英語に“give and take”というフレーズがある。直訳すれば「与え、そして受け取る」となるが、日本では「お互いさま」と訳されることが多い。以前「迷惑とお互いさま」の項で、日本人は「お互いさま」よりも「人に迷惑をかけないようにすること」の方を優先するが、その背景には日本語の「環境依存性」があると論じ、
(引用開始)
アメリカに暮らしていて、「人さまに迷惑をかけるんじゃありません」といった意味のフレーズを聞いたことがない。そういえば日本には「見て見ぬ振り」「長いものに巻かれろ」「波風を立てるな」「仕方がない」など、社会や人に迷惑をかけないための慣用句が多い。
(引用終了)
と書いたことがある。この日本語の環境依存性については、同項や電子書籍“複眼主義 言語論”などをご覧いただきたいが、今回はこの“give and take”について、話を敷衍してみたい。
ジョン・レノンの“Nobody Loves You(When You are Down and Out)”という歌に“I scratch your back, and you scratch mine”というフレーズが出てくる。これは「君の背中を掻いてあげるから君も僕の背中を掻いてね」ということで、“give and take”の別の言い方として(英語圏では)時々使われる。仕事で同僚に何かを頼まれたら、手伝ったあとでこんどは自分の仕事を手伝って貰う場合などなど。
英語圏のこの二つのフレーズ、よく見ると、どちらもまず何かを与える、助けることが先にあって、そのあとで、受け取る、手伝ってもらうというステップになっていることが分かる。日本語の「お互いさま」では、どちらが先か分からないけれど、英語では「与える」ことの先行が明示されているわけだ。
先日上梓した「複眼主義入門」のなかで、生産(他人のための行為)と消費(自分のための行為)について、
(引用開始)
人は日々、世界とやり取りをしています。世界に何かを働きかけたり、世界から何かを取り込んだり。複眼主義では、人が世界に働きかけることを「生産」(他人のための行為)、世界から何かを受け取ることを「消費」(自分のための行為)と呼びます。
人は日々刻々、生産と消費とを繰り返しています。生産は、他人のための行為ですから、人から世界へ向けた“Give”活動です。消費とは、自分のための行為ですから、人が世界から何かを取り込む“Take”活動となります。(中略)
人生において、人は生産から始めるのか、消費から始めるのか、という根本的な問題について考えて見ましょう。
人は死ぬことは選べますが、生まれることは選べません。人は好むと好まざるとに関わらず、社会の一員として、この世に生まれてきます。それは「自分のため」ではありません。このことはとても重要なことです。
人は、自分以外、家族や社会、もっと大きくいえば「世界」のために生まれてきます。だから生まれてくることが、その人が最初におこなう生産活動だと考えることが出来ます。
人の活動は、消費(自分のための行為)ではなく、生産(他人のための行為)からスタートします。
(引用終了)
<同書 4−5ページより>
と書いたけれど、生産が“Give”で消費が“Take”であってみれば、“give and take”というのは、複眼主義的にも、ことの順番として正しい。
“give and take”でもうひとつ重要なことは、その価値中立性だ。価値中立性とは、要するに「“give”と“take”するものの価値は互いに等しい」ということである。ジョンの作曲パートナーであるポール・マッカートニーが、“Abby Road”の最後“The End”という曲の中で、“and in the end, the love you take is equal to the love you make”(そして結局、君が受ける愛は君が齎す愛に等しい)と歌ったように。“love you make”を「君が齎す愛」と訳して良いかどうかちょっと迷うところだが。
日本人は「人に迷惑をかけない」ようにすることの方を優先するので、「お互いさま」というと、どうしても「互いに迷惑を掛け合う」といった否定的なニュアンスが強いように思う。しかし、英語圏では“give and take”というものの考え方は、社会の常識として定着している。仕事や政治・経済のむずかしい話においても、交渉のルールとして存在している。
“give and take”の基本精神は、もともとは、愛情に基づく「贈り物」の交換なのだろう。そう考えるとこのフレーズ、宗教的な教義としても興味深いが、単純に考えて、相手の背中を掻くことと、自分の背中を掻いて貰うことの価値は互いに等しい。だから交換が成り立つのである。考えてみれば、モノの金銭的価値は「脳の働き」が作り出したものに過ぎない。人の成す行為に「利益」や「余剰」などというものはもともと存在しない。「都市」の効率を基準にしたとき、はじめて人はモノに客観的な金銭価値をつけるようになった。だから、人生における生産(他人のための行為)と消費(自分のための行為)の合計は、“the love you take is equal to the love you make”と同様、互いに等価なのである。
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