これまで「発音体感」と「発音体感 II」の項で、日本語の母音と子音の発音体感について纏めておいた。発音体感とは、発音された音韻によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)本質的なはたらきを指す。ここで次に、言葉の「筆蝕体感」について書いてみたい。
以前「対位法のことなど」の項で紹介した、“「書く」ということ”(文春新書)の著者で書家の石川九揚氏によると、筆蝕とは、紙と筆記用具の尖端との間に働く力のことを云う。同氏の“書に通ず”(新潮選書)から引用しよう。
(引用開始)
「かく」という行為は、手に刃物や農具や筆記具などの尖(とが)った道具を手にした人間が、土や木、石、金属、紙、なんだってよいのですが、それらの対象に対して働きかけてこれを変形する行為です。(中略)
「かく」という行為は、道具の尖端と対象とが接触し、対象からの反撥を抑(おさ)え込み、摩擦と抵抗を感じながらさまざまの力を加え、やがて対象から離脱するという三段階のプロセスを持っています。(中略)
この対象と筆記用具の尖端との間に働く力を、ここでは「筆蝕(ひっしょく)」と呼ぶことにします。作者が対象から感じる触感や感触、その触感や感触がキャンバスに跡形として定着されたタッチという意味での「筆触」のみならず、一つの字画を書く「ひとかき」という意味でのストローク、さらに書くことは「引っ掻く」ことや「欠く」ことも背後に含んでいますから、「蝕(むしば)む」という文字を使って「筆蝕」と使うことにします。(中略)
「書く」ということは「筆蝕する」と言い換えることもできます。そして「筆蝕する」とは、思考する、考えることの別名でもあります。
頭のなかでもやもや、ぼんやりした意識であったものが、書くことによって、眼前にさまざまな想念の像が少しずつ姿を現わし、言葉に転じていきます。書くということは、この想念の像を記録するだけでなく、その想念の像をつくりだす力でもあります。
筆記具の尖端が紙(対象)に触れ、力をやりとりする現場である筆蝕はこの想念の像と言葉をつくり、それらをこわす場でもあります。(中略)
筆蝕は思考する。書き手である作者が思考すると言うよりも、筆蝕が思考するのです。書くことなしに、作家や詩人の脳裏に小説や詩の言葉がくっきりと浮かんでいるなどということはありません。あくまで書くことを通じて、小説や詩は生まれてくるわけです。むろん実際に書いていない場合にも思考することはありえます。しかし書字(しょじ)を知った後のそれは、幻想、無自覚の中でペンを走らせているのだと考える方が正確です。
(引用終了)
<同書26−37ページ>
「筆蝕体感」とは、「発音体感」の対として私が考えた造語だが、書かれた文字の筆蝕によって意識と所作と情景が結ばれるという、言葉の(記号として以前の)はたらきを示す。とくに漢字とひらがなを使用する日本語においては、筆蝕体感は思考において極めて重要な役割を果たしていると思う。
筆蝕体感の例として、ひらがなの「も」という文字について、同じく石川氏の“逆耳の言”(TBSブリタニカ)から引用したい。
(引用開始)
「もう師走も半ば」という会話が交わされるようになった。「もう」の「も」や「師走も」の「も」にはこもごもの思いが盛り込まれているが、平仮名の中でも特異で孤立した書きぶりの文字が、「も」である。
「あ」「お」「ぬ」「め」「わ」など右回転で書かれる平仮名が多い中で、「も」の第一筆は左回転(逆回転)で書かれる。これが第一。「し」もまた左回転の文字だが、漢字「之」の崩しに生じたこともあって、縦に伸びる。漢字「毛」から生じた「も」は、少し斜めに倒れた放物線を描く。
第二に、この第一筆の末尾が、上方にはね上げられる。「い(井・胃)」や「と(戸)」などを除けば、他の文字と連合してはじめて語を形成する平仮名は、下部の閉じたはね上げる書きぶりは少ない。
第三に、次字との結合を求めて、最終筆は下部に至る平仮名が多い中で、「も」は、「か」「ひ」む」と並んで上部で書き終わる。
第四。さらにこの終わりの位置が、前述の三字においてはいずれも右上方に来るのに対して、「も」は逆に左、中ほどにくる。
そして第五。逆回転運動の第一筆の後、右下方から左上方へと第一筆を宙空で横切り、第二筆は反転して右回転で第一筆と交叉する。この動きを抽象化すると、正方形の四隅の右上から左下、左下から右下、さらに右下から左上、そして左上から右下という「文(あや)」の航路をたどる。
第六に、「き」「ま」では短い横筆が二筆書かれ、これを後続の長い縦画が切断するが、「も」は逆に反復画が最後に来る。
つまり、「も」は逆転に逆転を重ねた書きぶりを内に秘めた特異な文字である。否定と肯定、結合と分離、言語以前の意識のくぐもった、含みの多い語である日本語においては、「も」が重ねられる「もしも」の語の深みはただ事ではない。順接に順接を重ねるシュミレーションが横行し、「もしも」と問うことが少なくなったせいか、未来へ向けた理想や希望が描けないでいる。
(引用終了)
<同書74−75ページ>
いかがだろう。「も」と書いたときの複雑な「筆蝕体感」がご理解いただけただろうか。それにしても、「も」と書くときに、指先にこんな大事件が起こっているとは思いもしなかった。
さてここで、「発音体感」と「筆蝕体感」とを併せて考えると、我々の思考は、まず音韻によってある意識と所作と情景が結ばれ、その後筆蝕によって新たな意識と所作と情景が加わるということなのであろうか。たとえば「も」という語は、発音体感によると、
<子音>「M」: 柔らかさの質、丸さ、母性、遅さ
<母音>「O」: 口腔内の大きな閉空間。自身を包み込むような大きさの空間や物体をイメージさせる。包み込む感じ。
ということで、「包み込むような柔らかさ」が伝わってくるわけだが、それが紙に書かれると、上述の筆蝕体感によって、さらに「逆転に逆転を重ねた複雑さ」が加わってくるという次第だ。なるほど「もも」という名前には、包み込むような優しさと、内に秘めた複雑な気性が感じられる。
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