先日新宿の「朝日カルチャーセンター」で、「密息と倍音」と「音響空間」の項で紹介した中村明一氏の講演を聴く機会を得た。中村氏とは中高(私立武蔵中学・高校)が同窓だったことがわかりご招待いただいた次第。当日は、中村氏による倍音に関する講義のあと、「鶴の巣籠」と「薩慈(さじ)」の独奏、深海さとみ氏と黒川真理氏による箏や三絃、唄もあり、久々に日本独自の音楽を堪能した。
日本独自の音楽といえば雅楽もそうだ。私は尺八を聴きながら、三島由紀夫(本名平岡公威)の短編「蘭陵王」の一節を想起した。富士の裾野の営舎で、Sの横笛を学生達と聴いている場面だ。
(引用開始)
私は、横笛の音楽が、何一つ発展せずに流れるのを知った。何ら発展しないこと、これが重要だ。音楽が真に生の持続に忠実であるならば、(笛がこれほど人間の息に忠実であるように!)、決して発展しないということ以上に純粋なことがあるだろうか。
(引用終了)
<「蘭陵王」(新潮社)258ページより(新かな・新字体に変更した)>
中村氏の尺八演奏には「循環呼吸法」が使われる。循環呼吸法とは、吹きながら同時に息を吸い、まったく息継ぎをしないで吹き続ける呼吸法のことで、この部分を聴いていると、音楽が発展しないというよりも、さらに、一瞬時が止まったような感覚に襲われた。
時の流れは環境変化によって知覚されるから、どこか山奥の静かなところでじっとしていると時が止まったように感じられる。しかし、耳を澄ませばせせらぎの音や鳥の声が聞こえたりして、人は改めて時の流れを知覚するわけだ。循環呼吸法によって奏でられる音は、ときにそのまま変化なく持続するから、時が止まったように感じられるのだろう。
尺八を聴いた翌日、私は講演会場で買い求めた中村氏のCD“虚無僧尺八の世界 薩慈”(DENON)をかけながら、数日前に京橋で観た“ドビュッシー、音楽と美術”という美術展のカタログを見ていた。そういえば、三島由紀夫にはドビュッシーの“沈める寺院”を思わせる“沈める瀧”という題名の小説があった。“沈める瀧”のことは、「長野から草津へ」の項で触れた岩下尚史著“ヒタメン”にも出てくる。
美術展のカタログの中に、ドビュッシーの音楽と浮世絵の影響について書かれた文章があったので、ふと思いついて(このような聴き方はあまりしないのだろうが)、ドビュッシーの交響詩“海”のあとに、中村氏のCDにある“心月”という静かな曲をかけてみた。このブログでは、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き
という二項対比を論じているが、ドビュッシーの音楽が、Aの観点から「海」という自然を、五線譜によって知的(印象的)に描いているのに対し、中村氏の音楽は、Bの観点から「月」という自然を、息を通して身体の内側から描き出している。“海”が終わり“心月”が始まると、海のざわめきの上に、静かな月が煌々と照る様を観ているようで、尺八の音がことのほか深く心に染み入ってきた。
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