夜間飛行

茂木賛からスモールビジネスを目指す人への熱いメッセージ


背景時空について

2016年01月05日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 先日「所有について」の項で、

(引用開始)

 複眼主義によって、所有を脳の働きと身体の働きとに分けて考えてみよう。

A 脳(大脳新皮質)の働き
B 身体(大脳旧皮質+脳幹)の働き

Aにおける所有とは、都市における「法的」な所有を指し、Bにおける所有とは、何かを身につける「身体的」な付加を指す。たとえば、前者は土地や金銭の所有、後者は贅肉が付くことや衣服を纏うことだ。

(引用終了)

と書いたけれど、Aにおける所有は、“モノ”を周囲環境から切断することで成り立つ考え方である。Aの詳しい属性は、

------------------------------------------
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
------------------------------------------

であり、こちら側の考え方にとっては、「分ける」ことが話の前提になる。「分解」「分析」「分離」「分断」「分類」「分布」「区分」などはこちら側の言葉だ。「自立」も周りからの分離独立である。ちなみにBの属性は、

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B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
------------------------------------------

ということで、こちら側のキーワードは「連続」となろう。

 “モノ”をこのように(切断して)認識するためには、もう一つ重要なファクターがある。それが「背景時空」だ。所有する“モノ”を他と区別するには、それを単体として浮かび上がらせる背景が必要になる。舞台が必要になる。理論の前提、法律の枠組み、絵画のフレーム、科学のXYZ軸などなど。

 背景時空とは、あくまでも主役を際立たせるためのものだ。だからそれは「仮想」である。しかしそれがないと、人の脳(大脳新皮質)は事象(matter)を固定して客観的に認識できない。これは人工知能の「フレーム問題」とも通ずる話だ。

 “コト”を所有できないのは、それが背景時空と相互作用を起こし単体として分断できないからだ。非線形科学(複雑系)でいう「バタフライ効果」は時空が連続しているから成り立つ。Bではだから「境界性」が重要ファクターとなる。アフォーダンス理論でいうところのミーデアム(空気や水などの媒体物質)とサブスタンス(土や木などの個体的物質)、そして二つが出会うところのサーフェス(表面)から成る自然界に分断はない。全ては境界で繋がっている。

 Aにとっての「分断」と「背景時空」の必要性、と同時にその仮想性。Bにとっての「連続」と「境界性」。そして両者のバランスの大切さ。ここで「動詞形と名詞形」の話を想い起こすのも良いかもしれない。

 以前「自分と外界との<あいだ>を設計せよ」の項で言いたかったのは、Bの世界にある我が身と、周囲環境との<境界>を、Aによって客観的に眺め分析し(自立し)、より良い影響を我が身と周囲に与え続けられるよう設計せよ、ということなのである。

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所有について

2015年12月01日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 モノコト・シフトの時代、まともな人々は、どちらかというと、過剰な“モノ”の所有よりも、豊な“コト”の繋がりの方を大切に考えるようになる(「モノコト・シフトの研究」)。生活用品はいるけれど、それ以上の贅沢品は所有せずに必要に応じて人とシェアする。家や車、オフィスなどもできればシェアする。音楽やスポーツはライブが一番、休日はトレッキングやサーフィン、キャンプなど出来るだけ自然の中で過ごす。これからの日本の若い人の間ではそんな生活が標準となるのではないか。

 “モノ”は所有できるが、“コト”は所有できない。だから“コト”を大切に考える人は、「所有」や「私有」に固執しない筈だ。“モノ”を供給するだけのビジネスは縮小してゆくだろう。“モノ”を売るのではなく、商品を通して“コト”をシェアする。そんな商売がこれからは伸びるだろう。ただし、“コト”のシェアは“サービス”とは違う。サービスは一方向だが“コト”は双方向、相互作用だ。

 複眼主義によって、所有を脳の働きと身体の働きとに分けて考えてみよう。

A 脳(大脳新皮質)の働き
B 身体(大脳旧皮質+脳幹)の働き

Aにおける所有とは、都市における「法的」な所有を指し、Bにおける所有とは、何かを身につける「身体的」な付加を指す。たとえば、前者は土地や金銭の所有、後者は贅肉が付くことや衣服を纏うことだ。

 衣服、さらには道具、車などは、法的と身体的、両方の「所有」形態がある。車の法的な「所有」は説明するまでもない。車の身体的な「所有」とは、車を運転することだ。AとB、どちらにおいても、「所有」は自己の「肥大」につながってくる。Aの場合は資産の肥大、Bの場合は感覚の肥大。車を運転するドライバーの身体感覚は、ボンネットの先からトランクの後ろにまで拡大する。

 モノコト・シフトの時代、人々は「肥大」化を避けようとする。「自分と外界との<あいだ>を設計せよ」の項で紹介した『不思議な羅針盤』梨木香歩著(新潮文庫)に、次のような文章がある。

(引用開始)

 距離を移動する、それだけで我知らず疲弊してゆく何かが必ずあるのだ。このマクロにもミクロにもどんどん膨張している世界を、客観的に分かろうとすることは、どこか決定的に不毛だ。世界で起っていることに関心をもつことは大切だけれど、そこに等身大の痛みを共有するための想像力を涸らさないために、私たちは私たちの“スケールを小さく”する必要があるのではないだろうか。スケールを小さくする、つまり世界を測る升目を小さくし、より細やかに世界を見つめる。片山廣子のアイルランドはその向こうにあったのだろう。

(引用終了)
<同書 57ページ>

「所有」と「スケールの大きさ」は一見話が違うけれど、所有は肥大であり、肥大はスケールの拡大だから、二つは重なっている。スケールを小さくすることは、所有欲を抑えてスリムになることに繋がる。尚、片山廣子は佐々木信綱に師事した歌人で、大正5年(1916年)に第一歌集『翡翠』を刊行、アイルランド文学に親しみ、松村みね子の筆名で翻訳も行なった。

 これからの時代、所有=肥大であることを弁えて、脳(大脳新皮質)としては資産の肥大の責任を自覚すること、そして賢く使い切ること。身体(大脳旧皮質+脳幹)としては、感覚の肥大をコントロールできる範囲に止めること。そして健康に留意すること。そういった生き方が求められると思う。いづれにしても墓には身体以外、何も持ってゆけないのだから。

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皮膚とシステム

2015年11月24日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「自分と外界との<あいだ>を設計せよ」の項で書いた、自分という渦(vortex)とそれを取り巻く外界との間の設計の重要性を、「皮膚とシステム」という視点から論じた本がある。最近出版された『驚きの皮膚』傳田光洋著(講談社)がそれだ。新聞の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 人間の祖先は120万年ほど前に体毛を失った。資生堂リサーチセンターの主幹研究員である著者は、表皮が外部環境にさらされ、「皮膚感覚」が復活したことが脳の発達につながったと推察。人体というシステムにおいて皮膚が果たす役割を分析する。著者によると皮膚は高周波数音を「聴き」、繰り返される圧力や摩擦を「記憶する」。徐々に、危険を察知し身体を守る能力を高めたと説く。

(引用終了)
<日経新聞 10/11/2015>

この紹介文にはないが、本書は、氏のこれまでの著書から内容をさらに一歩進め、「社会」というシステムについて皮膚という観点から論じたものとなっている(特に第六部「システムと個人のこれから」、第七部「芸術と科学について」)。

 「社会」というシステム、特にそのネガティブな側面については、以前「認知の歪みとシステムの自己増幅」の項などで、村上春樹の小説を援用しながら論じたことがある。傳田氏も、村上のエルサレム賞受賞時の「壁と卵」というスピーチを引用し、

(引用開始)

 私は、この「システム」の暴走と表裏一体をなしているのが、「意識」だけが人間の認識、判断、行動を担っているとする誤解だと考えています。初めは、より生存を有利にするため、「意識」という脳の現象が生まれました。「意識」がシステムを作る方向へ向かったのも、当初は人間の生存のためでした。しかし現代では、それがむしろ災厄をもたらすものになった。

(引用終了)
<同書 157ページ>

と書く。そして氏は、この「システム」の暴走を止めるものとして、皮膚感覚について述べる。人体というシステムの先に社会というシステムがあるわけだが、社会システムを作る「意識」は往々にして元の皮膚感覚を忘れる。「システム」の暴走は、複眼主義でいうところの「脳(大脳新皮質)の働き」への偏重によるところが大きいから、「身体(大脳旧皮質+脳幹)および皮膚の働き」を復活させよというわけだ。

(引用開始)

 これまで述べてきたように、人間は大きな脳を持ち、そのために複雑な道具や言語や社会組織を作り出してきました。その原点には皮膚感覚の存在が大きな寄与をなしてきたと私は考えています。
 皮膚感覚が意味を持つシステムでは、個人の存在がないがしろにされる可能性は低いでしょう。なぜなら視聴覚情報システムの海におぼれていても、皮膚感覚は、個人を取り戻すきっかけになるからです。皮膚感覚だけは個人から離れて独り歩きすることはないのです。
 今、ひととき立ち止まり、私たちの祖先が生きてきた、その営みを振り返り、皮膚という人間にとって最大の臓器の意味を考え、システムの在り方について検証しなおす時期が来ているのだと思います。

(引用終了)
<同書 173ページ>

 このような社会と皮膚の関係論は、「境界としての皮膚」の項で論じた『皮膚という「脳」』山口創著(東京書籍)の内容とも重なる。傳田氏は皮膚研究者だが山口氏は臨床発達心理士ということで専門は異なるし、前者は人体システムと社会システムの類似性、後者は皮膚というリミナリティに注目するという違いはあるけれど、どちらも皮膚という境界から自分と外界との間を論じている。「自分と外界の<あいだ>を設計せよ」の項でその著書を引用した作家の梨木香歩さんも、傳田氏の本に興味を懐いて書評を書いている(『驚きの皮膚』207ページ)。これらのことは、「モノコト・シフトの研究」で述べたように、

