、可聴域の部分とそれを越える可聴域外の高周波成分が共に鳴っている場合、その高周波成分は、皮膚から脳に伝達されるらしい。皮膚から脳に伝達された高周波は、α波の増加やNK細胞の増加などを促進し、リラックス効果や健康を促進するという。

 皮膚の能力については、このブログでもこれまで「皮膚感覚」や「境界としての皮膚」、「1/f のゆらぎ」の項などで述べてきた。その中で紹介した“皮膚という「脳」”山口創著(東京書籍)という本にも、この「ハイパーソニック・エフェクト」のことが載っている。人(の一生)も“モノ”ではなく“コト”であるから、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)の時代、人という“コト”の境界面に張り巡らされた「皮膚」について、これからもさらに勉強を続けたい。

 中村氏はまた、コミュニケーションの種類には一方向型、双方向型、同期(シンクロ)型、自己回帰型があり、音楽によるコミュニケーションは、伝わる情報量が多い「同期型」であるという。同期とは、以前「相転位と同期現象」の項でも書いたように、二つのリズムが相互作用して周期が一致し乱れがない状態を指す。中村氏は演奏家と聴衆との関係について、

(引用開始)

 これまでは、演奏家→聴衆という一方的な関係が主に語られてきましたが、同期型コミュニケーションという観点から振り返ると、実は、演奏家と聴衆というのは、同じ音の場に同期しながら存在しているのです。したがって、この両者の関係、聴衆の重要性を、捉えなおす必要があるのではないでしょうか。

(引用終了)
<同書 187ページ>

と書いておられる。モノコト・シフトの時代、音楽を含む「同期型コミュニケーションの場」が増えることは間違いないだろう。

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posted by 茂木賛 at 15:25 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

密息と倍音

2012年08月09日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「呼吸について」の項で、胸式呼吸や腹式呼吸について言及したが、“「密息」で身体が変わる”中村明一著(新潮選書)によると、呼吸法にはこの二つのほかに「密息」という日本古来のやり方があるという。「密息」は、

(引用開始)

 ごく簡単にいえば、腰を落とし(骨盤を後ろに倒し)た姿勢をとり、腹は吸うときも吐くときもやや張り出したまま保ち、どこにも力を入れず、身体を動かすことなく行なう、深い呼吸です。外側の筋肉でなく、深層筋を用い、横隔膜だけを上下することによって行なうこの呼吸法では、一度の呼気量・吸気量が非常に大きくなり、身体は安定性と静かさを保つことができ、精神面では集中力が高まり、同時に自由な開放感を感じます。

(引用終了)
<同書 13ページ>

ということで、身体の安定性を重んじる武術や禅、茶の湯などの日本文化の原点にはこの呼吸法があるという。

 以前「リズムと間」の項で、

(引用開始)

 カナ一文字が最小の音声認識単位であるところの日本語の歌は、「拍」と「間」によって構成される。それに対して、シラブル(子音から子音への一渡り)が最小の音声認識単位であるところの英語の歌は、シラブルを繋ぐものとしての「ビート(脈動)」や「リズム(律動)」によって構成されるということがわかる。(中略)西洋の音楽は、粒子の連続だから「ビート(脈動)」や「リズム(律動)」が重要であり、日本の音楽は、一本の線だから「拍」や「間」による抑揚が大切なのであろう。

(引用終了)

と書いたけれど、日本文化にとって大切な「間」の感覚は、身体に安定性と静かさを齎す「密息」という呼吸法によって、さらに研ぎ澄まされてきたようだ。

 著者の中村明一氏は、日本の伝統楽器である尺八の演奏者である。氏によると、尺八の音楽には、「倍音(特に非整数次倍音)」が多く含まれているという。「倍音」とは何か。中村氏のもう一つの著書“倍音”(春秋社)から引用しよう。

(引用開始)

 音に含まれる成分の中で、周波数の最も小さいものを基音(きおん)、その他のものを「倍音」と、一般的に呼び、楽器などの音の高さを言う場合には、基音の周波数をもって、その音の高さとして表します。(中略)
 倍音の種類は、大きく二つの分けることができます。
 ひとつが、「整数次(せいすうじ)倍音」と呼ばれるものです。基音の振動数に対して整数倍の関係にあります。(中略)
 もうひとつが、「非整数次(ひせいすうじ)倍音」と呼ばれるものです。弦がどこかに触れてビリビリとした音を発することがあります。このように整数倍以外の何かしら不規則な振動により生起する倍音が「非整数次倍音」です。

(引用終了)
<同書 9−12ページ>

ということで、自然界が発する有機的な音には、非整数次倍音が多く混ざっている。

 以前「母音言語と自他認識」の項などで、日本人は母音を左脳で聴くと述べたけれど、中村氏によると、日本人は尺八などの伝統音楽も左脳で聴いているという。

(引用開始)

 音楽、言語、自然の音響について見てみると、西欧人の場合は、言語は左脳、音楽、自然の音響は、右脳。日本人の場合は、言語、音楽(日本の伝統音楽)、自然の音響はすべて左脳でとらえられています。日本人の言語、音楽、音響を結びつけているのは、「非整数次倍音」です。前章でも述べたように、日本の伝統音楽は「非整数次倍音」が出るように改造されている、つまり、より言語に近く、自然の音に近い音響が出るように工夫されています。

(引用終了)
<同書 31ページ>

日本列島に音響幅の広い母音言語が育ったのは、倍音(特に非整数次倍音)を多く含む自然・住居環境があったことが寄与していると思われる。西欧では、音がよく反射し、高い方の倍音が吸収されやすい自然・住居環境があったため、子音言語と基音を主体にした音楽が発展した。

 中村氏は、世界の音楽を基音・倍音構造によって調べ、今後の音楽の方向性について次のように述べる。

(引用開始)

 私たちは、いま、歴史的に大きな転換点に立っています。基音による音組織をもとに大きく発展してきた西洋音楽の発展は終焉を迎え、世界は倍音に重きを置いた音楽にシフトチェンジして行くでしょう。
 言語、音楽、それぞれ個別に発展し、飽和点に達した文化は、境界を越えて、大きな発展を迎えるスタートラインに立ったところです。

(引用終了)
<同書 242ページ>

 倍音豊かな音楽は、録音されたCDなどではなかなか再現することが難しい。以前「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の項で「ミュージッキング」というコンセプトを紹介し、これからの“モノからコトへ”のパラダイム・シフト(略してモノコト・シフト)の時代においては、音楽もモノ(一方的な鑑賞の対象物)から、コト(あらゆる関係性に開かれたパーフォーマンス)へとその中心が移ってゆくだろうと書いたけれど、基音から倍音に重きを置いた音楽へのシフトチェンジも、モノコト・シフト時代の到来を示しているように思える。

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呼吸について

2012年07月17日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 “呼吸の極意”永田晟著(講談社ブルーバックス)という本を読んだ。呼吸という身体にとって重要なしくみについては、これまでも「体壁系と内臓系」や「自律神経と生産と消費活動について」の項で書いてきたが、やはり呼吸の面白いところは、それが内臓系を調整する自律神経(交感神経と副交感神経)の支配下にありながら、体壁系の筋肉(肋間筋と横隔膜)によって行なわれていることであろう。

 呼吸のうち、吸気は交感神経によって調整され、呼気は副交感神経によって調整される。脳幹にある呼吸中枢は、自律神経の調整を受けながら、肋間筋と横隔膜を収縮・弛緩させて呼吸運動を制御している。

 呼吸法には、胸式呼吸や腹式呼吸などあるが、とくに腹式呼吸によって呼気を意識的に行なうと、副交感神経がより刺激され、それによって内臓系器官の活動を促進できるという。“呼吸の極意”から引用しよう。

(引用開始)

 自律神経系のうち副交感神経につながる迷走神経は、延髄・橋からでていますが、同じ部位に呼吸中枢があるため、両神経間は強く関連しあっています。具体的には、呼吸運動の中で呼気が強くなると、迷走神経が興奮して呼吸が深まっていきます。逆に、迷走神経に障害がある場合は呼吸は浅くなってしまいます。このように呼吸運動は迷走神経によって影響され、逆に、呼吸運動次第で迷走神経活動をコントロールできるのです。
 さて、自律神経系は内臓を動かす筋肉をコントロールすることで、内臓などの器官の働きに影響を与えています。(中略)
 吸息が盛んになる、つまりたくさんの空気が激しく取り込まれると、副交感神経が抑制され、交感神経が興奮します。交感神経が活発になると、内臓の働きは抑制されます。反対に呼息運動が盛んになると、副交感神経が興奮し、交感神経が抑制されて、内臓の働きも活発になるのです。
 つまり、内臓の働きを促進させるのは副交感神経であり、とくに呼息中心の呼吸法が大切なのです。一呼吸置いたり、ため息をついたり、深く息を出したりなどのやり方によって、副交感神経が活発になり、内臓の働きが促進されます。

