以前「対位法のことなど」の項で、石川九楊氏の“「書く」ということ”(文春新書)から、以下の文章を引用した。
(引用開始)
東アジアは書字中心の言語であり、その文化の中心に書があり、対する西欧は声中心の言語であり、その文化の中心に音楽がある(後略)
(引用終了)
<同書122ページ>
ここで、この二つについて、さらに石川九楊氏の“「書く」ということ”から引用したい。
(引用開始)
無文字社会は音楽を、文字化社会は書を発展させる。なるほど西欧のアルファベットは、文字には違いないが、母音と子音とからなるその発音記号のごとき文字は、言葉における声や音への注意を促し、クラシック音楽やオペラ、バレエなどを文学の周辺に再組織し、音楽や舞踏を発展させてきた。
これに対して、秦時代の脱神話文字「漢字」の成立によって、古代宗教文字の形式を残したまま政治文字=文字へと転生を遂げた東アジアの言語は、周囲の無文字の前音楽的言語を解体し、文字中心言語地帯として、音楽や舞踏の発展を妨げ、書を文学の周辺に組織し、発展させた。
(引用終了)
<同書39−40ページ>
西欧では、表音文字であるアルファベットが普及したから、その文化の中心に「音楽」があり、東洋では、表意文字である漢字が普及したから、その文化の中心に「書」がある、ということらしい。
そもそも西欧で何故、東洋における「漢字」のような文字は生まれなかったかというと、エジプトの象形文字=古代宗教文字から脱神話文字が生まれる可能性はあったのだが、高度な政治的・思想的語彙と表現を持つギリシャ語(アルファベットの原形)が地域を席巻したからだという。石川氏はさらに同書の中で、
(引用開始)
文化における真の世界基準(グローバルスタンダード)は、西欧アルファベット声文化と異なる東アジア書字文化を欠いては生まれえず、文(かきことば)をも含めた言語学の世界基準は東アジアの膨大な書字史を中心に据えて今後構築されていかねばならない。西欧古典音楽(クラシック)は、たとえば日本の声明や雅楽と同程度の一種の西欧地方音楽とは考えることはできず、やはり、音楽の世界基準と考えることができよう。同様に、東アジアの書は単に東アジア地方に咲いた特殊なカリグラフィと済ますことはできず、書字の世界基準の位置にあるのではないだろうか。
(引用終了)
<同書121ページ>
と書いておられる。言葉というものを、この二つ(音声と書字)の分類から見ていくと、いろいろと面白いことが見えてきそうだ。声中心の言語を「音声言語」と呼び、書字中心の言語を「書字言語」と呼んで、今後さらにこの二つについて考えてみたい。
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