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A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)
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------------------------------------------
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)
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という複眼主義の対比において、A側に偏った20世紀から、B側の復権によってA、B両者のバランスを回復しようとする、21世紀の動きと連動していると思われる。日本の真摯な作家や科学者たちはこのこと(モノコト・シフト)に気付き始めているのだろう。

 「動的平衡とは何か」の項で紹介した『動的平衡』福岡伸一著(木楽舎)、「同期現象」の項で紹介した『非線形科学 同期する世界』蔵本由紀著(集英社新書)、「進化論と進歩史観」の項で紹介した『「進化論」を書き換える』池田清彦著(新潮文庫)、「共生の思想 II」で紹介した『生物多様性』本川達雄著(中公新書)なども、自然科学の分野で西洋合理思想への疑問を提出する。「里海とはなにか」の項で述べた生態学もそうだったが、もしかするとモノコト・シフト時代には、各分野でB側の「日本語的発想」を持った作家や科学者たちが世界をリードするのかもしれない。

 尚、このブログでは以前「皮膚感覚」の項で傳田氏の他の著書を紹介したことがある。併せてお読みいただければ嬉しい。

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モノコト・シフトの研究 III

2015年10月27日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回、前々回と続けたモノコト・シフトの研究、今回は、古くからある思想哲学と、複眼主義的対比との関連を纏めておきたい。まずは西洋思想から。その前に複眼主義の対比を再掲しておく。

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

 さて、西洋思想における複眼主義的対比は、ギリシャのプラトンとアリストテレスに遡る。『構造主義科学論の冒険』池田清彦著(講談社学術文庫)から引用しよう。

(引用開始)

 プラトンはイデアがそれ自体としてある、と考えました。ですからプラトンにとってイデアは不変で不滅の同一性であり、時間を超越して存在するものです。もちろんイデアは私の観念として存在するのであって、外部世界に自存するわけではありません。イデア説が霊魂の不滅という考え方を導くのもむべなるかなと思われます。
 これに対し、アリストテレスは現象や個物を第一義的な存在と考えたため、イデア自体が自存することを認めませんでした。アリストテレスにとっては、イデアというものがもしあったとしても、それは個物の中に入っているものでなければならなかったのです。

(引用終了)
<同書 138−139ページより>

プラトンのイデアこそ、脳(大脳新皮質)がつくり出した観念の代表例といえるだろう。一方、アリストテレスはあくまでも身体性に拘った。

A:プラトン
B:アリストテレス

という関連を指適することができる。

 東洋思想における複眼主義的対比は、中国の孔子と老子に求められる。『日経おとなのOFF』という雑誌(2015年8月号)に掲載された僧侶・玄侑宗久氏のインタビュー記事から表の一部を引用する。

(引用開始)

● 孔子:「仁」「礼」で国を治める方法を説いた

儒教の祖。社会秩序を保つための「礼」、そのシステムを支える精神規範としての「仁」を軸に、私利を捨てて責務を果たせと説いた。

● 老子:孔子の人為を批判し「無為」を説いた

万物の本体は「道」だと説く道教の祖。自然と一体化する「無為自然」を旨とし、人間の努力・向上を肯定する孔子を批判した。

(引用終了)
<同書 56−57ページより>

孔子は「公」を重んずる都市の哲学であり、老子は「無為」を旨とする自然の哲学である。

A:孔子
B:老子

という関連を指適することができる。

 モノコト・シフトの背景には、こういった、西洋と東洋、それぞれ古くからある思想哲学の対比、均衡(バランス)がある。

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posted by 茂木賛 at 10:34 | Permalink | Comment(0) | 非線形科学

モノコト・シフトの研究 II 

2015年10月20日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回に引き続きモノコト・シフトの研究を続けたい。21世紀の主流の考え方は、コト=「固有の時空」を大切に考えるということだった。ただし誤解のないように付け加えておくが、これは今後モノがなくなるという話ではない。大量生産が終わるわけでもない。その辺りについては「これからのモノづくり」の項を参照していただきたい。

 複眼主義の対比も再掲しておこう。

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

勿論、複眼主義の要諦「どちらかというと」という但し書き付きである。

 この対比からも分かるように、「固有の時空」を大切に考えるということは、事象(matter)を脳(大脳新皮質)で考えるのではなく、身体(大脳旧皮質及び脳幹)で考える、覚えるということだ。何事も、上達するにはまずそれを好きになることだという。リラックスするには温泉にでも浸かってのんびり体を休めると良い。大一番の勝負に勝つためには逆に場(固有時空)に飲まれないようにしなければならない。スポーツ選手は練習によって技を身体に憶えこませる。

 脳は事象をモノ化する。身体は事象をコト化する。以前「脳腸バランス」の項で『脳はバカ、腸はかしこい』藤田紘一郎著(三五館)という本を紹介したが、脳は事象をモノ化してしまうから単純で、腸は事象をコト化するから複雑な栄養素を消化できるということなのだろう。

 ここで大切なのは、身体で考える、覚える、感じる、消化するということは、自分の固有時空が、対象の固有時空と同期・共鳴するということだ。同期現象は、非線形科学の代表例である。「相転位と同期現象」、「同期現象」ほか、カテゴリ「非線形科学」の諸項をお読みいただきたい。

 時空はある程度持続しなければまわりに影響を与えられない。「継続は力なり」という。それが好影響を与えるものであれば、自分の身体は健やかであり続けることができる。広々とした空間、素敵な友人、自由な環境、明るい窓、良い空気、美味しい水、華やかな香り、美しい景色などなど。それは、自律神経を通して脳にも好影響を与える。そうでなければ逆に健康を害する。脳にも悪影響を与える。そう考えると、モノコト・シフト時代、大切な固有時空には、

● ある程度持続する
● まわりに好影響を与える

といった二つの特徴を抽出することができるだろう。

 当り前のことのようだが、この二つの条件を満たす“コト”はそう多くない。食排、運動、仕事、読書、恋愛、気象、我々自身とそのまわりでは無数の“コト”が日々起っている。そしてまた消滅している。そのなかで、この二つの特徴を有する時空を選んで身近に接すれば、自身が健康になり、自分もまた人や社会に好影響を与えることができるだろう。人間関係も好転するに違いない。お店の経営でも、この二つに留意すれば繁栄間違いなしの筈だ。

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モノコト・シフトの研究

2015年10月13日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと書いている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。最近では「観光業について」や前回の「里海とはなにか」などの項でこの説を引用した。今回は一度原論的なところへ戻り、ある事象(matter)を“モノ”として見るか“コト”として見るか、その違いについて考えてみたい。

 たとえば「人」をどう見るか。「人」を“モノ”としてみるのは、人口比率とか頭数など、人を「数」として捉える思考法である。一方、「人」を“コト”としてみるのは、○○さんの生涯とか隣のXXさんなど、人を「生命」として捉える思考法である。このブログでは複眼主義と称して、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」−「都市」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」−「自然」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を論じているが、前者はAと親和性が強く、後者はBと親和性が強い。このことは以前「デジタル回路とアナログ回路」の項で措定した、

A、a系:デジタル回路思考主体
世界をモノ(凍結した時空)の集積体としてみる(線形科学)

B、b系:アナログ回路思考主体
世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

という対比と整合する。

 都市においては、「人」を数として扱うことで、インフラの設計などが可能になる。自然(人間同士)においては、「人」を生命体として捉えることで、活き活きとした活動が生まれる。健全な社会のためには、AとB、両者のバランスの取れた見方、考え方が必要になるのだが、20世紀は西洋近代思想が世界を席巻し時代であり、先進国を中心として、見方、考え方がかなりAに偏った社会になってしまった。今はその反動として、見方、考え方がBに偏重してきたわけだ。スローフード、シンプル・ライフ、サステイナビリティー、再生可能エネルギー、シェアリング・エコノミー、里山、里海、庭園都市などなど。

 地球がもっとresilient(強復元力的)であったならば、人々はまだAに偏重し続けたかもしれない。だがそのままでは環境が持たないことが分かってきた。このことが大きい。今の時点では勿論、Bの重要性に気付いた人々と、そうでない人々は混在している。また、都市の一部には、利権がらみで意図的にA偏重社会の持続を画策する人々もいる。「三つの宿啞」の項で述べたところのgreedを持つ人々だ。

 たとえば「石」をどう見るか。「石」を“コト”としてみるのは、地球物理学者か鉱石愛好家くらいなもので、たいていの人は「石」を“モノ”としてみるだろう。「石」も長い年月が経てば少しずつ崩壊する。だから寿命はある。しかし普通は誰も石の寿命など考慮しない。寿命とは「固有の時空」の持続だから、「石」を“モノ”としてみるのは、その固有時空を考慮の外に置くということである。それを「凍結した時空」として扱うということである。逆に、地球物理学者や鉱石愛好家が「石」を“コト”としてみるのは、その固有時空を大切に考えるからである。

 Bの考え方は、総じて「固有の時空」を大切に扱う。世界をコト(動きのある時空)の入れ子構造としてみるからだ。ある事象を“モノ”としてみるか“コト”としてみるか、その違いの背景には、この「時空の捉え方」の違いがあると思う。Bの考え方が主流になるということは、自然科学の分野でも大きな地殻変動が起きつつあるということだ。生態学の変動については「里海とはなにか」の項で触れた。時空の捉え方については以前「複眼主義の時間論」で述べた。併せてお読みいただきたい。

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イブとアダム

2015年06月16日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「吉野民俗学と三木生命学」の項で述べた「複眼主義美学」の縦軸(反重力美学と郷愁的美学)と横軸(男性性と女性性)のうち、縦軸については先日「交感神経と副交感神経 II」の項で整理した。横軸については、

