“これからの日本のために「シェア」の話をしよう”三浦展著(NHK出版)という本を内容に共感しながら読んだ。著者の三浦氏は、消費社会研究家、マーケティング・アナリストで、以前「街の魅力」や「新書読書法(2010)」などでも本を紹介したことがある。まず同書のカバー裏の紹介文を引用しよう。
(引用開始)
いま、消費や経済自体がシェア型になり始めている。かつそれが消費や経済を縮小させるのではなく、むしろ新たな方向に拡大する力を持ち始めている。
本書は、これからの日本社会にとって有効なシェア型の価値観や行動、そしてすでに拡大し始めたシェア型の消費やビジネスの最新事情についてのレポートである。
(引用終了)
三浦氏はこの本で、なぜ今の日本にシェア型の価値観や行動が必要なのかということについて、超高齢社会、コミュニケーション・共感の重視、エコ意識の拡大、情報化などから分析し、すでの始まっているシェア型の消費とビジネスについて、物のシェア、人のシェアの両面から具体的な例を挙げて丁寧に説明している。そしてシェアのコンセプトを、分配、分担、共感という三つのキーワードに込め、シェアの意味を、
私有 → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り → 分担
孤独 → 共感
といった「パラダイム・シフト」として示している。詳しくは同書を読んでいただきたいが、三浦氏がご自分でも、
(引用開始)
また本書は、私が郊外、団地、ニュータウン、都市、住宅、建築、家族、若者、私有、コミュニティなどについて過去ずっと考えてきたことが、渾然一体となっている。その意味では個人的にいささか感慨深いものがある。
(引用終了)
<同書 232ページ>
と書いておられるように、“シェア”は、安定成長社会の様々な事象の底に流れる根幹的な価値観と云えるだろう。
このブログでは、安定成長時代の産業システムとして、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環、新技術の四つを挙げ、それを牽引するのは、フレキシブルで判断が早く、地域に密着したスモールビジネスであると述べてきているが、分配、分担、共感をベースとする“シェア”は、多品種少量生産、食品の地産地消、資源循環といった産業システムの中心コンセプトであり、スモールビジネスの成立に欠かせない社会的価値観でもあると思う。
さて、“シェア”の時代にとって大切だと思われるテーマをいくつか挙げてみたい。
1. モノからコトへ
シェアという「コト」の分析には、アフォーダンスや言語、エッジ・エフェクトや境界設計といった「関係性」の人間科学、免疫学(生物学)や気象学、流体力学や波動力学、熱力学といった「コトの力学」の応用が必要だと思われる。
2. 生産と消費の相互性
このブログでは、他人のための行為を「生産」、自分のための行為を「消費」と呼び、ある人の「生産」は別の人の「消費」であり、ある人の「消費」は別の人の「生産」であると論じてきた。“シェア”型経済においては、これまでの大量生産/在庫販売システムから、少量生産/対面販売システムへと、その経済活動の中心がシフトしていくと考えられる。そしてこの少量生産/対面販売システムは、ある人の「生産」が別の人の「消費」であり、ある人の「消費」が別の人の「生産」であるという、「生産と消費の相互性」原理をより顕在化させるだろう。生産と消費の相互性について、「生産と消費について」の項から引用しておこう。
(引用開始)
「生産」(他人のための行為)と「消費」(自分のための行為)には、必ず相手が存在する。一対多である場合もあれば一対一ということもあるだろうし、「生産」がサービスではなく物(商品)の場合は在庫期間もあるだろうが、他人のための行為にはかならず受け手が想定されるし、自分のための行為にはかならずそれを与えてくれる人が居る。自然を満喫しようと思って山歩きをしたとしても、どこかに誰か、山道を整備してくれた人が居るはずなのだ。三つ星レストランのシェフが腕によりをかけて料理を作ろうとすれば、すばらしい素材を提供する多くの農家や酪農家が必要となる。オペラ歌手にはその技量を味わう観客が必要なのだ。
(引用終了)
このブログのカテゴリ「街づくり」の各項で取り上げてきたテーマは、みなそのような“シェア”型経済に根ざした活動(の諸相)である。
3. 精神的自立の必要性
“シェア”は、
私有 → 共同利用
独占、格差 → 分配
ただ乗り → 分担
孤独 → 共感
ということであるから、その前提として、個人の精神的自立が必要である。そうでないとメンバーの間にもたれ合いや依存状態が生じ、“シェア”のコンセプトそのものが成り立たなくなる。日本人(日本語)の環境依存性については、カテゴリ「言葉について」の各項でも論じてきたが、元一橋大学学長の阿部謹也氏は、その著書“「世間」とはなにか”(講談社現代新書)のなかで、日本人の環境(人間関係)依存性について、
(引用開始)
日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧(あいまい)なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。わが国には人権という言葉はあるが、その実は言葉だけであって、個々人の真の意味の人権が守られているとは到底いえない状況である。こうした状況も世間という枠の中で許容されてきたのである。
(引用終了)
<同書 30ページ>
と述べておられる。精神的自立の必要性については、カテゴリ「公と私論」の各項でも論じてきた。参照いただければと思う。
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