以前「体壁系と内臓系」の項で、三木成夫氏の著書“海・呼吸・古代形象”(うぶすな書房)から、以下の部分を引用した。
(引用開始)
まず、体壁系は、その感覚機能と運動機能を仲介する「神経系」の中枢部――『脳髄』によって、それは代表される。これに対し、内臓系は、その呼吸機能と排泄機能を仲介する「循環系」の中心部――『心臓』によって、同じように代表される。前者の“脳”そして後者の“心臓”……。これらはいうなれば、だれもが口にする“あたま”と“こころ”の、それぞれの象徴なのである。
(引用終了)
<同書146ページ>
三木氏はその著書“生命形態学序説―根原形象とメタモルフオーゼ―”の中で、この“あたま”と“こころ”という双極性をさらに発展させ、生命形態学の観点から、あたまが考える“しかけしくみ”と、こころが観ずる“すがたかたち”という、もう一つの双極性に言及しておられる。
(引用開始)
このことから、いったいわれわれ人間というものは、おなじ自然の構造を、ある時は“しかけしくみ”をもつ研究・実用の対象として、ある時は“すがたかたち”をもつ鑑賞・造形の対象として、まったく別々に眺めるものであるということを知るのである。いわゆる“見る眼”によって、この自然の現実は著しく異なったものとなってくるのであって、それは「ひとつの森を眺める画家と不動産業者」の例をひくまでもなく明らかなことであろう。
以上で自然の構造とは、人為のそれのように機械と文芸の双極の間に順序よく排列される、そうしたものではなく、じつは、それを見る人間の眼によって、ひとつのものが、ある時は機械製作の手本――“しかけしくみ”をもったもの――として、またある時は文芸製作の対象――“すがたかたち”をもったもの――としてまったく別々に映る、そのようなものであることが分ったのではないかと思う。
(引用終了)
<同書213−214ページ>
すなわち、
Α 体壁系、“あたま”
α あたまが考える“しくみ”
Β 内臓系、“こころ”
β こころが観ずる“かたち”
という対比が可能となるわけだ。
ここで「体壁系と内臓系」の項で述べた、「近」と「遠」の対比を思い起こしていただきたい。
(引用開始)
動物器官としての体壁系が「近」と相関し、植物器官たる内臓系が「遠」と呼応していること。自力栄養のできない動物たちが、獲物を取るために誂えた身の周り=「近」に反応する能力。自力栄養を行う植物たちが、太古の昔から持つ自然=「遠」に共振する能力。その二つを示すのが、「近」の思考を示すロダンの“考える人”と、「遠」を観得する広隆寺の“弥勒菩薩”であるという。
(引用終了)
すなわち、
Α 体壁系、“あたま”
α あたまが考える“しくみ”、「近」への反応
Β 内臓系、“こころ”
β こころが観ずる“かたち”、「遠」との共振
という対比が可能となる。
三木成夫氏の生命形態学の本質は、この「遠」との共振から、「おもかげ」「原形」を探り、生命の個体発生と宗族発生との相関を跡付けたことにある。そしてその先に、西原克成氏の「重力進化学」が生み出されたのである。
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