男性性と女性性
男性性と女性性 II
体壁系と内臓系

などの各項を参照していただきたい。体壁系と内臓系といえば最近、三胚葉(内胚葉・外胚葉・中胚葉)の分化や器官発生の順序などについて、よく纏まった文章を見つけた。「共生の思想」の項で紹介した『腸内細菌と共に生きる』藤田紘一郎著(技術評論社)の、<すべては「腸」から始まった?>というコラムである。整理のために引用しておきたい。

(引用開始)

 この章でも述べてきたように、動物はもともと口から肛門に伸びる一本の消化管、つまり腸だけで生きてきました。
 クラゲやイソギンチャクなどの腔腸動物は脳がありませんから、腸が脳の役割を役割を果たしていたと考えられます。のちに脳へと進化する神経細胞(ニューロン)も、この腔腸動物の腸内で生まれたこのだったのです。
 また、心臓や肝臓、肺などの内臓器官も腸が作られた後に作られます。発生学で言うと、精子と卵子が受精し、受精卵が形成されると、徐々に分割していき、原腸胚の段階で内側に陥入することで、消化管のもとになる原腸を形成するようになります。
 この原腸胚は、陥入とともに内胚葉、外胚葉、中胚葉に分かれていき、それぞれが体の各器官の源になります。つまり、まず消化管となる原腸が形成されることで、ヒトを含めた動物の体が分化していくことになるのです。
 もう少し具体的に解説すると、実際に腸へと分化していくのは、3つの胚葉のうち内胚葉になります(次ページ図3−9参照)。
 内胚葉は前腸、中腸、後腸に分化し、それぞれが咽頭、食道、胃、小腸、大腸といった形に分かれていくほか、前腸からは肺、肝臓、膵臓が、後腸からは泌尿器系の一部、膀胱、尿道などが生まれます。
 心臓などの循環器は、中胚葉に由来していますが、原腸が消化管の起源に当りますから、発生としては腸の後になります。また、のちに脳になる神経系については、外胚葉から形成されていきます。
 こうした器官の発生は、「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉の通り、ヒトの個体発生でも同様にプロセスを見出すことができます。ここでもやはり、最初に腸が作られ、脳や心臓は後から作られるのです。
 私たちは、食べなければ生きていけませんから、まず消化管=腸が先に作られ、そのうえでさらに必要な器官が分化していくということなのかもしれません。

(引用終了)
<同書 141−142ページ(図は省略)>

 三木生命形態学において、「体壁系」とは“感覚―運動”を司る器官を指し、「内臓系」とは“栄養―生殖”を司る器官を指す。上の引用と合わせると、三胚葉(内胚葉・外胚葉・中胚葉)のうち、内胚葉と中胚葉は「内臓系」、外胚葉が「体壁系」を構成するといえるだろう。

 生物学者福岡伸一氏の『できそこないの男たち』(光文社新書)に、生命の基本仕様は「女性」だという指適がある。その部分を引用しよう。

(引用開始)

 このように見てみると、最初に紹介したフェミニズム仮説、すなわち、女性は、尿の排泄のための管と生殖のための管が明確に分かれているが、男性は、それがいっしょくたなので、女性の方が分化の程度が進んでいる、つまりより高等である、との説は間違っていないことがわかる。
 あるいはこう言い換えることができる。男性は、生命の基本仕様である女性を作りかえて出来上がったものである。だから、ところどころに急場しのぎの、不細工な仕上がり具合になっているところがあると。
 実際、女性の身体にはすべてのものが備わっており、弾性の身体はそれを取捨選択しかつ改変したものにすぎない。基本仕様として備わっていたミュラー管とウォルフ管。男性はミュラー管を敢えて殺し、ウォルフ管を促成して生殖器官とした。それに付随して様々な小細工を行なった。かくして尿の通り道が、精液の通り道を使用することになった。ついでに精子を子宮に送り込むための発射台が、放尿のための棹にも使われるようになった。
 女性は何も無理なことはしない。ミュラー管がそのまま生殖器官となる。女性は何かを殺すこともしない。女性の身体は今でもウォルフ管の痕跡が残っている。
 アダムがイブを作ったのではない。イブがアダムを作り出したのである。

(引用開始)
<同書 165−166ページ>

以上を総合すると、食の相においては「内臓系」が、性の相においては「女性性」がヒトの基本仕様であって、「体壁系」と「男性性」はいづれもあとから作られていったということがわかる。この知見こそ男女共生の秘訣であろう。

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共生の思想 II

2015年06月09日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 共生には「一つの生存圏に多種多様な生物が棲んでいる状態」と「一つの生き物に他の様々な生き物が一緒に住んでいる状態」の二つの概念がある。前回「共生の思想」では後者を取り上げたので、今回は前者について書いてみたい。

 そのための最適な本が最近(2015年2月)出版された。『生物多様性』本川達雄著(中公新書)がそれで、あの『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)の著者の書き下ろしだ。本のカバー裏の紹介文を引用しよう。

(引用開始)

 地球上には、わかっているだけで一九〇万種、実際には数千万種もの生物がいる。その大半は人間と直接の関わりを持たない。しかし私たちは多様なこの生物を守らなければならない。それはなぜなのか――。熾烈な「軍拡競争」が繰り広げられる熱帯雨林や、栄養のない海に繁栄するサンゴ礁。地球まるごとの生態系システムを平易に解説しながら、リンネ、ダーウィン、メンデルの足跡も辿り直す、異色の生命讃歌。

(引用終了)

 本の構成は、

序章  生物多様性を理解するのは難しい
第一章 生物多様性条約と生態系サービス
第二章 バイオームと熱帯雨林
第三章 サンゴ礁と生物多様性の危機
第四章 進化による多様性の歴史
第五章 ダーウィンの進化論・アリストテレスの種
第六章 生物はずっと続くようにできている
第七章 メンデルの遺伝の法則
終章  生物多様性減少にどう向き合えばよいのか

となっている。第二章と第三章が生物多様性の具体例で、熱帯雨林の樹木の複雑な三次元的階層構造、植物と菌との栄養共生、サンゴと褐虫藻の相利共生など、自然の精緻な生態学的しくみが興味深く描かれている。

 体内の共生もそうだが、一つの生存圏における生物の共生も、多様であった方がそれぞれ生き延びるチャンスが大きい。今の自然破壊はその多様性を奪っていくから、どこかで歯止めを掛けないと全てが失われてしまう。地球上の生物全体を絶滅に追いやってしまうことになる。

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。「共生の思想」とは、まさに共生という「コト」を大切にする考え方に他ならない。

 本川氏は、特に日本人の自然を大切にする知恵・価値観に期待を寄せる。終章から引用したい。

(引用開始)

 島というのはその中でやりくりをして生き延びていかなければならない場所であり、そこでなんとか持続可能な生活を営みながら、ちまちまとしていても、それなりに幸せに暮らしていく知恵を日本人は蓄えてきました。幕末に日本に来た外国人はみな、日本人は満足して幸福だという印象を受けたと、渡辺京二は『逝きし世の面影』で多くの引用をしながら述べています。たとえば「日本人はいろいろな欠点を持っているとはいえ、幸福で気さくな、不満のない国民であるように思われる」(オールコック『大君の都』)。もちろん江戸時代に戻ろうとは申しませんが、地球も今や資源の限られた島とみなさなければならない状況になってきたのですから、ここでこそ日本人が育んできた知恵・価値観の出番。世界はいざ知らず、日本は率先して右肩上がり信仰から脱却すべきだと思うのですが。

(引用終了)
<同書 283−284ページ>

 生物同士の相互作用は複雑だ。まずはこれらの本を読んで生物多様性の実体をよく理解しよう。ところで共生といえば、社会集団における人間同士の共生もある。これについては以前「自立と共生」という項でいろいろと考えた。併せてお読みいただければ嬉しい。

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共生の思想

2015年05月27日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 『腸内細菌と共に生きる』藤田紘一郎著(技術評論社)という本を面白く読んだ。この本のテーマは「共生」だが、ここでいう共生とは「一つの生存圏に多種多様な生物が棲んでいる状態」のことではなく、「一つの生き物に他の様々な生き物が一緒に住んでいる状態」を指す。本の構成は以下の通り。

第1章 すべては「共生」で成り立っている
第2章 共生思想を生んだ「カイチュウ」との出会い
第3章 共生細菌から見た「腸」と「脳」の不思議なつながり
第4章 共生を支える「エピジェネティクス」とは

 エピジェネティクスとは、「遺伝子の配列によって生物の振る舞いや生き方がすべて決まってしまうわけではなく、そこには後天的な要素も大きく影響している」(同書144ページ)ことをいう。以前「遺伝子の平行移動」の項で、藤田氏の他の著書に触れ、エピジェネティクスは、遺伝子という“モノ”から、環境と細胞の相互作用という“コト”への関心のシフトということで、このブログで指適しているモノコト・シフトの一例だと思うと書いたけれど、もともとエピジェネティクスは、この「共生」を支える仕組みなのだ。「共生の思想」こそこれからの時代に相応しい。

 著者は最近日本でよく起きる感染症について、その後書き(「おわりに」)の中で、

(引用開始)

 これまで再三指適してきたように、私は戦後、日本人が進めてきた「清潔志向」と、それによる日本人の「無菌化」が関係しているように思います。
 1960年代半ばから日本人に多発してきた花粉症やアトピー性皮膚炎、気管支喘息などのアレルギー性疾患や2000年頃から急増したうつ病などの病気も、この日本の「無菌化」と密接な関係を持っていたのです。
 戦後の日本人の清潔志向は、次第にその度合いを強めてきて、最近では身の回りの人が生きていくための必要な「共生菌」(共生している菌)まで排除し始めました。この共生菌の排除が新しく感染症や病気を生み、一方では人間の免疫力を低下させるように働いたのです。この「共生菌」の排除はいつの間にか「異物」の排除に繋がったのです。近頃では、若い日本人の間に、自分の出す汗や匂いまでも排除する傾向が見られ始めたのです。
 このような傾向は、もはや人間が「生物」として生きる基盤さえ奪い、そして、それは人間の精神的な面にも影響を及ぼし、日本人の「感性の衰弱」まで引き起こしているように思えるのです。
 本稿では「共生の思想」をないがしろにしている人類が自ら生命を危うくしているばかりでなく、地球上の生物全体を絶滅に追いやっている状況について解説しました。