(引用終了)
<同書 56−58ページ>

交感神経と副交感神経」の項でも述べたように、副交感神経は内臓系器官の働きを促進するから、呼吸(とくに呼気)を意識的にゆっくりと深く行なうことで、内臓系の働きをより強くすることが出来るわけだ。

 呼吸運動が体壁系の骨格筋によって制御されるのは、肺に心臓の心筋にあたる不随筋が存在しないからだが、このことによってヒトは、逆に呼吸を意識的にコントロールすることができ、それによって内臓系器官の働きをある程度制御することができる。健康法として人気のあるヨガや気功が呼吸(とくに呼気)の重要性を強調するのは、そういう理由なのである。

 この本(“呼吸の極意”)には、血液をアルカリ性に保つ呼吸法や、血圧を下げる呼吸法、腹式呼吸を会得するための呼吸体操など、実際的なことも多く書かれているので、普段忙しい皆さんも是非一読されると良いと思う。

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水の力

2012年05月22日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 昨日皆さんのところでは、金環日蝕を観察することが出来ただろうか。私は屋上で専用眼鏡を使って、見事なオレンジのリングを見ることができた。先日のスーパームーン、昨年12月の皆既月蝕も良かったが、今回のリングは事の外素晴らしかった。長く記憶に残りそうだ。

 さて、最近「水」に関する本を、三冊続けて読んだ。一冊目は“水を守りに、森へ”山田健著(筑摩選書)で、この本については先日「多様性を守る自由意志」の項で紹介した。二冊目と三冊目は、“水の健康学”藤田紘一郎著(新潮選書)と“水とはなにか <新装版>”上平恒著(講談社ブルーバックス)である。良い機会なので、ここで「水」についての私の興味を纏めておきたい。

1. 水と健康とのかかわり

 水は人の健康に欠かせない。私の水に対する興味の第一は、水と健康とのかかわりである。“水の健康学”藤田紘一郎著には、水の持つ身体への影響、とくに飲料水におけるPH値や、ミネラルの含有量(硬度)、酸化還元電位などについてやさしく解説してあるので参考になる。

2. 水の非線形的な性質

 水は熱しやすくさめにくく、また凍りにくい。水は物質を溶かしやすく、クラスターを形成しやすい。“水とはなにか <新装版>”上平恒著によると、これらの性質の背景には、水が「水素結合」と「双極子能力」という二つの力を併せ持ち、他の同属元素に比べて分子間結合力が高いことが挙げられるという。以前「脳について」の項で、

(引用開始)

「脳のなかの水分子」(紀伊国屋書店)の著者中田力氏によると、脳にはニューロン・ネットワークの他にもう一つ高電子密度層があり、その仕組みが人の「内因性の賦活(自由意志や創造力、ひらめき)」を支えているという。

(引用終了)

と書いたことがあるけれど、この高電子密度層(とその下の間隙)は「水を神経伝達物質とするシナプス」だから、ここでも水が大きな役割を果たすと考えられている。水の非線形的な性質が、私の興味の第二である。尚、脳の高電子密度層と水分子との関わりを論じた中田氏の「渦理論」については、同氏の“脳の方程式+α ぷらす・あるふぁ”(紀伊国屋書店)により詳しい。

3.流域思想

 このブログでは、流域思想に基づいた街づくりを提唱しているが、流域の形成には勿論「水」の存在が欠かせない。先日「多様性を守る自由意志」の項で紹介した“水を守りに、森へ”山田健著(筑摩選書)は、その水を守ろうとする実践の書である。「流域思想」、あるいは水と社会との関わりが、私の水に対する興味の第三である。また、流域の歴史を勉強する上で、各地に残る水信仰も興味深い。

 水は人の健康を守り、意思を育て、流域と街をつくる大切な存在である。これからも「水の力」について様々な視点から勉強してゆきたいと思う。

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流行について

2012年02月28日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「パラダイム・シフト」とは、その時代や分野において当然のことと考えられていた認識(パラダイム)が、革命的かつ非連続的に変化(シフト)すること、と定義される。今回は、このパラダイム・シフトという時代の大きな「変革」と、大衆が一過性で注目し人気を集める「流行」との相関について考えてみたい。

 パラダイム・シフトについては、先日「“シェア”という考え方」や「“シェア”という考え方 II」の項で挙げた、

私有    → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り  → 分担
孤独    → 共感

世間    → 社会
もたれあい → 自立
所有    → 関係
モノ    → コト

といった内容をベースにしよう。この新パラダイム社会で、「森ガール」の項で取り上げたようなファッションや感性は、今後どのように変化していくのだろうか。

 先日「現場のビジネス英語“sleep on it”」の項で、ヒトは眠っている間に賢くなるという話を、“運がいいといわれる人の脳科学” 黒川伊保子著(新潮文庫)から引用したが、黒川さんの別の著書“夫婦脳”(新潮文庫)には、“感性の7年周期説”という面白い仮説が載っている。まずその部分を引用したい。

(引用開始)

 ヒトの脳には、感性の7年周期がある。
 前にも触れたけど、これは免疫の中枢である骨髄液が丸七年で入れ替わることに起因した、生理的なサイクルだ。
 生体は、外界刺激には反応しないと危ないが、その刺激が長く続くのであれば、適応しないとまた危ない。したがって、脳は、或る一定の刺激に対し、最初は反応するが、徐々に緩慢になって、やがてすっかり慣れる(飽きる)ように出来ているのである。(中略)
 この「何年もすれば、すっかり逆転」が、実は、個々に不確定な年限ではなく、骨髄液が入れ替わるサイクル=7年に沿っている。

(引用終了)
<同書 107-108ページ、フリガナ省略>

ということで、骨髄液の入れ替わりをベースに、夫婦の危機は7年ごとに訪れるというわけなのだが、黒川さんによると、この7年周期説、夫婦間だけではなく、大衆の流行現象などにも適応できるという。

 流行は、大衆全体が同時期に同じものを見聞きするので、社会全体で同時期に同じ傾向のものに飽きてくる現象が起こる。だから流行も7年周期で変わっていく。そしてこの7年周期は、さらに7年×4=28年の大きな周期をもって正反対の感性へと向かう、と黒川さんはいう。

 詳しくは同書を読んで判断していただきたいが、ここではこの「流行28年周期説」をベースに話を先へ進めてみよう。尚、この本は2010年12月に発行されている。

 2010年から28年前、社会はまだ古いパラダイムの時代である。当時大衆の間では「シャープ」や「辛口」が流行した。それに比べて今はどうか、そしてこれからの新パラダイム時代の流行はどうなっていくのか。さらに同書から引用する。

(引用開始)

 辛いものを好んで口にした当時の女の子たちは、口の利き方も辛口だった。結婚相手の条件に三高(高学歴、高身長、高収入)を挙げて、男たちを威嚇して翻弄したのも、「シャープが嬉しい時代」のワンレン、ボディコンの女子だったのである。
 それから二十八年後の今、車は丸く、女の子たちも、髪をカールして、フリルやリボンを配し、下着みたいにひらひらキラキラしたかっこうを楽しんでいる。おやつは甘さの時代に入り、コンビニスイーツやデパ地下スイーツの新作が季節ごとに話題になるのも、いまや定番。女の子たちの口の利き方も甘くなり、三低(低リスク、低依存、低姿勢)でいいそうである。
 そんなベタ甘の時代も、既にピークを過ぎている。そろそろ、凛々しさが戻ってくるはず。その予兆が、四角い車や、テレビドラマ「曲げられない女」あたりに匂ってきている。私たちは、超シャープな時代へ向かって、二十八年間の長い旅を始めたのである。

(引用開始)
<同書 112ページ、フリガナ省略>

いかがだろう。黒川さんによると、これからはまた「シャープ」な時代が来るという。

 新パラダイム社会における「シャープ」さがどのようなことを指すのかは、実のところ今の時点ではまだよく見えない。その流行は数年かかっておいおい学校や街角に姿を見せるのだろう。ただ、上に挙げたパラダイム・シフトの中に、

