前回「里山システムと国づくり」の項で、政治と経済、経営について、その定義を簡単に書いたけれど、ここで今一度それぞれの定義について、「複眼主義」の観点から整理しておきたい。
「経済」とは、自然の諸々の循環を含めて、人間を養う社会の根本の理法・摂理である。経済とは、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかない。
「政治」とは、社会集団における利害の合理による調停・調整であり、そのプリンシプル(principle)は、集団において制度的に合意された「理念と目的」に基づくものでなければならない(プリンシプルとは、原理・原則・信条のこと)。
「経営」とは、集団の「理念と目的」の実現に努めること。通常、国家経営を統治(governance)、企業経営を(management)と呼ぶ。経営には、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
両方の能力が求められる。前者は「戦略」や「政治」能力であり、後者は主に「工程改善」能力である(詳細はさらにカテゴリ「起業論」を参照のこと)。
以上の定義から、「里山システムと国づくり」で述べたことを再度確認しよう。
まず大切なことは、経済が、人間集団の存在システムそのものであり、通貨のやり取りはそのごく一部でしかないことだ。このブログでは、カテゴリ「生産と消費論」のなかで、生産とは「他人のための行為」全般を指し、消費とは「自分のための行為」全般であると述べてきたが、それはこの考え方に基づくものだ。「マネー資本主義」が、いかに偏ったものかということでもある。
次に大切なのは、国の経営には「理念と目的」が必要だということだ。20世紀の国の「理念と目的」は、日本の富国強兵など、モノ中心主義に沿った中央集権的なものだったと思う。21世紀のモノコト・シフト時代のそれは、多様な「コト」の起こる環境や場を守る、地方分権的な理念が入っていなければならない。「里山システムと国づくり」の項で述べたような重層的なプロセスによって練り上げられた「理念と目的」の作成が急務だと思う。今の内閣にそれが見えているとは思えない。議会が国家理念を検討しているとも聞かない。
最後に確認しておきたいのは、国の経営において、政治は万能ではないということだ。政治は、所詮、集団の利害の調整でしかない。政治は、経営の一部でしかない。国の「理念と目的」に基づいて、合理的な調整を行なえる者を「政治家」と呼び、greed(過剰な名声欲と財欲)によって調整を行なう者を「政治屋」と呼ぶ。
「外交」も政治であるから、日本の国づくりを里山から始め、里山同士が国を越えて繋がるとすれば、外交交渉も、そういった地方の連携の交通整理が主な仕事になるはずである。安全保障や通商条約などについても、地方の流域価値を重層的に集約した、その国の「理念と目的」に沿った形で交渉が進められなければならない筈だ。
いまの日本の議会や内閣には「政治屋」が多すぎる。そして、「理念と目的」の見えないままの国家経営。さらに、そもそも「理念と目的」を語る資格のない官僚が、そういうお粗末な政治屋を裏から操って、国家を運営(とても経営とは呼べない)しているという事態。これらが、今の日本の危機の本質だと思う。
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