(引用終了)
<同書 187-188ページ(括弧内は引用者による註)>

という。今の自然破壊は、我々の体外においてだけでなく、体内でも進んでいるわけだ。我々の身体にとって何が問題で、何が問題でないのか、これらの本をよく読んで理解を深めたい。

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交感神経と副交感神経 II 

2015年05月19日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「吉野民俗学と三木生命学」の項で触れた自律神経(交感神経と副交感神経)については、以前「交感神経と副交感神経」の項でかなり詳しく書いたが、『賢い皮膚』傅田光洋著(ちくま新書)によく纏まった文章があるので、整理のために引用しておきたい。複眼主義美学のような理論的構築物を作っていくには、建築と同じで細部への理解・目配りが欠かせない。すこし長くなるが、適時コメントを入れながら引用していく。尚、傅田氏の本や皮膚に関することは「皮膚感覚」「境界としての皮膚」などで紹介した。興味のある方はお読み下さい。

(引用開始)

 神経は脳と脊髄をひっくるめた中枢神経と、中枢神経から全身に伸びている末梢神経に区別されます。末梢神経には感覚神経、運動神経、自律神経があります。感覚神経は読んで字の如く、全身からの感覚刺激を中枢に伝達する神経です。運動神経は中枢神経で意識したことに従い骨格筋を収縮させて身体を動かします。いずれも秒速数十メートルの速度で情報を伝達します。

(引用終了)
<同書 30ページ>

ここは神経系全体の話だ。先日「複眼主義の時間論」の項で説明した部分と一部重なる。ここから先は自律神経の話になる。続きを引用しよう。

(引用開始)

 さて詳しく説明したいのが最後の自律神経です。この神経は無意識に作動しているので、「自律」と名づけられました。つまり意識ではコントロールできない神経とも言えます。具体的には血液循環、呼吸、排泄、体温調節などの生命維持機能を、我々が意識しないでいてもちゃんとコントロールしてくれている重要な神経系です。また本能や情動によって行動するときには、運動神経とうまく協調しながら働きます。また各種ホルモン分泌などを身体の内部、すなわち血管に分泌する内分泌、広義で身体の外部である消化管内や汗など身体の外に物質を分泌する外分泌にも自律神経は関与しています。

(引用終了)
<同書 30−31ページ>

ここは自律神経全体の働きについてまとめた部分だ。呼吸に関する話は以前「呼吸について」の項で詳しく触れた。健康管理に興味のある人はそちらをお読みいただきたい。さらに引用を続けよう。

(引用開始)

 この自律神経はさらに交感神経と副交感神経とに区分されます。
 交感神経は中枢神経の胸腰髄から出ています。一方の副交感神経は中枢神経の上と下、脳幹と仙髄から出ています。その役割を簡単に既述すると、交感神経系はエネルギーを使う方向、興奮状態、攻撃態勢などの状況で活性化され、逆に副交感神経系は、エネルギーを蓄える方向、食事をして飲み込んで脈はゆっくりしてリラックス状態という状況で活躍しています。

(引用終了)
<同書 31ページ>

 複眼主義では、「生産」=「他人のための行為」、「消費」=「自分のための行為」とし、それを自律神経の対比と関連付ていける。すなわち、「生産」=「他人のための行為」=「エネルギーを使う交感神経優位」、「消費」=「自分のための行為」=「エネルギーを蓄える副交感神経優位」という対比・関連だ。詳しくはカテゴリ「生産と消費論」の各項を参照のこと。また、ここで体にとって大事なのは「交感神経は中枢神経の胸腰髄から出ています。一方の副交感神経は中枢神経の上と下、脳幹と仙髄から出ています。」という部分。どちらの自律神経系を活性化させたいかに応じて、呼吸や運動、体操や指圧などのやり方が分かれる。先を続けよう。

(引用開始)

 交感神経細胞の大部分はノルアドレナリンを放出して各器官や組織に作用します。アセチルコリンを放出する線維もあります。一方の副交感神経の大部分はアセチルコリンを放出します。各々の物質に対して作動するカギ穴のようなタンパク質、受容体があります。受容体については後で詳しく説明します。ノルアドレナリン、アドレナリンについては大別してα型とβ型があります。一方アセチルコリンについてはニコチン形受容体とムスカリン方受容体があります。これらは各々その作動物質に由来する名称で、ニコチンはいうまでもありませんが、ムスカリンはある毒キノコから抽出された物質の名前です。ノルアドレナリン、アセチルコリン、いずれの場合もそれがくっつく受容体によって作用が異なっています。

(引用終了)
<同書 31−32ページ>

ノルアドレナリンやアセチルコリンについては、以前「神経伝達物質とホルモン」の項でその働きを整理したことがある。併せて読むと理解が深まると思う。引用の最後は自律神経の作用の詳細だ。

(引用開始)

 以下におおざっぱですが、交感神経系、副交感神経系による作用を列挙しておきます。
 瞳孔は交感神経系で大きくなり(散瞳)、副交感神経で小さくなります(縮瞳)。交感神経系によって起きる現象は、気道の拡張、心拍数の増加、消化液の分泌抑制、射精、汗の分泌、鳥肌、などです。一方、涙、薄い唾液、鼻水、消化液、インシュリンが分泌されるのは副交感神経系です。副交感神経系ではそれ以外に気道の収縮があります。喘息の発作が睡眠時に多い理由です。また排尿、排便、勃起も副交感神経系によるものです。

(引用終了)
<同書 32ページ>

引用は以上。複眼主義による自律神経系の対比・関連付けを纏めると以下の通りとなる。

<交感神経優位>

社会活動:生産=他人のための行為
活動属性:理性的活動
美的意識:早く走り高く上ることへの憧れ(反重力美学)

<副交感神経優位>

社会活動:消費=自分のための行為
活動属性:感性的活動
美的意識:長閑な安らぎと古への懐かしさ(郷愁的美学)

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吉野民俗学と三木生命学

2015年05月12日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 ここまで「吉野民俗学」と「三木生命形態学」の両項で、

『隠された神々』吉野裕子著(河出文庫・2014年11月)
『日本人の死生観』吉野裕子著(河出文庫・2015年3月)
『内臓とこころ』三木成夫著(河出文庫・2013年3月)
『生命とリズム』三木成夫著(河出文庫・2013年12月)

の四冊を紹介したわけだが、吉野民俗学も三木生命学も21世紀に復活すべき地味だが重要な学説だと思う。

 この昭和期に活躍した二人の学者(三木成夫1925−1987、吉野裕子1916−2008)の仕事は一見かけ離れているように見えるけれど、吉野民俗学の、日本の古代信仰は「母なる自然(母胎)を中心とした同心円的世界観を持っていた」という指適、三木生命学の「人体構造は体壁系と内臓系の双極性を持つ」という知見とそこから発展した西原重力進化学、これらは複眼主義の定立にとても役立つこととなった。

 西原重力進化学の交感神経と副交感神経系、三木生命形態学の体壁系と内臓系、この二つの対極性から生まれたのが、反重力美学(交感神経)と郷愁的美学(副交感神経)、男性性(体壁系)と女性性(内臓系)の四つの組合せによって美意識を分類する「複眼主義美学」である。
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 古代信仰から連綿と続く、日本人の「自然に偏した意識構造」を組み込んだ複眼主義美学の成果は、<宇宙的郷愁とは何か>などとして、最近、電子書籍サイト「茂木賛の世界」の『百花深処』に載せたのでお読みいただけると嬉しい。

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三木生命形態学

2015年05月05日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「吉野民俗学」の項で河出書房新社の文庫による名著復刻に触れたが、生命形態学者三木成夫の本も、最近同社から読みやすい文庫の形で二冊出版されている。

『内臓とこころ』三木成夫著(河出文庫・2013年3月)
『生命とリズム』三木成夫著(河出文庫・2013年12月)

がそれだ。まず内容について文庫カバー裏表紙の紹介文を転載しよう。

(引用開始)

『内臓とこころ』
「こころ」とは、内臓された宇宙のリズムである――おねしょ、おっぱい、空腹感といった子どもの発育過程をなぞりながら、人間の中に「こころ」がかたちづくられるまでを解き明かす解剖学者のデビュー作にして伝説的名著。四億年かけて進化してきた生命(いのち)の記憶は、毎日の生活の中で秘めやかに再生されている!育児・教育・保育・医療の意味を根源から問いなおす。
解説=養老孟司

『生命とリズム』
「イッキ飲み」や「朝寝坊」「ツボ」「お喋り」に対する宇宙レベルのアプローチから、「生命形態学」の原点である論考、そして感動の講演「胎児の世界と<いのちの波>」まで、『内臓とこころ』の著者が残したエッセイ、論文、講演をあますところなく収録。われわれ人間はどこから生まれ、どこへゆくのか――「三木生命学」のエッセンスにして最後の書。

(引用終了)

『内臓とこころ』の新聞紹介文も引用しておこう。

(引用開始)

 解剖学者が心の起源を解き明かした名著の復刻。
 解剖学的には、手足や脳は目や耳の感覚器官と一緒に「体壁系」と呼ぶという。魚をさばいたときに、はらわたを取り出した残りが体壁系だ。その取り出したはらわた=内臓系の感覚がどのようにできてくるのかを、膀胱や空腹時の胃、乳児が乳を吸う時の唇の感覚を例に解説。生命の主人公はあくまでも食と性を営む内臓系であり、感覚と運動に携わる体壁系は、手足に過ぎないという。人類が内臓感受系の覚醒により森羅万象に心が開かれてきた過程を、赤ん坊の成長に見られる好奇心の発達を重ね合わせながら概観する。