もたれあい → 自立

という項目が在る。従ってこれからのシャープさには、少なくとも「ベタベタしたもたれあい関係」から「凛とした精神的自立」へ、という感性が含まれると思われるが、皆さんはどう予測されるだろうか。

 ファッションについては「森ガール」の項で、

(引用開始)

「森ガール」が成長しそのファッションがさらに洗練されてくれば、日本古来の「和服」とも融合(fusion)し、近代以降の日本の服装として社会生活に定着していくのではあるまいか。

(引用終了)

などと書いたけれど、それがシャープさとどう結びつくかはまだ謎である。先日「なでしこジャパン」の澤穂希選手が国際サッカー連盟の授賞式で素敵な和服姿を見せてくれたが、もしかするとあれはその片鱗なのであろうか。

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“モノからコトへ”のパラダイム・シフト

2012年01月31日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「“シェア”という考え方」の項で、“シェア”の時代にとって大切なテーマの一つとして、“モノからコトへ”のパラダイム・シフトを挙げた。今回はこのテーマについて掘り下げてみたい。まず同項からその部分を引用しておこう。

(引用開始)

 シェアという「コト」の分析には、アフォーダンスや言語、エッジ・エフェクトや境界設計といった「関係性」の人間科学、免疫学(生物学)や気象学、流体力学や波動力学、熱力学といった「コトの力学」の応用が必要だと思われる。

(引用終了)

ここで述べたのは学問分野だが、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」はそれに留まるものではなく、ビジネスやアート、街づくりなどといった広範囲な社会現象として捉えることができると思う。街づくりに関しては、先日「場所のリノベーション」の項で、

(引用開始)

 「三低主義」にせよ「場所のリノベーション」にせよ、これからの街づくりには、その街に住む人々や建築家の「場」に対する感度が問われているのである。

(引用終了)

と書いたように、建物という「モノ」自体よりも、「コトの起こる場」の力を大切にする考え方が重要になってくると思われる。

 アートに関しては、“ミュージッキング”クリストファー・スモール著(水声社)という本が参考になるだろう。精神科医齋藤環氏の書評を引用する。

(引用開始)

 “音楽というモノ”は存在しない。著者は断言する。あるのはミュージッキングなのだと。それは作曲家や演奏家の専有物ではない。リスナーも、ダンサーも、ローディーも、チケットのもぎりも、およそ音楽に関わるすべての人々は、ミュージッキングに参加している。
 そう考えることで、音楽は一方的な鑑賞の対象であることをやめ、あらゆる“関係性”に開かれたパーフォーマンスとなる。この視点から、とあるシンフォニー・コンサートの成立過程が詳しく検討される。そこで何が起こっているのか。
 ミュージッキングとは関係することだ、と著者は言う。それは「関係を探求し、確認し、祝う」ことなのだ。
 音楽の精神分析が難しいのはなぜか。ようやくその謎が解けた。分析において重要なのは「否定」や「否認」だ。しかし音楽には「否定」がない。そこにあるのは祝うこと、すなわち存在の肯定なのである。

(引用終了)
<朝日新聞 10/30/2011>

このような「モノ」から「コト」への関心のシフトは、音楽だけではなく、他のアート全般についても云えるのではないだろうか。先日“「本屋」は死なない”という書籍について書いた「本の系譜」という考え方も、本という「モノ」から、系譜や繋がりという「コト」への関心のシフトを示している。

 ビジネスの関しては、以前「仕事の達人」の項で紹介した、アップルの創業者スティーブ・ジョブズの創造性の法則の一つ、「製品を売るな。夢を売れ。」というフレーズを再度引用しておきたい。製品という「モノ」ではなく、夢や感動という「コト」を売ること。それがこれからのビジネスの中心的パラダイムとなるに違いない。

 学問分野に戻れば、生物学において最近注目されている「エピジェネティクス」なども、遺伝子という「モノ」から環境と細胞との相互作用という「コト」への関心のシフトを示している。生物学者福岡伸一氏の昨年末の書評から、“エピジェネティクス”リチャード・フランシス著(ダイヤモンド社)に関する部分を引用しておこう。

(引用開始)

 世界の成り立ちをどう捉えるか。それは、遺伝子万能論を脱しつつある生命観の問題についてもいえる。生物の姿かたちを変えるのは遺伝子上の突然変異だけではない。旧来の遺伝学(ジェネティクス)の外側(エピ)で生じている新しいパラダイムシフト。

(引用終了)
<朝日新聞 12/25/2011>

 以上見てきたように、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」は、“シェア”という時代コンセプトと手を携えて、ビジネス、アート、街づくり、科学など、多くの領域に広がっている。今後もこの現象について様々な角度から考えてゆきたい。起業のヒントが多く眠っている筈だ。

 最後にもう一言付け加えておくならば、「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっているということだ。「モノ」においては、それが作られた固有の「時間と空間」は内部に凍結している。「コト」においてはそれが動いている。逆に云うと、自分が気に入った「時間と空間」に注目してゆけば、必ずそこで起こっている素敵な「コト」に出会うことができるということである。そしてまた、「モノ」であっても、自分が気に入った「モノ」をよくよく観察していれば、やがて、それが作られたときの「時間と空間」が解けて見えてくるかもしれないということでもある。

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イームズのトリック

2012年01月03日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「マップラバーとは」の項で、“世界は分けてもわからない”福岡伸一著(講談社現代新書)に関して、

(引用開始)

 ところで、福岡氏のこの著書には、もう一つ「イームズのトリック」という面白い話題がある。それについてはまた後日触れてみたい。

(引用終了)

と書いた。今回はこのことについて考えてみたい。家具のデザインで有名なチャールズ・イームズとレイ・イームズは、「パワーズ・オブ・テン」という映像作品を作ったことでも知られている。パワー・オブ・テンとは10のn乗という意味で、その作品とは、10のn乗単位でカメラをズームイン・ズームアウトさせ、世界の階層構造を映像によって示そうとしたものだ。イームズのトリックとは、この作品に関する話だ。福岡氏の著作からその部分を引用しよう。

(引用開始)

 しかしながら、イームズのすばらしい映像にはひとつだけトリックがあった。解像度を上げて対象を拡大すればその視野はより暗くなる、というシンプルな物理学的事実が捨象されていたことである。
 生体のある細胞組織を顕微鏡で観察するとしよう。四十倍の倍率からパワー・オブ・テンを一段あげて四百倍としたとき、視野はどうなるだろうか。視野のフレームの大きさ自体はかわらない。かりに視野が正方形で、四十倍の時に見えていた映像を縦横10 x 10の方形のグリッドで分割したとすれば、その1 x 1のグリッドのひとつが縦十倍、横十倍に拡大されて、四百倍の際のフレームの縦横に貼り付けられた、ということである。だから、新しい視野に拡大して捉えられた映像は、もとの視野にあった百分の一のグリッドを切り取ったものである。そして切り取られたものは映像だけではない。映像とともに明るさも切り取られているのだ。新しい視野を照らしているのは、四十倍の視野の明るさの百分の一の光でしかない。
 したがってもし顕微鏡の倍率を十倍だけ上げると何が起こるか。それは視野が暗転するということである。そしてさらに重要な事実は、もともと見えていた視野のうち99%はその光とともに失われてしまったということである。
 イームズの映像は、倍率をどんなに上昇させても、視野はどこまでも同程度に明るかった。解像度が上がる快感だけが表現されることになった。
 暗転した視野の内に見えるもの。そしてその外に捨象されてしまったものの行方について、何かを語ることができれば良いと私は願う。

(引用終了)
<同書 42−43ページ>

ということで、イームズのトリックとは、光の量と対象の大きさとの問題であった。狐につままれたような話だが、一見科学的と思えるこのような作品にトリックが潜んでいようとは、普通なかなか気付かない。このトリック、倍率がさらに上がって、対象が可視光の波長よりも小さくなれば、単に暗くなるだけでなく、可視光のままでは対象を解像できなくなる。その場合、電子顕微鏡やSPM(走査型プローブ顕微鏡)で見たり放射光を使ったりするわけだが、そうなると対象物への影響(吸収、散乱など)も出てくるから、結果の分析も一筋縄ではいかない。様々な要因を解析して総合的にみなければならないわけだ。最終的にはそれこそ“世界は分けてもわからない”のかもしれない。

