先日「1969年」の項で自分を振り返り、
(引用開始)
当時私は高校三年生、世界のことなど何も知らないくせに、受験勉強の振りをしながら吉本隆明の“共同幻想論”(河出書房)などを読む、生意気盛りの若者だった。
(引用終了)
と書いたけれど、私は当時から、多少偏ってはいたものの、何でも自分でよく考える習慣だけは物にしていたと思う。このブログではこれまで、
A Resource Planning−英語的発想−主格中心
a 脳の働き―「公(public)」
B Process Technology−日本語的発想−環境中心
b 身体の働き―「私(private)」
という対比を見、偏ることなく物事を考えるには、この両方を以ってバランスよく考える必要があると述べてきた。尚、ここでいう「脳の働き」とは、大脳新皮質主体の思考であり、「身体の働き」とは、身体機能を司る脳幹・大脳旧皮質主体の思考のことを指す(詳しくは「脳と身体」の項を参照のこと)。
若かりし頃の自分を省みるに、何でもよく考える習慣はあったものの、どちらかというと、「大脳新皮質主体の思考」に偏っていたように思う。「大脳新皮質主体の思考」は、客観的に状況を把握して物事を分析するのに必要だが、人に共感し環境を体感するには、「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」が重要である。前者を「頭で考える」と譬えれば、後者は「腹で考える」といえるだろう。歳を重ねるうちにこのことがわかってきた。例えば寅さんの映画は、腹で考えることが出来ないとなかなかその良さがわからない。
以前「複眼主義のすすめ」の項で、この対比に、
Α 男性性=「空間重視」「所有原理」
Β 女性性=「時間重視」「関係原理」
という別の対比を重ね合わせたことがある。人はそもそも性別によって、どちらかに偏りが出るのかもしれない。とすると、もともと男性性が優位な人は「女性性」=「脳幹・大脳旧皮質主体の思考」を、女性性が優位の人は「男性性」=「大脳新皮質主体の思考」をそれぞれ鍛え、バランスよく物事を考える力を養う必要があるということになる。
ただし同じ「大脳新皮質主体の思考」でも、(「母音言語と自他認識」の項で述べたように)日本語においては、自分と相手とを区別する「自他分離機能」が充分に働かないという仮説がある。英語や他の外国語の勉強を通して、この機能も上手く使えるようになることが大切である。
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