(引用終了)
<日刊ゲンダイ 4/24/2013>

 三木成夫の生命形態学については、先日「時間論を書き換える」の項で、その個体発生と系統発生の密接な関係性の知見が時間論の書き換えの糸口の一つになるだろうと書いたけれど、それとは別に、人体構造の解剖学的説明が面白い。それについては以前「体壁系と内臓系」「南船北馬」「“しくみ”と“かたち”」などの項で紹介したことがある。

 体壁系と内臓系の双極性は、複眼主義の基幹を成す対比の二つのうちの一つだ。まとめた図(一部)を参考までに載せておこう。

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 『内臓が生みだす心』(NHKブックス)の著者西原克成氏は、三木生命形態学を継いで生物の進化を研究し、『生物は重力が進化させた』(講談社ブルーバックス)を著した。「重力進化学」はそれを紹介したものだ。

 西原重力進化学では自律神経(交感神経と副交感神経)のうち交感神経そのものが「重力」によって発生したとする。この交感神経由来の美意識を私は「反重力美学」と名付けた。2010年のことだからもう今から5年も前になる。

 そして、その対極の副交感神経由来の美意識を2015年2月に「郷愁的美学」と名付けて発表した。

 交感神経優位=反重力美学と副交感神経優位=郷愁的美学の双極性は、複眼主義の基幹を成す二つの対比のうちのもう一つ、「集団」と「個人」との間の対比だ。こちらも図を載せておこう。
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 三木生命形態学は、あの吉本隆明が「もっとはやくこの著者の仕事に出会っていたら、いまよりましな仕事ができていただろうに」と後悔した(『海・呼吸・古代形象』三木成夫著<うぶすな書院>解説より)くらい大切な理論である。まだの人はすぐ手に入る河出文庫二冊から読み始めていただきたい。そして『胎児の研究』(中公新書)や『生命形態学序説』(うぶすな書房)、『海・呼吸・古代形象』(うぶすな書房)へと進んでいただきたい。

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吉野民俗学

2015年04月28日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 去年の暮れから今年の春にかけて、河出書房新社から民俗学者吉野裕子の本が入手しやすい形で二冊出版された。

『隠された神々』吉野裕子著(河出文庫・2014年11月)
『日本人の死生観』吉野裕子著(河出文庫・2015年3月)

がそれだ。まず、内容について文庫カバー裏表紙の紹介文を転載しよう。

(引用開始)

『隠された神々』
日本の信仰は、古代より太陽の運行にもとづき、神の去来を東西軸上に想定していた。だが白鳳期になり、星の信仰である中国の陰陽五行が渡来すると、神への信仰は、南北軸にとって変られる。“隠された神々”の秘密を探りながら、日本宗教の大きな変化に迫る、吉野民俗学の代表作。 解説=安田喜憲

『日本人の死生観』
古代日本人は、木や山を蛇に見立てて神とした。そして、人の生誕は蛇から人への変身であり、死は人から蛇への変身であった……神道の底流をなす蛇信仰の核心へと迫り、日本の神イメージを一新。“吉野民俗学”への最良の入門書となる名著! 解説=井上聰

(引用終了)

 吉野民俗学は、様々な事例をもとに、日本の古代信仰が「母なる自然(母胎)」を中心とした同心円的世界観を持っていたことを指適する。しかし、その研究は長い間日本の学会においてまともに取り扱われなかったらしい。その辺の事情について『隠された神々』の解説(国際日本文化研究センター名誉教授安田喜憲氏)から引用したい。

(引用開始)

女民俗学の確立

 だが多くの民俗祭祀は豊穣の祭りごとである。豊穣の儀礼は性の営みであり、そこでは生命を誕生させる女性がもっとも大きな役割を果たしたはずである。しかも、ながらく稲作漁撈文明の母権性の伝統のもとにあった日本においては、民俗の祭祀は女性原理と密接不可分にかかわっていた。そこには、女性の感覚でしか理解できないものが、山のように隠されているのである。
 にもかかわらず、明治以降の欧米のキリスト教の父権主義のもとに育った近代民俗学を導入することにやっきになった日本の学会では、そうした女性の視点をまったく軽視した。民俗学の中から女性の性や妖艶さを取り除くことが科学的であるとさえ考えていた。柳田国男や折口信夫の民俗学は男の民俗学であり、女の世界を欠如していた。
 しかし、日本文明の根幹には女性原理が深くかかわっているのである。日本文明の原点である縄文時代の土偶は、九九パーセントが妊婦である。縄文の社会は、生命を誕生させる女性中心の社会であった。つづく稲作漁撈社会も、女性中心の社会である。雲南省や貴州省に暮らす少数民族のハニ族、ミャオ族、イ族、トン族など稲作漁撈に生業の中心を置く人々は、今でも女性中心の母権制社会の伝統を強く残している(安田喜憲『稲作漁撈文明』雄山閣二〇〇九年)。日本でも平安時代までは妻問婚が一般的であり、母権性文明の伝統が強く残っていた。
 こうした母権制社会の伝統に立脚した縄文と稲作漁撈の文明を強く継承する日本の民族事例を研究するには、女性からの視点、なかんずく女性の性からの視点が必要不可欠なのである。(中略)
 日本の民俗学が女性の視点を取り入れ、柳田や折口の男民俗学から女民俗学が確立された時に、はじめて、日本民族学の真我、日本文明のエートスが理解されることになるのであろう。

(引用終了)
<同書 233−235ページより>

 吉野民俗学の指適は、複眼主義でいう日本人の「自然に偏した意識構造」と整合する。それともう一つ、『隠された神々』において興味深いのは、文庫カバー裏表紙の紹介文にもある東西軸と南北軸の議論だ。新聞の本書紹介文も引用しよう。

(引用開始)

 中国から渡来した陰陽五行説と星辰信仰が古代日本に与えた影響を論じ、独自の境地を切り拓いた民俗研究家の代表作。近江遷都や高松塚古墳に方位や占星術によるアニミズム的な呪術がこめられていること、天照大神(太陽神)の裏には太一(北極星の神)が隠されていることなどを鮮やかに示し、今なお異彩を放つ。

(引用終了)
<東京新聞12/21/2014(フリガナ省略)>

 安田喜憲氏は、この東西軸と南北軸について、日本では前者から後者に完全に置き換わった訳ではないことを強調する。そこには日本独特の「習合」という作用があったという。安田氏の『隠された神々』解説文から再度引用したい。

(引用開始)

 本書で吉野先生はまず「古代日本の文明原理には、太陽の運行から類推された東西軸を神聖視する思考があった」ことを指摘される。(中略)ところがこの古代日本の東西軸に、七世紀に百済を経由して中国大陸から伝来した陰陽五行の南北軸が追加される。(中略)
 こうした東西軸から南北軸への世界観の転換は畑作牧畜民(安田喜憲 前掲書)の中国の黄河文明のみでなく、エジプト文明においてもはっきりと認められる。これら畑作牧畜民の地域では、太陽信仰が星の信仰に完全に置き換わる。ところが稲作漁撈民の古代日本においては、陰陽五行の南北軸の星への信仰は、絶対的な太陽信仰の東西軸にとって代るほどの力はなかった。太陽信仰が星の信仰に完全に置き換わることはなかったのである。古代日本においては、新たに伝来した陰陽五行の星の信仰は、在来の太陽信仰に習合されたのである。
 ここにこそ日本文化の特色が語られている。日本文化の特色は新たにやって来たものが、これまであったもの全てを飲み尽くすというのではなく、在来のものが新たにやって来たものを受け入れ習合する。「これこそが日本を日本たらしめている力なのである」と本著は語っているように私は思う。

(引用終了)
<同書 235−237ページより>

 日本の古代信仰は、その「習合」の力によって、その後も外来の様々な思想や宗教、仏教、儒教やキリスト教などをその懐に取り込んでいく。文字も漢字を取り込んでひらがなやカタカナが作られた。『隠された神々』で著者は、この習合力の背景となったであろう、日本人の「見立て」や「擬(もど)き」といった連想的具象化能力を挙げる。

(引用開始)

 古代日本人は他の民族に劣らず、想像力が豊な民俗であったがこの古代日本人がつくり出した文化の型の特徴を一つあげるとすれば、私は「見立て」をあげたい。
 ここにいう「見立て」とは何か。日本舞踊を例に取るならば、一本の舞扇はあるいは傘に、あるいは酒器に、筆に、短冊に、手鏡にと見立てられ、その扱い方によっては扇はさらに雨、落花、流水をあらわし、また抽象的な事象をさえ表現する。これがいわゆる「見立て」であるが、日本舞踊におけるこの扇のように、一物で多様の役割を果たしているものは、おそらく世界じゅうどこにもない。(中略)
 古代日本人は抽象的な思惟を苦手とし、物ごとを理解しようとする時、それを何かに擬(なぞ)らえ、それからの連想によって捉(とら)えようとした人々だったと思う。つまり、「擬(もど)き好き」「連想好き」であって、それが日本人の原初的心情なのである。
「見立て」の背後に潜むものは、この心情であって、この傾向が神話・進行・世界像を創造し、神事、祭りの形態を定め、神事から諸種の芸能へと発展させてきたのである。

(引用終了)
<同書 12−13ページ>

習合力こそ「日本を日本たらしめている力」だとする吉野民俗学の指適は面白い。これをヒントにして日本の歴史をさらに探ってみたい。

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複眼主義の時間論

2015年04月13日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「時間論を書き換える」の項で、「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」という時間はユダヤ・キリスト教、一神教における概念に過ぎないと書き、その書き換えは、非キリスト教文化圏の日本人の手によって成されるだろうと予測したが、今回は私の(複眼主義による)時間論を披露しよう。勿論仮説だが様々な現象と整合的なので自分としてはなかなか気に入っている。

