ゲームや競技などの勝負事を弁証法の一つとして考える。どういうことか説明しよう。弁証法とは、テーゼ(一つの意見)とアンチテーゼ(反対の意見)が止揚されてジンテーゼ(新たな見識)へと到るプロセスを指すわけだが、それは、「何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる」という発展構造として捉えることが可能だ(「3の構造 II」)。
一方、勝負事とは、AとBとが一定のルールの下で戦い、新しい結果(勝者と敗者)が生まれるプロセスだが、戦いの場、自然環境、両者の力量の差、戦術や気魄、応援、勝者の喜び、敗者の落胆などのプロセス全体を俯瞰すれば、勝負事もまた、何かと何かが作用しあって新しい何かが生まれる、という発展構造(弁証法)として見ることが出来る筈だ。これはプロ、アマを問わない。
上の二点を言い換えれば、勝負事は、「本物を見抜く力」の項で述べた、人の時空と外部の時空とが作用しあって新しい何かが生まれる、という“コト経済”の一種であり、弁証法は、コト経済のプロセスを跡付ける“メタ・ロジック”である。
さて、弁証法には証明すべき元の命題が必要だ。コト経済における命題とは何か。それは、「政治と経済と経営について」の項で述べた、その集団の「理念と目的」ということになろう。社会集団の理念と目的の完成は、数式の証明のようにストレートには行かないだろうが、それは、社会の到るところで波のように起こる“コト”の一つひとつが、弁証法ロジックを伴って、少しづつ高みに達していくというダイナミズムの内に成される。
そう考えると、勝負事にも固有の合意された「理念と目的」がある筈だ。なぜその勝負を行なおうとするのかという「理念」と、その勝負によって何を達成したいのかという「目的」。
弁証法における命題と同じくらい、勝負事において達成されるべき「理念と目的」は大切な筈なのだが、往々にして、勝負事においては結果(勝ち負け)だけがクローズアップされるケースが多い。皆、「理念と目的」の方を忘れてしまうのだ。勝つ為の努力は勿論大切だが、それだけに目を奪われていると、「理念と目的」の方を忘れてしまう。
弁証法において、止揚される意見は、新たな「見識」の中に包摂される。止揚された意見は、けっして排除される訳ではなく、高みに達するために積み重ねられた礎の一つとしてロジックの内に存在し続ける。別の言い方をすれば、止揚される意見がなければ、新たな見識も生まれ得ないということだ。
社会においても、起こった“コト”はなくならない。歴史はなくならない。歴史に学ぶという意味は、そこで起こった“コト”全てを俯瞰してそこから教訓を得るということである。
勝負事においても、敗者がいなければ勝者は居ない。だから、敗者とその戦いのプロセス全体は、勝者の内に包摂されなければならないと思う。勝負を観戦するときは、まずその「理念と目的」をしっかり見極めて、さらに、敗者とその戦いのプロセス全体が、掲げられた理念に達するために積み重ねられた「礎」なのだということを忘れないようにしたいものだ。
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