以前「継承の文化 II」の項で、
(引用開始)
「奥山は打ち捨てられ、里山にはショッピング・センターが建ち並び、縁側は壁で遮断され、奥座敷にはTVが鎮座する」という日本社会の典型的な姿は、明治以降我々が「三世代存在としてのあなた」「至高としてのあなた」について考えてこなかったことにその遠因があるということだ。両端の「奥」が忘れられ、それに伴って「街」が廃れてきたのである。
(引用終了)
と書いたように、昨今、日本の多くの地域で、優れた街並みが廃れてきている。20世紀型の大量生産・輸送・消費システムが、行き過ぎた資本主義を生み出し、それが人々に大切な「至高的存在」を忘れさせ、街並みが醜くなった。
都市の狭い道に立ちはだかる無粋なコンクリートの電柱、低く錯綜する無数の電線、隣接するビルの不ぞろいな境界設計、けたたましい騒音、けばけばしい原色の看板、放置された自転車などなど。問題は、多くの人がこのような街の景観に慣れてしまっていることだ。
以前「街のつながり」の項で、
(引用開始)
吉祥寺の魅力を示すI 歩ける、II 透ける、III 流れる、IV 溜まる、V 混ぜる、の5つのキーワードに共通するのは、街に在る様々なものが「繋がっている」という性格である。
(引用終了)
と述べたけれど、醜いものばかりが繋がっていても仕方が無い。
これからは、21世紀型の「多品種少量生産」「食の地産地消」「資源循環」「新技術」といった産業システムに相応しい、新しい街づくりが必要だ。
前回「不変項」の項で、「自分を確認できる優れた場所や物」の例として、
(引用開始)
たとえば、異郷に暮らす人にとっての一枚の懐かしい写真、求道者にとっての一冊の聖なる本、里に暮らす人々にとっての奥山、都会に暮らす人々にとっての駅前広場の一本の木、商店街の灯りなどなど。
(引用終了)
と書いように、「駅前広場の一本の木」や「商店街の灯り」などの優れた街並みの景観は、その町に住む人々にとって充分「自分を確認できる優れた場所や物」足り得る。
一度失われた街並みは一朝一夕に再生できない。しかし、以前「内と外」や「境界設計」の項で紹介した、信州・小布施の街並み修景のようなことが、他の地域でもできない筈はない。「水辺のブレイクスルー」や「流域社会圏」の項では、都市計画者や建築家による、新しい街づくりの試みを紹介した。我が家でもささやかながら、素敵な女性庭師の方と一緒に庭造りを続けている。そういう努力が、やがて街並みの記憶として、人々にとっての優れた「不変項」になっていくのである。
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