 複眼主義ではまず人と世界とを「個人」と「集団」とに分ける。人は「個人」であり世界は「集団」である。さらにそれぞれを、

「個人」:「脳の働き」=「公」と、「身体の働き」=「私」
「集団」:「都市の働き」=「公」と、「自然の働き」=「私」

とに二分する。ここまでは時間論以前の話だ。
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人と世界は円を斜め上から見たところとして表現。世界は斜線によって「都市の働き」と「自然の働き」とに分けられる。人は斜線によって「脳の働き」と「身体の働き」とに分けられる。

 個人の「脳の働き」と「身体の働き」については、「単行本読書法(2014)」での説明を繰り返しておこう。人の神経は、中枢神経系と抹消神経系からなり、中枢神経系には脳(大脳/脳幹/小脳)と脊髄があり、末梢神経系には体性神経(感覚神経/運動神経)と自律神経(交感神経/副交感神経)とがある。複眼主義で「脳の働き」と呼んでいるのは大脳の内の進化的に新しい大脳新皮質の働きを指し、「身体の働き」と呼んでいるのは、大脳の大脳旧皮質、脳幹の働きを指している。後者は小脳、脊髄および末梢神経全体と強く結ばれているから総じて「身体の働き」と言っているわけだ。人は「脳の働き」と「身体の働き」をバランスさせながら生きている。図では「身体の働き」に身体そのものも含む。

 集団の「都市の働き」と「自然の働き」は、個人の「脳の働き」と「身体の働き」に由来・対応する。個人の脳が集団に働きかけることによって作り出されるのが「都市」、身体そのものの母体となっているのが「自然」である。都市とは、脳の働きが身体と自然の力を元につくり出す人口のもの一切を指す。言葉、法律、国、会社、イベント、家、街、コンピュータ、TV、車などなど。自然とは、人工のもの以外を指す。

 ここまででもう想像が付くかもしれないが、複眼主義では以上に沿って、時間を四つに分けて考える。

「脳の働き」=現在進行形(t = 0)
「身体の働き」=寿命(t = life)

「都市の働き」=金利(t = interest)
「自然の働き」=無限大(t = ∞)

という具合だ。
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 脳の働きは常に現在進行形。今あなたはこの端末画面を見ているけれど、画面の後ろにある空間、乗り物や街、会社や家庭、そして世界全体を一挙に把握している筈だ。あなたの頭の中にはあなたがこれまで体験してきた世界の全てが同時にある。各人の脳は固有の現在進行形の時間を持っている。

 身体は寿命によって制御される。脳も身体の内だから、身体の時間が終われば脳の時間も終わる。寿命は身体の大きさに比例するというのが本川達雄氏の『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)である。この本については以前「集団の時間」の項でも紹介したことがある。

 多くの人の脳が作り出す都市の機能を制御する時間は、集団内で共通のものにしておく必要がある。今の都市の時間は(歴史的な力関係で)概ねユダヤ・キリスト教でいうところの「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」を基準にしてある。その流通価値は、集団内の合意事項として効率(金利)によって判断することになっている。勿論世の中には金利ゼロという集団(社会)があってもよい。

 自然の時間は今の人智では計り知れない。だから宗教や科学の出番がある。宗教や科学が考える時間にはいろいろある。単純一方向型、インフレーション型、多元型、循環型などなど。複眼主義ではこれを無限大と置いている。ユダヤ・キリスト教徒は彼らの「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」という単純一方向型の時間概念を自分達の「都市」にまず持ち込んだわけだ。それが今のところ世界基準となっている。

 無限大という意味はなんでもありということ。生物学のスケーリングや気象学、熱力学、流体力学などを勉強していると、ET = kWという、空間(W)サイズは、エネルギー(E)と固有時間(T)によって決まってくる(kは定数)という法則が一番しっくり来る。おそらく世界はET = kWの入れ子構造で成り立っていると思うのだが、これはまだ仮説前段階の域を出ない。身体の時間が終われば脳の時間も終わるように、自然の時間が終われば都市の時間も勿論終わる。

 こうした四つの時間概念、

「脳の働き」=現在進行形(t = 0)
「身体の働き」=寿命(t = life)
「都市の働き」=金利(t = interest)
「自然の働き」=無限大(t = ∞)

をベースにして私は生きている。一般の人と違うかもしれないが都市生活上なんの不便もない。会社(SMR)のミッションである「知の拡大」のために、日々、脳の現在進行形の時間を豊にすることを心掛けている。人との約束を破ることはない。各種工学の成果は無理のない範囲で利用する。身体健康上は寿命を全うしようというだけのことで「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」を信じて若さに嫉妬したり老化に抵抗したりすることもない。

 モノコト・シフトの時代、皆さんも“コト”が起る時間について、さまざま想いを巡らせてみてはいかがだろう。宗教上の理由以外で「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」である必然性が見つかったらそのときは是非お知らせいただきたい。その際工学(応用科学)と科学(science)との違いを見誤らないように。

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時間論を書き換える

2015年04月07日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 前回「進化論と進歩史観」の項で、進歩史観の基にある、過去から未来へ向かって一定速度で進む「統一時間」が宇宙を律していて歴史は滔々とその流れに沿って動くとする時間論について触れたが、今回は生物学の時間論について考えてみたい。

 動物のサイズによって時間の流れる速さが違ってくるという『ゾウの時間 ネズミの時間』(中公新書)の著者本川達雄氏は、『「長生き」が地球を滅ぼす』(文芸社文庫)という本の中で、動物の身体の大きさが動物の身体のつくりや働きにどう影響するかを調べる生物のスケーリングに関する本をいくつか紹介したあと、

(引用開始)

 以上、どの本にもエネルギー消費のことは詳しく書いてあるが、時間に関して突っ込んだ記述や議論はない。
 前記シュミットニールセンの本は名著の誉れが高い。彼はデューク大学の看板教授で、コールダー(彼の本の次に挙げた本の著者)は彼の高弟である。私はデュークに二年ばかりお世話になり、シュミットニールセンとはよく昼飯を一緒に食べた。
「時間(time)は体重の1/4乗に比例して変わるものです。」
 私が主張した時、シュミットニールセンは言った。
「君の言うのはtimeではなくcycle(周期)だ。」
 あ、これは時間の一神教だ!と思った。西洋では、まっすぐに進んで戻らない万物共通のものを時間と呼ぶ。くるくる回るものを普遍的な時間と呼ぶことに、彼らは強い抵抗を感じるようなのである。
 唯一の神を大文字でGodと書いて八百万の神々godsと区別し、Godこそが真の神だとユダヤ・キリスト教徒は考える。たぶん彼らの意識の中では、時間にもTimeとtimesの区別があり、唯一の神の造ったTimeこそが唯一の時間なのであって、timesの方は、本当は、そうは呼びたくないというのが西洋人の本音なのではないだろうか。だからこそcycleだとシュミットニールセンが言い直したのだと私は解釈している。この時の会話の調子から、時間を扱うと文化論にならざるを得ないなあと強く感じた。
 後年、彼が国際生物学賞(昭和天皇を記念して設けられた賞)を受賞して来日した際、『ゾウの時間 ネズミの時間』がベストセラーになったと告げたら、
「時間がいろいろ違うなんて、アメリカでは受入れられるはずがない。日本ではそういう本が売れるんだねえ。」と、彼我の違いに大いに驚き、不思議がりつつ感心していた。

(引用終了)
<同書 271−272ページより> 

と書いておられる。この「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」という時間はユダヤ・キリスト教、一神教における概念に過ぎない。このことが重要だ。

 21世紀のモノコト・シフトが非キリスト教文化圏にある日本で進むと、進化論が池田氏の「形態形成システム」によって書き換えられるであろうように、本川氏のような日本人科学者によって、生物学の時間論そのものも書き換えられるだろう。引用にあるようにまだ抵抗は強いようだが、(モノコト・シフトは黙っていても世界規模で進んでいくから)それこそ時間の問題だと思われる。

 書き換えの突破口は、本川氏らのスケーリングの研究が一つ。もう一つは、個体発生は系統発生を繰り返すという発生学上の知見だろう。日本では解剖学者三木成夫氏の『胎児の世界』(中公新書)が有名だ。個体発生が時間を圧縮した系統発生を内に秘めているのであれば、生物の時間は原初からのそれの入れ子構造になっているわけで、「まっすぐに進んで戻らない万物共通のもの」の原理下だけにはないことになる。

 三木氏の本では2013年に復刻された『内臓とこころ』(河出文庫)と『生命とリズム』(河出文庫)が入手しやすい。一読をお勧めする。去年の暮、進化論的教育論(Evolutionary Pedagogy)の分野で三木氏の仕事を継承した『アインシュタインの逆オメガ』小泉英明著(文藝春秋)という本も出版された。

 時間論の見直し・書き換えは、いずれ物理学の世界でも行なわれるだろう。その取っ掛かりを「時空の分離」「再び複眼主義について」「クレタ人の憂鬱」などの項で書いておいた。併せてお読みいただけると嬉しい。

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進化論と進歩史観

2015年03月31日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 私は生物学者ではないが「進化論」には特別な関心を持っている。20世紀の半ばにワトソンとクリックがDNAの二重らせん構造を発見して以降、進化はDNAという“モノ”によって齎されるという還元主義的な考え方が支配的であったが、21世紀の初めにヒトのDNA配列の全てが解析されてなお進化の全てが分らないという事実を前にして、人は進化には“モノ”以外のさまざまな“コト”の関与が欠かせないことに気付き始めた。