 このような極限の世界について、我々は知っているようでまだまだ理解していないことが多い。最近、素粒子ニュートリノが光よりも速く動いたという測定結果や、質量の起源とされるヒッグス粒子の発見が近づいたというニュースが話題になっている。トリックにひっかからない為にも、我々はこれらの研究を専門家任せにするのではなく、先日「鉄と海と山の話」の項で触れた“境界学問”の精神を持って、いろいろな角度から勉強・照合していかなければならないと思う。

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気象学について

2011年09月13日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 気象学が面白い。といっても素人レベルの話で、“図解 気象学入門”古川武彦・大木勇人共著(講談社ブルーバックス)や“天気と気象 増補改訂版”(ニュートン別冊)、“謎解き・海洋と大気の物理”保坂直紀著(講談社ブルーバックス)などを読んで勉強しているところだ。

 ここで私の気象学についての興味を纏めておきたい。

1. 実用面

仕事や旅行計画などのための天候予測。もっとも今年の台風6号の不思議な動きには翻弄された。

2. 身体活動との相関

自律神経(交感神経と副交感神経)と気象(気温、気圧、四季など)との相関を弁えることで、「人生系と生命系」の物語を上手く同期させること。人生の達人への道。

3. 複雑系の実例として

コリオリ力、比熱・潜熱、レイノルズ数、ナビエ・ストークス方程式、エクマンらせん、西岸強化、ロスビー波、深層循環などなど、気象学は複雑系科学の宝庫であり、それらは社会現象の分析にも応用できそうだ。

 以前「免疫について」の項で、免疫に関する私の興味を以下の三つに纏めたことがある。

1. 健康管理面
2. 自律神経と生産と消費活動について
3. 免疫学の社会科学への適応

いまこの三つを気象学への興味と並べてみると、同じような構造になっていることに気付かされる。

 特に3.の社会科学への適応については、「環境におけるエネルギーの循環」という視点からして、気象というマクロコスモスと、人体というミクロコスモスとの両面から、その中間にある人と社会というメゾコスモスを分析するということで、なかなか理に適っていると思うがいかがだろう。

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人生系と生命系

2011年09月06日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでよく紹介する新潟大学の安保徹氏の本を再読していたら、「人生系と生命系」という対比があった。その本“40歳からの免疫力がつく生き方”(静山社文庫)から該当箇所を引用したい。

(引用開始)

 私たちはふたつの物語を生きています。人生系の物語と生命系の物語がそのふたつです。人生系の物語の主人公は、何かをしたい私、つまりエゴです。エゴはひとりひとり切り離された他者を意識します。エゴは他者と関わりををもち、組織と関係し、集団と関係します。生きていく力、原動力は、他者よりもよりよく生きたいという願いでしょう。
 エゴにとっての継続性は所属する文化にあります。文化によって自己を形づくり、エゴが滅びたあとも文化は残ります。これが人生系のシステムの姿です。進化の歴史からいえば、ごく最近になって上積みされた大脳前頭前野がエゴの存在する根拠です。
 もうひとつの物語である生命系は、全体でひとつなのです。人生系は孤立したエゴがせいぜい100年足らずの時間帯をもっているのに比べ、38億年の奥行きをもち、生きとし生けるすべてのものとつながり、全部が一体です。巨大な一とばらばらの一。このふたつの交わりにくい物語系を同時に生きているのが、私たちひとりひとりの人間なのです。

(引用終了)
<同書39−40ページ。振り仮名は省く>

安保氏の云う人生系=エゴとは、個人の脳(t = 0)と身体(t = life)が紡ぐ物語であり、生命系とは、身体(t = life)と自然(t = ∞)とが織りなす物語である。人生系の物語は基本的に「脳」がリードしていくのに対して、生命系の物語は「身体」が主役となる。

 以前「自律神経と生産と消費活動について」の項で、

(引用開始)

多く場合、活動的な体調が「生産」の緊張を支え、リラックスした体調が「消費」の心理状態を支えている。従って、「生産」には交感神経優位の体調が必要で、「消費」には副交感神経優位の体調が必要といえる。すなわち、

「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位

という対比が可能になるわけだ。

(引用終了)

と書いたけれど、安保氏の云う人生系の物語は、「何かをしたい私」が主役ということで、「生産」:交感神経優位の活動であり、生命系の物語は、「身体」が主役ということで、「消費」:副交感神経優位の営みのように思われる。

 とすれば、人生系と生命系という「交わりにくいふたつの物語」を調和させるには、自律神経(交感神経と副交感神経)を上手くコントロールすることが大切になるだろう。

 先日「1/f のゆらぎ」の項で、

(引用開始)

この「1/f ゆらぎ」の特徴は、振幅が小さいほど振動数が多く、振幅が大きいほど振動数が少ないというもので、星の瞬きからそよ風、心臓の鼓動や脳のα波に至るまで、心地よく感ぜられる自然現象に多く見られるという。

(引用終了)

と書いたけれど、人生の達人と呼ばれる人々は、「交わりにくいふたつの物語」をそよ風にでも準(なぞら)え、振幅が小さい呼吸や脈拍、脳波といった振動から、振幅が中位の昼と夜、気圧と気温、仕事と休息といったリズム、さらには幼年期、青年期、壮年期、老年期といった人生の大きな波動を、「1/f のゆらぎ」の要領で上手く同期(synchronize)させているのかもしれない。

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1/f のゆらぎ

2011年08月16日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 自然界には「1/f のゆらぎ」(もしくは「1/f ゆらぎ」)と呼ばれる興味深い現象がある。“宇宙の不思議”佐治晴夫著(PHP文庫)から引用しよう。佐治氏は、時間や空間の中の場所が変わっていくにつれて、ある物理的な性質や状態が変化していく様子を表す「ゆらぎ」について、「フーリエ変換」や「スペクトル分解」などの分析方法を説明した後、

(引用開始)

 さて、宇宙から生体まで、一般の自然現象の中に見られる「ゆらぎ」をこのような方法で調べてみると、それぞれの成分波の強さが、その波の振動数に反比例している場合が多く見受けられます。ここで振動数をf で表せば(振動数の英語frequencyの頭文字ですね)、この性質は、成分波の強さが1/f に比例するということですからこれらを「1/f ゆらぎ」とよんでいます。

(引用終了)
<同書60ページ>

と解説しておられる。この「1/f ゆらぎ」の特徴は、振幅が小さいほど振動数が多く、振幅が大きいほど振動数が少ないというもので、星の瞬きからそよ風、心臓の鼓動や脳のα波に至るまで、心地よく感ぜられる自然現象に多く見られるという。

 以前「境界としての皮膚」の項で紹介した“皮膚という「脳」”山口創著(東京書籍)によると、皮膚を優しくなでるとこの「1/f のゆらぎ」振動が発生し、なでられた人は心地よく感じるという。このゆらぎ振動はどのように脳に伝わるのか。

(引用開始)

 それでは「1/f ゆらぎ」の振動は、どのようにして脳に届いているだろうか。
 ひとつの可能性は、皮膚にある4種類の感覚受容器がなでられた皮膚の振動を知覚して、それが電気的信号に変換されて神経を伝って脳へ届き、「1/f ゆらぎ」を感知して心地よさを感じるということになる。もちろん、この可能性を否定するのでは無いが、ここでは別の可能性を提案したい。
 それは、なでられた皮膚の振動が皮膚上を伝って頭部まで届き、それが脳に伝わっている可能性である。
 なぜならこの仮説は、ゾウリムシが外部からの皮膚(細胞膜)への刺激によってカルシウム振動を起こしていること、さらには隣接する細胞へ伝達している状況と極めて類似するからである。私がこの仮説にこだわるのは、第2章で述べた、可聴帯閾外の高周波音が皮膚の振動として脳に伝わっている可能性ともリンクしている。

(引用終了)
<同書131−133ページ。強調傍点は省く>

 以前「皮膚感覚」の項で、皮膚に関する興味視点を三つに纏め、その二つ目に体表と経絡ネットワークを挙げた。以下再度引用しよう。

(引用開始)

