“地方にこもる若者たち”阿部真大著(朝日新書)という面白い本を読んだ。本の帯には「地方都市はほどほどパラダイス 満員電車、高い家賃、ハードな仕事…… もう東京には憧れない」とある。まずカバー裏の紹介文を引用しよう。
(引用開始)
都会と田舎の間に出現した、魅力的な地方都市。若者が地方での生活に感じる幸せと不安とは―――?
気鋭の社会学者が岡山での社会調査を元に描き出す、リアルな地方都市の現実と新しい日本の姿。
(引用終了)
ということで、これは、新しい日本の社会を作る「若者の力」についての本だ。著者は、いまの岡山を次のように描く。
(引用開始)
容赦なく進行する郊外のモータライゼーション、国道沿いに並ぶ巨大な路面店やショッピングモール、シャッター通りが増え高齢化の進む旧市街、人口の減少に悩む過疎地域、縮小する製造業と拡大するサービス業、地域社会と切り離された「脱社会化」した若者たち、古き良き「戦後社会」の幻影にしがみつく年長世代、広がる貧困とそのなかでいよいよ閉塞していく近代家族。すべてが「どこかで見た光景」であった。
(引用終了)
<同書 208ページより>
以前私は「継承の文化」の項で、いまの日本社会の姿を「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」と描写したことがあるけれど、それとよく似た日本のどこにでもある(郊外の)光景だ。
「アッパーグラウンド」の項で述べたように、世界中でモノコト・シフトが進んでいるにも拘らず、今の日本の大人たちは「心ここに在らず」の状態のまま、大量生産・輸送・消費システムが作り出したこの寒々とした光景の中で暮らし、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政を許している。
しかし阿部氏は、今の若者たちの中に、新しい日本の社会を作るエネルギーが生まれているという。1990年代以降のモータリゼーションが生み出した巨大な路面店やショッピングモールは、若者たちに、地方特有のしがらみや因習から自由な「ほどほど」の都市空間を与えた。一方、(モノコト・シフトによる)近代家族の崩壊は、若者たちが反抗の対象とすべき「大人の世界の安定性」そのものを無化してしまった。社会の安定性の崩壊は、画一的な生き方の押し付けから若者たちを解放する一方、多様な価値観の渦の中に若者たちを放り出すこととなった。著者は、その先に「都会と田舎の間に出現した新しい社会」(同書のサブタイトル)の可能性を見る。
本書に引用されている“ダイバシティ・マネジメント――多様性をいかす組織”谷口真美著(白桃書房)によると、多様性への組織の対応には、
第一段階 「抵抗」 違いを拒否する <抵抗的>
第二段階 「同化」 違いを同化させる・違いを無視する <防衛的>
第三段階 「分離」 違いを認める <適応的>
第四段階 「統合」 違いをいかす・競争的優位性につなげる <戦略的>
といった四段階があるという。著者は、この考え方を多様な価値観の渦の中に放り出された若者たちの生き方に応用し、一部の若者たちは第四段階の「統合」の段階に進んでいるという。そして、
(引用開始)
現在「こもっている」若者は、「同化」ではなく「分離」の段階にあるのではないか。社会の多様性を認識したうえで「こもる」という選択をしているのであれば、彼らは既に「統合」に向けた準備ができていると言えるかもしれない。そう考えると、準備ができていないのは「こもっていないで外に出ろ」と声高に叫ぶような、社会の多様性に鈍感で未だ「同化」の段階にある「大人」たちではないか。「新しい公共」が社会の多様性を前提とする「統合」によって構築されるのであれば、「同化」の段階にある大人たちより彼らのほうが「新しい公共」に近い場所にいると言えるだろう。
(引用終了)
<同書 199ページより>
と述べる。ここでいう「新しい公共」とは、以前「自立と共生」の項で引用した、2009年鳩山政権所信表明演説にある「人を支えるという役割を、『官』と言われる人たちだけが担うのではなく、教育や子育て、街づくり、防犯や防災、医療や福祉などに地域でかかわっておられる方々一人ひとりにも参加していただき、それを社会全体として応援しようという価値観です」といった内容のことで、モノコト・シフト以降の日本社会の「公共」のあり方と言ってよいだろう。
「心ここに在らず」の大人たちが大量生産・輸送・消費システムが作り出した寒々とした光景の中で、惰性のまま、財欲に駆られた人々による強欲支配と、無責任な官僚行政を許し続けるのであれば、新しい日本社会の構築は、「統合」に向かう若者たちに期待すべきだ。これからも若者たちの勉強や起業を応援したい。
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