“日本農業への正しい絶望法”神門善久著(新潮新書)といういささか刺激的なタイトルの本を有意義に感じながら読んだ。本の紹介文をまず引用しよう。
(引用開始)
「有機栽培」「規制緩和」「企業の参入」等のキーワードをちりばめて、マスコミ、識者が持て囃す「農業ブーム」は虚妄に満ちている。日本農業は、良い農産物を作る魂を失い、宣伝と演出で誤魔化すハリボテ農業になりつつあるのだから。JAや農水省を悪者にしても事態は解決しない。農家、農地、消費者の惨状に正しく絶望する。そこからしか農業再生はありえないのだ。徹底したリアリズムに基づく激烈なる日本農業論。
(引用終了)
<同書カバー裏より>
ということで、この本は日本の農業の問題点を率直に抉り出す優れた研究である。
このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それらを牽引するのは、フレキシブルで判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると主張している。
戦後の高度成長時代を支えてきたのは、遠くから運ばれる安い原材料と大きな組織によって可能となった大量生産・輸送・消費システムだったが、高齢化が進む今の日本はすでに安定成長時代に入っている。当然のことながら、これまでと同じ産業システムでは立ち行かない。
勿論これからも大量生産が日本から無くなることないだろうが、新しい価値や文化を育むのは、多品種少量生産の方に違いない。「近代家族」の崩壊、「新しい家族の枠組み」の必要性、いま世界規模で起こっている「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)も、日本の多品種少量生産への追い風になるだろう。
詳細は本書をお読みいただきたいが、神門氏はこの本の中で、日本農業の本来の強みである「技能集約型農業」の復活を主張しておられる。技能集約型農業は、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術という四つの産業システムに適合するだけでなく、まさに地域に密着したスモールビジネスであり、これからの日本を牽引すべき職業であると云えるだろう。
神門氏はまた、「技能集約型農業」による雇用について次のように述べる。
(引用開始)
かつての高度経済成長期の工業化の局面では、人口が都市に集中し、大量消費・大量生産を進めることで経済成長を遂げた。しかし、脱工業化時代の今日にあっては、首都圏一極集中をあらため、地方文化を育てて日本社会を多様化する方が有利だ。脱工業化時代では、ソフトの開発能力が国力の浮沈の鍵を握る。ソフト開発では画一的発想の打破という創造的破壊が不可欠であり、そのためには、つねにさまざまな価値観や文化を社会に共存させておく必要がある。農作業のあり方は地域の気象や地形を色濃く反映するため、農業者は地域への意識が強くなりがちで、地域社会の担い手としても好適だ。したがって、技能集約型農業による農村雇用の創出は、農業のみならず、国内の文化の多様性を通じて、脱工業化時代の日本経済全般の活性化に役立つ。
(引用終了)
<同書 103−104ページより>
ということで、これは、山岳と海洋とを繋ぐ河川を中心にその流域を一つの纏まりとして考える「流域思想」とも親和性が強い。
だが一方、先日「新しい家族の枠組み」の項で、
(引用開始)
日本社会は今、「近代家族」の崩壊を目の当たりにしながらも、糸の切れた凧のように彷徨っている。それは、敗戦直後アメリカに強制された理念優先の新憲法のもと、長く続いた経済的高度成長が、まともな思考の停止と麻薬のような享楽主義とを生み、環境に同化しやすい思考癖(日本語の特色)と相俟って、財欲に駆られた人々による強欲支配と、古い家制度の残滓に寄りかかった無責任な官僚行政とを許しているからである。
(引用終了)
と述べたように、今の日本人のメンタリティーや思考法が、このまま変わることがなければ、「技能集約型農業」も絵に描いた餅でしかない。
今の日本を覆う、農地利用の乱れ、消費者の舌の劣化、放射能災害の放置、うわべだけの農業ブーム、ヨソ者排除という社会の悪しき風習などなど、真の「技能集約型農業」の確立には、まだ幾多のハードルを乗り越えなければならない。それを踏まえて、神門氏はこの本を“日本農業への正しい絶望法”というタイトルにされたのだろう。まず必要なのは日本人の「精神的自立」なのである。
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