 『「進化論」を書き換える』池田清彦著(新潮文庫)という本は、その“コト”を受入れる身体側の仕組みを「形態形成システム」と呼び、進化学の最前線を分りやすく説明してくれる。カバー裏表紙にある紹介文を引用しよう。

(引用開始)

ダーウィン以来の、突然異変や自然選択に基づく進化論は、蛾の翅の色や鳥のくちばしの大小の違いなど、小さな変化しかカバーできず、種を超えた大進化を説明できない―――。伝統的な進化論の盲点と限界を示し、著者が年来の主張とする「形態形成システムの変更」に生物進化の核心をみる画期的論考。信仰と化した学問上の通説に正面から切り込み、科学的認識の大転換を迫る。

(引用終了)

 生物学における「進化」は価値ニュートラルな概念といわれるが、多くの人の意識の底には「進化」=「進歩」という西洋の進歩史観が潜んでいて、進化がDNAという“モノ”によって齎されるという考えは、社会の「進歩」も“モノ”が潤沢に流通することによって起る、という物質主義的な思想を支えてきたと思う。

 このブログでは、21世紀はモノコト・シフトの時代だと述べている。モノコト・シフトとは、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の略で、二十世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。進化が「形態形成システムの変更」によって齎されるという知見は、この新しいパラダイムを支える柱の一つとなるであろう。

 進化論の書き換えによって、「進化」=「進歩」という進歩史観も変るのだろうか。これはなかなか微妙な問題だ。分子生物学の最前線では、むしろDNAを取り巻く環境までをもコントロールして新薬を作り、より良い社会のために役立てようとする動きも盛んだ。

 少し考えれば、コントロール出来たと思った環境はすぐにまた変化するから、そういう努力は新薬と環境変化のいたちごっこにならざるを得ないことは自明だが、進歩史観の下では、これからも巨額をかけてそういう開発が続けられるだろう。

 進歩史観の基にあるもう一つの考えは、過去から未来へ向かって一定速度で進む「統一時間」が宇宙を律していて歴史は滔々とその流れに沿って動くとする時間論で、この考えが効率を是とする資本主義思想を支えてきた。今の社会では、新薬や新食品の開発は時に高額な利益を生み出す。

 進化論とともに時間論が新しく書き換えられてはじめて、科学的認識の大転換は完成するのだと思うがいかがだろう。

 それまで、進歩史観の影響下にある人々の間では、後ろ向きな気持ちで“コト”に浸ろうとする動きと、強大なコンピュータを駆使してでも“コト”を凍結しより効率のよい“モノ”を作ろうとする動きとが、混在する形で進むと思われる。

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自分のなかに自分はいない

2015年02月17日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 生物学者福岡伸一氏の『芸術と科学のあいだ』という新聞連載コラムを毎回楽しく読んでいる。その第44回に「無くしたピースの請求法に感心」と題した記事があった。

(引用開始)

 私の学生時代の知人にジグソーパズルの愛好家がいた。大判のパズルを―それはたぶん数百とか数千ものピースからなっていたと思われるが―飽きもせず長い時間をかけて完成させる。彼の言い分がふるっていた。「あと一個、というところまで作っておいて、最後のピースは彼女に入れさせてあげるんだ」。当時の彼に、彼女が本当にいたとしても、彼女はそのプレゼントをどれほど喜んだことだろう。今となってはよくわからない。
 ところで、こんなジグソーパズルのファンにとって困ったことが起こりうる。一生懸命作り上げたパズル、いよいよ完成という段になって、ピースがひとつ足りない。そもそもピースは小さい。どんな隙間にでも入り込みうる。部屋中を必死に探しまわってもどうしても見つからない…このような悪夢のような事態は実際、しばしば発生することのようだ。
 その証拠に、ジグソーパズルメーカー、やのまん(東京・台東)のホームページにこんなサービスの告知を見つけた。
 「弊社では無料で紛失したピースを提供させて頂いております」
 でも、いったいどのようにして無くしてしまったものを相手に知らせることができるのか。次の一文がふるっている。
 「請求ピースのまわりを囲む8つのピースをはずして、崩れないようラップ等でくるむ」(ラップ等で、というところがまたいい)=写真は同社ホームページの一部
 私はこれを読んで心底感心した。生物学の根幹を統べる原理がここにあますところなく表現されている。生命を構成する要素(ピース)は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する。自分のなかに自分はいない。自分の外で自分が決まる。相補性である。ラップに包まれた8つのピースの中央におさまった真新しいピースがそっと返送されてきたら…このときこそ彼女は本当に至福を感じるだろう。

(引用終了)
<日経新聞 12/14/2014、写真は省略>

この「生命を構成する要素(ピース)は単独で存在しているのではない。それを取り囲む要素との関係性の中で初めて存在しうる。状況が存在を規定する」という生物学的認識論を、社会と個人の関係にまで敷衍したのが、去年私が執筆した電子書籍『あなたの中にあなたはいない』という小説である。

 勿論、人はパズルのピースとは違い「知覚」を持っている。その意味で、人には自分のなかに(知覚する)自分がいるわけだが、社会と個人との関係において重要なのは、そういう自分ではなく、「至高的存在」としての他者、恋人だったり友達だったり、両親だったり兄弟だったり、恩師だったりする相手=「あなた」を大切に思う気持ちであり、それが自分の存在を規定しているのではないか、というのがこの小説のテーマだ。

 西洋近代が用意した民主政治・自由経済という制度は、「個人」の自立を促した。その過程で、社会の掟や繋がりが古いものとして捨て去られ、機会の平等と弱肉強食が肯定された。複眼主義の、

A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想

という対比でみれば、世界全体がAの側に引き寄せられていったということだ。複眼主義的には、Aは都市の原理、Bは自然の原理でもあり、社会としては常に両者のバランスが取れていなければならない。

 西洋近代は、陋習を否定する一方、自然を慈しみ、過去とのつながりも大切にしなければならないとする、カウンター・バランスも用意していた(ウィリアム・モリスのアーツ&クラフツ運動など)。しかし、「二つの透明性と西欧近代文明」の項などで述べたように、20世紀、そのカウンター・バランスの方は、アメリカの大量生産・輸送・消費システムに凌駕され、力を失ってしまった。

 21世紀に至り、Aの側に偏った社会が、実は、地球環境の破壊と結果の不平等という、当初の期待とは真逆の惨状を齎すことが見えてきた。とくに地球環境破壊は人類(だけでなく全ての生物)の存在そのものを脅かす。前回「回転と中心軸のトポロジー」の項でも触れた“モノからコトへ”のパラダイムシフト(略してモノコト・シフト)とは、A偏重社会への反動として生まれた、Bの側への感心の高まりである。

 その意味で、「自分のなかに自分はいない。自分の外で自分が決まる」という原理、「自分は環境によって生かされている」という気付きは、これからますます輝いてくると思われる。私が『あなたの中にあなたはいない』(とそれに先行する『僕のH2O』)という小説で訴えたかったのはこのことだ。

 どんな話しなのか興味のある方は、『茂木賛の世界』から目次を辿ってアクセスしてみて戴きたい。参考までに、小説の<あとがき>を転載しておこう。

(引用開始)

 以前「KURA(くら)」という信州の情報誌を読んでいたら、ガラス造形作家松原幸子さんの「Book of the sky」という作品が目に留まった(2011年7月号)。素敵な装丁本のなかに、白い雲が浮かぶガラスが納められでいる。

 記事によってその年の5月、安曇野のギャラリー・シュタイネで作品が展示されたことを知り、その冬、私はギャラリーを訪れた。幸い幾つか作られた「Book of the sky」のうちのひとつがまだギャラリーに残っていたので、さっそく購入、いま私のhome/officeに飾ってある。この小説のインスピレーションは、その作品と、ギャラリー・シュタイネのご主人との四方山話から生まれた。

 小説のテーマの方は、2007年以来掲載を続けているブログ「夜間飛行」の「“わたし”とはなにか I~III」(2011年7月)や「流域思想 I~II」(2010年5月)などの記事による。

 仕事などで幾度も訪れた松本という街、“わたし”の存在論や、流域の三層構造(奥山・里山・家の奥)、「Book of the sky」というガラス作品、安曇野のギャラリーの佇まいなどが脳裏で融合し、いわば即興的にこの短編が出来上がった。

茂木賛
7/21/2014

(引用終了)

 尚、福岡伸一氏の著書については、これまで「動的平衡とは何か」の項などでも紹介してきた。併せてお読みいただけば嬉しい。

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回転と中心軸のトポロジー

2015年02月10日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 「文庫読書法(2014)」の項で、日本人は抽象的な外来思想を具象的な環境に落とし込み土着信仰に習合させてきたと書き、前回「郷愁的美学」の項で、日本の男性性思考(螺旋運動)は場所に牽引されて抽象的な高みに飛翔し続けないと書いた。これは複眼主義の、

A 主格中心−所有原理−男性性−英語的発想
B 環境中心−関係原理−女性性−日本語的発想

という対比において、日本の男性性が日本語的発想に引き寄せられ、Bの側に偏っていることを指し示している。

 場所中心の日本人は何にでも入りたがる。風呂に入り、学校に入り、会社に入る。主格中心の西洋人は風呂をtakeし、学校でlearnし、会社でworkする。日本語では、地図上の自分の位置は「現在地」という矢印で示すが、英語では「you are here」という矢印で示す。これらの事例は以前「いつのまにかそうなっている」「現在地にあなたはいない」などの項で取り上げた。

