先日「“シェア”という考え方」の項で、“シェア”の時代にとって大切なテーマの一つとして、“モノからコトへ”のパラダイム・シフトを挙げた。今回はこのテーマについて掘り下げてみたい。まず同項からその部分を引用しておこう。
(引用開始)
シェアという「コト」の分析には、アフォーダンスや言語、エッジ・エフェクトや境界設計といった「関係性」の人間科学、免疫学(生物学)や気象学、流体力学や波動力学、熱力学といった「コトの力学」の応用が必要だと思われる。
(引用終了)
ここで述べたのは学問分野だが、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」はそれに留まるものではなく、ビジネスやアート、街づくりなどといった広範囲な社会現象として捉えることができると思う。街づくりに関しては、先日「場所のリノベーション」の項で、
(引用開始)
「三低主義」にせよ「場所のリノベーション」にせよ、これからの街づくりには、その街に住む人々や建築家の「場」に対する感度が問われているのである。
(引用終了)
と書いたように、建物という「モノ」自体よりも、「コトの起こる場」の力を大切にする考え方が重要になってくると思われる。
アートに関しては、“ミュージッキング”クリストファー・スモール著(水声社)という本が参考になるだろう。精神科医齋藤環氏の書評を引用する。
(引用開始)
“音楽というモノ”は存在しない。著者は断言する。あるのはミュージッキングなのだと。それは作曲家や演奏家の専有物ではない。リスナーも、ダンサーも、ローディーも、チケットのもぎりも、およそ音楽に関わるすべての人々は、ミュージッキングに参加している。
そう考えることで、音楽は一方的な鑑賞の対象であることをやめ、あらゆる“関係性”に開かれたパーフォーマンスとなる。この視点から、とあるシンフォニー・コンサートの成立過程が詳しく検討される。そこで何が起こっているのか。
ミュージッキングとは関係することだ、と著者は言う。それは「関係を探求し、確認し、祝う」ことなのだ。
音楽の精神分析が難しいのはなぜか。ようやくその謎が解けた。分析において重要なのは「否定」や「否認」だ。しかし音楽には「否定」がない。そこにあるのは祝うこと、すなわち存在の肯定なのである。
(引用終了)
<朝日新聞 10/30/2011>
このような「モノ」から「コト」への関心のシフトは、音楽だけではなく、他のアート全般についても云えるのではないだろうか。先日“「本屋」は死なない”という書籍について書いた「本の系譜」という考え方も、本という「モノ」から、系譜や繋がりという「コト」への関心のシフトを示している。
ビジネスの関しては、以前「仕事の達人」の項で紹介した、アップルの創業者スティーブ・ジョブズの創造性の法則の一つ、「製品を売るな。夢を売れ。」というフレーズを再度引用しておきたい。製品という「モノ」ではなく、夢や感動という「コト」を売ること。それがこれからのビジネスの中心的パラダイムとなるに違いない。
学問分野に戻れば、生物学において最近注目されている「エピジェネティクス」なども、遺伝子という「モノ」から環境と細胞との相互作用という「コト」への関心のシフトを示している。生物学者福岡伸一氏の昨年末の書評から、“エピジェネティクス”リチャード・フランシス著(ダイヤモンド社)に関する部分を引用しておこう。
(引用開始)
世界の成り立ちをどう捉えるか。それは、遺伝子万能論を脱しつつある生命観の問題についてもいえる。生物の姿かたちを変えるのは遺伝子上の突然変異だけではない。旧来の遺伝学(ジェネティクス)の外側(エピ)で生じている新しいパラダイムシフト。
(引用終了)
<朝日新聞 12/25/2011>
以上見てきたように、「“モノからコトへ”のパラダイム・シフト」は、“シェア”という時代コンセプトと手を携えて、ビジネス、アート、街づくり、科学など、多くの領域に広がっている。今後もこの現象について様々な角度から考えてゆきたい。起業のヒントが多く眠っている筈だ。
最後にもう一言付け加えておくならば、「コト」に関して重要なのは、そこには必ず固有の「時間と空間」が関わっているということだ。「モノ」においては、それが作られた固有の「時間と空間」は内部に凍結している。「コト」においてはそれが動いている。逆に云うと、自分が気に入った「時間と空間」に注目してゆけば、必ずそこで起こっている素敵な「コト」に出会うことができるということである。そしてまた、「モノ」であっても、自分が気に入った「モノ」をよくよく観察していれば、やがて、それが作られたときの「時間と空間」が解けて見えてくるかもしれないということでもある。
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