桑田佳祐(クワタ)の傑作、といっても、この2月に発売されたアルバム“MUSICMAN”のことではない。その前のCDシングル“君にサヨナラを”に収録された、“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”のことである。
以前「リズムと間」の項で、母音言語である日本語は、カナ一文字が音声認識単位であり、日本語の歌は主に「拍」と「間」によって構成される。それに対して、子音言語である英語は、子音から子音への一渡り(シラブル)が最小音声認識単位であり、英語の歌は主に「リズム(律動)」と「ビート(脈動)」によって構成される、と書いたことがある。
この違いを前にして、日本人シンガー・ソングライターであるクワタは、母音言語たる日本語を、なんとか西洋風の「リズム」と「ビート」に乗せようと苦労してきた。松丸本舗の松岡正剛氏も、その著書“日本数寄”(ちくま学芸文庫)の中で、日本語を造形してきた歌の歴史の一例として、クワタの「愛の言霊(ことだま)」について論じている(同書109−114ページ)。
その努力は、日本語を英語風に発音したり、途中に英語のフレーズを挿入したり、聞き違えをわざと活用したり、歌詞と発音を違(たが)えたりすることで、ある程度実を結んできたわけだが、“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”、特にそのなかの「みだれ髪」の部分において、クワタは、与謝野晶子の五つの短歌を、自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したと思われる。
どういうことか。まずは歌われる五つの短歌を、CDの歌詞カードから引用する。
(引用開始)
やは肌の あつき血潮(ちしほ)に ふれも見で さびしからずや 道を説く君
乳ぶさおさへ 神秘(しんぴ)のとばり そとけりぬ ここなる花の 紅(くれなゐ)ぞ濃き
いとせめて もゆるがままに もえしめよ 斯くぞ覚ゆる 暮れて行く春
春みじかし 何に不滅(ふめつ)の いのちぞと ちからある乳を 手にさぐらせぬ
人の子の 恋をもとむる 唇に 毒ある蜜を われぬらむ願ひ
(引用終了)
<短歌五七五七七に沿って句を分割した>
曲のこの部分は、イントロにお寺の鐘の音と虫の声があり、それに続いて美しいメロディーがスタートする。
歌詞は日本語(母音言語)だから、始めは、メロディーの音符に対応して音(おん)がベタに乗るように唄われる。当然リズム感がなく、そのままいくと、どこかで日本的な「間」が必要になる展開を予感させるのだが、ここでクワタは天才的な解決を図る。それは、「短歌三十一文字を連続して読まない」という離れ業である。
最初の短歌の終わり七文字“道を説く君”の部分を前の二十四文字から切り離し、次の急上昇するサビのメロディー・ラインに乗せて歌う。そのときクワタは得意の「日本語を英語風に発音する」という技を取り入れて、“Michiwotookkimii”という具合に歌うことで、曲にリズム感を回復させるのだ。
メロディーの展開をあくまでも優先し、短歌31文字を一つの括りとして読まないことによって、さらには二番目の短歌が下降するメロディー・ラインとともに一気に歌われることによって、短歌そのものの意味が掴み辛いことは確かだ。しかし、この解決法によって、クワタは「みだれ髪」の歌詞を、自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したと思われる。
二番目の短歌も、終わり七文字の部分“暮れて行く春”が、次の急上昇するメロディー・ラインに乗せて、“Kureteyuukhaluu”という具居合いに歌われる。そして次の短歌の始まりが「春みじかし」ということで、前の短歌との意味的なつながりも創り出され、さらに、ここには綺麗なハーモニーとストリングスが被さるので、リズム感のみならず、曲としても一気にクライマックスに達する。
そして最後の短歌は、新しいサビのメロディーとともに、どちらかというと旧来の「日本語を英語風に発音する」方法によって、静かに語り下ろされる。
曲を言葉で説明するのは難しい。皆さんも是非一度“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”を聴いてみて欲しい。私の言いたいことがお分かりいただけると思う。
この至玉の小曲がMedley全体の中で一層際立つのは、前の騒々しい「人間失格」と、後ろのこれまた喧しいインド風の「蜘蛛の糸」とに挟まれている、という構成の妙もあるだろう。
また、歌詞が短歌そのものであり、旧かな・文語体であることも幸いしたように思う。西洋風のメロディーとリズムには、旧かな・文語体の方が乗せやすいのかもしれない。Medley八番目の「一握の砂」は短歌ではないけれど、石川啄木の旧かな・文語体の詩(歌詞)が、カントリー風のメロディーとリズムに上手く乗っている。石川啄木の詩といえばどちらかというと短調に合いそうだが、長調にして明るく歌ったこともこの部分の成功に寄与していると思う。
口語体の小説、特に「人間失格」や「蟹工船」、「我輩は猫である」などでは、さすがのクワタも苦労している。得意の「日本語を英語風に発音したり、途中に英語のフレーズを挿入したり、聞き違えをわざと活用したり、歌詞と発音を違(たが)えたり」といったテクニックを駆使して無理やり歌っているけれど、歌詞がリズムに上手く乗っているとは言いがたい。最後の「銀河鉄道の夜」の部分に至っては、メロディーやリズムに乗せることを放棄して、語り下ろしにしてしまった。
それでも、私はこの“声に出して歌いたい日本文学<Medley>”を「クワタの傑作」と評したい。その理由は、「みだれ髪」と「一握の砂」の部分で、(短くはあるが)日本語を自然なかたちで西洋風のリズムに乗せることに成功したからである。このことは、松岡氏のいう「日本語を造形してきた歌の歴史の一例」としても、クワタの業績として(「愛の言霊」などと並び)後世に残るのではないだろうか。
クワタにとって、この解決法は云わば「苦し紛れ」であったのかもしれない。あるいはそれほど意図的にやったのではないのかもしれない。一つの実験として気軽にやってみただけかもしれない。私が知らないだけで、他にもっと優れた事例があるかもしれない。その辺のところはいつかご自身に聞いてみたい気がする。
いずれにしてもこの「実験」は、今年2月に発売されたアルバム“MUSICMAN”に確実に活かされている。「みだれ髪」の文語体は一部「古の風吹く杜」へ、「蜘蛛の糸」のストーリーと「一握の砂」のバイオリンは「銀河の星屑」へなどなど。
クワタは、「みだれ髪」と「一握の砂」の成功で、日本語を上手く西洋風のメロディーに乗せることに、大きな手がかりを得たのではないだろうか。“MUSICMAN”では、上記2曲以外にも様々な形で日本語を西洋風のメロディーに乗せることに挑戦している。これからもクワタの仕事から目が話せない。
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