前回「“わたし”とは何か III」の項で、近親者や友人に見守られている自分の居場所について、
(引用開始)
ここでいう「居場所」とは、物理的な場所ではなく、人から見守られているという精神的な安心感のことである。(中略)この安心感があればこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。
(引用終了)
と書いたけれど、物理的な場所(物)であっても、優れたものは、充分精神的な「居場所」足り得る。たとえば、異郷に暮らす人にとっての一枚の懐かしい写真、求道者にとっての一冊の聖なる本、里に暮らす人々にとっての奥山、都会に暮らす人々にとっての駅前広場の一本の木、商店街の灯りなどなど。
「わたし」にとって身近なもの、身の回りに常にある物、環境の中にあって変わらない場所、自分を確認できる優れた場所や物は、「アフォーダンス」で云うところの「不変項」という概念に近い。“アフォーダンス―新しい認知の理論”佐々木正人著(岩波書店)から不変項について引用しよう。
(引用開始)
不変なテーブルの知覚を可能にしているのは、変形があらわにする対象の性質である。テーブル板の場合、知覚者の視点の移動によってさまざまな台形に変形するが、そのようにしてつぎつぎと現れる台形の四つの角と辺の関係には常に変化しない一定の比率がある。テーブルが正方形の場合と長方形の場合とでは、この四辺がなす「不変な比率」は異なる。この不変な比率が、テーブル面が正方形か長方形か、すなわちどのような「姿」であるのかを特定する。
ギブソンは、この変形から明らかになる不変なものを「不変項(インバリアント)」と呼んだ。
(引用終了)
<同書48−49ページ>
目まぐるしく変転する生活環境の中にあって、自分を確認できる優れた場所や物は貴重である。近親者や友人の存在とともに、そういった場所や物があってこそ、人は「至高的存在」に近づく作業に専念できるのだ。
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