前回「社交のための言葉」の項で、ビジネスには社交が欠かせないと書いたけれど、ビジネスには議論も欠かせない。ここでいう議論とは、(理念実現の為の)戦略、施策や計画を練る際、様々な意見を持ち寄ってその内容を弁証法的に高めてゆく対話を指す。これは、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
という複眼主義の対比でいえば、(社交と同じく)A、aの領域の話である。
いまの日本語で行なう議論は、最後に人格の批判や中傷に墜する場合が多い。それは、「足に靴を合わせる」の項で述べたように、公共の場であっても、日本(語)人は自分の靴=環境を中心にものごとを考えてしまい、議論の相手に対して、その人がどのような意見を述べているかではなく、どのような靴を履いているか(どのような環境にいる人なのか)が主たる関心事となってしまうからである。先日の都知事選挙の議論でもそれが顕著だったように思う。
森林太郎(号:鷗外)の作品に「杯」(明治43年発表)という短編小説がある。西洋人の「自立精神」といったものを、温泉宿に集う少女たちを主人公にして印象的に描いた作品で、『山椒太夫・高瀬舟』(新潮文庫)の中に収められている。このブログの姉妹サイト「茂木賛の世界」(短編小説館「日本文学」の中)にも載せておいたので覗いてみていただけると嬉しい。これを読むに、鷗外も、日本人の過剰な環境中心の考え方に問題を感じていたに違いない。
議論の場においては、その人がどのような環境にいるかではなく、その人の意見がどのようなものかが重要であり、年齢、性別、上司・部下、先輩・後輩、といった靴=環境は関係ない。
この問題に関して私が(「新しい日本語」の項で)提出した日本語改善案は、公共の議論において、環境に依存する人称代名詞を、非環境依存的な表現にしてはどうかというものだ。
よく知るように、日本語の人称代名詞は、概ねその場の関係性に応じて、自分は「わたし」「僕」「おれ」「手前」、相手は「あなた」「君」「お前」「きさま」、第3者は「彼・彼女」「彼ら」「やつら」など沢山存在する。それまで「わたし」と言っていた人が急に「おれ」と言い出したら、互いの関係性が変わったことを示す。それまで「あなた」と呼ばれていたのが急に「お前」「きさま」と呼ばれ始めたらなにかが変わったことが分る。
私的な場所ではそれも良いが、公共の議論では、呼び方・呼ばれ方が変わっただけで、その人の意見そのものが変わったように受け取られてしまう。それまで「わたしはこう考えます」と言っていた人が急に「おれはこう考えるんだよ」と言い出したら、まわりの人は引くだろう。いまの日本語のままでは、意見の内容が、人称名詞に隷属化してしまうわけだ。
だから、公共の議論の場では、
自分は「1」
相手は「2」
第3者は「3」
と称することにしてはどうかというのが私の提案だ。自分の意見は「1の意見は」、相手の意見は「2の意見は」、第3者の意見は「3の意見は」という具合。これは、
「1」=「I」
「2」=「you」
「3」=「he、she、they」
と英語(の人称代名詞)を数字に置き換えただけのことだが、たとえば「君の案のままでは不十分だけれど、わたしの案と併せれば良くなりそうだね」というより、「2の案のままでは不十分だけれど、1の案と併せれば良くなりそうだね」と言ったほうが、案や意見が人間関係に縛られたものではなく、公のテーブルに載った客観物であると見なしやすいのではないだろうか。いかがだろう。
まあ、これは拙い初歩的な提案かもしれないが、近代日本語に、公(Public)の場で使う新しい言葉を加えてゆくことは、これからの日本の発展とって非常に大切なことだと思う。
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