先日、街づくりに関して「境界設計」の項で、
(引用開始)
これからの「境界設計」は、日本の古くからの空間操作術を充分生かしながら、さらに車やITなどの新しいものを、(単に排除するのではなく)巧みに取り込むことが求められる。優れた境界設計は「エッジ・エフェクト」を誘発する。それは「継承の文化」の項などで言及した“流域両端の奥”をさらに深化させるだろう。
(引用終了)
と書いたけれど、今日は、その街に暮らす人々の、身体の境界(皮膚)について、“皮膚という「脳」”山口創著(東京書籍)という本に沿って考えてみたい。山口氏のご専門は、臨床心理学・身体心理学である。皮膚については、以前「皮膚感覚」の項で、
(引用開始)
皮膚は生体と外界の境界である。(中略)外環境との間で皮膚に何がどう起こっているのか、とても興味深いテーマである。
(引用終了)
と書いたことがある。皮膚について知ることは、“流域両端の奥”の深化にとって、街づくりにおける境界設計同様、とても大切なテーマだと思う。
この“皮膚という「脳」”は、以下の4つの章から成っている。
第1章 露出した「脳」
第2章 五感はすべて皮膚から始まった!
第3章 皮膚は心をあやつる
第4章 豊かな境界としての皮膚へ
第1章から第3章までは、皮膚が身体に果たす役割について書かれている。こちらも興味深いけれど、今回は第4章を中心に、社会との境界としての皮膚について見てゆきたい。まず第4章の冒頭から引用する。
(引用開始)
ここまでみてきたように、皮膚はさまざまな役割を果たしている。皮膚は五感の始まりであり、かつては視覚や聴覚の役割までも担っていたようである。
一方で、私たちの心にとって重要になるのが、自己と社会の境界としての役割である。皮膚は境界の内側である自己(心)を反映すると同時に、外側である社会をも反映している。したがって皮膚は、自己と社会の病理の両者を映し出す鏡でもある。皮膚をこのような境界として考えることは、現代の私たちの暗黙裡にしている行動、あるいは社会の端々に垣間みられる病理性について、これまでとは異なる視点を提示してくれる。
(引用終了)
<同書168ページ>
山口氏はこのあと、日本人は事の外「触覚」を大切にしてきたこと、かつての日本人は自己と社会とを隔てる境界として「豊かな皮膚感覚」を育んできたこと、しかし近代化以降、「自分の皮膚の外側は自分ではない」という西洋の身体感が強力に推し進められてきたことで、この「豊かな皮膚感覚」が見失われていること、そのせいで、皮膚と自己との間に違和感を持つ人が増え、それが美容整形やリストカット、皮膚炎などの増加に繋がっていることを指摘する。
その上で山口氏は、文化人類学者のビクター・ターナーの提唱する「リミナリティ(liminarity)という概念を紹介する。リミナリティとは、非近代社会における通過儀礼に関する概念で、「分離期」「過渡期」「統合期」といった各段階の中間に位置するあいまいな時期のことを指す。氏は、皮膚という境界も、社会と個人との間のリミナリティとして考えることが出来ると指摘する。
(引用開始)
かつての日本人は、アニミズムや神仏習合、共同体意識、自然と人間の一体化、心身一如など、境界があいまいだが豊かな世界観の中に生きてきた。
そこに西洋の世界観である、境界を明確にする分類する思考法が入ってきた。そして、かつての日本社会が持っていた、皮膚への多様な刺激が少なくなった結果、皮膚は人工的な皮膜へと矮小化された。一方、その境界は現代社会の中ではアイデンティティを感じなくなるという形になってきた。
現代の境界の特性を考えると、かつての日本のような厚みをもった深い境界に戻ったのではない。つまり、二分法としての「境界線」の垣根が低くなっただけである。二分法は生きているが、境界をまたいで移動することが容易になっただけである。
いうまでもないが、これは、かつての日本の境界に戻ったのではない。また、そのような状態に戻ることが理想だと私は思わない。しかし、そのような形を越えて、西洋の境界による二分法は採り入れたうえで、それをリミナリティとして深さと厚みのある境界へと深化させることが、いままさに必要とされていると思う。(中略)
皮膚は、外界から自己を守る単なる皮膜などではなく、さまざまな捻れや共振性を内包する、繊細なエネルギーに満ちた亜空間なのだ。
それを人間関係に敷衍すると、自己という境界感覚をきちんと築いたうえで、他者と共振し統合できるようなリミナリティの領域を確保することである。(中略)
本来、皮膚はリミナリティとしての厚みや豊かさをもっている。自己の境界と他者の境界が接する身体接触では、自他の間のこのふたつのエネルギーが交じりあうことで特別な状態が生まれる。このエネルギーが交換できるような、豊かな深みをもつ皮膚のリアリティを養うためには、皮膚を通して自己の発達を促すことが必要だと思う。
(引用終了)
<同書196-198ページ>
いかがだろう。“かつての日本人は、アニミズムや神仏習合、共同体意識、自然と人間の一体化、心身一如など、境界があいまいだが豊かな世界観の中に生きてきた。”という部分は、以前「日本人と身体性」の項で紹介した“裸はいつから恥ずかしくなったか―日本人の羞恥心”中野明著(新潮選書)の指摘とも重なる。社会と皮膚とは意外に類似的なのである。街づくりにおける「境界設計」同様、「皮膚」という身体の境界についても、日本の古くからの「豊かな皮膚感覚」を充分生かしつつ、近代社会のもつ新しい刺激に巧みに対応することが求められている。そのためにも、皮膚が身体に果たす役割をよく知ることがまず重要なのであろう。
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