 日本文化のバランスがBの側に偏っていることは、人々がその場の空気に流されやすく、個人の自立を前提とする近代民主政治制度下において財欲と名声欲(greed)に騙されやすかったり、官僚(buraucracy)の跋扈を許したり、弁証法が得意とする発見・発明にあまり成果がない等の欠点を齎す一方、男性性思考が場所に留まることで、日本各地でさまざまな場所・環境に応じた文化が育ち、それが内への求心性を保ったまま長く(江戸時代300年も)維持されるという良さも齎したといえるだろう。勿論、西洋でも場所・環境に応じて多様な文化が生まれたが、それぞれの場所における内への求心性よりも外への遠心性が勝ったことで、一神教と相俟って帝国が出現し、やがて植民地主義が始まったと思われる。

 これをトポロジカル(位相的)に見ると、西洋の螺旋運動が、おとぎ話の「ジャックと豆の木」に出てくる豆の木のように、どんどん高みに飛翔し続けやがて雲を劈いて天の高みに達するのに対して、日本の螺旋運動は、「鳴門の渦潮」のように、同時多発的に複数の場所で起るといえる。螺旋の周期性は離散的(デジタル的)、迷宮の内部は連続的(アナログ的)だ。これは「デジタル回路とアナログ回路」の項で述べた対比とも整合する。

A 男性性−デジタル回路思考主体−螺旋的な遠心性
B 女性性−アナログ回路思考主体−迷宮的な求心性

 「D/A変換とA/D変換」の観点から西洋と日本の男性性思考の違い見れば、西洋はプラトンとアリストテレス以来、弁証法を通して豆の木を登るようにまっすぐ上昇しながら迷宮を巨大化してきたのに対し、日本は、反転法を通して木々に絡まる蔦が横へ横へと広がり、そこ此処に迷宮の花を咲かせてきたといえる。明治以降、西洋の猿真似で豆の木もどきを天に伸ばそうとしたが、その贋物の木は途中で見事に折れてしまったことは記憶に新しい。

 21世紀に入って、豆の木と巨大な迷宮はグローバリズムに形を変えて地球を覆おうとしている。しかし一方で、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)が始まり、西洋においても、豆の木から下りる人々が増えてきた。モノコト・シフトとは、20世紀の大量生産システムと人の過剰な財欲による「行き過ぎた資本主義」への反省として、また、科学の還元主義的思考による「モノ信仰」の行き詰まりに対する新しい枠組みとして生まれた、(動きの見えないモノよりも)動きのあるコトを大切にする生き方、考え方への関心の高まりを指す。

 世界各地で、地域社会を見直しスロー・フード、スロー・ライフを提唱する人々が増えてきた。だからこそ、そこ此処に迷宮の花を咲かせてきた日本の出番の筈なのだが、戦後もアメリカから借りた高度成長という豆の木の枝を登り続けてきた日本は、各地に小銀座や小京都などという「迷宮もどき」を作ってきたのだった。これからは、地域文化を見直して本当の迷宮を探そうではないか。

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D/A変換とA/D変換

2014年10月14日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 デジタルとアナログの話を続けたい。以前「脳は自然を模倣する」の項で、

(引用開始)

 人の脳は、目や耳から入ったデジタルな情報を、「意味」というアナログ情報に変換するが、これは、原子や分子を集めて「形態」を生成する自然界の模倣ではなかろうか。構造としてのデジタルと、機能としてのアナログ。

 世界の本質はデジタルだが、自然界は、ゆらぎによって形態を生み出し、多様な階層性を作り出してきた。弁証法は、自然界の「階層性」の模倣だった(生物の階層性については以前「階層性の生物学」の項で触れたことがある)。それと先程の「合目的性」。人の脳は、このように、自然の様々な力を模倣しながら、都市や文明を作り出してきたようだ。

(引用終了)

と書き、

「形態形成」=D/A変換
「階層性」=弁証法
「合目的性」=予測とコントロール

というアナロジーを記したが、この話と、先回の「デジタル回路とアナログ回路」の対比、

A、a系:デジタル回路思考主体
B、b系:アナログ回路思考主体

とは、どのように繋がるのだろうか。尚、D/A変換とは、デジタル情報からアナログ情報への変換のことを指す。

 まず、外部からの音や光といったデジタル情報は、人の脳に持続的に入力されることで、(自然が形態を生成するように)「一塊(かたまり)の意味のあるアナログ情報」にD/A変換される。これは、デジタル回路やアナログ回路以前、脳への信号入力段階の話だ。

 「一塊の意味のある情報」とは、たとえば、風のそよぎ、川のせせらぎ、星のひかり、といった形象を思い描けばよい。人は、そのアナログ変換された一塊に、心地よさ、切なさ、雄大さといった「文脈的な意味」を見出す。それが、先回の項でみた直感(脳のアナログ回路)の働きであり、それは世界をコトとして見ているわけだ。

 一方、風のそよぎ、川のせせらぎ、星のひかり、といった形象を、言葉や数字などのデジタル情報にA/D変換し計算するのが、脳のデジタル回路だ。風速何メートル、水の流体速度や揚力、光の速度と明るさの測定などなど。それは、世界をモノとして分析しているのである。

 その上で人は、「階層性」=弁証法に則って、このD/A変換とA/D変換のループを脳のなかで何度も回す。デジタル回路とアナログ回路の交互使用。男性性と女性性の相互作用。3の構造(頂点性・安定性・発展性)による螺旋状展開。そういう作業の果て、やがて人は、世界に新たな「意味」を見出す(発明・発見する)。この新たな意味の発明・発見は、おそらく、自然の「合目的性」と合致した法則下にあるものと思う。

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デジタル回路とアナログ回路

2014年10月07日 [ 非線形科学 ]@sanmotegiをフォローする

 『「無邪気な脳」で仕事をする』黒川伊保子・古森剛共著(ファーストプレス)という本を読んでいたら、「男性性と女性性」に関して、黒川さんの次のような指摘があった。

(引用開始)

黒川 そうなのです。脳のなかにはニューロン(生体細胞のなかで情報処理用に特別な分化を遂げた細胞)の連携をつかさどる軸索の長さによって、脳全体を使った直感に根ざした回路と、論理とか、空間認識をするような非常にメカニックな回路の二つが入っている。そして、誰でもその二つを使えます。前者が長い軸索の回路で、後者が短い軸索の回路です。便宜的にいえば、前者はアナログ回路で、後者はデジタル回路ということができます。
 ところで、女性と男性では脳梁の太さの違いによって、これらの回路を使う割合が異なります。女性のほうが全体回路、つまりアナログ回路のほうを頻繁に使うし、男性の場合は、どちらかといえば、短い軸索のデジタル回路をもっぱら使用して、直感に根ざした全体回路はときどき使うという特徴というか、違いがあります。

(引用終了)
<同書 44ページ>

脳には、その一部を使う論理的思考(デジタル回路)と、全体を使う直感的思考(アナログ回路)とがあり、男性性は主にデジタル回路思考、女性性は主にアナログ回路思考に表れるという指摘だ。

 複眼主義では、これまで、

A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)−「公(Public)」
A 男性性=「空間重視」「所有原理」

B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(大脳旧皮質及び脳幹主体の思考)−「私(Private)」
B 女性性=「時間重視」「関係原理」

という対比を論じてきたが、A、a系における大脳新皮質主体の思考は、その右脳の空間認識力や左脳の論理力を局所的に突き詰めて使うという意味でデジタル回路的であり、B、b系における大脳旧皮質及び脳幹主体の思考は、脳全体を感覚的に使うという意味でアナログ回路的であるから、

A、a系:デジタル回路思考主体
B、b系:アナログ回路思考主体

という特徴をここに追加措定しても良いかもしれない。改めて言うまでもないが、複眼主義における二項対比は、「どちらかというと」ということで、冗長性を前提としつつそれぞれの特徴を強調表示している。各項目に「主体」「的」「中心」「性」といった言葉が添えてあるのはそういう意味だ。この場合、A、a系がまったく身体の働きを必要としないという意味ではなく、またB、b系がまったく大脳新皮質を使わないという意味でもない。あくまでも「特徴的には」という意味で(これらの二項対比を)理解していただきたい。

 さて、人の脳に入ってくる外部からの情報は持続的だから、女性性の脳がアナログ回路的思考を主体とするということは、その情報をそのまま直感的に(増幅・減衰)処理するということであり、それは、入力と出力とが常に1対1対応する線形的なモノ的世界よりも、1対1対応しない非線形的なコト的世界を把握するのにより力を発揮すると思われる。

 そして、男性性の脳がデジタル回路的思考を主体とするということは、外部からの持続的情報を一旦止めてA/D変換し細分化するわけだから、世界を線形的なモノの集積として分析するのにより力を発揮するに違いない。

 このことは、「二つの透明性と複眼主義」や「同期現象」の項で措定した、

A、a系:世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる(線形科学)
B、b系:世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

という対比と整合してくる。

 そもそも、デジタルとアナログ、線形と非線形の特徴は、

デジタル=離散的
アナログ=連続的

線形=入力と出力がリニアに対応する(「1+1=2」)
非線形=入出力がリニアに対応しない(「1+1=1」もしくは「1+1=多数」)

ということで、ふたつは別次元の話だが、人の脳が世界をどう見るかという点において、

A、a系:デジタル回路思考主体
A、a系:世界をモノ(凍結した時空)の空間的集積体としてみる(線形科学)

B、b系:アナログ回路思考主体
B、b系:世界をコト(動いている時空)の入れ子構造としてみる(非線形科学)

といった連動性が見えてくるわけだ。複眼主義の「特質を様々な角度から関連付け、発展させていくこと」という考え方の面白い一例だと思う。

 ただし、複眼主義で度々論じているように、片方を突き詰めるだけでは総合的なバランスを逸してしまう。コト(動いている時空)の解明に、デジタル回路思考も必要なことは指摘するまでもない。もともと、ゆらぎや同期といった非線形的な現象は、自然のバイナリー・システムから生まれてくるのだから。

 これからも、デジタル回路とアナログ回路、脳の両方を十全に使って、モノコト・シフト時代の様々な形象(形態と現象)を考えたい。

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