 二つは、体表と経絡ネットワークについてである。傳田氏は、自らの体験なども踏まえて、体表(表皮)そのものに、神経系・循環器系とは別の「経絡ネットワーク」とでもいうべき情報経路が存在するのではないか、と推察されている。以前「脳について」のなかで、脳内の情報伝達の仕組みについて、ニューロン・ネットワークの他にもう一つ高電子密度層があり、その仕組みが人の「内因性の賦活」を支えているという説に言及したけれど、体表そのものに神経系・循環器系とは別の情報経路が存在するという説は、人の脳と身体を考える上で大変興味深い。

(引用終了)

皮膚上の「1/f のゆらぎ」振動は、この経絡ネットワークを伝って頭部まで届いているのだろうか。

 「1/f のゆらぎ」のもう一つの特徴は、部分の中に全体が、全体の中に部分が含まれているような性質である。“宇宙の不思議”(PHP文庫)から再び引用しよう。

(引用開始)

 またあとで、あらためてふれたいと思いますが、私たちをとりまくこの自然界は、部分の中に全体が、また逆に考えれば、全体の中に部分がそのままふくまれている性質が内在しているようです。それは、いうなれば、ひとつの人形の中に、小さいけれども同じ形をした人形がつぎつぎにはいっているロシアの有名な民芸品マトリョーシカに見られるような「入れ子構造」とでもいえるような性質です。
 このような性質を数学の世界では「フラクタル」といっていますが、前にお話しした「1/f ゆらぎ」も、変動の様子を詳しく調べると全体と部分の変動が、きわめて似た形をしていて、「フラクタル」の代表例であると考えられているのです。

(引用終了)
<同書99ページ>

「1/f のゆらぎ」は「ベキ法則」(もしくは「ベキ則」)の一種である。ベキ法則については、以前「ハブ(Hub)の役割」や「リーダーの役割」の項で、平均値や分散値が捉えられないスケールフリー・ネットワークとして説明したが、このスケールフリー・ネットワークも、特徴的なスケールを持たないという点で実はフラクタル的現象の一つである。

 そしてこの「フラクタル」性に注目すると、その先には、コッホ曲線、マンデルブロー集合、カントール集合、ブラウン曲線、DLA(Diffusion-Limited Aggrigation)、等角らせんなどといった多くの非線形科学現象が姿をあらわす。さらに、等角らせんはフィボナッチ数列を介して黄金比の話に繋がっている。

 心地よさの本質、皮膚振動の脳への伝達経路、フラクタル性などなど、「1/f のゆらぎ」とその関連現象への興味は尽きない。

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不変項

2011年07月24日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「“わたし”とは何か III」の項で、近親者や友人に見守られている自分の居場所について、

(引用開始)

ここでいう「居場所」とは、物理的な場所ではなく、人から見守られているという精神的な安心感のことである。(中略)この安心感があればこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。

(引用終了)

と書いたけれど、物理的な場所(物)であっても、優れたものは、充分精神的な「居場所」足り得る。たとえば、異郷に暮らす人にとっての一枚の懐かしい写真、求道者にとっての一冊の聖なる本、里に暮らす人々にとっての奥山、都会に暮らす人々にとっての駅前広場の一本の木、商店街の灯りなどなど。

 「わたし」にとって身近なもの、身の回りに常にある物、環境の中にあって変わらない場所、自分を確認できる優れた場所や物は、「アフォーダンス」で云うところの「不変項」という概念に近い。“アフォーダンス―新しい認知の理論”佐々木正人著(岩波書店)から不変項について引用しよう。

(引用開始)

 不変なテーブルの知覚を可能にしているのは、変形があらわにする対象の性質である。テーブル板の場合、知覚者の視点の移動によってさまざまな台形に変形するが、そのようにしてつぎつぎと現れる台形の四つの角と辺の関係には常に変化しない一定の比率がある。テーブルが正方形の場合と長方形の場合とでは、この四辺がなす「不変な比率」は異なる。この不変な比率が、テーブル面が正方形か長方形か、すなわちどのような「姿」であるのかを特定する。
 ギブソンは、この変形から明らかになる不変なものを「不変項(インバリアント)」と呼んだ。

(引用終了)
<同書48−49ページ>

 目まぐるしく変転する生活環境の中にあって、自分を確認できる優れた場所や物は貴重である。近親者や友人の存在とともに、そういった場所や物があってこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。

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“しくみ”と“かたち”

2011年06月21日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「体壁系と内臓系」の項で、三木成夫氏の著書“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)から、以下の部分を引用した。

(引用開始)

 まず、体壁系は、その感覚機能と運動機能を仲介する「神経系」の中枢部――『脳髄』によって、それは代表される。これに対し、内臓系は、その呼吸機能と排泄機能を仲介する「循環系」の中心部――『心臓』によって、同じように代表される。前者の“脳”そして後者の“心臓”……。これらはいうなれば、だれもが口にする“あたま”と“こころ”の、それぞれの象徴なのである。

(引用終了)
<同書146ページ>

 三木氏はその著書“生命形態学序説―根原形象とメタモルフオーゼ―”の中で、この“あたま”と“こころ”という双極性をさらに発展させ、生命形態学の観点から、あたまが考える“しかけしくみ”と、こころが観ずる“すがたかたち”という、もう一つの双極性に言及しておられる。

(引用開始)

 このことから、いったいわれわれ人間というものは、おなじ自然の構造を、ある時は“しかけしくみ”をもつ研究・実用の対象として、ある時は“すがたかたち”をもつ鑑賞・造形の対象として、まったく別々に眺めるものであるということを知るのである。いわゆる“見る眼”によって、この自然の現実は著しく異なったものとなってくるのであって、それは「ひとつの森を眺める画家と不動産業者」の例をひくまでもなく明らかなことであろう。
 以上で自然の構造とは、人為のそれのように機械と文芸の双極の間に順序よく排列される、そうしたものではなく、じつは、それを見る人間の眼によって、ひとつのものが、ある時は機械製作の手本――“しかけしくみ”をもったもの――として、またある時は文芸製作の対象――“すがたかたち”をもったもの――としてまったく別々に映る、そのようなものであることが分ったのではないかと思う。

(引用終了)
<同書213−214ページ>

すなわち、

Α 体壁系、“あたま”
α あたまが考える“しくみ”

Β 内臓系、“こころ”
β こころが観ずる“かたち”

という対比が可能となるわけだ。

 ここで「体壁系と内臓系」の項で述べた、「近」と「遠」の対比を思い起こしていただきたい。

(引用開始)

動物器官としての体壁系が「近」と相関し、植物器官たる内臓系が「遠」と呼応していること。自力栄養のできない動物たちが、獲物を取るために誂えた身の周り=「近」に反応する能力。自力栄養を行う植物たちが、太古の昔から持つ自然=「遠」に共振する能力。その二つを示すのが、「近」の思考を示すロダンの“考える人”と、「遠」を観得する広隆寺の“弥勒菩薩”であるという。

(引用終了)

すなわち、

Α 体壁系、“あたま”
α あたまが考える“しくみ”、「近」への反応

Β 内臓系、“こころ”
β こころが観ずる“かたち”、「遠」との共振

という対比が可能となる。

 三木成夫氏の生命形態学の本質は、この「遠」との共振から、「おもかげ」「原形」を探り、生命の個体発生と宗族発生との相関を跡付けたことにある。そしてその先に、西原克成氏の「重力進化学」が生み出されたのである。

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体壁系と内臓系

2011年05月17日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 以前「新書読書法(2010)」の項で、“胎児の世界”三木成夫著(中公新書)について、

(引用開始)

体壁系と内臓系、個体発生と宗族発生、分節性と双極性など、人間と社会についての示唆に富む項目が並ぶ。

(引用終了)

と書いたけれど、今回はこのなかの「体壁系と内臓系」という対比について私の興味をまとめておきたい。

 体壁系と内臓系の詳細については、本書及び三木氏の他の著書、たとえば“内臓のはたらきと子供のこころ”(築地書館)や“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)などをお読みいただきたいが、簡単に纏めると、「体壁系」とは、人の身体の“感覚―運動”をつかさどる器官を指し、「内臓系」とは、“栄養―生殖”をつかさどる器官を指す。前者は動物器官とも呼ばれ、後者は植物器官とも呼ばれる。

1. 3の構造

体壁系、内臓系とも、次のような「3の構造」を持っていることが興味の第一である。

「体壁系」
外皮層 (感覚)
神経層 (伝達)
筋肉層 (運動)

「内臓系」 <食の相>
腸管 (吸収)
血管 (循環)
腎管 (排出)

