<言葉について>
上野で“夏目漱石の美術世界”展を観た。漱石と東西絵画との繋がりを探る展覧会だが、なかでも近代日本語文学創始者の一人としての夏目漱石と、19世紀末のターナー、ウォーターハウス、ミレイらイギリス絵画との出会いが興味深かった。漱石がロンドンに暮らしたのは今から111年ほど前の1900年〜1902年のことだ。もう111年と云おうか、まだ111年と云おうか。
その展覧会のカタログに、漱石の“我輩は猫である”という日本語の英訳があるのだが、それは“I am a cat”となっていた。以前「存在としてのbeについて」の項で、
(引用開始)
ところで、この日本語の「我輩は猫である」の英訳だが、ネットで検索すると、“I am a cat”という訳が多いようだ。“I am the cat”では、「その猫」というニュアンスが強くなりすぎるからだろう。いずれにせよ上の議論を踏まえると、この訳は「説明」としてのbeに重きを置きすぎているように思える。漱石は、もっと「存在」としてのbeの部分を強調したかったのではないだろうか。「これは」という訳があればお寄せいただきたい。
(引用終了)
と書き、電子書籍評論集“複眼主義 言語論”のなかで、その英訳を“The cat am I”ではどうか、と書いたが、今回の展示会のカタログではネット検索どおり“I am a cat”となっていた。
英語のbe動詞には、基本的に(1)存在のbe、(2)等価のbe、(3)説明のbe、と三種類ある。たとえば、
(1) の例:I think, therefore, I am.
(2) の例:My name is Bond, James Bond.
(3) の例:She is so pretty.
(1) の訳:我思う、故に、我あり
(2) の訳:私の名前はボンド、ジェームス・ボンドである。
(3) の訳:彼女はとても可愛い。
といったところだ。
近代日本語におけるbe動詞の基本形は、“何々は何々である”、もしくは“何々は+形容詞”という言い方になるわけだが、これでは(1)存在のbeだけはどうやっても表現できない。だから(1)だけは訳が古文のままなのだ(無理やり近代日本語にすれば「私は考える、だから私は存在する」という具合に<存在>という言葉を補って訳すしかない)。
漱石の“我輩は猫である”というタイトルは、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが強いと思う。だから、(2)等価のbeや(3)説明のbeというよりも、まさに(1)存在のbeのような気がする。
とすると、“I am a cat”ではあまりに(2)ないしは(3)に寄り過ぎた英訳で、“自分は人間ではなく、猫という存在である”というニュアンスが出ていないと思う。“I am a cat”を逆に日本語に訳すと、“我輩は猫である”といった重い感じではなく“私は一匹の猫だ”くらいの(等価のbe、説明のbe的な)軽い感じになってしまうのだ。私ならば“The cat am I”とでもしたいと考えたのはこういうわけだ。
あらためて「存在のbe」の重要性について考えてみたい。前回「アッパーグラウンド II」の項で、
(引用開始)
今の日本語はProcess Technologyには向いているが、Resource Planningには向いていない。英語は逆にResource Planningには向いているが、Process Technologyにはあまり向いていないというのが私の持論だ。勿論今の日本語を鍛えることはできる。
(引用終了)
と書いたけれど、近代日本語がProcess Technologyばかり得意で、Resource Planningに向いていない理由の一つは、この「存在のbe」をそのまま訳せない(日本語の語彙にない)ことにあると思う。
「存在のbe」は、人が公(public)の場(domain)に自立して存在することを表す動詞だから、それが日本語の語彙に無いということは、極端に言えば、日本人は(民主政治や権利と義務が生じる)公の場には存在せず、(世間体や馴れ合いと苛めが生じる)私(private)空間にばかり住んでいるということになる。
この存在のbeは、物事を俯瞰するResource Planningに必要な言葉である。この言葉をそのまま訳せないところに、夏目漱石たちが創始した(そして今我々が使っている)近代日本語の最大の欠陥があると思う。人が「存在」しないところに、民主政治も権利も義務もなにも「存在」し得ないのだから。
話が逆転するのは、私(private)空間にしか住んでいない日本人は、“草枕”で描かれるような自然との一体化はとても得意である。リーダーシップでいえば、Process Technologyの方の世界だ。この能力が実は世界の環境破壊を救うかもしれない。ここに今の日本語の限界と、逆にその存在価値があるような気がする。
この記事へのコメント
コメントを書く