“わかりあえないことから”平田オリザ著(講談社現代新書)という本を有意義に感じながら読んだ。このブログでは、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
という対比を掲げ、両者のバランスを大切にする生き方を「複眼主義」と呼んで推奨しているが、平田氏が指摘する、日本人における「対話」能力の必要性は、この考えと重なるように思う。どういうことか説明するために精神科医の斉藤環氏による書評を引用しよう。
(引用開始)
矛盾を抱えた「コミュ力」偏重
著者の経歴は興味深い。10代で世界一周自転車旅行を決行して体験記を出版し、90年代には「静かな演劇」ブームを牽引したかと思えば、最近ではコミュニケーション論の専門家として名をなしている。
いっけんばらばらに思われるその活動の軌跡も、本書を読めば、むしろ一貫したテーマの追求であったことが見えてくる。
かつて旧守的な日本の演劇界に苛立っていた青年は、今わが国の国語教育の抱えた大問題に直面している。著者のいう「ダブルバインド」問題である。
それは簡単に言えばこういうことだ。明治以降に急ごしらえで整備された国語教育は、タテマエとしては欧米型のコミュニケーションを教えようとしつつも、ホンネの部分では「和を乱さず」「空気を読」み、互いに察し合うような“コミュ力”を求めている。この矛盾を温存したまま、日本社会はどんどん“コミュ力”偏重社会になりつつある。
私たちは今なお、わかりあえない他者を前提とした「対話」よりも、気心の知れた者どうしの「会話」ばかりを大切にしてはいないか。そのことが多くの子供たちに生きづらさをもたらしてはいないだろうか。
著者はこうした状況を打開すべく、空気を読み合う「協調性」よりも、他者と交渉するための「社交性」の大切さを強調する。そこで必要となるのは、複数の役割を主体的に“演じ分ける”能力であるという。この指摘には膝を打った。
震災以降、ばらばらになってしまった私たちの心は、そうなって初めて、対話に向けて開かれた。ここから先も、決して楽な道のりではない。せめて辛い時には、著者の口ぐせを真似てみよう。「みんなちがって、たいへんだ」と。
(引用終了)
<朝日新聞 4/21/2013(フリガナ省略)>
平田氏による「会話」と「対話」の定義は、
「会話」:価値観や生活習慣などが近い親しい者同士のおしゃべり。
「対話」:あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値観が異なるときに起こるその摺りあわせなど。
ということで、これをこのブログの対比と関連付ければ、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き(大脳新皮質主体の思考)―「公(Public)」
「対話」−社交性の重視
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)―「私(Private)」
「会話」−協調性の重視
となるだろう。平田氏が指摘するように、今の日本語に欠けているのは、公(Public)的な「対話」のための語彙なのだ。
また、平田氏のいう「対話」と「社交性」の重視は、このブログで挙げているモノコト・シフト以降の「新しい家族の枠組み」の価値観、
1. 家内領域と公共領域の近接
2. 家族構成員相互の理性的関係
3. 価値中心主義
4. 資質と時間による分業
5. 家族の自立性の強化
6. 社交の復活
7. 非親族への寛容
8. 大家族
とも整合する。「対話」と「社交性」は、これから海外で飛躍しようとする起業家にとっても、欠かすことのできない能力である。
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