「内臓系」 <性の相>
精巣 (排出)
導管 (導入出)
卵巣 (受容)

このことは、身体の分節性や双極性を考える上で重要だと思われる。

2. 呼吸について

呼吸(とくに吸気)が内臓系ではなく体壁系の筋肉(横隔膜)によって行われていること。以前「重力進化学」の項で述べたように、これは、生物の上陸劇にともなう呼吸器官の「鰓から肺への変容」がその理由であるという。人体における体壁系と内臓系のバランスが大切な由縁である。

3. 「近」と「遠」

動物器官としての体壁系が「近」と相関し、植物器官たる内臓系が「遠」と呼応していること。自力栄養のできない動物たちが、獲物を取るために誂えた身の周り=「近」に反応する能力。自力栄養を行う植物たちが、太古の昔から持つ自然=「遠」に共振する能力。その二つを示すのが、「近」の思考を示すロダンの“考える人”と、「遠」を観得する広隆寺の“弥勒菩薩”であるという。

 以上私の興味を三点に纏めてみたが、三木氏の前掲著書“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)には、体壁系と内臓系について、さらに次のような指摘がある。

(引用開始)

 まず、体壁系は、その感覚機能と運動機能を仲介する「神経系」の中枢部――『脳髄』によって、それは代表される。これに対し、内臓系は、その呼吸機能と排泄機能を仲介する「循環系」の中心部――『心臓』によって、同じように代表される。前者の“脳”そして後者の“心臓”……。これらはいうなれば、だれもが口にする“あたま”と“こころ”の、それぞれの象徴なのである。
 前回、私達は“いのちの波”を、大きく「食」と「性」の、二相に分けたが、これは、あくまで「食」の相での代表であって、これが「性」の相ともなると、おのずから、その様相は異なったものとなってくる。そこでは、雄雌の「合体」によって、初めて一つの個体が形成されるものとすれば、このいわば「二重体」では、まず、体壁系の中枢として、性の行動の主導権を握る、雄性の『脳髄』が、また、内臓系の中心をなすものとして、精巣と卵巣を結ぶ、雌性の『子宮』がそれぞれ選び出される。前者の“男の脳”そして後者の“女の子宮”……。性における、男女の思考の座を、みごとに抉り出したものではないか。詳細は次回に譲るとして、これらの代表器官が個体体制を把握する上での、貴重な“勘どころ”となることを忘れてはならない。


(引用終了)
<同書146ページ>

体壁系が男の脳、内臓系が心臓と女の子宮とで代表されるものであれば、体壁系=男性性、内臓系=女性性ということで、初期論的には、先日「複眼主義のすすめ」の項で示した「公(public)」と「私(private)」の対比と以下の様に整合する。

「公(public)」    「私(private)」

脳(t = 0)        身体(t = life)
都市(t = interest)   自然(t = ∞)
自立           共生

主格中心        環境中心
広場           縁側
マップラバー      マップヘイター

Resource Planning   Process Technology
効率           効用
子音語          母音語

解糖系         ミトコンドリア系
男性性         女性性
体壁系         内臓系

今後、上の興味三点と併せ、この観点からも人と社会について考えていこう。

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男性性と女性性 II 

2011年03月29日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 脳レベルの性差に慎重で、男女差についてはジェンダー(社会・文化的な性差)を重視する精神科医の斉藤環氏は、その著書“関係する女 所有する男”(講談社現代新書)の中で、人の欲望形式について、男性は「所有原理」が強く、女性は「関係原理」が強いと指摘しておられる。この立場からも、空間や時間の認識に関して、先回「男性性と女性性」の項で述べた黒川伊保子さんの分析と重なるところがある。この指摘も体験的に納得がいく。まずその部分を引用したい。

(引用開始)
 
「所有原理」と「関係原理」は、認識に対しても大きく影響を及ぼす。
 たとえば空間把握力について考えてみよう。この能力は、ひろく概念操作能力として理解できる。これは視覚イメージを頭の中で操作する能力だ。対象を視覚化すること、またそのイメージを操作すること、いずれも「所有」に慣れた男性にとってはお手のものである。いっぽう、関係性を切り離しての概念操作は、女性にとってかなり不得意な領域だ。
 この空間把握については、興味深い実験がある。目的地に辿り着くのに、地図の描き方によっては、女性のほうが男性よりも良い成績を収めたというのだ。(NHKスペシャル取材班『だから、男と女はすれ違う』ダイヤモンド社、二○○九年)。
 簡単に言えば、距離と方角が示された地図を読むのは男のほうが得意だが、「眠れる少年像のところで左に曲がれ」といったように、目印を手がかりとした地図を読むのは女のほうが得意なのだ。この本では、あくまで「脳」の視点からこの違いを説明していたが、所有と関係という視点から捉えるほうが説明が簡単だ。
 さきほども述べたとおり、距離や方角といった空間把握は、概念操作のひとつだから、男性の「所有」原理になじみがいい。いっぽう女性は、そのつど出くわした目標物と自分の位置との「関係」をリアルタイムで把握しながら進むほうが得意なのだ。
 ついでにいえば、所有原理は一般性や普遍性を志向するため、しばしば無時間的なものとなる。これは男性が、所有が永続的であることを望むのだから当然だ。いっぽう女性は、その場その場でのリアルタイムな関係性を重視する。

(引用終了)
<同書233−235ページ>

男性の「所有原理」と「空間重視」、女性の「関係原理」と「時間(リアルタイム)重視」は、男性性と女性性それぞれの欲望形式と認識形式とを言い表したキーワードなのだろう。

 さらに、斉藤氏も、黒川さんの脳の分析同様、「所有原理」と「関係原理」という二つの欲望形式は、男女それぞれに固有・固定なものとは考えておられない。同書からの引用を続けたい。

(引用開始)

 僕がこの本で言いたかったこと。それは、人間の欲望には「所有原理」と「関係原理」というふたつの形式がある、ということだった。もうわかっているとは思うけれど、このふたつの原理とジェンダーとの関係は、絶対的でも固定的でもない。
「セックス(生物としての性)」「ジェンダー」「欲望の原理」は、それぞれ別の階層に位置づけられる。通常これらはシンクロすることが多いが、その結びつきにしっかりした因果関係はない。それゆえ階層間の関係は、ときに流動的だ。(中略)
 個人の欲望が、「所有」と「関係」という両極の間のどこかに位置づけられるということ。もちろんその個人が、複数の欲望の形式を持っていてもいい。ただ一般的には、生物としての男は所有原理で活動し、同様に女は関係原理で動く、という傾向があるだけの話だ。繰り返すが、そこになにか決定的な違いがあるというわけではない。
 ならばもうジェンダーを、男と女という素朴な枠組みで考えることもないだろう。世界はただ、「所有者」と「関係者」だけがいる。そういう見方はどうだろうか。どちらの原理が欠けてしまっても、この世界は失調をきたしてしまうだろう。
 圧倒的なまでに「所有者」が支配するこの「世界」の中で、いかにして「関係者」の存在を認識していくか。これはジェンダー・センシティブであろうとする態度から導かれた、もう一つの問いかけなのである。

(引用終了)
<同書246−248ページ>

 前回の黒川さんの分析と併せて考えると、先天的な脳の性差、あるいはジェンダーなどの後天的な性差に拘らず、人はある比率で「空間重視」、「時間重視」、「所有原理」、「関係原理」といった認識及び欲望の形式を持つといえるようだ。そして、斉藤氏が“圧倒的なまでに「所有者」が支配するこの「世界」の中で、いかにして「関係者」の存在を認識していくか”と問いかけるように、社会においては、やはり両者のバランスが大切なのである。

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男性性と女性性

2011年03月22日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先回「発音体感」の項で紹介した黒川伊保子さんの著書の一つに、“恋愛脳”(新潮文庫)がある。この本は、男性の脳と女性の脳の違いと、それに基づく男女の機微を探ったものだ。まず、脳の性差について本書から引用しよう。

(引用開始)

 男性脳と女性脳。この二つの脳の決定的な違いは、一ヶ所である。脳梁(のうりょう)と呼ばれる、右脳と左脳を結ぶ場所が、男性脳よりも女性脳の方が「太い」のだ。(中略)
 脳梁の細い男性脳は、女性脳に比べて、右脳と左脳の連携が悪い脳ということになる。二つの映像の違いが、くっきりと際立(きわだ)つ脳だ。つまり、生まれつき、ものの奥行きに強い脳なのである。(中略)
 奥行きに鈍い女性脳は、目の前の世界を、写真のような二次元空間でをなめるように見ている。したがって、近くにあるものをつぶさに観察できる脳なのである。(中略)
 女性脳の情緒は、積分関数なのである。時間軸に、ゆったりと蓄積されていく。男性脳のキーワードが「空間」なのに対し、女性脳のキーワードは「時間」なのである。

