以前「継承の文化」の項で、「あなた」という二人称について、
(引用開始)
人間の存在は、環境(社会)がなければ積極的な意味を持たない。社会という環境を、「他者」という味気ないことばでではなく、この「あなた」ということばで表現し、日本人にとって「あなた」とは何か、を問う力作が“「あなた」の哲学”村瀬学著(講談社現代新書)である。(中略)村瀬氏は、日本人が「あなた」と呼びかける先は、目の前の相手だけではなく、親子三代を含む「三世代存在」、さらには日本の社会と文化を継承する「至高的存在」であるという。
(引用終了)
と書き、「継承の文化」について探ったけれど、今回は、あなたと呼びかける「わたし」の側についていろいろと考えてみたい。
まず、“<心>はからだの外にある” 河野哲也著(NHKブックス)から引用しよう。
(引用開始)
身体は環境のなかを動き回り、光や空気の振動などの媒質を利用しながら、環境中の事物や事象と接してゆく。知覚者である動物が知らなければならないのは、自分を取り囲んでいる生態学的環境がどのようになっているかである。とするならば、知覚が生じる舞台は、やはり知覚者の頭のなかではなく、知覚者を取り囲んだ環境においてなのである。知覚された世界とは、まさに知覚者の周囲にある環境そのものなのである。(中略)自己とは、あくまで環境に立脚し、自然的・人間的・社会的環境との相互作用のなかで成立する徹底的に身体的な存在である。自己は身体的存在として世界の一部をなしており、自己と世界とは内在的意識と物理的世界という二つの異質な領域をなしているのではない。
(引用終了)
<同書41−44ページより>
河野氏はここで、ギブソンのアフォーダンス理論をベースに<心>の哲学を論じておられる。環境から切り離された「わたし」は存在し得ないというわけだ。
以前「心と脳と社会の関係」の項で、月本洋氏の“日本人の脳に主語はいらない”(講談社選書メチエ)を参照しながら、
(引用開始)
月本氏はさらに、心というものはこのような脳の働きであり、それは自己完結的なものではなく、複数の人間の間に作用する相互作用であるとする。氏は、物質間に重力が相互作用を及ぼしているように、人間には心が相互作用を及ぼしているという。
(引用終了)
と書き、次の「社会の力」の項でさらに、
(引用開始)
特に「社会」の及ぼす力は重要だ。「心と脳と社会の関係」でみたように、社会とは自分と他人とを心的相互作用で結ぶ集合である。それは言葉だけでなく、振る舞いや姿勢、顔の表情などの身体運動、拍手や発声、身体を育む食、身体を守る衣服や家、自然の風景、場としての学校や職場、街並みなど、「身体」に係る全てのものが含まれる。勿論身体を規制するところの慣習、制度としての政治や法律なども含まれる。これら社会の有り様全てが、日々われわれ日本人の脳神経回路の組織化に寄与しているのである。
(引用終了)
と続けたけれど、人の脳と身体にとって、環境(社会)の及ぼす力は大きい。月本氏の「身体運動意味論」は、河野氏のアフォーダンス理論における自己のあり方を、脳科学の面から補強する。
身体は環境(社会)の中にある。「わたし」は身体を通して環境の意味を発見し、それを現在進行形の頭の中に記憶として蓄える。環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。身体は環境の中にあり続けるから、このサイクルに終わりは無い。
環境のアフォーダンスについては、“包まれるヒト <環境>の存在論”佐々木正人編(岩波書店)や、“環境のオントロジー”河野哲也・染谷昌義・齋藤暢人編著(春秋社)などの本にさらに詳しい。
ところで、河野氏や月本氏が使う<心>という単語は、英語で言うところの”Mind”と”Heart”とを併せた意味合いが強く、「“しくみ”と“かたち”」の項で見た三木成夫氏の“こころ”=内臓系とは違うようだ。
さて、環境は「わたし」の中で「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」に分けられ、「わたし」はその「至高的存在」に近づくべく日々の努力を重ねる。ここまではいいだろう。では「わたし」にとって、「わたし」自身は「至高的存在」になり得るだろうか。
勿論「わたし」の身体は自己意識のなかにあるだろう。五感の源である身体は、「わたし」にとって大切なものだ。「至高的存在」としてのあなたを発見するのも「わたし」の五感に違いない。しかしそれは「非至高的(日常的)存在」の一部に過ぎないのではないか。
逆に、「わたし」に呼びかけられたところのあなたの立場に立ってこの問題を考えてみよう。あなたの中にも、「至高的存在」と「非至高的(日常的)存在」がある。けれど、そのなかに「わたし」に呼びかけられたところの「至高的存在」としてのあなたはあるだろうか。おそらくそれは無いのではないか。
自分のことを「至高的存在」と思う人はあまりいないと思う。そう思うのはギリシャ神話に出てくる自己愛の強いナルキッソスぐらいだろう。彼も一時そう思っただけで、年を重ねればいつまでも自分を「至高的存在」と思っているわけにはいかなかった筈だ。しかし幸か不幸か彼は水面に映る自分の姿に口づけをしようとしてそのまま落ちて水死してしまった。
どういうことか整理してみよう。ここで「わたし」を甲、「わたし」に呼びかけられた「至高的存在」としてのあなたを乙として考えてみる。
甲の中にあるのは、乙を含む「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。乙の中にあるのは、別の「至高的存在」の数々と、自分の身体を含む「非至高的(日常的)存在」の数々。ただし、乙の中にある「至高的存在」に甲が含まれていれば、甲と乙はいわゆる「相思相愛」ということになる。
人は無数の「非至高的(日常的)存在」に取り囲まれて、生き抜くためにいつも四苦八苦している。お金のことや身体の健康のこと、その身に降りかかるあらゆる不条理。しかしそのなかでも人は、日々「至高的存在」に近づこうと努力する。その姿が、別の人から「至高的存在」に見えることがある。“見る者”と“見られる者”とは別々の存在だ。
「わたし」とは、社会の「至高的存在」を映し出す鏡のようなものではないだろうか。多くの人が慕う「至高的存在」は皆の鏡に映るので、逆に「彼は人の鑑だ」などと云われる。西郷隆盛のことを「大きく打てば大きく響き、小さく打てば小さく響く鼓のような男」というのは、西郷という「至高的存在」に対する、「わたし」の鏡の性能に関する話なのである。
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