『養老孟司の大言論 II 嫌いなことから、人は学ぶ』養老孟司著(新潮文庫)を読む。先日「足に靴を合わせる」の項で、『養老孟司の大言論 I 希望とは自分が変わること』の内容を一部紹介したが、このII巻目では、感覚世界(差異)と内部世界(同一性)を巡って、金や言葉、モノに関する考察が進められる。
ここで興味深かったのは、ヒトが考え出した「同一性」という内部世界は、コラムという小さな機能単位が繰り返される大脳新皮質の特徴に基礎づけられているのではないか、という仮説である。どいうことか、その部分を引用しよう。
(引用開始)
ヒトが動物として特異な社会を作るのは、脳が大きくなったからである。なかでも大脳新皮質が拡大した。その新皮質は、コラムという小さな機能単位を繰り返す。おそらくそのことが「同じ」というはたらきを生み出したと思われる。感覚でいうなら、コラムはどこから入力を受けるかが違うだけで、コラム自体の機能がそれぞれ異なるわけではない。それが「同じ」というはたらきをおそらく基礎づけている。
(引用終了)
<同書 137ページより>
ヒトの意識には二面ある。一つは、外界に開かれている面で、主に感覚世界を司る。もう一つは、内部に閉じられた面で、主に精神世界(内部世界)を統率する。養老氏によると、前者は「違う」という世界であり、後者は「同じ」という世界だという。動物一般が持つ感覚世界は、外界にあるものを個物として把握するからすべてが違って捉えられるのに対して、ヒトだけが持つ(と思われる)内部世界は、違ってみえるそれらのものに共通性(同一性)を見出すことに始まるからだ。
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
という複眼主義の対比でいえば、感覚世界はB、b系であり、内部世界はA、a系といえるだろう。
以前「脳は自然を模倣する」の項で、ヒトが観察から「意味」を紡ぎだすのは、自然界が離散的なエレメントから「形」を生成する様の模倣ではないかと書いたけれど、大脳新皮質のコラム形態と、「同じ」というヒトの意識形態の類似性は、脳のはたらきが自然を模倣するという点で似たような現象に思える。
何かと何かを「同じ」と考えるヒトの意識は、「同じ」から外れる「差異」を分類する(できる)ようになり、やがて、それを俯瞰した「階層性」の認識へと辿り着く。「差異」とは「違う」ということだから、ヒトは「何かが違うぞ…」と呟きながら、一度動物的直感に立ち帰るわけだ。そしてまた「同じ」に戻って、今度はさらに「階層性」を認識する。階層性を自然の観察で考えれば、大脳新皮質におけるコラムの6層構造を思い起こすのも良いかもしれない。そして、「階層性」の認識から「弁証法」の発明までは指呼の間だ。
自然の観察から、「同じ」と考える意識や合目的性の起源、階層性(弁証法)の由来、デジタル・アナログ変換と「意味」の生成、などについて考えるメタレベルでの人間科学は、モノの研究からコトの研究へ、と移り変わるべき21世紀のscienceにおける重要な分野だと思う。
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