「レトリックについて」および「レトリックについて II」の項で、レトリックとは、公的な文章表現において論旨を上手く伝えていくための技術・型であること、近代日本語は明治以降の「漢文脈からの離脱」と「言文一致」によってレトリックをあまり使わないようになってしまい、その結果今の日本人の公的な思考そのものが、総じて散文的で写実性で説明するだけのものになってしまったこと、について述べてきた。
また前回「ヤンキーとオタク」の項で、近代社会では個人の精神的自立が必要だが、日本人の多くは日本語の特性もあって、その自立を果たしていないと書いた。ここでいう「日本語の特性」とはレトリックばかりを指すのではない。「議論のための日本語」や「議論のための日本語 II」などで述べてきた日本語の「環境依存性」をも含めた、包括的な話だ。
近代日本語の「環境依存性」は、言文一致運動によって、もともとプライベートで自然環境依存的だった「和語」に公的文章が全面的に寄りかかったため、公的思考にも和語の影響が広がったものと考えられる。和語は自然音をベースとした母音語であり、与えられた自然環境を中心に置いた「なる」「入る」構文がその基本である。「そうなる」「山に入る」などなど。良くいえばシンプルで柔軟だ。言文一致運動が、話し言葉である「和語」に寄りかかるのは当然といえば当然だが、それが「漢文脈からの離脱」と並行していたため、明治以降の近代日本語は、レトリックもなにも全て「和語」の構造の元に展開されるようになってしまった。ここが重要なポイントだと思う。それまでの日本語は、公的文章にはもっと複雑な漢文脈が使われていたのである。
「公(Public)」における「なる」「入る」構造の文章は、人工的組織をも、あたかも自然物のように勘違いさせる危険性を帯びている。だから気を付けなければならない。会社や国家などにおける規則や法律には、それを決めた主体(取締役会や議会)があるのだが、「その規則(法律)は今日からこうなりました」と書かれると、あたかも自然の力が働いてそう変わったかのように錯覚してしまう。「○○会社に入社しました」というと、契約によってその組織で働くようになっただけなのに、なぜか会社との一体感が生まれ、やがて「巨人軍は永久に不滅です!」といった気持ちにまでなってしまう。この辺のことは、「いつのまにかそうなっている」と「現在地にあなたはいない」の項で、作家片岡義男氏の本を参考にしながら敷衍したことがある。
これからの日本語において、レトリックを強化すると同時に、言葉の環境依存性に対しても自覚的であるためには、近代西欧語を勉強することが役に立つと思う。「社交のための言葉」や「レトリックについて」の項でその文章を引用した作家丸谷才一氏は、『文章読本』(中公新書)のなかで、
(引用開始)
厭がられるのを承知の上で思ひきつて書きつけると、近代西欧語のうち何か一つをいちおう勉強すること。これはずいぶん面倒な話だが、われわれが対応しなければならない現実の性格から言つて、仕方がないことなのだ。
(引用終了)
<同書 354ページ>
と書いておられる。以前私も「バイリンガルについて」の項で、
(引用開始)
バイリンガルであれば、このブログで見てきた、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
という対比がよく実感できるのではないだろうか。
(引用終了)
と書いた。バイリンガルならずとも、英語などの西欧語を勉強すれば、言葉の階層性や、精神的自立の基にある「存在のbe」について理解が深まる筈だ。それはまた、日本語のレトリック強化にも繋がるに違いない。
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