前回「“わたし”とは何か」の項で、「わたし」と社会の関係を「公と私論」の観点から論じたが、今回は、「わたし」と社会の関係を、「生産と消費論」との関連で考えてみたい。
尚、このブログでいう「生産」とは、単にお金に換算できる仕事だけを指すのではなく、ボランティア活動などの「他人のためになる行為全般」を指す。「消費」とは、単に金銭的な消費行為だけでなく、食事、睡眠、休暇などの「自分のためになる行為全般」を指す。詳細はカテゴリ「生産と消費論」を参照のこと。
先日「自律神経と生産と消費について」の項で、
(引用開始)
多く場合、活動的な体調が「生産」の緊張を支え、リラックスした体調が「消費」の心理状態を支えている。従って、「生産」には交感神経優位の体調が必要で、「消費」には副交感神経優位の体調が必要といえる。すなわち、
「生産」:交感神経優位
「消費」:副交感神経優位
という対比が可能になるわけだ。勿論、どちらの自律神経が優位かということであって、「生産」には交感神経だけが使われるとか、「消費」には副交感神経だけが使われるということではないので念のため。
(引用終了)
と書いたように、「生産」は交感神経優位の理性的・統合的な活動であり、「消費」は副交感神経優位の感性的・分散的活動である。従って、
「生産」の司令塔は「脳の働き(大脳新皮質主体の思考)」
「消費」の司令塔は「身体の働き(脳幹・大脳旧皮質主体の思考)」
ということが出来るだろう。勿論、実際に働いたり休んだりするのは「わたし」の脳と身体両方である。
この「脳と身体」の双極性と「生産と消費」の対極性は、前者を横軸にとれば、後者は縦軸となる関係である。相関の詳細については、「縦軸と横軸」、「楕円と斜線分」、「上下のベクトル」の各項を参照していただきたい。
さて、前回、人は日々「至高的存在」に近づこうと努力するが、「わたし」自身はその人にとって「至高的存在」ではあり得ない、と述べた。このことを「生産と消費論」の観点からみると、「至高的存在」に近づくことは「生産」(他人のためになる行為全般)であり、「消費」(自分のためになる行為全般)では無いということである。そして、「至高的存在」に近づくことが人生の目的であるならば、人生は「生産」のためにあるということになる。
このことは、以前「生産が先か消費が先か」の項で、
(引用開始)
人はまずこの世に生まれてくる。そしてこの「生まれてくる」ことは決して「自分の為」ではありえない。人は何のために生まれてくるかと言うと、家族や社会の為に生まれてくる。このことは大変重要なことだ。
(引用終了)
と書いたことと整合する。
ここにおいて、人生の意味が構造的に明らかになる。人生の意味とは、少しでも「至高的存在」に近づき、それをさらに高めることに貢献することである。それが「生産」活動の本質であり、その活動を支えるために「消費」がある。そして、人は社会の中でこの二つの行為を繰り返している。ある人の「生産」は別の人の「消費」であり、ある人の「消費」は別の人の「生産」である。
人は「生産」(交感神経優位)と「消費」(副交感神経優位)とを繰り返しながら、「至高的存在」を目指す。それは、呼吸(吸気:交感神経調整、呼気:副交感神経調整)を繰り返しながら、山の頂を目指す登山家のようなものだともいえる。いや、登山とはそもそも人生のアナロジーなのだろう。「人はなぜ山に登るのか、そこに山があるから」と言う問答は有名だが、人はなぜ「至高的存在」を目指すのかといえば、人生がそこにあるからということである。
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