前回「経済の三層構造」の項で述べたように、モノコト・シフト時代には、人々は「コト経済」に対して親近感を抱く。しかし「コーポラティズム」を武器として利益の収奪を図る1%のgreedとbureaucracyにとって、それは好ましいことではない。だから彼らは、コト経済の「擬態」を作り出して、自分たちが作り出したシステム(行き過ぎた資本主義)に、人々を繋ぎとめようとする。
「認知の歪みを誘発する要因」の項で述べたように、greedとbureaucracyは、人々を認知の歪みに陥れようと数々の罠を編み出すわけだが、コト経済の「擬態」もその罠うちの一つである。
コト経済の「擬態」とは何か。コト経済とは、生命の営みを含めた人と外部との相互作用全般を指す。その擬態とは、贋物の人と外部との相互作用である。「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」の項の最後に書いたように、「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっていることだ。人と外部の相互作用とは、人の固有の「時空」と外部の「時空」とが相互に作用しあって、その結果新しい何かが生まれるプロセスである。時空の共振、魂の交感といってもよいだろう(人と人との相互作用は「生産と消費」の関係にある)。しかし、贋物には新しい何かを生み出す力がない。上辺だけの人間関係、書割の風景、味のしない食物、感動を呼ばないイベントなどなど。
そのコトが本物か贋物かを見破るには、そのコトによって自分が感動するかどうかじっと見ればよい。感じればよい。贋物には人を真に感動させる力がない。だから、しばらく体験していれば本物との違いが分かるはずだ。
greedとbureaucracyは、昔から“コト”の持つ力を利用してきた。パンとサーカス、スリー・エス(セックス・スポーツ・スクリーン)などなど。それらの“コト”は初めから贋物の場合もあるが、宗教行事、スポーツ・イベント、コンサートなど、本物の感動を与えるコトが起こっている話を聞きつけて、それを換骨奪胎し、贋物にすり替えて使い回すケースも多い。コトには人を陶酔させる麻薬のような作用があるから、それによって認知の歪み(思い込み)が生じると、そのあと贋物にすり替えられても気付かないことがあるのだ。だから陶酔させるような“コト”に対しては自戒して、陽性感情への過度の傾斜に歯止めをかけなければならない。参考までに、「認知の歪み」のパターンを再掲しておこう。
二分割思考(all-or-nothing thinking)
過度の一般化(overgeneralization)
心のフィルター(mental filter)
マイナス思考(disqualifying the positive)
結論への飛躍(jumping to conclusions)
拡大解釈と過小評価(magnification and minimization)
感性的決め付け(emotional reasoning)
教義的思考(should statements)
レッテル貼り(labeling and mislabeling)
個人化(personalization)
それにしても、本物の評価は難しい。上記したように、往々にして本物が贋物にすり替えられたりするからでもあるが、本物を感じることができるかどうかは、自分の側に問題がある場合もあるからだ。いくら周りで素晴らしいコトが起こっていても、自分の側にそれを受け止めるだけの力(時空)がなくては、ネコに小判、馬の耳に念仏状態になってしまう。
またコトに対する感動は、ある人にとっての感動が、別の人にとっては日常というケースもある。それぞれの人生経験、興味のあり様などによって感動のあり様は違ってくる。いくら風光明媚なところでも、そこに長く暮らしていれば慣れてしまって感動が薄れてしまう。いくら美味しい食べ物でもいつも食べていれば何も感じなくなってしまう。逆に、贋物だとわかっていてもその中のある部分に感動することがある。
昨今の贋物・擬態は、技術進化によって以前よりも格段に本物に似せて作られ、演じられる。概ね、その活動に「理念と目的」が無い(見えない)場合は、贋物と考えて良いと思う。日々自己研鑽に努め、本物を見抜く力を養って「コト経済」を満喫する一方、greedとbureaucrcyの嘘には騙されないよう心掛けたいものだ。
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