(引用終了)
<同書73−104ページ>

このような話は新たな科学的発見によって修整されるかもしれないから、あくまで仮説として考えておいた方がいいだろうが、体験的にも納得できる分析である。

 さて、以前「アフォーダンスについて」の項で、脳は常に「現在進行形」(t = 0)であると論じた。とすると、ここでいう男性脳のキーワードが空間であり、女性脳のキーワードが時間であることと、現在進行形の脳とはどのような相関があるのだろうか。

 男性脳が空間を重視するということを逆から考えれば、独自の時間軸に拘らないということである。ならば、独自の時間軸に拘らない複数の人たちが集まって何かを決める際に必要なのは、基準となる共通の一定な時間軸ではないだろうか。いつまでに何をやるかを決める際に、みなバラバラな時間では何事も前へ進まない。私は、それが今の“1時間は60分、1分は60秒”といった時間軸の発明であり、グリニッジ標準時間であると思う。以前「集団の時間」の項で、都市の時間は金利(t = interest)であるとしたが、その金利(流通価値の基準)は、共通な一定時間軸の存在を大前提としている。

 一方、女性脳が時間を重視するということは、独自の時間軸に拘るということである。以前「アフォーダンスと多様性」の項で、人は常に現在進行形の脳と、一定の寿命を持つ身体(t = life)とを抱えてこの社会に関っている、と書いたけれど、独自の時間軸に拘るということは、この身体の時間(t = life)に拘ることということだろう。女性脳が拘る「時間」は体験の時間であって、けっしてグリニッジ標準時間ではないと思う。同じく「集団の時間」の項で、自然の時間は無限大(t = ∞)であるとしたが、自然は個々の身体時間の集積だから限りが無いのである。

 脳の性差の話はここで終わらない。黒川伊保子さんのこの本には、脳梁の太さという性差の他に、男性脳と女性脳について、次のような分析がある。

(引用開始)

 脳梁(のうりょう)の太さに起因して、男と女は、原初的ないくつかの相違点を持っている(三次元点型認識と二次元面型認識ですね)。この根本的な違いは、男と女の間に、さまざまな悲喜劇をもたらしている、というのはここまで書いた通り。
 ただし、私たちは、異性の脳の機能を後天的に学習しているのである。女性だからといって機械図面が書けないわけじゃないし、男性だからといって全員おしゃべりが不得意なわけじゃない。私たちは、根本的なところで男なら男性脳、女なら女性脳でありながら、その外側にそれぞれ女性脳、男性脳の機能を持っているのである。
 そうして、環境によって、自分の脳の中の男性脳:女性脳の使用比率を変えて社会生活を送っているのである。男よりも男性脳的な女性や、女より女性脳的な男性も、たくさんいる。男女比が偏るような職場では、異性脳が発達している人が、目立って活躍している場合が多いのである。
 それでは、異性脳が発達する人は、どうしてそうなるのだろうか。実は、家族や、学校、職場など、その脳が存在する系での男性脳:女性脳比率に大きく影響されるのである。では、男兄弟が多い女の子は男性脳型になるかというと、それは違う。逆になるのである。
 脳は、常に系でのバランスを取ろうとしている。親友や夫婦のような、たった二人の系であっても、どちらかの男性脳が強ければ、どちらかの女性脳が、これとバランスを取るために強く働くようになる。つまり、男性脳:女性脳比率が七:三の男と付き合う女性は、三:七でなければ男女関係として収まりが悪いということだ。これは、寄り添う二人の相関関係で生まれるバランスなので、同じ男性が、どの女性相手にでも七:三というわけでもない。(中略)
 職場やサークルでも、脳が集まれば、その場での脳の男女比を半々にしようと、皆の脳がいっせいに探りあい、互いに感応するのである。もちろん、無意識のうちに、だけれど。

(引用終了)
<同書95−98ページ>

人は性差に拘らず、ある比率で、男性脳=「空間」重視、女性脳=「時間」重視という、両方の機能を持っているというわけだ。これはとても重要な指摘だと思う。そもそも男性と女性とは同じ人種なのだから、両方の認識機能を持てて当然なのだろう。

 とはいえ、人がある比率で「空間重視」、「時間重視」といった認識の形式を持つことは事実だ。この形式の差は、脳の性差以外にも、自律神経、ホルモンや神経伝達物質、エネルギー生成系、あるいはジェンダー(社会・文化的な性差)など、様々な要素によって作り出されるに違いない。だからここで、この形式の差を、「男性脳と女性脳」ではなく「男性性と女性性」と呼ぶこととしたい。

 「男性性」の特徴は、三次元的な空間認識に優れ、「女性性」の特徴は、二次元的面認識や時間認識に優れている。大切なことは、女性も「男性性」を持つし、男性も「女性性」を持つということだ。人は皆ある比率で「男性性」と「女性性」とを持ち、その比率は、その人が置かれた場所や環境、年齢などによって変化するのである。

 この変化は、黒川さんが“脳は、常に系でのバランスを取ろうとしている”と分析しているように、社会においては、相互補完的な方向に働くようだ。そのことを社会の側から見ると、豊かな社会にとっては、両者のバランスが大切であるということなのである。

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境界としての皮膚

2011年03月08日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日、街づくりに関して「境界設計」の項で、

(引用開始)


 これからの「境界設計」は、日本の古くからの空間操作術を充分生かしながら、さらに車やITなどの新しいものを、(単に排除するのではなく)巧みに取り込むことが求められる。優れた境界設計は「エッジ・エフェクト」を誘発する。それは「継承の文化」の項などで言及した“流域両端の奥”をさらに深化させるだろう。

(引用終了)

と書いたけれど、今日は、その街に暮らす人々の、身体の境界(皮膚)について、“皮膚という「脳」”山口創著(東京書籍)という本に沿って考えてみたい。山口氏のご専門は、臨床心理学・身体心理学である。皮膚については、以前「皮膚感覚」の項で、

(引用開始)

皮膚は生体と外界の境界である。(中略)外環境との間で皮膚に何がどう起こっているのか、とても興味深いテーマである。

(引用終了)

と書いたことがある。皮膚について知ることは、“流域両端の奥”の深化にとって、街づくりにおける境界設計同様、とても大切なテーマだと思う。

 この“皮膚という「脳」”は、以下の4つの章から成っている。

第1章 露出した「脳」
第2章 五感はすべて皮膚から始まった!
第3章 皮膚は心をあやつる
第4章 豊かな境界としての皮膚へ

第1章から第3章までは、皮膚が身体に果たす役割について書かれている。こちらも興味深いけれど、今回は第4章を中心に、社会との境界としての皮膚について見てゆきたい。まず第4章の冒頭から引用する。

(引用開始)

 ここまでみてきたように、皮膚はさまざまな役割を果たしている。皮膚は五感の始まりであり、かつては視覚や聴覚の役割までも担っていたようである。
 一方で、私たちの心にとって重要になるのが、自己と社会の境界としての役割である。皮膚は境界の内側である自己(心)を反映すると同時に、外側である社会をも反映している。したがって皮膚は、自己と社会の病理の両者を映し出す鏡でもある。皮膚をこのような境界として考えることは、現代の私たちの暗黙裡にしている行動、あるいは社会の端々に垣間みられる病理性について、これまでとは異なる視点を提示してくれる。

(引用終了)
<同書168ページ>

 山口氏はこのあと、日本人は事の外「触覚」を大切にしてきたこと、かつての日本人は自己と社会とを隔てる境界として「豊かな皮膚感覚」を育んできたこと、しかし近代化以降、「自分の皮膚の外側は自分ではない」という西洋の身体感が強力に推し進められてきたことで、この「豊かな皮膚感覚」が見失われていること、そのせいで、皮膚と自己との間に違和感を持つ人が増え、それが美容整形やリストカット、皮膚炎などの増加に繋がっていることを指摘する。

