前回、前々回と、「近代家族」の限界とそれに代わる新しい枠組みの必要性について、主に街づくりの観点からみてきたが、このことを食生活について見たのが、“日本のリアル”養老孟司著(PHP新書)という本の第一章である。この本は、
(引用開始)
「本当の仕事」をしている4人と考える。
「家族の絆」の実状 岩村楊子
耕さない田んぼ 岩澤信夫
ダム、震災、牡蠣(かき) 畠山重篤
森林を合理的に救う 鋸谷(おがや)茂
(引用終了)
<同書 帯の紹介文より>
ということで、養老氏とそれぞれの人との対談集であり、そのうちの第一章が、岩村楊子氏との対談「現代人の日常には、現実がない」である。
岩村氏には、“変わる家族 変わる食卓”(勁草書房、中公文庫)などの著書があり、今の日本家族の平均的な食生活の実態はそれらの本に詳しい。岩村氏は対談で次のように述べる。
(引用開始)
十数年調査してきて、やはり家族がそれぞれますます「自分」を大切にし、個を優先するようになっていると感じています。食卓にもそれははっきりと表れていて、家族が家にいても同時に食卓に着かず、たとえ一緒に食卓を囲んでも違うものを食べる「バラバラ食」、さらには一日三食も崩れて、みんな自分のペースで好きな時間に勝手に食べる「勝手食い」も増えています。「バラバラ食」や「勝手食い」の家では、親は子供が何を食べたのかも知らなかったり、無関心になっている。
(引用終了)
<同書 19ページ>
前回も引用した「近代家族」の特徴は、
1. 家内領域と公共領域の分離
2. 家族成員相互の強い情緒的関係
3. 子供中心主義
4. 男は公共領域・女は家内領域という性別分業
5. 家族の団体性の強化
6. 社交の衰退
7. 非親族の排除
8. 核家族
といったことである。岩村氏の調査は、これらの限界をよく示している。養老氏は、日本社会について次にように述べる。
(引用開始)
そもそも、高度成長期に若い世代の多くが地方から東京に出てきたのは、「絆」というややこしい人間関係を断ち切るためでもありました。
戦後、民法改正で家制度がなくなりましたが、その影響が残っていたときは、人々はまだ理屈抜きで故郷と結びついていました。(中略)
ところが、今ではお盆や正月に帰る故郷がない人が増えています。それはどういうことかというと、結局のところ、日本人は戦後、絆をお金に変えてきたんですね。
昔は、仕事もしないでブラブラしている人間が親戚にいても、みんなで助け合ってなんとか食わせていました。それが今では、親戚を頼れなくなったので、それぞれが保険に入ったり、行政の福祉サービスを受けたり、あるいは生活保護を受けるしかなくなっています。
そのような社会の中で、途方に暮れている人もいるはずですよ。社会はどんどん個にバラけていきましたが、日本にはアメリカ風の自助の精神はありません。戦後の新憲法は、独立した家族が集まって集団をつくり、国家を運営していくという理想像を描きましたが、日本人の中では自助の精神はあまり育たず、伝統的な「長いものには巻かれろ」式の考えかたでやってきたのですから、「これからは個として生きろ」といきなり言われても、どう生きてよいのかわからない人は多いはずなんです。
(引用終了)
<同書 23−24ページ>
養老氏の言葉は、日本の近代家族が初めから内包していた問題点をよく言い表している。日本人の思考法の基には勿論「日本語」がある。日本語については、このブログでもカテゴリ「言葉について」や「公と私論」などで論じているので参照していただきたい。
この本は、岩村氏の他、不耕起栽培の岩澤信夫氏、「鉄と海と山の話」の項でも紹介した畠山重篤氏、森と木の研究所代表鋸谷茂氏との対談を収める。養老氏は岩澤氏との対談の中で、最近人々が自然と触れなくなったとし、
(引用開始)
僕はずっと前から「参勤交代を復活させるべき。都会の人は、たとえば一年のうち三ヶ月は田舎で暮らす、という制度を作ったらどうか」と主張してきました。
都会は、食料や木材などあらゆるものを供給する田舎がなければ成り立ちません。それはちょうど、身体がなければ頭が成り立たないのと同じことです。しかし頭はそうは考えたがりません。だから、身体という自然を使うことを覚え、外の自然に触れる機会をつくることが大切なんです。
(引用終了)
<同書 90ページ>
と述べておられる。
近代家族を超えた新しい枠組みの必要性は、街づくりばかりではなく、食生活や、そのほかの日常生活を含む、今の日本社会のあり方全体についていえるのである。
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