『養老孟司の大言論 I 希望とは自分が変わること』養老孟司著(新潮文庫)を読んだ。この「大言論シリーズ」は、季刊雑誌『考える人』に連載された氏の文章を纏めたもので、2011年に3冊の単行本として出版された。今回その第1冊目が文庫化された訳だが、このあと続けて、3月に『養老孟司の大言論 II 嫌いなことから、人は学ぶ』(新潮文庫)、4月には『養老孟司の大言論 III 大切なことは言葉にならない』(新潮文庫)が出版されるという。
本書で特に面白かったのは、「ただの人」、「エリートとはなにか」、「個人主義とはなんだ」と題された、最後の3章だ。ここで養老氏は、戦後日本社会の基本最小単位が、「家」から「個人」になったこと(とその余波)について論じておられる。
氏は、戦後日本が、新憲法に基づくいわゆる民主主義の下で、共同体の基本最小単位を、それまで長く培われてきた「家」から、アメリカ流の「個人」に変更したことを指摘の上で、
(引用開始)
ところがわれわれの社会は、そこで「個人」を立て損なった。立てたつもりだということは明らかだが、千年以上も続いた社会制度を、紙切れの上の文字だけで変えることができると思っているのは、言説のみで生きている人たちか、かつてのシロタ女史のような若者だけであろう。家制度は消えたが、代わりの個人がそこまで育っていない。
そもそも個人とは、永続する個性を前提としている。日本の世間が個性を認めるかというなら、まず認めはすまい。日本の伝統的思想からいうなら、個性は永続するどころではない。この国は諸行無常で、無我なのである。面倒になったら「靴に足を合わせろ」と、いまでもいうに違いない。
永続する個性を保証したのは、じつは一神教の霊魂不滅である。その霊魂不滅を要請したのは、聖書に書かれた最後の審判である。霊魂が不滅でなければ、最後の審判に意味はない。(後略)
(引用終了)
<同書 192−193ページ>
と述べる。尚、シロタ女史とは、敗戦国日本を支配した連合国最高司令官総司令部(GHQ)民政局に所属し、新憲法の作成に関与した米国籍の若い女性だ。
このブログでは、「複眼主義のすすめ」の項などで、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
といった二項対比を論じている。この対比で考えると、養老氏のいう「靴に足を合わせろ」という思想は、靴=環境ということで、B、bの日本語的発想そのものということができる。一方の「永続する個性」は、キリスト教を源とする西欧近代化を支えた思想で、A、aの英語的発想と重なる。
敗戦後の日本は、「近代家族」の枠組みによって、「モノ経済」による高度成長を遂げてきた。近代家族の特徴は、
1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族構成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家庭領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族
といったものだが、日本人の多くは、高度成長期の公共領域において、靴=環境を、「家制度」から会社などの「組織」に置き換え、「巨人軍は永久に不滅です!」といったメンタリティで、(個人の自立など考えることなく)会社のために一心不乱に働いてきた。
日本が、敗戦からこれほど早く「モノ経済」の繁栄を勝ち得たのは、この「靴に足を合わせる」メンタリティのお陰だったということができるだろう。その一方で、戦後の家内領域は、核家族化して縮小した。
しかし、大量生産・輸送・消費社会の限界が見え始めた今の日本は、「コト経済」による、共存型の成熟社会への変換を迫られている。そこでは、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術といった新しい産業システムが大切になってくる。それを支える家族のあり方も「新しい家族の枠組み」の項で述べたように、
1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族
といったものになってくる筈だ。そうなると、「靴に足を合わせる」だけではなく、「足に靴を合わせる」発想も必要になってくる、というのが私の見立てだ。すなわち、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳(大脳新皮質)の働き−「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体(大脳旧皮質及び脳幹)の働き−「私(Private)」
のバランスを大切に考えること、「公(Public)」の領域では、自立した個人として、自分の足に靴の方を合わせ、「私(Private)」の領域では、共生する仲間と一緒に、靴に足を合わせつつ生きる、という「複眼主義」的考え方が大切になってくる、ということだ。
日本人は、一神教抜きで、(公共領域において)「個人」を立てなければならない。その難しいチャレンジを、今後も皆さんとご一緒に考えたいと思う。私が考える方策のひとつは、「新しい日本語」の項で述べたように、明治以降の近代日本語を鍛えることである。同項では次の3点を挙げた。
1.公(Public)の場で使う言葉の創造
2.初等教育の改革
3.不思議な日本語の見直し
他にもあると思うので、ご意見などを戴けたらと思う。
尚、養老氏は、戦後の「家制度」崩壊の問題点を、『日本のリアル』(PHP新書)における岩村揚子さんとの対談でも指摘しておられる。それについては、「近代家族 III」の項を参照していただきたい。
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