前回「自分でよく考えるということ」の項で、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き―「公(public)」
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き―「私(private)」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」
という対比を見、偏ることなく物事を考えるには、AとB両方のバランスが大切であると述べた。
このバランスを個人から社会全体に拡大して見ると、大量生産・消費社会は「所有原理」が支配的だから、公私に亘って「大脳新皮質主体の思考」(脳の働き)が優位に立つ社会だと思われる。戦後日本の高度成長期は、確かに、経済的・空間的拡張に価値を置いた“モノ”中心の思考が横溢した時代だった。それに対して、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」(略してモノコト・シフト)を迎えた今の社会は、「関係原理」に基づく「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」(身体の働き)が優位に立つ時代といえるだろう。
しかし一方、前項で、
(引用開始)
ただし同じ「大脳新皮質主体の思考」でも、(「母音言語と自他認識」の項で述べたように)日本語においては、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分に働かないという仮説がある。
(引用終了)
と書いたように、日本社会においては、「大脳新皮質主体の思考」が優位に立つ場合でも、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分働かないようだ。その為だろうか、「環境中心」の「日本語的発想」が政治やビジネスの世界にも侵食し、せっかく良いチャンスだった高度成長時代、社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が充分定着しなかった。
そして、本来公平であらねばならない「公(public)」の領域(政治やビジネスの世界)においても、個人の精神的自立が充分果たされぬまま、もたれあいや妬みあい、私有意識や非公開主義などが高度に構造化してしまった。今後も社会に「英語的発想」=「公(public)」の概念が根付かないままだと、それは是正されないことになる。
さらにモノコト・シフトの時代は、社会全体として「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」が優位に立つ時代である。従って、今のうちに「公(public)」の領域に「主格中心」=「英語的発想」をしっかり根付かせておかないと、社会全体がますます「私(private)」に偏っていってしまう危険性があると思う。
昨今の日本の政治やビジネスの世界を見るに、この傾向(もたれあいや非公開主義の高度な構造化)がさらに強まっているような気がするが、みなさんはどのようにお感じになっておられるだろう。「“シェア”という考え方」及び「“シェア”という考え方 II」の項で、本来「大脳新皮質主体の思考」が持つべき「精神的自立」の必要性をことさら強調したのは、そういう理由からなのである。
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