 その上で山口氏は、文化人類学者のビクター・ターナーの提唱する「リミナリティ(liminarity)という概念を紹介する。リミナリティとは、非近代社会における通過儀礼に関する概念で、「分離期」「過渡期」「統合期」といった各段階の中間に位置するあいまいな時期のことを指す。氏は、皮膚という境界も、社会と個人との間のリミナリティとして考えることが出来ると指摘する。

(引用開始)

 かつての日本人は、アニミズムや神仏習合、共同体意識、自然と人間の一体化、心身一如など、境界があいまいだが豊かな世界観の中に生きてきた。
 そこに西洋の世界観である、境界を明確にする分類する思考法が入ってきた。そして、かつての日本社会が持っていた、皮膚への多様な刺激が少なくなった結果、皮膚は人工的な皮膜へと矮小化された。一方、その境界は現代社会の中ではアイデンティティを感じなくなるという形になってきた。
 現代の境界の特性を考えると、かつての日本のような厚みをもった深い境界に戻ったのではない。つまり、二分法としての「境界線」の垣根が低くなっただけである。二分法は生きているが、境界をまたいで移動することが容易になっただけである。
 いうまでもないが、これは、かつての日本の境界に戻ったのではない。また、そのような状態に戻ることが理想だと私は思わない。しかし、そのような形を越えて、西洋の境界による二分法は採り入れたうえで、それをリミナリティとして深さと厚みのある境界へと深化させることが、いままさに必要とされていると思う。(中略)
 皮膚は、外界から自己を守る単なる皮膜などではなく、さまざまな捻れや共振性を内包する、繊細なエネルギーに満ちた亜空間なのだ。
 それを人間関係に敷衍すると、自己という境界感覚をきちんと築いたうえで、他者と共振し統合できるようなリミナリティの領域を確保することである。(中略)
 本来、皮膚はリミナリティとしての厚みや豊かさをもっている。自己の境界と他者の境界が接する身体接触では、自他の間のこのふたつのエネルギーが交じりあうことで特別な状態が生まれる。このエネルギーが交換できるような、豊かな深みをもつ皮膚のリアリティを養うためには、皮膚を通して自己の発達を促すことが必要だと思う。

(引用終了)
<同書196-198ページ>

いかがだろう。“かつての日本人は、アニミズムや神仏習合、共同体意識、自然と人間の一体化、心身一如など、境界があいまいだが豊かな世界観の中に生きてきた。”という部分は、以前「日本人と身体性」の項で紹介した“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”中野明著(新潮選書)の指摘とも重なる。社会と皮膚とは意外に類似的なのである。街づくりにおける「境界設計」同様、「皮膚」という身体の境界についても、日本の古くからの「豊かな皮膚感覚」を充分生かしつつ、近代社会のもつ新しい刺激に巧みに対応することが求められている。そのためにも、皮膚が身体に果たす役割をよく知ることがまず重要なのであろう。

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階層性の生物学

2010年12月14日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 “性と進化の秘密”団まりな著(角川ソフィア文庫)を面白く読んだ。「重力進化学」で紹介した“生きもの上陸作戦”同様、この本の内容も多岐に渡っているから、さまざまな「興味の横展開」が可能だけれど、ここでは「階層性の生物学」というテーマについて考えてみたい。まず同書カバーより紹介文を引用する。

(引用開始)

今から38億年前、とてつもない偶然が重なり、地球上に誕生した、たった1つの細胞。この細胞が人間のような複雑な生命へと進化した生命の仕組みとは?原核細胞から真核細胞、そして21億年もの間生き続ける不死の細胞を経て、有性生殖によって死を克服する細胞へ――。「階層性の生物学」という独自の観点から、“思考する細胞”と進化の秘密にせまる。いのちと性の不思議をやさしく解きあかす、独創的な生物学入門。解説・養老孟司

(引用終了)

 生物学における階層性とは何か。同書から引用しよう。

(引用開始)

 ある単純で、小さな単位が集まって、より大きく複雑な単位を作り出す、というのは、自然界の物質の一般的な性質なのです。この性質を、階層性と言います。そして、酸素の毒に立ち向かった「原核細胞」の一部が、苦し紛れに融合し、さらに酸素を利用できる種類の細胞と協力して生きのびた現場は、「真核細胞」という一段と複雑な細胞、つまり生物、を生み出す現場でもあったのです。
 階層性には、もう一つ大切な法則があります。一般に、より単純な「下位の単位」が集まって「上位の単位」を作ったとはっきりというためには、新しく生まれた「上位の単位」が、それを作った「下位の単位」にはなかったより高度な機能・作用をそなえていなければなりません。

(引用終了)
<同書30ページ>

階層関係について、団まりな氏の別の著書“生物のからだはどう複雑化したか”(岩波書店)には次のようにある。

(引用開始)

 以上のように、階層関係というものは、何がしかの複雑さのあるところなら、どこにも見つけることができます。そして、その内容のいかんにかかわらず、二つのもののあいだには、「包含関係」と「新機能の付加」という一般的な性質が成立しています。

(引用終了)
<同書15ページ>

 階層性とは、下位の単位を上位の単位に含む「包含関係」と、上位の単位にのみ与えられた「新機能の付加」という、二つの要素を備えた概念である。動物の階層的進化を考えると、ハプロイド体制→ディプロイド体制→上皮体制→胚葉分化→間充組織体制→上皮体腔体制→脳・中枢神経系ということで、それぞれの段階で「包含関係」と「新機能の付加」が成立しているという。

 階層性は、多様性とは異なる概念である。多様性とは、たとえば同じ脳・中枢神経系の動物に、キリンもいればライオンもいてゾウもいるという状態を指すのだろう。「包含関係」と「新機能の付加」が成立していない段階である。

 生物を含む自然環境が、「多様性」と共に「階層性」を持っているとすると、ある段階の「多様性」はどうようにして次の「階層性」へ分岐するのかという疑問が沸く。下位の単位から上位の単位への進化は長い長い時間がかかるので、実証は難しいだろうが。個体発生と系統発生、外胚葉・中胚葉・内胚葉からなる3の構造、機能と形態の生成、有糸分裂と減数分裂などなど。興味は尽きない。

 さて、階層性について、“性と進化の秘密”の解説のなかで養老孟司氏が面白い指摘をしておられるので紹介しよう。

(引用開始)

 階層性については、団さんとの間に、個人的な思い出があります。私が最初に書いた本『形を読む』(培風館)のなかで、欧米の学問は階層性を重視するけれど、私にはそれはわからないという趣旨のことを書きました。そうしたら、団さんからお手紙をいただいたんです。生物学では階層性はとても大切なことですよ、もっと考えてくださいな、と。
 こういう嬉しいというか、ありがたい指摘をしてくれる人は、本当に少ないんです。私はわかっていなかったから、すなおにそう書いたんですが、団さんの指摘以来、階層性のことをなにかと考えるようになりました。私の頭のなかの混乱を、読者に伝える必要はないでしょう。でも結局私は、階層性という問題は、日本の伝統的な思考のなかにあまり含まれていないのではないか、と思うようになりました。だから階層性は意味がないということではありません。大切なことなのに、ピンと理解できない。大げさですが、ひょっとすると、それは日本語、あるいは日本の文化と関連していないだろうか。そう思ったのです。べつに私が日本人を代表しているわけじゃない。でも私だって大学院まで教育を受けてきたのに、階層性が話題になる場面に出会わなかったんです。
 この話題の端的な例は、たとえば英語で学ぶ関係節です。一つの文章のなかに、入れ子構造の文章が入っています。文法的には主文と副文といいます。ここにもある「階層」がありますね。でも日本語にはこれがないんです。欧米人なら、ふだん使う言葉のなかに、階層がたえず顔を出す。これが思考の構造に影響を与えないはずがないでしょう。
 じゃあなぜ団さんは階層性を重視できたのでしょうか。育ちが関係あるかもしれません。「あとがき」で書いておられるように、団さんのお母さんはアメリカ人だったし、お父さんも日本人ではあるけれど、ひょっとすると奥さんの故郷の社会のほうが性に合っていたのかもしれません。

(引用終了)
<同書179−181ページ>

 同書の「あとがき」によると団まりな氏は、母親がアメリカ人であるだけではなく、小学五年生のときから一年半ほどアメリカで過ごしたとある。先日「バイリンガルについて」の項で見たように、バイリンガルは“マージナル・マン”たる資格がある。日本語と英語のバイリンガルとして、団氏も優れたマージナル・マン(woman)なのであろう。今後の更なるご活躍を期待したい。

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