先日「継承の文化」の項で、
(引用開始)
流域の一番外側の奥山と、家の一番内側の奥座敷とを繋ぐ円環があるとすれば、それは勿論物理的なものではなく、「奥」という言葉を使う人々の脳の中に存在するはずだ。
(引用終了)
と述べ、「継承の文化 II」の項で、
(引用開始)
流域両端の「奥」は、過去の記憶と現在とをつなぐ。(中略)皆さんの流域にも、小布施と同じように、独自の「奥」が存在するはずだ。過去の歴史と現在とを結ぶ「継承の文化」があるはずだ。それが未来への糧となる。
(引用終了)
と書いたけれど、この“両端の奥”を、「物語」によって結ぶ努力を続けておられるのが作家の梨木香歩氏だ。
そもそも「物語」とは、“両端の奥”を言葉で結ぶArtフォームに違いない。この冬休み、私は梨木さんの以下のエッセイを立て続けに読むことができた。
2002年“春になったら苺を摘みに”(新潮文庫)
2004年“ぐるりのこと”(新潮文庫)
2006年“水辺にて”(ちくま文庫)
2010年“渡りの足跡”(新潮社)
<西暦は単行本の出版年>
“春になったら苺を摘みに”は、著者が英国で暮らしたときに世話になった「ウェスト夫人」と、彼女をめぐる人々との交友記。“ぐるりのこと”は、著者の身辺で起こる様々な出来事を綴った作品。
“水辺にて”は、著者がカヤックで各地の川や湖を巡るエッセイ。水辺は、流域の境界でもある。美しい水辺をカヤックで進むことによって、著者の心にもたらされたエッジ・エフェクトの数々。副題に“on the water / off the water”とある。本のカバー裏の紹介文を引用しよう。
(引用開始)
水辺の遊びに、こんなにも心惹かれてしまうのは、これは絶対、アーサー・ランサムのせいだ――そう語り始められる本書は、カヤックで湖や川に漕ぎ出して感じた世界を、たゆたうように描いたエッセイ。土の匂いや風のそよぎ、虫たちの音。様々な生き物の気配が、発信され受信され、互いに影響しあって流れてゆく。その豊かで孤独な世界を垣間見せる。
解説 酒井秀夫
(引用終了)
<本のカバー裏の紹介文>
そして“渡りの足跡”は、知床や新潟などの奥山に飛来する渡り鳥と、里に住む人々の心とを結ぶ紀行文だ。本の帯裏の紹介文を引用する。
(引用開始)
オオワシ、ワタリガラス、ヒヨドリ……。鳥の渡りの先の大地にはいったい何があるのだろうか。住み慣れた場所を離れる決意をするときのエネルギーは、何処から沸き起こってくるのか。渡りは、一つ一つの個性が目の前に広がる景色と関りながら自分の進路を切り開いていく、旅の物語の集合体。ときに案内人に導かれ、知床、諏訪湖、カムチャッカへ、渡り鳥の足跡を辿り、綴ったエッセイ。
(引用終了)
<本の帯裏の紹介文>
この作品こそ、まさに渡り鳥と里の人々という「流域両端の奥」を結ぶ物語である。皆さんも一度是非読んでみていただきたい。心の「奥」につながる何かが見つかると思う。
この記事へのコメント
コメントを書く