このブログでは、これまでモノコト・シフト後の社会について、「新しい家族の枠組み」「新しい住宅」などの項でその特徴を探ってきたが、ここでは、前回の「会話と対話」の項を踏まえて、「新しい日本語」について考えてみたい。他にもあるだろうが、まず以下3点について述べる。
1.公(Public)の場で使う言葉の創造
カテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで書いてきたように、今の日本語は、前回見た二項対比、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視
のうち、Aの領域における構文や語彙が不足していると思う。だから、普段使うBの領域の日本語はそのままにしておいて、公(Public)の場で使う言葉を、幾つか新しく作ってみてはどうだろうか。
その一つは、存在としてのbeである。「XXはYYである」という等価のbe、説明のbeとは違ったかたちで、これを簡潔に表現できないものだろうか。
もう一つは、環境に依存する人称名詞、私や僕、手前や俺、あなたや君、お前やきさまといった言葉を、非環境依存的に表現したいということである。たとえば数字ではどうだろう。自分は1。相手は2。第三者は3。自分の意見は「1の意見は」、相手の意見は「2の意見は」第三者の意見は「3の意見は」という具合だ。
2.初等教育の改革
平田オリザ氏は、その著書“わかりあえないことから”(講談社現代新書)の中で、これからの初等教育では、「国語」という科目をやめて、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けるべきだと述べている。その部分を引用してみよう。
(引用開始)
私は初等教育段階では、「国語」を完全に解体し、「表現」という科目と「ことば」という科目に分けることを提唱してきた。
「表現」には、演劇、音楽、図工はもとより、国語の作文やスピーチ、現在は体育に押しやられているダンスなどを含める。(中略)
「ことば」科では、文法や発音・発声をきちんと教える。現在、日本は先進国の中で、ほとんど唯一、発音・発声をきちんと教えない国となっている。口の開き方や舌のポジションをしっかり教えていくことが、話し言葉の教育の基礎となる。
初等教育の過程では、この「ことば」科の中に、英語や地域の実情に応じて、韓国語や中国語を入れていけばいい。そうすれば、子どもたちは日本語をもう少し相対的に眺めることができるようになるだろう。
(引用終了)
<同書 59−60ページ>
このような改革によって、子どもたちが「会話と対話」の両方をきちんと学ぶことが出来るようになれば素晴らしいと思う。
3.不思議な日本語の見直し
今の日本語には不思議な表現が沢山ある。たとえば「入力」と「出力」。英語ではinputとoutputだが、これは何かを出し入れすることであって、「力」とは無関係だ。中国語では「輸入」と「輸出」というらしいが、そのほうが正しく、日本語のように「力」という言葉をつけると、forceが加わっているような誤解が生じる。「酸性とアルカリ性」、「酸化と還元」の両方に使われている「酸」という言葉も分かりにくい。酸性はacidityだからこれで良いが、酸化の場合はoxidizationなのだから、「酸素化」とした方が良いのではあるまいか。「入力」、「出力」、「酸化」のような不思議な日本語は、どんどん正しい言葉に直していくべきだ。
勿論、日本語の改革は一朝一夕には行かないだろう。真摯な研究と広汎な議論が必要だ。以上はほんのたたき台に過ぎないが、他人任せにしておいて良い訳ではあるまい。これからもいろいろと考えてゆきたい。
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